第187話 マインツ選帝侯の愚痴 「こりゃ駄目だな」 何処か他人事のように呟いてしまった。 俯瞰的視点から戦場を眺められるわけではないが、まあ副官のように戦場図を広げて駒を動かすまでもない。 ベルリヒンゲンの率いる騎兵隊が、こちらの戦列を何度もぶち破っているのだ。 水晶玉からの連絡を聞けば、まあ騎馬大砲の砲弾が粉砕されただの、 穴埋めに入った騎兵隊は脆くも惨殺され、戦列は無茶苦茶にされているだの。 指揮官が殺されてしまったなどと叫び声が聞こえている。 逃散兵すらもが目に映った。 情報の真偽など精査する必要はない。 真であれば勝てないし、嘘であれば現場は混乱の極みに達している。 右翼の士気(モラール)は崩壊し、統率は乱れ恐慌が発生している。 こりゃあまあ、どんな素人でもわかる。 もう駄目だろうな。 誰がどう見ても敗北確定である。 戦が始まって一時間も経っていないのに、この有様ときた。 士気の差を埋めるため、まずは突撃を鼻挫こうと騎馬大砲さえ運用したのに、何も通じないときたのだ。 「マインツ枢機卿猊下、そのように他人事のように仰っても状況は変わりませんぞ」 「わかっている。まあ、落ち着きなさい」 横で副官が喚くが、まあ今更どうにもならない。 何処で間違えたのだろうなあと分析を開始する。 わかっている。 ユリア教皇にそそのかされたのが良くないのだ。 私に失点があるとすれば、そこから始まっている。 いくら私の名誉が領地の尊厳に直結するとはいえ、まあ教皇の言いなりになるなど判断がどうにも悪かった。 ベルリヒンゲンへの怒りに惑わされることなく、教皇の甘言など無視するべきだったのだ。 本当に何があろうと勝てる甘い勝負であるならば、あの暴力教皇であれば自らが戦場に出向くだろうと見抜くべきだった。 賽子にイカサマが仕込まれている可能性を見切って、ユリア教皇は別な人間に戦場へ向かわせることとした。 それが三聖職諸侯の一人たる間抜けな私であり、現在こうなっているのだ。 泥を呑むどころか、頭を地面に叩きつけられて土を舐めさせられている。 私は負けていることに驚きはなく、ただ現状を受け止めている。 「賽は投げられた後だ。相手の賽子にどのようなイカサマが仕掛けられていたのか、もはやわかるまいな」 死んだところで、このマインツは天国になど行けぬだろう。 なれば、天界から見下ろして原因を追究することもできぬ。 はて、私がプロパガンダだと今の今まで信じていたレッケンベルのような悪魔超人が真実存在するのか。 しかも何故か選帝侯家とはいえど、アンハルトにとっては長女のスペアに過ぎぬヴァリエールの軍勢にこっそりと加わっていたと。 それぐらい酷いイカサマしか、私が負ける理由などないのだがね。 どうも信じられぬが。 「左翼はどうだ。明るい材料は見つかるかね」 右翼はもう無茶苦茶にされていて駄目だ。 勝ち目など欠片もない。 だが、騎兵隊のおらぬ左翼側から貫けばヴァリエールの首に届くかもしれん。 主君さえ討てば、あの軍勢の士気など脆くも崩れ去るだろう。 敵の軍勢の士気は国家でもなんでもなく、ヴァリエール・フォン・アンハルト個人により保たれているのだ。 それは判っているのだが。 「崩れませんね。敵陣の戦列など、こちらの三分の一なのですが」 「ヴァリエールはそこに?」 「戦列後方にて指揮を執る姿を確認しております」 嗚呼、駄目だな。 せめて、主君がそこにおらねば勝ち目はあったかもしれん。 左翼から崩壊させた威勢により士気を上げ、徐々に押し潰すこともできたが。 「敵は薄い戦列であることから、迂回を試みたり、何度も突撃で切り崩そうとはしているのですが」 「駄目だろうな。戦列は薄くても、銃火が厚すぎる」 敵の陣容や装備は、最初の交渉で差し向けた紋章官が把握している。 ヴァリエールの親衛隊は着ている服など中古のギャンベゾンもどきであるが、兵士全員がマスケット銃を所持していると聞いている。 「少数による突撃では、この平野でマスケット銃兵100による銃火から身を守ることなどできぬ」 逆に言えば、数に頼めばどうとでもなるのだが。 士気が最高潮に高まり、まして自分の主君が後ろにいると知っているのだ。 直下の親衛隊と混じり、覚悟と名誉さえ同一のものと自分を認識して死に物狂いで戦っているのだ。 もはやあの傭兵団のクズどもは、下手な正規兵などよりも必死になって主君を守らんとしているのだ。 左翼の戦列は絶対に崩すことができぬ。 少なくとも、ベルリヒンゲンが引き連れる騎兵隊が私を殺す方が先になるだろう。 中央もダメで、そこもケルン派の聖職者が逆に突撃してきて暴れまわるなどしている。 戦傷者が出るたびに士気が上がっているほどの有様だ。 これは詰んだな。 「降参されますか?」 「どのように負けるべきかと考えている」 見切りが早いと言われそうであるが、勝てないとあれば負け方が重要である。 死が目前となれば、心が落ち着いてしまった。 もはやベルリヒンゲンへの怒りすら消失しており、どうにかして自軍の損害を抑えることだけを考えている。 敗北が決まった指揮官が最後に為すべきことなど、出来る限り多くの兵士を無事に故郷に帰してやることぐらいでやる。 まして私はマインツ選帝侯領の領主であるのだから、彼女達兵士の命は私の財産同様である。 さて、考えよう。 どう敗北すべきか? 「副官、このマインツ枢機卿の降参が認められると思うかね?」 「さて、難しいですな」 戦争においては常に講和を目標とすべきである。 勝利条件を達成したならば、それ以上の争いなどリソースを食い荒らすだけで全く以て無意味であるからだ。 これはありとあらゆる将兵が把握しておくべき常識である。 ヴァリエールとて、選帝侯家としての教育を受けているのだから理解していよう。 彼女はこちらの殲滅を目的としておらず、領地の支配権を争っているわけでもない。 自分と自分の部下を守るために、死に物狂いで抵抗しているだけである。 降伏したいとこちらが申し出れば、普通はそれで終わりだ。 なれど。 「私は異端審問官であり、枢機卿としてヴァリエールやその配下を背教者だと罵った。異端の王として死ねと宣告してしまった」 戦端を開いた原因が普通ではないから、ヴァリエールがここで手を引くと思えぬ。 己の舌禍を恨む。 私は本気でそのような事をまったく考えておらず、あんなもの舌戦にすぎぬのだが。 ヴァリエールの軍勢は一兵士に至るまでが、必ずやこのマインツを磔にしてやると考えているだろう。 どちらかの主君が死ぬまで継続する戦争だと思い込んでいるのだ。 戦いにいたるまでの流れが何もかも良くなかったと、臍を噛む。 正直、正統とか異端とかは死ぬほどどうでもよかった。 このマインツにとっては、信仰など金になるかならないかに過ぎぬ。 あるいは道徳とか、名誉とか、人心を制御するための道具であるのだ。 枢機卿の立場として、このような本音を吐いては不味いのだろうが、もうどうでもよいことだ。 歴史書には無能として名が刻まれて、私は死ぬだろう。 「最低限、このマインツの首は差し出すのはかまわん。それは良いが」 死にたくはないが、まあどうにもならん状況だと死ぬくらいは選帝侯として覚悟して生きている。 だが、それだけで済む状況下でもないだろうな。 甘く見積もっても、私が死んで解決する状況ではない。 首はもちろんもらうが、もっと何か寄越せと酷く乱暴に言われる。 「さて、我が副官よ。私が進むべき道を示してほしい。降参するのはよいが、交渉方法はどうするかね? 交渉条件は何とすべきか?」 「残念ながら、戦が始まる前に交渉役の紋章官はこちらに帰ってしまっております。本来ならば仲介役として、何処かの封建領主や聖職者などを事前に呼んでおくべきだったでしょうが。まあ、残念ながらマインツ様は選帝侯にして枢機卿であり、ヴァリエールも選帝侯家の子女でありますゆえ、その仲介が出来る立場などユリア教皇かマキシーン皇帝ぐらいしかおりませんから」 聞くまでもないが、まあ交渉してくれる仲介者がいなかった。 もはや勝負は明らかであるから、ここまでとしようと裁定してくれる権力者などいないのだ。 あの暴力教皇も、無気力皇帝も、私が死んだところでどうでもいいやぐらいしか考えておらぬ。 このマインツに異端審問を命じたことなど、アンハルト選帝侯家から苦情があったところで『マインツ枢機卿が勝手にやりました』ぐらいの一言で済ませる気なのだ。 そのような無茶苦茶な言い分で済ませるつもりなのだ。 平時なれば、そのようなことにはならぬ。 皇帝や教皇とて絶対権力者というわけではない。 だが、この戦場で多数の兵士を失い、敗北の不名誉を受けた後のマインツ選帝侯家に反論する力はない。 むしろ、よってたかって貪られることのないように領地防衛に全力を注がねばならぬ。 万人の万人に対する闘争状態というものは、本当に敗北者を悲惨にさせるものだ。 昔から常々考えていたのだ。 何故、人々はここまでお互いの私財を奪い合うのだろうか? 何故、互いの命を平気で軽んじて殺めることができるのだろうか? ベルリヒンゲンが私にやった行為など、あまりにも酷すぎるからと『マインツのラント平和令』などを帝国議会に出したが、あれも敗北者の戯言として忘れ去られるだろうなあ。 ルールを決める者が弱ければ、誰も従ってなどくれぬ。 「なぜ人は争うのだろうかと考えてしまうよ」 「マインツ様、お気を確かに」 確かに私は勝利すればヴァリエールの小娘を殺したし、ケルン派聖職者は皆殺しにするし、引き連れた商人などは虐殺して全財産を奪い取るつもりであった。 ベルリヒンゲンなどには拷問に拷問を加えて、自害さえも許さぬつもりであった。 だから、まあ私が殺されるのは仕方ない。 私が引き連れてきた兵士たちとて、弱者を虐め殺して金を奪い取って贅沢をしようと考えていたのだ。 そりゃぶち殺されても仕方ない。 何もかもが仕方ない。 でも、何もかもが足りないから、そうしなきゃ誰もが楽しく生きていくこともできないのだ。 弱者を迫害して、なんとか利益をあげねばならぬ。 「こんな時代に産まれたくなどなかった」 人生で一度だけ考えたことである。 娘を産んだ時に、あまりにも世界は暗いと気づいてしまった。 この子はきっと生まれる時代を間違えた。 もっと明るい時代に産んでやりたかったと、心の底から思ったのだ。 どうしようもないそれに気づいてしまった。 私が娘に今の今まで自分が母だと名乗らなかったのも、選帝侯家として見える醜い全てから守るためであったが。 はて、親の愛情としてそれが本当に正しかったのか、今となってはわからぬ。 「愚痴は終わりだ。さて、降伏したくても交渉役などおらんし、いたとしても呼ぶ時間がない。このままでは戦陣が崩壊して、我らが一方的に虐殺される方が早いだろう。降伏しても、それは変わらぬかもしれぬ」 「では、どうされますか?」 「全軍に撤退を命じる。逃散兵にも咎を与えぬよう伝達せよ。なんとか一人でも多く領地まで帰れるように最大限試みるのだ。撤退できるとあれば、ある程度は規律も保たれるだろう。その指揮はお前に任せた。殿は私が努め、騎兵を率いて時間を稼ぐ」 私が一人突撃して、さっさとくたばって終わるならそうしたいが。 そのようなことをしても、自軍がより一層混乱して敗北後の条件が悪くなるだけである。 私は死ぬだろう。 だが、死んだ後のことを考えねばならぬ。 マインツ選帝侯領を継ぐことになる娘にとって、出来る限りの不利益を減らさねばならぬ。 「とんだ貧乏籤を引いたな」 これで愚痴は本当に終わりだ。 せめて、良い終わり方をしよう。 後継者である娘を先んじて逃がした判断だけは、領地のためにも私のためにも良かった。 このマインツがこの戦争で褒められるところなど、それくらいだ。 後は死ぬだけだった。