第181話 どうせできやしないだろう。それが貴女だ このヴァリエールは、もはや驚愕や絶望とは程遠いところにある。 ファウストが激発を見せた事は以前にも数度あるが、ここまでの激昂は初めてであった。 理論武装を済ませていたならば一歩も引かぬザビーネさえも圧倒せしめて、完全に沈黙させている。 「まあよい。どうでもよいとまでは言わないが。ユリア教皇には私が直接問い質すこととしよう」 ファウストは、一時的に怒りをおさめた。 ――のではなく、より深化させたのだろう。 グツグツと魔女の鍋のように、煮えたぎる雰囲気を漂わせたままに私に振り向いた。 「私が此度ここに訪れたのは、私個人のそのような怒りのためではない。ヴァリ様の元に来た本来の目的を達成せねばならぬ」 ファウスト、さっきから気になってたんだけどさ。 ザビーネ達みたく、ヴァリ様とか変な愛称で呼ぶの止めようよ。 まあ、もう婚約者なのに以前から殿下呼びを続けて名前だけで呼んでくれないのも大概だったんだけどさ。 「ヴァリ様。このファウストめは、貴女がどのような酷い目に遭われるかを心配したがゆえに、貴女の下に訪れました。おそらくは苦労をしているのだろうと」 ――ファウストは、少しの間だけ鋭い赤い目に蓋をして、瞼の下で沈黙し。 「おそらくは、貴女が貴女であるからこそに。辛い目に遭遇することになるだろうと」 現状を静かに告げた。 そうだ、ファウストの言う通りだろう。 難しく考えなければ、もうこの辺りで全ての荷を下ろして、この旅から降りて良いはずだった。 だがその選択は私にとって苦痛である。 「ファウスト。さっき、貴女はザビーネの立場であるならば、ザビーネの行動は正しいと肯定したじゃない」 「ええ、私は心からそう思っておりますので」 ファウストは朴訥であり、口下手であり、時に人の想像の埒外となる。 なれど、少なくとも今この時は冷静であった。 「ザビーネ卿は、ヴァリ様さえ幸せならばどうでもよいし、そして自分が約束した以上の責任など取る気はない。それを一方的に咎める権利など私の身にはありません」 うん、そうだ。 そして、ザビーネを咎める気が無いのであれば、私の事も同様だろう。 「そして、当然の事ながら、ヴァリ様の何かを責める権利もありません。私が知る限りでは、そもそも一切の責任がないでしょうから」 誰が殿下を咎められるというのか。 このファウストはもちろん、帝都にいるアナスタシア様やアスターテ公爵。 アンハルト王都にいるリーゼンロッテ女王陛下はもちろん、今回の旅に関わった人々。 これからアンハルトの騎士や兵士となる者達を含めて。 「因果が祟って逮捕されることになったベルリヒンゲン卿や、ザビーネ卿が見捨てろといったケルン派の聖職者たちや、今回の旅で何も手に入れることが出来なかった傭兵団や、貴女に身勝手な夢を見た虚しい者たち。その全てにヴァリ様を咎める権利など無い」 あれなる虚しい者どもは、勝手な夢を見ただけだ。 たとえどのように捻くれた罵詈雑言を口端に浮かべようとしても、無意味だ。 誰もが知っている、と。 「ヴァリエール・フォン・アンハルトは努めて忠実に義務を果たしてきたし、貴女は何一つ咎められる謂れが無いのだと。少なくとも、この第二王女殿下相談役のファウスト・フォン・ポリドロはそう思っております」 眼前の領主騎士は、ケルン派を熱心に信仰する騎士はそう述べた。 私は見捨ててしまってよい。 自分の責任にない人間など、皆見捨てて良いと進言した。 「……」 私は沈黙している。 貴女には何の責任もない。 これは仕方のない事であるからどうしようもない。 だから見捨てても良い。 そのような言葉を私は聞きたいのではなかった。 もっと、何か、罵りの言葉でも与えてくれれば、まだ。 「私が思っているだけですので、もちろんヴァリ様がそう受け止めていないことは理解しております」 ファウストは言葉を続けている。 なれど。 途中で舌を噛んだようにして、発言を止めた。 「――そう、何か、その」 急に口ごもり、いつもの朴訥で口下手なファウストに戻ったようにして。 「色々な事を言おうと思っていたのです。今、ヴァリ様は何もご存じないと思うのです。あまりにも時間が少なすぎて、帝都で何が起きているのか、そうなった複雑な事情を、マルティナを通じて伝えることができておりません。アナスタシア様やアスターテ公爵のお考えであれば、今この時ヴァリ様にどう行動して欲しいのかとなると」 教皇が為した異端審問への深い怒りや。 領主騎士として、第二王女相談役としての立場も忘れてしまって。 何か、一人の騎士のように、真摯さを以て主君たる私に言葉を紡ごうとしている。 「多分、それを今ここで伝えられるならば、ヴァリ様の背中を押してあげられると思うのです。全ての事情を知れば、ヴァリ様は覚悟を決めるでしょう。マインツ大司教との闘争を選ぶでしょう。アンハルト王族としての責任感から、全ての努力を行うこととするでしょう」 ですが、それでは敗北する確率が高いと思うのです。 義務感だけではマインツ大司教に勝利することができないと思うのです。 彼の大司教を焼き殺すには、些か熱量が足りないように思えます。 そう小さく言い募り、ファウストは私を見た。 「ヴァリ様が戦わざるを得ないのであれば、このファウストは殿下の騎士として、一欠片でも勝率が高い方に動こうと思うのです」 少し、脳足らぬ私の頭ではよくわからぬ事をファウストは言っている。 だが、私の騎士が私の為ならぬことを言う可能性など皆無であった。 「殿下のお考えはきっとこうでありましょう。絶望的な戦力差が眼前に存在し、仮にもマインツ大司教はケルン派が異端という大義名分を持っており、そしてベルリヒンゲン卿の逮捕命令を教皇や皇帝から承認されている。こうなれば、抵抗するならば暴力以外の方法が存在しない。だが」 そうだ。 闘って負けるのであるならば、戦うべきではない。 「私が率いているのは哀れな貧民たちで、傭兵団と言っても装備に乏しくて、銃はあれども甲冑など身に纏う者は黒騎士の僅かといったところ。盗賊相手ならば常勝できるだろう。なれど、マインツ大司教領の修道騎士団を含めた相手となれば、きっと惨めに死ぬだろう。負けるのは目に見えている」 別に、マインツ大司教が私の身柄の拘束だけを求めているのであれば、それは良かった。 帝都への旅路にて軍勢を集めた責任を追及されて、その責任を求めて首を吊るされるのであれば、罵倒を口にした後に大人しく殺されても別によかった。 なれど、違った。 マインツ大司教の目当ては、一時なれど私が配下としたベルリヒンゲン卿であり、その他の人々であった。 「せめて、良い方向に動こう。マインツ大司教相手に必死に交渉して、虚勢を張り、媚びを売り、何でもやってケルン派の聖職者たちを殺さないように頼み込もう。アンハルトから連れてきた以外の軍勢を解散して、封建領主から徴発した物資を何もかもを皆に配って、彼女たちの今後の道行きが少しでも明るいようにしようと。なんとかベルリヒンゲン卿も弁護できないかと」 その通りだ。 ファウストは、私が何を考えているかなど全て理解していた。 惰弱で虚しい私の凡庸な考えなど、何もかも読まれていた。 だから、ハッキリ言おう。 「そこまでわかっているなら、そうさせてよ! 他に何もできないのよ」 私は自分の婚約者に弱音を吐いた。 一つだけ、呼吸音が重く響いた。 ファウストの溜息のようである。 「我が主君はとんでもない勘違いをしておられる。世の中にはここで抗わないくらいなら、死んだ方がマシな状況というものが人にはある」 婚約者は一切応じずに、一人の騎士として厳しい言葉を放った。 薄々、理解していた言葉だ。 「貴女に縋った此の世の底辺どもが、ここで折れて少しばかりの賃金や物資を貰ったところで、何にもならない。酒にでも酔って使い果たして終わりだ。傭兵団はまた半傭半賊の生活に逆戻り。文字も書けねば計算もできぬ貧民どもなど、元の生活に戻るだけだ。別にそれはそれで仕方ないのかもしれない。連中の責任だから」 彼女たちがこの先どうなるか、理解している。 「彼女たちは元の生活に戻り、貧しい底辺に戻りて。こう呟くだろう。やっぱり何も変わらなかった。我らの人生など嘘で、この程度だったのだと」 そうだ、元の生活に戻るだけだ。 但し、私は一つだけ責任を感じていることがあるのだ。 「そして、時々思い出したかのように呟くのだ。しかし、あれは良い夢だったな。ヴァリエール殿下の行軍に付き合ったのは実によかったと。まあ、夢だったけどなと」 そうだ、そうなるだろう。 私は自分の罪を理解している。 誰も罪とは問わぬ、私の罪悪感を理解している。 私は彼女たちに一度とはいえ、最初から全員が叶わぬことを知っている夢を見せてしまった。 だが、ハッキリと言っておく。 「このまま死ぬよりマシでしょうが!」 どうしようもないのだ。 異端認定の名のもとに、惨たらしく殺されて死ぬよりマシじゃないか。 「逆さに磔にされて刑死した聖人を御存じか?」 自分が連座で処刑されることさえ恐れて、贖罪主と自らの信仰を三度も裏切ってしまった聖人。 自分も一緒に捕まることを恐れて「あんな人は知らない」などと三度も否認してしまった臆病な人のこと。 最期の最期には、贖罪主と同じ処刑方法では恐れ多いと、逆さに磔にされて死んでしまった人の事を呟いた。 嗚呼、確かに彼女は愛する人を裏切って臆病と惨めさのままに死ぬよりも、そうやって誇りと信仰を抱いて死んだ方が良かったんだろうさ。 「私に付いてきた彼女たちは聖人じゃないのよ。生きていた方が良いに決まっているじゃない」 そもそも、そんな事を無理強いする権利など私にはない。 私にそんな価値があるとは欠片も思えなかった。 「そう思っているならば、ちゃんと彼女たちに聞けば良い。死んでも殿下に付いてくるか、付いてこないかをマインツ大司教との戦いの前に聞いてあげればよいのです」 多分、彼女たちは死ぬまで夢を見させてくれるならばと。 最期の最期まで貴女についてくるだろうと。 ファウストは、そんな無茶苦茶な事を言う。 「ヴァリエール・フォン・アンハルトに問います。貴女を庇って初陣で死んだ彼女の事を覚えておりますか」 「覚えているに決まっているでしょう」 次に口にされたのは、私を初陣にて庇って死んだハンナの事であった。 忘れるわけがないのだ。 一生忘れるわけがない。 「……私のような低俗な者こそが、受けた恩に執着することがあること、そろそろお判りでしょう。これを人は時に情と呼ぶのです。ヴァリ様が、我が主君が私たちを一生忘れることが無いと知っているのに、死を恐れる理由がどこにありましょうか」 私は泣きそうになった。 先程からファウストが口にしている言葉は。 「ファウスト。やめてよ。お願いだから」 皆、理由があるならば私の配下は、別に私の判断で死んでもよいと思っているし。 そして、私はもう配下の事を本当に考えるのであれば、ここで死ねと命令すべきだという誘いの言葉であった。 そんな惨い事は聞きたくなかった。 私は、耳を塞ぎたくなった。 だけど、ファウストが歩み寄り、そっと両の手を握っていた。 「恐れ多くも。ヴァリエール殿下は、何故貴女がアンハルト王家の後継者として不適格とされたのか。どうして人を束ねる存在として、人心を安んじて統治を行うにふさわしくない存在としてリーゼンロッテ女王陛下に見切られたかを未だ理解しておられぬのだ」 もう耳を塞ぐことはできない。 「切ることが絶望的に下手糞だ。損切りが出来ぬ。見捨てられぬ。いざという時に我ら騎士や兵や民の命を必要足る犠牲であると供物に捧げて、それで終わりとすることが出来ぬ。今回の旅についてきた皆が幸せになれればよいと思っている」 そうだ、私は凡庸で脆弱で、臆病で、そんな事はできない。 自分の配下のために、せめてこの子たちのために強くあろう、自分の身内に関してだけは強くあろうと思うが。 結局、このヴァリエールの性根は変わらない。 「酷い時には、自分が損をして、それでなんとかなるならそれでいいと思っている」 それで済むなら、それでいいじゃないかと思う時がある。 「よいですか、ヴァリ様はとんでもない勘違いをしているから、何度でもはっきり言っておきます。それは私たち配下に対する侮辱なのだ!」 だが、ファウストはそれを認めようとしない。 「初陣で死んだハンナ卿も、そこにいるザビーネ卿も、私もこのように考えている。私たちが死んだときに、我々の気持ちを全く理解せずに、勝手に哀れむなど止めて欲しいと。我々には我々の意思があり、自分で決定権を得て、それでもなお貴女のために死ぬのだと。心底それでもまあよい人生だったと、受けた恩を返したと、そう思っているのだと!」 ぎゅうと、ファウストが私の手を握った。 無論、全力ではないのは容易に理解できる。 私の婚約者が全力を出せば、この小さな手など粉々になってしまうだろうから。 「私やザビーネが、貴女に集う人々を見捨てろと進言したところで、何もかも理解していてできるかと言えば、もはや怪しいところだ。多分、どうせできやしないだろう。それが貴女だ」 ファウストは、統治者としての適性が欠けていると私に叫んだ。 私は否定できなかった。 このヴァリエールは王族に向いてないと告げて。 「だから、主君として私という騎士に命令してください」 同時に、ファウストは私を主君として認めていると明確に言葉を繋げた。 酷く矛盾しているようで、そうではなかった。 「殿下を助けるために帝都からここまでやってきた私、ファウスト・フォン・ポリドロに闘争の許可を」 手が離れた。 ファウストは、騎士叙任式のように片膝を折り、立てた右足の膝に手を置いて、肩を剣で叩かれる直前のように目を静かに閉じた。 「たかが6000の兵、さっさと蹴散らしてきなさいファウストと、それだけ命令してください。後は何とでもやってみせますから」 貴女の婚約者として、その程度の事は鼻歌混じりに片付けてきましょう。 ファウストは最後、一言だけ婚約者らしい事を呟いて、私の決意と命令を求めた。