第180話 人の信仰を侮辱するとは何ぞや あと一つだけである。 ベルリヒンゲン卿が誠に潔く自分が敗北者であると認めてくれた以上、あと一つだけだ。 このザビーネの計画には、ベルリヒンゲン卿やケルン派を供物に捧げて、完全なる成功を為すには一つだけ乗り越えなければならぬ壁がある。 私の愛するヴァリ様をどうやって説得するのか。 どうやって、あの不要な連中を見捨てることに必要な言い訳を与えるのか。 地獄みたいなこの世で、燦然と輝く善性をどうやって破綻させるのか。 ヴァリ様における愛おしいものは何一つとして、あんなゴミどもに与えてやる必要などない。 私たちだけにくれればいいのだ。 それだけである。 「ザビーネ」 震える声が響いた。 凛とした花香のする声であった。 私はもしヴァリ様にこれをやれ、あれをやれと言われれば、その場で自らの首をかっ切る行為ですら、何の不思議もなく行うことが出来た。 他人からいくら侮辱されようと、いくら恨まれようと、そのような事には何の痛痒も感じない。 最終的に私とヴァリ様、親衛隊という同胞と愛するファウストさえ幸せならば、此の世全てがどうでもよいのだ。 「私の進言は全て終わりました。後は交渉にて、アンハルトに属するケルン派だけを保護して、すでに功績を為した騎士や兵隊どもを引き連れて、ずっとついてきた貧しい商人たちの財産さえ保護すればよいだけです」 後は何にもいらない。 私は今回の行軍にあたって、アンハルトにおいて保証した約束を全て成し遂げて、ヴァリ様にとっての最大利益を叩き出したのだ。 私とヴァリ様の旅の目的は、もうこの段階で全て達成されているのだ。 「ヴァリエール殿下の名誉はこれにて完全に保たれます」 利益目標を達成した上に、後の始末は全てマインツ大司教がやってくれるというのだ。 本音を言ってしまえば、笑いが止まらぬところだ。 「……そういう約束だった」 ヴァリ様が、ポツリと呟いた。 そうだ、その通りなのですヴァリ様。 「そういう約束でした」 ヴィレンドルフ流でいえば――正当な約束や契約は、自分と魂と相手の魂が為した純粋なるものであり、破ることは双方の魂への冒涜であるという。 私もそれは理解できる。 なればこそ、私はアンハルトから出発した連中に対する約束だけは最後まで守ろうじゃないか。 私は最近流行りだした戯曲のように、約束や契約を捻じ曲げて独善的なおぞましい不正義を口走りて不条理を通し、後で賄賂をもらうような裁判官もどきの乞食ではないのだから。 私やヴァリ様は、アンハルトから最初についてきた1000人以外には何も約束していないし、それとて忠実に契約通りの内容を果たそうとしている。 だから。 「見捨てるのです。アンハルトから付いてきた者以外の全てを」 私はあえて偽悪的にそう述べた。 もちろん、約束は全て守ったのだから、悪でもなんでもないことは理解しているがね。 問題はここからだ。 「――さて。愛しのファウスト・フォン・ポリドロ卿」 私は難題に対して、水を向けた。 約束を守り、人を愛して、親の罪を子に与えることを許さず、領主騎士としての領民に対する責任と不条理な愛が入り混じった男に対して。 愛する人に対してである。 「いつまでもふざけてないで、そのバケツヘルムを脱いだらどうかね」 「そうだな」 ファウストは気軽に応じた。 首に手を伸ばし、兜が脱げぬように嵌めている固定具を指で外した後に。 その容貌を、私とヴァリ様だけに見せた。 アンハルトでは醜いなどと言われるが、婚約者であるヴァリ様と、このザビーネには好感しか湧かぬ。 短髪に刈上げた黒い髪、赤い目、菖蒲のような雰囲気を感じさせる顔をした一人の男であった。 「さて、私の意見を述べさせてもらう。それがお望みだろうザビーネ卿」 「そうだな」 ファウストは些か不機嫌そうであった。 なれど、私は私の意見を違える気はないがね。 「私が不機嫌であるのは、いや、あったのはザビーネ卿にもヴァリエール殿下にも理解できていたように思う」 ファウストは武骨ではあるが、無能ではない。 少なくとも理屈と現実を踏まえて行動をしており、それこそ感情が昂ればどのように無謀な無鉄砲でさえも演じることが出来るが、それとて彼の脳内から他に道なくどうしようもないと決断を下しての行動である。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿の誉れは、他人には理解されぬと意識しての暴走を孕んでいた。 いや、もう彼自身では駄目だと思い至ったからこそに、どこまでも果てしなく暴走するのだ。 このザビーネはそれを完全に理解した! 「許されよ。ザビーネ卿とて、殿下の最大利益を考えての事であろう。すぐに思い至ることが出来ず、無駄な殺気を貴卿に放った」 ゆえに、このザビーネは最終的にポリドロ卿の理解を得られると信じて行動している。 私は約束を守ったのだ、私の愛するヴァリ様は此の世全てに対する契約を遵守したのだ。 誰に対しても恥じるつもりなどなかった。 「最初に言っておこう。ザビーネ卿の行動は正しい。正しいのだ。私とて、貴殿と同じ立場であれば全く同じことをするであろう」 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は現在の私の行動を肯定した。 だが。 このザビーネは、彼の抑えきれぬドロドロとした感情を理解している。 「ただし、同じならばだ。私とは理解している情報が違うゆえに、貴卿の味方はできぬ」 「……私と一緒に、ヴァリ様を説得してはくれないと?」 ヴァリ様を説得しきるには、一押しが必要だと知っている。 私の言葉だけでは弱いと知っている。 ゆえに、婚約者である彼の説得が必要に思えたが。 「できないな。何度も言うが、ザビーネ卿の立場からすれば何の問題もない行動だとは理解している」 このファウストとて、第二王女相談役の立場であることを忘れたことなど無い。 そう呟きながら、彼は自分のバケツヘルムをぽんぽんと叩いた。 相談役としての立場は憶えていても、ポリドロ卿という立場は忘れてデカマラス卿などと名乗っていたけどな。 そのような嘯きに、人から見てアレな自覚はあったのかと思いつつも。 さてはて、拝聴しようじゃないか。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿から見る現状に批判の石を投げる理由を。 「……まず、ポリドロという領主の意思を述べる。同時にこれはポリドロ領の領民300名からなる意見である。私たちは家の起こりから、領地の始まりからずっとケルン派を信仰しており、それ以外の信徒になることなど考えた事もない」 将来、ヴァリエール様はファウスト卿の婚約者として、その当主としてポリドロ領の領主となる事が決定している。 なれば、無視することができない意見ではあるが。 「別なセクトに変えればいい。宗教など人が幸せになるための道具に過ぎぬ。邪魔ならば聖印すら足蹴にして消し去っても構わない。贖罪主が描かれた絵画など踏みつけて良いのだ」 「ポリドロ領民を生半可な信者と一緒にするな。宗教を道具であると看做すのは良い。なれど、私たちにとっては秘蹟である」 何が秘蹟だ。 此の世の聖職者などは、聖職者であることを立場と権利だと思っている。 誰もが信仰を足蹴にして、神に仕えるのではなく、その力に仕えている。 あれなるものは全てがただの邪悪なものでしかないと、このザビーネは見切ってしまった。 「我がポリドロ領の起こりが貧しい30人の開拓者であることは以前にもザビーネ卿には話したはずである」 「知っているさ」 なんなら祝福された開拓者とすら呼べない事も、このザビーネだけは知っている。 ヴェスパーマン家の元当主として、それこそ妹であるマリーナや前当主の愚か者ですら知らないことを、アンハルト王家における紋章官の記録全てを把握することで理解しているのだ。 ポリドロ領の起こりは30人の追放者の群れである。 悪く言ってしまえば出自なんか農奴以下、底辺以下の連中でしかない。 「……ザビーネ卿は何もかも知っているように感じる」 ファウストは疑念を抱いている。 私は正直に答えることにした。 嘘をついたところで、彼が容易く見抜くことを理解しているからだ。 「知っている。同時に、それゆえに私は初代当主であるポリドロ卿を尊敬している」 何もかも無手の状況で人を集めて旅をして、土地を耕して領主騎士となったのだ。 尊敬以外の何があろうか? 道行きでポリドロを笑うやつがいるならば、私が代わりに殺してやってもよい。 これは嘘ではない。 ポリドロ領を開拓した追放者の彼女たちは、間違いなく私がヴァリ様に感じる依存さえも抱えながら、自分の太陽であると死に物狂いで初代当主に仕えたに違いないのだ。 「だが、ケルン派に対してポリドロ領がどのように考えているかは知らぬだろう。少なくとも道具のように思ったことは一度もない。おそらく、この事は――たとえザビーネ卿とて知らぬことと理解している」 「聞きかじりのケルン派の戒律と聖句を覚えた一人の少女を、ケルン派の宣教師として認めたことか?」 それは知っている。 そのような事であれば、ケルン派が自分の血肉1ポンドを切り取らずに、ただ認めただけであれば。 このザビーネはファウストを説き伏せることが出来た。 脳内にて説き伏せる言葉の羅列を組み立てる。 だが、多分――まあ、違うんだろうなと思えた。 「違う。その後に、ケルン派における一人の神母がポリドロ領に訪れたことにある。沢山の古ぼけた農具を抱えて、沢山の使い古したオストラコン(陶片)を抱えて、沢山のボロボロの書物を抱えて、沢山の種苗を抱えて――」 ファウストが、言葉に詰まった。 何か言おうとして、何も言えなくなったのだ。 少し空気が止まり、あまり口が回るとは言えぬポリドロ卿がようやくに喋りだす。 「ケルン派の神母は、確かに彼女の一団の一人を宣教者と認めた上で、私たちのポリドロ領を訪ねて、こう言ったのだ。ここに教会を建てに来たと」 このザビーネは、自身の敗北を予感しつつある。 なれど、口を開かせておいて、最後まで話を聞かぬわけにはいかぬ。 「有難かった。酷い時には手や棒で農地を耕していたなどとさえ言われるポリドロ領には農具が必要であったし、口頭ではなく陶片を渡すことによる連絡や命令が必要であったし、教養や娯楽を求める者には神母が書物を開き、それを読んでやる行為が必要であった。種苗など、例え自分の命を捧げても欲しいと言う者がいた」 嫌な予感がしている。 何も、ファウストは自分の領地がこうであるから納得できぬという話をしようとしているわけではないのだ。 「ポリドロ領には何もなかった。それを与えてくれたのが当時のケルン派である。今のように火薬という収入によって多少は裕福になった宗派のことではない。もっと貧乏で、もっと何もなくて、それこそ自分の血肉を1ポンド切り売りするような真似をして、何もないポリドロ領を助けてくれたのが当時のケルン派であったのだ」 誰も知らぬ、このザビーネすら知らぬ凄まじい秘事を口にしようとしている。 私は理解しつつある。 「ポリドロ家初代当主には教養などなかった。ただ有難い有難いと呟いて、ケルン派より与えられた利益を食むだけであった。衣食足りなかったがゆえに、礼節を知らなかった。そして多少は身繕いなどを出来るようになった次代のポリドロ家当主が、ケルン派に初めて寄進を求められて、そこで気づいたのだ」 正当なる教皇なれば、宗教は専門ではない私と違って多くを知るだろう。 「ケルン派が寄進を求めたのは、古ぼけた農具や、使い古したオストラコン(陶片)であり、ボロボロの書物であり、自分の農地で育てた沢山の種苗であった。私たちがかつて譲られたものであり、補修したり改良はしたけれど、もう必要はなくなった物であった」 ゆえに、ケルン派を異端審問するということの意味を理解しているだろう。 「二代目のポリドロ卿はそこで全てを知った。ああ、そうかと。ケルン派というセクトはずっとこうやって次へ次へと救済を繋げてきたのだと。貧しい人々が腹を満たすために最低限必要なものを、隣人愛を、アガペーを繋げてきたのだと。かつて私たちが譲られたように、それを他に与えてはくれないかと頼み込む在り方を続けてきたのがケルン派という存在である」 ずっと、ポリドロ卿のような貧しい領地に対して、そのような啓蒙活動を続けてきたケルン派に対して。 どうしてか、正統たる教皇は異端審問を行おうとしている。 「二代目は涙を流して膝を折ったと、今後の全ての祈りをケルン派に捧げるとポリドロ家の記録にはある。そして、それを異端であると侮辱して、それを破却しようとして軍勢を集め、ヴァリ様に改宗を促そうとしている大司教が目の前に存在している」 これは、話を聞くにこれはポリドロ領だけの激怒に留まらない。 このようにケルン派の恩恵を受けた村が神聖グステン内のそこら中にあり、このように狂気的な崇敬の念を抱いているのだ。 冗談ではない。 文句は尽きることなく出てきそうである。 それは異端審問をされたケルン派に対してであり、軍勢を寄せたマインツ大司教に対してでもあり。 「アガペーを繋いできた我ら全てに対する侮辱である。ポリドロ家と領民に対する壮大な侮辱である。私の祖先に対して唾を吐きかける行為である。騎士は舐められたら殺すのだ。封建制における領主貴族が、どのように自分の独立領地に対して尊厳を保つために必死に生きているか、ザビーネ卿ならばわかっているだろう」 このような神聖グステン帝国を無茶苦茶にする事態にヴァリ様を巻き込んだ『人食いアナスタシア』であり、『尻揉みアスターテ』であり、そして何もかもの状況をある程度は把握していたのに何も言わず。 本当に何一つ忠告してくれなかったリーゼンロッテ女王陛下に対してである。 「殺すのだ。マインツ大司教を殺すのだ。教皇を殺すのだ。自分の信仰が、自分の祖先が、自分の領地が、自分を構成する全ての来歴が侮辱されたときに、人がどのように怒り狂いて侮辱した者を無茶苦茶にするかを教皇に思い知らせてやらねばならぬ」 目の前に、静かに強烈な苛烈を――この何も知らなかったザビーネやヴァリ様に対してではなく、操られたマインツ大司教に対してですらなく、何もかも知っているくせにそれを侮辱した教皇に対して。 ドロドロと溶岩のように煮えたぎったものを感じさせるポリドロ卿に対しても、こう思った。 『お願いだから、お前ら状況を説明してから行動してくれ!』 私は完全にブチ切れているポリドロ卿を眼前に、そのような泣き言を心の中で叫んだ。 怒り狂ったポリドロ卿を説得するなど、このザビーネには不可能であるのだから。