第102話 初恋 背中におぶわれる。 赤子のように。 本当に幼い頃、自意識も曖昧な、その幼子の頃のようにして。 私は、ファウスト様の背中におぶわれていた。 ファウスト様の背中は筋肉の固い肉でゴツゴツとしており、その心臓の鼓動や、体温が私の身体に伝わっていた。 「ファウスト様、お聞きしたいことがあります」 「なんだ」 夕暮れは未だ暮れきっていない。 夜の闇は、まだ遠いように思えた。 この両足には力が未だ入らずに、ファウスト様が私を背負って、その為すがままになっている。 「私の」 私の。 私の、何だ。 言葉が続かない。 このような事は、今までに一度としてなかったのだが。 私は、私は。 言葉に、できない。 「反逆者の墓を作ったなど、リーゼンロッテ女王陛下にはどう申し開きをするつもりなのです」 話を、誤魔化そうとする。 「説明をするとだ。元より、このファウストがお前の母の頭蓋骨を探すためには、リーゼンロッテ女王陛下の力を借りなければならなかったのだ」 正直、この9歳児の知能でもある程度の予想はできていること。 アンハルト王国内の処分についてを尋ねた。 その答えは明瞭である。 「反逆者カロリーヌは、正々堂々たる一騎打ちにて騎士ファウストが討ち取った。反逆者の結末として見せしめを受け、多くの市民が石をその首に投げつけた。それで話は終いだ。その後の頭蓋骨の顛末など、誰が興味を持つのかと」 「女王陛下は、全てを見過ごすと言われたのですね」 「そうだ。一騎打ちを行ったファウストが、全ての裁きを終えた後の死体をどう葬ろうが。その死者の扱いに特別を取り計らったところで。後に公になったところで、何の問題もないだろうとまで言ってくだされた」 あの理知的なリーゼンロッテ女王陛下でさえ、私の判断を許してくれたのだ。 だから、何の心配もしなくてよい。 そのように、ファウスト様は仰る。 確かに、母カロリーヌは一騎打ちにて、ファウスト様に討ち取られたという。 その全ての結末に対して、一言を入れる権利が確かにあった。 「だから私はリーゼンロッテ女王陛下に対して言ったよ。私にカロリーヌ・フォン・ボーセルの首を与えてくださいと。その首は我が領地に葬るからと」 「私の」 私の。 再び、何かを言おうとするが、形にならない。 だから、再び誤魔化す。 「私の母の首は、森に打ち捨てられていたなどと、ファウスト様は仰いましたが」 「聞くな」 ファウスト様は、拒否する。 だが、ファウスト様は全てを仰ると一度、確かに言った。 「お聞かせください」 「私は全てを話すと言ったが、お前には聞かせたくないこともあるのだ」 まだ、何が聞きたいのか、自分は理解できていない。 だから、すでに想像がつくことを、あえて口に出す。 「お聞かせください」 ファウスト様は、諦めたようにして、口を震わせた。 「お前の母の。カロリーヌの首は、確かに森に打ち捨てられていた。探すのに、手間取ったと言われたよ。肉は小動物や虫に食い荒らされており、何か肉食獣に漁られたのか、頭蓋骨に穴が開けられ、脳は無くなっていた。完全な白骨と化していた」 たとたどしく、ファウスト様は語る。 私は、静かに目を閉じた。 想像がつく、結末であった。 「リーゼンロッテ女王陛下が、骨の回収に出してくれた貴族は確かな人で。砕けた骨の一片までをも集めてくれていた。私はそれを受け取り、この領地へと帰ってきたよ」 少し違うのは、リーゼンロッテ女王陛下が、ファウスト様の嘆願に対して優しかったことだ。 ファウスト様に優しいだけなのか。 いや、それほど甘い御方ではなかった。 本来なら、ファウスト様の行為すら厳しく窘める方であろう。 「私の」 もう一度、何か、呟こうとする。 やはり、形にならない。 だから、やはり誤魔化すのだ。 「私の母の埋葬を、女王陛下が赦しても、市民が赦しても、その被害にあった者が赦すとお考えですか? 王領の小さな村で、母は虐殺を行った。その行為について、どうお考えなのです」 「もうよい、死骸を冒涜するほど悪趣味ではない。そう言ってくれる人もいるだろう。同時に、カロリーヌの全てが灰のように砕かれてしまえばよい。埋葬など、もっての外だ。そう言う人もいるだろうと、私は思う」 ファウスト様の返答は、先ほどと違って淀みがない。 何度も、何度も、一生懸命に考えた末に出した結論であると思えた。 「マルティナ。私はお前の母を、カロリーヌを埋葬することを善とは思っていない。だが、同時に覚悟をしたんだ」 ファウスト様は、それを一つの決断のように答えたのだ。 「それならば、それを悪と呼ぶ人がいるならばだ。私は、もうそれなら悪と呼ばれても構わないと思ったのだ」 ファウスト様の、その歩みがぴたりと止まる。 「私は、正直善良とは程遠い人物なのだろうとさえ思う。我が領地の神母様のように、神に身を殉じているわけではない。例えば、かつてカロリーヌが殺した善き人々が、お前の母を埋葬したことについて激怒したとしよう」 仮定の話。 ファウスト様は、母カロリーヌが殺した善き人々の、その者たちが襲い掛かってきたときの話をしている。 現実には、超人にして騎士たるファウスト様に逆らうなどは有り得ない仮定。 だが、ファウスト様は私が問うた「善悪」について真摯に答えていた。 「頭に戦棍を振りかざされたところで、神母は避けないかもしれない。ケルン派の神母たる思想として、全力の鉄火を以てして反撃するのかもしれない。それは判らない。だが、ともかく私は逃げてしまうよ。背中に批難罵倒が降り注いでも、気にはしないことにした」 まあ、戦棍で頭を殴られたところで、超人たる私は痛いと思う程度で別に死なないから。 ともかく、全力で相手にしないことにする。 そのように、ファウスト様が話す。 「私は、それで地獄に落ちてしまっても良いと考えている」 「それは」 私の。 ようやく、迷い迷った言葉が口に出せそうであった。 「私のためでしょうか」 それは理解できている。 もう、何もかもが嫌であった。 だが、聞かなければならない。 「マルティナ。私は先ほど助祭が言ったように、確かにお前を守りたいと思った。それに嘘はないし、そのためにあらゆる事をしようと思った。だが、一つだけ付け足すことがある」 ファウスト様は、何か口ごもるように。 口端を動かした後に、ゆっくりと口を開く。 「私はかつてマルティナの助命嘆願をした。それは、私が親の罪を子が受けて、その死を請うなど。どうしても理解できぬし、あってはならないことだと思ったからだ。それと、同じなのだ」 それは、告白のようで、同時に泣き言であった。 「もう、いいじゃないか。これ以上は良いだろう。私には、どうしても、これ以上は耐えられないんだ」 ファウスト様の、どこまでも個人的な意見なのだ。 「ケルン派の戒律に、たとえ敵であろうとも、死ねば魂無き遺骸に過ぎぬ。その死骸に善も無ければ悪もない。死骸を弔ってやれとある。私は単純に、それに従おうと思っているわけですら――なんと言えばいいのか。私は先ほど助祭の言葉で、何やら格好つけた振る舞いを行ったように語られたが。少し、嘘があるんだよ」 助祭は、ファウスト様の言葉が戒律に反しているか。 怒っているのではなく、少し怯えながらにして、それを気にしている。 神母も、助祭もだが。 「なんと言えばいいのか。すまんな、マルティナ。正直に全てを話すといった以上は、何もかもを正直に言うよ。私ですら、何故このような事を思うのか、実のところ論理立てての説明は出来ないんだ。いくつか理由付けはできるが、全てが欺瞞に過ぎないとすら思える」 このファウストという、どこか一本筋が通っていながらも、同時に不安定な人物の事をどこまでも気にかけているのだろう。 「もう良いだろうと思う。カロリーヌの事を考えると、そう思ってしまう。彼女に同情すべき点はなかったのか? 最初の切欠は、彼女がもうどうあがこうと、彼女の視点ではどうにもならない環境であろう。利己主義の結末とはいえ、本当に同情すべき点はなかったのか?」 私は目を閉じている。 閉じ続けている。 「家督簒奪が失敗した後は、自殺でもすればよかった? それは誰もがそう思うだろう。だが、カロリーヌには未だ配下がおり、その兵隊は全てが忠誠を誓っていた。一緒に地獄に落ちてくれとは言えようとも、ただ無意味に一緒に自殺してくれなどとは言えなかったろうさ」 薄々わかっていた。 ファウスト様は、自分は悪などと卑下されるが、悲しい程にどこか善良なのだ。 何かが。 「兵隊の皆が死ぬから、代わりに貴女が生きてくれと言われて。自分の運命全てを呪った領地と姉への復讐を企まない程に、清廉ではいられなかったろうさ。国を売り払って、敵国ヴィレンドルフの騎士と成り果てるつもりにもなるだろうさ。それは、領主騎士として、たった一人残されたポリドロ家として思うのだ。だって、私は領民のためなら死んでも良いが、領民だって、私さえ生き残れば勝ちだと思っている節がある。カロリーヌは貴族として、彼女たちの頭目として、最期まで抗う必要があったんだよ」 どこかが狂っているというレベルで、純粋なのだ。 「だから、だからな。何を言っているか、纏まらなくて申し訳ないが。私は、カロリーヌに同情してしまったんだよ。そうして、私に殺されてしまったカロリーヌが可哀想に思えてしまったんだよ。だからな、マルティナ」 どこか、それが愛おしかった。 「私はカロリーヌを弁護してやりたいと思ったよ。赦しを与えてくれと思ったんだ。死者への冒涜が赦されぬなどと、近視眼的なことを繰り言のように言いたくはない。カロリーヌは確かに悪人だったよ。だけど言うよ。もういいじゃないか。これ以上、その死を貶めなくてもよいじゃないか、と」 この人は、何もかもを悲しんでいたし、どこか怒ってすらいた。 「そう庇うことを悪と呼ぶなら、もう私は悪でもよいと思ったんだよ」 それは八つ当たりのように思えたし、事実そうなのだろう。 ファウスト様の自身すら完全には理解できない、その道徳と価値観に縛られているようであった。 だが、ファウスト様という人格は、それを良しとしてしまった。 私の助命嘆願のために、何の得にもならぬのに、自らの頭を地に擦り付けたように。 「私はこの歪んだ誉れと共に、一生を生きていくと誓ったんだ。だからな、マルティナ」 それは嘘ではない。 今まで並べた言葉に一つも嘘は含まれていない。 たった一つだけ、嘘があるとすれば。 今から話す言葉だけだろう。 「私が勝手に何もかもやったことなんだ。だから、マルティナは気にしないでくれ」 その優しい本音の嘘一つだけだった。 ファウスト様は本気でその嘘を吐いているが、それは現実ではない。 嗚呼、助祭が先にファウスト様の全てを述べた事は、やはり何もかもが正しかったのだ。 ファウスト様は、やはり何もかもが自己完結じみていて、ちゃんと人に説明をするのに向いている人ではない。 私に対して全ての胸襟を開いてすら、このような有様なのだ。 「ねえ、ファウスト様」 揺さぶり。 ファウスト様は自分の言いたい事全てを語り終えたと思ったのか、また歩き出す。 だから、私もまた、その身勝手に答えることにした。 「なんだ、マルティナ」 「私はね」 悲しい程に、理解がようやくできた。 ファウスト様は、完全にこの世界の異物なのだ。 どこまでもが、この残酷な世界に生きるのに向いていない。 神の祝福を与えられ、武の超人として産まれ、領民僅か300名の領主騎士としてはなんとかやっていけるだろう。 それ以外はてんで、この世に向いていない。 神様は、その作りを間違えてしまったのだ。 「私は今、初めて」 ほのかに、心臓に何か鼓動のようなものを感じる。 この何もかもが不器用な男性に対して、初めて何かを感じた。 それは言えない。 「初めて、なんだ」 「何でもないですよ」 9歳児のこの身には言えない。 その愚劣とさえいえる、歪な誇りに何かを感じてしまったなどと。 とても言えない。 「私はね、ファウスト様。貴方が私のために、母のために、そこまでしてくれたのならば、私は」 色を知る歳には早いのだろうか。 9歳半ばなら普通と呼べるかもしれない。 いや、何を考えているのだ。 私は、今、母の墓に参ろうとしているのだ。 ファウスト様が必死になって、それこそ地べたを這いずりまわるような行為すらして。 愚劣とすら切って捨てて良い価値観の元に、私のために何もかもを果たしたのだ! それが。 それが、狂ったように愛おしい。 「貴方のためなら死んでもいいんですよ」 ああ、はっきりと今、理解したぞ。 私は初恋をした。 マルティナ・フォン・ボーセルは、ファウスト・フォン・ポリドロに初恋をした。 そして、ファウスト様には意味を理解してもらえないであろう、告白をしたのだ。 「それは私のもっとも望まないことだ。私がマルティナに望むのは、良い人生だ」 9歳の騎士見習いの恋は、22歳の領主騎士に対して実らないかもしれない。 何せ、この私を背負う男は、何も考えていない。 告白に気づくどころか、そこにあるのは親としての愛情だけだった。 「私の騎士見習いとして育ち、朗らかに生き、いずれは巣立ち、王宮勤めの立派な騎士になってほしい」 このような恩を受けて、相手がどう思うかなど、これっぽっちも考えていないのだ。 その存在と愚劣な誉れが、他人にどのような感情を呼び起こすか理解してないのだ。 ファウストという男は。 「そうだな。子でも出来たら、私の元に顔を見せてほしい。私は、その子の頭を撫でさせてもらうよ。恩返しをしてくれるというなら、それだけでよい」 どこまでも続くと思われた、夕暮れがついに暮れきった。 姿を現し始めた満月は、悲しい程に優しく、美しかった。