第90話 マルティナの才能 昼食を終え、腹ごなしの鍛錬。 私自身の鍛錬ではなく、騎士見習いたるマルティナに対する教育である。 正直、これは私自身が楽しみとしていた。 マルティナには明らかに才能が有る。 それは9歳児とは到底思えぬ利発さであり、私の述べた一を聞いて百を理解し、さらには千を知ろうと百を知った上での質問すら行う貪欲さにある。 それはアスターテ公爵も知っていよう。 だが、聡さだけではないのだ。 徒手空拳、領地における普段着姿にてマルティナと相対、約一時間ほどが経過していた。 「ここまでか? 私の幼い頃はもっと頑張ったぞ?」 「何故ファウスト様は、武の超人としての自分と私を比較するのですか?」 比較するのは、私と匹敵する武の才能が眠っているからだ。 なるほど、マルティナの母たるカロリーヌはまず知識を優先したのであろう。 王都において剣術訓練を開始した際は木剣ですら、まともに握った事が無いと言われた。 それは誠に賢明な判断であったし、今までの成長過程においては正しかった。 私とて、この子は剣の道に生きていくのではなく、その頭脳において立身出世させよう。 アナスタシア第一王女殿下とアスターテ公爵ならば、この才知を必ずや生かしてくれるはずだ。 もはや領地を奪われた法衣貴族たるマルティナが、これから生きていくための術を与えよう。 そう考えていた。 だが、この武芸における異常な成長速度はどうか。 「次は飛ばないのか?」 笑いながら呟く。 「飛びません。不意を突けると思ったのですが」 マルティナはその小柄な身体で、先ほどは身長2mを超える私の頭を割ろうと試みた。 鳥のように軽やかに宙を舞い、その異様な跳躍力においては私の幼き頃に匹敵する。 超人である。 マルティナに超人の素質があるのは、誰の目に見ても明確である。 神聖グステン帝国において、超人という言葉は基本的には包括的に優秀な人間を指す。 騎士の間でお世辞として超人と相手を褒め称える事など、よくあった。 だが、真実本音で超人と呼べる人間は実のところ少ない。 マルティナの母カロリーヌのように、ギリギリ手が届く数ですら少ないのだ。 魔法使いのように1万人に1人いるかいないか、或いはもっと少ないのかもしれない。 身近なところで言えば、この私という個人の武のみに尖り切ったタイプ。 アナスタシア第一王女やアスターテ公爵のように、戦略や戦術において時代の一歩先が見えているタイプ。 色々なタイプがいるが、ともあれ人体における膂力が明らかに並外れていた。 この男女の役割が逆転してしまったような世界では、その外見によらずハルバードやツヴァイヘンダーを平気で振り回すような女性が普通に存在する。 だが、映画のアクションスターのような活躍を、映画のストーリー通りに実行できる馬鹿げた存在となれば、やはり超人だけである。 そして――眼を閉じる。 足だ。 「甘い」 小柄な体躯を活かした、足元への斬り込み。 悪くはない。 靴の腹で木剣を上から押さえつけ、捻って蹴飛ばす。 宙に浮いた木剣を親指と人差し指で摘まみ取り、マルティナの肩に一撃を入れる。 無論、手加減はして。 「――」 その一撃に対し、マルティナは悲鳴すらあげない。 歯噛みして痛みをこらえるのだ。 痛みに怒気を発しながらも強い騎士はいるので、これに対しては良し悪しを言えない。 だが、痛みに怯む事がないのは良い。 喚くにせよ黙るにせよ、最も重要であるのは痛みに怯えない事だ。 「今日はこれで30回死んだぞ」 「いや、そもそも無理があるのですよ。ファウスト様。私9歳児ですよ」 従士長たるヘルガに対し、10回に1回は勝てる超人が何を言うのか。 そもそも、これは勝利を目的とした訓練ではない。 マルティナ・フォン・ボーセルという超人の能力が、どこまで引き出せるかを見極めるための訓練だ。 何を如何やったところで、この少女が最終的に完成するのは判り切っている。 ああ、そうだ。 レッケンベル、その名を思い出す。 ヴィレンドルフの超英傑、クラウディア・フォン・レッケンベルのように、何もかもが極みに達していた本物の超人。 彼女のような人間こそが、正真正銘に本当の超人と呼ぶべきなのだろう。 あの完成形を目の前にしては、私などは一芸特化の才人に過ぎなかった。 歯を軋ませる。 戦場ゆえ殺すしかなかったが、今となっては生きていて欲しかった。 モンゴルもどきの遊牧騎馬民族国家の脅威に晒されてると知った今となっては、後悔すら覚える。 だが、このような事を考えても仕方なかった。 この色々とちぐはぐな奇妙な世界においても、神の証明がゲッシュなどにより平然と為されたとしても、死人が生き返る事なんて奇跡は『神の子』を除いていなかった。 思考を元に戻す。 私はマルティナが、あのレッケンベルに匹敵するような完成形の超人に至るのではないかと見込んでいるのだ。 いや、それ以上だ。 正しい教育環境さえ与えれば、超えるのではないかとすら推測する。 これは自分の騎士見習いに対する、私の身びいきでは無いと考える。 「次だ。姿勢を整えよ」 「疲れました。30回も死ねば十分でしょう」 マルティナの自己申告。 この賢い子が言うならば、本当に疲れたのだろう。 素直に頷き、休息することを許す。 ――どうやって、この子を育てよう。 「嗚呼」 母、マリアンヌもこのように苦悩したのであろうか。 なるほど、何がどうあろうともこの子は超人になるだろう。 だが、その才能の多寡は明らかに育成環境が左右する。 正直言えば、今からでもアスターテ公爵に泣きを入れて、彼女の元で教育を受けさせるべきではないか。 そのような事も思うが。 ――私とて、欲がある。 マルティナは、自分の手元で育てたい。 この才能が、どこまでの域に達するのか見届けたかった。 さきほど超人をアクションスターに例えたが、まさにそうなのだ。 超人は、時に人を恐ろしい程に魅了してしまうのだ。 「ファウスト様?」 訝し気に、それでいて9歳児までの純粋な目そのままに。 マルティナが、私の顔を見つめている。 立ってこそいるものの、全くもって疲労していた。 「私室に行き、昼寝でもしていなさい。夕食までは自由時間だ」 昼寝は疲労回復に良い。 嗚呼、この言葉は前世のものではなく、母マリアンヌから聞いた言葉であったな。 あれは先祖代々伝わる学習によるものか、それとも私の身体を気遣ってのものか。 恐らくは両方であろうな。 私の言葉に従って、素直に私室へと戻るマルティナ。 少し、一人で考える時間が欲しかった。 完全にマルティナが離れたのを確認し、一人呟く。 「あの子の母、カロリーヌは何を考えていたのだろうか」 哀れに思う。 最初は好きでなかった。 ただの愚かな女、せめてその死に際の一言ぐらいは叶えてやろうと思っていたが。 こうもマルティナが優秀だと、酷く哀れに思うのだ。 あの女は、世の何もかもに絶望していたに違いない。 自分は次女として単なるスペアに過ぎず、おそらくはマルティナという才能を世に出すことが出来ない事に。 あそこまでの才能を以てしても、今後の立身出世は望めぬどころか、領民1000名の領主にすら出来ない事に。 マルティナには口が裂けても言えぬし、絶対に気づかれてはならない。 カロリーヌが起こした凶行、家督簒奪事件において、最後の引き金を引いたのはあの子かもしれない。 マルティナという才の塊を世に出せない恐れが、あの事件を引き起こした可能性がある。 自分に付き従う従士や領民達の今後、カロリーヌ自身の領主に成りたいと言う欲は確かにあったかもしれないが。 仮に――そう、例えば王国において潤滑油の役割を果たし、優秀であれば法衣貴族としての職を用意してくれるような人。 ロベルト様のような人と縁を持つことが出来れば、あのような暴走はやらなかったであろう。 もっとも、ロベルト様は5年も前に死んでいるが。 駄目だな。 カロリーヌの狭い世界の視点からでは、マルティナの未来は産まれた時から詰んでいる。 何もかもを我慢して口を閉じてさえいれば、マルティナは領民1000名のボーセル領の封建領主になっていた。 マルティナの叔母が継承権を放棄する気であるのを事前に知ることが出来れば、その未来は確かにあったのだが。 その何もかもが失われてしまった。 何をやろうと、マルティナがもはや王領となってしまった領地を取り戻す未来など無かった。 「これからのマルティナの未来は、明るいだろうか」 あまり、良くない。 もはや青い血どころか、その義務を捨て、平民としての幸福すら望めぬやもしれぬ。 後ろ指を指されながら生きることはこの先間違いない。 かつてリーゼンロッテ女王陛下に言われた言葉が、背中を焼いた。 次の女王陛下となる、アナスタシア第一王女は英明である。 それゆえに親の罪は子の罪とする世間の評価を気にしない程、愚かではないのだ。 アスターテ公爵は、その辺りを気にしない。 才能さえあれば、平民の出自であろうが、元敵国人であろうが、殺人鬼の娘であろうが重用するであろう。 頼りにするならば、アスターテ公爵であった。 あの子の助命のため、無理を世間に請うた私としては、騎士の誇りをかけて将来を約束しなければならない。 だが、アスターテ公爵か。 「……」 正直、最近はちょっとあの人が判らなくなっている。 決して嫌いでは無いし、あの変態性も私の前世における男女価値観ではアリなのだが。 いや、前世の価値観でもアスターテ公爵は悲しいぐらいに変態であるが。 それも私の事を好きな証左であると思えば、まあ良いのだ。 本気で私の事を好きではいてくれると思うのだが、その純粋性はあまり信用できない。 私が彼女の求愛を拒むのは、立場があるのはもちろん、そもそも他の男に目移りするのでは? 他の男との子を、ポリドロ領の領主にしようとする可能性は無いか? そのような疑いが捨てきれないからだ。 だが、マルティナにはアスターテ公爵の力が必要に思えた。 まず機会が与えられなければ、活躍して自分の名誉を取り戻すことができないのだ。 戦への参加はもちろん、王国の官吏として働くにも、何らかの助力が必要である。 しかし、領民300名足らずの貧乏領主騎士に何が出来よう。 最近は懐が温かいが、それは私だけではなく領民達のための金であり、マルティナに全てを使うわけにはいかないのだ。 「アスターテ公爵に身を売るか?」 ポツリと呟く。 マルティナの将来を真剣に心配する。 ここに至ると、アスターテ公爵に縋りつく以外の方法が見当たらない。 だが私がその交換条件として売れるものなど、自分の身体一つであった。 将来の婚約者たるヴァリエール様に泣き縋り、もうどうにもならんからと頼む事はできそうであった。 ヴァリエール様は可哀想になるくらいに、身内に甘い。 それはあの気狂いザビーネに対する態度を見ても判り切っていた。 基本的に大事なのは世間に対する面子だけであり、そも貴族が一人の男を共有する事など、この世界では珍しくもない。 世間で私への評価、つまり領土と領民への風評被害が無ければよく、要はアスターテ公爵の愛人になったところで秘密にできるか、なんらかの状況で公然として認められるようであればよいのだ。 「アナスタシア第一王女には頼れそうもないし……」 あの、実は裏で人肉を食べてるといわれると、少し信じてしまいそうなほどに怖い目つきをしている女。 爬虫類系の目をしているが、それは爬虫類に失礼だと言われそうな目つきの彼女。 だけど凄まじい美貌のアナスタシア第一王女。 私自身は戦友だと思ってはいるし、彼女もそう思ってくれているだろう。 騎士としての実力に対する正当な評価もしてくれている。 だが、この世界の美的感覚を考えると、私を好きになってくれるとは思えないのだ。 身売りはできそうになかった。 選択肢はない。 「身売り」 この三文字に帰結する。 自分がどうしようもないと思うのは、アスターテ公爵に身売りすることを考えると、少し興奮してしまう事だ。 あの巨乳のアスターテ公爵に無茶苦茶にされると思うと、もう駄目である。 自然、脳裏には何度も背中や腕に押し付けられた、アスターテ公爵の乳房の感触が思い出された。 勃起はした。 だが今は領地なので、チンコは痛くはない。 領内なので貞操帯は外してあるし、股間回りに余裕があるズボン姿であった。 「まあ、最悪の場合はそうしよう。そもそも、アスターテ公爵はお前なんかいらないから、マルティナが配下に欲しいというかもしれないし」 あの色狂いではあるが才能狂いにとって、私の貞操などよりマルティナの方が価値があるのではないか。 その可能性は否定できない。 むしろ高いのではないか。 きっと、そうに違いないのだ。 「マルティナの未来は明るいに違いない」 私以上の才能の塊であるマルティナ。 それが世に認められず埋没するなど、この世にあってはならんのだ。 我が戦友たるアナスタシア第一王女、アスターテ公爵の二人であれば、説得すれば判ってくれるに違いない。 きっと、マルティナを有能な配下として欲しがる。 この貞操など欲しくもないだろう。 朗らかに笑いながら、木剣を指の二本で器用に回転させる。 それはまるで世界を回すように、綺麗にくるくると回った。