第86話 ラインの見極め アホの妹が、マリーナが痛みで喚いてる。 「痛いよ、ザビ姉、痛いよ」 結局、もう鴨を盗む以外では帰る気もなかった実家にいる。 ヴェスパーマン家の従士達へと愚かなる妹マリーナを引き渡し、あの愛おしい第二王女親衛隊という仲間たちが住む寮へと帰ろうとしたのだが。 かつて母と呼んだ人物に引き留められ、私が昔使っていた居室、今はマリーナの部屋である部屋に腰かけている。 ああ、もう。 「五月蠅い! 鬱陶しい! そのまま死ね! 泣き言いうな!!」 「なんで、ザビ姉見捨てたの!? なんでザビ姉、私と話してたのに、女王陛下が近づいてきた瞬間走って逃げたの!?」 「そんなもん逃げないお前が馬鹿なんだよ! この馬鹿! お前の方こそ何で逃げなかったの!?」 リーゼンロッテ女王陛下が、普段から鉄面皮で知られるリーゼンロッテ女王陛下が、かつてないほどにニッコニコした顔でこっち歩いてきたんだぞ。 そんなもん、誰だって逃げるわ! 空気が多少読める様になったかと思えば、危険察知はまだ出来んのか馬鹿! いや、どうせ逃げても先になるか後になるかだけで、マリーナの運命は変わらなかっただろうけど。 「事件が終わったから。ヴェスパーマン家は何かの役に立てたとは言い難いけど、ザビ姉にも母ちゃんにも何があったかは言えないけど、とりあえずは終わったから。ご苦労であったの一言くらい頂けると……」 「知らないよ。何か気に食わない事したんでしょ。何か」 多分、ポリドロ卿をイヤらしい目で見たか何かしたんだろう。 私もそっち方面の話では、ヴァリ様に「どうやってザビーネは今までその性癖と性格で生きてこれたの?」とよく聞かれる。 返事はいつも同じだ。 「ギリギリのラインさえ見据えていれば、後はなんとでもなります」である。 許されるラインと許されないラインがあり、マリーナはリーゼンロッテ女王陛下にとっての許されないラインを踏んだのだ。 嗚呼、家に帰りたい。 こんな実家ではなく、第二王女親衛隊の寮へとだ。 金を奪った以上、もはやヴェスパーマン家は定期的に私に鴨を盗み取られる以外の価値は無いのだ。 家が潰れようがどうしようが、知った事ではないのだ。 鴨の供給元が一つ無くなるだけである。 「結局、ローズガーデンに連れ込まれて、散々に全身を殴る蹴るされた挙句、お前何隠してるか吐け。お前何隠してるか吐けって首を絞められて。腕を人体が曲がらない方向に曲げられて」 「そのまま折られた、と」 いっそ、そのまま殺されてしまえば良かったのに。 とにかく、帰りたい。 このザビーネ・フォン・ヴェスパーマンは、産まれて来た時から、このヴェスパーマン家に馴染まぬ。 どうも、如何せん暗部としての雰囲気をもつ、この家が嫌いであった。 特に良くないのが、没落の匂いを感じさせるのだ。 妹であるマリーナからではない。 むしろ、妹はアホであるが、何だかんだ言って生来の明るさは家の道行きを照らすとすら思えた。 アホであり、温くあり、空気は読めない。 だが、スペックはそう悪くないし、本当に無能ならアナスタシア第一王女殿下が今頃切り捨てている。 良くないのは、むしろ母親である。 私は母親が反吐が出る程、大嫌いだ。 ポリドロ卿はこのような肉親への嫌悪に悲しい思いをするであろうから、あまり口にはしないようにするのだが。 もう大嫌いで大嫌いで仕方ないのだ。 「ザビーネ」 幽玄のような――いや、私と同じく美しい金髪、その長い髪を肩に流しているものの。 正直、年齢に見合わず、酷く老け込んでいると言っていい。 それは勿論、このザビーネの振る舞いにも原因が有る事は知っていた。 だが、関係ない。 産まれつき、どうにもこの「お前がどうなろうが知るか」という感覚は消えない。 このザビーネにとっては、我が主人であるヴァリ様と、同僚である第二王女親衛隊と、ポリドロ卿。 それだけに優先的価値が有り、それ以外はどうでもよかった。 マリーナは嫌いではなかったが、今回の失態を考えると、殊更にどうでも良くなってきた。 まだ第二王女親衛隊の寮近くを住処にしている猫の方が可愛い。 猫は良い。 ポリドロ卿だって、猫に出くわした時は「こんにちは」と優しく挨拶していると聞く。 猫と挨拶するのは良い事だ。 朴訥な癖に猫に出会った時はちゃんと挨拶する、そんなポリドロ卿は酷く愛おしいと思うのだ。 思考はなんかもうボロボロの母親ではなく、猫とポリドロ卿の事にすり替わっていたが。 「返事をしなさい。ザビーネ」 擦り切れたような声で呟く、母親の声がそれを邪魔する。 ああ、やはりマリーナを家の玄関前に投げ捨てて、ダッシュで逃げるべきであった。 このザビーネの危険察知能力は、明らかにその声の続きを聞く事を拒否している。 今からでも遅くない――いや、駄目だ。 ドアの前は、おそらく従者が塞いでいる。 私の剣における実力で、話も聞かずに逃げだす事は不可能であった。 厳密にいえば、第二王女親衛隊長としての礼儀に反した。 舌打ち。 大きく音を発したそれに、母親は何一つ動じずに応じた。 これでも諜報統括、アンハルト王家の暗部であるのだ。 無表情で女の股座をこじ開けて、熱した鉄串を突っ込むことが出来る人間であった。 「ポリドロ卿と親しいそうね」 「それが?」 何が言いたい。 いや、大体は読める。 「貴女なら、私の言いたいことが判るでしょう」 「これから先、王家全ての寵愛を受けているファウスト・フォン・ポリドロ卿の立場は法衣貴族にとって重要でしょうね。それが?」 あの淫乱の純潔にして、普段は朴訥で、だが自分の矜持に触れると烈火のように直情的であるポリドロ卿。 王家は誰もが、あの太陽に心を焼かれてしまっている。 もちろん、私もだ。 「寵愛が欲しい。ポリドロ卿による後ろ盾が欲しいのです」 「知らない。ヴェスパーマン家の地位を守りたければ、あの子を、弟を有力領主の夫にでも送れ」 私とポリドロ卿の邪魔をするのであれば、母親の顔面にナイフを突き立てる事は容易であった。 「それが難しくなりました。貴族は協力関係を維持する事によって息を長らえる。お互いの名誉と利益を守る事で立場を守るのだ。だが、その関係が連座という二文字を匂わせるようになっては」 「私から見たヴェスパーマン家はそこまで追い込まれていない。連座だと?」 「当主はマリーナです。なるほど、私はもはや当主ではないので、何があったかは知らぬし聞きません。だが、マリーナがリーゼンロッテ女王陛下に腕を折られて帰ってきた。これは傍目から見て良くないのです」 知った事ではない。 なるほど、確かに、傍目から見た今回の事件は良くない。 だが、アナスタシア第一王女殿下への王位譲渡の日は近い。 後2年かかるかどうかだ。 それぐらい、何とでもなるだろう。 ヴェスパーマン家は王家の中枢に食い込んでいる上位貴族である。 「できればマリーナに、ポリドロ卿との子が欲しい」 「お前、狂ったか?」 馬鹿を言え。 「危機は乗り越えました。マリーナは当主としてやるべきことを行いました。今回は危ういところだったのです。リーゼンロッテ女王陛下が本当にヴェスパーマン家など潰してしまえ!と思うギリギリのところで、ポリドロ卿指揮下の事件調査に参加できたのです」 「そうだね」 気の無い返事を行う。 「事件は終わりました。その場所に、私の様な年老いた人間には何が結末であったかなど、よく判りません。ですが、その事件にヴェスパーマン家は居合わせたのです。これは何よりの事でした。居合わせなければ――あの女王陛下や、傍付きの実務官僚であれば、我が家の役目を挿げ替える事すら考慮したかもしれません」 「考えすぎだと思うけどね」 ああ、老いぼれたな、コイツ。 危機に対し、怯懦になりすぎているのだ。 御家大事の馬鹿が。 なるほど、家は大事だ。 私に子が産まれれば、そりゃあ家を守って欲しいと思ってしまう。 だが、それに固執している人生など反吐が出るね。 子の側だって、家が本当に邪魔ならば捨てて自由に生きて欲しいと望んでしまう。 結局、この私、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンはこの貴族社会において異物なのだ。 もっと、開明的な、明るい時代に産まれたかったものだね。 そう思える。 「ヴェスパーマン家にとって、大事な事は何か。今回僅かに繋いだ、ポリドロ卿の縁です。ポリドロ卿は、第二王女ヴァリエール様の婚約者。やがてはアナスタシア第一王女やアスターテ公爵の子における、父親ともなるでしょう」 そこには、私の男と言う未来も加わるがね。 それは口に出さず、話を続けさせる。 「ポリドロ卿の血が欲しい。そうすれば、ヴェスパーマン家が滅びることは無い。例え将来、家がお取り潰しになる危機に遭ってでも、一度は許される事でしょう」 「知らないね」 交渉は決裂だ。 もはや、話を聞く必要はない。 私は椅子から立ち上がる。 話だけは聞いてやったのが、最後の恩情だ。 「……マリーナの子でなくてもよい。ポリドロ卿と貴女が親しいのは知っている。貴女の子を、養子としてヴェスパーマン家の未来の当主に迎えても」 「ブチ殺すぞババア! だからテメエの事が吐き気がするほど大嫌いなんだよ!! 御家大事過ぎて、盲目に成り果てた無能が!!」 怒りが喉から迸った。 ――ミスだ。 自分は失敗をした。 ドアが開き、従者が現れる。 だが、第二王女親衛隊にして、ポリドロ卿と親しい私に手を出すことはできない。 まして、私の口利きで、ポリドロ卿との縁を結んだ後であった。 許されるライン。 にやりと笑う。 この連中は、私に指一本触れることが出来ないのだ。 そうだ、この線だ。 許されるラインと許されないラインがあり、その線を超えなければ何事も、どうということはない。 そのラインを、今までの人生で私は見極めて来たのだ。 ベッドの上でビックリしているが、よく見届けるが良いよ、マリーナ。 「……貴女が、自分の子の行き先に感情的になるくらいに。その程度には、人に優しくあれば。血の涙を流しながら、人を刺すというヴェスパーマン家の理想ではなく。何の感情も無しに、何の痛苦も感じずに、下っ端の暗殺者のような、生まれつきの物狂いでなければ。貴女がヴェスパーマン家の当主だったのに」 涙を流して泣き言をほざく、目の前の生き物。 知らないね。 もはや、お前は私を産んだ母親だとすら、先ほどの発言で認めないよ。 私は今後、酒と狂乱の神たるバッカスの血迷いか何かで生まれた者であると名乗る事にするよ。 「泣き言は私が去った後でほざけ! ハッキリ言っておく。私が今後、ポリドロ卿と仲立ちをする事は無い。いくら金を貰ってもだ。マリーナが、一応はポリドロ卿と細い縁を繋いだんだ。それを大事にするんだな」 さすがに、そこから先までは手が出せない。 第二王女親衛隊長として、上級法衣貴族のヴェスパーマン家と本格的に事を構えるのは拙い。 ヴァリ様に迷惑がかかる。 それに、ポリドロ卿の代理人面をするのも、さすがに拙い。 ポリドロ卿にだけは嫌われたくない。 私は、あの男に嫌われたらと思うと、それだけで胸の何処かが悲しくなるのだ。 この感情は何なのだろう。 理解不可能であった。 なるほど、私は目の前の生き物がほざいたように、産まれついての物狂いなのだろう。 だが、物狂いとて、大事なものがある。 それはヴァリエール様であり、第二王女親衛隊であり、ポリドロ卿であった。 それだけが全て。 それだけが全てだ。 私は一度、自分のミスによって、ラインの見間違いによって、ハンナと言う親友を失ったのだ。 あの時の自分の無能を考えると、気が狂いそうになる。 もう二度と、私は超えてはいけないラインを見間違えることは無いのだ。 見届けよ、マリーナ。 私は、もうお前とすら、関わらないんだよ。 関われないんだよ。 二度と、ザビ姉と呼ばれても応じぬ。 その現実を知れ。 「ヴェスパーマン家は二度と私に関わるな!」 おそらく、目の前の生き物に限っては、もはや最後となる台詞。 それを吐き捨てた後、従者を押しのけて、立ち去る。 帰り際に、厩舎に立ち寄る。 昔可愛がってた愛馬の顔を少し撫で、お前が猫なら連れて行けたのになあ、と愚痴る。 今ではマリーナの物だ。 さすがに、もう持ち去るわけにはいかない。 越えてはいけないラインであった。 私の目的は、そこにない。 厩舎横には、鴨が数十匹飼われている肥育小屋があるのだ。 私はその鴨を数匹殺して腰にぶら下げ、ヴェスパーマン家を立ち去る事にした。 それは、私にとっては超えてよいラインである。 なるほど、私の行動がおかしいのは、第二王女親衛隊の行動からも理解する事は出来た。 だが、どうしても理解できない事がある。 身内の腹を満たすために、他人から物を奪って何が悪いのか。 それを否定する言葉だけが、どうにもザビーネ・フォン・ヴェスパーマンには理解できなかった。 第四章 完