第83話 どうか、私とワルツを 判っている。 何もかも、私が始めた物語であった。 私がファウストに事件の解決を依頼し、ファウストはそれに答えた。 心の底から騎士として、あるがままに熱狂者としての忠誠を尽くし、犯罪が起きる可能性の全てを潰して調査を行った。 その結果が、これであった。 真実は、審らかとなったのだ。 誰が真実を望んだのか。 それは、私以外の何物でもない。 「――」 顔は。 私の顔は、酷く醜く歪んでいるのだろうか。 憎悪とも怒りとも近いが、決定的に違う。 神聖グステン帝国選帝侯にして、アンハルト王国の女王ではない。 アナスタシアやヴァリエールの母親としてでも、もはやない。 公人とも私人と違う、何か得体のしれぬ化物のような物となっているのではないか。 何もかもを保てない、直隠しにしてきたリーゼンロッテの本性が現れているのではないか。 それを恐れている。 理解はしている。 理解はしているのだ。 ファウストが苦渋の顔で口にしたのは、私の望んだ真実ではなかったのだ。 私のこれからの人生は。 この虚しい現実だけを抱えて生きて行かねばなるまい。 運命というものが、あのロベルトを酷く愚弄した事実を受け止めなければならない。 「ファウストよ。私は――」 ファウストは、ずっと苦渋の表情を浮かべている。 今回の事件解決において、ファウストが、最大限の努力を私に対して行った事に対し。 私はそれに対し、何を与えた? ワイン瓶を、怒りのままに頭へと投げつけた。 私がファウストに与えたのは、ただそれだけ。 何か、それを挽回する言葉を口にしなければならなかった。 謝罪の言葉か? 褒美の言葉か? 私が、口に出来たのは。 「何を望む? ファウスト。お前の褒美を言え」 褒美の言葉であった。 謝罪などはファウストも、もはや望んではいまい。 リーゼンロッテという人物は、もはや破綻した。 いくら誤魔化そうとすれど、先ほどの狂態は覆せぬ。 このように醜い私の事など、もはや温厚なるファウストも嫌いになってしまったであろう。 もう、これで終わりにしてしまおう。 後の私の人生などは、オマケのようなものだ。 アナスタシアが王都に帰れば、王位を譲ってしまおう。 私は、引きこもる。 王宮に引きこもってしまい、後は拙い手つきで、ロベルトの遺したバラ園を維持する事としよう。 女王としての幕を閉じ、隠棲するのだ。 その決意が定まる。 微笑を浮かべながら、ファウストに視線をやる。 「……」 ただ手を、私の目の前に差し出して。 こう呟いた。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿が、騎士として求めた褒美の内容は、ただ一つ。 「どうか、私とワルツを」 ミハエルが、王宮の庭で歌っている。 だが、あの子が歌っているのは、レクイエムであった。 円舞曲などではない。 死者への鎮魂歌であった。 金を。 宝物庫から、その手で一抱き出来るだけの金銀財宝を、抱えて領地に帰ればよい。 それが何よりの、ファウストへの褒美だと考えていたが。 「お前は何を言っているのだ? 褒美はやろう。その手で一抱き出来るだけの金銀財宝を――」 「金など、いりませぬ。金銀財宝などいりませぬ。私は領民のためでもなく、領地のためでもなく、今回は私の意思でこの事件の解決に挑みました。その褒美に私が望むものはただ一つ」 手を差し出している。 その手は、本当に金などに興味はなく、握る相手を求めていた。 「どうか、私とワルツを」 朴訥に呟く。 その声に、少し笑う。 「ファウストよ。お前は踊れるのか?」 「一応は教養として、母マリアンヌから。もっとも、呼ばれもせぬパーティーでは一度も披露した事なく、この7,8年踊った記憶はありませぬ」 要するに、ファウストのダンスにおける教養は死んでいる。 社交場の基礎となるマナーを除いてのそれは、完全に錆びついているだろう。 それを褒美としたいと、私と踊る事を褒美としたいと言うのだ。 ファウストは、何を望んでいる? 手が。 手が、私の眼前に差し出されている。 私は、震えながら、その手を握る。 居室の硝子戸から光が入ってくる。 僅かに月が欠けた夜であった。 ファウストの皮膚は頑丈で、皮膚も皮下組織も厚く、特にその手は鍛錬でゴツゴツとしている。 腕には血管が浮き出ており、その管を循っている血が透いて見えるようであった。 超人としての質と、幼き頃から鍛えられた環境がそうさせた。 ロベルトを思い出す。 ファウストの筋骨隆々の身体、太い腕、ゴツゴツとした手を、この手が触れあった感触で思い出す。 ああ、ファウストはロベルトとは違う。 しかし、時折どうしようもないほどに、あの人を思い出させるのだ。 「褒美である。踊ろうか」 「はい」 力が、全身から抜けている。 ここ数日、ロクに食事も取っておらぬからだ。 酔いに任せて、身体はふらふらとしている。 なれど、この身はアンハルト王族にして、この麗しき赤毛を誇る超人一族である。 狂戦士の血を引く、戦場では物狂いのように走り回る一族の、その当主であった。 酔いによるふらつきなど、2,3度も深呼吸すれば失せた。 ――踊りを。 世の男どもからは実は酷く評判が悪いもの。 なにせ体力もなければ数も少ない男から見れば、大量の女達に弄ばれ、散々に振り回されるのが舞踏祭だ。 だからこそ、キチンと「言葉」で会話する事。 相手の体力に気を遣い「リード」する事、断られた時には素直に応じる「エチケット」が重要事項となる。 ファウストにおいては、両方必要なかったが。 ただ一つ、問題が有った。 「下手糞だな」 「でしょうね」 ファウストは酷く怪しい足つきであった。 無論、言うまでもなく私はその技量不足を補助しようとしたが。 さすがに、素人も同然の動きでは、どうにもならなかった。 武の超人たるファウストにも、出来る事と出来ない事がある。 あるはずなのだ。 ファウストは、もはや何一つ呟かない。 静かであった。 広い我が居室にて、男と女の超人二人、無言のステップが続く。 何か、音が欲しかった。 背後に聞こえるレクイエム以外の何かの音を。 「ファウストよ、このワルツには何の意味がある」 尋ねる。 耐えかねて、口に出した。 ファウストはしばらく黙り込んでいる。 足を合わせる。 「何もありません」 頬を近づけるが、視線を合わせない。 何か辛いものを噛んだような顔で、ファウストは呟いた。 「もはや、このファウストなる騎士が、何を女王陛下に言えるというのでしょう。私は、結局のところ万能には程遠い、武骨な超人にすぎませぬ」 ファウストへの返事は、無言にて行った。 ファウストは何もかもが下手糞であった。 手を握り合う強さは卵を握る様な繊細さではなく、力強く。 走る歩幅はその巨躯から酷く大きく、パートナーたるの歩幅とあっていない。 何より、テンポが悪い。 そもそも、レクイエムに合わせて踊る事が無茶であるが。 まあ、何にせよ下手糞だった。 しかし、これは褒美である。 もう止めようなどとも言えぬ。 「なるほど、お前はどこまでも武骨であるな」 結局のところ、ファウスト・フォン・ポリドロはどこまでも直情的であるのだ。 この目の前の男が、一人の騎士が考えている事は、どうにかして。 どうにかして、私を。 この目の前のリーゼンロッテなる女の心を救えないかだけを考えていた。 私が以前に口にした、心の安寧を愚直に考えていたのだ。 「――」 お前はかつて、ある9歳児の幼子のために、床に頭を擦り付けた。 ヴィレンドルフ女王の心を救おうと、自分の心の全てを明かした。 将来訪れる脅威から何もかもを守ろうと、ゲッシュを誓った。 それで、今まではどうにかなってきた。 だがなあ、今回ばかりはどうにもならぬのだよ。 下手糞なワルツ。 それを踊ったところで、私の心はもはや晴れない。 お前はその頭で、お前なりに必死に考えたとは思うのだ。 何の解決策も見当たらぬが、せめて気晴らしになれば、と。 お前は確かに事件を解決したが、私の心の安寧ばかりはどうにも得られぬだろう。 だが、それでよいではないか。 誰も彼もを救おうとして、死ぬ馬鹿な男よりも――。 「嗚呼」 そんな馬鹿な男がいた。 たった一人だけ、この世に、確かにいたのだ。 あの日、あの時、私とロベルト宛に神聖グステン帝国皇帝からの書状。 放浪民族における政策、「放浪民族を殺しても基本的には罪に問われないこと」とする案を告げられた時に。 私は、公人として、使者に対しては、こう答えた。 よろしい、と。 何もかもを是認した。 だって、仕方ないし、知った事ではないのだ。 私が守るべきものは、他にある。 最優先すべきものは、他にあるのだ。 それはアンハルトという王国であり、血を繋いできた王家であり、それを支える貴族、国、そこに住む領邦民。 全ての責任があり、国に属さぬ放浪民族などは二の次どころか、最下位ですらない。 どこで死のうが構わんが、耕す土が汚れるから、アンハルトで死んでくれるな。 そのようにすら思っていなければ、女王とは誰も認めぬ。 嘆きを、口にする。 「ロベルトは厳格なリアリストでもあった。出来る事と出来ない事を踏まえていた」 突然すぎて何の事やらファウストには判らぬだろうが、私の口は止まらぬ。 「なまじっか、大抵の事は何とか出来る能力を持っていたのが拙かった。私は一度、ロベルトに問われたのだよ。アンハルト領内の放浪民族のみ、救ってもよいかと。私は強く反対した。それだけしかできなかったのだ。だって、ロベルトならば、その範囲を救う事ぐらいは出来たのだから」 あれは愚かな夫であった、と。 もはや、そう思わなければならないのだろうか。 だって、もうアンハルト王家の王配に相応しくない。 庇護した相手に殺されてしまった愚か者である。 目を閉じ、ロベルトの顔を思い浮べる。 顔を隠そうとする。 言葉は漏れども、この疵を直隠しにする事は、もはや出来そうになかった。 公人としての、表情が繕えないのだ。 だが、ファウストと結んだ手は、どうも指が絡み合ってほぐれぬ。 ファウストが、その膂力を以って掴み、放してくれないのだ。 卵を掴むような力加減ではなく、下手糞な力加減のホールド。 手を解くのを諦め、顔を、ファウストの胸にぶつける事で隠す。 「この世の全てが、ロベルトの考える正しいか正しくないかで、思う通りになればよかったのに。優しくあればよかったのに」 そんな都合の良い世界など、この世の何処にもありはしなかった。 私は神聖グステン皇帝陛下の言う事が効果的な案だと思っていたし、そうしようと思った。 「ロベルトは酷くリアリストであった。でも、だからこの世が嫌いだなどと言うねじくれた男ではなかった。あの薔薇園を造ったように、恵まれぬ環境の中で光る人材を拾い上げようと、せめて『どうにかならぬのか』と最初に考える男であったよ。異常な程に賢く、人の心に敏感であった」 私は反対した。 「ここ数日、酒に酔い、ベッドに沈みながら、ロベルトの夢を見る。放浪民族の絶滅政策を聞き『どうにかならぬのか』と発言したロベルトに全身全霊で反対した時の夢を」 それが、却っていけなかった。 「ロベルトは人の心に敏感であり、会話の最中に気付いてしまった。別に、私ことリーゼンロッテは、公人ではない私人たる私は、放浪民族を殺したいとは思っておらぬ。むしろ憐れんですらいると」 私は何故、あのような事を許してしまったのだ。 結局は、放浪民族でもロベルトでもなく、このリーゼンロッテのせいなのだ。 結局は、弱い自分の心の隙を、ロベルトが見抜いてしまった。 「もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、ちゃんと夫に教えるべきだった。ロベルトは優しい夫で、本当に誰にも優しかった。そして、私を愛してくれていた。だから――」 頬に一筋、落涙する。 口にする。 ロベルトの前では吐いた事もない弱音を、ファウストの前で口にする。 このような言葉を、ちゃんとロベルトの前で言うべきだった。 そうだ、ロベルトは確かに、放浪民族を憐れんで救おうとしていた。 だけど、一番救おうとしたのは。 私の心であった。 「ロベルトを殺したのは私だ。ロベルトは、私がそのような事はできればしたくないという私の本音に気づいて、私がもはや触れすらできぬよう。ロベルト自らが、放浪民族に対する最終的解決という火中に手を突っ込んだのだ」 ロベルトは、確かに私を愛してくれていたのだ。 この世の闇なる部分から私を守れればと、夢想していたかのような男である。 私は、そのロベルトの夢を、この数日ずっと見ている。 「私には、ロベルト様の事が判りかねます。リーゼンロッテの事を本当に守ろうと考えるならば、何もかもをいらないと切り捨てるべきであったとすら考えます」 「であろうな。結果から見ればそうだ。お前が正しい」 ファウストによる、本音かどうかもわからぬ、その慰めのような批判。 私もそうして欲しかった。 何もかも失ってしまうぐらいならば、そうであった。 「だが、私はあの、厳格なリアリストにして優しいという、ちぐはぐなロベルトに惚れ抜いていたのだよ。お前がマルティナを救ったように、我が国の利益は考えど、それは別としてヴィレンドルフ女王カタリナの心を見事斬ったように。お前を侮蔑視するこの国を守るために、狂うた馬のように働き続けた姿が、本当によく似ていた」 ああ、そうだ。 結局、ファウストとロベルトが似ている根っこは、やはり、その容姿ではないのだ。 光り輝く、その心の生き様だ。 魂の炎だ。 「……嗚呼」 あの人が、私の夫が残したもの。 灰となっても残るもの。 それを少しずつ思い出した。 アナスタシアとヴァリエールの二人娘。 あの人が見出した優秀な部下達、バラ園、その他諸々。 それはもう、私がどうしてしまおうが残るであろう。 だが、一つだけ、私がやり残したことが。 私だけにしかどうにもできぬことがあると、やがて気づいた。 「何故、ミハエルは歌っているのだ」 やっと、思い出した。 何故、あの子の事を今の今まで忘れていたのだ。 腑抜けだ、私は。 何故、あの子はレクイエムなど歌っている。 「陛下」 「あの子は! ロベルトが心の底から哀れに思い、我が宮廷に迎え入れた子は何故レクイエムなど歌っている! 答えよファウスト!!」 ファウスト・フォン・ポリドロは本来雄弁ではない。 時折、熱狂のままに言葉を吐き出すが、落ち着いたファウストはそうではない。 私はそのファウストがやがて、ポツリポツリと話し出す言葉を聞いた。 なるほど。 馬鹿が。 あのロベルトが、息子のように大事にしていたミハエルの死など望む物か。 私は、もはや自分の今後など忘れたように、王宮の庭へと飛び出して行った。 驚愕しながら私の後に続く、ファウストを連れて。