第79話 愛する者よ、自ら復仇するな どうでもよい。 リーゼンロッテ女王陛下の言葉に対し、もはや放浪民族など仲間とは思っていない私は考えた。 どうなってしまってもかまわない。 ロベルト様の仇を討てさえすれば、その後のこの世には未練などなかった。 ロベルト様を殺した罪に対し、その罰を与えられる者達の中に、自分が混ざったとしてもどうでもよい事であった。 「……ポリドロ卿。私は、すぐに再調査を開始すべきだと思います。大々的に再調査を喧伝し、仰った通り、ロベルト様が殺される前の3日間における陳情者を一人一人詰問しましょう」 「……」 ポリドロ卿は、何も語られない。 酷く苦渋に満ちた顔をしている。 何を躊躇う必要があるのだ。 何度でも言う。 もう、放浪民族がどうなろうが知った事ではない。 「ミハエル殿、私には決断できぬ。今回の事件は、犯人を殺して解決というわけにはいかぬのだ」 「この事件における回答を導き出したのは貴方です。ポリドロ卿」 「その回答が正しかった時が問題となる。放浪民族がどうなるか理解して発言しているのか?」 放浪民族は皆殺しにされるであろう。 元々、嫌われているのだ。 我々は、ロベルト様の御慈悲で定住の地と職を与えられた被差別民にすぎない。 亡くなられた、いや、殺されてしまった。 その後、いくらロベルト様が生前為した仕事であるとの大義名分があるとはいえ、放浪民族は差別感情に苦慮したと聞いている。 実に愚かで、馬鹿馬鹿しいことだ。 自分で自分の首を絞めて死のうとしている者達。 「貴族でも、平民でも、王配ロベルト様の暗殺犯となれば一族皆殺しにされるでしょう。連帯責任です。そして、それは放浪民族も同様であります」 「それでは済まぬと言っているのだ!」 リーゼンロッテ女王陛下の叫び。 一番復讐したいのは貴女であるはずだ。 私はロベルト様に全てを与えられ、救われたが。 ロベルト様がこの世で一番愛しておられたのは、貴女であるのだ。 ならば、一番復讐の権利を持つのは貴女であるはずだ。 何を躊躇う必要がある。 「もし、全ての事が明らかになれば。私は殺さぬわけにはいかぬ。アンハルト王都に居住する放浪民族の全てを、殺さぬわけにはいかぬのだ。ロベルトは、多くの人々に好かれていた。神聖グステン帝国の皇帝、教皇とも文通を重ねていた。ロベルト暗殺の犯人について、私は報告せねばならぬ。皇帝も、教皇もこう仰るであろう。そうか、ロベルトの慈悲は全て何もかも無意味であったか、と。もはや放浪民族を殺しても罪に問われないとグステン帝国とその加盟国全てに公布することになるであろう。全ての放浪民族が、虐殺されることになるのだ」 そうなるだろう。 もともと悪評持ちの放浪民族が、差し伸ばされた手を拒むどころか、手を差し伸べてくれた恩人を殺したのだ。 もはや、誰も人としては扱わぬだろう。 それがどうした! 女王陛下の目を見据える。 女王陛下の瞳の色は、すでに私人としての優しいそれではなく、冷酷な選帝侯としてのそれに切り替わっていた。 「ミハエルよ。事は慎重に運ばねばならぬのだ。もはや容易な事では片付かなかった。すでに状況は感情では片付かず、真実を隠す事も考えなければならない状況下に置かれている」 「女王陛下は、犯人が憎くないのですか」 「愛する者よ、自ら復仇するな。ただ神の怒りに任せよ」 女王陛下は、酷く冷え切った声で呟いた。 新約聖書 ロマ書 十二章 十九節。 私は、他の放浪民族と違い上っ面の信仰ではなく、ちゃんと聖書も読んでいる。 正直、神など信じなくてもよいが、教養になるから読んでおきなさいと。 ロベルト様の御言葉に素直に従って、読むようになった。 その一節を、酷く冷え切った声で呟いたのだ。 だが、女王陛下の真意はその言葉そのままではあらず。 「正直言えば聖書の言葉など、どうでもよい。放浪民族がどうなろうが知った事ではない」 もっと根深い感情にある。 ロベルト様への、深い愛情が根本にある。 「だが、それではロベルトのやった事は何になるのだ? 我が夫が、その信頼を力として、私に対して、皇帝に対して、教皇に対して、貴族に対して、平民のギルド代表に対して、全てのありとあらゆる者を説得し、文書を交わし、嘆願し、時には頭を下げ、努力してきた。その全ては何のためであるのか。私はロベルトがどのように努力してきたかを知っているのだ。ミハエルよ、お前がロベルトに会う前からずっとだ。私はロベルトが為した事の全てを知っているのだ」 「リーゼンロッテ女王陛下」 「許されないのだ。ロベルトの慈愛により為してきた事の全てが、何もかも無駄であった。そう呼ばれるのは、そんな惨い事が許されて良い訳が無い。そんな事が真実であって良いわけが……」 女王陛下の感情は、すでに抑えきれないでいた。 鉄面皮な表情とは裏腹に、口端の震えは抑えきれないでいる。 公人としての立場と私人としての感情が、狂ったように跳ねまわっているであろう。 「もうよい、真実を知りたいなどと望んだ私が愚かであった。もう、これほど苦しい思いをするのならば、何も知りたくはない。私は心の安寧を、今回の再調査に求めていたのだ。残酷な真実ならば知りたくはない。知って何になるというのだ。ロベルトが生きて帰ってくるとでもいうのか? 屍山血河を築いた先に何があるのだ?」 「……」 「調査は打ち切る。もう何も聞きたくはない。ポリドロ卿、ヴェスパーマン卿、済まなかった。もはや、私の心はこれ以上の重しに耐えられぬのだ」 対面に座るポリドロ卿は、何も語られない。 女王陛下の言葉を、苦渋に満ちた表情でずっと聞いている。 横に座るヴェスパーマン卿においても、同様であった。 調査の依頼者である女王陛下が、もう嫌だと悲鳴を挙げていた。 ならば、これ以上は王家に忠誠を誓う騎士としてはできないであろう。 だが、そんな事、ロベルト様の侍童にすぎぬ私の知った事ではない。 私が忠誠を捧げるのは、リーゼンロッテ女王陛下ではない。 ロベルト様ただ一人であった。 それは、リーゼンロッテ女王陛下が自ら命じた事であった。 「ならば、私が直接問い詰めます。当時の事は覚えております。ロベルト様が殺される前の3日間において、確かに放浪民族の代表者が陳情に訪れておりました。歌劇場の座長であります。私は同族であることから、その立会人となる事を避けておりましたが、当時の騎士や侍童、ああ、思い出しました。女王陛下お気に入りの実務官僚と、その夫となった侍童でありました。二人とも優秀でおられますので、当時の事は良く覚えているでしょう」 尋ねれば、すぐに判る事。 何もかもを表に曝け出してやる。 どれほどの醜い事を、我が同族がしでかしたのか。 その裁きがどういう物であるのか。 そこに屍山血河という結末があっても、私は知った事ではない。 「ミハエルよ。人が死ぬのだ。多くの人が死ぬ。死んでしまう。これが単純に憎悪を向けられる相手であるならばよかった。己の罪を隠匿し、ロベルトを殺した事を何とも思っておらぬ愚か者であるならば、一族もろともに凄惨な結末を迎えさせる事で済んだ。私は復讐を為す事で、心の安寧を得ることが出来た。だが、真実は残酷だ。誰も救われない。この事件が解決することで、誰が救われると言うのだ」 「犯人が罪の意識にずっと苦しんでいるとでも? 殺意の有無など関係ありませぬ。罪には厳罰を以て処するのが人としての生き方であります。私は復讐します。かつて、私が10歳の頃に、ロベルト様に与えられたナイフで自分の母親を刺殺したように」 私はロベルト様に人としての生を与えられた。 私はかつて人畜であり、放浪者である放浪民族の一人として、その苦しい生活の路銀を稼ぐための去勢鶏であり。 一生、この歌の裏に憎悪を込めて、ただ吐き出すだけの歌うたいにすぎなかった。 生殖機能を奪われ、男とも女とも呼べぬ歌声を発するだけの存在。 今は違う。 今は違うのだ。 私のこの世における生は、ロベルト様という存在によって肯定されたのだ。 「私はこの時だけのために、今まで価値もない命を繋いできたのです」 私が今歌っているのは放浪民の音楽ではなくアリア(独唱曲)である。 復讐の歌である。 この世全てに対してではなく、ロベルト様を殺した犯人への。 私に人としての生、その全てを与えてくれた恩人を殺した愚か者へ、この5年間で歌ってきた殺意の全ては向けられている。 復讐の炎は地獄のように、我が心に燃えさかっていた。 「この殺意が誰に止められるものか。復讐するは我にあり、私はロベルト様にこれをもって報いるのです」 「ロベルトがそのような事、望んでいると思うのか?」 「望まぬでしょうね」 先ほど、殺してもロベルト様は帰ってこないと女王陛下は仰られた。 では、このまま見逃せとでも言うつもりか。 それだけは、有り得ない。 ロベルト様の命を奪った事への報復は、凄惨に行われるべきであった。 「ロベルト様は本当に優しい御方でありました。その自身の死すら、殺意が無いと理解できたなら、事故であったのだとお許しになるかもしれません。だからこそ許せません」 許しなどは有り得ぬ。 それだけは有り得ぬのだ。 「あの優しい御方の命を奪った悪人を殺すのです。それだけが正義なのです。私にはもはや、それ以外の結末など有り得ぬのです」 それさえ、やり切れば。 私の命の灯を燃やし続けていた、最後の願いさえかなえることが出来たならば。 地獄に落ちても、ずっと笑っていられるであろう。 苦渋の表情。 私を見ながら、ずっと、その表情を続けていたポリドロ卿が口を開く。 「提案を」 この事件の犯人を見つけ出したポリドロ卿。 その言葉を遮る事は、出来なかった。 「まだ、犯人が決まったわけではありません。ですが、この事件は単純には片付かないと考えます。調査は慎重に行う必要があります」 「ファウスト! もう良いと言ったはずだ!!」 「リーゼンロッテ。貴女の心を理解できるなどとは、私には言えません。どれほど辛いか、私ごときには想像がつきません。ですが、ここで真実を知らねば。この先貴女はずっと心残りを抱えたまま、生涯を終えることになります」 苦渋に満ちた顔に反して、酷く優しい声で呟いた。 ポリドロ卿の声は労わりに満ちており、女王陛下も言葉に詰まる。 私も、ヴェスパーマン卿も、誰もその声には逆らえない。 「事件は調査します。真実を導き出します。ですが、慎重に行いましょう。犯人が誰か悟られぬよう。大々的になど行わず、ひっそりと。誰の目にもつかぬように」 「どうするのです?」 具体的にはどうするつもりなのか。 それを問う。 ポリドロ卿は答えた。 「再調査の担当責任者である私が動くと、事が大きくなってしまう。当時、放浪民の座長が陳情した際に立ち会ったという実務官僚殿、そしてその夫である侍童。その二人だけはバラ園に呼びましょう。女王陛下が当時の想い出話をしたい、と望んだ。そのように取り計らってください。もちろん誰にも漏らさぬよう口止めが――可能でしょうか?」 「あの二人なら、誰にも漏らしません」 信頼のおける、有能な二人であった。 あの二人なら、何があっても秘密を墓まで持って行くであろう。 ポリドロ卿は、一体。 「まだ、真実がそうと決まったわけではありません。ですが、犯人が仮定の人物と判明した場合」 この事件の結末をどこに持って行くつもりなのか。 それを、耳を澄まして、ただ聞く。 「ひっそりと、死んでもらいましょう。ロベルト様を殺した、その毒によって」 犯人だけを殺す。 復讐を、ひっそりと行う。 ロベルト様のための、レクイエムを歌うのだ。 それはそれでよかった。 「私に不服はありません」 妥協点であった。 何もかも世界の全てが破滅してしまえばよい、そういう気持ちに包まれていたが。 女王陛下の御心は、それに耐えられそうにない。 ロベルト様の為した事が、無為となる事には耐えられそうになかった。 ゆえに、妥協する。 「ですが、復讐するのは私にさせてください。宜しいでしょうか、リーゼンロッテ女王陛下」 そして、許可を得る。 ロベルト様が一番愛していた人から、復讐の許可を。 「私は、もはや関わらぬ。何も聞きたくないのだ。続けると言うのであれば……結末だけを報告せよ。ミハエルに、ファウストよ」 女王陛下は、ポツリと呟き、その許可を出した。 何もかもを私とポリドロ卿に委ねた。 ポリドロ卿が、また口を開く。 「先ほども言ったが、再調査の担当責任者である私が動くと事が大きくなる。座長に詰問するのはミハエル殿に委ねる事になるであろう。まあ、まだ何もかも――」 決まったわけではないがね。 ポリドロ卿はガーデンテーブルで瞑目し、静かに呟き捨てた。 そうだ、何もまだ判明したわけではない。 全ては仮定にすぎない。 まだ憶測の段階にすぎなかったが――誰もが、なんとなく理解していた。 この世の真実ほど残酷で無慈悲なものは無いと。 今はただ、その事実に辿り着く前の、最後に与えられた静けさに過ぎないのだ。