第78話 プロバビリティの犯罪 プロバビリティの犯罪という言葉がある。 江戸川乱歩であったか? 近代推理小説の開祖たる、エドガー・アラン・ポーに由来するペンネームを持つ推理小説家。 彼の書いた小説に初めて触れたのは、確か「赤い部屋」であったと思う。 酷く、今回の件に「そぐう」のだ。 「こうすれば相手を殺しうるかも知れない。或いは殺し得ないかも知れない。それはその時の運命に任せる」。 確実性の低い代わりに、酷く迂遠な殺人方法を取る事で、自分が犯した罪が発覚する可能性を低下させる。 未必の故意。 ――いいや、恐らく、この場合は。 自分の武偏重な、それでも他人様と同じ色をしている。 小さな灰色の脳細胞を必死に回転させながら、思考を深める。 「ファウスト、先ほどバラの棘に毒を仕込む程度の隙間は無かったか、と呟いたが」 「口にした通りです。ロベルト様を明確に殺す意図があれば、そのような手段を取らないのは判っておりますが」 そもそも、殺意が本当にあったのか? このしばらくの間、マリーナ嬢、リーゼンロッテからロベルト様の事を聞いた。 どうも、要領を得ない。 最初は恨まれない人間などこの世にはいないと考えていた。 怨恨による殺人であろうと考えていた。 だが、ロベルト様は異質である。 酷く人格者であったが、同様に自分の行動できる権限を正確に見定めていたようなのだ。 ロベルト様を殺せば、その犯人を弁護する人間など誰もおらず、族滅に一路だ。 犯人がどのような人物であれど、そのようなリスクを負ってロベルト様の暗殺を企むものか? 真面目に生きてた方がマシ、そんな馬鹿げた事を企む余地もない線を縋りつく嘆願者達との間に引いていたのが、ロベルト様であると思うのだ。 要するに。 「最初から、ロベルト様を殺す意図など無かった。それについて考えても良いかと」 「どうしたら、そういう発想に至るのですか?」 円形のガーデンテーブル。 この5年の間、捜査に当たったヴェスパーマン家の当主、マリーナ嬢の声が飛ぶ。 「君らが本当に真面目に調査をしていたというのならば、やはり犯人が見つからないというのはおかしい」 「真面目に調査していましたよ!」 「それは信じている。だからこそだ。だからこそ、思考のベクトルを曲げるべきなのだ」 この事件を、あくまで毒殺とするならば。 それは、常人が想像も付かないような、そもそも埒外の手段で。 外傷を考えるのならば。 「バラの棘で擦れた傷のようなものしかなかった。ならば、バラの棘に刺されて死んだ。その毒に触って死んだ。そう考えても良いと思うのです」 「ポリドロ卿の仰りたいことは、このミハエルにも理解できました。ですが、バラの生育は病気や虫との闘いです。何かの疾病にかかる事など珍しくも――」 「だからこそ、ロベルト様は毒に冒されたバラに触れたのではないか? 原因を確かめようとして」 そうして死んだ。 犯人は最初からロベルト様を殺す気など、欠片も無かったのではないだろうか? せいぜい、バラを一輪枯死させようと思った程度。 鶴の羽1枚でも毟り取ってやったとでも思えば、幾らかは気が晴れよう? 頭の中に、そんな言葉がよぎる。 何度も繰り返す。 要するに、だ。 「犯人はロベルト様を殺そうなどとは、間違っても考えてはいなかった。何か、発作的な怒り。理性では理解できれども、どうにもやり切れず。ロベルト様の大事な物。このローズガーデンのバラ一輪を枯らす事で、小さな復讐をしたかったのではないか。その可能性が考えられるのです」 「そんな馬鹿げた話があるか! このローズガーデンに何輪のバラがあると考えているのだ!!」 リーゼンロッテが立ち上がり、周囲を眺める。 ガーデンテーブルから、バラを眺める。 一輪とて枯れたものは無かった。 庭師たるミハエル殿が良く手入れをしており、病気になったそれは剪定、或いは何らかの処置をしているのであろう。 つまり、ロベルト様も同様にしたはずなのだ。 大事なバラが枯れていれば、必ず触り原因を確かめようとする。 私の視線に気づいたのか、リーゼンロッテが小さく、それでいて威厳を保った声を吐く。 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマン」 「は――はい!」 マリーナ嬢の、胃か心臓が潰れていそうなほどに引き攣った声。 馬車に踏みつぶされた雨上がりのカエルが、死に際に鳴きそうな声であった。 「お前は、調べたはずだ。ヴェスパーマン家は調べたはずだ。何処まで当時の事を覚えている?」 「当時の調査統括! ヴェスパーマン家の当主としてお答えします!! ロベルト様へ陳情に上がった当時の人間は、ロベルト様が亡くなられたその日、それは勿論の事!! 一週間前の陳情者に至るまで、背後関係を調べ上げ――」 「バラ自体は調べたのか!?」 リーゼンロッテが立ち上がったまま、ガーデンテーブル越しにマリーナ嬢の襟首を掴み上げる。 マリーナ嬢が、必死に叫んだ。 「ロベルト様が亡くなられた翌日には、ロベルト様に関わった全ての者が涙するように、涙雨が降り注いでおりました! 全てのバラを調べるなどという現場検証を行う事は不可能でした! 最初の方針では、警備が厳重に行われている王宮が現場、ロベルト様に出会った人も限られており、犯人はその利害関係を調査すれば見つかるものと――」 「言い訳にすぎん! お前も、私もだ!!」 リーゼンロッテが悲痛な顔で訴える。 自分も原因であると、気付いてしまった。 今回の原因に思い至らなかった事に、気付いてしまったのだ。 とはいえ、このような事に思い至るかというと。 「しかし、確かに毒は現場に持ち込まれたのです。ロベルト様に御会いするまえに、所持品の検査は?」 「ナイフや剣などの刃物は基本的には陳情者自らが、王宮を警護する騎士に差し出しておりました。もちろん、身体検査は行っておりますが……」 「毒は?」 小さく、呟く。 毒は持ち込めたのか、どうか。 それが問題である。 「小さな。本当に小さな小指ほどの薬瓶であれば、可能であったとは思います。ですが、ロベルト様が陳情者に御会いする際には常に騎士、侍童が付いておりました。ロベルト様が、ガーデンテーブルにおいて召し上がる飲み物に毒を混入する事などは不可能です。そして身体検査は間違いなく行われていたのです。そのリスクを考えて、毒を持ち込む等とは――」 ミハエルが、震え声で呟く。 ミハエル自身も理解していようが、ならばバラに毒を振りまく隙間は? それを問う。 「再度だ。再度問う。バラの棘に毒を仕込む程度の隙間は? それが肝心なのだ、ミハエル殿」 「ロベルト様は陳情者の、分もわきまえぬ陳情に激怒される事はままありました。殴り倒した際は、その理由について語った後、陳情者を落ち着かせるために、しばらくローズガーデンに放置されることがありました」 「つまり?」 結論は、既に出たが。 答えを求める。 「ポリドロ卿の仰るように、バラの棘に毒を仕込む程度の隙間はありました。確かに、あったのです」 ミハエルの答え。 隙間は確かにあった。 だが、これはあくまでファウスト・フォン・ポリドロの仮定にすぎぬ。 真実であるかというと、それには程遠い。 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマン」 名を呼ぶ。 当時の諜報統括たるヴェスパーマン家の当主に対し、問う。 「一週間前の陳情者に至るまで、背後関係を調べ上げたとうかがったが。さて、雨が降ったのはロベルト様が亡くなった翌日と?」 「亡くなられる、二日前に一度降りました。それは確実であります!!」 必死な表情で、マリーナ嬢が声をあげる。 理解した。 やるべきことは、ただ一つ。 先ほども言ったが、これが本当に真実であるのか? それは私すら確信できない。 ではあるが。 「再調査しよう。3日間の陳情者を一人一人詰問するだけであれば、一週間もかかるまいよ。ロベルト様の調査と言えば、相手も断れまい」 調査する、その行為自体には、何の問題も無いのだ。 やるだけやってみる、その価値はある。 それに、冷静に考えれば全員をあたる必要までは無い。 薔薇に毒を仕込む程度の隙間があった人物、王宮の騎士、ロベルト様付きの侍童の目を逃れる事の出来た者を当たればよい。 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマン。当時、ロベルト様への陳情にあたって傍付きにいた騎士、侍童の名は判るか?」 「調査記録は、王宮に持ち込んでおります! すぐにでも!!」 ならばよい。 そう時間はかかるまい。 「可能性が高い順、そこから詰問していこう。ただ、やはり雑音が混じる」 「雑音ですか?」 ミハエル殿が、甘い声で囁く。 雑音である。 やや洒落た言い方をすれば、ノイズとでも言おうか。 嵐のように回転していた自分の脳味噌に対し、あえて否定的な意見は述べなかったのだが。 「一度口にはしたが。ロベルト様暗殺の意思が無ければ、毒を持ち込む理由がよく判らんのだ」 ガーデンテーブルを、自分の剣ダコでゴツゴツの指先で、コツコツと叩く。 私の予想が全て正しかったとしても――こればかりは、意味が判らん。 身体検査で見つかれば、相応の対応を取られるであろう。 死罪も有り得るのだが。 そのリスクを背負ってまで、そんなバカげた行為をするものか? こればかりは、理由が判らんのだ。 「……」 ミハエル殿が、何故か黙り込む。 うん? 疑問に思い、ミハエル殿の顔を見つめるが。 ミハエル殿はしばし沈黙を置いた後に、酷く甘い。 官能的でありながら、それでいて震えた声で呟いた。 「習慣であったとすれば、どうでしょう」 「習慣?」 どこの馬鹿に、小指ほどの薬瓶に詰めた毒薬を持ち歩く習慣なんてあるんだよ。 生まれついての暗殺者か? それですら、暗殺時以外にそんな不用意な事はしまい。 「そんな習慣を持つ人間など、いくら青い血。権謀術数をめぐらす貴族にもおるまい。平民はもっと無いだろう。そもそも、毒を入手する手段が何処にもない」 「いるのです」 何処に? そう問いかけて、ミハエル殿の顔が真っ青になっている事に気づく。 何に気づいた、この青年。 「その習慣を持つ者がいるのです。装飾品や貴金属、財産の全てを品に変え、それを身に着けて旅する者達が。そうする事しか出来ない者達が。窃盗や人殺しすら、『我ら』が生きる糧となるため、手段として取り得ると考える者達が。人食いの噂や、誘拐犯などという何の根拠もない侮蔑を、その生き方への偏見ゆえに受ける者達が」 言いたいことは判った。 それは誰にも考え付かなかった。 捜査線上には、絶対に上らなかったであろう。 ハッキリ言って、意味が分からないからだ。 ロベルト様を殺したところで苦境に陥るだけで、その行為に何の見返りも得られない。 彼の庇護を受けていた、被差別民という存在。 「その財産の全てを身に着ける習慣から、ロベルト様から安住の地を与えられてなお、その習慣を捨てられなかった存在。強敵を仕留める財産、最後の武器を肌身から捨てられなかったという可能性があるのです」 ミハエル殿は、懺悔をするように呟く。 決して口にしたくはないであろう。 本人とて、信じたくはないであろう。 意味が判らない。 ミハエル殿にとっては全く意味が判らない行為であるし、そして信じたくもないであろう。 だが、ミハエル殿にとって、気付いてしまった以上は口にしないなど許されぬ。 ロベルト様の侍童として、それは許されぬのだ。 「放浪民族です。我々には、その長い長い放浪の歴史の最中に入手した毒を、財産として、最後の武器として所有している可能性があるのです」 「まだ決まったわけではない!!」 リーゼンロッテが、ミハエル殿の甘い掠れ声を?き消すように叫んだ。 「そんなバカな事があって良いものか! それだけは、それだけは! あってはならんのだ!!」 悲鳴。 金切り声を挙げ、立ち上がったままのリーゼンロッテが震える。 顔は激怒に染まるのではなく、蒼白である。 唇を噛みしめていた。 「ロベルトが私に懇願したのだ。放浪民族に住む場所と、職を与えようと。もちろん、ロベルトは盲目ではない。深い慈愛の気持ちだけではなく、アンハルト王国における流浪の異民族たる放浪民族は数世紀に渡る問題であった。定住者たる我々と問題を起こし、その解決や責任を取る事なく、後は知った事ではないと逃げ回る。いっそ一人残らず滅ぼそうと、今までアンハルト王家の祖先は何度も考えた」 前世の知識。 今世とは違うが、放浪民族の迫害の歴史。 ナチスによるホロコーストであり、ニュルンベルク法であり、虐殺の被害者。 同時に貧困ゆえの麻薬密売者、窃盗犯、強盗犯、犯罪の増加要因としての側面が思い浮かぶ。 その問題の明確な解決など、私が前世において死ぬ前ですら見えなかった。 どうしようもなく嫌なものが脳内に巡り、思わず苦渋の顔になる。 「だが、ロベルトは一つの解決案を示した。周囲に反対されながら、このアンハルト女王たる私の説得に対しても討論を重ね、やっとの事で放浪民族を雇用する道筋を立てたのだ。今、彼女達はこの王都で明確な問題は起こしておらぬ」 それは聞いた。 それはすでに聞いたのだ。 綺麗さっぱり滅ぼすか、それとも全てを与えて王国民として吸収するか。 リーゼンロッテにとっては最後まで悩み抜いた挙句、ロベルト様の進言を聞き入れた分水嶺であっただろう。 「ロベルトが、その庇護した相手に殺されたなどと」 リーゼンロッテが、その小さな口で、小さく言葉を紡ぐ。 「それだけは、あってはならぬのだ。理解できるだろう、ファウスト」 「――」 私は、リーゼンロッテの言葉に対し、何の返事もする事は出来ない。 まだ、何も決まったわけではない。 証拠は無いし、ハッキリ言えば全てが憶測にすぎない。 だが、容疑者の候補から放浪民族を取り除く事も、出来はしなかった。