貞操逆転世界の童貞辺境領主騎士【書籍発売中】 道造 第二王女ヴァリエール初陣編 第1話 プロローグ チンコ痛いねん。 中世――ではない。 中世を模した、何か。 奇跡も魔法もあるんだよ。 現に奇跡というか、私、地球からこの異世界に転生してるし。 そんな世界に転生したファウスト・フォン・ポリドロは考えていた。 その男の今の思考はこうであった。 ――チンコ痛いねん。 いっぱいいっぱいであった。 彼は金属製の貞操帯を身に着けていた。 決して誰かに強いられてではない。 自分の意志で着けたのだ。 そうでなければ――やってられない。 やっていけないのだ。 「ファウスト?」 隣席に座るヴァリエールが訝し気な声を挙げる。 シルクのドレスで身を包んだ様相であった。 コイツはまあいい。 第二王女ヴァリエールはまあいい。 「どうやら相談役であるポリドロ卿には不満があるようだが? 遠慮なく申せ。発言を許す」 この国の女王リーゼンロッテ様。 お前なんやねん。 なんでシルクのうっすいヴェール一枚で裸体やねん。 まだ歳も確か32だろう。 そりゃチンコも勃起しようとするわ。 金属製の貞操帯も乗り越えて。 結論。 チンコ痛いねん。 この世界は狂っている。 改めて私――こと、ファウスト・フォン・ポリドロは考えていた。 貞操価値観逆転世界。 男が10人に1人しか産まれない。 そんな世界。 それゆえ、女性が表舞台に立ち、男性が日陰に追いやられる。 いや、強固に守られる。 よくチンコ奴隷として戦場で捕らえられたりもするが。 そんな世界。 嗚呼、そんな頭の悪い世界だ。この異世界は。 「ヴァリエール第二王女の初陣であるというのに、親衛隊と私の手札のみだけというのは?」 「先にも申したでしょう。山賊相手にそれほど武力は必要ない」 私はこの世界で異常者である。 女性の裸体モドキ相手に勃起する異常者である。 どうせ転生するなら常識もこの世界に合わせて欲しかったものだが。 神はそれを私に与えて下さらなかったようだ。 出会ってもいない神に愚痴っても仕方ないが。 「第一王女殿下、アナスタシア様はかの敵国――ヴィレンドルフ相手に、初陣にて侵攻してきた蛮族1000人を相手どり、彼等を血の海に沈め、逆侵攻を行ったというのに」 チンコ痛いねん。 凄いチンコ痛いねん。 ほぼ裸体の女王様から視線を逸らし、第一王女アナスタシアに眼を向ける。 アナスタシアはじっと私の目を見つめ返してきた。 ……第一王女は怖い。 私はそう思いながら、仕方なくほぼ裸体の女王へと視線を戻す。 女王は身体を僅かに揺するとともに、その巨乳を揺らした。 エロイ。 「第二王女殿下、ヴァリエール様の初陣は山賊退治で御座いますか」 顔に朱色が差す。 もはや冷静ではいられない。 チンコ痛いねん。 ほぼ裸同然の女王を言い負かすのが。 それが唯一、この場を乗り越えられる手だ。 感情で痛みを誤魔化すのだ。 「……状況が違い過ぎる。山賊を打ち負かすのも重要な務めだ」 「敵国、ヴィレンドルフに攻め込めばよい」 「冗談をぬかすな。ファウスト・フォン・ポリドロ。あの蛮族どもを相手にまた大戦を巻き起こすつもりか」 チンコ痛いねん。 テーブルを強く殴打する。 その音は大きく響き渡り、全員が黙る。 女王、リーゼンロッテも。 第一王女、アナスタシアも。 そして私が相談役を務める、第二王女ヴァリエールもだ。 「私の力不足とでも?」 顔の朱色がいよいよ強くなっていく。 チンコ痛いねん。 充血した血の気が、顔に集まっていく。 これはチンコが痛いわけではない。 怒りの余りに顔が充血しているのだ。 そう言い訳するために。 「……そうではない、ファウスト・フォン・ポリドロ」 その効果は成し得たようだ。 私を落ち着かせるように、リーゼンロッテ女王は声を静かに、王宮の一室に響かせる。 「お前の力を侮っているわけではない。『憤怒の騎士』ファウストよ。貴殿がヴィレンドルフに攻め入れられた緊急時の際、我がアナスタシアの下に付き、獲った蛮族騎士の首は十を超え、騎士団長に一騎打ちの末に――その首を狩り取った。貴殿の力を決して侮っているわけではない」 チンコ痛いねん。 思わず絶叫を発したいほどに。 思わず立ち上がりたいほどに。 だが空気は読む。 もう限界点に達しつつあるが。 チンコが痛いんや。 「だから、落ち着け」 犯すぞお前。 お前のせいでチンコ痛いんやぞ。 なんでヴェール一つで裸体やねん。痴女か。 そう叫びたくなるが。 「……了解しました」 俺は女王から目を逸らす。 チンコの痛みを和らげるために。 そうして――退室を申し出ることにしよう。 「失礼。私の言いたいことは終わりました。これ以上は無用の長物でしょう。退室してもよろしいでしょうか」 女王様に許可を申し出る。 「許す。退室せよ」 「有難うございます」 私のチンコは守られた。 これ以上勃起し続けていたら壊死していたのではないかという私のチンコは守られた。 ――それでよい。 私は王宮の間を立ち去った。 ※ 私は間違えた。 「第二王女殿下、ヴァリエール様の初陣は山賊退治で御座いますか」 ファウスト・フォン・ポリドロは勿体なかった。 第二王女――スペアであるヴァリエールに付けるには。 ファウスト・フォン・ポリドロは勿体なかった。 「……状況が違い過ぎる。山賊を打ち負かすのも重要な務めだ」 私は言い訳を吐く。 いや、山賊討伐の軍を起こすのは間違いではない。 間違いではないが―― 「敵国、ヴィレンドルフに攻め込めばよい」 「冗談をぬかすな。ファウスト・フォン・ポリドロ。あの蛮族ども相手にまた大戦を巻き起こすつもりか」 『憤怒の騎士』ファウスト相手には侮辱以外の何物でもないだろう。 すでに敵国――蛮族たるヴィレンドルフ相手に獲った蛮族騎士の首は十を超え、騎士団長を一騎打ちの末に――その首を狩り取った。 そのファウスト相手に山賊相手の小競り合いを要請するのは、侮辱以外の何物でもなかった。 ファウストが相談役を務める、第二王女ヴァリエールの初陣には、山賊風情が相応の相手である。 第二王女ヴァリエールは私にとって、第一王女アナスタシアのスペアでしかない。どうでもいい。 そうファウストは受け取ったのであろう。 拙い。 これは拙い。 ファウストの力量とその相談役としての立場、第二王女ヴァリエールへの卑下。 ファウストが顔色を朱に染め、怒りに身を染めるのも判る。 それが演技かどうかまでは判断がつかないが。 そう、私には判断がつかないのだ。 感情のままに荒れ狂う男性騎士。 戦場でもそうであるがゆえ、『憤怒の騎士』と吟遊詩人に謳われる男。 辺境であるポリドロ領の女領主騎士がもうけた一粒種。 ファウスト・フォン・ポリドロはもはや王家にとっては厄介種の一つであった。 優秀ではある。 現に実績も、先に言ったようにこなしている。 だからこそ厄介であった。 アナスタシアの下に付けるべきであった。 既に、アナスタシアの力量は蛮族ヴィレンドルフ相手に示し、アナスタシアが私の後を継ぐことは確定である。 今更、第二王女――ヴァリエールの派閥が力を強めてもらうのは、国力の無駄遣いだ。 我が国唯一の男性領主騎士……大人しく嫁でも探していれば良いものを。 ファウスト・フォン・ポリドロは既に第二王女の相談役として付けてしまった。 我が娘、ヴァリエールの望むがままに。 それが失敗であった。 ファウストは――アナスタシアの指揮下に与えるべきであった。 そう後悔する。 「私の力不足とでも?」 力不足ではない。 貴殿の力量は欠片も疑っていない、ファウスト。 だから困る。 何度もいうが、お前はアナスタシアの指揮下に与えるべきであった。 何よりも、アナスタシアがそれを望んでいる。 そう、今も渾身の力で睨みつけている。 アナスタシアが、私の瞳を。 もっとも、顔全体を朱色に染め、憤怒の瞳で私を睨みつけているお前は気づかないだろうがな。 ファウスト・フォン・ポリドロよ。 私はお前が厭わしい。 ヴィレンドルフ相手の闘いで死んでくれればよかったものを。 いや。 半心では、勿体ないという気持ちもあるがな。 そのお前の美丈夫さ故に。 今は亡くなった――我が夫の代わりとしたい。 その気持ちもある。 そうすれば、我が娘アナスタシアに我が首を跳ね飛ばされると判っているがな。 嗚呼。 何ともしがたい。 男の趣味は母娘で似通るものか。 それともアナスタシアは、ファウストに父性を求めているかもしれん。 ああ、ファウストよ。 「失礼。私の言いたいことは終わりました。これ以上は無用の長物でしょう。退室してもよろしいでしょうか」 お前からの助けの言葉。 それを、頂戴しよう。 「許す。退室せよ」 私は心のままにそれを命じた。 そうしなければ、心が狂ってしまう。 ファウストは私を魅了する。 あまりにも今は亡き我が夫に、心のそれが似ている。 だから、時々欲しくなってしまう。 だが、今はそれを忘れよう。 アナスタシアがファウストに望む、愛欲のそれ。 その欲望。 ――私はそれを是認しよう。 「ヴァリエール」 「はい、お母様」 我が第二子、スペアである第二王女ヴァリエールは答える。 「お前が今回山賊退治に失敗した場合、ファウストはお前の相談役から解任する。そしてアナスタシアの下に付ける。良いな」 「はい?」 呆気にとられた顔で、ヴァリエールが口を丸くする。 それでよい。 ファウストをヴァリエールから――スペアから奪い取る。 それでよい。 尤も、ファウストが失敗などするわけあるまいが。 だが、この言葉でアナスタシアの私への信頼は幾ばくか回復しよう。 それでよい。 「お待ちください! ファウストは、私の相談役!!」 「あらあら、第二王女ともあろうものが、山賊退治ごときに怯えるとはね、我が妹、ヴァリエール」 アナスタシアが煽る。 それでよい。 現実は何も変わらないが。 ファウストを引き連れておいて、どんな盆暗でも山賊退治の失敗など有り得ない。 ヴァリエールの相談役はファウスト・フォン・ポリドロのまま。 アナスタシアの相談役は諸侯。 公爵家のまま。 それでよい。 それで国は回る。 もし、可能であれば、ファウストは我が亡き夫の代わりとして迎えたいが。 それは実務官僚が許さないし、何よりアナスタシアとヴァリエールが許さないであろう。 それでいい。 国は回る。 口を開く。 「ヴァリエール、貴女は山賊退治のそれもマトモに成し得ないのか。それを問うているのです」 「私は山賊退治が初陣なんぞ、そもそもお断りしたいところなのですが、それすら成し得ないと思っているのですか?」 「いえ、ファウストを引き連れておいてそれは有り得ませんね。勝利は確実でしょう。ですが、初陣もまだのままでは諸侯はそれすらも疑いますよ?」 ヴァリエールは沈黙する。 事実、生じた山賊に領民が困っているのは紛れもない事実なのだ。 ヴァリエールには選択肢が無い。 口をひきつらせて、応諾を返した。 「お母様、ヴァリエールは――初陣として、山賊退治の任務を全う致します」 「それでよい」 やっと解決の筋道が決定した。 リーゼンロッテ女王はほっと溜息をつき。 アナスタシア第一王女はちっ、と大きな舌打ちを付いた。 第2話 第二王女相談役 そもそもの失敗は、二年前に第二王女ヴァリエールの相談役になったことなのだ。 私は過去を想う。 ――貴方、私の相談役になりなさい。 母が亡くなり、代替わりの挨拶に出向いた王都にて。 女王リーゼンロッテへの謁見、その順番待ちを三か月食らっている中で。 ――待ち止めを食らうのは、辺境騎士故仕方ない。 そう納得と諦めの中、都合した資金に頭を悩ませつつも王都の貧乏宿で日々を過ごしている中で。 私は、第二王女ヴァリエールとその親衛隊に出会った。 「貴方、私の相談役になりなさい」 「はあ」 ポリポリと頭を掻きながら、その当時12歳。 わざわざ貧乏街の安宿まで親衛隊を引き連れて出向いてきた、ヴァリエール・フォン・アンハルト第二王女殿下の命令を聞く。 「何よ、その態度は。私の相談役にしてあげるっていうのよ」 「何よ、と言われましてもねえ」 こちとら20歳である。 母が亡くなるまで、その代替わりの座を譲らなかったため、引継ぎが遅れたのだ。 第二王女からの命令。 立場的に断りにくいと知っていても、言い返したくはなる。 「それで、私のメリットは何かあるんですかねえ」 「……」 黙り込むヴァリエール第二王女。 先ほど断りにくい、とは言ったが。 断れないわけではない。 我がポリドロ領はあくまでも虫の一匹も残らず我が領地の物である。 選帝侯――ここは地球ではないので神聖ローマ帝国ではないが。 帝国の君主に対する選挙権を有する、有力な領主であるリーゼンロッテ女王。 その領地に守られるような辺境にポツンとあるポリドロ領。 私ことポリドロ卿は、契約を為す事でポリドロ領の安全の保障をされている。 すなわち、我が領土を保護するかわりにリーゼンロッテ女王に忠誠を誓い、軍役の義務を果たす事だ。 ――私、ポリドロ卿は今年も軍役を果たした。 取るに足らない20匹ばかりの山賊を嬲り殺しにする事であったがな。 ああ、勿体ない。 そう思いながら、何人の美女の首を、この祖先から伝わる魔法のグレートソードで跳ね飛ばした事か。 いや、そんな事よりも―― 「今週中にはお母様への謁見を済ませてあげるわ」 「その程度じゃ足りません。ついでに言えば――」 私の力量も足りません。 そう付け加える。 「何故私を相談役などに? 僅か領民300にも満たない辺境の地の領主騎士ですよ、私は」 「……」 姫君は答えない。 代わりに、私の腰にぶら下がっているグレートソードを指さした。 「貴方、その剣で何人の首を刎ねた?」 「さあ、100から先は数えていません」 病気の母の代わりに軍役を務めるようになり、もう5年が経つ。 全てくだらない山賊退治ではあったが、中には騎士崩れの強い奴もいた。 だが、私の力には敵わん。 自画自賛するようだが、これでも剣の腕は王都でも上位だろう。 ――推測になってしまうのは、王都の剣術大会には男性に参加資格が無い為であるが。 どこまでも貞操逆転世界観が、私の身には付きまとう。 「使える手駒に、先に唾を付けておく。それって悪い事じゃないでしょう?」 「それは光栄です。ですが、私にメリットが無い」 「今後の軍役の際、私の――第二王女の歳費から、僅かばかりながら軍資金を用意しましょう」 ――金か。 悪くはない提案だ。 兵士、つまるところ領民を動かすにも、金は付きまとう。 領民を動かせば動かしただけ税収は減るのだ。 山賊退治の間、領内の働き手が少なくなる意味でも、動員者には少しくらいは小遣い銭を与えてやらねばならぬ意味でも。 「ついでに、その軍役には選択権も。戦場先ぐらいは選ばせてあげられるわ」 「要するに、今後は山賊団のケツを追い回さず、やる気の無い敵国との睨み合いで軍役を全うしたと言ってのけられると」 悪くない話だ。 尤も、緊急時には逆に第二王女相談役の騎士として最前線に駆り出されるのだろうが。 それは仕方ない。 緊急の際は、どうせ最前線に駆り出される。 取るに足らない、辺境領主なんぞ立場は弱いしな。 ふむ。 そう悪くない話ではある。 正直、王宮になんぞ興味は無い。 我が領地ポリドロさえ安泰であればそれでよい。 この眼前の第二王女ヴァリエールは、英明と謳われる第一王女アナスタシアに小競り合いをすることすらできまい。 一度会ったが、あれは文字通り格が違う生き物だ。 確かまだ14だったか。 王族としてのオーラを放ちながら、強力な親衛隊を引き連れて市街を歩くアナスタシア姫。 あれで14歳。 とても信じられん。 フリューテッドアーマーを着こなし、そのハルバードを用いて、すでに罪人の斬首も行っていると聞いた。 さすがに初陣はまだらしいが。 ――話がそれた。 今は眼前の第二王女ヴァリエールの提案を考慮する。 外観はただの生意気そうなメスガキだ。 12歳にしては頭は回る方だが。 うん。 この女が、王宮内の権力闘争に私を巻き込む事はあるまい。 何せ、その力量が無い。 私は応諾する。 「良いでしょう。ヴァリエール姫様の相談役となりましょう」 「助かるわ。それでは」 ヴァリエール姫が手を差し出す。 私は膝をつき、その手にキスをした。 これは彼女との契約だ。 ※ 「完全な失敗だったんだよなあ」 一年目からして良くなかった。 軍役が、山賊退治から敵国ヴィレンドルフ相手の睨み合いに切り替わり。 僅か20名ばかりの領民を率いて、砦を守っていればそれでよかった。 だが、その年に戦争が起きた。 ここ20年も戦が無かったというのに、突如ヴィレンドルフが攻め込んで来たのだ。 当然、私は戦に巻き込まれることになる。 アナスタシア第一王女とその親衛隊と、その相談役たるアスターテ公爵の軍を合わせ僅か550の兵で、1000に近いヴィレンドルフの蛮族ども相手に戦が始まった。 私もアナスタシア第一王女の指揮下に加わり――そして最前線送りとなった。 必死であった。 童貞のまま死にたくなかった。 神は何故こんな頭のおかしい世界に私を送り込んだのか。 憎くて憎くて仕方なかった。 そして――勃起した。 だが、金属製の貞操帯に、勃起は差し止められる。 「チンコが痛いんや」 生存本能であった。 死にとうない。 童貞のまま死にとうない。 私は前世でも童貞だったんだぞ。 それだけである。 童貞のまま、死にとうないんや。 私は祖先から伝わる魔法のグレートソードを引き抜き、愛馬のフリューゲルの腹を蹴る。 「我が名はファウスト・フォン・ポリドロ。我こそはと思う者はかかってこい!! 闘ってやる!!」 一人目の首を取るのは容易であった。 まさか戦場に男が――男娼以外がいるとは思いもよらなかったらしい。 私の声に動揺したその一瞬のすきに、首を跳ね飛ばす。 またフリューゲルの腹を蹴る。 私は騎士数十名に守られた敵騎士団長目掛けて、人馬一体となって駆け出す。 「勃起!!」 私は卑猥な言葉を口走った。 戦場での錯乱である。 そして今の現状である。 チンコが痛いんや。 二人目、三人目を、言葉と同時に切り捨てる。 「ヴィレンドルフ騎士団長、私と一騎打ちせよ!!」 相手は応じず、四人目が槍を打ち込んで来た。 グレートソードで槍の穂先を切り落とし、四人目の胴を薙ぎ払う。 チェインメイルなんぞ、魔法が付加されたグレートソード相手にはバターも同然よ。 嗚呼―― チンコが痛い。 その思考とは別に、迫ってくる五人の騎士。 一対一では相手をし切れないと考えたのか、それとも私をチンコ奴隷として捕縛するためか。 ――おそらく後者だな。 私はチンコ奴隷になる気はない。 ハーレムは歓迎だが。 衛生観念もロクにない連中に犯されて、梅毒にかかって鼻がもげて死ぬのは御免だ。 私はグレートソードを握っていない左手を振り、合図を出した。 ――クロスボウ。 クロスボウから放たれた弓矢が、五人の騎士に突き刺さる。 我が領地はお高いクロスボウを五本も所有しているのだ。 教会は使うの止めろと一々五月蠅いが、知った事か。 私の勝手だ。 命以上に大事な物などない。 そして私のチンコも大事である。 勃起。 ああ、チンコが痛い。 そうして私はチンコを痛めながらも、相手の騎士団長の元まで辿り着く。 私はグレートソードを掲げ、大きく叫んだ。 「ヴィレンドルフ騎士団長、一騎打ちを申し込む!!」 「私にはレッケンベルという名があるぞ! 男勇者殿!!」 ヴィレンドルフの騎士団長は大きく叫んで答えた。 これは上手くいった。 その確信を持ち、私はグレートソードを静かに斜めに下ろす。 「ではレッケンベル殿! いざ勝負!!」 「いいだろう。だが一つ約束しろ」 「何か!」 レッケンベルは一度大きく息を吸い込み、そして叫んだ。 「私が勝利した場合、お前は私の第二夫人になる!! どうだ!!」 ヴィレンドルフ――蛮族特有の価値観。 強き男にはそれだけの価値が有る。 これが我が国――アンハルト王国ならむしろ嫌われるのだが。 基本、我が国は虫唾が走るような、なよなよした男が好まれる。 ヴィレンドルフに産まれりゃよかった。 「承知した。私に勝利したならば夫にでも何にでもなってやろう!!」 いっそ負けようかなあ。 扱い悪くないだろうし。 相手兜被ってないからわかるけど、ちょっと年増といえ美人さんだし。 鎧着てるから分かんないけど、おっぱい大きそうだし。 チンコ痛い。 「でも、負けるわけにはいかないんだよなあ」 小さく呟く。 責任がある。 私は地球から転生した異世界人ではあるが、この世界に産んでくれた我が母の一粒種として。 我が領地ポリドロの領主として。 ポリドロ卿としての責任があるのだ。 僅か300人の領民といえど、路頭に迷わせるわけにはいかない。 だから――死んでもらうぞレッケンベル。 私は斜めに構えたグレートソードをそのままに、レッケンベル騎士団長に向けて突撃した。 勝敗の結果は、言うまでも無かろう。 私は今現在も生きているのだから。 ※ 「――失敗だった」 ヴァリエール第二王女の相談役になったのは明らかに失敗であった。 私はただ呟く。 王宮の一室――先ほどまでリーゼンロッテ女王達と話し合っていた場所を後にし。 王宮内の庭で、相談の結果が――いや、先は見えている。 結局は、今年の軍役として山賊退治に駆り出される事になるだろう。 私はよく整えられた庭先の、花の匂いを僅かに嗅ぎながら。 さっさと自家発電。 要するに、さっきまで脳裏に焼き付いたリーゼンロッテ女王のヴェール一つ越しの裸体をオカズに。 チンコを、我が息子を慰めるべく、宿に帰る事ばかりを考えていたのだが。 庭のガーデンテーブルでお茶を飲んでいたメイド――ではない。 侍女ならぬ侍童というべきか、そんな、なよなよした男の侮辱の言葉が聞こえた。 「アレがポリドロ卿? 筋骨隆々のおぞましい姿」 「野蛮な。先代のポリドロ卿は、子を孕めぬからヴィレンドルフから捨て子を拾ってきたのではないか?」 どうやら、そういうわけにもいかないようだ。 侮辱されてしまった。 私の事を。 つまり、我がポリドロ領全ての事を。 我が母を、祖先を、領民を、土地を、全てを馬鹿にした侮辱をした。 私のコメカミに、石金を打ち付けたような音が走る。 未だにチンコの痛みの余韻が残るまま、不機嫌な私を相手にした。 そんな愚かな――虫唾のはしる愚かな男達の、鼻の軟骨をへし折るべく、廊下から庭へと私は足を踏み下ろした。 第3話 アスターテ公爵 我が母は変人であった。 この貞操観念が逆転した世界において、私に剣や槍を主とした武術を仕込んだ。 領地の統治と経営を叩きこまれるのは良い。 それは領主として理解せねばならんのは判る。 将来、嫁を――私の代わりにポリドロ卿を名乗る事になる貴族を娶り、支える事になるからだ。 だが、武術や戦術なんぞ何のために覚えるのだ。 15歳の頃、村から出て男性騎士なんぞ一人しかいない、男は戦場になど普通は出ないと知ったときは疑問に思ったものだ。 私はというと、何分物心ついた少年の頃には前世の記憶を思い出していたものだから――貴族の嫡男が、そういった技能を覚えるのは普通だと思っていたから、母にその異常さを訴えることはなかった。 ポリドロ領の男女比、男が30人に女が270人という、その異常さ。 一夫多妻制が当然と言う状況に「ここ絶対頭悪い世界や」という偏見――では全くなかった感想を抱きながらも。 「今、貴殿ら何と言った? 私までなら良い。だが私の母まで侮辱したな」 ガーデンテーブルに、ズカズカと歩み寄る。 二人の侍童が、まさかこちらが寄ってくるとは思いもよらなかったかのように、カップの茶をこぼす。 まるで股を小便で濡らしたかのような格好で、立ち上がり、言い訳をする。 「べ、別に何も言っておりません」 繰り返すが、母は変人であった。 父が若くして肺病で亡くなり、貴族の親戚連中から、領内の村長から、その周囲の全てから新しい男を貰うように言われながらも、それを全て拒否した。 産まなかった長女の代わりとばかりに、私に武術と戦術を仕込んだ。 だが、今思えば母は母なりに必死だったのであろう。 母自身も身体が弱く、二度目を産むのは困難だと思ったのか。 それとも、亡き父の事をそれほどまでに愛していたのか。 ベッドに伏せがちな身体を無理に起こし、私に領主としての全てを教え、それゆえに私を産んで20年。 35歳の若さで病で死んだ。 今なら理解できる。 「我が母の事を侮辱したか?」 母は、自分の知る限り全ての事を私に残そうとしたのだ。 自分は長生きすることができないと知っていた。 だからこそ、短い間――子供である私が大人になるその間に、全てを残そうとした。 私は母の事を、ただの変人だと思っていた。 15歳からは病で完全に床に伏すようになった母の代わりに、軍役を務めるようになったが。 その程度の事が親孝行になったか判らない。 いや、親孝行などできていないだろう。 母が死んでから、やっと気づいたのだ。 例え――私が地球から転生した異世界人でも。 私にとっては。 「我が母を、祖先を、領民を、土地を、ポリドロの全てを侮辱したか?」 物心ついた5歳の頃から、この世界で生きるための全てを――自分の命を削りながら与えてくれた。 「殺すぞお前等」 かけがえのない母親であった。 私への侮辱そのものは別に良い。 この王国で、私のように筋骨隆々の武骨な男など、好まれない事は知っている。 だが、母への侮辱は許されない。 手近な男の軟弱な襟首を掴み、それを持ち上げて宙に浮かせる。 「わ、私達は第一王女相談役アスターテ公爵の縁者だぞ! それでも」 そうかそうか。 だから、第二王女相談役である私に陰口を叩いたのか。 自分の背景があるから、自分には危害が加えられないとでも思っていたのか。 ――とんだ勘違い野郎だ。 「だからどうした」 私は男の鼻の穴に人差し指を突っ込んだ。 「や、やめてくれ。謝罪す――」 もう遅い。 私は人差し指をそのまま奥まで進ませ、指の根本近くまで鼻の穴に潜り込ませ。 人格を崩壊させるような悲鳴――いや、咆哮が男の声から漏れ出すのを聞いた。 「なんだ、なよなよした華奢ではない、野太い声も出せるんじゃないか」 私は邪悪に笑う。 鼻から突きさした指先は、男の喉まで届いていた。 真っ赤に血塗られた人差し指を、男の鼻の穴から抜く。 男はどしゃりと音を立てて地面に倒れ、口からは真っ赤な泡のようなものを吐いている。 まず一人目。 私はハンカチで人差し指の血を拭いながら、もう一人の男に視線をやる。 「逃げるなよ」 もっとも、逃げられそうにも無いが。 もう一人の男は尻もちをつき、小便と糞を漏らし始めている。 腰が抜けたのだろう。 「全く、どうしようもない男どもだな」 殺しはしない。 だが、タダでは済まさん。 感情的には、母の事だけであるが。 外面的には――貴族の面子にも関わる事だ。 領地の全ての名誉を私が、ファウスト・フォン・ポリドロが背負っているのだ。 侮辱されてそのままに済ますことなどできない。 例えそれが―― 「何をしている!!」 領地規模も兵力も文字通り桁違いの、公爵様相手だとしてもだ。 私は何百回と戦場で聞いた、聞き慣れた声に振り返る。 「これはこれはアスターテ公爵。ご機嫌如何?」 「今最悪の気分だ」 アスターテ公爵。 アナスタシア第一王女の相談役だ。 領民の数は数万を超え、緊急時でも動かせる常備兵の数は500に近い。 常備兵だけでも我が領民の数を超えている相手だ。 だが―― 「単刀直入に聞こう、ポリドロ卿。その男達が――私が王宮に侍童として勤めさせている二人が何かしたか?」 「我が母を、祖先を、領民を、土地を、ポリドロの全てを侮辱した。私の事を、先代が子を孕めぬからヴィレンドルフから捨て子を拾ってきたのだろうとぬかした」 「――」 口元をひきつらせるアスターテ公爵。 アスターテ公爵は位置していた廊下から庭に下り、小便を垂らしながら腰を抜かしている男に話しかける。 「今のポリドロ卿の発言は本当か?」 「い、いえ、私どもは――」 「本当なのだな」 アスターテ公爵の顔つきが、まさに鬼のような顔つきに代わる。 鬼神のアスターテ。 そう吟遊詩人に謳われるゆえんだ。 「この大馬鹿者が!!」 アスターテ公爵はそのブーツで、腰を抜かした男の鼻面に蹴りを入れた。 鼻の軟骨がへし折れる音。 それを小気味よく聞きながら、私はアスターテ公爵の横顔をじっと見つめる。 相変わらず、鬼のような顔つきでも美人だな。 それにおっぱいも大きい。もう凄く大きい。 赤毛の長髪を後ろに流した、超美人さんである。 眺めているだけで、さすがに勃起はしないが。 アスターテ公爵の反応に気が抜け、私はそんな卑猥な事を考える。 「失礼した、ポリドロ卿。この制裁を以って詫びとしたい」 「いえ、アスターテ公爵。我々は蛮族――ヴィレンドルフ相手に最前線で闘った仲ではないですか。国力差はありますがね」 「国力差など――私と君は戦友ではないか。気にすることなどない」 そう、私とアスターテ公爵の仲は決して悪くない。 一年前のヴィレンドルフ侵攻時に、アスターテ公の常備兵500と私の領民20。 それにアナスタシア第一王女の親衛隊30、計550名。 緊急時故、それっぽっちしか用意できなかった軍で、ともにヴィレンドルフの侵攻を防いだのだ。 それもアスターテ公爵は劣勢の自軍を励ますため、常に私と共に最前線に立っていた。 これで仲が悪くなるはずがない。 第一王女の相談役、第二王女の相談役、その立場の軋轢はあるが――第一王女派が圧倒的に強すぎて気にするほどではない。 問題は―― 「それにしても相変わらずいい尻をしているな、ポリドロ卿」 セクハラしてくることだ。 このアスターテ公爵殿は。 「御冗談を。私のような武骨で筋骨隆々の男、好まれない事は知っています」 「問題ない!! 私は尻派だ!!」 自由人でもある。 公爵という何をやっても大体は許される立場がそうさせるのであろうか。 「おおポリドロ卿よ、いつになったらその身体を許してくれるのだ。互いに血も汗も戦場で絡み合わせた仲ではないか」 私だってできるものなら、そのおっぱいを自由にしたいわい。 その胸でチンコ挟んで欲しいわい。 「アスターテ公爵、何度も言うように、私の貞操は将来の嫁に捧げられるものであります」 一生、一人だけを相手にするなんて、実は嫌だけど。 ハーレムを築きたい。 領民の16歳~32歳の美女を集めてハーレムを築くのが私の夢だった。 だが、少なくともこの国では童貞であることは神聖視されている。 私が淫売であると噂されれば、ポリドロ卿――ひいては領地の名声が落ちる。 結婚の――嫁を娶る条件も悪くなるだろう。 だからできないのだ。 心で血涙を流しながら、私はアスターテ公爵の目をじっと見つめる。 「私の婿に来ればいい」 「また御冗談を。立場が――爵位の差があり過ぎます。釣り合いませんよ。それに領地の事もあります」 「愛人では駄目か。何、お前の子供は何人も産んで、一人にはちゃんとポリドロ領を継がせる」 それは魅力的な条件だ。 だがその場合、アスターテ公爵の愛人という立場になる。 ……いや、それも悪くはないんだがなあ。 「ちなみに私はまだ処女だぞ。18歳だからな。20歳になればさすがに子を産まねばならんから男を捕まえる必要があるが、どうせなら見込んだ男が良い」 「知りませんよ」 私はヤラせてくれるなら、もう処女でも非処女でも何でもいいのだ。 気になるのは性病の有無だけだ。 アカン。 こんな超美人とセクハラ会話を続けていると、また勃起してチンコが痛くなりそうだ。 というか、すでにちょい勃起している。 売春宿があればなあ、とふと思うが。 この世界には男娼しかいない。 終わっている。 何故ここまで私を世界は苛めるのか。 それが理解できない。 アスターテ公爵は私の目をじっと見据えて呟く。 「もう単刀直入に言おう。私は遠回りが嫌いだ。一発ヤラせてくれ。金は払う」 「……」 金なんぞこっちが払ってお願いしたいわい。 そのおっぱいを自由にしたいわい。 だけどアカンのや。 立場に差がありすぎるのだ。 セックスしたい。 私の息子は何故ここまで可哀想に生まれたのだ。 前世でも童貞、今世でも童貞。 悲惨すぎる。 私は神を憎む。 日曜には教会に行って、聖歌隊のバックコーラスを背に私はいつも神を呪っている。 もう……ゴールしたい。性的な意味で。 このままアスターテ公爵の誘いに乗ってしまおうか。 いや――その望みはどうやら叶わないようだ。 「何を話している! アスターテ!!」 アナスタシア第一王女の御出ましだ。 私はちょい勃起していた息子を必死に宥めながら、いつになったら宿に帰れるのか。 いつになったら自家発電ができるのか。 そう思いながら、第一王女相手に膝を崩し、礼を整えながらも大きくため息を吐いた。 第4話 アナスタシア第一王女 父は太陽のような人であった。 父の武骨な、その手でゴリゴリと頭を撫でられるのが何より好きだった。 私こと、アナスタシアの父はアスターテ公爵家の出身であった。 それだけ聞けば由緒ある家柄だと誰もが思うであろう。 そして華奢な姿の、身長の低い美男子を頭に思い浮かべるだろう。 だが私の父は、不細工ではないが、このアンハルト王国の女たちの好みの対象であるかというと。 些か、外れたものであった。 まず背が高い。 そして筋骨隆々の身体をしていた。 屋敷から出してもらえぬ事から、趣味を園芸――公爵家の屋敷の広い庭で、農業をしていたからだろうか。 何、男の貴族の趣味などそれぞれだ。 農業が決して悪いわけではない。 悪いわけではないのだが。 父の手は鍬ダコの豆でいっぱいで、それが私の頭皮に触れてゴリゴリとしていた。 母上の夫の候補は何十人とおり、その何人をも番として選べたと聞く。 何故、母上は――リーゼンロッテ王女は、釣り書きに引っかかっただけの、公爵家がついでに提示しただけの父一人のみを夫としたのであろうか。 疑問である。 事実、当時は法衣貴族共が騒いだと聞いたことがある。 まあ、それはいい。 今は眼前で起きている事に関心を寄せる必要がある。 廊下に立ったまま、庭で立ち止まっているファウストとアスターテに声を掛ける。 「アスターテ、今何をポリドロ卿と話していた」 「愛人契約についてですよ」 「愛人契約?」 私は怒りを表情に浮かべる。 私の顔を見つめていたポリドロ卿が――ファウストが静かに視線をずらした。 お前、そんなに私の顔が怖いか。 私はファウストを宥める様に、目を閉じる。 昔の―― 昔の私は、父の武骨なその手で頭を撫でられるのが好きであった。 父は私を娘として、確かに愛してくれていた。 法衣貴族共がいかに騒ごうが、母上の見る目は正しかったと言えるだろう。 有能であった。 気は短いが、根は優しい。 そして公私を交えない、そんな人であった。 公爵家の伝手を使っての、公爵家のいかなる要求をも、父は拒んだ。 父を通しての木っ端役人たちの母上への嘆願をも、それがあまりに窮に瀕しているなら自ら助けてやったが――母上への直の嘆願だけは、拒んだ。 父は母上や私を、家族を守ろうとしていた。 家庭人であった。 晴れの日には必ず鍬を振り。 雨の日には本を読み。 時折、私の遊びに付き合いながら、頭をゴリゴリと撫でてくれる、豆だらけである父の手が大好きだった。 農業を好む父の手からは、確かに太陽の香りがした。 母上も、父の事を同様に愛していたのであろう。 妹も、父の事を同様に愛していたのであろう。 だからこそ、私はそれが許せなかった。 父の愛を独占したかった。 あの感情はまるで世に言う、初恋であったかのようにも思える。 思考を断ち切る。 再び、現実へと戻る。 私は再び口を開く。 「王家は公爵家とポリドロ卿が繋がるなど許す気はない」 「それは何故?」 おどけた顔で、アスターテが応じる。 忌々しい顔。 「第一王女相談役と第二王女相談役が結ばれるなど笑い話にもならん」 「格好だけでしょう。第二王女派閥なんて有ってなきようなもの」 「その恰好を気にしているのだ。まして、そのセリフを第二王女相談役のポリドロ卿の前で発言するその神経が疑わしい。お前にポリドロ卿は合わん」 それだけ言って、口を閉じる。 また思考は過去に舞い戻る。 父は――ある日突然死んだ。 毒殺であった。 母上が怒り狂い、その卓越した手練手管を駆使して犯人を探し出そうとしても――その判明は為されなかった。 父上は決して憎まれるような人ではなかったのに。 今でも母上は、犯人を捜しているが。 きっと、見つからないだろう。 見つかれば、この世の地獄を見せてやるだろうが。 きっと、見つからないのだろう。 私の愛は突然失われた。 母上は、私の事を愛してくれてはいても、公人としての視線は第一後継者へ向けるそれであった。 私の才能への愛。 家庭人としての愛などなかった。 いつしか、14歳の身で市街を練り歩きながらもその威を示す、ただの第一王女に私は成り下がっていた。 母上も、親衛隊も、相談役であるアスターテ公爵も同じ眼をしていた。 私の事を、第一王女アナスタシアとして見ていた。 ただ一人――父上だけが、私をただの娘のアナスタシアとして見ていてくれた。 それに気づいた14歳の時の喪失感は如何程だったのか――その衝撃の余り、今では覚えていない。 覚えていたくない。 何かの影に、幽霊に怯える様に――身を屈めてベッドで泣いたことなど、覚えていたくはない。 そんな私に、とうとう初陣の日が訪れた。 ヴィレンドルフの侵攻であった。 そこで出会った。 思考は、ファウストと初めて会った日に飛ぶ。 「ファウスト・フォン・ポリドロ。第二王女相談役であります。以後、お見知りおきを」 その男は、父以上に頑健な身体をしていた。 背は2mに近く、筋骨隆々でグレートソードを片手で振り回し。 剣ダコや槍ダコで両手の五本の指が埋め尽くされた。 そんな男であった。 そんな男が――よりにもよって妹、ヴァリエールの相談役として私の指揮下で平伏していた。 そうか、妹よ。 お前は我が父の代わりを見つけていたのだな。 笑えない。 全く笑えない。 笑えないぞヴァリエール。 私の、私達の父上はそう簡単に代わりが見つかるようなものだったか? 違うだろう、ヴァリエール。 「今は緊急時です。第一王女アナスタシア様の指揮下に従います。ご下知を!!」 私はまず――あの時は怒りも入り混じっていたのだと確かに言える。 全く愚かな判断であったが。 「アスターテ公とともに最前線に行け」 『試し』をした。 いっそ死んでくれと願った。 「……承知しました」 ファウストは最前線に赴き、功を成した。 蛮族の中でも中核である、レッケンベル騎士団長を一騎打ちの末に討ち取ったのだ。 私は、静かに――父を亡くして数年ぶりに微笑んだ。 嗚呼――お前は父上の代わりに成り得るのか。 そんな錯覚がふと浮かんだ。 ゆえに、私はヴィレンドルフ相手の戦場で、ファウストによく語り掛けるようになった。 「何故目を逸らす」 「……アナスタシア第一王女相手に視線を合わせるなど、恐れ多いことで」 「目を逸らす方が失礼だとは思わんのか」 ファウストはポリポリと頬を掻きながら、困ったような表情で呟く。 「まあ……ええ、そうですね、はい」 素直であった。 父に似ていた。 戦場では『憤怒の騎士』として感情のままに暴れまわるポリドロ卿の素顔は――ファウストは。 平時では、まるで家庭人のそれであった。 自分の頭を抑えながら、申し訳なさそうに頭を垂れる。 母上に勝手な事をして怒られた時のような、父の姿がそこにあった。 違う。 コイツは父上ではない。 違うのだ。 これは錯覚に過ぎない。 そうは思っても、どうしても父上の姿とファウストが重なり合う。 いつしか、ファウストの姿を見れば、それを目で追うようになった。 自分の領民に優しい男であった。 同胞の騎士達に公平な男であった。 アスターテ公爵に我が戦友と公言させる男であった。 お前は――我が父の代わりと成り得るのか? 余りにもその心の成り立ちが父と似ている。 そう思った。 そうして理解した。 私が父に抱いたあの感情は初恋では無かった。 今のこれが、自然とこの男を目で追ってしまう感情が、初恋であるのだと。 そう理解してしまった。 理解してしまったからには欲しくなる。 そう、欲しくなる。 私の思考は再び現実に戻り、口を開く。 「なあ、ポリドロ卿」 「はい」 ファウストは膝を折り、私に礼を尽くしたまま口を開く。 その顔は私の視線と決して重ならない。 それでも構わない。 「第二王女相談役など辞めてしまえ。私の下に付け」 発言は私の心の内から、自然と為された。 私のモノに成れ。 それだけだ。 「……お断りします」 対して、ファウストの躊躇は断りの言葉まで三秒であった。 おそらくその躊躇も、私に配慮してわざとのものであろう。 私は問う。 「何故断る? アスターテの言葉ではないが、第二王女派閥などあってなきがごとし。未来などないのだぞ」 「それは――」 ファウストは躊躇いながらも。 今度は視線を私に真っ直ぐに合わせ。 こう呟いた。 「私にも情というものがありますので。私はヴァリエール第二王女相談役であります」 満点回答であった。 股が自然と愛液で濡れそうになる。 嗚呼、我が父と同じ心の持ち主ならそう答えるであろうさ。 ファウストよ。 ファウスト・フォン・ポリドロよ。 お前こそ我が夫に相応しい。 もはやお前以外では、私は嫌なのだ。 何としてでも。 どんな手段を使ってでも、お前を夫――もしくは愛人としてみせる。 何、お前を愛人とし、夫をとらなければいいのだ。 そうすればお前は私だけのものとなる。 アスターテにも邪魔などさせやしない。 ましてや妹、ヴァリエールになどやりはしない。 我が母上、リーゼンロッテにも。 決めた。 お前は私だけのものだ。 「そうか、それなら『今は』いい。ヴァリエールに尽くし、初陣である山賊退治を成せ」 「承知しました」 膝を折り、平伏したままファウストが答える。 今はそんな関係だ。 だが、いずれ私の視線をじっと見据え、愛を囁かせて見せよう。 この私、アナスタシアの愛人として囲ってみせよう。 嗚呼、ファウストよ。 私はお前が愛おしい。 どこまでも。 どこまでもだ。 私はアスターテの名を呼び、私の後に付いてくるように命じ、その場を立ち去った。 ※ 私こと、ファウスト・フォン・ポリドロは思う。 なんでこんな怖い顔してるんだろうアナスタシア姫。 視線合わせたくない。 鬼神のアスターテ公でもこんな怖くないぞ。 なんというか、オーラがおかしい。 まさに選帝侯の第一後継者というべきか、そのオーラを解き放っている。 無茶苦茶美少女だけど、目つきがどうにも爬虫類系なんだよなあ。 凡才といってもいい主人、我がヴァリエール第二王女とは大違いだ。 私はそんな事を考えながら、アナスタシア姫の言葉を聞く。 「王家は公爵家とポリドロ卿が繋がるなど許す気はない」 「それは何故?」 アスターテ公爵がからかうように答える。 まあ、大概予想はつくんだが。 「第一王女相談役と第二王女相談役が結ばれるなど笑い話にもならん」 「格好だけでしょう。第二王女派閥なんて有ってなきようなもの」 「その恰好を気にしているのだ。まして、そのセリフを第二王女相談役のポリドロ卿の前で発言するその神経が疑わしい。お前にポリドロ卿は合わん」 そりゃそうである。 アスターテ公爵は表を取り繕わなさすぎである。 自由人過ぎる。 第一、彼女は尻派だ。おっぱい大きいのに。 私の乳派とは敵対関係にある。 だから法衣貴族共から嫌われるのだ。 法衣貴族はきっと乳派である。 その嫌っている法衣貴族――官僚貴族達は、アスターテ公爵の夫に自分の息子を捻じ込もうと必死だが。 相手は公爵家だからね。 権力に眼がくらむのも仕方ないね。 私は再び、はあ、と溜息をつきながら、嵐が過ぎ去るのを待つ。 そんな事を考えていると、何やらアナスタシア姫は思考しているのか。 少し時間を置いた後、口を開いた。 「なあ、ポリドロ卿」 「はい」 私は膝を地につけ、礼を整えたまま返事をする。 「第二王女相談役など辞めてしまえ。私の下に付け」 嫌だよ馬鹿野郎。 お前怖いもん。 アスターテ公爵が、なんで平然とお前の下にいるのか、よくわからんくらいにお前怖いもん。 私は恐怖で舌が攣りそうになりながらも、必死で答える。 「……お断りします」 アナスタシア姫は再度問う。 「何故断る? アスターテの言葉ではないが、第二王女派閥などあってなきがごとし。未来などないのだぞ」 「それは――」 何か理由を探せ、私。 さすがに王宮内の権力闘争に興味ねーよ馬鹿と本音を吐くのは拙い。 何か、何か理由を。 ――そうだ。 「私にも情というものがありますので。私はヴァリエール第二王女相談役であります」 満点回答である。 完璧だ。 二の句も告げないであろう。 私はアナスタシア姫の視線をじっと見つめる。 アナスタシア姫はその視線を睨み返し、ニイ、と蛇のように微笑んだ。 なんでそんな風に笑うの? 怖すぎてちょっと勃起したよ? 生存本能であった。 チンコの先がちょっと金属製の貞操帯に当たりながらも、私はその微笑みに苦笑いで返す。 他にとりえる手段があるなら教えてくれ。 「そうか、それなら『今は』いい。ヴァリエールに尽くし、初陣である山賊退治を成せ」 「承知しました」 『今は』って事は、将来的にはアカンって事やないかい。 完全に目を付けられている。 何が拙かった? ヴィレンドルフ相手に功を成した事か? 先ほどの王室会議で、ヴァリエール第二王女の初陣に反対した事か? それともアスターテ公爵殿と仲良くしてた事か? 理由がわからん。 理由が判らんから怖いのだ。 何で私をそっとしておいてくれない。 何故だ。 アナスタシア第一王女とアスターテ公が去っていく中で。 私は膝を折り、礼を整えた姿のまま懊悩した。 第5話 アスターテ公爵とアナスタシア第一王女 私は幼き頃より、親から縁戚であるアナスタシア第一王女と比較されて育った。 帝王学を教える母からは、物覚えが悪い子と言われた。 戦術家の教師からは、お前程出来の良い生徒と出会ったことが無いと言われた。 剣や槍の教師からは、この王都で10指の内の一人、その程度にはなれるでしょうと言われた。 そうして育ってきた。 お前は第三王位後継者なのだから、このアンハルト王国をもしもの時に継ぐ、スペアのスペア。 そして次期公爵家を継ぐ身なのだから。 アナスタシア第一王女に負けないように育ちなさいと。 母と父に、そういわれて育ってきた。 そのアナスタシア第一王女は、私の目の前を今コツコツとブーツの靴音を立て歩いている。 私は未だに膝を折り、こちらに礼を尽くしたままであったファウストの姿を最後に振り返り。 ばいばい、と手を振った後に。 ファウストから遠く離れた、廊下の曲がり角で口を開いた。 「ねえ、アナスタシア」 「何だ、アスターテ」 「さっきの事なんだけどね」 先ほどの事――アナスタシアとファウストの会話内容。 それを思い出しながら呟く。 「第一王女相談役と第二王女相談役が結ばれるなど笑い話にもならないって言ったじゃん」 「そうよ。何か間違ってるかしら」 そこまではまあいい。 不満はあるが。 「その直後に第二王女相談役など辞めて自分に下に付けってどういう事?」 「そのままの意味よ」 お前ぶん殴るぞ。 アナスタシアは強いが、一対一の喧嘩ならさすがに私が勝つ。 戦略ではアナスタシア、戦術ならばアスターテ。 街角の吟遊詩人たちはそう謳い――そして私より年配の騎士団長達も、そう判断している。 事実、あのヴィレンドルフの侵攻以来、そう役割が分配されている。 ついでに現場指揮官の憤怒の騎士、ファウスト・フォン・ポリドロ。 あの現場ではそうであった。 今は違うが。 全くもって、ファウストを第二王女相談役として死蔵しているのは勿体ない。 「お前がファウストを好きなのは知ってるよ。叔父上そっくりだもんな」 ぴたり、とアナスタシアが足を止める。 親族である。 まして、第一王女相談役として2年間も共にしている。 まさか、判らないとでも思っていたのか。 叔父上は、太陽のような人であった。 親族である私にも優しかった。 そしていい尻をしていた。 趣味の農業で鍛え上げられた、いい尻であった。 私が産まれて初めて性的興奮を覚えたのは、多分あの時なのだろう。 「貴女は父上をイヤらしい目で見ていたわね、覚えているわ。何度か殺してやろうかと思ったぐらいに」 「思春期だったんだよ。仕方ないだろう」 私には本能に目を逸らす事など出来はしなかった。 よく咎められる。 私には貴族として、淑女としての気品が欠けていると。 それを良く言う人は、私を自由人と呼ぶが。 法衣貴族、官僚の役職を持つそれらは揃って眉を顰めて悪く言う。 やれ、公爵家なのにマナーがなってないやら五月蠅い。 息子を捻じ込もうと、夫の釣り書きだけは公爵家に山ほど送り付けてくるくせにな。 相手にはしない。 私という畑に撒く種はアイツに決めている。 「単刀直入に言おうか、ファウストを譲れ。お前じゃ立場的にキツイだろう」 「はあ? 貴様、ブチ殺してやろうか」 アナスタシアが口調を変える。 二人きりになった時には感情が表に出やすい。 「ファウストの――ポリドロ領のことを考えてやれ。お前の立場では、荷が重すぎる」 「どう重いと?」 判っている癖に。 「仮にお前が上手くファウストを愛人にしたとしよう。そうすればポリドロ領はどうなる。まさか、お前とファウストの娘の一人がポリドロ領を継げるとでも?」 何人産む気か知らないが。 上位王位継承権持ちが、僅か300人足らずの辺境領の領主様になれと。 バカげている。 「ポリドロ領を、アンハルト王国の直轄領にすればいいでしょうに」 「馬鹿が」 アナスタシアは自分の欲望に酔っている。 領主騎士というモノの性質を忘れている。 「ファウストが、自分の領民を、自分たちの土地をどれだけ大切に扱っているかぐらい承知だろう。領主騎士というのは誰だってそうだ。虫の一匹も残らず、自分達の物が奪われるのを拒む。一所懸命というべきか。彼らの生活の縁の全てを奪っておいて、幸せになどなれるものかよ」 「……」 アナスタシアが黙り込む。 そして反論する。 「……貴女だってそうじゃない、第三王位後継者。アスターテの娘にだって王位継承権は発生する」 「確かにそうだが、私の子の血はお前の子よりずっと薄い。私は何人も子を産み――その内の一人をポリドロ領の領主として育てる。お前よりずっと王家の血の薄い、王位の望みなど有りはしないような子をポリドロ卿にする。末っ子にも継ぐ領地があるのは決して悪い事ではない」 私とファウストの子だ。 きっと、ファウストは末っ子でも可愛がるだろうな。 「私と居た方がファウストは幸せになれる」 「……」 アナスタシアが、再び黙り込む。 こんな説得が―― 「ふざけるな。アレは私の物だ」 上手くいくとは最初から思っていない。 私が言いたいのはつまるところ――アレだよ。 「だったら勝負してもいいんだぞ」 「――」 懐にしまっている懐剣は抜かない。 そういう勝負でないことぐらいは、お互いに判っている。 「ファウストに先に愛していると言わせた方が勝ちだ。私達の勝敗は、全てファウストに委ねる」 「……お話にならないわね。私が母上から女王の座を引き継いだ暁には、私が強引にファウストを貰っていく。誰にも譲らない」 「それに何年かかる? 第一、ファウストの――その叔父上のような太陽の心を失ってまで欲しいのか? 先祖代々引き継いだ領地を奪われ、人形のようになったファウストをか? ファウストが領地を捨ててでもお前を愛すると決めたなら何も言わんが。おそらく、そうはなるまい」 「……」 アナスタシアは黙り込み、そうして爪を噛む。 私と、おそらくリーゼンロッテ女王とヴァリエール第二王女ぐらいしか知らない、彼女の悪癖だった。 身内の間で返事に窮した場合は、これが顕著に出る。 たとえ、ファウストが自分の事を愛してくれたとしても。 ファウストがその心のありのままで、自分の物になる可能性は非常に少ない。 それにようやく気付いたらしい。 ――そう、このタイミングだ。 私は助け舟を出す。 「ファウストを共有するつもりはないか?」 「何だと?」 「何、世間では一夫多妻制など当たり前ではないか。貴族でも夫を共有することなど珍しい事ではない」 私はファウストとの子が欲しい。 あの尻を撫でまわしながら、あの男を抱いてみたい。 童貞は諦めてもいい。 それは贅沢な事か? 「……私と、お前の愛人か?」 「そうだ、私とお前の二人の相手をする愛人だ」 第一王女アナスタシアと、アスターテ公爵の愛人だ。 私は口の端を歪めて笑う。 「私の子供がポリドロ領を継ぐ。それならファウストも納得する」 「……」 アナスタシアはギリッ、と歯ぎしりをした。 考えあぐねているらしい。 「ファウストは私だけのものにしたい」 口では達者だが、その瞳には確かに迷いがあった。 頑迷なアナスタシアの心に、ヒビが入った瞬間を見た。 「無理だね」 私は笑って、悪魔のように囁いてやった。 「あの男を、ファウストに、二人の女に身を開けと」 アナスタシアの言葉はバラバラとなって感情のまま、一つの言葉に成れないでいる。 あの太陽のような男に、二人の女に身を開けと言うつもりか。 自分の筋骨隆々で武骨な身体を自ら恥じ、浮いた噂一つも無い男に、自分の領地のために戦場に身を捧げている童貞のファウストに。 あの貞淑で無垢でいじらしい、朴訥で真面目な、童貞のファウストに、手折られた花のようにその身体を。 「そうさ、まるで男娼のように我ら二人に足を開かせろと言っているのさ」 「……」 沈黙しているが、お前の心の揺れ動きは判るぞアナスタシア。 私同様、処女をそこらの侍童で切って捨てずにいるのは。 最初の痛みと楽しみを思う存分、ファウストの身体を使って蹂躙するためであろう? 恥じ入る必要はない。 我ら王位後継者達とて、清純な心だけで生きているわけではない。 性欲ぐらいある。 「何、童貞はお前にあげるさ。私もその後はたっぷり愉しむがね」 「ファウストの……童貞……」 「そうさ、自分の領地のために、大切に大切に守っている奴の童貞さ」 そこを突けばいい。 何、ファウストの弱みなど判っている。 アイツはどこまでもいっても領主騎士だ。 祖先を、領民を、土地を、その全てのためなら嫌な女の股だって舐める。 ――そうして股を開くだろう。 「私はファウストを汚したくない!!」 「嘘をつけ!! お前はファウストを思う存分凌辱したいと思っている癖に!!」 卑猥な会話を、廊下で思う存分話す。 私とて、他の女にファウストの身を汚させる等、業腹ものなのだ。 だが、アナスタシアならいい。 縁戚であり、いずれ女王になるアナスタシアならいい。 何、これはこれで愉しめるさ。 私が一人寂しくベッドの最中に、アナスタシアにファウストが抱かれている事を想像すると、自然と股が愛液で濡れそうになる。 閨の作法は公爵家長女として教わったが、こんな愉しみ方があるとは教師も教えてくれなかった。 「恥じらうファウストに、自ら犬のように腰を振らせるのもいいものだ。想像しただけでおかしくなりそうだ!」 「貴様――どこまでも下劣な!!」 アナスタシアが顔を赤らめて声を荒げる。 だが、それは怒りに身を染めてではない。 羞恥だ。 心の底の欲望を言い当てられた、羞恥そのもので顔を赤らめている。 なあ、アナスタシア。 お前だってベッドの上でファウストに腰を振らせてみたいだろう? 恥じらうファウストに自ら身を動かさせる。 ああ、本当におかしくなりそうだ。 「なあ、想像しただけで素晴らしいだろう。私の提案に従えば、それがすぐにでも手に入るんだぞ。何、ファウストには私が言い聞かせるさ。お前が嫌われるようなことは何も無い」 「……」 アナスタシアはもう口をぱくぱくと動かすが、言葉は吐けていない。 ただ顔を真っ赤にするばかりだ。 「……判った」 「何だ聞こえないぞ。もっと大声で言え」 「判ったと言ったぞ! ファウストは私とお前の二人の相手をする愛人とする!!」 さすが第一位王位後継者。 決断の早さが違う。 戦略では欠かせない要素だ。 私はケラケラと笑いながら、アナスタシアの肩をポンポンと叩く。 「さて、とはいえ権力で――力づくでファウストにその足を開かせるというのも面白く無いな。いや、それも興奮はするがな」 「お前は本当に最低の糞ったれ女だ」 柄にもないアナスタシアの罵倒を聞きながら、私は、んーと悩む。 今まで2年間、あの朴訥で真面目なファウストに、性的な言葉を並べて顔を赤らめさせるのは楽しかった。 でも、それももうお終いだ。 そろそろ子を孕む年齢でもある。 「ま、ファウストの軍役が――ヴァリエール第二王女の初陣が終わってからでいいか」 あまり、軍役の前にあの男の心の負担になるようなことはしたくない。 とりあえず、アナスタシアの説得は終わった。 それでよい。 私はぐい、と背を伸ばし、胸板に張り付いたその戦場では邪魔な乳を張り伸ばした。 第6話 イングリット商会と貞操帯 アンハルト王国、王都での居住地。 領地から離れる際は領民20名を兵として動員し、常に引き連れている私は、その住処をかつては貧乏街の安宿としていた。 資金の都合である。 我が領地はそれほど金持ちではない。 特産品もこれといってない。 2年前の、代替わりの挨拶。 リーゼンロッテ女王への謁見のため、その順番待ちを三か月食らっている最中の事はあまり思いだしたくない。 自分を含め21名もの宿代を背負い、滞在資金のやり繰りには苦慮した物であった。 だが、今は違う。 第二王女相談役として、領民20名も難なく収容できる立派な下屋敷が王家に用意されていた。 相談役となった、役得の一つであった。 今現在、私はこの下屋敷を王都での居住地としている。 「……さて、そろそろだな」 私は屋敷で、客人を待っていた。 待っているのは、我がポリドロ領の御用商人であるイングリット商会である。 御用商人とは言っても、領民300名足らずの我が辺境領に来てくれる商人などイングリット商会を除いてないのだが。 イングリット商会とは、先代――母親の代からの付き合いである。 商会には全ての仲介を委ねている。 先祖代々受け継がれている物。 辺境領地貴族には些か不相応な、魔法の付与されたグレートソードの研ぎ。 自分の代となって新しく新調した物。 2mはある私の巨体を包み込む、チェインメイルの補修。 そして個人的にだが、最も重要な物。 それは―― 「ファウスト様、イングリット商会が来られました」 従士として取り立てている領民がドアを叩き、声を上げる。 「入ってもらえ」 「失礼しますよ。第二王女相談役ポリドロ卿」 からかうように、イングリット商会の女主人であるイングリットが挨拶をした。 私が第二王女相談役となって以来、彼女はこの呼び方を好む。 「よしてくれ、イングリット。第二王女相談役と言っても、派閥も何もないちっぽけな役だ」 「こんなに立派な下屋敷を借り受けておいて、何をおっしゃいます事やら」 イングリットは上機嫌で、客室を見渡す。 確かに、屋敷は立派だ。 我がポリドロ領の屋敷が見劣りする――というか実際、この下屋敷の方が立派なのだ。 「これを機に、我が商会も規模をより大きくしたいものです」 「……第二王女にも、私にも、そんな伝手はない、諦めろ」 イングリットはどこまでも商人である。 利益の機会には目ざとい。 だが、所詮はアナスタシア第一王女のスペアである、ヴァリエール第二王女の歳費など少ない。 イングリットから何か余計な物を買う余裕は無いだろう。 ましてや王家御用達の商人もいる。 付け入る隙間など無い。 それぐらいはイングリットも判っているはずなのだが。 「何、私はもっとこの国の大きい部分に関われる方だと貴方を見込んでいるのですよ。ポリドロ卿」 「……」 イングリットの目はギラギラと欲で輝いている。 彼女は私に何を見ているのだろうか。 それが私には理解できない。 イングリット商会はちっぽけな商会ではない。 流石に王家御用達の商人程ではないが、多数の職人や鍛冶師への伝手が有り、アンハルト王国内に大きな販路を持つ商会である。 彼女が私ごときに、この田舎領主騎士にそこまで入れ込む理由は何なのだろうか。 ――まあ、それはいい。 入れ込まれても、私に損はない。 イングリットが損をするだけだ。 それよりも、だ。 個人的にだが、最も重要な物について話がある。 「イングリット、話がある。少し近くに寄ってくれ」 「ええ」 イングリットが歩み寄り、私は扉の外で待機しているであろう従士にも聞こえないように、小さく小声で話す。 「貞操帯の事だが、もう少し何とかならんのか。勃起すると痛い」 「……また、その話ですか」 イングリットはやや顔を赤らめ、私の声量に合わせた声で話す。 「以前にも言ったではありませんか。それはポリドロ卿の――その、サイズにフィットするようにオーダーメイドで仕上げた作品。どうにもなりませんと」 「15歳の時に、珍しい男性の鍛冶師まで忍んで足を運んだのであったな。アレは精神的に苦痛であった」 貞操帯。 言わずもがな、アダルトグッズである。 それは前世の地球でも、今世のこの頭の悪い世界でも変わりはない。 男の貞操を管理するために売られているものである。 だが、私の目的は違う。 勃起させないために、いや、より正確な目的としては勃起を誤魔化すために着けているのだ。 辺境の我が領内では、なんとかブカブカのズボンを履くようにして誤魔化していたのだが。 領地を出て以降、王宮へ出向く際の礼服、また戦場着ではそういうわけにもいかん。 「勃起すると痛いのだ。とても痛いのだ」 「そもそも何故そんなにしょっちゅう勃起されるのですか」 「……」 どう喋るべきか。 私は悩みながらも回答する。 「私は感情が昂ると、あらゆる場面で勃起するのだ。誰にも言うな」 これも一種の恥だが、女性の裸体を見ただけで勃起する、この世界では異常者。 ややもすれば、この世界では淫乱とも捉えられかねん事を発言するよりはマシだ。 「……まあ、二つ名の憤怒の騎士らしい在り方とでも申しましょうか」 イングリットは顔を赤らめながら、言葉を濁した。 どういって良いのか判らないのだろう。 だが、この貞操帯は、痛い――。 「イングリット、くれぐれも私が貞操帯を自分で買った等と漏らすなよ。私が通常の女性の好みから外れていることなど、私自身が一番よく知っている。にも拘わらず、女に襲われるのが怖くて自分で買った貞操帯を、自分に付けてる勘違い貴族等という誤ったそしりを受けたくはない」 「お客様の情報、まして貴族の方々の購入物を漏らすなど恐ろしくてできませんよ。ご安心下さい。その貞操帯を作る際も、秘密裏に行ったではありませんか」 まあそうだが。 ここはイングリットを信用する事にしよう。 「とにかく、勃起すると痛いのだ」 「……貞操帯自体を、フィットした物ではなくもっと大きなサイズに変更しますか」 「それも拙い。礼服では貞操帯を付けていますとバレてしまう」 既に妻帯者ならばそれでも良い。 夫の貞操の管理をするのは、この世界ではさほど異常ではない。 だが、先にも言ったように、独身の私が貞操帯を付けていると世間に漏れるのは拙い。 自分で買った貞操帯を、自分に付けてる勘違い貴族というそしりを受ける。 せめて私がアンハルト王国好みの、紅顔の美少年であったなら自らの貞操を守るため、付けてても何も言われなかったであろうが。 ともかく、貴族は面子商売である。 恥を掻くわけにはいかん。 「なれば、今のフィットしたサイズの貞操帯を使い続けて頂くしかありません」 「それしかないのか……」 私は項垂れた。 この世界では日々の折々で女性の裸体を目にする。 無論、みんな通常は服を着ているが、裸体になる事は決して恥ずかしい事ではないのだ。 さすがに貴人ともなれば、裸体とはいえヴェールの一枚も羽織るのだが。 昨日、王宮に出向いた際にリーゼンロッテ女王がシルクのヴェール一枚であった件。 まるで頭の悪い世界の――いや、ここは頭の悪い世界ではあるが。 ともかく、何かのエロ小説の挿絵に出てくるようであったあの姿にも女王の悪意は無い。 自分の肉体美を見せびらかしていただけである。 私のチンコは大ダメージを負ったが。 後、自分でも少し反省するほど理不尽にキレてた。 結論。 私に救いはない。 「第二王女相談役ポリドロ卿、ここは妻帯者となり、貞操帯を付けていてもおかしくない状態となるのがベストかと」 「それが出来るならさっさと嫁を娶っている」 私はモテない。 この筋骨隆々の武骨な身体だ。 ましてちっぽけな辺境領主騎士である。 花の都、王都には法衣貴族達の、家など継げない次女や三女の貴族も多かろうが。 花の都から辺境の領地に赴き、下手すれば軍役を除き一生をそこで過ごすとなると難色を示す相手が多い。 そこまでしなくとも、生きていく術はあるのだ。 一度、第二王女相談役として、ヴァリエール姫にどこか貴族との縁組をと頼み込んだこともあったが。 何か物凄く不機嫌そうな顔で、私がお前に用意できる縁組など何も無いと断られた。 役立たずである。 「アスターテ公の愛人では駄目なのですか?」 イングリットが突然、突拍子もない事を口に出す。 「お前は何を言っている?」 「アスターテ公があのヴィレンドルフの侵攻以来、ポリドロ卿を我が戦友と公言している事。そして口説いている事は吟遊詩人にも歌われていますよ」 「あれはアスターテ公の冗談だ。いや、本気だったとしても、ちゃんと公爵家に相応しい夫をどこぞの法衣貴族か、諸侯からちゃんともらうだろうさ。爵位の差がありすぎる。私は愛人にはなりたくない」 アスターテ公の事は嫌いではない。 むしろ好みだ。おっぱい大きいし。 だが、愛人は嫌だ。 別に夫が居る女の愛人は嫌だ。 アスターテ公の末子にポリドロ領を継いでもらうにしても、自分の血を継いでない子に、我が領地であり全てであるポリドロ領を奪われる可能性がある。 そんなのは御免だ。 祖先に、母親に申し訳が立たない。 「ポリドロ卿は何か勘違いをしていらっしゃる」 「何を勘違いしているというのだ?」 イングリットは言うか言うまいか、迷ったようにして――結局、何かを呟くことは無かった。 ※ 下屋敷から外に出て。 イングリットは馬車に入り込んだと同時に、思わず独り言を呟いた。 「ポリドロ卿は勘違いしておられる。アスターテ公は、ポリドロ卿が愛人として手に入ったならば夫を取る気等無いというのに」 私の掴んだ情報では、そうだ。 アスターテ公爵は、ポリドロ卿を本当に愛しておられる。 それをポリドロ卿に告げなかったのは、情報が正確とは限らないから。 それと―― 「それを漏らした事が私とバレたら、どうなる事やら。たとえそれがアスターテ公にとって利益がある事でも、喋りたくはないわ」 鬼神のアスターテ。 その二つ名を持つ武人公爵の気性は自由人であると同時に、とても荒い。 敵国ヴィレンドルフでの二つ名は皆殺しのアスターテ。 ヴィレンドルフの1000の敵の侵攻を跳ね除け、やがて北方の敵国との睨み合いに位置していたため出遅れた王軍の準備が整い、ヴィレンドルフへの逆侵攻の際。 アスターテ公爵はその鬼の形相で、ヴィレンドルフの民に山賊のような略奪を行った。 女は皆殺され死骸は磔にされ、兵どもが男をナイフで刺しながら死ぬまで輪姦して愉しみ、生き残った少年達は全て奴隷としてアンハルト王国に持ち帰られた。 アスターテ公が略奪した村々の後には、草一本残らなかったと言われている。 あの気性の荒い女にだけは良しにせよ、悪しきにせよ、目を付けられたくない。 あの女が優しいのは、真に自分の味方と認識している相手にだけだ。 下手をすれば、アナスタシア第一王女とポリドロ卿の二人ぐらいの物。 ぶるっ、と少し背筋が震えた。 まるで第一王女相談役である彼女の監視の手が、ポリドロ卿の下屋敷に伸びているように感じた。 いや、事実伸びているだろう。 アスターテ公の手は長い。 対して、あの下屋敷はポリドロ卿を捕まえるための王家が仕掛けた監獄のようにも思えた。 「……アナスタシア第一王女」 彼女までがポリドロ卿に興味を示している。 法衣貴族――上位の官僚貴族がポロッと漏らした言葉。 それが嘘で無いならば。 「第一王女の愛人の御用商人となる、大きなビジネスチャンスではあるのよねえ」 イングリットは、何故ポリドロ卿が結婚できないのか。 この女余りの世の中で、武門の家からは決して評価が低くない、ポリドロ卿が何故本当に浮いた噂一つも作れないのか。 アスターテ公爵やアナスタシア第一王女、第一王女派閥が第二王女相談役に嫌がらせをしているから。 下級の法衣貴族の見方はそうではあるが、上級の法衣貴族と、私の見立てではそうではない。 それら全ての考えを、ポリドロ卿には告げぬまま。 アスターテ公にだけは目を付けられない事を祈りながら、イングリットは下屋敷を後にした。 第7話 従士長ヘルガの回想 幼い頃の事でも、あれは村一番の祭りだったと記憶している。 ファウスト様が産まれた日に行われた祭りだ。 ポリドロ領は300人足らずの、誰もが顔見知りの小さな村で。 産まれたファウスト様の顔を見に、領民の全員が領主屋敷に訪れたものだった。 勿論、代々ポリドロ領に従士長として仕える家系の私もその一人であった。 ファウスト様は赤子にしては珍しく、泣かない子であった。 先代ポリドロ卿――マリアンヌ様の初産であったファウスト様は男子であらせられ、末は傾国の男子になるぞ、と我が母などは酒に酔ってはしゃいでいた。 決して裕福とは言えない我が村ながらも、この機会ばかりはと、村長がご機嫌の調子で村の食糧庫を開け放ち。 私達子供も十分にごちそうを味わい、腹を満たした。 ――そんな村に影が差し掛かったのは、ほどなくしてマリアンヌ様の夫が肺病で亡くなってからであった。 「領民全員の嘆願です。マリアンヌ様、新しい夫を御取りください」 従士長である母の、嘆願の言葉であった。 マリアンヌ様がどれだけ亡くした夫を愛していたかは知っている。 だが、致し方ない。 ポリドロ領を継ぐ、長女無くして村の存続は無い。 頭を深く深く下げる母の傍で、私はマリアンヌ様の顔色を窺う。 「……」 その懊悩する姿は、未だに覚えている。 領主貴族としての義務と、未だ忘れられない夫との、愛の狭間で苦しんでいるかのようであった。 そして――マリアンヌ様は、少しおかしくなってしまった。 懊悩の余り、気が触れてしまったのだろうか。 男であるファウスト様に、槍や剣を教えるようになったのだ。 もちろん、止められた。 村長からも、我が母からも。 亡くした夫の親族からも、 だが、マリアンヌ様はその説得全てを無視して、ファウスト様に剣技や槍術を仕込み続けた。 やがて、誰もが諦めた。 マリアンヌ様は気が触れてしまったのだと。 何、子供の方から――ファウスト様の方から、男の子で他にこんな事してる人はいない、とそのうち怒って止めてしまうよと。 マリアンヌ様はもう駄目だ。 ファウスト様に強い、優秀な嫁が来てくれることを期待しようと。 だが。 ファウスト様の方は愚直に、マリアンヌ様の教えに従っていた。 統治や経営の教育に加えて、この肉体を痛めつける仕打ち。 貴人とはいえ、よく耐えられるものだ。 代々従士長を受け継ぐ誇りを持つ私でも、剣や槍の訓練は辛いのだ。 散々、木剣で打ち据えられ、刃引きの剣で実際に武具を装備して実戦演習する事さえある。 だが、ファウスト様は泣くこともなく、愚直に訓練を続けていた。 泣かない子供であった。 「――林檎」 ふと呟きながら我に返る。 今はファウスト様と、イングリット商会が、客室にて話し合っている最中であった。 私は扉の前で屹立し、誰も近寄らないように注意を払う。 注意を払いながらも、思考は幼少期の想い出へと飛ぶ。 林檎。 そう、林檎である。 剣や槍の訓練時、昼食にはいつもデザートとして出てくる林檎を、ファウスト様に分けて頂いていた。 たった一つのそれを、ナイフで二つに切り分けて。 ――ファウスト様も、丸ごと一個食べたかったであろうに。 そんな事を考える。 ファウスト様は、幼少の頃から我ら領民に優しい御方であった。 固辞する私に、お前も腹が減っているだろうから、と無理してそれを渡した。 そんな優しいファウスト様に、私はいつもお聞きしたいことがあった。 「お辛くはないのですか?」 と。 決してそんな事、貴人であるファウスト様には口に出せなかったが。 ファウスト様の手は、幼少にしてすでに剣ダコが出来ていた。 ――時間は過ぎ、歳を取る。 私はやがて幼年期から時を経て、一人前の従士長へと姿を変えていた。 そして、ファウスト様も姿を変える。 決して不細工ではない。 顔の形は整っている。 従士長として言わせてもらえればむしろ、気高く美しい。 なのだが。 アンハルト王国内の女子達の価値観から言えば、少々背が、いや、あまりにも背が高すぎた。 15歳にして180cmに達していた。 そしてその手は剣ダコと槍ダコで埋め尽くされていて、とても男貴族の手には見えなかった。 だが―― 領民には、本当に優しい御方であった。 貴族の男には珍しく、物欲と言う物に乏しい御方であった。 マリアンヌ様が、領地外への軍役の際に申し訳程度に買ってくる髪飾りや指輪等。 そういった物は、全て日々の折々――自領での領民同士の結婚式の際に。 または、近隣の領地に貰われていく、或いは領民のため貰って来た男に対し、全て与えてしまっていた。 その男たちは喜んでいたが、私はファウスト様が男らしさを失っていくようで悲しかった。 それゆえ、一度聞いたことがある。 「髪飾りや指輪が、惜しくはないのですか」 と。 ファウスト様は答えた。 「髪飾りなど、背高のっぽの私には似合わないし、指輪はな」 ファウスト様が、その剣ダコと槍ダコでゴツゴツとした指を見せる。 私は発言を後悔した。 街の市場で買ってきた、オーダーメイドではない指輪何てものは、嵌められないのだ。 私はいつしか、先代ポリドロ卿――マリアンヌ様を心の底で蔑視するようになっていた。 我が子が可愛くないのか。 これが息子に対する仕打ちか、と。 そんな事を考えている最中、そのマリアンヌ様が病に倒れた。 元々、身体が弱い方であった。 15歳のファウスト様が、代わりに軍役を務めるようになった。 そして軍役に出る中、妙な質問を私にした。 「男性騎士という物は、私以外に存在しないのか?」 私は答えあぐねた。 そんな事、常識であろうに、と。 だが、答えを返さなければならない。 「蛮族――失礼、ヴィレンドルフでは聞いたことがありますが、アンハルト王国内には存在しませんね」 蛮族と同じ。 ファウスト様に対する侮辱ではないかとヒヤヒヤしながらも、答えた私にファウスト様は呟いた。 「そうか。そういうものなのか」 いっそ、清々しい。 そういった顔であった。 私の言葉への怒りや、自分を男性騎士として育てたマリアンヌ様への怒りといった物は、感じ取れなかった。 そしてまた、口を開く。 「もう一つ聞きたいのだが。私が騎士として活躍した場合――」 我が母は喜んでくれるであろうか、と。 そんな質問をした。 私はその問いに、答える事が出来なかった。 ファウスト様の御考えが、私には理解できなかった。 狂った母に、愛情を求めているのか。 狂った母に、常識を求めているのか。 どちらともとれない。 ――そうして、更に5年の日が過ぎる。 私は一人の夫を姉妹達と共有するようにして迎え、ファウスト様は身長2mに近い青年に成長した。 そして、マリアンヌ様が、ついにベッドの上で血を吐くようになった。 マリアンヌ様との、今生の別れの日が近づいていた。 「これで母上とも、お別れか」 そうファウスト様が呟きながら、寝室のドアを開く。 その声は、僅かに震えていた。 ドアの先の寝室は、静まりかえっていた。 村長、今は従士長を引退した我が母、そしてファウスト様と私。 そしてベッドで息を引き取ろうとしているマリアンヌ様。 「ファウスト」 マリアンヌ様が、名を呼ぶ。 ファウスト様はベッドの傍により、もはやロクにスープも飲めなくなり、か細くなったマリアンヌ様のその顔を、優し気に撫でた。 「ファウスト。手を」 ファウスト様が手を差し出して。 剣ダコと槍ダコでゴツゴツの手を、マリアンヌ様が震える両手で握る。 そして、マリアンヌ様は静かに――本当に静かに最期の言葉を呟いた。 「御免なさい、ファウスト」 マリアンヌ様が、その手を握りながら、何かに贖罪するように謝った瞬間に。 声が――漏れた。 「――」 ひい、と。 引き攣る様な、赤子のような、周囲の人の心をかきむしる様な声であった。 嗚咽を漏らした声であった。 ファウスト様が、嗚咽を漏らして泣いていた。 そして感情を取り乱し、嗚咽を漏らしながらも口を開く。 「違います。違うのです。母上、違います。貴女は勘違いしておられる」 ファウスト様が、逆に贖罪するように首を振る。 マリアンヌ様の手を握りしめながら、ただ言葉を紡ぐ。 「私は何も辛くなど無かった。この今世で貴女を憎むことなど無かった。まだ、何も、何も出来ていない。恩返しができていない。もっと貴女と話すべきであった。私はもっと――」 ファウスト様が、涙を流しながら、目の前の現実を否定しようと言葉を並べている。 「まだ何にも、親孝行ができていないのです。まだ、まだ早すぎます。やっと理解した、私は貴女の事をちゃんと母親として愛して――」 「ファウスト様――」 ぐっと、ファウスト様とマリアンヌ様が握りしめ合った、その手。 その手を、外そうとして? いや、逆に外すまいとして、我が母はそれを握りしめながら呟いた。 「ファウスト様」 我が母が何か呟こうとするが、震える舌では言葉になりきれず、ただファウスト様の名を呼ぶ。 もうすでに、マリアンヌ様はお亡くなりになられました。 その事実を告げられず、涙を流しながらファウスト様の名を、ただ呼ぶ。 その手を握るファウスト様にはそんな事言われなくても判っているのであろう。 だが、ファウスト様は、マリアンヌ様の遺体に呼びかけ続ける。 「まだ何も……まだ、何も……」 呆然自失の体で、ファウスト様は泣き続けていた。 私は、その日、ファウスト様が涙を流すのを初めて見た。 そして、この世には親子達当人にしか、そして末期にしかわからぬ愛がある事を知った。 ――嗚呼。 ファウスト様の、声が聞こえる。 「ヘルガ」 ヘルガ。 ポリドロ領従士長、ファウスト様の家臣として存在する私の名前だ。 「はい、ファウスト様」 「イングリット殿がお帰りになられる。扉を開けてくれ」 私は黙って扉を開け、頭を下げてイングリット殿を見送る。 後は、別な従士が馬車まで見送るであろう。 「ヘルガ、ちょっと中に入れ」 「はい」 ファウスト様に呼ばれ、客室の中に入る。 椅子に座るファウスト様は、何かに悩んだ様子でおられ。 「イングリットは何を言いたかったのであろうか」 そう、私に聞いたような、それともただの独り言であるのか。 わからぬ調子で、客室の空間にそれを呟いた。 「まあ、何だ。ヘルガ、そこに座ってくれ」 「はい」 私は命令通りに、ファウスト様の眼前の椅子に座る。 ファウスト様はその様子を眺めた後に、愚痴るように呟いた。 「一体、いつになったら私は結婚できるのであろうなあ」 「ファウスト様の魅力を判ってくださる方は、必ずその内現れますよ」 心の底から言う。 全く、どいつもこいつも見る目が無いのだ。 男性騎士と馬鹿にする法衣貴族達。 ファウスト様と私達を死地に送り込んだ王家。 権力を傘に、ファウスト様の尻を撫でようとするアスターテ公爵。 どいつもこいつもウンザリだ。 私にとっての貴人は、この世にファウスト様ただ一人だ。 「ファウスト様、早くポリドロ領に帰りましょう。嫁はこの際適当に見繕ってください。致し方ありません」 「……昔と違って、お前は言うようになったなあ」 貴人相手だからと、何か一言喋るたびにビクビクしてたのにな。 そうファウスト様が笑う。 私は首を刎ねられてでも直言した方がファウスト様のためになると思っているから、言うようになっただけだ。 「手近なところでは、第二王女親衛隊がいるではありませんか」 「まあ……手近なところだなあ。王家や法衣貴族への伝手には程遠いが。第二王女の親衛隊、ほぼ家からも見捨てられた次女や三女、最低階位の一代騎士ばかりであろう?」 ファウスト様が答える。 私は直言する。 「要りますか? 王家や法衣貴族との伝手」 「……要らないな」 冷静な顔で、ファウスト様が答えた。 私の直言は有効だ。 「なれば、この度の軍役――ヴァリエール第二王女の初陣で、良さげな美女をちと見繕ってみるか」 「そうしてください」 できれば、ファウスト様が代わりに軍役に出る必要など無いよう、ポリドロ卿を名乗るだけの事はあると世間に言わせる強い女を。 私はそう願いながら、椅子から立ち上がる許可をファウスト様に申し出た。 ※ 後悔は尽きない。 私の、亡き母親への後悔は尽きない。 病の身体を押しての軍役に疲れながらも、毎年ちゃんと街の市場で土産を用意して帰って来た母親。 ベッドに伏せがちな身体をこらえ、私に統治や経営、剣術や槍術――領主騎士としての全てを叩きこんでくれた母親。 何故、愚かな私はその母の愛を、その末期の際まで理解できなかったのだろうか。 前世持ちだから? それがどうした、糞が。 母が、自分への教育を、息子に与えた酷い仕打ちだと後悔しながら逝ったと思うと――自分に反吐が出そうで、死にたくなる。 だが、本当に死ぬわけにもいかん。 母親からもらった大事な身体だ。 私は母から受け継いだ領民を、土地を、ポリドロを、守っていかなければならない。 そのためにも。 「第二王女の親衛隊から見繕う……か。本当は辺境に理解のある、武官の官僚貴族の次女辺りと縁を持ちたかったのだが」 だが、ヘルガの言う事にも一理ある。 私はもう宮廷闘争には心の底から関わりたくない。 そもそも第二王女相談役になど、なるべきではなかったのだ。 「しかし、第二王女親衛隊は――」 思わず口ごもる。 アレだぞ。 正直、一言で言ってしまえば―― 「リーゼンロッテ女王による、スペアに対するミソッカスの廃棄場所」 悪口にしかならなかった。 私は閉口しながら、その中ぐらいしか嫁のアテが無い自分に心底ウンザリする。 彼女達に果たして領主など務まるのだろうかと深い疑念を抱きながら、私はベッドに移動し、静かに仮眠をとることにした。 第8話 親衛隊隊長ザビーネ 「ですので、どうか娼館に行くお金を歳費から出してください、ヴァリエール様」 「この猿どもめ。いや、猿に失礼だ。猿に謝罪しろ、このアホめが」 アンハルト王国、王宮。 ヴァリエール第二王女専用に与えられた居室にて、ヴァリエールは自らの親衛隊隊長を罵った。 そう、繰り返すが、相手は親衛隊――自らの近衛騎士を務める騎士たちの隊長であった。 その親衛隊長が、第二王女の歳費から、親衛隊全員が娼館に行く費用を出してもらう事を嘆願していた。 「これは必要経費なんです! ヴァリエール様、これは必要経費……避けては通れない歳費であります!!」 「どういう思考回路を用いたら必要経費として、貴女たちが娼館に行く費用を歳費として財務官僚に申請できる筋があるのか言ってみなさい、このチンパンジーどもめが!!」 ずっと、こうである。 10歳のみぎりに、親衛隊を母親から――リーゼンロッテ女王から与えられて以来、ヴァリエール第二王女はまるで生来のような胃痛持ちになった。 チンパンジー。 哺乳綱霊長目ヒト科チンパンジー属に分類される類人猿。 この場に第二王女相談役であるファウストが居たならばそう呟いたであろうが、残念ながらこの場にいなかった。 いや、男性騎士が近くに居たら、さすがにこんなふざけた嘆願は為されていないだろうが。 でも、やっぱり嘆願したかもしれない。 だってチンパンジーだものコイツ等。 ヴァリエール第二王女は、息を切らしながら、もうウンザリした様子で金切り声を挙げた。 「で、言ってみなさい、何か理由が言えるんでしょうね。ほら、言ってみなさい」 「第二王女殿下ヴァリエール様、訴えるのは大変誠に申し訳なきことながら、誠に非才な身を恥じ入るばかりではありますが――」 ヴァリエール第二王女親衛隊隊長、ザビーネ。 チンパンジーに果たして名前が必要なのか? もういらないだろう、コイツ等には。 名を剥奪する権限は第二王女ごときには無いのか、ヴァリエールはそんな事を考えながらも。 ザビーネの発言の続きを黙って聞くことにした。 ザビーネは、何故かそのヴァリエールの発言をせかす様子を、嘆願が聞き入れてもらえるものと勘違いし、目をキラキラと輝かせながら叫んだ。 「第二王女親衛隊15名、全員がなんとこの度、処女であることが判明いたしました!」 「知るか!」 ヴァリエールは胃を痛めながら答えた。 知った事では無かった。 本当に知った事では無かった。 ああ、姉さまが羨ましい。 アナスタシア第一王女の親衛隊は同じく、武門の法衣貴族の次女や三女で構成されていたが。 決してこんなチンパンジー共の群れではない、むしろ家からその才能を、将来を嘱望されて親衛隊に入隊したエリート達であった。 姉さまが女王になった暁には、世襲騎士として新たな家を持つことすら許されるであろう。 第一王女親衛隊の隊員数は30である。 対して、第二王女親衛隊の隊員数は15。 数でも露骨に差別されていた。 いや、チンパンジーの数なんか増やしてもらいたくないけどさ。 何故、母上リーゼンロッテ女王はこんなチンパンジーの群れを私に。 そこまで私の事が疎ましいか。 ヴァリエールがそう考えるのは、無理のない事であった。 「もうすぐヴァリエール様の初陣なんですよ!?」 「私の初陣と、お前らが処女であるのに何の関係がある。この阿呆ども!!」 ヴァリエールは叫んだ。 ワナワナと肩を震わせながら、椅子から立ち上がり、心の底から叫んだ。 対して、ザビーネは答えた。 「処女のまま初陣で命を散らすのは騎士としてあまりにも虚しい。この虚しさはどこにある? 処女だから! ならば処女でなくなってしまえばいい! みんなして娼館に行って、男娼でこの処女を切って捨ててしまおう。昨日の初陣前の決起式典でそう全員で話し合い、この嘆願を決意したのです」 「……」 もはやヴァリエールは叫び疲れていた。 椅子に、腰を降ろす。 アレだ。 アホだ、コイツ等。 知ってた。 私なんかどうせスペアだものね。 こんな家からも見放された真正のアホ共しか、与えてくれないわよね。 どこか儚い笑顔で、ヴァリエールはそう自嘲した。 そして、小さく呟いた。 「……私も、処女だよ」 「おお、ならば」 ザビーネはそのキラキラとした、まるで星を散りばめたような眼を大きく開きながら。 叫んだ。 「一緒に行きましょう、娼館に!」 「行くか馬鹿者が!」 ヴァリエールはとうとう耐え切れず、椅子から立ち上がってザビーネの襟首を掴んだ。 そしてザビーネの首をぶんぶんと振らせ、言い聞かせる。 「娼館なんぞ自分の金で行け。自分の金で。な?」 「わ、我ら第二王女親衛隊の隊員たちは隊長である私を含めて、法衣貴族としては全員一代騎士の最低階位。給金など、格式に相応しい生活や従軍準備を整えますと、自分達が食っていけるだけの扶持しか貰っておりませぬ。性病にまでちゃんと気を遣った高い娼館に行く金など……」 「お前等に金が無いのは知っている。だが仮にも騎士だろう! 青い血だろう!? 各領地から宮廷に差し出された侍童を口説けとまでは言わんが、平民の男子一人を口説くくらいなんとかならんのか?」 ああ、声帯が切れそうだ。 ヴァリエールは胃をキリキリと痛めながら、今度は声を枯らす心配までしなければならなかった。 「我らは騎士! 青い血であります。青い血としては、決して平民と交わること等出来ませぬ!」 「男娼はいいのかよ!」 「男娼は職業だから良いのです!」 そんな割り切りはいらなかった。 欲しくは無かった。 ヴァリエールは、ザビーネの襟首から手を放し、自分の顔を両手で覆う。 もう童のように泣いてしまいたかった。 「じゃあ、あれよ。ほら、えっと……何だ」 何を言おう。 コイツ等馬鹿の癖に、変な騎士としてのプライドはあるからややっこしい。 このチンパンジーどもめ。 ヴァリエールは心中で罵りながら、きょとんとした顔のザビーネを、顔を覆った指の隙間から見やる。 そして心の底からの言葉を口に出した。 「もう処女のまま、初陣で全員死になさい」 そうしてくれれば、ヴァリエールにとっては何より有難かった。 「何故、そんな殺生な言葉を!?」 ザビーネは驚愕した。 そんな酷い言葉聞いたことが無い。 そんな面持ちであった。 いや、お前らが親衛隊となってからこの4年の間に、似たような事散々言ってきたと思うぞ私。 もう死ねよ。 死んでくれよ。 私の側近はファウストだけでもういいや。 そう決意させる程に。 この4年は、ヴァリエール第二王女を胃痛持ちにさせただけの、そんな凄惨な4年間であった。 ヴァリエールは思う。 コイツ等騎士より、ファウストの従士長のヘルガの方が絶対有能だよ? そもそも、コイツ等って騎士教育本当にちゃんと受けたの? 教育放棄されてない? されてるよね絶対に。 もう面倒になって、皆が皆して、第二王女親衛隊と言う名の姥捨て山に捨てたんだよね。 実は猿山で拾ってきたチンパンジーだったよとか、そんな可能性は残ってない? ヴァリエールは親衛隊の事を、青い血として以前に人としての出自すら、もはや疑っていた。 だが、そこで立ち止まる。 「いや、チンパンジーの方がまだ賢い」 ヴァリエールは、チンパンジーの知性を信じることにした。 ウキィ、ウキィと鳴きながら私の前にひれ伏す15匹のチンパンジー。 その方が現実よりも、まだマシだった。 ああ、胃が痛い。 「ヴァリエール第二王女殿下、どうか、どうか我々を見放さないでください。親からも見捨てられ、家から追い出されるようにして来た身なのです。どうか!」 ザビーネが、ヴァリエールの足元に縋りつく。 ザビーネ達親衛隊と、ヴァリエール第二王女を繋ぐのは王家への忠誠ではない。 いらない子。 必要のない子。 そういった共感であった。 だからこそ、ヴァリエールはザビーネ達、ヒト科チンパンジー属を見捨てないでいた。 だが、もう限界だ。 しかし――そもそもコイツ等、何か勘違いしてないか? 初陣とはいっても、相手はただの山賊だぞ。 私はザビーネに言い聞かせるように口を開く。 「そもそも、初陣で死を考える必要はない。補佐してくれるのは第二王女相談役、ファウストだ。100を超える山賊たちの首を刎ね、ヴィレンドルフ戦では蛮族のレッケンベル騎士団長を討ち取った、我が国最強の騎士ではないかとも噂される『憤怒の騎士』だぞ!」 そう、ヴァリエール第二王女相談役。 『憤怒の騎士』、ファウスト・フォン・ポリドロ。 あの男が傍にいる限り、ヴァリエールは死ぬ可能性などハナから考えてもいない。 リーゼンロッテ女王や、アナスタシア第一王女ですら考慮に入れていないであろう。 「死ぬ可能性を考える暇があるなら、剣の腕でも磨いておきなさい!」 「そうだ、ポリドロ卿がおられましたな!」 ぽん、とザビーネは今思いだした、といった風情で手を叩く。 あ、絶対ろくでもない事言いだすぞ、このチンパンジー。 私には判るのだ。 この4年間の経験で。 そうヴァリエールは考えた。 「ポリドロ卿に我ら15人の処女の相手をしてもらいましょう。ヴァリエール様もどうで――」 そうして、無言で傍に置いてあった花瓶をザビーネの頭に打ち付けた。 ※ 「はあ、親衛隊隊長ザビーネ殿は怪我を」 「重症よ。頭の重症」 アンハルト王国、王宮。 ヴァリエール第二王女専用に与えられた居室にて、ファウストはポリポリと頭を掻いた。 「初陣の打ち合わせをしたかったのではありますが――頭を強く打たれたのでは仕方ありませんね。初陣には間に合うのですか?」 「間に合わせる。だけど今はマトモな話し合いはできないわ。初陣の打ち合わせは私達だけで済ませましょう」 「承知しました」 私は頭を下げて礼をし、従士長のヘルガが引いた椅子に座る。 そうして、テーブルに載ったアンハルト王国内の地図を見る。 「場所はアンハルト直轄領、その領民100程度の小さな村に派遣した代官の報告によれば、山賊の数は30」 「30相手ならば、私の領民の20と親衛隊の15でなんとかなりそうですね。正直、安全を考えれば敵の倍数は欲しいところでありますが」 「姉さまの指揮下とはいえ、倍数のヴィレンドルフを撃退したファウストがそれを言うの?」 ポリポリと。 私はまた頭を掻きながら、呟く。 あの戦はまさに死地であった。 レッケンベル騎士団長を討ち取らなければ、そのまま負けていたであろう。 正直、二度と経験などしたくない。 私は首をぶんと振り、過去を忘れ、話を元に戻す。 「この世に必勝など有り得ませんからね。出来れば、領民を領地より呼び寄せたいのですが――」 「すでに村周辺をうろついて、旅芸人や商人を襲っているという話。その時間は無いわ」 「なら、致し方ありませんね」 私は領民の更なる動員を断念した。 何、この世というのはままならない事ばかりだ。 それに正直言えば、山賊の30程度なら一人ですら、なんとかできる自信が私には有った。 『憤怒の騎士』という二つ名はその名づけの理由が理由ゆえ――実際は勃起が痛くて顔を赤く染めてただけ。 とにかく恥ずかしい二つ名なのだが、自分の騎士としての戦闘技量がもはや超人の段階に入っている事も自覚していた。 「では出立は三日後という事で」 「ええ、兵糧の準備も終わった。水の確保も、地図の道沿い通りに行けば問題無いわ」 「我が領民は軍役に慣れてはいるものの、徒歩のため、進行に遅れが出る可能性がある事をご了承ください」 「……恥ずかしながら、我が親衛隊も全員徒歩よ。馬何て用意するお金が無いの。馬に乗るのは私とファウストだけね」 ヴァリエール第二王女が顔を赤らめながら言う。 私は苦笑いした。 貴族とはいっても下の方、最低階位の窮乏具合は知っている。 何も恥ずかしがる必要はない。 馬を全員持っている、第一王女親衛隊の方がむしろ異様なのだ。 それに―― 「久々に、第二王女親衛隊の方々と御会いするのが楽しみです」 私は、2年前に一度会ったきりの少女たち。 まだ幼いとすら感じた少女たちが、18歳という嫁にも娶れる年齢になっている事に胸を膨らませた。 私が狙える、数少ない嫁候補の女性たち。 「え、ええ、そうね。ちゃんと、ちゃんとファウストの前ではキチンとさせるからね」 何故か、ヴァリエール第二王女は手で胃を押さえながら、私の言葉に答えた。 第9話 初陣における心構え 「やっぱり駄目だったよ!」 第二王女親衛隊隊長、ザビーネはさも残念そうな声で叫んだ。 親衛隊員の一人は答えた。 「いや、そりゃまあそうでしょうね」 納得できる回答であった。 よしんば、ヴァリエール様が了承したとしても、財務官僚が歳費をこの理由で、娼館に通う費用と言う理由で通すはずがない。 ハナから期待していなかった。 それでも止めなかったのは、もしかしたら……という希望であった。 未だ18歳にして処女たちの希望であった。 もしかしたらを期待してしまった。 それは罪なのだろうか。 「だが、代わりにいいことを聞いたぞ。いや、思いだしたというべきか。ポリドロ卿だ!」 「ポリドロ卿?」 第二王女相談役。 曰く、ヴィレンドルフ戦役における騎士個人としての最高武功を成した男。 アスターテ公すら詰みだ、と諦めかけた場面で、戦況を個人武勇で覆した男。 この国、唯一の男性騎士。 「ポリドロ卿がどうしたんですか?」 「判ってないな、お前等。ポリドロ卿だぞ、神聖童貞だぞ、領主騎士だぞ」 「はあ」 言わんとする事がわからない。 この第二王女親衛隊行きつけの安酒場には、15人全員が揃っていた。 せめて初陣前に酒を飲もうと、それぞれ財布の底を漁って銅貨を銀貨に変えて、酒樽を一つ買い切って。 この安酒場を15人で占拠していた。 「このアンハルト王国、ひょっとすれば最強の騎士かもしれない男だぞ」 「知ってます」 耳にタコが出来る程、吟遊詩人から英傑歌を聞いたわ。 ヴィレンドルフ戦役において、若かりしアスターテ公がヴィレンドルフ相手に唯一犯した戦術面での失態。 一時的な後方地域の崩壊。 より詳しく言えば、戦略拠点であるアナスタシア第一王女の拠点が蛮族の斥候に発見され、静かに浸透してきた30の精鋭による拠点への攻撃。 それによる通信機――魔法の水晶玉の一時的な不通。 水晶玉から響くのは剣戟の音と、死者の絶叫のみ。 まさかアナスタシア第一王女が殺されたのかと、アスターテ公の動揺が指揮下の常備兵に伝わってしまい、部隊は士気崩壊を起こし混乱した。 その動揺を狙い撃つかのようにして、倍数のヴィレンドルフ兵がアスターテ公指揮下の軍を包囲。 その最中、唯一状況を理解したポリドロ卿は、死地から脱出するため僅か領民20名ばかりを率いて50名の騎士団相手に突貫。 道を塞いだ雑兵を自ら剣で薙ぎ払い、騎士9名を打ち破り、蛮族の前線指揮官であった――レッケンベル騎士団長を一騎討ちにて討ち取り、その首を奪い取らず丁重にその場で返却し。 「強き女であった。私はこの戦いを生涯忘れないであろう」という言葉と共に、顔を真っ赤に染めた憤怒の表情で、硬直する敵兵達を無視して自陣に帰還してきた。 前線指揮官が倒れ、蛮族は一時的に硬直、停滞する戦場。 その間に、拠点にて敵を撃退したアナスタシア第一王女との通信は回復し、アスターテ公爵指揮下の常備兵達は士気を取り戻した。 絶対不利の戦況を、その個人の武勇によって覆した男。 そりゃ英傑歌にもなるわ。 そもそも男性騎士と言うのが、吟遊詩人にとって最高の題材すぎる。 「でもポリドロ卿は2mの身長で、筋肉質でガチムチの男じゃないですか」 一人の親衛隊が口を開く。 私は、余り好みじゃないなあ、の意である。 「でも、尻は最高峰だってアスターテ公は公言してるし。判ってないな。男はなんといっても尻だよ、尻」 もう一人の親衛隊が口を開く。 私は、尻派であるとの意である。 どうでもよいが、アスターテ公の発言は、本能が抑えきれず実際にポリドロ卿の尻を揉み「ああ、ポリドロ卿の尻は一度揉んだがとにかくよかった。私はもう、尻もみのことときたら、全く夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で尻もみをやるかな」という、怒り狂ったポリドロ卿指揮下の領民に取り囲まれながらの狂気の発言であり、それは吟遊詩人の狂歌だと世間には思われていたが―― 全て事実であった。 アスターテ公はポリドロ卿に尻揉み代、謝罪金を支払う事で、地獄からは何とか逃れた。 そして話は親衛隊に戻る。 「男はチンコだろ、チンコ。チンコついてりゃそれでいい。もうなんでもいい」 更にもう一人の親衛隊が、また口を開く。 彼女は断然チンコ派であった。 つまり、猥談であった。 完全に猥談に進化――いや、退化していた。 この親衛隊はいつもそうだ。 口を開けば猥談ばかり、暇さえあれば訓練所にて剣や槍を振り回している。 脳味噌筋肉であった。 チンパンジーであったのだ。 いや、その表現はチンパンジーに失礼とさえ言えよう。 だが、ザビーネ達親衛隊はそんな世間の評価を一顧だにしなかった。 誇り高いのではない。 ただの恥知らずであった。 「もう一度言う、お前等。ポリドロ卿だぞ、神聖童貞だぞ、領主騎士だぞ」 「だから、それがどうかしたのですか?」 今まで黙っていた親衛隊の一人が口を開いた。 だから、何が言いたいのか。 それを問う言葉であった。 「ポリドロ卿の嫁になれば――この貧乏生活から逃げ出せる」 シン、と安酒場が静まり返った。 親衛隊の15人が口を噤んでいた。 そして、それぞれ勝手な思惑を考えていた。 妄想である。 それは、紛れもなく妄想であった。 一代騎士の最低階位の自分が、領主騎士に成れる! 童貞の夫が、手に入る。 それは、自分達にとって夢のまた夢のような話だ。 「諸君、私達はわずかに15人。最低階位の一代騎士にすぎない!」 だん、と親衛隊隊長であるザビーネが、テーブルを叩く。 テーブルの載ってるエールが僅かに漏れた。 「しかし、しかしだ。諸君らは性欲に燃える、自分が一騎当千だったらいいなあと妄想する戦争処女だと私は知っている」 あ、エールが勿体ない。 ザビーネはそんな感じで、テーブルにこぼれたエールを舐めようとしながらも。 ――自分はこれでも青い血なんだぞ、とそれを止め。 次にテーブルを叩いた時にはエールが漏れないよう、それをグビリと飲み干す。 「げぷ」 ザビーネはゲップをした。 一気飲みの代償であった。 ゲップを吐き終え、ザビーネはまた喋り出す。 「ならば、我ら15人は敵同士。もはやこの場で憎み合う相手となる!」 ポリドロ卿の嫁になれるのはただ一人。 当然、我ら親衛隊15人はもはや敵同士であった。 死んでくれ、かつて我が友であった女よ。 お互いに睨み合う。 「だがしかし! だがしかしだ! もう一つ手がないでもない」 ザビーネは親衛隊を落ち着かせるように次の言葉を吐き、そして提案する。 「今からポリドロ卿の所に行って、処女捨てさせてくださいと、全員で土下座してお願いしよう。そうすれば初陣前に処女を捨てる願いだけは叶うかもしれないよ」 「それは嫌です」 ある親衛隊員の一人が返した言葉。 それはザビーネを除いた、全員の総意であった。 何だかんだ言ってクソ甘いヴァリエール第二王女殿下に、今度こそ確定でブチ殺されるもの。 そんな総意であった。 ともあれ、初陣である。 初陣では、我らがヴァリエール第二王女殿下と、将来の夫(妄想)であるポリドロ卿にいいところを見せなければならない。 だから、一時的に猫を被っている事にしよう。 出来るかどうかはわからないが。 正直、自分でも自信はないが。 いや、本来の自分の方がポリドロ卿はひょっとして好みなのではないかな。 そんな身勝手な妄想を抱きながら―― 15人の第二王女親衛隊は、宴会を御開きにし、安酒場を後にした。 ※ 私は姉上が、大の苦手である。 その美貌に相反するような、蛇の、爬虫類じみたその目の眼光が、私を射抜くと動けなくなるのだ。 というか、誰だってそうじゃないのかな。 あのファウストですら、姉上の事は苦手そうにしていた。 「ヴァリエール」 姉上である、アナスタシア第一王女が口を開く。 「何ですか、姉さま」 私は、その視線を合わせないようにして答えた。 何故か、私は姉上の――第一王女専用の居室に呼ばれて、長椅子に黙って座っていた。 まさか、いきなり殺されはしないだろう。 殺すなら、もっと前にやっている。 そんな事を考えながら、ヴァリエールはやはりビクビクとした自分の心境を抑えきれないでいた。 「今から初陣における心構えを教えます。よくお聞きなさい」 「はい」 初陣の心構え? まさか、姉上が妹に親切心を出した。 いいや、まさかな。 私は子供の頃、何時も姉上の視線に怯えながら、父上の影に隠れて逃げ回っていた。 今思いだせば、それが余計に姉上の怒りを買っていたのであろう。 その事実に気づいたのは、父上が亡くなり姉妹の会話が少なくなってからの話であるが。 「戦場では何が起こるか判りません。事前に得た情報に齟齬が生じ、ほんの数時間後には間違っている事があります。後方の安全圏にいると思いきや、突如として敵の精鋭が襲い掛かってくることがあります。――そして」 姉上が、目を閉じながら、何かを想いだすように呟く。 「自分にとっての愛する人間が、死ぬことすら平然と起きます」 「……」 私は沈黙する。 姉上が、愛する人を亡くした? 姉上が愛する人など、この世に我が父一人ぐらいのものだと思っていたのだが。 「ヴァリエール、貴女、私の感情が木や石で出来ていると思っているのですか? 父上以外にも愛する人などおります」 心中をあっさり見抜かれた。 だから嫌なのだ、姉上と話すのは。 私はオドオドとしながら、姉上に質問する。 「姉さまは、愛する者を戦場で失ったことが?」 「ヴィレンドルフ戦役。そこで、本陣に敵の浸透してきた30の精鋭が押し寄せ、才能ある親衛隊30の内、10名をも失いました。全て、私に忠誠を誓う貴重な人員でした。……使える人材であったのに」 いや、それを愛する人と言うのか。 姉上の発言からは、情と言う物がやはり感じ取れない。 本当に愛する人とそれを言うのか? 私は疑問に思いながらも、初陣経験者の貴重な体験談だ。 ファウストからも聴けたが、アイツ初陣から「敵山賊30名の内、20名を自分で斬って捨てました」とか殆ど英傑談のようで参考になんない。 後は山賊と繋がっているらしき怪しい村の村長を拷問して、口を割らせる方法とか。 いや、それは今回使うかもしれないが、そんな知識欲しくはなかった。 ファウストは、真面目で朴訥ではあるが、どこか少しズレている。 「まあ、補充はヴィレンドルフ戦役の後の、この二年の間に行えましたので良いのですが」 そんな私の思考を無視して、姉上の言葉は続く。 やはり情は感じられない。 姉上は、父上以外の人を本気で愛したことなどあるのだろうか。 良く判らない。 今は自分の相談役のファウストに眼を付けているようだが、それは私と違って――父と似た、面影。 それを求めてのものでは、きっとない。 やはり、我が王国最強騎士である「憤怒の騎士」を指揮下に置きたいからであろう。 そう思う。 「ヴァリエール」 名を呼ばれる。 「貴女は、愛する者が目の前で死にゆく状況下でも、冷静に対処することができますか?」 「……」 それは姉上の視線と相まって、まるで詰問のようであった。 私にとって愛する者? それは一体誰であろう。 チンパンジーたち、第二王女親衛隊か。 それともファウスト・フォン・ポリドロの事か。 判らない。 私には、姉上が何を言いたいのかよく判らなかった。 「――私の初陣における心構えの教練は以上です」 「え」 もう終わりなのか。 僅か数分で終わった気がするのだが。 私は呆気にとられながら、姉さまの顔を見る。 相変わらず、目が怖い人だった。 「ヴァリエール。ここから出ていきなさい。自分の居室に戻りなさい」 「はい」 視線を合わせてしまった私は、黙って頷くことしかできなかった。 第10話 初陣式 「あの子に、初陣における心構えを教えたそうですね」 私はカップの中の紅茶から唇を離した後、アナスタシアに話しかける。 ここは王宮の庭先のガーデンテーブル。 目の前には我が娘であるアナスタシアが、いつもの蛇の眼光で私を見据えながら、同じく紅茶を喫していた。 「どこからその話を? 母上」 「ヴァリエール本人からですよ。先日初陣に出る前に話しかけたところ、そのような事を」 紅茶に口をつける。 そしてそのまま口に含んで、一口分飲み干した後に。 再度、口を開く。 「私達の会話から侍童にそれが漏れて、法衣貴族の間では話題になっていますよ。あのアナスタシア第一王女にも、妹にかける情があったのかと」 「失礼な。情はあります」 アナスタシアは、いつもの鉄面皮で吐き捨てた。 「もっとも、自分でもなんでこのような事をしたのかは判りませんが。私はあの子が嫌いです」 「あら」 アナスタシアが、自分の心の内を、その好悪を率直に述べるのは珍しい。 少し、感情的になっているのであろうか。 「子供の頃は、いつも私に怯えて父上の影に隠れてばかり。父上が亡くなってからも、いつも私の顔色を窺ってオドオドして。ハッキリ言います。嫌いです」 我が娘、ヴァリエールは凡人に育った。 まるで、先に産まれたアナスタシアに才能の全てを奪われたかのようにして。 あの子がもはやスペアとしても相応しくないと、私が女王としての立場からあの子を見限ったのは、あの子が10歳の頃の話である。 アナスタシアのもしもの事があった時――つまり死んでしまった時は、第三王位継承者であるアスターテ公爵にこのアンハルト王国を継いでもらおう。 そう考えてすらいた。 アナスタシアが16歳まで立派に育った今となっては、もはや無用の心配となりつつあるが。 「そういえば、あの子はよく幼い頃ベッドに潜り込んで来たわね。懐かしいわ。夫にしがみ付くようにして眠っていた」 おかげで、今は亡き夫との夜の営みが、あの子が生まれてからというもの少し減った。 ――少し、恨んでいる。 もっとも、あの人が毒殺されるような事がなければ、恨みに思うような事など無かったろうが。 未だに犯人は見つからない。 どうしても、諦めきれないでいるのだが、調査にも人員と費用がかかる。 そろそろ、諦め時か。 憂鬱な溜息をつく。 そして、また口を開く。 「貴女、ヴァリエールの事を本当に嫌っているのね」 アナスタシアが、私の言葉に回答する。 「……さすがに死んで欲しいとまでは思っていません。あれでも父の子です」 アナスタシアには、複雑な心境があるようだ。 それはヴァリエールを可愛がっていた亡き夫に対する義理ゆえなのか、それとも妹への家族愛なのか。 それは私にもわからない。 わからない事を、情けない――とは思わない。 私は母親である前に、選帝侯たるアンハルト王国のリーゼンロッテ女王である。 為政者として、統治者として必要な物は情ではない。 むしろ、情への理解は時として邪魔にすらなり得る。 ヴァリエールは能力も平凡ながら、それ以上に情があり過ぎた。 あの子をスペアとして見限ったのも、悪いとは思わない。 私が判断を誤る事は、臣民に対する裏切りである。 限りなく強く、誰よりも賢くならねばならない。 まあ、それはよい。 話を少し変えることにしよう。 この国の未来の事だ。 「……吟遊詩人。吟遊ギルドに戦略ではアナスタシア、戦術ならばアスターテ、そう謳わせたのはよかった。これで、自然と序列が決まった」 「あれは、母上の仕業でしたか」 吟遊ギルドに金を握らせて、そう謳わせた。 国家中枢を将来担うのはアナスタシア第一王女であり、アスターテ公爵はその手足となって見事に働く者であると。 それが各々が持つ能力からして、正しい姿であると。 そういう風に、国内世論を誘導した。 このアンハルト王国には第二王女派閥が無い代わりに、かつて公爵派閥とも言うべきものが存在した。 アナスタシア第一王女より、アスターテ公爵を王にと言う声は公爵領からも、公爵が抱える強力な常備兵に世話になっている地方領主達からも挙がっていた。 ヴィレンドルフ戦役前には、確かに存在した派閥。 今、それはもう無い。 ヴィレンドルフ戦役後には、完全に第一王女派閥として吸収されていった。 もっとも、それはアスターテ公爵自身が王位など別に望んでいない事が、大きく影響していたが。 それでもきっと――もし、ヴァリエールが王位に就いたとしたら。 「ねえ、アナスタシア。仮にヴァリエールが貴方の代わりに王位の座に就いたとして、アスターテは従うと思う?」 「思いません。おそらく国のため公爵領のため、趣味に合わないとブツブツ呟き、嫌々ながらも王位を簒奪するでしょう。ヴァリエールでは勝負にすらならないと思います」 そうよねえ。 私は自分の考えをアナスタシアに肯定され、やはり自分の判断は間違いでは無いと納得する。 アスターテ公爵は、ハッキリ言ってヴァリエールの事を見下してすらいる。 嫌いなのだ、凡才が。 逆に、例えばファウスト・フォン・ポリドロのように、星のように煌く才能の持ち主への、嫉妬の欠片すらない好意は、私でも理解できないものが有る。 事実、王位を争うべきアナスタシアへ、アスターテ公爵は好意を昔から寄せていた。 第一王女相談役になるのも、彼女自身から言いだした事だ。 自由人なのだ、要は。 アスターテ公爵の事を一言で表すと、誰もがそうなる。 爵位やしがらみから少し外れたところで、自分が思うがままに自由に生きているのだ。 少し、羨ましく思う。 私も自由になりたいときがある。 ――ファウスト・フォン・ポリドロ。 時々、今は亡き我が夫の生まれ変わりではないかと錯覚する時すらある。 事実、ヴァリエールが自分の相談役を見つけたと、ファウストを王宮に連れて来た時は思わず錯覚してしまった。 年齢的に、そんなはずはないのに。 欲しい。 あの男が、ただ欲しい。 「……」 冷めてしまった紅茶を、最後まで飲み干す。 それは私のゆだった頭を静めてくれた。 手に入るはずもない。 我が娘、アナスタシアがあの男に執着している。 亡き夫の影を、私と同じように見たのか、純粋に愛しているのか。 それは知る由も無いが。 「アナスタシア」 名を呼ぶ。 「はい」 それに応じて、アナスタシアがその蛇のような視線を、私と合わせた。 「ヴァリエールが初陣から帰ってきたら――貴方にいつ女王の座を譲るべきか、そろそろ決めましょう。おそらくは夫を取るのと同時のタイミングになります。貴女が欲しいのは、ファウスト・フォン・ポリドロ? 正式な夫としては認められないわよ」 「はい。正式な夫とするのは諦めております。そして、どうやらアスターテと共有することになりそうですが」 アナスタシアは、私の言葉を当然の事であるかのように応じた。 ※ 「見送り一つ無し、か……」 姉上の、アナスタシア第一王女の初陣では王都中の住民達が溢れかえらんばかりで、第一王女とそれに従う親衛隊たちを見送ったというのに。 それは無い。 まるでこっそり、隠れているかのように誰の見送りも無しに、私は王都から初陣へと旅立った。 まあ、蛮族ヴィレンドルフ相手の大戦とは違う。 ただの山賊退治で住民の見送りがあるはずもない。 そして、我が親衛隊15名は家に見放されたものばかりだ。 家族の見送りが無い。 ゆえに、見送りが一切無いのも当然である。 「リーゼンロッテ女王とは初陣前に会話したのでしょう? アナスタシア第一王女から初陣の心構えを教えて頂いたとも聞きます」 慰めるように、私の横で座るファウストが呟く。 母上とは、日常でする、ただの会話だ。 初陣への激励一つ貰っていない。 姉上とは――正直言ってよく分からない。 姉上の会話は、あまりにも端的すぎるのだ。 最後にはまるで会話するのが面倒臭くなったかのように、話を打ち切られてしまった。 だが、ファウストを失望させたくはない。 「ええ、そうね」 私は自分の顔を、心とは裏腹に笑わせた。 それにしても、だ。 「ポリドロ卿の領民より足が遅いってどういう事よ、ザビーネ!」 「装備が重たいんですよ! チェインメイルが特に!」 「チェインメイルなら、ポリドロ卿の従士達も装備してるでしょーが!」 我が親衛隊長、ザビーネの言い訳を一言で切って捨てる。 遅いのだ。本当に遅いのだ。 今は予定にすらない休憩中で、ザビーネ達親衛隊は地面にへたり込んでいる。 お前等脳味噌筋肉だろう? いつもの元気の良さはどうした。 お前等チンパンジーから元気を奪えば、もはや何もそこには残らないぞ。 無だ。 無がそこにあるだけだ。 「行軍は、慣れですから。初陣のザビーネ様達が疲れるのは無理もないと思います。何、行軍中に慣れます」 ポリドロ領従士長のヘルガが、慰めるように声をかけてきた。 情けない。 本当に情けない。 顔が真っ赤に染まりそうになる。 「まあ、初陣ですから」 ファウストの慰めの言葉が、虚しく聞こえた。 初陣で20名を斬り捨てた男に言われても、何の慰めにもならない。 全く、もう。 とはいえ、馬に乗っている私も軽く疲れていた。 王都から出たのは、産まれて初めてだ。 それがこんなにも緊張感をもたらすとは。 道行く中にそびえたつ木々に、盗賊が潜んでやしないか。 突然、迷い込んだ熊が襲ってきやしないか。 そんな事ばかり考えている。 臆病なのだ、生まれつき。 子供の頃から、あの恐るべき姉上と、向き合うことすらできなかった。 いつも父上の影に隠れて、そのズボンの裾を掴んで、姉上の視線から逃れていた。 父上が好きだった。 私はファウストの顔を見る。 「……? ヴァリエール様?」 ファウストが訝し気な声を挙げる。 それを無視して、ファウストの顔を私は見つめる。 落ち着く。 我が父上を想いださせ、落ち着くのだ、ファウストの顔は。 自分の、永遠に失われた幼少時代を思い起こさせる。 ――父上の毒殺とともに、永遠に失われた幼少時代を。 うん。 何故、父上は亡くなってしまったのであろう。 何故だ。 誰に殺された。 父上は、誰からも愛された人であった。 法衣貴族にすら、その容貌を揶揄する人はいても、心の底では親しまれていた。 何故だ。 母上が、リーゼンロッテ女王が半ば発狂しながらも、人員、費用問わず探し出そうとしても見つからなかった犯人と原因が、今更見つかるはずもない。 心の底から残念だ。 父上の仇ならば――私ですら、悪鬼になれたかもしれないのに。 そう思う。 この臆病な薄皮一枚を破れたかもしれない。 この、どうしようもない、幼少の頃から張り付いた、臆病な薄皮を。 「ヴァリエール様、どうかされましたか」 ファウストの言葉に、気を取り直す。 亡き父上の事は仕方ない。 もう諦めてはいる。 そろそろ母上は犯人の捜索を、打ち切るだろう。 冷静になった母上なら、きっとそうする。 凡人の自分でも、それぐらいの事は理解できた。 「なんでもない、なんでもないんだよ、ファウスト」 世の中は、思うとおりに進まない。 産まれた時から知っている事だ。 この、アナスタシア第一王女に才能の全てを奪われたのではないか、と法衣貴族に揶揄される凡人の私にとっては、生まれた時から知るべきだったことだ。 だが、この張り付いた臆病な薄皮一枚を剥がす事だけは、死ぬまでにしておきたかった。 もし、この初陣が上手くいくのであれば――剥がす事が出来るのだろうか。 ヴァリエールはそんな事を考えながら、身体を少し休めるべく、静かに目を閉じた。 第11話 初陣失敗? アホや、コイツら。 ファウスト・フォン・ポリドロは、第二王女親衛隊をやや蔑んだ目で見ていた。 リーゼンロッテ女王による、スペアに対するミソッカスの廃棄場所。 かつて自分でも口にしたように、第二王女親衛隊はそういう奴等何だと認識していた。 まさか、それ以上に酷いとは思わなかった。 「人から聞いた話では! ヴィレンドルフのチンコは特大チンコ! うん、よし! 感じよし! 具合よし!」 猥歌である。 第二王女親衛隊15名は、行軍初日でへたりこんでいた元気の無い様子とは打って変わった元気ハツラツの様子である。 コイツ等、行軍に三日で慣れやがった。 私とて最初の初陣での行軍中は、領地から初めて出た気疲れで、動きに精彩を欠いたものだが。 コイツ等、たったの三日で行軍に慣れやがった。 最初だけ躓いただけなのか、それとも精神がどっかイカれてるのかは知らんが。 なんにせよ、繰り返すようだが、第二王女親衛隊は行軍に慣れた。 ヴィレンドルフ戦役にて、騎士団50名に特攻した際、ずっと私のケツに誰一人欠けずついてきた我が領民20名の古強者たち。 その行軍ペースに合わせて行動してくれている。 それはいい。 それは、とてもいい事なんだが。 「すべてよし! 味、よし! すげえよし! お前に良し! 私に良し!」 親衛隊15名全員による猥歌である。 これには私も閉口した。 行軍中に歌を歌うのは、まだいい。 なんで猥歌やねん。 「ザビーネ、その歌を今すぐ止めなさい……」 ヴァリエール様は、心の底からウンザリした様子で呟いた。 最前方で歌を歌っていたザビーネ親衛隊長が振り返り、第二王女に言葉を返す。 「ヴァリエール様。お言葉ではありますが、行軍中に歌う事は、遥か古代から兵に与えられた権利でありますがゆえに」 自信満々の顔で答えた。 アホやコイツ。 そもそも、お前等は一般兵と違うだろ。 一代騎士の最低階位とはいえ、青い血で騎士だろ。 「貴女達、兵であるまえに騎士でしょうが。そもそも……ファウストの前でだけは、止めて」 ヴァリエール様が私の顔色を伺いながら、嘆くように呟く。 猥歌はピタリと止んだ。 今更、私が、男性騎士が居ることを思い出したのかよ。 「あれ、でもファウスト。顔を赤らめてないわね。セクハラに弱いって聞いたけど」 ヴァリエール様が、私の顔色を窺いながら呟く。 確かに、世間での私は、アスターテ公爵のセクハラに顔を赤らめる純情な男だと認識されているらしい。 実際はアスターテ公爵の激しいボディタッチ――爆乳を身体に押し付けられた際、勃起したチンコが貞操帯に当たって痛くなって、顔を赤らめているだけだが。 だが、こんな酷い猥歌で顔を赤らめる理由がどこにある。 「セクハラと言いますか、なんというか残念具合に声も出ません」 正直に、心中の言葉を返す。 「御免なさいね、ほんと御免なさいね」 第二王女としての立場の違いを無視するようにして、ヴァリエール様は頭をこちらに下げてきた。 いや、貴女は悪くない。 このアホどもが悪いのだ。 私はため息をつく。 「ポリドロ卿、失礼しました。では別の歌を……英傑歌なんてどうでしょう」 「それも止めておきましょう。そろそろ目的地に近い」 私はザビーネ殿が再度歌いだそうとするのを、止める。 もうすぐ目的の村だ。 「敵は――山賊は、村周辺をうろついて、旅芸人や商人を襲っているという話です。これより先は、襲いかかってくる可能性があります。皆さん、警戒を」 私は全員に臨戦態勢を命じる。 あと2時間もしない内に、村につく予定である。 私は従士長たるヘルガを呼び寄せ、ヘルガを含めた従士5名にクロスボウの準備をさせる。 私の領地が所有しているクロスボウ5本は、アンハルト王国で広く用いられる滑車で弦を引く方式のものである。 全て、15歳から20歳までの軍役中に敵の所有物から奪い取ったものだ。 敵に用いられた時は脅威であったが、使ってみればこんな便利な物はない。 上手く当たれば、騎士ですら一撃で殺せる。 相手が弓矢を剣で弾き落とす、超人の類でなければだが。 つまり、アナスタシア第一王女や、アスターテ公爵や、私がかつて破ったレッケンベル騎士団長のような。 そして、私のような。 「クロスボウの準備が出来たら、村に向けて行軍を再開します」 敵数は報告によれば山賊30名。 いつもの軍役と変わらない。 恐らく逃げる山賊たちのケツを追い回すには手間を取らされるだろうが、殺すだけなら楽な作業だ。 まずクロスボウを打ち込んで鼻っ柱をへし折った後、全員斬殺してやる。 今回は初陣であるヴァリエール第二王女、そしてその指揮下の親衛隊に花を持たせなければならないのが面倒だが。 何、行軍の様子を見る限りでは実力は本物のようだ。 山賊程度なら、キルスコアを稼がせてあげられるだろう。 ヴァリエール第二王女にも、捕縛した山賊の首一つくらいは刎ねてもらおうか。 そんな事を私は考えていた――正直、油断していた。 クロスボウの準備を終え、村へと向かう最中。 魔法の眼鏡。 いわゆる双眼鏡。 今回の初陣に際して、王家に申請して借り受けていたそれをヘルガが使いながら、私に対し報告を挙げた。 「村が、荒らされている様子があります。いくつか死体も」 私は舌打ちをし、荒くれ者とはいえ、たかだか30名の山賊に、王国から派遣された代官に率いられた100名の村人が負けた理由。 それを頭の中で探し始めた。 ともあれ、急ごう。 警戒は緩めないように。 私は全員に、ヘルガの報告を告げた後、更なる警戒を呼び掛けた。 ※ 小さな村の、小さな代官屋敷にて。 ヴァリエール様は声を荒げた。 「山賊の数が100名を超えているだと。いや、そもそも正確には山賊ですら無いだと! 全く報告と違うではないか!」 「誠に、誠に申し訳ありません」 ヴァリエール様の悲鳴のような叫び声。 名と身分を名乗ったヴァリエール第二王女に膝を折り、礼を整えながら代官が謝罪する。 王国から村に派遣されている代官は、腕に重傷を負っていた。 いや、そもそもコイツ何故まだ生きている。 私は疑問をそのまま口に出す。 「それは本当の事か? 村が襲われ、死者多数。僅かな財貨、そして男や少年達は全て奪い去られた。この状況で、先頭に立って抵抗を指揮していたはずのお前が何故まだ生きている。その時点で信用ならん」 「貴方は?」 「ファウスト・フォン・ポリドロ」 「……貴方が、あの憤怒の騎士」 短く自己紹介。 そして私は横合いから、詰問を続ける。 「もう一度聞こう。何故お前は生きている」 「恥ずかしながら、正直に申し上げます。敵のクロスボウで腕を撃ち抜かれ、その後地面に馬から落ちた際に頭を強く打ち、そのまま気絶しておりました」 代官が顔を赤らめながら、自分の恥を告白する。 嘘はついていないようだ。 私が軽く頷くと、ヴァリエール様が代官に話の続きを聞き始めた。 「……何故、最初の報告と違った。最初の報告では山賊が僅か30名。村周辺をうろつき、旅芸人や商人を襲っているから助けてくれとの報告であった」 「状況が変化した後、再度報告に村人を走らせました。その様子では――」 「届いていない。今頃、報告を受け取った王城では大騒ぎだろう。だが我らは事情が分からん。詳しく話せ」 ヴァリエール様が、頭を抱えながらも質問を続ける。 正直言って、横で話を聞いている私も頭を抱えたい状況だぞ、これは。 「最初は、確かに山賊30名だったのです。しかし、その山賊団は他の軍勢に吸収されました」 「吸収? 他の軍勢?」 「近隣の、地方領主が有する1000名程度の街で家督争いがあったのです。それも従士達家臣や領民を含めた、血で血を拭うような酷い家督争いが」 嫌な雰囲気になってきた。 続き聞きたくない。 ヴァリエール様もそんな顔をしている。 「結果は順当に長女が勝ち、次女は敗れたのですが――長女が怪我を負い、混乱した状況下では、その次女の首を刎ねる暇はありませんでした。結果、次女は次女派であった従士や領民達と一緒に手にとれるだけの物を領主屋敷から奪い取って、武装した姿のまま街から逃げ出したのです」 ほうら、凄く嫌な話になった。 ヴァリエール様も思い切り顔をしかめている。 「そして次女と、その家臣たちは山賊団に遭遇。そこで何があったのか――どんな話が有ったのかまでは判りかねます。ですが、結果的に山賊団は吸収され、結果100名の軍勢が出来上がり、この村に攻め込んで来たのです」 「……何故お前はそこまで詳しい事情を知っている」 「その地方領主の長女に指示された領民が、この村に駆け込んで事情を伝えてきたのです。逃げてくれと」 逃げてくれじゃねえよボケ。 お前がキッチリ次女を殺しとけばこんな事態になってないだろうが。 追撃の軍を編成して、キッチリ追いかけて殺しとけよボケ。 第一、下手すりゃ村で生涯を終える様な小さな村の領民が、家を、畑を、全ての財産を置いてそう簡単に逃げられるものか。 私は心中で愚痴を吐き続ける。 「気づいた時には、軍勢が村に迫っておりました。私は抵抗しようと、村人を集め、男や少年たちを代官屋敷に隠し、軍勢に挑みましたが――」 「結果、敗れたと」 村の惨状は酷い有様だった。 まだ腐臭を放っていない女達の新鮮な死体が散乱し、幾つかの首は子供の玩具のように、地面に転がっていた。 「誠に、誠に申し訳ありません」 代官は涙を流しながら、もはや膝を折るのもやめ、地面に頭を擦り付け平伏していた。 どうしようもない。 青い血――今では青い血崩れと呼ぶべきだが、領主騎士のスペアとしての教育を受けた首領に、それに付き従う武装した従士や、恐らく軍役経験者の領民達。 それに加えて、盗賊としての経験を持つ山賊団。 しかも数の上ですら負けているのだ。 これで負けても、責められるべき点はない。 責められるべきは、次女を逃がした原因。 この最悪な事態を引き起こした地方領主の長女だ。 王宮に呼びつけられ、女王陛下に散々罵られるのは確定だろう。 小さな村とはいえ、直轄領に手を出されたのだ。 ひょっとすれば、地方領主としての地位も危ういかもしれない。 それはさておき―― 「どうするか。私はこれからどうするべきなのか。教えてくれファウスト」 ヴァリエール様が、懇願する目で私を見ていた。 私の立場は第二王女相談役である。 当然、補佐しなければなるまい。 結論から言おう。 「敵の今後の行動を予測します。まずこの直轄領は敵国ヴィレンドルフの国境線に近い」 「というと」 「敵は100名と多数。アンハルト王国領内で成敗される前に、国外への脱出を試みる」 「あの蛮族の国に逃げ込むという事か!」 ヴァリエール様の口から、歯ぎしりの音がした。 「どうする? 兵力が足りない。援軍は来る?」 「援軍は来ます。必ず来ます」 恐らく、公爵領の常備兵200を現在、王都内に駐留させているアスターテ公爵が来るであろう。 アスターテ公爵の元、その強力な常備兵200を相手にすれば、いくら青い血崩れだろうとひとたまりもない。 だが。 出陣準備には時間がかかる。 今頃は大焦りでその準備中であろうが。 「ですがおそらく、援軍は間に合わないでしょう。この村で援軍を待つ間に、青い血崩れ達は、蛮族ヴィレンドルフの領内に逃げ込むでしょう」 男や少年達、それに領主屋敷から奪った財貨を運んでいるのだ。 その足は遅い。 だが、援軍が来るよりは早い。 必ず、青い血崩れ達は――ああ、面倒くさい。 「代官、その次女の名前は何というか判るか」 「確か、カロリーヌと」 カロリーヌか。 「カロリーヌ達がヴィレンドルフ領に逃げ込む方が、援軍到着よりも早い。その現実があります」 「つまり、私は何とすればよい」 ヴァリエール様が、真っ直ぐ私の目を見つめる。 この事実を伝えるのは正直辛いが。 「初陣は失敗です。領民20名、親衛隊15名、そして私とヴァリエール様合わせ37名で100を超えるカロリーヌ達青い血崩れを討ち取るのは不可能です。どうか追跡断念の決断を」 本当は、自分ならば勝ち目が無いとまでは言わない。 だが、このような不利な戦況下に我が領民を巻き込み、その命を失うのは御免だ。 ヴァリエール様とて、このような戦で親衛隊の命を失うのは本意ではないだろう。 本当に、残念ではあるが。 私は自分の考えを冷徹に、ヴァリエール様に告げた。 第12話 ザビーネの扇動 まず私の脳裏に浮かんだのは、姉上の言葉であった。 「戦場では何が起こるか判りません。事前に得た情報に齟齬が生じ、ほんの数時間後には間違っている事があります」 姉上の、戦場での心構えにおける言葉。 あの言葉は、まさに正しかったのだ。 今、それを痛感している。 私は――ヴァリエール第二王女は、歯ぎしりしながら現実を受け止める。 そして相談役であるファウストの言葉を聞いた。 「初陣は失敗です。領民20名、親衛隊15名、そして私とヴァリエール様合わせ37名で100を超えるカロリーヌ達青い血崩れを討ち取るのは不可能です。どうか追跡断念の決断を」 初陣の失敗。 それは拙い。 お前は知らないだろうが、それは拙いのだファウスト。 お前を、姉上に奪われる。 山賊退治に失敗した場合、ファウストは私の相談役から解任する。 そして姉上アナスタシアの下に付ける。 そう母上から告げられているのだ。 私の心音が、激しく鳴る。 ここで私はお終いか。 そうさ、お終いさ。 凡人には相応しい末路だろう。 そう、心のどこかで囁く声がする。 相談役である、ファウストが反対しているのだ。 そして、その意見はどこまでも正しい。 お前はここでお終いさ。 もう一度、心の何処かが囁く。 相談役であるファウストは姉上に奪われ、私自身は、山賊相手に逃げ帰って来たと事情も良く知らぬ民衆や法衣貴族に嘲笑されることであろう。 俯き、唇を噛み締めながら、王宮を歩く自分の姿が思い浮かぶ。 だが、どうしろと言うのだ? 他に選択肢など無い。 反対するファウストや、私に付き従う親衛隊に無駄に命を散らせよとでも? それは出来ない。 私には、出来なかった。 ――そこが私の限界点。 私は、自嘲する様に笑みを浮かべた。 「判ったわ、ファウスト」 撤退を、決意する。 この小さな村の、小さな代官屋敷から出て、王都へと逃げ帰ってしまおう。 そして、アンハルト王国の第二王女、使えないスペアとして、姉上が女王の座を引き継いだ暁には僧院にでも籠ってしまおう。 そう考える。 私は代官屋敷から表に出る。 心配そうな顔をしている、ザビーネを引き連れて。 代官屋敷から出ると、そこには――生き残った、この小さな村の住人達が集まっていた。 「軍の方々。どうか、どうか、我が夫をカロリーヌから、あの悪鬼どもから連れ帰り下さい」 「いいえ、我が息子をどうか。あの子はまだ10歳なのです、どうか」 「どけ、私がお頼みするんだ……そこをどけ!」 嘆願であった。 小さな村の、小さな幸せを奪われた者たちの嘆願であった。 老若問わず、女たちが私にひれ伏して、男達を連れ戻すことを嘆願していた。 私には、それに答えることができない。 できないのだ。 ひっ、と自分の怯えるどこか、薄皮一枚被ったオドオドした臆病な姿が顔を出しそうになる。 そんなこと、無理だ。 私を頼りにしないでくれ。 頭を抱え、縮こまりたくなる。 誰か、止めてくれ。 代官やファウストが、代官屋敷から表に出てきて、騒ぎを止めようとする。 「止めんか、止めろ、お前等……」 代官の必死な叫び。 「……」 沈黙し、憐れむように、女たちを眺めるファウスト。 「……」 そして、最後に、私の背後に付き従っていた親衛隊長であるザビーネが私の前に立ちふさがり、叫んだ。 「ガタガタ騒ぐな! この死人共が!!」 人の心の底まで響くような、強烈な叫びであった。 事実、私の心には届いた。 ――死人。 私にはお似合いの言葉だ。 そう心の中で、自嘲する。 「死人……? 死人とはどういう意味で」 先ほどまで、私に泣き縋っていた女の一人が声を挙げる。 「死人は死人だ。他に何と言い様が有る」 不思議そうにザビーネは答えた。 ザビーネは何を言っているのか? 私にもよく理解できない。 「お前等、何故まだ生きたフリをしている。何故、あそこに転がっている死体と同じように死んでいない」 ザビーネは、村の中に転がる死体に指をさす。 その死体は酷く身体中を殴られ、首を刎ねられ、哀れな亡骸を晒していた。 「あの女は――彼女は、最後まで息子を取られまいと抗ったのございます」 「ならばこそ! お前等は何故抗っていない! 何故生き恥を晒している!!」 ザビーネの激昂。 ザビーネがここまで怒るのは、初めて見た。 「縋るな! 我が殿下に縋るな!! 何もしてない死人共が、我が殿下の足元に縋るな!!」 もはや悲鳴のようにまで聞こえる、ザビーネの絶叫。 それは私の心の奥底にまで伝わるようであった。 「お前等は死人だ! 最後まで抗わなかった死人が、我が殿下に縋るな!」 「私達が何の罪を犯したと――軍は、私達を守ってくれないのでありますか!?」 女たちの悲鳴のような声。 その言葉は正しい。 私達は、彼女達を守るためにここに来た。 「守る! 必ず、攫われた男や少年達は我が殿下が救い出す!! いや、助け出したい!!」 ザビーネ!? 顔が思わず驚愕の表情に変わりそうになる。 それを、なんとか止めて、ファウストの手を引く。 ザビーネを止めてくれ。 だが、ファウストはそれに応じず、ザビーネの言葉に耳を傾けていた。 「だが足りん! 我が軍では、本当に恥ずかしながら力が足りんのだ!!」 ザビーネは一体何を言おうとしているのだろうか。 私にはもはや判断がつかない。 「嗚呼……せめて、我が軍に力を貸そうという民兵がいれば。自分の夫を、自分の息子を、助け出そうという勇気のある者が居れば。力を貸してくれたら、助け出せたかもしれないのだが」 ザビーネはそう呟きながら、指をさす。 指さしたのは、村中に転がる酷く身体中を殴られ、首を刎ねられた。 哀れな亡骸達であった。 「お前等死人ではなく! あの勇気ある女のようにな!!」 ザビーネは、言いたいことは全て言い終えた。 そういった表情で一つ息を吸い、まるで演説のようであったその発言を終えた。 ――女たちは、憤った。 「我々は、死人などではない! だが、どうやって抗えたというのです。私達には武器も何も……」 言い訳である。 ザビーネはそう斬り捨てたかのように鼻で音を鳴らし、発言を再開した。 「農具がある。鍬で頭を殴れば人は死ぬ。ピッチフォークで腹を刺せば人は死ぬ。事実、そうやって一度は抵抗しようとしたのであろうが」 ザビーネは、首の無き亡骸が未だに握りしめているピッチフォークを指さした。 そのピッチフォークの先端は、敵の乾いた血で血塗られている。 今や死体となった彼女達は抗ったのだ。 死ぬ最後の寸前まで、力を振り絞って。 「お前等は死体だ! そこで夫も息子も失って、老いさらばえて死んでいってしまえ!! 何、今も老い先も変わらんさ!」 ザビーネの痛烈な言葉。 それに女たちは更なる憤りを見せた。 「ふざけるな……ふざけるなよ!! 何故助けてくれなかった! 何故もっと早く来てくれなかった! もっと軍が早く来てくれれば今頃は!!」 「んー、死人の言葉は聞こえんなあ。もっとちゃんとした言葉が聞きたい。生きてる人間の。息子や夫を取り戻したいという女の叫びを」 ザビーネが更に煽りを加える。 もう止めろ。 頼むから、止めてくれ。 そう思うが。 死人。 一度諦めてしまった私は、亡き縋る女達のようで、言葉は一言も出せなかった。 そして、小さな村の、今まで亡き縋っていた一人の女が決意する様に呟いた。 「やってあげるわよ」 その女は、決意を秘めた眼をしていた。 「アンタらが頼りにならないって言うなら! 自分の手でしか取り戻せないと言うなら! アンタらなんかに言われずともやってやるわよ!!」 その女は泣き喚きながら、絶叫を挙げた。 「今すぐ、あの女に、カロリーヌに、あの悪鬼どもに追いすがって、アイツラを殺して、息子を取り戻してやるわよ!!」 ザビーネはそれに回答を返した。 「非常に宜しい。酷く宜しい。生者は一人いたようだ。他には?」 ザビーネは辺りを見回し、挑発するような、人心を煽る様な言葉を放ち辺りを見回す。 声が挙がった。 小さな村の、小さな幸せを奪われた、女たちの絶叫であった。 「やってやるわよ!!」 「青い血崩れなんか怖くない! ぶっ殺してやる!!」 「連れて行って! 私をカロリーヌの目の前まで連れて行ってください!! 軍の方々!!」 ザビーネは、先ほどからずっと黙っているファウストに向けて、言葉を紡いだ。 「ポリドロ卿、再考願います。民兵を集めました」 「ザビーネ殿、貴女と言う人は……何をするものかと様子を見ておりましたが、悪魔のような方だ。平和に暮らしていた、ただの国民達を、死地に走らせるおつもりか」 「どうせ、この村の者たちに未来はありません。夫や息子を取り戻せない限りは」 ザビーネは冷たく回答する。 ファウストは頭をポリポリと掻きながら、うん、と一言呟いた。 「老若問わずというのは無理です。いくら死兵も同然の民兵達と言えど、この中からカロリーヌ追撃への行軍に付いて来られるのはおよそ40名」 「それでも、もはや死も恐れない死兵の40名が加わる。戦力計算では、決して悪くはないはず。ましてポリドロ卿がいるならば」 「貴女は、私を、憤怒の騎士を高く見積もり過ぎている」 ファウストは苦笑しながら答える。 そして、問題点を挙げた。 「ですが、指揮官が足りません。この死兵40名を率いる指揮官が」 「私が指揮いたします! 利き腕はまだ無事です!! どうか汚名返上の機会を!!」 代官が、ザビーネの言葉の熱に充てられたようにして絶叫した。 ファウストはその言葉に眼を丸くしながら。 次の問題点を挙げる。 「では、次。この戦闘において――くだんの騒ぎの最大原因である地方領主の長女殿には、多額の謝罪金を戦費として私達に支払ってもらうことになりますよ。それこそケツの皮が剥けそうなほど。私は自分のケツも拭けない領主騎士が反吐が出る程嫌いです。容赦はしませんよ」 「それは、私の力で何とかするわ」 自然と、口から第二王女の立場からの発言が出た。 私を見て、驚いたようにファウストが目を剥く。 私もザビーネの熱に充てられたのであろうか。 思わず発言してしまった。 「なれば、私が言う事はもはや何もありません。時間もない。今すぐ、村に残った糧食をかき集め、民兵達に武器を――農具でも良い。それらを持たせ、行軍を再開しましょう」 ファウストは苦笑いをしながら、撤退案を諦めてくれた。 我々は進撃を――初陣を再び開始する。 目指すは、ヴィレンドルフ領に逃げるカロリーヌである。 ※ 「ヴィレンドルフに亡命を」 ヴィレンドルフに捧げる、男や少年達は揃えた。 財貨も、領主屋敷から、かつての我が家から逃げ出す際に引っ掴んで来た財貨が有る。 何の問題もない。 「ヴィレンドルフに亡命を」 再び呟く。 何の問題もない。 私がヴィレンドルフに、100名の軍勢を率いて亡命するには、何の支障も無い。 なに、私は賢くて、数々の戦歴を――あの姉の代わりに、王都から命じられる軍役をこなしてきた歴戦の戦士だ。 ヴィレンドルフでも受け入れられるだろう。 ヴィレンドルフでは強さが全てだ。 何の問題も無い。 ただ一つの問題、それは――私が、家督争いに負けた事だ。 馬車の中で、床を力強く叩く。 激しく揺れる馬車の中では、その振動など誰にも気づかれない。 私が感情を乱したことなど、誰にも気づかれない。 「勝てると思っていた。それは間違いか?」 姉の代わりに、従士達と共に軍役をこなしてきた。 姉の代わりに、領民達に親身になって統治をこなしてきた。 だから、彼等が私を押し上げてくれた。 あの無能でありロクに領内の統治も軍役もこなせない姉の代わりに、私を。 だが、敗れた。 長女と、次女。 その家督争いの壁は、余りにも高かった。 領地の家臣の殆どが、役にたったこともない姉の味方をした。 家臣たちは、姉を傀儡として扱いたかったのだ。 そして次女が家督を相続する前例も作りたくなかった。 結果、姉を後一歩の所まで追い詰めながらも逃れられ、逆に追い詰められた私達は領地から逃げるようにして飛び出した。 そこで、山賊達と出会い、会話をした。 「私達の仲間にならないか? 私に従えば、いい思いをさせてやるぞ? 何、近くに攻め込むのに丁度いい村が有るんだ。お前らが一緒なら簡単に……」 山賊への誘いであった。 「お前らが従え。山賊風情が調子に乗るな」 私はハルバードの一撃で、山賊の頭目の首を刎ね飛ばした。 そして山賊団を手下に加えた。 「……ヴィレンドルフに、亡命を」 再び、呻くように呟く。 王族直轄領の小さな村を襲い、ヴィレンドルフに捧げる男と少年達は用意した。 もはや、後には引き返せない。 捕まれば、全員縛り首だろう。 糧食も十分に残っている。 財貨は、屋敷から奪った物がまだ残っている。 再起をかけるには十分だ。 私はまだここで死ねない。 こんなところでは死ねないのだ。 私に――こんな私に従って、こんな落ちぶれてしまった私に文句ひとつ言わず、未だに従ってくれている従士や領民達への責務がある。 その責務を果たすためには。 「……ヴィレンドルフに、亡命を。私は再び、青き血になる。彼の地で騎士になる。成り上がって見せる。そうでなければ……」 私に従ってくれた、従士や領民達に申し訳が立たないのだ。 カロリーヌは、血反吐を吐くような声で呟いた。 その背後には、その背を追いかける者たちがいる事をまだ知らぬまま。 第13話 リーゼンロッテ女王の憂鬱 ザビーネは悪魔だ。 本物の悪魔だ。 たった数十分の演説だけで、小さな村の小さな幸せを奪われた、生き残った領民達を死地に向かわせた。 行軍を、開始する。 先頭には私ことファウスト・フォン・ポリドロ。 中間にはヴァリエール第二王女親衛隊。 そして最後尾には、代官が率いる死兵40名がゾロゾロと追いてきていた。 「ファウスト様、ファウスト様」 「何だ、ヘルガ」 私は、傍に控える従士長であるヘルガの言葉に応答する。 何だ、この初陣の再開に文句でもあるのか。 もう駄目だぞ、ヴァリエール様がGOサインを出してしまった。 まあ、ヴァリエール様が、地方領主からの戦――多額の謝罪金を保証してくれたというメリットは新たに出来たが。 ケツの皮まで毟ってやる。 そうでなければ、こんな行軍やってられるものか。 「あのザビーネ様って方、お嫁になんてどうでしょう」 「冗談で言ってるよな、ヘルガ。頼むからそうだと言ってくれ」 私は苦渋に満ちた声で呟く。 「いえ。ファウスト様の仰りたいことはなんとなく、わかるのですが。私個人的には有りだと思うんですよね」 なんとなくでも、判っているなら言うなボケ。 そしてお前、ザビーネを、あの悪魔を推すのか。 冗談だろ、他の領民もひょっとして同意見じゃなかろうな。 あの熱に毒されてると言うんじゃないだろうな。 アイツは悪魔だ。 国民の税で食ってる軍人として、絶対に言ってはいけない事を平気で口にした。 ノブレス・オブリージュを全否定しやがった。 それも、私が口にした「悪魔のような方だ。平和に暮らしていた、ただの国民達を、死地に走らせるおつもりか」。 そのセリフに裏の意味を込めて告げた、「お前それでも青い血かよ」という皮肉にすら気づいていないチンパンジーだ。 ああ、頭痛くなってきた。 私はヘルガに説明を開始する。 「私のような領主貴族と、法衣貴族、つまり王国の武官とは少し立場は違うが、変わらない点として私達は領民から、法衣貴族は軍人として国民から税を得ている。それで食っている」 「はい、わかります」 ヘルガが頷く。 「その代わりに、義務がある。領民を守る義務が、国民を守る義務が。判るな」 「はい、わかります」 ヘルガが頷く。 そこまで判っているなら―― 「何故、国民を死地に走らせる。それが軍人のやる事か? 軍人の役割を全否定してるぞ? 自己存在の矛盾を抱かんのか? あの演説は仮にも青い血の、吐いて良い台詞では無かった。青い血の建前すら捨ててしまっては、もはや貴族では、騎士ではない」 「ですが、必要に迫られれば私達もやります。夫や息子を攫われたとならば、我ら領民は闘います。それが我が領地内に限った事であるならば。それが普通ではないのですか? ザビーネ様は何も間違ったことは仰って無いと考えます」 あっけらかんと、ヘルガが返す。 その言葉に、きょとんとする私。 そうか、コイツら――我がポリドロ領の領民は、まず軍役の代わりに頂いているリーゼンロッテ女王からの保護。 その保護の契約。 それを受けるよりも先に、「自分達の身は自分で守る」、その心構えが出来ている人間たちであったか。 軍役があり、ヴィレンドルフの国境線からも近い辺境領地の住人と、軍役も無い小さな村の直轄領の住人。 ようするに文化の違いって奴だな。 だから理解できないのだ、ザビーネの鬼畜さが。 もはや、ザビーネのやった事の鬼畜さを説明する気にもなれぬ。 これ以上説明しても、「それは王国民が温いのではないですか。やはりザビーネ様は何も間違っておられません」と言われかねん。 というか、ポリドロ領の領民は全員同じ言葉を返すだろう。 ああ、もう面倒になった。 正直に心境を呟こう。 「私はザビーネ殿の事が好かん。その演説家としての能力への評価はするが嫌いだ。そのザビーネ殿がやった事をまだ理解できていない第二王女ヴァリエール殿下も、14歳と言う若さゆえではあろうとも、ザビーネ殿の熱に浮かされるようではな……この先不安だ。これでどうだ」 「はあ、なんとか」 ヘルガは、なんとか了解してくれたようだ。 大丈夫だろうな。 本当に大丈夫だろうな。 あの糞アジテーターの熱に、我が領民が感化されていないだろうか。 それを心配しながら、ファウストは行軍を開始する。 「全員、進め!」 合図を出す。 全員が行軍を開始した。 これでよい。 私が状況に納得するが、再度ヘルガが台詞を吐く。 「でも、ですよ。ファウスト様」 「何だ、ヘルガ。まだ何か言いたいのか」 私は再度、苦渋に満ちた顔で呟く。 「あのまま、縋りつく小さな村の領民を放っておいては、暴動に繋がったのではないでしょうか。なにせ、我々は彼女達を見捨てて帰るわけですし」 「……」 その可能性はある。 何せ、今では背後で死兵と化した連中だ。 「それに、民兵を徴兵しなければ、攫われた男や少年達を救出できない現実も打開できません。荒ぶる現地住民を徴兵してしまった方がお互いの為になる事を考えれば、悪く無い案だったんじゃないでしょうかね」 「それを、あのチンパンジーが、理解しながら喋ったと思うか?」 私とヘルガは、振り向いてザビーネの顔を拝む。 親衛隊の一人と、また猥談をしていた。 「思いません」 「そーだろ。絶対そーだろ、私もそう思う」 そもそもからして、アイツ最初は民兵を徴兵しようとか全然考えてないぞ絶対。 ヴァリエール第二王女殿下に縋りついている領民達が気に食わなくて、罵倒しただけだぞ。 その演説じみた罵倒の中で気づいたんだよ、アイツ。 「アレ? ひょっとしてこのままコイツ等煽れば民兵として徴兵できなくね?」 そう考えたんだ。 今、その性格を完全理解した私には、その考えが掌に乗っかったようにして判る。 あの鬼畜め。 鬼畜のチンパンジーめ。 いや、チンパンジーは元々鬼畜じみた性質の持ち主であった気もするが。 今、それはいい。 置いておく。 多分、アイツが親に見放されて第二王女親衛隊に放り込まれたのはそのアホさゆえだけではない。 あまりにも生来の鬼畜さ故にだからだ。 ああいった汚れた作業をこなす人間も、為政者には必要なのかもしれんが。 ひょっとすれば――この第二王女側にとっても、夫や息子を奪われた村人たちにとっても、最適解ではあるかもしれない結果を導き出してはいるが、そこに計算によって為されたロジックは何も存在しない。 文字通りの空白だ、ザビーネは何も考えずに現状の結果を為した。 ハッキリ言おう、アイツは危険人物だ。 その演説力のヤバさを考えると、どこかに隔離しておくべき人間だ。 動物園の檻に閉じ込めて居た方が良いんじゃないのか、ザビーネって名札を首にぶら下げた、演説ができる変わった猿として。 ああ、もういい。 そんな事を考えている余裕は私には無い。 目標はシンプルに。 目指すはカロリーヌ、それがヴィレンドルフの国境線に辿り着く前に追いつく。 そして、それを打ち破る。 私の今の使命は、単純化するとそれだけだ。 物事は何事もシンプルにするのがいい。 余計な事を考えずに済む。 「よーし、歌うぞ。カロリーヌまでの行軍は長い。民兵達も、代官もやる気出して歌えよ」 親衛隊長ザビーネの声。 それを心の底から恐ろしく思いながら、私は行軍していた。 ああやって、ザビーネは士気を維持していくのだろう。 だんだん、本気であの女が恐ろしくなってきた。 私はそれに口を出さない事にする。 せめて、猥歌だけは口ずさんでくれないように祈りながら。 ※ 「まだ出陣の準備は整わないのですか!」 「判ってるでしょう。リーゼンロッテ女王様。200もの兵を動かすには、それなりに準備がいるって。何、明日には出ますよ」 いくら常備軍。 即応兵とは言っても、言われたその場で行軍を開始できるわけではない。 武器の準備はまだいいとして――兵糧、馬車、予想される敵の行軍ルート。 接敵すると予想されるポイントまでの、我々の行軍ルート。 その程度はいる。 特に最後は重要だ。 道を一つでも間違えたら、ヴィレンドルフの国境線にそのまま突っ込む事になる。 そしてそのまま第二次ヴィレンドルフ戦役の始まり始まり。 そういう状況下だ、今は。 それはリーゼンロッテ女王も理解している。 理解しているはずである。 しているのに、このありさまだ。 アスターテ公爵は、深くため息をついた。 「敵の行軍ルートへの先回りは?」 「アナスタシアと一緒に相談しましたよ」 私ことアスターテ公爵は、第一王女相談役の立場を利用して既に、その明晰な頭脳と戦略眼を誇るアナスタシアに相談した。 相談役が逆に相談をするとは、立場が違っている気がしないでもないが。 おそらく、地図に記したこの地点が――地方領主の次女、カロリーヌが逃げ込むポイントであろうと私達二人は判断した。 だが、そのポイントは遠い。 おそらく、援軍は間に合わないだろう。 だが、ひょっとしたら――間に合う可能性はある。 ファウストの発案による、カロリーヌへの足止めの可能性。 カロリーヌが欲を出し、他の領地に手を出して、行軍を遅延する可能性。 その他のトラブル、馬車が壊れ、単純なる行軍の遅延。 色々ある。 間に合う可能性はあるのだ。 で、有る以上、面子を考えると援軍を出さないわけにもいくまい。 私は溜息をつく。 「何ですか、ため息などついて。今頃我が娘は、ヴァリエールは途方に暮れているでしょうに」 「所詮スペアでしょう。お飾りのスペア。急に、親心出し過ぎじゃありません、リーゼンロッテ女王様」 私はもはや身内のノリで、思ったことをそのまま口に出す。 私は自由人だ。 何も怖くはない。 唯一怖かったのは、ファウストの尻を揉んだ瞬間、ポリドロ領――その領民達の顔つきが悪鬼に変わった時ぐらいだ。 アレは本当に怖かった。 地獄に落とされるかと思った。 「例えお飾りのスペアでも! 別に私はヴァリエールに死んで欲しいと思っているわけではありません!!」 「アナスタシアと同じことを仰る。別に死んで欲しいわけではない、か」 愛されているのか、愛されていないのか。 よくわからない。 私は嫌いだがね。 あの凡才。 平民ならいい、だが青い血での凡才は許されない。 そうアスターテは考えている。 「今頃、カロリーヌに襲われてボロボロになった小さな直轄領で途方に暮れてるんじゃないですかね。まさか追跡を試みるなど」 「その可能性があるから焦っているのです。私は以前発言しました! 初陣に失敗したらファウストを第二王女相談役から取り上げるぞ、と」 なるほど。 一応、焦る理由はあるわけだね。 だが、動じない。 「女王様、ヴァリエールは凡才です。凡才なのです」 ファウストは、領主騎士だ。 自分の領民の損害を、その損失をこの上なく嫌う。 あのどうしようもない状況だったヴィレンドルフ戦役と違って、勝ち目があっても領民に多大な被害の出る戦に挑むことは無い。 そしてヴァリエールは凡才だ。 相談役であるファウストの意見には、その意見に従うままに動く。 もし、例外があるとすれば。 「あのチンパンジー達。失礼、第二王女親衛隊でしたか。あのアホどもが初陣だからとハリキリすぎて、ヴァリエールに無茶ぶりしなけりゃいいんですけどね」 「恐ろしい事を言うな!」 リーゼンロッテ女王が、その自分の身を抱きしめながら呟く。 そして、悩まし気に呟いだ。 「あそこまで愚かな――チンパンジーの群れだとは思っていなかったのです。ヴァリエールには家から見離された騎士達といえど、それでも青い血の次女三女を与えたつもりでした」 「ところが、当の青い血の次女三女は猥談を平気で王城内で行い、侍童の着替えを覗き見するエロガキどもでしたよってところですか」 私はあきれ顔で返す。 私は凡才が嫌いだ。 ゆえに、あのチンパンジー達も好きではない。 何をするか制御不可能な、無能な働き者など殺してしまうより道は無い。 いや、アレでも戦場での兵としてはこき使えるのか。 まだ初陣未経験者なので判断つかんね。 そういえば、ヴァリエールも初陣だ。 もし仮に、ヴァリエールが初陣を経験したとして、その凡才具合は変わるのだろうか。 あまり期待は出来そうにないが。 一度、これを機会に再査定してみるのも悪くはないかもしれない。 もし、すでに失敗した身であろうとはいえ、この機会を糧に出来ていたならば、少しは変われるであろう。 「とにかく! 急ぎなさい。ヴァリエールの事は抜きにしても、我が直轄領を襲い、領民を攫ったであろうカロリーヌにはケジメをつけて死んでもらわねばなりません。王家の面子もかかっています」 「ましてや蛮族ヴィレンドルフに亡命することなど許さない、と。判りましたよ」 はいはい、と言った口調でアスターテは言葉を返しながら。 その目は地図上の接敵ポイント、ヴィレンドルフ国境線ギリギリの地点に向けられていた。 第14話 雑魚散らし 「追いついた」 先頭を切る、自分の口から漏れ出た声はそれであった。 ヴィレンドルフとの国境線を目前として、カロリーヌにようやく追いついた。 目前の、約100名の敵を視界に入れた。 まだ交戦距離には程遠いが、な。 私の言葉に、ザビーネ達の行軍歌は自然と止み、その瞳の色は戦闘色へと変化を遂げる。 「ファウスト、どうするの?」 どうするの?と来たか。 一応、最高指揮官は貴女なのだが。 まあ、ヴァリエール様は初陣だ。致し方ない。 私は第二王女相談役であることだし、補佐しなければなるまい。 ただ、こんな時、アナスタシア第一王女やアスターテ公爵なら、私はこう思うがお前はどう思う?と聞くのだが。 或いは、山賊相手とは言え歴戦の私の意思を尊重して、最初から自由裁量権を与えてくるが。 それを考えれば、アナスタシア第一王女は初陣からイカれていた。 ヴァリエール様が劣っているのではない、アナスタシア様が異常なのだ。 私はそんな雑多な思考を抱きつつ、前方のカロリーヌに眼をやる。 そして呟いた。 「おそらく、私達の事は相手も気づいたことでしょう」 「私達と同じように、魔法の眼鏡である双眼鏡持ちだとでも?」 「非常に役に立つ物です。カロリーヌが持っていないはずありません。まして、ここは平野。遠目が利く者なら見える状況下です」 私は自信を持って呟く。 私達、追手の存在は、カロリーヌにもはや気づかれている。 そこで、相手の出方次第だ。 総力戦、全員による全力戦闘は勘弁願う。 被害が大きい。 無辜の国民と、自分の領民達を無駄に死なせるのは御免だ。 双眼鏡を使っている、ヘルガの報告。 「敵が――敵が、今、二つに別れました」 逃亡。 ヴィレンドルフの国境線を目前にして、カロリーヌは山賊を捨て駒にする逃亡を選択した。 少し、有難い。 それぞれ陣形を構築しての、全力戦闘よりはマシだ。 遥かにマシ、いや、自分にとっては都合の良い流れだ。 「ヘルガ、我が領民に戦闘準備を整えさせろ」 「はい」 私は、ヘルガに命令を下し。 そのままヴァリエール様に指示を飛ばす。 「ヴァリエール様、まずは雑魚散らしをします」 「雑魚散らし?」 「この状況で、親衛隊や民兵の出る幕は無いという事です。まずは――ただの殺戮です」 私はヴァリエール様に、そう呟いた。 そう、これはただの殺戮だ。 いつもの軍役と同じ、ただの山賊の殺戮だ。 私はニイ、と口の端で笑顔を作りながら、ヴァリエール様にその笑顔を返した。 そして、突撃を開始する。 符丁で合図。 「クロス!」 従士達5名による、クロスボウの準備。 発射の準備は既に為されている。 後は引き金を引くだけである。 「ヘルガ、双眼鏡を戻す前に、もう一度確認しろ。敵指揮官は見えるか?」 「はい、見えます。おそらく山賊ではない。チェインメイルを装備し、兜を被っている事から――おそらく、敵方の従士であります」 山賊も、ただ黙って捨て駒にはならない。 そこには必ず、率いる指揮官が居る。 カロリーヌの従士か。 という事は、おそらくあの山賊団、頭目をカロリーヌに殺られて乗っ取られたな。 従士は捨て駒で死ぬこと前提で、山賊の指揮を名乗り出た? カロリーヌの奴、どうやら一廉の人物ではあるらしい。 そこまで判断する。 分析終了。 「従士にクロスボウを放つ必要はない。従士は私が殺す。まずはクロスボウで、敵の弓兵5名を確実に殺る事を心掛けよ」 「判りました。ファウスト様」 弓兵は嫌いだ。 矢を払い落とすなど難儀でもないが、気が散ってイラつく。 私はそれだけのために、弓兵を先に殺る。 そんなもんだ。 その程度の存在でいい、山賊なんてものは。 さて、そろそろ接敵だ。 ヴァリエール様率いる親衛隊と代官率いる民兵をやや後方に置き、我らポリドロ領兵20名と私は先陣を切る。 「我が名は、ファウスト・フォン・ポリドロ! 死にたい奴から前に出ろ!!」 「――!!」 敵陣に怯えが走る。 男性騎士で先陣を切って走り込んでくる者など、アンハルト王国にはファウスト・フォン・ポリドロただ一人しかいない。 憤怒の騎士。 アンハルト王国最強の騎士。 敵にとっては疑う余地もないだろう。 自分にとっては忌み名だが、二つ名を持っているとこういう時に有難い。 「落ち着け! 所詮は噂先行、ただの男騎士だ!! 落ち着け!!」 敵の頭目。 カロリーヌの従士が山賊達を落ち着かせようとするが、上手くいっていない。 このまま逃亡させることは許さん。 山賊は景気づけに皆殺しだ。 「歌え」 血の絶叫を。 私は我が愛する領民にではなく、敵の山賊30名にそれを命じた。 クロスボウ。 それが、敵の弓兵と疑わしき5名に発射され、それらは射撃に慣れた従士の技量ゆえに、必中の技と為す。 山賊30名の内、5名があっという間に死んだ。 「叫べ」 死の絶叫を。 馬に乗っている私が、当然先陣を切る。 いつもの事である。 私は先祖代々受け継がれた、魔法のグレートソードを振るい、動揺していた山賊5名の首を次々に刎ねる。 これで領民と同数。 「そして死ね」 地面に血だまりを作りながら、倒れ伏していく。 山賊団に、もはや弓兵はいなかった。 これは何よりの事だ。 私は一直線に、山賊の頭目代行を務める従士へと、人馬一体となって進む。 跳躍。 私は愛馬のフリューゲルと共に宙を舞い、チェインメイルを装着したカロリーヌの従士の前に躍り出る。 従士は、突然の事に対応しきれていない。 そして私は愛用のグレートソードで従士の頭頂から、腹の辺りまでを斬り落とした。 従士は、中途半端ながら真っ二つの身体となる。 従士の被っていた兜は完全に割られ、真っ二つとなって地面に転げ落ちた。 「お前等の頭目は今死んだぞ!」 私の雄叫びが戦場に響き渡り、指揮官を失った山賊の士気は崩壊する。 哀れにも統制を失った山賊達は、或る者は命乞いを、或る者は背を向けて逃げようとしながらも。 一人一人、我が領民に仕留められていく。 槍で。或いは剣で。 手慣れたものだ。 この手の作業は、15歳から20歳にかけての軍役で、本当に流れ作業と化した。 実に手慣れたもので、我が領民は己の作業を――殺戮をこなしていく。 私はそんな事を考えている間にも、従士の傍にいた山賊を一人、二人と斬り殺していく。 その数は数えるまでもない。 キルスコアなんぞ一々面倒くさくて数えていられない。 戦闘は、数分にも満たなかった。 我が領民の被害は一人もいない。 流れ作業だ。 殺戮が終わる。 「来世では、花か何かに生まれ変わるといい」 そう締めくくりの台詞を吐き、私は地面に転がる山賊の死体を馬の上から見下ろす。 山賊、30名の殺戮が終わった。 僅か数分の作業であった。 従士達は私に命令されずとも、クロスボウの再装填準備、滑車で弦を引く作業を始めている。 後方にいた、ヴァリエール様達親衛隊と、代官率いる民兵40名が追いついた。 「ファウスト。その、山賊は?」 ヴァリエール様は、つまらない質問をする。 見れば判るだろう。 「全員殺しましたよ。見れば判るでしょうに」 「その……何と言うべきか、ファウストの被害は?」 「ゼロです」 常にゼロだ。 山賊相手に死んでたまるか。 私が唯一死を覚悟したのは、初陣とヴィレンドルフ戦役のみだ。 山賊なんぞ、鼻歌を歌いながらでも殺戮できる。 コイツ等は雑魚だ。 肝心なのは―― 「話はここからです。ヴァリエール様。クロスボウの再装填を準備しつつ、カロリーヌへの追撃を再開します。追いつくまでの間に、事前に戦術面における相談を」 「わ、判ったわ」 「カロリーヌは逃亡することが最良と決断しました。おそらく、このままヴィレンドルフへの国境線を越える気でしょう。敵の精鋭70との戦闘時、最悪は途中で私が抜け、単騎で逃げたカロリーヌを追う事になるかもしれません。その間、我が領民の指揮権はヘルガに譲渡します。ご自由にお使いください」 ご自由に、とは言っても、無駄死にさせる気は無いがね。 何でもかんでもヘルガが、ヴァリエール様の言う事を聞くわけではない。 領主貴族の従士長は、そういう育ちをしていない。 それは口に出さず、私はカロリーヌの軍勢の方を見やる。 先頭を走る二つの馬車、そのどちらかが直轄領から男や少年達が連れ去られた馬車。 もう一つがカロリーヌ。 さて、どちらが当たりかね。 大きなつづらか、小さなつづらか。 おそらく、私は小さなつづらにきっと良い物が――小さい方の馬車にカロリーヌがいると思うんだが。 そんな思考をしながら、私はクロスボウの再装填を待ち続けた。 ※ 「お前が死ぬ必要はない。山賊などそのまま捨て駒にしてしまえば」 「その捨て駒にするためにも、指揮官が必要なのです。カロリーヌ様ならお判りでしょう」 私は従士が、山賊の指揮官を務め、自ら捨て駒に志願した事に唇を噛みしめる。 ここまで。 やっと、ここまで逃げてきたのに。 ヴィレンドルフの国境線は目の前、あと一時間と行けば辿りつくところなのに。 双眼鏡で、先ほどヴィレンドルフの国境線を見た。 その先では、砦の見張り台からこちらに気づいたのか、ヴィレンドルフの騎士達が数十人の兵を連れて国境線で待機している。 あそこが我々のゴールだ。 きっと、亡命は認められる。 この国から逃げ切れるのだ。 「最悪、カロリーヌ様お一人で逃げることも御覚悟ください」 「馬鹿を言うな。お前等を見捨てて一人逃げ切り、そこに何の意味があるというのか」 「我々がここまでカロリーヌ様を支えてきた意味が残ります。カロリーヌ様さえ生き残れば、きっと意味は残りますよ」 この、大馬鹿者め。 未だに、家督争いに失敗したことを自分達のせいだと思い込んでいるのか。 あれに失敗したのは。 家督争いに失敗したのは。 「家督争いに失敗したのは、私自身が愚かなせいだ。しなければよかった。あのような事」 後悔。 やっとそれを口に出せた。 家督争いに敗北したのは、全て私の無能さ故だ。 やっと認める事が出来た。 もっと、他の家臣たちに根回しすればよかった。 軍役の際、王家と――リーゼンロッテ女王やアナスタシア第一王女と縁を持ち、私の家督を認めてもらえるように動けばよかった。 もっと、もっと。 もっと、私が。 出てくる、後悔の言葉の種は尽きない。 「領民も、我々従士も、軍役で同じ釜の飯を食い、生死を共にした仲ではありませんか。カロリーヌ様の背中を押した我々に原因があります。ああ、もはや時間がありませぬ。これにて、おさらばです。カロリーヌ様」 「待て――待ってくれ!」 私の引き留める声を無視して、従士は山賊達の元へと駆けよっていく。 私がヴィレンドルフへの国境線を越え、亡命するだけのために。 領地の家督争いで、何人の従士や領民の命を失った? 何人の重症者をこの行軍中に亡くし、その遺体をその場に見捨ててきた? 嗚呼。 こんな思いをするなら、家督争いなど、最初からやるべきではなかった。 一人一人が死ぬ度に、自分の愚かさが身に染みる。 「……マルティナ」 一人娘の名を呼ぶ。 この逃亡劇には連れてくることが出来なかった。 今頃、領地で縛り首にされてしまっているであろう。 「……ヴィレンドルフに、亡命を」 フラフラと、覚束ない足取りで、ただそれだけを呟く。 それだけが、夫を病で亡くし、娘も愚行によって失い、優れた従士を捨て駒に追い込んだ、最後に残った私の目標だ。 直轄領を襲って攫った男や少年達を、ヴィレンドルフに捧げるのだ。 馬車に詰め込まれた財貨を用い、騎士として再起するのだ。 アンハルト王国内の、知り得る限りの情報を売り渡すのも良い。 売国奴と言われようと、知った事か。 もう、私には何も残っていない。 今引き連れた精鋭70名。 軍役を共にしてきた領民を除いては――。 そんな私の耳元に、悪魔のような報告が響く。 「カロリーヌ様! カロリーヌ様! 只今、双眼鏡にて敵指揮官が確認できました!」 「誰だ! 見覚えのある顔か? アスターテ公か、それとも……」 「敵は男性騎士。恐らくはファウスト・フォン・ポリドロ。憤怒の騎士です!!」 私は思わず、馬車から飛び出し、捨て駒となった山賊達――わが従士の様子を見た。 そこでは、恐らく一方的な殺戮が行われているであろう。 裁きが来た。 悪鬼と化した私を裁こうとしている、憤怒の騎士がそこまでやって来ていた。 第15話 美しき野獣 ヴァリエール第二王女軍、民兵40、親衛隊15、ポリドロ領民20――対して、カロリーヌ軍は従士を含めた精鋭の領民70。 その両軍は、ヴィレンドルフ国境線前、徒歩にして約30分を目前として接敵した。 「クロス!」 短い、符丁。 ファウスト・フォン・ポリドロの叫び声。 クロスボウの矢は、カロリーヌ軍の前衛5名に突き刺さり、それを殺傷した。 カロリーヌ軍、残存65名。 数では、ヴァリエール第二王女軍が上回っていた。 兵の質では、カロリーヌ軍が圧倒していた。 軍役経験者の武装した65名で満たされていたからだ。 対するヴァリエール第二王女軍は、初陣も同然の、武装も足りない民兵40と。 武装は足れども、初陣の親衛隊15。 唯一対抗できるのは、カロリーヌ軍を上回る練度を誇るポリドロ領の領民20のみと思われた。 だが、最悪なのは。 「お前は背後に下がれ!」 そう叫びながら、民兵を庇うようにファウスト・フォン・ポリドロという殺意の塊が、争いの中に飛び出してくるのだ。 まるで、国民は出来る限り殺したくない、という表情で、相対する敵の命は逆に価値なきボロ雑巾のように扱って。 憤怒の騎士は、この狭い戦場を縦横無尽にして、愛馬に跨って突如出現していた。 カロリーヌ軍の敵兵の中に、飛び込むのではない。 民兵を肉盾のように見たてていながらも、突如カロリーヌ軍との戦闘の間に割り込んで、カロリーヌ軍の領兵を殺して回るのだ。 死のルーレット。 カロリーヌが馬車の幌に開けた穴の中から見たその光景は、まさにそれだった。 必然的に、カロリーヌ軍の死者は次第に増えていく。 一対一の状況に持ち込まれては、ファウストに勝てる相手などアンハルト王国に存在しない。 だが、カロリーヌ軍の領兵の士気は未だ衰えていない。 カロリーヌを守ろうとしている。 カロリーヌはもはや、泣きそうであった。 泣くわけにはいかない。 泣くわけには、いかないのだ。 彼女達はカロリーヌのために死にゆく。 もはや、単騎にて逃げるべきだ。 彼女達の貢献に答えるためには、それしかなかった。 だが決断が出来なかった。 そこまでして、カロリーヌを守ってくれている領民を見捨てる決断が。 だが、戦場の時間は過ぎる。 国境線まで後退しながら、ヴァリエール第二王女軍を敵に回す。 その戦場での時間は短い時間であったろうが―― カロリーヌ軍に対する、ファウストのキルスコアはその時点ですでに30を超えていた。 ファウスト本人は一々数えてすらいないが。 もちろん、民兵の死傷者も出ていたが、もはや勝利を確定させるには十分な数の差があった。 「後は任せたぞ! ヘルガ!」 ファウストは、第二王女ヴァリエールの名前は口に出さなかった。 出すと、最高指揮官であるヴァリエールが狙われるからだ。 そんな小さな計算を抱きながら、ファウストは単騎で駆けだした。 それを止められるだけの数が、もはやカロリーヌ軍には無い。 目の前の敵を、食い止めるのが精いっぱいであった。 来る。 罪を犯した、悪鬼ヘの裁きが。 ファウスト・フォン・ポリドロが来る。 やがて、その殺意の塊が辿り着いたのは、カロリーヌ軍の馬車二つである。 小さな馬車と大きな馬車の二つであった。 ファウストが選んだのは、小さな馬車であった。 グレートソードを片手に、その剣で馬車の幌を薄く切り裂く。 その先に居るのは戦場の音に怯える、男や少年達であった。 「ハズレか」 ファウストは思わず吐き捨てた。 そして、カロリーヌは――財貨を積んだ大きな馬車は、その馬車の財貨すら投げ捨てて、単騎。 馬と自分の身一つで、カロリーヌは国境線へと逃げ走る。 逃げなければ。 あの裁きの手から。 ファウスト・フォン・ポリドロから。 あの憤怒の騎士から。 必死の形相で、カロリーヌは国境線へとたどり着こうとする。 まだ、まだ間に合う。 国境線にて待機しているヴィレンドルフの騎士や兵士に援軍を求めれば、あの憤怒の騎士、ファウスト・フォン・ポリドロを討ち取る事すら出来る。 カロリーヌはそんな儚い希望を抱きながら、単騎で駆ける。 それを追うのは、男や少年達に、まだ馬車の中に入っているよう言い捨てるファウスト。 未だに、死の絶叫と勝利の雄叫びと剣戟の音、その戦場音楽が鳴り止まぬ戦場を置き去りにして。 ファウストとカロリーヌは、二人して追いかけっこを始めた。 だが、次第にファウストの速度が落ちる。 ファウストの愛馬、フリューゲルはもはや疲れ切っていた。 山賊との戦闘にて、そして先ほどの戦場を縦横無尽に動き回る働きにて。 いくら優秀な騎馬と言えども、限界を来たしていた。 ファウストは、それをもちろん理解していた。 ここまでだ。 ファウスト・フォン・ポリドロは失敗した。 何、攫われた男や少年達を助けた事で最低限の面子は保たれた。 それにまだ、ファウストの予想では、あのカロリーヌの結末は決定していない。 もう充分だ。 ファウストは馬の歩みを止め、ポンポン、と愛馬フリューゲルの背を叩き、その働きを労わった。 アンハルト王国と、ヴィレンドルフの国境線、その目前にして。 ファウストは愛馬とともに立ち止まった。 それを無視して、カロリーヌは国境線を越えていった。 ファウストは、その様子をただ見守っていた。 ヴィレンドルフという、その蛮族特有の価値観から出る美学からの、カロリーヌの結末を。 ※ 「我が名はカロリーヌ。亡命を求める者なり。そして、救援を願う。我らが眼前に単騎で居るのは、あのファウスト・フォン・ポリドロだ」 ヴィレンドルフの騎士が頷く。 「戦場は先ほどから双眼鏡にて確認していた。あの容貌、あの剣技、まさにファウスト・フォン・ポリドロそのものよ」 「ならば!」 あの憤怒の騎士を殺してくれ。 私の愛する領民を殺した。ファウスト・フォン・ポリドロを。 だが。 「だが、あの男は。あの美しき野獣は、我が国境線を越えず、未だあそこに立ち尽くしている」 名も判らぬ、総指揮官らしきヴィレンドルフの騎士が指を差す。 憤怒の騎士は確かに、国境線の向こうで私を見据えていた。 「ファウストを討ち取りたくないのか!?」 私は叫ぶ。 だが、ヴィレンドルフの騎士は動じない。 「先ほども言った。あの美しき野獣は、国境線を越えていない。ただお前を待っている」 待っている。 誰を? 私を? 「お前が、このヴィレンドルフの地から叩き出され、挑みに来るのを待っているのだ」 叩き出される。 この私が? 「何を言う! 私の亡命には価値が有る。私がどれだけアンハルト王国の情報を握っているか!」 「お前がアンハルト王国の情報をどれほど握っているか、それは知らぬ。ひょっとしたら、我らにとっても価値ある物かもしれぬ。価値が有る物なのかもしれぬ」 だが―― ヴィレンドルフの騎士は否定の言葉を浮かべ、首を振る。 「あの騎士は、あの、我らの地では美しき野獣と呼ばれる男は、お前をただ待っているのだ。名は――カロリーヌと言ったか? お前との決闘を待っている。我らはそれを邪魔する気などない」 「何故だ、ファウスト・フォン・ポリドロを討ち取りたくないのか?」 「国境線を越えていない者は敵ではない。それより、何よりも」 ヴィレンドルフの騎士は、もはや憧憬すら含めた目でファウストを見る。 「あの我らのレッケンベル騎士団長と死闘の末、それを討ち果たした、あの美しき野獣を、騎士や兵、その数十人で囲んでそれを討ち取れだと? それは我らへの侮辱か?」 蛮族の感性。 強きものを、美しきものと感じる。 そして、ファウストは彼等にとって何よりも美しい騎士なのだろう。 彼等の強き男性への価値観、筋骨隆々の男性を好む価値観。 それらを含めると、ファウストは、ヴィレンドルフにとっては、この世で最も美しい騎士と言えた。 それを取り囲んで討ち取るなど、ヴィレンドルフの美学の範疇外であった。 蛮族めが! それをカロリーヌは口に出さなかった。 ただ、拳を地面に打ち下ろす。 「……私に、何を求める」 「ファウスト・フォン・ポリドロを討ち取れ。あの美しき野獣を討ち取れ。そうすれば、喜んで我らヴィレンドルフはお前を我が国に迎えよう」 「……」 ヴィレンドルフは、私が、カロリーヌが、あのファウストに打ち勝つことなど全く期待していない。 ただ、見たいだけだ。 彼女ら騎士が敬意を払う、美しき野獣が、その実力を尽くし私を討ち果たす、その姿が。 「判ったよ」 ここが終焉か。 なに、私の終わりには相応しい結末だ。 カロリーヌは、そう笑った。 そうして、ヴィレンドルフの国境線から立ち去り、再びアンハルト王国の国境線へと舞い戻った。 嗚呼―― 何もかも失った。 何もかも、失ってしまった。 自分の命すら、これで失ってしまうだろう。 これで本当に終いだ。 カロリーヌは、自分自身に対し酷薄の笑みを浮かべた。 そうして、一路、カロリーヌはその馬で、ファウストの元へと駆けよる。 ファウストは、朴訥とした雰囲気を漂わせながら、口を開いた。 「逃げ切れるとでも、思っていたのか?」 ファウストは不思議そうに問うた。 「ヴィレンドルフが、男や少年達を持たぬ、財貨を持たぬ、その忠誠高き精鋭たちを持たぬ、お前ただ一人を受け入れると思っていたのか?」 「……」 私は、無言でそれを返した。 そしてハルバードを構える。 「馬を降りてくれ、ファウスト・フォン・ポリドロ。私も馬を降りる」 「よかろう」 二人して、馬から降りる。 馬上での技量には、自信が無かった。 だが、こうして地面に降り立ったとて、目の前の憤怒の騎士に勝つ自信はなかった。 だが、負けるわけにはいかないのだ。 ただ負けるわけにはいかないのだ。 傷一つくらい、残してやりたかった。 この、ヴィレンドルフに美しき野獣と呼ばれる男に。 ファウスト・フォン・ポリドロに。 「お前の得物は、そのハルバードでいいのか」 「そちらこそ、そのグレートソードでいいのか。得物はこちらの方が長いぞ」 「そのくらいハンデだ、くれてやるさ」 「そうか」 短い会話。 カロリーヌは、そのハルバードを、ファウスト目掛けて揮う。 カロリーヌは決して弱くない。むしろ強者である。 この世に少なからず存在する、超人の段階まで足を踏み入れていた。 しかし、カロリーヌとファウストの力量差は誰の目にも明らかであった。 ……気づいた時には、カロリーヌの腹は、チェインメイルごとファウストの剣にて切り裂かれていた。 「……」 カロリーヌは、その場で声も無く立ち尽くす。 もう死ぬことは判っていた。 「何か、遺言はあるか。思い残しはあるか、カロリーヌ」 ファウストは、カロリーヌに情けの言葉をかけた。 カロリーヌは、辛うじて最後に一言呟いた。 「……マルティナ」 今は縛り首にされて死んだであろう、一人娘の名だった。 ファウストはそれを覚え、心に刻んだ。 腹から臓物を垂れ流しながら、地面に倒れ伏すカロリーヌ。 ファウストは、その姿に少し虚しさを感じた。 「最期の言葉なんか、聞くんじゃなかったな」 女の名。 声色から判断するに、恐らく幼い子供に向けたような、少女の名。 おそらく、もうどうにもならない言葉であろう。 それを聞くのは、辛い事であった。 そうこう思案する中で、ファウストはカロリーヌの首を持ち帰らねばならぬと判断する。 首を刎ね、持ち合わせた布に包み、丁重に左手で持ち運ぶ。 ふと、気が付くと。 ヴィレンドルフとの国境線上に、ヴィレンドルフの騎士や兵達が立ち並んでいる事に気が付く。 「美しい決闘であった。美しき野獣よ。いずれ戦場にて!!」 そう叫び、自分たちの砦に踵を返していくヴィレンドルフの騎士達。 ファウストは静かに、相手に聞こえないように言葉を返した。 「お前等蛮族の相手は、二度とお断りだ」 勝てる勝てないの問題ではない。 ヴィレンドルフ戦役は、ファウストにとってトラウマのようなものであった。 騎士一人一人が、アンハルト王国のそれより強かった。 特にレッケンベル騎士団長は本当に強かった。 ファウストがあの時20歳ではなく、19の頃であれば負けていたであろう。 勝敗を分けたのは、たった一年分の戦歴と鍛錬の工夫の差でしかなかった。 しかし、勝った。 その現実だけは、誰も否定しないであろう。 ファウストは一応、カロリーヌの亡命を認めないでくれた騎士達の背後にペコリと頭を下げ。 ヴィレンドルフとの国境線上スレスレから、再び戦場音楽の中へと舞い戻る事にした。 「さて、目標は達成した。だが……」 いくら被害が出たかね。 我が領民の練度なら命は大丈夫だろう。 だが、民兵は? そして親衛隊たちは? その被害状況はまだ判明していない。 ファウストは舌打ちしながら、あの優しいヴァリエール第二王女様が戦場の現実をついに知る事になる。 それを思うと、少し心を痛めた。 第16話 ドリーム・イズ・ビューティフル ファウスト・フォン・ポリドロとカロリーヌ、主役達が去った戦場にて。 第二王女親衛隊は、それぞれキルスコアを叩き出し始めていた。 ファウストが背後に引かせた民兵達は、後方に回り休息を。 代わりにヘルガ達ポリドロ領民20と、親衛隊の15が前線に立っていた。 カロリーヌ領民の精鋭、残存約20名足らず。 カロリーヌ領民は精鋭と言えど一人で、二人を相手どらなければならない状況下に陥っていた。 ポリドロ領民はヘルガの指揮の元、親衛隊の援護役として上手く立ち回っていた。 正直言ってしまえば、戦場は手仕舞いを迎え始めている。 だが、その状況を把握こそすれど、闘っている当人たちは必死であった。 「殺した! 次!」 「すぐに側面からの援護に回れ! 我が親衛隊、一兵たりとも死ぬでないぞ!」 親衛隊長、ザビーネの叫び声。 僅か一人、キルスコアを稼いだ後、ザビーネはそのまま後方に回り親衛隊の指揮を執っていた。 私の傍には同じくキルスコアを稼いだ後、私の護衛に回った親衛隊が一人だけ残って居る。 「姫様、御気分が優れないようで」 残った親衛隊員、ハンナが私の顔色を見ながら呟く。 「……民兵が何人も死んだわ。十名を超えるかもしれない。ファウストが、あれだけ頑張ったのに」 「仕方ありません」 ハンナは冷酷とも取れる声で呟く。 「ここは戦場ですので」 「戦場……」 そうだ、ここは戦場なのだ。 判ってはいる。 あの直轄領の小さな村で、執拗に痛めつけられた首の無い死体を見た時から、それは理解している。 理解していなかったのは憤怒の騎士と呼ばれるファウストの、まるで浮世離れした強さと。 私が、この死の絶叫と、勝利の雄叫びと、剣戟音が鳴り響く戦場音楽に慣れない。 その二つの事である。 正直に言えば、怯えている。 私の臆病な、この私を覆い尽くす薄皮一枚は、まだこの戦場に至っても剥がれてはくれない。 誰かが、私を狙ってくるのではないか。 誰かが、私の命を狙って襲い掛かってくるのではないか。 前線からやや離れた後方に居ても、その恐怖は晴れない。 「親衛隊は――私の親衛隊は、誰も死なないわよね」 「我ら親衛隊は、それほど弱くありません。これでも青い血です。平民のそれより技量も武装も違います」 ハンナは、私を落ち着かせるように呟く。 事実、まだ一兵も欠けていない。 第二王女親衛隊は、ヴァリエールが考えているより遥かに強かった。 初陣ゆえ最初は手こずったものの、キルスコアを獲得してからは、いつもの訓練の動きを取り戻している。 このまま、終わればいいのだが。 そう思った瞬間、一人の女が、親衛隊とポリドロ領民が囲う敵陣の中から飛び出してきた。 手にしている武装は。 クロスボウ。 あの、ファウストが教会からの苦情を無視して使う、強力無比な武器。 「――見つけたぞ! お前が総指揮官だな!」 クロスボウを持つ女は、頭を酷く打たれたのか、血を垂れ流している。 その目は、狂気に染まっていた。 私は怯えて、立ち尽くす事しかできない。 「後方の安全圏にいると思いきや、突如として敵の精鋭が襲い掛かってくることがあります」。 姉上の初陣の心構え。 その言葉が脳裏によぎる。 「その命、道連れに頂いていく!!」 クロスボウの射線。 その中に、私が入った。 殺される。 私は身じろぎする事すら出来ない。 「ヴァリエール様!!」 傍にいたハンナが、私の身代わりにクロスボウの射線上に立つ。 重い引き金を引く音が、聞こえた。 肉盾となったハンナの、装備したチェインメイルが表と裏で二度、貫かれる音。 ハンナの身体が、クロスボウの矢に貫かれた。 ハンナは、そのまま地面に倒れ伏した。 「ハンナ!」 私の絶叫。 すぐにハンナの元に走り寄るが、その反応は無い。 完全に気を失っている。 「貴様!」 私はクロスボウを持った女を睨みつける。 女は、にへら、と気持ち悪い笑顔を浮かべた。 そして、両手を広げながら呟く。 「ここまでか。殺せ!」 「言われずとも!!」 私は剣を抜き放ち、クロスボウを持った女に走り寄る。 その感情は、親衛隊を――ハンナを倒された怒りで満たされていた。 激昂である。 「貴様が。貴様が、ハンナを!!」 第二王女ヴァリエールの、産まれて初めての激昂であった。 臆病な薄皮など、もはや忘れさられるように剥がれていた。 まずは眼を抉った。 次の一撃で、耳を切り離した。 倒れ伏す女を相手に、その顔を踏みつけて歯をへし折った。 やがて、女はピクリとも動かなくなった。 その身体を、勢いよく胸を刺し、とどめの一撃を終えた。 「お前が――お前が、ハンナを」 やがて、冷静に戻ったヴァリエールは、今、自分が人を殺したのだと自覚する。 キルスコア、1。 そんなものはどうでも良かった。 「ハンナ!」 血塗られた剣をその手に、ハンナが倒れ伏す後方へと走り寄るヴァリエール。 その足は、今、人を殺したのだと、やっと激昂から醒めたようにガクガクと震えていた。 ※ 彼女は夢を見ていた。 童の頃の夢であった。 「男の子が欲しかったのに」、と何度も言われた。 父からも、母からも、姉妹からも。 そう男の子が産まれる世界では無いというのに。 産まれるのは、たった10人の内の1人きりだ。 自分はそこそこの青い血、世襲貴族の家に産まれた四人目で――つまり、自分は要らない子だった。 スペアのスペアのスペア。 誰からも期待されない、要らない子であった。 それゆえ、粗雑に扱われた。 騎士教育も一応は受けたが、一度でもミスをすると馬鹿な子ね、とよく叱責を食らい、すぐ諦められた。 ゆえに、中途半端な騎士教育となった。 ただ、剣術や槍術だけは不思議とよく出来た。 姉の誰よりも。年齢の差も覆して。 それゆえ逆に嫉妬を買った。 食卓では、私の食事はいつも他の姉妹より一品少なかった。 まあ、それはいい。 良い想い出など、子供の頃に無いのだ。 やがて14歳となり、私は家から放逐されるようにして投げ出された。 「今からお前は、第二王女ヴァリエールの親衛隊となるのだ」 有難い話だ。 これで、お前等と、憎むべき家族と顔を合わせずに済む。 もはや、家族に愛情など無かった。 憎むべき敵であった。 私は王宮に向かい、そこで騎士としての儀式を受ける。 初めて出会った、10歳のヴァリエール第二王女。 私より、4歳幼かった。 だが、こちらも騎士教育など中途半端な14歳だ。 騎士叙任式など、上手くできるだろうか。 正直、不安だった。 「教会、寡夫、孤児、あるいは異教徒の暴虐に逆らい神に奉仕するすべての者の保護者かつ守護者となるように」 ヴァリエール第二王女の祝別の言葉。 そうして、肩を剣で叩かれる。 「……」 言葉が出なかった。 正直、思いだせなかった。 何と答えるんだっけ? 正直、私の知能はチンパンジーであった。 私が黙っていると、第二王女ヴァリエール様はクスリと笑った。 「いいのよ、黙っていて。私もスペア、貴女もスペア。これから一緒に頑張りましょう」 ヴァリエール様は、騎士の誓いも満足に果たせない私を相手に、静かにほほ笑んだ。 それからは――楽しかった。 楽しいとしか言いようが無かった。 今までの14年の、あの何とも言えない、もはや悪夢のような14年の事など薄れる程に。 親衛隊は、皆、馬鹿である。 親衛隊は、皆、気持ちいいくらいの馬鹿ばかりであった。 私は初めて、第二王女親衛隊で仲間と、友達という物を認識した。 同時に、こんな私みたいな馬鹿がこんなに沢山いたんだと言う複雑な気持ちにもなったが。 親衛隊長のザビーネは酷かった。 特に酷かった。 私達と同じ、一代騎士の最低階位。 その癖して、演説の一番上手い私が隊長になる、と言って聞かなかった。 どんな理論だよ。 あんまりにも聞かん坊で、否定しようとすると暴れる物だから、ヴァリエール様が泣く泣く折れた。 「私は、本当は貴女を、ハンナを親衛隊長にしたかったのよ?」 ヴァリエール様の、そんな言葉が嬉しかった。 家では褒められたことなど、無かった。 嗚呼、ザビーネの奴は本当に酷かった。 いつぞやは、侍童の着替えを覗きに行こうなどと計画を持ち出した。 私は反対しようと思った。 しかし、出来なかった。 その時、16歳の女としては男性の身体に興味が無いわけでは無かった。 知識では――親衛隊長ザビーネの語る、どこから手に入れてきたのかもしれぬ、その猥談で心を弾ませながら得ていたが。 実際の、男性の裸体など拝んだ事は無かった。 「お前も興味あるだろう、なあ、ハンナ」 興味が無いと言うと、嘘になる。 やがて、我ら第二王女親衛隊15名はぞろぞろ連れ立って、侍童の着替えを覗きに行った。 無論、見つかった。 そもそも、15名による集団覗きに無理があったのだ。 何故誰も止めなかった。 我々はチンパンジー並みの知能なのか? そう自分でも疑うほどであった。 だが。 その事件を起こしても、ヴァリエール様は我々から親衛隊の役職を奪わなかった。 「私が、お母様に頭下げといたから。それでこの話はお終い、と言いたいところなんだけど」 「それで終わらせてくれませんか?」 「終わるわけないでしょう。この馬鹿ども。チンパンジー! そこに全員正座しなさい!!」 親衛隊15名、全員床に正座させられて叱られた。 あれは良い想い出だ。 子供の頃と違う。 敬愛するヴァリエール様に叱って頂いた、まるでご褒美のような良い想い出だ。 楽しかった親衛隊の日々。 ハンナは夢を見ていた。 きっと、ヴァリエール様は女王になど成れないだろう。 第一、優しいあの人に女王は似合わない。 それでいい。 ヴァリエール様は、私達だけの主人でよい。 他には、誰もいらない。私達だけのご主人様だ。 我ら、第二王女親衛隊全員、今は一代騎士の、最低階位の貧乏騎士だけど。 いつか世襲騎士にまで階位を上げて。 親衛隊の皆で金をかき集めて、いつもの安酒場で樽を一つ買い切るように。 皆一緒の、なんとか青い血の夫をとり。 子供を作って。 それで、自分の後を継いでもらって。 それで、それで。 ハンナは夢を見ていた。 だが、夢から覚める時が訪れた。 呼び醒ましたのは、男の声であった。 「他にも重傷者がいます。私はその治療のため、領民たちの指揮を行います。王女さまはどうか、そのお膝元の彼女の傍に。後は、私が役目を引き継ぎます」 「ハンナが! この子が一番重症なのよ! ファウスト。お願いよファウスト! この子を!」 「ヴァリエール第二王女殿下」 ああ、ヴァリエール様が泣いている。 なんで泣いてるんだろう。 ポリドロ卿が、ぐっと何かをこらえた表情で、辛そうに私を見て呟いた。 「家臣の死を看取る事だけは、その役目ばかりは、主君の勤めであります」 ポリドロ卿がそれだけ言って、馬に乗ったまま、背を向けて立ち去る。 なんだ。 死んでしまうのか、私は。 この夢は終わってしまうのか。 その現実を、ポリドロ卿とヴァリエール様の会話で理解する。 「起きた? 起きたのね? 生きられるわよね、ハンナ」 「しんえいたい――しんえいたいが王女さまをまもるのは、とうぜんのこと」 呂律が上手く回らない。 何故か、凄く眠たい。 このまま、もう一度目を閉じて眠ってしまいたくなる。 でも、起きていないと。 ヴァリエール様を、なんとか泣き止ませないと。 「ヴァリエール様」 「なに? ハンナ。貴女ったら本当に馬鹿で、私の盾なんかになって。何もいい事なんかないのに」 眠い。 なんでヴァリエール様は泣き止んでくれないんだろう。 「いえ、でも、これは名誉だから。名誉の負傷なんだから。お母様に頭を下げてでも、きっと貴女の階位を上げて、もっといい暮らしをさせて。それで、それで……」 もう、我慢できないかもしれない。 御免なさい、ヴァリエール様、いつも怒らせてばかりで。 多分、眠りに就いたら、また貴女は怒るでしょう。 だから、その前に一言だけ―― 「わたしはね。ヴァリエール様の事、大好きだったんですよ」 せめて、この想いだけは伝えておきたい。 私は王家への忠誠等ではなく。 青い血の騎士としては恥ずかしながら、そんなものは欠片も無く。 ヴァリエール様個人の事が大好きであったから忠誠を誓っていたのだと。 ああ、眠い。 目を閉じる。 「ハンナ! 目を開けてよ!!」 ヴァリエール第二王女の嘆願するような絶叫。 その目はもう二度と、開かない。 ――ハンナは、最期にすう、と一息吸った後、永遠の眠りに就いた。 もう夢は見れない。 ヴァリエール第二王女の、目を醒ませと言う怒りの――悲鳴のような泣き声が、辺り一帯を包んだ。 第17話 譲れないもの あれから、一晩が経った。 泣きながら、亡くなった民兵である妻や母の死骸に縋りつく、少年や男達。 せめて死者をこれ以上増やすまいと、重症者の治療に領民を働かせるファウスト。 「泣くな、ハンナは責務を全うしただけだ。泣くなよ」 そうブツブツ自分に呟きながら、親衛隊で一番仲の良かったその亡骸の手を握って、昨夜眠っている時からも一日中離さないでいるザビーネ。 そしてファウストから、しばらく休んでいるように諭された私。 私は、ハンナの死から未だ立ち直れていなかった。 初めて人を殺した衝撃からも。 私は、全てを忘却するようにして――ファウストの気遣いで、しばらく一人にさせてもらっていた。 無論、ハンナの死に衝撃を受けた親衛隊は、全員私を守ろうとして、同時に仕事に専念することで何かを振り切るようにして、周囲を警護していたが。 足を崩し、全身の力を抜く。 「泣くなよ、泣かないでくれ。頼むから。ハンナは立派に務めを果たしただけなんだから」 ザビーネが、また昨晩と同じくハンナの手に頬擦りをしながら、泣き出した。 ザビーネが自分自身に、必死に言い聞かせようとする言葉は、全て無意味になっていた。 おそらく、ザビーネは今回の戦を後悔している。 彼女が民兵を駆り立てなければ、この戦に挑まなければ、ハンナは死ななかったであろう。 だが、それは結果論だ。 小さな村の国民達、その全てを見捨てて逃げ出した、撤退した際の場合でしかない。 親衛隊の誰も、私も、ザビーネがハンナを殺した等とは思わない。 あれだけ仲が良かったハンナを。 ハンナとザビーネは、無二の親友だった。 ザビーネは、ハンナの手に、もはや言葉は無意味となった涙をこぼし続けている。 私はぼーっとその光景を見て、止めないでいる。 泣けばいい。 存分に、泣いてあげればいい。 私は、もう既に全身の水分が抜け出るかと思うほど泣いてしまったから。 私の代わりに、ザビーネが泣いてあげればいい。 そう思う。 私はその光景を見ながら、そんな事を思った。 遠くから、かすかに音が聞こえる。 馬のいななき、蹄と、人の足。 軍靴の音。 私は思わず立ち上がり、最も頼れる相談役の名を呼ぶ。 「ファウスト! ヴィレンドルフかも――」 「いえ、姫様。ヴィレンドルフではありません」 ファウストは落ち着いて、その自分の首にぶら下げた双眼鏡。 ――カロリーヌから鹵獲した戦利品。 それを使用し、音がする方角へと視線を向けた。 「アレはアスターテ公爵旗。援軍です」 来るのが遅い。 あと一日早ければ、ハンナは。 愚痴にすぎないのは判っている。 仮定にすぎないのも判っている。 間に合わなかったのが仕方ないのも、判ってはいるのだ。 だが、そう思わざるをえなかった。 私は、考える。 何をすればいいのか。 「ファウスト。手間をかけるようだけど御免なさい。私は――」 ファウストに判断を仰ごうとして。 それは、止めた。 何故だか、自分でこなそうと思った。 「ファウスト、命じるわ。今からアンハルト王国第二王女ヴァリエールとして、この戦の勝者として、援軍たちを迎える。準備して」 「――承知しました」 ファウストが、膝を折り、私に礼を整えながら答えた。 何だ、結局ファウスト任せなのは代わりないじゃないか。 違いは、頼んだか、命じたかだけだ。 でも、違うのだ。 頼んだか、命じたかでは、大きく違うのだ。 私は今まで、ファウストに頼み縋るだけの人物であった。 そんな事を、自分の心中で呟きながら。 私は、アスターテ公爵を迎えることにする。 ファウストが代官に援軍が来たことを伝え、志願民兵達、そして男や少年達をまとめておくように命じた。 逆に重傷者は前面に、一刻も早く衛生兵による治療の準備を。 次に、ポリドロ領民に、迎える準備を整えるように従士長であるヘルガを呼びつけ、話を進める。 私はせめて、自分の指揮下である親衛隊に出迎える準備を命じようと。 親衛隊は全員――ザビーネは、駄目だ。 アイツには時間が必要だ。 私と同じく、立ち直る時間が。 ザビーネには、ハンナの亡骸を守る任務を与える。 親衛隊長の復帰を諦め、代わりに親衛隊の一人に親衛隊長代理を命じる。 元々、ハンナと同じく親衛隊長候補に挙げていた子だ。 大丈夫とは、我が親衛隊の平均水準から見て、とても言えないが。 それでも、やってもらわなければならない。 援軍の、先触れの兵。 それが騎馬に乗って到着する。 「我らアスターテ公爵軍、援軍に参った。状況を確認したい!!」 「我が名は第二王女ヴァリエール! 戦は終わった。カロリーヌは我が相談役ファウスト・フォン・ポリドロが見事仕留めた! 敵軍は殲滅した! 今は戦後の始末中である。協力してくれた志願民兵に重傷者が居る! 衛生兵はいるな!」 先触れの兵に向かって、私は叫ぶ。 その斥候騎士は戸惑いながらも、私の言葉を受け止めた。 「しょ、承知。状況は確認しました。我がアスターテ公爵軍は後30分で到着します。衛生兵もおります。しばしお待ちを! 私は状況の報告に戻ります」 斥候騎士が、踵を返して、段々と近づきつつあるアスターテ軍の元へと騎馬で駆けていく。 私はふう、と息をつきながら、アスターテ公との遭遇を思うとうんざりする。 怖いのだ、あの目が。 私を凡才であると、ハッキリと嫌いだとその目で訴える、あの目が。 アスターテ公爵は。 凡才である、青い血を酷く嫌う。 それは公然とした現実であった。 さてはて、今の私はどうであろう。 数的には不利な戦に望み、国民を――民兵達に10名の死亡者を出し、親衛隊の一名を失い、ファウストを馬車馬のように働かせた。 それでも、勝利した。 結果としては、青い血としては申し分ない結果なのだろう。 たったそれだけの犠牲で、勝利した。 何と素晴らしい、周囲はそう褒め称えてくれるであろう。 だが、私はそれを認められないでいるのだ。 私自身が、ヴァリエール第二王女という人物が、その結果に相応しいと思えないでいるのだ。 そんな私を、アスターテ公爵はどんな目で見るのであろうか。 不安であった。 恐怖であった。 第一王女相談役。 そう自ら名乗り出た、あのアスターテ公爵の目を見ていると、自分が自分の価値を。 その存在意義を疑われている様な気がして。 ――いけない。 私は。 私は、あのアスターテ公爵に、立ち向かう。 敵対するのではない。 はっきりと、その目を見据える存在にならなくてはならない。 何なのだろう、この感情は。 何処から湧いてくる感情なのか、それはわからないが。 何となく、そう考えた。 ※ アスターテはヴァリエール第二王女が大嫌いであった。 何せ、凡才である。 平民ならばよい。 それは許せる。 青い血の凡才は、アスターテにとって最も嫌う生き物であった。 「志願民兵10、親衛隊――騎士1名の犠牲で、敵の精鋭70と山賊30。計100を殲滅、と」 アスターテは、報告書にペンを走らせ、その紙をむしり取る。 「これ、リーゼンロッテ女王様宛てに、早馬で届けといて」 「承知いたしました」 アスターテの側近が頭を垂れ、その報告書を受け取る。 アスターテ公が開いた陣営内。 そこでは慌ただしく兵達が走り回り、民兵の治療に務めていた。 配下の騎士は、全員私の警護に務めている。 「さて、ヴァリエール第二王女殿下。初陣の結果、見事な戦績。ご気分は如何?」 「……全て、志願民兵と部下の親衛隊。そして何よりファウストのおかげよ、私は何もしていないわ」 「まあ、そうでしょうけどね」 あっさりと頷く。 正直言って、ほぼファウストの戦果であろう。 ファウストの尻を拝みに――いや、民兵の治療を引き継ぐ際にファウストと話したところ、多分今回のキルスコアは40くらいとの事であった。 あの男、キルスコアを一々数えていないためか、数を少なく見積もる傾向が有るため、確実に一人で半分殺している。 あの憤怒の騎士が、敵国ヴィレンドルフに産まれなくて何より。 雑考。 それを取り止め、またヴァリエールの顔を見る。 はて、ヴァリエールという凡才はこのような目をしていたであろうか。 私や、アナスタシアの眼前ではじっと、何かに怯えて俯くような少女であったはず。 ふむ。 少し、話をしてみようか。 「ヴァリエール第二王女。小さな陣幕に移ろう。少し二人だけで話をしたい」 「……わかったわ」 「もちろん、親衛隊は陣幕の外に張り付かせておけよ。ここはヴィレンドルフの国境線。何が起こるかわからん」 「……そうね」 私とヴァリエールは、小さな陣幕に入る。 そして粗雑な二つの折り畳み椅子に座り、私はヴァリエールに問う。 「自分の身代わりに親衛隊を失った。そしてその敵討ちに人を一人殺した。その気分はどうだ、ヴァリエール第二王女」 「……誰から聞いたの」 「ファウストからだ。こっそり、どうか御配慮願えますようにと、頭を下げて頼まれた」 私は、ヴァリエールの顔を下から覗き込むように眺める。 「もちろん、その場では応じたさ。実際は配慮なんぞしないがね」 ファウストに嫌われるのは死んでも御免だ。 了承はした。 そうしてもいいとすら思った。 だが気が変わってしまった。 私は今のヴァリエールに興味津々である。 コイツ、少し変化した。 私の目を今もまっすぐ見つめている。 時折、凡才なりにこういう奴もいるのだ。 何が変わった? 「実際どうだった? 人を殺した気分は?」 「ハンナは私のために誇りある死を遂げた。私は冷静にその仇を取った。その行為は、青い血として、恥じぬよう務め上げたと思ってるわ」 「ふむ」 嘘だな。 強がりというやつだ。 多分、半狂乱になって、親衛隊の仇を討った。 アナスタシアですらそうだったと聞く。 ヴィレンドルフ戦役――初陣では突然の襲撃に混乱し、親衛隊が殺された怒りで半狂乱となって敵を殺しまわり、一時私との通信が途絶えた。 女王リーゼンロッテの初陣もそうであったと聞く。 私自身、初陣では家臣を殺された怒りで、半狂乱となりながらも敵を殺したものだ。 そういう血族なのだ、私達は。 「なあ、ヴァリエール第二王女殿下」 「何、どうせ血族なんだし、この場ではヴァリエールと呼んでいいわよ」 「ではヴァリエール。お前は今回、ファウストのおかげとはいえ、立派な戦績を残した。これでは諸侯も法衣貴族達もそう馬鹿にはできない。お前は今後、何がしたい」 問う。 お飾りのスペアでは、もはやなくなってしまったヴァリエールに問う。 お前は今後何がしたい? 何を望む? 「……親衛隊」 「親衛隊?」 「あの子たちを、全員世襲騎士に育て上げる」 奇妙な返答であった。 私はお前が今後何がしたいかを聞いているのだ。 部下の今後を聞いているのではない。 「いや、まて。育て上げる? どういうつもりだ?」 「私は女王の座に興味なんかない。成れるとも思っていない。相応しいだなんて、もっての他。だけど、私にもね――」 ヴァリエールは握り拳を作りながら、そのぎゅっと握りしめた手の中に何かを見つけたようであった。 「私にも、家臣がいるのよ。今の今まで気づかなかった。馬鹿でしょう。私。凡才と貴方に見下されるのも無理はないわ」 あはは、と乾いた笑いを挙げながら、ヴァリエールは答える。 「いずれ姉さまが女王になり、私は僧院に行き、それで私の人生はお終い。ずっとそう思っていた。でもね、私にもたった一つだけ譲れないものがあったのよ」 「それは……何かな」 私は、酷く興味を持って、その答えを待つ。 「あの子たちだけは――私の親衛隊だけは育てて見せる。各地に軍役、交渉、その他雑用でも何でもいい。あの子たちの階位を上げ、経験を積ませてあげられるなら何でもいい。その指揮官として赴いて、青い血としての義務を果たすわ」 「……」 変な女だ。 変わった成長の仕方である。 アスターテはそう素直に感じた。 偶然のような功績に恵まれ、欲望に溺れる者がいる。 家臣達の死を悲痛に思い過ぎて、狂った者が居る。 平民を、領民を愛しすぎて、その損失に耐えきれなかった者がいる。 青い血とは、これでなかなか悲惨な末路を辿る物が多い。 だが、ヴァリエールは違った。 親衛隊の未来以外の何もいらないと言うのだ。 ただそれだけのために、今後の青い血としての務めを果たしていくというのだ。 もちろん、それに付随する青い血の義務は、そのためにも果たして行くのであろうが。 変な女だ。 そう言わざるをえなかった。 情があまりに深すぎると、こういう成長の仕方もするのか。 「ヴァリエール第二王女殿下」 「何よ、急に改まって」 「私は正直、今まで貴女の事が大嫌いでした」 その言葉に、ヴァリエールは微笑む。 知ってるわ、そんな事くらい。 そんな表情であった。 「しかし、今の貴女はそこまで嫌いではありません」 「好きになってはくれないのね」 「青い血の王族としてはおそらく――いや、完全に間違っていますので。貴女はどこまでも凡人です」 そうよね。私もそう思うわ。 ヴァリエールがそうやって微笑む。 ヴァリエールはアスターテの言葉に答えず、ただ微笑みだけで肯定を為した。 本当に、変な成長の仕方をしたものだ。 アスターテはそう思いながら、話を打ち切り、一人先に陣幕を出る。 そして再び、ファウストの尻を拝みに行くことにした。 第18話 戦後処理はこれから 王城内を歩く。 私ことヴァリエールは、戦地での処理を終え、王都アンハルトに帰還していた。 もちろん、第二王女親衛隊たち――ハンナの亡骸と一緒に。 その埋葬は親衛隊と、相談役であるファウストと私。 その16名の参列者のみで、静かに行われた。 お母様が、貴女を守ったからには相応の格式でと、法衣貴族の武官達。 女王親衛隊を含めたそれで、厳かに行おうと提案してくれたが。 それを、ハンナが喜んでくれるとは思えなかった。 私と親衛隊たちは、仲間内だけで葬儀を執り行う事を望んだ。 そうする事が、ハンナは一番喜んでくれるだろうと考えたのだ。 何より話が大きくなり、状況に掌返したハンナの家族が墓参りに訪れるなど、ハンナは決して喜ばないだろう。 むしろ、怒られてしまう。 「ザビーネ」 「なんでしょう、ヴァリエール様」 「ハンナの事は吹っ切れた?」 傍にいる、ザビーネに声を掛ける。 ザビーネは悲しそうな顔で、軽く首を振った。 まだ、完全には立ち直れていないようだ。 「姫様。あの小さな村の直轄領の人達に関してですが」 「それは貴女の知ってる通り、アスターテ公に。それから、お母様にも頼んだ。何も心配いらないわよ」 ザビーネが死地に駆り立てた者たち。 重傷を負いながらも、志願民兵を指揮し、青い血としての名誉を回復した代官。 生き残った重傷者を含む志願民兵計30と、救出した男に少年達。 そして10の亡骸は、アスターテ公が輸送してくれるとの事であった。 カロリーヌが抱えていた財貨や領民の武装は、全てアスターテ公が回収した。 やがて、直轄領の遺族への補償に充てられるとの話である。 女の数こそ減ってしまったが、男と少年達は取り戻した。 いずれ、お母様から命令を受けた官僚貴族が、減ってしまった人数分の移住者を見繕い、毎年少しづつ様子を見ながら村民の数を増やし、小さな村の小さな幸せを取り戻すであろう。 もっとも、死者たちへの悲しみが癒えるまで。 カロリーヌが破壊した村の痕跡が消えるまで。 大分、時間がかかってしまうであろうが。 「そうですか」 きっと、ザビーネが立ち直るよりも時間がかかるだろう。 そのザビーネだが、今回、階位が二つ昇位した。 他の親衛隊も全員、階位が一つ昇位した。 今回の功績ばかりは、直轄領を襲い、男や少年達を攫い、財貨を奪い、ましてヴィレンドルフにそれらを売り渡し亡命しようとした売国奴。 そのカロリーヌ討伐の功績としては、昇位にふさわしいと判断したとお母様が言っていた。 ただし、ザビーネの二つ昇位については、少しファウストが口を挟んだが。 民兵を徴兵したのは隊長であるザビーネの功績と聞いていますが、と不思議な顔をするお母様。 「あの状況では最適解であった。最適解であったのは結果から見ても明らかではあります。それは認めます。ですが、進言したい事が」 ファウストは、あのザビーネの演説に対して、自分が思っていたことを素直に語り、苦言を呈した。 お母様はその内容に頬をひきつらせ、言われれば私もアレは青い血としては拙かったと思い返す。 しかし、勝てば官軍である。 お母様は吟遊ギルドに命じて、ザビーネの熱い鼓舞に応じて民兵達が自ら志願したと英傑詩を作り上げ、今回に関しては適当に誤魔化しておく、と答えた。 まあそれ以外に他はない、というファウストの何かを諦めた表情は今でも思いだせる。 結果、ザビーネの二つ昇位に関しては変更が無かった。 次回は本気でファウストを怒らせかねないので、ザビーネには言って聞かせなければならない。 もっとも、言わずとも二度と同じことをするとは思えないのだが。 ザビーネは民兵を駆り立てて死人を出した事を、ハンナの死を、心から悔いている。 吟遊ギルドに命じられた吟遊詩人たちが王都中で謳い出すであろう、その捏造された英傑詩を聞いて、更に心を痛める様な事が無ければよいのだが。 きっと、無理だろうな。 ザビーネの顔色は冴えない。 夜、ちゃんと寝れているのであろうか。 私も時々、あの戦場音楽や、自分が殺した女の顔を夢に見て、ベッドから飛び起きることがある。 やがて、それも時間とともに収まるのであろうが。 「……」 そういえば、今回のファウストの功績に対しては何が与えられるのであろうか。 ファウスト無くして、今回の勝利は無かった。 ヴィレンドルフ戦役では、ファウストはその大きな功績に対しては少し満たない金銭を褒美として望み、お母様や法衣貴族には欲が無い男だと言われたものであるが。 ファウストの今回の功績に対する褒美の発表は、未だに公表されていない。 いや、待てよ。 ひょっとして、私の歳費からちゃんと出さないと拙い? ファウストは第二王女相談役として参加してくれたのよね。 だから、私から褒美を出すのが当然で、だからこそお母様も未だ何も言ってくれない―― うんうんと、頭をうならせる。 私に与えられた権限での少ない歳費では、とてもファウストが満足いくような報酬は出せないぞ。 また後で、お母様に相談しなければ。 今回に関しては、正直、国の歳費から出してくれ。 或いは、私の歳費をこの際増やしてくれ。 国の面子を守ったんだから、それぐらい良いだろう。 そう願う。 そんな事を考えながら、王城の廊下を歩いていると。 「あら、ヴァリエール。こんにちは」 「姉さま。えっと……こんにちは」 私は姉さま――アナスタシア第一王女に声を掛けられ、その眼光に硬直する。 駄目だ。 アスターテ公とは視線を合わせられたのに、姉さま相手だとさすがにキツイ。 そもそも、本当に目つきが悪いのよ姉さま。 あのファウストですら、視線を合わせるのを嫌がるのよ。 私だって、怖がるくらいは許されるわね。 でも、駄目だ。 第二王女として、親衛隊に恥じないように青い血として立つと決めたのだ。 視線を合わせなければ。 「ヴァリエール、挨拶ぐらいはマトモにできるようになったのね。とても良い事です」 「えっと……有難う、御座います?」 私は困惑する。 今のは、姉さまが、少しは私の事を認めてくれた言葉と受け止めてよいのだろうか。 「貴女に、少し聞きたいことがあります」 「はい」 姉さまが、私に聞きたい事? それは何であろうか。 「私が貴女に教えた、初陣における心構えは役に立ちましたか?」 「……」 初陣における心構え。 一つ、戦場では何が起こるかわからない。事前に得た情報に齟齬が生じる事。 一つ、後方の安全圏にいると思いきや、突如として敵の精鋭が襲い掛かってくること。 もう一つは――自分にとっての愛する人間が、死ぬことすら平然と起きるということ。 「戦場は、全て姉さまの仰る通りの事が起きました。ですが、役立てる事はできませんでした」 「そうですか。ファウストやアスターテによる、それぞれの報告は読みましたが、それにしたって余りにも酷い状況だったようです。気にする事はありません」 「いえ、役立てることが出来ず、申し訳ありません」 素直に、謝罪する。 あの時の姉さまの気持ちはよく判らなかったが、姉さまなりに気遣ってはくれていたのだ。 「ヴァリエール」 「はい、姉さま」 姉さまが、その蛇のような眼光で、じっと私の瞳を見つめる。 「貴女は――愛する者が目の前で死にゆく状況下でも、冷静に対処することができましたか?」 「……いいえ」 アスターテ公には強がりを言ったが、今回は正直に答える。 私にはできなかった。 それは王族として失格なのだろうか。 「なれば、それは良い事です」 「は?」 思わぬ、姉さまの言葉にきょとんとする。 姉さま、何が言いたいのだ。 「初陣で愛する者が殺された場合、半狂乱に陥って、敵目掛けて暴れまわる。それは我が血族の特徴です」 「……」 それでいいのか、我が血族。 本来、冷静であるべきじゃないのか。 それこそ、緊急時なのだから。 「私は、正直貴女が本当に我が血族の血を引いているのかと疑っていました」 「……」 私、そこまで姉さまに嫌われてたのか。 嫌われているのは知っていたが。 正直、愕然とする。 「ですが、違ったようです。見直しましたよ、ヴァリエール」 「あ、有難うございます」 今度こそ、私にもハッキリわかるように姉さまは褒めてくれた。 一応、誇りに思っていいだろう。 その内容は、正直言って私には微妙に思えるのだが。 「さて、私の話したい事は終わりとしたいところですが、ヴァリエール。まだ言いたいことが」 「はい」 少し、胸を張りながら答える。 この様子だと、そう無体な事は言われないだろう。 「貴女、余計な事してくれましたね。貴女の功績のせいで、私の女王就任が少し先に延びました。リーゼンロッテ女王曰く、宮廷内のバランスを考えろ、との事です。大人しく逃げ帰ってくれれば良かったものを」 「……」 無茶苦茶に無体な事言われた。 知るか、そんなの。 私の功績を全力で否定しにかかるなよ。 「ヴァリエール。死んでは何も意味が有りませんよ。生きてこそ花は咲きます。我々王族は、その立場として、最高指揮官として絶対に死んではならないのです。貴女がもし死んでいた場合、例え闘いに勝利したとしても、王家は初陣の補佐を務めていたファウストに対し何らかのペナルティ、罰を与える事も考慮に入れなければなりませんでした」 「それは判っております」 姉さま、その言葉通りにとると、最終的に心配しているのは私じゃなくて、ファウストの方じゃないのか。 そんな疑念を抱く。 「それと最後に二つ」 「まだ何か?」 私は正直ウンザリしていた。 これ以上、一方的に責められるのは嫌だぞ。 私はそう考えるが。 「一つは、よく生きて帰りました、私の妹」 「……」 私は、喜びよりも驚愕する。 そんな言葉が、姉さまの口から飛び出すとは思わなかった。 あの鉄面皮の姉さまが。 法衣貴族から、本当に自分と同じ血が通っているのか、と疑われる姉さまが。 あの鬼そのものの視線で子供のころから私を睨みつけてきていた、あの姉さまが。 これは快挙である。 快挙そのものである。 「もう一つは、ヴァリエール。直に、アスターテが、私の相談役が直轄領に村民を送り届け、ついでの仕事をこなして帰ってきます。用意しておきなさい」 「用意? ついでの仕事とは?」 私は思わず、心の底で全身全霊を籠め、これは快挙であるぞ、と快哉を挙げていたが。 もう一つの話に、疑念を浮かべる。 何の用意だ。 ついでの仕事とは? 「まだ、戦後処理は終わっていません。今回、貴女を追い詰めた最大の原因。売国奴カロリーヌの姉である、ヘルマ・フォン・ボーセル。家督相続を勝ち取り、ボーセル領の領主となったヘルマ。それは結構。だがその際、カロリーヌとその配下を逃した。結果、カロリーヌは山賊を指揮下に置き、我が王家の直轄領を襲った。その手抜かりへの追及がまだです。アスターテは直轄領に寄るついでに、ヘルマを王都に連行して帰ります」 「……」 ハンナの死に衝撃を受けすぎて、忘れていた。 それがまだ残っていたか。 我々が苦境に追い込まれた、最大の原因。 完全に思いだした。 そもそも、今回の原因である地方領主の長女たるヘルマ・フォン・ボーセルへの多額の謝罪金――戦費の請求を、ファウストから依頼されていたのであった。 それこそケツの皮が剥けそうなほど、私は自分のケツも拭けない領主騎士が反吐が出る程嫌いです。 それがファウストの言い分であったか。 「まあ、貴女がヘルマを問い詰めるのではありません。母上、リーゼンロッテ女王が王としてヘルマを問い詰めます。ですが、貴女は関係者であり、その迷惑をこうむった者なのです。その裁定に不満があれば、意見を述べる。その資格があります」 「私の……意見」 「その罪と罰への裁きは、王の間で、上級法衣貴族、そして諸侯やその代理人を集め行われます。全員は忙しくて参加できそうにありませんがね。貴女は相談役であるファウストと、同席しなさい」 「判りました」 最後の発言、それを終えて、姉さまが背を向けて廊下を立ち去る。 私は怒るべきなのだろう。 あのような事が無ければ、私はただの山賊退治を済ませ、おそらく親衛隊全員そろって王都に帰還していた。 まあ、あくまで仮定の話で、戦場では何が起こるか判らないが。 怒りはどうにも湧いてこない。 あの、憎むべきであろうカロリーヌに対してもそうなのだ。 もはや、何事も片付いてしまった。 そんな心境であった。 だが、まだ終わりではない。 終わりではないのだ。 「御免、ファウスト。領地に帰りたがっているところ悪いけど、もう少しだけ力を借りるわ」 私は、王家から与えられた下屋敷で今頃、私は何時になったら今回の報酬を貰い、何時になったら領地に帰れるのだ?と愚痴っているであろうファウストに心の中で詫びた。 第19話 ヘルマ・フォン・ボーセルの弁明 王の間。 リーゼンロッテ女王が王座に座るその席で、上級法衣貴族と諸侯たち、そしてその代理人たちは、互いに向かい合うようにして立ち並んでいた。 この場は、ヘルマ・フォン・ボーセル。 領民1000名を超える街の、家督相続戦を勝ち抜いた地方領主。 その罪、カロリーヌを逃した手抜かりを裁くべき場である。 法衣貴族と、諸侯たちは、ファウストの見解で言うと検察と弁護人。 その立場として立っていた。 法衣貴族は、この機会に問題を起こしたボーセル領を取り潰したい。 そして直轄領としたい。 その思惑が有った。 法衣貴族たちは、さながら検察である。 その発言は、要約するとこうである。 「ボーセル領は取り潰しとすべきである!」 諸侯たちはその真逆である。 幾ら寄親とはいえ、いくら主君とはいえ、リーゼンロッテ女王が地方領主を取り潰す。 過去にも無いわけではないが、前例を増やす事だけは阻止したかった。 自分達の立場と考えてみれば、これだけ防ぎたい事態は無い。 さながら、諸侯たちはヘルマの弁護人であった。 その発言は、要約するとこうである。 「謝罪金をポリドロ卿と王家に支払う。それで済ませるべきであろう」 両者はその互いの立場を認識しながら、相対し、王の間に立ち並んでいた。 もちろん、彼女達の考えをリーゼンロッテ女王は理解している。 「双方、控えよ。全てはヘルマ・フォン・ボーセルの弁明を聞いてからの決断とする」 両者を、その威厳ある声によって押し止める、リーゼンロッテ女王。 その右傍に控えるのは、第一王女アナスタシア、その相談役アスターテ。 その左傍に控えるのは、第二王女ヴァリエール、その相談役ファウスト。 これにて、役者は揃うことになった。 後は、ヘルマ・フォン・ボーセルの登場を待つばかりである。 どんな弁明を述べるのか。 どんな反論を為し、自領への被害を防ぐのか。 愉しみである。 ファウスト・フォン・ポリドロはやや愉悦を含みながら、その裁きの場を待っていた。 そもそも、ファウストにとっては今回の軍役は気に食わない事ばかりであった。 地方領主であるヘルマが逃した、カロリーヌによる初陣規模の拡大化。 結果的に見れば仕方ないとはいえ、ザビーネの青い血の本分を忘れたような演説。 志願民兵10を失い、親衛隊1を損失した戦場での結果。 何より、カロリーヌの最期の遺言。 マルティナという名は誰の事か、それはアスターテ公に事前に聞いた。 カロリーヌの一人娘の事であると。 不愉快であった。 やはり、聞くべきでは無かった。 今頃、縛り首にされていることであろう。 頑是ない子供が、縛り首にされる事。 それが青い血の子供であろうとはいえ、それはファウストの――前世の価値観とは相いれぬ事であった。 だが、終わってしまった以上は仕方ない。 自分には、ファウスト・フォン・ポリドロという一介の辺境領主にはもはや何もできないのだ。 そう考える。 やはり、ヘルマ・フォン・ボーセルは裁きを受けるのに相応しい人物である。 おそらく、諸侯の弁護により取り潰しとまでは行かないが、多額の謝罪金が私や王家に支払われるであろう。 ファウストはそう結論付けた。 「ファウスト、何を笑っているの?」 「これから、ボーセル卿に突きつける謝罪金、その報酬を期待しているのですよ。軽蔑しますか?」 「いいえ、ファウストにはそれを望む権利があるわ」 これは意外だ。 ヴァリエール様は、私のその考えをあっさり肯定した。 少しばかり、成長なさったようだ。 初陣を通して、何かを掴んだのであろうか。 そんな考えをしている間に、ついにこの裁きの場に当事者が訪れた。 「ヘルマ・フォン・ボーセル、御前に」 ヘルマ・フォン・ボーセル。 カロリーヌとの家督争いを勝ち抜いた、その姿が現れてみるに。 何というか――病弱。 それ、そのものの姿であった。 まず、杖をついていた。 右足に重傷を負っていた。 おそらく、カロリーヌの攻撃によるものであろう。 だが、それを別として、ヘルマのその姿は病弱そのものであった。 顔は青白く、その手足は枯れ木のように細かった。 まるで、死の際の母親マリアンヌのような。 このような人間が、長生きできるわけがない。 そんな容貌であった。 リーゼンロッテ女王も、その容貌を見て愕然としている。 「ヘルマよ。家督争いの際に、カロリーヌから受けた傷が、まだ癒えぬのか?」 「……いえ、陛下。元より、この身はこの容貌でございます。失礼を」 ヘルマが、その病弱な容貌で答える。 ……よく、カロリーヌの手から逃げられたものだ。 私が抱いた疑問を、そのままリーゼンロッテ女王が口にする。 「何故、お前はカロリーヌから逃げ切れた? 報告では……」 「死ぬべきでした」 ヘルマは答える。 リーゼンロッテ女王は、その返答に驚愕する。 「何!?」 「あのまま、私などは妹――カロリーヌに殺されてしまうべきだったのです。命惜しさ故、屋敷に設けられたセーフルームに逃げ込み、怯えながら、家臣達が妹を撃退するのを待っておりましたが」 ヘルマが、その病弱の身体ながら、言葉と瞳に熱を灯しながら呟く。 「私など、あのままカロリーヌに殺されてしまうのが最高の結末であったのです」 「待て、ヘルマよ。私はそなたの領地の事情を知らぬ。他の皆もだ」 リーゼンロッテ女王が、そのまま独白を続けそうなヘルマの言葉を止める。 法衣貴族達や、諸侯やその代理人が、ざわつく声が聞こえる。 「詳しく、詳しく事情が聴きたい。ボーセル領に何が有った? それを聞かねば判断が出来ぬ」 「……なれば恥を、我が領地の、そして私の恥をお話いたします」 ヘルマは、その言葉に応じて語りだす。 「そもそも、私が、この長女であるヘルマが病弱に生まれ落ちた事がボーセル領最大の不幸で御座いました」 ヘルマが、回想するように呟く。 「対して、次女であるカロリーヌは丈夫な身体に産まれました。私の代わりに、領民に愛され、よく領民の間に混じっての統治を行い、そして16歳の頃から10年間、病弱な私の代わりに軍役を従士達とともに10年務めてまいりました」 カロリーヌ指揮下の領民の忠誠心は異常であった。 殲滅するまで、一兵も逃げぬ兵であった。 カロリーヌをヴィレンドルフに逃がそうと、必死の形相で闘っていた。 思わず、戦場の事を回想する。 そして、納得した。 10年来の関係。 あの時、カロリーヌを一廉の人物と感じたのは間違いではなかったのだと。 「おそらく、母上も、本来はカロリーヌに家督を譲るつもりであったのでしょう。私には統治も軍役も果たせませんので。ですが、それを存命中に明らかにすることはありませんでした」 「何故?」 リーゼンロッテ女王の問い。 本当である。 それは何故か? 「今となっては判りませぬ。母上は卒中で急死しました故。病弱な私を憐れんでいたのか、カロリーヌに何か私には判らぬ問題があったのか。思えば、カロリーヌの軍役に陪臣達を同行させず、軍役の間は領地の統治に仕事を回している事も不思議でありました。私には、本当に母上の心が判りませぬ。生前に後継者をカロリーヌに決めて下されば……このような事には」 返答は、空虚としか言いようがない回答であった。 全ては闇の中、か。 「私はカロリーヌが当然、家督を継ぐものと、産まれてこの方考えておりました。後継権は放棄するつもりでありました。何度も言いますが、私には統治も軍役も果たせませんでしたので。ですが、カロリーヌはそうとは考えていなかったようであります。あくまで、自分はスペアであると。今となっては後悔が尽きぬ話ではありますが、そう考えていたようなのであります」 「家族による、事前の話し合いは無かったのか?」 また、リーゼンロッテ女王の問い。 「妹は、カロリーヌは、統治や軍役をスペアの自分に押し付ける、病弱な長女の私を酷く嫌っておりました故」 悲し気に、ヘルマが呟く。 一人息子であった、私にはその事情は分からない。 そういうものであろうか、と思うばかりだ。 逆に、法衣貴族や諸侯たちの幾人かは苦渋に満ちた表情をしている。 何か共感する点があるのであろうか。 我が傍のヴァリエール様も、同様の表情をしている。 ……家督争いによる軋轢は、どこの家にもあるという事か。 「ともかく、カロリーヌは今思えば、将来を悲観していたのであります。亡き夫との一人娘、マルティナの行く末はどうなるのか。カロリーヌのみに忠誠を誓ってやまない、従士達や領民の扱いはどうなるのであろうか。領民1000名――それを超えるボーセル領にとって、彼女達は精鋭であれども少数派でございました。ひょっとすれば、母上の死により、邪魔者として殺されるものと疑心暗鬼になっていた可能性さえあります。あくまで推測にすぎませんが」 「……」 リーゼンロッテ女王は、黙してそれを聞き入れる。 ヘルマの独白が終わるのを、ただ待っていた。 「結局、我が母上の死と共にカロリーヌは暴発いたしました。我が妹、カロリーヌは軍役を共に――同じ釜の飯と、死を共にしてきた従士達や領民とともに領主屋敷に押し寄せ」 「結果は?」 結果は判りきっているが、リーゼンロッテ女王は尋ねた。 「先に申した通りでございます。私はそのまま殺されるべきであったのを、命惜しさにセーフルームに逃げ込み、やがて陪臣達である騎士やその兵士たちが、カロリーヌの軍勢をなんとか押し返しました」 ヘルマが、心の底から残念そうに呟いた。 「しかし陪臣達のそれは、忠義ではありませぬ。忠義ではないのです。ただ、長女が後を継ぐべきであるという慣例に固執し、自分達家臣が私ヘルマを傀儡とし、ボーセル領を自由に支配するという欲望あってのことでありました」 「……」 リーゼンロッテ女王はもはや、言葉も出なかった。 そんな愚かな話があるものか。 そんな表情であった。 その先に、何の未来があるのか。 ボーセル領の人命は結局、100を超えて失われたと聞く。 軍役をこなしてきた従士、領民の精鋭たち。 それを失い、今後どうやって軍役をこなしていくつもりなのか。 カロリーヌを押し返したからには、陪臣達が今後こなすことも不可能ではないのだろうが。 それとて、ノウハウはゼロから始めることになり、何よりも100名の人的資源を失ったのだ。 反乱を起こされた時点で、正直詰みかけている。 ボーセル領としての明るい未来は、もはやそこにあるのか? そんな表情をリーゼンロッテ女王が浮かべる。 それを、ヘルマは敏感に感じ取ったようであった。 病弱ではあれども、愚鈍ではないようであった。 「そこに、未来はありませぬ、なれど、人とは緊急時と成れば目の前の事しか見れぬものであると愚考致します」 ヘルマの発言。 実際、ボーセル領ではそれが起こったのであろう。 ヘルマの話は続く。 「カロリーヌは、我がボーセル領から追いやられました。その際、領主屋敷から従士や領民が金目の物を奪い去り、馬車二つを奪い、軍役を共にしてきた従士と領民70名で、我がボーセル領から逃れました」 「その後、山賊30を吸収したという事か」 「話を聞く限りでは、リーゼンロッテ女王の仰る通りでございま――ゴホッ」 ヘルマが咳をついた。 ゴホン、ゴホン、と鳴る音は如何にも苦し気で、その咳に血の痰が混じっていたとしても私は驚かなかった。 事実、同じ容貌であった私の母親マリアンヌが咳をついた際には、血の痰が混じっていた。 「失礼しました」 「気にするな、話を続けよ。ゆっくりでよい」 「承知しました」 ヘルマが、話を続ける。 「山賊を吸収したカロリーヌはその後、誠に弁解しようのない行為に出ました。敵国ヴィレンドルフへの手土産のため、あろうことか王家の直轄領を襲い、男や少年達を攫いました」 「……そこから先は、ファウスト・フォン・ポリドロの報告書で知っている。その略奪には成功し、そのままヴィレンドルフに亡命しようとしたのだな」 「はい。全てを失った――少なくとも我が妹であるカロリーヌはそう考えた。その最期の終着点は、つまるところ亡命以外に何もなかったのでありましょう」 これで、話は繋がった。 「カロリーヌ追撃の軍を出せなかったのは?」 「家臣がその領外への出陣を、命を賭けての追撃を拒みました。一度領外に出れば、軍役経験者であるカロリーヌのテリトリーです。自分の命が脅かされると考えたのでしょう。私ヘルマは、直轄領に逃げるよう指示を出すのが精一杯でした」 「もはや、お前の家臣の低能さには呆れてものも言えんな」 結論から言おうか。 つまり、お前が死ねばよかったんだよヘルマ。 私は冷たい思考を走らせる。 お前自身も認めている事だ。 だが、さすがにそれを口にする事は―― 「ヘルマよ」 リーゼンロッテ女王が、語り終えたヘルマに問いかける。 「何故、お前は死ななかった」 直球であった。 ファウストですら、さすがに口にはできない言葉を、リーゼンロッテ女王はあっさり口にした。 カロリーヌが勝利していれば、少なくとも直轄領は襲われなかった。 10年もの間、軍役に、国家に貢献してきたカロリーヌが死ぬこともなかった。 陪臣達も、ヘルマが討ち取られた以上はカロリーヌに従ったであろう。 ヘルマの命などは、度外視していた。 死ぬべき時に死ね! それが青い血の生き方ではないか。 それがリーゼンロッテ女王の出した結論であった。 だが、ヘルマの答えもそれに即したものであった。 「……最初に、恥を話すと申しました。それが全てでございます。今考えれば、私が死ぬべきでございました」 緊急時故、思わず命惜しさの行動に出てしまったという事か。 それに関してはどうしようもない。 私は思わず、舌打ちが出そうになり、それを止めた。 この王の間に、さすがにそれは相応しくない。 全てを正直に告白したヘルマにも。 「リーゼンロッテ女王様、お願い申し上げます」 「何か」 リーゼンロッテ女王は、周囲にその不機嫌をまき散らし始めていた。 その主君の怒気を読み取り、高級官僚貴族も、諸侯たちも何も言えないままでいる。 そんな空気の中で。 ヘルマは、血を吐くような声で絶叫した。 「妹、カロリーヌの遺児、マルティナの家督相続を御認め頂けるよう、お願い申し上げます。もはや、我が領地には、ボーセルには、その道しか残されていないのです!」 その絶叫による嘆願は、驚愕の内容であった。 カロリーヌの一人娘、マルティナはいまだ生きている? 何故? すでに縛り首になっているべきではないのか? そう困惑の空気が王の間を立ち込める中、ヘルマは叫び続ける。 高級官僚貴族と、諸侯たちのざわつく声を無視しながら。 「何卒――なにとぞ、マルティナの命をお許しいただき、その家督相続を。我が領地、ボーセルにはもはやそれ以外の道が!」 売国奴であり反逆者であり、家督争奪の敗北者であるカロリーヌの遺児、マルティナをボーセル領の跡継ぎとするという、矛盾した言葉を。 ボーセル領の家督争奪戦の勝利者、いや、間違って生き残ってしまったヘルマは、血の痰を吐きそうな顔で叫び続けた。 第20話 窮鳥懐に入れば猟師も殺さず リーゼンロッテは怒気を、意図的にまき散らしていた。 そうして法衣貴族や諸侯、その代理人たちを黙らせていた。 しかし、頭は冷静である。 その頭から出た結論は――取り潰しだ。 相手は地方領主、ボーセル領の土地はあくまでもボーセル家のものである。 だが、知った事ではない。 不手際に不手際を重ね、我が娘ヴァリエールを本当に死ぬ寸前にまで追いやった。 それを機に、初陣でヴァリエールは思わぬ成長を見せたようであるが。 だが、それは今は関係ない。 今は我が娘の事は関係ない。 この場の私はアンハルト王国に君臨するリーゼンロッテ女王である。 被害を受けた娘の事すら計算の一つに過ぎず、今考えることは我が王家が如何にボーセル領を取り潰し、直轄領として組み入れるか。 その結論にまで持っていくのが、課題であった。 しかし、もはや課題を達成するには容易い様だ。 余りにも愚か。 ゆえに、ボーセル家は取り潰しとする。 それがリーゼンロッテが出した結論である。 「ならん」 そうして言葉を吐く。 「カロリーヌは罪を犯した。その子も同罪である。未だ縛り首にしていない事に驚いた程だ。その子供、マルティナと言ったか? それを次期ボーセル領の家督相続人とする? 馬鹿も休み休み言え」 「私は見ての通り、病弱ゆえ。恥であるがゆえ領内には隠しておりましたが、夫こそいるものの、まだこの身体がマシだった頃に産んだ子は死産でございました。もはや、ここまで病に侵された身体では、二度と子を孕むことなど出来ぬでしょう」 ヘルマが、また勝手な事を言う。 だから、それを領内に漏らしておけば、このような事にならなかったであろうが。 将来的にはカロリーヌの子、マルティナの相続が確定する。 それさえ知っていれば、カロリーヌは反逆など起こさなかった。 「もはや、ボーセル家を継ぐ血族はマルティナを置いて他におらぬのです」 その心配をする必要は、もはやない。 お前の心配など無意味。 ボーセル家は取り潰しだ。 心の冷たい部分でそう考える。 「結論から言おう、ボーセル領は、ボーセル家は……」 諸侯やその代理人達は反対するであろうが、この状況でねじ伏せるのは容易い。 さっさと終わらせてしまおう。 「お待ちください。リーゼンロッテ女王陛下。決断を下す前に、もう一人、会わせたい者がおります」 右傍に控えていたアスターテ公爵の声が、王の間に響く。 その顔つきは真剣そのものであったが――この場では、余計な事でしかない。 「会わせたい者?」 「カロリーヌの子、マルティナを連行しております。どうか、一度御会いになってください」 何を今更。 反逆者で、亡命を企んだ青い血の子など、縛り首が相当。 今更会ってどうするというのか。 だが、アスターテの言葉である。 会ってみるのも一興か。 「良いだろう。呼べ。時間はかかるか?」 「すでに控室で待たせております。時間は取らせません」 そう呟いて、アスターテが衛兵に命じ、控室に待機させておいたらしいマルティナを呼び寄せる。 さて、どんな子供か。 そこまで考えたところで、はて、アスターテの性格からすると。 「……」 衛兵に連れられ、王の間に現れたのは手鎖を付けた齢8~9の少女であった。 その瞳は叡智を感じさせ、なるほど、アスターテが。 あの才能狂いが気にかけるわけだと思った。 どうやら、この子の助命だけは許せとの事か。 「……」 それにしても、この子何故黙っている? 助命嘆願はせんのか? と少し悩むが、はた、と気づく。 「許す。発言を許可する、マルティナ」 「有難うございます、リーゼンロッテ女王」 膝を折り、手鎖の姿のままながらも礼を整えて、私に言葉を紡ぐマルティナ。 発言許可を待っていたのか。 本当に賢い子らしい。 「リーゼンロッテ女王、恥ずかしながら、嘆願が一つございます」 「何かな」 これなら、この子の命ばかりは助命してもいいという気にもなる。 平民に落とし、その牙を抜き、最低限の生活援助を行うだけになるであろうが。 大した手間ではない。 だが、そのマルティナから出た言葉は、驚くべき言葉であった。 「私の死刑は、ファウスト・フォン・ポリドロ卿による斬首を望みます」 「……は?」 私は、思わず女王としての仮面を脱ぎ捨てて、素の言葉が出た。 「我が母の罪は明白。王家への反逆者にして亡命を企んだ女です。で、ある以上は、私の死刑も当然でしょう。なれど、罪人とはいえ親は親。せめて、親と同じ死に方を望みます。せめて最期は、青い血として誇りある死に方がしたい。縛り首は恥なれど、あの憤怒の騎士、ファウスト・フォン・ポリドロ卿に討たれ、母と同じ運命を共にしたとあれば恥ではありませぬ」 もはや、それを望む姿すら恥かもしれませぬが。 そう、齢8~9にも満たぬマルティナが呟いた。 聡い子だ。 本当に聡い子だ。 殺すには惜しい。 アスターテめ、才能を愛する、悪い癖が出たな。 「ひょっとすれば、同じ死に方をすれば、黄泉路で母と再会できるやもしれませぬ。どうか、どうかご慈悲を」 私にこの子の助命を、青い血として助命を、心の何処かでアスターテは願っているのであろう。 だが、そう上手くいかせるものか。 この子は逆に賢すぎた。 再起し、王家に反逆する危険性がある。 危険性は全て潰すのが私の主義だ。 「衛兵。ポリドロ卿に、グレートソードの帯刀を許可する。今すぐ持って来い」 「は、はい! 承知しました」 私を甘く見るなアスターテ。 この子の青い血としての名誉は守ってやろう。 だが殺す。 この子にとっても、それが幸いだ。 リーゼンロッテは、そう考えた。 それが何よりの間違いであった。 リーゼンロッテは、ファウストのその姿形に執着すれど、その性格を詳細までは知らぬ。 憤怒の騎士、戦場にて勇猛果敢なその姿を描いた英傑詩、戦果報告でしか知らぬ。 しかし、アスターテはヴィレンドルフ戦役を共にし、その王都での下屋敷の生活を監視し、その性格をどこまでも理解していた。 その差が、この場にて出た。 ※ ふざけるな。 「ポリドロ卿、王の間ではありますが、グレートソードの帯刀を許可します」 本当に、ふざけるなよ。 ファウスト・フォン・ポリドロは静かにブチ切れていた。 私に、齢8~9の子供の首を刎ねろだと。 これが他人の事であれば、良かった。 ファウスト・フォン・ポリドロは傍観者でいられた。 ファウストは、正直に言ってしまえば凡人とは程遠い。 筋骨隆々の鍛え上げられた身体、亡き母親から受けた騎士教育。 アンハルト王国の女子にこそモテぬものの、青い血としての誉れ。 その具現化そのものであった。 だが、その出生には僅かながら雑念がある。 どうしても前世からの雑念が混じる。 これがただの傍観者であれば、ファウストはまだ我慢できたかもしれない。 所詮は他人事であると見捨てることが出来た。 青い血として、罪人の子である、一人の少女が死に行く姿を心の底から憐れみながらも、その死体をせめて安らかに弔う事を進言する。 その程度で済ませたのかもしれない。 だが、当事者となってしまったからには、話は全く別であった。 ファウストの脳に、血が滾る。 ふざけるなよ、リーゼンロッテ女王。 「断固拒否する。このファウスト・フォン・ポリドロにこの頑是ない子供の首を刎ねろと申すか!!」 激昂した。 衛兵が恐れおののき、グレートソードを床の絨毯に取り落としそうになるほどの激昂であった。 ファウストの顔面は、その憤怒の騎士の名と同じく、真っ赤に染まりきっていた。 その場にいる全員。 リーゼンロッテ女王、法衣貴族、諸侯とその代理人。 アナスタシアにヴァリエール、ヘルマにマルティナ。 それらは驚愕の顔を浮かべていた。 ただ一人、アスターテ公爵がこの場にそぐわぬ表情で、口笛を吹いた。 ふざけているのかアスターテ公爵。 貴女なら、私が激昂するのも判っていそうなものを。 「リーゼンロッテ女王、断固拒否します。いえ、もはやそれだけでは勘弁ならぬ! 我が手以外でもその子を殺すことは、もはや誰にも許さぬ!!」 ファウストは頑固であった。 亡き母親から受けた騎士教育としての青い血と、前世からの道徳価値観が奇妙なバランスを保ち。 ギリギリのラインで構成していた我慢の分水嶺が、完全に壊れた。 もはやこの世界の青い血にとっては、何が何やらよく判らぬ頑固な憤怒の騎士と化していた。 「ポリドロ卿! 落ち着かれよ!!」 諸侯の一人が叫ぶ。 「これが落ち着いていられるものか! 何故誰もその子を助けてやらぬ!! 何故頑是ない子供の首が刎ねられようとしているにも関わらず、誰も止めようとせぬ!!」 もはや無茶苦茶であった。 ファウストは自分でもそれを理解しながら――自分ですら見捨てようとしていた癖に。 そんな内心の何処か冷たい自分、傍観者のそれとは違う、無茶苦茶な台詞を吐いた。 もはや、それは理性ではなく感情からの言葉であった。 「その子自身が、マルティナが、何の罪を犯したというのか。母の罪を自分の罪と誤解し、その贖罪をせんとする哀れな少女ではないか!! 私の青い血の誉れとしては、もはや許せぬ!!」 そうだ、これは誉れなのだ。 青い血と今は薄き前世の道徳感が混ざり合い、歪な誉れと化しているのだ。 それをこれ以上汚されるのは、もはやファウスト・フォン・ポリドロの存在そのものを揺るがす行為であった。 ファウストは歩く。 その先祖伝来の魔法のグレートソードを抱える衛兵を。 傍にいるヴァリエールを。 それを無視し、ただただ歩き、やがて手鎖を嵌めたままのマルティナに近づき。 その手鎖を、その超人としての力任せに千切り捨てた。 「ファウスト!」 やがて、驚愕から正気に戻ったヴァリエール様の叫び声が響く。 ヴァリエール様、お許しください。 もはや、ファウストは、このままではいられぬのです。 そう、心の中で謝罪する。 私が今、どうしたいのか。 自分でも判らないが。 判っていないのだが。 感情のままに、その奇妙な青い血の誉れはそこに姿形として表現された。 膝を折り、礼を整え、リーゼンロッテ女王に進言する。 「リーゼンロッテ女王」 「……どうした、ファウスト。何か私の決定に異議でもあるのか」 「今述べました言葉通りであります。マルティナの助命嘆願を願います」 リーゼンロッテ女王は硬直していた。 今、彼女が何を考えているのかはわからぬ。 だが、やる事は――やってしまった事は変わりなかった。 「ファウストよ、いや、ファウスト・フォン・ポリドロよ。今、お前が何をしたか判っているのか? 我が王命に反したのだぞ」 「それが例え主君でも。私の誉れに関わる事であれば、私は断固として拒否いたします」 静かに、返答をした。 リーゼンロッテ女王は呟く。 「その子の幸福がこの先あると思っているのか? 領地の反逆者にして、売国奴の娘だぞ。もはや青い血どころか、その義務を捨て、平民としての幸福すら望めぬやもしれぬ。後ろ指を刺されながら生きることはこの先間違いない。ここで名誉をもって殺してやるのが、その子の幸福やもしれんぞ」 「私は、青い血として今世で死ぬべき時に死ねぬのは一生の恥。なれど、生きてこそ、その先の可能性もあると思っているのです。……これでは返答に乏しいでしょうか」 我ながら、無茶を言っている。 こんな言葉でリーゼンロッテ女王を説得できるものなのだろうか。 「その子が、マルティナが、お前を将来恨むやもしれぬ。何故、あの時殺してくれなかったのか。そう恨みの言葉を放ちながら、刃を向けるかもしれぬ。お前はどうする?」 「判りませぬ。マルティナを斬り捨てるのか、その刃を黙って受けるのか。それすら判りませぬ」 曖昧な言葉を返す。 判らないという返事を、正直に行う。 「ましてや、仮に――仮にだぞ。マルティナが、ボーセル領を継いだとしてどうなる。100名以上の死者を出したカロリーヌの子供への恨みは消えぬ。マトモな統治など行えるものか。その辺はどう考えておる」 「……」 もはや、返事のしようもなかった。 その統治判断においては、ファウストの言葉の及ぶところではない。 いや、仮初の言葉であれば何とでも返せる。 だが、それは不正直、それこそ青い血の誉れに関わる。 リーゼンロッテ女王陛下の言葉は一貫として正しい。 そうファウストは考えてしまった。 そんな理屈、ファウストも十分承知の上で発言している。 しかし、もはやファウストには自分で自分を制御する事が出来ぬ。 傍観者ならばよかった。 だが窮鳥懐に入れば、もはやファウストがマルティナを見捨てることは不可能であった。 「ファウスト・フォン・ポリドロよ。お前の誉れはどこまでも清い。眩しいほどに。だが、その誉れだけでは世は治まらぬと知れ」 リーゼンロッテ女王が、言葉を締めた。 ああ、我が言葉は届かぬか。 なれど。 それでも、私は。 「リーゼンロッテ女王」 ファウストは膝を折る事すら止め、その両足を綺麗に折り畳み、頭を地に擦り付けた。 平身低頭していた。 法衣貴族達と、諸侯、その代理人が集まる満座の席で。 ファウストは、前世の世でいう土下座をしていた。 アンハルト王国最強騎士の、見る者全ての哀れさを誘う、乞食のような姿であった。 「ファウスト、止めよ!!」 リーゼンロッテ女王が玉座から思わず立ち上がり、それを止めるよう絶叫する。 「止めませぬ! 我が言葉を聞き届けて頂くまで。どうか、どうかマルティナの事をお許しください!」 「判った! 止めよ! もうお前の誉れは十分理解した! だから、その姿を今すぐ止めよファウスト!!」 リーゼンロッテ女王が、言葉を撤回する。 マルティナの斬首を撤回する。 ファウストは膝を折りたたんだまま、頭を上げ、黙ってリーゼンロッテ女王と視線を合わせた。 「ファウストよ、お前という奴は……。何のため、お前をそこまで」 リーゼンロッテ女王は、言葉足らずであった。 女王が何を言いたいのか、ファウストには判らなかった。 これで、全ての問題が解決したわけではない事は承知している。 ひょっとしたら、リーゼンロッテ女王の言い分が全て正しいのかもしれない。 だが、マルティナの助命嘆願だけは少なくとも、これで成った。 ファウストにとっての誉れは、それで満足だったのだ。 誠にもって泥臭い、英傑詩のような格好良さとはかけ離れた誉れであった。 第21話 ファウストの自戒 プラスに考えよう。 これで一つ、ファウスト・フォン・ポリドロに貸しが出来た。 ファウストは義理堅い性格だ、その貸しは無駄にはならない。 ファウストに首輪を一つ付けたと考えれば、賢しい小娘一つ生かしたところで損ではない。 保護契約の軍役以外でも、第二王女相談役としての立場以外でも、これでファウストに頼みごとが出来る。 リーゼンロッテ女王は、プラス思考で考えることにした。 そうでなければやってられなかった。 何で私がこのような仕事を――リーゼンロッテ個人が、好きで子供を殺したいと思っているのか。 女王だから仕方ないのに。 ファウストの性格の奥底を、その誉れを見抜けなかった――アスターテの策略に引っかかった私が悪いのか? 違うだろ。 絶対違う。 これ全部アスターテが悪い。 助命したければ、お前が言えば済む話であったろう。 アスターテ公爵がその権限と立場で、マルティナにおける全責任を背負うと言うのであれば、私は応じた。 わざわざファウストを使うな、あのメスガキ。 内心で、私人としてのリーゼンロッテが愚痴を吐く。 ファウストの嘆願により荒れていた場は静けさを取り戻し、今は私、リーゼンロッテ女王による裁定待ちであった。 あまり、長く引っ張る気も無いのだ。 状況は少し変わったが、結論から言ってしまおう。 「ヘルマ・フォン・ボーセル、決断した。覚悟して聞け」 「はい」 「ボーセル領は全て接収し、直轄領とする。この決定に変更は無い」 ヘルマは項垂れ、杖を取り落とした。 この点だけは、譲る気はない。 「女王様、恐れながら、ボーセル領は我ら先祖代々の土地……」 「変更は無いと言った。そのような言葉が通じる状況だと思っているのか?」 私はヘルマに問う。 「従士や領民100名以上を死なせ、軍役面で優れた家臣は全員カロリーヌに引き連れられ、我が娘である第二王女ヴァリエールの手により全員討ち死に。残る家臣はお前の言葉によれば、お前を傀儡としたい佞臣ばかり。この状況下で、死にぞこないのお前が、領地をマトモに運営できるとでも? ハッキリ言おう。ボーセル領は詰んでいる。荒廃したボーセル領からどんな災厄が飛び出すかわからん。座視できぬ」 「……私が死ぬのは構いません。お望みとあれば、この場でこの命を絶ちましょう。どうか、マルティナに家を継がせる、そのお慈悲を」 お前の命など、どうでもいい。 ファウストの下げた頭に比べると、何の価値もない。 だが―― バランスを考える。 「最初はボーセル領を直轄領とし、マルティナは死罪と考えていた。ボーセル家は御家断絶、未来など無かった。だが、ポリドロ卿に感謝しろ。あのようなマネまでして、その命を助けたのだ。その未来くらいは保障してやる」 正直、諸侯やその代理人をねじ伏せるのは容易いことだが。 バランスを考えよう。 家まで潰す必要はない。 「ボーセル家に、官僚貴族――世襲貴族としての最低階位を与えよう」 この辺りが丁度良いバランスであろう。 家までは潰さない。 これならば、諸侯たちも辛うじて納得しよう。 本音では気に食わないだろうがな。 「……」 ヘルマは黙って項垂れている。 納得はしていないだろう。 取り潰しとあれば、領主騎士には最後の一兵まで闘う連中もいる。 だが、その抵抗のための軍事力すら、今のボーセル領には少ない。 反発する陪臣達を、ちょいと潰して終わり。 その程度だ。 「納得したか?」 ヘルマに問う。 イエス以外の返答は求めていないぞ。 「……承知致しました。以後、ボーセル家を、マルティナの事をよろしくお願いします」 「まだ、マルティナに任せるわけでは無いぞ。家を継ぐのはお前だ」 まあ、その病弱な様子では直に死ぬであろうがな。 後、やるべきことが二つ、残っている。 「それで、今回の第二王女初陣の功績についてだが――ポリドロ卿」 「はい」 左傍にヴァリエールと共に控えている、今は落ち着きを取り戻したファウストに声を掛ける。 「お前が、ボーセル領からの謝罪金を期待していたのは知っている。それは王家が代わりに支払おう。一括払いが良いか、10年の分割払いが良いか、後で決めておけ。分割払いの方が額は多いぞ」 「……リーゼンロッテ女王、私は今しがた、王命に逆らった身で」 「功は功として認めねばならぬ。私に恥を掻かせるつもりか?」 そう、功績は功績として認めねばならん。 だが―― 「そして、罪は罪として問わねばならん。ファウストよ、お前は王命に逆らった」 「……はい」 「お前には一つペナルティを与えねばならぬ。残念ながらな」 さて、どうするか。 正直、重いペナルティを与えて、ファウストへの貸しを目減りさせたくはない。 そうだな。 丁度いい、目の前の面倒事を片付けるようにしよう。 「マルティナを、お前の騎士見習とせよ。マルティナが家督を継ぐまで、王家に忠誠を誓う騎士として立派に育て上げるのだ」 「はい?」 ファウストが呆気にとられた顔をする。 なんだその顔。 むしろ当然の流れであろうが。 「リーゼンロッテ女王、申し上げますが、私はカロリーヌを討った男。マルティナにとって言わば母の仇でございます。ここは是非アスターテ公にお預けを」 ファウストは、私の右傍に立つアスターテの顔をチラリと見た。 まさかお前、マルティナの助命のため、私を利用したんじゃないだろうな。 そういう、今更ながら、何かに気づいた疑惑の視線であった。 そうだ、ファウスト。 悪いのアスターテだぞ。 もっと睨みつけてやれ。 心の中に住む、私人としてのリーゼンロッテが応援を開始する。 ま、それはいい。 アスターテが今後、どうやってファウストの機嫌を直すかに、ご期待だ。 絶対苦労すると思うがな。 「では、マルティナに直接聞くとしよう。マルティナよ、正直言って、お前は曰く付きの厄介者だ」 「承知しております」 マルティナは冷静に答える。 「聡いお前には今更言うまでもなく――そもそも、先ほどファウストに全て言ってしまったが。領地の反逆者にして、売国奴の娘だ。後ろ指を刺されながら生きる事になるだろう。その騎士見習いとしての引受先など、お前をここに連れてきたアスターテ公爵か、お前を助命嘆願したポリドロ卿ぐらいのものであろう」 「でしょうね」 マルティナは、やはり冷静に答える。 言われなくても判っている、そういう顔はしない。 全くの無表情であった。 何を考えているのか、よくわからん。 「それでは、そんなマルティナに尋ねよう。お前はどちらの元に騎士見習いとして頼む?」 「ポリドロ卿――ファウスト・フォン・ポリドロ卿にお頼みしたいと考えております。ご迷惑でなければですが」 ……マルティナは、そう判断するか。 まあ、判ってはいた。 ファウストは、それが理解できないようだが。 「マルティナ、いや、マルティナ嬢。私は男手一つ。まして男としての家庭教育をよそに、騎士教育に専念してきた男だ。お前の面倒を十分に見る事など……」 「逆に、そのための騎士見習いでありましょう。貴方の面倒は私が承ります」 マルティナが、まっすぐファウストの目を見据えながら言う。 「正直に言います。私はこの場で死ぬつもりでありました。貴方に誇りを汚されたと言ってもいい」 「……そうか」 「貴方の誉れは、私には正直よく判りませぬ。私の命など救っても、貴方に何の得もない」 ファウストが肩を竦めながら、小さく呟く。 「迷惑だったか」 「そう言っております。ですが、気が変わりました」 マルティナは、無表情であった表情をやや緩めながら、呟いた。 「どうせ拾った命なら、その拾った相手にとりあえずついて行ってみよう。そう気が変わりました」 「……そうか」 ファウストは、どことなく嬉し気であった。 自分の行動が、身勝手な迷惑ではなく、是認された。 それが嬉しかったのであろう。 思った以上に面倒な男だ。 私が勝手にイメージしていた、それとは違う、思った以上に複雑な男であった。 だが、嫌いではない。 女王としては決して認められず、私人としては、だがな。 そうリーゼンロッテは考えた。 そして口を開く。 「では決まりだ。マルティナはポリドロ卿預かりとする。何か反論はあるか? 諸侯に法衣貴族達」 一応、意見を求めねばならぬ。 まあ、回答は決まっているがな。 「領地は失えど、家を残すというのであれば、私達は何も。むしろ的確な判断でありましょう。さすがリーゼンロッテ女王」 諸侯の一人が先陣を切って、私を褒め称える。 「そこが良い落とし所と考えます。さすがリーゼンロッテ女王」 法衣貴族の一人も、また答えた。 双方、言いたいことは他にもあるだろうが、まあ納得の結末であろう。 マルティナを死罪とし、ボーセル領は直轄領として没収。 それが王家にとっての最大利益ではあったのだがな。 まあ、世襲貴族の位一つ程度、くれてやっても構わん。 それよりも、ボーセル領の立て直しだ。 利益をしっかり吐き出すまで、幾分か時間がかかるであろうなあ。 いくら人材と投資が必要になる事やら。 それは同時に、役目の無い法衣貴族の職を埋める事にもなるが。 まあ、ともかく法衣貴族に任せる仕事ではある。 私は命令するだけ。 それでよい。 「これにて裁定は終了とする。全員、王の間から退出せよ。ヘルマとマルティナは、しばらくアスターテ公爵の世話になるように。折を見て、王都に新たな居住地を見つけ、ポリドロ卿にマルティナを騎士見習いとして出せ」 「承知しました」 誰かの応諾の声が、王の間に響いた。 ※ 廊下。 第一王女アナスタシアとその相談役アスターテ。 第二王女ヴァリエールとその相談役ファウスト。 その4人が連れ立って歩いている。 アナスタシアは、ファウストの頭を地に擦らせたアスターテにブチ切れていた。 この後、二人きりの居室で問い詰めることになるだろう。 アスターテは、ファウストと目を合わせないようにしていた。 とりあえず、時間を置くべきだと判断したからだ。 ヴァリエールは、ファウストを心配そうに見つめていた。 その行動原理が、いつも冷静なファウストに余りに似合わなかったからだ。 そして。ファウストは―― 「……」 呆けたように、ただ道を歩いていた。 失敗した。 失敗した。 失敗した。 私は失敗した。 その思いがある。 自分の、マルティナの助命嘆願に後悔はない。 青い血としての騎士教育と、前世の日本人的道徳感が悪魔合体を果たした、この誉れに後悔はない。 あの場で動かなければ、自分のアイデンティティが崩壊していた。 だがしかし。 だがしかし、だ。 やり方って物があるだろう、馬鹿が。 自分を罵る。 お前は小さな村とはいえ、300人の命と名誉を預かる領主騎士であるのだぞ。 何をやっているのか。 暴走などせず、冷静になってマルティナの斬首を否定し、助命嘆願を行うべきであった。 決して勢いでやって良い行為では無かった。 後悔が募る。 自分は決して世にいうヒーローではない。 ただの一介の、決して裕福ではない辺境の、300人足らずの弱小領主騎士である。 だが、同時に300人の命と名誉を背負っているのだ。 自分は一人ただ暴走のまま死ぬことが許される立場などではない。 自戒せよ! ファウスト・フォン・ポリドロ!! そう、自分の心の内に向かって叫ぶ。 だが――同時にこうも考える。 「まあ、別に……」 失ったものも特にないよな。 そう気楽に考える。 予定であった謝罪金は貰える事となった。 これで余り裕福でない我が領民の食卓に、今後は一品料理が追加される事になるだろう。 マルティナが騎士見習いに来ることは少々気まずいが、カロリーヌの遺言もある。 それは決して嫌な事ではない。 それよりなにより、我がファウスト・フォン・ポリドロには失うものがあまり無い。 あの土下座によって失ったものが無いのだ。 元より、貴族のパーティー等に呼ばれた覚えなど無いから、今後の貴族としての活動に影響はない。 貴族として、私の暴走が舐められる汚点となるかもしれないが、そもそも私は弱小領主騎士である。 個人武勇としては別だが、領主騎士としては最初から弱小として舐められている。 悲しいくらいに、影響が無かった。 それを考えると、ファウストはもはや全てがどうでもよくなってくるようであった。 ファウストは知らない。 貴族のパーティーに呼ばれないのは、アスターテ公爵やアナスタシア第一王女が、ファウストに余計な虫がつかないように睨みつけているからであると。 ファウストは知らない。 諸侯や高級官僚貴族からは、弱小領主騎士として舐められているどころか、将来の女王アナスタシアやアスターテ公爵の愛人候補として見られている事に。 この世には知らない方が幸せという事もあった。 ファウストは、何も気づかないまま、うん、と背を伸ばし、待機していた従士長ヘルガと王門で顔を合わせ、王城から立ち去って行った。 愛する領民が待つ、王都の下屋敷へ向かって。 これで我が領地、ポリドロ領に帰れる。 そんな事を考えながら。 第22話 真正のアホだろお前 アナスタシアの居室。 ボーセル家の結末が決定され、ファウスト達と別れた後で。 「ブチ殺されたいのか、お前は」 「違う」 第一王女、アナスタシアの居室にて、アスターテ公爵は詰められていた。 個人武力ではアスターテが有利である。 だが、そういう問題ではない。 今の完全にブチキレモードに入ったアナスタシアに、アスターテは勝てる気は欠片もしなかった。 我が血族の怒り、その血がバーサクモードに入った時の戦闘力は異常である。 バーサクモードに入ったアナスタシアは、そのハルバードでヴィレンドルフの精鋭を、一撃で同時に三人斬り捨てたと聞く。 齢にして14歳の身でだ。 私もキレれば対抗できるが、今その心境ではない。 「何故、ファウストにあのような真似をさせた。お前は何がしたかった」 「途中で! 途中で助けに入るつもりだったんだよ!!」 アスターテは弁明を行う。 途中で助けに入るつもりであったのだ。 アスターテの考えではそうであった。 「まさか、ファウストがあんなにブチ切れるとまでは思ってもみなかったんだよ!!」 「ファウストだぞ! 憤怒の騎士だぞ!! それが予想できなかったとでも」 「予想できなかったんだよ!!」 ドン、と机を叩きながら、弁明を続ける。 これは、アスターテの策略であった。 ファウストは、決して齢8,9の子供の首を刎ねる事などできないであろう。 優しい男である。 どこまでも領主貴族であるとはいえ、優しい男である事に変わりはない。 傍観者としてなら、青い血としてマルティナの死を見過ごしたであろう。 だが窮鳥懐に入れば、もはやそれを殺せない。 むしろそれを守ろうとして、助命嘆願を願うに違いない。 その予測をしていた。 その予測は確かに正しかった――だが。 「助命嘆願までは予想していた。だけど、あんなにブチ切れるとは思ってなかったんだよ!! 頭を地に擦り付けてまで頼み込むなんて、誰が想像できる!!」 「そもそも、お前は何がしたかった!? マルティナの助命か!?」 ドン、とアナスタシアが机を叩きながら叫ぶ。 それもある、が。 「それはある。あんな才能の塊だ。私としては是非助命したかった。私の手の元に置きたかった。陪臣として、側近として育てようと考えた。だが、それは公爵家の権限でできた」 「それはそうだろう。お前の立場であれば、お前が全責任を持つのであれば母上もそれを認めたであろう」 「それは判ってる。そうしてもよかった。だが、私の心に悪魔の囁きがよぎったんだよ!!」 弁明を続ける。 アスターテは、アナスタシアへの弁明を続ける。 そうしなければ――絶対ないとは判っていても、本気で殺されそうな雰囲気であった。 「悪魔の囁き?」 「あ、これ、私へのファウストの好感度稼ぎに利用できるんじゃないって」 「アホかお前」 アナスタシアの怒気は終沈した。 アスターテはアホではない。 むしろ、その智謀においては輝きを見せる女だ。 だが―― 「どこをどうやったら、ファウストがお前を好きになるのだ」 「まず、最初の気づきはファウストが、マルティナの名を尋ねて来た時だ。どうやら、マルティナの名はカロリーヌの遺言であったらしい。そうファウストから聞いた。私は正直に、事前に得ていた資料から答えた。それはカロリーヌの娘の名前であると」 カロリーヌの遺言。 最後に告げたのは、ただ娘の名のみであったか。 「それで?」 「次に、そのマルティナを我が馬車で連行していて、その賢さに眼を剥いた時、頭によぎったんだよ!!」 目の前の女は、性欲に溺れた一人の女にすぎないようにも見えた。 アナスタシアは、少しアスターテへの評価を落としながら会話を続ける。 「マルティナに母を討ったのは誰かを問われ、そのファウストの素晴らしさと、美しさを語っている内に、悪魔の囁きがよぎったんだよ。あ、マルティナを誘導して、ファウストに首を刎ねるよう言わせようって」 「いくら聡いとはいえ、8,9歳の齢の思考を誘導するなど、お前には容易い事であったろうよ。そして、それはファウストも今頃気づいているだろう。ファウストは政治面においては視野が狭いが、頭が悪い男では決してない。むしろ賢い。それで? 続きは?」 「……」 アスターテは頭を抱えて呻いている。 どうやら、「ファウストも今頃気づいている」は会心の一撃であったらしい。 ファウストは愚かではない。 冷静になれば、マルティナが思考誘導されてあの発言をしたことぐらいには、容易く気づく。 印象は、もはや―― 「ファウスト、怒ってるかな?」 「怒っているに決まっているだろう。もはや、お前の印象は最悪だ」 ファウストはペナルティまで食らったのだぞ。 いや、それだけでは足りない。 リーゼンロッテ女王は、ファウスト相手に一つ貸しが出来た。 そうファウストも母上も、理解しているであろう。 その貸し、私に譲ってくれないものかね。 ……無理か。 「とりあえず、何か換金性の高い贈り物でも送っておこう。すぐ売りとばされるだろうけど、これで領民の食事に一品追加できると、ファウストなら喜ぶだろう。いや、下屋敷に訪れ、ちゃんと直接謝るのも一緒に? 何かそれらしい言い訳も考えないと……いや、いっそ正直に言った方が心象的にマシか?」 「お前の今後のフォローなんぞどうでも良いわ。で、何がどうしてファウストがお前を好きになるのだと考えたのだ」 正直、ファウストにとってのアスターテの印象が悪くなろうが、アナスタシアには関係ない。 どうでもいい。 知りたいのは、アスターテが何を考えていたかだ。 「マルティナ、ファウストに首斬られたいとワガママ言う。ファウスト困る。ファウストは絶対やらない」 「ああ、絶対困るな」 何故かアスターテは端的な言葉で喋り出した。 「窮鳥が懐に入ってしまった。優しいファウストは見過ごせない。助命嘆願に入る」 「情の深いファウストならそうするであろうな」 それに応じる形で、アナスタシアは答える。 「だが助命を絶対認めない非道なリーゼンロッテ女王、まるで悪魔のような女」 「おまえの方がよっぽど酷いと言いたいが、まあいい、次」 母上、今頃内心ではアスターテにブチきれてるだろうなあ。 後で、コイツ頭下げに行かせんと。 「嘆くファウスト。私公爵家として横やりを入れる。ファウストを助ける」 「ああ、助けてあげると喜ばれるな」 その時点で行動の稚拙さに、ファウストにはバレバレな気もするが。 「私、マルティナ助命する。感動するファウスト。ファウスト、涙を流して大喜び」 「ああ、きっと優しいファウストなら大喜びするだろうな」 お前、いつまでその喋り方するつもりなんだよ。 アナスタシアはややウンザリしながら、根気強く応じる。 「後で感謝の言葉を私に述べるファウスト。好感度アップ間違いなし。私の股は愛液で濡れる」 「うん、そこまでは判る。お前の股が愛液で濡れているかどうかは知った事じゃないが」 やや都合が良すぎる展開ではあるが、まあ有り得ない展開ではない。 「私の優しさに感動してチンコ立てるファウスト。私の股は愛液で濡れている。合体」 「真正のアホだろお前」 真正のアホだろお前。 言葉でも心中でも、浮かべた言葉は同じだった。 真正のアホだコイツ。 なんで普段は嫌味なほど頭いいのに、ファウスト関係だとこんな性欲直結型になるんだコイツ。 いつかはファウストの領民の前で、ファウストの尻を揉んで謝罪金支払ってたよな。 それはファウストが優しかったので嫌悪には至らんかったが。 今回の件は―― 「お前、今回の件で間違いなくファウストに嫌われたぞ」 「何でさ、何でこんなに上手くいかないのさ! なんでファウストあんなキレたの!? そこまではいい、何で頭を地に擦り付けてまで助命嘆願したのさ!!」 「それは知らん。私も戦場外のファウストは温厚な人物だと思っていたが……」 戦場で何かあったか? カロリーヌを、ファウストが一騎打ちで討ち取った際の遺言。 もし生きていれば、その一人娘であるマルティナの事を必死に頼まれていたとか。 そうでなければ、ファウストがあそこまで、無様なまでに動く理由が――駄目だ、それでも足らん。 ファウストが頭を地に擦り付けてまで助命嘆願した理由は、ファウストの誉れのみだ。 その基準は余人の知るところではない。 「でもさあ、あの時のファウスト――」 「何だ」 アスターテが後悔に足をジタバタさせながらも、思い返すように呟く。 「美しかったよなあ。思わず口笛吹いちゃったよ」 「……」 それには同意だ、とあの時のファウストの姿を思い浮かべるアナスタシア。 子供が癇癪を起こしたようにして、マルティナの斬首を拒むファウスト。 もはやマルティナの死すら許せないと、満座の席で言い放つファウスト。 母上に対して膝を折り、無理な嘆願をひたすら言いつのるファウスト。 もはや言葉に窮し、恥も外聞も投げ捨てて、頭を地に擦り付けるファウスト。 その全てが―― 「見苦しくは感じなかった。これは恋のせいだろうな」 アナスタシアが、思わず、自分の恋心を口走る。 アスターテは答えた。 「恋のせいだな。ファウストのあの姿は、高級官僚貴族や諸侯、その代理人を通して、広く人々に伝わるだろう」 「……評判が落ちるか」 「これが単なる貴族のやった事なら、見苦しいの一刀両断だったろうさ」 アスターテは、ジタバタさせていた足を長椅子に戻し、冷静に答える。 「だが、ファウストは違う。アンハルト王国最強騎士で、燦然と輝く武功持ちの騎士だ。その英傑のしたことだ」 「人、それぞれの反応になるだろうな。賛否両論だろう」 頭を地に擦り付け懇願した。 それを見苦しいと感じるか。 そこまでして少女を救いたかったのかと感じるか。 王命に反発したのを、不忠と見るか。 例え王命でも譲れないものが有ると、誉れと見るか。 ただの騎士なら見苦しいの一言。 ファウストがやったというのなら、英傑がその誉れゆえに頭を地に擦り付けて懇願したというなら、話は違う。 本当に、価値観は人それぞれであろう。 討論の種になり、パーティーで言い争う貴族や――安酒場で言い争う平民の姿が脳裏に思い浮かぶ様だ。 何せ、齢8,9の子供の首を刎ねるなど、誰だって本音では嫌だ。 それが王命であり、首を刎ねられる子供にとっては名誉ある行為でもだ。 各々の立場や思想の違いによってでしか、結論が出ないものだろう。 「我がアンハルト王国ではそうなるであろう。ヴィレンドルフでは?」 「蛮族では――あの国では、それこそ全肯定だろ」 もっとも強きものが、幼きたった一人の少女の、しかも一騎打ち相手の娘の助命嘆願がために王命に反し、どれだけ無様を演じようとも、それを覆したのだ。 それがあの国にとって、誉れでなくて何なのか。 「面倒くさい連中だ」 「面倒くさい連中だよなあ」 アスターテが調子を取り戻したのか、ケラケラと笑う。 「ヴィレンドルフの和平交渉、未だ成り立たぬ。逆侵攻でやりすぎた。お前のせいだぞ、皆殺しのアスターテ」 「違いますー。アレはやられたことをやり返しただけなので、私は何も悪くありませんー」 アナスタシアはアスターテに愚痴を吐くが、飄々としている。 ヴィレンドルフとの和平交渉。 ヴィレンドルフ戦役後における、不戦条約の締結。 未だ、ままならぬ。 北方に張り付けている王軍を、ヴィレンドルフの国境線に回すわけにはいかぬ。 また公爵軍500と親衛隊のみを引き連れ、あの強力な蛮族を相手にする? 初陣は最悪だった。 何が悲しくて倍軍1000を相手に立ち回らねばならんのだ。 あれをもう一度繰り返すと考えると、背筋がゾッとする。 「……ヴィレンドルフとの和平交渉は、必ず成功させねばならん」 「あの蛮族ども、契約だけは死んでも順守するからな。和平交渉さえ成れば、その和平期間は絶対争いにならない」 「そのためには」 アナスタシアは少し言い淀み、これだけは言いたくなかったが、という表情でまた口を開いた。 「最悪、和平交渉の使者として、ファウストに動いてもらわねばならぬ」 「……冗談だろ」 アスターテもまた、それだけは嫌だと言う顔で返した。 「絶対犯されるよ? 絶対ヴィレンドルフの淫獣どもに犯されるよ? ファウスト」 「ヴィレンドルフは蛮族と言えど、強者に対する振る舞いにだけは見るものが有る。無体な事はしないと考えるが……」 それでも絶対はない。 だから、これは最後の手段だ。 本当に最後の手段だ。 ヴィレンドルフが最大の敬意を示す男、皆殺しのアスターテなどと呼ばれる目の前の淫獣とは違い、ヴィレンドルフへの逆侵攻にも参加していない騎士。 彼女達が今でも誇りとする騎士、レッケンベル騎士団長を正々堂々一騎打ちで討ち取った、彼女達曰く与えるべき二つ名は「美しき野獣」。 そのファウスト・フォン・ポリドロに和平交渉の使者として赴いてもらう。 アナスタシアは、その最終手段に手をつけるべきか本気で悩んでいた。 第23話 ザビーネの口説き 安酒場。 王都にある、貧民街に近い安酒場に今、ファウスト・フォン・ポリドロは居た。 「ふむ」 椅子に座りながら、自分の木製コップに注がれたエールを眺める。 先日、今回のカロリーヌ討伐の功績として、第二王女親衛隊の昇位式典が行われた。 ザビーネは二階位昇位、他の親衛隊員は一階位昇位することとなった。 この安酒場での集いは、それを祝うものではない。 亡くなった親衛隊員、ハンナのための集いであった。 私はその席に呼ばれていた。 「杯が、15個揃わないと寂しいのだ。どうにも寂しいのだ。ヴァリエール様を安酒場に誘うわけにもいかぬ。領地への帰り支度で忙しい中、誠に申し訳ないが、ハンナの死の追悼と思い、来てくれないか」 そうして、昇位式典の帰りにザビーネに声を掛けられた。 断る理由は無かった。 こっちは第二王女相談役として、ハンナの葬儀に参加した立場でもある事だし。 ……ハンナは、親衛隊の役目を務めた。 今回のヴァリエール様初陣で、その務めを果たした紛れもない英傑であった。 「諸君、我らの同胞であるハンナは逝った。ヴァリエール様の盾となって。その身代わりとなって」 ザビーネが、テーブルの上に靴を脱いで立ち上がり、演説を開始する。 酒場から文句は出ない。 この安酒場は、今日は親衛隊の貸しきりだ。 酒樽一つ、15名全員の財布の中身を持ち寄って。買取られた。 王家から謝罪金も出る事だし、ここの支払いは私が持とうかと言ったが、これは親衛隊の習わしらしい。 ハンナも今までそうしていたから――今回も是非、そうしたい。 そうまで言われては、言えることは何もない。 「なんと羨ましい死に方だろうな。その死に方を決して……」 ザビーネが、演説を途中で止める。 泣いていた。 ザビーネは、あの危険人物は泣いていた。 私の見込み違いだったのであろうか。 あの危険人物は、人としての情を解する者であったようだ。 「決して、忘れないぞ」 ザビーネは、途中で演説の台詞を変えようと判断したらしい。 それがあからさまではありながら、全員――ザビーネを除いた親衛隊13名と、私ことファウストは黙って拝聴する。 「決して忘れる物か。あの侍童の着替えを全員で覗き見しに行き、結果失敗し、ヴァリエール様に怒られ。私の脛をさんざん蹴っ飛ばしながら、お前のせいでヴァリエール様に怒られたじゃんと怒りをぶつけてきたハンナを。アレは痛かった。凄く痛かったぞ。お前だって同意したじゃん」 何やってんだ、第二王女親衛隊。 「猥談に興味を一番強く示し、私が男体の仕組みを詳しく話す度に、続きは、続きは、という目で急かしてきたハンナの事を。アイツは猥談が本当に好きな奴だった。我らの中で一番ドスケベだった」 本当に何やってんだか、第二王女親衛隊。 「忘れないぞ。アイツ、今頃ヴァルハラで名誉ある戦死を遂げたとエインヘリャルとしてワルキューレに呼ばれている頃であろうよ。だが、我々は忘れないぞ。アイツが、私達と同じく、どうしようもない愚か者。周囲に、法衣貴族に嘲笑われる一名であった事を。死ぬまで忘れてやらないぞ」 第二王女親衛隊長。 ザビーネ殿は、泣きながら演説していた。 「いいか、我らもいつ死ぬかなど判らん。我ら第二王女親衛隊はこれからもヴァリエール様のために働くのだ。死ねと言われれば死にに行き、生きろと言われれば何としても生きるのだ」 ザビーネ殿は、ただひたすらに泣いていた。 涙をそのままにして、演説を続ける。 世間では、今回の立役者。 民兵を鼓舞し、志願者を集め、ヴァリエール様の初陣を勝利させた英傑詩の主人公として扱われてるのにな。 本人にとっては、それはもはや苦痛の栄光でしかないだろうが。 一生、忘れられないであろうな。 ザビーネの評価を、見直す事にする。 以前にヘルガに愚痴った言葉を撤回することにしよう。 もはや、ザビーネは嫌いになれるような相手ではない。 「ヴァリエール様に了解も取らず、勝手に死んでんじゃねえよ、馬鹿野郎が」 最後は、演説ですらなかった。 吐き捨てる様な、それでいて最高の親愛を込めた言葉であった。 「もういい! つまらぬ演説は終わりだ! ハンナの、今後のヴァルハラでの巨人相手の闘いに栄光あれ! 献杯!」 「献杯!」 ザビーネの演説が終わるとともに。 私を含めた、残り14名の「献杯!」の言葉が空に踊った。 私はハンナという人物の事を良く知らない。 ただヴァリエール第二王女殿下を身を挺して守った、立派に務めを果たした女であるという知識のみだ。 だが、その人生は、おそらく第二王女親衛隊として生きた中は、少なくとも幸せだったのであろう。 そう感じる。 私は、エールを勢いよく飲み干す前に。 「ザビーネ殿」 「ああ、ポリドロ卿。今日は本当に来てくれて有難う」 ザビーネとお互いの杯、木のコップを重ね合わせる。 「あまり、楽しい席では無いだろう。無理を言った。今日は本当に来てくれて有難う」 「いえ、私もハンナ殿の葬儀に参加した立場ですので」 いい女だった。 惜しいな。 生きていれば、嫁に欲しかった。 もはや叶わぬ願いであるし、ヴァリエール様の身代わりとなって死んでいなければ、こう思う事も無かったであろうが。 さて。 今回、実は従士長であるヘルガから「第二王女親衛隊で一番いい女見繕ってきてください。ザビーネ様とか私はイチオシです」と後押しされて来たわけであるが。 完全に、そんな雰囲気ではないぞ。 そして、私自身もそんな気分にならん。 今日はハンナ殿の追悼だ。 それでよい。 私の嫁探しは、今年は諦めることにしよう。 「こちらに座っても」 「どうぞ」 ザビーネが向かいの席に座る。 第二王女親衛隊は各々、ハンナについての昔話を語っている。 ……ザビーネは混ざらなくてもよいのだろうか。 「ザビーネ殿、私は一人でも大丈夫だ。私の相手などせず、他の親衛隊と一緒にハンナ殿の話をしてきても……」 「アイツ等とはいつでも喋れる」 ザビーネは自分の杯のエールを一口あおり、ぷは、と息を吐いた後に、こちらを向く。 「ポリドロ卿はもう領地に帰ってしまうのであろう?」 「そうだな、領地に帰る」 軍役は果たした。 ヴァリエール様の初陣も立派に果たした。 領地の保護契約の義務も、第二王女相談役としての役目も、完全に終えているのだ。 もはや、王都に用は無い。 領民達も、家族が待っている。 さっさと帰って、領地の殖産活動に励まねばならぬ。 我が領地はお世辞にも裕福ではないが、今回王家からボーセル家の代わりに支払われる褒賞金により、今後10年は潤う事になる。 その間に減税政策を敷き、領民を働かせ、畑を少しでも広げるのだ。 一面が美しい黄金色に染まる麦畑が、目に浮かぶようである。 「一つ聞きたい。カロリーヌの子、マルティナを助命したのは何故か」 「……不服か?」 「いや、ハンナの仇は、ヴァリエール様がその場で仇を討ち取った時点で終わっている。不服等は無い」 ザビーネが質問をし、私の言葉に対して首を振る。 今回の初陣を最悪の展開に陥れた原因、カロリーヌの娘を何故救うのか。 それが気に食わなかったのかと考えたが、そうではないらしい。 確かに、仇討ちはヴァリエール様がその手を自ら下した時点で終わっている。 「私が聞きたいのは、ポリドロ卿の誉れに関してだ。どーしても判らん。理解できんのだ。今回、ポリドロ卿に何の得があった。むしろ王家に借りを一つ作ったのではないか」 「……」 沈黙で返す。 やはり、ザビーネは馬鹿なようで賢い。 まあ、何の教養も無い、愚かな演説家などそうはいないか。 コイツ、何故家から放逐され第二王女親衛隊に入ったのだろう。 今、冷静にこうやって会話すると、とても頭が悪い女には見えないのだが。 やはり性格が鬼畜すぎたからか? もはや、その印象は薄いが。 彼女もこの初陣で成長したという事であろうか。 「……答えてはくれないのか」 「いや、答えよう」 私の沈黙を、黙秘とザビーネは見做したようだが。 正直に答えよう。 どうせ、酒の席だ。 正直に答えても、私が何の損をするわけでもない。 「……親の罪を幼き子が背負う世の中は、例え青い血でもおかしいとは思わないか」 「……」 結局はそれだけ。 マルティナが幼い子供でさえなければ、私はその首を、むしろ騎士の情けとして刎ねたであろうが。 この母親から騎士教育を受けた青い血の誉れと、前世の日本人的道徳感が悪魔合体した、それが出した答えは。 その誉れの結論が出したのは、それだけ。 「それがどうしても気に食わなかった。それだけだ」 「それだけか」 「それだけさ」 ザビーネはきょとん、とした瞳で呟く。 「やはり、ポリドロ卿は奇妙な男だ」 「自分でもそう思う」 この世界で狂っているのは自分の方だ。 その常識は抱いている。 だが、その純粋な青い血の世界ではどうしても生きられぬ。 何、それなりに折り合いをつけて生きていけるさ。 私はそう気軽に考える。 「だが、嫌いではない。案外、気が合うのかもしれないな、私達は」 「口説いているのかね?」 ザビーネの言葉に、からかうように返す。 まるで口説き文句のようであったから。 「そうだと言ったら?」 「……」 私は硬直する。 まさか、本気で口説いているのか私を。 この世界――少なくともアンハルト王国では。 筋骨隆々で背の高い私など、女性の好みの主流からは外れているはずなのだが。 まさか。 「私の財産が目当てかね。言っておくが、手に入る立場は人口300名足らずの小さな村の小さな領主騎士だぞ」 「それは一代騎士からやっと2階位昇位したばかりである私には目を眩ませるほどの立場だがね。今回はそうではない。純粋にポリドロ卿が好みだと言っている」 マジか、コイツ。 私は思わぬ返答に固まる。 ヘルガよ、我が従士長ヘルガよ。 何か私、お前のイチオシを口説くどころか、逆に口説かれてるみたいだぞ。 口説かれるのは初めてではないがな。 アスターテ公爵からは、それこそ毎日のように口説かれていた。 ただし、愛人枠としてだがね。 そうそう、アスターテ公といえば、今回の件だ。 あの女、予測するにマルティナを、私に首を刎ねさせるように嘆願させるべく思考誘導しやがった。 土下座したのは自分の責任だが、私が助命嘆願することも予測していたであろう。 マルティナを助命させたかったにしても、あまりにやり方が汚すぎる。 よくもヴィレンドルフ戦役からの付き合いである私を嵌めてくれたな。 私は血も汗も絡み合わせた、戦友だと思ってたのに。 この屈辱は忘れん。 だが、あの爆乳は惜しくもあるが。 それは前世感覚をもった男であるがゆえ、致し方なし。 まあいい、今はそれは忘れよう。 「ポリドロ卿は……私のような女は好みではないかな」 「……」 そもそも私は、肉付きの良い女だったら誰でも好みです。 オッパイ星人なのです。 ザビーネのように、服の造形からもわかる形のいいロケットオッパイの持ち主なら超好みです。 この世界、顔面偏差値無駄に高い女しかいないし、もうオッパイ大きけりゃ誰でもオールオーケー。 そう正直に呟きたくなるが、この世界ならドン引きされるであろう。 完全な淫売としか、とらえられぬ。 それに、まあ立場がある。 領主貴族の嫁として、私の代わりに軍役を果たしてくれるレベルの人材である必要が最低限ある。 あれ、今のザビーネなら悪くない? ヘルガにもオススメされてるし。 悩みながらも、適当に言葉を濁す。 「嫌いではありません」 「よかった。心の底から嬉しいよ、ポリドロ卿」 何なのだこれは。 どういう状況なのだ、これは。 何故私は、あの一度は鬼畜チンパンジーと看做したザビーネに口説かれている。 そして私は何故、その口説きに心惹かれている。 教えてくれ、誰か。 私はどう答えたらいいのだ。 私はどうしたらいいのか。 童貞に、この場での適切な所作を求められても困るぞ。 「ポリドロ卿。私は最愛の友人であるハンナを失ってしまった。だが、第二王女相談役としての、貴方と縁を持った。これはハンナが取り持ってくれた縁なのかもしれない。第二王女親衛隊隊長として、そしてザビーネ個人としても、これからもよろしく頼む。願わくば、女と男として親しい関係もな」 「え、ええ。こちらこそ。これからもよろしく」 ザビーネと私は握手をする。 その手は、剣ダコと槍ダコでお互いゴツゴツとしていたが、不思議とザビーネの手は柔らかい感じがした。 駄目だ。 私はザビーネに心を、少し囚われ始めている。 普段全くモテないからだ。 そうなのだ、きっと。 或いは、アスターテ公に手酷い裏切りを受けて心が傷ついたばかりだからか。 あの爆乳は裏切ったのだ。 私は懊悩しながらも、ザビーネの口説き文句に、そして服の造形からはっきりと判るロケットオッパイに心を惹かれ。 金属製の貞操帯の下で、股間をふっくらと膨らませた。 心の中で、静かにいつもの祝詞を呟く。 股間の痛みを取り除くための、嘆願の祝詞。 チンコ痛いねん。 第一章 完 ヴィレンドルフ和平交渉編 第24話 トンボ返りの王命 第二王女ヴァリエール様の初陣、通称「カロリーヌの反逆」から一か月。 ファウスト・フォン・ポリドロは無事、領民達と共にポリドロ領に帰り着き、日々を過ごしていた。 やがて、王都に居を構えたボーセル家の跡継ぎ、マルティナを騎士見習いとして迎え。 今は、その騎士教育中であった。 馬房にて、愛馬フリューゲルの世話を今後は担当してもらう事となる。 フリューゲルの世話は大好きだから、自分でもやるがね。 「これが我が愛馬フリューゲルだ」 「凄く大きい馬ですね。さすがアンハルト王国最強騎士の馬だけあります」 「15歳の時、フリューゲルは当時3歳であった。その頃から巨体であった私をよく支えてくれた」 私の宝物。 髪飾りや指輪などは全て領民に与えてしまったため、亡き母親から贈られた物では唯一残っている物である。 いや、我が愛馬フリューゲルを物扱いするのは自分でも嫌だが、他に例えようがない。 何と呼べばよいのかなあ、親愛を込めて呼ぶべきコイツを。 ヴィレンドルフ戦役の時など、フリューゲルが優秀でなければ私はレッケンベル騎士団長に負けていたであろう。 私の筋骨隆々の2m、そして軍装を整えた重量を物ともせず、跳躍すら容易く行う。 まさに、愛馬。 そう呼ぶのがふさわしい馬だ。 私の顔にフリューゲルが鼻を摺り寄せてきて、私も頬を擦り付け、お互いにその感触を楽しむ。 「……賢い馬ですね」 「ああ、本当に賢い。馬は賢い生き物だ」 マルティナがその様子を見ながら、呟く。 フリューゲルの事を褒められると、もう自分の事のように嬉しくなってしまう。 ああ、それにしても、フリューゲルも、もう10歳となってしまった。 正直、フリューゲルはまだまだ活躍してくれるであろう。 フリューゲルは特別製だ。 だがしかし、だ。 「今後の世話を喜んで担当します。しかし、この馬、フリューゲルは結構いい歳ではないのですか」 「そうなんだよ」 マルティナが、我が心中を見抜いたように呟く。 いいかげんフリューゲルにも嫁を見繕ってあげなければならない。 できれば、新しい馬を買うのではなく、このポリドロ領にて血を繋いで欲しいのだ。 私の命の危ういところを綱渡りで繋いできてくれた愛馬だ。 しかし、我が財政に新しい牝馬を買う余裕等―――いや、カロリーヌの反逆で受け取った報酬金を用いれば。 駄目だ、アレは領民の減税のために使うと決めてしまっているし。 悩む。 「そろそろ新しい馬を用意すべきです、と進言したいところですが」 マルティナが口淀む。 まあ、この賢い子なら、私の返事くらい判るであろう。 「我がポリドロ領の財政ではなあ。フリューゲルが何より良く食うしなあ」 まあ、フリューゲルは働いているんだから、その分食って当然なんだが。 馬の購入費はかかるが、それよりなにより維持費がかかる。 これがまた、よく食うのだ。 フリューゲルが餌をよく食べる光景は微笑ましくあるが、財政的には痛々しい。 このファンタジー中世時代のエンゲル係数は高い。 結論、二頭、三頭と維持するとなると我が領地の財政が…… 「何とかしないとなあ」 前から考えてはいる事なのだ。 悩みの種である。 頼みの第二王女ヴァリエール様にお願いしても、何とかなるとは思えんし。 馬を新しく買うのが一番早いとは理解しているのだが。 やはり、愛馬フリューゲルにはその血を継がせてあげたい。 どうしたものか。 そう、横のマルティナと一緒にうんうんと悩んでいると―― 「ファウスト様、使者が訪れました」 「またか。手紙だろう?」 従士長のヘルガが訪れ、使者が来たことを伝える。 アスターテ公の弁明の手紙。 王都から離れ、領地に帰った後に、アスターテ公が何を考えていたかを正直に書いた手紙を受け取った。 上手い嘘を吐かず、正直に話した方が私の心証が良いと判断したのであろう。 その感想は? 正直に言おう、真正のアホだろ、あの人。 いや、私のこの性格は良く理解してくれていると思うし、私がこの世界の普通の男の感性なら、それで落ちていたかもしれんから。 あながち、単純なアホとは言い難くはあるが。 私が助命嘆願のために暴走し、土下座まですると読めていたなら、それは智謀の持ち主ではない。 ただの狂人と呼ぶべきであろうし。 だから、まあ正直に言ったのは感心しよう。 暴走も土下座も私自身がやったことだし、その点を恨むのも筋違いだ。 だが許せん。 「アスターテ公の手紙は一応開封して読む。だが送り返せ」 「宜しいのですか?」 「構わん」 私の貞操を狙ったことはまあいいのだ。 そのために子供の、マルティナの命を、道化のように弄んだ事が許せん。 幼い子供の思考を誘導し、マルティナの首を私に刎ねさせるよう嘆願させたことが許せんのだ。 それだけが唯一許せん。 私は横のマルティナを眺めながら、幼いその身体を見つめる。 だが、そのマルティナは―― 「あの、アスターテ公の事ですが、私を思考誘導させた事についてですが」 「何だ。私は許すつもりは無いぞ」 「私はもう許すも何も、別に恨んですらいないのですが」 はい? 私は呆気にとられた顔で、マルティナの顔をまじまじと見つめる。 「いや、マルティナ。お前は、その命をいい様に弄ばれたのだぞ。憎くないのか」 「ファウスト様、貴方は、貴方の行動を利用されたことについて、アスターテ公にお怒りですか」 「いや、それについては怒ってない」 誘導されたとはいえ、それについては自分の行動が稚拙であったのだ。 先ほども考えたが、暴走も土下座もアスターテ公を恨むのは筋違いという物であろう。 だが――お前は怒ってもいいだろう。 「ならば、それと同じなのです。私も怒ってはいませんよ」 「マルティナ。お前は幼い子供なのだ。その命をアスターテ公の都合で、アスターテ公のいい様に駒のように扱われた。ならば怒るべきなのだ」 「ファウスト様。私はあの場でファウスト様に首を刎ねられて死んだとしても、本気で悔いはなかったのですよ」 マルティナは、いつもの澄ました顔で呟く。 「それに、ファウスト様から話を聞くところによれば、元々助命してくれるつもりだったようですし、陪臣として取り立ててくれるつもりであったとも聞きます。あの場で死ぬべきであった私の命を、あの時点では唯一救おうと考えてくれた方です」 「それは……まあ、そうだが」 私も、自分に関係なくマルティナの首が刎ねられるようであれば。 この青い血としての騎士教育と、前世の日本人的道徳感が悪魔合体を果たした、この誉れはマルティナを思い切り見捨てていたであろう。 気まずくなって、思わずマルティナから視線をそらす。 私はヒーローでは決してない。 たとえ思惑があっても、マルティナの命を最初から救おうと考えていたのはアスターテ公のみだ。 それは確かに事実だ。 「それを憎むのは、恩知らずであると思うのです。それはもはや、私の感情とは度外視で考えるべき事柄でありますし、私の感情としても憎んでは別にいないのです」 「……」 マルティナは本当に賢い。 悟っているとすら言っても良い。 アスターテ公がその才能を惜しみ、助命することを本気で望むだけの価値はある子供だ。 本当に9歳児か、この生き物。 ボーセル領を継いでいれば、さぞかし良い領主になったであろうに。 私はマルティナの境遇に同情する。 周囲の大人が馬鹿者だらけで、この子の運命は狂ったのだ。 ……私の騎士教育など拙い物であろうが、何とかこの子を立派に育て上げて。 領地の反逆者にして、売国奴の娘。 そういった風評被害に負けない騎士にしてみせよう。 そう心に誓う。 ま、それはいい。 「うーん」 アスターテ公はあれから毎週、換金しやすい贈り物。 金品と一緒に、弁明と謝罪の手紙を送ってきている。 私の考える最大の被害者、怒っている原因であるマルティナにそうまで言われてしまうと、ちと考え直すところがある。 許すべきなのか? 「ファウスト様、そもそも、アスターテ公と仲が悪くなって貴方に何かメリットがあるのですか? 相手は銀山すら抱える、領民数もその内10万を超えるとさえ言われている公爵家の御領主様ですよ」 「う、それを言われると弱い」 そもそも、領地規模とその権力に差がありすぎる。 アスターテ公が気安く、領民300ぽっちの私の事を我が戦友、と公言してやまないのが異常なのだ。 そして、そんな相手が、こうして何度も謝罪の手紙を送って来ているのも、また異常。 いや、アスターテ公が私のケツに異常な執着を。 私を愛人として欲しがり、私の貞操を狙っている事は知っているのだが。 私のこの前世有り感性だと、別にそれはいいんだよなあ。 ポリドロ領を我が子が継いでくれない可能性があるから、立場的に愛人だけは困るのだが。 マルティナに尋ねる。 「……私の心が狭く思えるか?」 「いえ、利用されたんだから怒ってもいいとは思いますよ。ですが、ファウスト様の心の器はそれほど小さい物ですか? 相手は金品を送り、謝罪の手紙も何度も送ってきているのに?」 「うーん」 アスターテ公は正直に非を認めた。 金品も謝罪の手紙も、何度も送って来た。 もはや許すべきなのか? 悩みどころだ。 そういえば。 「……公爵領は馬の産地としても有名だったな」 「というか、何でもありますよ公爵領。フリューゲルの仔の繁殖を依頼しますか?」 マルティナが、打てば響くように言葉を返す。 そこを落とし所とすべきか。 手紙にてアスターテ公にもう許す事を伝え、その代わりにフリューゲルの繁殖を依頼しよう。 そして仔馬が産まれ、3歳までアスターテ領で育ったら、それをタダで譲り受けよう。 もう、これでよいか。 アスターテ公はヴィレンドルフ戦役での、大事な戦友だ。 だからこそ一時は本気で憎んだものだが、その過去を否定するのも、また嫌なものだ。 私は溜息を吐く。 「ヘルガ、予定変更。使者に手紙を受け取るように伝え、今回は返信を書くから屋敷で少し待ってもらえるよう伝えよ。我が領地の恥にならない程度の、供応の準備もな」 「承知しました。それは承知しましたが……今回は別件が」 「別件?」 アスターテ公の手紙の使者ではないのか? 他に用件などあるはずも。 「王都から呼び出しが掛かっています。王族案件です」 「断れ」 ブチ殺すぞ馬鹿。 領地の保護契約の義務も、第二王女相談役としての役目も、今年の分は完全に終えているのだ。 何故一か月もせん内に、王都に呼び出しをかけられねばならぬ。 私は疲れたのだ。 マルティナの騎士教育もあるし、ポリドロ領の統治もあるのだ。 何故にこのような目に遭わねばならぬ。 「使者など来なかった。山賊に途中で襲われたのであろう。そのように取り計らいますか?」 ヘルガが剣呑な視線で、私の顔色を窺う。 使者を殺すか。 そうしたい。 そうしたいが、今回の使者にはアスターテ公への返事を持って帰ってもらわねば困る。 それよりなにより。 「公爵家クラスなら、使者など来なかった。その対応も可能かもしれんがね」 領主騎士とはいえ、私は領民300ぽっちの弱小領主騎士だ。 政治的立場などゴミ屑のようなものである。 ええい、畜生め。 どうしようもあるまい。 殺すわけにはいかん。 「用件は聞いたか?」 「重要案件故、使者にも知らされていないようです。ただ王都へ訪れよ。今回は第二王女初陣以上の兵を引き連れて、と」 「どう考えても、絶対ロクでもない案件だろ、それ」 不安要素しかないじゃないか。 断りたい。 クッソ断りたい。 何で私なんだよ。 私には断る権利が明確に存在するはずだぞ。 使者に断りの手紙を持たせて。 「ファウスト様、断る権利は確かにありますが、この場合は直接会って断らなければ失礼になります。間違いなく王命です」 「……」 マルティナが横で、私の考えを完全に否定する。 判ってるよ此畜生。 結局、王都に出向くしかないのか。 それも、前回以上の兵を引き連れて。 兵数は――30程度でいいか。 「ヘルガ。本当にすまんが。本当にすまんが今回もハードな状況になるのを覚悟してくれ」 「我々従士や領民は、ファウスト様にただ付いて行くのみであります。すぐに招集をかけます」 ヘルガには、幼い一人娘がいる。 今は夫を同じくする姉妹の子と一緒に、養育を頼んでいるが。 今回の軍役――その間に、その愛しい一人娘に、ヘルガは顔を忘れられていた。 ヘルガは膝を地面に崩して泣いていた。 今はなんとか思いだして貰えたが。 あれ、今回も繰り返す事になるのか。 正直キッツイぞ。 主に私の心が。 「ファウスト様、今回、私もついて行きますので」 「マルティナ、お前は領地でゆっくりしていてもいいんだぞ」 「主人に従うそれも、騎士教育の一つでありますので」 まだ9歳児をこんなハードな状況に従わせるのは困るが。 それで、その間のマルティナへの騎士教育が手抜かりになるのも、心苦しい。 連れていくしかない、か。 「ふざけんなよ王家」 私は愚痴を吐きながら、静かに何かを諦めた。 第25話 交渉役任命 チンコ痛いねん。 だから、何度も心の中で――言っているのは通じんか。 いくら、クローズドな場とはいえ。 何でシルクのヴェールを一枚羽織っただけの姿で現れるねん、お前。 母親であるリーゼンロッテ女王と同じタイプかお前。 そうファウスト・フォン・ポリドロは心の中で罵った。 裸体にシルクのヴェール一枚を羽織っているだけの、アナスタシア第一王女を。 その長椅子の横に座るアスターテ公爵が、まずは口を開いた。 「まずは、先に話をさせてもらうぞ。ファウスト、マルティナの件は本当に申し訳なかった」 私は、ファウスト・フォン・ポリドロは領民30名を連れ、再び王都に訪れていた。 そして王宮に訪れたその足で向かった場所。 アナスタシア第一王女の居室、そのクローズドな場で思う。 チンコ痛いねん。 詫びを入れたいと思うなら、アナスタシア第一王女にその恰好止めさせろや。 お前の顔を目にするたびに、その横の人物の美乳が目に入ろうとするんや。 というか、どうしても視線がそっちにいくんや。 王家一族の特徴たる赤毛のアナスタシアの長髪が、なんとか乳首を隠してくれてはいるが。 逆にそこだけ見えない方が、興味を「そそる」。 金属製の貞操帯に、勃起が衝突し、痛みを発生させ、眩暈を起こす。 何で私がこのような目に。 「謝罪は結構です。手紙でも使者の早馬で、すでに伝えたはずです。もう許したと」 「そうは言っても、直接の謝罪とは別だろう。あらましは、すでに伝えたとおりであるが、本当に申し訳なかった。ファウスト」 アスターテ公爵が頭を下げる。 どうでもいいから、アナスタシア第一王女を止めろや。 そんな事はもうどうでもいいんや。 こっちは本気でチンコ痛いんやぞ。 「……怒りは、妥当であると思う。だが、その怒りは何とか諫めて欲しい」 アスターテ公が顔を悲痛の色に染めたまま、謝罪する。 ああ、私の顔、また憤怒の色に、真っ赤に染まっているのか。 これは違うぞ。 言い訳一つすらできんが、それは違うのだアスターテ公爵。 もうお前は許している。 「これは貴女への怒りでは無いですよ、アスターテ公爵」 勘違いされているなら、丁度良い。 この怒りは、アスターテ公爵への物ではない。 凄いチンコ痛いからだ。 後は、人を都合の良い駒のように考えている王家への怒りだ。 こっちだって都合があるんだぞ、王家よ。 いや、アナスタシア第一王女よ。 今回、お前の用件だって聞いたぞ。 何でか、ヴァリエール第二王女も傍にいるがな。 「その、ファウスト……お願いだから落ち着いて」 お前はちゃんと礼服着てるから落ち着けるよ。 そもそも貧乳だしな。 美乳のアナスタシア第一王女と、爆乳のアスターテ公とは違うのだ。 お前等何がしたいんだ。 そんなに私のチンコを痛めつけて楽しいか。 私はヴァリエール第二王女へと視線を向けた後。 横合いから、アスターテ公の声を聞く。 「お前の要求は全て受け入れよう。お前の愛馬フリューゲルの繁殖は我が領地にて承ろう。今回の役目を終えてからになるがな。そうそう、単に優秀な牝馬への種付けではなく、他の沢山の牝馬にも種付けするがいいよな? その中で、一番優秀であった仔馬をファウストに贈ろう。もちろん、他の牝馬への種付け料も支払うぞ? 何せアンハルト王国最強騎士の、最強馬の種だしな。相当な額を支払うぞ」 「それで不満はありません。フリューゲルも子孫が増えて喜ぶでしょう」 お前にこの場で種付けしてやろうか。 心の中で罵りの声を挙げる。 こっちはチンコ痛いんやぞ。 ぷい、と顔を背けながら。 アスターテ公の横の人物の美乳を目にしないようにしながら、横に座るヴァリエール第二王女のみを見つめる。 我が心の平穏は、この場でこの人物だけだ。 「あの、ファウスト。何で私を見つめるの?」 「この場にては、私が相談役を務めるヴァリエール第二王女以外に目を向けたくは無いのです」 これで、私の不機嫌具合はアナスタシア第一王女に伝わるか。 それは微妙であるが。 少なくとも、私は今、アナスタシア第一王女の顔に、その下にある美乳に視線を向けたくはない。 チンコ痛いねん。 「アスターテ公爵。お前の謝罪である一件、その話は終わりか」 アナスタシア第一王女が、アスターテ公爵へ話を向ける。 「はいはい、話は終わりましたよ。後は王家からの話をば。私は最初に言っておきますが、反対の立場ですからね」 アスターテ公爵が、その爆乳をぶるん、と揺らしながら、両手を空に向ける。 やめろや。 本気で犯すぞお前。 この貞操逆転世界観にて、例え男が女を犯すのが異様な光景だとしても。 私はもはや、そんな事知った事じゃない。 本気でお前等を犯すぞ。 チンコ痛いねん。 今の私は何をするか自分でも判らんぞ。 「ファウスト・フォン・ポリドロよ。話がある」 「はいはい。謹んでお断りいたします」 私はアナスタシア第一王女の話を、謹んでお断りした。 内容は聞かない。 聞くまでもない。 私は領地の保護契約の義務も、第二王女相談役としての役目も、完全に終えているのだ。 王家のワガママなど聞く理由が無い。 「せめて、話ぐらいは聞いてから断れ!」 「聞きたくないんですが」 アナスタシアがその美乳をヴェール一枚ごしに晒しながら、私の顔を見つめてくる。 私といえば、珍しくそのおっかない視線に目を重ねた。 そうしなければ、アナスタシア第一王女の美乳が視界に入るからな。 「用件は、はっきり一言で言おう。ヴィレンドルフ王国との和平交渉だ。その使者をお前に任せたい」 「何で私が? それは法衣貴族の仕事でありましょう? いえ、よしんば領主騎士に任せるにしても、私では格が低すぎます」 何が悲しくて、アンハルト王国とほぼ同国力を有する同じ選帝侯たる、ヴィレンドルフ王国との和平交渉の使者に立たねばならないのだ。 それは法衣貴族の仕事であろう? 決して領民300名足らずの地方領主の行う仕事ではない。 下手すれば、相手は馬鹿にされたと考えて私の首を刎ねるぞ。 そして再戦争だ。 いや、ヴィレンドルフの価値観から、それは無いと私も知っているがな。 私はあの国で英傑に値する。 粗雑に扱われる事は決してあるまい。 「法衣貴族は役に立たん。梨の礫だ。ヴィレンドルフは、我々アンハルト王国の王軍の大半が北方の遊牧民族対策に充てていることを知っている。ヴィレンドルフ方面が脆弱になっている事を知っているのだ。相手にはせん」 「……」 聞きたくない言葉を聞いた。 これが他人事であればよかった。 で、あるが、他人事ではないのだ。 騎士見習いとして同席させている、マルティナへと視線を向ける。 マルティナは沈黙している。 この場における発言権は無いからだ。 正直、何かアドバイスが欲しかった。 私は政治的見地に乏しいからだ。 「……」 私は必死に考える。 我が領地たるポリドロ領は、蛮族ヴィレンドルフの国境線にほど近い。 だからこそ、こうやって軍役を必死に果たし、アンハルト王国との保護契約を保持してきたのだ。 我が領地が、蛮族に襲われる? それだけは御免だ。 我が領地は、わが命に代えても守るべきものだ。 私にはポリドロ領の領主騎士として、亡き母親から、その祖先から引き継いできた立場として、領地を守る義務がある。 「ファウスト、これはお前にとっても関係がある話、だとは思うのだが……」 「思うのだが?」 私は語尾を強くし、訴える。 だからといって、総責任を。 ヴィレンドルフ対策への総責任を任される立場では決してないはずだ。 これは王家と法衣貴族が解決すべき問題のはずであろう。 そうでなければ私が領地の保護契約のために、必死に軍役をこなしている理由が無い。 「もちろん。もちろんだ。当然の事ではあるが、お前の動員した領民の全て、今回は30名であったか? その動員費用の負担は我が王国が背負うし、そのヴィレンドルフの和平交渉が成り立った際の報酬も考えている」 「ほう」 その額はいくらかね? 下手な金額では、私はそう思うが。 横のアスターテ公爵から紙を渡され、その試算額に目を疑う。 これ、カロリーヌ反逆の報酬金より多額じゃねえか。 「ほう」 私は思わず声を挙げる。 悪い額ではない。 もはや我が領地の10年減税どころか、我が世代においては、ずっと領地の減税政策すら行えるほどの額だ。 まあ、それが当たり前になると次代が困るのでやらんけども。 額としては、正直眼が眩む程の額だ。 そう、眼が眩む。 勃起すら萎えて、チンコの痛みが治まるほどに。 それは良い事であるが。 いやいや、待て待て。 それだけ厄介な、難事であるという事だぞ、今回の役割は。 「事前に交渉した、法衣貴族達による反応はどうだったのです」 私は状況を冷静に判断する。 アナスタシア第一王女は答えた。 「弱き者どもから出た、弱き者どもの言葉は信用できぬ。領地を立ち去るがよい。そう、取り付くしまもない有様であった」 「……」 要するに、何一つ進展していないと。 だよねー。 ヴィレンドルフにとっては有利な状況だからね。 いくら、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵と私が、1000の倍軍を追い返したとはいえ。 あれは、本当に三者の能力が総合的に重なり合って奇跡を為した、偶然の出来事だったからね。 前線指揮官であるレッケンベル騎士団長を良いタイミングで討ち取れたから勝ったようなもの。 次は成功しないと思うわ。 多分、負ける。 そう感想を抱く。 アスターテ公が逆侵攻を行い、たまりかねたヴィレンドルフがようやく停戦条約を結んだのだ。 今はその停戦条約の期間中であるが。 いかん、それはもうすぐ切れる。 あと半年も残っていないではないか。 残念ながら、ファウスト・フォン・ポリドロは馬鹿ではなかった。 国が置かれている状況にも、ヴィレンドルフに国境線が近い自領の状況も理解していた。 このままだと、詰む。 しばし、悩む。 このままだと、我が領地もヴィレンドルフに、あの蛮族の侵攻に遭う。 それは困る。 アスターテ公爵の常備兵500と、リーゼンロッテ女王の軍は、その保護契約をしっかり守ってくれるであろう。 ヴィレンドルフに対抗してくれるであろう。 ではあるが。 正直、期待できるものではない。 今度こそは負ける。 その予測が、三者の間ではすでに雰囲気が漂っていた。 あれは、ヴィレンドルフ戦役で勝利できたのは、もはや偶然の産物としか思えない。 三者の誰が欠けていても、負けていた。 そんな地獄の戦であった。 「私にどうしろというのです」 目を瞑り、アナスタシア第一王女の美乳が目に入らないようにして呟く。 「最初に言った通りだ。ヴィレンドルフに赴き、和平交渉を成してくれ。最低でも10年は欲しい」 「10年……こちらが譲歩できる条件は?」 「そもそも攻め込んで来たのはあっちで、勝利したのはこっちだ。そして停戦した。譲歩できる点などほぼない。せいぜい、アスターテ公爵があちらの村々に攻め入った時に奪った少年達を返すぐらいか?」 その条件で交渉しろってのかよ。 キツイなあ。 勝った以上、条件をそう簡単に譲歩できないというのは判るが。 ああ、面倒臭い。 だけど、なあ。 やるしかねえよなあ、コレ。 そして、多分、私以外に、妙にヴィレンドルフで英傑視されているらしい私以外に、交渉できる人材もアンハルト王国にはいないんだよなあ。 それが理解できるのが、この身の最大の不幸だ。 ファウストは、ちっ、と舌打ちをつく。 「承知しました。他に手は無い。だからこそ私を呼んだのでしょう」 「引き受けてくれるか」 ほっ、と息を突きながら、アナスタシア第一王女が胸を実際に撫で下ろす。 だから、ヴェール越しに、その美乳に触れるのは止めろ。 勃起するだろ。 「引き受けましょう。但し、報酬の方は宜しく。あと、交渉が確実に纏められるとは到底保証できません。その際の、ヴィレンドルフ対策も同時に考えておいてください」 「もちろん、それは承知している。あの遊牧民族どもめが居なければ、このような事には」 ヴィレンドルフも同じように、北方の遊牧民族に困らされていたはずであるが。 確か伝え聞く話では、私が一騎打ちにて討ち果たしたレッケンベル騎士団長が、遊牧民族をボロ屑のように叩きのめして、国家全体に余裕ができたらしいんだよなあ。 結果、余った戦力で我がアンハルト王国に攻め込んできて、ヴィレンドルフ戦役が巻き起こった。 良い迷惑だ。 「ヴィレンドルフへの使者は私のみですか?」 「できれば、私が行きたいところであるんだが……」 「さすがに御身が行くわけにもいかんでしょう」 第一王位後継者が敵地へと? 悪いジョークだ。 だが、私だけでは名が弱い。 アンハルト王国最強騎士とはいえ、僅か領民300足らずの弱小領主騎士では弱い。 アスターテ公はヴィレンドルフで「皆殺しのアスターテ」として悪名高いので無理。 誰か、適当な―― 「私が立候補するわ」 私の横で、ヴァリエール第二王女が手を挙げた。 ああ、だからこの人も呼ばれてたのか。 「ま、そうなるであろうな。今のヴァリエール姫なら、役目も果たせるだろ」 アスターテ公が溜息を吐く。 正使がヴァリエール第二王女で、副使が私ことファウスト・フォン・ポリドロか。 これで表向きの格好はついたな。 「だが、私は今でも反対なのは、お忘れなく。ファウストを敵地にやるなど」 「お前の反対の立場は判っている。私も本音では反対だ。だが、他にどうしようもないのだ」 アナスタシア第一王女が答える。 いや、実際どうしようもないよなあ、これ。 心の中で同意する。 心底、行きたくないけど。 私は自分の副使としての立場に反対しながらも、アナスタシア第一王女の判断には同意するしかなかった。 ああ、ヴィレンドルフ行きたくねえ。 最後に、もう一言だけ心の中で呟いた。 第26話 全身鎧の下賜決定 「無茶苦茶怒ってたな。いや、最後には落ち着いて話を聞いてくれたし、聞き入れてもくれたが」 「私の事も許してもらえたから、とにかくよかった」 アナスタシア第一王女の居室。 ファウストと、その騎士見習いのマルティナ。 そしてヴァリエール第二王女が席を立ち、ヴィレンドルフへの遠征準備を開始するため去った後に。 アナスタシアとアスターテは、深く深くため息をついた。 「やっぱり、1か月で辺境領からとんぼ帰りは怒るか。とはいえ、もはやこれ以上ヴィレンドルフの案件を棚置きしておくわけにもいかん」 「今更だが、やはりどうしようもないのか。法衣貴族ども、ちゃんと仕事してるのかよ」 「してるさ。ちゃんと人選も私がした」 母上、リーゼンロッテ女王からは、ヴィレンドルフ対応は私に一任されている。 できるだけヴィレンドルフが侮らないような、交渉も武芸も出来る上級法衣貴族。 その武官を送り付けたが、やはり「弱き者の言葉など聞かぬ」扱い。 もはや、ぐうの音も出ないくらいの「強き者」を送り付けるしかない。 ファウストは、ヴィレンドルフでは間違いなく強き者に値するだろう。 心配なのは――アスターテが、私の心中を読んだように呟く。 「ファウスト、襲われるだろうなあ。いや、ヴィレンドルフが寝込みを襲うとは思っていないが、正面から決闘を大量に挑まれるだろ」 「挑まれるだろうな。それをクリアしてもらわねばならんが。まあ、その辺は心配無用だろう」 それが一騎打ちであるならば、100連戦して100勝するのがファウスト・フォン・ポリドロという男だ。 アイツが負ける姿など想像もつかない。 本人曰く、ヴィレンドルフの英傑、レッケンベル騎士団長だけは本気でヤバかったと呟いていたが。 今はその英傑も、ファウスト自身の手で倒された。 問題は無い。 「でもさあ、ファウスト。それだけじゃないだろ。あの筋骨隆々の姿。身長2mを超える大柄な体躯。そして英傑としての武力。どれをとってもヴィレンドルフの女好み。絶対口説かれまくるぞ」 「完全無欠のセックスシンボルみたいな扱いだろうな、ヴィレンドルフでは。何と言うか、歩くセックス? だからこそ、丁重に扱われる事を期待して送り出すわけだが……」 正直、ファウストの貞操が心配である。 だが、ファウストは身持ちの固い男。 そう簡単に、誰かに股を開くとは思わん。 でも、心配ではある。 その身が誰かに汚されるかと思うと、発狂しそうになる。 だが、もうどうしようもない。 すでにファウストをヴィレンドルフに使者として送る話は決定してしまった。 ドアから聞こえる、ノックの音。 「誰だ」 「私です。お茶をお持ちしました」 「ああ……丁度、喉が渇いていたところだ。入ってくれ」 第一王女親衛隊の親衛隊長が、部屋に入ってくる。 その手のプレート上には、二人分の茶が用意されていた。 机の上にそれが置かれ、お互いにカップを手にする。 アスターテが茶の香りを楽しみながら、再び口を開く。 「けっきょく、どうなのよ。ヴィレンドルフは停戦期間終了と同時に、ウチに攻め込んでくると思うか」 「何とも言えん。レッケンベル騎士団長不在の影響がよくわからんのだ。ヴィレンドルフの女王の内心が掴めぬし、内偵もイマイチ……戦争準備はしていないようだが。あの国は戦を起こすとなると、国民が即応するからな。すぐ戦時体制に入れる国だ。油断は一切できん」 ファウストは、本当に良い仕事をしてくれた。 レッケンベル騎士団長。 まさに悪名高いヴィレンドルフの怪物と呼べる代物を倒したのだ。 今のヴィレンドルフ女王、それが第三王女であった時代はその相談役となり、遊牧民族対策に奮戦。 いや、奮戦どころか叩き潰してしまった。 部族の幾つかは、族滅にまで至らしめたと聞く。 その手段は、遊牧民族のコンポジット・ボウの射程すら超える、魔法のロングボウによる族長、次に弓手の射殺。 その後は自らが陣頭に立ち、騎兵突撃による一方的な遊牧民族の虐殺。 話を聞けば、やり方はまあ判らんでもない。 ヴィレンドルフの騎兵は、正直言ってアンハルト王国のそれより強力だし。 だが、言うは易く行うは難し。 当国ではマネが出来ぬ。 そもそもワンショットワンキルで、レッケンベル騎士団長がその弓矢を戦場で外した事は一度も無いとまで、ヴィレンドルフ方面から流れてきた吟遊詩人の英傑詩では謳われている。 この世にはたまに出るのだ、ファウストのように訳の分からないレベルの超人が。 ファウストが殺してくれて、本当に良かった。 「レッケンベル騎士団長は武力にも優れていたが、戦略にも、政治的にも優れていた」 「ああ。第三王女であった女を教育、強力に補佐し、女王にまで押し上げた女だしな」 蛮族、ヴィレンドルフの女王は。 いや、ヴィレンドルフという国家全体の、青い血の後継制度は長姉相続ではない。 その限嗣相続は決闘で決まる。 姉妹同士が決闘しあい、勝った物が全てを得るのだ。 負けた方の姉妹は大人しく家長となった者の補佐をするか、それとも家を出ていくかだ。 それで恨みっこなし、といういっそ清々しさを感じさせるほど、というか。 よくそれで国がまかり通っているよな、と疑問を感じさせる制度だ。 文化がアンハルト王国と、余りにも違い過ぎる。 まあ、補佐をする者は食べてはいけるし、家を出ていくことを選んだ相手にも、もはや青い血は名乗れずとも食べていく道ぐらいは保障する。 その程度の義務が相続者にはあるというか、普遍化した常識が存在し、それを外れた者は青い血としては見なされない。 そういう、我が国から見れば妙ちくりんな価値観で国家が形成されている。 まあ我が国と同じく、ヴィレンドルフの代替わりは早い。 およそ長姉が20歳前後になった際には当主としての相続が行われる。 よって、長姉が勝ち、末子であればあるほど負ける可能性は自然高くなる。 幼いからだ。 だが、ヴィレンドルフの女王は末子、第三王女でありながら勝利した。 当時14歳であったらしいが。 これもレッケンベル騎士団長の薫陶あってのものであろうな。 そう考える。 ともかく、ヴィレンドルフ戦役を思い返すと、気持ちがしんどくなる。 「なあ、アスターテ。お前、ヴィレンドルフ戦役で何べん死んだと思った」 「想像もつかない。アナスタシアの本陣が襲われた時が一度目、それで焦って常備軍の統率を乱したときが二度目。そこから先は、ファウストの一騎打ちの勝利後のことは、終始有利に進めたつもりであるが、というかそうじゃなきゃ勝ててないんだが」 アスターテが、茶を一口飲み。 合間をおいて、答える。 「まあ、30回は、あ、これ自分死ぬんじゃないかなと思った。ファウストと一緒に最前線だったし」 「そうか」 アナスタシアが死ぬと考えたのは、本陣が攻め入れられた時。 その時と、度々最前線のアスターテとの通信が不通になった時。 ひょっとして私はこの初陣で死ぬんじゃないかな、と覚悟した。 考えれば数え切れない。 よく勝てたもんだな、あの戦役。 ――だから、次は勝てない。 勝てるイメージが、私やアスターテ、そしてファウストの三者にはどうしても浮かばないのだ。 だが、しかし、だ。 「本当に、ヴィレンドルフの女王が何を考えているのか判らん。相談役であったレッケンベルを失い、もはや我が国と戦をする気等無くしているのか。それとも復讐に心を燃やしているのか。北の遊牧民族対策は、何部族か族滅するにまで至ったとはいえ、完全に終わったわけではない。そちらへの対策は今後どうするつもりなのか」 何も判らない。 ちゃんと内偵はしているのではあるが。 今の状況では、法衣貴族が女王との謁見すら叶わず、ほぼ門前払いの時点では。 何も判らないのだ。 「案外、こっちのリアクション待ちという事も有り得る」 「というと?」 アスターテの意見を聞いてみる。 「ひょっとして、ファウスト・フォン・ポリドロ待ちだったとか」 「まさか」 我々が上手く踊らされたというのか。 その可能性は考えないでもなかったが。 そこまでファウストに執着するものか? 「判らないぞ。ファウストという人物は、ヴィレンドルフの価値観にとっては本当に特別な存在だ。容姿は完璧、闘う姿は美しき、非の打ち所がない完璧な玉のような存在だ」 「その玉を通して、我々のリアクションを図っていると?」 「アンハルト王国、侮りがたしと受け取れば、戦争回避。所詮噂先行、このような物かと受け止められれば、戦争再開」 バカげた話だ。 アスターテ公が下手な口笛を吹きながら、おちゃらけた姿で言いつのる。 「でもさあ、案外間違ってない予測だと思うぞ。全てはアンハルト王国のリアクション待ち。それから全て決める!」 「ヴィレンドルフ側も、こちらの行動が予測つかないということか?」 「そう言う事。何だかんだ言って、我々は勝利した。私はヴィレンドルフに皆殺しのアスターテなんて言われる程の報復も果たした」 土地を奪い取るのではない。 アスターテはヴィレンドルフの村々を襲い、ありとあらゆるものを略奪し、更地にした。 そのヴィレンドルフでの悪名は計り知れない。 まあ、アンハルト王国も、ヴィレンドルフに似たような事やられてるから、正当な報復ではあるんだが。 「今、アンハルト王国は北方の遊牧民族対策に、王軍の多くを割いている。各地方領主の軍役もだ。だからヴィレンドルフ対策に軍の多くを割くことはできない」 「それはヴィレンドルフも知っている事だ。だから私は再戦を恐れている」 「だけど、ヴィレンドルフではレッケンベル騎士団長がボロ屑のようにそれを叩きのめした経緯もあり、アンハルト王国がそれをできないとまでは考えない」 「ふむ」 私達がヴィレンドルフの全てを理解できないように、相手もアンハルトの全てを理解できないだろう。 それは判る。 「つまり?」 私はアスターテに尋ねる。 「だから、リアクション待ち。全てはファウスト・フォン・ポリドロに掛かっている。ヴィレンドルフ女王はその姿を見て、今後の全てを決める。あながち、この予想は間違ってないと思うんだよねえ」 「うーむ」 案外、そうなのかもしれない。 相手の頭の中までは、例え希少な魔法使いでも読めない。 判断材料があるとすれば――それは英傑レッケンベルの保護下に置かれていた。 その幼少期から構築されたヴィレンドルフ女王の価値観。 「我がアンハルト王国の英傑、ファウスト・フォン・ポリドロを見て、それから何もかもを決めると」 「そうさ。私ならそうする」 アスターテは、仮に自分がヴィレンドルフ女王ならばそうする。 その思考をトレースして、そこに至ったか。 我が相談役、我が片腕アスターテよ。 今回は、お前の智謀を認めるとしよう。 「では、なおさらファウストにみすぼらしい格好をさせるわけにはいかんな」 「あのチェインメイル姿か?」 格式ばかりに気を取られ、金のない貴族など珍しくもない。 そして弱小領主騎士であるファウストは本当に裕福ではない。 だからチェインメイルなど着ている。 「私の歳費で、アイツ用のフリューテッドアーマーを製作しよう。宮廷魔法使いによる、軽量化や強度の付加も」 「間に合うのか? 使者に向かわせるには時間が……」 「鍛冶師など何人使ってもいい。一か月で間に合わせる」 無茶苦茶な。 アスターテがそんな顔をする。 だが、これは必要な事だ。 ファウストを、我が国の英傑をチェインメイル姿でヴィレンドルフ女王に会わせるのは、アスターテの話を考えると拙い。 我が潤沢な歳費を用い、鎧一式を仕立てる。 これは好都合だ。 その事情が事情故、財務官僚にも文句を言わせず、ファウストの好感度を買える。 「アナスタシアさあ、これでファウストの好感度が買えると思ってないか。いや、確かにファウストの好感度はお金で買えるんだけどさあ。その心の深層までは売ってくれないんだよ」 王家の、第二王女相談役としてファウストに与えられた下屋敷。 そこを常に監視し、ファウストの嗜好と傾向を隅から隅まで理解してる――くだんのマルティナ助命の際にはそれでも読み間違えたが。 そのアスターテが、忠告する。 だが、しかしな。 「これは必要なことだと思うし、それにだ。私なんかファウストに嫌われてないか?」 「いや、戦友だとは思われてると思うよ。死地の最前線に送った相手とは言え、アナスタシアも苦労してないわけじゃないし。だけど、お前さあ、怖いんだよ」 「怖い? 何が?」 アスターテの言いたいことが判らん。 「目が怖い」 「それだけで嫌われるわけがないだろうが!」 「実際、妹のヴァリエールに最近まで怖がられてたじゃん!」 ああ言えば、こう言う。 「それはヴァリエールに問題があるのだ! 本当に子供の頃から私を怖がりよって! 最近は姉さまと逆に妙に懐いてくるようになって可愛いが」 「あ、可愛いんだ。姉妹仲が改善されたのは何よりだけどさあ」 アスターテが呆れた顔で、私とヴァリエールの姉妹仲に口を挟む。 ほっとけ。 同じ父の、血の繋がった妹なんだ。 そうと一度認めてしまえば、可愛くないわけないだろ。 別に王位を争う気は、ヴァリエールには無い事がアスターテの報告で知れているわけだし。 将来は、僧院になど追いやらず、ちゃんとどこかの嫁に送りだしてやりたい。 それが私のせめてもの愛情だ。 「まあいいや。もういいよ。とにかく、魔法のフリューテッドアーマーなんか与えた日にゃ、そりゃファウストは大喜びするよ。でもそれで股を開いてくれるとまでは思わない方がいいと思うよ」 「思うか!」 どんなハレンチな事を考えてるんだ。 私はこれをいい機会にして、ファウストの好感度を稼ぎたいだけ。 そしてヴィレンドルフとの和平交渉を上手く運びたいだけ。 ただそれだけだ。 アナスタシア第一王女は、はあ、と溜息をつき、すっかり冷たくなったカップの茶を飲み干した。 第27話 マジックアーマーの製作風景 第一射は、600m先、丁度立ち塞がる騎士を斬り捨てた辺りであったと思う。 飛んできた矢のそれを、半ば反射的にグレートソードの柄で防いだ。 防がなければ、私の装備しているチェインメイルの胸元を射抜き、私は死んでいたであろう。 やや残る腕の痺れが、その矢の強烈な威力を示している。 「そっちか」 私は方角を掴んだ。 あそこに、私が葬るべき敵、討ち取る事でこの死地からの脱出を可能とする前線指揮官は居る。 そう戦場の嗅覚が促した。 愛馬フリューゲルも鼻先を向け、あっちだ、あっちだ、と促している。 戦場のフリューゲルは私より賢い。 それも、騎士と騎馬、互いの意見は一致しているのだ。 フリューゲルのそれに、黙って従う。 私は吶喊する。 第二射。 それを、グレートソードで切り払う。 邪魔だ。 この弓手、相当の腕前だぞ。 問答無用と言った感じで、強烈な矢を私の額目掛けて射抜いてきた。 だが、無駄。 矢を切り払うなど、超人の常識よ。 これ位できなければ、戦場で生き抜いていけるものか。 私は過去の軍役で、当たり前のように山賊がクロスボウを所持していた事を回想する。 なんで山賊風情がクロスボウ持ってんだ。 ひょっとして、家督を継げなかった青い血崩れだったのか? そう疑問に思うが、今はどうでもいい。 クロス。 そう絶叫する、私の声。 我が領民の従士達5名が、今までの軍役で、山賊から鹵獲してきたクロスボウの矢を敵に解き放った。 チェインメイルをぶち抜き、倒れ伏すヴィレンドルフ騎士の5名。 やはりクロスボウは強力だ。 第三射。 鬱陶しい。 グレートソードの柄で受け止める。 第四射。 第五射。 第六射。 第七射。 第八射。 いいかげんにしろよ。 山賊の矢など鬱陶しいだけだが、この矢は力強く、恐ろしい。 私はそれをグレートソードの刃で、柄で、それを打ち払う。 カイトシールドなんぞ持たずとも、私にはそもそもそれが必要ない。 先祖代々受け継がれた、グレートソード一本のみで矢は跳ね返せる。 この弓手、化物だな。 私と同じ超人の類か。 その感想を抱きつつ、やがて無駄だと悟ったのか。 ――いや、単純にこの矢を放つ先に行きついたのか。 やがて、私とその領民達は、敵騎士団の中枢に辿り着く。 「ヴィレンドルフ騎士団長、一騎打ちを申し込む!!」 私の名乗り声。 それに応じたロングボウの射手、ヴィレンドルフ騎士団長――レッケンベル。 嗚呼、彼女は確かに強かった。 間違いなくヴィレンドルフの英傑であった。 およそ生涯に相手をした騎士の中で、間違いなく最強であった。 後一年。 後一年早ければ、私の方が負けていたであろう。 たった一年の鍛錬と工夫の差で、私が勝利した。 あるいは、彼女の才能が指揮官としての軍事に偏っているのではなく。 私のように武力に全振りであれば。 負けていたのは私の方であったであろう。 才能の多寡は、おそらく彼女の方が多かった。 そんな事を、横にいるマルティナに呟く。 「英傑詩そのもののお話で、まさに英傑同士の勝負と言えますが。何故そんな話を突然」 「いや、暇でな」 私は今、王都の鍛冶場にいた。 マルティナを騎士見習いとして引き連れて訪れた、鍛冶場にてマルティナにヴィレンドルフ戦役の――レッケンベル騎士団長が如何に強敵であったかの話をする。 その目の前で、パチパチと拍手をする商人。 イングリット商会。 アナスタシア第一王女は、私用のフリューテッドアーマーを準備するにあたって、私の御用商人であるイングリット商会を指名してくれた。 なかなかの気配りを見せてくれる。 イングリットは大型注文にご機嫌だ。 「いやー。手配の値段の方は大分勉強させて頂きましたが、フリューテッドアーマー一式の手配となるといい値段になります。それを先払いで支払ってくれるとは。さすが第二王女相談役ポリドロ卿」 「今回の支払いは、全てアナスタシア第一王女様の歳費で出るわけだから、第二王女相談役は関係ないけどな」 そうイングリットに返す。 まさか、アナスタシア姫が私用のフリューテッドアーマーを買ってくれるとは思わなかった。 それも、費用は今回の成功報酬とは完全に別口で。 さすが第一王女の歳費、潤沢さが第二王女とは違う。 今回ばかりは、さすがに素直にアナスタシア姫に感謝する。 この2m超えの巨躯を包むチェインメイルも、いささか綻び始めていたところだ。 まあ、副使として舐められる格好は拙いか。 ヴィレンドルフ以外なら礼服でいいんだが。 ヴィレンドルフにおいて、武官は甲冑こそが礼服だ。 格好がつかんと拙い。 「それにしても、一か月での突貫製作となると、鍛冶師もいつもの一人では足りません。いつものグレートソードとチェインメイルの整備をしている男職人以外にも、多数の女職人を使う事になりました」 「別に構わん。イングリットの紹介だ。腕はしっかりしているのであろう」 我が股間に装着している貞操帯。 それを作り上げた男鍛冶師に、いつもは我が愛用のグレートソードやチェインメイルの整備を頼んでいるのだが。 今回ばかりはそうはいかぬ。 たった一人で鎧一式を準備できるほどの時間は無い。 女鍛冶師によって集られ、全身をぺたぺた触られながら、サイズを採寸された。 その手は鍛冶師らしく分厚く、鎧鍛冶師としての熱量を感じさせた。 「サイズはもう測り終えたのだから、帰ってもよいのではないか?」 「いえいえ、時間がありませんので。まだまだ身体に合わせて調整していかねば」 「そういって、一週間もの間、鍛冶場に日参している」 まあ、仕方ない。 そうは思っているのだが、時間のとられ具合には閉口している。 横に付き従うマルティナに、ヴィレンドレフ戦役における回想を語ってしまうくらいに。 手持無沙汰なのだ。 チラリ、と横を見ると、暇な私とは打って変わって忙しそうに宮廷魔法使いが魔術刻印を、鎧の素材となる板金に刻み込んでいる。 呪文付加――エンチャントの準備である。 そういえば魔法使い、産まれて初めて見たな。 魔法使いは、この世界では貴重な存在である。 完全に先天的な能力であり、後天的に開花することは無い。 1万人に一人、そのくらいの割合か。 その程度しか存在しない。 だが、魔法は確かに存在する。 この腰にぶら下げた、先祖代々伝わる魔法のグレードソードのように。 「私、魔法使いの方、初めて見ました」 マルティナが呟く。 1000人規模の街に住んでいた、マルティナの立場でもそうだろうな。 魔法使いは公爵家を例外として、その能力が認められると問答無用で宮廷に召し上げられる。 その魔法使いの探し方はいたって単純。 魔法のオーブ、水晶玉に手をかざすだけで、その水晶玉が輝き反応するか否か。 水晶玉は、各地方領の教会に保管されている。 もちろん、我が領地ポリドロの教会にも保管されている。 無論、言うまでもないが私に魔法使いの才能は無い。 物心つく、5歳の時に確かめた。 300人ぽっちの領民にもおらん。 まあ、居ても王宮に召し上げられるんだが。 但し、高額な報酬金が領地にも家族にも支払われるんだけどな。 そして、魔法使い本人の待遇も違う。 まず、奴隷であろうが平民であろうが、問答無用で世襲貴族の新当主扱いの待遇。 むろん、泣こうが喚こうが、スパルタ教育で魔法使いとして、貴族としての教育が始まる。 ぶっちゃけ、私が受けた騎士教育並みのキツさではないだろうが。 私は亡き母親を一切恨んでいないがな。 まあ、ともかく。 魔法使いは希少なのだ! その魔法使いが目の前にいる。 是非とも話をしてみたいが 「この板金、絶対切断したりするなよ! しないで鎧造れよ! したら殺すぞ! 人がこの一週間、睡眠と食事の時間以外は削って魔術刻印刻んだんだからな! 判ってんだろうな!!」 むっちゃキレてる。 女魔法使いさん、無茶苦茶キレておられる。 「一か月は無理だろ! 一か月で鎧の全部の板金に一人で魔術刻印刻めって――いや、加工時間考えたら半月もねえじゃん! ふざけんなよ王家! 人には出来る事と出来ない事ってのがあるんだよ!」 むっちゃキレておられる。 これは話しかけるの無理だな。 お前のせいでこうなってんだぞと詰め寄られたら反論できん。 藪蛇を食らうのは御免だ。 「アタシ、飯食ってくるからな。それまでに次の板金用意しとけよ!!」 ぷんすか、と怒りながら。 女魔法使いは、私の目の前を立ち去って行った。 彼女の名前も知らない。 まあいいや、関わる事もあまりない人種だ。 魔法使いはそれだけ希少だ。 「むっちゃキレてましたね」 「むっちゃキレてたな」 マルティナの言葉に、私は頷く。 どだい、一か月でエンチャント付加したフリューテッドアーマーを製作しろと言うのが無茶苦茶な要求である。 アナスタシア第一王女の要求だから、みんな仕方ないんだろうがね。 その原因の一人としては申し訳なく思う。 だが、仕方ないのだ。 ヴィレンドルフでの武官は鎧こそ礼服。 決して舐められるわけにはいかない立場なのだ。 上物のスーツを用意していかねばならぬ。 そして和平交渉を成立させるのだ。 何、その成功確率を上げるためなら、鎧一つ安い物だ。 おそらくアナスタシア第一王女はそうお考えだろう。 それに巻き込まれてる鍛冶師や魔法使いはお疲れ様です、というしかないがね。 私は深く深く、ため息を吐いた。 「魔法使いには色々聞いてみたいことがあったんだがね」 「何についてか、お聞きになっても?」 イングリットが、私の目の前で不思議そうな顔をする。 ……隠す必要はない。 「その……物語のように、火や光・煙を扱わせたら随一の花火使い、まるで超自然現象を扱い、敵を討ち果たす事などあるのかなと」 魔法使いの存在はヴェールに包まれている。 その存在が放つ力はいかに。 ひょっとして、私の戦闘能力すらあっさり上回るのでは。 そんな期待を、前世を持つ私としては。 この中世ファンタジーの世界には、魔法使いには期待をしてしまう。 「……私の聞く話では、ありえませんね」 イングリットが残念そうに答えた。 小さく、首を振る。 「魔法使いの仕事は通信機である魔法の水晶玉、双眼鏡などの補助具、マジックアイテムの製作に。今回やるような武具へのエンチャントが主な仕事ですね。空想物語のように、超自然現象を手に取るように操り、敵を討ち果たすのは残念ながら有り得ません」 イングリットは言いつのる。 「ましてや、超人。世間ではそう呼ばれますが、ポリドロ卿のような存在。そんな存在に立ち向かう事など出来はしませんよ。まあ、魔法使いは希少ですけどね。魔法力も知識も要します。例に挙げたような補助具、通信機や双眼鏡等、戦局すら左右するような物を造り出しはします。ですが、直接戦闘力はもたないのです」 イングリットの断言。 少し、残念である。 前世の世界で読んだような、古典ファンタジーのような力は持ち得ない存在であるようだ。 まあ、一軍に匹敵するような魔法使いなど史書でも出たことは無い。 判ってはいたが、少し悲しい。 何せ、魔法だ。 未だ微かに現代日本人としての残存、価値観が残るわが身としては、期待しても仕方ないではないか。 自分にそう言い訳する。 「まあ、判ってたが、そうか。残念だ」 イングリットには心のままに正直に答える。 本当に残念だ。 どうしても我が心には「指輪物語」が残っているのだ。 仕方ないではないか。 そんな言い訳を自分にする。 「今回のフリューテッドアーマー、どんな感じになる」 「大変言いにくい話ではありますが、兜に関しましてだけはバケツ型でもよろしいでしょうか?」 「バケツ?」 できればヘルメットタイプの、何もかも弾き逸らす形がいいんだが。 この世界には初期型ながら、傭兵が使う銃もある。 「いわゆる、グレートヘルムですね。実際には、その下に更にコイフ、チェインメイルの頭版を被って頂くことになるかもしれません」 「嫌だな、それは。フリューテッドアーマーにバケツヘルムはダサくないか?」 それに視界が狭くなる。 チェインメイル装備の利点。 それは、視野の広さと、軽重量にある。 兜を被らない事によるもの。 そしてグレートヘルムの欠点。 それは視野の狭さと、肩と首に圧し掛かり、攻撃速度すら遅くさせる重量にある。 「……正直、複雑な構造となる兜までは製作する余裕がなく。それに正直、英傑ポリドロ卿には完全鎧が必要なのでありましょうか。兜のみは着脱式で、正直無い方が、戦場での戦いをより容易にするのでは?」 「知った風な口を利く」 私はイングリットに呆れたように声を出すが、まあそうかもしれん。 元々、戦場ではチェインメイルでも十分と感じる程なのだ。 レッケンベル騎士団長との戦闘では、あれほど全身鎧が欲しいと感じた瞬間は無かったが。 グレートヘルムか。 着脱可能なら、選択肢としては悪くないかもしれん。 「グレートヘルムの欠点である重量も、魔法使いのエンチャントで解決です。今回はポリドロ卿の事を考え、判断させて頂きました。是非頷いて頂きたい」 「いいよ、それで。後でちゃんとしたフリューテッドタイプの兜も製作可能なんだろ?」 「はい。容易に交換可能です。ポリドロ卿が旅だった後で、ちゃんと製作しておきますよ」 後で取り戻しが利くならばよい。 まあ、必要とするとは思わんのだが。 私はとりあえず応諾し、そしてまた退屈な時間が出来た事に溜息を吐いた。 話相手がマルティナしかいない。 騎士の心構えなど一々説く必要のある子どもではないのだぞ。 私はさて、鍛冶場にてマルティナの剣術指南でもおっぱじめようかと真剣に考え始めた。 第28話 アンハルト王国に過ぎたるもの アンハルト王国に過ぎたるもの。 美と憤怒の化身、ファウスト・フォン・ポリドロ。 その姿は凛々しく、振り上げたる剣の重きは女も唸る怪力無双。 駿馬を駈り、戦場を侵すは猛火の如し。 鍛え上げられた体躯は怒りの血潮で太陽の如し。 その光に魂を溶かされた者は、その美しさに戦を忘れ、忘我の内に死ぬだろう。 ファウスト・フォン・ポリドロ。 憤怒の化身。 ファウスト・フォン・ポリドロ。 猛火の化身。 ファウスト・フォン・ポリドロ。 我らがヴィレンドルフに相応しき永遠の好敵手よ。 「また、ファウスト・フォン・ポリドロの英傑詩か。最近流行っているな」 「実際、使者として来ることが決定しましたからね。話題にもなるでしょう。吟遊詩人も商売です、抜け目がない」 ヴィレンドルフ王都。 その街中を歩きながら、街頭で謳う吟遊詩人を見やるのは、会話する二人。 ヴィレンドルフの貴族、武官と文官。 役目は違えど、二人は親友であった。 家も親しく、互いのどちらかの家に男が産まれたならば、夫に出していたであろう。 残念ながら、お互いの家族は姉妹しかいないが。 何、将来は同じ男を夫に獲るのも良いだろう。 そんな事を考えながらも――文官が首を傾げる。 「実際、どのようなものでしょうね。身長2m超え、筋骨隆々の姿、気高き顔立ち、それより何より、我らが英傑レッケンベル騎士団長を倒した。もはや想像がつきませぬ。本当に人ですか?」 先ほどの英傑詩に謳われるような存在。 もしすべてが本当であるならば、それは人ではない。 超人どころか、魔人か何かだ。 いや、事実、我らの英傑レッケンベル騎士団長は一騎打ちの際、求愛し、勝てば第二夫人となれと望んだと言われているが。 どこまで本当なのか――まあ、それは聞けばわかるのだ。 なかなか、横の武官からは聞けないが。 「お前も知っての通り、私はアンハルト戦役――敵国ではヴィレンドルフ戦役と呼ばれており、勝者の呼ぶそれが正しいのかもしれんが。私はレッケンベル騎士団長の御傍にいた」 「はい」 やっと、その話が聞けるか。 聞きたくて仕方なかった。 この親友は、ヴィレンドルフ戦役の事となると急に口を閉ざしてきた。 何度尋ねても、だ。 おそらくは、戦役参加者に箝口令が敷かれていたのであろう。 それはもう解かれたということか。 文官は、頭の中で宮廷側の考えについて思考を飛ばす。 レッケンベル騎士団長の死を、アンハルト王国が貶めることは無かった――ファウスト・フォン・ポリドロが礼に則り、その場で賞賛と共に、その首を返却した以上は。 強き者を褒め称えるのは、我らヴィレンドルフの文化だ。 何故、箝口令が敷かれていたのだろうか。 「あれは、お前の言うように人の猛々しさではない。まさに魔人だ」 「やはり魔人、ですか。超人ではなく」 「美しき野獣、そういう呼び名のな。超人ではなく魔性の者の類よ」 武官は、突如足を止め、横の酒場に目をやる。 「一杯飲もうか」 「いくらでも。話が聞けるなら今日は私の奢りです」 「ならば、大量に飲むぞ。今日は仕事も無い」 遠慮なく武官は酒場のドアを開け、そこの小さなテーブルの椅子に腰かける。 「エールを二つ!」 そう店主に叫び、武官は話を再開する。 「まず目を剥いたのは、戦場にてその男が、我が騎士団の一人を倒しながら名乗りを上げた時だ」 「我が名はファウスト・フォン・ポリドロ。我こそはと思う者はかかってこい!! 闘ってやる!! でしたか」 「箝口令を敷いた意味が無い。宮廷は何故あのような無駄の事を」 話の腰をいきなり折ってしまったようだ。 英傑詩、レッケンベル騎士団長との一戦から聞いた話であったが。 ちっ、と武官が舌打ちをする。 「知っているならまあいい。私はその時、レッケンベル騎士団長の御傍にいた。遠目からも判る巨躯で、戦場に響き渡るその叫びの大音声。下位貴族のようなチェインメイルを纏っていながらも――その姿は太陽のように美しかった」 「美しかった、ですか」 「ああ、魔性の美しさというのか。顔を憤怒の色に染め、混乱したアンハルトのモヤシ兵どもの中で唯一人、アンハルト軍がレッケンベル騎士団長の策で、死地に追い込まれている状況を理解していた」 まるで水没する船から逃げ出そうとする猫。 もっとも、それは猫ではなく虎であったが。 エールが二つ、テーブルに届く。 「反射的であったのだろうな、レッケンベル騎士団長はその魔法のロングボウの矢を、その太陽のような男の胸元目掛けて放った」 「そして?」 「弾かれたよ。グレートソードの柄の部分でな」 「柄!? レッケンベル騎士団長の矢をですか!?」 今まで北方の蛮族、略奪民族を幾つも族滅させてきたレッケンベル騎士団長の矢。 ワンショットワンキルの伝説を持つ矢だ。 その伝説を、あっさり覆したのか? 「その後もファウストは三人ほど斬ったか? よく覚えていないな。レッケンベル騎士団長の矢をその後も第二射、第三射、第四射と片手間に弾いていった印象があまりに強い」 「矢避けの呪文でもかかっているのですか、ファウストは」 「かもしれぬ。私は、神がそういう運命を与えたと言っても驚かぬ」 武官がエールを完全に飲み干した。 お代わりを酒場女に頼みつつ、武官は会話を再開する。 「それだけで尋常ではない超人と判る。だが、何より凄まじかったのは、レッケンベル騎士団長の眼前――我々の目の前に現れてからよ」 「どういった人物だったのですか?」 「英傑詩そのままだったのよ。違いと言えば、その男に見合わず、あまりにその軍装がチェインメイル姿と貧相だったことぐらいか。魔術刻印を刻まれたグレートソードが異彩を放っていた事が目立つぐらい――いや」 武官が首を振る。 「そのチェインメイルのみの姿すら美しかった。兜も盾も無し。軍装はチェインメイルとグレートソードと、ヴィレンドルフでも稀にしか見ぬであろう優れた駿馬のみ。たったそれだけで、あの魔人はレッケンベル騎士団長の前に現れたのよ」 武官はまだ気づいていないが。 気づけば、酒場全員が黙り込み、彼女の話に聞き入っていた。 酒場の女店主さえもだ。 「あの魔人は言ったよ。グレートソードを大きく天に掲げ、太陽の下で、ヴィレンドルフ騎士団長、一騎打ちを申し込む!!とな」 「レッケンベル騎士団長は何とお答えに?」 「たった一つの約束と共に、それに応じた」 武官が、エールの二杯目を空にした。 お代わり!と空の杯を掲げて、力強く叫ぶ。 慌てて女店主自らが、代わりのエールを持ってきた。 この武官の言葉を止めたくないのだ。 「その約束とは?」 「私が勝利した場合、お前は私の第二夫人になれ、それだけだ」 「英傑詩そのままではないですか。それほどまでに美しかったのですか」 「美しいなんてものではなかったよ。魔人といったろ」 武官が、私の顔に顔を近づけ、その間近で呟く。 「正直、私も股が濡れたよ。このような美しい男がこの世に存在したのかと」 「そこまで?」 「そこまでだ」 近づけていた顔を離し、また会話を再開する。 今の呟きは、いくら顔を近づけていても、酒場全員の客と店主の耳に届いたが。 幼き頃から声がデカいのだ、この武官は。 「何と言えばいいのだろうな。あの美しさは。チェインメイル越しでも判る筋骨隆々の、幼き頃から鍛え上げられたと判る身体。その真っ赤に染まった気高き顔。一騎討ちを挑む前に、周りをジロリと睨みつけ、押さえつけるその目。私は生まれて初めて人から見下ろされる経験をしたよ」 武官は身長1m90cm程。 ファウストと、その乗馬がどれだけ大きいかがよく判る。 「美しかった。本当に。一度でいいからあのような男を抱いてみたいものだが……まあその機会は」 「そこら辺はどうでもいい。レッケンベル騎士団長との勝負はどうであったのです?」 聞きたいのは、そこだ。 武官が言葉を止められ、少し機嫌を損ねた様子でエールをあおる。 周囲の人間も、固唾を飲んで見守っている。 「美しかったよ。それだけだ」 「はあ?」 「他に何と言い様がある。その光に魂を溶かされた者は、その美しさに戦を忘れ、忘我の内に死ぬだろう。ほれ、さっきの英傑詩にもあったろう」 武官がからかう調子で呟く。 コイツ。 ――コイツ、その記憶を話すつもりは無いな。 思わず、言葉を崩す。 「お前なあ、私は親友だぞ、語ってくれてもいいだろう」 「どーしよーかなー」 「からかうのはやめろ。喋らないなら、奢りは無しだぞ」 私は自分のエールに口づけしながら、不快そうなジト目で武官を見る。 「仕方ない。喋ろう。まずはレッケンベル騎士団長が、私に魔法のロングボウを預け、自らのハルバードを持って来させた」 「あの、レッケンベル騎士団長が遊牧民族を何十と斬り殺したと聞く業物か」 魔法のロングボウと同じく、宮廷魔法使いにエンチャントされた品。 切れ味の強化と、堅牢さが増していると聞く。 「得物の長さは、レッケンベル騎士団長が有利であった。鎧も。噂では300人足らずの弱小領主騎士と聞く、チェインメイル装備のファウストとは違い、全身が魔術刻印で埋め尽くされたプレートアーマー。私はな、いくらファウストが美しくとも、魔性の者と思えど、それでもレッケンベル騎士団長の勝利を疑ってなかったんだよ」 「そりゃそうだ」 装備が余りに違い過ぎる。 実績も。 ファウスト・フォン・ポリドロなんて名前、ヴィレンドルフ戦役で初めて聞いたのだ。 後になって、軍役で100名以上の山賊を斬り殺してきた事も英傑詩で聞いたが。 それ以上の実績を、レッケンベル騎士団長は積んでいる。 「だが、互角だった。途中まで互角だったんだよ勝負は」 「どういう勝負だったのだ。そこが聞きたい」 「ファウストのグレートソードは魔法が掛かっているとはいえ、同じく魔法のエンチャントが施されているレッケンベル騎士団長のプレートアーマーは切り裂けず。同時に、レッケンベル騎士団長の攻撃は、殆どがファウストのグレートソードで凌がれた」 何十合、何百合と打ち合ったのか。 もはやそれすら覚えておらんよ。 武官が、またエール!とお代わりをせがむ。 女店主が、慌ててまたお代わりを持ってくる。 「時々、レッケンベル騎士団長が勝利した、と錯覚したときすらあった。ファウストの装備するチェインメイルがハルバードに触れ弾け飛び、血の雫とともに鎖が周囲に散乱する事すらあった。だが傷は浅く、致命傷には至らなかったのだ。ファウストはギリギリの攻撃範囲を見極め、その攻撃を受けていた」 「……ファウストは、本当に魔人なのだな」 レッケンベル騎士団長。 死して名を遺す、我らの英傑よ。 厄介な略奪者、北方の遊牧民族の族長や弓手をその魔法のロングボウで打ち抜き、自分が最前衛を務める騎馬突撃で、幾つもの遊牧民族を族滅させてきた女よ。 あの英傑の名は、1000年経ってもヴィレンドルフに残るであろう。 「レッケンベル騎士団長の敗北原因は、疲れだ」 「疲れ?」 「何百合と及ぶその打ち合いに、プレートアーマーで全身を包んだレッケンベル騎士団長の疲れだ。いかにヴィレンドルフきっての超人と言えど、そのスタミナが持たなかった」 レッケンベル騎士団長も、また人の子であったか。 「対して、ファウストはチェインメイルの身軽な姿であった。そして何より、若かった。いや、年齢を理由にするのはよくないな。レッケンベル騎士団長は逆にその老練さゆえに、あそこまで持ったのだ。そして――」 瞑目する様に、武官が目を閉じる。 「プレートアーマーの接合部、魔術刻印の無いその首元目掛けて、ファウストのグレートソードが届いた」 「それがレッケンベル騎士団長の結末か」 「そうだ」 ふー、と武官がエールの残量を気にしながら、語り終える。 箝口令が解かれた。 ようやく人に話す事が出来た。 そういった面持ちであった。 「……ファウストは、そのグレートソードを我々を眼前にしながらも鞘に納め、大事そうに両手で地面からレッケンベル騎士団長の首を持ちあげ、副官は誰かと聞いた」 「お前の事だな」 「そうだ、私だ」 レッケンベル騎士団長の副官。 その騎士副団長こそが、目の前の武官である。 「ファウストは言ったよ。強き女であった。私はこの戦いを生涯忘れないであろう。そうして、その首を大切に両手で丁重に返してきた」 「その場で斬り殺される事すら恐れず、か……」 「ああ、恐れずだ。あの男が我らヴィレンドルフの価値観を理解しているとはいえ……」 我らが英傑、レッケンベル騎士団長を殺された。 怒りの余りに、その横やりをする無粋な馬鹿が現れないとも限らなかった。 だが、ファウスト・フォン・ポリドロは一切恐れなかった。 「それで、そこまでか」 「ああ、それで話は終わりだ。奴は私達と同じく一騎打ちを見守っていた領民を引き連れ、自軍へと帰っていった」 杯の中身は空になっている。 だが、今の武官はエールの追加を頼もうとしなかった。 「凄まじいものだな、ファウスト・フォン・ポリドロという男は」 「魔性の男だと言ったろう?」 話は終わりだ。 だが、一つ気になる事がある。 「レッケンベル騎士団長の遺体は、その後どうなった? 我々がその死を知ったのは、ヴィレンドルフ戦役後であった」 「負け戦である。その遺体をパレードとともに葬る事は避けられた。我らが英傑に、負け戦の原因になったとはいえ非難する愚か者などいるはずもないのにな」 武官は、ちっ、と舌打ちをつきながら、空になっているエールを見る。 お代わり! その声に、女店主が反応し、代わりを持ってきた。 「レッケンベル騎士団長の遺体は、その家族と、我ら騎士団と、ヴィレンドルフ女王で静かに、但し格式を以て葬られた。いずれ、お前も墓に参るといい」 「ああ、我らが英傑だものなあ……」 文官がエールを飲む。 何か、しんみりとしてしまった。 打ち破ったファウストは賞賛されるべきだ。 だがレッケンベル騎士団長を失ったことは悲しい。 「その後、レッケンベル騎士団長の家族はどうなったのだ? 家督は姉妹が継いだのか?」 「いや、レッケンベル騎士団長は家族からも誇りであった。その一人娘に家督を譲りたいと姉妹達が懇願し、一応は姉妹が代理をすることとなったが、継ぐのは一人娘――ニーナ様だ」 「ニーナ様か」 それは何よりだ。 あのレッケンベル騎士団長の血を継ぐ娘だ。 きっと未来は英傑になるであろう。 「では、遅れたが、我らが英傑レッケンベル騎士団長に献杯を」 「そして未来の英傑、ニーナ様に乾杯を」 ヴィレンドルフ武官と文官の二人は杯を合わせ、そのエールを一気に飲み干した。 第29話 欠陥品のカタリナ 私が――ファウスト・フォン・ポリドロが和平交渉へ向かう事を、アナスタシア第一王女と約束してから一か月が経過した。 そして、ついに待ちかねた鎧が完成したのだ。 それまでは鍛冶場に日参していた。 マルティナには結局、暇すぎるので、毎日剣術鍛錬を施していた。 「どうでしょうか、第二王女相談役ポリドロ卿」 イングリットの声。 少々狭い視界のグレートヘルムの中から、その顔を見る。 やはり視界が狭い。 だが、頑健である。 試しに自らのグレートソードでバケツヘルムに一撃くれてみたが、ビクともしなかった。 宮廷魔法使いの魔術刻印は、良好にその働きをもたらしているようだ。 その宮廷魔法使いが、私に歩み寄る。 「ついでだ、これもくれてやるよ」 馬具、と見て良いだろう。 馬の鞍のような、それでいて我が愛馬、フリューゲルの身体を覆い尽くすかのような幅広い厚手の布。 それにはビッシリと魔術刻印が記されている。 馬鎧のような頑丈さを感じる、真っ赤な厚手の布であった。 「お前の馬、放牧されてるのを観に行ったんだよ。フリューゲルと言ったか。あれは本当にいい馬だった。いざという時は、その布がお前の馬を守ってくれるだろう。大事にしろよ」 全身鎧の板金に、半月で魔術刻印を刻んで暇してると思ってたが。 我が愛馬フリューゲルの装備を整えてくれていたのか。 すまん、女魔法使い。 口悪くてやたらキレてるから、貴女の事を心から誤解していた。 私は女魔法使いに黙って頭を下げる。 これで、装備は私の分も、フリューゲルの分も、完璧に整った。 なお、フリューゲルであるが、現在は王都の外の牧場内に放牧され自由に駆け回っている。 すぐにでもアスターテ公爵領に、繁殖のため送ってあげたかったのだが。 今回の和平交渉が優先である。 繁殖に送るのはその後だ。 見栄えの良い馬くらいならアスターテ公爵が用意してくれたであろうが、じゃあそれが愛馬フリューゲルを超えるかとなると、私にとってはあり得んので仕方ない。 「だが、そのバケツヘルムはやはり無いな。まあフリューテッドヘルムもこの後作るんだが……」 やはりイマイチであるか、この兜。 いや、グレートヘルムが格好悪いのではない。 フリューテッドアーマーとの兼ね合いが、イマイチ、何かバランスが合わないというべきか。 不釣り合いなのだ。 でも、良い装備だぞコレ。 視界が狭い以外は、頑丈さも完璧だし。 「私は気に入ったのだが」 「いや、やはりちゃんとした兜も作るよ。アンタが旅だった後にだけどさ」 女魔法使いがそう呟いた。 それが無駄にならない事――レッケンベル騎士団長の仇だ、と言わんばかりに私が殺されない事を祈っていてくれ。 まあヴィレンドルフの文化的に、それは無い事は重々承知しているのだが。 何事も例外はある。 その覚悟はしておくべきだ。 「皆、お疲れさま」 私は心の底から、鍛冶師の全員、女魔法使い、商売も忙しいであろうに一か月付き添ったイングリット、そして今、大の字になって地面に寝転がっているマルティナに声を掛けた。 「ようやく、この地獄の日々が終わるのですか?」 マルティナが声を挙げた。 剣術鍛錬で、疲労困憊の声であった。 楽しい日々だったろ。 私は少なくとも楽しかった。 マルティナを虐めることがではない。 この子、成長速度が異常に早いのだ。 聡いだけではない。 次の日は、私の裏をかくように新たな攻め方を、その試行錯誤を繰り返しながら挑んでくる。 そこらの雑兵、山賊どもを相手どるより私にも勉強になった。 僅か9歳の身でありながら、だ。 マルティナは大成するぞ、カロリーヌ。 私はかつて自分が破った、今は――きっと天国にもヴァルハラにも行けなかったであろうマルティナの母、カロリーヌに呼びかける。 お前の事は別に好きではないが、その遺言、死に際に名を呼んだ娘であるマルティナの事だけは任せておけ。 必ずや騎士として大成させてみせる。 そう誓う。 「すぐ旅立つのですか、第二王女相談役ポリドロ卿」 イングリットが恭しく、声をあげる。 「いや……さすがに一週間は休ませてくれ」 正直、疲れた。 まあマルティナの相手以外に何をしてたわけでもないし。 領民は下屋敷にて待ちくたびれているであろうが。 第二王女ヴァリエール様への報告と、その親衛隊の準備の確認もある。 後者は心配していないが。 一か月も有ったのだ、準備は万端であろう。 それに、我が愛馬フリューゲルだ。 牧場から私自ら連れ戻し、相手をしてあげなくてはならない。 自由にしてあげていたと言えば聞こえはいいが、私の手自らの世話もほったらかしにしていたのだ。 機嫌を損ねていないだろうか。 「その後、旅立つとしよう。ヴィレンドルフ王都へ向けて一路前進だな」 「行進ルートは?」 「何故、そのような事を気にする?」 私は疑問に思う。 イングリット商会の気にするような事ではあるまい。 「いえね、もし和平交渉が成り立てば、最低10年は巨大な交易路が確定するわけですよ。先んじて、そこを確保したいという考えは、商人として間違ってますかね」 「交渉失敗の可能性もあるぞ」 「これは投資です。失敗を恐れて投資はできませぬ。可能であれば、行進に付き添わせて頂きたいと」 イングリット商会の長が語る。 例え失敗しても、私はその損害を補填せんぞ。 それでいいなら好きにするがいい。 私はそう考えながら、静かにため息を吐いた。 ※ 「箝口令を解いたか。よろしい。確かにこのタイミングだ」 「このタイミングですな。アンハルト王国のモヤシどもに、ファウスト・フォン・ポリドロを使者として送る事を譲歩させましたから」 ヴィレンドルフ戦役、その戦場にいた者には箝口令を敷いていた。 特に、ファウスト・フォン・ポリドロのその目撃者には。 それはレッケンベル騎士団長の名誉のためでもなく。 国民が、ファウスト・フォン・ポリドロという男の実像に惑わされるためでもなく。 たった一つの要求。 ファウスト・フォン・ポリドロを和平交渉の使者として送らせる事、そのためだけにだ。 「こちらの要求、それが相手側に読まれては、それを起点とした譲歩を迫られる。その点はよかった。確かに、もはや箝口令の必要はない」 「相手から言いだせば、弱みにはなりませぬからな」 二人。 ヴィレンドルフの王の間。 その王座に座る、ヴィレンドルフ女王。 齢にして22歳。 そして、王座の前に立つ老婆。 ヴィレンドルフの軍務大臣であるそれが、上手くいったとばかりにカラカラと笑う。 「お前の手腕を認めよう。箝口令を解いたのも、確かにこのタイミングでよい。これによる我が国民の変化は?」 「英傑詩が真実であった、いや、ファウスト・フォン・ポリドロという男が、それ以上の玉であることを認めることになりましょう」 「これにより、ファウスト・フォン・ポリドロへの国民の暴発は防げるか?」 ヴィレンドルフ女王が、やや慎重に尋ねる。 軍務大臣である老婆は、またカラカラと笑った。 「元々、その可能性は低いのです。我が国民の気性に合いませぬ。まして、これ以上ないくらいに正々堂々とレッケンベル騎士団長を討ち取ったと知った以上、暴発することは我らが英傑レッケンベル騎士団長の名誉を汚す事になります。これにより、国民の暴発の可能性はゼロとなりました」 で、あろうな。 レッケンベルよ。 私は悲しい。 お前が死んで、齢20にして産まれて初めて「悲しい」という感情を知った。 なんという感情を味わわせるのだ、レッケンベルよ。 私はお前が死んだと聞いた時、騎士団が慣れない敵地の野原で必死に花をかき集め、丁重に包んだその首がまず送り付けられた時に。 そして鎧を着たままの遺体が引き続いて届いた時に。 産まれて初めて、人目も憚らず泣き喚いたのだ。 私が5歳の時、お前はまだ15歳であったよな。 諸侯でもなく、領主騎士ですらない、官僚貴族の軍人の相談役。 その時は騎士団長ですらない、一軍人。 ただの世襲騎士、武官の一人。 それがお前であった。 私はその時、兵すらロクに持たぬお前に失望すらしなかった。 所詮、第三王女に与えられる相談役などこのようなものであろうと。 「……レッケンベル」 その名を呟く。 お前はこのような、人としての欠陥品。 他人の抱く感情というものを、よく理解できない人間。 父にすら愛されず、母すら産まれた時に、その出産で殺した出来損ないの第三王女に、良く尽くしてくれたな。 母親殺しの第三王女と呼ばれたこの私を、一切見下す事などなく相談役として仕えてくれた。 何故なのであろうな。 人として欠陥品の、私ではよく判らない。 未だにお前の真心が、私にはよく判らないのだレッケンベルよ。 死してからこそ、思う。 もっと、お前の話を聞くべきであった。 もっと、お前に話しかけるべきであった。 お前の軍事的功績。 略奪者たる遊牧民族達を、族滅に追い込んだ事。 お前の政治的功績。 第三王女に過ぎぬ私を、ヴィレンドルフ女王にまで押し上げた事。 お前の輝かしい功績。 それらは私には、正直どうでも良いことであったのだ。 私にとって必要だったのは、ただかけがえのないお前という存在だ。 「嗚呼、レッケンベルよ。何故お前は死んだのだ」 「憎みますか、ファウスト・フォン・ポリドロを」 「判らぬ。憎しみという感情など知らぬ」 軍務大臣の言葉に正直に答え、またレッケンベルに想いを馳せる。 お前が判らぬよ、レッケンベル。 超人たるお前であれば、英傑たるお前で在れば、もっと賢い生き方が出来たはずだ。 ヴィレンドルフの価値観、誰もが前線を駆ける英傑たれと望む価値観。 それをお前は持っていた。 だが、私は持っていなかった。 だって、私は欠陥品だから。 なのに、何故あれ程までに優しくしてくれたのだ。 何故、あれ程までに尽くしてくれたのだ。 私には判らぬ。 もっとちゃんと言葉で言い聞かせてくれなければ、判らぬではないか。 私は愚かなのだ、欠陥品なのだ。 理屈ならば判る。 だが、お前の行動は利益という理屈ではなく、愛情という感情の名のそれを持って私に示していた。 そう、お前の一人娘のニーナ嬢からも告げられた。 貴女は母、レッケンベルから愛されていたと。 私はそれにふさわしくない、愚か者なのだ。 何故、あの時、遊牧民族の討伐により余裕が出来た余剰を持って、アンハルト王国への進撃を認めてしまったのか。 「では、この老婆を憎みなさるか。カタリナ様。ヴィレンドルフ女王、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ様。アンハルト王国侵攻を進言したのは私めであります」 「決定したのは私だ。その決定をお前に押し付けなどするものか」 理屈で答える。 最高責任者である、女王である私に責任が求められる。 レッケンベルが死ぬなど、誰が予想できた。 未だあの東方から北方沿いにやってきた遊牧民族達に手をこまねいて、アンハルト正規軍の大半をそちらにやっている。 もはや公爵軍の常備兵500しか、ヴィレンドルフ国境線には向けられぬと知って。 それを英傑レッケンベルが倍軍の1000を率い、前線指揮官として務めるのだ。 誰が負けるなどと予想できた。 理屈で言えば、負けるなど有り得ないはずであった。 だが負けた。 ファウスト・フォン・ポリドロという、ただ「武」という名の一文字を以って、レッケンベル騎士団長を一騎討ちにて討ち果たした男により。 そして、アナスタシア第一王女という戦略の天才と、アスターテ公爵という戦術の天才、二人の英傑の手によって。 何故負けた。 我々は、決して弱くなどなかった。 だが負けた。 現実は受け入れなければならない。 アンハルト王国は強い。 同じ選帝侯の立場である、そもそも弱くは決してない。 それは理解していたのだが―― 「この老婆、イザという時の敗戦の責任を取る覚悟はできております。この場にて美味しいワインを飲めと言うならば、その覚悟も」 「毒入りワインなど、アンハルト王国の文化ではないか。わが国ならば、その腰の懐剣で喉を掻き切って死ね」 「それゆえ、屈辱なのでありますよ。それを受ける覚悟もできております」 もうよい。 老婆の戯言に飽いた。 我々は負けた。 それが結論だ。 戦略を、一度最初から見直す必要があるのだ。 レッケンベル騎士団長の損失を、もう一度我が国家は見つめなおす必要があるのだ。 そのためには。 「ファウスト・フォン・ポリドロという人物を一度拝む必要がある」 「その人物を通して、アンハルト王国を眺めますか」 「あの国では、ファウスト・フォン・ポリドロという英傑が軽んじられている風潮がある。なれば重畳」 ぐっ、と握り拳に力を籠め、軍務大臣の眼前に差し出す。 「取り込んでしまえばよい」 「そう簡単にいきますかな? 相手は先祖代々の領地と領民に執着を持つ、領主騎士でありますぞ」 「ポリドロ領は我がヴィレンドルフの国境線に近い。そこまで攻め込めば嫌とは言うまい。いや、言えまいよ」 敵方の詳細な地図。 それはヴィレンドルフ戦役時に入手した。 あのファウスト・フォン・ポリドロの領地は国境線に近い。 ファウストの弱点は掴んでいる。 「逆に、ファウスト・フォン・ポリドロという人物が重用されていると感じれば?」 「アンハルト王国にも見るところがあるということだ。再侵攻を断念することも考えよう」 そもそも、レッケンベルの損失がやはり大きい。 遊牧民族もいずれレッケンベルの不在を知れば、再度北方からの略奪者がまたやってくるであろう。 だから。 「まずはファウストという玉を通して、アンハルト王国を見極める。話はそれからだ」 「そうでございますな……」 カラカラ、と老婆がまた笑った。 ヴィレンドルフ女王、カタリナは笑えない。 喜びという物を良く知らないのだ。 だが、老婆の笑いに応えるため、愛想笑いするように、顔を無理やり歪ませた。 第30話 ザビーネを殴ろう 「私のポリドロ卿が会いに来てくれない件について」 「知らないよ」 安酒場。 貧民街に近い安酒場、第二王女親衛隊が酒樽一つ買い切って貸しきりにしている、その酒場にて。 第二王女親衛隊隊長、ザビーネは憤っていた。 「女と男として親しい関係もって言ったんだよ、私は! そしてポリドロ卿もこれからもよろしくって言ったんだよ!」 「もー、耳が腐るほど聞いたよその話は」 憤るザビーネ。 だが、それに対する親衛隊たちの反応は冷たいものであった。 酒に酔い、机に顔を突っ伏しながら、手だけを上げて横に振る。 「いや、そもそも、ヴァリエール様の昨日の話聞いてた? 壮行会はこれから行うって。まあ、王宮の一室でささやかに行うものらしいけど。ヴァリエール様とポリドロ卿、そして第二王女親衛隊だけでささやかに」 「聞いてたさ。だが、一か月も前から、ポリドロ卿は王都に滞在しているではないか。一度くらい顔を会わせてくれてもいいではないのか?」 「なんか、ヴィレンドルフ対策でポリドロ卿に惨めな姿をさせるわけにはいかないって、フリューテッドアーマーの製作に忙しいって聞きましたよ。ずっと鍛冶場に詰めてたとか。製作費は全額、第一王女の歳費から出るそうです。羨ましい」 まだ酔いつぶれていない、親衛隊の一人が声をあげる。 この話は、王宮の侍童が喋っているのを小耳にはさんだものだ。 つまり、新情報である。 「その話、知らない。いつ聞いたの」 「ごく最近です。その侍童、ポリドロ卿の筋骨隆々の姿を嘲笑っていたのでヴァリエール様に報告しておきましたが」 最近、ヴァリエール様と第一王女アナスタシア様は仲がいい。 ヴァリエール様から、その侍童については報告が行き、おそらくアナスタシア様はその侍童を派遣した領地に激怒とともに叩き返すであろう。 いい気味だ。 そんな事を考えながらも、親衛隊の一人はザビーネの言葉に耳を傾ける。 「早く言ってよ! それ知ってたら、鍛冶場に押しかけてたよ! 相談役として与えられてる下屋敷を尋ねても、領民はどこに行ったのか口を濁すしさ! 私、これでも第二王女の親衛隊長なのにだよ!」 「いや、知ったの最近ですし。そこを押しかけて邪魔するのも悪印象では? 鎧の製作となると、鍛冶師の秘事、その隠している技術にも触れますし」 鍛冶場に詰めて、ポリドロ卿が何をしてるのか判らないが。 ひょっとしたら忙しいのかもしれないし。 その状況に押しかけて行ったら、好感を持たれるどころか逆効果ではないか。 そう親衛隊の一人は考える。 実際には、暇で暇で仕方なかったファウストは、ロケットオッパイであるザビーネの訪問を歓迎したであろうが。 それは第二王女親衛隊の誰にも判らない。 「私はどうすればよかったのだ?」 「何をするにも今更では? というか何がしたいのですか?」 「ナニがしたい。つまりエッチだ。この一か月で享楽的な関係を結びたかったのだ」 アホだコイツ。 親衛隊の一人は、会話するのやめようかなと思った。 我ら第二王女親衛隊14名。 男と縁など無い。 そもそも、相談する相手が間違っているのだが。 まあ、他に縁も無し。 この手の話を未だ14歳であるヴァリエール様に相談するのも間違っているであろう。 以前、高級売春宿に通うための料金を、そのヴァリエール様の歳費にタカろうとしたがな。 まあ、それはとりあえずいい。 今は地団駄を踏む――ザビーネは自分の考えることが上手い事進まないと、このような行動にでる。 酷い時には地面を転がる聞かん坊である。 まるでチンパンジーである。 パパとママはしっかり躾をしてくれなかったのであろうか。 ……されてないな、この第二王女親衛隊全員が。 誰一人としてマトモな騎士教育を受けていないはずだ。 悲しい話だ。 だが、ここまで醜くはない。 ザビーネほど醜くはない。 親衛隊の誰しもが、自分はアレよりマシと思っていた。 「とにかく、私はポリドロ卿とエッチがしたいんだよ!!」 「知らねえよ」 酒を未だに飲み続けている、親衛隊の一人が答えた。 「相談する相手が間違ってるんだよ。ここに居る全員が恋愛経験のない処女だよ。何が言いたいんだよ」 「ヤラせて欲しいんだよ!!」 「聞けよ。せめて相談してるなら話聞けよ」 ザビーネは、話を聞かない。 床に寝転がりながら、足をじたばたさせている。 大分酔ってるなあ。 それにしてもザビーネ、ポリドロ卿みたいな男がタイプだったのか。 いや、そうと知ったのは実際に話してみて、あ、この人と気が合う、となんとなく直感だったらしいが。 ザビーネの求める、エロエロで退廃的な日々が、あの生真面目なポリドロ卿と送れるものだろうか。 はなはだ疑問である。 まあよい。 ともあれ、我々は鎧を新調したポリドロ卿と一緒に旅立つわけであるが。 「ザビーネさあ、ヴィレンドルフで何が起こると思う?」 「何だ、突然」 「あの国さあ、男に対する価値観が私達と全然違うじゃん」 線は細く、背は小さく、大人しい。 アンハルト王国に見られる、男の好まれる特徴。 それとは真逆。 身体は筋骨隆々、背は高く、性格は猛々しく。 ヴィレンドルフ王国に好まれる男の特徴。 ポリドロ卿はその全てを満たしている。 おまけに、顔は決して悪くない。 むしろ顔はいいんだ、顔は。 アンハルト騎士の、国民の一人としては、どうしてもポリドロ卿は好みのタイプとはいえないが。 いや、言い訳のように言うが、我が国きっての英傑だとは認めているぞ。 性格の良さも認めている。 だが、ともあれ、前述したようにだ。 「ヴィレンドルフ王国では、ポリドロ卿、ガチでモテるよ。しかもあの国の英傑レッケンベル騎士団長を正々堂々討ち果たした男。非の打ち所がない、傾国の男だよ。どうすんのさ」 「どうすんのさ、とは」 「いや、ポリドロ卿奪われてもいいの? 別に今のところ、アンタのじゃないけど」 一騎討ちの求婚。 レッケンベル騎士団長がそうしたように、それをなぞっての一騎討ちが大量に挑まれることになる。 いや、それに負けるポリドロ卿ではないが、単純に口説きにかかる女もいよう。 ほっといてもいいのか? そう尋ねるが。 ヒラヒラと、床に寝転がったままザビーネは手を振る。 「アスターテ公にいくら愛人にと望まれたところでそれを断ってる男が、敵国ヴィレンドルフに口説き落とされる? 考えが甘いよ」 「というと?」 「ポリドロ卿にとって最重要なのは、先祖代々の領地と、自分に命がけで従ってくれる領民。その二つ。それを奪おうとする奴なんか、誰も許さないよ。ヴィレンドルフの人間が、それをどうやって保障できるのさ」 ザビーネは、よっこいしょ、という言葉と共に立ち上がる。 「ま、ヴィレンドルフ女王クラスであればできるのかもしれないけどね」 「出来る奴がいるじゃないか」 「ヴィレンドルフ女王が?」 はん、と鼻で笑いながら、ザビーネが答える。 「冷血女王カタリナ」 「?」 「ヴィレンドルフでの呼び名だよ。英傑レッケンベルとは違い、ヴィレンドルフでの、その評判は宜しくない。我が国のアナスタシア第一王女よりも冷血で――なにより恐ろしい、そう言われている」 コイツ、どうやって敵国の情報を抜き出しているのだろう。 自分も一応騎士の立場だが、そんな話聞いたことも無い。 ザビーネが我々三女や四女の出来損ないの集まりとは違い、実は長女であったという噂は本当なのだろうか。 確かに、教養だけはコイツ妙にあるのだ。 ちゃんと騎士教育に近い、何かを受けた節がある。 それが無ければ、演説などできない。 その性格故――家督を継ぐ見込み無しとして見捨てられた。 我が国の諜報を担う家系に生まれたという噂。 ……官僚貴族が宮廷にて漏らした、馬鹿馬鹿しい噂話。 その能力や諜報ルートは今でも生きているのだろうか。 だから、ザビーネは今でもあんなに情報通なのでは。 まあ、肝心のポリドロ卿の情報だけは今回手に入らなかったようだが。 「アレはヴィレンドルフではない。誉れを持たない。理屈でしかモノを解そうとしない何か。そう言われてるんだ。14歳の相続決闘にて当時20歳の長女を、その決闘に用いた刃引きの剣で喉を突き、地面に崩れ落ちたところで頭を蹴り殺した。まあ、幼いカタリナ女王を虐めていた陰険な長女で、才能には乏しかったそうだがね」 ザビーネは語る。 「更には、それを咎めた父親を殴り殺し、悲鳴を挙げて抑えにかかる決闘の見届け人達にこう述べた。この場で最も強い奴がヴィレンドルフを継ぐ、私はレッケンベルからそう教えられたぞ、と」 ザビーネは自分の杯に樽からエールを注ぎ、それをグビリと飲み干しながら。 また話を再開する。 「誰も二の口を継げなかったそうだよ。ヴィレンドルフの第二王女に至っては、相続決闘を勝ち目無しと自ら放棄した。ヴィレンドルフ女王、カタリナは狂っている。理屈だけで生きてるモンスターだ。母親殺しに父殺し、姉妹殺しの三冠達成者。そんな化物が、ポリドロ卿のような人間に魅了されるか? 私はそうとは思えないね」 「……私はその逆であると思うのだがな」 アスターテ公が我が戦友にして、太陽。 そう称する男。 何度も言うが、アンハルト王国の国民としては、男としての魅力は判りがたいのだが。 あの騎士としての心根の美しさには、第二王女親衛隊と相談役の立場から、少ししか触れ合いを持たない我らでも判るのだ。 ましてヴィレンドルフでは、絶世の美男子なのだろう。 案外―― 「ポリドロ卿という人間が、騎士が、化物の心を斬り殺してしまうかもしれんぞ」 「化物を倒すのはいつだって人間だ、か。騎士らしい言葉ではあるかな」 はん、とザビーネは鼻で笑う。 「とにかく、私のポリドロ卿がヴィレンドルフの女に心奪われる事は有り得ない。ポリドロ卿は実のところ女男の関係ではウブで、可愛い男と見たが、その心の奥底。根底だけは揺るがない。領地と領民だけは手放せない。ゆえに、敵国の女に心揺るぐなど有り得ない事――」 「……和平交渉の条件に、是非ヴィレンドルフの女をポリドロ卿の嫁にと望まれたらどうするんだ」 ピタリ、とザビーネが止まる。 それは想定してなかった、という顔だ。 「いや、そんなの有り得る?」 「絶対ではないが、超人の子からは超人が産まれやすい。優秀な子種が欲しいと、ヴィレンドルフが望み嫁を差し出し、出来た長姉以外の子をヴィレンドルフに譲る。そういう交渉条件の成立は有り得るのでは?」 「利敵行為じゃん。そんなのアンハルト王国が、ヴァリエール様が認めるわけないぞ」 ザビーネが、聞いて損したとばかりに顔をそっぽ向ける。 だが―― 「さて、どうだか。今回の交渉、正使はヴァリエール様だが……」 「実際の交渉はポリドロ卿だと?」 「違うか?」 ヴィレンドルフ戦役に参加したのはポリドロ卿。 そして第二王女相談役、ヴァリエール様の知恵袋もポリドロ卿だ。 ヴァリエール様は初陣を通して、成長なされた。 アナスタシア様とも和解され、今ではアナスタシア様自らがヴァリエール様に教育を施すようになったとも聞く。 だがしかし。 「決してヴァリエール様の事を貶める訳ではないが。実際の交渉はポリドロ卿が執り行う。相談役として後ろから口を挟む、それは事実だろう? そして、アンハルト王国の状況は、一騎士の私から見ても良くない」 「ポリドロ卿が、或る程度の条件ならば、和平交渉のためならそれを飲み込むと?」 「宮廷の空気、悪くないか? 馬鹿な私でもそれを肌で感じるぞ」 親衛隊の一人、それがゆえに一代騎士に過ぎぬが王宮への登城権を持つ私、それですら、宮廷の空気が悪いのを感じるのだ。 ヴィレンドルフへの再侵攻の不安視。 今度こそは万全の体制で迎え撃つ、とはいかないのだ。 未だ遊牧民族との、北方での戦争は治まらぬ。 それが解決しない限り、またアスターテ公爵の常備軍500で迎え討つ事になりかねない。 いや。 「今度は、我々も第二次ヴィレンドルフ戦役に参加させられるかもしれないな。そして死ぬかも」 「……だからといって、ポリドロ卿が、いや……あの男は口でなんだかんだ言っても、他人のために身を削ってしまうタイプか」 「ザビーネほど飲み込めていないが、そういう性格な気がする」 ザビーネは頭を抱える。 「私はさあ、ポリドロ卿とエッチがしたい、ただそれだけなんだよ」 「知らないよ」 また話が最初に戻ったぞ。 酒入ってるしな、仕方ないね。 「享楽的な、退廃的なエッチだけの生活に溺れたい、ただそれだけなんだよ。一日三回は最低したいんだよ」 「知らないよ」 それザビーネの自家発電の回数じゃないのか。 「どうしてこの世はこんなにも儚い」 「あのさあ、物憂げにつぶやいてみても、現実は何も変わらないからね」 ともかく、ザビーネはヴィレンドルフを甘く見過ぎなのだ。 ポリドロ卿の貞操が、あの蛮族の、ポリドロ卿こそ理想の男性と崇める国でどうなるか。 どんな運命を辿るのか。 それはまだ、誰にも判らない。 第二王女親衛隊の一人はそんな事を想い。 「それはそうとお前等全員恋愛経験ゼロで、まだ処女なんだよね。私はお互い恋する人が出来たよ。ポリドロ卿っていうの。羨ましい? ねえねえ、羨ましい?」 「黙って死んでろ」 挑発してくるザビーネを一発殴ってやろうと、親衛隊13人全員が椅子から立ち上がった。 第31話 心を斬れ 本日はアンハルト王国王都、出立前の最後の日となる。 ヴィレンドルフ和平交渉のための壮行会。 第二王女ヴァリエール、そしてその第二王女親衛隊、そして私ことファウスト・フォン・ポリドロ。 その16名で壮行会がささやかに行われる。 はずであった。 が。 「何故おられるのですか、お母様」 「逆に、何で来ないと思ったのですか? 大事な国事を前に、貴女達に対して何も無しというわけにもいかないでしょう」 そう答えながら、リーゼンロッテ女王はワインを口に嗜む。 さすがにクローズドな場ではないので、いつものスケスケなシルクヴェール一枚の姿ではない。 ちゃんとドレス姿で正装している。 背中を開けたオープンバックドレスのうなじが私を誘惑してくるが、ちゃんと前は閉じている。 私はおっぱい星人である。 うなじには耐性があるのだ。 ちゃんとうなじ注意ヨシ!と魔法の指差し呼称確認を心中で呟くと、全てはするりと片付きまする。 でもおっぱいだけは駄目だ。 アカンのや。 私はその巨乳にチンコを痛くしない事に、安心をする。 「しかし、ヴィレンドルフ対策は姉さま――アナスタシア第一王女に一任していたはずでは」 「もはやその状況ではありません。確かにアナスタシアの面子を潰す事になるため、表向き言葉を挟むのは控えてはおりましたが、そんな状況ではないのです」 リーゼンロッテ女王は、その妖艶な目で私を見た。 「ファウスト・フォン・ポリドロ」 「はい」 「この交渉一つ潰れたところで、我が国は滅びません。ですが、ヴィレンドルフの侵攻が再び始まれば、ヴィレンドルフ国境線の多くの地方領、ポリドロ領を含めて切り取られる恐れがあります」 理解しているよ。 だから受けたんじゃねえか。 こんなの詐欺だぜ。 脳裏にいくつもの悪態が思いつくが、アンハルト王国としてはやることやってるので文句は言えない。 それでも打てる手がこれしかなかったのだ。 この交渉を成功させたときの高額な報酬も、私の新品のフリューテッドアーマーも、全てはそのために準備されているのだ。 「ヴァリエール、この交渉を成功させたなら、貴女の親衛隊全員の昇位も考えております」 「本当ですか、お母様!?」 「さすがに一か月、帰り道含めて二か月も経たないでの更なる昇位は財務官僚が五月蠅いので、一年経ってからの約束手形になりますがね」 その宣言を聞き、歓声を挙げるのはさすがに女王の前で失礼、と大声を上げようとしたザビーネの口を押えに掛かる親衛隊たち。 よかったな、第二王女親衛隊。 それでだ。 褒美の約束は増やしてくれても別にいいんだが。 「ポリドロ卿、ヴァリエール、話が有ります。少し壮行会から席を外して、私の居室まで来なさい」 ほら来た。 厄介事の雰囲気だぞ。 いや、交渉条件の打ち合わせか。 現状、アスターテ公が攫ってきた少年の返還、それ以外は手土産無しで行けと無茶言われてるんだが。 リーゼンロッテ女王には何か策があるのだろうか。 三人して、リーゼンロッテの居室に足を進めようとする。 警護の兵を呼ぶ必要は必要ないか。 女王親衛隊の二人の気配が、チラリと廊下から感じ取れた。 ともあれ飲み食いを我慢している親衛隊に「先に始めておきなさい」とだけ声を掛け、リーゼンロッテ女王は歩き始める。 それに、ヴァリエール様と私も続くことにした。 廊下に出る。 「居室に着くまで、肝心な話はしませんが。そうそう、世間話でもしましょう」 「はあ」 リーゼンロッテ女王とその親衛隊の二人、それが先頭を歩きながら、私とヴァリエール様に話しかける。 リーゼンロッテ女王のからかい声。 「貴女達、まだ純潔? まあ聞かなくても知ってますけど」 「放っておいてください」 「同じく」 ヴァリエール様は14歳。 侍童を食い散らかすにはまだ早い。 そして私は22歳。 いいかげん結婚しないと、この中世ファンタジー世界では拙い年齢。 まあ、女のそれと違って、男の年齢条件は割と緩いんだが。 領地の事を考えると、早く跡継ぎが欲しい。 特にポリドロ領の後継者は私一人で、私が死んだら即領地は王家に没収。 絶対に死ぬわけにはいかん。 早く、私の代わりに軍役を務められる。 もしくは、私が軍役に行く間、領地経営の出来る嫁を娶らねばならん。 「アナスタシアと言い、ヴァリエールといい、頑固ね。まあ、私も亡き夫と出会うまでは純潔だったけれど」 面倒臭いのよねえ、侍童に手を出すのも。 各領地から、高級官僚貴族を誑し込むように採用枠に送られてきて、さらには王配の座まで狙っている。 中央に近づけば近づく程、各地方領主にとっては利益がある。 そうリーゼンロッテ女王が呟く。 ハニートラップ。 ハニトラ要因か。 その割には練度が低い。 先日も、私を嘲笑っていた事が第二王女親衛隊の一人にバレて、ヴァリエール様からアナスタシア第一王女様経由で伝わり、アナスタシア第一王女を激怒させ、領地に送り返されたと聞いたぞ。 王族に睨まれ、嫌われた侍童。 何が災厄をもたらすか判らない。 その侍童の未来は暗いだろう。 まあ、わざわざ侍童を各領地から雇用しているのだ。 男を侍らせる、その意味では宮廷ほど相応しい場所は無い。 しかし、私が笑われたところで何がアナスタシア第一王女を怒らせたのだろう。 まあ、ヴィレンドルフ戦役の戦友だしなあ。 あれでも、私の事を気遣ってくれているという事か。 眼力、すげえ怖いけど。 「亡き夫を、彼を、ロベルトを、夫に決めたのは見合いの釣り書きの第一印象じゃなかったのよねえ」 リーゼンロッテ女王の会話。 今は亡き王配の話。 ほんの少しだけ興味がある。 「彼もまた、侍童として宮廷に送られてきた一人だったわ」 「御父様は、公爵家出身なのにですか? 家に大切に育てられていたものとばかり」 「そうよ。公爵家出身で、家からハニトラなんか求められてもいない、筋骨隆々の姿の人だったわ」 だから好きになったのかもしれない。 そんな事を、リーゼンロッテ女王は呟く。 そして庭を指さした。 庭の一角に設けられた、美しいとしか言いようがないバラ園。 「ほら、私の夫が作り上げた、バラ園よ」 「あのバラ園、御父様が造り上げたのですか? 確か違う物と」 「夫が侍童として、宮廷に上がっていたのは二年に過ぎなかった。だから、やったのは基礎のみ」 ヴァリエール様の言葉に、リーゼンロッテ女王の頬が、緩む。 「私だけが知っていた秘密よ。アナスタシアも知らない。どうやら、公爵領にあったバラ園を再現しようと思ったけど、時間が全く足らなかったらしいのよねえ」 リーゼンロッテ女王が笑う。 「馬鹿な人。一応、宮廷には上がって侍童を務めたぞ、という実績作りに宮廷に務めただけなのにね」 罵りの言葉。 それには最高の愛情がこもっていた。 「私は、あの人が庭で、高級貴族の女を誑かすどころか、汗だくになって土や花を弄っている姿を見るのを、この廊下で眺めるのが何より好きだった」 リーゼンロッテ女王が、何かたまらない感情になったらしく、胸元を押さえながら目を閉じる。 「だから、私はあの人を夫に選んだ」 そして目を開き、憎々し気に呟いた。 「でも、殺された。この宮廷の誰かに、5年前に」 王配、ロベルト。 その名の続きには、おそらくかつては公爵家であるアスターテの名が、今ではアンハルトの名が冠されるのであろうが。 今はただのロベルトと呼ぼう。 それが、リーゼンロッテ女王と、今は亡き王配ロベルトへの敬意に繋がる気がする。 今でも、王宮では王配暗殺者の捜査が行われていると聞く。 同時に、女王もそれをすでに諦め、捜査の打ち切りを考慮に入れているとも。 5年か。 それだけ時間が経てば、もはや犯人は見つかるまい。 「……少し、気が変わりました。私の居室ではなく、バラ園で話をしましょう。人払いを」 「リーゼンロッテ様。代わりの警護は」 人払いを頼まれた、女王親衛隊の二人がやや疑問の声を呈するが。 「ポリドロ卿がいるでしょう? 無手でも2,3人の暗殺者に負けやしないわよ」 「ま、そうですね」 あっさりと納得した。 それなりに王家から私は、信頼されているらしい。 まあ、グレートソードこそ持ってないが、懐剣の一つは腰に下げているのだがね。 例え精鋭の暗殺者でも、10人までなら余裕で殺せる。 それがリーゼンロッテ女王やヴァリエール様を庇いながらでもだ。 「では、周囲の人払いをします。バラ園にお入りください」 「行きましょうか、ポリドロ卿、ヴァリエール」 リーゼンロッテ女王は、私達二人に声を掛けた。 その声に誘われる様に、庭へと降り、バラ園へと足を向ける。 黙って歩を進める。 フェンスのアーチをくぐり、入り込んだその中は。 ローズフェンスに彩られたそこは。 「美しい!」 思わず声をあげる。 花に興味など無かった。 前世でも、今世でも。 だが、これは――美しい光景というしかなかった。 赤いレンガが敷かれた道を包む、ローズフェンスのバラの花々には。 美しいの一言しか出なかった。 「気に入って頂けたようで、何より嬉しいわ」 リーゼンロッテ女王が、本当に嬉しそうに声をあげる。 「貴方は男だけど、花には興味なんて無いと思っていたから」 「……薬効のある花以外に興味はありませんでした。しかし、今日初めて純粋に花の美しさに興味を持ちましたよ」 ローズガーデン。 そこを歩くのは、前世でも今世でも初めてであった。 このように美しいものだとは。 「僅か100mばかりの散歩道。このローズガーデンにあるバラの小径を案内したいところだけど。それは話の後にしましょう。中央にガーデンテーブルがあるわ」 リーゼンロッテ女王に誘われ、中央に言葉通り設置されているガーデンテーブル。 そこに三人して腰を掛ける。 「ヴィレンドルフとの交渉、それは正直難航すると思うわ」 「……承知しております」 ヴァリエール様が、私の代わりに答える。 ああ、難航すると思うよ。 ヴィレンドレフ側に、和平交渉を結ぶ意思が最初からあるのかどうかすら疑問だ。 「最大の交渉点、英傑レッケンベルの首もファウストがその場で返してしまった」 「……申し訳ありません」 私が頭を下げる。 「いいのよ、返さなければ、それを取り戻そうと今頃ヴィレンドルフは死に物狂いでアンハルトに襲い掛かっていただろうし。貴方の判断は正しかった。それに……一騎討ちの遺体をその場で返還したことは、騎士の誉れよ。貴方の行動を咎める連中など、愚かな侍童くらいのもの」 レッケンベルの遺体が手元にあれば、和平交渉は容易く結べたであろう。 だが、それ以前に停戦自体が成り立たなかったであろう。 二人、妄想とすら言ってもいい、無駄な事を考える。 「話を戻しましょう。ヴィレンドルフとの交渉点。私は女王カタリナの心にあると考えている」 「心、ですか?」 「あの女は私と違って愛など知らない。貴方がローズガーデンの美しさを知らなかったように」 リーゼンロッテ女王は、私の美しい!、と口走ったその例えを口にする。 冷血女王カタリナ。 その逸話については、王家から情報が回って来ていた。 父殺し、姉妹殺しの二冠。 母親殺し――そう呼ぶのは違うであろう。 命がけの出産で母が亡くなったのを、ヴィレンドルフでは、そう呼ぶのか。 私は少し不快に思う。 未だ我が亡き母親への後悔は晴れない。 「ポリドロ卿。女王カタリナの心を斬りなさい」 「心を、ですか」 「そう、心よ」 私は少し戸惑いながら、返事をする。 「貴方の全てがアンハルト。それをカタリナ女王は上から覗き込む。そして判断するわ。戦争再開か、和平か」 「私個人の在り方が、そこまで関わるのですか?」 「関わるのよ。全てのヴィレンドルフは、貴方をアンハルト代表として見る」 リーゼンロッテ女王は、私の瞳をじっと見つめる。 その目は怖くない。 アナスタシア第一王女のあの眼力は、誰に似たのだろう。 父親ロベルトではあるまい。 隔世遺伝か? 「あの、お母様。正使は一応私なんですが。まあ一応なのは私も判ってるんですが」 おそるおそる、ヴァリエール様が手を上げ、批難の声をあげる。 「そこのところ踏まえて行動しなさい。そしてヴァリエール、貴女はとにかく殺されないように気を付けなさい」 「そこは死んでも役目を全うしろと言ってください。それがお母様の愛情なんだと最近判りましたけども」 ヴァリエール様がブチブチと呟く。 リーゼンロッテ女王は、優し気に声を掛けた。 「本当は、貴女をヴィレンドルフにやりたくないのよ。ファウストも……だけど」 私もやりたくないのか。 まあ、死ぬ危険性も僅かとはいえあるしな。 ヴィレンドルフの価値観で私が殺されるなどあるまいが、女王カタリナは違う。 ヴィレンドルフの異物だ。 どうなるかなど、予想できない。 「ポリドロ卿。もう一度言います。女王カタリナの心を斬りなさい。交渉の突破点は、交渉条件などではない。その心のみにあります。レッケンベル騎士団長――家族のようなその存在を失ってなお、歪まず冷静さを保っている心を揺り動かしなさい」 「承知しました」 私はガーデンテーブルから腰を上げ、膝を折り、礼を正す。 心を斬れ? どうやってやんだよ。 お前の話抽象的すぎんだよ。 乳揉むぞ。 心中ではその無茶ぶりそのものな、リーゼンロッテ女王の台詞に、悩まされながら。 ファウスト・フォン・ポリドロはこっそり溜息をついた。 第32話 汝は英傑なりや? もう一度。 それも三か月も経たない内に、ここに来るとは思わなかった。 ヴィレンドルフ国境線。 アンハルト王国とヴィレンドルフ王国の境目。 それも、私があのカロリーヌを討ち果たした場所。 「ここで、私の母カロリーヌと、ファウスト様が一騎討ちをしたのですね」 「ああ」 背後。 私の背中にしがみ付き、フリューゲルに二人乗りしている少女。 マルティナの、感情の読めない言葉。 それにどう答えていいのか少し悩んだ後、静かに頷いた。 「我が母は強かったですか」 「弱くはなかった。超人に一歩足を踏み入れては居た人物だろう」 弱くはなかったのだ。 更には人望も有った。 カロリーヌ指揮下の領民は、殲滅されるまで、一人として逃げなかった。 最後の一兵まで死兵となって戦っていた。 戦場でも認めたが、一廉の人物ではあった。 何だろうなあ。 ボーセル領の末路、その内実、すれ違い、それを考えると、どこか虚しくなる。 カロリーヌは視野があまりに狭かった。 そして、何よりも運がなかったのだ。 何かの拍子一つで、今頃マルティナをボーセル領の後継者とする幸せな未来が待っていた。 そう考える。 「我が母は愚かでした」 「母親の悪口は言うもんじゃないぞ。我が領内でよければ墓だって――」 「ファウスト様は、優しすぎるのです。墓などいりませぬ。ファウスト様が、批難をされます」 だろうな。 愚かな言葉を呟いた。 売国奴の墓は立てられない。 立てたところで、その墓に名を刻むことは許されない。 死骸も、その墓の下には眠っていない。 だが、マルティナだけは。 「マルティナ。子供が母を貶すのは、正直心苦しい。止めてくれ」 「ファウスト様が、そう仰るのなら」 子供が、その母親を貶すのは、傍から見てて辛いものが有るのだ。 その咎が、子供に及んだ経緯があるにしてもだ。 私のワガママかな、これは。 いや、事実そうなのだろうな。 私はまた、虚しさを覚える。 「ファウスト様、先触れを済ませてきました」 従士長のヘルガが、息を切らせて帰ってくる。 ヴィレンドルフ国境線、その向こう側から。 「回答は?」 「ポリドロ卿の到着を、心からお待ちしていた、との事です。感触としては悪くありませんでした」 「そうか」 まあ、悪くないならば良い。 さて、と。 私は後方で馬車を何台も引き連れている、イングリット商会へ声を掛ける。 「イングリット! 馬車でマルティナを預かっていてくれ!!」 「ファウスト様、私は貴方の騎士見習いですよ? 常にファウスト様の御傍に」 「正直、子供と馬に二人乗りでは様にならん。納得してくれ」 マルティナは商会の馬車に、一時隠しておこう。 別に争い事になる心配はしていないが。 私の予想が確かならば、面倒事にはなる。 どの道、マルティナを背中に乗せているわけにはいかん。 「承知しました」 不承不承ながら、マルティナが頷いて馬から降りる。 フリューゲルが、マルティナがその身体から降りるのを補助する。 私はそのフリューゲルの首を優しく撫でた。 機嫌は直ったようだ。 この愛馬ったらもう、一か月放牧してたせいか、私の顔を見るなり突進してきて、顔を摺り寄せてきたが。 その後は私の服を噛んで引っ張って、地面に引きずり回そうとした。 悪かったよ。 本当に賢いな、フリューゲルは。 怒るお前も可愛い。 私が愛馬の可愛さに、現実逃避している間にも―― 「ファウスト。こちらの準備もオーケーよ」 ヴァリエール様が、声を掛けてくる。 第二王女親衛隊の準備も整ったようだ。 全員整列している。 「では、ヴァリエール様。我ら全員に行進の命令を」 「判ったわ。全軍、行進!」 ヴァリエール様と私。 その両名が馬を並べて先頭を進み、その背後を横一列に並んで、第二王女親衛隊と我がポリドロ領の領民達が進む。 更にその背後には、イングリット商会の、交易品を満載にした数台の馬車。 もう商売始める気なのか、イングリットよ。 そうそう、『アレ』はちゃんと大事にとって維持しているのだろうな。 私は『アレ』について思いを馳せる。 ヴィレンドルフ女王、カタリナへの贈呈品。 色々考えたが、これぐらいしか思いつかなかった。 カタリナ女王の心を斬り殺す方法など、全く思いつかん。 出たとこ勝負だ。 そんな思考をしている間にも、国境線の向こう。 騎士としては間違いなく第二王女親衛隊より、あちらの方が強い。 おそらくはヴィレンドルフ戦役経験者であろう。 そんな十数名のヴィレンドルフの騎士達が待ち構えていた。 「アンハルト王国正使、第二王女ヴァリエールである!!」 「アンハルト王国副使、ファウスト・フォン・ポリドロである!!」 名乗り。 国境線の前、数メートルまで近づいて、我々が名乗りを上げる。 が。 「ポリドロ卿! 兜を脱がれよ!!」 返って来たのは、ヴィレンドルフ騎士指揮官の名乗りではなく。 兜を脱げとの台詞であった。 「似合わぬか? これでも気に入っているのだがな!」 「似合わぬ。その巨躯、その馬、間違いなくファウスト・フォン・ポリドロ卿であろう!! だが、そのグレートヘルムは、その見事なフリューテッドアーマーには、余りにも似合っておらぬぞ!!」 カラカラとした、笑い声。 侮蔑の笑い声ではない。 友人の、少し間抜けな姿のそれを笑うような声であった。 私は苦笑する。 気に入ってるのになあ、このバケツヘルム。 視界狭いけど。 私は兜を脱ぎ、その下に隠された苦笑を見せる。 少し、ヴィレンドルフ側全員が黙り込んだ。 そして私の顔を黙って凝視している。 「よろしい! 全くもって宜しい! 英傑詩以上の美男子である!」 「アンハルト王国では全くモテんがな! 未だ嫁も来ぬ!!」 「ならば! 我が国に来ればよいのだ! ファウスト・フォン・ポリドロほどの美男子であれば、我が国の誰もが歓迎するぞ! 舌に生唾絡めて、領民全ての女が待っておる!!」 勧誘と来たか。 まあ、最初のやり取りとしては感触は悪くない。 なんか、指揮官が落馬しそうなくらい前のめりに身を乗り出し、私の顔を凝視しているが。 「そうだ、私などどうだ! 今の夫を捨てても良い!!」 「生憎、人妻には手を出さん主義だ!」 軽口をまだ続ける。 おそらく、この指揮官が先導してヴィレンドルフ王都まで案内してくれるのであろう。 ここで印象は良くしておきたい。 「残念! お前と会うのが我が夫と出会う前であったならばな。心の底から残念に思う!」 「夫は大事にすべきだぞ!」 「そうだな! だが惜しい!」 素直に諦めろよ。 本当に人妻は駄目なんだよ。 略奪愛は御免だし。 以前、レッケンベル騎士団長の第二夫人として求められたが、あの場合は緊急時だ。 そうそう、未亡人はアリだぞ。 むしろ興奮する。 どうでもいい、性癖。 それを考えながら、ファウストは愛馬フリューゲルを歩かせる。 「では、諦めてもらったところで、国境線に入らせてもらうぞ」 「待たれよ!」 指揮官が声を張り上げる。 そして、背後の全身鎧姿である騎士達に顎を向けた。 「ここに数名の、選ばれた志願者がいる。貴公が本物のファウスト・フォン・ポリドロ卿というのなら何の志願か判るな!」 やはり、そうくるか。 「ああ、判ってる。一騎討ちであろう? 刃引きの剣の用意は? 和平交渉で死者は出したくない」 「すでに二つ用意している。休憩時間は好きなように! 馬に乗るか、降りるかもそちらの希望! 但し、我が志願者が貴方を破りし時は、その者の夫となってもらいたい!! 我が国に来いとまでは言わん。しかし、長姉以外の子供は譲ってもらうぞ!! 未来のヴィレンドルフの英傑の子を!!」 宜しい。 全て予想通りの展開である。 馬は降りるか。 万が一にもフリューゲルに傷を付けたくはない。 まあ、新しく作られた馬具、まるで馬鎧のような魔術刻印総入りの赤い布に覆われた、フルアーマーフリューゲルが傷つく事など有りはしないと思うのだが。 念には念を入れておく。 「ちょっと待って! ファウスト、この勝負受けるつもり!? 私達は和平交渉に来たのよ! それに、貴方が勝っても何も得る物が」 慌てるヴァリエール様。 事前に、こうなる展開が予想される事を話しておくべきであったか。 まあ、説明するのは先でも今でも変わらん。 「レッケンベル騎士団長」 私は一人の、ヴィレンドルフきっての英傑の名を口にする。 「ヴァリエール様。レッケンベル騎士団長は、あのヴィレンドルフ戦役において、有無を言わさず私を騎士団で取り囲み、殺す事も出来たのです。しかし、それはしなかった」 バケツヘルムを被り、その接合具を付け直しながら、ヴァリエール様に説明する。 「ヴィレンドルフの英傑だからです」 説明は一言だ。 たったそれだけの理由で、レッケンベル騎士団長は我が一騎討ちを受けた。 それが、ヴィレンドルフの文化、価値観であるがゆえということは知っている。 だが。 「私は、アンハルトの英傑です」 例え、この筋骨隆々の姿をアンハルト国民の周囲に侮蔑されようとも。 領民300人ぽっちの弱小辺境領主騎士であろうとも。 それだけはアンハルト王国の誰もが認める事実だ。 「相手が一騎討ちを避けなかったのです。私が避けて良い道理はないと考えます。これが和平交渉であろうとも、それがどんな時、どんな場所、どんな状況で在ろうとも。ヴィレンドルフ騎士との一騎討ちより、私は逃げない。もし逃げれば、ヴァルハラのレッケンベル騎士団長が、あんな男に私は負けたのかと嘆くでしょう。レッケンベルとの闘いは、私の誉れであります。これだけは譲れない」 「よくぞ!」 感じ入った。 指揮官が私とは逆に兜を脱ぎ、私の顔を凝視しながら、まさに感じ入ったという様子で絶叫する。 「よくぞ言ってくれた! まさに英傑詩の通りよ! 我らがヴィレンドルフに相応しき永遠の好敵手よ!!」 指揮官が、両手を広げて絶叫する。 そして、背後の騎士達に呼びかけた。 「お前等はあの美しき野獣に勝てぬであろう。それは判っている。だが、己に恥ずかしい闘いはするな!」 「承知!」 騎士達の内、一人が前に歩み出た。 私はグレートヘルムの接合具を嵌め、完全に兜を被り終える。 そして静かに歩み寄るヴィレンドルフの兵から刃引きの剣を受け取り、その具合を確かめる。 うん、悪くない。 これなら、手加減すれば殺さずに済むであろう。 「では、始めるとしようか」 ポンポン、とフリューゲルの腹を叩く。 愛馬フリューゲルは私の意を解し、やや不機嫌でありながらも、その身を私の近くから離した。 ※ 「これ、本当に和平交渉?」 「ヴァリエール様。ヴィレンドルフが相手と言うなら、この方法が正しいのでは?」 私の独り言。 その呟きに、背後にいる親衛隊長であるザビーネが答える。 丁度いい、一騎討ちが終わるまで会話しよう。 「野蛮、というのは少しだけ違うわね。でも、何か間違っている気がするのだけれど」 「違和感は感じますが、私のポリドロ卿が納得するなら仕方ありません」 いつからお前の物になったのか。 ザビーネの発言に若干の違和感、それを覚えながらも。 私はザビーネに再び問う。 「……いつから、ファウストと付き合うように? それを咎める気はないけれど」 「いえ、正確にはまだ付き合ってはおりませぬ」 それで私のポリドロ卿とかぬかしてたのか。 ザビーネのいつもの酷い妄想である。 私はそう見切った。 「ですが、この和平交渉の旅路で、一発ぐらいエッチに及ぶ機会はあるでしょう」 「そんな暇ないわよ」 本当にあるわけないでしょ、そんな暇。 ヴィレンドルフの連中に、警護の名の元に厳重に見張られる毎日がこれから続く。 ガツン、と板金鎧がぶつかり合う音。 私は相手の全身鎧にその身をぶつけ、組打ちに持ち込んだファウストを見やる。 ファウスト、格闘術もできるのか。 というか、あの2mを超える巨躯ではそれ自体が武器か。 相手はひとたまりもあるまい。 「あ、投げた」 「投げましたね」 ファウストが、全身鎧を装備した身長180cmに近い敵女騎士を、勢いよく投げ飛ばした。 背中を強打し、身動きが取れないでいる敵騎士。 ファウストはその騎士に歩み寄り、カツン、と首元に刃引きの剣を軽く当てた。 「勝者! ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 敵指揮官が勝敗の結果を下す。 ファウスト、初陣の現場にて嫌というほど判ってはいるけど強いなあ。 2mの巨躯、その外見以上の馬鹿力と、敵100名相手に50名以上を殺して回る体力オバケ。 一対一に持ち込めば、必ず負けないと本人すら自負する、その神に与えられたような戦闘における才能。 果たして勝てる人間がこの世に存在するのだろうか。 「一騎討ちで負ける心配、はしなくても良さそうなんだけど……ファウスト、それがどんな時、どんな場所、どんな状況で在ろうともって言ったわよね」 「言ってましたね」 「この旅路で、こんな事が幾度も起きるの?」 まだ、国境線手前。 ヴィレンドルフに国境入りすらしてないのだぞ。 こんな事がヴィレンドルフ国内では何度も続くのか? ヴァリエールは憂鬱に、ため息を吐いた。 第33話 空虚な王座にて 「何をやっているのだ」 イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフこと。 ヴィレンドルフ女王カタリナは言葉を紡いだ。 国境線の騎士共が勝手な事をしているのだ。 「相手は和平交渉に来たのだぞ。理解しているのか。いや、理解していてこのような事をしているのか」 「理解していてやっております。最初の一騎討ちは誠に勝手な判断と言えますが」 老婆。 軍務大臣のそれが、冷静に答える。 「通信機――水晶玉の報告によれば、国境線の騎士達による一騎打ちの申し込みを受けた際、その口上にてファウスト・フォン・ポリドロが『それがどんな時、どんな場所、どんな状況で在ろうとも。ヴィレンドルフ騎士との一騎討ちに私は逃げない。もし逃げれば、ヴァルハラのレッケンベル騎士団長が、あんな男に私は負けたのかと嘆くでしょう』と。それゆえの騎士達の暴走です」 「レッケンベル、か」 その名を聞くたびに泣きそうになる。 私は喜怒哀楽と呼ばれる感情の内、唯一『哀』の名を知った。 それが抑えられなくなりそうになる。 「仕方ないのか」 「仕方ありませぬ。その口上を聞いた時点で、もはやこれはヴィレンドルフの国中に伝えねばならぬ、と記録係が魔法の水晶玉を使い、各地にその記録を伝えました。記録係の騎士といえどもヴィレンドルフの騎士」 「舐められてはならぬ、という事か?」 私には理解できぬ。 素直に、想定を軍務大臣に尋ねる。 「その全く逆です。もはや、この口上を聞いて、立ち上がらなければ失礼に当たる。ヴィレンドルフの全てを受け入れてくれたファウスト・フォン・ポリドロに報いねばならぬのだ。その心構えで当たっております。そして、レッケンベル騎士団長への想いからです」 「レッケンベルへの想い?」 「レッケンベル騎士団長への追悼です。未だ誰もが、彼女の、英傑の死を認められずにいるのです」 騎士、兵、国民の多くが、レッケンベルの遺体を見ていない。 我が国の英傑であるのに、負け戦であるからと、定例通りパレード無しの葬儀をしてしまったからだ。 その野花に包まれた、いつものように糸のような細い目をし、うっすら微笑んだレッケンベルの死に顔を。 憤怒の騎士の猛攻により、鎧に多くの刃跡を刻みつけられた、その戦場姿のままの遺体を。 レッケンベルよ。 私は悲しい。 私は既に、お前の死を認めてしまった。 そして、その葬儀にて、お前の一人娘、ニーナ嬢から与えられた言葉。 カタリナ女王は、母に確かに愛されていた。 その愛情が理解できない。 私は出来損ないだ。 お前無しでは、出来損ないの女王なのだ。 私はもはや、お前の死を悲しむだけの存在になりつつある。 その残火はただ、冷血女王カタリナの名の元に政務をこなすだけの生き物だ。 「ファウスト・フォン・ポリドロに挑むことがレッケンベルの追悼に繋がると言うのか」 「これほど見事な騎士に敗れたなら仕方ない。その納得を誰しもが求めているのです。ファウスト・フォン・ポリドロに誰もが挑み、誰もが負けねば納得に辿り着けないのです。死して二年を過ぎても、レッケンベル騎士団長は、あの英傑は、未だ皆の心の中に眠っているのです」 「納得、か」 ならば、私も納得しよう。 ヴィレンドルフとは、その騎士とは、その兵とは、国民とは、未だ、なのだ。 未だ英傑レッケンベルの死を受け止めきれずにいる。 ならば認めてもらおう。 放置すればよい。 「なれば、我が国ヴィレンドルフ騎士の全てに、ファウスト・フォン・ポリドロに対する一騎打ちの許可を与える。国境線の騎士達の暴走も追認しよう」 「宜しいのですか」 「それがヴィレンドルフなのであろう?」 理屈は理解できる。 そういう国なのだ。 感情は理解できぬが。 ヴィレンドルフとは、そういう国であるのだ。 ならば、それを追認しよう。 「ファウスト・フォン・ポリドロは今どこにいる?」 「国境線の一騎討ちにて、選抜された国境線の精鋭騎士6名を休憩無しに撃ち破り、その後入国。アンハルト国境線、前線指揮官の先導を元に……情報の遅れはありますが、続きを言っても宜しいでしょうかな?」 「構わぬ。水晶玉の通信にも、数に限界がある。王都までの道程の、全ての地方の領主が水晶玉を有しているわけではない」 コクリ、と軍務大臣が頷いた。 どうでもいいが、この老婆何歳なのだろうか。 私がレッケンベルと初めて出会い、それに立ち会った5歳の時から老婆な気がする。 まあ、本当にどうでもいいが。 「その王都までの進路、道程、ありとあらゆる小さな村、街、地方領主が持つ領地、直轄領、諸侯領その全てにおいて一騎討ちを行っております」 「結果は? 聞くまでもないが」 「全勝です。直轄領の代官、地方領地の領主、諸侯領、その領地の大小に関わらず、その土地を代表する全ての騎士と、選抜された騎士が挑み、それらを相手取って休憩無しの一騎討ちにて全勝を果たしております」 で、あろうな。 そうでなければ、レッケンベルに勝てるはずもない。 ああ、アイツは真の英傑であった。 「それで、彼女達は納得したのか?」 「これで納得したでしょう。嗚呼、レッケンベル騎士団長は確かに死んでしまわれたのだなと。やがてそれが国中に伝わり、誰もが納得せざるを得ないでしょう」 「そうか」 少し、悲しい。 ヴィレンドルフ戦役から2年と少し、それが経っても納得いかなかった騎士共が。 ついにレッケンベルの死を受け入れてしまった。 それが悲しい。 「今、ファウスト・フォン・ポリドロは幾度一騎討ちを行った?」 「68です。68戦68勝。情報は遅れておりますので、まだ現在進行形で増えておりましょうが」 「そうか」 ここに辿り着くまでに。 私の目の前、この私の座る玉座の眼前に辿り着く前に。 100戦100勝でもしそうな勢いだな。 「英傑とは何なのだろうな。何故、レッケンベルやファウストのような存在がこの世に現れるのだろうな」 「それは摩訶不思議、まるで魔法のような現象であります。まさに神が認めたと言わざるを得ません。但し、カタリナ様の挙げたその両名ともが、1000年に1度ようやく現れる逸材でありましょう」 「この選帝侯、ヴィレンドルフの100万を超える全ての領民から1000年に一度現れる、たった1人か」 それを失ってしまった。 レッケンベルの喪失は大きい。 あれで遊牧民族、略奪者共は情報を重視し、勝てない相手とは争わない。 だから、レッケンベルに族滅され、勢いを失った北方の遊牧民族達は攻め込まなくなった。 なれどレッケンベルの喪失を知れば、いずれ我が国への略奪を再開するであろう。 帝国。 神聖グステン帝国。 選帝侯たるアンハルト王国、そしてヴィレンドルフ王国が選挙権を有する、その帝国からの通達。 双方戦争を直ちに止め、北方の遊牧民族の族滅に協力せよ。 それは今まで、両国ともに無視してきた。 そんな事指図される覚えはないからだ。 我々の国の事だ、我々は好き勝手生きていく。 それで今までは良かった。 だが。 「神聖グステン帝国の報告、どう思う?」 「気になりますか、遠い遠いシルクロードの先、東方の事が」 「うむ」 神聖グステン帝国からの報告。 東方で一つの王朝が滅んだと聞いた。 滅ぼしたのは、遊牧民族。 より詳細に言えば、遊牧国家と言うべきか。 ともあれ、遊牧民族共が纏まり、国家と化し、一つの国を滅ぼした。 奴らは部族連合を組み、襲ってくることはままあったが。 遊牧民族同士でお互いに抗争し、いわば国家としての纏まりが無かった。 それが纏まったという。 考える。 考えよ、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ。 東方からその遊牧国家が我が国に襲い掛かってくる可能性は? 答えは否だ。 遠すぎる。 拡大には時間が、そう、時間がかかるであろう。 遊牧民族共はそう簡単に纏まらぬ。 が。 「遊牧民族はそう簡単に纏まらぬ。しかし、現実には纏まったから、王朝を一つ滅ぼした」 「纏まれば強いでしょうな」 「東方の大草原にて、水場の争いで永遠に殺し合い、豪雪、低温、強風、飼料枯渇、ありとあらゆる艱難辛苦に遭い、この世でもあの世でも地獄に落ちていれば良いものを」 厄介である。 遊牧民族が纏まれば、非常に厄介な存在となる。 神聖グステン帝国の報告は、おそらく事実であろう。 我が国にも数名、武将、東方の騎士とも言うべき存在が流れてきているのだ。 この国では、武力さえあれば、軍事的階級として認められると聞いた。 聞いたからこそ、滅んだ国から遥々西方まで来たのだ。 いずれ奴らはやってくる。 復讐がしたい。 と。 「神聖グステン帝国の報告は虚偽ではない。それは判っている」 「それをアンハルト王国は未だ知らぬでしょうな」 「あの国は身分制度が硬直化している。無論、魔法使いや超人は別としてだが……」 アンハルト王国に流れた武将など、一人もいないであろう。 国の内情を知れば、全ての東方の武将がこちらに集まる。 さて。 「この情報、事実東方の武将が流れてきている情報を、アンハルト王国に教えるか教えないか」 「……アンハルト王国が、神聖グステン帝国の報告を信じないほどに愚かでありましょうか」 「いや、そこまで愚かだとは思っていない」 信じてはいるだろう。 だが実感は湧かぬであろう。 我が国のように、東方の武将が、その武力によって名を為し、脅威を訴えない以上。 そういうものだ。 「さてはて、どうしよう」 「未だ、和平交渉にすら迷っている状況でありますからな」 「そうだな」 どうしよう。 言葉で迷いを口にする。 遊牧民族が、その遊牧国家がいずれアンハルトとヴィレンドルフの北方に押し寄せてくるのであれば、手を組まざるをえない。 だが、信頼のおけない味方、実力のない味方程厄介な物はない。 まして身内ではないのだ。 ヴィレンドルフ単体で立ち向かった方がマシかもしれぬ。 アンハルトを侵略し、地力をつけたヴィレンドルフにて。 「……やはり、ファウスト・フォン・ポリドロに全てが集約する」 「そうなりますか」 「私は、ただ待つ」 ファウスト・フォン・ポリドロをこの玉座にて待つ。 それだけだ。 この玉座の眼前にして、ファウスト・フォン・ポリドロという玉を見据える。 そして捉える。 アンハルト王国の今を。 それだけだ。 「カタリナ女王、それはそれとしてですが」 「何か」 「そろそろ、夫を……後継者を作ってもらわねば困ります」 またその話か。 私は後継者など作る気はない。 「まだ、姉が存命だ。夫も取っている。その子を我が後継者とすればよい」 「……あれは不出来です。カタリナ女王の母上は、それは見事な女王でございましたが、夫と長女、そして次女は不出来で御座います」 「私との相続決闘を拒んだ事が原因か?」 尋ねる。 長女と父はこの手で殺した。 次女は、長女とは違い、私に嫌がらせすることもない、ただただ凡庸な人間であった。 ふるふる、と首を軍務大臣が振る。 「不出来でございます。ただただ不出来でございます。カタリナ女王との相続決闘を拒み、命を惜しんだ事も多少は原因ではありますが……次代のヴィレンドルフ女王の母、それとしては余りに不出来で御座います」 「その子が有能という事もあるやもしれんぞ。あれでもヴィレンドルフ王家の血だ」 「子を奪い、カタリナ女王の元で育てれば或いは……」 そうすれば認めるという事か。 断る。 「断固として断る。そんな面倒は御免だ」 「ならば、せめて子を成されませ。夫を取らずとも構いませぬ。そこらの侍童を相手に純潔を切り捨てて」 「……」 私は沈黙する。 面倒だ。 それがゆえ、世間では珍しく22歳まで独身、純潔を保ったままでいるのだ。 私が男を愛する事などあるのだろうか。 きっと有りはしまい。 有りはしないのだ。 レッケンベルがもし男であったなら、と思うが。 それはくだらぬ妄想だ。 嗚呼。 何もかもが空虚だ。 私の世界には誰もいなくなってしまった。 レッケンベルよ。 お前がいなくなったことが、私は悲しい。 ただ悲しいのだ。 「嗚呼」 空虚。 もはや老婆の、軍務大臣の言葉すら届かぬ。 空虚な世界の、空虚な王座にて彼の男を待つ。 待つ? ひょっとして、私は何かを期待しているのだろうか。 私のレッケンベルを破った男に。 ファウスト・フォン・ポリドロに。 私は目を閉じ、老婆の嘆く声を無視したまま、玉座で少し眠りに就くことにした。 今はこの手に無くしてしまった。 レッケンベルとの、子供の頃の想い出を夢見られる事を祈りながら。 第34話 かくしごと 「いつまで」 ヴァリエール第二王女は、目の前の光景に呟いた。 鳴り響く剣戟音。 「いつまで続くの? これ」 「知りませぬ」 「いや、ファウストが原因なんでしょうが」 ファウストは私の問いに、すげなく答えた。 今、目の前で争っている騎士二名。 それにファウストは混じっていない。 今、目の前の騎士二人が争っている原因はファウストだが。 ファウスト・フォン・ポリドロに挑む一騎討ちの権利。 それを争って、目の前の騎士は争っているのだ。 「いい加減引け! 地方領主風情が! お前などポリドロ卿に挑むには地力が足らん!!」 「法衣貴族の、アンハルトのようなモヤシ騎士が。領地の全てを背負い、軍役を積んだ私に敵うとでも思うたか!!」 アンハルトのモヤシとか言われてるし。 いや、お前等に言われたら、アンハルトはモヤシ呼ばわりでも仕方ないわ。 私達は代わりに、お前等の事を蛮族って言うけど。 そろそろ飽きたのか、ファウストが二人に近づく。 「もう宜しいか? 互いに数十合斬り結んだが、刃引きの剣ではやはり決着がつかぬようだ。面倒なのでお二人とも、一騎討ちのお相手をしよう」 結局、そうなるのか。 ファウストが叩きのめした方が早い。 早いのだが。 「ポリドロ卿がそう仰るならば。但し、この女が一合で叩きのめされ、ヴィレンドルフの恥を晒すかと思うと」 「当方にも異論無し。この女が、ポリドロ卿の一騎討ち相手に相応しいとは到底思えませんが」 「ぬかせ」 ヴィレンドルフ騎士、二人の口喧嘩がまた始まる。 さっさとブチのめしてしまえ、ファウスト。 もういっそのこと、二人纏めて相手にしてもいいぞ。 私は溜息をつく。 国境線での、全身鎧の精鋭6名の騎士相手に、ファウストは余裕をもって立ち回った。 慣れないフリューテッドアーマー姿ゆえか、数合は身体を剣で打たれたが、その身体にはダメージが及ばない。 魔術刻印入りの鎧を着用しているとはいえ、痛いはずなのだが。 その巨躯は容易くダメージを跳ね除けてしまう。 どの勝負も、数分の内に終えてしまった。 国境線の指揮官が感服し、やはり貴方は今更言葉にするまでも無いが英傑だった。 そう述べ、私達一行を王都へと先導。 してくれてはいるのだが。 その道程の中で、一騎討ちをどいつもこいつも挑んでくるのだ。 ファウストはそれを一切断らない。 私に告げた口上通り、正々堂々それを受けて立つのだ。 直轄領の代官、地方領地の領主、諸侯領、その領地の大小に関わらず、その土地を代表する全ての騎士と、選抜された騎士。 それに加えて、王都では一騎討ちを申し込む暇も無かろうと、態々近郊の地方領まで出向いてくる王都の武官達。 そう、もうすぐ終わる。 この騒がしい一騎討ちの申し込みもようやく終わるのだ。 この街を抜ければ、もうすぐ王都だ。 「ヴァリエール様、ファウスト様の心配はなさらないのですか。一応聞きますが」 「一応答えとくわ。必要あるの?」 騎士見習い。 ファウストの従士、マルティナ・フォン・ボーセルの発言。 それに返事をする。 今まで何戦したと思っている。 97戦だぞ、97戦97勝。 目の前の二人で、99戦99勝となる。 ああ、いっそ100戦100勝とキリ良くならないのが残念だ。 もっとも、ファウスト本人は一々数も数えていないだろうが。 別に相手を見下しているわけではない。 そういう性格なのだ。 一々、キルスコアや一騎討ちでの勝利数など数えていないのだ。 勝って当然。 その結果は、向こうから訪れて当たり前の物。 そのように受け止めている。 ヴィレンドルフの各領地では、一騎討ちの様子を克明に記していたが。 アレが伝説となり、ファウストと一騎討ちを果たした相手の誉れとなるのであろうか。 英傑とはこのようなものだろうか。 凡人中の凡人たる私にはわからない。 一応、王宮でのスペアとしての高等教育も、最近ではアナスタシア姉さまからの指導も受けてはいるんだけど。 やはり凡人。 辿り着ける領域には限界がある。 私には理解の及ばない範疇だ。 まあよい。 「それでは、どちらからお相手を――ああ。結構です。また争いになっても面倒だ。こちらが決定を」 ファウストがグレートヘルムの接合具を嵌めながら、言葉を紡ぐ。 さっさと終わらせてしまえファウスト。 道中の、私の全ての心配は無用であった。 ファウストが負ける事など有りはしない。 きっと、ヴィレンドルフの女王、カタリナも自身の英傑はそのように考えていたんだろうなあと思う。 レッケンベルは負けたが。 ファウストという、この世の武の顕現に。 もっともファウスト曰く、レッケンベル騎士団長という英傑が居たのです。 私より強い女もこの世のどこかにきっといるでしょう。 ヴィレンドルフには残念ながら、もうおらぬでしょうが。 そう呟いていたが。 私には想像もつかない。 ヴァルハラのワルキューレに、生前から唾を付けられている連中の考えは理解できない。 「それでは正々堂々、勝負と参りましょうか」 「我が領地、その領民、全ての誇りを賭けて貴方に挑む」 最初の相手は地方領主と決定したか。 まあ良い。 ぶちのめされる順番が後か先かだけだ。 その決闘風景は見るまでもない。 お慰みの数合の打ち合いの元に、相手にファウストの膂力を理解させ。 背中から落とすように投げ飛ばして、首に刃引きの剣を当てて終わりか。 そのまま押し倒し、やはり首に刃引きの剣を当ててKO。 ファウストなりの気遣いだ。 ファウストの膂力を以ってすれば、一発KOも可能であろうに。 私は再び悩む。 ファウストの行動ではない。 ファウストは、相手の名誉を立てて一騎討ちに臨んでいる。 それは手加減であるが、手加減と呼ぶべきではないだろう。 そこは悩まない。 では、何に悩んでいるかというと。 「カタリナ女王の、心の斬り方ねえ」 それだ。 こんな一騎討ち、積み重ねても何の意味もない。 ヴィレンドルフの騎士達の心証は良くなるだろうが。 和平交渉の結論は全て、ヴィレンドルフの女王であるカタリナが為す。 考えろヴァリエール。 私が正使として、ただのお飾りで来たのはわかっている。 事実、このヴィレンドルフの誰にも相手にされていない。 私は、ただのお飾りだ。 だが、それで終わってしまえば、余りにもファウストに申し訳ない。 この交渉が成功すれば、親衛隊の階位も上げてくれるとお母様が、リーゼンロッテ女王が約束してくれてるのだ。 せめて、その働き分はせねばならない。 「マルティナ、カタリナ女王の和平交渉なんだけどね」 「はい」 私は迷わず、9歳児の力を借りることを選んだ。 ええい、批難する事なかれ。 私は凡人なのだ。 人様の力を借りて何が悪い。 そう心で、どこかから聞こえる批難の声を無視する。 「お母様が仰った台詞なんだけどね、和平交渉を成立させるためには、カタリナ女王の心を斬れ、だってさ。マルティナはどう思う?」 「事前に、ファウスト様がカタリナ女王の事を調べ、その資料集めを私も手伝わされました」 マルティナは、事情をわきまえているようだ。 「王都に与えられた下屋敷にて、ヴィレンドルフからやってきた吟遊詩人からカタリナ女王の英傑詩を聞いたり。レッケンベル騎士団長とのエピソードを聞いたり。交渉役の官僚貴族のそれから、少しでもヴィレンドルフ側から入手した情報を集めたり、まあ、正直」 マルティナは語る。 ファウストも、水面下で色々動いてくれていたようだ。 が。 「何の成果も得られませんでした」 それが答えだろう。 私もそうだった。 お母様、リーゼンロッテ女王の知能を以ってしても、抽象的な事。 カタリナ女王の心を斬れ。 それしか言えず、その心の斬り方は教えてくれなかった。 冷血女王。 感情など知らず、ただ淡々と理屈の上に政務をこなし、それゆえ有能である。 人でなしのカタリナ。 その忌み名すら持つ、ヴィレンドルフの女王。 別に嫌われているわけではない。 ただ、余りにも血が通っていない。 有能さは国中の誰もが認めている。 ヴィレンドルフの価値観を尊重してくれてはいるが、それを心から理解してくれるわけではない。 その、僅かな反感から、騎士達からの蔑みがあるのだ。 2年前まではその反感の全てを跳ね返す、レッケンベル騎士団長が居たのだが。 今は、いない。 「ただ、ファウスト様は、少しばかり、ほんの少しばかりですが、得心したようでした」 「カタリナ女王の心の斬り方が判ったと?」 「いえ、さすがに」 マルティナは首を振る。 まあ、さすがに判らないか。 「ねえ、私に何か役に立てることはないのかしら」 尋ねてみる。 9歳児にそれを尋ねることになるとは。 だが、今、目の前でファウストが闘っている以上。 この子がファウストの代理である。 そしてこの子は聡い。 恥を捨て、聞いてみるのも悪くはあるまい。 「お飾りの正使では不服ですか?」 「不服ね」 正直に答える。 せめて、何か役に立ちたい。 お飾りとはいえ、せめて一助は為したい。 カタリナ女王の心を斬る剣の、一研ぎくらいにはなりたいのだ。 そんな事を考える。 「では、ですよ。もしファウスト様が後で、その、何ですか」 「後で?」 何か言いあぐねたように、マルティナが呟く。 「後で、リーゼンロッテ女王陛下に無茶苦茶怒られる事になった時、一緒に謝ってもらえますか」 「うん?」 マルティナの言わんとする事が判らない。 ファウスト、何か怒られるような事をしたのか。 ああ、いいや。 聞いてみよう。 「ファウスト、何か怒られるような事したの」 「しました。話を聞くに、リーゼンロッテ女王陛下は酷くお怒りでしょう」 それがファウスト様には理解できていないようで。 いや、悪くはない手なのか。 その行為だからこそ意味があるのか。 いや、しかし、だからといって。 堂々巡り。 そんな思考らしきものを繰り返しているように、マルティナが独り言を呟く。 酷く、気になる。 「内容、教えてくれない? 謝るのはいいわ。第二王女親衛隊が馬鹿やらかすから、お母様に謝るのは慣れてるし。でも、こっちにだって心構えが必要なのよ」 「それは御教えできませぬ」 マルティナが首を振る。 「それは何故?」 「ヴィレンドルフ王の間、騎士達が立ち並んだ満座の席でのヴァリエール様のリアクションを含めてが、カタリナ女王への贈答品だからでございます」 「何を言っているのか、正直よく判らないけど」 私は、遠くで馬車に乗っているファウストの御用商人。 イングリット商会の長、イングリットの様子を眺める。 「あのイングリットという商人が、後生大事に守っている馬車の中に秘密があるの?」 「はい、アレがあります」 「アレ、ねえ……」 イングリット商会の警備兵。 それは交易品ではなく、その馬車のみをガチガチにガードしている。 たまにイングリットが緊張した様子で馬車の中に入り、なにか安心したような顔で出てくる。 一体、何を積んでいるのか。 何を隠しているのか。 「まあ、そういう話なら詳しく聞かないでおくわ。私は一緒に謝ればいいのね?」 「そうして頂けると、とても助かります」 マルティナは、ふう、と少しため息を吐いた。 そして、前をまっすぐ見る。 剣戟音が終わり、鎧同士がぶつかり合う音。 勝負がついたか。 ファウストが、相手の領主騎士を押し倒していた。 その首にはしっかりと刃引きの剣が当たっている。 「98戦、98勝。ファウスト・フォン・ポリドロの勝利!!」 私達を案内してくれている国境指揮官が、勝利の声を挙げた。 「貴方は決して弱く無かった。ですが、私の方が強かった」 「慰めなどいらんよ。手加減されてたことぐらいは判るさ」 ファウストが、相手に慰めの声を掛けるが、敵は喜びの声で答えた。 「無理はない。やはり貴方は英傑だった。レッケンベル騎士団長が負けるのも無理は無かったのだ」 そして、何かに納得したかのように、何かに惜別の念を送るかのようにして、レッケンベル騎士団長の死を受け入れた。 ファウストに負けた誰もが、同じことを言う。 これは彼女達にとって儀式なのだ。 レッケンベル騎士団長への追悼儀式。 98回も繰り返されると、凡人の私でもそれがよく判る。 「手を」 「ああ」 ファウストが領主の手をしっかりと握り、身体を起こさせる。 アンハルトとヴィレンドルフ。 敵同士ではあるが、そこには確かに騎士としての誉れがあった。 それにしてもだ。 やはり、何もできないのは情けない。 だから、せめて私はマルティナに頼まれた通りの事をこなそう。 「頼んだわよ、ファウスト」 私は凡人だ。 やはり、カタリナ女王を相手に回すと、相談役のファウストに頼る事しかできない。 私はファウスト・フォン・ポリドロの99戦目の一騎討ちが始まるのを眺めながら、この男がカタリナ女王の心を斬れることを静かに祈った。 第35話 歓迎パレード ヴィレンドルフ王都。 その幅広く設けられた、王宮まで一直線の長い長い目抜き通りにて。 ヴィレンドルフの民衆は今か今かと待ち構えていた。 アンハルト王国からの使者。 ファウスト・フォン・ポリドロを、である。 誰もが英傑詩を耳にタコが出来る程聞いていた。 人とは思えぬほどの美しさ、もはや魔性の域。 太陽のごとき、筋骨隆々の姿。 身長2mを超える大男。 全て、ヴィレンドルフの価値観では肯定されるもの。 そして、使者としてヴィレンドルフに訪れる事が決定してからも、新たに紡がれる物語。 国境線から始まる、ヴィレンドルフの英傑レッケンベル騎士団長が逃げなかったのだから私も逃げぬ、その口上が幕を切って落としてからの99戦に及ぶ一騎討ち。 王都までの道程で行われたそれの相手は、それぞれ軍役でも名のある騎士で、ヴィレンドルフにとって脆弱な騎士など一人もおらぬ精鋭揃いであった。 しかし、ファウスト・フォン・ポリドロは全てに勝利した。 慣れぬ敵国での旅路、列を組んで為す一騎討ち志願者に、休憩抜きでの連戦の条件で、である。 にも関わらず、99戦99勝。 もはや伝説上の生き物である。 ああ、そうか。 レッケンベル騎士団長は、やはりヴァルハラに旅立たれてしまわれたのだ。 確かに死んでしまわれたのだ。 国中がそう納得せざるを得ない結果を示した。 ならば―― ならば、認めよう。 そして、称えよう。 そうでなければ、レッケンベル騎士団長の誉れに傷がつく。 あの英傑に、ヴァルハラにて恥をかかせるような真似をヴィレンドルフの民として、してはならぬ。 この街道にて、大声を張り上げて、歓声で迎えるのだ。 レッケンベル騎士団長を倒した、敵国の英傑を。 そう、誰もが考えていた。 そして待ち望んでいた。 英傑の到着を。 「来たぞーーー!!」 誰かが叫んだ。 先頭では、ヴィレンドルフ国境線の指揮官が英傑を先導している。 槍の穂先にヴィレンドルフの国旗を付け、それを馬上で掲げていた。 その後には正使であるヴァリエール第二王女、それが乗った馬が続き、それを警護するように第二王女親衛隊が歩いている。 国民にとって、それらはどうでもよかった。 肝心なのはその次――であったのだが。 「うん?」 皆が首を傾げた。 確かに、噂通りの姿である。 2mを超える巨躯。 その魔術刻印が念入りに刻まれた見事なフリューテッドアーマーの下には、ヴィレンドルフの女たちを熱狂させる筋肉がミッチリ詰まっているのであろう。 それはわかる。 腰に、とても大きな、常人では振り回す事など出来ぬであろうグレートソードもぶら下げている。 次に馬。 大きく、見事な駿馬であった。 馬鎧のような魔術刻印総入りの赤い布に覆われたその馬は、まさに英傑が乗る馬に相応しく、その瞳は下手な人間を超えるほどの理知を感じさせた。 だが。 だが、しかしだ。 「バケツ?」 誰かが呟いた。 何故、頭だけグレートヘルムなのだろう。 グレートヘルムの名も良く知らぬ人間にとっては、日常使いのバケツにもよく似たそれ。 その連想しかできなかった。 その見事なフリューテッドアーマーには、余りにも似合っていなかったのだ。 「顔を見せなよ!」 「そうだ、顔だ!」 ブーイングにも似た、それがファウスト目掛けて飛び交い始める。 その身体は良い。 ヴィレンドルフ好みの良い身体をしている。 きっと尻も良いだろう。 だが、顔を見ない事には始まらないぞ。 これはレッケンベル騎士団長を称える追悼ではあるが。 同時に、一目その顔が見たい。 あのレッケンベル騎士団長に、第二夫人にと望まれた、その顔が見たい。 それが見たくて集まった側面もある。 群衆は声を張り上げ、それぞれは言い方が異なりながらも、その意味は同じである。 「その似合っていないバケツヘルムを脱いで、顔を見せろ!!」 その群衆の声に応えるのは。 大音声の笑い声。 本当に大きな、戦場でもこのような声をするのか、と群衆に感じさせるような笑い声であった。 それをファウストが発する。 「いいだろう! 顔を見せよう!!」 行進が、その声に応じるかのように一時止まる。 先頭を馬にて歩く、国境線の指揮官が気を利かせてその槍を下げ、行進を止めたのだ。 カチャカチャと、バケツヘルムの接合具を外す音。 群衆は固唾を飲んで見守る。 そして、ファウストがバケツヘルムを脱ぎ、脇にそれを抱える。 それを見た群衆は。 「――」 誰も声にならなかった。 これが人の顔か? 魔人か何かではないのか? もちろん、それは悪い意味ではなく―― 「美しい」 誰かがその言葉を発するとともに、行進を、このパレードを見守る何千人もの女達の内、何百人かの股が愛液で濡れた。 あれは人なのか? アレが、アンハルト王国では、その筋骨隆々の体付きと背の高さ故に、醜いなどと揶揄されるのか。 誰もが不思議に思う。 ヴィレンドルフではその真逆である。 「あまりにも美しい」 少し困ったように、照れたように、笑っている。 普段は木訥なのであろう。 その人柄が容易に見て取れる、その表情。 身長2mを超える見事としか言いようがない、その周囲全てを見下ろすような巨躯も。 フリューテッドアーマーの下に眠っているであろう、そのミチミチに詰まった筋肉も。 その何もかもが。 ヴィレンドルフの女を魅了してやまないシロモノだった。 「――」 「――」 一時、空気が止まる。 その空気を破るようにして、もう良いであろう、と。 国境線の指揮官が、空気を読むようにして、その槍の穂先を上げた。 行進が、このパレードが再開される。 再び歩き出す、ファウスト・フォン・ポリドロと、その馬フリューゲル。 それはヴィレンドルフにとって完全な美を示していた。 群衆は。 「美しい。さすがレッケンベル騎士団長を破った英傑よ、その姿までもが、その容姿までもが!!」 腕を広げ、感に入ったと全力で褒め称える上物の服を着た上級市民。 「私と一騎打ちをしてくれ、頼む! 頼む! 一度で良いのだ!」 従士が四人がかりでパレードに割り込むのを必死で止める、鎧姿の世襲騎士。 「これこそ……これこそが、まさに美術だ。生きた芸術作品だ」 必死の表情で、2階の窓からファウストを眺め、スケッチを開始する芸術家。 賛美の限りを尽くしていた。 万語の限りを尽くして、ファウスト・フォン・ポリドロを褒め称えていた。 この記録は、1000年経っても残されるであろう。 ファウスト・フォン・ポリドロの道中。 国境線からその全てに付き添い、その全てを記録した記録係の騎士が、そう呟いた。 王宮まで一直線の長い長い街道。 その中を歓声で包まれながら、パレードは続く。 それは最後尾のポリドロ領民30名、それらが、やっと我が愛する領主様が認められたぞ。 その誇らしさで満面の笑みを浮かべた連中が後を続きながら。 王宮に近づき、堀を橋で越え、跳ね橋が上がり、その城の門が閉じられるまで歓声は続いた。 いや、それが終わっても歓声は止む事は無い。 まるで神が造り上げたような、優れた芸術作品を見た。 その様子で、隣同士となった女どもと、目にした美しさを称える声は止まなかった。 ※ 一方、城内に入ったファウスト達一行は。 「ヴィレンドルフに産まれりゃよかった」 「ファウスト様、冗談でも言って良い言葉ではありません」 「いや、言いたくもなりますよ、こうもアンハルトと反応が違うようでは」 私に続いて、マルティナ、従士長ヘルガの言葉であった。 私は苦悶の表情で呟く。 「なんでヴィレンドルフだとこんなモテるのに、アンハルトだと全くモテないんだ。世の中おかしいぞ」 「いっそ、領地ごとヴィレンドルフに亡命しますか?」 「領地が歩けるものなら、そうしたい」 ヘルガと軽口を叩く。 少しくらい文句言ってもバチは当たらないだろう。 そんな顔を二人でするが。 「ファウスト様、ここにはヴァリエール第二王女も、その親衛隊もおられるのですよ。聞こえでもしたら」 「判った。もう言わない」 マルティナの咎める声に、私は黙り込む。 ザビーネ。 第二王女親衛隊長、ザビーネ。 服の上からでもよく判るロケットオッパイを持つ、今のところ唯一私にマトモに興味を持ってくれる女性よ。 彼女に嫌われるのは避けたい。 ロケットオッパイは惜しい。 惜しいのだ。 しかし、ついにザビーネとの接触の機会は与えられなかった。 フリューテッドアーマーに一か月に及ぶ鍛冶場への日参。 その後はカタリナ女王の情報収集に追われ、壮行会ではリーゼンロッテ女王の邪魔が入る。 国境線に入ってからは言うまでもなく、決闘の日々。 これでどうやってザビーネと、ロケットオッパイと接触せよというのだ。 込み入った話などする暇もなかったぞ。 精々挨拶を数度交わした程度だ。 世の中間違っている。 まあいい。 所詮こんなものよ。 世の中は都合悪く私に回ってるものよ。 ファウスト・フォン・ポリドロは静かに何かを諦めた。 気分を切り替える。 いよいよ、カタリナ女王との謁見である。 「ヘルガ、イングリット商会から、例のアレは受け取ったか」 「はい、ここに」 布に覆われたアレ。 無事に引き渡しを終えたイングリットは、今まで生きてきた中で一番緊張した運搬物でしたと言っていた。 さもあらん。 「ファウスト様、絶対これリーゼンロッテ女王に怒られますからね。一応、ヴァリエール様に一緒に謝ってもらえるよう頼んでおきましたけど」 「そんなに悪い事か」 「悪いに決まってるでしょう!」 マルティナの咎めの言葉。 確かにリーゼンロッテ女王は怒るだろう。 だが、怒られるだけで済むだろう。 その程度の事だと思うんだがなあ。 「さて、謁見だ。変なところはないか」 「そのグレートヘルム以外は特に。帰ったらちゃんと交換してもらいましょうね」 気に入ってるのに、このバケツヘルム。 何が皆気に食わないんだ。 もうこれでいいだろ、視界の狭さも直感でだいたいカバーできる。 一騎討ちでも役に立ったぞ。 無くても勝てたけどさあ。 それにしても、ヴィレンドルフの騎士はやはりアンハルトの騎士より練度が高いな。 国からの精鋭が集まっていたとはいえ、一騎討ちを99戦もするとそう思わざるを得ん。 だが、超人に一歩足を踏み入れた程度が精々の集団。 レッケンベル騎士団長のような、まさか私が負けるのか?というギリギリ感を、あの緊迫感を味合わせる騎士は居なかった。 「グレートヘルムは、ヘルガが預かっておいてくれ。お前は謁見の間に入れん。別の待合室にて、もてなしを受けることになる」 「承知しました」 グレートヘルムをヘルガに渡す。 「マルティナは騎士見習いとして、従士として傍についてきてくれ。カタリナ女王への贈答物を持ってな」 「本当に渡すんですね。まあ今更止めませんけど」 マルティナは、何かを静かに諦めた顔で呟いた。 「さて、カタリナ女王の心をこれで斬れるものかね」 そうとは思えない。 しかし、これ以外に思いつかなかった。 情報収集を念入りに行ったが、レッケンベル騎士団長とカタリナ女王とのエピソード。 吟遊詩人の語るそれから着想を得たのは、これだけだった。 「とりあえず、笑わせてみるかね」 すまない、ヴァリエール第二王女。 先に案内され、ヴィレンドルフ国境線を踏み入って以来、初めて正使としての待遇で歩き始める。 そんなヴァリエール様の小さな背中を見た。 少々、道化を演じてもらう事になるが、私に貴女への悪意はないのだ。 私にはこれしか思いつかなかった。 カタリナ女王から、一笑をとる。 それにはこれが必要で、ヴァリエール様のリアクションも必要なのだ。 「しかし、レッケンベルか」 「何か?」 「いや、何。レッケンベル殿は、本当にカタリナ女王の事を愛していたのだろうな、と」 マルティナが抱える、布に包まれたそれを見る。 吟遊詩人に知り得る限りのカタリナ女王とレッケンベル騎士団長の英傑詩、その全てを謳わせ、休憩を挟んだ。 そんな時であった、二人の珍妙なエピソードを聞いたのは。 あのレッケンベル騎士団長が、ただ一度だけ、カタリナ女王とともに宮廷から咎めを受けた事がある。 政治も、軍事も、戦闘も完璧。 その全ての才を合わせると、私を上回っていたであろう超人。 そんなレッケンベル殿がだ。 その心境は、エピソードからも察するにあまりあるところがある。 「愛してたんだろうなあ、本当に」 「私には、理解できませぬ。カタリナ女王は与えられただけの愛情をレッケンベル殿に、何か返せたのでしょうか。レッケンベル殿が一方的に忠誠を誓い、功績を捧げ続けただけでは」 「マルティナ」 私は少し咎めるように、マルティナの名を呟く。 「見返りが不要とは言わない。だが、見返りを求めるだけなのは愛とは呼ばない。そして、死ぬ寸前まで近づいてから、いや、死んでからやっと気が付く愛すらある」 「それは実体験ですか」 「そうだ。そして、死んだ者はそれで充分なのかもしれない。死んだ後にやっと愛情に気づいて、相手が死してなお想う事で、亡き相手に届く愛があるのかもしれない」 そうとでも思わないと、やっていられない。 母上。 私は貴女に何も、生きている間、親孝行ができなかった。 だが、貴女の残した領民と、領地ぐらいなら守る事が出来るだろう。 そうだ。 そのためにも、ヴィレンドルフとの和平交渉を成立させる必要があるのだ。 先を歩く、ヴァリエール様が振り向こうともせず、声を私にかける。 「いよいよ行くわよ、ファウスト」 私は息を大きく吸い、ヴァリエール様に答える。 「承知」 その声は、ヴィレンドルフ王宮の廊下に静かに響いた。 第36話 花泥棒 何も感じなかった。 人として思えぬほどの美しさ、もはや魔性の域のもの。 太陽のごとき、筋骨隆々の姿。 身長2mを超える大男。 ヴィレンドルフが称える、その全て。 その価値観が想像しうる限りでの最高の美。 それでも届かぬ美しさ。 その具現体。 ファウスト・フォン・ポリドロ。 私はその姿を見ても、何も感じなかったのだ。 「今回の交渉の正使。アンハルト王国第二王女、ゲオルク・ヴァリエール・フォン・アンハルトです」 確か、ヴァリエール第二王女は14歳と聞いた。 未だ幼いとすら感じる、正使であるヴァリエール第二王女がドレスの裾が地につかぬよう両手でそれを持ち上げ、膝を曲げての辞儀を行う。 若いな。 私の14歳。 丁度、私が相続決闘を果たし、女王になった頃であったか。 その頃、レッケンベルは24歳であったな。 過去に想いを馳せる。 次いで、挨拶。 「交渉の副使。ファウスト・フォン・ポリドロ」 兜だけが無い甲冑姿のまま膝を折り、礼を行う。 王の間に静かに、だが響き渡る声であった。 満座の席。 アンハルト二人の使者を囲むように立ち並ぶ騎士の数人が、僅かに身をよじらせた。 股に、違和感を覚えたのだろう。 理屈ではわかる。 この男は、ヴィレンドルフではこの世で一番美しい男なのであろう。 だが、それだけだ。 ファウスト・フォン・ポリドロに対し、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフは何も感じない。 何も感じることが出来なかった。 僅かに、何か心の底で、かすかに燻る何かで、きっと期待していた。 ファウスト・フォン・ポリドロという、我が相談役レッケンベルを倒した男に何かを感じ取れるのではないか。 憎しみ。 その感情でも良い。 この大いなる、レッケンベルを失った悲しみに抗える何かを。 だが、何も感じられなかった。 ああ、そうだろう。 所詮こんなものよ。 私は冷血女王のままであろう。 その冷静な、理屈だけの女王に私は戻る。 もはやレッケンベルへの悲しみすら、今は忘れよう。 ただヴィレンドルフの利益だけを考えよう。 このファウスト・フォン・ポリドロを玉として見立て、アンハルト王国の今を見据えよう。 ポリドロ卿を見つめる。 その姿形。 噂のように、冷遇されているようには見えない。 少なくとも、王家からはそうであろう。 見事な、魔術刻印総入りのフリューテッドアーマー。 ポリドロ卿の経済事情、領民300名足らずの弱小領主が用意できる代物ではない。 幾つか傷が付いてはいるが、それは真新しい。 恐らく、今回の和平交渉にあたって王家が用意したものであろうと予測する。 少なくとも、ポリドロ卿はアンハルト王家からは認められている。 だが。 「ヴァリエール第二王女、そしてファウスト・フォン・ポリドロ卿。長旅にて疲れる中、休憩を挟まず王宮まで訪れたその誠意は受け取ろう」 「有難く思います」 「して、ヴァリエール第二王女。貴女を侮るわけではないが、ポリドロ卿と少し話がしたい、良いか?」 私はヴァリエール第二王女に要求する。 相手は断れない。 「どうぞ。ご存分に」 「有難う」 ではポリドロ卿と話す事にしよう。 さて。 単刀直入に言おう。 じっくりと話し込むことにしよう。 勝負だ、ファウスト・フォン・ポリドロ。 私の問い全てに答えて見せよ。 一つでも答えを誤れば、第二次ヴィレンドルフ戦役の始まりだ。 「私に仕える気はないか? ポリドロ卿」 「ちょ、ちょっと」 誘い。 私はまず誘惑をかける。 ヴァリエール第二王女の声は無視する。 ポリドロ卿の答え。 「お断りいたします。例えどのような待遇でも、私が貴方に仕えることは無い」 「何故か?」 「私は第二王女ヴァリエール様の相談役であります」 本来は朴訥な性格と聞いている。 それでいて、ハッキリと。 ファウスト・フォン・ポリドロは告げた。 「レッケンベル騎士団長は貴女の騎士団長でありましたが、貴女の幼少期。その頃はただの一介の世襲騎士の家督を継いだ一人の騎士に過ぎませんでした。なれど、貴女の相談役でした」 「確かにそうだ。良く知っているな。それが?」 「仮に、アンハルト王家が、昔の一騎士に過ぎなかったレッケンベル騎士団長に多大な報酬を見せて誘いをかけたとて、答えは同じだったでしょう。私はカタリナ第三王女の相談役である故、その誘いはお断りすると」 なるほど。 理屈だ。 王女の相談役と見込まれた者が、その誘いは受けないか。 だが、我が国と違ってアンハルト王国の限嗣相続は決闘ではない。 「一つ、さらに聞く」 「何なりと」 「ヴァリエール第二王女が、アンハルト王国を継ぐ目は恐らく無い。何故それでも仕えるのだ」 お前に何のメリットも無いではないか。 それを尋ねる。 「判りませぬか」 ポリドロ卿が、眉をひそめて答えた。 「判らぬ」 正直に答える。 「私にも、情と言うものがありますので」 その答えは、私には判らぬものであった。 情。 理屈では無いと言うのか。 何だコイツは。 まるで――まるで。 まるで、レッケンベルと会話しているようではないか。 「その情がどこまでヴァリエール第二王女に伝わっているか、私にはよく判りませぬ。果たして、それに応えてくれるのかも」 やや苦笑。 それを加えながらも、ポリドロ卿の言葉は続く。 嗚呼、レッケンベルよ。 ポリドロ卿と話していると、何故かその名前が頭に思い浮かぶ。 「なれど、それと私の情とはまた全く別な話であります」 レッケンベル。 その名が私の悲しい心を包み込む。 唯一「哀」しか知らぬ。 この私の感情はそれだけだ。 「カタリナ女王陛下。私は貴女の事を良く知りませぬ。貴方の事は今回の交渉の前に知りました。吟遊詩人から話を聞き、そのレッケンベル騎士団長とのエピソードを知りました。ですが」 ポリドロ卿が一呼吸置く。 「ですが、たったそれだけです」 たったそれだけ。 確かに。 人伝てに聞いただけの話。 それでは、その人間の本性までは判るまい。 理屈だ。 「故に、私と貴女は話し合う必要があると思うのです。カタリナ女王陛下」 「よろしい」 私は答えた。 応じよう。 元より申し込んだのは私だ。 お前との一対一の対話に応じよう、ファウスト・フォン・ポリドロよ。 「では、話を続けよう。ポリドロ卿。お前の領地はヴィレンドルフ国境線からほど近い」 「よくご存じでいらっしゃる」 「ヴィレンドルフ戦役にて、国境線近くの街を亡ぼした際に地図を手に入れた」 小さな舌打ち。 それは、おそらくポリドロ卿の口からは発されていないであろう。 だが、確かに聞こえたぞ、お前の心の舌打ちが。 「私がお前の領地近くまで、第二次ヴィレンドルフ戦役を起こし、踏み込んだとする。お前はどうする?」 「死兵と化しましょう」 ほう。 「死兵と化し、貴女の騎士数十名を破り、大往生を遂げましょう。先祖代々引き継いだポリドロ領の領地にて」 「命が惜しくは無いのか」 「惜しいです」 やや、予想と違う返事。 命は惜しいのか。 我が英傑レッケンベルに一騎討ちを挑むくらいの猛者だ。 命が惜しいとは。 「私の血が伝わらぬ。先祖代々継がねばならぬ、私の子々孫々に繋いでいくはずの領民、領土、それを守るための血が繋がらぬ。そのために命が惜しいです」 「その命を繋ぐ存在が、子さえいれば、命は惜しく無いと」 「その通りです」 まるで領主騎士の模範解答だ。 理屈は理解できる。 「ヴィレンドルフに頭を垂れる、その気は、領地に足を踏み入れられてまで無いと?」 「むしろ、我が領地を寸土たりとも削り、足を踏み入れ侵略する者には容赦しませぬ」 「ふむ」 裏を考える。 ファウスト・フォン・ポリドロは領主騎士である。 アンハルトの英傑ではあるが、利益を考える。 いや、利益と言っては失礼か。 己の財産である領土と領民を死ぬまで抱え込むものである。 今までの話から察するに、ポリドロ卿は全て本音で語っている。 再び、裏を考える。 ファウスト・フォン・ポリドロは、自分の領地にさえ踏み入れなければ敵対しない? ポリドロ卿の軍役。 おそらく、我らヴィレンドルフが国境線に足を踏み入れなければ、来年の軍役は北方の遊牧民族相手になるであろう。 軍役さえ終われば、アンハルト王国の領地の保護契約。 それをアンハルトは実行せねばならない。 そして、ポリドロ卿は軍役を終えているゆえ、ヴィレンドルフとの国境線上での戦いには現れない。 その僅かな隙間を狙い。 ポリドロ領を放置し、それ以外の領土を奪い取る。 いや。 再び考え直す。 「問おう。ポリドロ卿よ。来年の軍役は、北方の遊牧民族相手になるかな?」 「この和平交渉がまとまればそうなりましょう」 「ポリドロ卿は、遊牧民族相手に勝てる自信がおありかな?」 有るだろうな。 無駄な事を聞いた。 「一度の衝突で族滅させて見せましょう。ヴィレンドルフの英傑、レッケンベル騎士団長のように」 そうなるか。 なれば、アンハルトは北方から王国の正規軍を、ヴィレンドルフ国境線に戻す。 そうすれば兵力は互角。 ヴィレンドルフ全力の兵力を投じても。どちらが勝つかなど判らなくなる。 手詰まりか。 英傑ファウスト・フォン・ポリドロは、その領地を取り囲まなければ、私に頭を垂れぬ。 だが時間を置けば、北方の遊牧民族を族滅にかかる。 和平。 その言葉が少し、ほんの少しだけ頭に思い浮かぶが。 まだ話は続くぞ。 ポリドロ卿よ、私は感情が無く、物事がよく判らぬ故、しつこいと物を尋ねる度に父に何度も殴られた女だ。 殴らなかったのはレッケンベルだけだ。 根気よく、感情が無ければ理屈で、私に何度も言い聞かせるように。 これはやっていいことで。 これはやってはいけないこと。 それを教えてくれたのは、この世でレッケンベルただ一人だ。 理屈で私を女王としてやっていけるようにしてくれたのは、レッケンベルだ。 姉を殺したのも、父を殺したのも。 やっていいこと、と教えたのはレッケンベルなのだぞ。 私とレッケンベルは、甘くは無いのだ。 どこまでも理屈を追及して見せる。 そしてアンハルトの穴を突き、お前を従え、アンハルト王国の領土を削ってみせるぞ。 そんな考えを巡らせるが。 「カタリナ女王陛下。ここに貴女への贈答品があります。会話に夢中で忘れておりましたが」 「贈答品?」 まあ、国家間の交渉なのだ。 それぐらいはあるであろうな。 ファウストの横で、同じように膝を折りながら、布に包まれた何かを大事そうに抱えている。 前情報ではマルティナ・フォン・ボーセルと言ったか。 一騎討ちで破った売国奴の女領主騎士の遺児を、頭を地に擦り付けてまで助命嘆願した。 その子供。 あくまで意地を張り、面子を捨ててまで王命を覆したその姿。 ヴィレンドルフでは美しき姿として称えられているが。 私には理解できぬ。 「では、お渡しします」 マルティナが、布に包まれた何かを大事そうに抱えながら、私に歩み寄る。 周囲の近衛騎士が警戒するが。 相手は9歳児。 私も帯剣している。 その布の下に懐剣があっても、斬り殺せば済む話。 「控えろ」 私は布の中身を確かめようとした近衛騎士に命を下す。 その間も、マルティナは黙って歩み寄る。 そして目の前に辿り着き、その布を剥がした。 「これは」 「バラでございます」 深紅のバラ。 本日、鉢植えから切ったばかりと思われる、新鮮な切り花。 贈答品としては、余りに質素である。 アンハルト王国にも、ヴィレンドルフにも、その花の贈答に特別な意味は無い。 精々、女が男に求愛するときに使われるぐらいか。 男からこれを貰っても、とは思うが。 「ヴィレンドルフの吟遊詩人、それから珍妙なエピソードを聞きました」 「ほう」 マルティナから、花を受け取る。 一応、使者からの贈答品だ。 如何に質素でも、受け取らなければならない。 ヴィレンドルフの吟遊詩人から聞いた? 何を? 「ファウスト!」 その思考を中断するように、ポリドロ卿を咎める声。 ヴァリエール第二王女の悲鳴。 「そ、それ! ひょっとしてアンハルト王宮のバラ園から」 「はい、盗みました」 「盗みましたじゃないわよ!! しれっとした顔して答えるな!!」 ヴァリエール第二王女が顔を真っ青にして、ここがヴィレンドルフの王の間であるというのに、場もわきまえずに絶叫する。 「それ、御父様が造ったバラ園のバラで、お母様が死ぬほど大事にしてるって判ってるでしょ!! 貴方も美しいって褒めてたじゃない! それを何で!!」 「はあ、だからこそ価値があるかと思いまして」 「いや、価値はあるけど! 黙って盗んじゃ駄目でしょう! 盗んじゃ!! お母様に何て言い訳するのよ!!」 どうやら、毒殺されたと噂のリーゼンロッテ女王の、王配が大切に育てたバラらしい。 それを盗むとは。 それが何で、私への贈答品に相応しいと。 いや。 以前、一度だけ。 一度だけ、このような事が有った気がする。 思い出せ、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ。 これは。 これは、レッケンベルとの、幼き頃の大切な思い出であったはずだ。 「どーすんのよ! お母様、今頃バラ盗んだ奴を死に物狂いで探し回ってるわよ! どうやって謝罪するのよ!!」 「一緒に謝ってくれると、マルティナからお聞きしました」 「言ったけど! 確かに言ったけどもさ!! こんな話だとは思ってないわよ!!」 五月蠅い。 煩わしい。 私がレッケンベルとの想い出を回想しようとしている。 その邪魔をするな。 私は、聴覚を無理やりにでも遮断する様に。 目を閉じ、静かに大切な子供の頃の想い出を回想しようとした。 第37話 バラのつぼみ レッケンベルは時に優しく、時に厳しい人だった。 いや、それは嘘だ。 厳しい事などあったのだろうか。 レッケンベルが与えてくれたそれに、厳しい事など一つでもあったのだろうか。 剣や槍、弓の訓練で手がタコで一杯になった時も。 刃引きの剣で私が怪我をした時も。 それが果たして、本当に厳しいと言える事などあったのだろうか。 全て、私を鍛えるために、仕事の暇を見繕っては必死でやってくれた事だ。 レッケンベルよ。 貴女の愛情が未だに判らない。 回想。 初めて会った時の事を、回想する。 「クラウディア・フォン・レッケンベルと申します。カタリナ第三王女」 「私の相談役になったって、何も良い事など無いわよ」 15歳のレッケンベル、そして5歳の私。 立ち合いには老婆の軍務大臣がいた。 「失礼ながら、カタリナ第三王女は感情がよく判らないとお聞きしました」 「『りくつ』は知ってる」 「そうですか」 ぽんぽん、と何故かレッケンベルが私の頭を優しく撫でる。 そして、膝を折ってしゃがみこみ、私の顔と視線を合わせる。 「では、理屈は私が引き続き教えます。それと一緒に、感情も覚えていきましょうね」 「『かんじょう』って覚えられるものなの」 「さあ、私にもよく判りません」 特徴的な糸目。 糸のように細い目で、レッケンベルが微笑む。 「まあ、やってみましょう!」 「はあ、まあ好きにすればいいけど」 私は何故かやる気になっているレッケンベルに、やる気無さげに頷いた。 可愛くない子供。 理屈で、あの頃の私はそう感じる。 同時に、嗚呼、レッケンベルはあの頃からレッケンベルだったんだな。 そう思える。 そして、軍務大臣があの頃から、私を女王にしようと企んでいた事を。 レッケンベルの才能を見抜き、私に教育を施そうとしていたことを。 それを想い出した。 日々は過ぎる。 過ぎてしまう。 幼年期は過ぎていく。 やがてレッケンベルはその実力を持って、ヴィレンドルフの周辺国家との戦では必ず手柄首を上げ、そして騎士の大会――トーナメントでは必ず優勝し。 誰もがその実力を認めざるを得ず、何時の間にやら騎士団長になっていた。 私が10歳で、レッケンベルが20歳。 レッケンベルは夫を取り、一人の子を為した。 私は相談役の出産なのだからと、出産から時間をおいてレッケンベルの屋敷に訪れた。 というか、レッケンベルがさっさと来いと私を呼んだ。 「私の子です。名前はニーナ。ニーナ・フォン・レッケンベル」 それは赤ん坊だった。 当たり前ではあるが。 「抱いてあげてください」 はい、とベッドに身を横たえるレッケンベルの手から赤子が渡され、私はそれを受け取る。 何という事もない。 ただの赤子だ。 「何も感じませんか?」 「感じない」 いつもの、レッケンベルの問い。 何か行動するにつけて。 何か機会があるにつれて。 レッケンベルは尋ねる。 「何か感じませんか?」 そう尋ねる。 答えはいつも一緒だ。 「何も感じない。ただ」 「ただ?」 レッケンベルが、ベッドの上から何故か前のめりになって、私に顔を近づける。 私の答え。 「この子が、母親殺しにならなくてよかったと思う」 私のようにならなくてよかった。 出産の時に母親を殺し、父からは憎まれ、姉からは苛められる。 そんな存在にならなくてよかった。 レッケンベルが死ななくて、良かったとは思う。 「そうですか。それだけですか」 レッケンベルは、酷く残念な顔で頷いた。 理屈なら判る。 それはレッケンベルに厳しく教育されたから。 この場合、お祝いの言葉を述べるべきなのだろう。 「レッケンベル、出産おめでとう」 「はい、お姉ちゃんが喜んでくれましたね。ニーナ」 「お姉ちゃん?」 妙な言葉。 私とニーナの間に、血の繋がりは無い。 「姉妹のようなものです。貴女も私の子供です」 「私はレッケンベルの子供ではない」 「似たようなものです。私は5歳の頃から貴女を育てたつもりですよ。あの父親も姉も、てんで役立たずですから」 レッケンベルが、何か酷く気に食わないと言った風情で呟く。 「だから代わりに、私が家族のつもりです。お嫌ですか?」 「嫌かどうかもわからない」 「じゃあ、今日から家族という事で。決定しました」 私の話、ちゃんと聞いてた? 判らないと言っているのに。 レッケンベルは全てを無視して、私を強引に家族だと言い切った。 私が何かを言っても、レッケンベルは時に強引に物事を進めてしまう。 どうせ私は反抗しないだろう。 そう勝手に決めつけて、行動を起こしてしまう。 事実、そうではあるのだが。 「ニーナ・フォン・レッケンベル。強くなりなさい。お姉ちゃんのように」 レッケンベルは赤子をあやす。 私は強いのだろうか。 レッケンベルを相手にしていると、自分が強いと言う自覚にはどうしても恵まれないのだが。 まあ、レッケンベル相手に10本中1本でもその歳で取れるなら、むしろ誇るべきです。 そう老婆から、軍務大臣から言われた。 あの軍務大臣は、私とレッケンベルの前に時々現れ、様子を見に来る。 まるで、私達二人にヴィレンドルフの将来が掛かっているとでも言うように。 いや。 事実、私は女王となり、レッケンベルは英傑となった。 軍務大臣には、当時から全てが見えていたのであろうな。 そんな回想。 想い出は尽きない。 いつまでも浸っていたい。 しかし、時間は過ぎていく。 ああ。 そうだ。 バラのつぼみ。 バラのつぼみだ。 やっと想い出せた、ファウスト・フォン・ポリドロが何が言いたいのかを。 再び、当時の回想を続ける。 「カタリナ様、何をご覧になっているのですか」 「バラのつぼみ」 「はて」 糸目。 糸のように細い目をしたその顔が、私の背後から覗き込む。 私が12歳でレッケンベルが22歳。 この時、すでに遊牧民族の討伐で、レッケンベルは名を挙げ始めていた。 というか、一方的な殺戮を始めていた。 もはや、レッケンベルは英傑としての位置を固め始めており、誰にも文句を言わせる雰囲気ではなかった。 私はいずれ、相続決闘にてレッケンベルの言うがままに。 姉と、ついでに父も殺し、このヴィレンドルフの女王となる。 そんな決意を固めていた頃であった。 姉と父は無能だ。 存在自体がもはや、歳費を食いつぶすだけの害悪である。 この国は、私が継がねばどうにもなるまい。 今は高級官僚貴族、それに母親の元相談役にして親族である公爵が、王家の代理を務めているが。 王位を空席として7年は長すぎた。 レッケンベルが馬車馬のように働き、政治・軍事・戦場の三点。 その全てにおいて才を見せ、外敵を打ち払っているから何とかなっているようなものだ。 特に、北方の遊牧民族に対してはレッケンベルがいなければ、話は進まない。 だから、それに集中して欲しいのだが。 レッケンベルは、私の教育がまだ終わっていないと言う。 「確かに、バラのつぼみですね」 「まだ咲かないのかしら」 「まだ咲きませぬ」 レッケンベルが、呟いた。 続けて、私の顔を何故か見つめながら呟く。 「まだ、開花の時期ではないのでしょうから」 「いつ咲くの?」 「おそらく、咲かないでしょう。その季節外れのつぼみは」 はあ、とレッケンベルが息を吐く。 その息は白い。 季節は冬であった。 「この温度では難しいかと。せめて切り花にして、室内にでも持ち込まなければ」 「そう」 「花も人間も一緒です。環境がおかしいと、咲かないものですよ。逆に、環境さえしっかりしていれば、花は必ず咲きます。ええ、咲かせて見せます」 レッケンベルは、何かに決意をこめた表情で呟くが、ふと、何かに気づいたかのように。 おそるおそる、私に尋ねてくる。 「あの、カタリナ様。もしかしてですよ」 「何?」 「その花が、咲くところがみたいのですか?」 レッケンベルが、真剣な目で尋ねる。 花が咲くところ? そういえば、何故私はバラのつぼみなど、ずっと眺めていたのだろう。 「見てみたい」 あの時、私は何故、バラのつぼみなどに執着したのであろうか。 どうでもよい。 世の中の全てが曖昧で、酷く濁っていて、父の憎しみも、姉の嫌がらせもどうでもよい。 そのはずであった。 ただ、この曖昧な世界で、レッケンベルだけが執拗に私に絡んでくる。 熱心に、貴女が女王になるのだと、次期の女王としての教育を行ってくる。 それが鬱陶しいわけでもなく、ただ私は優秀な生徒として、それに黙って従う。 それで私の生活は、何の不都合も無かった。 なのに。 「見たいんですね! 本当に見たいんですね!!」 「う、うん」 ぶんぶん、と私の肩を掴み、振り回すレッケンベル。 その顔は何故か嬉しそうで、私はその勢いに押されて頷く。 「ならば、盗んじゃいましょうか!」 「はい?」 理屈ではない。 いくら王宮の庭の物とはいえ、勝手に盗んじゃだめだろう、レッケンベル。 人の物を勝手に取ってはいけません、と教えたのはお前ではないか。 これは厳密にいえば王家の物といえるが、私の私物では無いし。 急にバラを盗まれては、造園職人も困るであろう。 「この一角のバラのつぼみの枝、全てを盗んでしまいましょう。そして、カタリナ様の部屋をバラで一杯にしてしまいましょう」 「ちょっと、レッケンベル?」 いや、そこまで欲しくはない。 ただの一輪の花で良いのだ。 私はこの一輪のバラのつぼみが、季節外れのバラのつぼみが、果たして咲くかどうか気になっただけで。 別に、一輪を枝ごと盗むぐらいならバレないだろうし、それで。 「カタリナ様の親衛隊を集めます。全員でとりかかりましょう」 「あの、レッケンベル?」 そんな大がかりな事したら、絶対バレるだろそんなの。 本当に一角のバラ園の、花という花の全てを強奪するつもりか。 「暖かい部屋の中では、きっと綺麗なバラが咲きます。部屋が綺麗なバラで一杯になります。素敵な光景になりますね」 「いやいや」 レッケンベルは完全にその気になっている。 何が彼女の心をそこまで揺り動かしたのか。 私には判らない。 「さあ、このレッケンベル。張り切ってまいりましたよ!」 どうしてこうなった。 結果から言おう。 私とレッケンベルは、宮廷の庭のバラを荒らした咎めを受け、何故だか私達担当となっている軍務大臣から酷く怒られた。 まあ、レッケンベルを叱れる度胸のある人間など、あの老婆以外にいなかったからだろうが。 ああ、想い出した。 あの時、怒られながらも、レッケンベルは酷く笑っていた。 ニヤニヤとしていて、嬉しさを抑えきれないと言った感じで。 何故だ。 その答えを。 その答えは、尋ねれば判るのだろうか。 ※ 「ファウスト・フォン・ポリドロよ」 「はい」 バラの香り。 それが私の胸元の切り花から漂う中、尋ねる。 「お前は私とレッケンベルが起こした騒ぎを知っていると言った。それゆえのバラの贈呈なのだろう。その意図は理解した。だからお前に問う。何故、レッケンベルはあの時、バラを盗んだのだ」 「お分かりにならないと?」 「判らぬ」 答えよ、ファウスト・フォン・ポリドロ。 ポリドロ卿は少し沈黙し、そして答えた。 「私は、カタリナ女王陛下がせがんだから、レッケンベル殿はバラを盗んだと聞きました」 「まあ、少し違うが間違ってはいない。バラ園の一角ごと盗むとは思わなかったが」 「レッケンベル殿は、恐らく嬉しかったのでしょう」 嬉しい? 何がだ。 「カタリナ女王陛下、貴女は何かレッケンベル殿に物をせがんだ事は?」 「それは」 無い。 何一つとして無かった。 生活に必要なものは王宮が全て用意してくれた。 それ以外の生活に必要でもない雑貨は、レッケンベルが全て贈り物として用意してくれた。 今では使えないガラクタとなってしまっても、未だに捨てられない。 「欲しい、というのは、その欲求は感情の一つです。レッケンベル殿はそれが」 黙り込む私に、ポリドロ卿が言葉を投げかけ続ける。 「嬉しくてたまらなかった。そう私は考えます。だから、バラ園の一角をごっそり盗み取るなんてマネを、いや、おそらくではありますが、勝手な予想を続けても」 「続けよ」 私はポリドロ卿に話を続けさせる。 予想でも何でも構わん。 私は少しでも、あの時レッケンベルが何を考えていたのかを知りたいのだ。 「レッケンベル殿は、カタリナ女王陛下の笑いを引き起こそうとしたのではないでしょうか」 「笑い、とは」 「バラ園の一角全部を盗みとるなんて馬鹿げた暴挙、やるもんじゃない、馬鹿な事をするな、そういう笑いです」 ポリドロ卿の予想。 嗚呼。 あの時のレッケンベルの行為には意味が。 「後々一緒に怒られることまで予想済み。それを覚悟の上で、馬鹿げたことをやった。私はそれを――」 意味が、あったのか。 「レッケンベル殿の愛情であったと考えます」 ポリドロ卿の最後の言葉を聞き。 私の心の何処かで、燻る何かが弾ける音がした。 あの時、私の部屋を花瓶で一杯にしたバラのつぼみ。 あれは、すべて綺麗に咲いた。 脳裏に浮かぶのは、それを眺めながら、ニコニコしていつもの糸目で笑うレッケンベルの姿。 いや、あの時、レッケンベルはバラではなく。 咲いたバラを見つめる、私を眺めていたのだ。 「嗚呼」 口から驚きが漏れる。 馬鹿なやつがいた。 理屈でそう思う。 「愚かな」 そうだ、馬鹿で愚かだ。 何と愚かな。 何と馬鹿で愚かな私なのだ。 私はポリドロ卿にそれを言われるまで、何一つ気づけなかった。 「何故、何故」 ここまで、ここに至るまで。 あのレッケンベルの愛情を理解できなかったのだ。 もはや取り返しは付かない。 レッケンベルは死んでしまった。 もはや、何の恩返しもできない。 何に報いる事もできない。 「何故、私はここまで愚かなのだ」 嗚咽。 玉座にて、涙がポタリと胸元に落ちた。 それがバラの切り花に落ち、それはまるで朝露の雫のようになった。 やがて、通り雨のように、バラに水滴が降り注ぐ。 カタリナ女王は、人目をはばからず、その場で泣き出した。 イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフはこの日、ついにレッケンベルの愛情を理解した。 第38話 愚か者の身の上話 王の間に、カタリナ女王の嗚咽だけが響く。 こうなるのは予想外であった。 私は、カタリナ女王から一笑を取るつもりであった。 私とヴァリエール第二王女のコント。 吟遊詩人から聞いた、カタリナ女王とレッケンベル騎士団長のエピソード。 それをなぞるようにして、カタリナ女王の前でそれを演じ。 「ああ、レッケンベルと共にバラを盗んだ事。そんな事もあったな」 その想い出からくる笑い。 それを取るつもりであったが、想像以上にカタリナ女王の心に深く切り込んだようであった。 カタリナ女王は、おそらく今の今まで、レッケンベル殿の深い愛情を理解できなかった。 私はそれに、深い共感を覚えた。 ひょっとしたら、似ているのかもしれない。 私とカタリナ女王は。 「嗚呼、嗚呼、嗚呼」 カタリナ女王は未だ泣き止まぬ。 ヴァリエール第二王女はオロオロとしている。 それはこの王の間で立ち並ぶ高級官僚貴族、そして騎士達も同様で、どうする事も出来ない。 いや、ただ一人。 老婆。 それが、カタリナ女王の近くに歩み寄り、声を掛ける。 何歳になるかもわからない、ヴィレンドルフで一番侮ってはならない老獪な人物と言われる軍務大臣。 ヴィレンドルフに来る前に、アナスタシア第一王女から聞いた情報。 それを思い出す。 「カタリナ女王。客人がお困りです」 「嗚呼、判っている、判っているのだが」 カタリナ女王が、両手を顔から外し、その顔を上げる。 「涙がどうしても止まらぬ。何故、私はレッケンベルの愛情に、何一つ答えてやる事が出来なかったのだ」 笑いを取るどころか、泣かせてしまった。 私はもはや、何かを言うべきではないのかもしれない。 まして、そのレッケンベルを殺した立場である。 ひょっとしたら、怒らせる事になるかもしれぬ、余計な事なのかもしれぬが。 私の言葉は何故か止まらぬ。 「カタリナ女王陛下」 「何だ、ファウスト・フォン・ポリドロ。まだ何か言うべきことがあるのか?」 「はい」 私は膝を折ったまま、首だけを頷かせる。 「少し、身の上話をしてもよろしいでしょうか?」 「身の上話?」 「一人の愚か者、母親の愛情を死に際まで理解できなかった者の話です」 カタリナ女王の涙は止まらない。 やや卑屈にすら感じる声色で、カタリナ女王は応じる。 「それは私の事か? この、レッケンベルの愛情を死後2年経ってから、やっと気づいた私の事か?」 「身の上話と、先に申しました。これは私の話であります」 「お前の?」 そう、私の話だ。 一人の愚かな男の話。 「今の、カタリナ女王陛下の涙を止めることに、お役に立てればと思います」 ずっと胸に秘めている。 未だに後悔は尽きない。 我が母の話だ。 ここに居る愚か者の身の上話だ。 「良いだろう。お前の話を聞こう。この涙を止めて見せよ」 「承知」 カタリナ女王の許可を得る。 私は一人、身の上話を始める。 「我が母はマリアンヌ・フォン・ポリドロと申します。私を長男として産み、その後夫を亡くし、それからは独り身を貫きました」 「……新しい夫は取らなかったのか? アンハルト王国の文化は知っている。領地を相続する長女無しでは」 「新しい夫を取るのが領主貴族としての義務でありましょう。ですが、そうはしなかった」 従士長ヘルガから聞いた話。 「我が母は病弱で、次の子を産むのが難しいと思ったのか。それとも、新しい夫を拒む程、亡き父を愛していたのか。そのどちらかは判りかねますが。どちらにせよ、それはしなかった」 母上の考えは、未だに判らない。 死んでしまったからには、尋ねることは今更できない。 「そして、いつしか私に槍や剣を教えるようになりました」 「アンハルト王国の文化では」 「はい、異常であります」 はっきりとそう答える。 ヴィレンドルフ王国でも、もちろん10人に1人しか生まれない大切な男子だ。 それは家の中で大切に扱われ、育てられる。 そして、護身用に剣の使い方を教え、身体を鍛えさせることはむしろ好まれる。 しかし。 「アンハルト王国の文化では、明確に異常であります。男など鍛えてなんになるのか、あまりに酷です、息子が可愛くないのですかと、そのように侮蔑を受けました」 「で、あろうな」 「いつしか、懊悩の余り、気が触れてしまったのだ。そのように扱われる様になりました。夫の親族との縁も途切れ、周辺領主との縁も途切れ、母は鼻つまみ者。アンハルト貴族の誰からも相手にされないようになりました」 これも、従士長ヘルガから聞いた話。 母が亡き後に全てを知った。 ヘルガの、自分ですらマリアンヌ様を侮蔑していた、この場で斬り殺して頂いても構わないと言う懺悔の告白。 嗚呼、母上は。 どこまで苦しんでいたのであろうか。 「ですが、母マリアンヌは、私へ槍や剣を厳しく教えることを止めませんでした」 「お前の才能を見抜いていたのであろうな。当時はこの世でたった一人だけ、将来超人に、英傑になると確信して」 「そうであったと考えます」 そうでなければ、母上は途中で訓練を止めていたのかもしれない。 私に将来、良き嫁が来るように奔走していたのかもしれない。 やはり、亡き母親に尋ねることは今更出来ぬが。 「私は、当時、それが、その厳しい訓練が当たり前のことであると考えていました」 「辛くは無かったのか?」 「少しも」 辛かったのは、母上の方であろう。 周囲の理解も得られず、どれだけ苦しかったことか。 「母の苦しさの一つも理解せず、病弱な母がその重たい身体で、どんな身を引き裂く思いをしながら、私を鍛えているかを」 母上の苦しみ。 当時は何一つ考えた事も無かった。 「少しも理解せず、辛くもなく、ただこれが領主騎士としての教育なのだな、と当たり前のように考えていたのです」 前世というものがあったから。 領主騎士の教育が厳しいなど、当たり前のものと受け止めていた。 まして、超人のこの身である。 「私は愚か者でした。時には、まれではありますが、母に勝利して無邪気に喜ぶことすらありました。病弱な母を木剣で打ち据えて。なんと愚かな。あの時の母の、痛みにこらえながらも笑顔を浮かべる顔が今でも忘れられません」 「お前の母、マリアンヌは本当にその時、嬉しかったのではないのか」 「それが何の言い訳になりましょう」 母の身体を慮るべきではなかったのか。 病弱な事は知っていたではないか。 超人として産まれたこの身に、驕っていた愚か者。 それが私だ。 「母は、その病弱な身体を押して、領主としての、貴族としての役目を続けました。私への教育も怠らず、軍役に毎年赴き、おそらくは周囲の貴族達からの侮蔑の目を受けながらも」 苦労したであろう。 母の軍役の多くは、ただの山賊退治であったと聞く。 だが、どうしても他の貴族と顔を会わせざるをえない。 その時の、口には出さねど腹の底では笑っていたであろう他貴族の侮蔑。 母はどれほど苦しかったであろうか。 「母は、軍役で他の街に出かけた際には、必ず私に土産を買ってきました。髪飾りや指輪でした」 「良き母であったのだな。私もレッケンベルから軍役帰りには贈り物を受け取った。今でも大事に保管している」 「そうです。ですが、当時の私にはそれが理解できなかった」 例え、この剣ダコと槍ダコでゴツゴツとした指には嵌められぬ指輪でも。 この2mの身長では人の目に映らぬような髪飾りでも。 例え前世の感覚で、それを付ける事を忌避していたとしても。 母から与えられた贈り物なのだぞ。 「全て、領民に与えてしまったのです。カタリナ女王陛下のように大事に保管する事などせず、今では母から贈られた物は何一つ残っておりませぬ」 母から贈られたもので残っているのは、12歳の頃に贈られた、物とはもはや同列に語れぬ愛馬フリューゲルだけ。 それ以外は何も残っていない。 なんと親不孝者なのだろう。 「それは、お前が領民想いであっただけで」 「申し上げます。それが母に対し何の言い訳になりましょうか」 母は何も言わなかったが、自分の買った贈り物が、全て領民に与えられた事ぐらい知っているだろう。 自分が息子に買った贈り物を、何故か領内の男が嬉しそうに付けているのを目にする。 それが母の心を、どれだけ傷つけた事か。 愚かすぎて、死にたくなる。 感情が昂る。 「母マリアンヌの身体は、私への教育、毎年の軍役、そして周囲からの侮蔑でボロボロに。私が15歳の頃には病に倒れました」 「ポリドロ卿よ。お前は」 「カタリナ女王陛下、今はただお聞きください。貴女以上に愚かな男の身の上話を!」 私は絶叫する。 カタリナ女王の涙はすでに止まっていた。 代わりに、自分の目から涙があふれ出る。 「そうして、更に5年の日が過ぎました。私が20歳の頃、母マリアンヌの姿は、もはやロクにスープも飲めなくなり、か細くなっておりました」 話を続ける。 もはや、誰も止めようとしない。 「そのベッドの上での最期の言葉は、『御免なさい、ファウスト』でした。私は、母を、自分の息子に過酷な運命を与えたと、酷い後悔の念と共に死なせてしまった」 嗚呼、何故。 何故、母上に謝罪など。 謝らせなどしてしまったのか。 私は何も。 「愚かな私は、その時に至るまで、母が死ぬまで、母親の愛情に何一つ気づけずにいたのです。ただ当たり前のように、神から与えられたような力に良い気になって、その力で母親に何一つ親孝行も出来ず」 母が倒れ、代わりに軍役を果たした五年間。 出来たのはそれくらいの、後継者として当たり前の事。 何の足しにもなりはしない。 「私は貴女の事をちゃんと母親として愛している。愛しているのだと。その一言すら告げられなかった」 微かに、すすり泣く声が聞こえる。 ヴィレンドルフの貴族たちの静かにすすり泣く声であった。 そして。 「ファウスト・フォン・ポリドロよ。お前は私なのだな」 再び、静かに泣き出した、カタリナ女王の涙。 嗚呼、我が母のために泣いてくれるのか。 なれば、この愚か者の身の上話をした価値はある。 「我々は共に愚か者だ。ファウスト・フォン・ポリドロ」 「そうです。しかし、私はこう考えるのです、カタリナ女王陛下」 「何か」 カタリナ女王が、玉座に座ったまま尋ねる。 「愛は、見返りを求めるだけなのは愛とは呼ばないのです。貴女はレッケンベル騎士団長から。私は母マリアンヌから愛されました。かの二人は、見返りなど求めていたのでしょうか」 「求めていなかった、か」 「死んだ者はそれで充分なのかもしれない。そう考えます。そして」 そして。 亡き者に我々が出来ることは。 「相手が死してなお想う事で、亡き相手に届く愛があるのかもしれませぬ」 「あるのだろうか。もはや我らの想い人はこの世から旅立ってしまった。ヴァルハラや天国はあまりに遠い」 「私はあると考えています。そうでなければ」 そうでなければ。 「余りにも悲しすぎるではありませんか。そう考えます」 「そうか」 カタリナ女王が、その涙を指で拭いて。 玉座から立ち上がる。 「ファウスト・フォン・ポリドロ」 「はい」 私は膝を折ったまま、その声に返事する。 カタリナ女王はつかつかと歩み寄り、私の前で贈答品、バラの切り花を私の眼前に差し出す。 「クラウディア・フォン・レッケンベル。その墓地を訪れて欲しい。そして、この花束を、お前から捧げてくれ。お前にはその権利がある」 「私はレッケンベル騎士団長を撃ち破った男です」 「レッケンベルを甘く見るなよ、ファウスト・フォン・ポリドロ。私がどれだけレッケンベルの傍にいたと思っている」 カタリナ女王は、私の手に花束を握らせた。 「お前が自ら花を捧げねば、レッケンベルに私が怒られる。そう思っての事だ」 「承知」 短く答えた。 カタリナ女王はそうして玉座に戻っていき、再び座る。 「皆の者、騒がせたな。交渉を再開する。ファウスト・フォン・ポリドロ、お前との話は一旦終わりだ」 「はい。後はヴァリエール第二王女とお話を」 「判っている」 本来、カタリナ女王と話すべき正使。 それに視線を向けて、カタリナ女王は交渉を再開する。 「ヴァリエール第二王女。10年の和平交渉、受けても良いぞ」 「本当ですか!」 「ああ、本当だ。それで条件だが」 カタリナ女王は私を指さし、呟いた。 「ファウスト・フォン・ポリドロの子を私の腹に宿せ。それが条件だ」 「はあ!?」 ヴァリエール第二王女の声。 それが王の間に響き渡るが、ヴィレンドルフの上級貴族や騎士達はピクリとも動かない。 むしろ、この展開に納得がいくという表情であった。 私はというと。 「何故?」 カタリナ女王の心が判らぬ。 笑わせる、という最初の思惑こそ外せど。 カタリナ女王の心はガッチリ掴んだと思った、リーゼンロッテ女王の言うとおり、心を斬れと言う役目を果たした。 後は、ヴァリエール第二王女が話を進めるだけ。 そのつもりであったのだが。 「いや、本当に何故?」 カタリナ女王が、何故自分の子種など欲しがるのか。 ファウスト・フォン・ポリドロにはさっぱり見当がつかなかった。 第39話 和平交渉成立 私には。 ファウスト・フォン・ポリドロには理解しがたい状況が続いていた。 私の子種が欲しい? 何故そうなる。 眼前では、カタリナ女王とヴァリエール様がハードな交渉を続けている。 「ファウスト・フォン・ポリドロの子を私の腹に宿す。それが条件だ。何度も言わせるな」 「いえ、しかしですね。ファウストは、ポリドロ卿は我が国と保護契約を結んでいるだけの領主であり、我が第二王女相談役といえども、アンハルト王国にそれを強制する権限などなく」 「だれが強制しろと言った。もうよい。ポリドロ卿と直接話す」 ヴァリエール様はあっさり敗れた。 ヴァリエール様の役立たず。 そう心で罵ってみるが、言ってる事は間違ってないよな。 私がカタリナ女王と話さないといけない内容だ、これは。 というか、本当に話を聞かねば判らん。 何をカタリナ女王が考えているのかが、わからん。 「ファウスト・フォン・ポリドロよ。私に抱かれるのは嫌か?」 カタリナ女王は立ち上がり、その赤毛の長髪に、ドレスからはちきれんばかりのムチムチボディを晒している。 文句なしの美人でもある。 そのオッパイは大きい。 いえ、嫌ではないです。 全然不満なんか無いです。 けどさあ。 「カタリナ女王、私は和平交渉に訪れたとはいえ、隣接する仮想敵国の英傑、そしてヴィレンドルフの英傑にして貴女の親代わりと言ってもいいレッケンベル殿を撃ち破った男であります」 私は理屈を吐く。 駄目な条件揃いすぎだろ。 「それに何か問題が? レッケンベルを撃ち破ったのは、正々堂々の一騎討ちであったのだ。まして、お前はその死を悼んでくれさえした男だ。そこに恨みは無い。それどころか、ヴァルハラで今も眺めているであろうレッケンベルは、私が子を孕んでも良いと思える男を見つけた事に喜んでくれるであろう」 サラっと、カタリナ女王は私の理屈を流した。 いや、問題ありだろ。 私はそう思うが。 「軍務大臣。何かポリドロ卿の子を私が孕む事に問題があるのか?」 「何一つ有りませぬ」 カタリナ女王の言葉に、老婆がニコニコと顔をしぼめて答える。 「ああ、やっとカタリナ様が、次代の女王を産む覚悟を固めて下さった。その安心で胸が一杯でございます。本音を申せば、ポリドロ卿には我が国に王配として来ていただきたい。ですが、それはさすがに望み過ぎでありましょうからな。妥協すると致しましょう」 ほっほっほっ、と老婆が微笑む。 ほっほっほっ、じゃねえよババア。 それでいいのか。 ヴィレンドルフの流儀は知っているが、さすがに上級貴族達が反対――してくれると思ったが。 「あのポリドロ卿を抱き、子を孕むなど」 「何と羨ましい」 漏れ聞こえる声から判断するに、全然反対してねえ。 あるだろ、普通反発とか。 お前等も自国の男と結ばれて欲しいとか、自分とこの男を差し出して派閥を強化したいとか。 あるだろ、そういう願望が。 そんな私の考えを無視して、カタリナ女王は尋ねる。 「この王の間に居る全ての貴族、騎士に問う。私がファウスト・フォン・ポリドロの子を孕むことに反対の者はいるか?」 カタリナ女王が満座の席の全員に問う。 いくらヴィレンドルフの流儀が流儀とはいえ、他国の男はな。 正面切って問われれば、誰か反論位はするだろう。 この世界は絶対王政の国ではない。 封建国家である。 この場にはヴィレンドルフの諸侯も揃っている。 誰かしら反対するだろう、そう思うが。 「カタリナ女王、我が公爵家にもファウスト・フォン・ポリドロの子種を譲っていただくことは……」 「同じく、我が家の長女にも」 「我が家にも……」 わあ、わたくし大人気。 止めろやお前等。 貞操観念逆転世界とは言え、何故こうも私の子種を求める。 ヴィレンドルフだからか。 この国では私は絶世の美男子だ。 そして、この国では強き者を崇める。 そして超人の子は、超人の素質を受け継ぎやすい。 何となく、そこらへんの理屈で納得する。 強引に納得する。 「却下、ファウスト・フォン・ポリドロは私のものとしたい。軍務大臣の言うとおり、本音では王配に欲しい。だが、ポリドロ卿にも領地・領民がアンハルトにて待っていよう。これでも妥協しているのだぞ」 その心配りは嬉しいのだが。 貞操帯の下にて今は縮こまっている、もう一人の私も不満は全くないのだが。 ヴィレンドルフの女王に抱かれるとだ。 「カタリナ女王陛下、恐れながら申し上げます」 「何だ」 「カタリナ女王陛下に抱かれると、私の結婚相手を見つけるのが絶望的となります」 ただでさえ、アンハルト王国ではモテないのだ。 公然と口説いてくる相手など、私を愛人に欲しいとアピールするアスターテ公爵。 そして、唯一私を直接男として口説いてきたザビーネ殿ぐらいのもの。 敵国の女王の、情夫となったと噂されれば、おそらく私の輝かしい結婚生活は絶望的となる。 もう嫁など絶対来ぬ。 「私はアンハルト王国では全くと言って良いほどモテませぬ。敵国の女王の情夫になったとなると……」 「それはアンハルト王国が愚かなのだ」 ふん、と鼻でカタリナ女王が笑い捨てる。 一刀両断である。 その愚かなアンハルト王国の使者なんですけど、私。 「国の英傑に、わきまえた嫁の一人も斡旋できぬ。ましてや英傑を国民や貴族が冷遇? アンハルト王国はどうなっているのか。正直疑問に思うぞ」 「私もその辺は不満が無いとまでは言えませぬが……」 国から、嫁の一人くらい斡旋してくれよ。 私、ヴィレンドルフ戦役では死ぬような思いしたぞ。 ヴァリエール第二王女の初陣も、私には難行ではないとはいえ、他人から見ると無茶ぶりだったぞ。 そして本当の無茶ぶりは、今回のこの和平交渉だ。 私、頑張ってるぞ。 何故、王家は嫁の一人も斡旋してくれないのだ。 アンハルトの貴族はパーティー一つ呼んでくれやしない。 アンハルトの貴族の女と、嫁を見繕うため出会う機会なんぞ一つも無かった。 言われてみれば、ファウスト・フォン・ポリドロは不服であった。 その原因はアンハルト王家からファウスト・フォン・ポリドロが余りにも愛され過ぎたから。 王家が嫁を斡旋してくれないのは、ファウストをアナスタシア第一王女とアスターテ公爵の愛人にするつもりだから。 貴族のパーティーに参加できないのは、アスターテ公爵が余計な事をされないよう睨みつけているから。 要するに、全てファウストの自業自得であった。 何もかもがファウストの責任とは言えないが、露骨な好意の視線を向けているリーゼンロッテ女王、アナスタシア第一王女、アスターテ公爵。 それらに全く気付かないのは、ファウストが恋愛糞雑魚ナメクジであったからだ。 今回の、カタリナ女王からの好意の件も含めて。 ファウストには、墓穴を自分で掘る癖が存在した。 だが、今の状況とは関係ない。 故に、話は続く。 「ヴィレンドルフから、わきまえた嫁を一人選抜する。熾烈な争いになろうが、ちゃんとお前の要求も踏まえた女を用意する。これでどうだ」 「いえ、ですから敵国から嫁を貰い受けることは」 「和平交渉を結んだなら敵国ではない。和平交渉、別に10年でなくともよいのだぞ。20年でも30年でも。なんなら、ポリドロ卿が死ぬまででも良い」 私はカタリナ女王の勢いにたじろいだ。 アカン、このままでは押される。 反論が思いつかない。 どうすべきか。 貞操帯の下に眠るもう一人の私は、もういいじゃないか。 そんな諦めというか、本音を口走る。 カタリナ女王は正直好みである。 いや、待てファウスト・フォン・ポリドロ。 お前にはザビーネというロケットオッパイが口説いてきてるじゃないか。 比較する。 ムチムチボディのカタリナ女王と、ロケットオッパイのザビーネ。 甲乙つけがたし。 私の貞操帯下に眠る、もう一人の私はそう判断した。 ゆえに、沈黙する。 どいつもこいつも役立たずである。 やはり、私が最後に頼りにできるのは私の地頭だけである。 この現世では余り役に立たぬどころか稀に混乱させるが、前世の教養だけは妙にある私の脳味噌よ。 答えを導き出せ。 出した答えは―― 「カタリナ女王陛下は、私を愛しておいでなのですか?」 逆に尋ねてみる。 これである。 「……判らぬ」 カタリナ女王の正直な答え。 「ただ、慰め合いたいだけかもしれぬ。褥で、お前を抱きしめて泣きたい。ただそれだけなのかもしれぬ」 哀願するような目。 それで私を見つめながら、カタリナ女王は独り言のように呟く。 「だが、それは間違いか。ポリドロ卿。私と褥で傷を慰め合うのは嫌か?」 全然嫌じゃありません。 貞操帯の下の、もう一人の私自身がムクリと反応した。 落ち着け、もう一人の私自身よ、ここでチンコ痛くなるのは御免だ。 考えろ、ファウスト・フォン・ポリドロ。 もうゴールしてもいいよね、そんな考えもうっすら浮かばないわけではないが。 なんとかこの場を切り抜けるのだ。 再び、出した答えは。 「嫁を娶ってから、カタリナ女王と褥を共にする。というのでは如何かと」 一時保留であった。 断れば、和平交渉は成り立たぬ。 第二次ヴィレンドルフ戦役の幕開けである。 もう一回やったら、ほぼ確実に負ける戦の始まりである。 やっても負けて、私がヴィレンドルフの王宮に引きずられていくだけである。 だから、もはやカタリナ女王の申し出は断れぬ。 一時保留しかできない。 「嫁を娶ってからか。その嫁を言い聞かせるのに、どれくらい時間がいる。 また、お前が嫁を娶るまで何年かかる? 長くは待てぬぞ」 その一時保留案に、聞く耳を入れてくれるカタリナ女王。 やはり理不尽な人間ではない。 私は考える。 「2年、待てませんか」 「2年か……その頃、私とお前は24歳だな」 逆に言えば、私も待ててそれぐらいだ。 アンハルト王国からの斡旋、或いは私がザビーネ殿を口説き落とすか、逆に口説き落とされるか。 待ててそれだけだ。 もし、ザビーネ殿が嫁に来てくれなかった場合。 その代わりすらアンハルト王国が何も手配してくれないようなら、いっそカタリナ女王を抱く。 そしてヴィレンドルフから嫁を手配してもらい、ポリドロ領を継ぐ子供を産んでもらう。 それ以外、思い浮かばぬ。 和平交渉の仲介役となるのだ。 私がヴィレンドルフから嫁を貰っても問題はあるまい。 このぐらい計算含みでなければ、正直もうやってられぬ。 「よかろう」 カタリナ女王は頷いた。 「待つとしよう。我が居室のベッドでお前を抱く日を、ただ待ち続けることにしよう」 「納得いただけたなら、幸いです」 もうこれ以上、交渉の余地はない。 先ほどからずっと黙りっぱなしのヴァリエール様も、それくらいは判っているのか、頭を抱えている。 ヴァリエール様、貴女が悪いわけではない。 これは交渉役がアナスタシア第一王女でも、アスターテ公爵でも、交渉条件揺るがないわ。 カタリナ女王に一切譲る気ないもの。 「よし、決まりだ。二年後、いや、来年も必ず訪れよ。ファウスト・フォン・ポリドロよ。二年もお前の顔を見れぬのは辛い」 「承知しました」 来年も来ることになるのか。 いや、決して嫌いじゃないんだよ。 男と女としては嫌いじゃないんだよ、カタリナ女王の事。 でも、自分としては権力を背景にして押し切られた気がしてならぬと言うか、現実はそうである。 貞操帯の下のもう一人の私は嫌がらないが。 頭蓋骨の中に住む、脳味噌の中の私は何か少し腑に落ちん。 まあ、どうしようもないか。 溜息をつく。 「これにて交渉成立だ。10年の和平交渉を受け入れよう。アンハルト王国の希望によっては和平期間の延長も考えよう。ヴァリエール第二王女、無視したようで済まなかったな」 「はい」 ヴァリエール様は、ああ、もう何もかもファウストに押し付けてしまった、そういう表情であるが。 貴女にはリーゼンロッテ女王に、バラを盗んだ件で一緒に謝ってもらわねばならぬ。 まだ仕事は残っているのだぞ。 そんな落ち込んだ気持ちになられては困る。 「ポリドロ卿、いや、これからはただのファウストとして呼ばせてもらうぞ。我が情夫、いや、愛人となるのだからな」 「承知」 私は何かを諦めた。 「一秒の時間の別れも惜しいが、とりあえずファウストはレッケンベルの墓地に花を捧げに行ってくれ。そこで、今日はどこに泊るか。私の寝室でも良いが――楽しみは先で良い」 カタリナ女王は朗らかに笑いながら、目線を、立ち並ぶ騎士の列。 その末席、およそ年齢は12歳ぐらいであろか。 その少女に視線を送り、言葉をかける。 「ニーナ・フォン・レッケンベル。お前の母、クラウディア・フォン・レッケンベルの墓地へと案内し、そのまま第二王女殿と、ファウストをお前の屋敷に泊めてくれ」 「承知しました。我が屋敷であれば、ポリドロ卿も安らげましょう」 え、この少女、レッケンベル殿の一人娘か。 事前に情報は得ていたが、ちっとも安らげない。 ちっとも安らげないぞ、自分が一騎討ちで殺した娘さんの屋敷で一泊だなんて。 これでマルティナにも結構気を遣った生活を送ってるんだぞ。 お前等、私の心境に少しは気を配ってくれ。 「それでは、これにて交渉を終えるとしよう。後はヴィレンドルフの王都を楽しんでくれ」 ちっとも楽しみにできないんですが。 「ああ、ニーナ・フォン・レッケンベル。最後に一つ。お前の母、クラウディアの用いた魔法のロングボウ。あれをファウストに貸してやってはくれまいか? 遊牧民族相手に死なれでもしたら私が困る」 「さて、果たしてアレを引けるものか。引けるものでしたら、お貸しするのもやぶさかではありませんが」 何か勝手に話進んでるし。 あの、ヴィレンドルフ戦でも私が食らった強弓か。 そりゃあ、おそらく来年の軍役である遊牧民族戦で使わせてもらえるなら有難いが。 「それでは、交渉を完全に終わりとする。皆、大儀であった」 カタリナ女王の言葉と共に。 和平交渉はこれにて纏まり、終結となった。 ファウスト・フォン・ポリドロの微妙な感情をその場に置き去りにしながらではあったが。 ともかく、和平交渉は終わった。 第40話 憎まれる覚悟 墓地。 クラウディア・フォン・レッケンベルの墓前。 その墓前には、大量の花が捧げられている。 ああ、レッケンベル殿は本当に国中から愛されていたのであろう。 花の質で判るのだ。 平民が小遣い銭で花売り娘から買えるような質素な一輪の花から。 貴族が大枚はたいて買ったような、豪勢な花束まで。 全てが揃っている。 それが一目で判る様子であった。 私が倒した、そのヴィレンドルフきっての英傑の墓の前に膝を折り、アンハルト王宮から盗んで来たバラの花を捧げる。 リーゼンロッテ女王の大切にしている亡き王配のバラ、その価値は捧げられた花の中でも高い方だと思う。 きっと、レッケンベル騎士団長はヴァルハラで大爆笑していよう。 それはよい。 それはよいのだが。 私を貫く視線、それが背後からでもよく判る。 この超人的感覚では、手に取るように判るのだ。 ニーナ・フォン・レッケンベル。 レッケンベル騎士団長の忘れ形見、その一人娘。 彼女はカタリナ女王との謁見を終えてから、墓に案内するまでの間、一言も喋らなかった。 こっちも同様である。 語り掛けることはできなかった。 自分が戦場で殺した相手の、一人娘にどう語り掛けて良いか判らなかったのだ。 目を瞑る。 今はただ、レッケンベル騎士団長の冥福を祈る。 ヴァルハラで確実にエインヘリヤルとして歓迎されたであろう、彼女の冥福を祈るのも変か。 ヴィーグリーズの野にて、敵である巨人どもを相手にまわしての活躍を、代わりに祈る事にしようか。 私は瞑目し、祈りを続ける。 それが数分経った頃であろうか。 私は立ち上がり、ずっと私の背後を貫いていた視線の主に声を掛けた。 「行こうか。ニーナ嬢の屋敷に」 「王都を見て周る気はありませんか? カタリナ女王はそのように」 「いや、目立つのは御免だ。なにせこの体格なのでな。このような背の高さの男、目立って仕方ないだろう」 フリューテッドアーマーはすでに脱ぎ終えた。 おそらく、帰路につくまで着用することは無いだろう。 今は用意しておいた礼服で、ニーナ嬢に相対している。 「そうですか、では我が屋敷に案内します。再び、馬車にお乗りください」 「判った。マルティナ、行くぞ」 「了解しました」 第二王女、ヴァリエール嬢はこの場に居ない。 今日はもう何もしたくない、と憔悴しきった顔で、第二王女親衛隊を引き連れニーナ嬢の屋敷に先に向かった。 可哀想に。 いや、心労の一つ、バラを盗んだのは私のせいだが。 後はカタリナ女王との交渉で気疲れしたのであろう。 ヴァリエール様は初陣で成長した。 私から見ても、そう感じ取れる。 だが、才能としてはやはり凡人なのだ。 女王の気に当てられるのは厳しかったか。 そんな事を思いながら、馬車に乗る。 馬車に乗るのはニーナ嬢、マルティナ、それに挟まれて私。 まだ幼いともいえる少女二人に挟まれる、身長2m超えの筋肉モリモリマッチョマンという構図。 奇妙な光景であった。 「マルティナ・フォン・ボーセル殿」 「はい」 私という巨大な肉塊の存在を無視して。 ニーナ嬢が、マルティナに声を掛ける。 「憎しみはないのですか?」 その発言は、唐突であった。 意味は理解できる。 母親を殺した、ファウスト・フォン・ポリドロという人物が憎くはないのか。 そういう意味であろう。 「ありません」 マルティナはあっさりと答えた。 「母は売国奴でありました。貴女の母のような、国中がその死に涙する英傑とは違うのです」 「だが、母親であった」 「それがどうしました」 ニーナ嬢の問いに、マルティナが跳ね除ける様に答える。 「母親です。しかし、売国奴でした」 「お前は、あの謁見の場にいた。ファウスト・フォン・ポリドロ卿の、母君マリアンヌ殿への慟哭を聞いた。何も感じなかったのか。お前の母は、お前を愛さなかったのか」 ニーナ嬢の、再びの問い。 私を引き合いに出されたが、私は口を挟む気にはなれない。 黙り込み、マルティナの答えを待つ。 「母は、カロリーヌは、私を確かに愛しておりました」 「なら」 「なれど、ファウスト様を憎みなどしませぬ。あまりに筋違いであります」 マルティナが、ニーナ嬢を無視する様に顔を背けていたのを止め、ニーナ嬢の目を見つめる。 「貴女は、ファウスト様を憎んでおいでですか」 「侮辱するな! 憎んではおらぬ!!」 揺れ動く馬車の中、その小さな背でニーナ嬢が立ち上がる。 「正々堂々だ! 正々堂々、ポリドロ卿は我が母上を討ち取ったのだ。そしてその遺体を丁重に返却し、その闘いを生涯忘れないとまで言ってくれた。この王都までの道中にて、我が母上への弔いのようにあらゆる騎士の一騎打ちを断らず、ここまで来たのだ! それを、それを」 ニーナ嬢が、感情的な声を張り上げるが。 やがてそれは途中で止まり、ニーナ嬢の従士であろう馬を引いていた者が馬車の中を覗き込む。 ニーナ嬢の叫び声が聞こえたのであろう。 馬車は一時、停止する。 「失礼します。ニーナ様、何か」 「何でもない。馬車を止めないでくれ」 ニーナ嬢は座り込み、口を閉じる。 従士は馬車の中に突っ込んだ首を引き戻し、再び馬を操る。 馬車が動き出した。 「憎む事など。憎める要素など、どこにもないのだ。憎めば、ヴァルハラにいる母上が激怒するであろう」 ニーナ嬢の、自分に言い聞かせる様な呟き。 嗚呼。 ニーナ嬢は、悩んでいるのだな。 ならば黙ってはおれず、口を開く。 「ニーナ・フォン・レッケンベル殿。貴女の名前を、私は何とお呼びすればよろしいか伺っても?」 「……ただのニーナでいい」 「では、ニーナ嬢。私を憎むと言う感情は悪い事ではありません」 言い聞かせるように、呟く。 憎まれたくはない。 好んで憎まれたくはないんだがなあ。 この子には、私を憎む資格があるのだ。 だから。 「憎むという事も、愛するという事も、執着から産まれます」 「執着?」 「執着です。例えば、私は領地に執着しております」 先祖代々の領地。 ポリドロ領。 大した特産品も無い、どうという物もない領地だ。 300人ぽっちの領民が食べて行き、そして少ないながらも食料を輸出して金銭を得られる程度の領地。 だが。 私が先祖代々、いや、母マリアンヌから受け継いだ領地なのだ。 その墓地では、母の遺骸が静かに眠っている。 「私は、その執着を肯定します」 「どういう意味で肯定すると?」 「貴方が母君、クラウディア・フォン・レッケンベルを心から愛しておられたならば」 一つ呼吸を置き。 続き、呟く。 「貴女には、私の首を討ち取る権利がある」 ああ、言ってしまった。 言わずともよい台詞を。 「私に、ポリドロ卿を憎めと言うつもりか?」 「少なくとも、私は憎まれて当然の立場の人間だと自覚しております」 この国では誰もが私を賞賛する。 騎士の誉れであると。 亡きレッケンベルも喜んでおられるだろうと。 だが、果たしてそうなのだろうか。 本当にそれが正しいのだろうか。 愛する母親が殺されたのだ。 それが私の立場ならば――そんな相手、憎んで当たり前ではないか。 ニーナ嬢の心境を想う。 ヴィレンドルフの誰もが、私、ポリドロ卿を肯定する。 ヴィレンドルフの価値観は、私を、ポリドロ卿を憎む相手ではないと肯定してしまう。 母親を殺されたニーナ嬢は、たまらなかったのではないだろうか。 自分の憎しみの感情は間違ったものであると。 そう、周囲から決定されてしまった。 だが、良いのだ。 私は今まで殺してきた敵の親族に憎まれる覚悟を持って、ここに居る。 「覚悟が出来たなら、いつでも、挑んでおいでなさい。喜んで、とは申しませぬが相手を致します」 私は優しく、ニーナ嬢に語り掛けた。 ニーナ嬢は、少し沈黙した後。 「もう、いい。私のこの感情が、おそらく、憎しみという感情が」 ニーナ嬢が、まだ未成熟のささやかな胸を押さえる。 「間違っていないと肯定されたならば、それで良い。おそらく、私とポリドロ卿が争う未来はないであろう。今回定められた10年の和平交渉は、きっと延長される」 そして、何かを静かに諦めた。 そういう表情で、呟いた。 「だが、ポリドロ卿。刃引きの剣で良い、殺し合いでなくともよい。いつか私が16歳を迎えたら、闘ってはくれないか。ヴァルハラから眺めている我が母上に、自分が如何に成長したかを見せたいのだ」 「承知」 私は短く答えた。 さて、ニーナ嬢と二人で話し込んでしまったが。 「マルティナ」 騎士見習い、我が従士に声を掛ける。 「何でしょうか」 「マルティナの母親、カロリーヌと私は一騎打ちをした」 「知っております」 であろう。 だが、まだお前に伝えていない事がある。 「死の間際のカロリーヌに、何か言い残す言葉があるかと私は問うた。帰って来た言葉は『マルティナ』の一言だけであった」 「……それが、どうしました」 マルティナが不機嫌そうにそっぽを向く。 「お前も、私を憎んでよいのだ」 「私は貴方に、その頭を地に擦り付けさせて、命を救われた身です。恩知らずにはなりたくありませぬ」 「あれは、お前を救いたかったのではない」 そうだ。 厳密にいえば、マルティナ個人を救いたかったのではない。 たまたま、自分の懐に窮鳥が飛び込んでしまっただけ。 戦場でもない平時で、子供の首など自分の手で斬れるはずもない、そんな前世の価値観の暴走。 相手が誰でもリーゼンロッテ女王に懇願し、助けたであろう。 「自分の酷く歪んだ誉れがそうさせただけだ。だから、マルティナがそれを気にする必要はない。何度でも言う。憎んでよい。私はその覚悟の上で人を殺している」 「いつまで、その様な生き方を続けるおつもりですか」 「私が死ぬまで。恐らくは誰かに殺されるまでだ」 きっと、ベッドの上では死ねまい。 それは覚悟している。 それは別に良い。 私が欲しいのは、我が領地を受け継いで、立派な領主騎士として生きてくれる跡継ぎだ。 それさえ作れば、人生に悔いはあれど、死んでしまっても構わないと覚悟はできる。 「ああ、それにしても嫁が欲しい」 少女二人を無視する様に、愚痴る。 いつになったら私は結婚できるのかね。 「……ポリドロ卿にも好みがおありかと思いますが、どのような女ならその身を抱かれると?」 それに反応する、ニーナ嬢の質問。 私は答える。 「純粋であれば、それでよい」 オッパイが大きければそれでよい。 処女、非処女など問わぬ。 誰を過去に愛そうが、どんなに男女経験があろうが構わぬ。 むしろ未亡人は興奮する。 「純粋?」 「そうだ。純粋だ。ああ、男女経験がという意味ではないぞ」 最後に、そのオッパイの大きい女が私の傍にいて、子を産んでくれればそれでよいのだ。 それが私の純粋という言葉の意味である。 どこまでも純粋な私の感情。 巨乳への憧憬。 それが私の恋愛定理である。 「まだ、ニーナ嬢には早いかもしれないがね」 「でもファウスト様童貞ですよね。恋愛経験ゼロですよね。そんなドヤ顔で恋愛語られても」 マルティナの強烈なツッコミ。 事実ではあるが、そう言われても。 アンハルト王国では不人気な容姿の私が嫁を娶るには、童貞であるという貞淑さが必要なのだ。 モテないから、恋愛ができない。 そして恋愛がよく判らないから、ますますモテない。 そしてモテないから、結婚するためには童貞を必死で守らざるを得ない。 負のループである。 「私の、ヴィレンドルフ人の目から見て、ポリドロ卿がモテないというのは正直理解しがたく、貴方が語る純粋という言葉の意味もよく判らないのですが。まあ、よしとしましょう」 コホン、と咳をつき。 ニーナ嬢は、微笑んだ。 「ポリドロ卿、私は貴方を憎んでおりました。ですが、男としての価値を見出してないとまでは言っておりませぬ。私が16歳の時、勝負にて勝利した暁には、その肌身を私に許していただきたいものです」 「12歳のマセガキの言葉としか思えないね」 私は軽くあしらう。 私はロリコンではない。 大きいオッパイを信仰しているのだ。 つまり熱愛者なのだ。 私は良き騎士であり、勇敢な戦士であり、そしてオッパイの熱愛者であって、立派な領主騎士なのだ。 是非とも、そこのところを理解してもらいたいものだ。 だが、もしニーナ嬢が、その未成熟なオッパイが成長したのならば。 その時は相手をするのもやぶさかではない。 まあ、わざと勝負に負けてやる様なマネは、騎士として死んでもせんがね。 ファウスト・フォン・ポリドロはポリドロ領の名誉のため、無敗である必要があるのだ。 少なくとも、私の跡継ぎが産まれるまでは。 「ニーナ様、屋敷に到着しました」 馬車が止まる。 その屋敷は法衣貴族のそれとしては巨大であり、確かに第二王女親衛隊14名を招くスペースもありそうであった。 クラウディア・フォン・レッケンベルが如何に王家から重用され、愛されていたかがうかがい知れる。 正直、大臣が住むような屋敷だろコレ。 さすがに我が領民30名は、王都の宿屋を手配してもらえるようお願いしてあるが。 「では、屋敷にお入りください」 私は先に馬車から降りたニーナ嬢に従い、マルティナを引き連れて屋敷内に入る事にした。 第41話 ヴァリエールの憂鬱 正式名称ゲオルク・ヴァリエール・フォン・アンハルト様。 短く言うとヴァリ様は死んでいた。 ここはレッケンベル屋敷、その別邸。 親衛隊全員が入れる豪華な客室のベッドと一体化し、ヴァリ様は二度と立ち上がれなくなったのだ。 「死にたい、本気で」 ベッドに埋もれながら、ヴァリ様が呟く。 靴ぐらいは脱いだ方が良いと思うのだが。 「落ち着いてください、ヴァリ様、もといヴァリエール様」 「ヴァリ様って何?」 親衛隊の一人、つまり私は心の中でヴァリエール様の事を親愛の意味をこめ、ヴァリ様と呼んでいたが。 それがつい口に出てしまったようだ。 顔を突っ伏し、ベッドに埋もれたままのヴァリ様の声に応える。 「ヴァリエール様、何もそう気落ちせずとも。和平交渉は成功したわけですし」 「そうね。ファウストを犠牲にすることで成功したわね。私何もやってないわよね」 第二王女相談役、ファウスト・フォン・ポリドロ卿。 あの方は、そもそもヴァリ様に交渉能力を余り期待していない。 ヴァリ様に出来ることと出来ない事を、完全に見切っておられるのだ。 あの敵国の首脳陣が集まった満座の席で、いくらリーゼンロッテ女王陛下の亡き王配が大事に育てたバラを盗まれたからといったところでだ。 アナスタシア第一王女やアスターテ公爵なら、やりやがったあの馬鹿、と内心思いながらもスルーしたであろう。 ヴァリ様以外にあそこまで演技ではなく、本気で慌てられるものかと。 つまり、ポリドロ卿はヴァリ様を道化にしたわけであるが。 それに対してはあまり腹が立たない。 カタリナ女王の心を溶かし、和平交渉を成立させるためには必要な行為であった。 つまるところ、ポリドロ卿がどこまで予定通りに事を進めたかは尋ねなければ判らないが。 結論として、ポリドロ卿は全てを上手い事運んだ。 全ては成功したのだ。 但し。 「もう、後でお母様に怒られるとかどうでもいいわ。ファウストに全てを背負わせてしまった」 ポリドロ卿の貞操を犠牲として。 アンハルトではモテない英傑、一部の貴族からは心無い侮蔑すら受けるポリドロ卿とて、何も好き好んで見知らぬ、どうでもいい女に股を開く事を好む性癖は無いだろう。 感情が昂った時こそ雄弁に喋るが、普段は朴訥で真面目一辺倒。 22歳にして未だ純潔であり童貞を守り続けるポリドロ卿だ。 敵国の女王相手とは言え、ただの種馬になるなど嫌で仕方ないだろう。 まあ、カタリナ女王の事を嫌いではなく、同じ境遇による同情位は寄せていると判断するのだが。 その程度は私の、騎士教育もマトモに受けていない第二王女親衛隊たちの知能でも理解できる。 だが、結論を言おう。 ポリドロ卿は自分の身を切り売りして、和平交渉を勝ち取った。 「これ、ひょっとしてファウストの評判が落ちるのかしら」 「ポリドロ卿の評判も落ちますが――アンハルト王家の評判も落ちます」 ザビーネの横やり。 その顔は少し青白い。 惚れた男が、他所の女に股を開く事になれば顔も青くなるか。 一夫多妻制、一人の男を多数の女で共有することなど珍しくもない話だ。 そこまで顔を青くしなくてもいいと思うが。 純潔が、ポリドロ卿の童貞が欲しいなら先に奪えばよい話であるし。 「まず、ポリドロ卿が心無い愚か者に笑われるのは間違いないでしょう。あの男、モテないからとついに敵国の女王に身を売り渡したぞ、と言いだす愚かな者が必ず現れます」 「……そんなバカな奴が居るのを見かけたら、すぐに報告しなさい。その場でブチのめしても王家は許すわ。それが貴女達より爵位が上の相手でもね。歯が折れる程遠慮なく顔を殴りなさい」 「言われるまでもなく」 ポリドロ卿は初陣を補佐し、ハンナの死を心から悼んでくれた戦友である。 ザビーネが答えたように、言われるまでもなくブチのめしてやる。 ポリドロ卿への侮蔑は、我らへの侮蔑も同然だ。 ヴィレンドルフ戦役を共にした第一王女親衛隊、そして公爵軍の騎士達もそうするであろう。 そしてアナスタシア第一王女も、アスターテ公爵も、そのブチのめす行為をお認めになる。 おそらくはリーゼンロッテ女王さえも。 「続き、よろしいでしょうか」 「いいわ。ファウストが今回の行為で、国のためその身を売ってくれたと思うどころか侮蔑する奴が居るって事は判る。次に、王家の評判が落ちるって?」 ヴァリ様は、顔をベッドに突っ伏したまま喋り続ける。 未だ立ち上がる元気が湧いてこないようだ。 目的である和平交渉は成立した。 しかし、ヴァリ様のダメージは大きい。 「今度はポリドロ卿を侮蔑などしていない、その救国の英傑としての功績を純粋に認めているマトモな貴族達からの評価です。ポリドロ卿が自ら進んでその身を犠牲にした部分が有るとはいえ、王家は全ての負担をポリドロ卿に押し付けてしまいました」 「そーよねー、私なんにも出来なかったもんね」 ヴァリ様への、ザビーネによる追撃。 少しは言葉を選べ、馬鹿。 ヴァリ様の身体がズブズブと、ベッドに沈み込んでいくようにさえ見える。 「何故王家は何もしてあげられなかったのか。その貞操を敵国の女王に売り渡させるなど、あってよいものか。アンハルト王家は救国の英傑であるファウスト・フォン・ポリドロ卿にちゃんと報いているといえるのか。超人であると言え、僅か300人の弱小領主騎士に、そこまで契約外の仕事を押し付けて恥を知らないのか。そういう不満が、王家と保護契約を結んでいる領主騎士、そして良識を持った法衣貴族の間に芽生えます。御恩と奉公の仕組みが成り立っておりませぬゆえ」 「――」 だから、言葉を選べザビーネ。 ヴァリ様が完全に沈黙したではないか。 ピクリとも動かぬ。 もはや死体にしか見えぬ。 「私はどうすればよかったのか?」 誰に尋ねるわけでもなく、ヴァリ様が呟いた。 それは誰にも答えられない。 実際、傍にいられなかった我らにはどうしようもなかった。 ヴァリ様の御傍にいたのは親衛隊長であるザビーネのみ。 我々は、王の間の入り口でたむろするのが許されるだけであった。 お前、そこまで気づいていたならなんとかならんかったのか。 そういう視線を、我ら第二王女親衛隊13名はザビーネに集める。 それに気づいたのであろう。 ザビーネは、青白い顔を真っ赤に染め、チンパンジーのように怒鳴った。 「じゃあ、お前等ならなんとか出来たって言うのかよ! あの交渉の主役は、カタリナ女王とポリドロ卿、その二人だけだったんだよ。誰にも邪魔できない空間が出来上がってたんだよ!!」 そりゃまあ、そうだけどさ。 お前の、ザビーネの緊急時にはよく回る頭と演説力は、こういう時のためにあるんじゃなかったのか。 私は考える。 我々は和平交渉を達成した。 いや、違うのだ。 ファウスト・フォン・ポリドロという英傑が和平交渉を達成したのだ。 後世にはそうとしか残らないであろう。 それはそれでよいのだが。 リーゼンロッテ女王から和平交渉の暁には、我ら第二王女親衛隊全員の一階級昇位が約束されているのだ。 何もしてない私達は、まるで立つ瀬がないぞ。 「何とかならんかったのか?」 つい、口に出してしまう。 まあザビーネから返ってくる言葉は判っているが。 「何とか出来るなら死ぬ気で立ち回ってたわ! 最初から全てのヴィレンドルフはポリドロ卿目当てで、カタリナ女王に至っては、最後にはポリドロ卿以外の全ての人間が銅像かなんかにしか見えてなかったろうさ。私達なんか最初からお呼びじゃないのにどうしろと?」 だろうな。 ザビーネは、ポリドロ卿に惚れてるしな。 敵国の女王がポリドロ卿に惚れて子種を要求した時なんぞ、血の気が沸騰したろうなあ。 むしろ、このチンパンジーが騒ぎ立てなかったのを褒めてあげるべきなのだろうか。 まあ、あれだわ。 ポリドロ卿は罪深い。 ふとそんな事を考える。 あそこまで冷血女王の心を見事に溶かし、そして母親への血を吐くような後悔の告白によりカタリナ女王を共感させ、惚れさせたのだ。 あれは罪深い男だ。 アンハルト国民としての感性を持つ、ポリドロ卿の容姿を好ましくないと感じる、この私ですら惚れそうになった。 罪深い男だ、ポリドロ卿は。 あそこまでされて堕ちない女が、この世にいるものだろうか。 だからだ。 「ヴァリエール様、私達はこれでも私たちなりに頑張ったほうなんですよ」 私はそんな言葉を、ヴァリ様にかける。 むしろ、あそこまでやらかしたポリドロ卿が悪くね。 カタリナ女王を惚れされる必要って何処かにあったの? そんな自己弁護的解釈に陥りそうになる。 私達は和平交渉に来たのであって、魔性の男ポリドロ卿の口説きのテクニックを見に来たわけではない。 ポリドロ卿も本来の目的、途中で忘れてなかったか。 血を吐くような後悔の告白に至っては、絶対感情的になってて口走ったぞアレ。 絶対に計算でやったことではない。 だからこそ、魔性の男なのだろうが。 「これで、これで頑張った方」 ヴァリ様が、ムクリ、とベッドから起き上がる。 多少はダメージから回復したのであろうか。 そして私達の方をくるりと向き、問うた。 「私はどうすればファウストに報いてあげられるのかしら」 「それを今から考えましょう」 前向きにいきましょう、前向きに。 とりあえずは。 「まずは、バラの花を盗んだ件を、ポリドロ卿と一緒にリーゼンロッテ女王に謝る事でしょうね」 「それは確実よね。次。ザビーネ、貴方の知能で何か出しなさい」 ほら、とヴァリ様が、未だにショックが収まらないのか青白い顔をしているザビーネに顔を向ける。 「ご褒美として、親衛隊長ザビーネの身体をベッドで無茶苦茶にしてもいいよと言う」 「それファウストにとって何かメリットあるの? 全部貴方の願望じゃないの?」 なんで男が女の身体を貪る事がメリットになるのか。 死ね、ザビーネ。 ポリドロ卿は淫売ではない。 性欲の化物なのでは決してない。 時々感情的になる憤怒の騎士ではあるが、普段は真面目で朴訥で純情な男だ。 「ちゃんと答えなさい」 「まず、今回、ポリドロ卿に約束されている和平交渉における高額の報酬金。その増額をすればポリドロ卿は喜ぶ、とは思うのですが」 「思うのですが?」 ザビーネは一つ言い辛そうに、呟いた。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿は金で貞操を売り払った。そう見る輩が多くなります」 「お金以外の何かの報酬を、王家が与える必要があるってわけね」 「そうしなければ、ポリドロ卿を優遇せねば、拙いですよ」 ザビーネは、更にもう一つ、本当に言い辛そうに呟いた。 「拙い、とは」 「ポリドロ卿。明確に先ほどのカタリナ女王の問いかけに不満を漏らしておりました。思い出してください」 「あ……」 ヴァリ様の顔が青くなる。 確か、『国の英傑に、わきまえた嫁の一人も斡旋できぬ。ましてや英傑を国民や貴族が冷遇? アンハルト王国はどうなっているのか』、そのカタリナ女王の問いにポリドロ卿が返した言葉は。 『私もその辺は不満が無いとまでは言えませぬが……』であった。 明らかに、ポリドロ卿はアンハルト王家に不満を抱いている。 そりゃ、ここまで契約にもない事に、こき使われていればその気持ちもわかるが。 ここで救国の英傑ポリドロ卿に、ヴィレンドルフに寝返りでもされたらアンハルト王家最大の恥である。 歴史書に残るぞ。 「ど、どうしよう。私、今からファウストに今回の件について謝るべき?」 「いえ、ポリドロ卿は、別にヴァリエール様については怒ってないと思いますが」 そりゃヴァリ様何も悪くないものね。 今回の和平交渉への派遣を決めたのは、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の二人だし。 ポリドロ卿はヴァリ様を道化にしたし、この後盗んだバラの件についても一緒に謝ってもらうつもりだし。 ヴァリ様の事は別に嫌ってはいないだろう。 だが、何か。 何か金銭以外でポリドロ卿に報いねば、本当に拙い気がするのだが。 「ここは、敵の言葉、カタリナ女王の言葉に乗じましょう。ポリドロ卿が何を求めているのかは結論が出ています」 「えーと、わきまえた嫁? そういや私、一度ファウストにどこか貴族との縁組をと頼まれた事あったけどさあ。ミソッカスの私に、ファウストに見合う貴族の嫁なんか用意できるわけないって断っちゃったのよね」 大分昔の話だけどさ。 ヴァリ様が回想するように呟き、そして頭を抱える。 「今でも、ファウストに見合う貴族の嫁なんか用意できないわよ! 私、多少はミソッカスの評判改善されたけどさあ、初陣からちょっとしか経ってないし、まだ貴族のツテなんかないわよ!!」 「ヴァリエール様」 ザビーネが、ヴァリ様の前に立ち、キラリ、と歯を光らせた。 「私など、どうでしょうか」 「あ、ファウストに申し訳なくて死にそうになるから却下で」 「何故!」 何故、じゃねーよ馬鹿。 ポリドロ卿が欲しがってるのは、今までの功績、そして今回の功績に見合う、外に出しても恥ずかしくない嫁だろう。 お前、どこに出しても恥ずかしい嫁じゃないか。 多分、ポリドロ卿はザビーネなんか求めていない。 ザビーネが散々、私達は両想い、口説くことに成功したとなんかほざいてたけどさ。 救国の英傑ポリドロ卿は、おそらくモテないがあまり、一時ザビーネなんてチンパンジーに傾いてしまっただけ。 まさか本気で惹かれているとは思えない。 ザビーネの恋は、残念ながら片思いで終わるだろう。 「いや、本当にどーしよー」 ベッドの上から降りぬまま。 いいかげん靴ぐらいは脱いだ方がいいですよ、という声を出しそうになりながら。 その代わりの言葉を言おうとして、止めた。 出そうとした言葉は。 いっそ、王位継承権を放棄して、ヴァリエール様がポリドロ卿に降嫁してはどうでしょう。 良い案かとは思ったのだが。 まさか、救国の英傑相手とは言え、領民300名の弱小領主相手に降嫁はな。 そもそも、ヴァリ様がポリドロ卿の事をどう考えているか判らない。 そう考えて、止めておいた。 ヴァリ様がポリドロ卿を好きなら、親衛隊全員で後押しするのだがなあ。 ヴァリ様が頭を抱えて悩む姿を可愛く思いながら、親衛隊の一人は深く深くため息をついた。 第42話 遊牧民族国家 レッケンベル邸の庭は広い。 政治・軍事・戦場。 三つの場において抜群の働きを示したレッケンベルには、最上の屋敷が用意されていた。 その庭は、弓の演習場まで設けられており。 的までの間合いは、およそ600m。 「的まで、遠いな」 「遊牧民族のコンポジット・ボウ。その射程を上回るためには、この距離が必要なのです」 「フリューゲル。よろしく頼むぞ」 私は、レッケンベル邸まで従士長ヘルガが連れてきてくれた愛馬のフリューゲルに跨り。 そしてニーナ嬢から、クラウディア・フォン・レッケンベルが愛用した魔法のロングボウを受け取る。 「さて」 「ドローウェイトは果てしなく重いです。母上、クラウディアは、このロングボウへの魔術刻印にドローウェイトの緩和ではなく、威力と飛距離を求めました」 「で、あろうな」 私は、肘の位置まで弦を引く。 重くはない。 常人には引けない重さであろうが。 私にとっては重くない。 「引けるんですね。さすが我が母上を破った超人」 「引けるな」 私は弦を引く。 ヴィレンドルフ戦役を思い出す。 クラウディア殿は、確か胸元までこの弦を引いていた。 私はどこまで引けるものか、確かめてみる。 耳の位置まで。 ここまで引ける。 「ポリドロ卿?」 「一度、この耳まで引いてでの、その威力を確かめたい」 600mの距離であれば、胸元までで良いのであろう。 だが、この魔法のロングボウのポテンシャルを引き出してみたい。 何故だか、ニーナ嬢は嬉しそうに笑って答えた。 「どうぞ」 私はフリューゲルに乗ったまま、弓矢を放つ。 その弓矢は標的目掛けて飛翔し、そのまま標的の中央に当たり。 そのまま標的の表に、突き刺さるのではなく貫いた。 これが敵兵相手ならば、重騎兵相手でも鎧に風穴を空けられるであろう。 「超人は、皆同じ事ができるものですか?」 600m先。 私の視力ならば鮮明に見える標的には、同じく貫いた跡が多数存在していた。 おそらくはクラウディア殿も、同様の事をしていたのであろう。 ニーナ嬢の問いに答える。 「練習が必要です」 止まった的ではない。 走るフリューゲルに乗馬したまま。 動標的に、同じく馬に乗った遊牧民族に当てるには多少の練習が必要であろう。 そして、その場合は胸元まで引くに留めるのがベストか。 私は、実戦におけるクラウディア殿の行動から学ぶ。 「私はカタリナ女王に、引けるものならロングボウをお貸しすると約束しました。16歳になった頃に取りに伺います」 「それまでお借りしよう。メンテナンスについても教えてくれ」 御用商人であるイングリットに、また整備を頼む品が増えた。 整備費はかかるが、致し方ない。 来年の軍役は、山賊相手ではない。 おそらく遊牧民族だ。 ヴィレンドルフとの和平交渉が成り立った今、選帝侯たるアンハルト王国にとって周辺国家など物の数ではない。 ただ唯一残った北方の脅威。 アンハルト王国は、ほぼ全力を投じて遊牧民族を捻り潰す。 正直面倒くさいから参加したくないし、第二王女相談役としての特権を使ってだ。 小さな山賊相手で軍役を済ませてもよいのだが。 「ま、無理か」 あまりにも名が高まり過ぎた。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は何故この戦場におらず、小さな山賊等を追いかけまわしているのか。 そう言われると面倒臭い。 何より、ヴァリエール様は第二王女親衛隊を引き連れて、遊牧民族退治に向かうであろう。 場合によってはアナスタシア第一王女やアスターテ公爵も出向くかもしれない。 出張らざるをえん。 ああ、面倒くさい。 それを考えると、敵の部族長を一撃で仕留める事を可能にするロングボウが手に入ったのは僥倖である。 クラウディア・フォン・レッケンベルが遊牧民族相手に用いた戦術。 部族長を射抜き、次に弓兵を射抜く。 それを参考にさせてもらうぞ。 パルティアンショットなんぞ不可能にしてやる。 しかし、弓矢の数が欲しいな。 弓矢を多数携えた、補充が出来る騎兵が横に欲しい。 それも信頼できる相棒が。 そんな事を考えていると。 「もし、我が国にクラウディア・フォン・レッケンベル、或いはファウスト・フォン・ポリドロがいれば」 屋敷の方から、語り掛ける様に、それでいて独り言のように呟く。 「我が国が滅ぶことは無かったのでしょうか」 背の高い、そして黒髪の女が現れた。 それはアンハルト人でも、ヴィレンドルフ人でもない。 明らかに東方人と判る、鼻が低い、だが美しい容貌の持ち主であった。 そのバストは豊満であった。 私と彼女の視線が合う。 彼女はペコリ、と大きく頭を下げた。 その両手には、私と同じくロングボウを携えている。 その刻まれた魔術刻印も、私の持っている物と同様である。 「あれは母上の所有していた、スペアです。カタリナ女王が彼女に貸し与える様にと」 「彼女は東方から?」 「はい、遠い遠いシルクロードの先から参られたそうです」 えへん、とニーナ嬢が未成熟な胸を張って誇らしげに語る。 曰く、東方の武将、いわゆる我が国における騎士であった。 国が滅んだ故、放浪するようにしてシルクロードを愛馬と共に歩み、このヴィレンドルフに流れ着いた、と、 「カタリナ女王への御目通りが叶いまして。今では、レッケンベル家の食客としての立場を頂いております」 「ロングボウの貸与を許されるとは、要するに」 「はい。この弓で、レッケンベル殿の代わりに遊牧民族を仕留めよという事でありましょう」 レッケンベル殿の代わり。 それが弓矢の腕においてのみ、と仮定しても相当な実力者であろう。 「腕が見たいな」 「雪烏」 「?」 私の声に応え、彼女が名を呼ぶ。 一瞬、何事かと思うが。 近くでしゃがんでいた白い馬が立ち上がり、こちらへと駆けてくる。 ああ、馬の名前か。 彼女が白馬に跨り、私と同じくロングボウの弦を引く。 その動きは強烈なドローウェイトを全く感じさせず、軽やかである。 耳元まで弦を引きのばし、矢を放つ。 それは私が放った矢と同じく、標的を貫いた。 「御見事」 「これしか取り柄がないものですから」 「失礼。お名前を聞くのが遅れました。ご存知のようですが、私はファウスト・フォン・ポリドロと申します。貴女の名前は?」 彼女は少しためらった後。 短く、その名前を呟いた。 「ユエ、と申します。こちらでは月という意味の名です」 「失礼ですが、家名は?」 「家名は」 彼女は少しだけ悲しそうに。 何かを想い出しているかのように、唇を噛みしめながら答えた。 「家名は、国が滅んだ時に捨てました。家を守れなかった故に」 「失礼。先ほども言っておりましたが」 ニーナ嬢も、国が滅んだと言っていたな。 何故? まあ、遠い遠いシルクロードの先の事などよく知らぬが。 「ぶしつけな質問をします。国が滅んだとは?」 「遊牧民族に、いえ」 ユエ殿が、少し遠い目で答える。 「遊牧国家とも言うべきものに滅ぼされました」 「遊牧国家?」 まさかな、とは思う。 この世界は、前の世界との類似点がある。 子供が10人生まれたら、その内女は9人で、男は1人しか生まれない。 男女比1:9の頭悪い世界。 私はその世界に転生した。 もし神という者がいるなら、随分と趣味の悪い事をするものだ。 そして魔法もあれば奇跡もある。 伝説にも事欠かない。 だが、この世界には、私が以前存在した前世との類似点が確かに存在するのだ。 私が住んでいるのは、中世ファンタジーじみたヨーロッパに近しい地域で。 神聖グステン帝国という、神聖ローマ帝国の真似事ともいえる物が存在し。 アンハルトとヴィレンドルフは、7人いる選帝侯の内の2人である。 そして。 アンハルトとヴィレンドルフは、北方の遊牧民族の略奪に悩まされている。 大草原が広がる、集約農耕の展開が困難で、牧畜には適するがただそれだけ。 定住には苦しむ乾燥地帯がそこにある。 だから思うのだ。 まさかな、と。 だから、尋ねる。 「その遊牧国家とは、騎馬民族国家と解釈しても」 「騎馬民族国家。そういう呼び方もできます。遊牧騎馬民族国家。老いから若きにまで馬を巧みに操る遊牧民族集団。だが、それだけではありません。奴等は機動戦が得意なだけではなく、城塞都市を攻略する術を備えてきた。我々は為す術もなく敗れました」 無駄な質問だった。 言い方を変えただけ。 落ち着け、ファウスト・フォン・ポリドロ。 だが、情報は少し得られた。 仮に、この世界にだ。 敵と考えると、想像すらしたくないモンゴル帝国。 その真似事じみた国家が存在してもだ。 西征してくるとは限らぬ。 来ても、何十年後の事。 いや。 そう決めつけるのは、愚かな判断だ。 私では判断できぬ。 情報が欲しいな。 私以上の知恵者に、権力者に上げるための情報が。 リーゼンロッテ女王、アナスタシア第一王女やアスターテ公爵に上げる情報が。 だが、ここでユエ殿から滅んだ国、その王朝の名を聞いたところで違う名前であろう。 かつて前世で金王朝が屈服し、モンゴル帝国がドイツ・ポーランドを攻めるまで何年かかった? いや、それを思い出しても今世では役に立たん。 さてはて。 どうしたものか。 ただ、その前に一つ聞きたい。 ニーナ嬢へ尋ねる。 「これは、和平交渉成立のお祝い、つまりプレゼントか? カタリナ女王から何か指示があったか?」 「私には答えられませぬ」 その返答は、答えたも同然だ。 カタリナ女王からの、遊牧騎馬民族国家が攻めてきたときの共闘提案。 私とユエ殿を、レッケンベル邸にて引き合わせたのはその準備の前段階。 今そこまで脅威が迫ってきているかもしれない。 その情報の融通。 おそらく、私が知らないだけで神聖グステン帝国は、遠い遠いシルクロードの先の情報を手に入れているであろう。 そして選帝侯たるアンハルトにも、ヴィレンドルフにもその情報は伝わっているはずだ。 だが、滅びた王朝から武将が流れてきた事を、アンハルトは知らぬ。 脅威が真剣に伝わっておらぬ。 それを、直言できる私の立場から伝えよという事か。 そこまでは理解できる。 「ポリドロ卿。もしアンハルトの対応に不満があれば、いつでもヴィレンドルフにおいでください。貴方となら闘える」 ユエ殿の言葉。 アンハルトが対策にモタモタしているなら、見捨てて逃げて来いとも裏では言っている。 そうカタリナ女王は誘っている。 領地を見捨てて逃げられるはずも無いがな。 「好意だけ受け取っておきます。騎馬民族国家の話を詳しく」 「いいでしょう」 ユエ殿が、突然吹いた風に、黒い長髪をゆるやかになびかせる。 さて、どこまで情報が得られるものか。 そして、その情報が役に立つかも判らん。 だが、全てを伝えねばならぬ。 今頃、アンハルトの権力者トップスリーは何をしていることやら。 思考を飛ばすが、もうすぐ帰還するのだ。 無意味な事は止めておくことにしよう。 そんな事より、もう一人、話をここで聞いておかねばならん人間がいる。 「ヴァリエール様は?」 「別邸に案内しましたが、まだ表には出てこられないようで」 「呼んできますので、ヴァリエール様と共に是非話をお聞きしたい」 私はニーナ嬢にそう呟く。 「あの方、何か役に立つのですか? 交渉では道化と化しておられましたが」 ニーナ嬢は、ややヴァリエール様の能力に懐疑的なようだ。 道化は私がやらせたのだ。 すまん、ヴァリエール様。 「必要です。少なくとも、一緒にリーゼンロッテ女王に報告してもらわねばなりませぬ。私は領民300名の弱小領主騎士ですよ」 私は第二王女相談役として、リーゼンロッテ女王に直言できる立場にあるが。 それはヴァリエール様の傍にいる時のみ。 ヴァリエール様がその場にいなければ、或いはリーゼンロッテ女王自らの許可が無ければ、直言はままならぬ。 「アンハルトは面倒くさいですね。だから嫌いです」 「国の成り立ちが違うのですよ」 それぞれの国で、良いところもあれば悪いところもある。 私は超人なので、ヴィレンドルフの方が生きやすいがね。 何もかもが思う通りに行く人生というのも、それはそれでつまらん。 私はそんな事を考えながら、ニーナ殿に先導され、別邸へと三人で歩きだす。 さて、ヴァリエール様は今何をなされているか。 そんな事を考えるが。 「命令。ザビーネをリンチしなさい」 レッケンベル家別邸の庭にて。 ヴァリエール様は、親衛隊全員にザビーネ殿のリンチを命じていた。 「何が? 何が悪かったというのです?」 「アンタがファウストと結婚しろなんて訳の分からん事いうからでしょ! しかも貴方を第二夫人にってどういう事よ」 「訳の分からない事ではありません。道理です。これは道理の元に考えた上での判断で」 一体何を話していたのか。 とりあえず、ニーナ嬢とユエ殿の目の前では、みっともないので止めようと思うが。 「その判断の結果。私はただ敬愛するヴァリエール様とポリドロ卿の三人で、ベッドの上で快楽を愉しみたかっただけなのです」 ほっとこう。 何かリンチされても当然の発言をしたらしい。 あの初陣を越えても、ザビーネ殿は未だチンパンジーのままか。 ファウスト・フォン・ポリドロはザビーネの評価を、少し下げたが。 ザビーネはロケットオッパイの持ち主のため、ファウストの評価は未だ甘いままであった。 第43話 和平交渉成立への反応 アンハルト王城、その王城の一室にある会議室。 その巨大なテーブルの周囲には十数名の法衣貴族。 重要なこの場には選ばれた上級官僚貴族達が座り、リーゼンロッテ女王の眼前にある水晶玉の報告を見守っている。 魔法の水晶玉。 その通信相手はリーゼンロッテ女王の娘、ヴァリエール第二王女ではない。 敵方である、ヴィレンドルフの交渉役である。 「それでは、和平交渉は無事成立したと」 「ええ、条件はきっちり守って頂きますが。念を押しておきます。条件はキッチリ守って頂きます。そして、ファウスト・フォン・ポリドロ卿に2年待っても正妻がいない場合、ちゃんとヴィレンドルフから嫁を貰って頂きます。これは『契約』ですよ」 ヴィレンドルフにとっての『契約』の二文字。 それは死より重い。 ヴィレンドルフは死んでも『契約』をしたことだけは重んじる。 死を以ってしても、それを違える事は許されないと言う文化が有る。 だから、ヴィレンドルフが『契約』の名を挙げた以上、この和平交渉は必ず守られるであろう。 アンハルト側がその『契約』を遵守する限りは。 ヴィレンドルフの国境線から兵を引いても、もはや何の問題もない。 それはいいのだが。 問題は、契約内容である。 リーゼンロッテ女王は考える。 ファウスト・フォン・ポリドロ。 ファウストは、己の貞操を切り売ることで、ヴィレンドルフからの和平交渉を勝ち得た。 それが何より問題だ。 「それでは、通信を終えます。水晶玉に与えられた魔法力も無限ではないものでして」 「ああ、契約はアンハルト王国、リーゼンロッテ女王の名にて遵守する」 通信を終える。 ポリドロ卿が身を売る事になってしまった。 アナスタシアやアスターテは激怒するであろう。 正直、私も愉快ではない。 公人としての立場からも、私人としての立場からも。 到底、愉快に聞こえる話ではない。 リーゼンロッテ女王は考える。 どうやってファウストに報いれば良い。 カタリナ女王の心を斬れとは言ったが、まさかそこまで心を掴むとは思っていなかった。 冷血女王カタリナの心の氷を溶かしきり。 可能であれば王配にと望まれるまでに至るとは。 そこまでは予想できなかった。 私の失策だ。 「水晶玉をしまえ」 「畏まりました」 ポリドロ卿のフリューテッドアーマーの製作にも参加した女宮廷魔法使いが、水晶玉を布で覆う。 そして、両手で大切そうにそれを持ち上げ、姿をドアの向こうに消した。 失策を後悔しても仕方ない。 これはポリドロ卿の責任ではない。 全ては正使であるヴァリエール、そして使者を命じたアナスタシア、ひいては女王である私の責任となる。 ポリドロ卿に、一方的に負担を押し付けてしまった事となる。 その貢献に報いねばならない。 だが。 ファウストの嫁、その嫁を誰にすればいいのだ? ファウストがアンハルトで嫁を見つけられず、ヴィレンドルフから嫁を貰う事。 それだけは死んでも許されない。 我が国が、救国の英傑であるファウスト・フォン・ポリドロにわきまえた嫁すら用意できず。 ヴィレンドルフから用意された嫁を貰う。 それも、本来ならばヴィレンドルフの王配にふさわしいのだ、という扱いで。 繰り返すが、それだけは死んでも許されないのだ。 アンハルト王国の恥そのものである。 「良かったではないですか」 横から飛ぶ声。 若い女の声であった。 確か、新顔。 そう、家督相続のため先日謁見し、それを認めた女である。 「これで、我が国は何の損失も無く和平交渉を成立させました。いやー、何より」 アホか、お前は。 何の損失もなく? 成立しないよりは遥かに良い。 だが、損失は多大だ。 何度も言うが、ファウストに全てを押し付けてしまった。 王家が、その全ての負担を救国の英傑であると同時に、たかだか300名の弱小領主騎士に過ぎぬファウストに押し付けた。 マトモな法衣貴族も、諸侯もそう見る。 その不信をどうやってカバーするのだ。 今後、どうファウストに報いてやるつもりなのか。 全員が注視している。 これぐらいはチンパンジー、もとい第二王女親衛隊でも判る事であろう。 お前は何を言っているのだ。 いや、そもそもコイツ。 「ファウスト・フォン・ポリドロも良くやってくれたものです。まあ、あの醜い姿の男はヴィレンドルフでは人気者です。彼も幸せではないですかな」 その場にいる、その新顔を除く上級官僚貴族の全員が眉を顰めた。 真正のアホなのか、コイツは。 親から家督相続の際に、王城に上がる前に何も聞かされていないのか。 いや、聞かされずとも、家督相続者の長女とあれば知っているべき事であろう。 ポリドロ卿は、アナスタシア第一王女やアスターテ公爵の愛人に内定している事を。 その二人から恋慕を寄せられている事を。 鈍い女でなければ、それぐらいは容易に判る事だ。 少なくとも、この重要な場にいることが許される上級官僚貴族であるならば。 それぐらいは承知していて当然の事。 いや、そもそもだ。 何故、今回の和平交渉にて功を成したポリドロ卿の事をそこまで侮蔑できる。 醜い姿の男だと。 この女、ポリドロ卿を醜い姿の男だと確かに言ったぞ。 いや、確か、お前の親は、お前がここに顔を並べていられる家督相続の理由はそもそも。 全員が呆れかえる中で。 「お前の親は、本来ヴィレンドルフの交渉役であったな。そしてお前は、代わりに和平交渉に立ったポリドロ卿の事を醜い姿の男だと呼んだ」 リーゼンロッテ女王が、微笑みながらポリドロ卿を醜い姿の男と呼んだ女に声を掛けた。 その場にいる貴族の全員が恐怖した。 壁際に立っていた女王親衛隊は、すでに王命を受けるまでもなく、女の背後に立っている。 いや、王命はすでに為されている。 リーゼンロッテ女王の微笑みという形によって。 「はい、それが何か。良かったではないですか、あの醜い姿の男と引き換えに和平交渉が成り立ったならば。あの筋骨隆々の姿、全くもって――」 「それが何か? それが何かと? それも、もう一度」 リーゼンロッテ女王の微笑みが、より深みを見せる。 普段、あまり表情を変える事が無いリーゼンロッテ女王。 その表情を崩した事など、最近ではポリドロ卿が頭を地に擦り付けた助命嘆願事件くらい。 その笑みの意味を、この場にいる上級官僚貴族達は理解していた。 リーゼンロッテ女王の笑みとは。 「もう一度、醜い姿の男と言ったな」 怒りの表現である。 真に激怒した場合のみ、それが表情に顕著に現れる。 上級官僚貴族にとっては、それが何より恐ろしい事態であることを理解していた。 理解していないのは。 「な、なにを」 女王親衛隊の二人に両手を押さえつけられ、顔面をテーブルに叩きつけられた新顔の女のみ。 今回のために新調したのであろう女の礼服に、鼻血が飛び散った。 「これが我が国の現状か。法衣貴族、上級官僚貴族ですら新顔はこの始末。救国の英傑ファウスト・フォン・ポリドロの功績を認めず、その容姿のみで心の底から侮蔑し、その他国への身売りをよかったよかったと手を叩いて笑う始末」 リーゼンロッテ女王の微笑みが、どんどん深くなる。 女王親衛隊は、その意味を十二分に理解していた。 16年前の初陣の頃から共にした、間柄である。 親衛隊は、女の顔をテーブルに何度も叩きつけた。 悲鳴が女の口から上がる。 「口を閉じさせよ。耳障りだ」 「はっ」 親衛隊が、ハンカチを口に押し込む。 そして女の顔を、テーブルに叩きつける作業を再開した。 リーゼンロッテ女王の微笑みが、周囲の上級官僚貴族に向けられる。 その視線は一巡した後、ピタリと一人の貴族の顔で止まる。 どういうことだ? リーゼンロッテ女王は言葉ではなく、その視線のみで問うた。 貴族は答えた。 心中で、とばっちりだ、という悲鳴を挙げながらも。 「その女は新顔ゆえ、アナスタシア第一王女やアスターテ公爵からの好意がポリドロ卿に向いている事を理解しておらず」 「理解していないのも問題だが、それだけではないだろう」 「はっ、私の記憶が確かならばですが。この新顔がこの場にいる理由は、この者の母親がヴィレンドルフとの和平交渉失敗の責を取り、家督相続が行われたゆえに」 そうであろう。 この新顔が、この重要な場に席を与えられた理由はただ一つ。 母親が失敗してしまった交渉の、その顛末を見届けたいであろうと言う配慮からであった。 自分の母親が失敗した事に、ポリドロ卿が身売りしてくれて、ああよかった、これで何もかも解決だと? 何ほざいてやがんだコイツは。 まずは手放しでポリドロ卿を褒め称え、それに報いるための報酬を、と私に陳情しても可笑しくないところだ。 それを醜い姿の男呼ばわりだと? 真剣に頭がイカレてやがるのか? リーゼンロッテ女王の心は、その微笑みの表情とは反対に荒れていた。 「尋ねよう。全員に尋ねよう。若い世代のポリドロ卿への侮蔑は、この様に酷いものなのか? それとも、私が配下に期待しすぎなのか? それほどまでに皆、愚か者揃いなのか?」 「いえ、違います。我が家では、ポリドロ卿をヴィレンドルフから国を守った救国の英傑であると、娘たちにも、しかと教えております。もし娘がポリドロ卿を侮辱するようなら、その場で首を刎ねて頂いても女王陛下を御恨みしませぬ」 「では、何故このような状況が起こるのか」 これは真剣な話なのだぞ。 嘘誤魔化しは許さぬ。 リーゼンロッテ女王は微笑み、その威圧を続ける。 「しかし、しかしながらでありますが。その新顔のように、何故あのような醜い姿の男が英傑などと、侮蔑する声も少なからずあるのも事実」 「それは法衣貴族のみか?」 「で、あろうかと。アンハルトと土地の保護契約を結んでいる地方領主の全員は、ポリドロ卿の扱いに不服を持っているものと……」 不服を持たれた方が、この様な愚か者が目の前でうろつくより、まだマシだ。 親衛隊に、視線をくれる。 テーブルに、顔を叩きつける音が止んだ。 「コイツの母親は有能であったのか? 」 「間違いなく。アナスタシア第一王女からヴィレンドルフ相手の交渉役にも選ばれた、交渉も武芸も出来る見事な女で御座いました。和平交渉失敗の責を取り、家督相続を行った事からも明らかであると」 「では、単純にこの新顔が母の言葉も理解できぬほど愚かなだけか。家ごと潰してやろうとも思ったが。この顔をもはや見たくない。連れ出せ」 へし折れた鼻からの血で顔を真っ赤に染め、痛みで気絶した女が親衛隊の二人に担ぎ上げられる。 「改めて家督を相続し直すように言っておけ。その愚かな女の顔は二度と見たくないと言葉を添えてな」 「承知しました」 親衛隊が、ドアの向こう側に去る中で。 リーゼンロッテ女王はその場の全員に告げる。 その微笑みは未だ消えることが無い。 「再度、ポリドロ卿の扱いを救国の英傑であり、今回の和平交渉の立役者であることを周知徹底させよ。次に侮辱した者は、侍童であろうとその場で首を刎ねて良い」 「承知しました」 リーゼンロッテ女王の微笑みに、その場にいる貴族全員が震えた。 まさか、自分の身内にあのような愚か者はおるまいが。 念には念を入れて、親族、寄子含め徹底させねばならぬ。 巻き添えで家が潰れるのは御免だ。 「しかし、リーゼンロッテ女王」 「何だ」 一人の貴族が、リーゼンロッテ女王の微笑みに恐れながらも声をあげる。 年老いた、重鎮の一人であった。 「ポリドロ卿への報酬を如何致しましょう。もはや生半可な報酬では、諸侯も、法衣貴族も、マトモな知性を持つ者こそが納得しかねます。木っ端貴族の娘をポリドロ卿の嫁にあてがうのは、もはや許されませぬ。ポリドロ卿自身の感情もあります」 「わかっている」 リーゼンロッテ女王から微笑みが消える。 ここからは切り替えていかねばならぬ。 まず、一番最初に思いつくのが。 「ヴァリエール」 その名をポツリ、口に出す。 誰でもまず考え付く事だ。 ヴァリエールに王位継承権を放棄させることは元々からの既定路線。 僧院に入れたがっている第一王女派もいるようだが、それは私もアナスタシアも、もはやしたくない。 ヴァリエールは可愛い娘で、アナスタシアも妹であることを自覚したようだ。 王領から小さな領地を切り取り与え、そこで静かに余生を送ってもらうつもりであった。 たまに子供の顔でも見せに来てくれれば良い。 それでいいはずだった。 「よいお考えです」 年老いた貴族が、私のポツリと呟いた一言に反応し、全てを理解する。 ヴァリエールをポリドロ卿に降嫁させる。 ヴァリエール・フォン・ポリドロ卿としての新たな人生を送ってもらう。 しかしだ。 アナスタシアとアスターテがそれで納得するかどうかは疑問だし。 それにだ。 低身分の貴族が王家に取り入った。 その見方が強まる。 アナスタシアとアスターテの愛人としてでも、大分無理があるのだ。 ファウスト・フォン・ポリドロとはヴィレンドルフ戦役における救国の英傑である。 だからこそゴリ押しで、アナスタシアが女王を継いだ後でも、愛人ならばギリギリいけると考えた。 今回、更にヴィレンドルフの和平交渉で国家への功績を挙げたとはいえ、王家からの降嫁は無理がありすぎないだろうか。 正直、悩む。 それより何より。 「ヴァリエールだけにはやりたくないな」 「は?」 「何でもない」 ヴァリエールは可愛い娘だ。 可愛い娘であるが、私と亡き夫、ロベルトがベッドにて仲良く寝ようとする中で。 幼い頃はベッドに忍び込んできて、ロベルトにしがみ付いて寝ていた子だ。 私は嫉妬した。 可愛い娘であろうとも、私ではなく何でお前がしがみついて寝ているのかと。 そして、ポリドロ卿はロベルトに似ている。 二度も奪われるのか。 「発言を訂正する。少し、考えさせてくれ」 まあいい、今決める必要はない。 何より、ヴァリエールの意思も考えねばならん。 それにファウストの意思も確かめねば。 先祖代々続いた血統に王家の血を入れ、ファウストの亡き母マリアンヌ時代に断たれてしまった貴族世界との縁を取り戻す。 それを考慮すれば、断るとは思えんのだが。 一応な、一応。 そう自分に言い訳をしながら、リーゼンロッテ女王は結論を先延ばしにした。 第44話 仮想モンゴル レッケンベル邸。 血痕が地面に僅かに残された、その別邸の庭にて。 ガーデンテーブルが用意され、着席するのは4名。 私ことファウスト、ヴァリエール様、ユエ殿、そしてニーナ嬢。 ハンカチで血は拭いたものの、顔が打撲傷で膨らんだままのザビーネを背後に立たせながら。 ヴァリエール様は呟いた。 「再度確認するけど、その遊牧騎馬民族国家とやらは本当に西征してくるの?」 「あの、未だ名も決まっておらぬ国家の欲望は果てしなく、我が王朝を亡ぼしただけでは満足に足りないでしょう」 「貴女の仕えた王朝を滅ぼし、それを征服することで欲が満たされるという事は?」 ヴァリエール様が、冷静に答える。 私、ファウストは母マリアンヌからの騎士教育は受けたが、得られたのは超人騎士としての力と、300名足らずの地方領主としての軍術と統治のそれ。 王族としての高等教育を受けた、ヴァリエール様の知識にはこの世界で届かぬ。 ヴァリエール様が、呟きを繋げる。 「かつて、複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦術を用いて覇権を築いた民族は過去にもいた」 前世で言う、フン族がこの世界にも存在したのであろうか。 「確かに人間の形をしてはいるが、野獣の獰猛さをもって生きている者たち。その再臨だとでも?」 ヴァリエール様は、思考を続けながら茶のお代わりをザビーネに要求する。 その態度は威風堂々としている。 この王族としての高等教育の点ばかりは、私を上回る。 その知識に、自信をもって臨んでいるのだ。 いつもこうだと、第二王女相談役として有難いのだが。 凡人姫と呼ばれど、決して無能ではないのだ、無能では。 まあ、カタリナ女王の前で道化にした私の言ってよい台詞ではないかもしれぬが。 「私はこの西洋の事を良く知りませぬ。しかし、少なくとも、それよりも最悪と言えましょう」 ユエ殿が答える。 その顔は苦渋に満ちていた。 「知性は持つのです。そうでなければ、高原を統一できたりなどしませぬ」 「高原を統一? まだ、アンハルトとヴィレンドルフの北方で略奪を繰り広げている遊牧民族は統一されていないわ」 「ヴィレンドルフでは我が母が族滅させましたよ。またどこからともなく生えるでしょうが。脆弱なアンハルトと一緒にしないでいただきたい」 ニーナ嬢の苦言。 彼女にとって、母親クラウディア・フォン・レッケンベルが略奪に勤しむ北方の遊牧民族を族滅させたのは誇りの一つなのであろう。 「悪かったわ」 だから、ヴァリエール様も反論はしない。 事実、その通りであるし。 「続き、よろしいでしょうか?」 ユエ殿が、場の空気を切り裂くようにして発言する。 「よろしく頼むわ。高原を統一したと発言されましたけど、アンハルトの北方の遊牧民族とはまた違うの?」 「違います。シルクロードの東の東、滅びた我が王朝の北にある大草原。その高原を統一したのです。彼女は」 ユエ殿が、顔を両手で抑える。 私もそれを聞いてモンゴルを想起させ、頭を抑えたくなるが辛うじてそれを堪える。 「我が国の歴史も、思い起こせば北方の遊牧民族の略奪に苦しんだ歴史でした。だが、それが纏まるとは思っていなかった。水場の争いで永遠に殺し合い、豪雪、低温、強風、飼料枯渇、ありとあらゆる艱難辛苦に遭い、この世でもあの世でも地獄に落ちている遊牧民族。そのように侮蔑していたのです」 文化とはなんぞや? 突然であるが、脳裏にその言葉が思い浮かぶ。 前世のドイツ語では「耕す」という意味も持つこの言葉。 突き詰めれば、皆の腹を満たす食料をどうやって得るか、に繋がると私は考える。 領民300名足らずの領地の支配者であり、その腹をどうやって満たすか常に考えている私なりの考え。 ようするに、弱小領主の暴論そのものではあると理解しているが。 言語、宗教、音楽、料理、絵画、哲学、文学、ファッション、法律。 その全ては規律を保ち、秩序を守り、各々の責任を果たす。 肉体的に、精神的に飢えを満たすためのもの。 そうではないのかと考える。 では、食料に飢え、水にまで飢え、家畜の乳で喉を潤す遊牧民族の文化とは何ぞや。 農耕民族以上の強さ、それだけである。 全てはそこに帰結する。 純粋なまでにそれを追い求める。 農耕民族から略奪し、それで腹を満たす。 少なくとも、この世界の遊牧民族の略奪とは、生存競争のそれそのものである。 失敗は冬での飢え死に、凍死、部族同士の共食いを意味する。 だから、ファウスト・フォン・ポリドロという農耕民族である一人の弱小領主には、遊牧民族が恐ろしかった。 前世では到底理解できなかった恐怖である。 「しかし、彼女達はまとまった。一人の超人の出現によって」 ユエ殿は、目を閉じて答える。 名もなき遊牧騎馬民族国家。 遊牧民族の王、彼女の中ではその国の名は既に出来上がっているのだろう。 だが、我らはその名を東洋の王朝が滅んだ状況になっても未だ知らぬ。 ごり。 自分の手がガーデンテーブルをこすり、武骨な音を立てる。 前世でのモンゴル帝国は、略奪王チンギス・カン。 一人の英傑ユニットの出現によってもたらされた。 この世界も同様であろう。 超人と魔法と奇跡。 前世とこの世界との相違点。 それが何をもたらす? 仮に、略奪王チンギス・カンが超人だとして。 いや、アイツ前世でも超人だった気がする。 人類史上最高の種馬説があった気が。 いや、それは副産物であって、主要な議題ではない。 考え直せファウスト・フォン・ポリドロ。 何か前世から有益な知識は無い物か。 「名をトクトア。称号と合わせてトクトア・カン」 やっぱりモンゴルかよ。 カンの名を聞いた瞬間に、私の背筋に冷たいものが走った。 勘弁してくれ。 頭を抱えてそう呻きたくなるが、それは出来ない。 アンハルトの英傑として、ポリドロ領の面子を守る領主騎士としてそれは許されぬ。 辛うじて堪える。 私がアナスタシア第一王女から頂いたフリューテッドアーマー、最後の騎士鎧とも呼ばれる『それ』が完成したのは、前世では16世紀初頭。 もうモンゴル帝国は内部分裂で解体に向かっている時期だろうに。 何故今頃になって現れる? 遊牧民族の族滅を果たしたクラウディア・フォン・レッケンベルといい、私といい。 今世紀は超人の当たり年か? これは不遜な考えではないと思う。 なれば、私のする事は何か。 何が出来るか、それを必死になって考える。 その思考を無視する様に、ユエ殿はヴァリエール様に語り掛ける。 「彼女は略奪者でありましたが、今までのように単純な略奪を行うに留まる事はありませんでした。情報戦を仕掛けてきたのです。事前に都市に超人、それがいるかの把握。敵情視察、調略。私の元にも、トクトア・カンの使者が尋ね、私を勧誘することがありました。私はその使者の勧誘を断わり、丁重に返しましたが。今思えば、その場で首を刎ねればよかった」 だから、お願いだからユエ殿。 私のモンゴル帝国知識と、この今世での現実を一致させようとするのは止めてくれ。 ニーナ嬢の、横やりが入る。 「ユエ殿、貴女が指揮する軍隊ですらも負けたのですか? 私にはそれがとても信じられません」 「私は負けておりませぬ。私が住んでいた都市での局地戦では勝ちました。我が弓矢で、一昼夜に及び何百という相手を射抜き殺しました。奴らは素直に撤退しました」 さすがに超人だね。 で、それで何で負けたの? 理由は想像つくけど。 「ですが、敵対されなければ、どうしようもありませんでした。トクトア・カン率いる遊牧民族は、私のような超人が位置する都市を無視し、麻の如く土地を割いて侵略してきました」 局地戦で勝てないなら、他に行く。 全体で勝てばよい。 なるほど、理屈だ。 「城塞都市、それは機動性が武器の遊牧民族に絶対の楯となり立ち塞がってきました。我ら農耕の民を守ってきました。だが、トクトア・カンには通じませんでした。城塞都市を攻略する術を備えてきた」 「それは? 遊牧民族が城塞都市を攻略する術など持つわけないでしょう?」 ヴァリエール様が当たり前の疑問を呈する。 当然そう思うだろう。 私も、前世の知識が無ければそう思うよ。 「裏切り者が居たのです」 ユエ殿が、ガーデンテーブルを力強く叩いた。 居るんだろうなあ、どの世界にも。 「私の属していた国の名前、フェイロンと言いますが。ああ、この国でも伝説にある飛龍、天空を雄飛する龍という意味です」 飛龍、この世界だと一匹ぐらいホントにいたんだろうなあ。 中世ファンタジーだし。 私は飛龍の伝説を信じている。 まあ、生涯にこの眼で目撃する機会はないであろうが。 「フェイロンの技師が、トクトア・カンの勧誘に応じ、引き抜かれました。投石機技師の中にはフェイロンだけではなく、更にパールサと呼ばれる他国の技師もいたようです」 まんまペルシアじゃねえかボケ。 トレビュシェットが使われているのだろうか。 想像は悪夢に達している。 神聖グステン王国に、何かこれに対抗する、私などのように武力に偏った超人ではなく、知力に偏った超人は産まれていないだろうか。 助けてアルキメデス。 私は前世での古代超人数学者に、頭の中で助けを求めた。 神は答えを何も返してくれなかった。 もし、私をこの狂った世界に転生させた神がいるものならば。 少しぐらいサービスしてくれてもいいんじゃないのか。 お前、神なんだから罰が当たるもんじゃないだろう。 そう思う。 「一か月の攻防が行われましたが。城塞は砕かれ、逃げ惑う市民は捕縛され、男は縛られた妻の目の前で犯され、男も女も殺されました。市民は一方的に虐殺されました。王家は屈服したものの、王族に連なる全てが殺されました。そうして、王朝が滅びました」 まあ殺すわな。 後々面倒になる王族だけでなく、特に意味もなく、戦に関係ない市民も一人残らず皆殺し。 虐殺は遊牧騎馬民族の常套手段である。 奴等は皆、血に飢えているのだ。 「私が居住していた都市も、王家の屈服と共に降伏しました。私はその屈服と同時に、都市から逃れました。何百もの敵を殺した私を生かすとは、とても思えなかったので。特に目立った装飾をしていた敵方の将軍は狙って殺しましたし」 ユエ殿、やっぱり弓の腕は尋常じゃないのな。 ピンポイントで、敵方の将軍を狙って殺せるのか。 「最初は我が家の親族全員を逃そうとしました。ですが、もはや都市が敵軍に覆われ、全員が逃れられる状況ではありませんでした。親族一同が告げました。我々は最後まで闘う、死ぬまで抵抗する。だが、お前は我が一族の英傑だ。お前だけなら逃げ出せる。我ら一族の血を絶やさぬために生きてくれと、そう皆が」 ユエ殿がガーテンテーブルに置いた手。 その手が、もはや堪え切れなくなったかのように、力強く握りしめられ。 ガーデンテーブルに叩きつけられる。 超人の力で、音を立てて軋むガーデンテーブル。 「私は親族一同を見捨てて。トクトア・カンが包み囲んだ都市から、命からがら逃げ出しました。愛馬の雪烏がいなければ、それすらできなかったでしょうが」 よく逃げ出せたものだ。 いや、この超人に国から与えられた愛馬の脚力には、騎馬民族といえども追いつけなかったのか。 「シルクロード、その道は未だに少数の商人が行き来していました。そして、旅すがら商人から聞きました。西洋には、たとえ東方人でも力量さえ示せるならば軍事階級に昇り詰められる国があるぞと」 それがヴィレンドルフか。 「長い長い旅路でした。そして辿り着き、この弓の腕を国の衛兵に見せ、やがて審査を経てカタリナ女王への御目通りが叶いました。そして、遊牧騎馬民族国家の脅威を訴えました」 良くやってくれたもんだと思う。 そうでなければ、少なくとも領民300名足らずの弱小領主騎士。 このファウスト・フォン・ポリドロの耳には情報が入らなかった。 リーゼンロッテ女王は、脅威を各地方領主に伝えるのではなく、伝えずに民心を安定させることを優先したであろうしな。 まあ、賢い御方だ。 何の手も打たない、という事はなかったと思うが。 「アンハルト王国ヴァリエール第二王女殿下。どうか、貴女からも、アンハルト王国にその脅威をお伝えください。やがて奴等はやって来ます。国の財産、市民の命、その略奪のために」 「話は分かったわ」 ヴァリエール様が頷く。 そして、私の方を見た。 「ユエ殿の話、それをそのまま率直にお母様に伝えるつもりだけど、ファウストはどう思う?」 「それが正解です。私も口添えします」 「ファウストが? 貴方、国の政治には口を挟みたがらないじゃない」 状況が許さねえんだよなあ。 本当に判らん。 悩み悩んだが、遊牧騎馬民族国家が西征してくるのか? してこないのか? それすら判断が及ばぬ。 前世と今世は類似点がある、だが全く同じではない。 不用意な発言をするわけにはいかん。 だが、備えは絶対に必要なのだ。 「必要とあらば、この命を投げ出し、遊牧騎馬民族国家に立ち向かう所存」 「そこまで?」 そこまでなんだよ。 この世界、ヨーロッパという概念すらまだない西洋国家群。 封建制度が未だまかり通る、中央集権化も未成熟の国家。 それを固めねば、遊牧騎馬民族国家には絶対勝てない。 最低でも、アンハルトとヴィレンドルフ。 その連帯だけは強固にしておかなければ。 いや、それだけでも全然足りねえんだけどさあ。 我が領地が、ポリドロ領の領民が、遊牧騎馬民族国家に踏み散らされ、歴史の露と果てるのだけは避けたい。 我が母の墓地が騎馬に踏み荒らされ、歴史の波に流されて判らなくなってしまう事。 それだけは許されないのだ。 ファウスト・フォン・ポリドロは、ただただ弱小領主としての立場から、そして転生者としての立場から。 仮想モンゴルが、西征してくることを恐れていた。 第45話 ファーストキス ヴィレンドルフ王城、王の間にて。 私は膝を折り、カタリナ女王に礼を行う。 「もう帰ってしまうのか? まだよいではないか。和平交渉の内容は魔法の水晶玉を連携させ、すでにアンハルト王国に届けてあるのだぞ?」 カタリナ女王の言葉。 正直、ゆっくりしたい気もしているのだが。 「領民を早く領地に帰してあげたいですし。それに、例の件が」 アンタがプレゼントとして寄越した爆弾を、一刻も早くリーゼンロッテ女王にぶん投げたいんだよ。 どうせユエ殿の件については話してないだろ。 神聖グステン帝国からシルクロードの先の先、その王朝が滅びたぐらいの情報はアンハルト王国にも伝わっていても、その脅威まで伝わっているとはどうしても思えん。 領民300名の弱小領主騎士には手には余る情報だ。 「したい話は山ほどある。お前がどのように育ったか、どのように生きて来たのか。それを知りたい。同時に私の事も知ってもらいたい。私がどのように育ったか、どのように生きて来たのか。それは罪か?」 カタリナ女王が、何かを強請る猫のように、首を横にコトンと揺らす。 王の間には強いダマスク香が漂っている。 大量のバラの花が王の間に飾られているからだ。 帰ると昨日告げたばかりなのに、これだけのバラを集められるとは。 さすが選帝侯、財力が違う。 というか、アンハルト王国より中央集権的なんだよなあ、ヴィレンドルフ。 その分、王家に諸侯たちが求める力の要求も強いが。 そんな、どうでもいい事を考える。 それよりも、カタリナ女王の言葉に回答せねばなるまい。 「私も是非、カタリナ女王陛下の人生と、私の人生を共有したいところです。しかし、我が国にとって危急の事態なれば。直接、リーゼンロッテ女王と話をしなければなりませぬ。貴女も悪いのですよ、カタリナ女王」 「ユエの話か。正直に言ってしまおう、ファウスト・フォン・ポリドロ。私はお前を粗雑に扱う愚かなるアンハルトが、状況を知ったところで対応を練るとは思っておらぬ。ヴィレンドルフでは、私達なりの考えをすでに神聖グステン帝国に伝え、もしもの際の救援要請もしてあるがね」 「……カタリナ女王陛下、それでも」 それでも足りぬのだ、カタリナ女王。 貴女が有能で、すでにやるべきことをやっているのも理解できる。 だが、甘い。 「それでも足りぬ、と申し上げます。ヴィレンドルフとアンハルトが連帯して立ち向かい、神聖グステン帝国の救援があってもまだ足りませぬ」 「国家存亡の危急の事態となれば、ヴィレンドルフは1万の軍を編成できる。アンハルトも同様であろう。その2万に神聖グステン帝国の救援を加える。それでも?」 「足りませぬ。非才なる私の予想では、になりますが」 情報が足りぬ。 何故、神は武力だけではなく知恵の果実を、私に与えてはくれなかった。 ヴィレンドルフもアンハルトも、そりゃやろうと思えば合わせて2万の兵を動員できるであろう。 農兵を無理やり動員すれば、それ以上の数だって可能だ。 だが、その兵は優れた兵と劣った兵が混在した物となる。 いくら将が有能でも、兵の劣質は連携を乱す。 対して、仮想モンゴルの兵は戦闘経験の豊かな騎馬民族の兵だ。 何より、機動力が違い過ぎる。 平地では勝負にならぬ。 機動力を発揮できぬ、森や沼地に誘い込まなければ。 だが、大軍にての会戦により勝負を決し、それも市民に被害を出さずとなれば、どうしても平野での勝負になる。 思い出せ。 前世の知識を絞り出すように、頭を押さえる。 前世でのヨーロッパの敗北、ワールシュタットの顛末だけはよく覚えている。 当時、ヨーロッパにおける騎士の戦術は敵の中心への猛攻撃だった。 「斬首戦術」と呼べば聞こえはいいし、騎馬による突撃は強力な手段であるから、それは否定しないが。 モンゴルはその突撃に対し、偽装撤退させた両翼の軽装騎兵による騎射、要するに殺し間、疑似十字砲火と呼ぶべき陣形を平地にて成立させ、ドイツ・ポーランド連合軍を混乱に陥れた。 後は騎士団の背後に煙幕を焚いて、後方の歩兵と分断させる。 そしてモンゴルの重装騎兵が混乱した兵を撃ち破り、ハイ、おしまい。 要約すれば、実に簡単な内容だからな。 よく覚えている。 そんなモンゴル最強のパターンが完全に入った展開で死ぬのは御免だ。 この世界には魔法・奇跡・伝説の類はあれど、仮想モンゴル戦を覆す何かのキーが今現在そこには見えない。 なれば。 「何もかもが足りませぬ。遊牧騎馬民族のパルティアンショット、少数なれば対応できましょう。クラウディア・フォン・レッケンベル殿が北方の遊牧民族を族滅に追いやったように。ですが」 「敵も同数となれば、超人数人が戦場を左右するには至らぬ、か」 「はい。無論、超人は必要でありますが」 超人数人が戦況を覆せるレベルの戦ではないのだ。 数万単位が激突する大戦となる。 今、何が足らぬ? 急作りの数万の軍勢をまとめ上げるだけの、強烈なカリスマ持ちの指導者か? 今までの戦争の概念を覆すだけの、相手にこの戦法を取るなど予測もさせないような戦術を繰り出す戦術家か? 指揮官の数人が戦場で倒れても、その代理がすぐに成り代わり戦場で混乱しない連携システム? 或いは決して途切れることの無い兵站? それとも多彩な戦術を可能にする兵科の種類?  トクトア・カンは全てを持っている。 仮想モンゴルであれば全てを備えている。 今の、このファウスト・フォン・ポリドロの身には何一つ持っていないものだ。 私には、先祖代々のグレートソードと、レッケンベル家から借り受けたロングボウ。 そして母から産み落とされ育てられた、この超人の身体と。 守るべき領民300名と、その弱い立場。 ただそれだけだ。 それだけで、モンゴルに立ち向かう事を考えなければならない。 もちろん無謀だ。 だから、とりあえず上に脅威を伝える。 それが今、最優先にすべきことだ。 「帰ります。帰ってこの脅威を伝えます」 「そうか。私もお前の言葉はよく受け止める。考えることにしよう。お前の御用商人、名は何と言ったか」 「イングリットです。イングリット商会」 イングリット商会。 今回、ファウスト・フォン・ポリドロの御用商人として、金看板を得たとはしゃいでいた。 冷血女王カタリナの、その「心を溶かすバラ」の運搬を立派に務めたのだ。 アンハルト王宮からの盗品ではあるが。 和平の約定が続く限りは、大手を振ってヴィレンドルフで商売できるであろう。 まあ、その程度の恩恵はあってしかるべきだろうな。 「今後の連絡はイングリット商会に頼むことにしよう。アイツは信用できるのであろうな」 「先代以前の頃からの付き合い故、間違いなく」 「お前もユエから聞いたであろうが、トクトア・カンは情報調略が上手い」 カタリナ女王は手で自らの顎を撫ぜながら、呟く。 「まず間違いなく、シルクロードの商人からこちらの情報を得ているであろう。パールサの商人は特に怪しい」 「でしょうな」 ペルシア人やアラブ人などのイスラム教徒。 そのイスラム商人が、モンゴル帝国の隆盛には関わっている。 死んでしまえ金の亡者共が。 「かといって、流通を止める事も出来ぬ。ならば、私も情報を盗む」 「カタリナ女王が?」 私は訝し気な顔をする。 そうしてくれればありがたいが。 「シルクロードとの商人の流通は無いがな。人は流れてくる。ユエのような人間が何人も流れてくる。トクトア・カンへの復讐、それだけを誓った連中がな」 「それが内通者という可能性もあります。人選にはお気を付けを」 それぐらい、カタリナ女王なら見抜けそうだがな。 後、今も横にいる軍務大臣を務める老婆にも。 「私がそれを見抜けぬと思うか? どちらかと言えば、アンハルト王国を疑え」 「我が国のリーゼンロッテ女王も、アナスタシア第一王女も英明な君主であります」 「それは疑っておらぬ。私は、お前を、英傑を軽んじるその配下どもが内通者にならぬか疑っておる。馬鹿はどこまでも馬鹿だから馬鹿なのだ」 至極名言である。 何の技術も持たぬ内通者をトクトア・カンが戦後、優遇するとはとても思えぬが。 馬鹿はどこまでも馬鹿だから馬鹿なのだ。 「気を付けろ、ファウスト・フォン・ポリドロ」 「承知しました」 馬鹿は斬ろう。 忠告するどころか、逆に忠告されてしまったな。 アンハルト王国に内通者がいる心配を、今からしなければならない。 「それでは、最後の儀式としようか?」 「儀式?」 「何、和平交渉の契約。2年後に支払われるそれの前払いだ」 カタリナ女王は僅かに顔を染め、手をちょいちょい、と猫のようにこちらに手招きした。 「?」 私は懐疑の面持ちで、失礼、と一声上げて立ち上がる。 前払いとは何ぞや。 「私に口づけせよ、ファウスト・フォン・ポリドロ」 「何故?」 「私がやってみたいからだ」 カタリナ女王は正直であった。 ストレート剛速球、猫まっしぐらであった。 どうも、この人の行動はちょくちょく猫らしさを感じさせる。 姿形はムチムチボインの美女なのだが。 「私はファーストキスがまだなのですが」 「私もだ。お互い初めてで丁度良いではないか」 はて、困った。 前世でもキスの記憶が無い。 私は恋愛糞雑魚ナメクジであった。 「キスのやり方が判りませぬ。歯が当たるかもしれませぬが」 「歯ぐらいひっこめろ馬鹿。家族とキス位しなかったのか。私は子供の頃、レッケンベルに頬に毎日されてたが」 「母親から、頬に数度。それだけは覚えております」 歩み寄る。 誰も止めぬ。 私は前に居たヴァリエール様と、その横で何か物凄く渋い顔をしているザビーネ殿を通り過ぎ。 ぴたり、と玉座の前、カタリナ女王の前で立ち止まった。 それを見て、カタリナ女王が立ち上がり、こちらに歩み寄る。 「これは契約だ。ファウスト・フォン・ポリドロ。2年後は私の腹に、必ずやお前の子を為せ」 「努力します」 それは嫌じゃないんだよな。 嫌じゃないんだよ。 私はオッパイ星人である。 オッパイの熱狂者である。 カタリナ女王はオッパイが大きい、つまり正義である。 ゆえに、嫌では決してないのだ。 問題はだ。 恋愛糞雑魚ナメクジの私が、キス一発でカタリナ女王にノックアウトされないかだ。 惚れてしまうかもしれない。 カタリナ女王との、これは恋愛ではなく。 同じ傷を持ち合う者同士の、傷の舐め合いのようなもので。 決して愛情では。 「一分待ったぞ」 「まだ、心の準備が」 「もう待てぬ。しゃがめ。お前の背は高い」 私は身長2m以上のその巨躯を、地面に近づけるべくしゃがみこむ。 そして、カタリナ女王から口に接吻を受けた。 ファーストキスである。 お互い、やり方など判らぬ。 舌が、絡み合う。 触手のように、ああ、これがキスという物なのかと。 初めて理解したように、口内で舌を絡み合わせる。 生暖かい鼻息が顔に触れ、カタリナ女王の瞳と目が合う。 瞳が美しい。 そう心から思った。 お互い、言葉は無い。 数分、経ったろうか。 やがて、カタリナ女王の方から顔を離した。 「頭がくらくらする」 こっちもだ。 カタリナ女王の顔は真っ赤に染まっているが、こちらも同様であろう。 良く考えれば、ここは上級官僚貴族や諸侯が集まる満座の席の、王の間であった。 勢いでやってしまったが、これで良かったのであろうか。 いや、それより何よりも。 私はやはり恋愛糞雑魚ナメクジである。 カタリナ女王に情を感じてしまった。 キスひとつで、愛を感じてしまった。 元より契約を裏切るつもりは無いが、これで何が有っても彼女を、カタリナを裏切れない。 「契約の前払いは果たされた! これにて真なるアンハルト・ヴィレンドルフの和平交渉成立とする!」 ヴィレンドルフの老婆、軍務大臣が声を張り上げる。 老婆らしくない、大声で歓喜にはしゃいだ声であった。 雰囲気と余韻が台無しだ。 私は口の表面を拭う。 口の中に、カタリナ女王の唾液が残る。 だが、不快ではない。 キスとは、本当に奇妙なものだ。 どしゃり。 突然の音に振り向くと、何故かザビーネ殿が泣きながら地面に崩れ落ちていた。 ここはヴィレンドルフの王の間だぞ。 カタリナ女王に失礼ではないか。 まあ、誰も気にしていないようだが。 「ファウスト、来年だぞ。来年。必ず顔を出しに来い。手紙も毎月出すように。私も出すからな」 玉座に座り直し、カタリナ女王が顔を赤く染めたまま告げる。 「承知」 私はそれに短く答えた。 カタリナ女王に背を向け、王の間の赤い絨毯を踏みしめ、ザビーネ殿が死んだように倒れオロオロとしているヴァリエール様を残念に思いながら。 ザビーネ殿を担ぎ上げ、王の間からの退室を試みる。 「ファウスト・フォン・ポリドロ」 背後から、声が掛かった。 カタリナ女王の声だ。 「嫉妬深い、哀れな女と思われるのは嫌だ。だから、そのまま振り向かず行ってくれ。これが本当に最後の言葉だ。また会おう、ファウスト」 「ええ、カタリナ様。またお会いしましょう」 私は振り向かない。 カタリナ女王の言葉があったからではない。 振り向いたら、もう一度キスしたくなってしまうような気がしたからだ。 一歩一歩、赤い絨毯を踏みしめながら、隣に歩くヴァリエール様と一緒に。 そのまま、ヴィレンドルフの王の間を後にした。 第二章 完 ファウスト・フォン・ポリドロ暴走編 第46話 アンハルトの英傑 アンハルト国民の目にとって、ファウスト・フォン・ポリドロの姿は異形に映った。 背の高い男はいる。 基本、男は家事と育児を行うものとする見方が強いが、あえて信念をもって選んだ鍛冶師等の職業柄、筋骨隆々の男もいる。 それぞれ、それを好みとする女がアンハルト国内にいないわけでもない。 それらは、別に特異な好みと呼ぶほどではなかった。 現に、アンハルト王国リーゼンロッテ女王陛下は、背の高い筋骨隆々の男であるロベルトを王配として選んだ。 当時、貴族にも国民にも、何故あのような美しいとは言えない男を? そういった疑念は持たれたが。 ともかく、それ自体は個性として認められ、異常性癖と言われるほどではなかったのだ。 背の高さも、筋骨隆々の姿も。 ただ、両方を持ち合わせ、その通常の基準をあっさり超越する姿の男をその目にするのは、誰もが初めてであった。 身長2mオーバー、体重は130kgを超え、そのチェインメイル越しでもよくわかる隆々とした筋骨、それも特別性の鋼のような肉体を持った男の姿。 その男、領主騎士たる彼が乗る馬も巨躯であった。 いくら軍馬、グレートホースと言えども、その馬の平均的な体高はせいぜい1m50cmにも満たないのが殆どである。 だがポリドロ卿の愛馬、フリューゲルの体高は2mをゆうに超えていた。 その愛馬に、身長2m超えのポリドロ卿が乗馬しているのである。 そして顔だけは拙くない、気高いとすらいっても過言ではないその顔で、その眼光は軍事階級にして領主騎士としての鋭さを帯びていた。 話を最初に戻そう。 アンハルト国民の殆どが、そのファウスト・フォン・ポリドロの姿を異形と認識した。 紅顔の美少年を良しとする文化価値観から、とうてい美形とは呼べず、相容れないものと判断したのである。 よって、ヴィレンドルフ戦役にて敵将クラウディア・フォン・レッケンベルを一騎打ちにて撃ち破り、その他多くの騎士を倒した。 その個人武勇により第一戦功とみなされ、救国の英傑と呼んで何ら差し支えないポリドロ卿。 それをヴィレンドルフ戦役における戦勝パレードにて、歓声を挙げて祝福して出迎える事を戸惑った。 戸惑いは躊躇いであり、同時に侮蔑を招いた。 その侮蔑は、酒場での女達の陰口を招いた。 あのような男だてらの騎士モドキが英傑とはな。 その周囲に座っていたテーブルの女が立ち上がり、その陰口を叩いた女の面を殴り倒した。 その倒れた身体を踏みつけ、さらに蹴りを鳩尾に入れる。 「今、ポリドロ卿を侮辱したな?」 ヴィレンドルフ戦役帰りの兵、公爵軍に属する正規兵の女であった。 アンハルト王国軍、公爵軍500、第一王女親衛隊30、ポリドロ領民兵20、合わせ550。 対してヴィレンドルフの正規兵は1000を超えていた。 倍の軍を相手に回しての野戦であった。 公爵軍正規兵500は、その腰まで泥沼に浸かった闘い、ヴィレンドルフ戦役にて300まで数を減らしていた。 そんな中、最前線にて武の体現にして無双を誇るポリドロ卿の姿は何よりの救いであった。 この兵も、戦場にて命を拾われた一人であった。 「もう一度言おう。平民風情が、我らが英傑たるポリドロ卿を侮辱したな? ここで死ぬかお前」 「衛兵、衛兵ーー!!」 酒場の女主人の叫びに、衛兵が駆けつけて危うく殺人が回避される。 そんな事が数回起こった。 もっとも、その兵達は牢屋に閉じ込められるどころか、上司に怒られる事すらなかった。 むしろ褒められ、即座に動いたことを称えられた。 場所が酒場のため剣を有しておらず、止めを刺さなかった事だけは叱られたが。 対して、その陰口を叩いた女達には罰が与えられ、しばらく牢に閉じ込められた上に罰金を科された。 地獄の戦場を共にした、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵。 その戦友二人の存在が、ポリドロ卿への侮辱はその場で死に値する行為とみなしていた。 むしろ、陰口を叩いた女への処罰が甘いとすら考えていた。 だが、これはポリドロ卿の評判にとっては救いではない。 いつしか、ポリドロ卿の事は箝口令のようになった。 表立って陰口を叩かれる事は無くなったが、褒め称えられることも特に無かった。 だが、英傑詩だけは沢山謳われた。 おお、アンハルトの女たちよ、我の語るをお聞きください ヴィレンドルフ戦役、そこで起きた一人の男騎士の一騎打ちの話です 男はポリドロ領を所有する領主騎士にして、賢く勇敢で 第二王女ヴァリエールの相談役なる ファウスト・フォン・ポリドロ 振り上げたる剣の重きは女も唸る怪力無双。駿馬を駈り、戦場を侵すは猛火の如し 味方が混乱した状況下、死地と化したその場にて素早く己が身を敵陣に投じた 彼の男は熱狂者なり 雑兵を自らの剣にて薙ぎ払い、領民僅か20名を率いてヴィレンドルフの騎士団50名に突貫せり 騎士9名を撃ち破り、雷風の如き弓矢を打ち払いて、辿り着いたは騎士団長レッケンベル クラウディア・フォン・レッケンベル ヴィレンドルフ最強の英傑騎士なり 相対して双方名乗りを上げ、打ち合うは何百合…… ポリドロ卿の英傑詩はアンハルト中の吟遊詩人に、男騎士にしてアンハルト王国最強、その題材の素晴らしさから一時流行色になるほど謳われたが。 アンハルト国民のウケは、あんまり良くなかった。 一時期は王国民の耳にタコが出来る程、そのレッケンベル騎士団長との一騎打ちが確かに謳われたが、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の英傑詩の方が人気を博した。 戦略ではアナスタシア、戦術ならばアスターテ。 誰もがそれを褒め称えた。 だが、そこに武勇ならばファウスト・フォン・ポリドロという、その名が挙がる事はなかった。 結論から言ってしまうと。 ファウスト・フォン・ポリドロは一種禁忌の存在として扱われるようになってしまった。 もっとも、その名が忘れられたわけではないが。 そう、忘れられたわけではない。 誰もが覚えていたし、マトモな頭を持つ人間の誰もが、それに対しての口を噤んでいた。 そして、ファウスト・フォン・ポリドロはその後も活躍し続けた。 最近では、第二王女相談役としての活躍が著しい。 ヴァリエール第二王女の初陣にて、敵兵100の内の半数以上を討ち破り、ヴィレンドルフに逃げ込もうとした売国奴たるカロリーヌを討ち果たした。 その活躍と同時に、その売国奴であるカロリーヌの娘マルティナの助命嘆願のため、リーゼンロッテ女王陛下、諸侯や上級法衣貴族を並べた満座の席で、頭を地面に擦り付けた。 平民たちは今まで口を噤んでいたのが、まるで嘘であるかのように囀りだした。 安酒場にて、お互いの意見を言い合う。 「あの男騎士、アレで可愛いところがあるじゃないか。女顔負けの騎士とは言え、やはり男か」 「そもそも、助命嘆願とはいえ貴族たるものが頭を地に擦り付けるとはどうなのか。相手は救いようもない売国奴の娘だぞ」 「そこが可愛いんじゃないか。戦場の相手の首は刎ねられても、子供の首だけは刎ねられぬというのが」 喧々囂々。 平民たちは、あの頭に焼き付いて離れない、異形な男の奇妙な英傑譚。 それについて、思いだすにつけては酒場の論争の一つとして挙げるようになった。 ポリドロ卿の行動への疑問はあっても、その誉れが正しいか否かであって。 そこに侮蔑は無かった。 貴族も同様であった。 「ポリドロ卿の気持ちは判らないでもない。8,9歳の賢い、将来ある子供の首を刎ねるのだぞ。誰だって嫌だ。何のために死刑執行人がいるのか」 「しかし、王命だぞ。まして当事者たるマルティナはそれを望んでいた。将来など無い。それを考えるなら首を刎ねてやるのがお互いの名誉というものではないのか。まして頭を地に擦り付けるなどと」 「ポリドロ卿はそのマルティナを騎士見習いとして引き取り、将来への責任もとってるではないか! あの必死に頭を下げた姿を醜いなどというならば、例え友人たる卿であっても許さぬぞ!」 喧々囂々。 会話のレベルに、貴族としての名誉絡みが関わる事を除いては、貴族の会話も大差なかった。 ともあれ、アンハルト王国の平民も、貴族も、皆がファウスト・フォン・ポリドロについて語るようになった。 一時期の箝口令のような空気は払拭されていた。 そして自然、耳にタコが出来るほどに聞かされた吟遊詩人の英傑詩が思い起こされる。 そうしている間にも、時間は過ぎる。 二か月も経たたない内に、ファウスト・フォン・ポリドロがカロリーヌ騒動の衝撃も抜けきらぬまま、ヴィレンドルフへと旅立った。 第二王女相談役として、そしてヴィレンドルフ和平交渉の副使として。 耳聡い商人といった平民達、下級上級問わず貴族達、マトモな頭を持っている誰もが、理解していた。 あ、事実上の正使はポリドロ卿だ、これ。 今までの和平交渉が全て失敗し、すわ二回目のヴィレンドルフ戦役が始まるのかと国中の緊張が高まっている中で。 誰もが祈っていた。 「頼むからポリドロ卿、交渉を成功させてくれ」 と。 次は絶対勝てない、そんな悲壮な雰囲気が漂っていた。 特に、ヴィレンドルフの国境線近くに領地を持つ、地方領主達はわが身の事である。 ある地方領主と家臣達などは教会で、毎日欠かさず神ではなくポリドロ卿への祈りを捧げる有様であった。 次は本当に勝てない。 あの勝利はマグレである。 アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の手前、誰もが口にはしないが地方領主達はそう思っていた。 そして、朗報が伝えられた。 ポリドロ卿、和平交渉成立の報である。 誰もが安堵した。 そして、同時にその報告の条件に首を傾げた。 ヴィレンドルフ女王カタリナの腹に子を宿す? つまり愛人契約であり、ポリドロ卿はその身をヴィレンドルフに切り売りした? 聡い者こそ、真っ先に狼狽した。 法衣貴族も、諸侯も同様である。 はて、これに対してアンハルト王国はどう報いるべきか。 これは、特に地方領主にとっては他人事ではない。 御恩と奉公、封建制は双務的な関係によって構築されるものである。 元々、他に方法があるか? との問いには誰も答えられぬものの、領民300の弱小領主騎士に選帝侯同士の和平交渉の実質的交渉役を任せると言うのは無茶ぶりである。 誰もが眉を顰めた。 どうするんだ、これ。 ポリドロ卿に、同情や義憤を感じたといった単純な事ではない。 ルールを守ってもらわねば、ポリドロ卿がそれで良いと頷いても、他は納得できない。 よって、ポリドロ卿には国家からの熱い賞賛の言葉と同時に、それ相応の報酬が与えられなければならない。 土地。 とてつもなく価値がデカい物。 血統。 これ程までに功績を成し得たポリドロ卿に木っ端貴族の娘を与えるのは、もはや許されぬ。 それ相応の青き血を与える必要があるだろう。 金銭。 価値が無いとは言わないが、あんまりではないか。 ヴィレンドルフ戦役でも、カロリーヌ騒動でも、ポリドロ卿が与えられたのは金銭である。 ここまで馬車馬のようにこき使いながら、金で全てを済ませるつもりか。 そんな感想を皆が抱く。 詰んでいた。 要するに、土地か血縁。 どちらか、或いは両方の選択を、アンハルト王国リーゼンロッテ女王は迫られていた。 愚かな者は未だにファウスト・フォン・ポリドロを醜い姿の、王家に上手くこき使われている者と侮蔑し。 賢き者は、如何にしてファウスト・フォン・ポリドロの功績に対し、王家が報いるのかを注目する中で。 その当事者であるポリドロ卿はアンハルト王国への帰路についていた。 「あと一週間ぐらいで帰れそうですねえ。帰りは一騎討ちなかったですし」 「帰りも一騎討ちするつもりだったの?」 「相手がそれを望むなら」 ファウストはヴァリエールの言葉に対し、あっさり頷いた。 望まれれば、また100人抜きを行うつもりであった。 「いくら何でも、ヴィレンドルフの次代を担う王の父親に一騎討ちを挑む程ヴィレンドルフも……いや、ありえるか。あの国だとそれもまた名誉?」 「あり得るでしょう? 掛かって来ないのがむしろ私には意外でした」 「いや、さすがに帰路は無しだろと遠慮してくれたんじゃない。ヴィレンドルフにもそれぐらいの配慮あったんでしょうよ」 今まで付き添ってくれたヴィレンドルフの国境線、それを警護するヴィレンドルフ騎士達に見送られながら別れを終えて。 ヴァリエールはやっと役目を終えたと息を吐きながら、まだ旅路は終わってないと気を引き締め直す。 「お母様、盗んだバラの事怒ってるでしょうね」 「一緒に謝るのよろしくお願いしますね」 「ファウスト、貴方ねえ。いや、謝るけどさあ」 ヴァリエールとファウストはまだ気づいていない。 もうリーゼンロッテ女王はバラの事なんてどうでも良い状況に追い込まれている事に。 「私、謝る事だけが仕事みたいになってるのよねえ」 ヴァリエールはまだ気づいていない。 ファウストに与える報酬、その候補の一つとして自身が上がっている事に。 「私、リーゼンロッテ女王に盗んだバラの件では謝罪しますけど、今回の報酬はちゃんと貰いますからね」 ファウストはまだ気づいていない。 その報酬は確実に貰えるだろうが、もはやお金だけでカタがつく状況下ではない事に。 「ポリドロ卿。アンハルト王都に辿り着いたら、二人でデートしましょう。デート」 第二王女親衛隊長ザビーネは気づいている。 ヴィレンドルフ女王カタリナとの濃厚なキスの一件で、ファウストの中でのザビーネに対する優先順位が極端に下がった事に。 「まあ、何もかも王都に帰ってからの話よね。疲れてるけどもうひと踏ん張り行きましょう」 アンハルト王国第二王女ヴァリエール。 彼女は最後に言葉を締め、王都に向かって静かに馬の歩みを促した。 第47話 小領主の限界 アンハルト王都。 その幅広く設けられた、王城まで一直線の長い長い目抜き通りにて。 王都に駐留している公爵軍200に加え、同じく王都に駐留している諸侯の兵200が並んで道を空け、アクシデントが起こらぬよう目を光らせている。 パレード。 ヴィレンドルフとの和平交渉を無事成立させた、正使ヴァリエール第二王女と、副使ファウスト・フォン・ポリドロを出迎えるためのパレードの準備である。 目抜き通りの中央を開け放つために、兵達は並んでいた。 アンハルト国民は、兵達の前で行儀よくパレードの開始を待ち構えている。 王都の城門を抜け、その光景を見ながら私は呟く。 「ヴィレンドルフ戦役を思い出すな」 「ポリドロ卿は称賛されなかったと、従士長のヘルガ殿から聞きましたが。その功績に何一つ見合わぬ、侮辱に近い出迎えであったと」 愛馬フリューゲルの背に乗るマルティナ。 その言葉を聞きながら、ヴィレンドルフ戦役後のパレードを思い出す。 ああ、嫌な思い出だ。 異形な物を見る目。 不細工な男を見る目でもない、蔑むでもなく称えるでもない。 アンハルトにおける異物を見つめる目だ。 あの粘りつくような冷たい視線だけは非常に不快であった。 まあ、どうでも良いのだが。 貴族は面子商売で、舐められたら相手を殺してでも面子を勝ち取るしかない。 私はポリドロ領の領主としての面子があるのだ。 領地の名誉全てを、この背に背負っているのは事実。 しかしだ。 私が最低限守らなければならないのは、領民300名の弱小領主騎士としての面子である。 正直言って、面と向かって侮蔑されたのでもなければ、そこまで気にする必要はない。 面と向かって侮蔑されれば、仕方なくそいつを半殺しにするが。 正直、それすら面倒臭いんだよなあ。 溜息をつく。 もう一度言おう、アンハルトでは私は異物だ。 それは私自身が何より理解している。 「まあ、今回もヴィレンドルフ戦役と同様であろう。期待はしていない」 「私は馬から降りた方がよろしいでしょうか? さらにファウスト様の評判を落とすことに」 「いや、背中に引っ付いていなさい」 これも経験だ。 マルティナも、将来世襲騎士の地位が約束された身の上とはいえ、売国奴の母を持つ脛傷持ちである。 この先辛い道が待ち構えている事ぐらいは承知しているであろう。 マルティナは私の騎士見習いである。 こういう経験も、必要であろう。 少しでも血となり肉となってくれればそれでいい。 私は振り返り、領民達を見る。 領民達は槍や剣を抜き、クロスボウの弦を滑車で引く準備を――まてオイ。 「何をやっている、ヘルガ達」 「殺す準備です。今度こそ、ファウスト様を侮蔑する輩どもは一撃で仕留めますので、ご安心を」 何も安心できない。 安心できる要素が何一つ無い。 「逆だろ逆。剣をしまえ。槍の穂先を布で包め。クロスボウは馬車にしまえ」 「御言葉ですが、ファウスト様。我がポリドロ領の名誉に関わる事でございます故」 ヘルガが三歩前に歩み出て、領民達を代表するように私に訴える。 それは、涙声混じりの訴えであった。 「ヴィレンドルフ戦役後のパレードを思い出してください。あの泥沼の死地にて救国の英傑たる活躍を見せたファウスト様を、あのアンハルト王都の市民たちは褒め称えすらしませんでした。それどころか異物を見るような目を。あの戦役に参加した領民20名は、今でも奴らを叩きのめさなかった事を後悔しております」 今回引き連れた領民30名の内、当時戦役に参加していた20名がぶんぶんと首を振る。 我が領民達は私に絶対の忠誠を誓ってくれている。 私が死地に飛び込めば誰一人欠けることなく、その後を付いてきてくれる。 自慢の領民達ではあるが。 「しなくていい。しなくて」 手を振りながら、否定する。 何が悲しくて、その可愛くて仕方ない領民の手をわざわざ血に染めさせねばならぬ。 まして、今回は戦友たる公爵軍がパレードの仕切りをやってくれている。 私を侮蔑するようなアホがいれば、公爵軍がその場で捕まえて牢屋送りにしてくれるであろう。 考えた事をそのまま口に出す。 「今回の仕切りは公爵軍だ。死地を共にした彼女達が、私への侮蔑を許すと思うか?」 「それは、確かに」 ヘルガが頷く。 判ってくれたなら幸いだ。 だが、ヘルガは穂先が剥き出しの槍を突き上げ、答える。 「しかし、わざわざ戦友たる公爵軍のみに手を委ねるのもどうかと。今度こそは勇猛果敢なる我ら領民の手で、アンハルト王都の市民に目に物を見せてやらねばと」 「ヘルガ。確認するが、私ことファウスト・フォン・ポリドロはアンハルト王国に領地の保護を約束して頂き、忠誠を誓っている身である。主従関係にある。判っているよな」 「判っております。そして私達はファウスト様に絶対の忠誠を誓っておりますが、アンハルト王国に忠誠を誓った覚えは一度としてありませぬ。臣下の臣下は、臣下ではありませぬ」 理屈上はそうだけどさあ。 いかん、頭が痛くなってきた。 下手にヴィレンドルフで私が歓迎された分、我が領民のアンハルト王国への敵対心が高まっている。 これはどうしたものか。 仕方ない、一度怒鳴りつけるか。 そう判断して声を張り上げようとしたが、そこで横合いから口が挟まる。 「ヘルガ、我が市民の、そして貴族達の、アンハルトの国民達によるファウストへの扱いに不満を抱いているのは承知しているわ。何より私自身が不満に思っているから」 「ヴァリエール様」 ヴァリエール様である。 ヘルガが、振り上げていた槍を降ろす。 「私も同様、やっと初陣を果たしてそこそこ認められるようにはなったけど、まだまだ貴族の間ではミソッカス扱い。そんな私の頭で足りるかどうか判んないけど」 ヴァリエール様が、従士長とはいえ一平民に過ぎないヘルガに、頭をぺこりと下げた。 「私の下げた頭に免じて、今回は大人しくしてもらえないかしら」 「お止めください、ヴァリエール様。貴女にそう言われては、私どもは何も出来なくなります。何もかも、承知しました故」 ヘルガが腰を折り曲げてヴァリエール様に頭を下げ、大人しく領民全員に指示を飛ばす。 「全員、槍の穂先を包み、剣を鞘に納め、クロスボウを馬車に戻せ」 領民が速やかに指示に従い、パレードへ向かう隊列を整え始める。 動きはいいんだ、動きは。 私と同じく何度も軍役に赴いた、歴戦の猛者たちだけはある。 が、どうにも血の気が多い。 「隊列の順は、私の横にファウストが並んで、次に第二王女親衛隊、最後にヘルガ達領民で良いわよね」 「はい。問題ありません」 ヴァリエール様の言葉に、感謝の意を含んだ声で答える。 思えば、ヴァリエール様も初陣の頃と比べると成長なされた。 初陣前は、このような真似も出来なかったであろう。 「さて、パレードに行くとしましょう。私達の方の準備もいいわよね、ザビーネ」 「はい、ヴァリエール様を一度でも侮辱しようものなら、その市民を殺す準備は」 「ねえ、貴女達はさっきまでの会話をちゃんと聞いてたの?」 第二王女親衛隊がしぶしぶ剣を鞘に納め、槍の穂先を布で包みだす。 我が領民の血の気の多さも大概であるが。 親衛隊のヴァリエール様への狂信も、大概である。 「初陣では、見送りも、出迎えも無しだったのよねえ。パレードなんて初めてだわ」 ヴァリエール様がしみじみと呟く。 今回は、ヴィレンドルフとの和平交渉を成功させたのだ。 私はともかく、ヴァリエール様は報われて欲しいものだが。 「是非とも歓声で迎えて欲しいものです」 私は全員の隊列が組み終わったのを見届け、愛馬フリューゲルの首を優しく撫でる。 フリューゲルはそれに応じ、ゆっくりと歩き出した。 「そう願うわ」 同じく、ヴァリエール様の馬も同時に歩き出す。 我が愛馬フリューゲルと、ヴァリエール様の馬が並んで目抜き通りに入る。 待ち構えていた市民達がザワザワと騒ぎ出し、兵達は並んだまま警戒を強める。 警戒心を強めすぎている。 肌でそう感じる。 はて、公爵軍は判るが、諸侯の兵達まで警戒を強めているのは何でだ。 このパレードの失敗だけは許されない。 何事かあれば、身を挺してもアクシデントを止めなければならない。 そういった緊張感だ。 そういった感情を、騎士としての直感で感じる。 何事か、私達がいない間に王都で起こったのであろうか。 首を捻る。 判らない事は、背中にいる9歳の知恵袋に聞こう。 「マルティナ、兵が緊張している。何故か分かるか?」 「いや、そりゃそうでしょう。何間抜けな事言ってんです。ヴィレンドルフとの和平交渉を成立させたんですよ、ファウスト様とヴァリエール様の御二方は。そのパレードが失敗でもしたらどうするんです?」 「どうなるんだ?」 パレードのため、似合わぬと散々苦情が入ったグレートヘルムは脱いでいる。 フリューテッドアーマーに、先祖伝来のグレートソードを帯剣した武装状態。 その姿に、マルティナを背中に乗馬させている。 背後のマルティナの表情は窺えぬ。 「判りませぬか。アンハルト王国は、ファウスト様のこれ以上の不興を買う事を恐れているのですよ」 「ふむ」 どうなるか、への答えではない。 不興を買う、と言われても、私はパレードに何も期待していないのだが。 ファウスト・フォン・ポリドロはアンハルト王国の市民に何も期待してはいない。 まあよい。 愛馬フリューゲルの首を優しく撫ぜる。 我が愛馬よ、つまらぬパレードなどさっさと通り抜けてしまおう。 まあ、ヴァリエール様への歓声には期待するが。 パレードが始まる。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿、万歳!!」 声は市民からではなく、まず公爵軍の200の兵から起こった。 あの顔は見覚えがある。 ヴィレンドルフ戦役にて最前線を共にした、戦友の一人。 私はニコリと顔を緩め、お互いに会釈を交わす。 「ヴァリエール第二王女殿下、万歳!!」 やはり声は市民からではなく、公爵軍に相対する兵から起こった。 諸侯の兵からである。 顔は知らぬが、事前に歓声を上げるよう言い聞かされているのであろう。 良い判断だ。 誰かが言いださねば、市民からの歓声は始まらぬ。 こういう時、ちゃんと市民にもサクラ、盛り上げ役の偽客を混ぜておくべきなのだがな。 いや、リーゼンロッテ女王の事だから、手抜かりは無いはず。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿万歳! ヴァリエール第二王女殿下、アンハルト万歳!」 ほら、そこかしこから、偽客である市民からの声が聞こえた。 さすがリーゼンロッテ女王。 こういうパレードにも、ちゃんと余念がない。 後は盛り上がるかだが。 「アンハルト万歳!」 「アンハルト万歳!」 二千は超えているであろう市民達が歓声を上げ始める。 リーゼンロッテ女王の工作は無事、成功したか。 自分は歓迎される方なのだが、ほっとする。 もし失敗して先ほど口にしたような展開、私を侮辱した市民を公爵軍の兵が殴りつけて連行するような事態になれば、もはや目も当てられぬ。 パレードは失敗。 私も、ヴァリエール様にも面子があるのだ。 「兵が最初に煽り立て、市民に混ぜた偽客が歓声を上げ始める。まあリーゼンロッテ女王の手腕は御見事と言えますが」 マルティナの冷たい声。 本当に賢い9歳児だ。 まあ、どこの国でもやってる事だ。 小さからず、大きからず、どこでも。 訓練された観衆による扇動、意思統一。 この世で最も見事な扇動とは何か。 ふと、前世でナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスが行った総力戦演説を思い出す。 ん? 総力戦演説? そうだ、総力戦演説だよ。 3つの命題の提示。 ナチス・ドイツは3つの命題を総力戦演説にて提示した。 ①ドイツが敗退すれば、ヨーロッパはボリシェビキの手に落ちる事。 ②ドイツ人、及び枢軸国のみにヨーロッパを脅威から救う力がある事。 ③危険はすぐそばにあり、迅速に対応しなければ手遅れになる事。 これは応用できないか? 私はあの総力戦演説を真似なければならない。 リーゼンロッテ女王に、どうやって仮想モンゴル、トクトア・カンの脅威を伝えるか。 どうすれば脅威を理解してもらえるか。 それをこの帰還中、ずっと悩み続けていたのだが。 ヒントは我が前世の知識にあった。 まさか、王都でのパレードの途中でそれを思いつくとは。 ファウスト・フォン・ポリドロの愚か者め。 時間が足らんわ。 頭をガリガリと掻く。 「あら、柄にもなく照れてるの、ファウスト」 市民の歓声に、笑いながら手を振って答えるヴァリエール様。 それがこちらを振り向き、私の仕草を照れてるものと勘違いした。 全然違うわポヤポヤ姫。 その14歳美少女赤毛貧乳の笑顔は可愛いが、私の今の心境には何の慰めにもならん。 もはや市民の歓声も耳に入らぬ。 ああ、せめてヴァリエール様に訓練された観衆の一人として、仕込みを入れる時間があったならば。 もう一人でやるしかないのか? パレードの後、リーゼンロッテ女王に今回の和平交渉の正式報告に上がるまで、少し時間がある。 リーゼンロッテ女王に出会う前、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵に観衆役としての誘導を仕込む時間はあるか? いや、そもそも、あの賢い二人を私ごときが誘導できるものか。 普通に全身全霊で説得するのと変わらん。 そして、領民300名の弱小領主騎士にして、母の代から親戚づきあいも絶たれ、貴族間の付き合いなど無い私には固まって訴える術、他に訓練された観衆を用意すべき手立てが無い。 ああ、クソッタレが。 矮小なるファウスト・フォン・ポリドロよ。 前世からのせっかくの知識を、思い通りに扱えぬ。 それがお前の限界だ。 私をこの狂ったファンタジー世界に転生させた神がいるならば、そう愉悦気味にそう呟かれた気がした。 知恵者が欲しい。 策士が欲しい。 軍師も策略家も欲しいが、何より私には傍にいて一緒に考えてくれる知恵者が要るのだ。 この前世の知識だけでは、何の役にも立たぬのだ。 自分の不甲斐なさを思い知らされる。 「ファウスト様、パレードが終わります。気に食わないのは判りますが、そう渋い顔をせず、最後位は笑顔で締めくくられませ」 背後のマルティナから声がかかる。 そんなに渋い顔をしていたか。 まずはこのパレードを終え、リーゼンロッテ女王に全身全霊の演説を以て、法衣貴族や諸侯の満座の席でトクトア・カンの脅威を訴える。 それしかない。 それだけしかできない。 誰にも聞こえぬ舌打ち、それを口内で起こしながら、私は顔を無理やり笑顔に作り変える事にした。 第48話 正式報告の前準備 アンハルト王宮、その第一王女アナスタシア居室。 「で、パレードの様子はどうだった?」 第一王女相談役たるアスターテ公爵がワイングラスにワインを注ぎ、それを口に含む。 まだ昼であるが、酔いたい気分であった。 要するにヤケ酒である。 正妻問題。 もはや、ファウスト・フォン・ポリドロが独身であることは許されない。 当初のアンハルト王家の計画では、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の愛人となり。 アスターテ公爵の末子をポリドロ領の領主とする、その予定であったのだが。 ファウスト・フォン・ポリドロはそれを知らない。 ヴィレンドルフ女王、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ。 その愛人の立場となり、アンハルト国内の地方領主から最大の注目を集めている。 今のファウスト・フォン・ポリドロはそれを知らないのだ。 「最初は和やかに笑顔をお見せになりました。ヴィレンドルフ戦役を共にされた公爵軍の兵が立っていましたので」 「ああ、ウチの兵相手なら会釈ぐらいはしてくれるだろうさ」 第一王女親衛隊長。 パレードの様子を、より正確にはポリドロ卿の様子を見届けていたその口から、アナスタシアとアスターテ二人に対する報告が為される。 「ですが、途中、国民からの歓声が上がると同時に渋い顔をされました」 「まあな」 「そうなるでしょうね」 報いなかった。 アンハルト王国の市民は、ヴィレンドルフ戦役後のそのパレードにおいて、救国の英傑にして武功第一を誇るファウスト・フォン・ポリドロに何も報いなかった。 ヴィレンドルフ戦役は局地戦である。 あくまで、アンハルトとヴィレンドルフの国境線にて起きた戦争に過ぎない。 だが、一つ穴が穿たれればアンハルトの土地欲しさにヴィレンドルフの各地方領主が参戦し始め、国が窮地に陥りかねなかった。 重要な戦であった。 それでも、憤怒の騎士ポリドロ卿を市民が歓声で迎えることは無かった。 殺してやろうか。 地獄のヴィレンドルフ戦役を共にしたアナスタシア第一王女とアスターテ公爵はそう考えたが、侮蔑をした市民には罰を与えられども、何もしなかったことを罪とする事はさすがの二人にも出来なかった。 苦い苦い想い出である。 その武功に与えられた報酬はポリドロ卿自身が望み、リーゼンロッテ女王がそれに応えて与えた金銭のみであった。 だが、どうでもよい。 ファウスト・フォン・ポリドロの良さは、あの地獄を経験した我らのみが理解できていればそれでよい。 なに、我ら二人がポリドロ卿を独占することを考えれば、この環境はむしろ丁度良い。 そうとまで考えていた。 が、状況は変わった。   このまま座視していた場合、ファウストにはヴィレンドルフからの正妻が与えられる。 そして、アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の野望は水泡に帰す。 アスターテは語る。 「ファウストはヴィレンドルフとの実現困難とも言える和平交渉を達成し、その代償に貞操を切り売った。これに王家が報いるには? アンハルト王家と保護契約を結んでいる地方領主の誰もが納得する、その報酬とは?」 「土地か血統。或いはその両方。土地は駄目だ。王領の土地を切り取るのは構わないが、飛び地になる。ファウストは嫌がるであろう」 ワイングラスから、ワインを一滴残らず飲み干す。 アスターテ公爵は再びワイングラスにワインを注ごうとしたが、それを止め、瓶からワインをラッパ飲みし始めた。 「では血統。つまり結婚といっても、相手誰にすんだよ」 「ヴァリエールが相応しいでしょうね。いえ、相応しいと言うか一番マシだわ」 アスターテに相対するアナスタシアが、舌打ちをした。 血統。 もはやポリドロ卿に与える血統は、王家とその親族に連なる血でなければ。 「私では駄目か?」 「無理よ。私か貴女の夫、王配か公爵家の夫はさすがに無理」 「今回の功績を以てしても?」 アスターテ公爵がワインのボトルを放す。 手の甲で唇に残った僅かなワインを拭う。 何とか、自分の夫に出来ないかと思索する。 王位継承権。 第三王位後継者の私より、第二王位後継者のヴァリエールが相応しい理由は? 「わざわざ私の口から言わせないでよ。ヴァリエールは所詮私のスペア。数万を数える領民を持つ公爵家を継ぐ貴女とは違うわ」 アナスタシアがため息混じりに、アスターテに答える。   アスターテは口内で舌打ちしながら、視線を第一王女親衛隊隊長に向ける。 そして、会話の秘匿性の高さから、給仕の代わりを務めている彼女に声を掛ける。 「アレクサンドラ、お前はどう思う」 第一王女親衛隊長、アレクサンドラ。 身長は190cmと高く、その身は全身に特別製の筋肉をうっすら帯びている。 そのバストサイズは豊満であり、侍童が姿を見ると騒ぎ出すような麗人であった。 ある世襲貴族の次女で、アナスタシア第一王女自らスカウトしてきた超人。 昨年行われたアンハルト王家主催のトーナメントでは優勝もしている。 発狂した王族、バーサク状態に入ったそれを除けば、アンハルトではファウストに次ぐ実力第二位を誇る。 もっとも、その実力差はファウストに大きく空けられているが。 「それは私に、ポリドロ卿の嫁に行けという事でしょうか? それならば喜んで」 「違うわ馬鹿者」 アスターテはげんなりとした顔を見せる。 ヴィレンドルフ戦役。 腰まで泥沼に浸かったその戦場にて、ファウストの武勇に魅せられた女は想像以上に多い。 「きっと良き超人の子が産まれると思いますのに」 「童貞を私にくれるなら、お前ならば正妻にしても良いと考えるが。状況がそれを許さん」 アレクサンドラの、次代の超人を産むぞとの言葉。 アナスタシアによる、その言葉の否定。 アナスタシアは、アスターテからワイン瓶を奪い取り、その手のワイングラスにワインを注いだ。 舐める様に、それを嗜む。 「血統。それも誰が見ても、ファウストに報いたと言える血統。それが条件だ」 「じゃあ、やっぱりヴァリエールしかいないか」 「いない。ファウストの童貞はヴァリエールに言い聞かせて、私に譲らせよう」 アナスタシアは、ファウストの童貞に固執する。 それだけは誰にも譲れなかった。 あの貞淑で無垢でいじらしく、朴訥で真面目な童貞のファウストに、その身体を手折られた花のように、自ら自分に開かせる。 それがアナスタシアの私人としての第一の欲望であった。 第二は、ファウストに耳元で愛を囁く事。 第三は、ファウストの子を産む事。 アナスタシア第一王女は、ファウスト・フォン・ポリドロにどこまでも惚れ抜いていた。 「ヴァリエールは納得するかな?」 「納得させる。なにせ、ヴァリエール本人は未だ、自分は将来僧院に行くものと思い込んでいる。弱小地方領の領主とはいえ、僧院に行くよりはよっぽどいいでしょうよ」 何せ、僧院とは違って自由の身だ。 アナスタシアは、ファウスト・フォン・ポリドロを求める。 それはそれとして、今は妹であるヴァリエールが可愛くないわけでもなかった。 「だが、ファウストは?」 アスターテは、アナスタシアに奪われたワイン瓶の残量を心配しながら口を開く。 それを察したアレクサンドラは、代わりのワインを取ってこようと二人から離れた。 アナスタシアは、舌打ちで答える。 「……納得するだろう。ファウストは、先代にして自分の母であるマリアンヌの汚名を濯ぐ事を望んでいないわけではない。王家の血をポリドロ家の血に組み込めるならば、それは達成したも同然」 「まあ、理屈はわかるけどね」 8歳差。 ファウスト22歳、ヴァリエール14歳。 貴族の結婚と考えれば珍しい話ではないし、むしろファウストが婚期を少し逃している。 立場を考えれば、ファウストは否と言うまい。 普通に考えれば。 だが。 「私さあ、ファウストは何か納得しない気がするんだよね」 「何故? ヴィレンドルフの女王カタリナに心を惹かれたとでも?」 「それとは少し違う」 アスターテが唇に指を触れながら、考える。 何か、ズレてる気がする。 アスターテは生まれつき、直感に優れた人間であった。 動物的嗅覚と呼ぶべきか、第六感と言うべきか。 ヴィレンドルフ戦役においても、その直感を用いて部下を生き延びさせた。 自らも命を長らえた。 だが。 「うーん、何と言ったらいいか。ヴァリエールはファウストの好みじゃない? そんな気がする」 「好みじゃない?」 「うん、そう」 失敗するんじゃないかなあ。 これは願望じゃなくて、直感でそう思う。 アスターテはそう語る。 私の妹が不服かと、イマイチ納得のいかない顔でアナスタシアは答える。 「じゃあ、どうすんのよ」 「いや、まあ説得するしかないだろ。ついでに、私達の愛人になるよう勧めよう」 「ファウストに、今更囲い込みかよと取られない?」 ヴィレンドルフに取られそうになったから、ファウストを囲い込もうとした。 一歩出遅れた。 ヴィレンドルフ女王、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフに一歩出遅れた。 アンハルトに伝播した英傑詩を信じるならば、ファーストキスまで奪われた。 アナスタシアは奥歯を噛みしめながら、引きつった苦笑いを浮かべる。 「ファウストが、カタリナ女王をここまで魅了するとは思ってもいなかった。あの女は知る限り、ヴィレンドルフの美的感覚を持たない。ファウストの容姿を見たところで愛するとは思わなかった」 「判る女には判る。そう言う事だ。ファウストの心の美しさを知れば、心惹かれる女は沢山いる」 我々二人のように。 だが、何はともあれ。 アンハルト王家も、そして私達二人も追い詰められた。 ここが勝負どころだ。 「とにかく、説得だよ。ファウストの正妻はヴァリエール。正妻が決まり、ポリドロ領の跡継ぎを産む相手が決定すれば、私達二人の愛人になる事も嫌とは言うまい」 「貞淑で無垢でいじらしいファウストの事よ。カタリナ女王の件は別枠として、正妻のみに身を捧げると言いださないかしら」 「アナスタシア、お前は何も判ってない」 アスターテが首を振る。 ファウストの事を何にも判ってない。 そんな顔で、愉悦気味に語りだす。 「ファウストは、貞淑で無垢で、私が身体をくっつけて、耳元で愛の言葉を囁くだけで顔を真っ赤に染めるいじらしい男だ。だがな、アイツは絶対ベッドの上では淫乱だ」 「お前は何を言いだしてるのか。18歳の腐れ処女に何が判ると言うのか」 呆れ顔で答えるアナスタシア。 だが、アスターテは一顧だにしない。 「私には判るんだよ! あの真面目そのものの朴訥な表情の裏には、女達に好き放題されたいという願望が眠っているんだって!! 尻触っても決して嫌そうじゃなかったもん!! その後、私は領民に殺されかけたけど」 「もう完全にお前の願望だろ。お前の」 昼は貞淑、夜は淫乱な男。 ファウスト・フォン・ポリドロにはそうであって欲しいとは思う。 私とベッドを共にするときには激しく乱れて欲しい。 それはアナスタシアもそう思う。 だが、それは私達処女二人の勝手な言い分という物であろう。 妄想にも等しい。 アナスタシアは軽く首を振り、馬鹿な妄想を打ち払う。 トントン、と。 丁度妄想を打ち払うと同時に、ドアからノックの音がする。 「失礼します、アナスタシア様、アスターテ様」 「何だ、アレクサンドラ。勝手に入れよ」 さっさとワインの代わりを持ってきてくれ。 そう言いたげに、アスターテがノックに返事をする。 「いえ、ワインを取りに向かった道すがら、ポリドロ卿と出会いまして。アナスタシア様とアスターテ様に話があると、こちらまで」 アレクサンドラの言葉。 それに、二人は顔を見合わせる。 はて、何の用か。 とりあえずアスターテの猥談は聞かれなくて何よりだったが。 「ドアを開けてもよろしいでしょうか」 「少し待て。ファウストは一人か?」 「いえ、従士としてマルティナ嬢をお連れですが」 少し、考える。 何の要件だ? リーゼンロッテ女王への今回の和平交渉の正式報告、それまでには旅の垢を落とすという名目で今日一日の休みが与えられている。 パレードを終えた後、その貴重な一日を潰してまで私達に何か話したいことがあるのだろうか。 「マルティナ嬢には、部屋の前で待機してもらえ」 「はい、私も同様に致します。ポリドロ卿のみ中へお入りください」 ドアから身長2m超え、鋼のような肉体を持つ男騎士の姿がぬっと現れる。 その男は開口一番、こう呟いた。 「アナスタシア第一王女、アスターテ公爵、しばらくぶりです」 「まだ一か月も経っておらんがな。待ちわびたぞ。和平交渉の件はご苦労であった」 「まあ、私の横に座れよ」 ポンポン、とアスターテが自分の座る長椅子の横を叩く。 ファウストは頑丈な長椅子を軋ませる事なくそこに座り、その巨体を揺すりながら呟く。 「リーゼンロッテ女王に報告に上がる前に、お二人に話が有って参りました」 ファウスト・フォン・ポリドロのその表情は、いつもの朴訥な様子とは違い、真剣そのものであった。 第49話 たった一つの愚かなやり方 テーブルの上には、新しいワイン瓶。 そして私用に新しく用意された、ワイングラスが乗っている。 「まあ、まずは飲めよ。喉の滑りも良くなるぞ」 「昼から酒など飲んでいる場合では――まあいいです。頂きます」 アスターテ公爵が、グラスにワインを注ぐ。 それが十分に満たされた後、私は舐める様にそれを口に含んだ。 美味い。 私が普段飲んでいる安酒とは違う。 が、ワインの味を楽しんでいる暇などは無い。 今日は二人に話があって来たのだ。 「まずは御二人に問います。ヴィレンドルフが今回の和平交渉に応じた理由をご存知だったのですか?」 「ふむ。それはつまり、お前が達成した和平協定に、お前以外の要因があるのではという事か?」 ご存知『だった』のですかという問い。 それにアナスタシア第一王女が答える。 私はリーゼンロッテ女王の助言に従い、カタリナ女王の心を見事斬った。 それは理由の一つだ。 他にも理由はある。 「はい。どこまで『理解』しておられるのか。是非とも二人にお伺いしておきたい」 理解。 その言葉を強調させて呟く。 「英傑レッケンベル不在による王家の力の弱体化。特にレッケンベルが族滅させた、北方の遊牧民族がいずれまたどこぞから生えて、押し寄せてくる。それの対策があるな。今回の和平交渉、ヴィレンドルフ側はお前の――カタリナ女王が、お前の子を孕むという以外にもメリットはあった」 アナスタシア第一王女が、苦々しい声で語る。 それも理由の一つだ。 だが、他にもっと重要な理由があるだろう。 「お答え頂けませぬか?」 「何が言いたい?」 「知らないはずはない。領民300名の弱小領主である私と違って、貴女方二人が知らないはずがない。その口からお聞かせいただきたい。これはヴィレンドルフ戦役の戦友であるファウスト・フォン・ポリドロとしての頼みですが」 まずは相手の口から吐き出させる。 この二人、脅威をどこまで理解している? 大陸の東の果て、遠い遠いシルクロードの先にいるトクトア・カンの脅威を。 アナスタシア第一王女とアスターテ公爵はお互いに顔を見合わせ、はあ、と一つため息を吐いた。 「戦友の頼みとあらば、口を割らざるをえまい。神聖グステン帝国からの報告、東方で一つの王朝が滅んだ。それは知っている。神聖グステン帝国は我ら両国の和平交渉にも仲介人を送るつもりであった。両国で協調し、戦に備えよ、脅威に対抗できる防波堤を構築せよと」 うん? コイツは意外だ。 神聖グステン帝国、随分と先を見通している。 「アンハルトは、神聖グステン帝国からの仲介に応じなかったのですか? それならば私などに頼らずとも」 「ヴィレンドルフがまず拒んだ。面子上、アンハルトも弱みを見せないため断らざるをえなかった。お前を使者に送る事が決定した後で気が付いたが、ヴィレンドルフはお前を引きずりだしたかったのであろう」 なるほど。 今考えれば、カタリナ女王は私を通してアンハルトを見通していた気がする。 カタリナ女王との会話を思い出せば、アンハルトには随分と幻滅していた様子であったが。 私の扱いがアンハルトで悪いからであろうな。 「ですが、とりあえず和平協定は成立しました。ならば」 「まずは北方の遊牧民族だ。それを族滅させ、今後はヴィレンドルフと協調路線を取る事になるであろう。神聖グステン帝国のいう事を聞くのは少々癪だが」 癪だとか言ってんじゃねえよ。 独立国家であるアンハルトが帝国の命令を聞くのが嫌なのは判るが、今回ばかりは帝国がどこまでも正しい。 そこまで先を見通せる人間がいるのか? 転生前の神聖ローマ帝国ではどうであった? どこからモンゴルの西征を予測していた? 西洋史の学者でも研究者でもなく、早世した私には判らん。 「神聖グステン帝国の忠告に従うべきです」 「無論、それは理解している。だからヴィレンドルフと協調路線を取ると言っているではないか」 苦々しい顔で、アナスタシア第一王女が呟く。 そうしてくれるのは嬉しいが、そうではない。 私の言いたいことが理解されていない。 いや、全てを理解してくれという方が無理なのは判っている。 既に動き出しているカタリナ女王ですら、完璧には理解していないのだ。 トクトア・カンを、仮想モンゴルを撃ち破る事を可能にするためには。 想像を超える、全面的徹底的な総力戦が必要になるのだ。 それも、アンハルトやヴィレンドルフだけでは数が足りぬほどの総力戦だ。 神聖グステン帝国からの援軍だけでは到底足らず。 最低でもアンハルトとヴィレンドルフは嫌々ではなく、蟠りを無くし、苦難を共にする覚悟が必要なのだ。 連帯しなければ、100%勝てない。 相手の仮想モンゴルと西洋では、戦のやり方、その何から何までが違う。 勝てないのだ。 私は内心、絶望しながら頭を抱える。 「あー、つまり、何か、ファウスト。私達二人が知らない情報を、お前はヴィレンドルフで手に入れてきたと」 隣に座るアスターテ公爵が、空になった私のグラスにワインを注ぎながら。 いつもの飄々とした顔ではなく、やや真剣な面持ちで応じる。 流石に話が早いな。 ヴィレンドルフから手に入れてきた情報、それはある。 それを理由にするか? まずは会話だ。 「カタリナ女王の配慮でユエ殿という、東方の武将に会いました。滅んだ王朝から命からがらに脱出した超人の一人です」 「シルクロードを通ってわざわざヴィレンドルフまで?」 「あの国では、実力さえあれば軍事階級に昇り詰めることができます。今はレッケンベル家の食客と言っておられましたが」 おそらく、あの実力ならば将来はニーナ・フォン・レッケンベルが成長するまで、騎士隊長の代わりを務めることになるだろう。 今は功績待ちと言ったところか。 「東方の武将が落ち延びて、ヴィレンドルフで復讐の機会を狙っている。そう解釈しても?」 アナスタシア第一王女が、苦々しい顔から真剣な顔つきに変わる。 そうだ、その顔が見たかった。 ヴィレンドルフ戦役にて、私と公爵軍を自由自在に操った女よ。 アンタのヤバイ薬を半分キメてるのかと思うかのような、冴えた頭脳が今は必要なんだよ。 頼むから、本気で私の話を聞いてくれ。 「遊牧騎馬民族国家か。名は判らんのか?」 「国名は不明。王の名前はトクトア・カンと」 「トクトア・カン」 その名を呼び、しばし時間が過ぎる。 アナスタシア第一王女の頭の中で、私の知らない神聖グステン帝国から流れて来た情報がただひたすら流れ、熟考に熟考を反芻し、キッチンで洗った後の皿のように重ねられ続けている。 そして、アナスタシアの中で一つの結論が出される。 「何年で来るかファウストには判るか?」 「不明」 簡素な答え。 1234年、金王朝が滅ぶ。 1241年、ワールシュタットの戦い。 前世では僅か7年。 このファンタジー世界、魔法による伝達機能が発達した今の時代では、それより早いかもしれない。 どう考えても、不確定な情報すぎて今は口にできない。 だが。 「お前の予測で良い。言え」 「少なくとも7年より短いかと」 アナスタシア第一王女の知能は、私の焦りを読み取っている。 そして、そこには何かしらの根拠があると見込んだ。 嘘は吐けぬ。 「そう考える理由は?」 「……」 無言。 答えられぬ。 前世から推測しました等と、狂気の発言は許されぬ。 ならば。 「超人としての直感ゆえ」 「根拠が弱いな。情報があれば、即動けたのだが」 アナスタシア第一王女が、眉を顰めた。 仕方ない、今の私にはこう答えることしかできぬ。 だが、それでも縋りつく。 「ファウストよ、残念だが推測で王家は動くことが出来ぬ。お前の事は信頼している。だが、それだけの事で国が動くことは出来ぬのだ。総力戦の準備となれば、国民に多くの負担を強いる」 「ですが、それでは遅いのです!!」 長椅子から立ち上がり、訴える。 アナスタシア第一王女、アスターテ公爵の両名はその私の行動を読んでいた様子で、全く動じない。 「錯覚と誤った希望はお捨て下さい!!」 「必死に国家総力戦の準備をして敵が来なかったら? よかった、トクトア・カンは来なかったんだね。それで済む話ではない。王家の権限と財源にも限界はある」 アナスタシア第一王女が冷たく突っぱねる。 続いて、アスターテ公爵が続ける。 「いつ来るか判らない敵というのは難儀なものだ。いつ来るか、それが確定してるならば良い。士気は持つ。だが何年も国家の総力戦準備を整えるというのは難しい。人はダレる。必ずやる気を無くす。機能不全に陥る。お前の述べたような錯覚と誤った希望を必ず抱く。トクトア・カンが来るなど、シルクロードの先から遊牧騎馬民族国家がやってくるなど、誰が言いだしたのだと、その内吊し上げが始まる。その時に」 椅子に座り、注いだワインを飲むよう促される。 それ、高いんだぞ。 場にそぐわぬような朗らかな声をわざと途中で上げ、アスターテ公爵が続ける。 「その時に、吊し上げを受けるのはお前だ。ファウスト・フォン・ポリドロ。私達二人はそれを心配している」 「元より名誉など私には必要無い! 何と罵られようが構いませぬ!!」 声を荒げる。 だが、アスターテ公爵の忠告には従おう。 椅子に座り、ワイングラスを少し舐めて口に含む。 「それだけでは済まぬのだ、ファウスト。お前に罰を与えねばならぬ」 悲し気に、アナスタシア第一王女が呟く。 「国を想っての忠言、誠に有難く思う。だがな、ファウストよ。おそらくお前は母上に明日の和平調停の正式報告の際に、それを訴えるつもりなのであろう。止めておけ」 「何故ですか」 「お前を失いたくない。国家総力戦の準備が無駄になれば、お前を」 殺さねばならぬ。 名誉を失うだけでは済まぬ。 領土も奪われ、領地は王領となるであろう。 アナスタシア第一王女は口にもしたくないのか、それを告げなかった。 「……」 私は沈黙し、歯ぎしりでそれに答える。 どうすればいい。 アナスタシア第一王女と、アスターテ公爵の言葉は正しい。 どこまでも悲惨なぐらいに正しい。 私は英傑ではない。 以前、ヴィレンドルフの騎士達相手にはアンハルトの英傑であるなどと啖呵を張ったものだが。 アンハルト王都の市民からは英傑と認められていないだろう。 ヴィレンドルフの地における、レッケンベル騎士団長程の強固な立場にはないのだ。 ここに居るのは、ただ王家と縁があるだけの領民300名の弱小領主騎士がただ一人。 私はその現実に項垂れながら、言葉を続ける。 「総力戦の準備を明日から、等とまでは言いませぬ。命令の上意下達、それがこの封建的主従関係において、即座に行われるように、情報と認識をアンハルト諸侯において共有させることが必要なのです。そうでなければ、騎馬遊牧民族国家には勝てませぬ」 「許さぬぞ、ファウスト・フォン・ポリドロ」 必死な表情であった。 アナスタシア第一王女とアスターテ公爵が表情を歪め、二人して私に詰め寄る。 「アンハルト国内に無用な混乱を招くことは許さぬ。お前が吊し上げを食らう事など決して許されぬ」 「私は明日、リーゼンロッテ女王に諸侯、そして高級法衣貴族が並ぶ満座の席で、トクトア・カンの脅威を訴えるつもりです」 「聞け、ファウスト! 我らの忠告が聞けぬのか!!」 アナスタシア第一王女とアスターテ公爵が必死に食い止める。 だが聞けぬ。 心の底から、私の事を想っての言葉だとは理解できる。 なにせ、戦友だ。 お互いの血と汗が混ざり合うのを気にせず、甲冑姿で、まだお前は生きているかと互いを戦場で抱きしめ、その生を確認し合った仲だ。 だが、それでも。 それでも、私は。 「今日は、お二人にリーゼンロッテ女王への嘆願における援護をお頼みするつもりでした。だが、御二人は正しい。そして間違っているのは私です」 狂っているのは私の方。 ここで馬鹿げた行動を取っているのは私の方。 この世界で仮想モンゴルが西征してくるなど、まだ何の根拠もない。 だが、もはや。 もはや、ここで訴えねば間に合わぬ気がするのだ。 私の前世の知識と直感がそう告げている。 「それを承知で、明日はリーゼンロッテ女王に訴えます。覚悟と準備は済ませるつもりです」 「準備?」 失言。 これは言うべきではなかった。 拙いな。 頭を下げる。 「もはやこれまで。話は終わりました。狂った男の戯言と思い、お忘れください」 「馬鹿な事を言うな。お前がその気ならば、私達とて協力を。お前が吊し上げる事などないよう、もっとオブラートに包んだやり方でだな」 「それでは足りませぬ。誰もが目を醒ます、強烈な一撃を放つ必要があるのです」 私は、頭を下げながら決意を固める。 あの手段しかない。 もはや、私に残されたのはたった一つの狂気の手段しかありえない。 この微妙な魔法が存在するファンタジー世界で、私の決意を示すために残された、たった一つの方法。 それによって私の覚悟を見せる。 吊し上げ等食らう前に、私の覚悟という物を見せてやる。 何、陰腹位は斬ってやるさ。 こんな国など正直愛してはいない、私を醜い姿の男と見下すクソッタレの国ではあるが。 別に王家の面々、リーゼンロッテ女王やアナスタシア第一王女、アスターテ公爵、ヴァリエール様が嫌いなわけではない それより何より。 「アナスタシア第一王女、アスターテ公爵、私はね。遊牧騎馬民族国家が我が領地に踏み入り、母の墓地を踏み荒らして歴史の波に流されて判らなくなってしまう事。それだけは何があっても許せないんですよ」 自分に与えられたグラスのワインを飲み干す。 再び叫び出す二人。 もうその声は聞こえない。 歌のようにすら思える。 ファウスト・フォン・ポリドロにとってその二人の必死な哀願じみた声は、凱旋歌にも聞こえた。 これは領民300名足らずの愚かな領主騎士が、リーゼンロッテ女王に遊牧騎馬民族国家の脅威を判らせる、たった一つ残された賢いやり方なのだ。 いや、賢くはないか、むしろ愚かだ。 私は口端を笑わせながら退室し、第一王女親衛隊長アレクサンドラと談笑していたマルティナの手を引き、アナスタシア第一王女の居室を後にした。 第50話 ケルン派という宗教 馬車内。 貸し馬車屋から借り受けた馬車である。 従士長であるヘルガが馬を操り、御者役を務めている馬車内。 馬車内には簡素な長椅子が固定されており、そこに私とマルティナが横に並んで座っている。 先に話を切り出したのは、マルティナであった。 「交渉は?」 「失敗した」 「でしょうね。元より無理なのです。この状況でアナスタシア第一王女とアスターテ公爵を説得するなど」 マルティナが溜息を吐いた。 私は無理を承知で頼んだ。 だが、現実を突きつけられただけであった。 私には力が無い。 より正確に言えば、力と成り得る情報元が無い。 説得力の根源と言えるものが何もないのだ。 「ファウスト様。何も今から急いで国家総力戦など訴えずとも良いと私は考えます」 「今からでなければ、何もかも間に合わぬと私は考える」 マルティナの言葉。 それを否定で返す。 「何をそこまで、根拠は?」 マルティナの問い。 それに、少し沈黙で返す。 外に出せぬ私の根拠は、余りにもユエ殿のトクトア・カンの話と、前世でのモンゴル帝国のそれが似通っているから。 弱いな。 アナスタシア第一王女の言葉でも明確にされたが、なるほど確かに、トクトア・カンの西征、モンゴル帝国のヨーロッパ西征が再現されるという話は、今の段階ではどこにも根拠がない。 この転生者の知識を持ってしてもだ。 だが、遅い。 余りにも遅すぎるのだ。 マルティナに返事をする。 「マルティナ、我々が遊牧民族に対抗するには何が足らぬと思う?」 「パルティアンショットに対する対抗策でしょうか。身近なところでは、クラウディア・フォン・レッケンベルが単純にその射程距離を超えるロングボウにて、それを撃ち破りましたが」 「そうだ、遠距離武器による損害に皆が浮き足立ち、高速移動に敵の戦列が対応できずに戦闘隊形が乱れる」 より長い槍、攻撃手段を持っている方が勝つ。 条理だ。 遥か太古から、それは変わらぬ。 私のポリドロ領民も、軍役の際は小規模のテルシオを編成している。 従士5名に持たせたクロスボウの他に、6mほどの特注の槍であるパイクを装備させている。 貧乏領地なので、全員に装備させるとまではいかず、剣を装備した者もいるがな。 「マルティナに問う。平野における闘争とは何ぞや」 「格闘戦であります。騎士である騎兵が、歩兵を蹂躙する重要な兵器であります。母カロリーヌからはそう教わりました」 中世における闘争とは、前世現代での進化した機動戦とは違い、運動戦に尽きる。 非力な火力しか持たぬ時代、敵味方が同数ならば優れた移動能力を持つ方が必ず勝つ。 そしてトクトア・カンの仮想モンゴル帝国は全員騎馬だ。 対してアンハルト・ヴィレンドルフ連合軍2万は騎士である数千と、領主騎士が率いる平民歩兵。 そして、その指揮系統はてんでバラバラである。 臣下の臣下は臣下ではない。 封建的主従関係におけるそれは、モンゴル軍に対し致命的である。 このファンタジー世界における通信機、水晶玉がある事で指揮系統のみは機能しているが。 それでも、領民は他の領主の指示にはまず従わない。 それこそ、王の命令すら従わぬ事がある。 つまり、連携しないのだ。 対して仮想モンゴル帝国はどうだ。 ユエ殿のかつて仕えた王朝フェイロンを滅ぼした手段は、話から聞くにモンゴル帝国そのままだ。 「マルティナ。遊牧民族は部族制のため、指揮官が倒れてもすぐに次席指揮官が指揮をとるシステムを取っている。そして長が命じれば、号令一つで連携して突破、迂回、包囲、機動の3要素を容易に行う。トクトア・カン率いる仮想敵国は、数万単位の軍でそれを可能にする」 「封建制の領主達にはマネできないシステムですね」 ヴィレンドルフ戦役では前線指揮官たるレッケンベル騎士団長を一騎討ちで倒した際、ヴィレンドルフ全軍の行動が一時停止した。 それにより勝利できた。 そんなもの、仮想モンゴル帝国相手には望めない。 「ユエ殿からは詳細な話を聞いている。トクトア・カンの率いる軍はおよそ10万人。全てが騎馬兵だ。さすがに全員が西征してくる事は有り得ない。だが、来るのは私の予想ではおよそ7万。これも確実性は無いが」 西方遠征軍はモンゴル兵5万に、2万人の徴用兵、さらに漢族とペルシア人の専門兵。 ワールシュタットの戦いではおよそ2万の騎兵、そうであったはず。 前世の知識故、このファンタジー世界における確実性など何もないが。 うん? ペルシア? この世界ではパールサだったか。 ホラズム・シャー朝はまだ滅んでいないのか、それとも攻め込まれている最中であるのか。 予想がつかないが、まあどうでも良い。 今の私に情報は手に入らぬ。 アナスタシア第一王女ですらその情報は持っていない。 持っていれば、もっと私の話に聞く耳を持ってくれたであろう。 これに関しては、パールサ商人を通して情報を探ると言っていたカタリナ女王からの私信を待つしかない。 或いはリーゼンロッテ女王が、神聖グステン帝国から得た情報を私に漏らしてくれるか。 「なあ、仮に戦ったとして勝てると思うか?」 「勝てませぬ。ですが、やや想定が絶望的すぎやしませんか?」 「ユエ殿の話によれば想定ではない。そしてユエ殿の王朝は、トクトア・カンが束ねる10万を軽く超える兵数であった。それでも負けた。数だけの問題ではない絶望だからこそ焦っている」 前世のチンギス・カン、その存在は世界のバグそのものだ。 第五の天使がラッパを吹いた。 私は天から一つの星が地上に落ちたのを見た。 その星に、底なしの深淵の穴を開いた。 すると、大きな竈から出る煙のような煙がその穴から立ちのぼった。 その穴から〔立ちのぼる〕煙のために、太陽も中空も暗くなった。 ヨハネの黙示録、七つの災厄の5番目。 蝗害。 それにも例えられる存在だ。 対抗手段は今から考えねば。 時間だ。 中央集権化などしている暇など、どこにもない。 何十年かかると思ってんだ。 命令の上意下達。 トップダウンでの命令に、領主騎士が、平民歩兵が黙って従う。 最低でもそれが求められるのだ。 そうだ、最低だ。 「何で糞みたいな最低の基準のために私が命張らなきゃならんのだか」 「命を張るつもりですか」 「もう、どうしようもないのだ」 軍権の統一。 中央集権化の時代にならねば、これも無理であろう。 だが、一撃で良い。 ただの一戦においてのみ、軍権を統一させる。 それだけならば可能なはずだ。 いや、可能にしなければならないのだ。 頭の血は巡る。 ドクトリン開発。 ワールシュタットにおける、モンゴル帝国のまるで教科書のような見事な兵法。 その想定を王家経由で神聖グステン帝国に伝え、後はお任せするしかない。 神聖グステン帝国には私などより遥かに知恵者がいるようだ。 脅威に対抗できる防波堤を今から構築せよ。 今の段階で転生知識も無しに、そこまで読み切っている天才が神聖グステン帝国には居るのだ。 その女に、後は任せよう。 「ファウスト様」 「何だ」 私の思考を無視するように、マルティナが呟く。 私の懊悩を無視するようにして。 「逃げませんか?」 「何?」 マルティナの言葉に、目を丸くする。 何を言っているのだ、この9歳の少女は。 「私はファウスト様の決意を翻意させようと考えていました。それなりに考えました。シルクロードの東の東の果て、そこからトクトア・カンが攻めてくるはずなどないと説得しようと考えました」 「奴らは必ず攻めてくる。必ずだ」 「その確信はどこから来るのです? ですが、そう確信出来ているなら逃げましょう。この世界の果てまで」 遊牧民族の特性からだ。 奴等は略奪と虐殺しか知らぬ。 それだけ。 たった、それだけだ。 それだけが、奴らの文化なのだ。 滅ぼした王朝フェイロンの豊かな土地、そこから得られる徴税に満足して略奪を止める。 そこで満足して停滞する。 それは農耕民族の考え方なのだ。 私は前世では理解できなかったそれに、教科書で学んだそれに、やっとこの異世界で気が付いた。 知性はあるが理性は無い、略奪と虐殺だけを文化にした集団だ。 前世の歴史から見るに、遊牧民族の文化とはそうとしか呼べぬ。 誰も信じぬであろう。 この世界では私だけ、そして神聖グステン帝国の一部のみがトクトア・カンの侵略を確信している。 「さきほど逃げると言ったが? 何処へだ? 何処にも逃げ場など無い」 「神聖グステン帝国の奥深くにです。ファウスト様は超人です。どこでも厚遇される」 「マルティナ」 私は優し気に声を掛けた。 ああ、マルティナの9歳児とは思えぬ知能を持ってさえそうなのか。 神聖グステン帝国で世界は閉じている。 この世界の英国に、島国に逃げよとまでは言わぬか。 少し、おかしくなってしまって笑顔が浮かぶ。 マルティナが膨れっ面になった。 「何故笑っているのです」 「そこは、島国まで逃げよと言って欲しかったな」 「言葉も通じぬ島国に? 存在だけは辛うじて聞き及んだ事はありますが」 地理は知らぬであろう。 まあ。この異世界の地理は前世と似たようで、少し歪んでいるがね。 位置的にはドイツ・ポーランドに近いと言っていいだろうか。 このアンハルト・ヴィレンドルフの両国の北方には草原地帯が広がっている。 なかなか愉快な地形をしているものだ。 「また笑う」 「悪い」 膨れっ面のマルティナに、謝罪を返す。 今の笑いは、お前への笑いではなく、このファンタジー世界における地形の歪さを笑ったものであるが。 何はともあれ。 「私は逃げんよ」 「それは何故? まあ聞くまでもありませんが」 「領民と領地に、全ての財産が残っている。私一人ならば母の遺骸を掘り起こし、逃げられるかもしれんが」 母は嘆くであろう。 何故我が領地を見捨てたと。 「祖先が人を縛り、大地が人を縛っている」 「ですね」 「だが、私はそれを否定しない」 祖先が人を縛り、大地が人を縛っている。 これはナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの演説の一句であったな。 どうしようもねえ。 どうしようもねえんだよ。 アドルフ・ヒトラーの演説は、実に核心を突いている。 それは農耕民族たる我々が縋りつく全てなのだ。 これだけは手放せないものなのだ。 「さて、ではマルティナにも納得してもらったようで、行くとしようか」 私はわしゃわしゃと、マルティナの金髪を撫でる。 子供の髪質だけあって、それは手に心地よい感触を与える。 その手を跳ね除け、少し怒りながらマルティナは呟く。 「何処へ行くんですか」 「教会」 私は短く答えた。 マルティナは、教会に行く用件が思い浮かばないようで、少し戸惑う。 「教会? 神頼みですか」 「そうさ、神頼みさ」 文字通り、神頼みなのさ。 ここが魔法も奇跡も伝説もあるファンタジー世界で良かった。 おかげで、私の覚悟が示せる。 陰腹を斬る事に変わりはないがね。 そうでもしなければ、誰も認識してくれないのだ。 理解してくれないのだ。 いや、そこまでしてさえ、理解してもらえないかもしれない。 それでもやらざるをえないのだ。 私は狂っている。 狂っているのだろう。 もっと良い手段があるのではないか、もっと知恵者に知恵を強請るべきではないか。 そう思う。 だが、アナスタシア第一王女も、アスターテ公爵も、聡い9歳児のマルティナも、私の求める答えは返してくれなかった。 不定の狂気に陥った、私の取り得る手段はもはやこれしか無いのだ。 「ファウスト様、教会から嫌われてませんでしたっけ? 教皇が禁止を命じたクロスボウを好んで使うから」 「それでも、我が領民300名の領地に、教会はちゃんと有ったであろう」 「まあ、確かにありましたが。アレはねえ」 アレ。 マルティナがそう呼ぶ教会派閥の、王都に所在する大教会。 その前に、馬車が辿り着く。 「ファウスト様、大教会前に到着しました」 「お疲れ様」 私は従士長であるヘルガに答え、馬車を降りる。 ケルン派。 この 大教会は、ケルン派と呼ばれる一神教の小派閥の教会である。 実際、小派閥らしく大教会とは言っても小さな教会だ。 この異世界は、やはり一神教が大勢を占める世界ではあるのだが。 そもそも、今世の西洋では教義の解釈違いで、または礼拝作法の違いで、異様な数に別れている。 ヴァルハラ、北欧神話のその思想が混ざっているのが、この世界の一神教だ。 訳判らんだろう。 クリュニーだのシトーだの前世に似通った教派までは判る、それ以上の事は判らぬ。 ハッキリ言ってしまおう、この世界の一神教の教派の全てを把握するのは諦めるべきだ。 宗教は複雑怪奇にして面倒臭い。 まあ、魔法のような偉業、要するに奇跡を達成した聖人が過去におり、一神教が大勢を占めている。 それさえ理解できていれば、私はそれでいい。 そしてケルン派である。 一言で言おう。 敵の山賊から鹵獲したクロスボウ、これについて我がポリドロ領にいるたった一人の神父、いや、この世界では神母に聞いたところ。 「ガンガン使っていきましょう。これは神の恵みです」 と答えたのがケルン派だ。 教皇がクロスボウ禁止してる世界の真っただ中での、神母の発言である。 頭おかしい。 まあ拒否されても、領民の犠牲者数を減らすために私はクロスボウをガンガン使ったけどな。 「お前は馬車に残れ、マルティナ」 「私も行きます」 「来るなと言っている」 お前はケルン派司祭との会話の最中に、必ず邪魔をするであろう。 それは今の狂いつつある私でも判っている。 だから邪魔なんだ。 「これは騎士見習いへの命令だ。マルティナ。馬車に居ろ」 「……承知しました」 マルティナは断れない。 さて、行くか。 私は馬車を降り、ヘルガにマルティナを見張っていろと命じ、ヘルガさえも断ち切る。 この場からは私一人である。 さて、狂気が勝つか、理性が勝つか。 リーゼンロッテ女王への上奏を行う前に、狂気の準備の下ごしらえと行こうか。 私はクスクスと笑いながら、教会の中へと入って行った。 第51話 弾丸は一発しかない シスターは居ても、ブラザーはいない。 いきなりそんな思考が頭に浮かんだ。 神聖グステン帝国のグステン教皇、そして司教、司祭、さらには神父。 それらの事をファーザーと呼ぶことは無い。 というか、前世での神父はいない。 この世界では、その役職が神母と呼ばれる。 つまり全員が女である。 そもそも一神教を興した前世でのキリスト的存在からして、この異世界では女であるのだ。 そして男の信徒たるブラザー、いわゆる修道士は通常教会にはいない。 なにせ貞操観念逆転世界であり、出産男女比率が1:9まで追い込まれている世界である。 男が10人以上の子を作らねば世界は詰まり、人口は減少の一歩を辿る。 人類が滅亡するのだ。 よって、余程特殊な事情が無い限り、教会に修道士がいる居ることはまず有り得ない。 まあ、世情ゆえ致し方なし。 何故だか、シスターの修道服だけは前世のそれと似通っている謎があるが。 この狂った世界で、ベールで覆ったそれを着て神への純潔を象徴し、肌の露出を抑える必要が何処にあるのであろうか。 まあ、あんまり気にしない方が良いのであろう。それは。 どうでもよい、どうでも。 今はただただ、ここに訪れた目的の事だけを考える。 「司祭の元までご案内いたします。そして報謝には心から感謝を」 「領民を含め世話になっている立場であるのに、少ない金銭で申し訳ない」 「いえいえ、ポリドロ領の領民全員は数少ない我がケルン派の信徒であります。それだけで、ポリドロ卿は我が司祭に御会いになる権利があります」 歓迎はいつでもしてくれるんだけどね。 はあ、と溜息をつく。 ケルン派。 前世ではどこぞのドイツ地方における絵画の総称であった気がするが、この世界では神聖グステン帝国、グステン教皇を崇める小派閥の教派の一つだ。 小派閥といっても、派閥が出来上がるくらいには大きい。 そして信仰対象にも違いはない。 最大の違いは、前世におけるシトー会やクリュニー会。 自ら農具を手に取り、労働と学習を重んじて農民の開墾を指導したシトー会。 戒律のうち祈祷を重んじ、豪華な典礼を繰り広げ貴族的とも言われたクリュニー会。 それらとは全く違う存在。 というか、この異世界の宗教教派はどいつもこいつも、皆好き勝手やってると言うか。 そもそもの一神教自体が北欧神話を強く取り入れ、戦士の死後はヴァルハラにエインヘリャルとして迎え入れられるという思想が存在するというか。 あれだ、もう私にはわけわからん。 一言で言おう。 この異世界の宗教は、いろいろ狂っている。 ゆえに詳しく知りたくなかったし、同時にその機会も無かった。 私はもう領土に前の前の前の前の前の代から領地にへばりついている教会、ケルン派の事しか良く知らぬ。 母マリアンヌは、言った。 ウチの教会は頭おかしいけど、まあそういうものだと納得しなさい。 そう呟いた。 他所の領地の皆様にも、ケルン派を酷く毛嫌いする皆様にも、その説明で納得してもらいたいものだが。 それは無理であろう。 私はそれで諦めたのだ。 そう、諦めた。 「それはさておき、ポリドロ卿。今現在のクロスボウは何挺ありますか?」 「山賊どもから鹵獲した、5本であります」 「それは素晴らしい」 何が素晴らしいのか。 このケルン派では、教皇が禁忌としているクロスボウを戦場で用いることを推奨している。 平民でも騎士が殺せる武器、なんて素晴らしい物だと。 アカンやろ。 少なくとも前世においては、チェインメイルを装備した騎士相手でも平民が容易く殺せる武器だからこそ、クロスボウを禁止したんだぞ。 いや、この異世界である現世でもそうだ。 何故ケルン派は逆張りする。 母マリアンヌは、かつて言った。 ウチの教会は本当に頭おかしいけど、まあそういうものだと納得しなさい。 納得できませぬ、母上。 明らかにアカンだろ。 コイツ等、教皇の方針に真っ向から反発しとるぞ。 何故教派として存続が許されてるのかすらわからん。 いや、教皇の方針をガン無視してる騎士の私が言ってよい言葉ではないかもしれぬが。 そもそもクロスボウの使用に関しては、アンハルトもヴィレンドルフも、神聖グステン帝国の殆どの騎士が誰も守ってない。 だって相手が使うから、こっちも使わないと領民が死ぬもの。 私個人はクロウボウぐらい普通に剣で叩き落とすから死なないけど。 「最近は火器も発達してきました。音だけと言われた昔とは違い、騎士の甲冑の胸当ですら貫通するようになりました。どうです、あのマスケット」 シスターが、教会の中央に飾ってあるマスケット銃を指さす。 マクシミリアン甲冑。 前世ではそうとも呼ばれた、自身のフリューテッドアーマーの胸当を撫でる。 さすがに超人の私でも、銃弾を剣で弾くのは難しい。 不可能とまでは言わないが。 だが。 「確かに火器の進化は目を見張るものがあります。ですが、この魔術刻印が刻まれた鎧は撃ち抜けないでしょう」 「それは反則ですよねー」 シスターが朗らかに笑う。 今まで、頭おかしい、頭おかしい、と何度か繰り返し言ったが。 結論から言ってしまおう。 マスケット銃を教会中央に飾っているように、ケルン派は火力を信仰している。 異端の敵を打ち払うには、まず火力を。 味方を救うためには、敵を一兵でも多く殺せ。 それが教派の主張である。 まあ、言いたいことは判る。 だが、宗教家がそれを言うのはどうなのだろうか。 これは前世の感覚からの違和感なのだろうか。 いや、でも前世での騎士修道会は、修道士が騎士やってたし。 この異世界での騎士修道会も、当然のごとく修道女が騎士をやっている。 懊悩。 前世の知識、現代人としての道徳的価値観、現世での騎士としての誉れ。 それが頭の中で混ざり合って、だんだん頭痛が酷くなるがまあ良い。 今回の目的は、ケルン派の教派としての教義戒律云々を問うために来たのではない。 「それで、司祭はどちらに?」 「今は懺悔室にて、信徒の告解を受けている最中です。すぐお戻りになられると思いますので、こちらへ」 教会の一室。 シスターに連れられ、その一室に入る。 私は自分の身長2mの寸法には見合わない小さな椅子に座り、彼女を待つ。 その向かいには、大きな司祭の机が設置されている。 この大教会の司祭とは面識があった。 もう2年ほど前になるか。 ヴァリエール様の相談役になる前、ポリドロ領の代替わりのため必要なリーゼンロッテ女王への謁見を、三か月もの間待たされている中で。 なんとかこの順番待ちを先送りにして謁見できないかと、この大教会の司祭に頼み込んだ事がある。   その時は、苦渋の表情で断られた。 ケルン派は小派閥ゆえ、国家の政治に干渉できる能力は無いと。 ましてケルン派はそう言う手段に長けていないと。 結局、その後に私はヴァリエール様の相談役となり、リーゼンロッテ女王への謁見は叶ったから良いのだが。 ああ、そうだ。 このケルン派に、国家の政治への干渉能力はない。 そういった手練手管に長けているわけでもない。 それでもここに来た。 神頼み。 たった唯一、私が考えたリーゼンロッテ女王への嘆願方法を引き寄せるために。 私はシスターが立ち去った後の司祭室で、ただひたすら彼女を待つ。 「お待たせしました」 やがて、司祭が現れた。 年老いている。 さすがにヴィレンドルフの軍務大臣よりは若いだろうが、老境に差し掛かっていると言ってよい。 出迎えるべく立ち上がった私の巨躯に対して、小さな司祭はゆっくりとした歩みで司祭机に向かう。 そして、これまたゆっくりと椅子に座り、私の顔を見てコホンと咳を一つついた。 「二年ぶりですね、ポリドロ卿」 「お久しぶりです。何分忙しく、尋ねる機会がなく申し訳ありません」 司祭の呟く、これまたのんびりした言葉のペースに合わせる様に、自分の頭を下げる。 「いえいえ、お忙しいのは理解しています。アンハルトの英傑、信徒ファウスト・フォン・ポリドロ。正直言いまして、二年前に御会いした奇妙な男騎士が、ここまで騒がれる人物になるとは思ってもみませんでした。我がケルン派の洗礼を受けた信徒が英傑になるとは、全く誇らしい事で」 「恐縮です」 「先ほど、シスターから少なくない報謝も受け取ったと聞きました。司祭として御礼を申し上げます」 ぺこりと、司祭が頭を下げる。 自分の腰ほどのサイズしかない老婆に頭を下げられると、何処かこそばゆくなるもので、できれば止めて欲しいのだが。 まあよい。 今日はそんな話をしている場合ではない。 「司祭、今日は大事な話が有って参りました」 「はて、今をときめくポリドロ卿が、このような老婆にお話とは?」 「司祭にしかできないお願いなのです」 私は頭の中で、頼みたい案件。 要点はハッキリしている。 話の持って行き方も、全ては頭の中で準備してある。 それを整理した後、まず一つの事を尋ねる。 「まずお聞きします。司祭は神聖グステン帝国から、グステン教皇から何か伺っている事がありませんか?」 「はて?」 とぼけた表情をする司祭。 だが。 私がじっと司祭の目を見つめ続けると、観念したように答えた。 「全てご存知のようですね。確かに教皇から司祭クラスには通達がありました。戦に備えよ、脅威に対抗できる防波堤を構築せよ、と。いざという時はこの老骨も、身体に鞭打ってマスケットを片手に戦に挑む構えです」 「おそらく、教皇が通達したかったのはそういう事ではないと思います」 仮想モンゴルへの恐怖から市民達を精神的支柱として安堵させ、いざという時は市民を教会に匿え。 そういうことを言いたかったのではないかと思う。 まあ、仮想モンゴルは教会に逃げ込んだところで宗教への敬意も無く、ただ教会に火をつけ、出て来た市民を虐殺するだけだろうが。 「伝わってるなら話は早い」 「と言いますと」 「リーゼンロッテ女王」 私は単刀直入に、その名を口に出す。 「如何にして彼女を説得し、国家を動かすか。その決め手に欠けております」 「ふむ。それに我がケルン派が何の役に立つとお考えで」 「神託」 また短く、言葉を告げる。 「私に、神からの神託があったと言ったならば如何いたします」 「ほう。それはそれは」 司祭の目が、少しばかり見開いた。 「神託、神の声を聞いたと発言した超人は今まで何人もおりました。ですが」 「知っています。その末路は全てろくでもない」 「ええ、御承知の通りです。もっとも有名な例は他国の『彼』でしたか。神の声を聞いたと、農夫の子から産まれた珍しい男の超人。最後は異端審問に問われ、火炙りの刑に。復権裁判は行われ、既に名誉こそ回復されたものの。全く惨い事をするものです。貴方もそれになりたいと?」 さてはて。 ここからどう立ち回るかだが。 「7年以内に黙示録、七つの災厄の5番目。それにも等しい存在がこの神聖グステン帝国を襲うと言えば信じますか?」 「信じられませんね」 「例え私が神の声を聞いたと訴えても?」 司祭の目を見据える。 司祭はそれに応え、ゆっくりと呟いた。 「止めておきなさい。神への冒涜に、神は必ずや神罰を下すでしょう」 「司祭」 「これは貴方の事を想って言っているのです。信徒ファウスト・フォン・ポリドロ。私も出来る限りの事はします。司教を通じ、グステン教皇に情報が伝わるよう、手紙を送りましょう」 残念ながら、それじゃあまるで足りないんだよ。 私は心の中で舌打ちする。 「司祭。私は冗談でこのような事を、神の声を受けたと口にしているわけではありませんよ」 「貴方が何らかの確信をもってそれを訴えているのは理解できます。だからこそ引き留めています。落ち着きなさい、信徒よ。神は貴方を見捨てていません。そのような自己犠牲を試みずとも、神は必ず貴方を御守り下さいます」 もう遅い。 この狂気は、すでに私の頭を蝕んだ。 「司祭。明日のリーゼンロッテ女王との謁見、説得の際に是非貴女もご一緒していただきたい。引きずってでも連れて行きます」 「説得は構いません。それで貴方が満足するのなら従いましょう。協力も致します。ですが、私は貴方が神の声を聞いた等と発言した場合、その場で敵対して国を想うがゆえの妄言と切って捨てます。それでもよろしいか」 それで結構。 付いてきてくれるなら、それだけで良い。 これでもう、貴女は逃げられない。 私は両手を上げて、降参のポーズをとる。 「判りました、司祭。貴女は説得に協力してくださるだけで結構」 「判ってくださったなら結構です。安心しました」 司祭が胸を抑え、ほっと溜息をつきながら微笑む。 全ては私の計画道りに進んでいる。 「それでは、明日の朝に馬車で迎えに参ります」 私は立ち上がり、それだけを言い残して立ち去る事にする。 全ては計画通り、順調に進んでいる。 さあ、マスケット銃に弾薬は装填された。 だが私の弾袋には、弾丸は一発しかない。 一撃でリーゼンロッテ女王の心を仕留められるか。 それだけが問題だ。 天が落ち来たりて、我を押し潰さぬ限り、我が誓い破らるることなし。 さて、陰腹を斬る準備は出来たかファウスト・フォン・ポリドロ。 騎士の身分を得た者を縛り、かつ守る、神への誓約。 それを為す覚悟は出来たか、それに後悔は無いか、最後にもう一度だけ自分に問いかけて。 私の狂気に染まった思考は、黙って首肯した。 第52話 軍権は誰も手放さない アンハルト王宮、第一王女アナスタシア様の居室。 そこの椅子に座る二人、そして傍に立つ一人は重苦しい面持ちでそこに居た。 座っているのはアナスタシア様にアスターテ公爵。 二人から経緯を聞き、口を引きつらせて立ち尽くしているのは、私こと第一王女親衛隊長アレクサンドラである。 私は口を開いた。 「どうされるおつもりですか」 「まず待つ。ファウストが王宮を去った後の行動報告が、そろそろ上がってくる。ファウストは今日、必ず普段とは何か違う行動を起こしている」 「報告?」 それにアスターテ公爵が答え、首を頷かせる。 「王都滞在中、ファウストには常に監視の目を光らせている。余計な虫がつかないように」 「ファウストを利用しようとする、変な貴族に近づかれても困るのでな」 アスターテ公爵、次にアナスタシア様が言葉を繋げる。 いや、どう考えてもそれ、他の貴族の女からポリドロ卿を隔離したいだけでしょうに。 二人はポリドロ卿を独占したいのだ。 そう思ったが、私は賢い女なので真実を見抜けぬふりをする。 頭チンパンジーの集団と言われる第二王女親衛隊とは違うのだ。 沈黙の代わりに、コホンと咳をする。 それと同時に、ノックの音。 このアナスタシア様の居室には、客人が来る予定など無いはずだが。 まあ、まさか宮殿を守る衛兵が暗殺者を通す事など有るまい。 「用向きを確認します」 だが、私は念のため抜剣の心構えをしてドアに近づく。 アナスタシア様は、そんな私の背中に声をかけた。 「おそらく私か公爵家の手の者だ。心配いらん。よい! ドアを開けて入ってこい」 カチャリ、とドアノブを開く音。 そこに姿を現したのは、私も良く知る顔であった。 法衣貴族、それもかなり上級の一人である。 その家系は―― 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマンであります!」 元気よく自分の名を叫んだ、先日家督相続を済ませたばかりの法衣貴族。 歳は未だ16歳であったはずだが、この国の貴族の家督相続は早い。 その家系は、我が国の諜報を担っている。 周辺各国に手配した諜報員の統括者である。 王家命令により吟遊ギルドと時に交渉し、市民の情報操作も行う。 また他国、もしくは自国の不要な貴族の暗殺を担いもする。 要するに、秘密工作を生業とする貴族達の代表である。 もっとも、表向きは単なる外交官の一人に過ぎないのだが。 「本日は、ファウスト・フォン・ポリドロ卿の行動に不審な点がありましたので、ご報告に」 確か、コイツ次女だったよなあ。 本来は第一王女親衛隊に入る予定であったはずだが、長女が駄目で、そうだ、思い出したぞ。 長女は第二王女親衛隊長のザビーネ・フォン・ヴェスパーマンであったはずだ。 あのチンパンジーが秘密工作の統括なんぞ出来るわけないだろ、という親の判断で放逐されたのだ。 甚だ慧眼であると思う。 最もヴァリエール様の初陣にて村人を扇動し、徴兵を成功させた英傑詩を聞く辺り、ザビーネも決して侮れたものではないが。 それでもやはり、あのザビーネには根本的欠陥がある。 ヴェスパーマン家が、家から放逐したのは正解だろう。 まあ、それはいい。 「本日、ポリドロ卿は王宮を去った後、その足でケルン派の大教会に向かわれました!」 「ケルン派の教会か。確か、ファウストはケルン派の信徒であったはず。だが」 アスターテ公爵が、人差し指でコメカミをこんこん、と叩く。 「私の知る限り、ここ二年間はファウストが大教会に訪れたことなどなかったはずだぞ? 礼拝は下屋敷近くの教会で済ませていたはずだ」 「はっ! ポリドロ卿の監視を命じられた後、今までの行動履歴には無い行動であります!」 マリーナのハキハキとした声が、居室を包む。 アナスタシア様と、アスターテ公爵を前に緊張しているのか? そう思ったが、どうやらこういう性格らしい。 「アナスタシア、こりゃ駄目だ。自分の信仰する教派の司祭に応援頼みに行ったぞ」 「ケルン派の司祭の性格はどうであったか、知っていれば報告せよマリーナ」 「はっ! 存じております」 マリーナがアナスタシア様に視線を合わせ、またハキハキと報告を行う。 「御承知の通りケルン派は火力を信仰する小派閥であり、クロスボウの使用を肯定し、また新たに火薬を用いてのマスケット、火砲の学術研究に知識層の力を注いでいる派閥であります。その大教会の司祭も、当然それに倣った性格であります」 相変らず頭おかしいな。 だが小派閥ながらも、そのルーツは古い。 ケルン派の頂点である司教は、枢機卿にも選ばれている。 「平和を欲さば、戦への備えをせよ。ケルン派は軍事行動において準備を万全にしておくことの重要性を強調し、常に国家への警告を発しております! 司祭も同様で、リーゼンロッテ女王に常日頃から戦時への準備を訴え、鬱陶しがられていると母から聞いております!!」 マリーナが報告を終え、口を閉じる。 そしてアナスタシア様と、アスターテ公爵は顔を見合わせた。 アスターテ公爵が、まず口を開いた。 「こりゃファウストの奴、王城にケルン派の司祭を連れ込むつもりだぞ」 「一緒に、トクトア・カンの脅威を訴えるつもりか?」 「それは確実だ。ただ」 アスターテ公爵が、言葉を濁す。 ただ、何であろうか。 「何か違う気がする。ファウストの奴、何か企んでないか?」 「何を企むと言うのか。まさか、ケルン派の司祭と共謀して神託だとでも訴えるつもりか? 冗談じゃない、神の声を聞いた等と発言した人間の末路はファウストも十二分に知っているだろうさ」 「それもファウストは考えたと思う。そして覚悟の上で、その手段を模索したかもしれぬ。だが」 視線。 アスターテ公爵はマリーナに目配せし、尋ねた。 「マリーナ、答えよ。仮にファウスト・フォン・ポリドロが、トクトア・カンの西征を神託によって予測したと発言して、それをケルン派の司祭は認めるか?」 「認めないかと」 短い返事。 「自分の信徒が、自ら火炙りになるような事を望んで歩みを進める。それを認めることなど、ケルン派の司祭とて有りはしませぬ。おそらく、その逆に止めるよう説得するのではないでしょうか」 「だろうな」 アスターテ公爵が、自分の発言を認められてほっと一息つく。 いくら頭がおかしく、軍事行動に重点を置くケルン派の司祭でもそれは認めない。 まして神託の虚偽など。 「だが、だがな。それでもファウストは何かやらかすぞ」 その美麗な顔を引きつらせながら。 アスターテ公爵が、頭を少し沈めて呻くように呟く。 「お前はどう思う、アナスタシア。あの時のファウストの様子は尋常なものではなかった。まるで自分とは違う多種の生物に貪り食われるような、根源的な恐怖を訴えていた」 「ファウストの感じている恐怖は本物なのであろう。その訴えも、本人の中では真実なのであろう。だが、客観的な情報がまるでない。マリーナ、尋ねよう」 アナスタシア様が、マリーナに視線を向ける。 マリーナは、はい、と短く答えた。 「お前も上級法衣貴族、それも諜報員の統括者なら知っていよう。シルクロードの東の東の果ての王朝、それを滅ぼしたトクトア・カンは7年以内に西征してくると思うか」 「思いませぬ」 簡素な返事。 マリーナ・フォン・ヴェスパーマンはハッキリと答えた。 「まずは滅ぼした王朝、奪い取ったその地盤を固めるでしょう。せっかく農耕ができる豊かな土地が手に入ったのです。豪雪、低温、強風、飼料枯渇、あらゆる艱難辛苦に遭い、食料に飢え、水にまで飢え、家畜の乳で喉を潤す遊牧民族。略奪でしか腹を満たせぬ者たち、その悲願が叶ったのですよ?」 マリーナの視点。 それは我々の視点でもある。 「聞く話によれば奪った王朝の土地は神聖グステン帝国のように広く、支配を続け租税を集めるだけで数少ない遊牧民族どもの腹を満たすには十分すぎる程でしょう。何故わざわざシルクロードの西の西の神聖グステン帝国まで西征を? 腹が満ち、支配した土地で贅沢ができるなら、それでもう良いではありませぬか。これ以上何を望むと言うのです」 疑問。 純粋な疑問をマリーナは浮かべた。 だが。 「そうだ、そう思うのが普通だ。普通なんだ。我々の常識では、そうであるべきなんだ。だが」 ファウスト・フォン・ポリドロは、ポリドロ卿は全くそう考えてはいない。 遊牧民族とは何ぞや? その本性を突き止めたような表情であったと、アナスタシア様からは伺った。 それに。 神聖グステン帝国の皇帝、教皇ともにその見解は「戦に備えよ、脅威に対抗できる防波堤を構築せよ」で固まっている。 さすがに、ポリドロ卿の言うように後7年以内に来るとは考えていないだろうが。 確かに人間の形をしてはいるが、野獣の獰猛さをもって生きている者たち。 その10世紀も前の遊牧騎馬民族の再来が、また訪れるとでも言うのか。 「決めたぞ、アスターテ。明日はファウストの味方をする。味方をすることで止めるのだ」 「それしかないか」 アナスタシア様の決心した言葉に、アスターテ公爵が頷いた。 「もうそれしかないのだ。明日、母上の前で、上級法衣貴族や諸侯が並ぶ満座の席でファウストに暴走させるわけにはいかん。母上や諸侯の面前にてファウストの主張、トクトア・カンの脅威だけは嘆願させるのだ。それでファウストが落ち着けば、それでよいではないか」 「それでファウストが止まるか?」 「正直に言おう、判らん」 アナスタシア様は、苦悩するように呟いた。 「大領の諸侯ならば、上級法衣貴族ならば神聖グステン帝国の皇帝、教皇の言葉も知っている。ファウストの言葉の全てを最初から否定する者もいまい。だが、明日は」 「ヴィレンドルフとの和平調停が成った盛大な式典だ、小領の地方領主も訪れる。知らぬ奴もいる、か」 「どこまで、抑えられる?」 ファウスト・フォン・ポリドロの嘆願を鼻で笑う女を。 事情も良く知らぬ、馬鹿な女達が場もわきまえず、ファウストの嘆願を嘲笑う事を。 それでポリドロ卿が憤激する事態を、どうすれば避けられるか。 アナスタシア様と、アスターテ公爵が懊悩する。 私もマリーナも、もはや横から口を挟むことはできない。 「私とお前、その二人の言葉で抑えつける。まさか我々がファウストに味方し、それでもなお嘲笑う馬鹿貴族がいるとは思えん」 「だが、ファウストの嘆願がそのまま通っても、それはそれで困るぞ。それは?」 「母上に、今から話を通しに行くぞ。母上にはファウストが暴走する事の無いように、その主張全てをまずは吐き出させ、それに首肯させる。そこから」 そこから。 一度、アナスタシア様は言葉を止め、息を吸う。 「ファウストには悪いが、話を濁す。ファウストの主張を通すわけにはいかん。国家総力戦、いや、ファウストはすぐにそこまでは望まぬと言っていたな。命令の上意下達、情報と認識、トクトア・カンに対する脅威をアンハルト諸侯において共有させ、軍権を統一させることが目的だと言っていたが」 「誰も従わぬ」 「そうだ、誰も従わぬ」 ポリドロ卿の言葉に耳を貸す者は、それが少領の領主であればあるほど応じぬだろう。 小なりとはいえ領主だ。 軍権だけは決して手放さぬ。 それこそ、ポリドロ卿が言うように「そうしなければ全てを失う」状況にならない限りは。 「では、行こうか。母上に話を詰めに行くぞ。マリーナ、ご苦労であった。退室してよい」 「かしこまりました」 マリーナが、ゆっくりと足音を立てぬように居室から出ていく。 そして、アナスタシア様が立ち上がる。 だが、アスターテ公爵は未だ長椅子に座ったままだ。 「アナスタシア。とりあえず落ち着け。今の時間は、リーゼンロッテ女王は親子の会話中だろうよ」 「む、そうであったな」 アナスタシア様が、再び椅子に腰を下ろす。 アスターテ公爵は、お互いのグラスにワインを注ぎ出した。 「母上はヴァリエールに、ファウストの嫁に行く気があるかどうか確認中であったな」 「まあ、ファウストがそれを了承するかしないかは、私もわかんないけどねえ。どっちだろうねえ」 「というか、ファウストの了解は取らなくても良いのか? 明日、いきなりファウストとヴァリエールの婚約を発表するのか? まだ何の打診もしてないぞ」 今更な疑問。 アナスタシア様がそれを浮かべる。 「本来ならば、それを話したかったのだが」 「ファウストの勢いに終始押されっぱなしだったからな、仕方ない」 ワイン瓶が空になる。 お互いのグラスにワインを注ぎ終え、アスターテ公爵は大きく溜息を吐いた。 「明日、どうなるものだろうか」 「どうにもならない。今更考えても、なるようにしかならない」 時間が短すぎた。 和平調停の報告、旅の垢を落とすためにと一日置いたが、一週間置いてもよかった。 だが、わざわざ今回の和平調停の報告を聞きに、国中の小領の領主達が王都に集まってきている。 ファウストの功績に、王家がどう答えるのか。 それを見届けるためにだ。 余り日付を先延ばしにするわけにもいかぬ。 「状況は、最悪だ」 「アナスタシア、ワインを飲め。それを飲み終えたなら、ゆっくりとリーゼンロッテ女王の元へと向かおう」 アンハルト王家、トップスリーの内二人の懊悩。 私ことアレクサンドラはそれを見届けながら、それに共感するように溜息をついた。 明日、ポリドロ卿が暴れるようなことがあれば、それは王家にとってもポリドロ卿にとってもよろしくない。 アレクサンドラは心の中で、何事も上手くいきますように、と神に祈った。 第53話 過去への回想 私こと、ゲオルク・ヴァリエール・フォン・アンハルトと。 ファウスト・フォン・ポリドロが出会ったのは、二年と少し前の事である。 私はあの頃、第二王女相談役として後見人になってくれる立場の人間。 より具体的に言えば、兵力を有する領主貴族。 私のバックとなってくれる立場の、いざ初陣となれば兵を気前よく出してくれる領主騎士を探していた。 お母様、リーゼンロッテ女王は相談役を用意してくれなかった。 「貴女の姉、アナスタシアは勝手に用意したのだから、貴女も勝手に用意しなさい」 とは言われても。 王家権力トップスリーの内、三番目のアスターテ公爵が姉さまの後見人なのはズルだろと思う。 まあ、今考えると王家内のバランスというものがあるからスペアの、それもミソッカスの私には別に後見人はいらないだろう。 そう判断したのであろう。 それでも、もし自分で見つけられたのならば好きにしてよい。 第二王女とはいえ、ミソッカスの私に近づいてくる物好きな領主騎士などいないであろうが。 まあ、そんな適切なようで曖昧な采配をお母様は下した。 当時12歳の私は、さてどうしようかと悩んだ。 さすがの私も、後見人の兵力無しで初陣に挑むとなると困る。 正直アホの集団と言ってよい、とはいえ私にとっては大事である第二王女親衛隊15名だけでは心もとない。 かといって、自分に力を貸してメリットを感じる地方領主もいないであろう。 さて困った。 そんな頃だ、ファウスト・フォン・ポリドロの噂を聞いたのは。 「見ましたか、あの巨躯。あれで嫁が来るものでしょうか。いえ、そもそもリーゼンロッテ女王陛下が男騎士に家督相続を認めるなど……」 「ですが、ポリドロ領は確かに軍役は果たしておりますし。5年前から、あの男騎士が亡き先代に代わって務めを果たしてきたと聞いています。女王陛下もそれは認めざるを得ないのでは?」 「しかし、もう謁見を三か月も先伸ばしにしていますよ。上の方でも、男騎士の相続を認めるか認めないか揉めているのでは?」 官僚貴族、つまり法衣貴族達の宮廷における噂話であった。 ファウスト・フォン・ポリドロという男騎士が、城下町に訪れている。 先代のポリドロ卿が亡くなり、その代替わりの挨拶のためお母様へ謁見を求めている。 そんな話であった。 私は親衛隊長であるザビーネに、ファウストの情報を集めさせた。 身長2mオーバー、体重は130kgを超え、特別製の鋼のような肉体を持った男。 その手で自ら殺した山賊の数は100を超え、軍役では常に領民の先頭に立っている。 教皇の命を無視してクロスボウを好んで使い、その所持する5挺は全て山賊から鹵獲した物。 領民は僅か300名、だがそのどれもが勇敢でよく統率されており、領主不在と舐めて掛かって村を襲った山賊どもはポリドロ卿不在でも何ら問題なく跳ね除け、逆にその所持品を命と共に奪う。 どんな騎士だよ。 想像もつかない。 蛮族ヴィレンドルフ産まれヴィレンドルフ育ちの最高傑作品と言われたら、正直信じる。 そこまで考えた。 だが、都合が良い。 特に、ザビーネがその人物像に添えて付け加えた情報。 今までアンハルトの歴史に例のない男騎士の家督相続を認めるか認めないかで、上級法衣貴族が揉めている。 後継者が男しか産まれない稀な例であっても幼い頃に婚姻し、他所の領地の次女辺りを嫁を迎えるのが普通だし。 ともかくポリドロ卿がお母様への謁見に苦慮している、それは良い情報であった。 今ならば、お母様への謁見を条件に、相談役に引き込めるかもしれない。 そう判断する。 「ザビーネ、親衛隊を集めて。今からポリドロ卿の元へと向かうわ」 「今からですか?」 「早い方が向こうもいいでしょう。あ、それと集めた後は貴女だけ先触れとしてポリドロ卿に会いに行ってね」 ポリドロ卿は3か月も待ちぼうけを王都で食らっている。 焦らしを与える期限など、とっくに切れている。 今から行っても問題はあるまい。 そう考えた。 「では、馬の準備を。我々は徒歩ですけど」 治安悪くて道が汚いんだよなあ、ポリドロ卿のいる貧乏街の安宿。 そうザビーネはブチブチ言いながら親衛隊を集めるべく、私の居室から離れた。 私は愛馬を出迎えるため、厩舎へと足を進める。 まあ、そんなあれこれを済ませて。 ザビーネが情報を集めて来た当日には、ポリドロ卿と会う運びとなってしまった。 自分にしてはテキパキと動けたと思う。 後になって知った話であるが、もう一週間待てばファウストはお母様への謁見が叶っていたらしい。 本当に私にしてはちゃんとテキパキ動けたものだと、今更になって思う。 そうして出会った、ファウストは。 「初めまして、ヴァリエール第二王女。私はファウスト・フォン・ポリドロと申します」 酷く父に似ていた。 いや、容姿がではない。 いくら背が高く、農業を好み、筋骨隆々の身体つきをしていた父上でも。 ここまで異様な巨躯ではない。 身長2mオーバー、体重が130kgを超えているような男ではなかった。 筋骨隆々は同じだが、度合いが違う。 農業で鍛えられた父とは違い、ファウストは騎士として鍛え上げられた鋼のような肉体をしていた。 顔も違う。 ファウストの顔は整っていて気高ささえ感じるが、父に似てはいない。 だが、似ているものがある。 雰囲気だ。 その巨躯を小さく折りたたむように膝を折り、礼を正す騎士としての姿。 その姿は、幼い私の顔を覗き込むために背の高い父上が、身体を小さく丸めて背をすぼめる。 そんな姿を彷彿とさせるようであった。 幼子を相手にするような、優しい顔をしている。 太陽だ。 暗殺されて今は亡き父上ロベルトは、本当に太陽のような人であった。 ファウストは、その姿を私に思い出させる。 欲しい。 最初は助け合いのつもりでもあった。 窮に瀕しているお互いの助け合い。 御恩と奉公である。 ファウストはポリドロ領の家督相続のために、お母様への謁見を果たしたい。 私はいつか来たる初陣のための、後見人が欲しい。 お互いにメリットがある話し合いのはずだった。 だが、出会ってみて少し変わった。 純粋に、ファウスト・フォン・ポリドロという人間が自分の相談役として欲しいと思った。 「貴方、私の相談役になりなさい」 唐突に、言葉が口から出た。 「はあ」 ファウストが、ポリポリと頭を?きながら、困惑した顔で応じる。 なんだその態度。 私が舐められてるのはファウストも知っていようが、その態度はないんじゃないのか。 「何よ、その態度は。私の相談役にしてあげるっていうのよ」 「何よ、と言われましてもねえ」 ファウストは困惑した顔のまま、言葉を続ける。 別に私の要求を断れない立場じゃないんだぞ、こっちは、と言いたげである。 「それで、私のメリットは何かあるんですかねえ」 「今週中にはお母様への謁見を済ませてあげるわ」 言葉を返す。 これは多大なメリットであろう。 「その程度じゃ足りません。ついでに言えば――私の力量も足りません。何故私を相談役などに? 僅か領民300にも満たない辺境の地の領主騎士ですよ、私」 考える。 まあ、姉さまと比べると確かに戦力的には見劣りする。 姉さま、アナスタシア第一王女の相談役はアスターテ公爵。 領民数万に銀山、馬、なんでもござれの領地を抱える第三位王位継承権を持つ女。 おまけに公爵軍は鍛え上げられた常備兵500ときた。 確かに、第二王女相談役としても不足、と考えるのも無理はないのかもしれない。 しれないが。 私は自他ともに認めるミソッカスであるのだ。 「貴方、その剣で何人の首を刎ねた?」 「さあ、100から先は数えていません」 あ、ザビーネの集めた情報マジだった。 山賊相手とは言え100を超える人間を殺した男ってこの世界に、いや歴史上にファウスト以外居るのかしら。 そんな事を考えた。 歴史上では、農婦の子から産まれた珍しい男の超人。 それぐらいしか思い浮かばないが、そもそも彼は指揮官でありカリスマであり、剣の腕前はどうかというと疑問を呈する。 やはり、ファウストがちょっと狂ってるのだ。 「使える手駒に、先に唾を付けておく。それって悪い事じゃないでしょう?」 実際問題、私が父の面影を感じさせるファウストが欲しいのはあるが。 それは一旦置いといて、ここまでの騎士を逃す手は無い。 私はそう考えた。 「それは光栄です。ですが、私にメリットが無い」 「今後の軍役の際、私の――第二王女の歳費から、僅かばかりながら軍資金を用意しましょう」 私の歳費、ちびっとしか無いけど。 お母様、姉さまとの歳費を数十倍も差を付けるのはさすがに露骨すぎじゃないかしら。 第一王女親衛隊、全員馬乗ってるのにさ。 私の第二王女親衛隊、全員徒歩だぞ、徒歩。 まあ、ファウストはここで少し考えた。 領民数十名程度の小遣い銭ぐらいなら、私の歳費でもなんとか払える。 ここでダメ押しだ。 「ついでに、その軍役には選択権も。戦場先ぐらいは選ばせて挙げられるわ」  「要するに、今後は山賊団のケツを追い回さず、やる気の無い敵国との睨み合いで軍役を全うしたと言ってのけられると」 そういうことだ。 今ならファウストの領地に近い、ここ最近は戦も起きていないヴィレンドルフ国境線の警備がオススメだ。 ファウストは、しばし思考時間を置いてから。 コクリ、と頷いた。 「良いでしょう。ヴァリエール姫様の相談役となりましょう」 「助かるわ。それでは」 私は手を差し出す。 ファウストは膝を付いていた姿勢を更に屈め、私の手にキスをした。 これはファウストとの契約だ。 ああ、懐かしい。 本当に懐かしい記憶だ。 その後、ファウストの国境線警備中にヴィレンドルフが今までの均衡を破って急に攻めてきて。 姉さま、アナスタシア第一王女と、その相談役たるアスターテ公爵と一緒に必死になってヴィレンドルフ戦役をこなし。 それこそ地獄の、腰まで泥沼に浸かった闘いを終えて帰って来た。 私は言葉も無かった。 違う。 いや、こんな酷い事が起きるとは、さすがに私の頭脳なんかでは予測もつかなかった。 そもそもザビーネの実家、諜報員の統括を務めるヴェスパーマン家も全く警告してなかったじゃないか。 ウチの、アンハルト王国の諜報員無能過ぎないか? いや、ファウストとヴィレンドルフが衝突するギリギリで、姉さまと公爵家常備兵500が間に合ったけどさ。 あと、戦後のファウストへの扱い酷くない? パレードではこっそり目抜き通りにて参加した私と第二王女親衛隊ぐらいしか、ファウストに声援送ってなかったぞ。 酷いと思わない? 酷いと思ったから、姉さまとアスターテ公爵、それに公爵軍がブチ切れて、悪口言ったやつをボコボコにして牢屋に放り込むようになったけど。 ファウストの名声は上がるどころか下がった気がする。 まあいい。 昔の事だ。 それからは色々あった。 初陣の事。 カロリーヌ反逆騒動。 第二王女親衛隊が15名から14名になった。 欠員であるハンナの死。 未だに、ハンナの代わりは募集する気になれていない。 お母様からはさっさと欠員を補充するように人員資料片手に言われているのだが、まだその気にはなれない。 ああ、それから何といってもヴィレンドルフとの和平交渉だ。 あれはファウストが主役で、私達はオマケというか道化というか、ファウストに引きずられっぱなしというか。 まあ、ともあれだ。 本当にこの2年間で色々あった。 色々あったのだ。 でだ。 その想い出は想い出として大事である。 大事ではある。 ファウストに出会った当時の、父のような雰囲気を持つ人だ、欲しい、と思った。 その感情も忘れてはいない。 だからだ。 だからこそだ。 「ヴァリエール、貴女はファウストの事をどう思う。ちゃんと答えなさい」 「あの、好きではありますよ?」 「愛しているかどうかを問うているのです」 お母様、リーゼンロッテ女王からの要求。 言われて見れば判る。 言われて見れば、凡人の私でも理解できる。 今の状況は極端に拙く、ファウストの積み重ね続けた功績に対し、アンハルト王家は報いているとはいえない。 だから報いよう。 それは判る。 だがしかし、だ。 「いきなり愛しているかと言われましてもですね」 「ラブかライクか答えなさい。王家は窮に瀕しているのです」 「それは判るのですが」 いきなり婚姻の二文字は14歳の身には重い。 いや、別に婚姻の約束なら 14歳どころか10歳以下での婚姻でも珍しい話ではないけどね。 「少し、考えさせてもらえませんか」 「なりません。婚姻の発表は明日です」 「なにもかも酷すぎる」 お母様、せめてもう少し時間をください。 今日ヴィレンドルフから帰って来たばかりで、明日婚姻かよ。 あ、ザビーネが何かヴィレンドルフでほざいてた気がする。 あの子、私とファウストが婚姻する可能性があるって読んでたのか。 ちゃんと言いなさいよ。 「私が断ったらどうなされるおつもりですか」 「その時は仕方ありません。法衣貴族の高位の者から誰か選びますが、まあ正直ファウストの功績に足りるかというと」 「足らないでしょうね」 私は冷静に考える。 王家はファウストをこき使い過ぎた。 もはや、方法は一つしかない。 私は王家の一員として覚悟する。 「判りました。とりあえず婚姻だけなら」 「本当に? 嫌じゃない? 嫌なら断っても」 「どっちが本音なんですか、お母様」 お母様、リーゼンロッテ女王は。 姉さまに今頃気づいたの、と言われそうなのだが、今気づいた。 父上ロベルトの面影がある、ファウストに懸想している。 今それに気づいたのだ。 だから答える。 「お母様、私はファウストと婚姻を結びたいと思います。そうでなければ国が回らないでしょう」 「そう」 お母様は、それは残念そうに項垂れながら、しかしどこかホッとした感じで答えた。 私人と公人、その区別は面倒な物である。 私は女王になるのだけは、絶対に御免だ。 だからファウストと一緒に、辺境のポリドロ領に引っ込む事にしよう。 もっとも、第二王女親衛隊が無事全員世襲騎士になるのを見届けてからになるだろうが。 ゲオルク・ヴァリエール・フォン・アンハルトはそう静かに決意した。 第54話 アンハルト王家の会話 アンハルト王宮、リーゼンロッテ女王の居室にて。 ヴァリエールが深く深くため息をつきながら、自分が長年住むことになるであろうポリドロ領ってどんな土地かしら、と未来に思考を飛ばしているであろう中で。 トントン、とノックの音。 「誰ですか?」 「リーゼンロッテ様、アナスタシア様とアスターテ公爵がお見えになりました。話がおありと」 「通しなさい」 女王親衛隊は了解を得て、二人を居室へと通す。 気が早い事だ。 私は二人を通すことを了承しながら、ファウストの貞操について考えた。 もう、婚姻が決まったその場で、その話をヴァリエールに言い含めるのか。 「ヴァリエールへの話は終わったのですか?」 「それを聞きに来たのですか? さっそく、ファウストの奪い合いとは行動が早い」 「いえ、要件は違います。明日のファウストの行動について、母上に話を。ですが」 くい、とアナスタシアがその鋭い蛇のような眼光で、椅子に座るヴァリエールを見据える。 用件は別にあるが、話は先にしておこうという顔だ。 「ヴァリエール、ファウストとの婚姻は了承したのよね」 「はい、姉さま。その話を聞きに?」 「違うわ。だけど、それはそれとしてファウストの童貞は私がもらうから」 一瞬の沈黙。 何言ってんだこの実姉、そういう表情でヴァリエールが停止する。 この子、自分の姉がファウストに執着してるのは、ただその能力ゆえと思っていたのか。 貴女と同じく、いや、貴女とは比べ物にならない程にファウストの事をアナスタシアは愛している。 「はあ」 「ちゃんと話聞いてる? 初夜は私が貰うからね。そこの所は承知しておきなさい。あと愛人にもするから。何人もファウストの子を産むから」 「え、なんで私、姉さまにファウストの童貞とられるの? というか、姉さまファウストの事そんなに好きだったの?」 クッソ怪訝そうな渋い顔で、ヴァリエールが応じる。 まあ婚姻が決まった相手の初夜がいきなり横取りされるとなると、普通に嫌だろうが。 「私はそれに応じなければならないのですか?」 「アンハルト王家には、妹の夫を味見しなければならないという家訓があるのよ」 「生まれて初めて聞いたんですが、その家訓」 ないわよ、そんな家訓。 あったら母親である私が先に味見していい家訓作るわ。 私はそんな事を考えながら、横から口を出す。 貴女、何か私に用件があるんでしょう。 それについて問い質さんとするが。 「アナスタシア。よく考えたら親が娘より先に味見してもいい家訓も、ワンチャン通るのでは」 「気でも狂ったか。ぶっ殺すぞババア」 口にしたのは全然違う事であった。 つい私人の顔が出てしまった。 それにしても、我が長女はいつになく口汚い。 「あと二番目は私だからね、私。私の愛人にもするから」 アスターテ公爵はいつもの自由人めいた、のほほんとした口調で愛人にすると呟いた。 ヴァリエールはげんなりした顔で、呟いた。 「え、私三番目? 正妻なのに三番目にファウストを抱くの?」 「そういうもんだよ。みんな妹はそういう辛さを乗り越えて成長していくんだよ」 アスターテ公爵の、どこまでもいい加減な説得。 正妻なのに、夫を抱くのは三番目。 そんな辛さ乗り越えて得られる物は何もないと思うが。 ヴァリエールはイマイチ納得できないようだが、これはそもそもヴァリエールの婚姻が決まる前から決定された事項である。 コホン、と息をつき、アナスタシアがヴァリエールに命令する。 「ヴァリエール、納得しなさい。私も妥協しました。これが姉である私の譲れる限界点です。貴方がファウストの正妻になるのは確定したのですよ」 「いえ、そもそもファウスト側からはまだ了承を得ていないんですが」 「そうね。よく考えたら、明日はそれどころじゃないかもしれないし。婚姻の話は後日に回すかも」 アナスタシアが、私に向き直る。 何だ、やっとこの部屋に来た用件に入るのか。 私はベッドをチラ見し、この身体の下にファウストの巨躯を押し込める妄想を抱いた。 夫ロベルトを亡くして5年は長い。 長いのだ。 私の身体は常に夜啼きしている。 何とかワンチャン、未亡人は娘の夫を先に味見してもよい法案が可決しないだろうか。 しないな。 私人と公人の立場は分けねばならぬ。 女王というのは嫌な立場だ。 「で、アナスタシア。用件とは何か」 「明日、ファウスト・フォン・ポリドロは諸侯、そして上級法衣貴族が並ぶ満座の席で、母上にトクトア・カンの脅威を訴えます」 「トクトア・カン? 誰ですかそれは」 聞いた覚えがない。 「神聖グステン帝国が脅威を訴えているシルクロードの東の東、王朝を滅ぼした遊牧騎馬民族国家の王の名です」 「ああ、あれ。王の名が把握できたの」 ファウストが、ヴィレンドルフから何かの情報を入手してきたのか。 視線をアナスタシアから、ヴァリエールに動かす。 「貴女も知っているの? ヴァリエール」 「はい、知っております。かつて複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦術を用いて覇権を築いた民族、それ以上の再来であると。ヴィレンドルフの客将であるユエ殿、東方の滅びた王朝から逃げ出してきた武将は訴えていましたが」 「が?」 ヴァリエールに問う。 「正直、ピンと来ませんでした。明日のヴィレンドルフとの和平調停における正式報告にて、お母様に告げるつもりでしたが」 「その前に、私に裏で報告するまでの重要性はないと、放置したと」 「そもそも私はその情報をお母様から聞いていません。お母さまはすでに神聖グステン帝国の情報から把握しておられると、ヴィレンドルフのカタリナ女王からの話で把握しました。それほどまでに重要なのですか」 頭が痛い。 いや、ヴァリエールに情報を伝えていなかった私が悪いのか。 神聖グステン帝国、そこからの情報では『両国で協調し、戦に備えよ、脅威に対抗できる防波堤を構築せよ』であったな。 信じてはいる。 神聖グステン帝国の忠告に従いもしよう。 だが。 「ヴァリエール、それについては済まなかった。伝える人間は少ない方が良いと判断したのでな。貴女はともかく、第二王女親衛隊から話が漏れると拙い」 「それほどまでの話なのですか? いや、まあどこから漏れるか判らないから教えなかったというのは理解しますが」 「いや、今考えれば教えるべきだった」 そもそも、漏れても誰も信用せぬであろう。 シルクロードの東の東、その到達点から遊牧騎馬民族国家がやってくるなどと。 ヴィレンドルフですら、どこまで信用しているかどうか。 アナスタシアの方を向き、会話を交わす。 「まあ、その後悔は良い。で、それの何が問題なのだ? ファウストから訴えがあれば聞きもしよう」 「ファウストが七年以内に、遊牧騎馬民族国家が来ると。そう判断しているのが拙いのです」 「それは――」 七年? 来るわけがない。 シルクロードの東も東から、この西の果てまでどれだけの国があると思ってる。 東には大公国もある。 それを無視して我が国に略奪しに来る事はなかろう。 要するに、ここまでの全ての国を略奪、虐殺し、統治しながら来るわけだぞ。 そもそも、シルクロードの東の東、その王朝はとても大きい国。 それこそ神聖グステン帝国全土を覆いつくすよりも大きな国であったと聞く。 その統治に手間取られるであろう。 もしそれでも来るとすれば、その全土を十分に統治する気等無い。 租税さえ取れればいい、遊牧騎馬民族国家以外の人間など皆死んでしまえばいい。 そういう利己心や支配欲が自律的に抑制されていない異常な民族でしかない。 それはただの獣だ。 いや。 よく考えろ、リーゼンロッテ。 遊牧騎馬民族国家。 それがどのような思考を持って動いているかなど、誰にもわからんではないか。 ただの獣の群れが一体となって、一つの王朝を滅ぼした。 殺し、犯し、奪う。 ただ三つのそれだけを繰り返し、それを続けなければ死ぬような。 本当に獣のような国家。 それが存在する可能性は、無いわけではない。 かつて、遥か昔にこの世界の果てまでも支配しようとした『女王』が居た。 『女王』は負けなかった。 戦において生涯不敗であった。 東方遠征は果てしなく、どこまでも続くとさえ思えた。 だが、彼女ですら最後には部下の猛烈な反対に遭い、それを取りやめたではないか。 うん? 狂った思想を『女王』を通してトレースしようと考えたが、逆に異常と感じてしまったぞ。 警戒はしよう。 警戒はするのだ。 ファウストがまとめた和平調停は守ろう。 その間に北方の遊牧民族を族滅させ、守りを固めるのだ。 「結論から言おうか。色々考えてみたが、七年はさすがに無いだろ」 「ですが、ファウストはそう思い込んでいるのです」 「否定する」 それしかない。 ファウスト・フォン・ポリドロを論破しよう。 かつてファウストがマルティナの助命嘆願を行った時のように。 今度は、地面に頭を擦り付けても、嘆願を受け入れる事はない。 「ファウストは、女王たる私に何を望んでいるのか?」 「軍権の統一」 「それは女王たる私とて、為し得ることではない」 無理筋である。 もはや王権を用いても成し得る物ではない。 従わなければ斬って捨てるという酷薄な統治方針を貫き通すことは、封建領主制において不可能である。 彼等は小なりとはいえ領地の主である。 遥か昔のように中央集権的でなければ。 諸侯が自ずと、剣を捧げなければ話にならんのだ。 軍権の統一は、無理である。 「ファウスト・フォン・ポリドロはそれを理解できぬほど愚かではない」 「確かに。なれど」 「今叫ばねば間に合わぬ、今から明日の諸侯、法衣貴族が集まる満座の席で訴えねば間に合わぬ、そう思い込んでいるか」 拙いな。 場合によっては、ファウストが笑いものになる。 それだけならばよい。 いや、良くはないのだがマシだ。 最終的に、嘘を吐いたとファウストを処罰せねばならん段階まで進むと。 ファウストの言は否定するが、吊し上げの段階に入るのは御免だ。 「それに加え、明日はケルン派の司祭をファウストは連れてくる予定」 「ケルン派か」 顔を顰める。 鬱陶しいんだよな、アイツら。 未だ兵器としては不十分なマスケット銃の使用を薦めてくるし。 あまりにも射程が短く、命中率が低いのだ。 結局は勇敢なる、重騎兵の突撃が勝ってしまう。 かつての紛争で確か――ワゴンブルクだったか、あの兵法が使われた時から火器は確かに重要性を増した。 だが、まだ足らぬ。 まだ兵科として取り入れるには早い。 熟達こそ早いが、生産性は低い。 ケルン派を信じる傭兵は好んで使っているようであるが。 というか、マスケットを安く手に入れるためにはケルン派の洗礼を受けなければならないから、傭兵が自然ケルン派ばかりになったというか。 ま、それはいい。 唯一、取り入れるべき可能性があるのはケルン派が研究している兵器。 まだ研究段階だが、あのカノン砲とかいったか? キャニスター弾といったか、マスケットの弾丸を詰め込んだアレは、とても良い。 酷く良い。 一撃での面制圧が可能だ。 「母上、何をお考えですか」 「ケルン派についてだ。アイツらは面倒くさい。司祭は特に面倒臭い。だが、それでも私は頷かぬ」 「それで結構です。別に頷いてもらうまでには至りません」 アナスタシアがゆっくりと首を横に振る。 「問題は、ファウストの暴走です。なにとぞ、本人には全ての訴えを満座の席で全員にお聞かせください。そして、私とアスターテもそれに加担させていただきます」 「何故?」 「ひとえにファウストの暴走を抑えるためです。最後まで言い切った後は、母上がよしなに裁いてくれれば」 難しい事を言う。 私一人に負担をかぶせて、お前等はファウストの味方か。 またファウストからの私の印象が悪くなるではないか。 ただでさえ、マルティナ助命嘆願の際に冷たい女だと思われてるかもしれないのに。 私は私人として、一人の女として悲しい。 「もうよい、話は理解した。明日はよしなに裁こう。だが、どうなるかは判らぬぞ」 「まあ、その辺りは承知しております。時間が何せ無いので」 「ファウスト帰還から、旅の垢を落とすための時間がたったの一日。これは間違いであった」 せめて一週間は置くべきであった。 そうすれば、事前にファウストと腰を据えて話し合えたかもしれぬ。 だが、明日発表する本題はヴァリエールとファウストとの婚姻だ。 これでファウストの今までの功績に報いる。 そして諸侯の、特に少領の地方領主達の王家への信頼を取り戻す。 ファウストの立場をこのままにしておくわけにはいかん。 私自身としても気分が悪い。 「親衛隊、中へ!」 「はい」 ドアの前に立ち警備を続けていた、信頼を置いている女王親衛隊の一人を呼ぶ。 初陣から16年か。 出会ったのはそれ以前だから、本当にもう長い付き合いになる。 「ファウストの下屋敷に行って、この言葉を届けよ。『まずはお前の全ての話を聞こう。だから、お前も私の全ての話を黙って聞け』と。お互いに喧嘩腰ではままならぬ。ファウストが憤激し、憤怒の騎士と化すようでは話もままならぬわ」 「承知しました。私はこの足でポリドロ卿の下屋敷へ。代わりの警護の者を寄越しますので」 深々と親衛隊員が頭を下げ、部屋を後にする。 さて。 話はこれで終わりなのだが。 「一晩で良いのだ、ヴァリエール。私の寝室にファウストを忍ばせてくれぬか。何、今後のポリドロ領への扱いを考えてくれれば良いのだ。きっと未来につながる」 「姉上とアスターテ公爵の愛人はまあ承知しました。嫌ですけど。一人の男を複数の女性で共有するのは貴族でも珍しい話ではありませんし。ですが、夫の貞操をお母さまに切り売りするなんて、絶対にお断りします」 我が次女は頑固だ。 一人寝寂しく5年を過ごす、母親への優しさという物が感じられない。 私人と公人の区別を付けるとは、このように過酷なものであったか。 リーゼンロッテ女王は、自分が女王の立場である事を酷く憎んだ。 第55話 我がドルイドはキリストなり 我がドルイドはキリストなり。 前世にてキリスト教をアイルランドに伝道した、アイルランドの大修道院長の言葉である。 そんな前世の記憶を想い出す。 ドルイドの古伝承をすっぽりとそのまま、ケルト・カトリックがキリスト教の中に包摂してしまったように。 この世界の一神教は、北欧神話の一部、死後の世界観をそのまま取り込んでしまっている。 北欧神話、死後選別された戦士の魂であるエインヘリャルがヴァルハラに行くとの伝承が、一神教とそれを信じる人々の中で息づいているのと同様に。 今では物語として静かに生き残っているケルト伝承がある。 ケルト神話の伝承において、呪い、禁忌、誓い、戒め、掟、約束、様々な名で呼ばれるもの。 アーサー王伝説最古の物語『キルフーフとオルフェン』にも出てくるその言葉。 ゲッシュ(誓約)。 かの有名なクー・フーリンや、ディルムッドが死んだ原因のそれだ。 もちろん、かの高名な戦士たちの神話はこの世界でも残っている。 違いは性別が女性という事ぐらいか。 まあよい。 なにはともあれ、ゲッシュ(誓約)だ。 私はこの世界で陰腹を斬り、リーゼンロッテ女王に嘆願する事をまず考えた。 だが、マルティナ助命の際の土下座とは違い、その行為が文化的価値観から通じることはあるまい。 だから。 だからこそ、私は―― ノックの音。 「入って良い」 使者の見送りを終えた、ヘルガが部屋の中に入ってくる。 「ファウスト様、リーゼンロッテ女王陛下の使者が尋ねてこられましたが」 「ああ」 従士長たるヘルガに対し、曖昧に答える。 「失礼ながら、あの使者。女王親衛隊の隊員であったと記憶にあります。話の内容を伺っても?」 「まずはお前の全ての話を聞こう。だから、お前も私の全ての話を明日は黙って聞け、とさ」 私はヘルガに顔を向けず、親衛隊員を迎えた下屋敷の応接室。 その窓の外を眺めながら、呟く。 「ファウスト様の話とは?」 「大した事ではない」 「失礼ながら、今のファウスト様は」 振り向き、殺気を強める。 ヘルガが怯み、口を閉じる。 「今の私が何か?」 「まるで戦場におけるファウスト様のようであります。その、狂気を幾分孕んだかのような」 私は領民にそう感じ取られていたのか。 戦場とは狂気と正気の狭間に身を置き、冷静を保ちながら狂気に走れる勇気ある者だけが生き残る。 亡き母の教えである。 ふむ、母の教えを私は忠実に保てているようだ。 考えよう。 狂気と正気の狭間に身を置き、そこで冷静を保とう。 我が現状において考える。 一つ。 仮想モンゴル帝国、トクトア・カンは七年以内に恐らくやってくる。 史実より早くやってくるであろう。 だが、それは転生者たる私の知識に基づくものであって、アンハルトはおろかヴィレンドルフですら来るとは考えてはいまい。 おそらくは神聖グステン帝国でさえも。 二つ。 アナスタシア第一王女とアスターテ公爵が、どうやらリーゼンロッテ女王に私との話を報告したようだ。 だからこそ、女王親衛隊が下屋敷まで訪れた。 どうやら、一応は私の話を最後まで聞き届けてくれるらしい。 それはとてもとても良い事だ。代わりに、私も最後までリーゼンロッテ女王の話は一応聞こうではないか。 私は君の意見に反対だ。しかし、君がそれをいう権利は生命をかけて守って見せる。 フランスの哲学者、ヴォルテールの名言のように。 三つ。 私は成功した。 神託は得られざれども、私は一つの『ある計画』をこの発狂した足りぬ頭で考えだした。 陰腹の代わりに私の覚悟を示すための『ある計画』、それにたった一人必要な司祭。 私のドルイド、司祭を明日のリーゼンロッテ女王の謁見に引きずり出す事に成功した。 そうだ。 私の『ある計画』は順調に進んでいる。 「ファウスト様」 ヘルガの声。 その声は、涙声であった。 「この平民、赤い血たるヘルガに貴族の事は判りませぬ。ファウスト様の覚悟は判りませぬ。ですが、我ら領民300名、ファウスト様が行くとなれば最果ての海、オケアヌスにだって着いて行きます。例え道半ばで斃れうち捨てられても誰一人恨みなどしませぬ」 「ヘルガよ」 「だから、お止めください。なにとぞお考え直しを。我々はアンハルト王家に忠誠を誓っているわけではありませぬ。ファウスト様に忠誠を誓っているのです」 私は何も語っていない。 何もヘルガに告げていない。 なれど、悟られたか。 私の心を悟られたか。 ヘルガよ、お前とは私が5歳の頃。 思えば17年の付き合いであったな。 お前には子供の頃、私が昼食にデザートとして必ず出てくる林檎を半分こにしようと言っているのに。 いつも固辞するから困ったものだ。 お前も食べてくれねば、私が食べにくいだろうに。 だから、いつも押し切った。 嗚呼。 判るよなあ。 17年の付き合いだ。 判ってしまうよなあ、これ位の事。 「ヘルガ一生に一度の嘆願であります。何故アンハルトに拘るのです。何故そこまでアンハルト王家に忠誠を誓おうとするのです。命を捨てる覚悟をしてまで、明日王城に出向く必要が何処にあるのですか。ファウスト様を異形な男騎士として侮蔑するこの国のために、命を捨てる必要が何処にあるのです」 私が明日、命を捨てるも同然の行為をする事ぐらい、判るよなあ。 私でも、前世の知識があるからトクトア・カンが来るなどと叫んでいるのだ。 だから、本当は来ないのかもしれない。 たとえ来たとしても、7年以内ではなくもっと先の話かもしれない。 これほど焦る必要は無いのかもしれない。 だけどなあ。 それだと、もし来た時に間に合わんのだ。 だからこそ命を張って覚悟をアンハルト王家に、その諸侯と法衣貴族が立ち並ぶ満座の席で訴える必要がある。 「ヴィレンドルフに行きましょう。あそこならばファウスト様は報われます。ヴィレンドルフの王配だって望めます。我々はファウスト様がアンハルトを見限るなら、先祖代々の領地だって捨てます」 「ヘルガよ」 ヘルガはいつの間にか膝を折って礼を整え、顔中を涙でぐしゃぐしゃにしていた。 スマンな。 辛い決意をさせた。 「私がポリドロ領を、あの領地を見捨てることはない。死んだ母と墓の前で約束した。私は死ぬまで領民300名のポリドロ領の辺境領主騎士で良い。そのためならば贅沢も何もいらない。それ以上の願望はファウスト・フォン・ポリドロという男にとっての贅肉なのだ」 「ファウスト様!!」 「先祖代々の墓を掘り起こし、その遺骨を持って新たな土地に去る事など、私が私を許せない」 立派な墓など立てずとも良い。 ただ壮健であれ。 やっと母の愛情を理解し、茫然自失状態の私が元従士長たるヘルガの母から渡された遺言書。 糸のように細くなってしまった、母が死に際に書き残せた遺言書はたったの二行。 それだけであった。 だからこそ私は私が許せぬ。 それ以上の事をせねばならぬ。 「私は母が残した、あの遺言書を読んだ時に決めたのだ。領地のために、母のために全ての事を行うと。私は、私が領地の山から見繕って運んできた、小さな墓石の下で母をゆっくりと眠らせてあげたい」 ポリドロ領は何度も言うように領民300名の特産物も何もない、小さな領地だ。 だが山も川もある。 亡き母をおぶるような思いで、墓石を山で見繕って担ぎ上げ、一昼夜かけて墓地に辿り着いた。 そして母が眠るその墓地の地面の上に、墓石として置いたのだ。 あの時の事は、今でも覚えている。 「ヘルガよ、泣かせてすまんな」 「ファウスト様」 「私はお前に嘘を吐かぬ。ヘルガよ、私は明日、王城にヴィレンドルフとの和平調停を結んだ正式報告を行う場で。諸侯や法衣貴族が立ち並ぶ満座の席で、ある脅威について訴えるつもりだ」 全てのみ込んでしまう脅威。 私の命より大事な領地も、領民も、母の墓も、馬の脚に踏まれて歴史の影に消え去ってしまう。 そんな脅威だ。 ヘルガはもはや、その脅威について尋ねない。 ただ涙を抑えようと、手の甲で必死にそれを拭っている。 「そこで私は笑われるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。臆病者と呼ばれるかもしれない。所詮男騎士と侮られるかもしれない。我が母マリアンヌのように、気が狂ったと呼ばれるかもしれない。ヴィレンドルフと内通して、国力を弱めようとしていると疑われるかもしれない」 「ファウスト様!」 悲惨な現実。 予想される、ただそれだけを呟く。 全部覚悟の上だ。 「それでも、それでも必要なのだ。仮に脅威が訪れるとすれば、ヴィレンドルフとアンハルトの連携が。そしてアンハルトの軍権の統一が必要なのだ。誰にも文句を言わせぬ、私の事を馬鹿にはさせぬ。私の誓いを以てして」 「誓いとは、ファウスト様の誓いとは」 「そのままだ。つまりゲッシュだ」 もはやこのファンタジー世界でも物語上の騎士の誓いと化したそれ。 今では、その名の通り「禁忌」と化した言葉。 有名なクー・フーリンや、ディルムッドもそれで死んだ。 本当に祝福があったのか、それすら疑わしい。 だけど呪いだけは確実にある。 そうだ、神の呪いだ。 このファンタジーでは明確に「神の裁き」が存在する。 この世界の過去の英傑は、ゲッシュを貫かねば必ず悲惨な死を遂げている。 それも明確な「神の裁き」としか思えぬ、それを受けて。 「ファウスト様! ゲッシュは『禁忌』であります。それを誓うなど!!」 「だからこそ意味を持つのだ」 陰腹を斬る。 今は、このファンタジー異世界でも愚かな行為と、誓うべきものではないものと扱われている廃れた儀式。 ゲッシュ(誓約)、それを以てドルイドたるケルン派司祭に誓うのだ。 「七年以内にトクトア・カンがアンハルトを襲撃してこなければ私は腹を斬って死ぬ」と。 実際は、ゲッシュの儀式に沿った長ったらしい言葉になるであろうが。 まあ変則的なゲッシュ。 単純に何かを禁忌として誓うゲッシュではない。 なれど通る。 宿命であるのだ。 これはおそらく、この中世ファンタジー異世界の領主騎士として産まれ、領民と母の墓を守り抜くために私に与えられた宿命的な禁忌であるのだ。 だからこそ通る。 神は通す。 「ヘルガよ。それでも私の血は残す。これから7年以内に血を繋ぎ、跡継ぎを作ろう。ヴィレンドルフ女王カタリナ様は、2年以内に正妻が見つからねばヴィレンドルフにて嫁を見繕ってくれると約束してくれた。その女性と子を為そう。それで私が死んでも、領地は存続する。7年以内に脅威が来ず、ゲッシュが破綻して私が死んでも、領地は残る。アンハルトを騒がせた汚名ばかりは……拭えぬな。すまん、その時は迷惑をかける」 「ファウスト様が死ぬならば私も死にます」 涙声でヘルガが訴える。 よく泣く従士長だ。 ここまで来ると、悲壮な覚悟というより愉快になって来たな。 「ヘルガよ、私が死んだとき、お前には私の跡継ぎを支える義務がある。脅威が来ると言う予想を外し、汚名を被ったポリドロ領の跡継ぎをだ」 ドア前で跪いているヘルガに腰を下ろし、ゆっくりとその手を握る。 そして、出来るだけ優しい言葉になるように声をかけた。 「愚かな領主ですまんな。だが、最後までやりたいようにやらせてくれ」 「愚かなのは、真に愚かなのはファウスト様の忠心を理解せぬアンハルトで御座います」 血反吐を吐くような、呪うような言葉がヘルガの口から迸った。 違うんだよ、ヘルガ。 どこまでも取り返しがつかなくて、愚かなのは私だ。 「私が死んだら、跡継ぎにはアンハルトに付くなり、ヴィレンドルフに付くなり、好きにせよと伝えてくれ。私はアンハルト王家に忠誠を誓ったが、それは次代の保護契約とは関係ない」 ここまでだな。 考えはヘルガのおかげでまとまった。 決意も出来た。 私は明日、アンハルト王城に出向き、自分の拙い演説力と弁舌、説得力の全てを用いてリーゼンロッテ女王にトクトア・カンの脅威を。 遊牧騎馬民族国家というものの脅威を訴えよう。 そして陰腹を斬る代わりに、ゲッシュを誓おう。 それでも駄目なら。 そこまでやっても、誰も信じないようなら。 運命にさえ見捨てられ、抗議の声さえ届かない。 それが私の宿命なれば。 「もし、明日誰も私の言葉を信じぬなら。信じてくれぬならば。それは、私が所詮そこまでの騎士だったという事だろう」 決戦は明日だ。 さあ、立ち向かおう。 待ち構えよう。 ワインを一瓶カラにした後は、ベッドでぐっすり眠るとしよう。 ファウスト・フォン・ポリドロは領民僅か300名、辺境領主騎士としては弱小と呼ぶにふさわしい。 だがこれでも領主であり、ポリドロ領では300人にとっての王様であり騎士なのだ。 そんな誇りをこめて、そう決意した。 第56話 一言一句記録せよ その日のファウスト・フォン・ポリドロの姿は、我々貴族の目には奇異に映った。 奇異、という表現は少し似つかわしくないかもしれない。 だが、その場に居た貴族達にとっては、それ以外に表現のしようがなかった。 アンハルト王城、リーゼンロッテ女王が玉座に座る王の間にて。 普段は入城権、要するに女王への御目見え資格を持たぬ小領の領主騎士や下位の法衣貴族も、この日ばかりは入城が認められていた。 当然のことながら、剣や懐剣の類は全て衛兵に預けた礼服のみの姿でだが。 そこまでして貴族達を集めた理由。 正使たるヴァリエール第二王女と、副使たるポリドロ卿によるヴィレンドルフとの和平交渉の正式報告を聞くため。 それが表向きな理由。 だが内実は、ポリドロ卿の今までの功績を皆の前で称え、その功績に見合った褒美を女王が与える姿を皆に見せるためである。 双務的契約、御恩と奉公に基づいていない現在の歪としか言いようがない状況を、如何に王家が改善するのか。 王家はしかと、ポリドロ卿に報酬を支払うのか。 領主騎士にとっても法衣貴族にとっても、自分がマトモな貴族であると認識している者にとっては他人ごとではない、それを皆は見届けに来ていた。 まあ、アンハルト王家は決して愚かではない。 今までのポリドロ卿が積み重ねた功績が異常なのであり、アンハルト王家はその積み重ねた速度に対応しきれなかった。 それは誰もが承知していた。 だからといって、現状維持で許されるはずはない。 ヴィレンドルフ戦役で救国の武功を為し、ヴァリエール第二王女の地方領主を相手取った初陣を補佐し、この度ヴィレンドルフ王家に自分の貞操を切り売りまでして和平調停を成した。 誰の目にも明らかに、領地の保護契約以上の仕事を押し付けている。 アンハルト王家は金銭や鎧の下賜だけでなく、すでに血統や領地をこのアンハルトの英傑たるポリドロ卿に与える段階に達している。 それは誰もが認識している。 一部、それを理解できていない愚か者、この段階に至ってまでポリドロ卿を異形の男騎士と嘲る法衣貴族が混ざってはいたが。 そういった愚かな輩も、まあ本日のリーゼンロッテ女王が自らポリドロ卿の手を取り、積み重ねた功績を褒め称える姿で、二度と今までのようにはポリドロ卿を嘲笑えぬと理解するであろう。 そこまでやってすら理解できない馬鹿もいようが。 それがアンハルトにおける多くのマトモな貴族の、ポリドロ卿が現れる前までの思考であったが。 もう一度言おう。 その日のファウスト・フォン・ポリドロの姿は、貴族達の目に奇異に映った。 「ポリドロ卿。失礼ですが、そのお姿では。そしてお連れの方はここでお待ちを」 第一王女親衛隊の一人が、王の間に入る直前でポリドロ卿に停止を呼びかける。 第二王女ヴァリエール、その横にて歩くポリドロ卿。 その姿は礼服などではなく、甲冑姿であった。 ヴィレンドルフまで赴き、製造から僅か2か月も経たぬ内に刀傷が全身に刻まれた、総魔術刻印入りのフリューテッドアーマー。 恐らくはヴィレンドレフにおいてポリドロ卿が99戦99勝の一騎討ち、カタリナ女王の心を斬った事まで含めて吟遊詩人に言わせるなら100人斬りか。 その一騎討ちにおいて、刻まれた刀傷。 それそのままの甲冑姿にて、ポリドロ卿は王の間に姿を現した。 その背後にはケルン派の司祭殿が付き従っている。 はて、これは何のつもりであろうか。 法衣貴族にして、今回の催事の記録係を命じられた紋章官たる私は訝し気に思った。 その姿を、やはり一部の愚かな下位の法衣貴族。 礼も知らぬ男騎士、やはり蛮人かと笑った女達がいる。 記録する。 その者の名を、今回の記録用紙とは別な用紙に記録する。 馬鹿は後で潰すから、記録しておけ。 私はそう、リーゼンロッテ女王陛下から命を下されているのだ。 この場は、今後のアンハルト王国において「いる」のと「いらない」のを判別する場でもあるのだ。 内心、今嘲笑った下位の法衣貴族を心の底から馬鹿にし、愚かさ故仕方なしと切り捨てて記録をする。 彼女達は何らかの難癖をつけられて処分され、爵位を剥奪されるであろう。 まあ、そんなどうでもいい連中の事は、言葉通りにどうでもいい。 ポリドロ卿は何故、礼服ではなく甲冑姿なのだろうか。 それに、何故ケルン派の司祭殿が付き従っているのであろう。 「御言葉はごもっとも。だが、今回ばかりは許していただきたい。この甲冑姿はアナスタシア第一王女に下賜されたもの、この鎧に残る傷はヴィレンドレフとの和平交渉の最中にて得た傷である。今回のヴィレンドルフとの和平交渉を無事成し遂げたその報告にあたり、この姿で参上するのは無礼にはあたらぬと思う。そして」 ポリドロ卿は、私の見たパレードの時とは違い、あの興味の一片も市民に寄せぬ姿。 硬直した顔でなく、その瞳には炎を感じさせ、その身長2mを超える巨躯の全身には覇気を昂らせていた。 奇異。 そう、奇異であった。 憤怒の騎士と吟遊詩人に語られる、その顔を赤ら顔に染めて戦場を縦横無尽に荒れ狂ったと言われる姿とは違い。 かといって、平時の状態とは言えず、狂気と冷静を同時に保っているような印象を感じさせる不思議。 記録用紙に、思わずポリドロ卿の様子についてペンを走らせる。 その日のファウスト・フォン・ポリドロの姿は、我々貴族の目には奇異に映った、と。 そんな私を横にして、ポリドロ卿の言葉は続く。 「何より、今日ばかりはこの姿でありたい。まあ、私のワガママだが、先に言った通り理屈としてはそうおかしくないだろう? 許されよ」 「お連れの、ケルン派の司祭殿は」 「必要だからお呼びした。それだけである。女王もすでにご承知である。貴女は何も聞いてないのか?」 引き留めた親衛隊員と、視線を合わせることすらない。 ポリドロ卿の視線は、真っ直ぐ玉座に向かっている。 「……承知しました。お通り下さい」 「助かる」 ポリドロ卿が、前進を開始する。 その様子は、全く周囲を顧みないようでいて。 視線だけは睨みつける様に周囲を見渡しており、先ほどポリドロ卿を嘲笑った法衣貴族が思わず硬直しているのを見た。 ざまあみろ。 思わずそんな気になるが、そこで紋章官にして本日の記録係である私と視線が合ったような気がした。 心臓が、思わずドキリと鳴る。 私は、ポリドロ卿の事が嫌いではない。 ヴィレンドルフ戦役の時から、ずっとだ。 貴族の顔一人一人を覚えている記憶力の抜群の良さから法衣貴族として抜擢。 今では紋章官と記録係を兼任して務めているが、私の故郷はヴィレンドルフとの国境線にある辺境の領地であり、私はそこの領主騎士の次女であった。 我が故郷は、ポリドロ卿により救われたのだ。 とてつもない感謝の念が、この心の奥底にはある。 「尋ねる。貴女が、本日の催事の記録係であろうか」 声がする。 視線が合ったのは、気のせいではなかった。 リーゼンロッテ女王への赤い絨毯の道すがらに足を止め、真っ直ぐ私を見つめながら声を出す。 武人として戦場で良く通りそうな、それでいて優し気な声が私に届いていた。 「は、恐れながら、本日の記録係を務めさせて頂いております」 「そうか」 ポリドロ卿は、少しはにかんだような笑顔を浮かべる。 再び胸がドキリとなる。 遠目からしか今まで見た事はなく、故郷を救って頂いた感謝の念を伝える術もなかったが。 ポリドロ卿とはこのように優しい方なのだろうか。 その巨躯からは想像もできない、優しい雰囲気に満ちていた。 「頼みが一つある」 「何なりと」 私はポリドロ卿の頼みに、魅了されたように首肯する事しかできない。 「私が本日為す言葉、その一言一句を残さず記録してくれないか。それはこの先、無駄になるかもしれないが。ひょっとすれば、後人の役に立つかもしれぬのだ」 「承知しました。一言一句、違わずに記録致します」 私は頭を垂れながら、返事を為す。 それに対し、ポリドロ卿の言葉はただ一言であった。 「有難う」 本当に優し気な声であった。 頭を上げると、すでにポリドロ卿は歩みを再開していた。 胸の奥が、何処かポカポカとするようで。 同時に、何か猛烈に嫌な予感がしていた。 「ポリドロ卿?」 一言、小さな声が思わず口に出る。 ポリドロ卿の耳はおろか、近くの貴族にすら届いていない。 そんな小さな声であった。 嫌な予感がする。 優しげと感じていたポリドロ卿の声が、何故か悲しく感じた。 そのフリューテッドアーマー姿の背中には一つの刀傷もなく、それはヴィレンドレフでの一騎討ちの全てにおいてポリドロ卿が一度として引く事が無かった事を意味している。 だが、その姿は私にとっては。 まるで死を覚悟した騎士が、その最期の未届け人を見つけ、やっとこれで死ねると言わんばかりの。 そんな姿にしか映らない。 私は首を思わず振る。 まさか、そんなはずはない。 今日はハレの日なのだ。 ファウスト・フォン・ポリドロという一人の男性騎士の全てが報われる日のはずなのだ。 今までアンハルトにおいて、その巨躯の容姿から異形の者として扱われ。 救国の英傑として武功を為したものの、それを顧みられず。 相談役として仕えるヴァリエール第二王女の、地方領主との初陣に巻き込まれ。 果ては領地の保護契約とは全く関係ない、ヴィレンドルフとの和平調停の交渉役に任命される。 およそアンハルト王国に忠誠の限りを尽くしてきた、ポリドロ卿の苦労全てが報われる日のはずなのだ。 リーゼンロッテ女王が与える、土地か血統か、或いはその両方かは知らぬが、授与されるであろうそれによって。 ファウスト・フォン・ポリドロという人物は二度と公に馬鹿にされる事はなく。 彼のポリドロ領で狂人と噂された、先代たる母君マリアンヌ殿が馬鹿にされる事もなく。 堂々と街中を歩き、名声と賞賛を浴びる。 その予定であり、そうでなければならないのだ。 そうでなければ、おかしいのだ。 「女王陛下、貴女の第二子たるヴァリエール、良き報告を持ちヴィレンドルフより帰還致しました」 ヴァリエール第二王女が、まず正使として言葉を発する。 その姿はミソッカスと言われた初陣前の姿とは違い、第二王女として堂々たる姿であった。 「すでに話はここにいる皆も知っていよう。だが良き報告は何度聞いても良いものだ、ヴァリエール。この法衣貴族、領主騎士が立ち並ぶ満座の席で成果を述べよ」 「は。ファウスト!」 この場は形式的な物である。 すでに、ヴィレンドルフとの和平交渉が成立した事は皆が知っている。 副使たるポリドロ卿が懐にしまっていたカタリナ女王からの親書を、リーゼンロッテ女王の前で跪いて差し出す。 「大儀である」 リーゼンロッテ女王は玉座から立ち上がって歩み寄り、その親書を受け取った。 そしてそれを開き、黙って読む。 中身を要約して、呟いた。 「二年後、我が腹にファウスト・フォン・ポリドロの子を宿す。それを条件として、10年の和平交渉を我が国は受け入れよう。ヴィレンドルフ女王、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ」 改めて条件を聞いても、不思議な内容だと思う。 私は和平交渉が結ばれたその背景には、神聖グステン帝国からの忠告があった事を知っている。 だが、それでも感情を知らぬ冷血女王と呼ばれたカタリナ女王が、ポリドロ卿の子種を欲するとは。 それを和平交渉の条件とするとは。 おそらく、ポリドロ卿の熱に絆されたのであろうが。 ヴィレンドルフで何があったかは吟遊詩人の英傑詩にて、すでにアンハルトにも流れてきている。 人の情を解す、ポリドロ卿は本当に良い男だ。 だが。 くすくすと、笑い声がする。 女王が親書を読み上げる最中に、ポリドロ卿が貞操を売りはらった事を馬鹿にするような笑い声を発する愚か者達。 お前等は削除だ。 記録用紙の別紙である「いらない」の一覧に、今笑った女どもの名前を記述する。 「よくやってくれた。ヴァリエール、そしてポリドロ卿。これで我が国の平和は保たれ、軍力を北方の遊牧民族に集中できる」 リーゼンロッテ女王は二人の功績を労い、温かな言葉を送る。 だが、その目は欠片も笑ってはいない。 再び、ゾクリとしたものを感じた。 何だ。 何がこの場で、起ころうとしているのだ。 「ここで論功行賞に移りたい、というのが私の本音である。本音であるのだ」 長年女王を務め上げた、リーゼンロッテ女王の声が王の間に響いた。 その玉座からの声は、全ての貴族の耳に良く届いた。 「この場にいる貴族の多くはこう考えていよう。言わずとも判る。ファウスト・フォン・ポリドロの功績に対し、相応しい報酬を」 そうだ。 そう考えていて、それでよい。 女王陛下がそれを下して、終わりではないのか? 「だがしかし。一人だけ、それでは困ると言う人物がいるのだ。今日はその者の声に、しばし耳を傾けて欲しい」 ポリドロ卿への報酬に、不平を訴える愚か者が? それの吊し上げを行い、今後の愚か者が出ないようにするつもりか? そんな事を。 後になっては愚かな事を考えたが。 「さて、皆も静まり返った」 今考えれば、リーゼンロッテ女王は、玉座からずっと『彼』を見ていた。 その視線を一人の人物に固定し、そこから外すような事は無かったのだと考える。 「そろそろ、お前の考える嘆願を行ってはどうだ」 この場には侍童はいない。 男など、たった一人しかいない。 リーゼンロッテ女王が見つめる『彼』はたった一人しかいない。 「御意」 ポリドロ卿が静かに、女王の言葉に答えを返した。 「この場に集まった、法衣貴族の皆さま、領主騎士の方々、どうかしばらくお時間を頂きたい。このファウスト・フォン・ポリドロの言葉に耳を貸していただきたい」 膝を折り、礼を正していたポリドロ卿が立ち上がり、その良く通る声で満座の席、この場にいる貴族の皆に語り掛ける。 「このファウスト・フォン・ポリドロが考える、シルクロードの東の果てに勃興した未だに名も知れぬ、遊牧騎馬民族国家の脅威について耳を貸していただきたい」 ポリドロ卿の声は王の間全域に響き渡り、優しげであった。 だが、同時に追い詰められた子供が訴えている様な感傷を味合わせ、その場に居る全員が耳を傾けざるをえないような声色であった。 第57話 嵐の始まり 静寂が王の間を包んだ。 満座の席、誰一人として口を開こうとしない。 玉座から少し離れた位置、ヴァリエール様の横に立ち尽くす私を中心に、静寂が包んでいた。 「まず始めに」 私は口を開く。 最初に、私からではなく王女の口から伝えなければならぬ事がある。 「リーゼンロッテ女王陛下。貴女の口から神聖グステン帝国からの報告、全てを語って頂きたく。この場全ての者が、事情を知るわけではないのでしょう」 「よかろう。道理である」 玉座に座ったまま。 その威厳を保ち、眼光を鋭く光らせながら周囲を見渡す。 静寂は続いている。 誰一人として、騒ぎ立てることは未だ無かった。 「この場にいる諸侯の中でも大領の領主騎士、そしてその寄子。加えて上級法衣貴族はすでに知っていよう。だが、小領の領主騎士、一般の法衣貴族には、まだ伝えていなかったことがある。まずはそれを詫びよう」 詫びる、とは言っているが口だけである。 その態度は王としての威厳に満ち溢れており、誰一人反発を許さぬ。 「全ては混乱を招かないためであったが。今告げよう。神聖グステン帝国からある報告があった。遠い遠い、本当に遠いシルクロードの東の果てにて起こった出来事の話だ」 静寂の中、リーゼンロッテ女王の透き通った言葉だけが皆の耳に響く。 「東方で一つの王朝が滅んだ。とても大きな王朝でな、神聖グステン帝国にも匹敵するほどの大きさだった。名をフェイロンと言う。滅ぼしたのは、なんと遊牧民。より詳細に言えば、遊牧国家というべきか。王朝の北方にある大草原にて遊牧民族共が纏まり、国家を為し、一つの国を滅ぼしたのだ」 ここで、少し女王が周囲に尋ねるような口調で呟いた。 「疑問に思うか? 遊牧民が纏まるなど有り得ぬと。食料に飢え、水にまで飢え、家畜の乳で喉を潤す遊牧民族は大草原にて延々と部族同士で殺し合いを続ける蛮族である。畑の収穫期になれば、我々の領民が必死に耕した畑を荒らし略奪に来るだけの、この世でもあの世でも地獄に落ちている蛮族だと」 言葉を連ねる。 「ヴィレンドルフを蛮族などと揶揄する事はあるが、遊牧民族こそが真の蛮族なのであろうと。文化など持たぬ故に纏まる事など有り得ぬと。だが現実には纏まった。そして一つの国が勃興した。おそらく兵数などフェイロンよりずっとずっと少なかったのであろう。だが、幼き頃より馬の背で育ち、人馬一体と化した騎射を当然の技のように行う騎兵が強いのは、騎士ならば誰にでも容易に理解できよう。現に我々は、北方の遊牧民族に手を焼かされているのだから」 辺りが少し、ざわめき始める。 整然としていない。 躾のなっていない、下級の法衣貴族達であろう。 リーゼンロッテ女王の眉が、少しばかり顰められたのが読み取れた。 「結論だ。東方で一つの王朝が滅んだ。遊牧騎馬民族国家に滅ぼされた。そして神聖グステン帝国は、そのシルクロードの東の果てにて起こった出来事にこう反応した。ヴィレンドルフとアンハルト、その両国で協調し、戦に備えよ、脅威に対抗できる防波堤を構築せよと」 ざわめきが大きくなる。 今度は小領の領主騎士達であった。 そのざわめきが起きたのは、躾が出来ていないからではない。 何故教えてくれなかったのか、その反発故。 「さて、私は最初に言ったな。私はわざと伝えなかった。全ては混乱を招かないためと。皆、冷静に考えよ。はたして未だ名も知らぬ遊牧騎馬民族国家は、この神聖グステン帝国の玄関口たるアンハルトやヴィレンドルフに。遠いシルクロードの東の果てからやってくるのだろうか、と」 ざわめきが、少し治まる。 すぐに理解し、納得したのではない。 皆、領主騎士は考えているのだ。 シルクロードの東の果てから、わざわざ遊牧騎馬民族国家がアンハルトまで攻め込んでくる理由を。 理由は。 「有り得ぬ」 一言で、リーゼンロッテ女王は斬り捨てた。 「まずは滅ぼした王朝、奪い取ったその地盤を固める。せっかく農耕ができる肥沃な土地が手に入ったのだ。豪雪、低温、強風、飼料枯渇、あらゆる艱難辛苦に遭い、食料に飢え、水にまで飢え、家畜の乳で喉を潤す遊牧民族。略奪でしか腹を満たせぬ者たち、その悲願がついに叶ったのだ。これからは飢えに怯えずに暮らしていくことが出来る。遊牧民族は支配層となり、神聖グステン帝国の領土にも匹敵する王朝の全てを手に入れた」 反論したい。 だが、それはまだだ。 私は全ての嘆願をこの場で行う代わりに、リーゼンロッテ女王の言葉も全て聞くと約束した。 「何も、支配層となった遊牧民が農耕を行う必要などない。租税を集め、支配した王朝の民衆を働かせて食っていけばよい。いつかは、神聖グステン帝国の危惧するように、侵略を始めるかもしれない。この領土に迫る日が来るのかもしれない。東の大公国を撃ち破り、アンハルトまで侵略してくることがあるかもしれない。それは否定しない。だが」 ざわめきが完全に静まり返り、静寂が戻る。 誰もがリーゼンロッテ女王の言葉に聞き入っていた。 そうだ、リーゼンロッテ女王は正論を言っているのだ。 農耕民族なら、土地を支配し、そこから租税を集め腹を満たす領主騎士ならば誰もが納得する正論を。 だが。 いや、まだ反論すべき時は訪れていない。 リーゼンロッテ女王の言葉が引き続き、水がシーツに染み渡るように広がっていく。 「どう考えても遊牧騎馬民族国家が、奪った領地の地盤を固め終わってからの話になるだろう。それはいつだ。我らの子の時代の話か? いや、それでも早い。孫の時代ではないのか? いやいや、もっと先かもしれぬ。準備は大事だ。少数ですら我らの手を焼かす遊牧民族が、数万の兵を為して襲い掛かってくるのだ。強敵である。まさにヴィレンドルフと連携しての国家総力戦と化した大戦となるであろう。それは理解できる。今からでも孫達のためを考えれば準備を少しづつ進めておかねばならんな。神聖グステン帝国の危惧は正しい」 神聖グステン帝国の危惧は批判しない。 その戦の規模が、大変に大きな物となるのもリーゼンロッテ女王は認識している。 だが、違うのだ。 奴等は、遊牧騎馬民族国家は、もうすぐ傍まで来ているのだ。 だが、まだ反論は許されぬ。 タイミングはまだだ。 「だがな。先の話。本当に先の話になるのだ。私は考慮した後、こう判断した。我が国家が優先すべきは、ヴィレンドルフとの和平調停と、北方から略奪にやってくる遊牧民族の族滅であると。このアンハルトを、国家を支える皆に伝えるのはその後でも良いと。一度詫びたが、もう一度詫びておこう。皆、すまなかったな」 反論はない。 ざわめきは起きない。 リーゼンロッテ女王の言を、皆が納得したのだ。 「異論、反論があれば遠慮なく言うがよい。今、この場でならば下位の貴族でも発言権を与える」 さて、とリーゼンロッテ女王が言葉を置いて。 少しばかり待ったうえで、リーゼンロッテ女王が視線を周囲に巡らし、完全に静寂に満ちているのを認識した上で。 「無いか。では、話を戻そう。ファウスト・フォン・ポリドロ。お前の嘆願を聞こう」 いよいよ、私の出番となる。 私は約束通り「リーゼンロッテ女王が発言する権利」を守ったぞ。 今度は約束通り、「ファウスト・フォン・ポリドロが発言する権利」を守ってもらう。 さて、如何すべきか。 必死に選んだ第一言は、単純なる予測。 前世の知識から成立する、ただ一つの絶望的な脅威。 世に従へば、見苦し。従はねば、狂せりに似たり。 さあ、貴族のルールを破棄して狂おうか、ファウスト・フォン・ポリドロよ。 「トクトア・カン。私が知る遊牧騎馬民族国家の女王による侵略は、7年以内にアンハルトに到達するでしょう」 リーゼンロッテ女王は口を開かぬ。 その代わりに、周囲から僅かなざわめきが起こった。 「ヴィレンドルフの東にある大公国など、何も障害にもなりませぬ。子供から老人に至るまで、ことごとく虐殺されるでしょう。遊牧騎馬民族国家は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲います。造り上げた農園も灌漑も破壊されます。それを育てる領民も全ては軍馬に踏み殺され、血と肉の塊となっていずれ大地に消えるでしょう」 ざわめきが大きくなる。 私の声色は、意図して優し気なまま。 ただただ、予想する事実を連ねる。 「いえ、東の大公国は賢いので力量差を悟って、滅ぶよりも早く降伏するかもしれませんね。あの国は宗教が多様です。我々、神聖グステン帝国のように一神教が強く信じられているわけではありませぬ。教皇による徹底抗戦の命には従わぬでしょう。その場合、素通りどころか東の大公国も兵としてやってくるかもしれませぬ」 ざわめきがますます大きくなる。 その殆どは、リーゼンロッテ女王の予想へ真っ向から反発する私への戸惑いであるが。 やや罵倒が混じる。 やはりポリドロ領は先代と同じく、気が狂っている。 そんな侮蔑。 無視をする。 が、そのお言葉に対して、顔だけは見せてやろう。 私は背後を向き、リーゼンロッテ女王に尻を見せながら、この満座の席にて現実を呟いてやる。 「ハッキリ申し上げましょう。トクトア・カンの軍勢に対し、我がアンハルトの貴族は無能で脆弱極まりない。誠にもって屑揃いだ」 挑発という名の現実の弾丸。 それをブチこむ。 ざわめきが色づいた。 「王家の正規軍は北方の遊牧民族を抑えつけるのに手一杯」 私はまるでモノトーンのようにも感じられた背景色が、一気に総天然色に切り替わるのを確かに感じた。 「ヴィレンドルフ戦役では、なんとか私の突貫によりマグレ勝ちしたが。あの時の事は今も忘れていない」 赤い絨毯は赤く見える。 「情報戦で見事にヴィレンドルフに負けており、レッケンベル騎士団長による1000の精鋭による進軍を察知する事が出来ず。500の公爵軍と30の第一王女親衛隊が到着するまで砦にこもっている間、私は諜報の無能さを呪ったものだ」 大窓から差し込む光は美しく私の姿を照らしつけ、絨毯の上に黒い影を伸ばしている。 「この国は何もかもがズタボロでバラバラだ。軍権も統一されていない封建領主が組んだ軍勢など、トクトア・カンの人と弓と馬で武装された塊に、容易く押しつぶされてしまう」 実に当たり前の事だ。 私は当たり前の事を口にしている。 「死ぬのだ。皆死ぬ。子供から老人まで皆虐殺される。貴族も平民も分け隔てなく。その死体は棺桶に収められる事も無く遺骸は晒され、見せしめのように滅んだアンハルト王都の壁に磔にされる」 やがて、私はざわめきが静まり返っている事に気づいた。 ああ、呑み込めたか。 少なくとも、私はこの発言の全てを来るべき現実として語っている。 伊達や酔狂で語っているわけではないのだ。 あえて言うであれば。 「何よりも間違っているのは貴女です。リーゼンロッテ女王陛下」 狂っている。 皆、そう呼ぶべきだ。 私は尻を向けていたリーゼンロッテ女王に向き直り、言葉を続ける。 「我らの子の時代の話か? いや、それでも早い。孫の時代ではないのか?」 オウム返し。 リーゼンロッテ女王の喋った言葉をオウム返しのように、口走る。 「私は先ほど言った。ハッキリと言った。7年以内にアンハルトに到達するでしょう、と。それを誰も信じぬならば。誰もが信じられぬならば」 一呼吸、息を吸う。 挑発した。 満座の席で全ての貴族を侮蔑し、挑発してやった。 私はやってのけたぞ。 スタートラインは切った。 後は少しばかりの勇気が必要。 だが、リーゼンロッテ女王の御言葉を寄りにもよってオウム返しにしたのだ。 すでに、これだけで王家を侮辱した、と判断した貴族は少なくないだろう。 いや、未だいつもの鉄面皮を保っているリーゼンロッテ女王も内心では怒り狂っているかもしれない。 だが、悔恨は無い。 そんな余裕はない。 この謁見での嘆願は終わりではなく、この言葉をもってようやく始まりとするのだ。 二呼吸目の息を吸う。 私は武人として与えられた通りの良い声を以ってして、全貴族の耳に響けとばかりに発言した。 「この国は先ほどおっしゃられた貴女の判断にて、只今をもって王国の破滅が確定。アンハルトはお終いであります。リーゼンロッテ女王陛下」 私は立ったまま、深々と礼をする。 騎士としての礼ではない。 執事がお嬢様を出迎える様な、胸元に手を置いての深々としたお辞儀であった。 ファウスト・フォン・ポリドロはこの満座の席において、誰の目にも明らかに暴走していた。 そしてそれはまだ、狂気的な討論の始まりに過ぎなかった。 第58話 狂気と冷静の狭間で 美辞麗句など必要ない。 要するに、完全にファウスト・フォン・ポリドロは王家と貴族の面々に喧嘩を売っていた。 それはもう先ほどファウストの事を侮蔑した、アホの下級法衣貴族にすらハッキリと判るぐらいに。 「ファウスト・フォン・ポリドロよ」 「はっ」 狂気と冷静の狭間を感じさせる目。 何を考えているのか判らぬ。 玉座に座る女王たる私は、ファウストが何を考えているのか完全に判らなくなっていた。 憤怒の騎士と呼ばれるファウストとて、今まで礼節ばかりは弁えぬ事は無かった。 だが、この男は今、完全に王家にも貴族にも喧嘩を売っている。 考えろ、リーゼンロッテ。 何をファウストは狙っている? 私の激怒をわざと買おうと? いや、単純に、ファウスト自身が静かに怒り狂っているのか。 「冗談が過ぎる。いくらお前がヴィレンドルフ戦役の英傑にしてもだ。許される事と許されない事があるのだ」 「ええ、私にも同様に許せぬ事があるのですよ。このポリドロ、必要とあらば常に戦の先陣を切り、どんな敵とも戦いましょう。事実、これまでもそうしてきました。ただ、上役の無能で死ぬのだけは御免だと言っているのです」 無能。 貴族の全員が私への直接的な侮辱に、一斉に顔を引きつらせるのが玉座から見える。 判らん。 ファウスト・フォン・ポリドロが何を狙っているのか判らない。 だが。 「アスターテ公爵、それにアナスタシア。ポリドロ卿は気分が優れぬ様だ。ポリドロ卿への論功行賞については日を改めることにしよう」 今すぐファウストを止めろのサインを、二人に出す。 今ならギリギリ間に合う。 私人としては、ファウストを殺すなどありえぬ事だし、今までのファウストの功績に対するアンハルトの扱いでの不満が積もり積もって怒り狂うのも無理はない。 許そう。 そして公人としては、この満座の席において女王たる私への無礼は許す事が出来ぬ立場である。 だが、ヴィレンドルフとの和平交渉の鍵は、全てこのファウスト・フォン・ポリドロが握っているのだ。 ファウストを処罰でもした場合はヴィレンドルフが、いやカタリナ女王が協定違反であるとアンハルトを全力で攻め滅ぼしに来るであろう。 公人としても、ファウストを処罰する事など出来はしなかった。 「最後まで話を聞く、それが貴女と私の約束でした」 ポツリ、とファウストが虚しさを覚えたように呟く。 その一言だけで、ファウストに近づこうとしていたアスターテとアナスタシアが動きを止めた。 事実である。 私はファウストと、お互いの言葉を最後まで聞くと約束した。 だが、お前の言葉はもはや嘆願とは言えぬではないか。 しかし。 「リーゼンロッテ女王、最後までファウスト・フォン・ポリドロの言葉をお聞きください」 「ポリドロ卿、次に一言でも侮辱発言を行えば、すぐに王城から叩き出す。それだけは止めよ」 アスターテとアナスタシア。 二人は、約束を遵守させるつもりのようだ。 当初の計画、ファウストに全てを喋らせたうえで宥める。 未だにその計画を続行するつもりのようである。 「よかろう」 きっと、長い論戦となる。 ファウストがここまで冷静に、かつ狂気じみた暴言を何故行うか、その真意もこの場で見切って見せよう。 アンハルト王国女王、選帝侯たるリーゼンロッテを甘く見るなよ。 「話を続けよ、ポリドロ卿。そして私からも尋ねよう。何故、遊牧騎馬民族は7年以内にアンハルトまで到達すると考えた」 「遊牧民は統治をしないからであります」 「何?」 単純明確な暴論であった。 「遊牧民は略奪し、虐殺し、強姦し、破壊した。王族を一人残さず皆殺しにした。その後は? そのまま滅ぼした国の文官を全て雇い入れるのです。今までと同じ待遇か、それを上回る厚遇で。そしてその中には、パールサ人や異教徒の文官も含まれるでしょう。異国の商人が財務官僚として手腕をふるうでしょう。いえ、そもそも遊牧民族国家とは、異国の商人からの多大な支援を受けて勃興した国なのです」 「お前が何を言っているのか理解しかねる」 「逆にお尋ねします。リーゼンロッテ女王陛下。遊牧民に統治が出来るとでも思っているのですか? 地盤を固めるなど出来ると思っているのですか? 支配層として見事に国を治められると思っておいでなのでしょうか? その適性や素地がある者など遊牧民に何人おりましょうか。遊牧民はその生き方を変えませぬ」 考える。 だが、結論は出ない。 遊牧民の知識が足らぬ。 彼女達の文化など、リーゼンロッテ女王が知るわけもなかった。 それを当然知っているかのように口から吐き出すファウストが、むしろ異常であった。 「貴女は文化とは何と考えますか、リーゼンロッテ女王陛下」 矢継ぎ早に出される質問。 私は回答に苦慮する。 その間に、ファウストが言葉を続ける。 「私は、我々畑を耕す者。農耕民族と呼びましょう。それらにとっては、究極的には腹を満たす物と考えます。そして、その腹を満たすという点においてのみは蛮族たる遊牧民も同じです。ただ一つの違いは」 一呼吸置く。 「食料に飢え、水にまで飢え、家畜の乳で喉を潤す遊牧民族の文化とはただ一つ。農耕民族から略奪し、それで腹を満たす。それだけなのです。文字すら持たぬ民族に、規律と掟に従って集団を形成する国家には、農耕民族の都市を統治などできない。奴らはフェイロンの王都を奪ってなお、都市にすら住まないでしょう」 「しかし、ポリドロ卿よ」 私は疑問を呈する。 「だが遊牧民達はフェイロンを征服した」 「ええ、確かに」 「それで終わりではないか。お前の言い分は理解できる。だが私の結論は曲がらぬ。例え統治を被征服民に任せようとも、支配者は遊牧民である。被征服民からの租税で食っていける」 そうだ。 それで終わりではないのか。 その疑問に対し、ファウストはやはり明確に答えた。 「満足せぬのです」 「何?」 「足りない、という理由で奪うのは実に簡単な理屈です。誰にでも理解できます。ですが、足りているからこそ侵略・拡大に動く事もあると言う事です。リーゼンロッテ女王陛下。ヴィレンドルフが満ち足り、我々アンハルトを侵略して領土拡大を目論んだように」 レッケンベル騎士団長の活躍により、ヴィレンドルフ北方の遊牧民族は族滅に追いやられた。 そして余った戦力で、アンハルトに攻め込んで来た。 ふむ。 反論せよ、リーゼンロッテ。 「敵対感情というものを理解しているか。ポリドロ卿。例えばヴィレンドルフとアンハルトには、同じ神聖グステン帝国の選帝侯でありながら両者を憎み合う敵対感情というものがある。我々と遊牧民族国家には今それが無い」 「ありませんね」 素直に、ファウストが頷く。 「十字軍のような宗教的軋轢はない。遊牧民族国家は我らの宗教すら容易く受け入れるでしょう。その文化も否定しないでしょう。その価値観の相違によって争い合う理由はありません」 遊牧民族国家について、知ったような口を利く。 ファウストはヴィレンドルフで、遊牧民族国家に対する何らかの知見を得たという事か。 その情報源がよく判らん。 「しかし、同時に遊牧民族国家が戦争を躊躇する理由も欠片とて無いのです。闘えば必ず遊牧民族国家が勝つ。なれば侵略をする事に何ら躊躇いは無いでしょう」 「ポリドロ卿よ。これが近距離ならお前の意見は判るのだ。だが」 遠い遠い。 とても遠い。 隣国のヴィレンドルフどころではなく本当に遠い、シルクロードの東の果て。 「いくら遊牧民族国家とはいえ、この遠国まで攻めてくる理由はどこにも無い。よいか、戦争とは他の手段をもってする政治の継続にほかならんと私は考える。戦争とは生命の危険を伴う特異行為であるのだ。ゆえに、戦争は真面目な行為の真面目な手段であるべきだと私は考える。それが最低限のルールではないか」 「リーゼンロッテ女王陛下」 「私の個人的な主観となるが。遊牧民はそれほどまでに戦争が好きなのだろうか。気晴らしの遊戯のように虐殺、略奪を好んで、遥々シルクロードの東から西征を行うものであろうか。フェイロンを支配したならば、そこで止まるのが支配者であろう。そして地盤を固めるのが支配者の最初にやるべきことだ。お前の意見には一部の理を含んでいる。だが、やはり私には理解しえぬ」 つい、自分の主観を話してしまったが。 やはり戦争とは生命の危険を伴う特異行為である。 異常な状態であり、騎士や兵士のための名誉や狂熱の所産ではない。 そこに騎士道や浪漫など本来はないのだ。 それらは全て、戦争において敵を殺す兵にとっての『大義名分』を得るための諸特徴でしかない。 兵士の精神と行動を、戦争という危険に走らせるための、勇気を得るための精神的理由付けでしかないのだ。 戦争は、軍事階級たちのゲームではない。 決して騎士の前では口に出せないが、な。 「そこまで理解しておられるなら話は早い。私は『戦争論』をどこまでリーゼンロッテ女王陛下が理解しておられるか、正直疑問に思っておりました。心から謝罪と敬意を」 ファウストが微笑む。 その声は心底から私に敬意を持っているようであり、先ほどまで私を侮蔑した際の様子とは打って変わっていた。 だが、その一瞬みせた敬意はすぐに表情から消え去り、また狂気と冷静の狭間を感じさせる目に戻る。 「つまりリーゼンロッテ女王陛下。いみじくも貴女の言葉をお借りするなら、遊牧民族国家とは気晴らしの遊戯のように虐殺、略奪を好んで、そのために遥々シルクロードの東から西征を行う異常者達なのです」 言につまる。 狂気と冷静の狭間を感じさせる目。 ヴィレンドルフ戦役において、アナスタシアの本陣にレッケンベル騎士団長の放った精鋭が襲い掛かり、軍事的混乱を招いた初戦。 その場において、ファウストはヴィレンドルフによる包囲を止めるために、領民僅か20名ばかりを率いてレッケンベル騎士団長の騎士団50名に襲い掛かった。 「どうか、再考を。なにとぞ、もう一度このファウスト・フォン・ポリドロの言葉を聞き、再考をお願いしたいのです」 ファウストの、血で喉をゆすいでいるかのような声色の嘆願が、王の間に響く。 軍事的天才とはとどのつまり、何ぞや。 それはアナスタシアやアスターテにも通じるところがあるが、最終的には決断力のある人物こそが軍事的天才たる資質を備えた人物であると、私は考える。 それこそ、失敗すれば一生批難をされ、汚辱にまみれた日々を一生過ごさなければならない。 その恐怖心と羞恥心を捨て、決断する覚悟が必要なのだ。 蛮勇ではない。 ファウストの今行っている行動は暴挙でも、蛮勇でもない。 理解しろ、リーゼンロッテ。 今、ファウスト・フォン・ポリドロは、ヴィレンドルフ戦役において見せた決断力、軍事的才能の全てを以てして、私に嘆願しているのだ。 「すまんな、ポリドロ卿」 私は愚かだ。 お前が私の言葉に酷く反発したように、確かに私は愚かだった。 お前の心情など、何ひとつ真剣に理解しようとしていなかった。 ようやく今頃になって、お前が理解できた。 私が今述べた謝罪の言葉の意味を、この満座の席にいる何人が理解できたものやら。 それは怪しいところだが、今は二人の会話である。 たった二人の討論を、ファウストは挑んでいる。 ファウスト・フォン・ポリドロ、ただ一人に私の意は伝わればよい。 「話の続きをしよう。ファウスト」 「はい、リーゼンロッテ女王陛下。私は先ほど、遥々シルクロードの東から西征を行う異常者達と遊牧民族国家を呼びました。それは否定しませぬが」 一呼吸。 ファウストが息を吸う。 そして大きくため息を吐いた。 騒がしい。 あまりにも貴族共のざわめきが、騒がしいのだ。 「静まれ!!」 怒号。 ファウストには見せない激怒を以てして、満座の席の貴族共を怒鳴りつける。 ざわめきは、静寂へと変わった。 「続けよ、ファウスト」 「はい。リーゼンロッテ女王陛下」 ファウストが、コホンと咳を鳴らす。 そして言葉を続けた。 「遊牧民族国家の軍事的目標は確かにあります。それは略奪し、殺し、強姦し、破壊する。それもあるのやもしれませぬ。だが、他にも目標はあります」 「それは何か」 「国家の征服と交易圏の拡大です」 妙な事をファウストは口にする。 「交易? 遊牧民が交易を、いや、愚かな事を聞いた。そもそもシルクロードは遊牧民の通り道であったな」 「その通りであります。リーゼンロッテ女王陛下。遊牧民は本来交易を行ってしかるべき民族であります。北方の遊牧民族も、その人口が過密する以前は毛皮等を我らと交易した事もあったでしょう。もしトクトア・カンが東西を貫くシルクロードの交易を、その交易圏を手中に収める夢を見たものとするのであれば。その生涯が完結するまでにそれを成し遂げる夢を見たのであるならば。いや、そもそもトクトア・カンが異国の商人から支援を受けた最終目標がそれであるならば」 コホン、と少し枯れた声。 ファウストは先ほどから、王の間の全員に語り掛ける様な声量で、話を続けている。 喉が少し乾いたのかな。 従士を呼びつけ、茶の一杯でも差し出してやりたくなる。 「シルクロードの交易路にある都市全てを手中に治める野望を抱いてもおかしくはない。つまり、遊牧民族国家がただの7年でアンハルトに到達する。私はそう考えるのです」 ふう、と言葉尻に息をついた。 ファウストは少しばかり疲れた様だ。 言葉が一度収まった、その間に思考する。 論理は破綻していない。 ファウスト・フォン・ポリドロの論理は一応、ギリギリのラインではあるが破綻していない。 何故アンハルト到達まで7年と読んだか、それはファウストの導き出した到達期限のラインであると解釈する。 ファウストの言は聞くに値すると判断した。 討論を続けよう。 「誰か! ファウストに茶を一杯差し出してやれ」 私は声を張り上げ、女王親衛隊の一人がすぐに動いたのに頷き、それに満足した。 第59話 弾丸の装填 まずはこれでよい。 最初の杭打ちは終わった。 女王を罵倒し、貴族全員を侮辱し、それでいて退席させられる事もなく。 私はこの満座の席で、討論者として闘っている。 ここは戦場である。 私は甲冑姿のままここに領主騎士として立ち、闘っているのだ。 ならば私が負ける事など有りはしない。 だが私の脳裏に描かれたイメージボード、その到達目標にはまだ遠い。 「ポリドロ卿。お茶が入りました」 女王親衛隊、名も知らぬ彼女がカップに入ったお茶を差し出す。 礼は言わない。 あえて口には出さない。 私は臆病ではないが、満座の席で決意を自由自在に変化出来る程の強心臓でもなかった。 死は決して怖くない。 もっとも恐ろしいのは、我がポリドロ領が女王への罵倒によって剥奪される事であった。 だが、リーゼンロッテ女王は、私がヴィレンドルフとの和平交渉の橋渡しになっている事により、私を処罰できぬ。 そうだ、まずはこれでよい。 最初の問題、リーゼンロッテ女王との討論はクリアした。 女王は私の発言に一定の理解を示した。 だが、ここからはさらに泥沼となる。 私の発言により、悪魔が私の足にしがみつき、引きずり落とそうとする事態に陥るかもしれない。 それでも。 これから為す発言は全て、必要な事であるのだ。 差し出された茶を飲み干す。 カップを、女王親衛隊に返却した。 それと同時に、女王陛下に申し上げる。 「さて、リーゼンロッテ女王陛下との会話はここで一度中断させて頂きたく」 「何?」 「法衣貴族の方にもお聞きしたいことがありましてね」 枯れかけた喉は潤った。 私は再びリーゼンロッテ女王に尻を向け、満座の席の貴族共に振り返る。 「ヴェスパーマン家の方には、前に出て頂きたい」 ヴェスパーマン家。 ザビーネ嬢からヴィレンドルフから帰る道すがら、身の上話を聞いた。 かつて自分は、秘密工作を生業とする貴族達の代表の家に長女として生まれついたと。 そして家から「お前には向かん」と家から放逐され、第二王女親衛隊に配属されたと。 賢明な判断であると私は思う。 さて、小柄でありスレンダーな、まだ未成熟と言っていい16歳の少女が赤い絨毯の前に歩み出た。 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマンであります! 私に何か!!」 マリーナのハキハキとした声が、王の間を包む。 そのハッキリした声は軍人向けであり、私に好感を持たせるには十分であった。 これから口にする言葉は、全く逆だがね。 「ヴェスパーマン家は外交官ではあるが、諜報も生業にされていると聞く。さて、そんなヴェスパーマン卿にお聞きしたい。現状アンハルトは、何かトクトア・カンについて情報を掴んでいるかね」 「――いえ、何も。その名も先日初めて知ったばかりであります」 正直だ。 実に扱いやすい。 「本当に? 本当に何も? ヴィレンドルフでは遊牧民族国家の王、トクトア・カンの名前どころか、フェイロンにおける戦場の様子すら把握していたのに? 何も知らないと?」 閉口する。 あっさりとヴェスパーマン卿は黙り込む。 「ヴィレンドルフにおいては、超人を始めとする東洋でいう武将、フェイロンにおける軍事階級の人間がシルクロードから数名流れ込んでいた。それも知らない?」 「はっ。残念ながら」 閉口ではすまされない。 そして、残念ながらではすまされないのだ。 ああ、少しばかり心が痛むが。 「つまり、アンハルト王国における諜報統括を担っているヴェスパーマン卿が、たかがヴィレンドルフに行って帰って来ただけの私より何も知らないのが現状というわけか」 「何が仰りたいのです」 「我が国の諜報は無能だと言いたいのだ。ヴィレンドルフ戦役において、敵の侵攻を読み取れなかった頃から何も変わっていない」 ハッキリ言った。 マリーナ・フォン・ヴェスパーマンが呆気にとられた顔をする。 まさかハッキリ言われるとは思ってもみなかったようだ。 「もう下がってくださって結構」 「お待ちください! 弁明を!!」 「次、王家正騎士団! もちろん今は北方の遊牧民族相手に張り付いている事は知っている。だが一人くらいは北方から代表が来ておられるだろう!!」 ヴェスパーマン卿を睨みつけ、視線だけで黙らせる。 身長2m、体重130kgの巨躯、それも戦争の最前線を潜り抜けて来た超人たる領主騎士の視線である。 小柄な16歳の少女を黙らせ、遠ざけるぐらいわけはなかった。 「王家正騎士団。どうした、出ないならばこの場で卿らの無能を嘲笑する事になるが!!」 「我々は務めを果たしている!!」 長身の女性が、たまりかねる様にして前に出た。 身体から戦場の匂いが感じ取れる。 武官として成熟された匂いであった。 しかし、汝の罪を問う。 「卿の言う務めとは、この十数年もの間、北方の遊牧民族相手にのんびり立ち回っている事か。日向ぼっこでもしているのか貴卿らは」 「ポリドロ卿、反論させてもらおう!! 遊牧民は先ほど女王陛下が仰られた通り、人馬一体と化した騎射を当然のように行う。軽騎兵ゆえに逃げ足も速い。容易に根絶できるものでは」 「私ならば一年だ」 場の空気が、停止したようにも思えた。 ざわめきも何もない。 ただの衆愚のようにして口を間抜けのように開き、全員がただ一人王の間に立っている男を見つめていた。 「一年といったか」 「そうだ」 「ヴィレンドルフの英傑、クラウディア・フォン・レッケンベルは数年かけて遊牧民族を族滅させた。それを知らない愚か者ではなかろう」 そう、あのレッケンベル騎士団長ですら数年がかりであった。 だが。 「私ならば一年だ。このファウスト・フォン・ポリドロならば一年で北方の遊牧民族を片付けて見せよう」 大言壮語を吐く。 でなければ、この場は乗り切れない。 「但し、君らが私の考える指揮系統に心の底から従うという条件付きではあるがね」 「……上等だ! 一年でカタが付くというのなら従ってやろう」 長身の武官が顔を真っ赤に染めながら、怒り声で答えた。 「言質はとったぞ。正騎士団の代表としての言葉だ。違えるなよ」 「むっ」 そもそも、数年がかりで北方の遊牧民族に手を煩わせている余裕など無いのだ。 本当に一年で片づけねばならぬ。 より厳密には、同時に参戦する諸侯の軍役期間である短い間の内に。 何せやる事は沢山残っているのだから。 「ああ、そうそう。領主の方々。北方の遊牧民族相手に軍役を要求されている方は手を上げて頂きたく」 沈黙。 それを少し置いて、諸侯含めた地方領主の数十人が手を上げる。 「今話したように、来年は私も軍役に参加する事になる。その参戦を望まれる事は確定的である。まあヴィレンドルフとの和平交渉が終わった今、その展開は今手を上げてくださった全員に読めていたであろうが」 一呼吸置く。 「この延々と続く、北方の遊牧民族相手の無駄な追いかけっこを一年で終わらせたければ、私の意見に従って頂きたい」 「申し上げる」 地方領主の一人が、代表するように発言した。 さすがにアスターテ公爵領ほどではないが、万を超える領民数を誇る諸侯の一人である。 「私に従って頂きたいと言ったな。それはどういう意味を持つ? 単に総指揮官として奉じろという意味ではあるまい」 「命令の上意下達を徹底させて欲しいだけです。次の大いなる戦争のために」 「貴卿はアンハルトの英傑である。武力でも外交面でもそれは示した。だが、たかだか領民300名の弱小領主に従うほど、我々は落ちぶれてはおらん」 反対の声。 まあそうなるだろうさ。 私は尻を向けていたリーゼンロッテ女王陛下に振り返り、尋ねることになる。 「リーゼンロッテ女王陛下。今更尋ねるのも可笑しい話ではありますが、私の来年の軍役は何でありましょうか?」 「問うまでもない。今お前が話した通り、北方の遊牧民族相手に出張ってもらう事になる」 「では、来年はアスターテ公爵に全ての軍権を握らせて頂けるよう望みます」 リーゼンロッテ女王は、顎を一擦りした後。 私の瞳をまっすぐ見据えながら、こう答えた。 「お前ではなく? お前は先ほど、北方の遊牧民族相手の族滅を一年で終わらせる術があると言ったが」 「術はございますが、私に将としての才覚はございません。私にあるのはただ一つの武という一文字でございます」 「先ほどの遊牧民族国家への知見を鑑みるに、私にはそう思えんが」 リーゼンロッテ女王は、顎から手を離し。 アスターテ公爵の方へと向き、呟いた。 「アスターテ公爵、まあ元々予定していたわけではあるが。ファウストの言葉をどう思う?」 「ヴィレンドルフの重しが無くなった今、来年は公爵軍も遊兵とはせず北方に参戦できるでしょう。兵が増える分には私は構いませぬ」 アスターテ公爵はニコリと私に向かって微笑みながら、頷いた。 リーゼンロッテ女王はコクリと頷き、私に向かって指を差しながら呟く。 「王家正騎士団、それに準ずる正規兵に関してはそうしよう。アスターテ公爵に指揮権を委ねる。だが、諸侯の軍権だけは私の許可するところではない。直接許可をもらえ」 「そうしましょう。それでは会話の続きを」 私はあっさりと頷き、また地方領主達に話しかける。 覇気を以て。 堂々とした態度で。 「我らはあくまで領地の保護契約、双務的契約によって王家に従う者である。そして、軍権は死んでも手放せるものではない。それは承知している」 返事無し。 全ての諸侯、地方領主達は、私の言葉に続きがある事を分かっている。 良い流れだ。 「私とて同じである。領民僅か300名の地方領主なれど、領地では主である。あえて言おう。どれだけちっぽけでも君主たりえ、一人の王であるのだ。領主騎士とはそういう生き物であると私は母に教わった」 ざわめきが強くなる。 リーゼンロッテ女王の目の前で、まるで君主がごとき発言。 これも満座の席では失点対象であるか。 だがどうでもいい。 どうせ、全ては最後の勢いで破綻させてしまう。 私のこの場での罪も。 私の未来も。 「領主が居て、民が居て、領主は兵権を持ち、それが故に領主たりえている」 歩み寄る。 一歩一歩、顔を除いた甲冑姿。 フリューテッドアーマー、前世では最後の騎士鎧と呼ばれたその姿で歩み寄る。 「軍権だけは譲れない。絶対に手放せない。何故自分の財産たる領民を人の手に委ね、その手に運命を任せねばならぬのか。貴女方の理屈は地方領主たる『私そのもの』が何より理解していると考えて頂きたい。その上で貴女方に問うが」 一歩一歩、歩み寄る。 そうしてやっと、諸侯、地方領主の立ち並ぶ集団まで辿り着き。 法衣貴族が、私の覇気に怯えて少しずつ身を離した中で、頑として一歩も引かぬ。 腕組みさえした、アスターテ公爵の次である侯爵、辺境伯と言ったそれらが待ち構える中に辿り着いた。 良い。 非常に良い。 「単刀直入に聞こう。貴女方は、自分たちの領地を守る気があるのか?」 「無論」 侯爵が短く答えた。 やや歳老いている。 アンハルトの若い家督相続を考えれば、少し目立つ。 後継に恵まれなかったらしい。 もはや子には期待しておらず、孫に期待しているとか。 だが、それゆえに賢い。 「ならば、私の意見を聞いて頂きたい。ファウスト・フォン・ポリドロの意見を聞いて頂きたい」 静かに、静かに喋る。 出来るだけ覇気を保ち、威圧を与え、それでいて諸侯には注意を払わねばならぬ。 法衣貴族など何を恐れるものか。 だが、領主騎士だけは恐れねばならぬ。 「トクトア・カン相手の敗戦は領地の滅亡である。それを理解してもらわねばならぬ」 「聞こうではないか」 慎重に。 私は言葉を頭の中で選びながら、呟いた。 人はささいな侮辱には仕返ししようとするが、大いなる侮辱にたいしては報復しえない。 したがって、人に危害を加えるときは復讐のおそれがないようにやらなければならない。 相手に攻撃を仕掛けるならば、徹底的にやるべきなのだ。 相手が反撃すらできないように。 『君主論』のそれを頭でなぞりながら、慎重に言葉を選ぶ。 「7年以内に、貴女の領地は滅ぶ。是とするか、否とするか」 「否である」 愉快そうに侯爵が答えた。 「ならば貴女はアスターテ公爵に、アナスタシア第一王女に、軍権を委ねるべきなのだ」 「それもまた否である。先ほど、ポリドロ卿も言った。軍権だけは手放せぬ。それらは領主として全ての力の源なのだ」 「そんな事は、その言葉の通りに百も承知。だが」 握り拳。 指の一つにまで魔術刻印が刻まれた、手甲に手が覆われている。 私はそれで握り拳を作りながら訴えるのだ。 「これより7年後、襲い来るトクトア・カンを相手に軍権を纏められなければ、我が王国アンハルトは確実に滅ぶのだ」 私は息を大きく吸い込んだ。 演説の準備である。 相手に反撃の余地も与えぬ、一気呵成の大演説を行わねばならぬ。 私はその準備を静かに整えた。 さあ、ファウスト・フォン・ポリドロ一世一代の賭けの、最終局面である。 弾丸の装填は済んだ。 後は一撃をくれてやるだけだ。 私は吸い込んだ息を吐きだした後、演説を開始した。 第60話 弾丸は撃ち放たれた 私は記録係として記す。 ファウスト・フォン・ポリドロが叫ぶ、その演説の一幕の全てを。 卿が言ったように一言一句残さず、せめて後人の役に立てるように。 正直に言おう。 私はポリドロ卿の言うように、7年以内に遊牧民族国家が攻めてくるとは思えない。 リーゼンロッテ女王陛下の最初の言が、全てであると思うのだ。 だが。 ポリドロ卿はそう考えてはいない。 「注目! 開眼し、刮目せよ!!」 王の間、丁度中央まで歩き。 領民僅か300名の領主の立場でありながら、領民数が万を超える侯爵、辺境伯といった相手目掛けて声を張り上げた。 一度として瞬きを許さぬと言わんばかりに。 「私は何も神母のように姉妹愛を説きたいわけではない。手を取り合って仲良くしようねなどと、おためごかしを言うつもりもない。アンハルト王国への忠誠の証として、軍権を差し出せと言うつもりもない。来るべき脅威に備えて、国家と運命を共有するべき時が来たと言っているのだ」 教会における神母のように、落ち着いた口調にて。 自分の予測が当然の如く訪れるとばかり、静かに演説を始めていた。 「負ける。このままでは確実に勝機は欠片も無い。諜報が役に立たず、誰もその存在を知らぬと言うなら私が説明しよう。想像してみればいい。今でさえ北方の領民を苦しめている、人と弓と馬で武装された軽騎兵の集団が、数万の数を為して押し寄せてくる戦場を。その万軍が超人的な指揮官を持ち、一人や二人の指揮官が倒れても、すぐに次席指揮官が指揮をとるシステムから獲り得る戦略を。ヴィレンドルフ戦役のような、敵指揮官を討ち取っての斬首戦術など通用しない。重騎兵の敵指揮官への突撃による、マグレ勝ちなど起こりはしない。ああ、連中は当たり前の事だが一騎討ちなど受けはしないぞ。そんな文化、遊牧民には無い」 ここで、ポリドロ卿は一時沈黙した。 まるで領主騎士達の想像に任せると言わんばかりに、沈黙を置いた。 事実、そうした意図なのであろう。 法衣貴族の中にはポリドロ卿をその風貌だけで侮蔑する、どうしようもない間抜け共がいるが。 領主騎士は全員、ポリドロ卿の軍事的、外交的功績を認めている。 さて、ポリドロ卿が言うように、遊牧民は1000に届くかどうかの数にて、北方の領地に正規軍を張り付かせている。 そんな遊牧民族が、万の数で押し寄せてきたとするならば。 幾人かの領主騎士が、その想像に顔を顰めるのが目にとれた。 「ハッキリ言おう、トクトア・カンはアバドンである! 黙示録、七つの災厄の5番目である!!」 沈黙を突き破る。 ポリドロ卿は先ほどまでの神母のように穏やかな様子をかなぐり捨て、熱を帯びた絶叫を行う。 「第五の天使がラッパを吹いた! 私は天から一つの星が地上に落ちたのを見た! その星が、底なしの深淵の穴を開いたのだ!! 奴らは来るぞ!! 人と弓と馬で武装された軽騎兵の集団が、暴力、破壊、略奪、虐殺を率いてやってくる。この中には領主騎士として、『新たなる支配者に従えばそれでよい』等と実に」 チラリと、ここでリーゼンロッテ女王陛下の顔を窺ったが。 ポリドロ卿は、笑いさえ浮かべながら演説を続ける。 「実に領主騎士としては『健全な考え』を持っている者もいよう。だが、奴らの蹂躙と収奪は我々の想像を超えている。遊牧騎馬民族国家にとっての外征とは略奪に他ならず、男を含めた領民も、財物も、都市も、全てを燃やしながら略奪する! 遊牧民に降伏するとは全てを奪い去られると言う事であり、それでいてリーゼンロッテ女王陛下を裏切り寝返れば、裏切り者は信用できないとばかりに利用し尽くし終わった後は殺される!!」 腕を振る。 その仕草に全員の視線が奪われ、注目を集めている事をポリドロ卿は完全に自覚しながら。 小さく、それでいて誰の耳にも響くように呟いた。 「何も期待するな」 その声は、本当にポツリと呟いたように聞こえた。 「領主騎士としてのこれからの立ち回りに、如何に自信があろうとも、遊牧民族国家には何も期待するな。文化が何もかも違うのだ。遊牧民に知性はあるが理性は無い、略奪と虐殺だけを文化にした戦闘集団だ。我が国だけではないのだ。ヴィレンドルフも、そして神聖グステン帝国も同じだ。逃げ場などもはや何処にも無い。今までのような双務的契約としての軍役では済まないのだ。我々がこれから挑むことになる戦はただの――」 溜めを置く。 振り上げていた腕を下ろしながらも、それを打ちつける机も無く、拳は空を切る。 だが、超人としてのポリドロ卿の拳からは、ブオンという凄まじい音が誰にも聞こえた。 「生存闘争なのだ。アンハルトやヴィレンドルフだけではない。神聖グステン帝国中の全てをかけた、な」 ポリドロ卿は下ろした両手を持ち上げ、胸襟を開くかのように小さく手を開く。 「我々はこのままでは淘汰される。文化が違うのだ。リーゼンロッテ女王陛下が、王家の一族が殺されるだけでは済まない。元来の土着諸侯たる領主騎士の領土などは、全て奪われる。新たな支配層に取って代わられるのだ。仮に我々が戦後に生き残っても、徴税官としての職が与えられるのが精々であろう。我々が先祖代々受け継いできた領地と、その財産たる領民は何もかもが奪い尽くされてしまう。これは」 また、ポツリと。 それでいて、全員の耳にまた響くように呟いた。 「領主騎士にとっては死と同じである。いや、間違った事を言った。言いなおそう」 続けて出た言葉は、怒りに満ちた声色であった。 「死、それ以上の屈辱である」 沈黙。 また沈黙を、ポリドロ卿は置いた。 諸侯は誰も口を開かない。 いや、開けないでいるのだ。 ポリドロ卿の覇気は凄まじく、一人として誰にも反論を許さない様相であった。 そして、恐怖が広がる。 ポリドロ卿は沈黙を続ける。 口を開けなかった。 ポリドロ卿を心の底から侮蔑している、愚かな法衣貴族も。 この後、ヴァリエール様との婚姻がポリドロ卿には論功行賞で約束されるであろうと予測している、私を含めた賢き法衣貴族も。 ポリドロ卿を、軍事的天才にして外交面でも成果を為した、アンハルト最高の超人と認める領主騎士達も。 誰一人として口を開けなかったのだ。 「軍権だ」 再び、ポリドロ卿が口を開いた。 「私が考える対抗手段は。今、アンハルト王国が遊牧民族国家に対抗するべき手段は、軍権の統一に他ならない。他に方法は無いのだ。命令指揮系統はバラバラ。臣下の臣下は、臣下ではない。そんな心構えでは人と馬と弓の塊には、一撃で無残にも打ち砕かれてしまう。無秩序な軍隊。可能な戦術は騎士が全員揃っての騎馬突撃のみ。そんな方法では、とてもトクトア・カンに届かない」 熱を帯びた声。 冷静ではありながらも、それは酷く熱を帯びた声であった。 「トクトア・カンと闘った際に、私が考える戦場の結果を予想しようか」 ポリドロ卿の口から洩れる吐息は、熱の塊のようにも思えた。 「馬鹿みたいに騎馬突撃してきた我らがアンハルト・ヴィレンドルフ連合軍相手に。偽装撤退させた両翼の軽装騎兵による騎射、要するに殺し間、疑似十字砲火と呼ぶべき陣形を平地にて成立させ」 一方的な戦闘。 「騎士団は一方的にロングレンジ攻撃で死に行く仲間に混乱。そして騎士団の背後に回った軽騎兵が煙幕を焚いて、突撃に出遅れた後方の歩兵と分断させる」 まるで、教本で習ったかのようにそれを語るポリドロ卿に、やはり誰も言葉を紡ぐ事は出来ない。 「そしてトクトア・カンの重装騎兵が混乱した兵を撃ち破り、ハイ、おしまい。戦争結果は、そうだな。遊牧民の死者数が1000で、こちらが1万ぐらいといったところか。歴史的に見ないような大敗北になるであろうな。我々は後世の良い笑いものだ。歴史書を読んだ誰もが我々の背景を鑑みず、こう呟くであろう」 笑い。 嘲笑を含んだそれを浮かべながら、ポリドロ卿は吐き捨てた。 「なんて愚かな騎士達なんだ。戦術も知らないのか、と」 目を瞑る。 それは戦場における我々の死に様を想像するかのようであり、そして―― 「それだけは御免だ。物も知らぬ輩に馬鹿にされるなど、先祖に申し訳が立たぬ」 ポリドロ卿は目を大きく開き、宣言を行った。 「このままでは、我らは遊牧民族国家に蹂躙され、立ち向かう術も持たず、無駄に死んでいくだけの愚か者という事になる」 手を振り上げた。 魔術刻印が指の一本にまで刻まれた手甲に覆われた、剣ダコと槍ダコでごつごつの、酷く武骨な軍人の手であった。 ポリドロ卿が周囲に発している熱は、いよいよ我々の空気まで燃やさんとする。 「もし諸侯が私の言葉が正しいと思うならば――」 一歩。 一歩だけ歩いた。 その一歩はその巨躯からとても大きく、諸侯の集団に対して大きく歩み寄った。 「自らの領民のために立ち上がり、領主騎士として、来たるべき脅威に有効に時間を使いたいならば――」 また一歩歩いた。 口の吐息は熱を発し、王の間の空気を燃やし続けている。 「是非私の考える指揮系統に従って欲しい。リーゼンロッテ女王陛下に、王家の一族に、一時で良い。本当に一時のみで良いのだ。遊牧民に、遊牧民族国家に対抗する場合においてのみ、軍権を預けて欲しい。それならば、それならばだ」 その口から出る熱は、ついに結論を吐き出した。 「トクトア・カンの脅威を撃ち破れるのだ」 熱は伝播する。 演説は終わった、とばかりに目を閉じ、沈黙するポリドロ卿をよそにして。 領主騎士が、法衣貴族が、それぞれお互いに討論を始める。 最初のリーゼンロッテ女王陛下の論が正しい。 シルクロードの東からわざわざ、西征などしてくるわけがない。 西征理由が弱い。 ここまでどれほどの距離があるか、ポリドロ卿は認識しているのか。 ヴィレンドルフ東の大公国はどう反応するのか。 いや、更に東の国々はどうなるのか。 そもそも、ポリドロ卿はどうやってそこまでの情報を入手したのか。 我が国の諜報はそこまで劣っているのか。 出鱈目だ、ポリドロ卿はヴィレンドルフに偽情報を流されたのだ。 そんなポリドロ卿には不利を告げる、煩雑な会話。 入れ替わり立ち代わり、お互いの意見が錯綜する。 一部の諸侯が真剣な顔で、じっとポリドロ卿の次なる発言を待とうとするが、それは無い。 諸侯たちの前に、たった二歩詰めただけ。 侯爵、辺境伯と言った、詰め寄られた諸侯は発言には混ざらない。 沈黙するポリドロ卿の顔をじっと見つめたまま、彼と同じように黙り込んでいる。 何かを口にする気はない。 何もしていないわけではないだろう。 頭の中では、ポリドロ卿の演説と、耳の中に流れ込んでくる意見を頭の中で混ぜながら熟考に入っているのだ。 「そもそも、ポリドロ卿が臆病者なのだ。あの男がやった事と言えば、精々ヴィレンドルフに勝利し、その身売りで和平交渉を勝ち取ったぐらいではないか」 誰かがそんな言った。 「いらない」項目欄に名前がすでに書かれた、下級の法衣貴族であった。 ヴィレンドルフ戦役にて、そして和平交渉にて、領地を戦乱の被害からポリドロ卿の手により救われた辺境の領主騎士達が、全員で激しく睨みつけた。 気が短い領主騎士はこの場が女王の御前でなければ、帯刀が許されていたならば今にも斬り殺していると言わんばかりの顔つきで激昂している。 無論、ポリドロ卿に故郷を救われた私も、当然のように怒りを覚えている。 「あの愚か者。この場から摘まみだしますか」 横にいる、部下の紋章官が声を出す。 私が指先に持つペンが怒りで震えるのを見て、たまりかねたのであろう。 「良い、雑音も必要だ。どうせ今年中に国から消えるゴミであるしな」 私は部下に冷たく応える。 愚者はどこまでも愚者である。 後日のリーゼンロッテ女王陛下への報告で、必ず消してやる。 「遊牧民など恐れる必要はどこにもないではないか。我がアンハルト王国に敵はない」 そう言ってのけた、やはり「いらない」下級の法衣貴族がいた。 これもまた、北方の遊牧民族相手に苦慮している法衣貴族の代表武官と、軍役を課されている領主騎士達が激しく睨みつけた。 許されるなら、この場で絞殺されているであろう。 やはり、馬鹿は馬鹿だな。 結論から言えば、この場はそんな低レベルな会話をすべき段階ではない。 私がこの場で書き記したファウスト・フォン・ポリドロの演説は、全て歴史に残るであろう。 そんな、歴史に残るほどの暴走を果たした愚か者か。 それともアンハルト王国、いや、神聖グステン帝国の守護者か。 それを後世の人が判断する前に、我々が判断しなければならない状況下にすでに置かれているのだ。 ポリドロ卿の言葉を信じるならば、たった7年しかない。 そして実際にポリドロ卿の言葉に従わねば、おそらく遊牧騎馬民族国家には勝てないであろう。 いや、仮にポリドロ卿の言葉に従ったところで勝てるのか。 我々は追い詰められたのだ。 今、この場で目を閉じ、ただ沈黙を続けているポリドロ卿に。 いや、ポリドロ卿自身、どこまで苦悩の末に、今の演説を行ったのか。 その暴走とも言える挑発により、この場全員の心を波立たせ、思考を泡立たせ、今全員の感情をむき出しにさせている。 もはや、誰もがポリドロ卿の言葉を無視したまま、この場を立ち去る事など出来ない。 それはリーゼンロッテ女王陛下も、アナスタシア第一王女も、アスターテ公爵も同様であった。 無言。 ここまで王の間が論争の場と化しても、王家の実力者三人は場の様子を眺めるだけで動かない。 そして、ついに黙り込んでいた諸侯の集団の主である、侯爵が発言した。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 「はい」 「確かな根拠があれば、私は貴卿の言葉に従ったであろう。だが、何もないからこうしてポリドロ卿は演説しておられる。それは判る。なれば、何もなかった場合。トクトア・カンが攻めてこなかった場合、貴卿の身がどうなるかも理解しておられるな」 そうだ。 ポリドロ卿は責任をとらねばなるまい。 何も無かった場合の、その責任を。 王の間に、静かな静寂が訪れた。 「言われるまでもなく。そして、私はその結論によって、処刑人に手を煩わせるほど愚かではないのです」 狂気と冷静の狭間にいる、そんなまなざしで。 ポリドロ卿は、静かに、それでいて全員の耳に届くように呟いた。 そして、丁度ポリドロ卿の脇に居た、どこか落ち着かぬ表情で立っている司祭。 その老婆が、もしや、という表情で驚愕の視線をポリドロ卿に向けた。 「司祭、只今よりゲッシュをお願いしたい。我が誓いを神に立てたい」 私の全身が、総毛立った。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は騎士の禁忌とされるゲッシュを。 死の誓いを最初からこの場にて立てる気でいたと、この時初めて理解した。 第61話 ゲッシュ 前世の現代において、アイルランドの大修道院長は「我がドルイドはキリストなり」との有名な言葉を残したが、この異世界ではその言葉を残すまでもない。 この世界のドルイドとは、一神教における教皇、司教、司祭の事を意味する。 もっとも。 誰もそんな事、教養としては知っていても、すぐ思い出せやしないだろうがね。 ケルト人の神話。 この世界では何人と呼ぶやらも知らぬが、もはやどうでもいいことだ。 たった一つだけ、覚えていればいい。 母マリアンヌから子供の頃、寝物語に聞かされた神話の騎士物語と、その言葉を。 ゲッシュ。 そうだ、私は覚えているぞ。 その古代ケルトで行われていた誓い、禁忌、約束の名を。 呪われたまじないの名を、ハッキリと覚えているぞ。 ああ、そうだ。 前世の有名どころではクー・フーリンや、ディルムッドが死ぬ原因となったそれ。 今世の異世界ではそんな呪われたまじないなど、誰も誓いやしない。 だがやってやる。 騎士の間では完全に禁忌と化した儀式を。 私は本日この場にて、ゲッシュを誓おう。 「司祭よ、我がドルイドよ、誓いを受ける準備は出来たか!!」 私は狂気の目で、司祭を睨みつけた。 どうか私を助けてくれ。 ケルン派の司祭、我がドルイドよ。 信徒である私の誓いを聞いてくれ。 私の力も謀も及ばない事が起きてしまっている。 この異世界で、私は万夫不当の超人として戦場において怯えることはついぞなかった。 だがしかし、今の私は遊牧騎馬民族国家という未だ目に見えぬ存在にめっきり怯えてしまっている。 その怯えを破るためには。 今の私の覚悟を周囲に示すためには、呪われたまじないたるゲッシュが必要なのだ。 今この場で、陰腹を斬って見せよう。 「信徒ファウスト・フォン・ポリドロよ。私は」 「司祭よ、我が騎士の誓いが受けられぬという気か」 私のこの身は、先祖代々受け継がれたグレートソードを今は帯びておらん。 だが、断るならば斬り捨てるような、その威圧だけは捨てずに司祭に声を投げかける。 「信徒たる、この騎士たった一人の誓いが、司祭として受けられぬと言う気か」 「私は、私は司祭として」 司祭が、年老いたその顔の皺をより深く刻んだかのように、迷いを深める。 しかし、その迷いは一瞬である。 続いて小さく呟いた。 「お受けしましょう。信徒ファウスト・フォン・ポリドロ。貴方の誓いを」 「有難い!」 私は周囲の貴族にばらまく覇気を、いよいよもって強めながら叫ばんとする。 だが。 「止めよ! 司祭! ファウスト! この場をなんと心得ている!」 リーゼンロッテ女王の言葉。 司祭は答えた。 「畏れ多くも、リーゼンロッテ女王陛下の御前。そして小大問わず諸侯、法衣貴族、その満座の席である事は承知の上!」 老婆である司祭が、矍鑠として堂々とリーゼンロッテ女王に答えた。 「その場で我が信徒が一心不乱に騎士の誓いを立てんとしているのです! 今ハッキリと判りました。我が信徒はこの国のために命を捧げんとしている! その覚悟に答えずして何が宗教指導者か! 何が司祭か! これを断れば、洗礼も聖職者も教会もその存在理由を失ってしまう!!」 「貴様! 王命が聞けんと申すか!!」 「望まれるならこの皺首、斬り落として頂いても逆らいませぬ。ですが、このゲッシュばかりは止められない!」 司祭は、黙って私の目を見据えた。 そうだ、それでこそ我がドルイドだ。 もう誰も儀式を止められない。 「女王親衛隊、何をしている! さっさと司祭を取り押さえろ!!」 リーゼンロッテ女王が、その顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。 だが、女王親衛隊。 この場を警護する彼女達は、オロオロするばかりで身動きが取れない。 取り決めはない。 女王の御前にして、領主騎士、法衣貴族、その満座の席でさえ。 ゲッシュを為してはならぬなどという取り決めなど、どこにもない。 逆に、司祭と騎士の神聖なる誓いを邪魔してはならぬという取り決めはあるがね。 ゲッシュは禁忌であるが、どこまでも神聖なドルイドを通した神への誓いである。 故に戸惑う。 これが物も判らぬただの衛兵なら、さっさと私と司祭は取り押さえられている事だろうが。 女王親衛隊が持つ教養と礼法が仇を為したな。 まあ、どの道司祭を取り押さえようとしても、私がこの身で跳ね除けるのみだが。 私は叫ぶ。 「この誓い破るときは、空よ落ち我を打ち砕け。地よ裂けて我を呑み込め。海よ、割れて我を巻き込め!」 司祭が叫び返した。 「信徒ファウスト・フォン・ポリドロよ! 汝の誓いを述べるが良い!!」 「では誓う!!」 私が誓いを叫ばんとした。 その時。 「ザビーネ達、動いて!!」 ヴァリエール様の絶叫。 剣も帯びておらぬ第二王女親衛隊、14名がその言葉に弾かれたようにして動き出す。 この場で動き出せるのは賢者ではなく、むしろ愚者か。 リーゼンロッテ女王陛下も、アナスタシア第一王女も、この異様な事態に動けておらぬ。 いや。 侮辱するような考え、お許しください、ヴァリエール様。 貴女の心遣い、有りがたく。 だが遅い。 私は飛びついてきたザビーネの腕を掴み、そのまま棒きれのように振り回して、第二王女親衛隊を跳ね除けた。 申し訳なく思うがザビーネを背中から床にたたきつけ、しばらく動けなくする。 そして叫ぶ。 「我は誓う! 七年の内、このアンハルトに黙示録、七つの災厄の5番目。それにも等しい遊牧騎馬民族国家が襲い来よう! 私はそれに粉骨砕身、この身体の両手両足がもげようとも抗う事を誓う!」 変則的なゲッシュ。 単純に何かを禁忌として誓うゲッシュではない。 まるで宣誓。 騎士としての、領土を守り抜くため一所懸命に戦い抜くとの当たり前の誓い。 だが。 これは、この中世ファンタジー異世界の領主騎士として産まれ、領民と母の墓を守り抜くために私に与えられた宿命的なタブーなのであると私は考える。 なれば、神への我が祈りは通ず。 「では次に問う! 汝、その誓いが、七年以内に遊牧騎馬民族国家が襲い掛からないとすれば、なんとする!!」 沈黙。 一瞬の静寂がよぎった。 誰も動かない。 誰も喋れない。 誰もが、代わりに耳を動かそうとする。 王城、王の間にて。 女王陛下、数百人の諸侯、法衣貴族が居並ぶ満座の席で、私は口にした。 「腹を斬る。この国を無為に騒がせた責任を取り、腹を斬って死のう」 誓いを破った際の、禁忌の言葉を口にした。 「私は空が落ちない限り、大地が裂け、海が私を呑み込まない限り、この約束を守るだろう」 「これにて、これにて信徒ファウスト・フォン・ポリドロの誓いは為された。この誓いは、死んでも果たさねばならぬ」 司祭は神の仲介者としての立場に立ち、ドルイドとして我が誓いに応じた。 光。 眩い光が、私を包んだ。 誠に以てバカバカしいほどに、神に誓った祝福であると言わんばかりに輝く神々しい光であった。 それが一秒の時を経て収束した。 儀式は成立した。 私は司祭に礼を言う。 「司祭、ご協力感謝します」 「貴方はここまでの覚悟で最初から?」 「最初から。貴方を騙して連れてきて、申し訳ありません」 私は深々と司祭に頭を垂れた。 恨まれても仕方ない。 だが、他に方法が無かった。 私の知能では思いつかなかった。 単純に前世の日本武将のように陰腹を斬り、嘆願をしたところで話は聞いてもらえなかったであろう。 この異世界の作法に乗っ取り、更にそれに近い事を為す事によって意味があるのだ。 「何という愚かな事をしたのだ、ファウスト・フォン・ポリドロよ」 何処かから、震え声が聞こえた。 玉座からであった。 「お前はゲッシュを何だと思っている?」 「神への誓いであると認識しています」 「冗談だと、神の裁きが偽物であるとでも思っているのか? この世界にはゲッシュを破り死んだ英傑など数限り無いのだぞ!」 魔法も奇跡もあるんだよ。 知っているさ、それぐらい。 この世界は中世ファンタジー世界だ。 ゲッシュを破った時、必ず神は裁きを下すだろう。 「ドルイドたる司祭と神聖な約束をしました。約束事を違えば、神は必ずこの身に裁きを下すでしょう」 「7年で遊牧騎馬民族国家が来なければ、貴殿は死ぬのだぞ」 「そう誓いました。ご心配なく、神の手を煩わせるまでもなく腹を斬り、私の生死は私が決める所存」 リーゼンロッテ女王が立ち上がる。 そしてプルプルと身体を震えさせ、顔を真っ赤にさせたが。 やがて、大きく大きく息を吐いた。 まるで既に身内が死んだことを、嘆かんばかりの血を吐くような声であった。 「お前のゲッシュは無意味だ。無意味なのだ。ファウスト・フォン・ポリドロ卿。この中に誰がお前の言葉を信じ、軍権を国に預けても良い。そう誓えるものがいるものか」 「女王陛下!」 諸侯の一人。 顔も良く知らぬ、つまり私のように小領の領主騎士なのであろう。 それが前にゆっくり、ゆっくりと歩き出て、膝を折って礼を正し、言葉を紡ぐ。 その声は、酷く震えていた。 本来はリーゼンロッテ女王への御目見え資格たる入城権を持たず、また発言権も女王が許さぬ限り持たない。 第二王女相談役でなければ、私と全く同じような境遇の。 そんな小さな小さな領主騎士。 「これから七年先までは、遊牧民に対する事に限っては、軍権を一時女王陛下に預けることを誓いましょう」 それが、僅かに怯えながらも、それでいて勇気を振り絞った表情で。 私の前に立ち、そして私越しにリーゼンロッテ女王陛下を見つめて呟いた。 「何故だ」 リーゼンロッテ女王が、静かに理由を尋ねる。 「我が領地はヴィレンドルフ国境線近く、ポリドロ卿がおらねば、今頃はヴィレンドルフに滅ぼされていたでしょう。その卿が命がけでゲッシュを誓ったゆえに。我が領土が、領民が、忘恩の朋輩ではないと卿に示さんがゆえに」 その言葉が言い終わるか言い終わらぬか。 その間に、同じように数名の領主騎士がその横に歩み寄る。 どの顔も、やはり知らぬ。 私は彼女達との縁があるなど、何も知らぬのだ。 だが、彼女達は誰一人として歩みを止めようとしなかった。 私と女王陛下の目の前で、膝を折って礼を正す。 「お前等もか」 「理由は同じ。一度領地を救われた身ゆえに」 そうか。 私は知らぬ間に、ヴィレンドルフ戦役にて知らない貴族との縁があったのだな。 恩など、戦役が終わった際に形ばかりの礼状が送られてきただけの話。 私はそれで、全ての関係が終わった物だと思っていた。 だが、礼状を送って来た知らない顔揃いであるアンハルトの領主騎士達は、誰もが誇り高く、忘恩の朋輩であることが許せない性質なのだ。 思わず眼頭が熱くなり、涙が溢れ出そうになるのを必死でこらえようとする。 ――ようとするのだが、私は柄にもなく情に弱い人柄であったようだ。 溢れる涙は頬を伝い、止められそうになかった。 そして。 「ちょっとお前等、横少しどけろよ。むしろ私が中央に位置するべきだろ」 「アスターテ公爵!!」 思わず口から声が出る。 ずっと黙り込んでいたアスターテ公爵が、ゆっくりと横から歩み出た。 その権力差で、膝を折っている小領の領主騎士達をどかしながら中央に陣取る。 そして同じように膝を折り、リーゼンロッテ女王に礼を正した。 「アスターテ、お前もか」 「ヴィレンドルフ戦の戦友ゆえに。何より、ポリドロ卿が命がけで誓っているのです。それを僅かたりと信じられぬというのは。何も信じてやれぬというのは」 少し、沈黙を置いて。 「もはや領主騎士として如何なものかと。その誇りが疑われるものと思います」 周囲を挑発するように呟いた。 面子。 その場、満座の席である領主騎士の面子に唾を吐きかけ、挑発を為した。 やがて、アスターテ公爵の常備軍に恩がある者。 借りを持つもの。 それら領主騎士が、同じように玉座の前に一直線に敷かれた赤い絨毯の前に躍り出て、膝を折り、一人ずつ名乗り出る。 その中には、貴族のパーティーにすら呼ばれぬこの身の上でも知っているくらいの、大領の領主騎士も居た。 その寄子の領主騎士らも、その姿を目前として、もはや動かぬわけにはいかぬ。 列を為すようにして、膝を折った。 「我らも、これから七年先までは、同じ条件にて軍権を女王陛下に預けることを誓いましょう」 誓い。 それは私と司祭、それを通じた神への誓いに続いて行われた。 領主騎士達とリーゼンロッテ女王との誓いの儀式であった。 それでよい。 私の望みが目の前で叶っていく。 だが。 まだ足りていない。 全員ではない。 まだ領主騎士全員ではないのだ。 ようやく半分に満ちたところ、その場にて。 「ポリドロ卿、一つお尋ねする」 私に覚悟があるかどうかを問うた、侯爵が静かに質問を行う。 「何か」 私は涙を拭いながら、感動で赤くなる頬を必死で誤魔化すように答えた。 まだ、何も終わっていない。 しっかりしろ、ファウスト・フォン・ポリドロよ。 「確かに。確かに、一年で北方の遊牧民を倒す術があるのだな。そして、今更聞くのも野暮であるが、貴卿はその命を懸けるほどに遊牧民族国家がアンハルトを襲うと確信している」 「その通りです」 「ならば、条件付きにて」 ゆっくりと前に歩み出て。 赤い絨毯にて列を為した、その最後尾に付く事になってしまう事を苦笑しながら。 「ポリドロ卿が来年の軍役にて、我々と肩を並べて北方の遊牧民を一年で討ち果たすのを目撃出来たならば、軍権を預けるだけでなく、領地を総動員して遊牧民族国家対策に向けて働かせることを約束しよう。私をガッカリさせないでくれよ」 赤い絨毯の上で膝を折り、礼を正した。 侯爵の率いる派閥、その集団が列を為して、一部は苦笑しながら侯爵の真似をする。 これにて、賛同する数は領主騎士の過半数を超えた。 最後に残った、それでも判断を決する事ができない領主騎士、それらに対しては。 私の横まで歩み寄って来たアナスタシア第一王女が、意外な行動に出た。 「残りの諸侯には、私からお願いする」 アナスタシア第一王女が、トドメを刺すように深々と頭を垂れたのだ。 「アナスタシア第一王女殿下! 頭を下げるのはお止めください!! ポリドロ卿の言葉を信じろと仰るのですか!!」 「貴卿らとて理解してるはずだ、ポリドロ卿はゲッシュを誓い、覚悟を示した。大馬鹿者だ。本当に、本当に大馬鹿者だ」 罵られてしまった。 それも仕方ない、自分でも大馬鹿者だと思う。 だが。 「だが、そんな大馬鹿者を止められなかった事に、私は責任を感じているのだ。この大馬鹿者に最後まで付き合ってやりたいのだ。地獄のヴィレンドルフ戦役を一緒に戦った、戦友であるのだ。貴卿らがポリドロ卿の言葉を最後まで信じられないと言うなら、ゲッシュを用いてまで信じられないと言うなら、代わりに私を信じてくれ。将来のアンハルトを背負って立つ、私を信じてくれ」 私はアナスタシア第一王女が、頭を下げる姿など見たことがなかった。 その爬虫類のような眼光で、人を射竦めるのが非常に似合う御方であった。 だが、こうしてそれが、小領大領を問わず、最後まで判断が定まらない領主に頭を下げている。 「……承知しました」 もはや、最後まで判断を保留した領主騎士達も、抗う事は出来なかった。 全員が赤い絨毯を踏みしめ、その列にはアスターテ公爵が唯一先頭にて頭を垂れているだけで、後は序列の区別すらない。 リーゼンロッテ女王陛下の指揮下に、遊牧民に対しての軍権が纏まった瞬間であった。 第62話 矜持 儀式は終わった。 私のゲッシュの儀式、そして領主騎士達のリーゼンロッテ女王への誓いの儀式。 二つの儀式が終わり、今は全員赤い絨毯の上から去り、元の場所へと戻っている。 なのだが。 「さて、貴卿らの決意はよく判った。ポリドロ卿の決意も。少なくとも、遊牧民に対し一丸となって戦いに備えるのは私の本意である。トクトア・カンが来ようとも来なくともな。無駄にはなるまい」 リーゼンロッテ女王が、自身の意見を述べる。 なのであるが。 「今考えたのだが。法衣貴族の正騎士団である武官達による現在のシステムを、軍権を預けてくれたからとはいっても、そのまま適用するのは難しい。法衣貴族に従う事をそのまま良しとする領民も少ないであろう。よって、この件については後々よく話し合う事にしよう」 私の行動は無駄には終わらず、結果を見せた。 なのであろうが。 「だから、なんだ。その、ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 判ってる。 判ってはいるのだが。 「そろそろ、泣き止め」 優し気な声が、リーゼンロッテ女王から投げかけられた。 どうしても涙が止まらぬのだ。 私は愚かだ。 アンハルトの何処にも味方はいないと考えていた。 私がやらねばと、私自らを追い込んでいた。 ただ暴走の果てに、終わりを告げるだけかとすら思い込んでいたのだ。 だが、ヴィレンドルフ戦役で救った領主騎士達は朋輩として、この私を以前から認めてくれており。 戦友であるアスターテ公爵とアナスタシア第一王女も、最後には私のこの暴走を妨げず、味方してくれたのだ。 私は幸せ者で、同時に愚か者だ。 「失礼しました。もうすぐ、もうすぐ泣き止むと思います。もうしばらくお待ちを」 「そうしてやりたいのだがな」 リーゼンロッテ女王はクスクスと優しく笑う。 同様に、領主騎士達からも笑い声が漏れた。 侮辱的なそれではない。 むしろ、微笑まし気に聞こえるそれであった。 初めて感じる、アンハルトの貴族達からの温かい感情であった。 「何分、時間がない。遊牧民に当たっては、誰もが皆もお前の意見に承知したのだ。皆も暇ではない。いい加減、本来の論功行賞の話に移らせてもらうぞ」 「は、申し訳ありません」 私は頭を下げる。 騎士見習いとして私を補佐するマルティナが、横からハンカチを差し出してくれた。 それで頬と目を拭う。 「では、論功行賞を始めるとしよう。ヴィレンドルフとの和平交渉、無事成立見事であった。今までの功績としては、ヴィレンドルフ戦役、そしてカロリーヌの反逆におけるヴァリエールの初陣でも、金銭を与えて来た」 「お陰様で、領民に減税を施す事が出来ました」 ちゃんと報酬金を払ってくれた事には感謝している。 まあ仕事としてはクソだったが。 その仕事内容としては、ブラックそのものであったからな。 「そして、今回の和平交渉前にあたっては貴卿が今着用しているフリューテッドアーマーを、アナスタシアが下賜した。見栄えの良い鎧が必要と思ったのでな。ヴィレンドルフでは鎧こそ騎士の礼服であるからな」 「この鎧は見事な物であります。ヴィレンドルフでも役に立ちました」 すでにヴィレンドルフでの一騎討ちにて実用に供したが、軽くて動きも制限されない。 火器であるマスケット銃の一撃にも容易に耐えうるであろう。 見事な品である。 「もちろん、今回の和平交渉が成立した暁には、多額の報酬金を事前に約束していたな。それも払おう。だが、それだけでは少し足らぬ。そう思ってはいないか?」 「は?」 思ってないけど。 全然思ってない。 領民300人ぽっちの小さな地方領主だ。 爵位を上げられたところで、それなりの格式を整えねばならず迷惑なだけだし、法衣貴族と違って爵位が上がったところで給金が増えるわけでもない。 領主にとっての給金とは、その領土から得られる税のみである。 土地は欲しいが、ポリドロ領の近隣は地方領主の土地であり、王領ではない。 それを切り取って貰えるわけはなく、また飛び地を頂いたところで代官を派遣せねばならず、これまた面倒臭い。 良い事は何も無いのだ。 色々とリーゼンロッテ女王の意図を探るべく、脳を回転させる。 なれば。 ひょっとして。 ひょっとしたらだが。 「少なくとも王家はポリドロ卿の功績には報酬が足らぬと。そう思っているし、同時に他の領主騎士も同様に、不満を抱いていよう。だから、ポリドロ卿には金銭以外にも別な報酬を用意してある。要するに、未だ独り身を貫いている貴卿に嫁を用意しようと言うのだ」 嫁か。 嫁がもらえるのか。 私は赤い絨毯の上で転がっていたザビーネ。 そのロケットオッパイの持ち主が、第二王女親衛隊にズルズルと足を引っ張られて壁の端に転がされているのを見遣る。 自分でやった事とは言え、床に叩きつけるのはやりすぎたか。 まあともあれ、そんなザビーネの亡骸もどきを横目に、少し残念に思う。 ザビーネよ。 ロケットオッパイよ。 さらばだ。 お前のロケットオッパイは私人としての私の心を揺るがせたが、頭がチンパンジーすぎてポリドロ領の嫁としてはちょっとアレかな、と公人の立場としては思うのだ。 だから、さよならだ。 グッバイ、アディオス。 お前のロケットオッパイは、今後ともさりげなく凝視するだけに留めたいと思う。 そんな事を考えている間にも、リーゼンロッテ女王の言葉は続く。 「つまり、血統だな。貴卿の今までの功績に相応しい嫁を用意しているのだ」 来た。 来たぞ。 今までアンハルト王国にてモテないこと22年、前世の童貞歴と合わせればそろそろ40年。 そんな私にも、童貞を捨てるチャンスが巡って来たのだ。 ふっ、とヴィレンドルフのカタリナ女王の顔が頭によぎり、ファーストキスの感触が唇に蘇るが。 それはそれ、これはこれ。 私はポリドロ領の領主騎士として、貴種の務めとして跡継ぎを作らなければならない。 つまり、私は自分の領地を手を取り合って統治し、軍役には共に立ち向かう。 そんな嫁を与えられる機会がついに訪れたのだ。 横にいるヴァリエール様を見る。 壁の端に転がされ、亡骸もどきになっているザビーネの事が先ほどまで気になっていたようであるが。 今は何故か少々顔を赤らめ、下を向いている。 思えば、長い道のりであった。 このアンハルトでは身長200cm、体重130kgを超える巨躯から全然モテぬ身の上であり。 第二王女相談役となったはいいが、ヴァリエール様には「自分が用意できる嫁の当てなんて無い」と断られ。 嫌々巻き込まれたヴィレンドルフ戦役では、アナスタシア第一王女に最前線に放り込まれ。 爆乳のアスターテ公爵には、その巨乳を腕に押し付けられ猥談を耳元で囁かれ。 貞操帯の下の息子自身であるチンコが、凄く痛いねんと苦痛を訴える毎日。 そして王家は王家で、プライベートの場では肉体美を自慢したいのかシルクのヴェール一枚だけを身に纏い、32歳未亡人の巨乳やら、16歳爬虫類系眼光美人の美乳やらが誘惑してくる毎日。 チンコ痛いねん。 それも終わる。 今日でそれも終わるのだ。 やったね息子、明日はホームランだ。 なんかテンションが狂っているが、それくらい嬉しいのだ。 これで、この長き苦痛の日々が終わるのだ。 さあ、リーゼンロッテ女王よ、嫁の紹介を。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿には我が次女にして第二王女、ゲオルク・ヴァリエール・フォン・アンハルトを嫁として与える」 一瞬、頭の回転が停止した。 横を見る。 私の横では、身長140cmにも満たない小柄の赤毛14歳貧乳ロリータ美少女が顔を赤らめていた。 その視線はずっと下を向いている。 ちょっと待て。 ちょっと待てや。 「もちろん、王位継承権は喪失し、降嫁してポリドロ卿の名を今後は引き継ぐことになる。皆、今後ともよろしく頼むぞ!! もちろん、その血筋に不満は無いなポリドロ卿」 不満だらけだわボケ。 何が悲しゅうて14歳貧乳ロリータ美少女を嫁にせねばならぬ。 私は巨乳が欲しいのだ。 オッパイ星人なのだ。 「やはり、ヴァリエール様が降嫁されることになりますか」 「これは良い縁談ですな。ポリドロ卿には名誉ある血統を与えられるべきであります」 領主騎士と法衣貴族がお互いに囁きながら、勝手な事を云う。 待てや。 くどいようだが、私はオッパイ星人なのだ。 「ファウスト・フォン・ポリドロ。思えばお前の母、先代ポリドロ卿であるマリアンヌには辛い思いをさせたな。お前という救国の英傑たる超人を育てながら、今まで狂人であるかのような扱いを受けていた。その汚名も王家の血を取り込むことによって、払拭されるであろう」 いや、確かにそれはいつか払拭したいと思っていたよ。 マリアンヌは、私の心の中では何にも代えがたい最愛の母である。 私と領民だけがそれを理解していれば良いとは考えていたが、同時にその世間からの狂人としての汚名を払拭したいという思いもあった。 だが、こんな形ではない。 私はそっと、横のヴァリエール様の様子を見る。 やはり顔を赤らめて、下を向いていた。 「もちろん、嫌とは言うまいな。ヴァリエールよ」 リーゼンロッテ女王の言葉。 断れや盆暗貧乳ロリータ! いや、盆暗はさすがに脳内とはいえ言い過ぎた。 ヴァリエール様は盆暗ではない、凡才である。 ただの凡才たる赤毛貧乳ロリータである。 「はい、お受けいたします」 なんで断らへんねん。 お前貧乳ロリータやろうが! オッパイ星人とは決して相容れぬ仲であろうが! 何故そんな単純にして厳然たる事実がわからぬ!! ロリコン相手にしてろこのメスガキが!! いや、メスガキはさすがに脳内とはいえ言い過ぎた。 ヴァリエール様には何の罪も無いのだ。 ただ、私を平和で楽な軍役だよとヴィレンドルフ国境線上の砦の警備に回して、ヴィレンドルフ戦役という地獄に巻き込ませたり。 楽な山賊退治のはずの初陣では、何故だか地方領主の反逆という戦線が拡張する事態に巻き込まれたり。 よく考えれば私は横にいるこのロリータのせいで、随分と酷い目に遭っている。 ヴァリエール様の意思と無関係であるとは知っているが、酷い目には合っているぞ。 そうだ、私はオッパイ星人なのだ。 トクトア・カンは攻めてくるだろう。 あの遊牧民族国家は7年以内にきっと襲い掛かってくる。 それは前世の知識により確信しているが。 もし攻めてこなかった場合はどうする。 私の死ぬまで7年の性生活は、ロリータと共に終えるのか。 嫌だ。 許されるべきではない。 許されていいはずがない! 神は死んだのか! いや、さっきゲッシュで神の存在を知覚したばかりだけどさ!! 「では、ファウスト・フォン・ポリドロよ。もはや形ばかりとなるが尋ねよう。我が娘、ゲオルク・ヴァリエール・フォン・アンハルトを。ゲオルク・ヴァリエール・フォン・ポリドロとして領地に迎え入れるか」 リーゼンロッテ女王の言葉が、私に下される。 ちょっと待て。 少しでいい、時間をくれ。 シンキング・タイムの時間だ。 スイッチング・ウィンバック。 追い込まれた時には自分なりの儀式を行い、スイッチを切り替えるように精神を回復させるのだ。 私なりのスイッチング・ウィンバックはオッパイである。 この時考えたのは、必然的にリーゼンロッテ女王のシルクヴェール一枚越しの裸体であり、その巨乳であった。 自然、勃起はする。 チンコ痛いねん。 貞操帯の下に眠る、息子の痛みにより私は正気に戻った。 「あまりに身分が違い過ぎます。私は領民300名を養うのが精々の小領主です」 私は冷静な口調で呟いた。 我ながら、完璧な回答であったと思う。 だが、リーゼンロッテ女王はそれに怯まない。 「ヴィレンドルフ戦役の英傑にして、そして和平交渉をこなした騎士なのだ。女王である私が認めるのだ。誰にも有無は言わさない。受け入れよ」 反論すらさせないつもりかよ。 駄目だ、この場において断る事は許されん。 何か、何か反論方法は無いか。 少なくとも、14歳ロリータを嫁に娶る事は許されない。 オッパイ星人としての矜持がそれを許さない。 我々は互いに相容れない存在であり、その境域を冒す事は断じて許されないのだ。 それはロリータとオッパイ星人が約束した、たった一つのゲッシュであったはずだ。 神に誓わずとも守られる誓約であるはずなのだ。 こんな事許されていいはずがない。 私は考え、そして脳裏をフルスロットルで回転させ、そこから導き出された言葉を口に出した。 「入りません」 「何?」 リーゼンロッテ女王が怪訝な声をあげる。 よく聞こえなかったのだろうか。 私はもう一度呟く。 「だから、入りませんと言ったのです」 「それは聞こえた。だから、何がだ」 聞こえてるなら、何度も言わせるな。 そういった表情で、私は再度、より詳細にして曖昧に呟いた。 「その……私の下半身の大事なところが、ヴァリエール様の大事なところにはとても入らないだろうと言ったのです」 酷く曖昧であった。 だが意味は通じた。 リーゼンロッテ女王は英明である。 ゆえに、優しく答えた。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿よ。お前は未だ純潔ゆえ知らぬのも仕方ないが、女の器官というものは意外に柔軟でな。いくらお前のその下半身の大事なところが、その巨躯に見合う代物であろうとも」 「未だ未成熟な体つきであるヴァリエール様のお腹がボコォと、膨らむような音を立ててもいいと仰るのですか。私の代物は、尋常なる大きさではありませぬ」 私はあくまでも冷静に務め、答えることにした。 リーゼンロッテ女王は一旦停止し、キョロキョロと視線を彷徨わせ、次の言葉を出しあぐねた。 そして周囲の貴族達、女性陣は顔を赤らめながらザワザワと騒ぎ出し、私を指さしながら何やら騒ぎ始めた。 この世界では、そう、この頭おかしい世界では、私の下半身の大事なところの大きさは非常に強烈なセックスアピールである。 実はあの人、地味だけど超物凄いオッパイさんだったんだよと例えるべきか。 サラシで隠してたけど、下には巨乳があったというべきか。 ゆえに、女性は顔を赤らめる。 そして男性たる私は、前世の価値観ゆえ全く恥ずかしく等ないが、この世界の常識的には自分のサイズを告白させられ、辱めを受けている状態である。 故に。 この場たった一人の男である私を除き、誰もが顔を赤らめてざわめく。 そして会議は踊る、されど会議は進まず、話は空転する事となった。 第63話 婚姻成立 ざわめきは治まらぬ。 かくいう、私ことアスターテも興奮していた。 え、ファウストのそんなにデカイの? 私は尻派である。 尻派ではあるが、何も前の方には興味が無いとまでは言っていない。 ファウストの巨躯から大きいのは想像していた。 仮に小さくとも、それはそれでギャップにより私は興奮していたであろうと自信をもって言える。 私はファウストの事をその大きさに関わらず愛している。 だが、大きいに越したことはないであろう。 それはこのアンハルトの女性、全ての共通意見であった。 その代物の大きさは、アンハルトでは重要なセックスアピールであった。 故に、顔を赤らめながらも、ファウストの代物の大きさについて語り合う声が収まらぬ。 「静まりなさい! それでも騎士か、いや、それ以前に淑女でありなさい!!」 リーゼンロッテ女王の叫び。 さすがの掌握力で、瞬く間に辺りを静めた。 まあ、それはよいのであるが。 「ファウスト、その、何ですか。大きいというか、その」 リーゼンロッテ女王がファウストに投げかける声は、空中分解して一つにまとまらぬ。 こっからどーすりゃいいものか。 リーゼンロッテ女王陛下も、さぞお困りであろう。 公人としては見事な人物だが、私人としては結構初心なところが彼女にはある。 法衣貴族が幾ら後添えを進めても、彼女は叔父であるロベルト以外の配偶者を望まなかった。 まあ、今はファウストにご執心のようだが。 ともあれ仕方ない、助け舟を出してやるか。 「リーゼンロッテ女王陛下、発言宜しいでしょうか」 「アスターテ公爵? 何か意見が」 「はい」 私は顔を真っ赤にしているアナスタシアを横目に――コイツ、しばらく使い物にならんな。 初心なのは母親似か。 そんな事を考えながらも、発言する。 「ポリドロ卿、卿の代物は尋常なる大きさではない。確かにそう言ったな」 「はい、そう言いました」 貞淑で無垢でいじらしい、朴訥で真面目な、童貞のファウストが顔も赤らめることなく自然と口にする。 恥ずかしくはないのだろうか。 この男の純情さからすると珍しい話だ。 「ヴァリエール第二王女殿下との結婚が嫌というわけではないな」 「違います」 何故かファウストは少し目をそらしながら答えた。 ふむ、嘘くさい。 やはりヴァリエールは、ファウストの好みじゃないのではなかろうか。 そんな事を考えるが、まあそれは良い。 「ならば、真実かどうか確かめさせてもらっても異存はないな」 「確かめる?」 ファウストが、不思議そうな顔をする。 そんなファウストの顔も愛おしい。 「事は重要なのだよ、ポリドロ卿。今回の事をよく?み砕いて説明させてもらうが、先ほどリーゼンロッテ女王陛下も仰ったように、ポリドロ卿が積み上げた功績に対して、王家から支払われている報酬は足りていない。双務的契約が成り立っていないのだ。ポリドロ卿が、ヴァリエール第二王女殿下を嫁に迎えるなど畏れ多いと断って済む話ではないのだ。判るな」 「判ります」 「もちろん、嫌なら王家側としても無理強いをするつもりはないのだろうが……もう一度聞く。嫌ではないよな」 ファウストは、横目でチラリと、顔を下に向けたまま赤らめているヴァリエールの事を眺めて。 少し、色々な考え事を脳裏によぎらせたのであろうが。 ファウストは、ハッキリと答えた。 「嫌ではありませぬ」 おそらく、色々な人物の立場を考えたな。 断れば王家側としては立つ瀬が無いし、ファウストとしても断るなんて事ができる立場ではない。 嫌でもそういうしかない。 まあ、ファウストにとってはヴァリエールは嫌いな女性というよりも、庇護する立場の女の子であると見ているのであろうが。 あくまで第二王女相談役としての立場から逸脱する気は無いのであろう。 どうもファウストは14歳たる未成熟なヴァリエールを、そもそも性的対象としては見れないのではないかという予感がある。 貴族同志どころか平民同士の結婚でも、14歳ならば大して珍しい話ではないのだが。 「ならば、先ほどから述べている『それ』。大きさの主張は嘘ではないと」 「このファウスト・フォン・ポリドロ、神に誓っても嘘はつきませぬ」 「よろしい。では確かめさせてもらおうか」 私はアナスタシアの肩をドン、と叩き、目覚めさせる。 顔の赤い色はまだ収まっていないが、正気には戻ったようだ。 「ア、アスターテ?」 「アナスタシア第一王女殿下、相談役として進言致します。これより、ポリドロ卿の言葉が誠かどうか確かめてみるべきかと」 「確かめるってどうやって」 まだ寝ぼけてるのか、アナスタシア。 私は無視して声を張り上げた。 「アレクサンドラ!」 第一王女親衛隊隊長の名を呼ぶ。 身長190cmの麗人が、これまた顔を赤らめながらも返事をした。 「はっ! すぐに侍童を呼び、確認させるように致します!!」 そうだ、それでいい。 いくらファウストに欲情しているとはいえ、しっかりして欲しいものだ。 私のように欲情はしつつも、頭は怜悧に働かせるべきなのだ。 私はファウストの尻を眺めながらでも、冷静に戦場で人を殺せるぞ。 「ポリドロ卿、こちらへどうぞ!」 アレクサンドラがポリドロ卿の手を引き、エスコートするように連れて行く。 どこか別室にて確認するのであろう。 そう、ファウストの代物がどれだけ大きいかを確認するのである。 私も確認したい。 この場を仕切った以上、その権利が私にはあるのではないか? 私は一瞬、そんな事を考えたが、後で発狂したアナスタシアに締め殺されそうなので止めておいた。 ファウストは大人しく、王の間から立ち去った。 ※ 侍童が王の間にポツンと一人。 あまり見ない顔であるが、新人であろうか。 どこの領地から王都に上がって来たのかは知らないが、アレクサンドラが連れて来たからにはハニートラップなど狙っていない、真っ当な行儀見習いの侍童であると思われる。 「リ、リーゼンロッテ女王陛下におかれましてはご機嫌麗しく」 緊張しているが無理もない。 女王陛下の眼前で、しかも周囲は法衣貴族や領主が取り囲んでいる。 領主騎士とはいえ、300名足らずの小領主にもかかわらず毅然として、先ほどまで満座の席にて演説していたファウストが異常なのだ。 まさに私のファウストは英傑である。 「世辞はよい。結論から述べよ。侍童が確認したファウストの代物のサイズは如何程であったか」 「は、はい。計測しましたが」 侍童の顔は、やや青い。 何かショックを受けたような顔つきである。 「20cm超えでありました」 デカイ、説明不要。 その大きさは想像を絶していた。 周囲が完全にざわめき始める。 「私の夫の二倍はあるぞ!」 「それは卿の夫のサイズが小さすぎるのでは?」 「お前殺すぞ! 友人たる卿とてその言葉ばかりは許されぬぞ!!」 雑多な会話。 誰しもが、そのサイズに耳を疑う。 いや、ちょっと待て。 よく考えろアスターテ。 侍童が確認したのは、あくまで平常時のサイズであって……完全体は。 完全体に変身すればどうなるというのか! ぎょっとした顔つきで、ファウストを見る。 やはり純情たるファウストは顔を赤らめず、何故か平然としている。 ファウストは母親マリアンヌの手一つで育ったと聞く。 少し、紳士としての性教育が足りていないのではないかと心配になるが。 そんな心配をよそにして。 「失礼ながら申し上げます。完全体では25cmを超えます」 マスケット銃のバレルか何かかな? 平然とした顔で訴えるファウストに、自分の股座を見る。 果たして、私でもちゃんと全部入りきるのだろうか。 そんな事を考えながらも、周囲はざわめく。 「さすがポリドロ卿! 股の代物も英傑よ!」 「そうと知っていれば、どんな手段を講じてでも結婚を申し込んだのに!」 「今からでも遅くない、ポリドロ卿、私と結婚してください!」 どうしようもない貴族達であった。 アンハルトの価値観、紅顔の美少年を好みとするその手の平をあっさり返すほどの現実であった。 それほどにファウストの股座に眠るセックスアピールは魅力的であった。 デカいというのは良い事だ。 人から聞いた話では! ヴィレンドルフのチンコは特大チンコ! うん、よし! 感じよし!  具合よし! すべてよし! 味、よし! すげえよし! お前に良し! 私に良し! そんな猥歌を脳裏に浮かべる。 この猥歌の重要なところは、蛮族ヴィレンドルフ好みの屈強な男ですら、チンコがデカければアンハルトでも許されると謳っている点にある。 実際、奥まで届くかどうかは重要な話ではないだろうか。 ファウスト・フォン・ポリドロという男はアスターテにとって、尻も良くチンコもデカいというまさに完璧超人であった。 それを手に入れる。 そのためにも。 「ですので、今のヴァリエール様をポリドロ領の嫁に迎える事は致しかねます。本当に入りませんので。具体的にはお腹がボゴォとなります」 ヴァリエールとの結婚を、ファウストに納得してもらう必要があるのだ。 そうでなければ、私とアナスタシアの愛人計画も遂行されない。 どうにかしてファウストを翻意させる必要がある。 「ポリドロ卿、今のヴァリエール様は、と申したな。つまりヴァリエール第二王女殿下の身体が未成熟であるゆえ、どうしようもない話だと言いたいわけだな」 「はい、そうであります」 「ならば話は早い」 結局のところ、ファウストはどこか政治的センスにおいて甘いところがあるのだ。 先ほどの演説、ゲッシュには皆があまりの覇気に気圧されたが、こういうところではミスをする。 まあ、そんなところが可愛いのであるが。 「ならば、提案だ。こうしよう。ファウストは、隣国ヴィレンドルフの王女カタリナとの間に、2年待つと約束したはずだな」 「はい、その通りであります」 「ならば、我が国も2年待つと言う事でどうだろうか」 本当はそんなに待ちたくないのだが。 私ことアスターテ公爵など20歳になってしまうが。 この際は仕方ない。 「2年ですか」 少し、不服そうにファウストが呟く。 不機嫌さを隠しきれてないぞ、ファウスト。 そこがお前の未熟なところだ。 「そうだ、2年だ。何、ヴァリエール第二王女殿下は14歳、確かに背の高さも、身体つきもまだお前を受け入れる様な具合にはなっていないだろうさ。それは認めよう。だが、2年後は違うぞ」 私は両手を組み、自分の乳房。 戦場では邪魔になる爆乳を持ち上げる。 ファウストの視線が、こちらに向き瞳孔が拡大するのが認識できた。 「ヴァリエール第二王女殿下も、王族の一員であることに間違いない。王族の血統は総じて肉付きが良い。2年も待てば、その体つきも女性としての丸みを帯びている事だろうさ。お前のその股座のデカブツも受け入れられる」 何故かファウストが顔を顰めた。 何かをとても痛そうに身を屈めているが、理由は判らぬ。 熟考に入ったのか、それとも将来のヴァリエールの姿を思い浮べているのか。 「……承知しました。ヴァリエール様が2年後、女性として私の代物を受け入れる体つきになりましたら、ポリドロ領の嫁、ゲオルク・ヴァリエール・フォン・ポリドロとして迎え入れましょう」 「そうしよう。それがいい」 ファウストが折れた。 これで私達の愛人計画も頓挫せず、順調に進行する。 王家の面子がこれで立ち、ファウストの立場もヴァリエールとの婚姻により補強され、領主騎士はポリドロ卿がちゃんと功績に報われたことに安心、全てが丸く収まる。 私はリーゼンロッテ女王へと向き直り、言葉を発する。 「女王陛下、御決断を」 「う、うむ。アスターテ公爵の意見や良し。それを採用とする。本日この場を以て、ファウスト・フォン・ポリドロ卿と我が娘ゲオルク・ヴァリエール・フォン・アンハルトの婚姻の約束を結ぶことにしよう。只今より二人は婚約者である!」 顔を赤らめて下を向いていたヴァリエールが顔をあげ、ばっとファウストの顔を見る。 何だ、何か言いたい事でもあるのか。 「ファウスト、最後に念のため聞くけど。本当に嫌じゃないのね。本当に嫌なら言って。たとえこれが貴族的な結論から避けられない事であっても、私は貴方の邪魔をしたくないのよ」 「ヴァリエール様」 ファウストと、ヴァリエールが一時見つめ合う。 身長200cm超えの巨躯の男騎士と、身長140cmに満たない小柄な第二王女のカップルである。 少し、妬ましい。 「嫌ではないのです。決して貴女の事は嫌いではありませんよ、ヴァリエール様。ですが、逆に問います。私は本当に領民300名足らずのちっぽけな小領主に過ぎません。贅沢な暮らしはできませんよ」 いや、ファウストは私とアナスタシアの愛人にするから、金はジャブジャブ与えてやるので苦労はせんと思うが。 ファウストの知らぬところで、王族によるポリドロ領の開発計画も進んではいるのだ。 ポリドロ領はヴィレンドルフ国境線から少し離れたところにある領地であるが、小さな山も川もあるし、それに領地規模はそれほど小さくない。 まだ発展余剰はあるのだ。 この世には家を継げない平民の次女、三女もたくさんいる。 あとは男さえ手に入れれば、領民を増やす事には困らない。 ……もっとも、ファウストはそんなの嫌がるだろうが。 ファウストとしては地元民による緩やかな人口上昇を考えているだろう。 それはアスターテ公爵領を統治する領主騎士として、理解できる。 だが、それでは困るのだ。 アナスタシア第一王女とアスターテ公爵の愛人が統治する領地としては小さすぎて困るのだよ、ファウスト。 私は少し自分に嫌悪感を抱きつつも、ヴァリエールの言葉に耳を傾ける。 「贅沢な暮らしなんていいのよ。私はファウストがいれば幸せだわ。あ、でも、第二王女親衛隊の子達は最後まで見届けたいから、時々王都に帰ることもあるかもしれないけど」 「構いませんよ」 ファウストが優し気に微笑んだ。 おそらく、ヴァリエールの優しいところ、第二王女親衛隊の事を忘れていない事がツボに入ったのであろう。 本当に優しい笑顔だった。 少し、ヴァリエールに嫉妬する。 その嫉妬はリーゼンロッテ女王も同じであろう。 「では、互いの了承を以て、二人を婚約者とする! 皆盛大に祝福せよ!!」 リーゼンロッテ女王の、身内にだけ判る少しばかり不機嫌な声。 その大声に応じて、王の間の騎士達が盛大に拍手した。 第64話 汝、惚れた男の言葉を疑う事なかれ 王宮の中にある、アナスタシア様の居室。 アナスタシア様の妹であるヴァリエール様と、ポリドロ卿の結婚が決定した一時間後で。 「正直に言おう、疲れた」 「本当に」 第一王女アナスタシア様は長椅子に横たわっていた。 相対するアスターテ公爵も同様の様子である。 その様子を眺める、私ことアレクサンドラも同様に床でいいから倒れ込みたい気分であったが。 第一王女親衛隊の隊長としての意地と、超人としての誇りでそれを堪える。 まあ、長椅子に横たわっているアナスタシア様もアスターテ公爵も、同様に超人ではあるのだが。 「結局、今回はファウストにしてやられたと言う事か?」 「いやさあ、最後は何だかんだ言ってファウストの意見に私達は同意した。それは嘘じゃないだろ?」 「それはそうなんだけどさ」 正直、ベッドにでも横たわりたい気分でいらっしゃるであろうが。 アナスタシア様は身体をムクリと起き上がらせ、呟く。 「単刀直入に言う。アスターテ、お前はファウストの演説が正しいと思って同意したのか」 「いいや、正直今でも疑ってる。リーゼンロッテ女王の言葉に理があると思っている」 リーゼンロッテ女王の御言葉。 戦争は真面目な行為の真面目な手段であるべきだ。 ゆえに、トクトア・カンは西征してこない。 私もそれには同意する。 だが。 「だけどさあ、アナスタシアよ。私はファウストの言葉にも、今は理があると思っているんだ」 交易圏の拡大。 今では神聖グステン帝国とフェイロン王朝が、細々とやっているに過ぎなかった。 シルクロード復活による交易権益の確保。 トクトア・カンの率いる遊牧民族国家の財務官僚が、異国の商人であることからなる異形の発想。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿がどうやってその情報を入手したかは知らぬ。 だが、それを考えると。 「公爵たる私の意見を、第一王女殿下に述べよう。ファウスト・フォン・ポリドロ卿の言葉には理がある。それは否定しきれるものではない。ああ、そうだ。否定しきれるものか」 「だから、ファウストのゲッシュに続いて、軍権を母上に差し出したと。アスターテ公爵殿、母君が悲しまれるぞ」 「あー、私がこっちにいる間の領地を任せてるからな……。今日の事情を知らない母上殿は激怒するだろうね。限定条件下とはいえ、何故軍権など差し出したと」 アスターテ公爵は、長椅子に横たわったままだ。 仰向けになり、手を大きく伸ばしてひらひらと手をかざし、それに応える。 「だが、必要だ。遊牧民族国家がもし襲い掛かってくると仮定する。仮定するならば、ファウストの言葉通りに軍権の統一が確かに必要だと考えるのだ。それは間違っているか?」 「間違っていない」 アナスタシア様が、いつもの爬虫類じみた眼光のアルカイックスマイルで答えた。 私も間違っていないと断言できる。 一時、現地視察の名目で第一王女親衛隊の隊長としての職務を副隊長に預け、北方の遊牧民退治に出向いたことがある。 強力な遊牧民を殺すには、一人でも多くの超人の数が必要とされたからだ。 辛い闘いであった。 ポリドロ卿の言葉を借りよう。 人馬一体と化した騎射を当然のように行う。 軽騎兵ゆえに逃げ足も速い。 容易に根絶できるものではない。 そんな連中がヒット・アンド・アウェイを繰り返しては、北方の村や町を襲い、略奪しているのだ。 超人の技量から私はかすり傷すら負う事も無く、何人も殺したが。 奴等の戦闘士気の維持能力は異常だ。 私が自前のロングボウで馬を射殺し、ある一人のどうという事もない遊牧民が地面に転げ落ちた時の話だ。 もはや逃げ切れぬと判断した遊牧民はその場で立ち止まり、自分が所持する矢種を射尽くすまで撃ち続け、自分の部族の遊牧民が逃げ切る時間を稼ぐのだ。 何度もそんな現場があり、私は遊牧民の誰もがああいう行動に出ると理解した。 家族が人質のような形になっているのであろうな。 おそらく降伏したと見てとられれば、家族が殺される。 降伏したことで部族の滞在地等の情報が洩れ、我々が報復する事を恐れてだろうな。 効果的なのは、ヴィレンドルフのクラウディア・フォン・レッケンベルが行ったような、部族長、そして次席指揮官をも続けてアウトレンジから射殺し、騎馬突撃を行う方法。 斬首戦術による士気崩壊からの、重騎兵による騎馬突撃という何もかもを押しつぶす超強力な踏み荒らしである。 来年の軍役でポリドロ卿が遊牧民討伐に参加されるならば、彼をレッケンベルに見立てた戦術として王家正騎士団に提案しようと思っていたほどだ。 だが。 それも、ポリドロ卿に言わせればトクトア・カンが率いる万の騎兵には通用しない。 絶望的である。 「アスターテ公爵として再び述べよう。王家として、損があったか? もしトクトア・カンが攻めてこなくても、責任は全てファウストが取ってくれる。何の損があった」 「……辛そうね、アスターテ」 「決まってるだろ。辛いよ。戦術の天才と言われながら、今回の状況の変化を読み切れなかった。私は真の大馬鹿者だ。無能だ。何が鬼神のアスターテだ。ヴィレンドルフ戦役ではアイツは私と一緒に死地にいた。だが、今回ばかりはアイツは一人ぼっちで死地に立っている」 アスターテ公爵が、長椅子に仰向けになったまま。 顔を両手で覆い、泣きそうな顔で呟いた。 「トクトア・カンが攻めてこなければ、7年後にはファウストが死ぬ。攻めてきて欲しくはないが、攻めてこなければ私の惚れた男が死ぬ」 「アスターテ」 「ファウストが死んじまうんだよ、クソッタレが!」 アスターテ公爵がむくりと起き上がり、テーブルを大きく叩いた。 激しい打撃音が鳴り、超人の膂力により跳ね上がったテーブルの脚が床を叩く。 「落ち着きなさい、アスターテ」 アナスタシア様の御心は、アスターテ公爵とそう変わりないであろう。 だが、きわめて冷静に努めようとしていた。 アナスタシア様は初陣にて、一つ失敗をなされた事がある。 初陣たるヴィレンドルフ戦役において、レッケンベルの策略により本陣にヴィレンドルフ精鋭の騎士が30名浸透し、突撃。 才能ある親衛隊30の内、10名をも失った。 アナスタシア様はその王家の血筋から来る発狂状態に入り、敵の精鋭の内15名をご自身のハルバードで斬り殺した。 アスターテ公爵との通信が途絶えたその間に、ヴィレンドルフ軍はレッケンベルの指揮により、我が軍を包囲。 あそこでポリドロ卿がレッケンベル相手に一騎討ちへと持ち込み、勝利しなければそのまま敗北していたであろう。 アナスタシア様は、あの時の事を致命的な失敗であったと後悔しておられる。 だから、どんな時でも冷静に努めようとする。 爬虫類のような眼光はより鋭利に研ぎ澄まされ、冷酷ささえも帯びる様になった。 ……親衛隊の皆には、本当は優しい方なのであるが。 最近では妹であるヴァリエール様にも優しくされるようになったが、だからといってあの時の屈辱を忘れたわけではないだろう。 だから、アナスタシア様は冷静に呟くのだ。 「ファウストは死なないわ」 「何故そう思う!?」 「ファウストの予感が的中すると思うからよ」 音が、一瞬消えたように思えた。 私も一瞬、耳を疑った。 アスターテ公爵が、戸惑った顔のままで短く呟く。 「何と言った?」 「トクトア・カンは攻めてくる。リーゼンロッテ女王、母上とは違って、娘たるアナスタシア第一王女は、トクトア・カンが攻めてくる可能性が高いと言ったのよ」 「ファウストの言葉に理はある。理はあるが、可能性としては低い。シルクロードの東からはるばる攻めてなど来るものかよ」 けっ、と唾さえ吐きそうな顔で、アスターテ公爵が顔をそむけた。 だが、アナスタシア様は冷静に喋り続ける。 「本当に神託の可能性がある」 「はあ? 気でも狂ったのかアナスタシア。火炙りの刑にされた異国の『彼』と同じだとでも」 「私に言わせれば、異国の『彼』は本当に狂ってただけよ。戦場のルールさえ知らなかった男の超人。まあそんな事はどうでもいいわ。私の知るところの情報では、ファウストがあそこまで遊牧民族国家の知識を、短いヴィレンドルフにおける滞在で知り得たとは思えない」 アスターテ公爵が、そむけた顔を前に戻す。 だが、その表情は馬鹿にしたように歪んでいた。 「満座の席でさんざん馬鹿にされた、アンハルト王国における諜報統括を担っているヴェスパーマン卿の情報なんぞ知れてるだろう?」 「ヴェスパーマン家はあそこまで言われる程無能ではないわ。まあヴィレンドルフにおいて、レッケンベルが構築した防諜の手強さ――死後2年経っても全く緩まないそのすごさは認めるけどね」 クラウディア・フォン・レッケンベルは万能型の超人であった。 政治・軍事の両面において多大な成果を見せており、それは情報網の構築や防諜においても才能を見せていた。 ヴィレンドルフ戦役において敵の侵攻を読み取れなかったのはヴェスパーマン家の無能ではなく、レッケンベルの有能さが勝ったと言うべきであろう。 まあ、その敗北の代価を支払わされることになったポリドロ卿、アナスタシア様、アスターテ公爵、そして私などといったヴィレンドルフ戦役被害者会の面々はボロクソに言っても許されるとは思うのだが。 「ともあれ、ヴィレンドルフですら、あそこまでの情報を入手できてるとは到底思えないのよ。ヴィレンドルフは確かにファウストに遊牧民族国家の情報を開示した。フェイロン王朝から流れた超人からの情報さえ渡した。けれど、ファウストが持っている情報と知識は俯瞰的視点から得たもの、とてもヴィレンドルフから調達できたとは思えない」 「だから神託? 神から与えられたものだと」 「そうよ。そう考えた方が筋が通る。ファウストは私達もヴィレンドルフも知らない何かから情報を得た。それは何か? 御用商人のイングリット商会? 亡き母親マリアンヌの領地経営日誌? はたまた、シルクロードの東の果てから流れて来た吟遊詩人から?」 どれも当てにならない。 なるほど、確かにポリドロ卿が入手できる情報など限られている。 私としても、遊牧民族国家の情報をヴィレンドルフがそこまで得ているとは思えない。 アナスタシア様に言われて見れば、であるが。 なれば、本当に―― 「本当に神託だと?」 「神託だなんて言っても筋が通らない。誰も信用しない。ファウストは悩みあぐねた結果、自分の口で、ヴィレンドルフから得てきた情報だとして遊牧民族国家の状況を演説し、最後にゲッシュを誓う事で皆の信頼を得た」 「む」 アスターテ公爵が自らの口を押えながら、考え込む素振りを見せた。 確かに。 確かに、神託をポリドロ卿が得て、その知識を皆に判りやすく開示したとすれば筋は通る。 「私にはこれ以上思いつかなかった。ファウストは頭は決して悪くない。むしろ回転は速い方。だけれど政治オンチだわ。ゲッシュに至るまでの決意と、あそこまでの情報量の演説とで、領主騎士の皆を納得させた以上は」 「ファウストにあそこまでの決意をさせたのは神託があったゆえと考えた方が、まあ筋が通ると言うか、面倒臭くないと言うか、理解しやすいと」 「私、理解できない事って嫌いなのよ。ファウストが情報を得られる手段は、もはや神託以外に無いわ」 アナスタシア様は理解不能な状況を嫌う。 なれば、多少不可解でも理解可能な状況を選ぶ。 何より、私とて聞かされてみればアナスタシア様の御考えが正しく思える。 「ならば、ファウストの言葉を丸々信じるのか?」 「信じるわ。ファウストがあそこまで言ってのけた以上は信じる」 そこまで言い切って、アナスタシア様は途中で言葉を切り。 私とアスターテ公爵の二人が耳を澄ましてようやく聞こえる様な小さな声で、呟いた。 「惚れた男が命がけで言う事なんだから、信じてあげたいじゃない」 神託だとか。 他に情報源がないだとか。 色々理由を付けてみたものの、アナスタシア様の本音はそれなのだろう。 「そうか、判った。判ったよ。私もそうする」 アスターテ公爵は、打てば響く鐘のように笑って答えた。 アナスタシア様とアスターテ公爵の気持ちは完全に同調した。 惚れた男のために、この際骨の髄まで信じてみることにしようか。 あのゲッシュでの決意を、ポリドロ卿のあの時あの場面での立場や、今後の利益を考えての事ではなく、今後とも真実にすることで結論付けたのだ。 「ならば、やる事は一杯あるな。まずは来年の遊牧民族滅、ファウストが言ってのけたように一年でやってみせるぞ。参加する王家正騎士団と、軍役として参加する領主騎士。その連携、いや、軍権の統一というべきか。難しい問題だぞ」 アスターテ公爵が、非常に難しい問題を笑って口にする。 アナスタシア様ならやってのけられると信じているのだ。 「もちろん、そうするわ。協力してよね、第一王女相談役」 アナスタシア様が、眼光鋭いアルカイックスマイルではなく、珍しく相好を崩した顔で呟いた。 「はいはい、承知しましたよ」 アスターテ公爵は笑ってそれに頷いた。 アナスタシア様と、アスターテ公爵は本当に良いパートナー同士なのだ。 私は口の端を綻ばせ、静かに安らいだ気持ちになった。 ――結局、アナスタシア、アスターテ、アレクサンドラ、この三名は気づく事が無かった。 ファウスト・フォン・ポリドロの考え。 それはあまりに情報入手元の謎から、神託まがいのものであるとして片づけられたが。 実際のそれは転生者としての前世の知識から来るものであり、神託よりも根拠がなく確証たりえないと言う事は。 この世界の誰も知らない。 第65話 トクトア・カンの西征準備 1000人ほども入る、巨大な幕舎であった。 30分ほど歩けば、石造りの城壁で囲まれたフェイロンの王都があるにも関わらず、遊牧民族国家の女王たるトクトア・カンはそこには住んでいない。 嫌いなのである。 それはトクトアだけでなく、他の遊牧民も同じであった。 遊牧民たる彼女達は、石造りの都に住むことを何より嫌った。 アレは我々の住む場所ではない。 何も、彼女達とて自由奔放に草原を駆け巡って好きな時に好きな場所で住んでいるわけではない。 部族ごとに固有の夏営地、冬営地などの定期的に訪れる占有的牧地をもっているのだ。 まあ、人口の過密化による部族同士の争いが発生し、土地を奪い合う事もあったが。 それは、今はもう無い。 トクトア・カンという強力な超人の出現によって、部族同士の小競り合いはなくなった。 表向きには。 裏では少なくなったものの、部族同士の小競り合いや殺し合いも起きている。 だが、それも仲裁、時には一方を裁く王がいるからには、やはり昔とは違うとは言えよう。 まあ、ともかくだ。 何にせよ、石造りの都は遊牧民たる彼女達の住む場所ではないと決め込んでしまっていた。 ただ、何事にも例外は存在する。 王都に住んでも良いと考える遊牧民も、少なからず存在する。 トクトアの娘である、セオラがその一人であった。 セオラ、遊牧民の間では「考える者」や「見る者」と言った意味の名を持つ少女。 彼女は王都の居住地から幕舎の中に入り、真っ直ぐとその中央へと進んでいく。 幕舎内の構造は理解していた。 「母上、おられますか」 「もちろん居るとも。好き好んで石造りの都市に住む、変わり者の我が娘セオラよ」 「必要な事です。ご存知でしょう」 セオラは、嘆息しながら答えた。 彼女とて遊牧民の生活の方が長い。 幕舎やゲル、要するに移動式住居で過ごすのが嫌いというわけではなかった。 セオラが王都で過ごすのは、異民族の実務官僚たち。 それらの長を務めているためである。 彼女は遊牧民の生まれではあったが、政治方面の能力に非常に長けていた。 「今日こそは、国号を決めて頂きます」 「またその話か」 トクトア・カン。 セオラの母親であり、騎兵にして20万の軍を率いる遊牧民族の長はどうでも良さそうに呟いた。 「フェイロンは滅ぼしました。フェイロン王朝を地の果てまで追い詰め、王族を血の一片すら残さず皆殺しにする間にも、我が国家の規模は拡大しています」 「キュレゲンは帰順したな。賢い女どもだ。思わず我々王家に準ずる地位を与えてしまった」 「有能なのです。戦力差を最初から理解し、全面降伏しました。経済感覚に優れており、財務官僚としてだけでなく、あの民族は統治のための文官にも起用できるので助かります。数十年後ならばともかく、今支配したばかりのフェイロンの民を重用するのは難しいですからね」 セオラは、母親の言葉に力強く頷く。 本当に助かったと言う顔だ。 統治のための人材が不足している。 実務官僚が本当に不足しているのだ。 元々、遊牧民の数はフェイロン王朝に比べるととても少ない。 騎兵20万の家族を含めても、トクトア・カンの率いる遊牧民の数は百万に満たない。 それでも数千万の人口数を誇るフェイロン王朝を滅ぼした。 彼女達、遊牧騎馬民族はそれこそ狂ったように強すぎたのだ。 「強い、強い、我らは無敵だ。稲妻も雷鳴も我らを阻む事など出来はしない。そうはしゃぐのは結構。ですが、統治の実務を担当する身にもなってほしいものです」 「そんなに人が足らんのか?」 「むしろどうすれば足りると考えているのです!」 とぼけたように呟く母親に、セオラは石でも投げつけてやりたいと思った。 どれだけ苦労していると思っているのか。 それが母親であり、かつ強烈なカリスマを持つ超人たるトクトア・カンには判らなかった。 放埓。 馬が柵である埒から出る、というその言葉通りの性格であった。 つまり、何事にも縛られず自由であるのだ。 国家を征服してしまった後の統治の事など、その頭の中には無い。 だからこそ、セオラが苦労している。 だがキュレゲンが帰順するなら帰順するで、それを全面的に肯定し、国を丸ごと取り入れて王家に準ずる地位を与え、民を重用してしまう。 そんな無茶苦茶なところがトクトア・カンにはあった。 そして、その無茶苦茶がこの国家にとって良い方向に進んで来たからこそ今がある。 だからこそ、セオラはこのトクトア・カンという自分の母親にしてこの遊牧民族国家の女王を、全面的に否定する事は難しかった。 セオラは話を戻した。 「まあいいです。それより今日こそは、国号を決めて頂きます」 「面倒くさい」 繰り返そう、トクトア・カンは放埓であった。 国の名前を決定し、それに縛られる事すら面倒臭がったのである。 だから国号を決めたがらない。 セオラはそれを理解していたが、国号を決めないとトクトア・カン以外の人間は余計面倒臭い事になる。 今までは単純に、遊牧民の言語、原義は「人の渦」という意味を表すウルスと呼んでいた。 何、国家が大きくなった? じゃあ大ウルス。 それでいいじゃあないか。 トクトア・カンは今までそう言い捨てていた。 余りにも酷い。 「母上、ウルスは国家の名前ではありません。それは人間的集団という意味の言葉です」 「我々が使い続ければ、国家という言葉になるだろう。いや、すでになっていて何の問題もない。歴史を作るのは我々だ」 「そうでしょうけどね」 一理はあった。 それはそれとして、じゃあ国家の名前は決めろよ。 文官としては面倒臭くて仕方ないのだ。 セオラは、今日こそは国家の名前を決めてもらうつもりでいた。 「じゃあ、モンゴルで」 「はあ?」 モンゴルという言葉の意味。 それは遊牧民の間で、「素朴で脆弱」という意味を表す。 ふざけてるのか、この母上は。 「イェケ・モンゴル・ウルス。大きく、素朴で脆弱な、国家。それでよい」 「よくありません。何処に素朴で脆弱などという意味で、国家の名を付ける馬鹿がいるのです」 「面白いじゃないか」 面白いか面白くないかで、国家の名前を決めるな。 セオラは頭痛がした。 きっと、トクトア・カンの名前を聞いただけで身が打ち震え、心が焦がれる思いをする遊牧民のノヤン、つまり部族を有する領主達。 彼女達は笑って、その国の名を受け入れてしまうに仕方ない。 さすが我らが女王、トクトア・カンだ。 洒落が効いている。 この母上の言葉を以てして、只今よりこの国家の名前は大モンゴル国だ。 ああ、そうだ、この人はいつもそうなのだ。 いつも面白いか面白くないか、それだけで突き進んでしまう。 セオラは眩暈がした。 しかし、自分の領分の仕事はキチンと果たさねばならぬ。 セオラはトクトアの性格には全く似ず、父親似の性格と呼ばれ育ってきた。 もっとも、それで恥ずかしい思いをしたことはない。 セオラは文弱な娘ではなく、戦場においては1万の騎兵を率いる万人隊長。 王の娘としての仕事を果たし、フェイロン王朝を滅ぼし、それを守る幾百人もの超人を敵に回して討伐、或いは懐柔して仲間に取り込んで来た。 時にはフェイロンの技師や超人の所まで自ら出向き、調略する事すらあった。 万能型の超人たる彼女を侮る者など、このウルス、今では大モンゴル国と国号が定められた遊牧民族国家では一人としていなかった。 「承知しました。大モンゴル国として、国号を公布します」 「おいおい、本気でやるつもりか。アホみたいな国の名前だぞ」 「母上が言ったんでしょうが!!」 駄目だ、この人に付き合っていると話が進まない。 国号は決まった。 国号は決まったのだ、セオラにとってはアホみたいな名前だけど。 次の話をしよう。 「パールサの陥落、お疲れさまでした」 「やっとな」 先日まで、トクトア・カンはパールサ王朝を滅ぼすために国外に出ていた。 多くの人畜という名の男、そして財宝を略奪して帰って来た。 その戦争に参加した武将への論功行賞、財貨の分配がやっとの事で終わり、今ようやく娘と母親とが話し合う時間を取れたのだ。 パールサとの戦争のきっかけは、せっかく友好を結ぼうとした我が国の派遣した使節団と隊商が殺され、その財貨が略奪されたから。 という事に表向きはなっている。 実際には、もちろん違うのだが。 「パールサの土地がやっと手に入った。それに、商人を甘えさせてばかりというわけにはいかん。アイツ等にはいい薬になったろう」 最初から侵略目的である。 パールサが所有する高原、つまり新たな牧地の貴族達への授与、戦利品の分配、略奪、虐殺、パールサで我らが行ったそれらを当初から目的としたものである。 母上は、それこそ私が産まれる前から、異国の商人からの援助を受けていた。 金銭的支援はもちろんの事、フェイロンやパールサの投石技師、武器の職工の紹介。 果ては、財貨として部族に分け与える男を送り届けることまで支援させた。 もちろん、理由はある。 彼女達異国の商人は見返りとして、財務官僚としての地位を望んだ。 母上がその優れた直感以外でどこまで内実を理解しているのか知らないが、今の文官の長たりえ、政治的能力に恵まれたセオラには理解できた。 数千万の民を持つフェイロン王朝の財務官僚としての立場、徴税権、強烈な見返り。 得られるのは国から得られる給金だけではない。 いや、むしろそんな小銭は必要とすらしていない。 徴税を代行すると言う事は、国庫に入る膨大な金を少しばかりくすねる事も出来ると言う事だ。 更に彼女達は、商人としての仕事も忘れてはいない。 遠征軍や対外戦争のための物資の調達や、輸送網の確保をしていく中で、国家主導による超大型の通商・流通を作り出す。 当然、財務官僚として特別な立場を持つ彼女達は、それを利用して稼ぎ出す。 さて、彼女達は母上への投資額に対して、既に何百倍もの額を稼ぎだしたであろう。 これからは、何千倍という額を稼ぎ出すのかもしれない。 だが、解雇する事も出来ない。 人材の代わりがいないからだ。 セオラは小さく呟く。 「いい薬、ね」 彼女達の代わりなど、何処の世界にいるというのか。 誰が当時、はるばるフェイロン王朝の北の大草原までやって来て、我が母上たるトクトア・カンに援助するなどと。 この場では見返りは何もいらない、一方的に投資するだけなどと。 代わりに遠い将来、貴女がフェイロン王朝を征服したならば、我らを財務官僚にしてくれなどと言うのだ。 彼女達にとっては遊牧民の素質、20万の騎兵を有する国家が成立すれば、必ずや強大になりフェイロン王朝を征服できると確信できたのだろう。 だが、常人から見れば完全に夢物語で、旅の徒労と無駄な投資にしかならぬものでしかない。 我が母が、たった一人の超人たるトクトア・カンが現在こうなるなどと確信できる化物じみた連中なのだ。 あの異国の商人にして、我が国の現在の財務官僚という連中は。 多少気に食わなくても、代わりなどいない。 絶対に敵に回すべきではない、むしろ重用すべきなのだ。 何故なら、彼女は少しばかり金はくすねるけれど、それは遊牧民がやっても同じことをするだろうから。 いや、もっと酷くなるかもしれない。 セオラはそう判断する。 雑考。 それを止め、セオラは思考を現実に戻した。 「商人には、いい薬とおっしゃいましたが」 「パールサの商人は、今では我が国の民となっている者たちは、祖国であるパールサとは友好による交易路の保護と拡張で儲けることを考えていた。ふざけるなよ、と」 トクトアが、馬乳酒を口に含む。 器に入ったそれではない、牛の胃袋を使ったフフルという袋の口からである。 遊牧民としての昔からの習慣は、女王となった今でも抜けていない。 「裏切り者は死ぬべきだ。そして裏切らなかった人間にも、少しばかり判らせる必要があった」 「まあ、否定はしません」 トクトアは祖国パールサへの侵攻に反対した実務官僚や商人を、使節団と隊商として送り込み、こちらが潜り込ませた工作員に殺させた。 哀れにもパールサの総督に罪を擦り付け、その名前で隊商が抱えていた積荷を街で売り飛ばしたのだ。 後は簡単だった、罪もない総督を批判し、処罰するよう使者という名の喧嘩をパールサに売った。 パールサはトクトア・カンに抵抗する道を選んだ。 そして、滅んだ。 大モンゴル国が余りに強かったゆえに。 そして、多くのパールサ人の実務官僚が国情や地理に関する詳細な情報をトクトアに提供したゆえに。 「いやあ、殺した。殺した。パールサでは本当に沢山殺したぞ、セオラよ。お前は気に食わないであろうが」 「気に食いませんね」 セオラは、もはや諦めてはいるのだが、愉快そうな母の言葉に否定的に答えた。 「人の命はもっと効率的に使用するべきです。死はその機能を喪失させます」 「セオラよ、人の命に意味など無い。死ねばただの血と肉の塊だ。家畜と同じよ。土に還る。だが、唯一この世に残す物がある。死への恐怖だ」 セオラは、母親の事が決して嫌いではない。 だが、その人格面ばかりは擁護できなかった。 温厚たるセオラにとって、母親の残酷性を認めるのは余りにも困難であった。 「罪もない総督、彼女は母上の眼前にて、両目と両耳に溶かされた銀を流し込まれて殺されたと聞きました。本当に何の罪もないのに。彼女は最期まで自分の無実と慈悲を、母上に訴えたと聞いています」 「私は先に言ったぞ、セオラ。裏切らなかった人間にも、少しばかり判らせる必要があったと」 馬乳酒を口にしながら、御機嫌の様子でトクトア・カンは呟いた。 「もう、これでパールサ人は誰も裏切らない。恐怖こそが人を抑えつける。私やお前に仕える『元パールサ人』の実務官僚たちは、たった一人の犠牲で、次の犠牲者を生み出さなくて済むのだぞ。感謝して欲しいくらいだ」 トクトアは度々、恐怖というものが如何に効率的であるかを皆に口にする。 確かに、効率的ではあった。 彼女達の祖国、パールサはもう征服されたのだ。 我々は侵攻した、破壊した、放火した、虐殺した、略奪した、そして去った。 パールサ人はもう誰も逆らわない。 「それにしても、パールサ侵攻にあたっては人を殺し過ぎました」 「ちゃんと殺したのだ。沢山殺したのだ。人が恐怖に怯え、トクトア・カンの名を聞くだけで泣き喚いて命乞いをするほどに殺したのだ」 三度、殺したのだとトクトアが口にする。 続いて口にするのは、お決まりの台詞だ。 「恐怖こそが人を支配する」 馬乳酒を完全に飲み干し終えたのか、袋が萎む。 トクトアは空の袋を地面に投げ捨て、呟いた。 「パールサ人は我らの統治にもはや逆らわない。綺麗さっぱり滅ぼした。だがいずれ、放っておけば人口も元に戻るさ。そうだな、私の孫の代には戻っているさ。だが恐怖は薄れぬ」 首を横に振り、コキコキと骨を鳴らしながらトクトアは呟く。 「もうパールサに関してはどうでもいいだろう? セオラよ」 「ええ、もう結構です。パールサに関しては、もはや何も言いませぬ」 セオラの言葉は何一つ、トクトア・カンには届かないであろう。 諦めるしかなかった。 済んでしまった事を口にしても仕方ない。 だが、これから話す事に関しては思い留まって欲しかった。 「先日の集会にて、私が留守にしている間に西征が決定されたと聞きましたが」 「なんだ、もうバレてるのか」 「母上!」 何を考えているのだ。 パールサへの侵攻を終えたばかりなのだぞ。 支配したパールサの牧地を貴族達へ分配したからそれで終わり、そういうわけにはいかない。 征服した以上、統治しなければならないのだ。 「パールサの統治はどうするのですか!?」 「綺麗さっぱり滅ぼした。しばらくは人口が増えるまで大丈夫だ。パールサの今後は異国の商人達に知事職を任せてある。娘たちに領土も分配したしな」 おそらく、パールサの統治はロクなものになるまい。 セオラは眉をしかめた。 徴税権が金で売り買いされ、治安は乱れ、人頭税や臨時徴税の反復徴収が行われるであろう。 知事たちは横領し、国庫には一銭も収まらない。 その腐敗の光景が容易に想像できた。 セオラと違って、他の姉妹に統治適正などない。 自分さえ贅沢できればそれでよく、国家や民の安寧を望む意思などないであろう。 一般の民の困窮など気にも留めはしない。 セオラには、民の怨嗟の声が聞こえるようであった。 もう一度言うが、他の姉妹に統治適正など無い。 そもそも遊牧民にそれを求めるのが無茶というものだ。 土地に馴染んだ娘、孫の代に、税制改革が行われるのを期待するしかないであろう。 「母上は、人の気持ちが判らない」 「理解しているさ。お前は妙な娘だ、セオラ。人はお前のように下の者に気遣う者は少ない。むしろ、お前がおかしいのだ。そこの所を理解しているのか?」 「そんな事わかっております」 セオラは、小さく呟いた。 遊牧民としては、いや、この支配する土地の元フェイロン人と比べても、やはり私の方がおかしいのであろう。 戦場とあれば勇ましく闘おう。 だが、必要とする略奪ならまだしも、必要としない略奪までやる必要はない。 セオラは、食べていけるだけの物が手に入れば、それで十分と考える性格であった。 だから。 だからこそ御免であった。 「征西する。遥か西のアンハルトやらヴィレンドルフやらの北方によい草原地帯があるらしいぞ。そこを拠点にし、両国を滅ぼそう。途中までの国の領地は配下や他の娘に。セオラには、そのアンハルト?やらヴィレンドルフやらの土地をやろう。お前が望む理想の治世をやりたいのであれば、そこでやるがよい」 「お待ちください。私は土地などいりませんし、この国の実務官僚の長はどうする気ですか!」 「セオラ、理解しているかしていないのか。お前が積み上げた今までの功績では、どこかに土地を分け与えぬわけにはいかぬし、そして実務官僚の長をこのまま続けることも許されぬ。このまま長を続ければ、まるでお前が私の後継者のようではないか。後継者は別にいる」 判っている。 セオラは判っている。 母上の後継者には成れない事も、いつか何処かの土地を分け与えられることも。 だが、セオラは自分の立場を忘れて、もはやフェイロン王都に留まり、実務官僚として働ければそれで充分であった。 それで自分の人生は幸せであった。 しかし、トクトア・カンに言ってもそれは通じない。 許されないのだ。 「征西の準備を整えよ。西の果てまで行くのだ。かつてあったというシルクロード、今は寂れた数百名の旅人や商人だけが行きかう道。その交易路を再度造り上げ、征服し、我が人生の完了とする」 トクトア・カンには夢があった。 この大陸の全てを統べるという、常人には理解もできない途方もない夢が。 商人の利益にも、征服した土地の統治にも、果ては娘の懇願にも左右されない。 それは単なる個人の壮大な夢であった。 それに巻き込まれる人間は、たまったものではないだろうが。 セオラは目を閉じ、これからその夢のために、殺されゆく人々に瞑目するように。 小さな、本当に小さな溜息をついた。 第三章 完 王配ロベルト暗殺事件調査編 第66話 女王陛下の政務室 金が足りない。 時間が足りない。 政務がしんどい。 要はこの三点である。 「リーゼンロッテ女王陛下、次の案件の決裁であります」 「またか」 政務室。 王城の一室に設けられたその部屋にて、リーゼンロッテこと私は愚痴を吐いた。 机の横には実務官僚の中でも選り抜きたる、若手の上級法衣貴族が立っている。 寝不足である。 すでに述べた三点が、私の最近の寝不足とストレスを引き起こしていた。 まず金がない。 今年の予算に支障をきたしている。 我がアンハルト王国は銀山を王領内に有しており、裕福ではある。 だが、最近の案件にはいささか今年の歳費に事欠く羽目になった。 「カロリーヌの反逆」、この報酬に関してはポリドロ卿が10年での支払いを望んだ事で問題ない。 「ヴィレンドルフとの和平交渉」、これに関しては大きい。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は今回の嘆願、「ポリドロ卿ゲッシュ事件」を起こした事から報酬の受け取りを拒んだが、それはそれ、これはこれ。 功績には報酬を、罪には罰を。 今回の功績に対し、多額の報酬を与えぬわけにはいかぬ。 まして、今回別に王家は損をしていない。 ポリドロ卿の嘆願により、王家が遊牧民に対する軍権を得たというメリットだけだ。 結果としてファウストの申し出を断り、今回多額の報酬を与えることを約束した。 今年におけるアンハルト王国の歳費は、明らかにオーバーしている。 「今度は私の胃に優しい話なのだろうな」 「とっても優しいお話ですよ。リーゼンロッテ女王陛下。例のバカ共の処分の話です」 「ああ」 入れ、と声をかける。 ドアから入って来たのは、ファウストの嘆願を一字一句書き残した紋章官。 アンハルト王国における全ての貴族の名前と顔を一致させている、類稀な記憶力の持ち主だ。 彼女には、仕事を一つ頼んでいた。 『いるもの』と『いらないもの』の区別だ。 「リーゼンロッテ女王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」 「世辞は良い。リストを渡せ。直接持って来い」 「は」 机の上で、指と指を交差させながら。 私は、ようやくストレスが解消できそうな案件が来たと胸をなでおろす。 差し出されたリストを眺める。 「これが『いらない』奴らだな」 「家ごと潰しましょうか、個人を潰しましょうか」 横に立っている上級実務官僚たる彼女が、若干楽しそうに声をあげる。 「家ごとで良い。細かい配慮の必要はない。こんな愚か者を当主にした家が悪いのだ」 「了解しました。処理はヴェスパーマン家の方に?」 「いや、殺すまではしなくてよい。死体の処理も面倒だ」 我々は山賊でも暗殺集団でもないのだ。 そして、今回潰すのは法衣貴族であり、領主騎士ではない。 工作員を使うまでもない。 真正面から叩き潰す。 「王命として命ずる。この『いらないもの』リストの家は全員爵位を取り上げる。全員に返上させよ」 「もし拒めば?」 「ああ、救いようもないアホだからそういう女もいるか。何、そこらの壁に顔でも叩きつけて歯を全部折れば、嫌でも頷くだろう。そこから先の人生は知らんが」 私は決済書類たる『いらないもの』リストの名前を読み上げる事もなく、そのままサインした。 これにて十数人の法衣貴族の処分が決定された。 その先、家族一同平民となるであろう。 その先は何とか食っていくのか、飢えて死ぬのか、知った事ではない。 救済措置など取る必要はなかった。 救国の英傑たるファウスト・フォン・ポリドロ卿を侮辱したのだ。 その無能は、死にも相応しい罪であった。 その場で首を刎ねないだけ優しいではないかというのが、リーゼンロッテの心中であった。 「これで予算が浮くか?」 「正直、下級の法衣貴族の給金が十数人分浮いたところで大差ないかと。まあ数十年単位で眺めれば効果的ではありますが。数年後にはアナスタシア第一王女殿下の親衛隊30名全員を世襲貴族にしなければなりませぬ」 「そうだな、それがあった。だがそれは予算に計上済みであろう? もうよいぞ。今回はよくやった。お前の働きはよく記憶しておく」 下がってよい。 立派に働きを為した、有能なる紋章官に命令を告げる。 コイツみたいに有能な奴ばかりになれば、こんな気苦労をしなくてもすむのだが。 優雅に紋章官が頭を下げ、そのまま部屋から立ち去る。 ドアが閉まる音。 「眠い。少し寝ても良いか」 「御歳を召されたようで」 「夫を手に入れたばかりの若者に何がわかる」 軽口を叩く。 私はこの横に立つ、まだ歳若い実務官僚が嫌いではない。 有能だから。 それは今のリーゼンロッテの心を慰めるには何よりの事であった。 もう無能のアホには心底ウンザリさせられていた。 「ロベルトが生きていれば。夫を一晩抱きもすれば眠気など吹っ飛ぶのであるが」 愚痴、猥談めいたそれを一つ、口にする。 「気の利いた侍童を寝所に寄越しましょうか?」 「いらん。ロベルトが死んだ今、代わりなど――」 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿であれば?」 閉口する。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿であれば、か。 それにはさすがに、言葉が詰まる。 私のロベルトへの愛は、間違いなく本物である。 だが、逝ってしまった。 殺されてしまった。 5年前、バラ園にて一人寂しく逝ってしまった。 原因不明。 亜ヒ酸等の毒ではない。 銀は反応しなかった。 外傷もなかった。 ただ青白くなった死体が横たわるのみであった。 ヴェスパーマン家に調査を依頼したが何も得られず。 何の成果も得られませんでした。 あの時、あのセリフを聞いた時は、思わず先代のヴェスパーマンを殺してやろうかと思った。 5年経つ。 調査は娘マリーナの代に移っても、ヴェスパーマン家の威信を懸けて続けられている。 だが、もう無理であろうな。 諦めるべきだ。 調査を断念すべきだ。 今のアンハルト王国には、調査を続けるのに無駄な予算と人員を割く余裕などない。 ファウストの嘆願とゲッシュ。 それにより、この国は北方の遊牧民族の族滅。 そして――私には未だ信じられぬ事であるが。 ファウストの言葉によれば、7年以内に侵略してくるであろう。 東の果ての遊牧民族国家への対抗策を練らねばなるまい。 だが。 「嗚呼、口惜しい。誰がロベルトを殺したのか」 棺に泣き縋る、当時9歳だったヴァリエールの姿を思い出す。 誰も彼もが泣いていた。 誰からも愛された男だった。 本当に誰からも愛された男だったのだ。 太陽のような男であったのだ。 その容貌を揶揄する人はいても、心の底では親しまれていた。 私以外にも発狂するように、嘆き悲しんだ者が多くいた。 その多くは、下級の法衣貴族であった。 夫、ロベルトは私の施政に対する苦情や嘆願などを一手に引き受けていた。 私の手を煩わせる事など無かった。 本当に窮する者がいれば自らの歳費を削って、職や食い扶持を用意して、その者達を助けてやっていたのだ。 誰もが、ロベルトを殺した犯人を見つけ出すための協力を申し出た。 私も手練手管を尽くした。 だが、それでも見つからなかった。 嗚呼。 「今更、今更だ。犯人が見つかるはずもない。ロベルト暗殺事件の調査は打ち切りとする」 「リーゼンロッテ女王陛下、一つ、思いついたのですが」 「何か」 ロベルトの事を考えると泣きそうになる。 机の上で交差した指と指をほぐし、実務官僚の声に応じる。 「ポリドロ卿に、犯人捜索を依頼しては如何でしょう」 「何故そうなる?」 意味が判らん。 何故、そこでファウストの名前が出てくる。 ファウストは工作員でもなんでもない。 ゲッシュの際に見せた、演説と軍事面における知性の輝きには正直驚いたものだが。 それでも『武』の一文字を極めた、超人のイメージからは逸脱しない。 暗殺犯の調査など、てんで似合わない。 「ハッキリ言いますと、しばらくポリドロ卿には王都に居て頂きたく。すでにポリドロ卿は帰り支度を始めようとしていると伺いました。領民はともかく、ポリドロ卿だけは留め置いて頂きたく」 「ふむ。関係整理のためか」 「そうです」 思いつく用件をとりあえず口にしたが、当たったようだ。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿の嘆願とゲッシュにより、誰もがポリドロ卿の人柄を知りました。あの一件で、アナスタシア第一王女殿下とアスターテ公爵の手によりベールに包まれていた、ポリドロ卿の騎士ぶりを皆が知りました」 「ポリドロ卿と縁を結びたい貴族が増えると。領地に沢山の使者が訪れるであろうな」 「そうです。基本、問題はないと考えています。すでにヴァリエール第二王女殿下との婚約により、横から婚姻面で邪魔が入る可能性は消え失せました。ですが、官僚団は戸惑っております。ポリドロ卿と他貴族との関係が深まるのをどこまで認めるのか。場合によっては阻害に動かなくてはなりませぬ。少し、判断する時間をください」 パワーバランス。 第一王女派閥ですでに纏まっている貴族が崩れることはない。 私も基本、問題は無いとは考えるのだが。 先代マリアンヌ・フォン・ポリドロ卿はその行動から狂人として扱われ、周囲の貴族との縁が全て断ち切られた。 その改善はしてあげたいというのが、リーゼンロッテの私人としての正直なところだ。 だからこそ、ヴァリエールとの婚姻も認めた。 だが、超人たるポリドロ卿との関係を強化され、一丸となった領主騎士達の立場が強くなりすぎても、王族としては困るのだ。 公人としてのリーゼンロッテはさて、どう動くべきか。 少し、考えてはみたが。 「正直に言おうか、面倒臭い。それにファウストを足止めすると、また私が嫌われる」 「それが女王の仕事です。それに、いいではないですか」 「何がだ」 ファウストに嫌われるその行動の、何がいいと言うのだ。 ただでさえ今回の和平交渉にて、領地からトンボ返りさせて軍役外の仕事をさせたのだぞ。 多分、領地に帰らせろという心境で一杯だぞ。 「ここらでしばらく休暇を御取りください。政務は決済を除き、我々実務官僚が行います。その間に、女王陛下はしばらくポリドロ卿と二人でバラ園の散策など」 「何を考えている」 「何、女王陛下の御心は判っているつもりです。第一王女殿下と、公爵は軍の再編に追われています。遊牧民対策においては軍権を領主騎士から一時預かる事になったものの、ではそれをどう統一させるのか。指揮系統をどう再編するのか。お二人はその対応に追われています。今がチャンスです!」 何がチャンスであるのか。 そう言いたくなるが、私には何が言いたいのか判っていた。 アナスタシアとアスターテ、あの二人がいない。 この僅かな空白期間を逃しては、二度と私とファウストが褥を共にするチャンスなど来ないであろう。 「しかし、どうやってポリドロ卿を引き留めるのだ? ロベルトの死と、ポリドロ卿とは何の因果関係もないぞ。今度こそは『私、全然関係ないじゃん』と激怒するやも」 「女王陛下におかれましては、カロリーヌ反逆の一件にて王命に逆らった件で一つ貸しと、そしてバラを盗んだ件でお怒りになられる権利があるかと」 「なるほど」 王命に逆らった貸しが一件、それにロベルトが大事に育てたバラを盗んだ件。 それを合わせれば、確かにロベルトの暗殺事件に絡む説得力も持たせられるか。 亡き夫のバラを盗んだのだ、私の最後の心残りを解消するのに協力しても神罰は下るまい。 ファウストも、私への貸しを返す方を選択するだろう。 「男と女がバラ園で二人きり歩く事もありましょう。事前に人払いはします。何が起きてもおかしくありません」 「お前は本当に有能だな」 手配もバッチリである。 だが、一つ問題がある。 私はロベルトを未だに愛しているのだ。 「私はロベルトを愛している。亡き夫に貞操を誓っているのだ。その愛にお前は疑念を持っているのか?」 「じゃあ、お止めになると言う事で」 「馬鹿を言うな! それとこれとは話が別だろうが!!」 すまない、ロベルト。 お前を本当に愛しているのだ。 でも私を残して死んじゃったし。 さすがに一人寝を5年も続けるのは寂しかった。 本当に寂しかったのだ。 お前も天国で、残した妻がちょっとばかし新しい恋に生きてみることを祝福してくれると思うのだ。 「最初からやるならやるで、そう仰ってください」 しれっとした顔で呟く実務官僚。 コイツはコイツでいい性格してるよな、と考える。 「ポリドロ卿は今何を?」 「先ほども言いましたが。下屋敷にて、領地への帰り支度中であるかと」 「判った。お前は本当に意地の悪い女で、人を追い込むのが好きなようだ」 今すぐファウストを呼び出そう。 そして、少しの時間、私の相手をさせよう。 願わくば、褥を共にしよう。 亡き夫のバラ園の中で、強いダマスク香が漂う中、想い出に浸りながらファウストを押し倒すのもいいかもしれない。 もちろん、同じ超人同士とは言えど、力づくでファウストを押し倒す事は不可能であろう。 だがファウストはその巨躯に見合わず、朴訥で純情で、心優しい男である。 私が一夜の想い出が欲しいと泣き縋れば、その身体を開いてくれるかもしれない。 アナスタシアやアスターテに先んじて、その初めての貞操を奪えるかもしれない。 想像するだけで、とても興奮する。 まるで18年前、侍童であったロベルトを初めて見た時のように胸が弾む。 「悪くないな、本当に悪くないな」 「では、第二王女相談役ファウスト・フォン・ポリドロ卿の下屋敷まで使者を出します。宜しいですね」 「そうしよう」 ああ、本当に楽しみだ。 アンハルト王国女王リーゼンロッテの表情は政務室の机の上で、だらしなく、かつ卑猥に崩れた。 第67話 罪と罰 「王配暗殺事件調査? 私、全然関係ないじゃん」 私こと、ファウスト・フォン・ポリドロは、第二王女相談役として王家より与えられた下屋敷。 その応接室にて、使者に答えた。 「いや、関係ないとは言えないでしょう」 長椅子の横に座っている、未だ9歳児にして大人顔負けの叡智を誇るマルティナが呟く。 何故だ。 私はもう明日には下屋敷を引き払い、我が領地たるポリドロ領に帰るつもりであったのだが。 何故その悲願を邪魔するのだ。 今年の軍役は果たした。 山賊相手のヴァリエール様初陣のはずなのに、規模が大きくなり地方領主の精鋭を敵に回す事になったが。 次に、和平交渉も果たした。 ムチムチの肢体をした同い年のカタリナ女王と、2年後に褥を共にする約束をしたけど。 いや、それは別に嫌じゃないからいいんだけどさ。 最後に、東の果てからいずれやってくる遊牧民族国家対策のためにゲッシュを立てた。 これは7年以内に遊牧民が攻めてこなければ私が死ぬんだけど、まあ良い。 あのやり方以外に、私の愚かな知能では思いつかなかったのだ。 どういう道に行きついたにせよ、やるだけの事はやったのだと諦めがつく。 で、だ。 「私は頑張ったんだ。本当に頑張ったんだ。もう領地に帰って休ませてくれても神罰は下らないだろう? 神様だって天地創造の7日目には休息を取ってるんだぞ?」 「スケールの大きな話をしますね。小さな話を大きくすると、ファウスト様の格が落ちますよ?」 「割とスケールの大きい事をこなしてきた記憶が残ってるんだが」 目の前の使者を置き去りにして、横のマルティナと会話する。 使者の言葉はこうだった。 王命により、只今より王配暗殺事件調査に当たれ。 調査に必要な権限は、全てを与える。 何故私がそのような事をせねばならぬ。 そう考えるが。 マルティナが、形の良い眉をひそめて呟く。 「ファウスト様、お忘れではないと思いますが。私の助命嘆願にて、王命に一度逆らっておりますよね。そこでリーゼンロッテ女王陛下に貸しが一つ残っております」 「記憶している」 それは覚えている。 だからといって、何故に王配ロベルト殿の暗殺事件を調査せよと? 私はもう明日には下屋敷を引き払い、我が領地たるポリドロ領に帰るつもりであったのだが。 何故その悲願を邪魔するのだ。 それより何より、私は王配ロベルト殿と会った事が無い。 さすがに筋違いではなかろうか? 「そして王配ロベルト様のバラを黙って盗んだ事、もちろん覚えておられますよね?」 「覚えている。が、未だに謝っていない。その件については私のミスだ」 帰り着き次第、ヴァリエール様と一緒にリーゼンロッテ女王に謝罪するつもりであったが。 私の嘆願と、ゲッシュでウヤムヤになったままだ。 思わず頭を押さえる。 謝るの忘れて、領地に帰ろうとしてたわ。 あれ、これもしかして女王陛下、激怒しておられる? 私はマルティナに尋ねる。 「女王陛下、怒ってるかな」 「いえ、ファウスト様は和平交渉の大役を果たされました。その和平を結ぶのに必要であった以上は、怒ってはいらっしゃらないと思いますが……」 マルティナは口元に小さな手をやりながら、首をかしげる。 私としては、拙いミスをしたと戦々恐々なんだが。 私達二人の無視に耐えかねたように、使者が口を開いた。 「リーゼンロッテ女王陛下は、その件については怒っておられませぬ。ですが、これも何かの縁であると仰せになられました」 私は答える。 「御言葉ですが、王命といえど、お引き受け致しかねます。解決の糸口が見えませぬ」 私はリーゼンロッテ女王陛下を、心の底から評価している。 あの女王が、手練手管を駆使して犯人が見つからなかったのだぞ。 ましてや、死後5年が経った事件など解決するものか。 私はオーギュスト・デュパンではないし、シャーロックホームズでもないのだ。 超人ではあれど、『武』の一文字のみを掲げる武骨一辺な領主騎士にすぎない。 「解決は求めておりませぬ」 「と、いうと?」 使者の言葉に、私は怪訝に答える。 「女王陛下は、事件の解決を求めておりませぬ。求めるのは心の安寧であります。1ヵ月でよいのです。ポリドロ卿の助力を得て、それで解決しなければ諦めてしまおうと」 「つまり、王配暗殺事件の調査を打ち切るにあたって、何かしらのきっかけが欲しいと?」 私の言葉に、使者は黙って頷いた。 ――いかんな。 女王陛下の気持ちを慮ると、可哀想になってきた。 ヴァリエール様から話は聞いた。 リーゼンロッテ女王は、心の底から王配ロベルト殿を愛しておられたと。 冷静沈着な威厳ある女王陛下として、いつも振舞っている彼女が、だ。 発狂したかのように手を尽くして、犯人を捜したのだと。 しかし、見つからなかった。 女王陛下は、その選帝侯の権力を以てしてもどうにもならない、その結果に打ちひしがれたのではないか。 バラ園での会話、ロベルト殿と初めて会った時の事を話していた女王陛下。 あのローズガーデンにて、私が美しさを褒め称えた事を、夫が褒め称えられたように心の底から笑顔を見せていた女王陛下。 それを思い出す。 駄目だ。 私はすっかり同情してしまっているではないか。 女王陛下は、どのような気持ちで今回の事を依頼したのであろう。 どのような悲しい気持ちで、もはや解決など望まぬと、これでお終いにしてしまおうと。 貸しを消費してまで、今回の事を依頼したのであろう。 いかん、真にもっていかんな。 私は心の底から女王陛下に同情しているのだ。 自然と亡き母、マリアンヌの事を想いだす。 心の底から愛している人間を失った時の喪失感は恐ろしいものだ。 まるで自分が生きていてはいけないような気分になる。 だから。 私は自然、言葉を口にしていた。 「今回の件、お引き受けいたします。それが女王陛下にとって少しでも、心の慰めになるのであるならば」 「おお、さすがポリドロ卿」 使者が喜んで答え、安堵の息を吐く。 横をチラリと見る。 マルティナは、未だに何かまだ考え込んでいるようであった。 何を考えているのであろうか。 公人としての女王陛下のことなら、何か策を巡らしているのかもしれぬ。 領主騎士として、領民300名足らずの小さな国の君主として警戒せねばならぬ。 だが、今回は私人としての頼みの側面が強い。 リーゼンロッテ女王は、心の慰みを求めているのだ。 ならば、何も裏を疑う余地など無い。 私は心の底から騎士としてあるがままに熱狂者として忠誠を行い、王命のあるがままに王配暗殺事件の調査を行う。 多分、何も見つからないであろう。 何の成果も得られませんでした。 そう、女王陛下には報告する事になるであろう。 悲し気に、そうか、と一言呟く女王陛下が頭の中に浮かぶ。 だが、それでリーゼンロッテ女王の心残りが消えるならば、それで良いではないか。 5年晴れる事の無かった心の安寧が訪れるならば、それで良いではないか。 そう思う。 「ヘルガ!」 声を張り上げ、従士長たるヘルガにドアを開けさせ、応接室に入らせる。 「お呼びでしょうか、ファウスト様」 「私は王都に一か月ほど残る。お前達は先に領地へと帰れ」 「ファウスト様を置いてですか?」 ヘルガが、批難に満ちた視線を使者へと向ける。 私はそれを止めさせるべく、言葉を続ける。 「置いてだ。今回残るのは私の意思によってであり、王命による強制などではない。理解せよ。マルティナも一緒に連れて帰れ」 「ファウスト様、私は騎士見習いとして常に傍におります! 第一、ファウスト様の身の回りの世話はどうするのですか!!」 マルティナが続けていた思考を止め、抗議の声を挙げる。 世話など、本来はいらんのだ。 そもそも、この世界ではやや窮屈な男の身であるからして、生活の殆どは自分で処理しているのだ。 「お前には騎士たるものが何か、その殆どを何も教えてやれていないのが私も不満ではある。だが、一か月後には私も領地に帰る。それまで教えた剣術の練習でもしていることだ。何、ヘルガが相手をしてくれる」 あえて言葉にはしないが、愛馬フリューゲルも今はいない。 以前にアスターテ公爵と約束した種付けのため、アスターテ公爵の領地へと旅立ってしまった。 やや不服そうな顔をしたフリューゲルの顔を思い出すが、お前の行きつく先はハーレムだぞ。 未だ童貞たるこの身には実に羨ましい事である。 「これはファウスト・フォン・ポリドロの名誉を賭しての決定事項である。ヘルガ、マルティナを連れて明日には皆で領地へと帰れ。私はイングリット商会の商業馬車にでも乗せてもらい、領地へと一か月と少しで帰る」 「……承知しました」 不服そうに、ヘルガが答える。 横のマルティナは、何か腑に落ちない、という表情を続けていたが。 元々、マルティナの助命嘆願に端を発する貸しである、反対できる言葉も無かったのであろう。 コクリ、と黙って頷いた。 「それでよい」 私も黙って頷く。 うむ、何やら晴れ晴れしい気分である。 まあ、それは結論としていいとして。 「それはそれとして、リーゼンロッテ女王陛下の御機嫌を伺わねばならぬ。マルティナ、そして使者殿。いくら女王陛下が気にしていないとはいえ、謝罪はキチンと行わなければならぬ。何かないか」 「何か、と言いますと?」 「ヴァリエール様と一緒に謝罪する以外の何かだ。今いないだろ、ヴァリエール様」 ヴァリエール様は今、王都におられない。 ドサ回りである。 アンハルト王国中を親衛隊の一部と共に馬で駆けまわっての、地方領主への挨拶である。 先日の女王陛下への嘆願、仮想モンゴル帝国相手への軍権の統一は殆どの諸侯、地方領主から同意を得たが。 あの場におらず、代理人も居なかった者もいるのだ。 もちろん、その全てに対してヴァリエール様が軍権を委ねるよう話し合いに行くのではない。 あの場に居なかった小領の領主騎士には、寄親から話もあるだろうし。 侯爵といった、その勢力圏内に領地を構える地方領主には、その諸侯から話が有ろう。 だが、いるのだ。 この私、ファウスト・フォン・ポリドロのように、どこの貴族とも縁を持ち得ない偏屈な領主騎士が。 最低限の軍役は双務的契約により行うが、それ以上の事はお互い不干渉を決め込む領主が。 私の場合は望んでではなく、母たるマリアンヌの狂人としての汚名が原因ではあるが。 ともかく。 ヴァリエール様は、そういった領主騎士へ軍権を預ける様に説得のため出立された。 あの方はあの方で、ちゃんと私と一緒に女王陛下に謝ろうね、という約束を忘れている。 私もつい忘れてしまっていたけどさあ。 まあ、似た者同士というか。 政治オンチの馬鹿者同士というか。 私とヴァリエール様は似通ったところがあるのかもしれない。 そんな事を、ふと考えながらも脱線した話を戻す。 「とにかく謝罪の際に、何か言葉だけでなく贈り物を持参しなければなるまい」 「そういうことですか」 マルティナが、得心したと頷く。 そして言葉を紡いだ。 「高価な贈り物など飽きておられるでしょう。ファウスト様が、領地にて手慰みに作られた物でも贈られるとか?」 「特産物など何もない領地だとお前も知っていよう? 我が領地にて作ったもので、今持ち合わせている物なんぞ石鹸ぐらいしかないぞ」 石鹸。 ふと、私がこの異世界に落ちる前に得た知識を思い出すが、石鹸なんぞ西洋では珍しくも何ともない。 その製法に特別な材料なんぞ何も必要ないから、物の小説やら何やらで異世界転生チートの一つとして持てはやされていたのは判るのだが。 前世でも今世でも、西洋では8世紀頃から手工業生産品としてそこら中で製造されている、取り立てて言うほどの価値は無い物だ。 もちろん、我が領地でも私が産まれる前から作られている。 菜種やオリーブの実から油を搾り、それらを加工して作るのだ。 石鹸製造は、この異世界における男の家事仕事の一つでもある。 完全に家内工業として定着しているのだ。 「ファウスト様の石鹸は特別でしょう? 私は気に入りましたが。ボーセル領の男どもが造る石鹸は、何の味気も無く結構いい加減でしたよ」 「あんな粗末な物に、特別も何もあったものか」 香料をつくる蒸留は紀元前3000年頃には行われ、もちろん我が領地にも蒸留器はある。 そこから作られたカモミレ油を石鹸に混ぜ込んである。 私がやったのは、ただのそれだけ。 外観はレンガブロックそのものの、質素な塊でしかない。 少しばかりの贅沢として、また領地の男どもの井戸端会議や愚痴聞きついでに一緒に石鹸を製作し、領民の各家庭に配布して使用している。 まあ、意外と喜ばれたので、領主としては満足なのだが。 「とても女王陛下の前にはお出しできない。醜い男騎士が醜い粗末な品を出してきたと笑われるわ」 「女王陛下は御喜びになると思われます。ファウスト様の手作りとあれば」 マルティナは知った風な口をきくが。 いや、本当に味も素っ気もない石鹸ブロックの塊だぞ。 気の利いた男なら、石鹸で彫刻や、何か器で綺麗に形どったりもするのだろうが。 所詮、内輪で消費するだけの石鹸なんぞに、そんな事する気にはなれなかった。 自分の手作りとはいえ、あんなもんでいいのだろうか。 まあ、聞いてみるか。 「使者殿、念のため尋ねるが。そのような品でも女王陛下は御喜びになられるだろうか。陰で馬鹿にされないか?」 「ファウスト様を笑うような真似は決してなさらないと。亡き王配ロベルト様も、バラ園から搾りだした精油による石鹸を製作されておられました。おそらくは亡きロベルト様を想い出し、優しく微笑んでくださるのでは?」 ならいいか。 公爵家としての教育を受け、私より石鹸づくりが上手であっただろうロベルト様と比べられると恥ずかしいものがあるが。 「では、未使用の石鹸を箱詰めにでもして贈ろう」 「そうしてください」 マルティナが頷く。 そして、続けざまに呟いた。 「ファウスト様、身体にはお気を付けを」 「何を気を付けると言うのだ?」 「いえ……何でもありません」 全くおかしなことを言う9歳児だ。 私は、本当にあんな粗末な石鹸で良いのだろうか。 もう一度頭を悩ませながらも、使者殿を屋敷の外まで見送るように、ヘルガへと命じた。 第68話 石鹸、献上 少しばかり苛めるか。 さてはて、それとも焦らすか。 いやいや、ファウストの心証を悪くするのは良くない。 この王の間にて玉座に座る私は、色々な事を考えながらもファウストの到着を待ちわびていた。 「リーゼンロッテ女王陛下、ファウスト・フォン・ポリドロ卿が到着されました」 「通せ!」 衛兵に命じる。 現れたのは当然、礼服姿のファウストであり、その顔は太陽のように暖かく、同時に凛々しい。 身長2m体重130kgの筋骨隆々の体つきにして黒髪を短く刈り込み、騎士として不要な男の部分をかなぐり捨てたその姿は、私にとって逆に「そそる」ものがあった。 アナスタシアもアスターテも、ヴァリエールですら今はいない! その事実を脳裏に浮かべると、思わずうなじから股座にかけて痺れのような衝撃が走りそうになる。 快感という名のそれである。 なにしろ、邪魔者はいないのだ。 ここから一か月ばかりは私の天下である。 姉妹を蹴落とし、王位を手にした時ですら、こんな興奮は得られなかった。 人生で唯一他にあるとすれば、私の結婚相手の釣書に亡き夫ロベルトの似顔絵が入り込んでたときくらいか。 ああ、あの時は興奮したものだ。 この世の全てすら手にしたかと錯覚を抱いた。 もう一度だ。 もう一度、あの美酒を味わいたい。 「まずはポリドロ卿、いや、ファウストと気軽に呼んでもよいか?」 「御随意に」 「では、プライベートではファウストと呼ばせてもらうぞ」 良いな。 格別に良いな、ポリドロ卿ではなくファウストと気軽に名を呼べるのは。 まるで、それだけで距離が縮まった気がするぞ。 「まずは登城に応じてもらった事に、礼を言おう。本来は今頃、お前は領地への帰路についていたであろうが」 「いえ、リーゼンロッテ女王陛下におかれましては――」 「待て、それは良くない」 私は確かにファウストと気軽に名を呼ぶ許可を得たのだ。 なのに、お前が女王陛下呼びは少し寂しいではないか。 「ただのリーゼンロッテと呼べ」 「しかし」 「ここから一か月ばかり、私とお前は、ただのリーゼンロッテとただのファウストである。敬称はいらぬ」 肉体関係に溺れるための、その一。 まずは気軽に名前を呼び合う仲になるべきだ。 味気ない女王陛下としての装飾を取り払わせ、ただの二人の男と女。 つがいとしてのそこに落とし込まねばならぬ。 「かつて、我が夫であるロベルトが、気軽に私の名を呼んでいた風にして欲しい。嫌か?」 「それは」 ここで私は、寂し気な微笑みをファウストに見せる。 鏡で若き頃から必死に練習した寂し気な笑顔、今ではそれを超える『寂しげな未亡人の微笑み』を食らえファウスト。 王家が古より伝えてきた人心掌握術に歪みは無いぞ。 なんか娘たるアナスタシアは眼光がめっちゃ怖いので、あの娘にとっては全くの役立たず。 私の代で断絶する恐れがある技だが。 「――ッ。判りました」 ハッとした顔をして、少しばかり悲しげな顔で頷くファウスト。 よし、無茶苦茶効いてるぞ。 威力はバツグンだ! 「では、名を呼んでくれ」 「……リーゼンロッテ」 大男たるファウストの口から、私の名が漏れ出た。 うなじから股座にかけて、甘美な痺れが私を襲う。 いい。 実に良いな。 ロベルトとの愛溢れる日々を想いだす、が――いかん。 私は油断しない。 油断してはいけないのだ。 今回のチャンスを逃せば、私がファウストとの肉欲に溺れる日々は二度と来ないかもしれない。 気を取り直せ、リーゼンロッテ! 「良いな。亡き夫がそう呼びかけてくれたのを想いだす」 「……女王陛下」 「リーゼンロッテだ、ファウスト」 私は再び、寂しげな微笑みをファウストに投げかける。 ファウストは私の悲しみを少しでも癒せないか、そんな瞳で私を見つめていた。 よっしゃ。 チョロいぞ、この男。 薄々理解してはいたが、ファウスト・フォン・ポリドロは女慣れしていない。 貞淑で無垢でいじらしい、朴訥で真面目な、童貞のファウスト。 私に手折られるために、今まで純潔を守り抜いてきたとしか思えない花そのもの。 愛おしい。 この22歳の純潔を未だ守る男が、私は今何より愛おしい。 最初はワンチャンあるかと悩んだくらいだが、これは一夜の想い出どころか凄い事になるやもしれぬ。 もう凄い事になってしまうかもしれぬ。 私はファウストに悟られぬよう、ゴクリと唾を飲み干す。 「ファウストよ。お前が今回、王配暗殺事件の調査をする事になった理由についてだが」 「理解しております。マルティナの助命嘆願における、リーゼンロッテへの貸しですね」 「そうだ。そして、まあアレだ。皆まで言う必要はなさそうだが」 ここは余り、苛めない方がよさそうだな。 言葉を濁し、ファウスト側から自ら謝罪させて話は終わらせる事にしよう。 「王配ロベルト様の育てたバラを黙って盗んだ事、真に、真に申し訳なく」 「良いのだ。ヴィレンドルフへ向かう前の壮行会の夜に、亡きロベルトが育てたローズガーデン。あれを、ファウストが心の底から美しいと褒め称えてくれた事。今は亡きロベルトも喜んでいよう。それが和平交渉のために役立てられたと言うなら、なおの事である」 これは心の底からの本音だ。 バラが盗み取られている事に気づいた時はカチンときたが、和平交渉の話を詳しく聞けば、あのバラがヴィレンドルフ女王カタリナの心を斬ったと聞く。 心を斬るよう命じたのは私である。 そして、ファウストはあのバラを盗んで入手しなければならない事情があったのだ。 それを考えれば、怒る方が傲慢といえよう。 「ファウストよ。本当の事だ。心の底から言っている事だ。亡きロベルトは間違いなく天国で喜んでいる。保証してもよい」 「女王陛下――いえ、リーゼンロッテと呼ぶ約束でしたね」 「そうだ。しばらく慣れないと思うが、慣れよ」 ああ、ロベルトよ。 何故お前は逝ってしまったのか。 未だ、天国のお前への愛は尽きぬ。 それはそれとして。 これはこれなのだ。 許してくれ、ロベルト。 正直、お前への愛を抱きつつ、ファウストを抱くと思うと、背徳感という名の興奮で胸が一杯になるのだ。 これは凄いぞ。 もう、なんか言葉で言い表せないくらい凄いぞ。 三度言うが、とにかくなんか凄いのだ。 「カロリーヌの反逆事件における、マルティナの助命嘆願において。ファウストは私の王命に逆らった。だが、今回のロベルト暗殺事件の調査に参加してもらうことで、私への貸しは帳消しにしよう。それでよいか?」 「承知しました。亡きロベルト様へのお詫びのためにも、一人の騎士として力を尽くします」 「それでよい」 私は微笑む。 何事も上手くいっている。 計画は順調だ。 ところで一つ気になっている事があるのだが。 「ファウストよ。先ほどから実は気になっているのだが、その脇に抱えている木箱は何であろうか?」 「使者殿から何も報告が上がっていないのですか?」 「聞いていないが」 ふむ、ファウストの言葉を聞くに、送り付けた使者にも中身は伝わっているはず、と。 ――こちらの連絡ミス、つまり手落ちか? 私が眉をしかめるのを見て、ファウストがやや焦った顔をする。 「バラの件の謝罪として持ってきた物なのですが、質素な物のため、やはりお恥ずかしく。これは持ち帰ってもよろしいでしょうか?」 「まあ待て。中身は何だ」 「ただの石鹸でございます。何の特産品も無い貧乏な領地の、私が作った何の装飾も無い粗末な品で――おそらく、見た瞬間笑われるものと。私や領民が使っている様な、何度も申し上げますが、本当にその粗末な物なのです」 ファウストが、顔をやや赤らめて恥ずかしそうに言う。 石鹸か。 まあ、ありふれた物と言えば、ありふれた物なのではあるが。 安物というわけでもあるまいに。 確かに王家に贈るものとしては相応しくないかもしれないが、石鹸は市場で高級品である。 「ファウストよ、お前の作った物であるならばそれで――」 よい、と言おうとしたが、妙な言葉を聞いたぞ。 「何だファウスト、お前は石鹸を領民に使わせているのか? 今、おかしなことを耳にしたが」 「はい、そうでありますが?」 ファウストが第二王女相談役として就任して以来、暇を見つけてはよく会話するのだが。 時々、領民300人程度の小領主としては妙な事を口にするのだ。 この報酬で領民の減税が出来る、だの。 領民の男にも土産を市場で買って帰らねばだの。 領民を愛する小領主らしい、ひしひしとした思いが伝わる言葉を耳にはするのだが。 今の言葉通りを受け止めるとだ。 領民が、領主の一生懸命作った石鹸を使っている。 ちょっと立場がチグハグな気がするのだが。 自分の領地には特産品が無いとたまに愚痴を漏らしていたが、石鹸を大量に作れるならそれを売ればよいのでは? 「領民が育てたオリーブや菜種畑から油をとっておりますので、当然の事であると思うのですが」 「いやまあ、お前が良いと言うなら、それでよいのだが」 まあ、王家が独立した封建領主の運営方針に口を挟むのはどうか、と思うので止めておく。 アナスタシアとアスターテは、ファウストを見事愛人にした暁にはポリドロ領に金をジャブジャブつぎ込んで、領地開発する計画を密かに立てているが。 勝手な事すると絶対嫌われるぞ。 後でファウストに怒られろバーカ。 私は口を挟まないのだ。 敵に塩を送る趣味はない。 「絞った後のオリーブの実はワイン漬けにして食べております」 「うむ、まあそういった話はこの一か月で沢山出来よう」 領地の運営方針に口は挟まないが、ファウストとその領民がどういう生活をしているのかは気になっている。 まあ、今はそれよりもだ。 「それよりファウスト。贈答品というのであれば、有難く受け取ろう。直接受け取るから、こちらへ」 「本当に質素なものですが」 ファウストがこちらに木箱をもって歩み寄る。 私は玉座から立ち上がり、木箱を受け取った。 それにしても――石鹸か。 「一応、香料としてカモミレ油を混ぜております」 「亡きロベルトも、バラの精油を混ぜた石鹸をよく作ってくれたものだ」 石鹸で肌身を綺麗にしてから、夜は――そう、夜だ。 うん、夜は本当に楽しかった。 5年前から私、一人寝で身体を夜鳴きさせてるけど。 開けても良いか、の一言に頷いたファウストの前で、木箱を開ける。 そこにはレンガのような塊の、粗雑な石鹸があった。 石鹸づくりにおいてはロベルトが上のようだが、それが何だ。 私には、そのファウストの粗野なところが好ましい。 嗚呼。 そうだな、ファウストよ。 お前は確かにロベルトのように、太陽のように温かい。 少しばかり気が短くて無茶をするが、どこまでも優しいのだ。 だけれども。 「その、リーゼンロッテ様?」 「様はいらんよ」 少し、ボーっとしていたようだ。 いかんな。 少し、本当に悲しい事実に浸ってしまった。 お前はロベルトによく似てはいるが、確かに違う人物なのだな。 石鹸一つで、つい泣きそうになってしまった。 ロベルトはもう、この世にはいないのだ。 5年前に、誰かに殺されてしまった。 私の目的は―― 「ファウストよ」 「はい」 もう一度、ロベルトを殺した犯人を捜しだす事が本音なのか? それとも、ファウストをこの手で抱きたいだけなのか? なんだか、自分でも良く判らなくなってきた。 いかんな。 泣きそうだ。 「この一か月、よろしく頼むぞ」 「お任せください」 唇の震えを誤魔化すように言葉を発し、それにファウストが答えた。 それにしてもだ、天国のロベルトよ。 お前が手ずからに作り上げた石鹸を贈ってくれた際、その夜はもうとても燃えたものであったよな。 バラの薄っすらとした香りが、ベッドのシーツと体液の匂いが混ざり合って獣臭のようになる。 とても興奮したものだ。 あの時はバラであったが。 私は今、その匂いがカモミールと体液の匂いが混ざり合って、獣臭のようになる。 そうなってしまっても構わないというか。 むしろ、世の中の法則的には、そうなるべきであるというか。 ロベルトが死んで五年、なんか眼光が爬虫類っぽい冷血な長女と、どことなくビクビクオドオドしている次女を育児しながら頑張って来たのだ。 一人寝の淋しさに耐えながら。 何か、私がちょっといい思いをしても神罰は下らないと思うのだ。 というか、もう次女の婚約者の初物を奪い取るってすごい興奮しないか? 私的には十分にアリだと思うのだ。 教会は激怒しようが、それを認めてくれない神の方が間違っているのだと思う。 「本当に、よろしく頼むぞ」 「お任せください」 私はファウストの股間。 先日の話によれば、完全体では25cmになるという代物に激しく興味を示しながら。 とりあえず、今日に限ってはファウストも準備があるであろうし。 私もこの石鹸で身体を洗いたいし。 王宮の一部屋をファウストに与え、話を終わらせることにした。 決戦は明日、人払いをしたバラ園で。 男と女がバラ園で二人きり歩く、何が起きてもおかしくない。 私はファウストにバレないように口端を卑猥に歪めながら、その時を心待ちにすることにした。 第69話 ザビーネとマリーナ ドアを連打する。 力強く、それでいてテンポよくドアを連打する。 「姉ちゃん! ザビーネ姉ちゃん!! 無視しないでよ」 「何ー。私、今忙しいんだけど。裸だし」 「裸で忙しいって何してるのよ!!」 ドアが開く。 そこには第二王女親衛隊長にして、私の姉であるザビーネ・フォン・ヴェスパーマンがおり。 彼女はパンツ一枚姿で、その美しい金髪の長髪に、大きな乳房が隠されるような姿で立っていた。 「いや、決まってるじゃん。ナニだよ」 「死ね」 「死にます。50年後ぐらいに」 パタン、と音を立ててドアが閉まる。 私と姉の邂逅は、あっさりと終わった。 少し、なんだかよくわからない時間が過ぎる。 私は再び、第二王女親衛隊の隊員達に与えられた寮の一室、そのドアを力強くノックする。 「姉ちゃん! ザビ姉!!」 「うっさいわ、この馬鹿が。私の家族といえるのは、ヴァリエール様と第二王女親衛隊の面子だけであって、もはや親も妹もいないわ」 「姉ちゃん、この間実家まで帰って私にカタリナ女王の情報尋ねに来たよね!? 妹なんだから情報寄越せって言ったよね!?」 確かに、姉ちゃんは家から叩き出された身ではあるが。 ヴァリエール様のため、第二王女親衛隊のためと理由をつけて、情報を入手するために私によく近寄ってくるのだ。 なのにこちらから訪ねた時にはその態度かよ。 あいかわらず、傍若無人なところに成長した様子はない。 「だから何だよ、お前役立たずだったじゃん。ポリドロ卿が、ヴィレンドルフから流れて来た吟遊詩人や、交渉役だった法衣貴族から得た情報と何ら変わりなかったぞ」 「ヴィレンドルフにはまだクラウディア・フォン・レッケンベルの遺した防諜機関が働いてて、情報の入手が困難なんだよ! カタリナ女王の弱点なんか入手できないよ!!」 「この役立たずが!」 ドア越しに、姉の罵り声が聞こえる。 ポリドロ卿。 アンハルトの英傑、ファウスト・フォン・ポリドロ卿。 そうだ、そのポリドロ卿が問題なのだ。 「姉ちゃん。そのポリドロ卿が問題なんだよ」 「ポリドロ卿? もう領地に帰ったよ」 「違うよ。ポリドロ卿だけリーゼンロッテ女王陛下に呼び止められて、まだ領地には帰ってないよ」 ドアが開く。 そこには、顔をしかめた我が姉が立っている。 「本当に?」 「本当に」 じーっと、私の表情を観察する姉ちゃん。 姉ちゃんは、表情を眺めるだけで人の言葉の真偽を判断できる。 また、時として異様な弁舌力を発揮する。 無能ではないのだ、無能では。 だが、ヴェスパーマン家の家督相続にあたって選ばれたのは、長女であるザビーネではなく私ことマリーナであった。 まあ、理由は色々あるのだが。 「本当らしいな。部屋に入れ。親衛隊14名の内、10名はヴァリ様に付いて行ったが、私含め4名は王都に残っている。そこにいつまでも立たれていては迷惑だ」 「判った」 手でちょいちょい、と部屋に入るように指示される。 私は黙って従う。 部屋は簡素な作りとなっており、家具もベッド以外に無い。 第二王女親衛隊の、歳費の少なさが窺える。 女王陛下も、アナスタシア第一王女殿下も、最近はヴァリエール第二王女殿下を可愛がるようになったと聞くが。 それはそれ、これはこれで、第二王女親衛隊の待遇改善にまでは届かないようだ。 「人の部屋をジロジロ見るんじゃない」 「ベッドに座ってもいい?」 「駄目だ、お前は立ってろ」 姉が、ベッドに一人で座る。 未だにパンツ一枚、上半身裸のままだ。 まあよい。 ここは姉の機嫌を損ねぬようにしよう。 「話の続きだ。で、なんでポリドロ卿はまだ王都に居るの? なんで私に会いに来てくれないの?」 「姉ちゃんに会いに来る理由があるのか疑わしいけど、さっきも言ったけど女王陛下に呼び止められたからだよ」 「理由は?」 短直に尋ねられる。 こちらも同様に返そう。 「亡き王配ロベルト様の、暗殺事件の調査役に任命されたからだよ」 「――ああ、そうか。マルティナ嬢の助命嘆願における貸しと、ロベルト様の育てたバラを盗んだ件に起因するものか?」 相変らず、頭の回転は速い。 あっさりと結論に行きついた。 素直に頷く。 「そうだよ」 「じゃあ、正式に調査を任命されているヴェスパーマン家の面子はどこ行ったの?」 「そこよ! だから困ってるのよ!!」 面子が立たない。 ヴェスパーマン家の面子は今後どうなってしまうのか。 先ほども女王陛下に謁見を願ったが、無駄だった。 女王陛下のお気に入りである若き実務官僚に『今、女王陛下は湯浴みの最中である。帰られよ』とすげなく追い返されたのだ。 「先日も、ポリドロ卿に満座の席で『ヴェスパーマン家は無能だ』って罵倒されたのよ! そのポリドロ卿が、もしも事件の解決をしたなら」 「ああ」 ザビーネ姉ちゃんがコクリと頷く。 そして、優し気に微笑んだ。 「さようなら、ヴェスパーマン家」 「さようならじゃないでしょう!!」 「だって、もう終わりじゃん」 そうだ、終わってしまうのだ。 アンハルト王国の外交官の一員として、その実は周辺各国に手配した諜報員の統括者を担ってきた家系。 そのヴェスパーマン家が、いよいよもって終わりである。 ヴェスパーマン家の名誉は地に落ちるだろう。 名誉における死は、貴族としての死をそのまま意味する。 統括者としての役職も剥奪されるかもしれない。 「ただでさえ、ロベルト様の暗殺事件に関しては何の成果も挙げられず。ヴィレンドルフ戦役においては敵の侵攻を察知できず。ついにはポリドロ卿には満座の席で無能と罵られた。更にはそのポリドロ卿に役目を奪われる。このままだとヴェスパーマン家の名誉は――」 「だからお終いだっつってるじゃん。さよなら。泣きながら家に帰れ」 「何とかしてよザビ姉!!」 いや、本当に何とかしてよ。 女王陛下との謁見が断られた以上、もう縋る伝手が他に無いのだ。 「私は家叩き出されたから、今更ヴェスパーマン家が隆盛を極めようが、落ちぶれようが知った事じゃないし」 「ザビ姉が家を叩き出されたのは、まだ5歳の弟のチンコを行水中にぶんぶん振り回して遊んでたからでしょう!!」 「あの子は大爆笑してたでしょう。えっ、あれが原因で私追い出されたの?」 いや、5歳の弟の身体を風呂場で持ち上げて、その露わな秘所をぶんぶん振りまわしながら、『ちんちん大風車!!』とか叫んでたのは、確かに致命的な原因の一つではある。 弟は確かにキャッキャと笑っていたが、そういう問題ではない。 この世界では子供が10人生まれても、その内の女は9人、男はたった1人しか生まれない。 世襲貴族の貴重な男子として、世襲貴族の幾人かの夫となるなり、領主騎士の夫として送り出すなり、あの子には様々な明るい道が用意されている。 同時にヴェスパーマン家にとっても更なる飛躍のための、大事な男子なのである。 そんな大事な弟に対して、何をやっているのか。 貴族の淑女として以前に、人としてどうなのか。 「あの子は笑ってたからいいじゃん。私、ポリドロ卿の嫁の一人になったら、25cm級のちんちん大風車をさせてもらうんだ」 「ザビ姉がポリドロ卿の嫁になれる可能性はハッキリ言って皆無だよ」 だれが、こんなアホを好んで嫁にするというのだろう。 ポリドロ卿はヴァリエール様とすでに婚約しておられる。 その、今も無駄にでかい乳をぶら下げた様子から見るに、子に乳を与えるだけの乳母としての素質はあるかもしれないが。 子供の教育は間違ってもさせられない。 「ヴァリ様とポリドロ卿はなんだかんだ言って私に甘いから、誇りを投げ捨てて頭を地に擦り付けながら泣いて縋ったり、地面で土まみれになりながらジタバタ暴れたら、子種分けてくれると思うんだ」 「ザビ姉、投げ捨てるほど誇りあったっけ……。そんな事を簡単に口にする存在に、人としての誇りなんてあるんだっけ……」 私は誇りの在処を疑問視した。 この人に誇りはあるのだろうか。 妹として見るに、絶対ない。 神が戯れに与えた幾つかの異才を除けば、恥知らずとワガママと傍若無人しか残らないではないか。 だからザビ姉は家督を継げなかったのだ。 正直、カロリーヌの反逆騒動においてこの姉が民兵を鼓舞して活躍したと言う英傑譚も、実際には無茶苦茶やったんじゃないかと疑っているのだ。 「まあ、その話はいいや。んで、私にどうして欲しいって」 「ポリドロ卿に頼んで。私にも調査に参加させて欲しいって」 「無理じゃね?」 姉の声は、とても冷たく聞こえた。 それこそ処刑人のように。 その処刑宣告は続く。 「いやさあ、冷静に考えろよ。女王陛下も、女王陛下お気に入りの実務官僚も、こんな事すればヴェスパーマン家の面子が潰れるくらい理解してるって。それでも決行するって事は、もう完全に見放されたんだよ」 「だってどうしようもないじゃない! ヴェスパーマン家が何したって言うのよ!!」 いや、ヴェスパーマン家は失点を出し続けた。 何もしなかったどころの話ではない、何も出来なかったのだ。 それ故にヴェスパーマン家に対して、リーゼンロッテ女王陛下は酷く冷たい。 それは理解している。 まだ若い私の能力を見込んでくれているアナスタシア第一王女が今王宮におらず、公爵や侯爵達と連れ立って公爵領に旅立ってしまった以上。 もはや私自身は何もできない。 本人曰くポリドロ卿と近しい仲であるザビ姉が、最後の頼みの綱なのだ。 私は泣き出しながら、もはや最後の嘆願のつもりで声を絞り出した。 「助けて、ザビ姉。どうにかして、ポリドロ卿と渡りをつけて」 「……」 姉ちゃんが黙る。 そうして、手を差し出してくれた。 私は喜んで手を握ろうとしたが、姉ちゃんは冷たく私の手を払いのける。 そして、冷たく一単語だけ呟いた。 「金」 その声色はどこまでも冷たかった。 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、姉ちゃんの目を見る。 「金だよ金。最後には金だよ。金さえ出せば、私はおふくろの顔だって笑顔で踏むよ。ポリドロ卿とその金を半分に分けることで、今回は妥協してやるよ」 「それでも姉か!?」 「姉だよ。姉ちゃんは強い人なんだよ。そして怖い人なんだよ。忘れたのか?」 確かに、ザビ姉はこういう人だった。 アホだけど、ぬるい人でもなかった。 家督は継がせてもらえず叩き出されたけど、4年後には初陣で成果を上げて、いきなり2階級昇位してる人であった。 「えーと、おいくら?」 「ヴェスパーマン家が、今なんとか搾り出せる全額。嘘ついたら話はこれで終わりな。私が人の顔色見る事で真偽を吐いているかどうか、見抜けることは知っているよな」 「あまりにも酷すぎる!!」 悪魔か、この姉は。 だが、断腸の思いで今出せる金額を頭の中で計算し始める。 もう時間が無いのだ。 「真面目な話すると、ポリドロ卿に利益の無い話なんかに渡りつけられないぞ。どの面下げて、何の手土産も無しに、こんな夕暮れに会いに行くんだよ。もう下屋敷にもいないんだろ。今どこよ」 「おそらく王宮の一室。日暮れになると登城できなくなるから、もう時間もない……」 「金は払うんだな?」 渋々頷く。 頭の中で、吐き出せる全額を払う用意をした。 姉ちゃんは私の顔をジーッと眺めた後、うん、と納得した様子で頷いた。 「今から礼服着る。二人して王宮向かって、ポリドロ卿に全力で頭下げるよ」 「わかった」 私はいそいそと礼服を着ながら、登城準備を整える姉ちゃんを眺める。 嗚呼、こうして二人一緒に歩くのは何年振りの事であろうか。 姉ちゃんが近所の男子の行水を覗きに行った所で相手の家族に捕まり、ボコボコにされて、それを引き取りに行った時であろうか。 あの時は酷く恥ずかしい思いをしたものだ。 姉ちゃんは、何もあそこまで殴る事ないんじゃね、とブツクサ言いながら、ボコボコに膨れ上がった顔でグズグズに泣いて歩いていた。 何故、こんなアホでクズな姉ちゃんの妹の下に、神様は我が生を与えたのだろう。 何故、こんなアホでクズな姉ちゃんに異才だけを与え、理性というその二文字は与えなかったのだろう。 私は神の存在を疑ってはいない。 だが、姉の存在ばかりは、我らが信じる神が作り給うたものではなく。 酒と狂乱の神たるバッカスがほろ酔い気分で、なんか戯れに作ったんじゃないかと私は疑っている。 きっとそうだ。 「金払えよ、金」 「いいからさっさと服着て」 時間が無いのだ。 姉ちゃんが服を着ている時間を待っている間。 私は、姉ちゃんに渡りをつけてもらえる事になったはまず良いが、果たしてファウスト・フォン・ポリドロ卿は私の嘆願を聞き入れてくれるだろうか。 そんな懊悩に頭を苛まれ始めた。 第70話 前任者の立場 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は、特異な存在である。 ヴィレンドルフ戦役における勝利。 ヴァリエール第二王女殿下の初陣から発展した、国賊カロリーヌの討伐。 ヴィレンドルフ和平交渉の成立。 遊牧民族国家戦に向けての軍権の統一、まあ、こればかりは未だポリドロ卿の予想が正しいかどうか判らないのだが。 たった二年間で、数々の功績を成し遂げた。 もはや、アンハルトの大英傑であるのは誰もが認めよう。 だが、英傑だからといって、ヴェスパーマン家が担当している王配暗殺事件の調査の役目を奪われては困るのだ。 もちろん、ヴェスパーマン家が何の成果も上げられていないのは事実だ。 それは恥じよう。 だが、困る。 いよいよもってウチの面子は危ない事になっており、場合によっては貴族として死ぬ。 これでポリドロ卿が事件を解決に導きでもしたら。 ヴェスパーマン家は5年間、一体何をしていたのだと言う話になる。 王配ロベルト様は本当に愛されていた。 誰もがヴェスパーマン家の無能を罵倒するであろう。 上からも下からも突き上げられ、諜報統括者としての役職は誰かに奪われるであろう。 なので、それこそ姉妹二人して地に頭を擦り付けてでも、ポリドロ卿に調査への参加協力を嘆願しなければならない。 その覚悟で来たのであるが。 「まずは、先日のヴェスパーマン家への非礼をお詫びしよう。申し訳ない」 王宮の一室。 ポリドロ卿が与えられた客間の長椅子にて姉妹して座り、対面のポリドロ卿と顔を合わせる。 先手を放ってきたのはポリドロ卿であった。 眼を閉じながら頭を下げ、謝罪の言葉をこちらに述べる。 「先日、諸侯や法衣貴族が集まった満座の席で、ヴェスパーマン家を侮辱した。酷い事をしたと思う。だが、あの時あの場所にては、私にとっては必要な事であったのだ。何を言っても、言い訳にしかならぬ事は理解している。ただ言おう。本当に申し訳なかった」 じっと許しを請うように、頭を下げたまま姿勢を崩さないポリドロ卿。 意外である。 いや、もちろん諜報統括として、ポリドロ卿の人柄は知っている。 貞淑で無垢でいじらしい、朴訥で真面目な人柄。 王家の評価ではそうであるし、もちろん私の中でもかつてはそうであった。 だが、あのポリドロ卿が為した演説とゲッシュにおいて、印象は少し変わっている。 ――あまりにも、直情的なのだ。 思えば、噂に聞くマルティナ嬢の助命嘆願でもそうであった。 女王陛下の王命に逆らい、頭を地に擦り付けながらの必死の嘆願であったと聞く。 ポリドロ卿の立場からはどう考えても、そのような事はすべきではないのだ。 何のメリットもない。 だが、自分の誉れゆえにそれをやってしまった。 別に頭が悪いわけではないのだ、むしろ知能は優れていると推測するのだが。 何か、ポリドロ卿はその独自にある誉れの価値観を元に行動しているようにすら思える。 騎士の誉れとしては、別に間違っているわけではない。 だが、領主騎士として、あそこまで直情的なのはいかがなものか。 考える。 そんな事は今、どうでもよい。 ヴェスパーマン家としては、その当主としては、ポリドロ卿の謝罪にどう答えるべきか。 「お気になさる必要はありません。ヴィレンドルフ戦役において敵の防諜を破れず、その侵攻を読めなかったのは事実であります。ヴェスパーマン家の明らかな手落ちでありました。こちらこそ申し訳ありません」 こんな時に、傲慢になるほど愚かしい事はない。 まして、今は追い詰められているのはこちらの方。 ここはポリドロ卿の謝罪を受け入れ、快く許すべきである。 「顔を、お上げください」 「本当に申し訳なかった」 ポリドロ卿が、その巨躯を揺すりながら顔を上げ、私の瞳を見つめる。 本当に、ポリドロ卿の性格自体は悪くないのだが。 そのポリドロ卿に、我が家は潰されかけている。 「ザビーネ殿、今回は謝罪の機会を設けて頂き、誠に有難く」 「これでも長女だったからねー。私、家から放逐されたけど」 ザビ姉が余計な事を言う。 姉ちゃんは、私を指さしながら呟く。 「別に恨んではないし、ヴァリエール様の下は居心地いいので、構わないんだけどさ」 「その話はヴィレンドルフからの帰路にて聞いておりましたが。本当に姉妹なのですか?」 訝し気にポリドロ卿は私とザビ姉を、つま先から頭まで比較し。 何故か、一瞬胸元を凝視した後、更に訝し気な顔になる。 まあ、確かに私の胸は平たく、ザビ姉のようにふくよかで、かつ前方に突き出してもいないが。 子にやる乳など、乳母に頼めばよいだけの話だ。 何故、ポリドロ卿は一瞬私の事を心底哀れそうな目で眺めたのか。 ザビ姉ほどではないとはいえ、私も諜報統括者として多少の能力は持ち合わせている。 視線で、どこで何を観察したかぐらいは判るのだぞ。 「なるほど、ご苦労されたようで」 ポリドロ卿は、私の苦労を憐れんでくれた。 なるほど、一瞬感じた哀れみの視線は、ザビ姉に振り回され続けた私への哀れみであったか。 納得する。 そろそろ、本題に移らなければならない。 王宮に滞在できる時間も少ないのだ。 「ポリドロ卿、先ほどの謝罪は受け取りました。二度の謝罪は必要ありませぬ。それよりも、本日は話が有って参りました」 「何の話でありましょうか? お詫びもありますし、多少の事ならお引き受けいたしますが。今は女王陛下からの王命もあり、その後にしては頂けないでしょうか」 ポリドロ卿の、その碧眼が私の顔を見つめる。 私は英傑としてのそれに、多少の威圧感を感じながら答えた。 「その、女王陛下からの王命が問題なのであります。王配暗殺事件において、本来その調査が任命されていたのはヴェスパーマン家でありました」 「……」 空気が止まった気がした。 ポリドロ卿の表情に、ピシリ、とひび割れるような音が入った気がする。 今理解した。 ポリドロ卿、おそらくは王配暗殺事件における前任者の面子とか考えていなかったな。 まあ、もちろん5年もの間、何の成果も出せなかった前任者の面子など考慮する必要が無いのは判るのだが。 「時間がありません、ハッキリと恥を申し上げます。このまま、もしポリドロ卿が事件を解決された場合、ヴェスパーマン家の名誉は地に落ちるでしょう。それは貴族としての死を意味します」 「まあ、そうでしょうね」 ポリドロ卿が顎に手を当てながら、思案の表情を見せる。 私は必死で言いつのる。 「下働きで良いのです。手足と思い、ご自由に使って頂いて構いません。どうか、何卒」 私は長椅子から立ち上がり、背をピンと伸ばし、靴の踵を合わせながら。 深く、頭を下げながら頼み込む。 「ヴェスパーマン家を、この私を、王配暗殺事件の調査に加えて頂けるようお願いいたします。我が家を助けて頂きたい。もちろん、謝礼金はお支払いいたします」 ここで断られでもしたら、酷い事になる。 数々の失態の責任を取って私に家督を譲った母も、家で頭を抱えながら待っている事だろう。 何の成果も得られませんでした。 そう報告した時の、卒倒する母親の姿が思い浮かぶようであった。 母はまだ若いが、ヴェスパーマン家に降り注ぐ数々の難題、そしてザビ姉に対するストレスのせいで、明らかに歳より老け込んでいた。 今、私の肩に家の浮沈がかかっているのだ。 「コイツ金払うって言ってるしさあ、それで勘弁してくれない?」 ザビ姉がヘラヘラ笑いながら、ポリドロ卿に話しかける。 このクズ、ちょっとは真面目に手助けしろよ。 ポリドロ卿の前でなければ、確実に殴っていた。 こっちは死ぬか生きるかの状況なんだぞ。 だが感情を隠せなければ、諜報統括役は務まらない。 落ち着け、私。 「……承知しました。協力して頂きましょう。謝礼金はいりません」 しばし思考の後、ポリドロ卿は頷いた。 押し潰されたように追い詰められていた肺が機能を回復し、安堵の息を勢いよく吐き出す。 なんとか、ギリギリで命を拾ったぞ。 「正直、私が暗殺事件を解決する事は経った歳月もあり、困難でしょう。ですが命じられた以上は、全ての事を行わなくてはなりません。どのみち前任者からは、全ての情報を譲っていただけるよう頼むつもりでありました。丁度いいお話です。調査に任命された立場として、ヴェスパーマン家に正式な参加協力を要請します」 「誠に良い判断かと!」 勢いよく、下げていた頭を上げる。 良い人だ。 本当にポリドロ卿は良い人だ。 「え、ポリドロ卿はお金要らないの? コイツ言えば絶対払うよ」 「さすがに受け取れませんよ。立場の悪用です。その調査役としての立場を悪用してお金を受け取ったなどとリーゼンロッテ女王陛下が聞けば、心の底から私に失望されるでしょう」 「まあ、考えればそうか。でも、私にはキチンと紹介料を払えよマリーナ」 ポリポリと頭を掻きながら、クソ姉が私に言い放つ。 コイツ、ポリドロ卿が断ったのに自分はキッチリ金取るのかよ。 しかも、本当にポリドロ卿には渡りをつけるだけで、一緒に頭を下げる事すらしてくれなかったぞ。 だけど、それでも――ポリドロ卿の手前、ここで言い争うわけにはいかない。 いくらクソとはいえ実の姉で、確かにポリドロ卿には渡りをつけてくれたし、ポリドロ卿とザビ姉が近しいのも事実ではあるようだ。 悔しいが、姉への仲介謝礼金だけは支払うしかない。 半額になっただけマシと思うしかないのだ。 私は胸をムカつかせる。 「用件は以上でしょうか?」 「はい。日も遅いのに、こちらの急な申し出に応じて頂き、誠にご迷惑をおかけしました」 「構いません。こちらも王宮の勝手がわからず、茶の一つもお出しできず、誠に申し訳ありません」 互いに、頭を下げ合う。 なんで、こんな良い人がザビ姉と親しいんだ? 理解不可能だ。 こういう真面目な人は、クズでアホな姉の事を嫌いそうなものなのだが。 「衛兵に追い出される前に失礼する事にします。ポリドロ卿は明日から調査を開始される予定ですか?」 「はい。女王陛下が公務を一時、実務官僚に任せるそうで。私と陛下で、明日はバラ園の調査を行う予定です」 「では、明日からさっそく参加させて頂きます」 さて、考えろマリーナ・フォン・ヴェスパーマン。 リーゼンロッテ女王陛下は、めっきり我が家に失望しているだろう。 お前何しに来たの? そういった冷たい視線、或いは言葉を受けることも覚悟しなければならない。 おそらく、ポリドロ卿から正式に参加協力を要請されたとの一言で、話は通るであろうが。 「ねえ、ポリドロ卿。今晩は泊っていっちゃ駄目かな? 夜まで話したい事があるんだ」 このクソ姉何言いだすんだ。 その視線は、黙って大きなベッドを見つめていた。 お前ぶん殴るぞ。 「生憎、ヴァリエール第二王女殿下の婚約者としての立場がある以上、女性を部屋に御泊めすることはできません」 ポリドロ卿が、残念そうに呟く。 何故、そんなに残念そうなんだ。 え、本当にザビ姉とポリドロ卿、男と女の関係的な意味で仲がいいのか? 冗談じゃなくて? 「結婚まで純潔を守らなくてはなりません。そしてヴァリエール第二王女殿下を裏切る事も私にはできません」 ポリドロ卿は、当然の事を呟く。 呟くが、明らかに挙動不審である。 性的な事を発言されて、戸惑っていると最初は判断付ける、が。 「でも、私と褥を共にするのは嫌じゃあないでしょう」 「……」 ザビ姉の言葉に応えるのは、ポリドロ卿の沈黙。 ポリドロ卿の顔を見つめるザビ姉の表情が、卑猥に歪んだ。 ザビ姉は、人の顔色を見つめるだけで真偽を判断できる。 え、ガチなの? ガチなのか、この人? ザビ姉のどこがいいんだ? 私は、ポリドロ卿の女の趣味を心底疑った。 「お答えできません」 ポリドロ卿は首を横に振っているが、もう何だか私の目にも明らかに判るくらいに残念そうである。 貞淑で無垢でいじらしい、朴訥で真面目な人柄。 それには間違いない。 だが、些か直情的であり、思慮には欠けるところがある。 その性格に、更に追記すべき事項がある。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は、実はエッチな事に凄く興味がある。 女顔負けの大英傑が22歳にして未だ純潔を保ちながら、実は淫乱な事に酷く興味があるとは。 もちろん、これは誰にも言えない事だ。 もしアナスタシア第一王女殿下やアスターテ公爵に一言でも呟いた場合、その場での激昂とともに、私は首を刎ねられるであろう。 口にしても、誰にも信じてもらえないだろう。 だが、それでも、いや、それゆえにか。 眼前の男騎士が純潔の淫乱であるという事実を知り、私ことマリーナ・フォン・ヴェスパーマンは、何だか股が濡れる程に酷く興奮してしまったのであった。 第71話 お前何しに来たの? 何の成果も上げられませんでした。 ロベルト暗殺事件における、その報告を聞いた時。 ヴェスパーマン家を潰そうか、と頭によぎった事がある。 だが、辛うじて思い留まった。 あの時は出来なかったのだ。 諜報統括たるヴェスパーマン家を、感情のままに取り潰す事など出来はしなかった。 世襲の法衣貴族は、その家系の存続に意味がある。 その家が持つ技術や知識の伝承、築き上げてきた寄子や親族関係の継承。 すでに出来上がった諜報網の破棄をしてまで、諜報統括者たる役職を別な家に挿げ替える事はできなかった。 だが正直、最近はどうでもよくなってきている。 あまりにもヴェスパーマン家の失点が多すぎるのだ。 私の後を継ぐ長女であるアナスタシアが、現在のヴェスパーマン家の当主たるマリーナを見込んでいるからこそ放置していたのだ。 代替わりの時期は近づき、私ことリーゼンロッテは女王としての役目を終えつつある。 だから、何事も今後はアナスタシアが決めて行けばよいし、私が口を挟む事ではない。 国家にとって最重要であったヴィレンドルフとの和平交渉も、少々ファウストに知恵を与えるだけで、基本的にはアナスタシアに任せた。 何もかもこれでよい。 これからはアナスタシアの時代になる以上、邪魔にならぬように自分は権力の座から退いて行かねばならぬ。 今の今までは、そう思っていた。 この王宮のバラ園にて、ファウストに連れられて、マリーナ・フォン・ヴェスパーマンが私の眼前に姿を現すまでは。 そうだ、私は失敗した。 酷く後悔しているのだ。 機会を見て、この愚劣な女の首を挿げ替えておくべきであった。 「貴女、何しに来たの?」 そう呟いた、私の顔は怒りで酷く歪んでいるであろう。 公人の私は酷く鉄面皮である。 だが、怒りの沸点を超えると、それは微笑みへと表情を変化させる。 私の表情は、それはもう酷く酷く微笑みを深くしながら、笑っている事であろう。 この自分の奇妙な癖に、今は少しばかり感謝した。 王家の事情に疎いファウストには、私が激怒している事を悟られずに済む。 「リ、リーゼンロッテ女王陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しく! 本日は王配ロベルト様の暗殺事件において、ファウスト・フォン・ポリドロ卿の補佐を務めるべく参上いたしました!!」 上級法衣貴族たるマリーナは当然、私の微笑みが激怒を表す事を理解している。 声は上擦り、いつもの武官然とした様子は見られない。 もはやヤケになったように声を張り上げ、膝を折った姿のままで、私の顔を見据えている。 いい度胸だ。 真正面からブチのめしてやる。 アンハルト女王にして、代々狂戦士の超人たる血筋を引く、このリーゼンロッテを甘く見るなよ。 貴様の首をへし折り千切る事ぐらいならば、武器が無くとも素手で十分なのだ。 「貴女、何しに来たの?」 マリーナの言い訳なんぞ聞きたくもない。 ただ繰り言を吐き捨てる。 何故、諜報統括者たるお前が、私のファウストに対する恋心を読めないのか。 先代のヴェスパーマン家当主は、もうちょっと空気読めたぞ。 私はもう、今日こそはバッチリ決めるつもりで来たのだ。 お気に入りのオープンバックドレスに、王家一族の自慢である赤毛の長髪によく櫛を通し、ファウストから貰った石鹸でよく湯浴みをし。 ファウストと同じ、カモミールの匂いを身体中から振りまきながら、バラ園に来たのだ。 二度言うが、もうこのバラ園でバッチリ決めるために。 私は泣く予定であった。 亡きロベルトの事を思い出しながら、心の底から大いに泣く予定であった。 ファウストはその巨躯で、私に胸を貸しながら慰めてくれたであろう。 そして、私に股を開いてくれたであろう。 もう私の中で、それは決定事項であった。 今頃はもうバラ園で、二人して凄い事になっている予定であったのだ。 「リーゼンロッテ女王陛下――失礼、リーゼンロッテとお呼びする約束でしたね。今回の王配ロベルト様暗殺事件の調査には、前任者であるヴェスパーマン家の協力が必要と考えます。バラ園を歩きながら、当時の状況について尋ねたいと思います」 相変らず私のファウストは真面目である。 貞淑で無垢でいじらしい、朴訥で真面目な人柄。 その行動に澱みは無い。 ああ、確かに真面目なお前なら、ヴェスパーマン家に調査の協力をさせるであろうなあ。 私は額に手をやり、幾分か体温の低い手で、火照った熱を冷ます。 この展開は、想定の一つではあった。 だが、余りにも早すぎる。 空気の読めないこの目の前の小娘が、必死になってファウストに渡りを付けようにも、それを可能にするアナスタシアは今公爵領に向かっていて――そうか、ザビーネか。 ヴェスパーマン家から放逐された、第二王女親衛隊隊長。 あのチンパンジーがまだ居たか。 小娘どもが! 「問おう。ファウストへの渡りを付けたのは、お前の姉であるザビーネか?」 「――はっ、その通りです」 幾分か逡巡した後、マリーナが頷く。 この小娘! この小娘! この小娘どもが!! 表向きには微笑を浮かべながら、内心でひたすらに罵倒する。 何故に私の邪魔をするのだ。 私は本日のファウストとのデートを、心の底から楽しみにしていた。 ファウストと、私の愛の結実。 教会は激怒しようが、それを認めてくれない神の方が間違っているのだ、と。 昨日、一度はそう考えたものの、湯浴みの最中で考えなおした。 むしろ、神は認めてくれないどころか、私に神命を与えたのではないか。 私は神から祝福を受けたのだ。 そうとしか思えない。 だってアナスタシアもアスターテもヴァリエールも、まるで計画されたように今は王都にいない。 これはもう、明らかに神の祝福を受けている。 神が私にファウストの初物を摘むよう、使命を与えたのだ! それはもう誰の目にも明らかではないか!! 油断すれば奪われる。 所詮、この世は弱肉強食が定め。 力無き統治者ほど、国民にとって害のある物はない。 女王の座を退く前に、この世の厳しさを、この母であるリーゼンロッテ自身が娘や姪に教える。 もうこれは感謝されてしかるべき事案であり、譲ってもフィフティ・フィフティであり、喧嘩両成敗であるとして娘や姪は許すべきなのだ。 そもそも創世記において、息子と近親相姦しやがった奴に比べたら大したことじゃない、些細な事であるのだ。 目の前に差し出された肉食って何が悪い! 自分の娘の婚約者に手を出して何が悪い! 思考は散文的に、ただひたすらに暴走を続けるが。 もちろん私は微笑みを浮かべたまま、口から虚を吐く。 「なるほど、ファウストの言はもっともだな。それはそれとしてだ。本日のバラ園の調査に関しては、まずファウストと私の二人だけで行うべきだと――」 私は勝利の美酒を味わうため、ファウストの羞恥という名の無花果の葉を一枚一枚取り去っていく作業をバラ園にて行うため、当初の計画案を実施しようと口にするが。 「リーゼンロッテ、それは駄目です。調査ではなく、無駄な散策となってしまいます。ここは一度三人で当時の様子について話し合うべきです」 ファウストは真面目だなあ。 でも私が調査したいのはお前の身体なんだよ!! 「私もそう考えます!」 ここで声を張り上げるマリーナは、空気が本当に読めない奴である。 小娘は黙ってろ! クジラのケツにドタマ突っ込んでおっ死ね! 私は脳内で罵倒しながらも、考える。 どうすればいい? どうすれば、この邪魔な小娘を潰せる? まさか、本当に力技で亡き者にしてしまうわけにもいくまい。 少なくとも、ファウストの眼前でそれは出来ないのだ。 奥歯を噛みしめる力が、自然と強くなる。 考えろ、リーゼンロッテ。 何か、何か方法はないのか。 「リーゼンロッテ。手を」 ファウストが歩み寄り、私の手を握る。 ――冷えた私の手と違い、その手はゴツゴツと剣ダコと槍ダコで膨れ上がっており、熱量を感じさせる。 ふ、とロベルトの事が、頭を横切る。 この手が原因だ。 もっとも、ロベルトの手は鍬ダコであり、農業と園芸のそれによる膨れであったが。 胸が、きゅうと小さくなるように痛む。 たまらなく悲しくなってしまう。 あまりにも、このファウストという一人の騎士は、その行動の一つ一つにおいてロベルトを想い出させる。 顔は似ていない。 ロベルトも身長は高く筋骨隆々とした容姿ではあったが、さすがにファウストのような鍛え上げられた鋼の肉体ではなかった。 ロベルトとファウストを相似させるのはたった一つ。 太陽としてそこにある、その雰囲気だ。 私は、太陽を一度失ってしまった。 だが、もう一度手に入れようとしている。 私は強く、ファウストの手を握り返す。 「とりあえず、一緒にバラ園を歩きましょう。一緒に手を繋いで、王配ロベルト様がリーゼンロッテに捧げたバラ園を私に紹介してください。」 「……ああ」 頷くしかない。 とりあえず、今日は諦めるしかない。 私の心中には燻る物が残っているが、それでも今日は―― 二人手を繋いで歩くだけでもよい。 私は、もう納得しかけてしまっていた。 侍童だった時のロベルトが、私にニコニコと笑いながら、まだ基礎すら出来上がっていないバラ園がこれからどうなるのか。 他の侍童とは違い、女王候補である私に何の悪意も目論見も無く、地面に木の棒で線を引きながら。 本当に心の底から、嬉しそうにあの人は笑って私にバラ園の説明を――。 そう、一言一句覚えているのだ。 ここが、中央のローズガーデンで、ガーデンテーブルを置いて、そこから100mも続くバラの小径――散歩道を作って。 本当に嬉しそうに笑っていた。 嗚呼、本当に。 「何故死んでしまったのだろうなあ、ロベルトは」 「……それを、今から調べ直しましょう」 「ファウスト、今一度、私の心をお前に話しておきたい」 手を握ったまま、それが離れぬよう指を絡め合い、会話を続ける。 「私はな、今回の事件の解決など求めていないのだよ。もちろん、解決するに越したことはないが。もう5年になる。私は心の安寧が欲しい。全てをやるだけやったのだという、諦めが欲しいのだ」 「伺っております」 ファウストが、歩き出す。 一言、マリーナに対して後ろから付いてくるように、指示を飛ばしながら。 慌てて立ち上がったマリーナを背後につれ、ただただバラ園へと足を踏み出す。 「私は心の底から騎士としてあるがままに熱狂者として忠誠を尽くし、可能な限りの調査を行うように致します。女王陛下の心残りがせめて消える様に。やるだけの事はやったと満足がいくように」 「ああ、そうだな」 ファウストは鈍い男だ。 アナスタシアからの強い好意にすら、全く気づいていないし。 アスターテの事はただの尻好きの淫獣と看做している。 私の好意に至っては想像の範疇外であろう。 だが、その恋愛に疎いズレたところが私にはただただ、愛おしかった。 仕方ない、ひとまず妥協しよう。 「マリーナ、ひとまずお前の話を聞いてやろう。全ての情報の引継ぎ、お前の役割を話し終えた後は立ち去れ」 今日ばかりは、ファウストを抱く気にはなれなくなってしまった。 今度にしよう。 とりあえずは、ファウストとマリーナの考える様にやらせてやる。 ヴェスパーマン家の面子を立たせてやろうではないか。 正直、族滅させてやりたいものだが。 「あ、有難うございます。この一か月、ポリドロ卿の手足となってヴェスパーマン家一同にて、再調査にあたります!!」 ハキハキとしたマリーナの声。 酷く鬱陶しい。 ファウストさえこの場にいなければ、既に首をねじ切って玩具にしているというのに。 惚れた男の前では、選帝侯たる私と言えど、さすがに淑女でいなければならなかった。 空を仰ぎ見る。 ロベルトは、今頃天国で私の様子を眺めてくれているだろうか。 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。 神により照らし出されたその場所にて、私を見守ってくれているだろうか。 もし見守ってくれているのならば、私の本願が叶う事を願って欲しい。 お前の造り上げたバラ園にてファウストを押し倒し、5年ぶりに凄い事をする。 女王という公人の立場からも、なんか母親への敬意が微妙に感じられない娘達からも解き放たれ、5年ぶりに全てを解放するのだ。 お前が天国から見てくれていると思えば、もうそれだけで私は背徳感から興奮できる。 味気の無い、塩味だけのパンすら美味しくなるのだ。 だから、ずっと私を見守っていてくれ、ロベルトよ。 手を繋ぎながら、バラ園の中に入る。 私はファウストを案内するように、ローズガーデンの入り口を見渡しながら。 バラ園のデートにて、初めてロベルトとキスをしたときの味を口内に思い出していた。 第72話 カモ食わねえか? 第二王女親衛隊は貧乏である。 第二王女親衛隊の隊員達に与えられた寮、その共有の小さなダイニングルームにて私は思う。 ヴァリエール様の初陣における功績により、我々は一階級昇位した。 私達の手柄とはとても言えないが、来年にはヴィレンドルフ和平交渉の功績により、更に昇位するであろう。 経済状況は多少マシになってきた。 だが、世襲騎士の階位まではまだ遠い。 更に言えば、第二王女親衛隊の役職手当は、第一王女親衛隊のそれと比べると安い。 ヴァリ様の歳費が、とにかく安いから仕方ないのだ。 とかく金がない。 どうしても、装備を重視すると金がかかるのだ。 私達は、実家から騎士装備一式を与えられて送り出されたのではなく、それこそ捨てるように放逐されたのだから。 まあ愚痴を言えば長くなるので、もう止めておこう。 そんな金がない私達に、だ。 「カモ食わねえか?」 親衛隊長であるザビーネが、何故か数匹の鴨を腰にぶら下げて帰って来た。 私達三人と言えば、朝食中である。 硬いパンをミルク粥に漬けて柔らかくして、流し込むように口に詰め込みながら、少し考えた後。 親衛隊員の一人である私は、思わず呟いた。 「どこの教会から盗んできたの?」 「盗んでないわ! 私をなんだと思っている!!」 なんたって、アンハルトからヴィレンドルフまでで、一番頭がおかしい女と後世で言われてもおかしくないのが、目の前のザビーネだ。 お腹空いた→肉食いたい→どこぞの教会にいって肥育されている鴨を盗んできた。 このルートはあり得る。 「お前等、肉要らないのかよ」 「いや、食べたいけど、どっから盗んで来たのかを、まず聞いてから判断するよ」 ヤバイところのものじゃなかったら、食べよう。 ヤバイところのものだったら、私と他の隊員の計三名でザビーネをシバいて、謝りに行こう。 ストッパーであるヴァリ様がいない今、私達三人がしっかりザビーネを止めなければならない。 「ちゃんと実家で肥育している鴨を奪ってきたから大丈夫だよ!」 「……」 少し、考える。 私達、実家と縁切りしてるから家に帰れないだろ。 というか、私達だって実家なんぞに帰りたくない。 この隊員寮が私達の家だ。 ヴァリ様だけが私達の主である。 それだけはザビーネも仲間として、絶対に裏切らない。 ザビーネ、何しに実家に帰ったんだよ。 というか、奪ってきたってお前。 「朝っぱらから飯も食べずに姿を消したと思えば、実家に鴨盗みに行ったの? そもそも何で鴨なんか肥育してんのさ、お前の家」 「いや、真正面から怒鳴り込んで、金せしめに行ってた。鴨は来客用に肥育しているもので、ついでにぶっ殺して奪ってきた」 金って、何の金だよ。 三人して訝し気な顔をしながら、粗末な朝食を終え、木製の食器を片付ける。 その間もチラチラと、ザビーネが何故だか凄い自慢げに、私達の目の前に突き出してくる鴨を見る。 鴨食いたい。 そんな私達の思考など、ザビーネの悪賢い頭では理解しているのであろう。 ニンマリと笑いながら、これを見ろ、と言い放ちながらダイニングテーブル上に袋を投げた。 その袋から、ジャラリと零れ落ちる金貨。 選帝侯として鋳造権を持つ、アンハルト王家が発行した金貨である。 「……」 「どうだ、凄いだろ」 「え、これ何枚あるの?」 ダイニングテーブルから、自分の年給に値する額の金貨が零れ落ちて床に転がる。 眼が眩むどころか、正直ドン引きした。 袋の中身は少なく見積もっても、私の一生分の給金を遥かに超えている。 お前、何したの? 背筋にゾクリとした悪感が走る。 絶対ヤバイ事した。 絶対にヤバイことしやがったぞ、コイツ。 「とりあえず殴る」 「なんで!?」 私達三人は親衛隊長たるザビーネを捕まえて、リンチする事にした。     ※ 「お前等カモ食うな」 「謝ったじゃん!」 「お前らが謝ったら、私の殴られた痛みが消えるのか?」 行きつけの、小さな安酒場である。  ザビーネと隊員三名、今回ばかりは貸し切りとはいかない。 隅っこのテーブルで安ワインを口にしながら、鴨肉のスープが出来上がるのを待つ。 この酒場は材料持ち込みで、料理してくれるから好きだ。   「鴨肉が食べたいんだよ!」 「そうだろうと思って、家の鴨ぶっ殺して持って帰って来たのに、なんで私殴られなきゃならないの?」 ザビーネは酷く不機嫌である。 いや、お前の日ごろの行いが悪いからだろ。 絶対にコイツ、ヤバイ事やらかしたと思うだろ。 今までの人生で見た事も無い、とち狂った枚数の金貨をダイニングテーブルにぶちまけたんだぞ。 私達は悪くない。 鴨食べたい。 肉汁で口の中を一杯にしたいのだ。 「とりあえず、話は聞いたけど。ようするにあの金貨の山は、ポリドロ卿と渡りをつけるための仲介金なんだな」 「そうだよ。私とポリドロ卿との共同作業だよ」 何が共同作業だ、何が。 それにしても凄まじい額だった。 ヴェスパーマン家、かなり貯め込んでたんだな。 「いや、本当によかったの?」 「何が?」 「いや、さすがに……」 あの額を分捕ってくるのは無いだろ。 それに、その上で「お腹が空いたから、ついでに鴨をぶっ殺して持って帰ろう」って山賊でも考えないわ。 どういう思考回路してんだザビーネ。 「もう実家じゃないから知った事じゃない。私はザビーネ・フォン・ヴェスパーマンと名乗ってはいるけど、ただそれだけ。もう諜報統括としてのヴェスパーマン家とは赤の他人だから」 「……」 しれっ、と呟きながら、ザビーネは安ワインを口にする。 呟いたその声色は、酷く冷たいものであった。 背筋が寒い。 身内としては怯える必要ないのだが、ザビーネの冷酷さを見た。 貴族教育としての冷酷さ、騎士教育としての冷酷さ、どちらでもない。 ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンという一人の女は、おそらくは最初からこう産まれついたのだろう。 そういえば、初陣でも最初に敵をぶっ殺したのはザビーネだ。 何のためらいもなく、至極当然の事のように平気な顔をして殺していた。 その後は戦争の熱狂に呑まれるでもなく、後方に下がり、淡々と戦闘指揮を執っていた。 正直、あの時は後ろから掛けられる指示が、心の底から有難かった。 ザビーネを隊長にして良かったと思った。 それはそれとして。 お前ぶっちゃけ怖いよ。 「そんな目、するなよ」 酷く傷ついた表情でザビーネが呟く。 いつものヴァリ様にシバかれている時の顔ではなく、本当に傷ついたという顔だ。 思わず目を覆い、恐怖の目で見てしまった事に後悔する。 「悪かった」 素直に謝罪を口にした。 ザビーネは私達の隊長であり、それ以前に仲間だ。 それをこんな目で見てはならない。 ハンナがヴァリ様を庇って死んだとき、狂ったように泣いていたザビーネの事をもう忘れたのか。 「本当に、悪かったよ」 心の底から謝罪をする。 椅子に座ったまま頭を平に下げる。 それは私だけでなく、他の二名も同じであった。 「もういいよ。それより、あの金の使い道についてなんだけどさ」 あっさりとザビーネが許しの言葉を呟く。 そして、金の使い道について矛先を向けた。 「使い道って、まあザビーネが鎧や馬でも買えば?」 「まあ、私も使うよ。使うけど、それより兵が欲しいんだよ」 「兵?」 ザビーネの言っている事がよく判らない。 我々は騎士教育も中途半端なので、この辺りは教養のあるザビーネに負ける。 騎士教育はちゃんと受けたのに、どこか頭がおかしいからという理由で放逐されたらしいザビーネとは違う。 「従者だよ、従者。騎士にはやっぱり従者が必要でしょ」 「馬も持ってない私達に従者が必要だと?」 「要るに決まってる。馬も必要かなー、とは思ったけどさあ。先に兵だよ兵。やっぱり数が必要だよ。私達はポリドロ卿みたいな、一騎当千に値する超人じゃないんだよ。数こそが暴力になるよ。ぶっちゃけ死にたくないし」 ズバズバと本音を吐く。 まあ、私もヴァリ様のために死ぬなら笑って死ねるが、別に好き好んで死にたいわけでもない。 ハンナの死は大きかった。 これ以上騎士の数を減らすのは、ヴァリ様にとっても宜しくない。 未だにハンナの死による欠員補充を、ヴァリ様は拒んでいるのだから尚更だ。 我々はもはや、簡単には死ぬことが許されない立場なのだ。 「私達が初陣を共にしたポリドロ領民程の練度も忠誠も求めちゃいない。だけど、最低限逃げない奴が欲しい」 「つまり?」 「どこにも行けない、行く場所の無い、私達と同じようなスペア。平民の三女や四女を、従者として雇い入れようと思う」 あれだけの金があれば、確かに可能だろう。 そして「私達と同じようなスペア」という言葉は、酷く聞こえが良かった。 なるほど、私達と同じく家から放逐された女達なら、青い血と平民の垣根はあれど上手くいくかもしれない。 「捨てられた者同士、仲良くしましょうねー、て奴だよ。装備だって、あれだけの金があれば買える。ポリドロ卿を見習おう。騎馬対策に、柄の長いパイクを用意しよう。マスケット銃やクロスボウもいいな」 「銃が手に入るの? あれ、金さえあればって物じゃないでしょ」 「私、ポリドロ卿に司祭への推薦状書いてもらって、この間ケルン派の改宗受けて来たんだよ。何せ実家から放逐された立場だから、私個人が改宗しても誰にも迷惑かけないし」 何時の間にそんな事になってたんだ。 というか、何から何まで準備が良すぎる。 いつからザビーネはそんな計画を考えていた? ヴァリ様に用意された歳費では、とても成し得ない計画だぞ? ザビーネの頭が幾ら回るとはいえ、急に大金が入るなんてことは想像の余地もなかったろう。 想像できてたら怖い。 というか、想像できなくても、こうも頭がくるくる回っているザビーネは純粋に怖い。 「ケルン派はメリットが大きい。ケルン派は火力を信仰している。ケルン派は信徒の浄財を火器開発に注いでいる。ケルン派は宗派の拠点でマスケット銃を大量生産している。ケルン派はマスケット銃を信徒に安く売ってくれる。なんて素晴らしいんだ、ケルン派」 頭おかしい宗派。 どう考えても頭おかしい宗派である。 この世界のマスケット銃持ってる傭兵を見れば、もう確実にケルン派である。 ポリドロ卿に関してはポリドロ領自体が、遥か昔からケルン派を信仰していたらしいから、どうしようもないのだが。 「ついでだ。お前等もケルン派に改宗しろ。従士にする平民達も、全員ケルン派に改宗を受けさせるぞ。数を集めれば、より安くマスケット銃を売ってくれるだろう。楽しくなってきたな」 私はお前が恐ろしくなってきたよ、ザビーネ。 何でコイツ、長女なのに家継げなかったんだろう。 いや、品性もない、理性もない、コイツが家を継げなかったのは理解できる。 4年間、この馬鹿と付き合ってきた第二王女親衛隊とヴァリ様なら、もう嫌というほど理解できる。 それにしたって、ヴェスパーマン家は最後の最後、ギリギリまで死ぬほど悩んだんじゃないかと思う。 一度、登城してた先代のヴェスパーマン家当主を目にしたことがある。 年齢に見合わず、酷く老け込んでいた。 全部ザビーネのせいだろうなと思う。 コイツを押しのけて家督相続を勝ち取ったマリーナは、それほど優秀だったのだろうか? 「なあ、ザビーネ。お前の妹って優秀?」 「何だよ、突然。そりゃ優秀だよ」 お前より優秀なのかが聞きたい。 理性も品性もあるザビーネを想像すると、吐きそうになってきた。 「当主ついでも問題ないくらいには、優秀だけどなあ。アイツ空気読めないところあるからなあ」 「空気が読めない?」 「うん。まあ経験が足りないってのは、とにかくデカイ。私みたく、本当にキッツイ目を味わわされた事が――ハンナの死を契機にして、どうすれば皆が死なずに済むか、どうすればヴァリ様を守れるか、みたいな事を一度も考えた事が無いんじゃないかと思う。ギリギリの限界まで、追い込まれた事が無い。自分が死んだほうがマシだったって目に遭った事が無いから、ぬるいのはまあ仕方ない。でも、やっぱりぬるい」 そんな事考えてたのかザビーネ。 考えてたんだろうなあ。 さっきから口にしているアイデアは、ずっとずっと考えていないと、さすがに出てこないだろう。 まだハンナの死を気にしているのだろうか。 ――している、だろうな。 ヴァルハラに逝ってしまったハンナは、ザビーネの事などこれっぽっちも恨んでいないだろうに。 ザビーネの知能は、ハンナの死を契機に異様なまでに発達している。 品性と理性が払底している事だけには変化ないが。 「要するに、詰めが甘い。色々とぬるい。何も諜報統括で文官たるヴェスパーマン家の当主に、本当に戦場に出て命のやり取りやってこいとまでは言わない。でもまあ、一度痛い目に遭った方がいい。これから遭うだろうけど」 「ん?」 何か、今妙な事を口にしたが。 ザビーネは口元に手をやりながら、何やら思案顔で呟く。 「お前等に尋ねるけどさあ。仮に自分が好みの男と、バラ園で二人きりのデートの誘いに成功したとしよう。私ことザビーネが、何故か邪魔しに現れました。さあどうする?」 「ぶっ殺す」 答えは一つだ。 ぶっ殺すに決まっている。 「うん、殺すだろね。私だって、ポリドロ卿とのデートを邪魔されたら、そいつを殺すし。まあそう言う事だよ」 「どういう事?」 「そう言う事だよ」 ザビーネが一人で、よく判らない事を口にする。 「なんかライオンは子供を育てる際に、その愛情から子供を崖に突き落とすって吟遊詩人に聞いたことあるけど本当なのかねえ? 私は実家の仕事、吐き気がするほど大嫌いだったけど、まあ妹の事は嫌いじゃなかったよ」 ザビーネは金髪の長髪を?きあげ、その美麗な顔で、何もかも忘れてサッパリしたような顔で呟いた。 その呟きは愛憎が入り混じった声であったが、ザビーネの心は判らない。 でもヴァリ様、ザビーネが私費を投じて第二王女親衛隊を強化する事に賛成するだろうか。 立場が逆転している、と反対する気もするのだが。 ザビーネもザビーネで、私費を投じてまで、我々を守ろうと言うのは。 なんとなく、こそばゆい。 「鴨肉のスープです」 安酒場の店主が、私達の席まで料理を持ってきた。 今はただ、ザビーネに感謝して肉を食べよう。 第73話 エウレカ! 血の小便が出そうだ。 マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは地獄の苦しみを味わっていた。 もう、バラ園行きたくない。 行きたくないのだ。 この数日、女王陛下やポリドロ卿と一緒に、バラ園にて調査を行ったが。 マリーナは明確な失敗をしたことを自覚していた。 もう嫌というほどに理解した。 あそこまでポリドロ卿と私とで、露骨に態度を変えられれば、いくら空気が読めない私でも判るというのだ。 ポリドロ卿にはニコニコした顔で、全ての会話に朗らかに応じる女王陛下。 対して、私の言葉には全て否定的であり、たまに耳元で舌打ちをする女王陛下。 その舌打ちの度に、心臓と胃が引き攣りを起こして、血の小便を漏らしそうになるのだ。 というか、リーゼンロッテ女王陛下が完全に勝負服。 優雅なドレス姿で、その王家一族の自慢である赤毛の長髪によく櫛を通し、カモミールの匂いをふんわりと漂わせる。 最初に出会った時点で、アホではあるが聡い姉なら気づいて、ポリドロ卿に謝りながらもダッシュでその場を逃げたのではなかろうか。 いや、異常に勘が良い姉の事だ。 最初から、女王陛下の懸想に気づいたかもしれない。 あの面白そうな事には猿のような好奇心で首を突っ込みたがるザビ姉が、王配ロベルト様の暗殺事件に興味を示さなかったのを、私は理解すべきであったのだ。 「リーゼンロッテ女王陛下は、ファウスト・フォン・ポリドロ卿に懸想している」 その事実が横たわっている。 自分は空気が読めない子だと、ザビ姉に言われたことがある。 ザビ姉は品性と理性が払底しているじゃない、と言い返した事がある。 童の頃の事であった。 幼き頃の事を想い出しながら、泣く。 あの頃に戻りたかった。 何故、私は大人になってしまったのであろう。 何故、私は空気が読めないのだろう。 何故、ヴェスパーマン家はここまで追い詰められているのであろう。 何故、ザビ姉ではなく、愚かな私が当主になってしまったのだろう。 そもそも諜報統括なんて役目、空気が読めない私には無理だったのだ。 「全部、私のせいだ。私が馬鹿だから、こんな事になってるんだ」 自害してしまおうか。 いや、ここで死んでしまえば、それこそヴェスパーマン家はお終いだ。 妹に家督を譲ったところで、もはや済まされる話ではない。 ヴェスパーマン家はどうなるのだ。 私は家族や、雇用している使用人達の事を考えた。 私の肩には、ヴェスパーマン家の全てが懸かっているのだ。 「私がしっかりしないと。私が、しっかりしないと。ヴェスパーマン家が潰れちゃう」 ボロボロに泣きながら、水晶玉を見つめる。 魔法の水晶玉であり、通信機としての役割を果たす。 ヴェスパーマン家が、アンハルト王家のためにコツコツと数代かけて構築した情報網である。 アナスタシア第一王女殿下にお縋りする。 もはや、残された道はこれしかない。 アナスタシア第一王女殿下とは未だ連絡が付かないが、予定ではそろそろ道中の街に辿り着くはずだ。 街には諜報員を一人忍ばせていた。 「すでに連絡は済ませてある。諜報員は、必ずアナスタシア殿下に渡りをつけてくれるはず。きっと、そのはず。いや、間違いなくやってくれ――」 自分を落ち着かせるために、独り言をつぶやく。 知能は、産まれてこの方、かつてないほどに回転していた。 マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは死ぬほど追い詰められていた。 もう自分が死ぬのはいい、自分が馬鹿なんだから仕方ない。 だが家を潰すことだけは、貴族として許されなかった。 繰り返すが、マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは死ぬほど追い詰められていた。 それゆえに、知能は異常なまでの発達を短時間に遂げた。 「……私、間違ってなくない?」 ピンチはチャンス。 そんな言葉が、マリーナの頭に浮かんだ。 エウレカである。 古代の天才数学者が、形状の複雑な物体の体積を、正確に量るための手段を導き出した時の言葉であった。 まさにエウレカ!(見つけた!)である。 血の小便が出そうなほどに、死ぬほど悩みぬいた挙句の結論であった。 何も間違っていない。 そうだ、マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは、何も間違ったことはしていないはずである。 水晶玉が光る。 通信機たる水晶玉が、魔法力を消費する代わりに通信を行う。 「なんだ、マリーナ。あまり諜報員を使うな。王家が諸侯の土地に諜報員を潜らせてる事が知られると、拙い。当然、諸侯も潜り込まれている事ぐらいは承知の上だろうが、表向きになると困るのだ。私がお前を見込んだのは、ヴェスパーマン家の諜報網が欲しいからであって、ハッキリ言ってしまえばお前個人としては空気が読めないところが……」 「申し訳ありません、アナスタシア第一王女殿下。至急、ご報告したいことがありまして」 「何だ。早く言え」 爬虫類じみた鋭い眼光。 将来アンハルト王家を継ぐものとしての、その威圧感は凄まじいものがある。 あの憤怒の騎士たるポリドロ卿ですら、アナスタシア第一王女の視線を受けると怯えている。 マリーナは、今までアナスタシア第一王女の前ではあえてハキハキとした受け答えをすることで自分を誤魔化してきた。 マリーナは、アナスタシア第一王女に心底恐怖していたのだ。 だが、今のマリーナの心は微動だにしない。 水晶玉越し、だからではない。 覚悟を決めたのだ。 マリーナ・フォン・ヴェスパーマンはこの時、血の小便が出そうなほどにまで追い詰められて、ようやく諜報統括たるヴェスパーマン家の当主として覚醒したのだ。 「リーゼンロッテ女王陛下が、ポリドロ卿に王命を下されました。内容は王配ロベルト様の、暗殺事件に対する調査です。ポリドロ卿は領地への帰還をお止めになり、王宮に滞在しておられます」 単刀直入に喋る。 マリーナはこの言葉だけで、英明な殿下であれば、全てを理解されるだろうと思った。 今まで、自分は空気が読めない馬鹿な女だと自嘲していたのだが。 全て、馬鹿馬鹿しい事なのだと、今になっては思う。 そう、マリーナはエウレカ(見つけた!)したのだ。 読むべき空気を見つけたのだ。 「……あの、クソババアが!」 殿下は激昂した。 当然である。 アナスタシア第一王女殿下とアスターテ公爵は、ポリドロ卿に懸想している。 それは情報として知っていた。 更に、ポリドロ卿はヴァリエール様の婚約者でもあるのだ。 邪魔して何が悪い。 私は何も間違ってはいない。 舌は、もはや自分の物ではないかのようにベラベラと回りそうであった。 アホではあるが演説の異才を持つ、家から放逐された、かつての姉ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンのように。 もはや、ザビ姉と慕う事はあるまい。 ここに至ってマリーナ・フォン・ヴェスパーマンは、自分の姉ならば現状まで「読み切った」事にも気づいた。 怒りは覚えたが、まあ自分が愚か「だった」のだから仕方あるまい。 マリーナは、数分前の自分を酷く滑稽に思った。 「私は邪魔しました」 「何?」 「私は殿下のために、妨害工作を行いました。ポリドロ卿に対し、かつての姉であるザビーネに必死に渡りをつけるよう頼み込んで、調査に参加しました。ポリドロ卿はまだ純潔です」 嘘も方便である。 実際、やってる事は傍から見れば、妨害工作そのものである。 事実である以上、何の問題もない。 「もちろん、それには多額の費用が必要となりましたが……」 「よくやった! 金は補填してやる! クソババアの歳費からな!!」 「有難うございます」 マリーナは、ヴェスパーマン家が数代積み上げた貯蓄の半分を、ザビーネに奪われた。 これは恥ずべき事である。 だが、数日後にはちゃんと補填の目途を立てたのだから、御先祖様達がお怒りになる事はあるまい。 激昂するアナスタシア第一王女の前で、マリーナはゆるやかな笑みを浮かべた。 「いつお戻りになられますか?」 「一か月で帰る!」 「承知しました。ポリドロ卿の王配暗殺事件における調査期間も、丁度一か月であります。私はその期間、妨害工作を続けます」 何の事はない。 気付いてしまえば、簡単な事であった。 これからのヴェスパーマン家が忠誠を誓うのは、アナスタシア第一王女殿下である。 リーゼンロッテ女王陛下ではないのだ。 だが、それまではバランスが重要となる。 今はまだ、リーゼンロッテ女王陛下の時代である。 お怒りになられたリーゼンロッテ女王陛下が、私の首をお刎ねになる。 首を捻じ切られ、玩具にされてしまう。 それだけは避けねばなるまい。 妹はとてもじゃないが、諜報統括たるヴェスパーマン家の当主には就けないであろう。 スペアのスペアとして教育がおざなりになっており、能力が足らないのはもちろんある。 だが、それだけではない。 一言で言ってしまえば「ぬるい」のだ。 こればかりは、死ぬ気にならなければ辿り着けない境地であった。 なるほど、ザビーネがあそこまで異常に知能を発達させたのも、今のマリーナにはよく理解できた。 かつての姉は、初陣を経験することで変わったのであろうか? 推測にすぎないが、そうだろうと思う。 「マリーナ、お前変わったな」 「ええ、変わったと自覚しております。但し、間違いなくいい方向であると理解しております」 「よろしい。私ことアナスタシアは、お前に対する見解を修正しよう。お前は酷く優秀になった。諜報統括たるヴェスパーマン家の当主として、相応しい顔つきになった」 お褒めにあずかり、至極光栄です。 マリーナは頭の中だけで、その言葉に答えた。 ここで調子に乗れば、アナスタシア第一王女殿下は「そういうところが駄目なんだ」と激怒するのは判っていた。 マリーナは、確かにエウレカ!したのであった。 ※ 小娘が。 リーゼンロッテは激怒した。 マリーナを一目見ただけで理解したのだ。 コイツ、覚悟を決めて来やがった。 「おはよう、マリーナ」 「女王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」 リーゼンロッテは、マリーナへの心理的圧迫を一週間かけて行った。 いずれ血の小便が出て、ベッドの上で寝込むことになるであろう。 人心掌握術として、正の方向だけではなく負の方向においても、リーゼンロッテはよく理解していた。 あと一日も圧迫すれば潰れる。 マリーナは、バラ園から消えて失せるであろう。 もうすぐだ、もうすぐ美酒が手に入る。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿という美酒が、この手に落ちる。 落ちるはずだったのに! マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは潰れるどころか、一人の貴族として覚醒を始めていた。 「まだファウストは来ていないが? 随分と朝早くから、私の部屋まで尋ねて来た理由を聞こう」 「アナスタシア第一王女殿下およびアスターテ公爵より、伝達がありました」 「ほう。聞こうではないか」 なるほど、アナスタシアと連絡をとったのか。 私はマリーナを睨みつける。 だがマリーナは、今までのビクビクオドオドした様子と違い、何を気負った様子もなく呟いた。 「首を洗って待ってろ、との事です」 実際には、その後にクソババア!とでも罵りが付いたのであろうが。 それを口に出さない程度には、この目の前のマリーナという女は空気が読める様になっていた。 今までのマリーナとは違う。 殺すか? 一瞬、殺意が芽生えるが、さすがに本当に殺してしまうのは拙かった。 マリーナが空気を読めないアホから、本当に優秀な人材として成長したなら、尚更な事である。 さすがに有能な人材を殺すのは躊躇われた。 一つ試そう。 「で、お前はどうする?」 「私は女王陛下にお仕えする身であります。リーゼンロッテ女王陛下の邪魔をするつもりはありません」 ここでアナスタシアに味方すると言うのであれば、この場で殴り倒して、そこら辺の空き部屋に転がしておくつもりであった。 ファウストには、今日はマリーナは休みのようである、とでも言えばよい。 だが、あくまで私の邪魔をするつもりはないと。 空気が読めるようになったようだな。 「ならば、消え失せろ。家に帰って寝るがよい」 「今すぐ、そうしたいところです。ですが、私にもアナスタシア第一王女殿下への立場という物がありまして」 「ふむ」 マリーナは、もはや私に心の底からの忠誠を誓ってはいまい。 忠誠のベクトルは、すでにアナスタシアに向かっていよう。 だが、そんな事はどうでも良い事なのだ。 本当に大事なのは、ファウストを手に入れるための邪魔を、この女がしないかどうかなのだ。 「あと少しだけ、時間をください。その後は殴り倒して、私をそこら辺の空き部屋にでも転がしてくだされば言い訳も立つでしょう」 「アナスタシアへの、お前の最低限の面子は立つと言う事か。私は娘に激怒されるであろうが」 「リーゼンロッテ女王陛下におかれましては、その辺りも織り込み済みでしょう? 私とて、アナスタシア様に役目を果たせなかった無能呼ばわりされる事を覚悟の上です。リーゼンロッテ女王陛下に抵抗したものの、敗れたという言い訳だけは立てさせてください」 その通りだ。 後でアナスタシアやヴァリエール、アスターテには激怒されよう。 だが知らぬ。 そんな事、もとより覚悟の上である。 ファウストさえ抱き落とせば、後は優しいファウストが私を庇ってくれる事まで計算に入れていた。 なるほど、なるほど。 悪くはない。 私は手を差し出した。 「お前の取引条件を呑んでやろうではないか」 「有難うございます」 マリーナは、私の手を強く握り返した。 些か、所詮は配下にすぎぬ小娘にしてやられた感は残るが。 そんな事は、もうどうでもいい。 私の目的は、ファウスト・フォン・ポリドロをこの手中におさめる事。 バラ園やベッドの中で、もうなんだか凄い事をするのだ。 もう一度。 もう一度、短い間でも良いのだ。 この手から離れてしまった太陽をもう一度、この手中に収めるのだ。 他人に知られれば、馬鹿げた事に労力を使っていると私を蔑む事であろう。 だが、私にとって、この行為は悲痛な祈りそのものであった。 ようやくマリーナが消えてくれる。 リーゼンロッテは、深く深くため息をついた。 第74話 ロベルト様の死因 チンコ痛いんやで。 私こと、ファウスト・フォン・ポリドロは酷く参っていた。 女王陛下――王配ロベルト様の暗殺事件の調査期間においては、ただのリーゼンロッテと呼ぶと約束した。 そのリーゼンロッテが、32歳赤毛長髪未亡人巨乳の乳を、私の背中や腰に押し付けてくるのだ。 スキンシップが明確に過剰なのだ。 スキンシップとは何ぞや。 互いの身体や肌の一部を触れ合わせることにより親密感や帰属感を高め、一体感を共有しあう行為である。 なるほど、女王陛下が王配ロベルト様の事を悲しまれている以上、自然と私に寄りそう形になる。 誰かと、悲しみを共有したいのであろう。 肌を触れ合う事で、寂しさを消し去ろうとしておられる。 私はリーゼンロッテに酷く同情した。 私も出来るならば、同じ気持ちを共有したい。 この場では、そうすべきなのだ。 だが、私にはこの男女貞操観念逆転なる頭のおかしい世界ではなく、前世の感覚が残っているのだ。 未亡人の巨乳をこうも身体に押し付けられると、私の興奮は治まらなくなるのだ。 結論として、今の状況がある。 チンコ痛いんやで。 勃起したチンコが、鉄の貞操帯に当たって酷く痛いんやで。 「ファウスト、悩ましい顔をしておりますが?」 「はい、リーゼンロッテ。私は今、酷く悩んでおります」 心を隠し、それを見抜かれぬように、嘘のようで真実のような言葉を吐く。 私は酷く自己嫌悪していた。 リーゼンロッテは悲しんでいる。 最愛の夫をこのバラ園にて亡くし、悲しみに打ちひしがれておられるのだ。 対してどうだ、自分の有様は。 卑猥な事ばかり想像し、未亡人の巨乳の感触に興奮している。 私は自分に今、反吐が出そうであった。 こんな不健全な事を考えている自分に。 恥じ入りながら、言葉を紡ぐ。 「貴女の悲しみを癒せない事に、酷く悩んでいるのです」 冷静になれ、ファウスト・フォン・ポリドロ。 リーゼンロッテは、私に男への情欲など寄せていない。 彼女は私に情欲など抱いていない、亡き夫一筋に生きて来た女性で、それをただ悲しんで共感を求めている。 私にとっては、理想の純粋そのもの、つまり清楚で未亡人で巨乳という、ダイレクトな性癖を兼ね備えた至高の存在であって――駄目である。 私の股座は、余計に興奮したのである。 私の愛馬、フリューゲルはアスターテ公爵に繁殖のため連れ去られてしまった。 私だって繁殖活動に励んだって構わないのではないか? そう考えるが、駄目だ。 押し倒したら最後、激怒したリーゼンロッテにブチ殺されるのである。 リーゼンロッテはその行為に酷く侮蔑するであろうし、戦友たるアナスタシア第一王女殿下やアスターテ公爵も同様に軽蔑するであろう。 今は婚約者たるヴァリエール様からも、酷く叱責されるであろう。 私は貧乳赤毛14歳ロリータである今のヴァリエール様なんぞ、全くもってお呼びではないのだが。 将来は王族の血統として、身体が成長なさるかもしれない。 というか、婚約話がお流れになってしまえば。 この世界の価値観では、私の本性が酷く淫乱な男騎士であると見做されてしまえば、私の名誉は終わりである。 週に一度口に施される、ケルン派の塩っ辛い聖餅の味もしなくなってしまうし。 我がポリドロ領は、純潔の淫乱な男騎士が統治するものと見做されてしまう。 落ち着け、ファウスト・フォン・ポリドロ。 お前は今まで頑張って来たではないか。 領民300名足らずの領主騎士として、自分なんぞはともかく、領民が馬鹿にされるのだけは耐え難かった。 領民は全て私の財産。 領民は全て私の物。 であるからして、領民が馬鹿にされるのだけは死んでも耐え難かった。 我慢するんだ、ファウストよ。 土を、噛んで。 砂利の味を噛みしめる様な気持ちで、耐える。 「ヴェスパーマン卿。手数をかけるが、ロベルト様が亡くなられた時の状況をもう一度」 「何度も言いますが、ただのマリーナと呼んで頂いて構いませんよ、ポリドロ卿」 マリーナは16歳貧乳であった。 ヴァリエール様と同じく、心の清涼剤であった。 このファウストの心の琴線には、ピクリとも反応しないのであった。 私はオッパイ星人である。 誇り高きオッパイ星人である。 貧乳に対しては最低限の要求として、裸体でも目にしなければ股座が反応する事は無かった。 「ロベルト様が亡くなられたのはこの場所にて。バラ園の小径にて、うつ伏せになって倒れておられました。外傷はありませんでした」 「本当に?」 疑問を浮かべる。 今は、調査に集中すべきであった。 リーゼンロッテから腕に押し付けられた、その巨乳がもたらす、ふにっとした感覚を岩のように思う事で、なんとか堪える。 とにかく、調査だ。 私の推測が確かなら、本当に外傷無しというわけはあるまい。 口は自然に動く。 「私は領民300名足らずの小領主だ。その農民の生活は理解している。園芸をやっていて、皮膚に傷が無いなど有るはずもない」 「ポリドロ卿、何をお考えですか?」 「単刀直入に言おう。針で刺された可能性は無いのかと考えているのだ」 三寸切り込めば人は死ぬのだ。 同様に、針を器官に刺し込めば人は死ぬ。 もし暗殺の可能性を考えれば、針の可能性は十分に有り得た。 前世の記憶を辿るならば、鍼灸師として市井に身を沈めた暗殺者にでも、ぶっ殺されたんじゃないかと妄想する。 しかし、マリーナは首を振る。 「当時、私は11歳でした。調査報告を母から聞く限りでしか、経緯はしりません。ですが、それは先代のヴェスパーマンも考えました。針を含め、本当に外傷と言えるものは無かったのです。あるのは、蜜蜂に刺されたような――それも、身体中によくある跡。あとはバラの棘で擦れた傷のようなものだけです」 まあ、暗殺も仕事の内であるヴェスパーマン家が、それに気づかないわけないよな。 この世界は中世モドキのファンタジーであり、基本的な文化水準は史実中世と考えていい。 だが幾つか異なる点があるのだ。 双眼鏡があり、水晶玉という通信機があり、魔術刻印で強化された武器や鎧がある。 前世では瀉血療法、人体の血液を外部に排出する事で治療を為す、医学的根拠の全く無い治療が18世紀前後まで行われていたが。 この頭おかしいファンタジー世界においては完全に廃れていた。 医学において一部の修道院や大学が、社会全体における医学の発達を促進している。 前世でのイスラム医学たる異国医学を積極的に取り入れ、数世紀前から神聖グステン帝国内の広範に行き渡っているのだ。 医学革命が起きている。 当然、犯罪調査における技術も進んでいる。 「当初、誰もが暗殺であると思いました。可能性は未だに消えていません。ですが、その声も少なくなりました。何故、ロベルト様が暗殺されるのか。殺されるならば、女王陛下ではないのか。何故、誰に対しても優しく、人を助けるためであるならば、自分の歳費を削る事も厭わなかったロベルト様が殺されなければならないのか」 途中、マリーナが言葉を止める。 少し、色々と考えた様だ。 再び語りだす。 「再度言います。女王陛下の王配としての地位を妬んだ誰かがやった、その可能性は消えていません。ですが、それは本当に細い線なのです。リーゼンロッテ女王陛下が、ロベルト様が亡くなられたからといって代わりの王配を選ばれる可能性は低い。当時すでにアナスタシア様は11歳、ヴァリエール様は9歳でした。これから、リーゼンロッテ女王陛下が新しい後継者候補を妊娠されると、面倒な事……」 何故か、マリーナは途中で口淀んだ。 まるで何かを恐れているように。 リーゼンロッテが、何故か私に背を向けて、マリーナ様の方角を見た。 その表情は窺えない。 私は気になって、名を呼ぶ。 「リーゼンロッテ?」 「何でしょうか、ファウスト」 振り返ったリーゼンロッテは微笑んでいた。 美しいのもあるが、それは32歳の未亡人にしては可愛らしいとも呼べるものであった。 もちろん、今はリーゼンロッテが咎めないとはいえ、口が裂けても可愛い等と言ってはいけないが。 言えば、怒るであろう。 美人と言えば許されるかもしれないが。 「つまり、それとわかる外傷はなかったと」 「ありませんでした」 外傷無し。 まあ、やってないのは承知の上だが、一応聞く。 「司法解剖は?」 「私が、亡きロベルトの身体を解剖するなど、許すと思うか?」 私の腕に抱き着いた傍で、リーゼンロッテが囁く。 許せないよな。 その遺体は、安らかに眠らせてあげたい。 気持ちは判るよ。 「外傷無し。内部的損傷は判らず。第一発見者はヴァリエール様とお聞きしましたが」 「ええ。あの子がまだ固くなっていない、温もりを残した亡骸を発見した。泣きながら、周囲に向かって叫び声を上げててね。侍童や王宮勤めの騎士達が集まって、皆で悲鳴をあげたわ」 死亡時から、そう経っていない時間で発見されたということか。 しかし。 マリーナにチラリと視線を送る。 「何故暗殺と? 外傷が無かった事を考えると、事故死、急な心臓発作などの可能性もあるのでは?」 「ヴェスパーマン家の見解を説明しますと、毒である、そう考えております」 「毒? 銀は反応しなかったと聞くが?」 この世界の毒と言えばヒ素であり、亜ヒ酸である。 だが、銀は反応しなかったと聞く。 もちろん、この世界には魔術があり、魔術と科学の両側面で道を究めた錬金術師が、銀に反応しないレベルの毒を精製した可能性はあるのだが。 「ちょうどこの場所にて。地に倒れ、土を?きながら苦しみもがいた痕跡。そして吐瀉物がありました。急に失神されて、そのまま血が全身を巡らなくなり、亡くなられてしまったわけではないのです」 「急な心臓発作の類ではないと?」 「ロベルト様の歳は、当時29歳です。これが老人なら判りますが……」 駄目だ、全然判らん。 そもそも、ミステリーの類は好みではないのだ。 専門家のヴェスパーマン家が5年かけて見つけられない結論を、今更どうやって導き出せるというのか。 私は超人であるが、武の一文字しか持たぬ存在である。 考えることは大の苦手なのだ。 「毒か」 まあ、29歳の元気な男が、突然の病死というのは確かに考え難い。 とはいえ、毒となると完全に私は専門外である。 ヴェスパーマン家に任せるしかないのであるが。 「だが、5年も捜査して何も見つけられなかった」 リーゼンロッテが、ヴェスパーマン家の無能を咎める様な言葉を吐きだす。 マリーナは少しピクリと反応しながらも、言葉を返す。 「誠に以てお恥ずかしい話であります。吐瀉物は未だ保管しておりますが、いかなる錬金術師や医師に頼っても、何も入っていないと……」 駄目だ、完全にお手上げだな。 ヴェスパーマン家の予想をまとめよう。 自然死、病死ではない。 外傷は無し、あっても蜂やバラの刺し傷程度。 内傷は判らず。 毒であるとは思われるが、その毒の成分が判らない。 犯人の意図も不明。 怨恨や妬みの可能性はあるが、細い線である。 なんで5年間もかけて何の成果も得られなかったのか、よく判るというものだ。 「殺害方法に関して、何も判らないという事はよく判った。次、殺害のルートについてだが」 「王宮における全ての人員が調査に対して、ロベルト様暗殺の犯人を見つけるためならば、と志願してくれたので調査は楽でした。ですが、全ての人員に現場不在証明があり、ロベルト様の周囲において暗殺者などは……」 「再調査しよう」 マリーナの言葉を否定し、再調査の声を挙げる。 とりあえず、全ての事を行わなければ、リーゼンロッテの心は晴れない。 私は騎士として、熱狂的に調査を行うつもりである。 「尋ねよう、ロベルト様に対して、特別親しかったのは誰か?」 「数えきれませんよ。ですが、一番親しかったのは近くにおります」 「誰か?」 尋ねる。 とりあえず、近くにいる人員から調査をしよう。 「その、余り強引に調査をする事はお止めくださいね。すでに無実で有る事は明らかになった人々なので」 「まずは、近い人から当たろう。部外者が王宮に入り込んだ可能性は低いのであろう?」 「ゼロといっても過言ではありません。現場不在証明も、すでに証明された方々なのですが……」 マリーナが言葉を濁す。 あまり紹介したくないようだ。 だが、リーゼンロッテの心を晴らすには、全ての事をやったのだと目の前で示す必要がある。 私は再び問うた。 「もう一度訪ねよう。親しかった人物は誰か?」 「このバラ園をたった一人で維持している庭師、といっても――少々訳ありでして。事前に説明しておけば、その、酷い目にあった子をロベルト様が色んな経緯があって引き取ったといいますか」 「うん?」 マリーナが口ごもる。 訳ありそうなのは判るが、何を言いたいのか。 言葉を待っていると、先にリーゼンロッテが口を開く。 「このバラ園を維持している庭師。それはロベルトが哀れに思い、平民から拾い上げた子供でな。その、何と言うか。親からの酷い虐待にあったというか、狂気の産物というか――芸人の子、出自は放浪民族であるのだ。それゆえ、大事に保護されるべき男の子が酷い目にあった」 リーゼンロッテは顔を顰めている。 ああ、何となくわかって来た。 愚かな自分にも読めて来たぞ。 宦官。 陰茎を切断して、去勢する事で後宮に仕えることが許された存在。 カストラート。 高音域を歌える男性歌手を確保するために、睾丸を摘出し、去勢することで男性ホルモンの分泌を抑え、声変りを防ぐ存在。 その歌声には、指揮者も演奏者も、演奏を投げ捨てて聞き入った伝説が残っている。 オペラ座の歌手たち。 まさか、いるのか? この男女比1:9の頭のおかしな世界にも、あの存在が。 「狂った芸人の親に、その歌唱力を維持するために去勢されたのだ。ロベルトはその話を酷く憐れんで、せめて人としての人生を全うできるよう、王宮に召し出すことにした。その名も――ミハエルという。調査は止めぬが、当時12歳。今は17歳のあの子がやったとは、私には到底思えぬぞ」 やっぱり宦官かよ。 そしてカストラートかよ。 この狂った世界に、あんなものいるとは思いもしなかったぞ。 私は閉口しながら、そのミハエルとやらに会う事にした。 第75話 ミハエルについて 歌が聞こえる。 アリア(独唱曲)であった。 王宮の庭全体に、その歌が響き渡っているのだ。 背筋がぞくっとした。 恐怖や、不快によるものではない。 しかして、感動や喜びによるものでもない。 何と言えばいいのか、この歌手はどのような意思を込めて歌っているのだ? よく判断が出来ない、その困惑によるものである。 あえて表現するならば――怒号混じりの嘆きに聞こえる。 前世での聞き覚えがある。 誰もが、一度は耳にしたことがある曲であった。 夜の女王のアリア。 歌劇『魔笛』において、夜の女王によって歌われる『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』であった。 だが、作曲者たるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、まだこの世に産まれて落ちていないはずであるが? いや、仮想モンゴル帝国と、トクトア・カンの出現は遅れた。 ならば、彼、いや、この世界では彼女かもしれない存在が早まって出現していても、おかしくはない。 だが、どうでもよいことだ。 武人である私の立場を考えると、モーツァルトと関わる事は生涯あるまい。 しばし、待つ。 ミハエルという、17歳の青年の姿――いや。 「青年?」 声はソプラノ、女声の最高声域を発している。 背はそこそこだ。 全体的に男の背が150~160しかない、アンハルトにおいては珍しかった。 170cmはあるだろう。 だが、その身体はやはりアンハルトの男であり、酷く細かった。 ちゃんと飯食ってるのか? まあ、この異世界は剣と魔法のファンタジー世界であり、女性が男性を上回る力を容易に発揮する世界である。 あまり、外見のみで判断してはいけない。 身長2m超え、体重130kg、そのスペックは見たまんまの私が言う事ではないが。 「ふむ」 背こそあるが、容姿は女性に近い。 男性ホルモンが足りていないせいだろう。 酷く美形で、アンハルトの女性から見れば、男性の理想像と言ってよいだろう。 まあキンタマ無いそうだけど。 この男女比1:9の狂った世界で、誰が男の子を去勢しようなどと思うものか。 常軌を逸している。 「ミハエルは、9歳の頃に去勢されたそうだ」 リーゼンロッテが、私の横で呟く。 「各国を渡り歩く放浪民族でな。母親達に連れられ、あの素晴らしい声だけで金を稼いで旅をしていた。どこに行っても評判が良かったそうだよ。歌だけはな」 「はあ」 「だが、まあ放浪民族への対応など何処に行っても酷いものだ。先に言ったように歌や踊りだけは評判を得たが、何処に行っても国や町から、叩き出される」 旅芸人すら寄らぬ我が小さな辺境地、ポリドロ領。 ウチには何の関係もない話であるが。 ふと、放浪民族が自分の領地を訪れた場合の対応、それを考える。 ――駄目だな、ウチでも叩き出す。 信用が出来ないし。 これは放浪民族に限った話ではなく、そも放浪者への扱い自体がそうなのだ。 定住する地を持たず、財産の全てを持って逃げる事の出来る人間に、何の信用がおけるというのか。 「改宗し同じ宗教になれども、所詮は放浪者。独特の文化を持ち、我らと融和せず、信仰においては上っ面。窃盗を当然の事のように行い、人食いの噂まである。まあミハエル自身が悪い事をしたわけではないが、放浪民族は信用できん」 「そうですね」 同意する。 先ほども言ったが、数日ばかり娯楽を提供してもらった後、多少の報酬を与えて笑顔で叩き出す。 出て行かねば、豚の餌になってもらう。 それ以外に、領主としては対応できん。 前世の知識としても、母マリアンヌからの教えとしても、放浪民族は信用に値しない。 この一介の辺境領主騎士に、世界地図は手に入らぬのだが。 元々は遥か東方から、この神聖グステン帝国に訪れたと聞く。 「彼女達は何故、わざわざ異国から西方に来たのであろうなあ。祖国はあったろうに」 「判りませぬ」 前世の放浪民族と、この世界の放浪民族とは全く異なる話だが。 前世においては、ヒンドゥー教における下層カーストだったから逃げ出してきたのではないかという説があるが、一説にすぎぬ。 正直、前世においてもよくわからぬルーツである。 この世界では研究など誰もしてないであろうから、判るはずがない。 だがまあ、不遇の出自か経歴である事は間違いないと考える。 「まあ、それはどうでもよい。ミハエルの事だ。ロベルトが、自分の歳費で歌劇場を作りたいと言いだしてな」 「はあ、芸術家を保護されようとしたのですか?」 「そうだ。市民への娯楽の提供なども理由である。そこで、ロベルトが提案したのよ。歌劇場の従業員に放浪民族を雇用し、アンハルト王国における放浪民族の定住化を考えてみないかと」 困惑の表情で、リーゼンロッテの顔を見る。 何考えてたんだよ、ロベルト様。 リーゼンロッテは、私の表情を見て苦笑した。 「ロベルトは妙なところというか、優しいと言うか、変なところというか、なんというか。時々、妙な事を言いだす事があった。放浪民族に人道的な同化策を考えたのだ」 「上手くいきましたか?」 「正直、何とも言えぬ。上手くいっているのか、いないのか。十分な待遇は与えているのだが。まあ、王都から逃げ出してはいないし、腕や首を刎ねるほどの悪さをしたとも聞かぬ」 それは上手くいっていると考えても、よいレベルではなかろうか。 前世においてはある「女帝」が、定住化政策を行ったが。 同化政策への反発と、その文化への不理解から定住化には失敗しているのだ。 とはいえ、まだ数年だから成功しているかどうかといえば、微妙だろうがな。 「ロベルトがミハエルの境遇を知ったのは、7年前であった。歌劇場の建設準備が整い、放浪民族を誘引し、王都へと集めた。そこでミハエルと出会った」 「激怒されたのですか?」 「太陽のように優しいが、酷く気の短い男であった。少し趣が違うが、直情的なところはお前そっくりであったよ、ファウスト。お前の言うとおり、大激怒した」 この世界、男は保護される立場にある。 数が余りにも少ない。 だが、ミハエルはその睾丸を母の手により摘出され、去勢されたと聞く。 「ミハエルの母は言ったよ。男娼にするしても、何の病気を持っているかもわからぬ放浪民族の男なんぞ、どこに行っても売れぬ。その子を孕みたいと思う女もおらぬ。幸い、我が集団の男種は足りていた。所詮は資産の一つに過ぎない息子だ。この声を維持するために、より稼ぎ手として役立ってもらうために、去勢した。何が悪いと」 「……ロベルト様は?」 「嵐のように怒り狂い、その場でミハエルの母を殴り殺そうとした」 そりゃ殺すわ。 私だって殺す。 続きが気になる。 「結末は?」 「まあ、園芸で鍛えた力で叩きのめした後に、ミハエルに尋ねたよ。君はどうしたい?と」 ミハエルの歌う『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』は、その歌の聞かせどころといってもいい何度目かのコロラトゥーラに入っている。 黙って、リーゼンロッテの次の言葉を待つ。 「……ミハエルは、我が手による復讐を、と答えた」 「自分の手で殺したのですか?」 「そうだ。当時10歳であった。ロベルトは、幼い少年に親殺しをさせることを躊躇った。酷く悩んだそうだが――最終的には自分の腰にぶら下げたナイフを与え、それを認めた」 壮絶な結末といっていい。 「ミハエルは、自分の母であった女の心臓を一突きにした。それでミハエルの復讐は終わり。その後は、一度言った通りだ。ロベルトが酷く憐れみ、その後の人生を心配して王宮に引き取った。ロベルト専属の侍童兼庭師としてな」 「今、歌っているのは? 庭師と聞きましたが」 「母は憎めど復讐は終わった。そして歌が嫌いになったわけではないそうだ。ロベルトがバラ園で練習する事を許してな、たまに王都の歌劇場で歌う事もあるのだ。今は次の歌劇の練習中だろう」 大体の事情は掴めた。 ロベルト様は酷く変わり者だが、近世的視観の持ち主で。 その性格は、多少違えど私に近いところがある。 そしてミハエルの人生には、憐れむものがある。 「まあ、とにかく話しかけようか」 「歌が終わってからでいいです」 今歌っている曲名は、皮肉な事にその人生に酷く相応しいものであった。 聞け、復讐の神々よ、我が呪いを聞け! ミハエルの歌。 その歌詞は、少しばかり前世のそれと違った。 そんな事を考えながら、私とリーゼンロッテ。 そしてミハエルの声に聞き惚れているマリーナの背を叩き、三人してミハエルに近づいた。 ※ 「女王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」 ミハエルはその美しく甘い、官能的な声で呟いた。 なるほど、前世では聞く事のできなかったカストラートの声とはこういう物なのか。 「ロベルト様の暗殺事件における、再調査を行われると聞きました。是非、協力させていただきたく」 「もう見つからんさ。なに、今回は心残りの解消に来ただけだ」 リーゼンロッテは、少し寂しい声で答えた。 そして、横にいる私を紹介する。 「ミハエル。お前が会うのは初めてであったな。ファウスト・フォン・ポリドロ卿だ」 「王宮にて、ヴァリエール様に会いに来るのを何度かお見かけしました。よくロベルト様に似ておられます」 そんなに似ているのか? さすがに、私のような巨躯の持ち主は二人とおらぬと思うのだが。 そういえば以前にヴァリエール様から、一度だけよく父上に似ていると言われたことがある。 外見ではなく、雰囲気が、とのことらしいが。 ロベルト様が亡くなられた当時といえば、私は初陣にて山賊を殺していた頃である。 王都に行った事は無く、当然一度も御会いした事は無いので、よくわからない。 ミハエルが、私の顔をじっと見る。 「何か?」 「いえ、本当に似ておられます。ポリドロ卿」 「ファウストで結構です」 私は、にこやかに笑いながらミハエルに手を出す。 ミハエルはその手を握り返した。 「……本当に、よく似ておられます。ロベルト様の手も、園芸や農業による豆でゴツゴツしておりました」 「はあ」 ミハエルは華奢なように見えたが、その手は園芸による豆ダコがついており。 腕には、バラの棘を引っかけたような傷があった。 庭師というのは本当であるようだ。 握手をほどく。 ミハエルは、その美麗な顔を陰らせながら、昔を思い出すように呟いた。 「何故、ロベルト様は何故死んでしまわれたのでしょうか。何故あの時、女王陛下は私の死をお許しにならなかったのでしょうか」 「ロベルトに付き添うために死にたいという、あの嘆願の事か」 死の嘆願? 殉死の概念は、この色々入り混じった異世界ファンタジー世界にも無かったと思うのだが。 フェイロンの東にあるであろう、列島ではあるかもしれんがね。 「認められるわけがなかろう。そのような事を死んだロベルトが望む物か」 「私は、ロベルト様に救われました」 ミハエルが、ポツリと呟く。 「私のために、怒って頂きました。私の復讐を、肯定して頂きました。私に、人間としての生を与えてくださいました」 ミハエルの声に、震えが混じる。 「私は母を、この手で殺しました。きっと地獄に落ちるのでありましょう。ですが、天国と地獄に別れるまでの、その黄泉路においてはロベルト様に付き添えたかもしれませぬ。もう遅いですが。私は――」 酷く甘い、官能的な声色で嘆いている。 決して涙をこぼす事はなく、その震え声も強引に抑えようとしていたが。 その声は、どこまでも悲しそうであった。 「私は、あの時死にたかったのですよ。リーゼンロッテ女王陛下」 「何度でも言おう、ロベルトはそのような願いを喜ばぬ。天国で今頃、死から5年経っても全く成長していない事を嘆いているだろうさ」 男が、そう嘆くものではないと言いたいところであるが。 ミハエルの人生を知ってしまったからには、なんとも言い難い。 リーゼンロッテが、慰める様に優しく語り掛ける。 「ミハエルよ。当時の事は覚えているか。ロベルトが死んだあの日の事だ」 「忘れるわけがありません。あの日の夕、ロベルト様がいつものバラ園の散歩に向かわれました。私は他の侍童と一緒に茶と菓子の準備をしておりました。いつもより帰りが遅いため、私がロベルト様を迎えに行こうかと悩んでいたところ、バラ園からヴァリエール様の悲鳴が」 第一発見者がヴァリ様なのは変わらず。 そしてミハエルに現場不在証明があるのも、変わりはなし。 さて、どうしたものか。 推理ものならばミハエルを疑ってかかるところであるが、これは現実である。 今の話を聞くに、ミハエルがロベルト様への悪意を抱いていたとは到底思えず、私の直感でもミハエルが犯人等とは感じられないのだ。 駄目だな、何も変わらん。 調査の進展はない。 「ロベルト様には、私以外にも4名の侍童が専属で付いておりましたが。5年の間に行儀見習いを終え、領地に帰ってしまいました。内1名は、リーゼンロッテ女王陛下が重用なさっている実務官僚の夫となり、王都におられますが。呼びましょうか? 今でもたまに会います」 「いや、結構だ」 可能な限りの全ての調査をやり直すつもりではあるが、期限は一か月しかない。 そこまで無罪が明確であれば、追及する意味は無い。 「ミハエル、少しばかり話がしたい。バラ園のガーデンテーブルに来ないか?」 「判りました、茶と菓子を用意してまいります。しばらくお待ちください」 ミハエルが、その侍童としての正式教育を受けた優雅さで、私達に向かって綺麗な礼を行う。 さて、どこまで情報が入手できるかね。 本当にどうして死んだのやら。 私は天国にいるロベルト様に嘆息づくため、空を仰ぎ見た。 第76話 ロベルトについて 黒い髪に黒い瞳、肌は浅黒い。 そんなミハエルの容姿を見つめる。 何度見直しても、酷く美形である。 「ポリドロ卿、どうぞ」 「先ほども言いましたが、ファウストでいいですよ。お茶は有難うございます」 そんなミハエルの浅黒い手から、ティーカップに茶が注がれる。 香りが、バラ園のダマスク香と混ざり合って品よく感じる。 こうしてロベルト様も、茶を楽しんでおられたのだろうか。 さて。 リーゼンロッテとミハエルの想い出話を聞くとしよう。 どこに、真相が転がっているかわからぬ。 「……ミハエル殿は、座らないのか?」 「リーゼンロッテ様からの許可が必要となります」 ミハエルは、ニコリと微笑みながら答える。 なるほど、侍童だ。 王宮の接待を務めるだけの、教育が施されている。 「ミハエル、座れ。もうお前に、いちいち面倒くさいから最初から座れ、と命じるロベルトはおらん」 「私は――あの、ロベルト様が本当に面倒臭そうな顔で、ミハエルもう座れと命じる姿が好きだったのですよ」 さきほどからミハエルに対し、妙な感覚があったのだが。 これをもって確信した。 あれだな、ミハエルは。 我が従士長たるヘルガと同じタイプである。 仕える人間が、貴人として生きる姿がこの上無く好きなタイプだな。 面倒臭いな、コイツ。 私はもちろんヘルガの望みに対し、貴人としての振る舞いをし、その忠誠に相応しい姿を取ろうとはしているが。 時々、その忠誠が何か妙に重たいなー、と感じる時が無いでもない。 もし、かつて存命であったロベルト様に死ねと言われれば、ミハエルは自分自身の首にナイフを平然と突き刺したであろう。 ヘルガも同じことをやりそうで怖い。 ああ、愛が重い。 「まあ、リーゼンロッテ女王陛下の命令でも座りますよ。一応ね」 「お前、本当にロベルトの命令しか聞かぬなあ」 「ロベルト様が、リーゼンロッテ女王陛下に、私を自分の侍童として雇うと告げた際の事を覚えておられますか?」 ミハエルが、クスクスと笑う。 官能的で、中性的な声の囁き。 「私は今でも覚えております。本気で仕える気があるならば、死の寸前まで仕えよ。たとえ女王陛下の命令でも逆らえ。ロベルトの言う言葉だけを信じるのだと」 「確かに言ったが」 リーゼンロッテが溜息をつく。 そして茶を一口飲んだ後に、すん、と鼻を少し鳴らした後。 「もうロベルトは、いない。お前も私の説得に応じ、今を生きている」 「私が生きているのは、女王陛下の説得に納得したからではありません」 ミハエルが、微笑みを深くする。 口端が歪み、獣のような印象を周囲に与えた。 「ロベルト様を殺した犯人を見つけ出し、殺すまでは死ねないと考え直したからです」 「もう見つからんさ。一度言ったが、今回の犯人探しも心残りの解消のようなものなのだ」 「いつまでも調査を続行する事が出来ないのは、理解しております。なれど、私は探し続けますよ」 決意の声。 私はその意気はよいが、5年経った今ではやはり無理だと思う。 幾つか、脳裏に思い浮かぶものもあるが。 折角だし、幾つか意見を上げるか。 「リーゼンロッテ、念のために聞いておきたいのですが。蜂やバラの刺し傷程度の傷なれば、ロベルト様の身体にあったのですね」 「そうであるが。何か、思い当たる点があるのか?」 前世の知識であるが。 蜜蜂の刺し傷程度でも、死に至る可能性はあるのだ。 アナフィラキシーショック。 だが、これについて、一言も触れなかった理由があるのだ。 「蜜蜂に刺された程度でも、死に至る事はあります」 「そんな事は知っている」 みんな知っているのだ。 アナフィラキシーショック、その医学的な言葉を知らずとも、その理由が判らずとも。 蜜蜂に刺されて死ぬことがある事自体は、皆が知っているのだ。 アレルギーという言葉は知らずとも、その症状自体は知識として知っているのだ。 「一度でも死ぬ者はいる。二度目で死ぬ者もいる。何度目かで身体に異常を発し、怖くなって止めた者もいる。それは聞いたことがある。とはいえハチミツは魅力的であるし、ハチの巣から採れる蜜蝋から、我ら貴族が使っているロウソクは作られるのだ。どうしようもあるまい。ちなみに、ロベルトはいくら蜂に刺されようが平気な顔をしていたぞ。園芸や農業は、昆虫との戦いである」 で、あろうなあ。 5年も調査しているのだ。 当然、あらゆる可能性は考えたであろうし、蜂による死の可能性も考慮されたであろう。 アレルギー反応が特別見られない、ロベルト様がアレルギーで急死した? さすがに無い。 役に立たないぞ、前世知識。 ミハエルが、悩む私に対して口を開く。 「ポリドロ卿、他には何か思い当たりますか?」 「何を言っても、それはもう調べたと言われる気がします」 「確かに調べました。どこまでも調べました。ですが、当時の事件に関わっていない第三者だからこそ、判る事もあるかもしれませぬ」 ふむ。 まあ、第三者観点というのは大事であるし、頑張ろうと思うのだが。 ハッキリ言おう、私はそこまで賢くない。 政治的見地は無いし、言われれば理解できる程度の頭はもっているが、所詮凡人に過ぎないのだ。 駄目だ。 マルティナをポリドロ領に送っていなければ良かったのだが、あの時は確かにそれが正しい判断だと思い――糞、頭が痛くなってきた。 額に手をやり、目を閉じて考え込む。 「頭が痛くなってきました。リーゼンロッテ、そしてミハエル殿。しばらく、ロベルト様の想い出話を聞かせてもらえませんか」 「いいだろう」 リーゼンロッテは口をつけていたティーカップを、テーブルの上に置く。 そして、顎に手をやりながら語りだした。 「ロベルトが酷く優しいのは、何度も述べたが。それに付け込んでか、私を怖がってか。まあ、貴族からの陳情数がとにかく多かったな。ロベルトに会うためには数か月の予約待ちが当たり前であったよ。ロベルトは、市民からの陳情も受け付けていたしな」 「市民からも?」 「もちろん、市民個人の陳情など一々相手にはしてられぬ。ロベルトと会えるのは、商人ギルドや手工業ギルドの代表であった。ロベルトは、市民の政治への参加が国の力に繋がると考えていたのだ。どこか夢見がちと言われても仕方ないところはあるが、政治の改善点や、王都に発生した問題点を見つけ出し、私に意見を言う事もあった」 聞けば聞く程、妙な人である。 この頭のおかしい異世界へ転生する前にいた現代人より、よほど人道的な人だったのではあるまいか。 「ただ、それだけではなかった。今思えば、王配として私の楯になろうとしたのではないかな。どう思う、ミハエル」 「私がロベルト様と一緒だったのは10歳から12歳までの、二年間に過ぎませぬ。ですが、私にとってはとても尊い時間でした。ロベルト様はその間、『自分のやった事は決して無駄にはならないことだから、きっとリーゼンロッテのためにもなるだろうから』と。常々仰ってました」 はたして、本当に役に立ったのだろうか。 少し、疑問に思うが。 「ああ、役には立った。ロベルトはただ闇雲に自分の歳費を削り、分け与えていたわけではなかった。私の歳費を削ってもよいが、その費用を投じて何が産まれる? 私は職や食い扶持を与えるが、それでお前は何をする? その線引きにおいては、厳しかったように思える」 「ロベルト様は、ただ困窮した、困窮した。私は恵まれていない、恵まれていないとオウムのようにひたすら繰り返すような屑を極端に嫌っておりました。優しい御方ではありましたが、まあそのような愚か者に対しては殴りつける姿もよく目にしました」 なるほど、優しくはあるが、線引きは確かと。 さきほど役に立ったとリーゼンロッテが発言したが、どんな物が産まれたのだろう。 少し気になるが、まあ口にせずとも喋ってくれるか。 「ロベルトは、アンハルト王国にとって役に立つ人材を多く見出した。今、王城で私の代わりに一部執務をこなしている実務官僚もその一人であるな。アイツは元々困窮した法衣貴族の三女に過ぎなかったが、酷く優秀なので職を与えて頂きたいと親からの懇願を受けてな。ロベルトの推挙により私が会ってみれば、本当に優秀であったので王城に登らせたのだ」 「同僚の侍童を、夫に迎えた方でありますね」 「そうだな。仕事においても、恋愛においても抜け目のない女だ」 酷く感心した様子で、リーゼンロッテが呟く。 昔を懐かしがる目をしている。 「とにかく、ロベルトは優秀な子供に成り上がる機会を与え、上手く国家の潤滑油としての機能を果たしていた。ファウスト、お前が以前のゲッシュ事件において、一言一句残すよう頼んだ紋章官を覚えているか?」 「は、覚えておりますが、彼女が何か?」 「あの女も、ロベルトの推薦だ。ヴィレンドルフとの国境線にある辺境領地、そこの次女であったはずだ。領主からの嘆願で、才能を埋めるのはあまりにも惜しいとロベルトへ嘆願の手紙が届き、そのロベルトの推薦により私が試験し、そのまま採用した」 別に、それはリーゼンロッテに直接でも良かったと思うのだが。 要するに、怖かったんだろうなあリーゼンロッテが。 私も怖いもの。 リーゼンロッテは理性と理論の怪物である。 この偉大なる選帝侯として為政者の地位を誇る相手に生半可な情は通じないし、どこで機嫌を損ねるかわからん。 私が「ゲッシュ事件」において、どれだけの覚悟でモンゴルの脅威をリーゼンロッテに訴えたと思ってるんだ。 もちろん、ヴィレンドルフとの和平交渉を携えてきた私を殺す事など、どう考えても出来まいと言う計算はあったが。 だからといって、死を賜る可能性はゼロにはならなかった。 今まで聞く限りにおいて、ロベルト様は自分が不快に思った事は直情的にその場で相手をぶん殴ることで済ませ、後でネチネチと絡むようなことはしないだろうし。 それが本当に不遇な境遇であり、ロベルト様が歳費を削る事に対しての誠意と実力を見せさえすれば、その誠意に答えてくれるであろう御方であった。 誰だって、ロベルト様の方に縋りつくわ、これだと。 「まあ、とにかく良い男であった。ファウストよ、ミハエルが先ほど何度も言ったが。本当にお前によく似ていたよ」 「雰囲気が、そっくりです。今までも遠巻きに見た際に似ている、とは考えておりましたが。まさか、これほどとは」 そんな優しいロベルト様に、私は似ていないと思うのだが。 私はこれでも領主騎士であるし、それこそポリドロ領300人の領主として、皆を腹いっぱい食わせることを最優先に考えて生きて行かねばならない。 他人様に優しくする余裕など無いのだ。 ――マルティナ、その助命の件においては、馬鹿な事をした。 いや、もう私の前世の道徳的価値観と、この現世で母マリアンヌから受けた騎士教育が悪魔合体して。 もうどうしようもなかったし、反省しても無駄だとは思うのだ。 私があの時に時間遡行出来たとしても、私は同じことをするだろう。 だから、考えても無駄な事は理解しているのだ。 それでも、悩みは尽きない。 何故、私ことファウスト・フォン・ポリドロは、こんなにもどうしようもないのか。 もういい。 人それぞれに欠陥があり、完璧な者など一人としていない。 それは、考えてもどうしようもない事なのだ。 今考えるべきは、熱狂者としてロベルト様を暗殺した犯人を捜す事であるのだ。 その結果が徒労に終わろうが、成功しようが、それはただの結末にすぎない。 「リーゼンロッテ、そしてミハエル殿。今伺った話では、ロベルト様が下級貴族、市民ギルド代表、封建領主、色々な人々の陳情を受けていたようですが」 「ああ、言いたいことは判る。それは調べたのだ。その日出会った人間については、全員が調査の協力に、誰があのロベルト様を殺したと涙ながらに応じている。何も出なかった」 リーゼンロッテは、チラリ、と担当者であったマリーナを見る。 マリーナはコクリ、と頷いた。 さっきから黙って空気と化しているが、まあ無理もない。 私もマリーナも、当時のロベルト様の事は良く知らぬ。 リーゼンロッテの言葉の続きを聞く。 「何も出なかったのだよ、ファウスト。そもそも、ロベルトは先ほども言ったように、優しい男であったのだ。あの優しい男を殺して、何のメリットが陳情者側にあるのだ。自分が懇願する先を失うのだぞ? ロベルトは、直情的に殴り倒した相手にすら、優しい男であったのだ」 その言葉は、酷く悲しい。 私だって、今まで聞いた限りで、ロベルト様を殺して誰が得するのかという思いがある。 だが、リーゼンロッテの、女王陛下の心残りを解消するには全てを行わなければならない。 「ロベルト様はその全ての陳情を、このバラ園にて受けておられました。王宮は完全に警備されており、見知らぬ者など入る隙間はありません」 このバラ園にて? つまり―― 吐瀉物から考えるに、経口摂取ではなく。 アナフィラキシーショック等のアレルギーでもなく。 事故死でもなく、突然死でもない。 そして、身体には蜂に刺されたような傷と、バラの棘で擦れた傷のようなものしかなかった。 毒殺であると考えるならば。 「バラの棘に、毒を仕込む程度の隙間はなかったか?」 すでに考えられている事であろう。 もちろん、そんな意味も分からない――確実性の低い、暗殺とすら呼べない方法をとる理由もわからない。 だが、考える時間はまだある。 私は、とりあえずの疑問を口に出した。 第77話 殺意の有無など関係ない 殺すつもりなど、皆無であったのだ。 私はただ、バラを。 あの麗しいローズガーデンの一輪を枯死させたかっただけで―― いや。 そんな言い訳、どうやったところで通用などしない。 誰にも通用しないのは、判り切っている。 何より、私自身ですら、殺意の有無など関係ない事は理解しているのだ。 私が、ロベルト様を殺した。 その事実だけが、眼前に横たわっている。 「些細な復讐であったのだ」 一言、誰も周囲におらぬ独りぼっちの部屋で、顔を覆いながら呟く。 復讐であった。 酷く、些細なる復讐であったのだ。 バラの一輪を枯らして、些細な満足感を得たかった。 あのロベルト様を殺して、私に、我らに、何の得がある? 庇護者は彼一人であった。 報われなかった私に、その手を差し伸べ助けてくれた。 ただ一人の庇護者。 それを殺す動機など、どこにもなかった。 だからこそ、未だ疑われていない。 私は、我々は、何も疑われなどしなかった。 そこに、ロベルト様を殺す理由など有りはしなかったからだ。 あのロベルト様を殺す動機が、私には、我々には全く無いのだ。 事実、庇護者であるロベルト様を失って、苦境に陥る事など5年の間には珍しくなかった。 それでも生前のロベルト様が今の職を与えたという大義名分は強く、破滅に至る事はついぞ無かった。 だが。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 その名を口にする。 憤怒の騎士。 美しき野獣。 かつて、アンハルト中で一番醜い騎士とすら言われた男。 ヴィレンドルフ中で最も美しいと言われる男。 その名声と功績は、アンハルト、ヴィレンドルフの両方において絶頂の時を迎えていた。 両国はおろか神聖グステン帝国にすら、いずれその名が鳴り響くと思えた。 今までの実績に対する、当然の評価であった。 領民300名程の弱小領主でありながら、第二王女ヴァリエール殿下の相談役に電撃就任。 その後の「ヴィレンドルフ戦役」において、ヴィレンドルフの英傑レッケンベル騎士団長との一騎打ちにおいて勝利し、圧倒的不利であった戦況を個人の武勇だけで覆す。 第二王女ヴァリエール殿下の初陣、通称『カロリーヌの反逆』においては、反逆者たるカロリーヌを撃ち破り、キルスコア50を上回る活躍。 己の誉れのために主君であるリーゼンロッテ女王陛下の命にすら逆らい、討伐した裏切者の幼子を引き取る。 ヴィレンドルフの和平交渉において、決闘を願う騎士を正面から迎え討ち、99人に勝利。 和平交渉の席で冷血女王と謳われるカタリナ女王の心を斬った『バラのつぼみ』事件。 これにて100人斬りを達成、和平交渉を成立させる。 その正式報告の場にて『ゲッシュ事件』を起こし、アンハルトの諸侯を説得して東の遊牧騎馬族国家に備えた新たな体制作りを実施。 諸々の功績を称えて、第二王女ヴァリエール殿下と婚約が決定。 狂っていると言ってよい。 たった二年間で、狂おしいほどの名誉と結果を叩き出している。 軍事面でも、政治面においてもだ。 領主騎士としては賛否両論な行動においてすら、後から見れば賞賛の対象にしかならなかった。 恐ろしかった。 もはや、不可能という文字など無いとしか思えない人物であった。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 もう一度、名を呼ぶ。 その名前が、ただただ恐ろしかった。 ヴェスパーマン家に代わり、王配ロベルト様暗殺事件の調査指揮を、その恐ろしいポリドロ卿が行う。 それを知った時に、背筋に冷たいものが走った。 死ぬのは良い。 私が死ぬのは別に良かった。 どれだけ酷い拷問が行われ、苦しめられようとも、この世の全ての痛みを凝縮された艱難辛苦を味わおうと、それは当然の事と受け止められた。 そうされて、当然の事をしたからだ。 そんなことはどうでも良い。 だが、だが。 私が惨く殺されるだけでは、もう済まない。 そんな程度では、許されない事をしてしまったのだ。 「何故」 ロベルト様は亡くなられた。 繰り言のように、嘆きを行う。 本当に、本当に、殺すつもりなど、どこにも無かったのだ。 酷く、なじられた。 私の訴えはロベルト様の激怒を買い、顔を殴りつけられた。 だが、そんな事はどうでも良かったのだ。 私は何故、あの場に小指ほどの小さな薬瓶などを持ち込んだ。 私に、あんなものはもう必要なかったのだ。 早々に、処分してしまえばよかった。 何故、悪魔は私の心を刺した。 何故、私はバラを枯らしてしまおうなどと企んだ。 全てを、何もかもをロベルト様に与えられたはずだ。 私は、我々は、本当に不満など何も無かったのだ。 だが『満ち足りた』事が原因で、それ以上を望んでしまった。 だからこそロベルト様の激怒を買ったのだ。 殴られたあの時すら、その理由については十二分に理解できたではないか。 ロベルト様は、その激怒について全てを語ってくれる御方であった。 「嗚呼!!」 誰もおらぬ。 誰もおらぬからこそ、赤子のような呻き声を発する事が出来る。 死ねばよい。 死ねば、この苦しみから救われるのだ。 この5年間、ずっとずっと、その囁きに耐えてきた。 殺人など、罪とは思わぬ。 盗みなど、当然の事と思ってきた。 我々は満ち足りないのだ。 それを言い訳にして、生きて来たのだ。 ロベルト様に、あの御方に御会いするまでは。 「嗚呼……」 顔を覆い、指を眼球に伸ばし、そのまま指を突き入れたかった。 眼球を抉り、視界の全てを暗闇に閉じ込めてしまいたかった。 首にナイフを差し込み、自分の鼓動を止めてしまいたかった。 だが、出来なかった。 何度でも言う、もう惨い死に方など怖くもない。 死ぬべきなのだ、私は! 惨たらしく殺されてしまうべきなのだ! ただ、私が、ロベルト様を殺してしまった事だけは、永遠に隠しておかねばならないのだ。 機会を窺って死のうと思っていた。 いずれ、自分は自分の罪に対する、償いを行おうと考えていた。 きっと、何をしたところで償いは出来ないであろうが。 私の生における全ての引継ぎを終えた後は、森に入って狼や熊に生きたまま喰い殺される。 自らの処断は考えていたのだ。 だが、私以外は、救われるべきだとも考えている。 罪を背負うのは私一人ばかりで、他に誰も罪はない。 だが、結論としては、私一人の死では済まされない。 きっと、多くが死ぬ。 リーゼンロッテ女王陛下は、ロベルト様の死を悼む全ての人間は、ありとあらゆる報復を、私に関わる全ての人間に行うであろう。 族滅では済まない。 もはや、我々の小さな一族が族滅されるだけでは済まないのだ。 「嗚呼! 嗚呼! あああ!」 赤子のような喚き声。 死んでしまいたい。 本当に、死んでしまいたいのだ。 それで世界が閉じてしまうならば、今すぐにでもそうしたかった。 だが、私が死んでも世界は続く。 残酷な世界は、私に関わる全てを襲うであろう。 死は許されない。 不審な死は許されなかった。 あのロベルト様の死の際に、その死に付き添う事を嘆願したミハエルのように。 いっそ、ロベルト様が亡くなった際に遺書でも残して自殺――何を言っているのだ。 私はこの国の文字など、書けはしないではないか。 いや、どこの国の文字も書けはしない。 そんな教養があれば、ロベルト様に救われるまで、あのような暮らしなどしていたものか。 「はは」 乾いた笑いが起こった。 どこまでも、神が呪った。 私が、我々が、何をしたというのであろうか。 幸せになりたかった。 ただそれだけであった。 何をした? 私は、ロベルト様を殺してしまった。 そこに殺意など無く、ただバラを一輪枯らしたいなどという、ゴミのような欲望に囚われてしまったせいで。 私は、我々は、ロベルト様に与えられた全てを失うどころか、それ以上の憎悪を与えられようとしている。 ロベルト様に救われた人々、ロベルト様を慕っていた全ての人々、その愛情が。 憎悪の刃に代わり、私と私に関わる全ての人。 私だけではない人々に向けられるのは目に見えていた。 リーゼンロッテ女王陛下。 あの御方は、何もかも全てを一切、無かったかのように消し去るであろう。 我々の全てを屠殺するであろう。 存在自体が不愉快だと。 ロベルト様の全ての好意を裏切った、愚かな存在だと。 私の命を、我々の命を捧げても、慈悲を願う事すら不快であると告げられるであろう。 改めて、実感する。 我々でなければ、そこまでの目には合わない。 我々は――我々は。 結局、産まれながらにして弱者であるのだ。 「はは」 それを、ロベルト様に救われたのに。 その存在を殺してしまった。 小さな悪意は、大いなる代償を求めた。 ――眠れない。 ポリドロ卿が、暗殺事件調査の指揮に当たる事を聞いてから、ろくに眠れないのだ。 体温は、低温症と高温症の上下を繰り返し、時に嘔吐しそうになる。 幻覚と現実の境目が、定かではなくなる。 この病の、解決方法は? 無い。 病の根源を消してしまう方法。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿を殺す方法など、亡き者にする方法など、どこにも無かった。 毒が効かない。 毒が効かないのだ。 酷く有名な話である。 超人という、神に愛されることで成長の枷が外された、あの英傑達には、酷く毒が効きづらかった。 神に与えられし才能と、幼少の時より行われる鍛錬が、この世のあらゆる毒物を効きづらくしていた。 第一、どうやって毒を盛ると言うのだ。 私には、その手段が無かった。 ならば、一族で押し包んで殺してしまおうか。 もっと無い。 腕には、誰しも覚えがあった。 従軍経験すらあるのだ。 そう嘯いたところで、誰しもが鼻で笑うであろう。 アンハルトとヴィレンドルフの両国で最も強い超人を殺すなど、数十人で取り囲んだぐらいでは不可能であった。 あの憤怒の騎士の激怒を買い、一方的に虐殺されるのが結末であろう。 そもそも、一族の誰も従わない。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿を襲う理由など、私以外の誰にも無かった。 誰も知らないのだ。 私がロベルト様を殺してしまった事など。 対症療法などない。 「……祈り」 くだらない方法が脳裏に浮かんだ。 信じてもいない、上っ面で信じていると誤魔化しているだけの神に祈る? ああ、神はいるのだろう。 ただ、我らの神はいなかった。 祝福など受けていない。 我々は洗礼の儀式を強要されただけで、本音では、我らの神など居はしないと考えていた。 もし、仮にだが。 仮に、神がいたとするならば。 我々に、祝福を与える存在がいたとするならば。 「ロベルト様」 ただ一人だけであり。 私は、その祝福を与えてくれた存在を殺してしまった。 絶望が、私をこの5年の間包んでいた。 もし、このドアを。 この部屋のドアを叩いて、あのポリドロ卿が訪ねてきた場合に。 私は、どうするのであろうか。 自分の死を乞い、恥知らずにも一族の助命を願うのだろうか。 もはやこれまでと、自分の首をナイフで刺し、自分一人だけの世界を閉じてしまうのか。 最後の悪あがきとして、この王都から一族を連れて逃げ出そうとするのか。 何もわからない。 何も、わからなかった。 ――その時。 ノックの音が。 「ロウソクも点けずに、どうされましたか?」 ドアが、開いた。 現れたのは、ポリドロ卿ではなく。 一人の女に過ぎなかった。 「獣油で作ったロウソクは、煙たくてかなわん。別に明かりが必要なわけではない」 つとめて、冷静に答える。 ドアを開けて現れたのは、身長200cm体重130kgの巨躯ではなく、一人の女に過ぎない。 結局のところ、ポリドロ卿とは想像上の怪物に過ぎないのだ。 その功績はその歩む道を明るく照らせど、人の心の暗がりなど判るまい。 そうだ、判るはずがない。 私がロベルト様を殺した動機など、人知の及ぶところではなく。 何もかもが余計な心配にすぎないのだ。 「しかし、部屋から呻き声のような――」 「もう夜も遅い。眠れ」 眠ってしまえ。 自分に言い聞かせるように、呟く。 ポリドロ卿による調査も長くは続くまい。 それが済めば、ロベルト様の暗殺事件調査も終わりを告げるであろう。 後は、地獄まで秘密を抱えて生きていくだけである。 度々と刹那に押し寄せる、死への衝動を我慢していくだけ。 それだけ、それだけだ。 此処さえ乗り切れば、後は私個人が生涯をかけて苦しむ、たったそれだけで済むのだ。 「判りました。おやすみなさい」 「ああ、お休み」 ドアが閉じる。 終わりだ。 この話は、これでお終いだ。 後は、ベッドでただ眠るだけである。 人の心の暗がり。 それを抱くように、眠ってしまおう。 誰にも、誰にも悟られないように。 この暗がりが、明るい道だけをひたすらに歩いてきたポリドロ卿という、我らの抱える痛苦を少しも味わった事の無いような人間だけには決して判らないように。 私は眠る。 いずれ、二度と自分の目が覚めないその日が訪れることを、ただ心待ちにしながら。 ただ眠るのだ。 第78話 プロバビリティの犯罪 プロバビリティの犯罪という言葉がある。 江戸川乱歩であったか? 近代推理小説の開祖たる、エドガー・アラン・ポーに由来するペンネームを持つ推理小説家。 彼の書いた小説に初めて触れたのは、確か「赤い部屋」であったと思う。 酷く、今回の件に「そぐう」のだ。 「こうすれば相手を殺しうるかも知れない。或いは殺し得ないかも知れない。それはその時の運命に任せる」。 確実性の低い代わりに、酷く迂遠な殺人方法を取る事で、自分が犯した罪が発覚する可能性を低下させる。 未必の故意。 ――いいや、恐らく、この場合は。 自分の武偏重な、それでも他人様と同じ色をしている。 小さな灰色の脳細胞を必死に回転させながら、思考を深める。 「ファウスト、先ほどバラの棘に毒を仕込む程度の隙間は無かったか、と呟いたが」 「口にした通りです。ロベルト様を明確に殺す意図があれば、そのような手段を取らないのは判っておりますが」 そもそも、殺意が本当にあったのか? このしばらくの間、マリーナ嬢、リーゼンロッテからロベルト様の事を聞いた。 どうも、要領を得ない。 最初は恨まれない人間などこの世にはいないと考えていた。 怨恨による殺人であろうと考えていた。 だが、ロベルト様は異質である。 酷く人格者であったが、同様に自分の行動できる権限を正確に見定めていたようなのだ。 ロベルト様を殺せば、その犯人を弁護する人間など誰もおらず、族滅に一路だ。 犯人がどのような人物であれど、そのようなリスクを負ってロベルト様の暗殺を企むものか? 真面目に生きてた方がマシ、そんな馬鹿げた事を企む余地もない線を縋りつく嘆願者達との間に引いていたのが、ロベルト様であると思うのだ。 要するに。 「最初から、ロベルト様を殺す意図など無かった。それについて考えても良いかと」 「どうしたら、そういう発想に至るのですか?」 円形のガーデンテーブル。 この5年の間、捜査に当たったヴェスパーマン家の当主、マリーナ嬢の声が飛ぶ。 「君らが本当に真面目に調査をしていたというのならば、やはり犯人が見つからないというのはおかしい」 「真面目に調査していましたよ!」 「それは信じている。だからこそだ。だからこそ、思考のベクトルを曲げるべきなのだ」 この事件を、あくまで毒殺とするならば。 それは、常人が想像も付かないような、そもそも埒外の手段で。 外傷を考えるのならば。 「バラの棘で擦れた傷のようなものしかなかった。ならば、バラの棘に刺されて死んだ。その毒に触って死んだ。そう考えても良いと思うのです」 「ポリドロ卿の仰りたいことは、このミハエルにも理解できました。ですが、バラの生育は病気や虫との闘いです。何かの疾病にかかる事など珍しくも――」 「だからこそ、ロベルト様は毒に冒されたバラに触れたのではないか? 原因を確かめようとして」 そうして死んだ。 犯人は最初からロベルト様を殺す気など、欠片も無かったのではないだろうか? せいぜい、バラを一輪枯死させようと思った程度。 鶴の羽1枚でも毟り取ってやったとでも思えば、幾らかは気が晴れよう? 頭の中に、そんな言葉がよぎる。 何度も繰り返す。 要するに、だ。 「犯人はロベルト様を殺そうなどとは、間違っても考えてはいなかった。何か、発作的な怒り。理性では理解できれども、どうにもやり切れず。ロベルト様の大事な物。このローズガーデンのバラ一輪を枯らす事で、小さな復讐をしたかったのではないか。その可能性が考えられるのです」 「そんな馬鹿げた話があるか! このローズガーデンに何輪のバラがあると考えているのだ!!」 リーゼンロッテが立ち上がり、周囲を眺める。 ガーデンテーブルから、バラを眺める。 一輪とて枯れたものは無かった。 庭師たるミハエル殿が良く手入れをしており、病気になったそれは剪定、或いは何らかの処置をしているのであろう。 つまり、ロベルト様も同様にしたはずなのだ。 大事なバラが枯れていれば、必ず触り原因を確かめようとする。 私の視線に気づいたのか、リーゼンロッテが小さく、それでいて威厳を保った声を吐く。 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマン」 「は――はい!」 マリーナ嬢の、胃か心臓が潰れていそうなほどに引き攣った声。 馬車に踏みつぶされた雨上がりのカエルが、死に際に鳴きそうな声であった。 「お前は、調べたはずだ。ヴェスパーマン家は調べたはずだ。何処まで当時の事を覚えている?」 「当時の調査統括! ヴェスパーマン家の当主としてお答えします!! ロベルト様へ陳情に上がった当時の人間は、ロベルト様が亡くなられたその日、それは勿論の事!! 一週間前の陳情者に至るまで、背後関係を調べ上げ――」 「バラ自体は調べたのか!?」 リーゼンロッテが立ち上がったまま、ガーデンテーブル越しにマリーナ嬢の襟首を掴み上げる。 マリーナ嬢が、必死に叫んだ。 「ロベルト様が亡くなられた翌日には、ロベルト様に関わった全ての者が涙するように、涙雨が降り注いでおりました! 全てのバラを調べるなどという現場検証を行う事は不可能でした! 最初の方針では、警備が厳重に行われている王宮が現場、ロベルト様に出会った人も限られており、犯人はその利害関係を調査すれば見つかるものと――」 「言い訳にすぎん! お前も、私もだ!!」 リーゼンロッテが悲痛な顔で訴える。 自分も原因であると、気付いてしまった。 今回の原因に思い至らなかった事に、気付いてしまったのだ。 とはいえ、このような事に思い至るかというと。 「しかし、確かに毒は現場に持ち込まれたのです。ロベルト様に御会いするまえに、所持品の検査は?」 「ナイフや剣などの刃物は基本的には陳情者自らが、王宮を警護する騎士に差し出しておりました。もちろん、身体検査は行っておりますが……」 「毒は?」 小さく、呟く。 毒は持ち込めたのか、どうか。 それが問題である。 「小さな。本当に小さな小指ほどの薬瓶であれば、可能であったとは思います。ですが、ロベルト様が陳情者に御会いする際には常に騎士、侍童が付いておりました。ロベルト様が、ガーデンテーブルにおいて召し上がる飲み物に毒を混入する事などは不可能です。そして身体検査は間違いなく行われていたのです。そのリスクを考えて、毒を持ち込む等とは――」 ミハエルが、震え声で呟く。 ミハエル自身も理解していようが、ならばバラに毒を振りまく隙間は? それを問う。 「再度だ。再度問う。バラの棘に毒を仕込む程度の隙間は? それが肝心なのだ、ミハエル殿」 「ロベルト様は陳情者の、分もわきまえぬ陳情に激怒される事はままありました。殴り倒した際は、その理由について語った後、陳情者を落ち着かせるために、しばらくローズガーデンに放置されることがありました」 「つまり?」 結論は、既に出たが。 答えを求める。 「ポリドロ卿の仰るように、バラの棘に毒を仕込む程度の隙間はありました。確かに、あったのです」 ミハエルの答え。 隙間は確かにあった。 だが、これはあくまでファウスト・フォン・ポリドロの仮定にすぎぬ。 真実であるかというと、それには程遠い。 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマン」 名を呼ぶ。 当時の諜報統括たるヴェスパーマン家の当主に対し、問う。 「一週間前の陳情者に至るまで、背後関係を調べ上げたとうかがったが。さて、雨が降ったのはロベルト様が亡くなった翌日と?」 「亡くなられる、二日前に一度降りました。それは確実であります!!」 必死な表情で、マリーナ嬢が声をあげる。 理解した。 やるべきことは、ただ一つ。 先ほども言ったが、これが本当に真実であるのか? それは私すら確信できない。 ではあるが。 「再調査しよう。3日間の陳情者を一人一人詰問するだけであれば、一週間もかかるまいよ。ロベルト様の調査と言えば、相手も断れまい」 調査する、その行為自体には、何の問題も無いのだ。 やるだけやってみる、その価値はある。 それに、冷静に考えれば全員をあたる必要までは無い。 薔薇に毒を仕込む程度の隙間があった人物、王宮の騎士、ロベルト様付きの侍童の目を逃れる事の出来た者を当たればよい。 「マリーナ・フォン・ヴェスパーマン。当時、ロベルト様への陳情にあたって傍付きにいた騎士、侍童の名は判るか?」 「調査記録は、王宮に持ち込んでおります! すぐにでも!!」 ならばよい。 そう時間はかかるまい。 「可能性が高い順、そこから詰問していこう。ただ、やはり雑音が混じる」 「雑音ですか?」 ミハエル殿が、甘い声で囁く。 雑音である。 やや洒落た言い方をすれば、ノイズとでも言おうか。 嵐のように回転していた自分の脳味噌に対し、あえて否定的な意見は述べなかったのだが。 「一度口にはしたが。ロベルト様暗殺の意思が無ければ、毒を持ち込む理由がよく判らんのだ」 ガーデンテーブルを、自分の剣ダコでゴツゴツの指先で、コツコツと叩く。 私の予想が全て正しかったとしても――こればかりは、意味が判らん。 身体検査で見つかれば、相応の対応を取られるであろう。 死罪も有り得るのだが。 そのリスクを背負ってまで、そんなバカげた行為をするものか? こればかりは、理由が判らんのだ。 「……」 ミハエル殿が、何故か黙り込む。 うん? 疑問に思い、ミハエル殿の顔を見つめるが。 ミハエル殿はしばし沈黙を置いた後に、酷く甘い。 官能的でありながら、それでいて震えた声で呟いた。 「習慣であったとすれば、どうでしょう」 「習慣?」 どこの馬鹿に、小指ほどの薬瓶に詰めた毒薬を持ち歩く習慣なんてあるんだよ。 生まれついての暗殺者か? それですら、暗殺時以外にそんな不用意な事はしまい。 「そんな習慣を持つ人間など、いくら青い血。権謀術数をめぐらす貴族にもおるまい。平民はもっと無いだろう。そもそも、毒を入手する手段が何処にもない」 「いるのです」 何処に? そう問いかけて、ミハエル殿の顔が真っ青になっている事に気づく。 何に気づいた、この青年。 「その習慣を持つ者がいるのです。装飾品や貴金属、財産の全てを品に変え、それを身に着けて旅する者達が。そうする事しか出来ない者達が。窃盗や人殺しすら、『我ら』が生きる糧となるため、手段として取り得ると考える者達が。人食いの噂や、誘拐犯などという何の根拠もない侮蔑を、その生き方への偏見ゆえに受ける者達が」 言いたいことは判った。 それは誰にも考え付かなかった。 捜査線上には、絶対に上らなかったであろう。 ハッキリ言って、意味が分からないからだ。 ロベルト様を殺したところで苦境に陥るだけで、その行為に何の見返りも得られない。 彼の庇護を受けていた、被差別民という存在。 「その財産の全てを身に着ける習慣から、ロベルト様から安住の地を与えられてなお、その習慣を捨てられなかった存在。強敵を仕留める財産、最後の武器を肌身から捨てられなかったという可能性があるのです」 ミハエル殿は、懺悔をするように呟く。 決して口にしたくはないであろう。 本人とて、信じたくはないであろう。 意味が判らない。 ミハエル殿にとっては全く意味が判らない行為であるし、そして信じたくもないであろう。 だが、ミハエル殿にとって、気付いてしまった以上は口にしないなど許されぬ。 ロベルト様の侍童として、それは許されぬのだ。 「放浪民族です。我々には、その長い長い放浪の歴史の最中に入手した毒を、財産として、最後の武器として所有している可能性があるのです」 「まだ決まったわけではない!!」 リーゼンロッテが、ミハエル殿の甘い掠れ声を?き消すように叫んだ。 「そんなバカな事があって良いものか! それだけは、それだけは! あってはならんのだ!!」 悲鳴。 金切り声を挙げ、立ち上がったままのリーゼンロッテが震える。 顔は激怒に染まるのではなく、蒼白である。 唇を噛みしめていた。 「ロベルトが私に懇願したのだ。放浪民族に住む場所と、職を与えようと。もちろん、ロベルトは盲目ではない。深い慈愛の気持ちだけではなく、アンハルト王国における流浪の異民族たる放浪民族は数世紀に渡る問題であった。定住者たる我々と問題を起こし、その解決や責任を取る事なく、後は知った事ではないと逃げ回る。いっそ一人残らず滅ぼそうと、今までアンハルト王家の祖先は何度も考えた」 前世の知識。 今世とは違うが、放浪民族の迫害の歴史。 ナチスによるホロコーストであり、ニュルンベルク法であり、虐殺の被害者。 同時に貧困ゆえの麻薬密売者、窃盗犯、強盗犯、犯罪の増加要因としての側面が思い浮かぶ。 その問題の明確な解決など、私が前世において死ぬ前ですら見えなかった。 どうしようもなく嫌なものが脳内に巡り、思わず苦渋の顔になる。 「だが、ロベルトは一つの解決案を示した。周囲に反対されながら、このアンハルト女王たる私の説得に対しても討論を重ね、やっとの事で放浪民族を雇用する道筋を立てたのだ。今、彼女達はこの王都で明確な問題は起こしておらぬ」 それは聞いた。 それはすでに聞いたのだ。 綺麗さっぱり滅ぼすか、それとも全てを与えて王国民として吸収するか。 リーゼンロッテにとっては最後まで悩み抜いた挙句、ロベルト様の進言を聞き入れた分水嶺であっただろう。 「ロベルトが、その庇護した相手に殺されたなどと」 リーゼンロッテが、その小さな口で、小さく言葉を紡ぐ。 「それだけは、あってはならぬのだ。理解できるだろう、ファウスト」 「――」 私は、リーゼンロッテの言葉に対し、何の返事もする事は出来ない。 まだ、何も決まったわけではない。 証拠は無いし、ハッキリ言えば全てが憶測にすぎない。 だが、容疑者の候補から放浪民族を取り除く事も、出来はしなかった。 第79話 愛する者よ、自ら復仇するな どうでもよい。 リーゼンロッテ女王陛下の言葉に対し、もはや放浪民族など仲間とは思っていない私は考えた。 どうなってしまってもかまわない。 ロベルト様の仇を討てさえすれば、その後のこの世には未練などなかった。 ロベルト様を殺した罪に対し、その罰を与えられる者達の中に、自分が混ざったとしてもどうでもよい事であった。 「……ポリドロ卿。私は、すぐに再調査を開始すべきだと思います。大々的に再調査を喧伝し、仰った通り、ロベルト様が殺される前の3日間における陳情者を一人一人詰問しましょう」 「……」 ポリドロ卿は、何も語られない。 酷く苦渋に満ちた顔をしている。 何を躊躇う必要があるのだ。 何度でも言う。 もう、放浪民族がどうなろうが知った事ではない。 「ミハエル殿、私には決断できぬ。今回の事件は、犯人を殺して解決というわけにはいかぬのだ」 「この事件における回答を導き出したのは貴方です。ポリドロ卿」 「その回答が正しかった時が問題となる。放浪民族がどうなるか理解して発言しているのか?」 放浪民族は皆殺しにされるであろう。 元々、嫌われているのだ。 我々は、ロベルト様の御慈悲で定住の地と職を与えられた被差別民にすぎない。 亡くなられた、いや、殺されてしまった。 その後、いくらロベルト様が生前為した仕事であるとの大義名分があるとはいえ、放浪民族は差別感情に苦慮したと聞いている。 実に愚かで、馬鹿馬鹿しいことだ。 自分で自分の首を絞めて死のうとしている者達。 「貴族でも、平民でも、王配ロベルト様の暗殺犯となれば一族皆殺しにされるでしょう。連帯責任です。そして、それは放浪民族も同様であります」 「それでは済まぬと言っているのだ!」 リーゼンロッテ女王陛下の叫び。 一番復讐したいのは貴女であるはずだ。 私はロベルト様に全てを与えられ、救われたが。 ロベルト様がこの世で一番愛しておられたのは、貴女であるのだ。 ならば、一番復讐の権利を持つのは貴女であるはずだ。 何を躊躇う必要がある。 「もし、全ての事が明らかになれば。私は殺さぬわけにはいかぬ。アンハルト王都に居住する放浪民族の全てを、殺さぬわけにはいかぬのだ。ロベルトは、多くの人々に好かれていた。神聖グステン帝国の皇帝、教皇とも文通を重ねていた。ロベルト暗殺の犯人について、私は報告せねばならぬ。皇帝も、教皇もこう仰るであろう。そうか、ロベルトの慈悲は全て何もかも無意味であったか、と。もはや放浪民族を殺しても罪に問われないとグステン帝国とその加盟国全てに公布することになるであろう。全ての放浪民族が、虐殺されることになるのだ」 そうなるだろう。 もともと悪評持ちの放浪民族が、差し伸ばされた手を拒むどころか、手を差し伸べてくれた恩人を殺したのだ。 もはや、誰も人としては扱わぬだろう。 それがどうした! 女王陛下の目を見据える。 女王陛下の瞳の色は、すでに私人としての優しいそれではなく、冷酷な選帝侯としてのそれに切り替わっていた。 「ミハエルよ。事は慎重に運ばねばならぬのだ。もはや容易な事では片付かなかった。すでに状況は感情では片付かず、真実を隠す事も考えなければならない状況下に置かれている」 「女王陛下は、犯人が憎くないのですか」 「愛する者よ、自ら復仇するな。ただ神の怒りに任せよ」 女王陛下は、酷く冷え切った声で呟いた。 新約聖書 ロマ書 十二章 十九節。 私は、他の放浪民族と違い上っ面の信仰ではなく、ちゃんと聖書も読んでいる。 正直、神など信じなくてもよいが、教養になるから読んでおきなさいと。 ロベルト様の御言葉に素直に従って、読むようになった。 その一節を、酷く冷え切った声で呟いたのだ。 だが、女王陛下の真意はその言葉そのままではあらず。 「正直言えば聖書の言葉など、どうでもよい。放浪民族がどうなろうが知った事ではない」 もっと根深い感情にある。 ロベルト様への、深い愛情が根本にある。 「だが、それではロベルトのやった事は何になるのだ? 我が夫が、その信頼を力として、私に対して、皇帝に対して、教皇に対して、貴族に対して、平民のギルド代表に対して、全てのありとあらゆる者を説得し、文書を交わし、嘆願し、時には頭を下げ、努力してきた。その全ては何のためであるのか。私はロベルトがどのように努力してきたかを知っているのだ。ミハエルよ、お前がロベルトに会う前からずっとだ。私はロベルトが為した事の全てを知っているのだ」 「リーゼンロッテ女王陛下」 「許されないのだ。ロベルトの慈愛により為してきた事の全てが、何もかも無駄であった。そう呼ばれるのは、そんな惨い事が許されて良い訳が無い。そんな事が真実であって良いわけが……」 女王陛下の感情は、すでに抑えきれないでいた。 鉄面皮な表情とは裏腹に、口端の震えは抑えきれないでいる。 公人としての立場と私人としての感情が、狂ったように跳ねまわっているであろう。 「もうよい、真実を知りたいなどと望んだ私が愚かであった。もう、これほど苦しい思いをするのならば、何も知りたくはない。私は心の安寧を、今回の再調査に求めていたのだ。残酷な真実ならば知りたくはない。知って何になるというのだ。ロベルトが生きて帰ってくるとでもいうのか? 屍山血河を築いた先に何があるのだ?」 「……」 「調査は打ち切る。もう何も聞きたくはない。ポリドロ卿、ヴェスパーマン卿、済まなかった。もはや、私の心はこれ以上の重しに耐えられぬのだ」 対面に座るポリドロ卿は、何も語られない。 女王陛下の言葉を、苦渋に満ちた表情でずっと聞いている。 横に座るヴェスパーマン卿においても、同様であった。 調査の依頼者である女王陛下が、もう嫌だと悲鳴を挙げていた。 ならば、これ以上は王家に忠誠を誓う騎士としてはできないであろう。 だが、そんな事、ロベルト様の侍童にすぎぬ私の知った事ではない。 私が忠誠を捧げるのは、リーゼンロッテ女王陛下ではない。 ロベルト様ただ一人であった。 それは、リーゼンロッテ女王陛下が自ら命じた事であった。 「ならば、私が直接問い詰めます。当時の事は覚えております。ロベルト様が殺される前の3日間において、確かに放浪民族の代表者が陳情に訪れておりました。歌劇場の座長であります。私は同族であることから、その立会人となる事を避けておりましたが、当時の騎士や侍童、ああ、思い出しました。女王陛下お気に入りの実務官僚と、その夫となった侍童でありました。二人とも優秀でおられますので、当時の事は良く覚えているでしょう」 尋ねれば、すぐに判る事。 何もかもを表に曝け出してやる。 どれほどの醜い事を、我が同族がしでかしたのか。 その裁きがどういう物であるのか。 そこに屍山血河という結末があっても、私は知った事ではない。 「ミハエルよ。人が死ぬのだ。多くの人が死ぬ。死んでしまう。これが単純に憎悪を向けられる相手であるならばよかった。己の罪を隠匿し、ロベルトを殺した事を何とも思っておらぬ愚か者であるならば、一族もろともに凄惨な結末を迎えさせる事で済んだ。私は復讐を為す事で、心の安寧を得ることが出来た。だが、真実は残酷だ。誰も救われない。この事件が解決することで、誰が救われると言うのだ」 「犯人が罪の意識にずっと苦しんでいるとでも? 殺意の有無など関係ありませぬ。罪には厳罰を以て処するのが人としての生き方であります。私は復讐します。かつて、私が10歳の頃に、ロベルト様に与えられたナイフで自分の母親を刺殺したように」 私はロベルト様に人としての生を与えられた。 私はかつて人畜であり、放浪者である放浪民族の一人として、その苦しい生活の路銀を稼ぐための去勢鶏であり。 一生、この歌の裏に憎悪を込めて、ただ吐き出すだけの歌うたいにすぎなかった。 生殖機能を奪われ、男とも女とも呼べぬ歌声を発するだけの存在。 今は違う。 今は違うのだ。 私のこの世における生は、ロベルト様という存在によって肯定されたのだ。 「私はこの時だけのために、今まで価値もない命を繋いできたのです」 私が今歌っているのは放浪民の音楽ではなくアリア(独唱曲)である。 復讐の歌である。 この世全てに対してではなく、ロベルト様を殺した犯人への。 私に人としての生、その全てを与えてくれた恩人を殺した愚か者へ、この5年間で歌ってきた殺意の全ては向けられている。 復讐の炎は地獄のように、我が心に燃えさかっていた。 「この殺意が誰に止められるものか。復讐するは我にあり、私はロベルト様にこれをもって報いるのです」 「ロベルトがそのような事、望んでいると思うのか?」 「望まぬでしょうね」 先ほど、殺してもロベルト様は帰ってこないと女王陛下は仰られた。 では、このまま見逃せとでも言うつもりか。 それだけは、有り得ない。 ロベルト様の命を奪った事への報復は、凄惨に行われるべきであった。 「ロベルト様は本当に優しい御方でありました。その自身の死すら、殺意が無いと理解できたなら、事故であったのだとお許しになるかもしれません。だからこそ許せません」 許しなどは有り得ぬ。 それだけは有り得ぬのだ。 「あの優しい御方の命を奪った悪人を殺すのです。それだけが正義なのです。私にはもはや、それ以外の結末など有り得ぬのです」 それさえ、やり切れば。 私の命の灯を燃やし続けていた、最後の願いさえかなえることが出来たならば。 地獄に落ちても、ずっと笑っていられるであろう。 苦渋の表情。 私を見ながら、ずっと、その表情を続けていたポリドロ卿が口を開く。 「提案を」 この事件の犯人を見つけ出したポリドロ卿。 その言葉を遮る事は、出来なかった。 「まだ、犯人が決まったわけではありません。ですが、この事件は単純には片付かないと考えます。調査は慎重に行う必要があります」 「ファウスト! もう良いと言ったはずだ!!」 「リーゼンロッテ。貴女の心を理解できるなどとは、私には言えません。どれほど辛いか、私ごときには想像がつきません。ですが、ここで真実を知らねば。この先貴女はずっと心残りを抱えたまま、生涯を終えることになります」 苦渋に満ちた顔に反して、酷く優しい声で呟いた。 ポリドロ卿の声は労わりに満ちており、女王陛下も言葉に詰まる。 私も、ヴェスパーマン卿も、誰もその声には逆らえない。 「事件は調査します。真実を導き出します。ですが、慎重に行いましょう。犯人が誰か悟られぬよう。大々的になど行わず、ひっそりと。誰の目にもつかぬように」 「どうするのです?」 具体的にはどうするつもりなのか。 それを問う。 ポリドロ卿は答えた。 「再調査の担当責任者である私が動くと、事が大きくなってしまう。当時、放浪民の座長が陳情した際に立ち会ったという実務官僚殿、そしてその夫である侍童。その二人だけはバラ園に呼びましょう。女王陛下が当時の想い出話をしたい、と望んだ。そのように取り計らってください。もちろん誰にも漏らさぬよう口止めが――可能でしょうか?」 「あの二人なら、誰にも漏らしません」 信頼のおける、有能な二人であった。 あの二人なら、何があっても秘密を墓まで持って行くであろう。 ポリドロ卿は、一体。 「まだ、真実がそうと決まったわけではありません。ですが、犯人が仮定の人物と判明した場合」 この事件の結末をどこに持って行くつもりなのか。 それを、耳を澄まして、ただ聞く。 「ひっそりと、死んでもらいましょう。ロベルト様を殺した、その毒によって」 犯人だけを殺す。 復讐を、ひっそりと行う。 ロベルト様のための、レクイエムを歌うのだ。 それはそれでよかった。 「私に不服はありません」 妥協点であった。 何もかも世界の全てが破滅してしまえばよい、そういう気持ちに包まれていたが。 女王陛下の御心は、それに耐えられそうにない。 ロベルト様の為した事が、無為となる事には耐えられそうになかった。 ゆえに、妥協する。 「ですが、復讐するのは私にさせてください。宜しいでしょうか、リーゼンロッテ女王陛下」 そして、許可を得る。 ロベルト様が一番愛していた人から、復讐の許可を。 「私は、もはや関わらぬ。何も聞きたくないのだ。続けると言うのであれば……結末だけを報告せよ。ミハエルに、ファウストよ」 女王陛下は、ポツリと呟き、その許可を出した。 何もかもを私とポリドロ卿に委ねた。 ポリドロ卿が、また口を開く。 「先ほども言ったが、再調査の担当責任者である私が動くと事が大きくなる。座長に詰問するのはミハエル殿に委ねる事になるであろう。まあ、まだ何もかも――」 決まったわけではないがね。 ポリドロ卿はガーデンテーブルで瞑目し、静かに呟き捨てた。 そうだ、何もまだ判明したわけではない。 全ては仮定にすぎない。 まだ憶測の段階にすぎなかったが――誰もが、なんとなく理解していた。 この世の真実ほど残酷で無慈悲なものは無いと。 今はただ、その事実に辿り着く前の、最後に与えられた静けさに過ぎないのだ。 第80話 復讐の炎は地獄のように我が心に燃え 結論から言えば、やはり放浪民族の座長が犯人である。 誰もが苦渋に満ちた顔で、そう判断した。 リーゼンロッテ女王陛下のみが調査に関わらず、失意のあまりに寝込んでおられる。 もはや何も聞きたくないと。 我々の判断を聞こうとせずに、大量のワイン瓶を抱えながら、自室へと引きこもってしまわれたのだ。 まあ、そうなるであろう。 何もかもが、女王陛下にとってはやりきれない話となるのだ。 「歌劇場に、もうすぐ到着します」 「そうか」 王家ではなく、ヴェスパーマン卿が所有する、装飾が控えめの馬車。 馬車内には簡素な長椅子が固定されており、私とポリドロ卿が二人して座っている。 いよいよ事態は大詰めを迎えていた。 座長への詰問と、その結末が、せめて薬になればよいのだが。 女王陛下の病を治す、良薬になればいいとは思う。 だが、それはもはや、私ことミハエルの仕事ではなく、横に座っているポリドロ卿の為すべき事であるとも考えるのだ。 馬車の中で、私は唇に拳をやり、人差し指を触れさせ。 思考の渦へと入る。 女王陛下お気に入りの実務官僚の騎士と、かつての同僚にしてロベルト様の侍童であった者。 その夫婦は、当時の事をよく覚えていた。 陳情に訪れた放浪民族の旅団代表にして歌劇場の座長は、やはりロベルト様の激怒を買い、その頬面を殴りつけられていたのだ。 頭を冷やせと宮廷のローズガーデンに、しばし置き去りにしたとの証言を得ている。 薔薇の棘に、毒を仕込む隙間は確かにあった。 「ミハエル殿」 「何か?」 ポリドロ卿が、酷く神経質な様子で、私に目を合わせないまま呟く。 「何故、貴殿は笑っておられるのか?」 「逆に、何故ポリドロ卿は苦渋に満ちた顔をされておられるのですかね。私の場合は――」 理解してはいる。 この結果が、気に食わないのだ。 誰も救われない。 誰も救われないのは、判り切っていた。 これから、歌劇場の座長をひっそりと殺したところで。 誰も救われるわけがないのだ。 私が笑っているのは―― 「破滅願望でしょうね。私の現世での心残りが、これで片付きます。これが終わりさえすれば、もう――」 正直な心を伝えた。 ロベルト様に酷く似た雰囲気を持つ、ポリドロ卿に嘘を言うのは避けたかった。 本音を吐く。 この復讐さえ果たせば、私はこの生を閉じる事が出来る。 「貴殿が死ぬことは許されん。誰もそれを望んでいない」 「私の生死は、私が決めます。それだけの事です」 配慮はしよう。 この先、私が死んでしまった後の、世の中については配慮しようと考えるのだ。 病んでしまった女王陛下には、それを癒す良薬となるものを届けてあげたいと考えるし。 ポリドロ卿には、その結果が例え誇るものではないにせよ、今回の事態に対する結末は与えてあげたい。 ヴェスパーマン卿に対してすら、前任者として、この宮廷殺人劇における真実は教えてあげたかった。 私は世の中を呪うどころか、むしろ周囲に対しては優しさに満ちているとさえ言えた。 なれど、私は死にたかった。 「もう、良いと思うのです。私がこの現世で為すべき事は何も無くなりました」 復讐の後は、もう何も残らない。 この復讐の炎が地獄のように燃え盛った後は、その灰すら残らずに、この世から消えてしまうものだと思えた。 私の存在はそのように価値のない物であるし、そういう風にして余生を繋いできた。 ロベルト様が殺されてしまった後の余生を。 「バラ園はどうする。ロベルト様の遺したバラ園は、ミハエル殿が庭師として管理されているのであろう?」 「……私一人だけで、あのバラ園の全てを管理しているわけではありませんし。リーゼンロッテ女王陛下が、下手な人間に、あのバラ園を管理させるとは思えません。大丈夫ですよ」 世は全てこともなし。 心残りは何も無かった。 ポリドロ卿が、酷く苦渋に満ちた顔をしている。 私をどう説得するか模索しておられるのが、あからさまであった。 優しい方だ。 瞑目しながら、未だ記憶に焼き付いているロベルト様の姿を思い出す。 同じ筋骨隆々の身体なれど、やはりポリドロ卿の巨躯とは重ならない。 だが、自分の手が及ぶ範囲であるならば、少しでも人に優しくありたいとする姿はロベルト様によく似ていた。 笑みを浮かべる。 この命を絶つ前に、ポリドロ卿に出会えたのは僥倖であった。 貴方がいるからこそ、私は心置きなく命を絶てるのだ。 後事は、ポリドロ卿が良きようにしてくれるであろう。 もはや、私に言葉は通らない事は理解しているであろうが。 最後まで、ポリドロ卿は説得を諦めない。 「ロベルト様は、ミハエル殿がこのような形で、その命を絶つことを望んでおられるだろうか? もう一度、よく考えて頂きたい」 陳腐な台詞。 言うと思った。 発言されたポリドロ卿自身でさえ、陳腐だと思っているであろう言葉を考える。 望まないであろう。 この後行う復讐も、私が死ぬことも、何も望んでおられない。 ロベルト様はそういう御方であったのだ。 「ポリドロ卿。自分でも無為と思う言葉を発言してはいけませんよ」 笑って、嗜める。 貴方の言葉は全て無為なのだ。 この先、生きたところで何も良い事など無い。 私は、人生の結末はここであると定めてしまった。 この決意は揺らぐ事が無い。 「――」 ポリドロ卿が、口を閉じようとした。 そのまま、二度と開かないのではないかと思った。 二人して沈黙したまま、放浪民族の住まいにして、その芸を披露する劇場が一体となったオペラ・ハウスに到着するものと思われたが。 ポリドロ卿が、ポツリと呟いた。 「ミハエル殿にお聞きしたい」 「何でもどうぞ」 気軽に答える。 ポリドロ卿は、苦渋に満ちた声でもなく、悲しそうな声でもなく。 せめて、私の決意に対して真摯であろうとした、全ての感情を消し去った質問を口にした。 「貴方の人生の結末は――ここでよいのか?」 「ええ」 返事は澱みなく、口から吐き出た。 もう、何もいらないし。 この先、生きていても良い事などない。 生殖能力を奪われた私が残せる子孫は無く、人生において守るべきものも、勝ち取りたいものもなかった。 嗚呼――思えば、歌だけは嫌いではなかったな。 これだけ、これだけだ。 自分が人に誇れるものなど、これだけであった。 「私では、ミハエル殿の決意を崩す事ができないようだな」 ポリドロ卿の、諦めの言葉。 私は返事しない。 単純な肯定の言葉で返答するのは、無粋と思われた。 無粋な言葉に代わる、何かを。 さて――私の、浅い学識から出る言葉は。 結局、唯一誇れる事について。 「最後の歌を聞いて頂けますか?」 何を、とポリドロ卿が唇を動かそうとして。 それを無理やり閉じた。 私の言葉に続きがある事を、察してくれたのだ。 「レクイエムを歌おうと思うのです。私は、ロベルト様の墓守になる事は出来ません。だから、次に歌うのが最後となります」 ポリドロ卿の顔が、また苦渋に満ちた。 言いたい事はよく判るのだ。 墓守として生きて良いではないか。 その命が自然に消えるまで、ロベルト様へのレクイエムを歌い続ければよい。 だが、もはやポリドロ卿は、何も言おうとしなかった。 何もかも、判ってくださった。 良き人であると思う。 この人が残るならば、もう何の心配もいらない。 女王陛下に、必ずや心の安寧をもたらす事が出来る。 「……」 沈黙が続いた。 もう時間はない。 この馬車はじきに、歌劇場へと着くであろう。 「一つ、頼みがある」 「何でしょうか」 「最後の歌を。レクイエムを歌うなら、女王陛下に聞こえるように歌ってはくれないか」 はて。 妙な事を仰る。 ポリドロ卿の考えが、よく判らない。 「何を考えておられるのですか?」 「私は女王陛下に、心の安寧を求められた。だが事件の結末を報告するにあたっては、酷い困難が予想される。女王陛下にとって、報告は苦痛にしかならぬと思う。だが背後に歌が流れているならば、少しくらいは気が紛れると思うのだ。私が止めよというまで、レクイエムを歌い続けて欲しい」 「……何を考えておられるのかは、正直このミハエルには判りかねますが」 まあよい。 私の死を受け入れてくれたポリドロ卿の頼みであり、女王陛下の心の安寧に役立てると言うならば。 断る理由はなかった。 「お受けします」 「有難う。さて――どうやら、着いたようだが。私は馬車から出る事は出来ぬ」 ポリドロ卿が、表舞台に姿を現す事はできない。 今回の事件は、秘密裏に片付けなければならなかった。 「判っております。後は全て私にお任せを」 これにてポリドロ卿との会話は終わり。 後は、私がエンディングを歌い切るだけである。 この事件の終幕を引こう。 ※ 勝手知ったる歌劇場の座長室。 彼女の居室を兼ねている、その部屋へと入る。 周囲の人払いが済んでる事の、確認は終わっていた。 「ミハエル、今日は何の用で――」 「今日は歌劇場の歌手たるミハエルとしてではなく、ポリドロ卿の使者として、ここに立っている」 用件を速やかに告げた。 座長は僅かに肩を揺らしただけで、それ以外の反応は見られない。 が。 「ポリドロ卿は全てを見破った。もうお終いだ。懺悔の準備は出来ているな?」 「何の事だかさっぱり――」 「犯行手口は判っている。犯人がお前だという事も判っている」 ただ、事実のみを告げる。 ポリドロ卿が導き出した事実を。 「殺意が無かったと言う事まで判っているのだ。もはや言い逃れはするな」 「ミハエル、何の事だか私には」 「動機だ。動機だけが判らない。ポリドロ卿は、女王陛下の心の安寧を求めておられる。それには、全ての真実を明らかにする必要がある」 部屋の中央に立ち尽くす、座長に詰め寄る。 襟首を掴み、顔を寄せる。 大声を張り上げるのではない。 座長にしか聞こえないように、小さく呟く。 「ただ、世間に公表する気はない。全てを知るのは、私と、女王陛下と、ポリドロ卿と、ヴェスパーマン卿。たった4人だけで良い。意味は判るな?」 「――ミハエル」 「お前が正直に罪を告白し、自害すれば、放浪民族は御咎めなしという事だ。私にとっては気に食わない事だが、ポリドロ卿は事を荒立てたくないと言っておられるのだ」 呟く。 他の人間には聞こえないように、世間の誰にも聞こえないように。 静かに、呟く。 「死ね。さっさと全てを告白し、ただ死ね。ロベルト様を殺害した毒が残っているならば、それを飲んで自決せよ。ポリドロ卿はそれを望んでいる」 「本当に」 反応。 座長が躊躇いを消し去り、心を露わにする。 もはや、その顔を覆っていた薄皮は剥がれさり、臆病者の犯罪者としての姿が現れる。 「本当、に――」 襟首から手を離す。 座長の身体から力が抜けきり、崩れ落ちる様に床へと手をついた。 私に頭を下げながら、身体を震わせて、涙声を発する。 「それだけで、それだけで良いのだな。私が死ぬだけで、全てが――放浪民族が迫害される事は無いのだな」 「そうだ」 知ってはいた。 知ってはいたが、やはりポリドロ卿の導き出した答えが全てであった。 腰にぶら下げたナイフで、足元に縋りつく罪人の身体を切り刻み、殺してやりたい。 ロベルト様から頂いた、自分の母親の心臓を貫いたナイフで。 この女が命懸けで守ろうとする、全ての物を踏みにじってやりたい。 だが、出来ない。 それが、ロベルト様が生前為した事を無為にしない、たった一つの冴えたやり方であった。 「死ねと言われれば死のう。望まれるならば、自分の胸元をナイフで捌き、この心臓を取り出そう。私は死んだところでまだ余る罪の内、僅かを償おう。だが女王陛下は、もうじき王位をアナスタシア第一王女殿下に継承される。もし殿下に、この事が明らかになった場合は?」 「先に、真実を知るのはたった4人のみで良いと言ったはずだ。他に漏らす事はない。事情を察する事が出来るであろう人間も、最後まで黙っているだろう」 鬱陶しい。 アナスタシア殿下が知り得たところで、賢明なあの御方なら女王陛下と同じく、真実を明らかにしない事を選択する。 だが、それを一々説明してやる義理は無い。 最後まで、恐怖を抱えながら死にゆけ。 私が知りたいのは――。 「さあ、全てを吐き出せ。何があったか、ロベルト様が仰られた事に対し、お前が何を考えたのか。当時、お前の陳情に立ち会った際の騎士と侍童は、ハッキリと覚えていた。だが、お前がバラに毒を盛った動機。それだけが判らない」 判らなかった。 最後まで誰も判らなかった、この罪深き女の動機だけ。 英明たるポリドロ卿にも、同じ放浪民族たるこのミハエルにも、それだけが理解できなかった。 何故、バラを一輪枯死させたいなどと、歪んだ願望を抱いた。 人の心の「暗がり」だけは、ポリドロ卿も犯人に聞くまで判らないと仰られた。 真善美、人が生きていく上での究極の理想を死の際まで追い求めた、ロベルト様を殺した理由。 それさえ知ることが出来れば。 この命に未練は無いし。 ポリドロ卿であれば、後事を何とかしてくれるであろう。 私はただ、座長がその口を開くのを、ただひたすらに待っていた。 第81話 私にはわかる、消え失せてしまったことが 顔面を殴打された。 地面に倒れ、這いつくばるようにして、私を殴った相手を見つめる。 この王国アンハルトを統治するリーゼンロッテ女王陛下の王配、ロベルト様であった。 「馬鹿な事を口にするな! まさか、他の場所で口にしていないであろうな!!」 「決して、決して、そのような事は」 這いつくばる。 這いつくばらなければ、ならなかった。 頭の上に落ちる、怒号。 今は、どうにかしてロベルト様に怒りを静めて頂くしかなかった。 背筋に走る怯え。 何もかもが台無しになる事を恐れながら、発言したことを後悔する。 「全てを台無しにするつもりか! 状況を理解しているのか!!」 「しております。何もかも、私達の立場を理解しております。なれど、なれど――」 後悔はしている。 それでも、口にしなければならなかった。 元より、このような望みが受け入れられるわけがない。 そんな事は私にさえ、判り切っていた。 だが、だが。 「私達と同じように、苦境に直面している放浪民族へ、救いの手を――そんな事、叶わぬのは判っております。文字すら書けぬ無教養の私にすら、判っております。ですが、他の放浪民族からの嘆願を受けた以上は口にせぬわけにも!」 「お前の元に訪れるであろう放浪民族は全てアンハルトから追放すると、最初から言っておいたはずだ! お前は私の歳費が無限にあるとでも勘違いしているのか? ポケットに入れたビスケットのように、それを叩けば金貨が二枚に増えるとでも思っているのか!?」 神聖グステン帝国、その皇帝と教皇に対する最高権威を認めた加盟国。 選帝侯たるアンハルト王国において、我が旅団に定住を認め職を与えたロベルト様の施策は、放浪民族に伝わりつつあった。 それこそ、神聖グステン帝国中の全ての放浪民族に。 当然の流れであったのだ。 苦しい放浪生活から我らも救われたいと、他の者達が望むことであるのも。 そして――。 「座長よ。お前は、本当に理解しているのか? 私はすでに告げたはずである。救うのは、私が救えるのはお前達旅団のみである。これは、神聖グステン帝国中の領内において放浪する放浪民族の最終的解決に向けた実験にすぎぬのだ」 そんなこと、ロベルト様はすでに読んでおられる。 事前に言い聞かされていたのだ。 私の元に一縷の望みをかけて訪ねてくる者達がいるであろう事も。 「私はすでに何度も発言した。当然覚えているであろうな? 復唱せよ」 「……私達へ職を与えたのは、居場所を与えたのは、放浪する君らによる犯罪を撲滅するためである。そのための手段は問わない。皇帝陛下は最初『放浪民族を殺しても基本的には罪に問われないこと』とする案を考えていたと」 「私はその案だけは避けようとした!」 それには感謝している。 心の底から感謝しているのだ。 苦渋に満ちた顔の、ロベルト様と視線を合わせる。 「なんとか救えぬか、そう考えた。君らが放浪する犯罪者の温床と考えられ、都市では放浪民族が現れたら教会の鐘を鳴らして合図し排撃されるような。我が領邦の人々が、皇帝陛下に与えられた大義名分を手に放浪民族を狩りだすような。そのような地獄が出現しては、人々の心は荒廃していく一方であると考えたからだ」 「承知しております」 地獄は出現しなかった。 ロベルト様が、必死の抵抗をされたからだ。 神聖グステン帝国の皇帝陛下、教皇猊下と文通をしているロベルト様の発言力は高かった。 議論を交わし、最も良い解決方法を模索し、ロベルト様が一つの結論を提案した。 この問題の最終的な解決策として、アンハルト王国内にて放浪民族に定住の地と職を与える施策を試みよう。 もちろん、障害はある。 皇帝陛下が反対し、教皇猊下が反対し、妻にしてアンハルト王であるリーゼンロッテ女王陛下が反対し、その配下である貴族が反対し、平民のギルド代表者達が反対した。 要するに、放浪民族など死んでしまっても構わないではないか。 苦しむのは我々ではない。 それが残酷なまでの本音であり、唯一ロベルト様だけが反対していた。 全て知っている。 全てを、ロベルト様に教えられ、知っているのだ。 これは別にロベルト様が感謝を求めたのではなく、庇護される放浪民族の代表者が知らなければならない現実として教えられた。 全ての人の理解を得て施策を進めるのが、ロベルト様の在り方であった。 その優しいロベルト様が教えてくれたのは、正直聞きたくもない現実。 放浪民族は絶滅政策すら考慮される状況下にあるという悲惨な現実であった。 我らが何をした? いや――被害者ぶるのは、止めておこう。 我らは決して謂れなき被差別民族ではない。 それだけは、それだけは。 最後の放浪民族の誇りとして、認めなければならなかった。 ロベルト様が酷く嫌う、狂ったような鳴き声を発するだけの、自助努力をしない生き物。 ただ困窮した、困窮した。 私は恵まれていない、恵まれていないとオウムのように被害者意識でひたすら繰り返すだけの吐き気を催す屑にはなりたくなかった。 それだけは、最後の一線であったのだ。 我らは神聖グステン帝国において定住を許されなかったが、我らも文化として定住を望もうとしなかった。 だが。 その生き方は、もはや許されぬとロベルト様が仰ったのだ。 「時代が変わったのだ」 私の復唱に満足したのか、ロベルト様が語り始める。 この語りも、何度も聞いたもの。 「時代は変わった。数世紀まではその日を食うにも困っていた我らの祖先は、もうおらぬ。神聖グステン帝国における、我らの灌漑技法は向上し、輪作が考案され、農業の効率が大きく向上した。何度でも言おう。権利と義務を自覚し、自治と連帯を志向するようになった市民意識は、アンハルトにおける諸侯の領邦において目覚めている。自立を進めて国家の体裁を整えつつあるのだ。国家主権とでも呼ぶべきそれ、そこに放浪民の居場所は無い。君ら放浪民の居場所など、もはや何処にも無くなってしまった。君らの居場所は、この先なくなる。このアンハルトの定住民たちが、君ら放浪民族の権利を認めるには、同化以外の手段がない」 「我らにも、文化……ロベルト様の仰る文化がありました」 「文化とは、人が食べていく手段に過ぎないと考える。もちろん、私は放浪民族に文化など無いとは言わぬ。占い師がいた、芸人がいた、鍛冶師がいた、博労がいた、大工がいた、医者がいた、私はだ。君らは一つの民族集団であり、手工業や芸事においては卓越した物を為すと考えている」 ロベルト様が、私を宥めるのではなく。 心の底から、それを理解するようにして呟いた。 そして、完全に否定した。 「だが、その放浪民族の文化は、もはや何の役にも立たぬ。君らの生活を守るうえで何の役にも立たぬ。剣にもならねば楯にもならぬ」 ロベルト様は優しいが、酷く現実的な人であった。 冷酷な事実は、冷酷な事実として告げるのだ。 ありのままに、私の目の前に示すのだ。 「かつて我々の祖先では、君ら放浪民族を公爵や伯爵と言った人間が、軍人として雇え入れる事すらあった。だが――今において、それはないのだ。信用が出来ぬからであり、何より」 「いらない」 「……そうだ。農業生産性が向上し、常備兵が整えられるようになった現状においてはな」 優しいロベルト様でさえ、ハッキリとは言わなかった言葉を口に吐く。 いらない。 いらないのだ、もはや我々は。 我らは我らなりに文化を積み上げてきた。 放浪者として、食べていくための技術を蓄積してきた。 だが、それは定住者にとっては、もはや手工業ギルドが整い、常備兵を整えられる。 この時代においてはいらぬ。 無用の長物となってしまった。 「……パンを焼いたことはあるか」 ロベルト様が、呟いた。 正直に答える。 「ありませぬ」 「小さな領地では、領民が集まってパンを焼く日があるそうだ。何せ、パン窯は一つしかない。領民の愚痴を聞くために、まあ小さな領主であれば、その場に現れる事すらあると聞く」 ロベルト様が呟く言葉。 このパン窯については、初めて聞く話である。 一体、何を仰りたいのか。 「この平民達が皆でパンを焼く習慣も、一つの文化とは言えよう。だが、それは製パンギルドが一手を担う事によって、その文化は消滅する」 「つまり」 「文化は歴史の進歩と同時に消滅する。私は、放浪民族の文化は殆どが定住化の際に滅ぶと考えている。そして、同時に」 その滅びに、剣にも楯にもならぬ文化に、何の価値も無いと考えている。 実質的な、ロベルト様に寄る宣告であった。 汝、定住化のために放浪民族の文化を捨てよ、と。 「放浪民族にして、王都における歌劇場の座長よ、告げよう。音楽や芸事を残して、放浪民族の文化は一度滅ぶと思え。その技術を継承したいと言うなら、私は邪魔をせぬ。子を親から奪う事はせぬ。だが、教育は受けてもらう」 「あの、放浪民を信徒にしようと望む宗教家たちによる教育でありましょうか」 「元より、上っ面の改宗など慣れていよう。信じろとまでは言わぬ。必要なのは、読み書きができる事だ。教養という物は、それそのものが生きていく上での剣と楯に他ならない」 ロベルト様は、放浪民族の定住化施策を考えておられる。 それはどこまでも徹底していて、二度とアンハルトから出られぬような。 全てを与えられ、それでいて雁字搦めの慈悲であった。 権利に対しての責任を。 当然の事ではある。 「君らは、轍なのだ。アンハルト王家で行われた最終的解決を見届け、それに続く他の領邦における放浪民族の馬車が定住化に向けて通るための轍なのだ。何もかもが上手くいかなければならない。一つでも失敗をしてしまえば、全ては水泡に帰す。定住化など無理であったと、それで終わってしまう。グステン皇帝陛下は冷たい決断を行うであろうよ」 「……」 結果を出さなければならない。 このアンハルト王国にて、定住化に成功したとの実績が。 それが、それが達成しなければ。 放浪民族は――今の状況など夢そのものとさえ思われるような苦境に遭い、絶滅されるであろう。 「私が言いたいことは以上だ。理解したか? お前を訪ねて来た者はすぐさまアンハルトから退去するように命じろ。それはお前の仕事である」 「承知しました」 「しばし、このローズガーデンにて冷静になれ。騎士と侍童も連れて行く。そのガーデンテーブルの茶でも飲みながら、一人で考えを纏める事だ」 ロベルト様。 それに付き従って、騎士や侍童が離れていく。 ローズガーデンには、私一人となってしまった。 何もかもが正しい。 一人になり冷静に考えたが、何もかもロベルト様が正しい。 そんな事は最初から判り切っていた。 一足飛びに問題を解決する力は無いし、ロベルト様はどこまでも賢明であられた。 私は。 私は、本当に、ロベルト様を殺すつもりなど欠片も無かった。 悪心は、私の暗がりから起きた。 国々を彷徨い、定住する事が出来ず、その日の路銀にも苦しんだ。 放浪民族の座長としての心から起きたのだ。 醜いものだ。 麗しいローズガーデンを眺めていると、どうしても、どうしても。 「全てを生まれた時から持っていた」としか思えない、ロベルト様が何を言うのかと。 「全てを生まれた時から持っていなかった」座長としては言いたくなる。 我々は轍となるであろう。 ロベルト様の指示に従い、ロベルト様に与えられた歌劇場を職とし、定住地としよう。 その、我らの職である歌劇場の利益から、夫を旅団に迎え入れるのだ。 それで放浪民族の女との血を混ぜれば、あっという間にハーフの出来上がり。 すぐに、同化など上手く行くまい。 だが、3代経てば、4代も経てば違う。 我々は放浪民族としての文化を失う代わりに、定住民としての地と、職を得る。 それを子孫が引き継いでいくであろう。 我々が作ったその轍を参考に、神聖グステン帝国中の領邦が、最終的解決策の参考として馬車を走らせるだろう。 それは良い。 とても良い事であった。 だが――どうしても、引っかかるのだ。 愚か者の嫉妬、そういうものとしか呼べない。 一言で言ってしまえば。 「公爵家に産まれ、王配として迎えられ、誰からも愛されるロベルト様」 貴方はどのような苦労にあってきたと言うのだ。 苦労などしていない。 我らが歩いてきた「暗がり」など少しも知らない。 常に、明るい道だけを歩いて、愛されてきた人物であった。 貴方に―― 「貴方に、何が判るのか」 地面にひれ伏したまま、袖の一部を引っ張る。 悪癖。 習慣であり、悪癖である。 最後の武器、この小指ほどの小さな薬瓶を忍ばせる習慣が、私にはあった。 「バラを」 このバラ園の何千輪ものバラを、たった一輪。 たった一輪だけ、枯死させてしまいたいという願望にかられた。 だって。 だって、余りにも、ロベルト様が眩しすぎた。 何もかもが正論に満ちていた。 明るい道しか歩いたことのない顔で、ひたすらに正論を吐き続ける。 私はそんなロベルト様の事が、憎らしかった。 「貴方に、何が判ると言うのだ」 人食らいと呼ばれた事があるか。 人さらいと呼ばれた事があるか。 訪れた街で「街に入りたければ、その死体を片付けておけ」と。 犯罪者や放浪者、また時には、私達と同じ放浪民族であった芸人の死体。 それを埋めた事はあるか。 犯罪者や放浪者として、それらと同様のものであると扱われている我らの気持ちがわかるか。 ロベルト様は、明るい道しか歩いた事が無い。 我々が抱く、憎しみ、嫉妬、もちろん、それは知識として理解できていよう。 それだけだ。 この、心の奥底にある、ロベルト様への羨望だけは理解できるまい。 我ら暗がりの者が、暗い道をひっそりと歩きながら抱える憎しみ等は判るまい。 羨望が。 貴方のような、明るい人間に対して、暗がりの者がどれだけ酷く酷く醜い感情を覚えるかはわかる方法がない。 だから、私は小さな報復をした。 一言で言えば、穢したいと思った。 このローズガーデンの一輪を。 あの完璧なロベルト様の、少しばかりを穢してしまいたいと思ってしまった。 「……」 ふわり、と宙に浮いたような気持である。 ガーデンテーブル傍のバラの垣根に近づく。 一輪。 たった一輪だけであった。 それを枯死させたいと思った。 ロベルト様の愛するバラ園の一輪でも枯らす事が出来れば、あのロベルト様がそれに気づき、少しでも悲しい気持ちに陥るならば。 ――それは、私にとってはどうしようもない興奮であった。 軽やかな昂奮であった。 同時に、惨めな昂奮であった。 私は、あの穢れの一片も無いロベルト様のバラ園に、一つの穢れを与える事の出来る妄想に浸っていた。 だから、私はあの時、そのバラに毒を塗った。 そうだ、毒を塗ったのだ。 私は殺意など無かった、だがロベルト様はそのバラに触れ死んでしまった。 おそらくは枯死したバラを心配し、他のバラを病から防ぐため剪定しようと。 毒が塗られた、その棘にロベルト様が触れた結果として、死んでしまった。 そうだ。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿が予想したように、私に殺意など欠片も無かった。 同時に、その言い訳など出来る余地もなく、私はロベルト様を殺した殺人犯である。 それを否定するつもりはない。 その辺りを、よくよくポリドロ卿に伝えて欲しい。 ロベルト様と同じく、明るい道しか歩いた事の無いポリドロ卿には、この人々が持つ心の暗がりを知る事は、自らの身を守る上で役に立つであろう。 殺すつもりなど無かった。 私は殺すつもりなど、本当に無かったのだ。 あの優しいロベルト様を殺すなんて畏れ多い事、この世の誰が考え付くものか! それを為してしまったのが私であった。 もうよいか? もうよいであろう? 頼む。 死なせてくれ。 それだけに縋って生きてきた。 私が、この罪を僅かながらも償える日が来るのを、心待ちにして生きて来たのだ。 例え我らを救わぬ神が、私を地獄に連れて行くとしても、それは当然の結果であると考えながら、ロベルト様を殺してしまった後の5年間を生きて来たのだ。 ミハエルよ、お前は、私の懺悔に吐き気すら催すであろうが。 お前の母親が、お前を人畜として扱った事に対し、何の罰も与えず。 路銀の足しのなるならばそれでよいと、あのロベルト様が我らに与えたような大いなる慈悲の欠片も無しに、ただ苦しい放浪生活のために。 たかが、それだけのために、お前の生殖能力を奪った事を許した。 そのような邪悪が、私であるのだ。 私は、ロベルト様に御会いして、その優しさに触れて、初めて理解した。 自分が吐き気を催す邪悪であると、ようやく理解したのだ。 私など、産まれてこなければよかった。 ロベルト様を殺してしまう私など、この世に産まれてこなければ良かったのだ。 だから、だからだ。 この世から、私という邪悪を消してくれ。 あの優しいロベルト様を、殺した愚かな私を。 この現世から消し去ることを許してくれ。 地獄へと送ってくれ。 私には、私だけには判っていたのだ。 あの優しいロベルト様を殺した私にだけが、5年前から判っていたのだ。 私という吐き気を催す邪悪によって、この世の善の顕現というべき存在が、消え失せてしまったことを。 第82話 檸檬と薔薇 なるほど、放浪民の言い分は理解した。 結論として、相互理解が不可能な例など、この世にはままあるのだ。 私はそれで話を終えてしまう事としたいのだが。 どうにも、思考は止まらぬ。 「阿呆が」 反吐が出る。 私は前世において、近代文明人として暖衣飽食の身の上で育った。 そして現世においても青い血の跡継ぎ、辺境領主騎士として育てられた。 我が領地はそこまで豊かではないが、私自身は食うにも着る物にも困った事は無く、周囲からその存在を認められて育ってきた。 放浪民にとっては、さぞかし明るい道しか歩いた事の無いように見えよう。 我が母マリアンヌが狂人として扱われてきた屈辱に、歯を軋ませた事も。 我が血族を繋いできた先霊、そして領地や領民のために命を捧げることを騎士として誓っている事も。 それでさえも、明るい道と見えるであろう。 教育の欠如、貧困を原因とする生きるための犯罪。 そのどうしようもない困窮者の立場からすれば、私やロベルト様は常に明るい道を歩んでいる。 それは否定しないし、事実そうであろう。 我々は最後まで自分の意思に忠実に生き、立場により行動は狭められど、それすら人生の美しさであると、個人の価値観に基づく真善美のままに死ぬのだ。 恵まれた生き方をしている。 嫉妬もされれば、憎まれもしよう。 たとえ、その言葉がどれだけ正しかろうと、なんとなく気に食わないのは判る。 届かない相手がいるのは、私にだって理解できるのだ。 「……全くもって理解できないとまでは言わんが」 繰り返そう。 結論として、相互理解が不可能な例など、この世にはままあるのだ。 この夜半に毒をあおって、自裁を行うであろう。 あの放浪民の座長には、最後までロベルト様の価値観は理解できぬのだ。 だが、前世において稀に見られた本当に愚劣な人間と比較すれば、まだマシであった。 ロベルト様が酷く嫌う、狂ったような鳴き声を発するだけの、自助努力をしない生き物。 自助努力すらできない本当に困窮した立場ではなく、他人から与えられない事に、餓鬼のように不満を漏らす気味の悪い存在。 「自分がいつも被害者だ」という誤った意識を常に持ち、自分が加えるあらゆる攻撃は「反撃」として認知し、そこに論理的な正当性が有るか否かを考えようともしない。 そういう存在ではなかった。 嗚呼、彼女達、放浪民はそのような悪意の塊たる存在ではなかった。 確かに、それを認めよう。 だが。 結局、座長たる彼女は如何にロベルト様に正当性が有ると理解でき、その存在を崇拝すらすれど。 小さな悪意までは、捨てきれなかったのは何故であろうか。 私こと、ファウスト・フォン・ポリドロにはどうしても理解できないのだ。 被差別民たる彼女達の「心の暗がり」が理解できなかった。 いや、そもそも今回の事件において、本当に出自や教育の有無が関係あるのだろうか。 放浪民の座長たる彼女曰く、動機は「心の暗がり」であるというが。 私には、そもそもの論点が違う気がするのだ。 「……梶井基次郎」 一人の日本人小説家、その名前を思い出す。 誰もが知っているであろう、有名な短編小説たる「檸檬」。 「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」という魅力的な一文から語られる。 たった5000字程度の物語。 貧乏で、酒飲みで、肺病で、神経衰弱で、背を焼くような借金を背負っている。 酷くどうしようもない存在。 それが檸檬という一つの果実に対して、「すべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さ」を見つけた時に。 あまつさえ、それを爆弾として見立て、美術の棚から木っ端微塵に大爆発する丸善を想像して、愉快な気持ちを得た時に。 あの小説を最後まで読んだ時、私は一つの感想を得た。 「えたいの知れない不吉な塊」とはつまり、主人公自身の事ではないのか、と。 「……」 その感想は、周囲から酷く否定されたのを記憶している。 妄想が過ぎるとすら言われた。 作品のモチーフたる檸檬の歌「秘やかな楽しみ」からして、そのような話ではないと。 まさに、お前のような妄想家が狂人芝居を演じた滑稽な姿を、作家が美しい文章で書いたにすぎないと。 だが、小説一つに区切っての感想など人それぞれであろう。 私の短編小説「檸檬」に対する感想は変わらない。 あの小説の主人公たる「私」は、この世で本当に不吉な塊とは、自分自身であると理解していたのではないか。 「見すぼらしくて美しいもの」に強く引き付けられたのは、世渡りままならず、金もない世の中で、本当に美しい物を見出そうとしていたのではないか。 そして、作中で見出した最も美しい物に対する結末は――。 「今回の犯人である、座長に当てはめるとな」 救われない。 私自身の妄想に過ぎないが。 どうにも救われない。 出自に恵まれず、自助努力もままならぬ被差別民の旅団長にして、現在の歌劇団座長。 彼女は、この世で本当に邪悪な塊は、自分自身であることを微かに理解しており。 彼女が、どうにもならぬ世の中で見つけた最高に美しいものとは、ロベルト様そのもので。 ロベルト様を象徴する麗しいローズガーデンのバラに対し、彼女は「すべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さ」を見出してしまった。 彼女は本当に、ロベルト様を害するつもりなどなかったのだ。 ただ、檸檬のように爆発させてしまいたかった。 手に入らぬこの世の美しい物全てを、美しいそれを起点として粉々に破壊してしまいたかった。 そのような、悲しい空想だけがあった。 「……」 だが、現実に起きてしまった。 それだけだ。 それだけの事では、ないのだろうかと考える。 目を瞑り、呟いた。 「妄想にすぎない」 文学青年であった、前世における、かつての自分を思い出す。 若かった。 現実など知らなかった。 今では酷く後悔しているが、本に没頭し、妄想の中に生きており、親子の交流など乏しかった。 前世における父の顔も母の顔も、もはや思い出せぬ。 自分の愚かさと醜さに反吐が出そうであった。 前世でも、現世でも親に報いることが出来ていない。 そのような人物が、前世の私こと「――」であり、現世での「ファウスト・フォン・ポリドロ」であった。 知識の代わりに妄想を詰め込み、ただ流される様に生き続けてきた前世。 与えられた超人の力に良い気になって、母の深い愛情に気づけなかった現世。 なれの果てが、この身体である。 せめて、生きなければならない。 恥じぬよう、世の中を憂う暇など無いよう、ただひたすらに真善美を貫いて生きなければならない。 青い血としての騎士教育と、前世の日本人的道徳感が悪魔合体を果たした。 この誉れのままに、最期の最期まで、生き抜かなければならない。 それだけが唯一報いる手段だと考えているのだ。 「人間の醜さは変わらぬ。私もまた醜い」 もはや、あの座長も、わが身も同じ。 結論として、人はみな醜いのだ。 その事に気づけた事だけには感謝しよう。 座長が最後に残した忠告。 明るい道しか歩いた事の無いポリドロ卿には、この人々が持つ心の暗がりを知る事は、自らの身を守る上で役に立つであろう。 それを素直に受け止めようと思うのだ。 確かに、私は前世と現世における親からの愛情により、人々が持つ心の暗がりを知る事は無かったのだ。 「……」 だが、それはそれとして。 何度でも繰り返そう。 結論として、相互理解が不可能な例など、この世にはままあるのだ。 あるのだが。 殺されたロベルト様ならば、私に言われるまでもなく、そのような事は判っておられただろうとも、思えるのだ。 人の心をどこまでも読み通し、何もかもに配慮をし、重ね重ねの努力による真善美を貫いていた。 ただ、ひたすらに惜しいと思える。 殺されてしまった後の話を聞いてすら、そう感じるのだ。 生きているロベルト様に御会いする事が出来れば、この領主騎士として領地領民のために生きる私すら、心服させたかもしれない。 まあ、もはや有り得ぬ未来ではあるが。 「……」 雑考を止める。 これらの長々とした思考は、何もかもが無意味である。 誰もが望まぬ結果であり、実の所で今回の事件解決において救われたのは、地獄に落ちるのを心待ちにしていた座長ぐらいのもの。 王家も、ミハエル殿も、ヴェスパーマン家も、死を望む座長に取り残される放浪民達も、誰も得などしなかった。 後はただ一人。 このファウスト・フォン・ポリドロがどうするかのみである。 ぐだぐだと、くだらぬ妄想はどうでも良い。 それが許されるのは、かつて近代人として生きて来た、前世の私だけである。 現世における私ではない。 今の領主騎士として生きる、ファウスト・フォン・ポリドロが続けて良い妄想ではないのだ。 「……」 熱狂者として働かねばならなかった。 私は、必ずや、リーゼンロッテに。 いや、リーゼンロッテ「女王陛下」に心の安寧を届けると誓った。 その誓いは必ずや、果たさなければならなかった。 私は騎士である。 歌が、聞こえていた。 ミハエル殿が、そのソプラノ、女声の高い音域で、王宮の庭にて歌いだしたのである。 レクイエムであった。 レクイエムの意味は。 「安息を」 前世におけるラテン語で、その意味を示す。 女王陛下の心の安寧を、安息を、私は熱狂者としてあるがままに、求めなければならぬ。 事件解決など、リーゼンロッテ女王陛下が最初に望んだとおり、どうでも良いのだ。 あの美しい「リーゼンロッテ」という、私が一人の騎士として誓った女性への約束を守らねばならぬ。 この世界は、あべこべ世界である。 貞操観念が逆転しており、男たる私が女性の幸せを望むなど、ちぐはぐであった。 だが、知った事ではない。 私の男として、騎士としての誇りを見せつけてやる。 私には、女王陛下の心の安寧を、安息をもたらす方法など、いまだ考え付かぬ。 だが、この女王陛下の私室のドアを、ノックせぬわけにはいかぬのだ。 私は一騎当千の英傑としてではなく、ただの一人の騎士として、絶対に破れぬ女性への約束を果たすためにここに立っている。 覚悟せよ! ファウスト・フォン・ポリドロ!! ドアをノックする。 一撃である。 二度ではない、たった一度の返響であった。 たった一度のドアノックを行い、立ち尽くす。 「入れ」 リーゼンロッテ女王陛下の一言は、ただの行動を要求していた。 ドアを開き、その中へと入る。 明かりは僅か。 蜜蝋によって作られたロウソクが僅かな明かりを、室内を照らしていた。 床には空となったワイン瓶が転がっていた。 ――食事は、取っておられるのか。 心配するが、そのような事を質問するまでもなかった。 リーゼンロッテ女王陛下は、?せ細っておられたのだ。 この数日の間、満足のいく食事など取っておられるはずもない。 食事を絶った、もはや満足に行えぬ、苦悩の末の姿であった。 「――よい、何も語るな。何も無かった。何も無かったのだ。有り得て良いはずがないのだ。私の夫が、この世で一番愛した男がこの世で為した事が。何もかもが、無駄であった愚かな男であるなどと」 「報告いたします!」 私は、この先を語る権利があるのか? 疑問を抱きながら、語らぬわけにもいかぬのだ。 女王陛下は懊悩の果ての末に、今にも死んでしまいそうであるが。 たとえ、その爪で顔面を引っかかれようとも。 ワイン瓶で酷く殴打されようとも。 これだけは、真実だけは、告げぬわけにもいかぬ。 「犯人は――放浪民の座長でありました。もちろん、彼女に殺意など有りませぬ。無かったのです。彼女が穢したかったのはロベルト様の生命ではありませぬ。彼女が穢したかったのは――」 「薔薇園、つまり、ロベルトが侍童の時分から積み上げてきたもの。その善にして美である、全てであったと発言するつもりか」 憔悴していた。 ?せ衰えておられたのだ。 長髪の赤毛は輝きを失っており、目の周りは酷く黒ずんでおり、身体の芯は痩せ細っている。 調査を行った、この数日の間、ワイン以外の何も口にしていないのであろう。 それを口にしながら、私の発言から、ずっと考えておられたのであろう。 ずっと、ずっと。 この5年間もの期間、考えておられたのだ。 犯人が放浪民の可能性すら、考えておられたのかもしれない。 だが、否定した。 何の利益も無い、それだけは有り得ないし。 有ってはならない事であると。 だが。 「発言致します。自白をしました。犯人は――放浪民の座長でありました。今夜にて、自裁を要求しました。今頃、毒を呷っている事でありましょう」 「――」 声にもならぬ。 リーゼンロッテ女王陛下が、声にもならぬ悲鳴を上げた。 後悔する。 私とて、愚かな私とて、一手一手に、その選択を誤った事ぐらいは判るのだ。 私は今、選択肢を明らかに間違えたのだ。 リーゼンロッテ女王陛下が、手に持っていたワイン瓶を、私の頭に投げつける。 その投擲は、私の額にて破砕し、超人より強度の弱い一撃は、無為な破片となって床に落ちていった。 せめて、痛打の一撃も私に加えてくれれば、リーゼンロッテ女王陛下の心の慰めにもなったかもしれない。 無意味であった一撃を見やり、苦渋に満ちた顔で、そう考える。 「これならば、真実などいらなかった! お前は、何を考えて、このような事をしてくれたのだ!」 酷く、痛烈な一言であった。 ワイン瓶による一撃など、もはや意味もない。 リーゼンロッテ女王陛下の声は、それ以上の悲痛に満ちていたのだ。 第83話 どうか、私とワルツを 判っている。 何もかも、私が始めた物語であった。 私がファウストに事件の解決を依頼し、ファウストはそれに答えた。 心の底から騎士として、あるがままに熱狂者としての忠誠を尽くし、犯罪が起きる可能性の全てを潰して調査を行った。 その結果が、これであった。 真実は、審らかとなったのだ。 誰が真実を望んだのか。 それは、私以外の何物でもない。 「――」 顔は。 私の顔は、酷く醜く歪んでいるのだろうか。 憎悪とも怒りとも近いが、決定的に違う。 神聖グステン帝国選帝侯にして、アンハルト王国の女王ではない。 アナスタシアやヴァリエールの母親としてでも、もはやない。 公人とも私人と違う、何か得体のしれぬ化物のような物となっているのではないか。 何もかもを保てない、直隠しにしてきたリーゼンロッテの本性が現れているのではないか。 それを恐れている。 理解はしている。 理解はしているのだ。 ファウストが苦渋の顔で口にしたのは、私の望んだ真実ではなかったのだ。 私のこれからの人生は。 この虚しい現実だけを抱えて生きて行かねばなるまい。 運命というものが、あのロベルトを酷く愚弄した事実を受け止めなければならない。 「ファウストよ。私は――」 ファウストは、ずっと苦渋の表情を浮かべている。 今回の事件解決において、ファウストが、最大限の努力を私に対して行った事に対し。 私はそれに対し、何を与えた? ワイン瓶を、怒りのままに頭へと投げつけた。 私がファウストに与えたのは、ただそれだけ。 何か、それを挽回する言葉を口にしなければならなかった。 謝罪の言葉か? 褒美の言葉か? 私が、口に出来たのは。 「何を望む? ファウスト。お前の褒美を言え」 褒美の言葉であった。 謝罪などはファウストも、もはや望んではいまい。 リーゼンロッテという人物は、もはや破綻した。 いくら誤魔化そうとすれど、先ほどの狂態は覆せぬ。 このように醜い私の事など、もはや温厚なるファウストも嫌いになってしまったであろう。 もう、これで終わりにしてしまおう。 後の私の人生などは、オマケのようなものだ。 アナスタシアが王都に帰れば、王位を譲ってしまおう。 私は、引きこもる。 王宮に引きこもってしまい、後は拙い手つきで、ロベルトの遺したバラ園を維持する事としよう。 女王としての幕を閉じ、隠棲するのだ。 その決意が定まる。 微笑を浮かべながら、ファウストに視線をやる。 「……」 ただ手を、私の目の前に差し出して。 こう呟いた。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿が、騎士として求めた褒美の内容は、ただ一つ。 「どうか、私とワルツを」 ミハエルが、王宮の庭で歌っている。 だが、あの子が歌っているのは、レクイエムであった。 円舞曲などではない。 死者への鎮魂歌であった。 金を。 宝物庫から、その手で一抱き出来るだけの金銀財宝を、抱えて領地に帰ればよい。 それが何よりの、ファウストへの褒美だと考えていたが。 「お前は何を言っているのだ? 褒美はやろう。その手で一抱き出来るだけの金銀財宝を――」 「金など、いりませぬ。金銀財宝などいりませぬ。私は領民のためでもなく、領地のためでもなく、今回は私の意思でこの事件の解決に挑みました。その褒美に私が望むものはただ一つ」 手を差し出している。 その手は、本当に金などに興味はなく、握る相手を求めていた。 「どうか、私とワルツを」 朴訥に呟く。 その声に、少し笑う。 「ファウストよ。お前は踊れるのか?」 「一応は教養として、母マリアンヌから。もっとも、呼ばれもせぬパーティーでは一度も披露した事なく、この7,8年踊った記憶はありませぬ」 要するに、ファウストのダンスにおける教養は死んでいる。 社交場の基礎となるマナーを除いてのそれは、完全に錆びついているだろう。 それを褒美としたいと、私と踊る事を褒美としたいと言うのだ。 ファウストは、何を望んでいる? 手が。 手が、私の眼前に差し出されている。 私は、震えながら、その手を握る。 居室の硝子戸から光が入ってくる。 僅かに月が欠けた夜であった。 ファウストの皮膚は頑丈で、皮膚も皮下組織も厚く、特にその手は鍛錬でゴツゴツとしている。 腕には血管が浮き出ており、その管を循っている血が透いて見えるようであった。 超人としての質と、幼き頃から鍛えられた環境がそうさせた。 ロベルトを思い出す。 ファウストの筋骨隆々の身体、太い腕、ゴツゴツとした手を、この手が触れあった感触で思い出す。 ああ、ファウストはロベルトとは違う。 しかし、時折どうしようもないほどに、あの人を思い出させるのだ。 「褒美である。踊ろうか」 「はい」 力が、全身から抜けている。 ここ数日、ロクに食事も取っておらぬからだ。 酔いに任せて、身体はふらふらとしている。 なれど、この身はアンハルト王族にして、この麗しき赤毛を誇る超人一族である。 狂戦士の血を引く、戦場では物狂いのように走り回る一族の、その当主であった。 酔いによるふらつきなど、2,3度も深呼吸すれば失せた。 ――踊りを。 世の男どもからは実は酷く評判が悪いもの。 なにせ体力もなければ数も少ない男から見れば、大量の女達に弄ばれ、散々に振り回されるのが舞踏祭だ。 だからこそ、キチンと「言葉」で会話する事。 相手の体力に気を遣い「リード」する事、断られた時には素直に応じる「エチケット」が重要事項となる。 ファウストにおいては、両方必要なかったが。 ただ一つ、問題が有った。 「下手糞だな」 「でしょうね」 ファウストは酷く怪しい足つきであった。 無論、言うまでもなく私はその技量不足を補助しようとしたが。 さすがに、素人も同然の動きでは、どうにもならなかった。 武の超人たるファウストにも、出来る事と出来ない事がある。 あるはずなのだ。 ファウストは、もはや何一つ呟かない。 静かであった。 広い我が居室にて、男と女の超人二人、無言のステップが続く。 何か、音が欲しかった。 背後に聞こえるレクイエム以外の何かの音を。 「ファウストよ、このワルツには何の意味がある」 尋ねる。 耐えかねて、口に出した。 ファウストはしばらく黙り込んでいる。 足を合わせる。 「何もありません」 頬を近づけるが、視線を合わせない。 何か辛いものを噛んだような顔で、ファウストは呟いた。 「もはや、このファウストなる騎士が、何を女王陛下に言えるというのでしょう。私は、結局のところ万能には程遠い、武骨な超人にすぎませぬ」 ファウストへの返事は、無言にて行った。 ファウストは何もかもが下手糞であった。 手を握り合う強さは卵を握る様な繊細さではなく、力強く。 走る歩幅はその巨躯から酷く大きく、パートナーたるの歩幅とあっていない。 何より、テンポが悪い。 そもそも、レクイエムに合わせて踊る事が無茶であるが。 まあ、何にせよ下手糞だった。 しかし、これは褒美である。 もう止めようなどとも言えぬ。 「なるほど、お前はどこまでも武骨であるな」 結局のところ、ファウスト・フォン・ポリドロはどこまでも直情的であるのだ。 この目の前の男が、一人の騎士が考えている事は、どうにかして。 どうにかして、私を。 この目の前のリーゼンロッテなる女の心を救えないかだけを考えていた。 私が以前に口にした、心の安寧を愚直に考えていたのだ。 「――」 お前はかつて、ある9歳児の幼子のために、床に頭を擦り付けた。 ヴィレンドルフ女王の心を救おうと、自分の心の全てを明かした。 将来訪れる脅威から何もかもを守ろうと、ゲッシュを誓った。 それで、今まではどうにかなってきた。 だがなあ、今回ばかりはどうにもならぬのだよ。 下手糞なワルツ。 それを踊ったところで、私の心はもはや晴れない。 お前はその頭で、お前なりに必死に考えたとは思うのだ。 何の解決策も見当たらぬが、せめて気晴らしになれば、と。 お前は確かに事件を解決したが、私の心の安寧ばかりはどうにも得られぬだろう。 だが、それでよいではないか。 誰も彼もを救おうとして、死ぬ馬鹿な男よりも――。 「嗚呼」 そんな馬鹿な男がいた。 たった一人だけ、この世に、確かにいたのだ。 あの日、あの時、私とロベルト宛に神聖グステン帝国皇帝からの書状。 放浪民族における政策、「放浪民族を殺しても基本的には罪に問われないこと」とする案を告げられた時に。 私は、公人として、使者に対しては、こう答えた。 よろしい、と。 何もかもを是認した。 だって、仕方ないし、知った事ではないのだ。 私が守るべきものは、他にある。 最優先すべきものは、他にあるのだ。 それはアンハルトという王国であり、血を繋いできた王家であり、それを支える貴族、国、そこに住む領邦民。 全ての責任があり、国に属さぬ放浪民族などは二の次どころか、最下位ですらない。 どこで死のうが構わんが、耕す土が汚れるから、アンハルトで死んでくれるな。 そのようにすら思っていなければ、女王とは誰も認めぬ。 嘆きを、口にする。 「ロベルトは厳格なリアリストでもあった。出来る事と出来ない事を踏まえていた」 突然すぎて何の事やらファウストには判らぬだろうが、私の口は止まらぬ。 「なまじっか、大抵の事は何とか出来る能力を持っていたのが拙かった。私は一度、ロベルトに問われたのだよ。アンハルト領内の放浪民族のみ、救ってもよいかと。私は強く反対した。それだけしかできなかったのだ。だって、ロベルトならば、その範囲を救う事ぐらいは出来たのだから」 あれは愚かな夫であった、と。 もはや、そう思わなければならないのだろうか。 だって、もうアンハルト王家の王配に相応しくない。 庇護した相手に殺されてしまった愚か者である。 目を閉じ、ロベルトの顔を思い浮べる。 顔を隠そうとする。 言葉は漏れども、この疵を直隠しにする事は、もはや出来そうになかった。 公人としての、表情が繕えないのだ。 だが、ファウストと結んだ手は、どうも指が絡み合ってほぐれぬ。 ファウストが、その膂力を以って掴み、放してくれないのだ。 卵を掴むような力加減ではなく、下手糞な力加減のホールド。 手を解くのを諦め、顔を、ファウストの胸にぶつける事で隠す。 「この世の全てが、ロベルトの考える正しいか正しくないかで、思う通りになればよかったのに。優しくあればよかったのに」 そんな都合の良い世界など、この世の何処にもありはしなかった。 私は神聖グステン皇帝陛下の言う事が効果的な案だと思っていたし、そうしようと思った。 「ロベルトは酷くリアリストであった。でも、だからこの世が嫌いだなどと言うねじくれた男ではなかった。あの薔薇園を造ったように、恵まれぬ環境の中で光る人材を拾い上げようと、せめて『どうにかならぬのか』と最初に考える男であったよ。異常な程に賢く、人の心に敏感であった」 私は反対した。 「ここ数日、酒に酔い、ベッドに沈みながら、ロベルトの夢を見る。放浪民族の絶滅政策を聞き『どうにかならぬのか』と発言したロベルトに全身全霊で反対した時の夢を」 それが、却っていけなかった。 「ロベルトは人の心に敏感であり、会話の最中に気付いてしまった。別に、私ことリーゼンロッテは、公人ではない私人たる私は、放浪民族を殺したいとは思っておらぬ。むしろ憐れんですらいると」 私は何故、あのような事を許してしまったのだ。 結局は、放浪民族でもロベルトでもなく、このリーゼンロッテのせいなのだ。 結局は、弱い自分の心の隙を、ロベルトが見抜いてしまった。 「もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、ちゃんと夫に教えるべきだった。ロベルトは優しい夫で、本当に誰にも優しかった。そして、私を愛してくれていた。だから――」 頬に一筋、落涙する。 口にする。 ロベルトの前では吐いた事もない弱音を、ファウストの前で口にする。 このような言葉を、ちゃんとロベルトの前で言うべきだった。 そうだ、ロベルトは確かに、放浪民族を憐れんで救おうとしていた。 だけど、一番救おうとしたのは。 私の心であった。 「ロベルトを殺したのは私だ。ロベルトは、私がそのような事はできればしたくないという私の本音に気づいて、私がもはや触れすらできぬよう。ロベルト自らが、放浪民族に対する最終的解決という火中に手を突っ込んだのだ」 ロベルトは、確かに私を愛してくれていたのだ。 この世の闇なる部分から私を守れればと、夢想していたかのような男である。 私は、そのロベルトの夢を、この数日ずっと見ている。 「私には、ロベルト様の事が判りかねます。リーゼンロッテの事を本当に守ろうと考えるならば、何もかもをいらないと切り捨てるべきであったとすら考えます」 「であろうな。結果から見ればそうだ。お前が正しい」 ファウストによる、本音かどうかもわからぬ、その慰めのような批判。 私もそうして欲しかった。 何もかも失ってしまうぐらいならば、そうであった。 「だが、私はあの、厳格なリアリストにして優しいという、ちぐはぐなロベルトに惚れ抜いていたのだよ。お前がマルティナを救ったように、我が国の利益は考えど、それは別としてヴィレンドルフ女王カタリナの心を見事斬ったように。お前を侮蔑視するこの国を守るために、狂うた馬のように働き続けた姿が、本当によく似ていた」 ああ、そうだ。 結局、ファウストとロベルトが似ている根っこは、やはり、その容姿ではないのだ。 光り輝く、その心の生き様だ。 魂の炎だ。 「……嗚呼」 あの人が、私の夫が残したもの。 灰となっても残るもの。 それを少しずつ思い出した。 アナスタシアとヴァリエールの二人娘。 あの人が見出した優秀な部下達、バラ園、その他諸々。 それはもう、私がどうしてしまおうが残るであろう。 だが、一つだけ、私がやり残したことが。 私だけにしかどうにもできぬことがあると、やがて気づいた。 「何故、ミハエルは歌っているのだ」 やっと、思い出した。 何故、あの子の事を今の今まで忘れていたのだ。 腑抜けだ、私は。 何故、あの子はレクイエムなど歌っている。 「陛下」 「あの子は! ロベルトが心の底から哀れに思い、我が宮廷に迎え入れた子は何故レクイエムなど歌っている! 答えよファウスト!!」 ファウスト・フォン・ポリドロは本来雄弁ではない。 時折、熱狂のままに言葉を吐き出すが、落ち着いたファウストはそうではない。 私はそのファウストがやがて、ポツリポツリと話し出す言葉を聞いた。 なるほど。 馬鹿が。 あのロベルトが、息子のように大事にしていたミハエルの死など望む物か。 私は、もはや自分の今後など忘れたように、王宮の庭へと飛び出して行った。 驚愕しながら私の後に続く、ファウストを連れて。 第84話 祝福されますように 自分の非才な身が、酷く憂鬱であった。 何もできなかったのだ。 何もだ。 ミハエル殿が、歌っている。 甘く蕩ける様な、甘美で、官能的なソプラノで。 これが人生最後の曲であると、声高らかに歌っているのだ。 私が今回の事件において、与えられた立場は。 全ての、この事件解決に対しての見届け人である。 ポリドロ卿が仰られたのだ。 「ミハエル殿が、私の許可が降りるまで自害しないように。歌い続ける様に。最後まで見張っていて欲しい」 そう私に言い含めた。 だから、私が最後にできるのは、ミハエル殿の歌を聞き続ける事である。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」 ミハエル殿が、もはや狂うたように歌っている。 「世の罪を除き給う神羊」 ひたすらに歌っているのだ。 「彼等に永久に安息を与え給え」 これは、私への罰と言えるだろう。 今回の事件において、何も為し得なかった私への、罰だと理解していた。 ポリドロ卿のような深い思慮と、その発想に届かぬ、ヴェスパーマン家への罰。 これから死に行く、ミハエル殿の姿を眺めながら。 私はただ、この事件の終わりを待つのだ。 やがて――。 ひっそりと。 それでいて、ミハエル殿にはっきりと判るように。 リーゼンロッテ女王陛下とポリドロ卿が、ミハエル殿が歌うローズガーデンへと、姿を現した。 「ミハエル、死ぬつもりか」 「さようでございます。リーゼンロッテ女王陛下におかれましては、気を取り戻されたようで安心しました」 これで、何もかもが終わり。 ミハエル殿が、女王陛下の様子を眺め、その姿が安寧を迎えたと確信し。 その笑顔を迎えた時を以てして。 ミハエル殿の自裁が、確定したのだ。 今頃、放浪民族の座長は自裁をしているであろう。 もはや、どうでも良い話であるが。 「本当に――死ぬつもりか、ミハエル」 「そうなります。おさらばです、リーゼンロッテ女王陛下」 「ならば最後に一つ、小話を聞いていけ。ロベルトが生前、呟いた事についてだ」 あっさりと。 死を望んでいる、ミハエル殿の様子に気遣う事は無く。 あっさりとリーゼンロッテ女王陛下は、ロベルト様に関する一つの小話を口にした。 「私は以前、三人目の子が欲しくないかと。ロベルトに対して聞いたことがあった」 「ほう」 それはミハエル殿の興味を、少し惹いたようであった。 それがどのような話であれ、ミハエル殿は、ロベルト様の事であれば聞きたがったであろうが。 「もう、要らぬと言われたのだよ」 リーゼンロッテ女王陛下は、少し痩せ細った姿で。 幽玄の様な、消極的な美に溢れた姿で、小さく、それでいて皆に聞こえる様に呟いた。 「男の子が、一人欲しかった。だがミハエルが居るから、もう要らぬ、と」 「――」 ミハエル殿が、少しだけ肩を動かして反応し。 それでいて、拍子抜けしたような表情で、答えた。 「それだけでございますか?」 「それだけだ」 何故、死を迎える私に対して、そのような事を話すのか。 ――その時のミハエル殿は、そういった疑問を抱えたようであった。 だが、どうという事も無いと。 ミハエル殿は、そう感じた様子で、口を開く。 「本当に、それだけの話でありますか?」 「それだけなのだ。お前が死を望んでいる事は、以前から知っている。死にたければ死ぬがよい。さらばだ、ミハエルよ」 女王陛下は、あっさりと、ミハエル殿の死を平然と口にするのだ。 酷く、冷たい人だ。 その時は、そう感じた。 「それだけであれば、おさらばです。リーゼンロッテ様、ポリドロ卿、そして、ヴェスパーマン卿」 それに対し、ミハエル殿も同様に、酷く冷たく答えたと思う。 ポリドロ卿は、酷く顔を苦渋に顰めていた。 どうにも、その後の展開を読めていなかったようなのだ。 ポリドロ卿は直情的ゆえに、人の心を時に激しく動かすであろう。 だが、変じてそれは、策略などにはとうと向かぬ。 そういったお人柄であるのだ。 だが、ミハエル殿はそれを好んでいたのであろう。 「おさらばです。ポリドロ卿。最後に貴方に御会い出来て、私は幸せでありました」 笑顔で、ポリドロ卿に言葉を投げかける。 ポリドロ卿が、コクリと頷く。 それに別れを告げ。 ミハエル殿が、自らの心臓を突こうとする。 ロベルト様から、子供の頃に与えられ、自らの母親を突き殺したというナイフであった。 だが。 私は少しだけ、空気というものが、今回の事件を通して、読めるようになったのだ。 ミハエル殿は。 「――」 自らの心臓を、もはや貫く事ができない。 「――何故」 嗚呼、そうだ。 呪っておられるのだ。 リーゼンロッテ女王陛下は、呪っておられるのだ。 「御慈悲をもて我を救い給え!」 悲鳴のような歌であった。 ミハエル殿が、レクイエムを歌う。 その歌声は、もはやソプラノではない。 男と女の声が相混ざった、全ての人なる悲鳴そのものであった。 「主よ、我祈祷(わがいのり)を聴き容れ給え!!」 ミハエル殿は、神など信じていない。 上っ面の、信仰だけを張り付けていた。 それは自分に対し、民族差別や迫害などを許した神などではなく、もはや別なるものを信じていたからだ。 「御前に俯伏し灰の如く碎かれたる心をもて、偏に希い奉る」 たった一つの、自分を救い、自分の総てを肯定してくれた。 たった一つの存在。 「嗚呼、我終遠(わがおわり)を計い給え」 ロベルト様の存在を以てして、リーゼンロッテ女王陛下は、ミハエル殿を呪っておられた。 「――」 死ぬことなど、許さないという呪いである。 祈りの言葉を何度も口にし、その心臓をナイフを突き刺そうとも。 ミハエル殿は、自らの心臓を突き立てる事が出来ない。 悲鳴が上がった。 男の声でもなく、女の声でもなく、だが、それゆえに全ての人の心を?き乱す言葉であった。 自分の心臓ではなく。 ミハエル殿は、リーゼンロッテ女王陛下に、手にしたナイフの刃先を向けた。 「貴女は! 貴女という人は!!」 ミハエル殿の悲鳴に対し、女王陛下は、何も言わずに無表情を返す事で告げた。 先ほど女王陛下は一言、たった一言を呟いただけで。 リーゼンロッテ女王陛下は、呪っておられたのだ。 ロベルト様の望みを断る事など、許さないと。 ロベルト様の愛息たるミハエル殿は、この先の人生に幸せを見つけるべきであり、自裁することなど許さないと。 「女王陛下といえ、あのロベルト様の愛した女とて、許される事と許されない事がある!! 何故、あのような言葉を呟いた!! 私が、私があのロベルト様の息子であるなどと――」 「奇遇だな、ミハエル。私にも許せない事があるのだ。ああ、天地がひっくり返っても許されぬとも。あのロベルトの、お前への祈りを無視して。何もかも判らぬまま、お前への愛情を理解せぬまま、ロベルトの許へ行くなどと」 知ってしまった以上、自殺はできない。 ミハエル殿に対し。 リーゼンロッテ女王陛下は、静かに呪いの言葉を呟いたのだ。 お前は、お前が愛したロベルト様の愛息であると。 ミハエル殿は。 ミハエル殿は、自分の総てを肯定してくれた、自分の総てを愛してくれていた、と。 ロベルト様の息子であると認めた、その自身に対して。 その心臓に、ナイフを突き立てることができないのだ。 ロベルト様ならば何があっても、その愛息の死など望まないと。 ミハエル殿は、それを理解してしまったのだ。 「貴女は嘘をついている! ロベルト様が、そんな事を仰ったはずがあるまい! 私を死なせたくないなどと、身勝手な判断で嘘をついた!!」 悲鳴が続いている。 ミハエル殿の、何もかもを呪う悲鳴が続いていた。 自然、頬に涙が零れ落ちた。 ミハエル殿が、何をしたと言うのであろう。 死なせてやれと思うのだ。 この場を用意したポリドロ卿でさえ、リーゼンロッテ女王陛下には何も言えなかったと思うのだ。 ミハエル殿は、何か悪いことしたか? この世に対する罪悪を働いたか? 被差別民たる放浪民族として生まれ、その放浪民族の旅団が手にする路銀を稼ぐために「要らぬ」と言われ睾丸を摘出され、女とも男とも判らぬ、酷く甘い、官能的な声色。 「たかがそれだけ」のために、その人生を奪われた人。 それを救ったロベルト様に、その復讐を認められ、これからの生を肯定され、たった2年もしない内に喪ってしまった男。 それも、自分と同じ民族の手によって。 地獄ではないか。 この世の地獄を生きてきたミハエル殿など、もう死なせてやれ。 リーゼンロッテ女王陛下でもなく、当然、この世の理屈を、空気を理解できなかった私などでもなく。 酷く、お優しいポリドロ卿ですらなく、当然、放浪民族など皆死んでしまえば良いと思っていたアンハルトの領邦民たち。 それですら、全てを知る人であれば、同じ慈悲を与えると思う。 それが、先ほどもミハエル殿が口にした。 その一句を諳んじる。 「……我終遠(わがおわり)を計い給え」 悲鳴そのものを、信じてもおらぬ神へと願った言葉なのだ。 死なせてやれ。 そう思う。 いや、願いすらしよう。 私は涙を一筋、頬に流した。 ミハエル殿の心など、今まで一度も考えた事すらないヴェスパーマン家の次女。 いや、かつて長女であった、あの気狂いザビ―ネですら、こう女王陛下に嘆願しよう。 もう、死なせてやれと。 「嘘などついていない」 「嘘だ! 貴女とて、この世に一人でもう生きたくもないから、その道連れを!!」 「私には、もうポリドロ卿がおる」 告白であった。 ポリドロ卿に対する、愛の告白であった。 私はそう感じたが、同時に理解もした。 それすら女王陛下は、ミハエル殿の死を食い止めるための呪いに利用しようとしていた。 ミハエル殿の奥底に眠る感情、激発を煽ろうとしていた。 「何度でも言おう。私にはポリドロ卿がいるのだ」 「ロベルト様は!」 怒りに満ちた声であった。 ミハエル殿は、それを発しながら、女王陛下に詰め寄ろうとする。 だが、出来ない。 あまりにも――。 「私の心の底には、ロベルトがずっといる。死ぬまでこのままであろう。いや、天国に行こうが、地獄に落ちようが、このままである。私は、ファウストに。ファウスト・フォン・ポリドロへの好意を抱いてなお、片時もロベルトの事など忘れた事はないのだ。愛欲すら、綯い交ぜしておる」 あまりにも、リーゼンロッテ女王陛下は、全てを告白しておられた。 全てが本音であると、誰もが理解できる声であった。 「私は、ロベルトを愛した故に、お前に呪いの言葉を吐いている。どうしても、そうせざる得ないのだ。お前は、ロベルトを愛していたか」 「貴女に、何が!」 「私は愛していた。何度でも言う。ずっと、このままだ。もう、何もかもがずっとこのままだ。私はこの世の何もかもが憂鬱と感じていた少女時代に、ロベルトと会った。どうも他の侍童に馴染まぬが。じゃあ嫌われているかと言うと、そうではない。その長身で筋骨隆々の容姿を馬鹿にされているかと思えば、その揶揄に本気で相槌を打って同意するような者が見つかろうものなら、さっきまで侮蔑の声を発していた者が激怒を始めると言う」 理不尽そのものの存在。 母親に聞けば、今考えてもよく判らぬが、素敵な人物であったという。 自分があの風貌を愛情混じりに揶揄するのは良いが、他人に言われると酷く腹が立つ。 そう人に思わせる人柄であったと。 「わけもわからぬ男であった。酷く、人間的魅力に溢れた男であったのだ。ああ、そうだな。私はロベルトとファウストが似ているかと思ったが、やはり違うのだな。そう、違うのだ。それぞれに良いところはあれど、違う人間なのだ」 「――陛下」 「私は、どちらも愛する事にした。今までの人生も、これからの人生も、何もかもをそうする事にしたのだ。まあ、お前もそうしろとまでは言わぬよ」 語り。 リーゼンロッテ女王陛下が、その理念も、本音も、嘘も、ロベルト様への愛も、ポリドロ卿への愛も。 何もかもを綯い交ぜにした語りであった。 「言わぬが。お前も判っておろう。ロベルトは、お前の死など、何があろうとも望んでおらぬのだ」 「私は、もう、何もかもが、嫌に――」 「幸せになれ。ロベルトが、天国で望んでいる事は、たったの一つだけであるのだ」 魔法使いでない、それでいて、そこら辺の魔法使いなど束になっても叶わぬ。 神聖グステン帝国選帝侯、アンハルト女王としての存在の総て、慈愛の総てを込めた。 たった一つの呪い語りであるのだ。 「ミハエルが祝福されますように」 もはや死にたいと望むミハエル殿に対し、ロベルト様に対し、人生の総てを縁とした男に対し。 何もかもを失った男に対して。 「ロベルトは、それだけを望んでいるだろう」 「……何も残っていない」 悲鳴。 祝福の言葉が、その呪いが、何に通じよう。 生きたところで、今後何が得られるのかという悲鳴であった。 「私に、何が残って――」 「私は一つの決意をした。お前にだけは一つ、後で話そうと思うのだ。この場では、話さぬがな。その一つの決意を聞くが良い」 私とポリドロ卿。 その二人に目をやりながら、リーゼンロッテ女王陛下は微笑んだ。 今まで、目にしたことの無いような、緩やかな微笑みであった。 「何もかもが。これ一つで、何もかもが救われるような気がするのだ。まあ。世間の誰にも理解できぬかもしれぬが。心待ちにしておれ」 二人に目をやった、と言いはしたが。 実際の所、私には少しばかり視線をくれただけであり、後はポリドロ卿に視線を固定している。 何もかも、さっぱりとしたような笑顔。 まあ、結論として。 リーゼンロッテ女王陛下は、この場を支配したのだ。 ポリドロ卿が密かに願っていたであろう、ミハエル殿の命を救う事。 ミハエル殿による死への嘆願を一時取り除く事。 私、ヴェスパーマン家が立会人として望んでいる、この事件の真なる解決を。 少なくとも一応において、リーゼンロッテ女王陛下は為されたのだ。 ならば、私が何かを立会人として呟く事など許されぬ。 このまま、ミハエル殿が祝福されますように。 少しばかり空気が読めるようになったマリーナ・フォン・ヴェスパーマンとしてはただただ、それを望むのであった。 第85話 強く儚いものたち 花束を。 薔薇の花束を手に、王族の墓へと歩いていく。 きっと、呪われたものなのだ。 リーゼンロッテ女王陛下も、ミハエル殿も、きっと呪われてしまったのだ。 ロベルト様の深い愛に、呪われてしまったのだ。 だから、あの二人は未だに生きている。 女王陛下は、この世に少しばかり。 ミハエル殿は、何もかもに嫌気がさしながらも、生きている。 「ロベルト様にはお聞きしたい事がある」 墓前への道中にて、一人呟く。 あまりにも。 あまりにも、頭が良すぎる。 なるほど、今は我がポリドロ領にいるマルティナのように、この世界には頭脳明晰なる超人もいる。 レオナルド・ダ・ヴィンチのように、史実における万能の超人もいるであろう。 だが。 その感性は、どうにも。 この色々とちぐはぐで狂った世界においてすら、奇妙奇天烈なものである。 まるで、私のようにだ。 墓前に辿り着いた。 だから、尋ねよう。 墓から答えが返ってこない事は、理解しているが。 「貴方は同郷人だったのですか?」 同じ故郷という意味。 厳密には、それではない。 少なくとも行動においては、日本人のそれとは違う。 最低限、前世にて「私が生きた時代」はそうではなかったのだ。 自助努力ままならぬ放浪民族への積極的格差是正措置を実施するなど、明らかに一般的日本人の行動力ではなかろう。 私ならば、放浪民族など完全に見捨てるし、領内に入って領民に何か悪さをやらかそうものならば即座に殺すのだ。 青い血としての騎士教育と、前世の日本人的道徳感が悪魔合体を果たした観念のそれ。 それを以てすら、救うなどと言う考えには至らないのだ。 私がこのちぐはぐな世界に転生したように、ロベルト様も転生していた可能性は決してゼロではない。 「……」 かつて、前世の史実における『女帝』は、放浪民族問題における最終的解決。 啓蒙思想がゆえの、近代化政策からくる人道的な定住化を選んだ。 それは、後世において一定層から否定されている。 当時の前世から見て、それが如何に人道的であったところで意味を為さない。 失敗という結果と、その方法において彼女は否定されているのだ。 文化の総てに理解を示さず、守らなかったと言う事で批判されるのだ。 当時の為政者や国家ができる限界や、その時代の価値観を考慮される事など無く。 あれが足りなかった。 これが足りなかった。 保護されるべき哀れな被差別民族に対して配慮が足りなかった。 そう批判をされる。 後世から批判されるのは『女帝』彼女自身の失敗というより、当時の自文化中心主義による啓蒙主義であり『女帝』は何も悪くない。 そう言う賢人も言おうが、私が前世で読んだ書籍に書かれるのは『女帝』はこんな酷い事をしたという批難のみである。 「後世の価値観においては否定されるのです。貴方は。ロベルトという人物はその時代の誰もがやらなかったよりも、むしろ行動した事で非難を受けるのです」 知っていたと思うのだ。 もし、ロベルト様が私と同じ同郷人であるならば、それは知っていたと思うのだ。 知っていて、厳格なリアリストとして、為るべきと為らない事を知りながら努力した。 これは、仮定である。 仮定であるとする。 なれば、何を考えていたのか、この現世におけるファウスト・フォン・ポリドロなる身にはどうにも判らぬ。 母マリアンヌにより産み落とされる事により、この世における存在を許された。 この一人の辺境領主騎士には理解しかねる。 成功したところで、批判される事には変わりない。 ロベルト様は非情なリアリストという点だけを論われ、後世において酷く批判されるのだ。 それは浅学非才なる、この身にすら理解できている。 である以上は、私などよりも英明たるロベルト様ならば、完全に理解できていたと私は考える。 その覚悟ですら、何もかもを、自分が行動する全てにおいて捧げたと言うのか。 あれ程までに、リーゼンロッテ女王陛下に愛されながら。 何もかもが判らぬ。 ロベルト様の為した、その行動原理が判らぬのだ。 その行動の結果として、死んでしまった。 ロベルト様は、自分が為した何もかもに裏切られた。 誰もがそう思うであろうが。 「……」 だが。 そう断じてしまうのには、どうにも無茶苦茶にロベルト様は「やり切った」感がある。 私は、リーゼンロッテ女王陛下は、ミハエル殿は、ヴェスパーマン卿は、この事件解決に対して自由に動けたか? 自由に動けたなら、ヴェスパーマン家がとうの昔に解決していたようにすら思えるのだ。 誰も彼もが、ロベルト様のご機嫌伺をしながらに、動いた感が残っている。 我々の行動は縛られていた気がするのだ。 何もかもが、ロベルト様の生前の行いのままに。 だからこそ同郷人たる私だけが、真実に辿り着けた。 「うん」 色々と考えはした、知らぬ。 ファウスト・フォン・ポリドロの、この身はそのような事を知らぬ。 散々、悩みはしたが、死人の声など耳には出来ぬ。 振り切ってしまおう。 何を考えたところで、ロベルト様が亡くなってしまった以上は真意などわからぬ。 花束を、墓前に捧げる。 「……」 結論として、このファウスト・フォン・ポリドロとしては、ロベルト様が判らぬ。 ロベルト様は、好き勝手に生き過ぎているのだ。 私には眩しすぎた。 数日前、ロベルト様の墓前に花束を供えることをリーゼンロッテ女王陛下に頼まれ、ここに訪れるまでに幾度も考えたのだが。 このまま考え続けると、気が狂ってしまう。 私がロベルト様に抱く、この感情は。 放浪民族の座長が、ロベルト様への悪意を抱いた構図にも似ていた。 あまりに眩しすぎると、このような感覚を得るのか。 「あの麗しいリーゼンロッテ女王陛下を悲しませ、悩ませてでも、やるべき事だったか?」 文句が口に出る。 知らぬ、と決めつけてしまいたいが、どうにも違和感があるのだ。 しっくりと来ない。 ロベルト様は、この真善美の全てを持っていた人間が、出会いさえすれば私すら心服せしめたであろう男が。 本当にやりたかったことは。 ――リーゼンロッテ女王陛下の独白を、思い出す。 本当にやりたかったこと、それは。 もはやロベルト様の前世にすら全く関係ないことであり。 「ひょっとして貴方、どうしても嫁さんが後世で悪く言われるのが嫌だっただけとか?」 酷く、最初は可能性が低いと思えた事。 その結論が、ふと口に出た。 それだけ。 本当に、それだけ? 自分が表舞台に出たのは、放浪民族に対する施策は全て王配ロベルトが行った事だと世間に示すためで。 その成果を自分の手柄と誇りたいどころか、後世においては批難されるであろうことを覚悟していて。 確かにそこに放浪民族に対する哀れみや、自分の持つ真善美からの制約は間違いなくあったろうが。 結局、世の中と、その時代にいる皆の全てを巻き込んで、無茶苦茶やったのは。 何もかもが、自分の妻に対する愛であったと。 「いや、そう考えれば、少なくとも私は……」 顎に手をやる。 何もかもが、惚れた女のためと考えれば、自然としっくりきた。 誰が認めずとも、私だけには。 ロベルト様は惚れた女が意に沿わぬ、放浪民族に対する絶滅政策を行うなど好かぬであろうし。 後世において、批難される事も嫌であった。 それだけ。 そうなるくらいなら、自分がやった方がマシだというのが、彼の導き出した結論だったのではないか。 ……無論、真実かどうかなど、判らぬ。 可能性は低いだろう。 私は前世において、妄想家であった。 思考が宙を舞っていると言われた。 だがまあ、ロベルト様ならば、このファウスト・フォン・ポリドロの思考なんぞはどうでも良いと仰るだろう。 「帰るか」 膝を叩く。 妄想を止めたくても、妄想が止まらぬ。 このアンハルト王配たるロベルト様には、ここ数日酷く悩まされるのだ。 貴方は何を考えていたのかという事に想いを馳せると、どうにも止まらなくなる。 だが、私はそろそろポリドロ領に帰らねばならぬ。 現実に戻るときが来たのだ。 「さようなら、ロベルト様。貴方が私にとって妄想上の人物そのままだとすれば――」 心服できたであろう。 騎士としての全てを捧げられたであろう。 まあ、ポリドロ領と言う領地と領民に縛られる辺境領主騎士の身の上を前提に置いた上であるがね。 くすり、と笑う。 ともあれ、何を言えども、まあ貴方の事は嫌いになりきれなかった。 ファウスト・フォン・ポリドロは、結論としてあるそれだけを置いて、その場を去る事にした。 ※ 何言ってんだババア。 そう思う。 「あの、もう一度言ってくださいますか?」 「まあ、何度でも構わんが。聞こえてなかったのか?」 「私は最近色々な事が有り過ぎて、その疲れからきたものと自分の耳を疑っているのです」 アンハルト宮殿、女王陛下の居室。 ポリドロ卿が、その王家の墓前に出向いている間、私ことミハエルとリーゼンロッテ女王陛下は会話をしている。 あの時、あの僅かに月が欠けた夜に。 リーゼンロッテ女王陛下は仰った。 私は一つの決意をした――と。 その決意が知りたかった。 これ一つで、何もかもが救われるという、その考えが知りたかった。 だから、尋ねた。 それの返答が、今リーゼンロッテ女王陛下が吐く言葉である。 「私はファウスト・フォン・ポリドロの子を孕もうと思うのだ」 何言ってんだババア。 頭イカれてるんじゃないのか? それを口にしなかったのは、まだ私ことミハエルに理性が残ってる証左であった。 「リーゼンロッテ女王陛下、失礼ですが、御歳は……」 「32歳で二人の娘を産んだ経産婦である。何の問題も無いと思うが」 「いえ、それは確かに仰る通りなのですが」 なるほど、年齢を思わず口にしてしまったが、まだ子を産める歳である。 何の問題も無い。 少し、言葉を誤った。 私が口にしたいのは、そも産める産めないの問題が論点ではない。 「32歳の酸いも辛いも知っている女王陛下が、何を色に血迷っておられるのですか」 「血迷ってない。これはよくよく考えた事である」 ふんす。 そう、鼻息荒げに、顔を紅潮させながら、リーゼンロッテ女王陛下は陶酔した顔で呟く。 冷静にさせねばならない。 「あのですね、リーゼンロッテ女王陛下。第三子を産んでも王位継承権の問題がありますよ」 「その頃にはアナスタシアに王位を譲っておるし、あの子も妹を虐める趣味は無い。第三子に適当な貴族位を与える事ぐらいは許してくれよう。私が王位を譲渡後も残る権力をもってすれば、子の無い家という養子先を見つけることも簡単である」 「うーん」 言いたいことが色々とある。 それは32歳のリーゼンロッテ女王陛下が、22歳にして娘の婚約者であるポリドロ卿に血迷っていることであり、王位継承権の問題であり、このミハエルにとって何よりの問題は。 「陛下、私を説得する際に天国に行こうが、地獄に落ちようが、ロベルト様を愛していると仰いましたよね」 「言った。同時に、ポリドロ卿を愛している事も告白したぞ。愛欲を綯い交ぜしておる。私は思うのだよ」 握り拳。 小剣程度ならば、その膂力でへし曲げる事すら出来ると言う狂戦士の血を引き継ぐ超人たる、その手で握り拳を作って目の前に突き出す。 閉塞した社会へのパンチであった。 「ロベルトとファウストを、自室の寝室で同時に抱ければ最高であったな、と。もう、その妄想だけでパンが3人分は美味しく食べられる」 どうしようもねえな、このババア。 私は思わず顔を覆った。 なるほど、男の数が極端に少ない世、男一人を多数で共有することが珍しくないとはいえ、逆に女一人で男を数人囲う権力者がいないわけではない。 だが目の前の32歳未亡人は、色欲で完全に目が曇っているとさえ思えた。 とはいえ、目の前の人物は腐っても神聖グステン帝国選帝侯にしてアンハルト女王。 何が性質が悪いかというと、このババアはババアなりに、愛欲の結果で産まれる事となる子の世渡りも色々考えているであろうということであった。 だが、ババアよ。 「陛下。そもそもポリドロ卿はどう考えておられるのです。あの生真面目で朴訥なポリドロ卿が、リーゼンロッテ女王陛下のそのような誘いに応じるとはとても――」 「マリーナがなあ、あの小娘が気に食わなかった。たまにファウストに対して酷く嫌らしい、好色な目を向けよる。そもそも娘とどっちつかずの蝙蝠女郎は好かぬ。腹が立っていたので、事件も解決した事だし、ローズガーデンで半殺しにした。肋骨の二・三本でもへし折ろうと思ってな」 ロベルト様の遺したローズガーデンで、ヴェスパーマン卿に私刑するのは止めて欲しい。 卿の事はどうでもいいが、バラが傷ついたらどうする。 そんな事を考えながら、何故そのどうでもいいヴェスパーマン卿の話になったのかと訝し気に思う。 「そしたらあの小娘、腕をへし折ろうとした際の痛みに耐えかねて口を割りおった。まさか、まさか。あのポリドロ卿がなあ。純潔を保ちながら、そんなにも性への興味があったとは」 ババアの表情が淫靡に歪んだ。 ヴェスパーマン卿が何を口から吐いたのかは知らぬ。 痛いよ、ザビ姉、痛いよと泣き叫びながら折れた腕を抱えて宮殿を歩いており、彼女の実姉にして第二王女親衛隊長のザビーネ殿が致命的なミスをやらかしたアホを見る表情で、それに付き添っていた理由。 まあその原因は知ることが出来たが。 ヴェスパーマン卿がポリドロ卿について、何を吐き出したのかは知らぬ。 だがまあ、脅迫するなり、懐柔するなり、泣き落とすなり、何らかの手段でポリドロ卿を落とす算段を、目の前のババアは付けたのであろう。 で、だ。 「結局、これ一つで、何もかもが救われるというリーゼンロッテ女王陛下の御言葉。あれは何だったのですか?」 大きなため息を吐く。 私はロベルト様の愛息であるという、その呪いのような祝福のような言葉で、もはや死ねなくなった。 だから、関係ないと言えば関係ないのだが。 それはそれとして、あの言葉は気になった。 リーゼンロッテ女王陛下が微笑む。 「お前の妹――可能性は少ないが、弟を産もうと考えるのだ。もし私の望みが叶ったなら、兄として可愛がってやってくれないか? アナスタシアは王位を継ぐもの、ヴァリエールはそのスぺアとして育ててしまったから、お前と特別親しくもなかったが。これから産む子供は少し違う生き方になると思うのだ」 その微笑みの次に吐き出された言葉には、少しばかり思うところがあり。 子を作れぬ私には、少しばかり悲しくて。 それでいて、リーゼンロッテ女王陛下は、私ことミハエルを息子も同然と認める発言をしており。 もし自分に妹や弟ができたなら、と妄想をすると。 それは、もはや無視が出来ない程に、あまりにも魅力的な言葉であった。 第86話 ラインの見極め アホの妹が、マリーナが痛みで喚いてる。 「痛いよ、ザビ姉、痛いよ」 結局、もう鴨を盗む以外では帰る気もなかった実家にいる。 ヴェスパーマン家の従士達へと愚かなる妹マリーナを引き渡し、あの愛おしい第二王女親衛隊という仲間たちが住む寮へと帰ろうとしたのだが。 かつて母と呼んだ人物に引き留められ、私が昔使っていた居室、今はマリーナの部屋である部屋に腰かけている。 ああ、もう。 「五月蠅い! 鬱陶しい! そのまま死ね! 泣き言いうな!!」 「なんで、ザビ姉見捨てたの!? なんでザビ姉、私と話してたのに、女王陛下が近づいてきた瞬間走って逃げたの!?」 「そんなもん逃げないお前が馬鹿なんだよ! この馬鹿! お前の方こそ何で逃げなかったの!?」 リーゼンロッテ女王陛下が、普段から鉄面皮で知られるリーゼンロッテ女王陛下が、かつてないほどにニッコニコした顔でこっち歩いてきたんだぞ。 そんなもん、誰だって逃げるわ! 空気が多少読める様になったかと思えば、危険察知はまだ出来んのか馬鹿! いや、どうせ逃げても先になるか後になるかだけで、マリーナの運命は変わらなかっただろうけど。 「事件が終わったから。ヴェスパーマン家は何かの役に立てたとは言い難いけど、ザビ姉にも母ちゃんにも何があったかは言えないけど、とりあえずは終わったから。ご苦労であったの一言くらい頂けると……」 「知らないよ。何か気に食わない事したんでしょ。何か」 多分、ポリドロ卿をイヤらしい目で見たか何かしたんだろう。 私もそっち方面の話では、ヴァリ様に「どうやってザビーネは今までその性癖と性格で生きてこれたの?」とよく聞かれる。 返事はいつも同じだ。 「ギリギリのラインさえ見据えていれば、後はなんとでもなります」である。 許されるラインと許されないラインがあり、マリーナはリーゼンロッテ女王陛下にとっての許されないラインを踏んだのだ。 嗚呼、家に帰りたい。 こんな実家ではなく、第二王女親衛隊の寮へとだ。 金を奪った以上、もはやヴェスパーマン家は定期的に私に鴨を盗み取られる以外の価値は無いのだ。 家が潰れようがどうしようが、知った事ではないのだ。 鴨の供給元が一つ無くなるだけである。 「結局、ローズガーデンに連れ込まれて、散々に全身を殴る蹴るされた挙句、お前何隠してるか吐け。お前何隠してるか吐けって首を絞められて。腕を人体が曲がらない方向に曲げられて」 「そのまま折られた、と」 いっそ、そのまま殺されてしまえば良かったのに。 とにかく、帰りたい。 このザビーネ・フォン・ヴェスパーマンは、産まれて来た時から、このヴェスパーマン家に馴染まぬ。 どうも、如何せん暗部としての雰囲気をもつ、この家が嫌いであった。 特に良くないのが、没落の匂いを感じさせるのだ。 妹であるマリーナからではない。 むしろ、妹はアホであるが、何だかんだ言って生来の明るさは家の道行きを照らすとすら思えた。 アホであり、温くあり、空気は読めない。 だが、スペックはそう悪くないし、本当に無能ならアナスタシア第一王女殿下が今頃切り捨てている。 良くないのは、むしろ母親である。 私は母親が反吐が出る程、大嫌いだ。 ポリドロ卿はこのような肉親への嫌悪に悲しい思いをするであろうから、あまり口にはしないようにするのだが。 もう大嫌いで大嫌いで仕方ないのだ。 「ザビーネ」 幽玄のような――いや、私と同じく美しい金髪、その長い髪を肩に流しているものの。 正直、年齢に見合わず、酷く老け込んでいると言っていい。 それは勿論、このザビーネの振る舞いにも原因が有る事は知っていた。 だが、関係ない。 産まれつき、どうにもこの「お前がどうなろうが知るか」という感覚は消えない。 このザビーネにとっては、我が主人であるヴァリ様と、同僚である第二王女親衛隊と、ポリドロ卿。 それだけに優先的価値が有り、それ以外はどうでもよかった。 マリーナは嫌いではなかったが、今回の失態を考えると、殊更にどうでも良くなってきた。 まだ第二王女親衛隊の寮近くを住処にしている猫の方が可愛い。 猫は良い。 ポリドロ卿だって、猫に出くわした時は「こんにちは」と優しく挨拶していると聞く。 猫と挨拶するのは良い事だ。 朴訥な癖に猫に出会った時はちゃんと挨拶する、そんなポリドロ卿は酷く愛おしいと思うのだ。 思考はなんかもうボロボロの母親ではなく、猫とポリドロ卿の事にすり替わっていたが。 「返事をしなさい。ザビーネ」 擦り切れたような声で呟く、母親の声がそれを邪魔する。 ああ、やはりマリーナを家の玄関前に投げ捨てて、ダッシュで逃げるべきであった。 このザビーネの危険察知能力は、明らかにその声の続きを聞く事を拒否している。 今からでも遅くない――いや、駄目だ。 ドアの前は、おそらく従者が塞いでいる。 私の剣における実力で、話も聞かずに逃げだす事は不可能であった。 厳密にいえば、第二王女親衛隊長としての礼儀に反した。 舌打ち。 大きく音を発したそれに、母親は何一つ動じずに応じた。 これでも諜報統括、アンハルト王家の暗部であるのだ。 無表情で女の股座をこじ開けて、熱した鉄串を突っ込むことが出来る人間であった。 「ポリドロ卿と親しいそうね」 「それが?」 何が言いたい。 いや、大体は読める。 「貴女なら、私の言いたいことが判るでしょう」 「これから先、王家全ての寵愛を受けているファウスト・フォン・ポリドロ卿の立場は法衣貴族にとって重要でしょうね。それが?」 あの淫乱の純潔にして、普段は朴訥で、だが自分の矜持に触れると烈火のように直情的であるポリドロ卿。 王家は誰もが、あの太陽に心を焼かれてしまっている。 もちろん、私もだ。 「寵愛が欲しい。ポリドロ卿による後ろ盾が欲しいのです」 「知らない。ヴェスパーマン家の地位を守りたければ、あの子を、弟を有力領主の夫にでも送れ」 私とポリドロ卿の邪魔をするのであれば、母親の顔面にナイフを突き立てる事は容易であった。 「それが難しくなりました。貴族は協力関係を維持する事によって息を長らえる。お互いの名誉と利益を守る事で立場を守るのだ。だが、その関係が連座という二文字を匂わせるようになっては」 「私から見たヴェスパーマン家はそこまで追い込まれていない。連座だと?」 「当主はマリーナです。なるほど、私はもはや当主ではないので、何があったかは知らぬし聞きません。だが、マリーナがリーゼンロッテ女王陛下に腕を折られて帰ってきた。これは傍目から見て良くないのです」 知った事ではない。 なるほど、確かに、傍目から見た今回の事件は良くない。 だが、アナスタシア第一王女殿下への王位譲渡の日は近い。 後2年かかるかどうかだ。 それぐらい、何とでもなるだろう。 ヴェスパーマン家は王家の中枢に食い込んでいる上位貴族である。 「できればマリーナに、ポリドロ卿との子が欲しい」 「お前、狂ったか?」 馬鹿を言え。 「危機は乗り越えました。マリーナは当主としてやるべきことを行いました。今回は危ういところだったのです。リーゼンロッテ女王陛下が本当にヴェスパーマン家など潰してしまえ!と思うギリギリのところで、ポリドロ卿指揮下の事件調査に参加できたのです」 「そうだね」 気の無い返事を行う。 「事件は終わりました。その場所に、私の様な年老いた人間には何が結末であったかなど、よく判りません。ですが、その事件にヴェスパーマン家は居合わせたのです。これは何よりの事でした。居合わせなければ――あの女王陛下や、傍付きの実務官僚であれば、我が家の役目を挿げ替える事すら考慮したかもしれません」 「考えすぎだと思うけどね」 ああ、老いぼれたな、コイツ。 危機に対し、怯懦になりすぎているのだ。 御家大事の馬鹿が。 なるほど、家は大事だ。 私に子が産まれれば、そりゃあ家を守って欲しいと思ってしまう。 だが、それに固執している人生など反吐が出るね。 子の側だって、家が本当に邪魔ならば捨てて自由に生きて欲しいと望んでしまう。 結局、この私、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンはこの貴族社会において異物なのだ。 もっと、開明的な、明るい時代に産まれたかったものだね。 そう思える。 「ヴェスパーマン家にとって、大事な事は何か。今回僅かに繋いだ、ポリドロ卿の縁です。ポリドロ卿は、第二王女ヴァリエール様の婚約者。やがてはアナスタシア第一王女やアスターテ公爵の子における、父親ともなるでしょう」 そこには、私の男と言う未来も加わるがね。 それは口に出さず、話を続けさせる。 「ポリドロ卿の血が欲しい。そうすれば、ヴェスパーマン家が滅びることは無い。例え将来、家がお取り潰しになる危機に遭ってでも、一度は許される事でしょう」 「知らないね」 交渉は決裂だ。 もはや、話を聞く必要はない。 私は椅子から立ち上がる。 話だけは聞いてやったのが、最後の恩情だ。 「……マリーナの子でなくてもよい。ポリドロ卿と貴女が親しいのは知っている。貴女の子を、養子としてヴェスパーマン家の未来の当主に迎えても」 「ブチ殺すぞババア! だからテメエの事が吐き気がするほど大嫌いなんだよ!! 御家大事過ぎて、盲目に成り果てた無能が!!」 怒りが喉から迸った。 ――ミスだ。 自分は失敗をした。 ドアが開き、従者が現れる。 だが、第二王女親衛隊にして、ポリドロ卿と親しい私に手を出すことはできない。 まして、私の口利きで、ポリドロ卿との縁を結んだ後であった。 許されるライン。 にやりと笑う。 この連中は、私に指一本触れることが出来ないのだ。 そうだ、この線だ。 許されるラインと許されないラインがあり、その線を超えなければ何事も、どうということはない。 そのラインを、今までの人生で私は見極めて来たのだ。 ベッドの上でビックリしているが、よく見届けるが良いよ、マリーナ。 「……貴女が、自分の子の行き先に感情的になるくらいに。その程度には、人に優しくあれば。血の涙を流しながら、人を刺すというヴェスパーマン家の理想ではなく。何の感情も無しに、何の痛苦も感じずに、下っ端の暗殺者のような、生まれつきの物狂いでなければ。貴女がヴェスパーマン家の当主だったのに」 涙を流して泣き言をほざく、目の前の生き物。 知らないね。 もはや、お前は私を産んだ母親だとすら、先ほどの発言で認めないよ。 私は今後、酒と狂乱の神たるバッカスの血迷いか何かで生まれた者であると名乗る事にするよ。 「泣き言は私が去った後でほざけ! ハッキリ言っておく。私が今後、ポリドロ卿と仲立ちをする事は無い。いくら金を貰ってもだ。マリーナが、一応はポリドロ卿と細い縁を繋いだんだ。それを大事にするんだな」 さすがに、そこから先までは手が出せない。 第二王女親衛隊長として、上級法衣貴族のヴェスパーマン家と本格的に事を構えるのは拙い。 ヴァリ様に迷惑がかかる。 それに、ポリドロ卿の代理人面をするのも、さすがに拙い。 ポリドロ卿にだけは嫌われたくない。 私は、あの男に嫌われたらと思うと、それだけで胸の何処かが悲しくなるのだ。 この感情は何なのだろう。 理解不可能であった。 なるほど、私は目の前の生き物がほざいたように、産まれついての物狂いなのだろう。 だが、物狂いとて、大事なものがある。 それはヴァリエール様であり、第二王女親衛隊であり、ポリドロ卿であった。 それだけが全て。 それだけが全てだ。 私は一度、自分のミスによって、ラインの見間違いによって、ハンナと言う親友を失ったのだ。 あの時の自分の無能を考えると、気が狂いそうになる。 もう二度と、私は超えてはいけないラインを見間違えることは無いのだ。 見届けよ、マリーナ。 私は、もうお前とすら、関わらないんだよ。 関われないんだよ。 二度と、ザビ姉と呼ばれても応じぬ。 その現実を知れ。 「ヴェスパーマン家は二度と私に関わるな!」 おそらく、目の前の生き物に限っては、もはや最後となる台詞。 それを吐き捨てた後、従者を押しのけて、立ち去る。 帰り際に、厩舎に立ち寄る。 昔可愛がってた愛馬の顔を少し撫で、お前が猫なら連れて行けたのになあ、と愚痴る。 今ではマリーナの物だ。 さすがに、もう持ち去るわけにはいかない。 越えてはいけないラインであった。 私の目的は、そこにない。 厩舎横には、鴨が数十匹飼われている肥育小屋があるのだ。 私はその鴨を数匹殺して腰にぶら下げ、ヴェスパーマン家を立ち去る事にした。 それは、私にとっては超えてよいラインである。 なるほど、私の行動がおかしいのは、第二王女親衛隊の行動からも理解する事は出来た。 だが、どうしても理解できない事がある。 身内の腹を満たすために、他人から物を奪って何が悪いのか。 それを否定する言葉だけが、どうにもザビーネ・フォン・ヴェスパーマンには理解できなかった。 第四章 完 マルティナ覚醒編 第87話 猫とファウスト ポリドロ領といわれる土地がある。 神聖グステン帝国の加盟国にして選帝候たるアンハルト王国の、右方。 丁度、同じ選帝候たるヴィレンドルフ王国との国境線、そこから少し離れたところに位置している。 領地規模としては、その300人足らずの住民数と比べると広い。 大きな山があり、その土と森林が蓄えた雨水から、領地に流れる川へと良質な水資源が供給されている。 上流から流れ来る汚物や、廃棄物を忌避する必要が無いのだ。 要するに食料を生産する土地として、人の住む土地としては、上等も上等といえた。 住民数が少ない理由としては、この土地が国境線近くという嫌な場所にあるから。 ――だけでは、ない。 基本的には特産品と呼べるものが全くない事も原因であるとは聞いた。 もう、悲しいぐらいに食料生産地としての価値しかないのだと。 それが、この領地の持ち主である辺境領主騎士ポリドロ卿の言葉であった。 だが、あまりあの人の言葉は信用できない。 信頼できない語り手であるのだ。 本人は本気で言っているのであろうが、どうもしっくりこない。 私ことマルティナ・フォン・ボーセルが少ない時間で、この9歳児としての小さな脳味噌に詰め込んだ知識をくるりと回転させると、気になる点があるのだ。 「ここは良い土地だと思うのですが」 確かに、アンハルトとヴィレンドルフ間における戦争被害。 治安の悪化、略奪集団の発生、食料や兵士の徴発などの影響を被るのは痛い。 不安要素は山盛りにある土地である。 だが、もう少し住民数は多くても良いのではと思う。 さすがにこの土地の規模で、領民300は少なすぎる。 この土地は王領ではなく、ポリドロ卿が所有する領地であるのだから尚更だ。 軍役はあれど、王家に税を納める必要はない。 この数世紀で農業生産性はめっきり向上したとはいえ、食料だってタダではないのだから。 ポリドロ領はその食料の輸出を行って、外貨を得ている。 土地の価値は明らかに高いはずである。 「そうでしょう。凄く良い土地でしょう」 横にいる従士長たるヘルガ殿が、私の口から零れた言葉に耳聡く反応する。 その声は喜びに満ちていた。 このポリドロ領に住んでる人間としての誇りが感じられた。 私の思考は、じゃあなんでこんなに人が少ないんだ、とマイナス方向に舵を切るのだが。 なにか原因があるはずである。 農作に適するポリドロ領の土地を考えると、2000人は自給自足でいけるはず。 資材を投資すれば、村から街への発展が望める。 将来、ポリドロ卿を愛人にする事を望んでおられるアスターテ公爵はそう漏らしていた。 あの変態であり尻好きではあるが、頭と顔だけは良い公爵の言う事なのだ。 その見込みは間違っていないはずである。 まあ、その変態である。 つまり、その変態性が問題なのだ。 「マルティナ、お前はファウストの騎士見習いとして、ポリドロ領に行くことになるだろう。ちょっとポリドロ領について報告して欲しい」 変態公爵アスターテからの要求である。 アスターテ公爵の良くないところだ。 有能な人間に対して深い興味を抱き、その才能に対しては手放しで称賛するところ。 本当に有能なれば、地位や財を与え、平民の兵に対し騎士位さえ与えることがある。 才能狂いと世間では認識されるそれ。 これは、公爵家から王配として宮廷にあがったロベルト様にも共通する事柄である。 アスターテ公爵家の家柄なのだろうか? 良くないところ、とまず言ってしまったが、考えれば良いところもある。 硬直した組織で、そこで停滞した血を流動させることは決して悪くない事だ。 だが、ファウスト・フォン・ポリドロ卿への興味に対しては明らかに悪いところが出ていた。 「馬鹿なんだろうな」 今度はヘルガ殿に聞こえぬよう、本当に小さく口元を動かす。 どうも、色が絡むと。 ファウスト様という人間が絡むと、アスターテ公爵は急激にアホの面を見せる。 それは、あの温厚なファウスト様が本気でアスターテ公爵への嫌悪感を示した、私の助命嘆願における失敗であるし。 後にヘルガ殿より知ったが、ファウスト様の尻を公然の場で揉みしだき、その名誉を穢した事で悪鬼と化したポリドロ領民20名に囲まれて殺されかけた事件であるし。 王都における、ファウスト様が第二王女相談役として与えられた下屋敷。 そこを、第一王女相談役として、第二王女相談役を見張るという名目で、ファウスト様の一挙一動を監視している。 ――実際には、ファウスト様の嗜好や挙動を知りたいと言う願望だけ。 惚れた男の何もかもを知りたくてたまらないのだ。 ああ、駄目だ。 もう完全にド変態である。 気持ち悪い何かとか不定形のものではなく、それそのものである。 男であるファウスト様が、如何に公爵にして戦友とはいえ、あのような人間が近づくのを許しているのかが理解できない。 本来、男と言う生き物は、あのような女に対し忌避感を抱くものではなかろうか? だが。 「――」 そのアスターテ公爵に逆らえず、ポリドロ領へのスパイ行為。 ファウスト様の行動、及び領地の治政について。 それらを、叔母への手紙と言う形を装って、アスターテ公爵に届けることを要求されている私も同等のクズではなかろうか。 少しばかり、頭が痛くなる。 最初は断ろうとしたのだ。 だが、叔母であるヘルマ・フォン・ボーセルが、あのポリドロ卿のように頭を床に擦り付けて頼むのだ。 「どうか何事もアスターテ公爵の言う通りに。何の後ろ盾もない当家には、もはや公爵家におすがりするしかないのです」 と。 これが、心底憎んでいる相手であれば、無視の一手でよかった。 だが、私は叔母の事を憎んでなどいない。 あれは後継者を指名しなかった祖母と、ちゃんと準備を整えて反乱しなかった母が悪いのだ。 病弱の叔母に従わず、私が憎んでいるものと誤解されるのも気まずい思いがした。 とはいえ――。 当家の存続は、そして私の助命嘆願は、目の前にいるファウスト・フォン・ポリドロ卿がその名誉を投げ捨てて行った事である。 そのポリドロ卿の秘事を漏らすなど、最低の行為である。 だが、病弱にして、心ももう壊れる寸前になっている叔母に何の言葉が通じよう。 だから、私はとりあえずその場では頷いた。 つまり、何もかもを誤魔化す事にしたのだ。 私はアスターテ公爵の要求通り、ポリドロ卿の事について少しばかり教えよう。 だが、本当にポリドロ卿が隠している秘事については一切を漏らさぬと。 それが私の妥協点である。 というか、頭の良い変態であるアスターテ公爵なら、それぐらいは承知の上だろう。 何かにつけ、ポリドロ卿の思考が知りたいと言うのが本音ではないか。 都合が良ければ領地についても知りたい、その程度の要求に過ぎないだろう。 あまり深く考える必要は無いのだ。 「母上、只今領地に帰って参りました」 長々と考え込んでしまったが、ファウスト様の言葉に意識を取り戻す。 今、私はポリドロ卿の屋敷、この領民300の住人を支配する領主の屋敷に住んでいる。 ポリドロ卿が「正直、王都に与えられた下屋敷の方が明らかに立派」と発言している屋敷の、来客用に設けられた数室の一つが与えられていた。 まあ、ポリドロ卿は自分やその持ち物を卑下することが多い、プライドの高い騎士らしからぬ事をよくするのだ。 母や領地が馬鹿にされると激怒するが、自分については基本どうでもよいというのがスタンスである。 確かに古い屋敷である。 ヘルガ殿によれば、あまりにも領主一族が頓着しないものだから、領地の顔役である屋敷がこんなにボロボロだと私達の面子が宜しくないと、領民が補修嘆願に訪れると聞いている。 これ何代住んでいるのだろうか? 「長い間、我らの愛すべきポリドロ領から身を離し、誠に申し訳ありません。軍役は仕方ないにせよ、この一か月ばかりの不在は私事によるものでした。ですが、騎士としての名誉が関わっていたのです。言い訳にしかならぬでしょうが、私にとっては選択の余地がありませんでした」 ファウスト様の通りの良い声が、朗々と屋敷に響き渡る。 屋敷のエントランスであった。 ファウスト様の傍には、従士長であるヘルガ殿と、騎士見習いである私マルティナが立っている。 他に人はいない。 「その全てを明らかにする事は、母上であれど出来かねます。申し訳なく思っています。ですが、領地の恥になるようなことは、神に誓ってしておりませぬ。真美善のあるがまま、騎士として高き誇りの上に行動できたと断言できます」 他に人はいないのだが、ファウスト様は喋り続ける。 それは、亡き母親にして先代であるマリアンヌ殿への言葉であった。 「だから、鎧で爪を研ぐのは止めてください。多分爪を研ぐのには適してないと思います」 「にゃーん」 同時に、愛猫のマリアンヌへの言葉であった。 何でさっきから猫相手に喋ってんだこの人。 私は横のヘルガ殿に視線をやる。 「あの……先代のマリアンヌ様が、生前仰った言葉がありまして」 ヘルガが顔を背けながら呟く。 ファウスト様が、言葉を継いだ。 「いや、母上がな。生前、病床のベットでマリアンヌを抱きあげながら言ったのだ。私が死んだ後は、この猫を通して貴方を見守っていますよ、と」 いや、そのような訳の分からない事を言われても、困る。 鎧に爪を立てている猫マリアンヌを抱き上げ、こちらに歩み寄って来るファウスト様。 その手の中で、爪とぎを止められ、やや不服そうに鳴く猫。 「にゃーん」 にゃーんではない。 「先代のマリアンヌ様は冗談がお好きだったのですか?」 「いや。逆だな。冗談など全く口にせぬ性格であった。今思えば、そのような諧謔は好まぬと言うか、私のせいで、そういった余裕は無かったのではないかと思う」 ファウスト様が、また自分を卑下した発言をする。 どうも、先代のマリアンヌ様の事について語るときは、少しばかり目を伏せて何かを悔いる様な顔を見せる。 ――少し、嫌な事を思い出した。 アスターテ公爵が、また相当な好きモノのようで、そういったファウスト様の負の部分が好きなようなのだ。 普段朴訥なファウストが負い目を見せて悲しい顔になる瞬間、そこがたまらないと以前口走っていた。 本当にアイツ変態だな。 死んでしまえばいいのに。 「だがまあ、何にせよ、そう仰られたのだ。アレは本気だったのかもしれぬ。冗談なのかもしれぬ。どちらかわからぬ。なので、まあ母の墓前に顔を出して暗い顔を見せるのも何なので、母が生前唯一行った諧謔に答えようと。墓前ではなく愛猫のマリアンヌに、領地から離れている間に何があったかは報告している」 「にゃーん」 にゃーんではない。 猫は嫌いではないが、いや、騎士見習いとしてはそう言う事を言われると困るのだ。 そんな事言われると、この猫マリアンヌを安易に膝に置く事も出来ないではないか。 「正直領民側としても、この猫が悪戯でもした時に叱るわけにもいきませぬし、少々困るのですが……」 「いや、そこら辺の区別は私もつけているのだが。そもそも、マリアンヌって悪さするのか? 領内の田畑を襲うネズミを捕えたりもするのに?」 ファウスト様の弁護。 実際、ファウスト様が猫の頭を撫でながら、少々の肉などをあげるコスト。 それに対して、農民の敵であり害獣たるネズミを殺すマリアンヌの価値は大きいように思えた。 「基本的には領地から出ないのですが、たまに遠くへ散歩に出かける時に、ファウスト様の愛猫にして先代マリアンヌ様の忘れ形見である存在。そのマリアンヌを放置してよいのか?獣に食われないか?と苦悩する若者が見受けられるのですが」 「初めて聞いたのだが。そんな光景見た事ないぞ」 「ファウスト様が領地におられる際は、愛馬フリューゲルと一緒に馬房で寝ておられる事が多いので、今まで知らなかっただけかと。私達も進言するかどうか、迷いまして」 ふむ。 とりあえず、まあこれで、あの変態アスターテ公爵に報告する今月の手紙の内容は決まった。 内容なんぞ、この程度で良いだろう。 まあ、すでに知っている情報かも知れないが。 「領内の事はすぐ報告しろよ。そのような気配りを見せる必要はない。放置して良い。私は猫が大好きであり、マリアンヌの事はそれはもう大事にしているが。領民が仕事を放りだし、獣に危害を加えられる必要を感じてまで、その行動を見守る必要などは無い」 「承知しました。すぐに村長及び従士長よりの連絡として、村内の全員に告げます」 「そうしてくれ」 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は猫大好き。 アスターテ公爵に報告する内容など、この程度で良かろうなのだ。 第88話 ファウストと教会 ファウスト様が旅の垢を落とすために湯浴みをされて、ぐっすり眠られた後の翌日早朝。 私ことマルティナとファウスト様は、二人して道を歩いていた。 「どこへ向かわれるのですか?」 「まあ、まずは教会だな」 人によっては黒猫のように嫌われるケルン派の教会である。 ちなみにファウスト様の愛猫、マリアンヌは黒猫である。 先代の御領主であるマリアンヌ様が、軍役である街を通り過ぎた際の事である。 自分の不幸を猫に八つ当たりするような、ろくでもない人間に殴られたのか。 酷く痛めつけられて地面に転がってるマリアンヌを見つけて可哀想に思い、ポリドロ領に連れてきてしまったらしい。 猫好きであったのだろうか? 自分と一緒の名前を付けるぐらいであるから、そうだろうな。 確かに黒猫は不吉の象徴とも言われるが、地方によっては吉兆の前触れでもあり、ポリドロ領においては明確に後者である。 ファウスト様に言わせれば、猫は黒かろうが白かろうが、みな平等に可愛いと仰せであるが。 まあ、ファウスト様と愛猫の話をいつまでもするわけにはいかない。 そう広い村でもないし、教会にはあっさりと着いた。 小さな教会、ではない。 割と大きな教会である。 「この教会、何時の時代からあるんですかね?」 「ポリドロ領の先祖が、この地に根付いた時からあるらしいが。無論、増築に増築を重ねて、少しづつ大きくなっていったのだが」 窓は、王都の教会のようなステンドグラスではない。 光を採るのはガラス窓ではなく、木製の鎧戸である。 そもそもが石造りではなく、木造教会であるのだ。 教会自体は大きくはあるが、外観は質素な物である。 これはケルン派の嗜好というより、おそらくは単に原材料の木材が多くとれるからだろうな。 この領地に石工は居ないと聞くし。 「どうも、アンハルト王国に当地の初代ポリドロ卿が騎士として取り込まれる事になった際、すでに領地においては、ケルン派が祭事を取り仕切っていたらしいのだ」 「はあ」 生返事をする。 少し言葉の意味が分かりづらかったからだ。 うん? 騎士として取り込まれた? 「ファウスト様、少々疑問が有るのですが。取り込まれたとはどういう意味で?」 「どういう意味も何も、そのままである。もう本当に大昔からこの地に住んでいたポリドロ家がアンハルト王国とヴィレンドルフの小規模戦争に巻き込まれ、初代ポリドロ卿となる方が領民を引き連れて嫌々アンハルトに味方した。その後アンハルトがその戦争で勝利した際に、そのまま初代ポリドロ卿を封建領主として認めたのだ」 なるほど。 まだ王領ではない土地における開拓団のリーダーが、そのまま騎士になった形なのか。 多くの封建領主が、自らの土地を一家伝来の土地と発言することがあるが、基本的にそれは嘘である。 もちろん数世紀前の事なので、まあ一家伝来と言い張っても許されるところはあるかもしれないが。 古きを辿れば軍事力を維持するため臣従の誓いを立てた従士達に、王が領地を「恩貸地」として与え、代わりに戦場に出る軍役義務を負わせたというのが本当である。 封建領主達が、それをそのまま自分たちの領地であると決め込んで、奪ってしまったのだ。 元々は王か教会が所有する土地であり、本当に先祖代々の土地と言う事は少ない。 少なくとも私が住んでいたかつての領地ボーセル領は、遥か昔にアンハルト王家が切り分けて与えた土地のはずである。 今はまた王領となってしまったが。 「珍しいケースですね。本当に一家伝来の土地だとは」 「そうらしいな。まあ王家に血が繋がってるわけでもないから何の意味もないのだが。基本的に軍役以外は王都と関わって来なかった家系であるし」 確かに。 良く考えれば、アンハルト王家に本当に昔から何代、下手すれば十数代も古くから仕える騎士と言えば聞こえはいい。 だが、まあ聞こえが良いだけで、王家や他貴族との縁故は悲しい程に無いといえばそうであろう。 猫とファウスト様には優しかった先代マリアンヌ様は周囲の貴族に狂人のように扱われ、周辺封建領主との拙い縁も完全に途切れてしまったと聞いているし。 まあ、そんな話はどうでもいい。 「アンハルト王家なんぞ関係ありませぬよ。お帰りなさいませ、ファウスト様」 ケルン派の普段着であるカソックを身に纏って現れた中年女性が、ゆっくりと現れた。 もちろん週に一度の礼拝は欠かしていないので、顔は良く知っている。 ファウスト様の騎士見習いにあたって、ケルン派への宗旨替えも済ませているのだ。 「ファウスト様。もうご存知でありましょうが、王都にて第二王女親衛隊長ザビーネ様がケルン派に改宗したと聞きましたが」 「王都を離れる際、ザビーネ殿から直接聞いたよ。親衛隊及び、新たに雇い入れる従者も全員改宗させるとか言ってたが、本気なんだろうかアレ?」 ザビーネ殿も改宗したのか。 改宗で思い出した。 どうも週に一度口に施される、ケルン派の塩っ辛い聖餅の味が嫌いなのだが。 「本気であれば嬉しいですね。なんだかんだ、信徒の数は力ですので。もちろんザビーネ様が代わりに何を欲しがっているのかは理解していますが」 「マスケット銃か」 神母、ファウスト様、私の三人で教会の中央。 教会の中央に飾ってあるマスケット銃を見る。 ……ポリドロ領みたいな、言っちゃなんだが辺境も辺境まで一々マスケット銃を配布してるのかケルン派? 何故そこまで火力を信仰しているのだろうか。 ケルン派に聞きたいことが三つほどある。 「唐突ですいませんが、神母様。三つほど質問があるのですが」 「構いませんよ、信徒マルティナ。何でしょうか?」 まずは一つ目。 先ほども頭に思い浮かべた事だ。 「何故ケルン派の聖餅はあんなにも塩辛いのですか?」 「戦場では汗をかきやすいので」 「……」 ケルン派の聖餅が塩辛いのは、戦闘糧食だからだ。 なるほど、単純な答えであった。 ケルン派は頭がおかしいから仕方ない。 それはケルン派に対する、一般良識人の合言葉である。 「納得しましたか?」 「納得しました」 一つ目の質問終わり。 二つ目の質問。 これは毎朝迷惑してる事だ。 「何故ケルン派は猿に似た奇声を発しながら、狂ったように大木をメイスで殴りつける習慣があるのですか?」 「ウチの助祭の事でしょうか?」 「そうです」 毎朝の事だ。 どうも靄もまだ晴れぬ朝方、どこからか猿に似た奇声が聞こえる。 キエーだの、ウララーだのようわからん叫び声も混ざる。 猿には似ていたが、確かに人の声だった。 正直9歳児の身の上としては怖くて仕方なかったのだが、気になったので見に行った。 そこに居たのは奇声を発しながら、狂ったように大木をメイスで殴りつけている助祭であった。 修道女の服を着ているが、将来は目の前の神母様の代わりを務めることになるであろう人物である。 「アレはケルン派の習慣ではありません。ファウスト様の英傑歌に憧れ、いつか私も戦場に連れて行って欲しいという彼女の憧憬の発露であります」 「朝はゆっくり眠りたいので、すぐに止めるよう言っといてください」 「善処いたします」 少し横に立つファウスト様の顔を覗けば、やはり辛い顔をしていた。 いくら優しいファウスト様でも、ポリドロ領の全てをフォローする事は出来ないのだ。 だが、少し思うところがあったのか口を開いた。 「私の幼少の頃の記憶が確かならば、確か神母様も若い頃は同じように大木をメイスで殴りつける癖があり、母上に叱られていたような気がしたのですが」 「あの頃のマリアンヌ様は苦境にあり、病弱の身を押して軍役に出陣される有様でした。何か少しでも自分は力になれないのか。そのような事を考え、とりあえずのアピールとしてメイスで大木を殴りつけていたのです」 聖職者としての仕事しろよ。 なんで戦場で貢献できることをアピールしようとするんだ。 真剣に頭がおかしいのか? そのような言葉が頭に思い浮かぶが、ファウスト様が悲しい瞳の色をしていたので止めることにした。 ケルン派は頭おかしいのしかいない。 それはアンハルト王都のみならず、かつてのボーセル領のような封建領主の隅々にまで知れ渡っていた。 「三つ目の質問、よろしいでしょうか?」 「どうぞ」 もうなんだか9歳児としてはファウスト様の手をそっと掴み、屋敷に帰る事を促したいのであるが。 一番気になっている三つ目の質問を行う。 「ファウスト様が使用なさっているグレートソード。それはかつて、教会に飾られていた魔法の品であると伺いましたが」 「はい、そうですよ。今マスケット銃が飾られている場所には、本来はファウスト様のグレートソードが飾られていました」 教会中央の祭壇に祭られたマスケット銃。 火力偏重であるケルン派。 そのモットーである「味方を救うためには、敵を一兵でも多く殺せ」を象徴した火器が飾られている。 少しげんなりしつつ、素直に疑問を口にする。 「なんで魔法の品があったのです? お高い物でしょうに」 ファウスト様愛用のグレートソード。 英傑譚を支える武器であり、チェインメイル程度であればバターのように切り裂いてしまう。 ポリドロ家先祖代々の品であり、初代ポリドロ卿の頃から教会に飾られていたと聞いている。 ファウスト様が手にするまでの経緯がよく判らない。 「身も蓋も無い事を言うと、高くなかったからですよ。むしろタダでした」 「タダ?」 「一から説明しましょうか。そもそも、あれは初代ポリドロ卿が討ち果たしたヴィレンドルフの騎士が所持していたものなのですよ。先ほどファウスト様が仰られていた話は覚えていますね」 覚えている。 アンハルトとヴィレンドルフの小規模戦争が起きた際、初代ポリドロ卿がアンハルト側に立ち、その返礼として騎士任命とポリドロ領の支配を認められたと。 要するに、だ。 「初代ポリドロ卿が参加した戦にて、敵から奪い取ったのですか?」 「そうなりますね。どうやって、魔法のグレートソード所持者の、おそらくは指折りの超人であろう騎士に勝ったかは記録に残っていませんが」 ファウスト様の先祖と言うからには、ひょっとしたら一騎打ちで倒した可能性も無くは無いが。 古すぎて、ヴィレンドルフの方でも記録が残っているか怪しい物だ。 私の顔を眺めながら、神母は話を続ける。 「で、奪ったは良いのですが。どうも初代ポリドロ卿には扱えぬ品だったようで、教会に飾られる事になりました。そこから数世紀となります。一度として、このグレートソードを扱える人間は領内に現れなかったのです。何せ、取り回しが悪い。魔法の品と言えば聞こえは良いのですが、信徒マルティナ。貴女はあのグレートソードを見事振り回す事が出来ますか? 大人に成長してからの想像でいいです」 「不可能です」 あっさり答えた。 そもそもグレートソードと呼称しているが、今時においては神聖グステン帝国皇帝直下の傭兵部隊ランツクネヒトが使用する大剣の分類、ツヴァイヘンダーと呼ぶのが正確ではないか。 それもパレード用ないし展示用でしかない、およそ実用とは思えないサイズと重量のそれである。 長柄のハルバードよりは短いが、それでも剣としては長大で重量のある品。 両手でも厳しいのに、それを片手で容易く手足のように振り回すファウスト様がおかしいのだ。 一介の騎士見習いとして言わせてもらうならば、あの異常な光景を見ただけで誰もが戦意を喪失するだろう。 勇気を振り絞ってファウスト様の眼前に立ち塞がる者は、その時点で勇者と認めて良いのではなかろうか。 「ですが、ついにファウスト様という超人が現れました。15歳の初陣の際、教会に訪れてファウスト様は仰いました。教会の飾りにし続けるのは勿体ない。アレは元々はポリドロ家の所有品であるし、返してもらうぞ、と」 その初陣にてファウスト様は敵山賊30名の内、20名を自分で斬って捨てたと聞く。 初陣の時、ファウスト様はさすがに自分の死も覚悟していたとも聞くが、絶対嘘だろと思う。 山賊が可哀想になるほどに、一方的な殺戮が繰り広げられたに違いないのだ。 一撃で人が真っ二つになっていく光景に、何の覚悟もない山賊などあっさり恐慌状態に陥ったのは間違いない。 恐慌状態の山賊を容易く惨殺していくファウスト様と、それに従うポリドロ領民達。 ファウスト様は、こと自分の事に関しては全く信頼できない語り手なのだ。 とにかく惨い。 ――ファウスト様を御恨みするつもりは全くないが、母カロリーヌはどのような心境で立ち向かったのであろうか。 いや、このような事を考えるのは良くない。 「まあ、ともあれそのような経緯で、今はファウスト様があのグレートソードを使用しておられるのです」 少し頭によぎった苦悩を断ち切るように、首をぶんぶん横に振る。 とりあえず、なんだ。 三つの疑問は解決した。 私の感想としては、こうだ。 ファウスト様も、ケルン派も、何か私の常識とは範疇外の世界で生きているのだ。 全く何の変哲もない普通の9歳児、マルティナ・フォン・ボーセルとしてはそのような事を考えるのだ。 第89話 領主館で昼食を 領地経営において、人間関係は重要だ。 人と人との関係における摩擦という物は、生きている限りは避けて通れないところがある。 それは同輩や、同じ貴族間においても起きるものではあるのだが。 特に祈る人、闘う人、働く人。 その三者においては、特に大きいのではないかと、私ことマルティナとしては思う。 聖職者という役割、騎士と言う軍事階級、その二つの活動を支える税を納める都市の市民、或いは農民。 いや、平民だから豊かでないと言うのはイコールではなく、そこらの貧乏法衣貴族より豊かな平民など沢山いるが。 まあ殆どの平民などは収奪される立場である。 多くの農民は、この時代においても腹を満たす機会は少なく死んでいく。 ――話を戻そう。 なにはともあれ、今の時代における人の摩擦というものは、特に階級差によるものが大きいといえるだろう。 領主というものは、どれだけちっぽけでも君主たりえ、一人の王であるのだ。 為政者として、統治や経営を行わなくてはならない。 土地と民を支配し、同時に自分の所有物として執着を抱き、その価値を維持する事も必要だ。 領主裁判権を持ち、審判し、判決を下す立場である。 領主として罰を与える事もあれば、逆に平民同士の争いを仲裁する事もある。 難しい立場であるのだ。 特権的階級ではあるものの、そう単純に恵まれた立場と捉えてよいものでもない。 結論として、何が言いたいのかといえばだ。 「それで、娘さんの具合はいいのか? 乳は良く飲んでるのか?」 「ファウスト様、お産から一か月は過ぎました。そろそろ働いても……」 「あまりにも短い。最低限、二か月は欲しいところなのだが」 今の状況はおかしいだろう。 何故にファウスト様は領主館に平民を招いて、食事を一緒に取っているのであろうか。 ファウスト様が居ない間にお産を行った平民に対して、その身体を労うためと仰っていたが。 いくら小領主とはいえ、それだけのために食事に招くなんて話聞いた事ないぞ。 こういうものは、村長のやる仕事ではないだろうか。 「ファウスト様は心配なさりますが、子など乳をやれば育ちます。その乳とて、姉妹が交代でやればよいのです。子供は家族で育てるものであります。まして、家には夫がおります」 「そうは言っても、自分の子は可愛いものであろう。今は家で娘と食事を楽しんでいるであろうヘルガなど、軍役が長引いたせいで、また子に顔を忘れられていたと泣いていたぞ」 「ヘルガは情が深すぎるのです。そもそも、そのような事をファウスト様に気遣われるなどと恥を……」 何故、領民の子の心配を、その親より領主であるファウスト様がしておられるのだろうか。 木製の食器がテーブルに並んでいる。 一応は領主なのだからとファウスト様は銀の皿とスプーンを用いていたが、格好だけである。 この間など、このスプーンは小さくて使いにくいからヤダなどと愚痴っていた。 ポリドロ領のご先祖様がケチったわけではなく、巨躯たるファウスト様に確かにあのスプーンは小さい。 超人ゆえに毒が効かないから、まあ正直毒を判別するための銀食器など要らないのだろうが。 だからとはいえ、貴族たるファウスト様が平然と木の食器を使うのは見栄えが悪い。 古いパンを皿代わりにしていたような大昔ではないのだ。 「皆はヘルガが優しすぎるのではないかと危惧しているが。私はよくやっていると思う」 「我々が危惧しているのは従士長よりも、むしろファウスト様の情の深さなのですが」 一番拙いのはアレだ。 今やってる行為だ。 宴の主人として客人をもてなすために、ファウスト様が肉を切り分けるのはまあ良い。 だが、今回の客人は客人といっても、あれである。 領内の平民である。 それも村長や従士でもなく、もう、普通の――言っちゃなんだが、特に特権的な地位を持つわけではない平民だと聞いている。 その平民に対し、笑顔で肉を切り分けて与えている今の姿は何なのか。 ファウスト様が、にこやかに笑った。 「情が深いのは悪い事か?」 「少なくともファウスト様の情を頼りにして、その足を引っ張る様な真似を我々は望んでおりません。私が戦場で致命傷を負い、足手まといになるようであれば。ファウスト様には、その場にて見捨てて頂きたく思います。その際に私が如何に嘆こうが、狂ったと思うて下さいませ。そこに居るのは、もはやポリドロ領民の私ではないのですから」 「お前が命を失わぬ限り、私はお前を見捨てないだろうさ。死んだところで、その遺体は必ず領地に持ち帰る」 「……ファウスト様がそのような事をなさらなくとも、我々は魂となり、ポリドロ領に帰るでありましょう」 もちろん、何もかもを否定するつもりはない。 私とて、所詮は王都のように繁栄した城塞都市とは程遠い、領民1000名程度の街出身である。 特に我が母カロリーヌは、軍役の全てに出陣していた。 従士長はもとより、従士や働きが抜群な平民に対してはその功績を皆の前で褒め称えた。 私はそれを幼き頃から見ているように言われたし、お前も同じように人は褒め称えろと言われた。 相手の名誉を守る事こそが、その貢献を何より大事にする事こそが、貴族や平民の垣根無しに重要なのだと。 もちろん、従士達に対しては食事を共にする事など良くあった。 戦場においては、兵と自分との食事の質に目立った差など与えず、同じ釜の飯を食べていたと聞く。 だが平時においては、その食事を共にするなど一度として無かった。 人間には、立場と役割がある。 厳しくするところは厳しくせねばならず、許すところは許していかねばならない。 あれだ、格差を設けるのは重要であるが、それが当然のことであると納得させることが大事なのだと。 納得というその名のバランスが何より重要なのだ。 ――うん、つまり。 「この領地に何がある?」 二人に聞こえぬよう、小声で呟く。 人は人だ。 特に理由もなく恵まれた境遇を与えれば、調子に乗る人間も多かろう。 特に無教養な人間は、自分の領分もわきまえず調子に乗ることが多い。 世の物語には理不尽な貴族が多いが、無秩序な平民の方はもっと多いのが現実である。 だが、どうもファウスト様はこの無茶苦茶な方法で上手くやっているようなのだ。 豪農、貧農の差を問わず、領主館に平民をローテーションで招き入れる。 そこで歓迎し、飯を腹いっぱい食べさせる。 それでどうにも、ファウスト様は領民300の小領主としてバランスをとっているようなのだ。 そもそも、所詮騎士見習いにすぎない私が――いや、違うか。 忠言は確かに必要なのだが、それは従士長であるヘルガ殿の仕事であるのだ。 それを奪うような真似はすまい。 それにしてもだ。 疑問に思う点が、一つある。 「何度も言いますが、このポリドロ領にとっては、御身が何より大事なのです。ファウスト様に何かがあれば、領地は王家に奪われるでありましょう。それだけは御免被るのです」 「私とて、死ぬ気はないのだがな」 「そのように思えぬ事を度々なさるから、私達は困っているのです」 この、領民達の一種狂気的とすら感じる忠誠は何なのだろうか。 私の母カロリーヌとて――今となっては、愚かな母としか言えぬが。 このような言い方をすると、酷くファウスト様には悲しい顔をされるのだが。 軍役を共にしてきた平民達には厚い忠誠を誓われていた。 それこそ、母カロリーヌを敵国に亡命させるため、自分達が命懸けの楯となるまでの忠誠を。 「この主のためなら自分が死んでもいい」と思わせる姿をそれまでの人生で、配下に見せてきたのだ。 「……」 母カロリーヌは、あれで上手くやっていたのだろう。 だが、家督の簒奪に失敗した。 どこで間違えてしまったのだろうか。 やはり、根回しが足りなかったのだろうな。 それはどうにも、目の前に立ちながら、椅子に座る領民相手に肉を切り分けている人物。 この領地の支配者であるファウスト・フォン・ポリドロ卿にも通じるところがある。 直情的な性格。 その性格は、良きところもあれば、悪いところもある。 これからの状況に対応できるのだろうか。 今までは、その誰にも有無を言わせぬ実績と、妙に鋭い感性と機転――いや、知能の分類だろうか。 それによって物事を成してきたが、これから先、それは通じるのであろうか。 遊牧騎馬民族の襲来が本当にあるとするならば。 ファウスト様は、まだ多くの困難を乗り越えていかねばならない。 「お前から見て、ポリドロ領に何か変化はあったか?」 「皆元気です。ヴィレンドルフ程に冬が厳しいわけではありませんし。今年の収穫も期待できると村長が言っております。先代マリアンヌ様が生涯をかけて行われた食料増産計画は見事に成し遂げられたのです」 「子供の頃は、皆が腹いっぱいになる事などは宴の時ぐらいであったな。今、皆が十分に腹を満たせているのは――母上を含めた、この数世紀をかけて領地を発展させてきた御先祖様のおかげだ」 横で、ファウスト様の、少し過去を引きずるような声を聞きながら考える。 アンハルト王家における次代を担う人間。 これからの、ファウスト様に関係する事になる役者たち。 アナスタシア第一王女、アスターテ公爵。 その両者は理解ある上司ではあるものの、ファウスト様を配下として使役する立場である。 ヴァリエール第二王女。 一応の上役ではあるが、能力自体にはあまり期待できない。 正直言えば、あの目端が利くが、どうにも頭がおかしいと聞く女。 第二王女親衛隊隊長であるザビーネの方が、役には立つと思われる。 結局、ファウスト様に何が足りないと言えばだ。 その性格がもはや矯正不可能である以上は、補佐役が必要である。 的確な助言を行い、暴走を制御する人間が必要なのだ。 「時が経つのは早いものだな。子供の頃が懐かしく思える」 残念ながら、その候補は一人も思いつかないが。 本気でファウスト様が暴走された時に、止める事の出来る人間など一人でもいるのだろうか。 私には見当がつかない。 「質問、よろしいでしょうか」 ファウスト様がやっと椅子に座ったタイミングで、横から口を出す。 ファウスト様からの平民に対する行動を咎めるつもりはない。 ただ、純粋に聞きたいことがある。 「なんだ?」 「民を食事に招くのは、ファウスト様の代からなのでしょうか?」 この平民に対する態度がファウスト様の民に対する信頼――過信、侮りから行われている事なのか。 それとも昔からそうなのか。 「いや、私が知る限りでは初代ポリドロ卿からだ」 「私もそのように記憶していますが?」 ぐるぐると回る、豆と麦のスープ。 鶏肉と玉ねぎ、そして塩で味付けされたそれを、スプーンでかき混ぜているファウスト様。 カチャカチャと音が鳴っている。 どうも食事中に度々その仕草が見受けられるため、ファウスト様の手癖と思われる。 アンハルト貴族のテーブルマナーにおいてはよろしくない。 マリアンヌ様は注意してくれなかったのだろうか? だが、そのような事を咎めるのは後でも良い。 「初代から数代にかけては、そもそも一緒に食事を取っていた。違うのは量ぐらいだったと聞いている」 「人数が少なかったからですね。我らの曾祖母の代にてようやく、林檎などを植樹できる程度の余裕が出来たと聞いた記憶が」 領主と民の距離感が近すぎる。 すでに述べたように、ポリドロ領民はポリドロ家に狂信的な忠誠を誓っているのだろうが。 今の話を聞くに、それはファウスト様の代からではない可能性が高い。 このように近い距離感で、どうして主従関係が成り立っているのだろうか? どうも気になる。 少し探ろう。 「領民の方にお尋ねします。先代マリアンヌ様をどう思っておられますか?」 「……偉大な方であったと思っています。あまり物を語られず、その心内を明かすような事はされませんでしたが。着実に領地を開拓し、立派に軍役を果たし、領民を一人も飢えさせず、そして跡継ぎであるファウスト様を育てられました」 少し、もの悲しそうに語る。 先代マリアンヌ様は周辺の領主騎士はおろか、領民にすら気が触れてしまったのだと諦められていた。 そうヘルガ殿は以前語っている。 酷い事をしてしまったと、ずっと後悔していると。 「愚かな私、そして領民の殆どが、生きている間はマリアンヌ様の御心が判らぬままでしたが」 「だが、皆最後まで母上に付いてきてくれたじゃないか。口では反対すれど、皆が優しく私と母上を見守ってくれた」 「それは領民として当たり前の事なのですよ。ファウスト様」 だが、ファウスト様がフォローしたように。 その気が触れてしまったマリアンヌ様に対しても、どうも領民は逆らわなかったようである。 もちろんマリアンヌ様が実のところは気など触れておらず、領地内に限っては統治や経営でのミスはせず、ファウスト様を超人として完成させたという事実はあるのだが。 それはそれとして、だ。 やはり周囲の貴族から絶縁状態になったことは、マリアンヌ様の明確な失敗と言えた。 「……」 口に出そうものなら殺されてもおかしくないので、口が裂けても言わないが。 ポリドロ家による統治権を、簒奪する事は考えなかったのだろうか。 もはや気が触れたと領民が見做した領主から、村長や従士達がマリアンヌ様を蟄居に追い込み、幼いファウスト様を当主にして周辺領地との関係をやり直す。 その案もあったはずである。 だが、実行には移していない。 状況的に不可能だったのではない、可能ではあったものの、やらなかったのだ。 その原因が、色々なリスクを鑑みてやらなかったのか、単にマリアンヌ様への忠誠が勝ったのか。 「ポリドロ家に逆らうなど死んでも有り得ない」という代々における忠誠なのか。 そこの所が判断できない。 今のところは、だ。 「食事が終われば、果実などを籠に入れて持ち帰ると良い。家族によろしく言っておいてくれ」 「ファウスト様からお気遣いの言葉があった事、しかと家族に伝えます」 まあ、その謎はファウスト様に騎士見習いとしてお仕えする間に、理解できることだろう。 領民が帰り次第、スープの中身を音を立ててかき混ぜる手癖を直すようファウスト様に忠告する事。 それだけは忘れないよう、ポリドロ領の謎については心に留置くことにした。 第90話 マルティナの才能 昼食を終え、腹ごなしの鍛錬。 私自身の鍛錬ではなく、騎士見習いたるマルティナに対する教育である。 正直、これは私自身が楽しみとしていた。 マルティナには明らかに才能が有る。 それは9歳児とは到底思えぬ利発さであり、私の述べた一を聞いて百を理解し、さらには千を知ろうと百を知った上での質問すら行う貪欲さにある。 それはアスターテ公爵も知っていよう。 だが、聡さだけではないのだ。 徒手空拳、領地における普段着姿にてマルティナと相対、約一時間ほどが経過していた。 「ここまでか? 私の幼い頃はもっと頑張ったぞ?」 「何故ファウスト様は、武の超人としての自分と私を比較するのですか?」 比較するのは、私と匹敵する武の才能が眠っているからだ。 なるほど、マルティナの母たるカロリーヌはまず知識を優先したのであろう。 王都において剣術訓練を開始した際は木剣ですら、まともに握った事が無いと言われた。 それは誠に賢明な判断であったし、今までの成長過程においては正しかった。 私とて、この子は剣の道に生きていくのではなく、その頭脳において立身出世させよう。 アナスタシア第一王女殿下とアスターテ公爵ならば、この才知を必ずや生かしてくれるはずだ。 もはや領地を奪われた法衣貴族たるマルティナが、これから生きていくための術を与えよう。 そう考えていた。 だが、この武芸における異常な成長速度はどうか。 「次は飛ばないのか?」 笑いながら呟く。 「飛びません。不意を突けると思ったのですが」 マルティナはその小柄な身体で、先ほどは身長2mを超える私の頭を割ろうと試みた。 鳥のように軽やかに宙を舞い、その異様な跳躍力においては私の幼き頃に匹敵する。 超人である。 マルティナに超人の素質があるのは、誰の目に見ても明確である。 神聖グステン帝国において、超人という言葉は基本的には包括的に優秀な人間を指す。 騎士の間でお世辞として超人と相手を褒め称える事など、よくあった。 だが、真実本音で超人と呼べる人間は実のところ少ない。 マルティナの母カロリーヌのように、ギリギリ手が届く数ですら少ないのだ。 魔法使いのように1万人に1人いるかいないか、或いはもっと少ないのかもしれない。 身近なところで言えば、この私という個人の武のみに尖り切ったタイプ。 アナスタシア第一王女やアスターテ公爵のように、戦略や戦術において時代の一歩先が見えているタイプ。 色々なタイプがいるが、ともあれ人体における膂力が明らかに並外れていた。 この男女の役割が逆転してしまったような世界では、その外見によらずハルバードやツヴァイヘンダーを平気で振り回すような女性が普通に存在する。 だが、映画のアクションスターのような活躍を、映画のストーリー通りに実行できる馬鹿げた存在となれば、やはり超人だけである。 そして――眼を閉じる。 足だ。 「甘い」 小柄な体躯を活かした、足元への斬り込み。 悪くはない。 靴の腹で木剣を上から押さえつけ、捻って蹴飛ばす。 宙に浮いた木剣を親指と人差し指で摘まみ取り、マルティナの肩に一撃を入れる。 無論、手加減はして。 「――」 その一撃に対し、マルティナは悲鳴すらあげない。 歯噛みして痛みをこらえるのだ。 痛みに怒気を発しながらも強い騎士はいるので、これに対しては良し悪しを言えない。 だが、痛みに怯む事がないのは良い。 喚くにせよ黙るにせよ、最も重要であるのは痛みに怯えない事だ。 「今日はこれで30回死んだぞ」 「いや、そもそも無理があるのですよ。ファウスト様。私9歳児ですよ」 従士長たるヘルガに対し、10回に1回は勝てる超人が何を言うのか。 そもそも、これは勝利を目的とした訓練ではない。 マルティナ・フォン・ボーセルという超人の能力が、どこまで引き出せるかを見極めるための訓練だ。 何を如何やったところで、この少女が最終的に完成するのは判り切っている。 ああ、そうだ。 レッケンベル、その名を思い出す。 ヴィレンドルフの超英傑、クラウディア・フォン・レッケンベルのように、何もかもが極みに達していた本物の超人。 彼女のような人間こそが、正真正銘に本当の超人と呼ぶべきなのだろう。 あの完成形を目の前にしては、私などは一芸特化の才人に過ぎなかった。 歯を軋ませる。 戦場ゆえ殺すしかなかったが、今となっては生きていて欲しかった。 モンゴルもどきの遊牧騎馬民族国家の脅威に晒されてると知った今となっては、後悔すら覚える。 だが、このような事を考えても仕方なかった。 この色々とちぐはぐな奇妙な世界においても、神の証明がゲッシュなどにより平然と為されたとしても、死人が生き返る事なんて奇跡は『神の子』を除いていなかった。 思考を元に戻す。 私はマルティナが、あのレッケンベルに匹敵するような完成形の超人に至るのではないかと見込んでいるのだ。 いや、それ以上だ。 正しい教育環境さえ与えれば、超えるのではないかとすら推測する。 これは自分の騎士見習いに対する、私の身びいきでは無いと考える。 「次だ。姿勢を整えよ」 「疲れました。30回も死ねば十分でしょう」 マルティナの自己申告。 この賢い子が言うならば、本当に疲れたのだろう。 素直に頷き、休息することを許す。 ――どうやって、この子を育てよう。 「嗚呼」 母、マリアンヌもこのように苦悩したのであろうか。 なるほど、何がどうあろうともこの子は超人になるだろう。 だが、その才能の多寡は明らかに育成環境が左右する。 正直言えば、今からでもアスターテ公爵に泣きを入れて、彼女の元で教育を受けさせるべきではないか。 そのような事も思うが。 ――私とて、欲がある。 マルティナは、自分の手元で育てたい。 この才能が、どこまでの域に達するのか見届けたかった。 さきほど超人をアクションスターに例えたが、まさにそうなのだ。 超人は、時に人を恐ろしい程に魅了してしまうのだ。 「ファウスト様?」 訝し気に、それでいて9歳児までの純粋な目そのままに。 マルティナが、私の顔を見つめている。 立ってこそいるものの、全くもって疲労していた。 「私室に行き、昼寝でもしていなさい。夕食までは自由時間だ」 昼寝は疲労回復に良い。 嗚呼、この言葉は前世のものではなく、母マリアンヌから聞いた言葉であったな。 あれは先祖代々伝わる学習によるものか、それとも私の身体を気遣ってのものか。 恐らくは両方であろうな。 私の言葉に従って、素直に私室へと戻るマルティナ。 少し、一人で考える時間が欲しかった。 完全にマルティナが離れたのを確認し、一人呟く。 「あの子の母、カロリーヌは何を考えていたのだろうか」 哀れに思う。 最初は好きでなかった。 ただの愚かな女、せめてその死に際の一言ぐらいは叶えてやろうと思っていたが。 こうもマルティナが優秀だと、酷く哀れに思うのだ。 あの女は、世の何もかもに絶望していたに違いない。 自分は次女として単なるスペアに過ぎず、おそらくはマルティナという才能を世に出すことが出来ない事に。 あそこまでの才能を以てしても、今後の立身出世は望めぬどころか、領民1000名の領主にすら出来ない事に。 マルティナには口が裂けても言えぬし、絶対に気づかれてはならない。 カロリーヌが起こした凶行、家督簒奪事件において、最後の引き金を引いたのはあの子かもしれない。 マルティナという才の塊を世に出せない恐れが、あの事件を引き起こした可能性がある。 自分に付き従う従士や領民達の今後、カロリーヌ自身の領主に成りたいと言う欲は確かにあったかもしれないが。 仮に――そう、例えば王国において潤滑油の役割を果たし、優秀であれば法衣貴族としての職を用意してくれるような人。 ロベルト様のような人と縁を持つことが出来れば、あのような暴走はやらなかったであろう。 もっとも、ロベルト様は5年も前に死んでいるが。 駄目だな。 カロリーヌの狭い世界の視点からでは、マルティナの未来は産まれた時から詰んでいる。 何もかもを我慢して口を閉じてさえいれば、マルティナは領民1000名のボーセル領の封建領主になっていた。 マルティナの叔母が継承権を放棄する気であるのを事前に知ることが出来れば、その未来は確かにあったのだが。 その何もかもが失われてしまった。 何をやろうと、マルティナがもはや王領となってしまった領地を取り戻す未来など無かった。 「これからのマルティナの未来は、明るいだろうか」 あまり、良くない。 もはや青い血どころか、その義務を捨て、平民としての幸福すら望めぬやもしれぬ。 後ろ指を指されながら生きることはこの先間違いない。 かつてリーゼンロッテ女王陛下に言われた言葉が、背中を焼いた。 次の女王陛下となる、アナスタシア第一王女は英明である。 それゆえに親の罪は子の罪とする世間の評価を気にしない程、愚かではないのだ。 アスターテ公爵は、その辺りを気にしない。 才能さえあれば、平民の出自であろうが、元敵国人であろうが、殺人鬼の娘であろうが重用するであろう。 頼りにするならば、アスターテ公爵であった。 あの子の助命のため、無理を世間に請うた私としては、騎士の誇りをかけて将来を約束しなければならない。 だが、アスターテ公爵か。 「……」 正直、最近はちょっとあの人が判らなくなっている。 決して嫌いでは無いし、あの変態性も私の前世における男女価値観ではアリなのだが。 いや、前世の価値観でもアスターテ公爵は悲しいぐらいに変態であるが。 それも私の事を好きな証左であると思えば、まあ良いのだ。 本気で私の事を好きではいてくれると思うのだが、その純粋性はあまり信用できない。 私が彼女の求愛を拒むのは、立場があるのはもちろん、そもそも他の男に目移りするのでは? 他の男との子を、ポリドロ領の領主にしようとする可能性は無いか? そのような疑いが捨てきれないからだ。 だが、マルティナにはアスターテ公爵の力が必要に思えた。 まず機会が与えられなければ、活躍して自分の名誉を取り戻すことができないのだ。 戦への参加はもちろん、王国の官吏として働くにも、何らかの助力が必要である。 しかし、領民300名足らずの貧乏領主騎士に何が出来よう。 最近は懐が温かいが、それは私だけではなく領民達のための金であり、マルティナに全てを使うわけにはいかないのだ。 「アスターテ公爵に身を売るか?」 ポツリと呟く。 マルティナの将来を真剣に心配する。 ここに至ると、アスターテ公爵に縋りつく以外の方法が見当たらない。 だが私がその交換条件として売れるものなど、自分の身体一つであった。 将来の婚約者たるヴァリエール様に泣き縋り、もうどうにもならんからと頼む事はできそうであった。 ヴァリエール様は可哀想になるくらいに、身内に甘い。 それはあの気狂いザビーネに対する態度を見ても判り切っていた。 基本的に大事なのは世間に対する面子だけであり、そも貴族が一人の男を共有する事など、この世界では珍しくもない。 世間で私への評価、つまり領土と領民への風評被害が無ければよく、要はアスターテ公爵の愛人になったところで秘密にできるか、なんらかの状況で公然として認められるようであればよいのだ。 「アナスタシア第一王女には頼れそうもないし……」 あの、実は裏で人肉を食べてるといわれると、少し信じてしまいそうなほどに怖い目つきをしている女。 爬虫類系の目をしているが、それは爬虫類に失礼だと言われそうな目つきの彼女。 だけど凄まじい美貌のアナスタシア第一王女。 私自身は戦友だと思ってはいるし、彼女もそう思ってくれているだろう。 騎士としての実力に対する正当な評価もしてくれている。 だが、この世界の美的感覚を考えると、私を好きになってくれるとは思えないのだ。 身売りはできそうになかった。 選択肢はない。 「身売り」 この三文字に帰結する。 自分がどうしようもないと思うのは、アスターテ公爵に身売りすることを考えると、少し興奮してしまう事だ。 あの巨乳のアスターテ公爵に無茶苦茶にされると思うと、もう駄目である。 自然、脳裏には何度も背中や腕に押し付けられた、アスターテ公爵の乳房の感触が思い出された。 勃起はした。 だが今は領地なので、チンコは痛くはない。 領内なので貞操帯は外してあるし、股間回りに余裕があるズボン姿であった。 「まあ、最悪の場合はそうしよう。そもそも、アスターテ公爵はお前なんかいらないから、マルティナが配下に欲しいというかもしれないし」 あの色狂いではあるが才能狂いにとって、私の貞操などよりマルティナの方が価値があるのではないか。 その可能性は否定できない。 むしろ高いのではないか。 きっと、そうに違いないのだ。 「マルティナの未来は明るいに違いない」 私以上の才能の塊であるマルティナ。 それが世に認められず埋没するなど、この世にあってはならんのだ。 我が戦友たるアナスタシア第一王女、アスターテ公爵の二人であれば、説得すれば判ってくれるに違いない。 きっと、マルティナを有能な配下として欲しがる。 この貞操など欲しくもないだろう。 朗らかに笑いながら、木剣を指の二本で器用に回転させる。 それはまるで世界を回すように、綺麗にくるくると回った。 第91話 マルティナの昼寝 寝台に転がる。 ファウスト様から昼寝をするよう勧められたものの、眠れない。 その理由は疲労からではなく、まして悩み事でもない。 喧しいからである。 「真剣に頭がおかしいのでしょうか?」 大木をメイスにて殴りつける音。 猿には似ていたが、確かに人の声である。 キエーだの、ウララーだの、メキキーだの、ようわからん叫び声も混ざっている。 なるほど、ゆっくり眠りたいので止めてくれと私はケルン派の神母に発言した。 それを、昼過ぎならやっても良いと解釈したのだな。 ビックリするほど自分の都合の良いように解釈したのだな、あの聖職者は。 もう殴っても良いのではなかろうか? 「私のとりあえずの目標は、あの狂った助祭を叩きのめす事ではないでしょうか? そのための力を手に入れることではないでしょうか?」 寝台に横たわり、天井を見上げながら自分に問いかける。 所詮、この世は弱肉強食。 弱ければ死に、強き者が生きる。 そのような摂理になっているのだ。 特に、この領地の宗派、ケルン派においてはそのような考え方をしている。 勝てばよい、何を使おうが。 教皇が禁じたクロスボウであろうが、それが使えるならばガンガン使え。 そのような考え方で生きているのだ。 「本来の聖職者は、あのようなものではない、とは言い切れませんか」 古くは知識の保存、俗世間を離れ、自らの心の内を見つめるのが修道院であった。 その旧来の修道院自体は、別に姿を消したわけではない。 だが、時代の移り変わりによって、その伝統からは大きく離れていった。 司教領や修道院領を有し、騎士修道会としての騎士団を擁し、世俗の領主権と武力を行使している。 聖職者達は、誰の目に見ても強力な権力を持っていた。 ケルン派においては、ここ最近特に顕著な動きを示している。 起源自体は古い、なれど小派閥。 本来は注目に値しない存在である。 それでも有名なのは、彼女達ケルン派が純粋な気狂いばかりを集めたような闘争集団であったことだ。 火薬を手にする前から、頭はおかしかった。 領主がいざ戦争に出向くとあれば、酷く参加したがるのである。 従軍神母の主な役割といえば、治療であり、葬送であり、宣撫である。 それならまあ良い、むしろ封建領主側が頼む事すらあった。 だが、朝におけるファウスト様と神母の会話であったように、ケルン派は戦闘員としての参加を強く求めるのだ。 異教徒への攻撃・防衛といった目的ではない。 彼女達はケルン派同士でさえ、戦場では遺恨無しを前提に闘う事を是としていた。 名誉や富、神への献身といった目的があれば良かったが、それでもない。 彼女達は自分たちが根付いた領地と、その信仰を認めた領主、そして信徒たる領民と共に闘う事で敵に対し効率的な打撃を与え、敵を一兵でも多く殺すことを信条としていた。 その際の殺人は何の問題にもならない。 自分の愛する信徒を守るための、敵の排除でしかなかった。 「慈善を通ずる人間の姉妹愛としての友愛は、どこに消えてしまったのか?」 少なくともケルン派においては悲しい程に見られなかった。 まあ、とにかく頭がおかしい事で有名であった小派閥。 少し前までは、その程度で済んでいた。 火薬を手にしてからは、ますます頭がおかしくなったのだ。 マスケット銃だ。 未だ兵器として不完全ではある。 あまりにも射程が短く、命中率が低いのだ。 プレートメイルの胸甲を撃ち抜けるマスケット銃は確かに魅力的だ。 だが、それは条件が整った時の威力であり、兜や胸甲はすでに銃弾への対策も整えつつある。 銃弾に対して、兜や胸甲は未だ有効な働きを示すであろう。 『今はまだ』だが。 時代は変わりつつある。 マスケット銃については、ファウスト様が以前に第二王女親衛隊長であるザビーネへと漏らした発言から、少々思うところがある。 今後の戦場を激変させるためのキーワードになるであろう。 だが、今それについて考えるのは止めておこう。 今考える必要があるのは、ケルン派についてだ。 ともかく、火薬である。 ケルン派は火薬に触れてから、ますますおかしくなったと聞く。 母カロリーヌからの知識、ファウスト様からの知識、それを脳内で混ぜこぜにする。 「信徒数の増加」 手をぱっと広げ、一つ指を折る。 マスケットを安く手に入れるためには、ケルン派の洗礼を受けなければならない。 自然、銃を好む傭兵はみなケルン派になった。 その家族もである。 場合によっては、銃を好む封建領主がケルン派に宗旨替えすることすらあったと聞く。 たったそれだけで、数万人単位で信徒が増加した。 「司教領の発展」 二本目の指を折る。 武器と銃火器の工房がずらりと並んだ河川沿いの工房都市。 その都市の発展は近年稀に見ぬほどだと言われている。 ケルン派は信徒の浄財全てを火器開発に注いでいるのだ。 神聖グステン帝国中の浄財全てが注ぎ込まれ、その武器がまたケルン派傭兵や優れた武器を欲しがる騎士たちの手に渡っていた。 敵を殺すことが信徒を守る唯一の手段だと血迷っているのだ。 厳かな儀式や、石造りの建築物、日々の生活の安寧。 そういった、他の教派がやる事は悲しいくらいに無意味と考えている。 アンハルト王都のケルン派教会が大教会とは名ばかりの小さな教会であるのは、小派閥という理由だけではない。 贅沢は闘争における不純物だとすら考えている節があった。 清貧の意味を悲しいぐらいに履き違えていた。 「ケルン派の頂点である司教の、枢機卿への選出」 三本目の指を折る。 ケルン派の司教が、たった7人しかいない枢機卿の1人に選ばれている。 前述の二点が関係あるのであろうが? それとも、現在のケルン派司教にそれだけの能力があるのか? 私ごときには判らない。 ひょっとすれば、両方なのかもしれない。 何はともあれ、ケルン派司教は教皇にとって重要な相談事を行うべき相手と見做された。 「火器か」 残りの二本の指を折る。 幼稚な9歳児の脳味噌では、三つしか要点を並べることが出来なかった。 結論から言うと、火薬だ。 その爆発を以てして、ケルン派は信徒数を拡大し、膂力を高め、権威を強くした。 「キエエエエエエエエエエエエ」 「うるさい」 猿のような叫び声と、大木をメイスで殴りつける打撃音が聞こえている。 彼女達の大好きなマスケット銃で、頭を撃ち抜いてやりたかった。 ファウスト様は何故怒らないのだろうか。 聖職者を大切に扱っているのかもしれないが、さすがに怒る権利ぐらいはあるだろう。 なんなら殴る権利もあるだろう。 動かなくなるまで殴っても良いと思う。 元々、この居室はファウスト様がポリドロ領を継ぐまで――先代であるマリアンヌ様が亡くなるまでは、住んでいたと聞く。 幼い頃のファウスト様は、激怒しなかったのであろうか? したとは思うが、多分慣れるか諦めるかしたんだろうなと思う。 憤怒の騎士などと呼ばれるが、普段のファウスト様は朴訥で、優しい方である。 時々どうしても自分にとっては許せない事、その不可思議な倫理観と知性で、世の中が自分の意思にそぐわぬ時は激発するのだ。 後先考えなくなる――やはり、あの性格は是正しないと拙いと考える。 なれど、22歳のファウスト様が今更それを矯正するなど、やはり不可能である。 誰か、助けを。 やはりファウスト様の補佐役となる人物が必要なのだ。 見当がつかない。 私が。 私が、もう少し歳を重ねていれば、とは思う。 なんらかのお役に立てたかもしれない。 だが、9歳児の私では戦場で隣に立つことも、知力で役に立つこともできないだろう。 ファウスト様の意思を曲げることはできないのだ。 「――」 少しだけ、眠くなる。 「キエエエエエエエエエエエエ」 気狂いの行動は続いている。 マスケット銃が欲しい。 それで、あの助祭の頭を撃ち抜くのだ。 一撃だ。 苦しまずに神の御許に逝けるよう一撃で仕留めてやる。 そのような殺意を抱いていると―― 「にゃーん」 猫の声。 猫のマリアンヌが、かりかりとドアの向こうを引っ?いている。 入りたい様だ。 眠気が強くなってきたが、立ち上がってドアを開ける。 「にゃーん」 「ファウスト様ならいませんよ」 この部屋は、かつてファウスト様の部屋だった。 マリアンヌは人違いしているのではないかと思うが。 私の足に額と尻尾を擦り付けながら、足の間を抜けていく。 そうして寝台にぴょんと跳躍し、端っこに寄って丸くなる。 「そこが貴女のお気に入りの場所ですか? 奪ってしまって申し訳ありませんね」 「にゃーん」 一声だけ返事する様に鳴き、目を閉じた。 猫は寝ているだけで時間が過ぎていくから、気楽で良いものだ。 私はどうも一つ気になる事があると、その思考が止まらない。 判らない事があると次々に質問し、昔から母カロリーヌを返答に詰まらせ――嗚呼。 よくないな。 寝台に腰掛けながら、マリアンヌを一撫でする。 猫は良いな。 撫でている時間だけは、世俗の嫌な事、不愉快な事、思い出したくない事。 それを忘れさせてくれる。 「……猫になりたいな」 勿論、そんな事が不可能な事は理解している。 姿勢を変え、横たわる。 羽毛の詰まった肌掛けを身に寄せ、それで身体を包んだ。 眠気は先ほどより強くなっていた。 夕食までは眠る事にしよう。 私は9歳児である。 身体、及び知能の発達のため、よく眠る必要があった。 思考がふわふわと浮かび、虚ろになる。 もう少しで眠れそうだ。 「キエエエエエエエエエエエエ」 あの声さえ邪魔しなければ、だが。 思考が散乱していく。 ふわふわとしたそれを、心に並べる。 ポリドロ領でやらねばならないこと。 『アスターテ公爵のスパイ』。 『ファウスト様による騎士見習いとしての教育』 気になっている事。 『ポリドロ領の謎。ポリドロ家と領民の関係性』。 『ケルン派の火器開発状況』 やりたいこと。 『ケルン派の助祭をぶちのめす事』。 『ファウスト様の補佐役を見つける事』。 その程度? いや、もう一つだけ叶わぬ望みがある。 母、カロリーヌのこと。 いや――。 断ったではないか。 ヴィレンドルフの国境線に出向いた際のあの言葉、『我が領内でよければ墓だって』という、あのファウスト様の酷く優しい言葉。 それを私は、すでに手酷く断ったではないか。 反逆者の墓など作っては、ファウスト様が批難をされると。 そういう理由で断ってしまった。 未練は断ち切るべきであった。 あのような愚かな人間の事は忘れるべきだった。 幼い頃から、私が口にする質問に対して返答に詰まり眉を顰めては、修道院の図書室や聖職者に物を尋ねて、数日後には必ず回答を持ってきたくれた事を思い出す。 従士や民に信頼され、領地のために全ての軍役に出陣しては、ボーセル家の名誉を保ってきた母上。 我が母カロリーヌ・フォン・ボーセル。 かつては自分の誇りにしていた人間の事。 ――世間では全て何もかもの判断を誤った、アンハルト領邦民の血でその手を染めた、視野の狭い愚劣な反逆者。 批難され、それ以上の嘲笑を浴びるべき人間でしかなかった。 「……」 我が母カロリーヌは、大罪人である。 ファウスト様によって討ち取られた首はリーゼンロッテ女王陛下に検分された後、どうなってしまったのかも判らない。 共同墓地に葬られた事などは有り得ぬだろう。 豚の餌にでもされたのだろうか。 森にでも打ち捨てられ、野犬や虫に食われたのか。 ファウスト様に、その末路を聞くわけにはいかなかった。 これ以上の苦労や心労を背負わせるわけにはいかないのだ。 我が母は、邪悪で愚劣な人間だった。 守るべきアンハルト王国の王領を襲い、多くの人を殺し、男を連れ去ってヴィレンドルフに国を売ろうとした。 自領の領民を誑かし、死地に迷わせ、結果的にボーセル領を破滅させるまでに至った。 人間としては契約も戒律も破る外道そのものであり、貴族としても愚かとしか言いようがなかった。 ――忘れてしまえ。 そう思う。 あれはくだらない人間だったのだ。 ファウスト様が母の名前を口に出す度に、そう言い切らなければならない。 忘れよう。 我が母は、愚かな人だったのだ。 「にゃーん」 丸くなっていたはずのマリアンヌが鳴きながら、立ち上がる。 そうして私の顔横に歩み寄り、頬を舐めた。 マリアンヌの舌に、私の頬を伝っていたものが舐めとられる。 ざらざらとした感触が、心地よかった。 「嗚呼」 口から嗚咽が漏れる。 所詮、この世は弱肉強食。 弱ければ死に、強き者が生きる。 そして、母には覚悟も品性も視野も知能も腕力も、何もかもが足りなかったのだ。 馬鹿が必死に足掻いた結果が、当然の結果を迎えたに過ぎなかった。 誰もがそう思うし、事実を見れば確かにそうであった。 なれど。 なれど。 私にとっては――。 「……」 思考は、開いていた花が窄む様にして、だんだん小さくなっていく。 そうして、眠りへと落ちて行った。 第92話 ケルン派の悪影響 ポリドロ領主館の広間。 5名ほどがなんとか座れる長ベンチが、テーブルの両脇に二つ置かれている。 そこにファウスト様と私が座り、相対した席には従士長たるヘルガ殿と、他の従士4名が座っている。 ファウスト様が王領に一人残り不在であった間、私はヘルガ殿の家にて食事を提供され、鍛錬でお世話になっていた。 他の従士達とは、ヴィレンドルフに出向いたぶりの顔合わせである。 従士5名はクロスボウやチェインメイルを与えられており、純然たる戦士階級である。 闘うために専業化された戦士であった。 それぞれに与えられた家の畑については、普段は彼女達の姉妹、その家族が耕している。 こういった生活様式は小さな封建領地において、街でも村でも変わりないだろう。 「で、明日の模擬戦についてだが」 「領民は皆待ちかねております。明日もいつも通り、50名の民が参加する事となります」 パンや肉、そしてノーザンパイクなど魚肉にも手を付けながら、ヘルガ殿が答えた。 この夕食において、ファウスト様と騎士見習いの私、そして従士5名が話し合っているのは何か。 明日の模擬戦についてである。 普段の鍛錬は元より、私のかつての母カロリーヌも従士達と訓練を行っていた。 だが、平民を混ぜての模擬戦は見たことが無かった。 基本的には皆、生産者としての仕事が忙しいからだ。 「今回も、やはり陣形演習としましょうか?」 「そうなる。やはり、どうも今は上手くいっていない」 だが、ポリドロ領では週に一度、民を混ぜた大規模な模擬戦を行っている。 ポリドロ領の人々はかつて開拓団であった者たちの末裔であり、ポリドロ家がリーダーであったという話は教会にて聞いた。 そしてポリドロ領は、アンハルト王国とヴィレンドルフとの国境線が近い辺境領である。 明確な、土地を強奪されることに対する恐怖と危機感があるのだ。 この辺りは、かつての故郷たるボーセル領と一緒にしてはいけないだろう。 「何が上手くいっていないのですか? 私には判りかねます」 あまり口を挟むのは良くないが、騎士見習いとしての疑問を呈す。 かつて我が母カロリーヌはファウスト様に立ち向かい、従士領民含め70名が戦死した。 勿論恨むつもりは無いが、誰も彼もが全員死んだのだ。 対して、ポリドロ領民の戦死はゼロである。 狂ったような練度の高さであり、何が上手くいっていないのかは傍目から見て判らないのだ。 「私がそもそも根本的な間違いをしていたのが原因だ」 「というと?」 ファウスト様が眉を顰めながら、呟く。 「テルシオという陣形がある。従士5名のクロスボウ部隊を指揮官・射手として中央位置に置き、そこを槍や剣で武装した民兵が取り囲む基本陣形。まあ、ポリドロ家が軍役時に動員する兵数は20~30といったところ。正直言えば、陣形と呼ぶには恥ずかしい程に兵数が少ない為に酷く不完全なものとなるが。ともあれ、それを採用した」 「はあ」 防御的な陣形。 基本的には遠距離攻撃を行える兵種を、長槍兵によって敵兵から護衛する陣形と考えてよいだろう。 ファウスト様のそれは時として柔軟に動く。 ヴィレンドルフへの行軍中、丁度良いからとヘルガ殿が指示して何度か陣形を変換しており、様子を見せてもらった。 各従士の命令に従って線にもなれば、縦一列にも横一列にもなる。 確かに不完全であるが、領民が速やかに動くさまは練度の高さを垣間見せた。 何が上手くいっていないのだろうか。 「私はこの陣形の採用により、領民の戦死者数が減ると見込んだ。防御的陣形が、その効果を発揮する事を祈ったのだ」 「減っているのでは?」 ファウスト様が領主代行を行うようになってから、ポリドロ領民の死者数はゼロと聞いている。 「確かに減っている。減ってはいるが、何か違う気がする。私は何か根本的に勘違いをしているのではないか、と」 ファウスト様が悩む様子を見せた。 ――なんとなく察する。 「よく考えたら、陣形を組んだは良いが、特にこの行動に意味はないのではないか。確かに死者は出ていない。だけど、陣形を最初に組むのは完全に無意味になっている気がしてならない、と」 そもそも、ファウスト様の戦闘スタイルが防御的ではなく、敵方における最強の駒目掛けて突撃する超攻撃型であるのだ。 敵の指揮官を殺し、士気崩壊を起こした敵兵を領民全員により一方的に皆殺しにする斬首戦術。 「しかし、ファウスト様。やはり死者は出ておりませんので、これを取り止めると言うのはどうかと。現状上手くいっているならば良いのでは?」 従士の1人が反対意見を出すが、ファウスト様は訝しむ。 「でも意味無い気がする。本当に意味がない気がする」 ファウスト様は、そもそも自分を卑下する節がある。 個人的武勇においては、先代マリアンヌ様から仕込まれたものである。 その武のみには絶対の自信があるのだろう。 だが、それ以外に関しては猜疑の念があるようだった。 「やはり、私は何もかもを勘違いしていたんだ。兵士は誰もが直接戦闘に固執するという偏見があった。現実は違った。皆私を見ると基本逃げるんだ。私達は逃げ惑う敵を必死になって追い回し、それを皆殺しにするという現実だけがあった。陣形なんて開戦してすぐに崩れるんだ」 身長2m超えの超人が、フリューゲルのようなふざけたサイズの巨馬にまたがり、パレード展示用のようなグレートソードを片手でぶんぶん振り回しながら突っ込んでくる。 誰も直接戦闘などしたくない。 槍兵が囲もうが一撃で穂先が容易く切断され、次に槍兵全員の首が飛んでいく姿が目に映る。 ファウスト様に接敵したら最後、一方的に惨殺されるのだ。 対策としては重装甲騎兵数名で取り囲むしかないが、それでも怪しいところがある。 あのグレートソードで殴られるのは、鈍器で殴られるのと何も変わらない。 真面目に対抗できるのは騎士といえど、クラウディア・フォン・レッケンベルのような超英傑だけである。 「若い頃の私は愚かな夢を見ていたんだ。防御的陣形を私が取れば、馬鹿みたいに直接戦闘に固執してきた敵を一方的にクロスボウで射殺できるという馬鹿げた夢を見ていた。現実は違ったんだ。皆遠くから弓を撃つんだ。全部弾けばよいだけではあるが」 ファウスト様がテーブルに両肘をつき、その両手で顔を覆う。 直接戦闘に固執するのは敵ではなく、むしろファウスト様であったというオチか。 「従士、遠距離からクロスボウ撃つ。私、突撃して敵指揮官殺す。士気崩壊した敵兵を皆で殺す。盗賊相手においては基本このパターンであったし、とにかく盗賊は必死になって逃げるんだ。腹が立つくらいに相手してくれないんだ。しかも盗賊はお金を持っていないんだ。盗賊なんて所詮は食い詰め者の集まりなんだ」 いや、まあそりゃそうだろう。 「18歳ぐらいまでは盗賊を沢山殺してお金稼ごうなんて夢見ていたが、まあ旅商人を警備人員ごと皆殺しにして馬車ごと奪ったとか、王都へ納められる王領の税を徴税官から奪ったとか、盗賊にとっての稀に見る幸運が無ければ無理がある。ポリドロ領のような動員兵数で鎮圧できる程度の盗賊団なんて金持ってるわけないよな。何で私、普通の盗賊が金持ってるなんて思ってたんだ?」 「盗賊でお金を持ってるのは、傭兵団がそのまま盗賊団になってて小さな封建領地なら襲えるレベルの大規模な存在ぐらい。それとて、傭兵団の運営費用を丸ごと奪い取れればお金になるよと言ってる様な無茶ぶり。或いはフェーデが一応禁止される前の強盗騎士の財産を奪えればぐらいのものですよ。どちらも純粋な盗賊と呼ぶには、少し違う気がしますが」 昔は教会から金目の物を強奪する強盗騎士も普通に居た。 フェーデが一応の禁止――まあ、一応と前置きした通り、今でもやる騎士はいる。 フェーデを悪用して決闘と称した強盗、恐喝、追いはぎ、営利誘拐を行うのだ。 特に酷いのは営利誘拐だ。 どう考えても決闘の類ではない。 酷いものに言及すれば男を攫った後に、その家族に対してフェーデするか金払うかと脅すのだ。 さもなくば男はどこぞに売りはらって金にすると。 決闘状は、営利誘拐した後に送り付けるのだ。 騎士と言う身分が無ければ――いや、あったところで誰の目に見ても犯罪者であった。 もしファウスト様が強盗騎士になれば、その強さであっという間に財を築くだろうな。 この人の性格的には無理だろうが。 「その癖、クロスボウは所有していた。5本も鹵獲できた。逆に言えば私は計5回撃たれた。意味が判らん」 確かに。 貧乏盗賊団には過ぎた武器といえる。 運が良いのか悪いのか。 まあ、とりあえず。 「神聖グステン帝国に火器たるマスケットが流行したからであると思われます。流通数が増えれば価格は下がり、入手する機会も増えるでしょう。そもそもケルン派の工房都市は、教皇によるクロスボウ禁止令を無視してクロスボウを生産しては国中にバラまいていましたから……」 私は思った事を口に出した。 何もかもをケルン派のせいにしてしまい、ファウスト様の嫌悪感を起こそうと試みたのだ。 「ああ、なるほど。ケルン派のせいなら仕方ない」 あっけらかんとした口調で、ファウスト様は納得した。 素直過ぎて困る。 実際には複合的で、色々な理由があると思うのだが。 この線でケルン派を追い詰めるのは難しいようだ。 「自分の愚かさに愚痴を言った。話を戻そう。とにかく、発端は私の勘違いにある。皆、すまん。あの不完全なテルシオ擬きは私の間違いであったのだ。少し見直そう」 「具体的にはどうなされるおつもりですか? そもそも、理想は何なのですか?」 尋ねる。 まあ、大体予想はつくのだが。 「一方的な射殺である」 ファウスト様は直接戦闘特化の能力ではあるが、どうも本人はそれを嫌うようである。 「クロスボウだけでなく、本来はマスケット銃が良いのだ。そして、テルシオの比率は防御的性質を維持できる程度に槍兵がいるべきだが。本音を言えば、銃兵の比率は多ければ多い程良い」 従者たちはイエスマンが多く、あまり多くを尋ねてくれなかったのか、ファウスト様の言葉は少し熱を帯びる。 ファウスト様の目的が具体的に語られた。 「本当の理想形は、マルティナが存在しか知らぬという、あの島国が民兵を訓練した際に行きつく姿。訓練する時間的猶予と頭数さえ揃えられるなら、速射性と有効射程に優れたロングボウによる一方的な射殺であると私は考える。まあ例に挙げた島国は最終的に負けたんだが。とにかく一方的な殺戮である。当たり前であるが、敵の有効射程圏から離れたところから一方的に殺戮する事だけを人は皆考えてきた。剣より長い槍を持つのも、石を投げるのも、弓を射るのも、銃を撃つのも、何も変わらん。もちろん、この答えは私の浅い知識で捻りだした回答に過ぎない。だが銃兵のみならず、騎兵も銃を持つようになるのは間違いないのだ」 どれだけ一方的に殺戮したいのだ? ファウスト様は朴訥で温厚な人柄であるが、どうも戦場では血に飢えた行動をする。 それは味方の損失を減らすためであろうし、味方においては褒められる行動でしかないとはいえ、苛烈にすぎる。 それに対して、騎士としての名誉はヴィレンドルフの騎士団長レッケンベルを討ち取った時の様に、それこそ英傑歌に謳われるほどに頑なに守るのであるし、時には私の助命嘆願のために頭を地面に擦り付ける事さえしてくれた。 武の超人として産まれついた、騎士としての矜持なのだろうか? あまりにも戦時と平時の行動が不釣り合いである。 駄目だ。 理解できない。 だが、少し悩んでいると、一つだけ思い当たるところがあるのだ。 「ケルン派に影響を受けすぎていませんか?」 そうだ、ケルン派だ。 あの狂った宗派が、この優しい人の思考と志向を歪めてしまったのだ。 自分と自分の身内を助けるためならば、何をやっても構いやしない。 平時なら別として、堂々とした一騎討ちは別として、荒ぶる戦場においてはそれが許されるのだ。 その考え方が骨身に染みている。 私はそれを口にした。 「……」 ファウスト様は、酷く傷ついた様子で私の顔を見た。 さすがに、面と向かって言われるとなると、少しばかりは思うところがあったようだ。 「明日の模擬戦どうしようか。マルティナ、何か考えがあるなら発言してくれ」 そして、露骨に話を逸らした。 私個人としては追及したい。 だが、この件に触れ続けるのは、さすがにファウスト様が可哀想に思えてきた。 悪いとすれば性根が優しいこの人にはあらず、ケルン派であった。 「私は9歳児です。正直なところ、何が悪いのかは回答しかねます。明日、模擬戦を行うのでしょう? その際に見たままを口にしますので……」 やや口ごもりながら回答する。 ファウスト様は先ほどの熱を帯びたような口調を止め、どことなく傷ついている様な顔であった。 何もかもケルン派が悪い。 決して、思ったままを口にした騎士見習いたるこのマルティナのせいではないのだ。 「そうするしかないか」 ファウスト様は、気落ちしたように巨躯をまんじりと丸める。 そうして、スプーンで豆と麦のスープをかき混ぜ始めた。 あの手癖は、一度注意したぐらいでは治らないようであった。 第93話 ファウストの欠点 ポリドロ領地内の平野。 領地から1時間ほど歩いたところまで行軍する。 小石が周囲に転がってはいるものの、明らかに人の足で踏み固められた場所であった。 良い練兵場である。 「総人数50名、集合しております!」 従士長たるヘルガ殿が、大声で叫んだ。 ファウスト様と私、領主騎士と騎士見習いの眼前にポリドロ領民50名が整列している。 従士長ヘルガ、従士4名、農兵44名――あと余計なケルン派の助祭がおり、それで50名。 規律は正しい。 目立たず、質素な服装をした女たち。 クロスボウに剣、チェインメイルにて武装したのは従士4名に過ぎず、後の44名は長柄槍や長剣を手にするのみで、服装などは野良着のままである。 武器自体、そもそも全てがファウスト様及びポリドロ家の所有物(クロスボウ5本を含め、賊から鹵獲した物が多い)であるのだが、各個人に対して平時より貸し出されていた。 あまり触れたくないが――私の嫌いな助祭であるが、チェインメイル姿にマスケット銃を携え、腰にメイスをぶらさげており、完全な戦装束そのもので神母の要素は欠片もなかった。 現在におけるケルン派の模範的武装らしい。 他に戦棍(メイス)を装備する者はいないのかとファウスト様に尋ねたが、そもそも鎧を着こんだ相手を敵に回した近接戦を想定していないから、必要ないだろと言われた。 まあ、ファウスト様が参加なされる軍役は山賊退治が主であり、ヴィレンドルフ戦役などは例外であったわけだし。 仮に戦場で出くわしても、重装甲の騎士はファウスト様が真っ先に殺しにかかる部類の敵兵であるのだ。 確かに領民が相手にする機会は無かったのだろう。 『今までは』という文句が付くが。 そして当のファウスト様についてだが、グレートソード1本があれば戦棍など必要なかった。 騎槍も戦棍も盾も要らず、ただの1本の魔法の剣さえあれば、眼前の敵を斬殺することが出来る。 もっとも、ヴィレンドルフにて魔法のロングボウを一式、レッケンベル家から借り受けていたはずだが。 はて、あれは今後どう扱うつもりなのだろうか――と考えたところで。 「いつも通り、兵を分けよ」 「総員、歩調あわせろ! 数四つ!!」 ヘルガ殿が短い言葉を叫ぶ。 それだけで全員が意図を解して、整然と四つに分かれる。 焦る事なく全員均一の速度で走り、従士が持つクロスボウを囲んだ陣形へと切り替わる。 誰一人として、もたつくような事はなかった。 基本的に、アンハルト王国において封建領主に課せられる軍役は年に40日となる。 無論、金銭や物納のやり取りによる王家との交渉、それによる増減等はあるが、年300日以上の内で週に1度の練兵をポリドロ領では行っている。 練度は自然と高くなる。 それだけではなく、前から領民を見ては思っていた事だが、一部例外を除いて体格が良い。 勿論ファウスト様のように一種の異形と言えるほどの大きさではないが、平均180cm程の背の高さにして、骨に対して締まった肉が付いているように見受けられる。 彼女達はファウスト様のためならば、死ぬことなど怖くもなんともないように思えた。 要は、そこらの兵では相手にならぬぐらいに領民個々が強く、よく訓練されており、士気が高いのだ。 アスターテ公爵の常備兵500が300まで擦り減った地獄のヴィレンドルフ戦役でも、誰一人として死んでいないのが強さの証明である。 酷く興味深い。 もちろん、それはファウスト様という最強の矛にして盾の庇護があっての事だろうが。 「――」 うん、ヴィレンドルフ戦役の最前線でその強さを眼にしたアスターテ公爵は、この辺り知りたいところだろうな。 ファウスト様の迷惑にならないようであれば、一応のスパイとして報告することにしよう。 考察を続ける。 今、ポリドロ領民は四つに分かれた。 従士1名につき農兵11名が従い12名、丁度1ダースずつで単位が構築されている。 小気味よい数字と言えた。 それに対して、ケルン派の助祭が勝手に13人目として混ざっていた。 良くない数字である。 13人目の裏切り者だ。 裏切り者の使徒がいるのだ。 何らかの手段をもって、先んじて殺すべきではなかろうか? その思考を咎めるようにして、ファウスト様が呟く。 「マルティナ、お前がケルン派のことを、あまり好いてないのは知っているが。そう睨むな。悪い人たちではないのだ」 「いえ、ケルン派はどうでもよいのです。恩だって感じております。少なくとも私を破門から守って頂いた事には強く感謝しております」 破門された。 我が母、カロリーヌ・フォン・ボーセルは、元の宗派から破門扱いとなっていた。 戒律を破った、国を裏切った、最期まで見苦しく足掻いた。 だから、仕方なくはあるのだ。 教会から墓地への埋葬拒否を告げられるまでもなく、反逆者たる我が母の遺体が土に埋められることは無い。 その反逆者の娘として、私が破門される事もまあ仕方ないと言えた。 同時に、親の罪が幼子の罪として連座する事など有り得ぬとファウスト様が激昂し、ケルン派の教会へと出向いて宗旨替えを嘆願したのも。 初代ポリドロ卿時代から領地にて強く信仰を続けているファウスト様の嘆願を受け入れ、ケルン派が当然のように私を受け入れた事も。 感謝はしているのだ、感謝は。 少なくとも聖職者から見放され、今後何の宗教的権威の後ろ盾も無しに生きていく事は避けられたのだ。 それはそれとして。 「ケルン派はともかく、あの頭おかしい助祭は嫌いです」 「彼女は、せめて練兵に参加させねば暴れるのだ。我が母マリアンヌ時代も、そのようにしてケルン派は受け流していた」 マリアンヌ様の時代は、教会にいる神母が同じように参加していたのだろう。 それは容易に目に浮かんだ。 ポリドロ家は何故ケルン派に対して、そのように寛容なのだろうか? 初代から続いていると聞いたが。 「そもそもポリドロ家と領民はケルン派以外の宗教なんぞ、知らなかったのだ。軍役を重ね、世情を知り、知識を重ねる中でようやく他の宗派の存在を知った有様らしい」 顰めた眉への返答のように、私の聞きたい言葉が紡がれる。 「初代ポリドロ卿がこの領地を開拓した際には、神母なんて存在はいなかった。神の存在など、何処にも在りはしなかった。門前の小僧習わぬ――言いなおそう。門前の少女習わぬ聖句を読む、と言うべきか。多少の戒律の一部や、聖句を覚えていた領民が居た」 「それがケルン派の物だったと」 そういえば、ケルン派の戒律を私は知らない。 何分、宗旨替えしてあまり時間もなく、ファウスト様も忙しくて時間が取れない状況にあった。 「貧しい領地ではあるが、まあ正式に神母が欲しいと領民誰もが望んだ。その悲願が叶い、いつしか王都の大教会から神母が来てくれるようになった。それが経緯である」 「だから大事にしている?」 「本当に領地が貧しい、その日暮らしがやっとの時代から根付いてくれているのだ。一緒に畑を開墾してくれていた時代すらあるのだ。大切にせぬほうがおかしいだろう。報いぬ方がおかしいだろう。もはや聖職者だから、貴族だから、農民だから、そういう次元の話ではあるまい」 まあ、判るのだが。 ケルン派のそういう在り方は好感を覚えるし、肯定もするのだ。 それにしても酷いのだ。 「キエエエエエエエエエエエエ」 キエエではない。 よく考えたら、私はあの助祭のマトモな言葉を一度として聞いていない。 奇声だけである。 悲しいくらいにそれだけであった。 それでもポリドロ領民は全員無駄口一つ立てず、歴戦の兵士のように整列している。 その中で、奇声を発している助祭。 それを咎めるでもなく、迷惑そうにするわけでもなく、平然と受け止めているポリドロ領民。 酷く非日常的な光景が存在した。 「ケルン派はみなあのような感じなのでしょうか」 「彼女は元々、貴族の出身であったと聞いている」 ファウスト様が虚偽を吐いた。 この人にしては珍しい事だ。 「嘘だと思うだろうが、嘘ではない。この世界には稀に産まれるのだ。あの第二王女親衛隊隊長ザビーネのように、社会に適合できない悪人とは言えないまでも、本性では限りなく悪に近いとしか言えない人間が。あの助祭のように決して悪人ではないけれど、何か頭のネジが吹っ飛んだとしか思えない人間が。ケルン派の戒律に惹かれてしまい、貴族の長女としての立場さえ捨てて、修道院に入ってしまう娘が」 「あれ長女だったんですか?」 「まあ、貴族と言っても下も下、貧しかったとは聞くが」 それでも嫡女としての教育を受けたとは思えない人間だが。 とりあえず、あんなんでもファウスト様に出自を語れるぐらいには知性があるのだ。 私は少し安心した。 「キエエエエエエエエエエエエ」 なんか叫んでる。 勝手な想像をするが、実家は没落したに違いない。 破門された私よりも、彼女は罪深いのではなかろうか。 「そろそろ模擬戦を始めるが、今の所マルティナから見てどうか?」 「どう、と言われましても」 あの叫んでる変人を除いては、欠点は特に見当たらなかった。 そもそも兵隊を動かすには、如何に士気を高めるか。 如何に指揮官や下士官の指示に従わせるか。 個々の能力はどうか。 様々の点が複合的に重なり合い、高ければ高いほど良いが、ポリドロ領民においては全てが高くまとまっていた。 勝利目的たるファウスト様の生存とポリドロ領の存続のためなら死ぬことを恐れず、平時からよく訓練されており、個々の能力も高い。 あえて9歳児の私が指摘するところなど無いのだ。 ファウスト様が懸念されている陣形については言うべきところが見られるかもしれないが、如何せん少数である。 壊れてないなら直すべきではない、というのが私の判断だ。 ファウスト様の、改善すべきと言う判断は誤っている。 領地防衛があるため全ての領民を動員できないにせよ、軍役時の兵数20~30においては、ファウスト様の指揮下にある限りは余程の事が無い限り死なないだろう。 いや、そもそもファウスト様は真剣に答えを求めているのか? 「ファウスト様、お尋ねします。そもそも私に答えを本当にお求めですか?」 「どういう意味だ」 「ファウスト様は、時々、私に教えを与えるためにあえて発言され、同時に自分の発言に対し深く思考されてるような節が見えます。深謀遠慮のようですが、どちらかといえば自己完結型の人間によくあるそれです。会話されているようで、実のところ私の発言は、壁が自分の言葉を跳ね返してきたようにしか思っていない」 どうも自分の周囲が、自分の行動全てを基本的には肯定してしまうイエスマンが多く、ファウスト様は少し苦悩してるようにさえ最初は思えた。 だが、この人そもそも人の言う事ちゃんと聞いているのか? スープをかき混ぜる癖。 普段朴訥な姿に対して、時折興味を惹いた事には熱を帯びて発言される様。 ファウスト様には注意散漫のそれや、悪い意味での学者然とした様子が見られる。 弁護するなら、多少の自覚はあると思われるのだ。 少数を指揮する事は出来るだろう。 超人としてのカリスマ性も多少は持ち合わせていた。 だが、多数を率いる事には明らかに向いていない。 感情と理性のコントロールに歯止めが無いのだ。 ファウスト様にはその自覚があり、それを改善しようと努力もされている。 だが、この人、多分私の言葉を聞いてない。 他人からの助言が必要だと感じている癖に、いざ会話すると自己完結の気があり、他人の言葉をじっくりと聞こうとしないのだ。 「……」 ファウスト様は、黙り込む。 ほら、この人自分の都合が悪くなると黙るのだ。 ファウスト様は愚かではない。 深謀遠慮か、自己完結か、そのどちらかと先ほど言ったが、前者と錯覚させる程度には愚かではない。 たった300名の小領主にしては妙に知識が有り、頭がくるくるとは回る。 それで今までは何とかなってきたのが良くない。 領民を死なせず、眼前に発生した事件に対応し、全てを何とか切り抜けてきた。 だが、ファウスト様は本当に正しく判断できているのか? そもそもが―― 「ファウスト様、命を助けて頂いた立場のため躊躇っておりましたが、あえて発言致します。本当の貴族なら、親の罪が子に及ばぬなどと世迷い事は吐かず、私を見捨てるべきだったのです。私と初めて会った時からファウスト様は判断を間違えております」 「それだけは絶対に違うな」 そっぽを向いて誤魔化そうとしていたファウスト様が、急にこちらへと向き直る。 身長2mの巨大な体躯の目と、9歳児のちっぽけな自分の目が重なる。 ファウスト様はその目が全てを語っており、私を助けた事への後悔などは微塵も感じられなかった。 副官だ。 何度も思ったが、ファウスト様はもう副官がいないと、いつか痛い目を見る。 取り返しのつかないミスをして、アスターテ公爵に身売りして援助を要請しかねないような、そんな破綻をきたすのが目に見えている。 先代マリアンヌ様の教育が届かなかったのか、産まれついての性根なのかは判らないが。 ともあれ、誰かがこの人を助けねばならないのだ。 ファウスト様がゆっくりと私から視線を逸らし、手を挙げた。 領民兵に、命令を下すためである。 「模擬戦を開始せよ。判っているだろうが、これは模擬である。だが、失敗は死に直結するのだ。隊伍を組んで連携を取り、戦闘力を維持する事を心掛けよ。戦列を――」 そして素早く手を下ろすとともに、生き物のようにして領民兵が動き出した。 「うん、戦列? 戦列歩兵は……あれ? 私は何か大事な事を忘れていたような」 ファウスト様が、何やらブツブツと呟き出した。 また私を無視して何やら自問自答を開始した事を訝しみながら、私は大きくため息を吐いた。 第94話 騎士見習いの戦場未来予想図 模擬戦が続いている。 無論、本気で剣や槍で殴り合うと死傷者が出ることになる。 万一の怪我の無いよう、槍の穂先は布でくるみ、剣を抜く事は無い。 ましてクロスボウやマスケット銃の出番はなかった。 剣戟音などはなく、ただ従士長ヘルガや各従士の命令ばかりが響いている。 兵の個々に戦闘力を与えるための訓練とはまた違うのだ。 命令に従い、陣形の維持を続け、或いはダース単位となった他の集団との離合集散を繰り返す。 私ことマルティナには奇妙な光景である。 ボーセル領ではこのような訓練を行っていなかった。 「キエエエエエエエエエエエエ」 奇怪な叫び声。 キエエではない。 お前、そんなんだからファウスト様は戦場に連れて行かないのだ。 あの叫びっぱなしの助祭は明らかに邪魔な存在――と言いたいところだが。 部隊の移動の妨げにはならず、ちゃんと従士の指示に従っているところが厄介である。 兵士として劣っているわけではなかった。 それは余計に腹が立つのだ。 「さっきから、何をお考えですか?」 「……」 返事無し。 ファウスト様は模擬戦の様子を眺めながら、何やら考え事を続けている。 先ほど、戦列という言葉を口走ってから何かを考えている。 「あまり関係の無い事だ」 「仰ってください。また自己完結されるにせよ、聞き手は居た方がよいでしょう」 ファウスト様が少し眉を困らせながら、ポツポツと喋り始める。 「本当に関係が無いのだ。資力にも兵数にも乏しいポリドロ領民には全く関係が無く、縁遠い幾つかの陣形について考えていた」 「というと?」 「昨夜の夕食にて話した、火器がもたらす事による戦場未来予想図についてだが。いや、本当にポリドロ領には全く関係がない事に加えて、知識が浅いので自信が無いのだが……」 ゴツゴツした手の、太い人差し指で自分のこめかみを抑えながら。 ファウスト様は一つの質問を口にした。 「火器を用いるにあたって、最も有効的な陣形は何と考える? マルティナ」 「はあ」 幾つかは思いつくが。 こちらとて、知恵が足りない。 考え込むのも何なので、単刀直入に返す。 「火器の発達度合いによって変化するので一概には言えませんが――そもそも、最も重要なのはマスケット銃を持った銃兵なのでしょうか?」 逆に、尋ね返す。 陣形は確かに大事だが、ファウスト様の論点は現実から少しずれている気がする。 戦場未来予想図と言うのならば、より革新的に変える存在があるのだ。 模擬戦に視線を向けたまま、ファウスト様は不思議そうに眉を顰めた。 「というと?」 「順序が逆なように思えます。戦場の様子を一変させるのは、火器といってもマスケット銃等ではなく、もっと大きなもの。ああ、何といえばよいか」 「火砲か?」 そうだ。 そう呼ぶべきだろうな。 「いみじくも、ファウスト様が昨夜の夕食にて話された、一方的な殺戮を行うのであればマスケット銃ではなく火砲によるものが最善かと。現在の神聖グステン帝国における最強戦術は何かと考えますと、やはり重装甲騎兵による突撃となりますが。そこに火砲による一撃を加えれば、敵は五体が千切れて死ぬのでは?」 ケルン派の火力至上主義のような頭悪い結論かつ酷く大味で嫌なのだが、これが基本となるはずだ。 9歳児の私が考え付くのだから、ケルン派も考えているはずだ。 「ケルン派の火器開発状況が知りたいところです」 「それを私が知る事は出来ない。私はケルン派信徒にして領主騎士であるが、ただそれだけである。アンハルトにて知ることが出来るのはリーゼンロッテ女王陛下、アナスタシア第一王女、アスターテ公爵、大教会の司祭ぐらいのものだろう。私からは尋ねる事すら恐れ多い」 でしょうね。 そのような軍事情報は、明らかに機密事項である。 なので、この9歳児の知能を総動員で働かせ、幾つかの想像を行う。 「戦場に火砲を持ち込むにあたって、何を飛ばすかが重要であると考えます」 「鉄球ではないのか?」 「いえ、マスケット銃の弾丸を何らかの容器に大量に詰め込み、空中にて飛散させることで、戦場の面制圧が可能になるのではと考えます。勿論射程が短くなるなどの諸問題は生じますが」 ああ、とファウスト様が頷いた。 頭の悪い方ではないので、一言いえば理解できるはずだ。 そもそもファウスト様の戦場における理想的光景である。 対人用砲弾の開発により、一方的な大量虐殺が可能となるのだ。 「言いたいことは判る。言われて思い出し――いや、思いついた。だが、すまないが、そもそも可能だとは思っていなかったのだ」 「開発状況が判りませんので、私も断言はできませんが。少なくともケルン派ならば、すでに思いつき、開発を鋭意進めているのではないかと」 敵を殺せば殺すだけ味方は救われるのだと考える、あの火薬狂いどもが思いつかないはずがない。 必ずや開発を進めているはずだ。 「火砲の出現こそが、戦場を一変させるのではないかと。大砲運用を専門にする兵科である砲兵が出現すると思われます」 「全くもってお前が正しい。マルティナ。私はもはや言う事が無い」 そう言って、ファウスト様は黙る。 その視線はずっと模擬戦を眺めている。 いや、黙られても困るのだが。 自己完結しないで欲しい。 「私はファウスト様の話を聞きたいのですが」 「私が考えていたのは砲兵という兵科の登場ではなかった。正直、マルティナの叡智と比べると恥ずかしくて口に出したくない」 「いえ、自己完結してないで、ちゃんと話してください」 なんでこの人は、9歳児相手に心の底から恥じ入っているのだろうか。 頬を少し赤く染めているファウスト様に、話の続きを促す。 「私は火器であるマスケット銃の進化、銃兵の強化だけを考えていた」 「というと」 「戦列歩兵というべきか、火器の発達により――先日話したようにテルシオから進歩、というには違うな。つまりなんだ」 ファウスト様は、自分のこめかみを触っている人差し指を、くるっと回転させた。 「たとえば銃兵を3列横隊に並べて一斉射撃を継続的に行わせる。なんだ、私も正直そこまで理解してない。想像上の物でしかないが、最前列の銃兵が発砲を行った後はすぐに最後列に入れ替わり、弾丸の再装填を行うような――」 「例えるなら斉射というべきものでしょうか?」 ファウスト様の、あやふやなのか具体的なのか、少しよく判らない言葉を一言で片づける。 「マルティナは本当に頭が良い」 一言褒められる。 そして、ファウスト様はまた黙る。 やはり顔を赤く染めている。 「いや、喋りましょうよ!」 「私は要らないだろ?」 「なんで拗ねてるんですか! 止めてくださいよ!!」 別に今回の発言について、ファウスト様は何も間違ってないだろうに。 だから黙るのは止めて欲しい。 ――少し、嫌だった。 私の質問に対して、いつでも困った顔を見せていた母カロリーヌの事を思い出す。 あの人もいつも私の質問に答えあぐね、従士たちや聖職者に声をかけては相談を行い、なんとか回答を探し出し、なんらかの返答をくれた。 騎士として必要な物。 礼儀作法や教養、人心掌握術なんてものの類はよかったものの。 軍事学、歴史。 多くの知恵。 領民1000足らずの封建領主の孫娘が学べるもの以上の多くを、求めてしまったと思うのだ。 だから、母はいつも困っていた。 ボーセル領を継ぐ権利すら持っていないスペアにすぎなかった母カロリーヌは、いつも困った顔をしていた。 私はあの頃、母の気持ちなど何も考えずに愚かな事をしていたのだ。 「……どうした、マルティナ」 「なんでもありません。会話を続けましょう」 苦渋を口に覚え、その表情をファウスト様に見とがめられた事を恥じる。 もう、どうにもならない事だ。 「ともかく、まあそのような事を考えていた。よく考えれば、密集したら砲兵に撃たれるな。戦列歩兵は強いと思うのだが――いや、そもそもポリドロ領では実現不可能だから、やはり意味が無い」 「確かマスケット銃の運用については、ザビーネ殿にも話してましたよね?」 「うん? あ、よく考えればザビーネには火器の運用について、かなりの質問をされた気がする。ヴィレンドルフに出向いた時だったな。ああ、確かに私は話した」 あの第二王女親衛隊長たる気狂いザビーネは、ファウスト様の案を有効と判断した。 実際、有効である。 別に間違った事は言ってないのだ。 軍事訓練と陣形により、銃兵の再装填や行動をより精緻にし、効率的にすれば斉射は強力である。 火力を継続的に吐き出す横陣の完成だ。 「ファウスト様、この件は手紙にしてアスターテ公爵に伝えても宜しいでしょうか?」 「それに何の意味があるんだ?」 「アスターテ公爵のように、強力な常備軍と富を持つ領主には有効であると考えます」 確かにファウスト様の率いる軍には何の役にも立たないが、それは他者にとって何の役にも立たないと言う事ではない。 なんにせよ、報告だけはしておくべきであった。 まあ、アナスタシア第一王女やアスターテ公爵ならば、すでに考案しているかもしれないが。 一応はスパイとしての仕事を、こなさなければならないのだ。 「まあそれは構わん。ともあれ色々考えたんだが、結局どうも私には判らない。それはマルティナが先に口にした、ケルン派の火器開発状況を私が知る事などできない点にある」 「知ることが出来れば?」 「多少のアイデアは出せるかもしれない。やはり、火器による兵科を導入する金などないポリドロ領には何の関係も無い話ではあるが」 少し、考える。 アスターテ公爵は、ファウスト様が何をしているかを知りたい変態根性で、私をスパイに仕立てたと考えていた。 実は少し違うのか? 公爵が直接訪ねるのではなく、私というクッションを挟んで、ファウスト様のアイデアを絞り出そうとしている? そんな事を考える。 気狂いザビーネが聞き出したように、直接聞けば良いのではないかとも考えるが―― まあ、ファウスト様の全てを知りたい変態的欲求と、時に知性の煌きを見せるアイデアを拝借したい。 どちらも本音なのかもしれない。 「とりあえず、まあ駄目元でアスターテ公爵に尋ねてみましょうか。こちらからもアイデアを提供できる旨を報告すれば、あちらも情報を明かしてくれるかもしれません」 「まあ、その辺りはマルティナの良いようにしてくれ」 ファウスト様はどうもやる気が感じられない。 その様子に溜息を吐きながら、尋ねる。 「ファウスト様、一応は戦友なのですから、アンハルトの軍備増強に努めようとは思わないのですか?」 「考えてはいる。遊牧騎馬民族国家が7年以内に訪れると発言したのは私であるし、それに対する有益な手段が構築できるなら協力もしよう。だがなあ」 ファウスト様はこめかみに立てていた人差し指を外し、だらんとその腕を下げる。 模擬戦が終わりに近づいている。 興味を失ったようにして、その視線は私の顔へと移った。 「私は所詮一介の武の超人に過ぎんのだ。戦略ならばアナスタシア第一王女、戦術ならばアスターテ公爵。そう呼ばれるような能力の立ち位置ではないのだよ。私が考え付く事ならば、あの二人も考えてる。マルティナ、お前が私の発言に対して、私ごときの思惑には終わらずに別な視点を示したようにだ」 私を、あの二人の超人と同じように考えているのだろうか? まだ私は9歳児なのですが。 「私は神聖グステン帝国にいずれ訪れるであろう脅威については警告した。だが、そこまでなんだ。後は、二人にお任せだ。私は彼女達より劣っているという事を知っている。多少の知恵こそあれど、小領主としての自分の限界も判ってるんだ。私が出来るのは、アンハルト王城で必死に立ち回り、禁忌たるゲッシュを誓うところまでだ」 「……アナスタシア第一王女とアスターテ公爵を、信じておられるのですね」 「戦友だからな」 ファウスト様の口が、にこやかに緩む。 「まあ、アナスタシア第一王女殿下は日ごろから人肉を口にしている疑いがありそうな蛇目姫であるし、アスターテ公爵は私の尻を揉むのが大好きなド変態なのだが。二人とも良い人だぞ」 「今ボロクソに言いましたけど、まあファウスト様の交友関係を否定はしません」 あの二人の庇護が有るからこそ、ファウスト様は何とか貴族社会でやっていけそうという話でもある。 同様に、私も最終的にはあの二人に気に入られなければ、王都勤めの官吏には成れないだろう。 「ともあれ、私の知恵が多少の役に立つかもしれないなら、やっておくべきではあるな。ちょっと色々と文章に纏めてみる。雑多な内容になるが、マルティナが補足してアスターテ公爵に手紙を送ってくれないか」 「承知しました」 私のスパイとしての任務も果たせ、ファウスト様からの公認も得られる。 仕事しては悪くないと言えた。 それにしても、知りたいのはケルン派の火器開発状況であった。 「キエエエエエエエエエエエエ」 あの奇声を発している危険人物を構成員とする集団には、今何が見えているのか是非とも聞きたいところである。 だが、あの助祭が知るわけないし、ケルン派とて口を割らない。 皇帝陛下や教皇猊下に直接お会いして軍事機密を明かされるような機会が無ければ、最新情報は得られない。 ファウスト様や私がそんな機会を得ることは、何をどうしたところで一生ないだろう。 私はそんな事を考えながら、所詮は単なる小領主と9歳の騎士見習いに過ぎないのだと、自分ら二人を笑った。 第95話 ポリドロ家と領民の出自 模擬戦が終わり、領民がそれぞれに帰っていく館への帰り道で。 ふと、横の畑を眺めた。 豆科の植物が栽培されている。 農耕に適した土地とするためには、土に埋もれた石を掘り起こし、農具にて耕すだけでは足らない。 休耕はもちろん必要だが、大麦や豆類、野菜を輪作することで土壌を改良していかなければならない。 肥料もいる。 この数世紀をかけ、食料生産性はめっきり向上した。 単位面積あたりの収穫量は着実に増加している。 私の視線に気づいたのか、ファウスト様がその巨躯を折り曲げてしゃがみ込み、畑の土をぎゅっと握って持ち上げる。 土は、簡単にほぐれていった。 ファウスト様の、その手から零れ落ちていく。 「良い土だろう」 荘園制度、農民と領主の関係を規定するそのシステムは、領地の大小によって違う。 領地の大きさにまかせ、そこから入る莫大な地代から遊び惚けている貴族もいるし。 その逆に、小領主であるファウスト様のように、その畑の土を自分で握って確かめる様な貴族もいる。 だが、もはやボーセル領を失ってしまった元領主騎士の嫡女。 このマルティナには農業など必要のない知識だ。 もはや地代を得るのではなく、王家から給金を貰って働く騎士にすぎない。 それはファウスト様にも、よく判っているだろう。 折り曲げていた身体を伸ばし、また呟く。 「我々、ポリドロ家と領民が数世紀掛けて耕した土地なんだ」 教会での話を思い出す。 初代ポリドロ卿は、開拓者であったと聞く。 農耕可能な土地ではあったのだろう。 森もある、山もある、水もある。 なれど、一からのスタートだ。 戒律や聖句すら覚束ない少女が一人いるだけの、神の庇護すらない開拓団のスタート。 果たして、そのような事があるのだろうか。 ファウスト様は村内に広がる畑を眺めながら、ふと呟く。 「外聞が悪い事を、少し話す。我がポリドロ家の話だ。できれば黙っていてくれると嬉しい。これを話すのは、マルティナもしばらくこのポリドロ領に住む以上、何時かは気づいてしまうことだろうから」 私の目の前には、広大な畑を前に立つファウスト様が映っている。 「例え気づいても、そのような事を口にして領民を傷つけたりしないで欲しいからだ。賢いマルティナなら、そのような事はしないと判っているんだが」 その前置きがあるのは、少しばかり私も想像していた内容を話すからだ。 アンハルト王家すら知らない事を、ファウスト様が話すからだ。 おそらくは、ポリドロ家と領民の出自について。 「誰にも言いませんよ」 それはすでに察していることを、ファウスト様に伝えた。 アンハルト王国は、ヴィレンドルフは、その国土の境界となる地を奪い合う小規模戦争を行った。 だが、それが起きるまで、ポリドロ家とそれに従う民の一団がこの地に住んでいる事は、どちらも知らなかったのではないか。 誰も知らない、つまり領邦から何の援助も無い、そんな集団。 その境遇など知れていた。 「我々は追放者である」 領邦から追放された人々だ。 街や村、集落、そのどれか。 おそらくは城塞都市に入れない、その都市周りに掘っ立て小屋を建て、日雇いでその日を食い繋ぐような。 そして何時かは動けなくなって、病気や飢えで死ぬような人々。 「過ちを犯して追放されたのかもしれない。口減らしのため追放されたのかもしれない。それ以外の何かかもしれない。だが、何らかの理由により集まった追放者の群れだったんだ」 ファウスト様は朴訥である。 なれど、時に熱を帯びた言葉を口にする。 今は明確に熱を帯びていた。 「最初は30人いたらしい。男は1人もいなかったが。要するに、後先の事など何も考えていない。ただただ、その先に明るい未来など何も見えない追放者の集団だったんだ。当然、その中には神母すらいなかった」 「聞きかじりの聖句くらいは、覚えていた人がいたんでしたっけ」 「ああ。追放者なので皆、学など無い。文字すら読めなかったんだ。まあ、その初代ポリドロ卿時代における聞きかじりの者は、後日とはいえ本当に聖職者になったんだが」 ケルン派の教会が、その聞きかじりの聖句しか呟けない女性を宣教師として認めてくれたんだ。 ファウスト様がそう呟いて少し微笑み、当時告げられたと思われるケルン派の回答を読み上げる。 「我々は貴女から見出された真実で尊いものを何も退けない。その精神的真善美をもってして、汝がその命と身をもってケルン派へと永遠に加わる事を望む。貴女が我らの元に来てくれたことを認めたのに、我らが平和と喜びを貴女にもたらさない様であれば、我らは自らにそれを罰しよう。そして混乱や戦乱が汝らの共同体を脅かすのであれば、その防衛のための手段を我らは与えよう。それこそがケルン派の精神そのものである。汝をこれより宣教師として認める。おそらく汝が今まで歩いてきた困難の全ては、汝が聖職者として認められるためにあったのだ」 子々孫々伝わっているのだろう。 一瞬、良い事を言ってるなと思った。 裁判を受ける権利すら停止され、神や法の庇護を得られぬ者達。 平民や農奴ですらない者達。 領地の開拓とヴィレンドルフとの戦争により、アンハルト選帝侯に地位を認められた初代ポリドロ卿の下とはいえ、ろくに文字すら読めぬ、追放者の一人に過ぎなかった者を聖職者として認める。 それは甚く大らかであり、彼女達が信じる神に向き合った真っ直ぐな回答と言えた。 だが、ケルン派が与えるのは戦棍であり、チェインメイルであり、クロスボウであり、今はマスケット銃であった。 私のように破門された者にすら神の庇護を与える一方、その共同体を脅かす者への手段は酷く直接的であるのだ。 頭が可哀想だとしか言えないだろう。 「キエエエエエエエエエエエエ」 猿のような叫び声と、大木をメイスで殴りつける打撃音が聞こえている。 領主館に戻ったとたん、あろうことかファウスト様を追い抜かして、また昼間に訓練をおっぱじめたのだ。 単刀直入に言うが、死んで欲しかった。 我らの行動を司るといわれる脳肉の何処かが、病魔に侵されているとしか思えないのだ。 「もちろん、私個人としては彼女達のことを頭が少しばかりおかしいと思っている。領民もちょっとアイツラ頭おかしいんじゃないかと思っている。もちろん彼女達の前で、そのようなことは口にはしないが」 さらっと自分と領民の意見を呟くファウスト様。 そうですよね。 「だが、それはそれ、これはこれとして。とにかくケルン派は信徒に対して聖職者として驕ることなく、本当に隣人となっている様な、甚く情け深い性質を持っている。その戒律はまあ聞けば聞くほどに酷いが。古くは戦棍を振るう事こそが、主への祈りに値すると考えられていた」 「あれ、ファウスト様へのアピールだけじゃなく、主への祈りでもあったんですか」 何がどうしてそうなったのだろう。 多分経緯はケルン派すら覚えていないのだと思われる。 記録に残っていたとしても、特に知りたくはなかった。 というか、何の話をしていたんだっけ。 「すまない、話が酷くずれた。馬車が横転して畑の泥に埋もれるほどのズレ方だった」 「ケルン派が悪い事にしておきましょう」 だいたい何でもかんでも基本、ケルン派が悪いのだ。 「話を戻そう。ともかく、我らの先祖は追放者だった。町や村を様々な理由で追放され、アンハルトの王都の平民ギルドの親方に日雇い仕事で雇われ、その日に虫の湧いたパンでもありつければ幸せという有様だったと聞く」 黙って話を聞く。 「そんな日々を生活する中で、ある者が言いだしたよ。我らはもはや人としての価値など与えられていない。嘲弄され、辱しめられ、唾された。我らの聖地など、この世の何処にも存在しない。我らの故郷など何処にも存在しない。天国や地獄すら無いだろう。せめて、自分たちの村が欲しい。自分たちの国を作ろう。ここに居ても未来は無い。何処に行っても未来は無いだろう。ならばせめて、好きな事をして死のう。埋もれる墓すらないならば、空腹を抱えた犬に遺骸を食われても、何も変わりはしないだろうと」 「それが初代ポリドロですか」 「そうだ。貴族家門名どころか所属する村の名前すら名乗れない女。ポリドロという、ただの一人の女がそこにいたんだ」 ファウスト様は、こちらに振り返らない。 ただ広大な畑を眺めている。 「最初は誰も応じなかったよ。誰一人として応じなかった。だがなあ、どうせ死ぬんだよ。公的には存在すらしていないのが我らの先祖だった。先ほども言ったが、その日のパンにありつけるならば幸せな方だったんだ。初代ポリドロは――余程魅力的な人物だったんだろうか。やがて、幾人もがポリドロに従うようになった。30人が揃って新天地を求めた」 「そして、辿り着いたのがこの領地ですか」 この時点で、色々と良くない事が思いつく。 「無論、普通の方法では辿り着く事すらできないだろう。まあ、ロクでもない事をしたんだろうな」 いくつかの犯罪。 日雇い仕事の途中、窃盗を度々働いたぐらいでは足りないだろう。 食料を得るために、もっと重罪を犯したか。 ここは王都から遠い辺境の地だ。 旅の路程でも、多くの罪を犯しただろう。 「我らポリドロ領のルーツは罪人の末裔ということになる」 「ファウスト様。そこら辺は気になさる必要は無いと思いますが。貴族など実のところは、その地方で一番強かった山賊の末裔にすぎません」 ファウスト様を慰める様に、あえて笑い飛ばすように吐き捨てる。 「まあ、そうだな。暴力は全てを肯定する。私とて、そのルーツで自分らが罪人の末裔など卑下する事は無いし、先祖の罪を背負おうなどとは、欠片も思ってはいないさ。阿呆らしい事この上ない」 ファウスト様も、同様にあっけらかんと言葉を返した。 「だがなあ。領民は誰もが知っているんだ。30名の追放者が、何人も路程で倒れ、その死体を見捨てながら、この領地まで歩いてきたことを。この領地を開拓するにあたって、悲しい程に何もなかったんだ。道具がなかった、知恵がなかった、技術がなかった、超人などいなかった、ポリドロという名の一人の指導者がいて、聞きかじりのケルン派の戒律と聖句を覚えた一人の少女がいて、それだけだ」 「ポリドロ領民が、ポリドロ家に忠誠を誓うのは」 「知っているからだ。我らが追放者だったと知っているからだ。我らは領主や村や町の支援どころか、神の庇護すらない開拓団だった。開拓するための道具など窃盗品の幾つかに過ぎず、鉄器などないから石器を使っていた。農具なんぞ無いから、棒切れと手で畑を掘り起こした。知恵や技術など無いから、沢山の農作物を枯らした。超人などいないから、獣から身を守る術など無く、最初の領民30名の内、初代ポリドロ卿が戦功により領主として認められた時には10名にまで減っていたそうだよ」 ポリドロ領民の、ポリドロ家に対する重たいと感じるまでの忠誠心。 それは、そのルーツにあるのだ。 それこそ地獄の底から這い上がって、貴族として認められたポリドロ家に従う事で、人間になる事が認められたのがポリドロ領民の先祖なのだ。 「要するに、ポリドロ領民における全てのルーツはここにある。ここが産まれる場所で、ここが死ぬ場所だ。ここしか我々とその祖先が生きてきた証は無いんだ。それは領民からもそうだし、ポリドロ家からもそうだ。同時に――はっきり言うと、大嫌いなんだ。関わりたくないんだ」 やや、あやふやな言葉。 嫌いの対象が判らないので、推測で呟く。 「それは他領の事でしょうか。他の貴族や、その領民に対してでしょうか」 「その通りだ。領民が死んでも良いと忠誠を誓っているのはポリドロ家に対してであり、王家などではない。世間体こそ多少は踏まえるが、正直なところは他所の貴族に糞ほどの敬意も感じていない。恨みに思っているわけではないし、その筋合いも無い。鉄は欲しいし、技術は欲しいし、栽培する農作物は欲しいし、王都からケルン派の神母は来て欲しい。血が濃くなりすぎると未来が絶える。男を他所の村に出し、代わりに男を受け入れる――要は交換婚の類だな。それも嫌々ながらにする。面子のためには、私が他の貴族から認められるために青い血の女性を娶る事も必要だろう。それらは仕方ないと認めるが、それ以上は嫌なんだ」 とてつもなく暗く、重い。 ファウスト様が私に対して、総てを詳らかにしたのは失敗ではないかと思う。 確かにいつかは気づいたかもしれないが、あまり聞きたくない話であった。 このような重たい領民たちを目の前にして、かつてファウスト様の尻を揉んで、ポリドロという領地を代表する尊厳の全てを侮辱したアスターテ公爵はよく生きてたなと思う。 その場の勢いで殴り殺されても、別に不思議じゃなかったのではなかろうか。 まあアスターテ公爵を殺したらポリドロ領が滅んでたので、最後の自制が効いたんだろうが。 というか、謝罪金いくら毟り取られたんだろう。 銀貨30枚くらいか? 聖人を売って、新しい畑を買うぐらいの金は取られたであろう。 そのような事を考えるが、少し気になる事がある。 「私に対しては?」 私は領民から、冷たい視線など浴びた事が無い。 ケルン派はちょっと頭おかしいと思うが、領民からは悪意を感じた事も無く、皆が優しかった。 「まあ――私が騎士見習いとして認めたというのが大きいが、そもそも我が領地の領民は、破門され拠り所を失った9歳の少女に嘲笑を浴びせる程に愚劣ではないよ。少なくとも私はそう信じている」 「おそらくはポリドロ領の人達の先祖も、かつては誰からも見放された人たちだったからだ、というのはあるんでしょうがね」 「だろうな。ともあれ、ポリドロ領にはそのような事情が有る事をマルティナに知って欲しかった。この件は他言無用だ」 ファウスト様が、少々悲しい表情を見せた。 領民の優しさを信じたいのだろうが、正直言えば、私の境遇に多少の共感を寄せている点もあるだろう。 ともかく、よく判った。 領民たちは、この小さな辺境領で、小さな営みを今後も続けていきたいのだ。 ポリドロ家が指導者でないと嫌だし、日々の生活の向上は望めど、その生活を余所者に邪魔されたくない。 農業生産性が上がっても、農奴であろうが何であろうが移住を認めなどしないから、この領地は300名しか人が住んでいないのだ。 多分、この生活を阻害する者はどんなえげつない手段を取ってでも、排除するだろう。 アスターテ公爵はファウスト様を愛人にしたら、移民と資材をジャブジャブつぎ込んでポリドロ領を発展させるとかほざいていたが。 これでは無理である。 手紙にて説得すべきだが、この内容は明らかにファウスト様の秘事である。 どうにか、何らかの理由をつけて止めることにしよう。 私は全ての人が幸せになる方法について、少し頭を痛めながら考えることにした。 第96話 安息日にて礼拝を 先日も思ったが、ポリドロ領における教会の造りは質素である。 石造りではなく木造教会であるし、領民300人どころか30名も入ればぎゅうぎゅうになってしまうほどに窮屈であった。 故に、安息日の礼拝は教会の外で行われる。 「それでは、礼拝を行います」 神母様に目をやる。 神母の横には頭がおかしい助祭、そして数人の教会仕えがいた。 教会仕えとしたのは、修道女と称するには少し違うものであるからだ。 ポリドロ領民の十数名が教会に属しており、ケルン派の教会所属耕地を耕している。 ポリドロ領における代々の神母が自ら農婦として耕してきた畑を、ポリドロ家が教会所属耕地として認め、一切の徴税なしとしている。 代わりに、教会側は三女以降の各家庭の領民一部を受け入れ、これを教会所属の農婦としていた。 畑を耕す代わりに、収穫物や金銭を分け与えているのだ。 要は、ポリドロ家もケルン派も、何とかして全ての領民に食い扶持を与えねばならないと腐心しているのだ。 「我が信徒よ、口を開けなさい。これより聖餅を与えます」 そして、そのような事が、この礼拝の儀式に影響しているのかもしれない。 何せ、礼拝と言えば色々な手順があるが。 楽器を奏でて祈りを深める――楽器などケルン派の質素な教会には無い。 あるのはマスケット銃だけである。 音と煙は出るものの、さすがのケルン派もあれを「笛の一種です」等と言い張る度胸はないようであった。 歌を歌う事もない。 聖書を読み上げる事もない。 代わりに行うのが、この聖餅の儀式である。 週に1度、この聖餅を神母自らの手により、信徒の口に与える儀式がケルン派にあった。 音楽より飯である。 「信徒ファウスト・フォン・ポリドロ、まずはどうぞ」 身長2mを超える巨躯である、ファウスト様が屈みこむ。 腰を二つに折り曲げる様にして、やっと手の届く位置となり、神母が口にそれを与えた。 ファウスト様の顔が、何とも言えない表情に変わる。 そうだ、この聖餅は塩辛いのだ。 理由は先日聞いた通り、戦闘糧食が起源なので仕方ないと言えば仕方ないと一瞬思ったけど、やっぱりなんか違う。 ワインは聖人の血、パンは聖人の肉である。 お前等ケルン派の神学的見解では、聖人の肉は塩辛いと判断しているのか。 「信徒マルティナ、口を開けなさい」 不承不承口を開く。 聖餅が口に与えられる。 酷く塩辛い。 塩に賞味期限が無いとはいえ、ケルン派の教会には必ず一室は塩の貯蔵庫があると聞く。 ふんだんに塩を使い過ぎなのだ。 ケルン派の司教区である、統治下の工房都市は河川沿いにあると聞いたことがあるが、それだけではなく海に近いのだろうな。 或いは、岩塩が余程に獲れる山を所有しているのか。 どうでも良い事を考えていると、神母が私を咎める。 「聖体を有難く噛みしめなさい」 塩辛いと言っているだろうに。 唾を大量に作り、味を軽減する。 私の横では、なんとか頬肉をむにむにと動かし、なんとも言えない表情で聖餅を食べているファウスト様の姿があった。 「辛くありません?」 私は問う。 ファウスト様は答えた。 「味を薄めよう」 その食事の様子を眺めていると、腰にぶら下げた水筒を取り出した。 中にはワインが入っているのだろう。 私も真似して、煮沸した水を入れている水筒を取り出す。 ファウスト様が居ない間、この礼拝を何度も経験したので慣れているのだ。 というか、領民の誰もがそうしている。 もう誰か一人でも良いから、塩を減らせと申告すればよいものを。 その様子を無視するようにして、神母は笑顔で領民全員の口に聖餅を与えている。 やがて、全員に分け与える儀式が終わった。 「聖餅の儀式は終わりました。続いて、説教に移ります」 本来、別の宗派などでは聖書の朗読などを行う――もちろん文字を読めない農民が聖書を読めるはずもなく、そもそも本自体が貴重である。 活版印刷の技術により聖書をはじめとした印刷物が大量に作られるようになり、水車を使った製紙工場もあるとは聞く。 だが、さすがにポリドロ領のような辺境地で全員に聖書が配布されるまでにはならない。 基本的には聖職者が聖書を朗読し、無学の者はそれを聞くだけとなる。 話が少しそれた。 ケルン派では、その聖書の朗読を行わず、代わりに説教の時間が多い。 「神の言葉とメッセージについてお話しをします」 無論、その内容は聖書からの引用であることが基本とはなるのだが。 「それでは聖ゲオルギオスの――どこまで話しましたっけ? 何故かケルン派には、確かに聖人ではあるものの、なんか違う話が多い。 何故そこで聖ゲオルギオスの話になるのだ? それがよく判らない。 ポリドロ領民は、おそらくそれが聖書におけるスタンダードな内容であると誤解しているのではないかと思う。 「そうそう、殉教のシーン。王配までもがゲオルギオスの信念に打たれケルン派に改宗しようとしたため、自尊心を傷つけられた女王が怒りに駆られたシーンでしたね」 声を大にして、こんなのと違うと言いたい。 あと、ゲオルギオスはケルン派ではない。 私は幼いころから母カロリーヌに連れられ、教会の図書室にて毎日本を読んでいたが。 そんな話を一度として目にした覚えはない。 というか、まず聖ゲオルギオスは聖書に出てこないだろ、普通に考えて。 「神母様、一つ言いたいことが」 ファウスト様が、私の想いを代弁したかのようにして、口を開くが。 残念なことに、私の言いたい事と違うのは判っていた。 「私が不在の間に、大分話が進んでしまっています。聖ゲオルギオスが『皆、ケルン派教徒になると約束しなさい。そうしたら、この竜を殺してあげましょう』と、皆の前に家畜のように竜の首に紐をつけて、引きずってきたシーンが前回までの話でした」 ファウスト様が気になっているのは、聖ゲオルギオスが出てきた事へのツッコミではなく、不在の間にストーリーが大分進んでしまっている事への苦情であった。 嗚呼、そうだ。 ファウスト様も、すっかり騙されてしまっているのだ。 「ああ、確かにそうでしたね」 にっこりと微笑む神母。 ファウスト様を含めたポリドロ領民は、全員が騙されてしまっているのだ。 よく考えろ、確かにケルン派の歴史は古い。 とはいえ、著名な聖ゲオルギオスが、ドマイナーなケルン派なわけないだろうが。 気付いてくれ。 そう言いたいところだが、さすがに聖職者の前で嘘つくな馬鹿とは言い辛かった。 何より辛いのは、ファウスト様までがめっきり騙されてしまっていることだ。 そんな頭悪い人じゃないだろうに。 どうも、ちゃんと聖書を読んでいないらしい。 「説教の最中にお尋ねするのは失礼かもしれませんが、問います。何故、聖ゲオルギオスは民衆の前にわざわざ竜を連れて来たのでしょうか? 竜を殺した名声や栄誉が与えられるべきというのは理解できます。しかし、首一つ持って来ればよかったと――思うのですが」 やや、言い辛そうにファウスト様は尋ねる。 何もかもを、複雑に思考してしまうファウスト様らしい質問と言えた。 その妙に発達した知能で、ちょっとケルン派がおかしいこと言ってる事に気づいて欲しいものだが。 「確かに、そう思われるかもしれませんね」 神母が、堂々と答えた。 領民に思い切り嘘を吹き込んでいる背徳感は欠片も見られない。 「殺してから持って来ればよい。確かにそう考えるでしょう。聖ゲオルギオスが、民衆を脅して転向を無理強いした。そのような見方がとれるかもしれません」 というか、事実その通りだろと思う。 私の感想ではそうであった。 「ケルン派の解釈では違います。聖ゲオルギオスが竜を殺し、その首を持って帰るのは容易い。冷静に考えれば、家畜のように竜の首に紐をつけて、引きずってくるよりもよほど容易です。ですが、あえて聖ゲオルギオスはそうしなかったのです」 何やら自慢げな表情をする神母。 もうなんか、その独特の感性でトチ狂った事を言うのは判っている。 私の心は、その発言を受け止める準備を整えた。 神母は、両手を挙げ、領民全員が聞こえるような大声で語る。 「考えてもみなさい。竜が一度来たのです。二度来るかもしれません。三度来るかもしれません。脅威が一度だけなどと、誰が言えるのでしょうか。そのような約束を、誰がしてくれるのでしょうか?」 一番性質が悪いのは、ちょっと筋が通っている事をケルン派は語るのだ。 「二度目があった場合、聖ゲオルギオスは助けられるのでしょうか? 残念ながら、そうではありません。聖ゲオルギオスは通りがかりの者にすぎません。そこにずっといられるわけではないのです」 神母の説教は熱を帯び、さらに声高になる。 ここまではよい。 確かに筋は通っている。 「では、どうするのか? たった一つの答えがあります。そこに居る民衆全てがケルン派を受け入れ、武装する事で解決するのです!」 何故そうなるのだろうか。 そこが判らないのだ。 「民衆が、彼女達こそが、二度目の脅威に立ち向かうのだ。通りすがりの者に頼りきりになるなど愚かしい。脅威から身を守るためには、自らが強くなる以外の救済方法など、この世の何処にありや? ケルン派の聖人たる聖ゲオルギオスはそれを知っていたのです」 神母の説教は最高潮に達している。 「民衆がケルン派に転向し、皆が武装する事によって問題は初めて解決を見る。二度目の竜に立ち向かう事ができる。そう聖ゲオルギオスは考え、あえて自らが民衆を脅すような真似をしてまで、人によっては侮蔑すら覚えるような事をしてまでも、皆をケルン派に転向させたのです」 何度も言うが、聖ゲオルギオスがケルン派であったという事実はない。 ちょっと信じそうになるのが性質悪いが。 「信徒ファウスト・フォン・ポリドロよ。これで答えになったのでしょうか」 ファウスト様、確かになんか筋が通ってるように思えるが、よく考えれば色々と間違っているぞ。 その事に気づいて欲しい。 横で思念を送りながら、ファウスト様の顔を見るが。 「……私が間違っていたようです。確かにその通りだ」 うん、駄目だ、この人も。 最初に言ったが、めっきり騙されてしまっているのだ。 聖書をちゃんと読んでいないファウスト様に反論する事は出来ない。 「判って頂ければ嬉しいです」 神母が笑顔で呟いた。 ともかく筋が通っている以上、それを否定する気は信徒たるファウスト様に無いのだ。 なるほど、確かに聖職者が無学の者を、問答で言い負かすことはこの世によくある。 それにしたって酷い。 これも何度も言うが、聖ゲオルギオスは聖書に出てこない。 ケルン派の聖書には掲載されているのかもしれないが。 「さて、ファウスト様。申し訳ありませんが、領主といえどもファウスト様だけを特別扱いするわけにはいきません。説教は殉教のシーンから再開します。王配までもがゲオルギオスの信念に打たれ、ケルン派に改宗しようとしたため、自尊心を傷つけられた女王が怒りに駆られたシーンから」 満足そうな神母が、朗々と語りだす。 「煮えたぎった鉛で釜茹でになったところで、ゲオルギオスは信念を曲げません。異教徒の神殿で棄教を迫られても、ゲオルギオスは信念を曲げません。それを見た王配は、ついに心を打たれてケルン派へ改宗しました。しかし女王はそれを許さず、王配を殺そうとしました。王配は殺されることを覚悟し、最後にゲオルギオスに問いかけます。『私は洗礼を受けておりません』と」 なんかどうでも良くなってきた。 ケルン派が改竄した聖人の話に、耳を傾ける事としよう。 「ゲオルギオスは答えました。『弟よ、戦いなさい。女王を貴方の手で殺すのです。貴方が今流す、敵の血が洗礼となるのです』と」 聖ゲオルギオス、絶対にそんな事言ってない。 「そして王配は、ゲオルギオスが投げ与えた聖なる戦棍で、女王を殴り殺しました。それを見届けたゲオルギオスは、今までの戦いで傷ついた身体を地面に伏し、満足げに息を引き取ったといいます。ケルン派はこれをもって、殉教としています」 聖ゲオルギオス、絶対にそんな最期じゃなかった。 「今ではエインヘリヤルとして歓迎され、ヴィーグリーズの野にて、敵である巨人どもを相手にまわしての活躍をしている事でしょう」 正しいのは最後の描写だけである。 今でも聖ゲオルギオスは死せる戦士たち、エインヘリヤルの戦士団の先頭をきって、ヴィーグリーズの野を駆け回っている事であろう。 それだけは間違いなかった。 「聖ゲオルギオスの最期に残した言葉から、私達ケルン派の信徒は何を読み取ることができるでしょうか。これは先ほど信徒ファウストが尋ねた内容に対しての返答と、何一つ変わらない信念であります。信徒よ、人に助けを求めてばかりではいけない。自ら戦棍を手に取り、立ち上がり、自らの敵を討つ。これこそがケルン派の精神の表れであります。信徒の皆がこの精神を忘れない限り、神は祝福してくださるでしょう」 ケルン派の主張は一貫としている。 汝らを守るため、その汝らが所属する共同体を脅かすものからの防衛のため、全ての力を貸そう。 だが、汝らも自らを救うために、自らの力をもって戦うべきであるのだ。 その事実を以てして、神は初めて祝福してくれる。 「……」 このマルティナ・フォン・ボーセルには、辛い事実であった。 私はもはやファウスト様の騎士見習いとして、立場を守られた身であり、その待遇を甘受するよりほかない。 仮に――私が自ら戦おうとすれば、何をする事が出来るのだろうか。 それを神に問いたかったが、おそらく神ですら、これに返答はしてくれない。 その事実だけを、私は?み締めていた。 第97話 母への追憶 夢を見ようとする。 礼拝を終え、自室に籠り、私の寝台で丸くなっている猫マリアンヌを撫でながら。 羽毛の詰まった肌掛けを身に寄せ、夢うつつとなる。 現実と夢の境界があやふやになった、過去の事を追憶する。 我が母、カロリーヌが生きていた頃の事だ。 嗚呼。 今思い起こしても、我が母はお世辞にも賢い人物とは言えなかった。 何せ、結末がアレだ。 領地も領民も何もかもを巻き添えに、最期まで付き従ってくれた従士や領兵も、何もかもを失い、反逆者の汚名の下で破滅した。 その結末に褒められるべき点など、何一つとして無かった。 そして、生きていた頃も同様だった。 あまり、賢い人ではなかったのだ。 「母上、これについて詳しく知りたいのですが」 領内にある、修道院の図書室。 母が聖職者に頼んで閲覧許可を頂いた場所にて、私は籠ることが多かった。 私はいつでも、より多くの知識を欲していた。 様々な事柄が集積された本や辞典を開き、その頁を指差して、物を尋ねる。 その答えが正しく返ってくることは、まずない。 「ごめんなさい、マルティナ。数日中には司祭様に聞いておきますからね」 母は学がなかった。 もちろん、文字の読み書きすら出来ない等ということではない。 領民1000名のボーセル領、その封建領主の次女、スペアとしての教育は施されていた。 同時にスペアはスペアに過ぎないのも、また事実であった。 別に母が劣等であるということではない。 だが、同時に優秀でもない。 冷静に査定を行うとするならば、武人としてのそれに才能が偏っていたのだ。 ゆえに、私の知りたい多くの知識について答えを返してくれる事はない。 猶予をもらう代わりか、母が申し訳なさそうに私の頭を撫でてくる。 いつもの流れであった。 私は私で、少し申し訳なさそうにそれを受け止めた。 そもそも、母を経由して尋ねる必要が本当はなかったからだ。 司祭様は修道院に居るのだから、図書室の本の内容全てを覚えており、自ら本を書くという頭の良い彼女に尋ねればよい。 私が知りたい情報は、それで得られるはずであった。 だが、私は母からその答えが知りたかった。 あの頃の自分をどう表現すれば良いのだろう。 愚劣か、幼稚か。 私はおそらく、母に多くを求めすぎていたのだ。 愚かしいこと極まりないが、自分の母であるならば、問いに答えてくれて当然であるべきなどと考えていた。 要するに、私は母に甘えていたのだ。 一緒に本を読み、それについて語り合い、可能であるならば知識を共有したかった。 私はいつでも、自分と語り合える人間を求めていた。 「マルティナ、やっぱり他の子供たちとは遊ぶ気になれない?」 「話が合わないのです」 乳姉妹とも呼ぶべきかもしれない存在の、他の子供たち。 母が軍役に出かけている間、忙しい間は従士の家族などが私に乳を与えてくれたらしい。 私の自意識がまだ明確でない時分に、確かにそういった子供たちはいた。 だが、駄目だ。 「彼女たちとは、あまりにも話が合わないのです」 「そう、そうね」 母が少し、悲しそうな顔で頷く。 私はおそらく、甚だしく頭が良いのだろう。 その自覚はある。 少しうぬぼれるのであれば、世にいう超人と分類される人間であるのかもしれない。 そんなことを、昔は考えてすらいた。 幼いころから聖職者や学者が使う古語、いわゆる学問言語や学術言語ともいわれる言葉。 神聖グステン帝国以外でも通じることから、高等共通語として使われるそれを理解することができた。 図書室の一部の本も、古語にて記述されている。 母は、それを読むことができなかった。 嫡女たる伯母と違い、そのための教育を受けていないからだ。 自分が読むことすらできない、辛うじて単語が拾えるような書物を指差して、物を尋ねてくる自分の子供。 母から見たそれは、あまりにも可愛げがない。 あの頃の自分に出会えるならば、一度尋ねてみたいものだ。 お前はどこまで愚劣で幼稚なのだと。 母が困って、悲しんでいることが理解できなかったのかと。 子供のころの自分は、あまりにも残酷だった。 ああ、そうだ。 あの頃のエピソードを一つ思い出す。 「母上、何を?」 寝ぼけ眼。 トイレに行こうとした際に、蜜蝋ではない、獣脂で出来た蝋燭の匂い。 それを嗅ぎ取り、母親の部屋へと歩く。 そこで、母上は書き取りの練習をされていたのだ。 「……」 返事に困り、目を泳がせる母上。 私は幼いながらに、その書き損じの紙が机に散らばるのを見て、何をしていたのかを理解した。 母上は、古語、高等共通語の練習をされていたのだ。 隠しきれないと理解していた母上が、言い訳のようにして優しく言葉を紡ぐ。 「私も……マルティナが何を聞きたいのか、理解しようと思って」 母は、私に対して正直であった。 真摯であったのだ。 せめて、何が出来るかと思い、何もかもを打ち明けようとしていた。 自分の能力が足らないのも、私に対して何も出来ないのを悟りながら。 吐き気を催す。 「別に、必要ないですよ。母上がそのようなことをされる必要がどこにあるのですか?」 私の、当時における言葉に吐き気を催すのだ。 何を考えていたのだ? 当時の私は、何を考えていたのだ? 甚だしい程に、吐き気を催すのだ。 9歳にも満たぬ私は、何を考えて、一生懸命に私に応えようとしていた母親に、そのような言葉を投げかけたのだと。 「そう、ごめんなさいね」 申し訳なさそうに、悲し気に呟いた母親の顔が、未だに脳裏に焼け付いている。 その手は、恥ずかし気に書き損じの紙を隠していた。 殺してやりたい。 私は、何を考えて、あのような酷い言葉が言えたのだろうか。 本当は自分の思いを受け入れてくれたようで嬉しかったくせに、私はあの時、恥ずかしいことをしないで欲しいと矛盾した想いを抱いて――もう、やめよう。 私の母は、あまり頭がよろしくなかった。 よくて平凡だった。 私はそれ以上に愚劣そのものであったのだ。 そんな追憶。 母の、性格を。 そういったエピソードの一つを思い出すだけでも、その性格については感想を言うことができる。 誰に対しても優し気で、同様に酷く臆病な人だった。 スペアとして生きてきた人生ゆえに影があり、卑屈さを隠しきれない人だった。 実の娘である私に対しても、何事も自信がなさそうに呟くのだ。 何度でも呟くのだ。 「ごめんなさい、マルティナ」 と。 多分、自分自身の事が大嫌いだったのだろう。 カロリーヌ・フォン・ボーセルという自身の存在を、酷く曖昧なものと考えていたように思える。 病弱な姉のスペアとして産まれ、領民の間に混じっての統治を行えど、さりとて領地内政への決定権まではなく、そのくせ全ての軍役には酷使される。 ボーセル家からはいいように扱われ続けながら、それに真っ向から反発する勇気はない。 覇気というものが、あまりに感じられない人だった。 仮に私が祖母の立場――跡継ぎを決めずに卒中で亡くなったという愚劣な貴族そのものの立場だとしても、母を後継者とするのは不安だったろう。 単なる軍人として、兵や指揮官としてなら有能であったのかもしれない。 現に、アンハルト最強の超人であるファウスト様は、母の事を一廉の武人であったと以前に発言した。 だが、やはり封建領主としてはどうか。 領主騎士としてはどうなのだろうか。 ファウスト様と比べると、弱い。 あの奇妙な価値観を持つ、自己完結じみた暴走癖すら持つ行動力の塊と比較すると、あまりに惰弱であった。 9歳にも満たぬ実の娘にすら、酷く申し訳なさそうな顔を見せるのが母だった。 仮に祖母に対し、母が自分こそがボーセル領を引き継ぐのに相応しいと嘆願するような行動力を見せれば、あっさりと後継者として認められたのではないだろうか。 だが、その選択肢はなかった。 「意味のない思考だ」 こんなことを考えても意味はない。 結末は何も変わらない。 だが、どうしても追憶は止まらない。 知りたいことが、たった一つだけあるのだ。 どうして母が、あのような行動に出たのか。 世の中の全てに引け目を感じていたような臆病な母が、突然のように、自分をとりまく世界の全てに反逆したのか。 私はその事実を、母が家督簒奪のために兵を起こしたと修道院で初めて聞いたとき、司祭様に明確に否定したのだ。 そんな大それたことができる人物ではない、と。 司祭様は、酷く困った様子で呟いた。 何もかもが片付くまで、この修道院を出てはならない、と。 私は、全てが終わるまで司祭様に匿われていたのだ。 状況の全てを知り得たときは、すでに母はファウスト様に首を刎ねられていた。 「……」 泣いてはいけない。 そのような権利、私にはないのだから。 あの時、ファウスト様によるリーゼンロッテ女王陛下への助命嘆願を受け入れ、命を繋いでしまった私には、そんな権利などない。 泣くことが許されるとするならば、それは唯一、母の後を追って死を受け入れた時だけである。 私はあの時、泣く権利を手放したのだ。 「どうして」 何故。 何故、何度もいうが、度胸がない人だった。 臆病者だったのだ。 武人としてはそこそこの才能があったものの、酷く神経質で、周囲の声を気にしているようだった。 自分が、祖母からどのように評価をされているのか。 病弱な伯母を、心から嫌っていながら、領地によきように扱われる状況を甘受し。 せめてもの慰めのように、軍役を共にする近しい従士や領民に心配りをし。 何かの代償行為のように、私に対して必要な教育が与えられるよう、聖職者に縋っていた。 その結果は? 祖母からは後継者として指名をされず。 姉はすでに家督を譲る気であったものの、嫌悪からの関係途絶によりそれを知ることが出来ず。 軍役を共にしてきた近しい従士や領民の全てを、地獄へと導き。 縋っていた聖職者からは破門され、生涯の全てを否定された。 何もかもが虚しかった。 何もしなければよかったのだ。 それまで通り、カロリーヌ・フォン・ボーセルという人間が過ごしてきた通り、何もしなければ全てが手に入った。 母はまだ、生きていた。 その仮定を知ってしまったからこそに、虚しく思うのだ。 「何故、家督簒奪しようなんて――愚かなことを」 勝ち目は薄かった。 母は所詮スペアの立場であり、嫡女ではない。 多数派ではなく、少数派にすぎなかった。 多少腕に覚えはあれども、ファウスト様のような極端な超人でなければ、数の力に勝てはしないのだ。 母と軍役を共にしてきた者は、最後の最後まで忠誠を全うしてくれたと聞く。 実際に戦場で争ったファウスト様や、ポリドロ領民がその最期を讃えてくれたのだ。 母カロリーヌとその兵卒たちに、臆病者など一人もいなかったと。 私の知っている母とは違う姿を、皆が話す。 誰もが理解していない。 確かに彼女は悪いことをしたかもしれないが、お前までも恥じてはいけないと悲しそうな顔で話す、ファウスト様には何もかもがわかっていないのだ。 違うのだ。 本当の母は、どうしようもないくらいに臆病者だったのだ。 愚か者で――違う、私はこのような事言いたくない。 愚か者などと、本当は一言とて言いたくもない。 ただ、ただ、ひたすらに弱くて優しい人だったのだ。 実は何も持っていないのに、それをひたすらに耐えてしまう、悲しい人だった。 それが私の知っている姿だった。 今まで生きてきた生涯の全てが、伯母から家督を譲られることにより報われるはずだったのだ。 現実は違った。 母は首を刎ねられ、その首はアンハルト市街に晒され、事情の全てを知る民衆から指を差されて笑いものにされ。 そのうち肉は腐り果て、岩づくりの城門外に投げ捨てられ、餓えた犬にでも食われたのだろう。 それは仕方ない。 だが。 私の知っている母は、そんな罪人ではなかった。 間違っても姉を廃して、家督と領地を簒奪しようなどと決意できる人ではなかったのだ。 私、マルティナは何かを忘れている。 或いは、何かに気づいていないのだ。 母カロリーヌは何故あのような家督簒奪などと、暴挙に及んだのか。 何故あのような臆病な母が、反逆など考えたのか。 愚かな泡沫の夢を見ようとしたのか。 ずっと、それだけが気になっている。 「にゃーん」 頭を撫ぜる感触、マリアンヌが肌身を頭に寄せてきた。 私は何時かに母から与えられた感触を思い出しながら、そのまま眠りに落ちることにした。 いずれ、私は理解できるだろう。 母が何を考えていたのかを、どうしてあのような事をしたかを。 私はそれを、娘として必ずや突き止めなければならないのだ。 私だけは、それを知っておきたい。 そうすれば、忘れない者がいれば、少しは地獄に落ちた母への慰めになるかもしれないから。 思考は、そのまま眠りに溶けていった。 第98話 戒律と告解 ケルン派の木造教会にいる。 清掃だけは毎日キチンとされているのか、教会内は埃一つない。 視線の先には、何代使ったかも判らない年季の入った彼女の像――神の子が磔にされた、贖罪主の等身大の像が飾られている。 もちろん、場所は教会の中央であり。 その贖罪主の手元には、ケルン派の象徴たるマスケット銃が飾られていた。 ――色々言いたいことがあるが、それは辛うじて抑える。 贖罪主が磔にされている手に、なぜマスケット銃を握っているのか。 そのどうしても口にせざるを得ないツッコミを堪えたのだ。 マスケット銃の以前は、どうせメイスか何かの武器だったんだろうとか。 そういった事も口にしなかったのだ。 私の堪忍袋は酷く大きいものだと思われた。 鎧戸から差し込まれる採光は美しく、椅子に座る神母を照らしている。 「さて、信徒マルティナに、ケルン派の戒律について話しましょう」 「はあ」 ファウスト様は、ここにおられない。 今頃は剣を振ってらっしゃるだろう。 一度、ケルン派の戒律について信徒として知っておくべきであると、私を教会に送り出していた。 私はケルン派の戒律なんぞ知りたくないのだが。 そもそも、割といいかげんなファウスト様と違い、私はちゃんと聖書に目を通している。 「この世には多くの宗派があります。貨幣を蓄積することを悪徳と呼んだり、人間の社会的上昇を悪徳であると見なしたり、社会的栄達のために書物を読み、時には聖書を持つことすら許されないと火にくべて灰にしてしまった聖人もおります。もちろん彼女たち宗派には、彼女たちのちゃんとした言い分があるために、そうしているのです」 とはいえ、ファウスト様の指示に逆らうわけにもいかない。 何度もいうが、私を破門状態から解除してくれたことにおいては、本当にケルン派に感謝もしていた。 だからまあ、おとなしく話自体は聞くこととしよう。 「ケルン派には、その宗派を否定する気はありません。清貧には清貧であることの意味はあります。私欲を捨て、正しい行いのために生きる。神の摂理の元に生きること。それをどうして批判できましょうか」 そうはいうが、ケルン派は実のところ貧乏ではない。 このポリドロ領では質素な生活を送っているかもしれないが、司教区には巨大な工房都市があり、神聖グステン帝国中に武器を輸出している。 膨大な収益を稼いでいるのだ。 もっとも、ケルン派はその収益全てを新たな武器開発に注ぎ込んでしまうのだが。 「利益の追求と資産の蓄積、それ自体は一見すると悪徳でありましょう。ですが、人はパンのみにて生きるにあらず。我ら聖職者とて、序列はあります。かつて、ある聖人が考えました。誰かが貨幣を蓄積すれば、誰かが貧しくあらねばならないと。ならば、私が貧しくあろうと。それは精神自体は尊い考えでありますが、同時に間違いであります。アンハルト王国を例とすると、貨幣鋳造権を持つリーゼンロッテ選帝侯が、アスターテ公爵領から採れる銀を元手に加工をはじめ、銀貨の貨幣数などの総量は近年格段に増えております。もちろん、人々が口にするパンの量とて増産が進んでいるのですよ。富とパンの供給は、彼女の善政により、多くの手の元に届くようになりました」 神母様の言葉を適当に聞き流しながら、その知識について考える。 どうも、蛮族の集団と母カロリーヌなどからは言われていたが、ケルン派聖職者の見識は高い。 かつての我がボーセル領にいた司祭様と、眼前のポリドロ領神母の知的水準はほぼ変わりないのではないかとも推測されるのだ。 「この私の言葉などは、屁理屈の類に過ぎないと思われるかもしれませんが。事実上、現在の宗教などは金融や商人職との宥和は進んだといっていいでしょう。多くの幸福のために、ありとあらゆる手段を模索していくのが本当に最善の道と呼べるのではないかと、神の言葉でなく、この神母としては考えます」 「神母の個人的な意見ということですか?」 合いの手を入れる。 私はここに、ケルン派の戒律について聞きに来たのだが。 「そういうことになりますね。信徒マルティナ。私は先代領主マリアンヌ様と一緒に、このポリドロ領で領地の発展に尽くしてきました。外からもたらした知識として、私はこのポリドロ領に御用商人として来られるイングリット殿とも話し合い、時にはマリアンヌ様の横に立って、価格交渉などを論じたことすらあります」 「それは」 聖職者のする仕事ではないと思うのだが。 まあ、世の中には騎士の魂である剣や鎧を質草にとる、無茶苦茶な教会もあるにはあるそうだが。 要するに事実上の金融業を営んでいる教会も、確かに存在する。 「若い頃には農作物の種類を指定したりもしました。オリーブを持ってこい。この温暖なポリドロ領ならば気候的に可能なんだ。ついでに値段だ、安くしろ。まあ酷く無理を言ったものです」 「聖職者として、それが正しい行いだと考えておられるのですか?」 疑問を呈す。 聖職者として、封建領主の相談役の立ち位置としても出しゃばりすぎである。 「では、間違った行為だとでも?」 「……いえ」 神母が優しく微笑む。 別に、間違っているとは思わない。 このポリドロという追放者が起こした村の、そのルーツを考えれば、知恵を持った最新の領土改善策を指摘できる人間は金貨より貴重である。 それが目の前の人物であった。 民衆に近い立ち位置を横で歩き、やってる事を完全に否定もしがたいケルン派という宗派を信じることができたのは、何よりポリドロ家にとっては幸せだったのだろう。 「信徒マルティナ。私はマリアンヌ様と非常に親しい立ち位置であり、このポリドロ領のルーツすら知っているのですよ。先に憶測を抱き、それを示唆したのは私でしたがね。貴女は?」 「どうせ気づいてしまうだろうから、と先にファウスト様から教えて頂きました」 私は戒律を聞きに来たのだが。 いつの間にやら、二人してポリドロ家の話をしている。 少し、怪しい。 私は現在の状況について、疑心を抱く。 「それは羨ましい。私などは、全てを知るまでに3年かかりましたよ」 「ですが、神母様はより多くの事を知っておられる。ファウスト様や、先代マリアンヌ様の事など、私はあまり知りません」 「そうですかね」 少し、警戒しなければならない。 眼前の彼女は頭が非常に良く、ケルン派の蛮族神母などと馬鹿にして良い存在ではない。 この女、共通の話題で私の心を解き解そうとしている。 「私は、領主であるマリアンヌ様のことを気が触れてしまったなどと誤解する領民の心を、改めさせようともしなかった聖職者です。その罪は重い」 自分の弱みを見せて、警戒心を解くのは会話における常套手段である。 話が最初の趣旨からずれているのであれば、猶更だ。 「ファウスト様から以前お聞きしました。それにより推測を積み重ねました。マリアンヌ様がファウスト様以外の子を産もうとしなかったのは、嫡女が生まれてしまっては、ファウスト様の未来が押し潰されるからと」 相手が呟こうとしている台詞を先に口にする。 常に先手を取っておくことが、この手の輩には通用しやすい。 「私は、マリアンヌの告解を受けました。私は今から地獄に落ちるつもりである。それでも構わないとすら思っている。神の子からの贖罪はいらない。私は私の悪徳を果たすと。天稟の才を持ったファウストという子が可愛く、この子に領地も財産も技術も、自分の全てを与えてあげたい。故に他の子など作らぬ。私は領民の期待も、青い血としての領分も裏切ってしまうのかもしれぬ。それでも私は悪徳を行うと」 沈黙。 私の先手は、話の転換によって、あっさりと潰された。 いや、そんな事はどうでもよい。 この女、他人の告解を口にしたぞ、今!? 目を剥いて、眼前の神母を睨みつける。 「私は今、告解の守秘義務を犯しています。それはケルン派においても、破門と追放に値する罪となります」 神母は、私の視線に対して平然と応じた。 状況を完全に支配していた。 「今回で二度目となります。以前にも一度口にしている」 何を考えている? 怒りを越して困惑を抱き、ケルン派という異端的存在を見つめる。 「つい先日、ファウスト様に泣いて縋られました。懇願されたのです。教えてくれ、母が何を考えていたのか全て教えてくれ、と。今の私にはそれが必要なのだ、と。何度も何度も頭を下げ、血が出るほどに床に額を擦らせて、泣きながらに頼まれました。私は破門すら恐れずに、告解の守秘義務を犯して、全てを告白しました」 判断に困る。 今、目の前の聖職者が犯している禁忌と、会話の内容がぐちゃぐちゃになる。 何がしたい? 何をどうなって、そのような事を単なる騎士見習いに話す。 何故、ファウスト様は今になって、母の告解を聞き出そうとした。 「私は悪いことをしたとは思うものの、まあそれで破門されるのも地獄に落ちるのも構わない。そのように考えています。ああしなければ、信徒ファウストという子は死ぬまで救われないままだった。小さな頃から知っている、あの子の人生を壊すぐらいならば、私が地獄に落ちてしまえばいい。そのことを親友たるマリアンヌと私は共有していました。信徒マルティナも、この行いを宗教組織や信徒への裏切りと考えるのであれば、アンハルト王都の大教会に手紙でも送ればよろしい。私はその裁きにおとなしく従いましょう」 何故。 その思考で脳内が埋まる。 正直言って、あまりにも突然すぎた。 この聖職者、何を言いたい。 「信徒マルティナ。私は悩みました。このような事を口にして良いか、酷く悩みました。貴女を大事にする、貴女を守ってきた全ての人間が、全員揃ってそれだけは止めてくれと泣き叫ぶような行為をする事を。ですが多分、ファウスト様がずっとあなたの事を心配なさっているように、貴方はいずれ気づいてしまうのです。だから、その心に抱えた火薬を爆発させるなら、同じ苦痛を知るファウスト様が横にいる今をおいて他にありません」 苦渋。 顎が割れ、口内に溢れ出す血を飲むような表情をしていた。 目の前の神母の会話を整理しろ、マルティナ。 私ならばそれができるはずだ。 「ケルン派という宗派の戒律について話をするよう、ファウスト様には頼まれました。ですが、それは今ではありません。先に、貴女の問題を解決することが優先であるように考えました。信徒マルティナよ、考えるのです。この問題だけは、この問題ばかりは、貴女を守ってきた全ての人間のために、自分自身で気づかなければならないのです」 神母は、今までの言葉に全ての意味を込めた。 具体化すれば三点。 彼女は戒律の話をキャンセルし、告解の守秘義務を犯し、その最後に破門を犯してまでも優先せざるを得ぬ物があるという言葉を込めた。 これで、賢い貴女ならば、何もかも気づいてしまうという意味を込めて。 「信徒マルティナ。領主館へと帰りなさい。その頃には貴女は全てを知っているでしょう。貴女という存在に揺り動かされ、貴女をこの世界から守ろうとしてきた全ての人間の想いが。悲しい人々の叫びが」 背中を押される。 全ての問題を投げかけ、それで自分の役目は終わったとばかりに、教会から追い出される。 教会のドアは、優しく閉じられた。 もし静かにドアをノックすれば、それは再び開きそうなほどに。 だが、それは躊躇われた。 「神母は、自分自身で気づかなければならないと仰られた」 ならば、自分で考えることにしよう。 ファウスト様が待つ、領主館へと歩き出す。 思考は止まらない。 神母が投げかけた言葉の粒々。 おそらく、これは神母が私に対してあたえたテストなのだ。 ひとつ、悪徳の話。 残念ながら、悪徳を犯さなければ、人は時として何かを得られない。 ひとつ、富とパンの話。 それが分け与えられる量は増えど、未だ全員に対してではない。 ひとつ、改善のためのありとあらゆる模索について。 聖職者さえも、その手を望んで伸ばすことがあることについて。 ひとつ、ポリドロ家のルーツ。 より詳しく言うならば、知っているものと知っていないものとの違い。 ひとつ、告解について。 神母ならば知り得た事について。 聖職者ならば知り得た事柄について。 ひとつ、告解の守秘義務を犯すことについて。 この世の中には、地獄に落ちても、破門になってでも、目の前のそれを優先することがあることについて。 ひとつ、本当は誰もが望んでないことについて。 マルティナという私こと9歳児がいつか気づいてしまうそれが、訪れたことについて。 ひとつ、教会のドアについて。 かんぬきを掛けられたわけではない。 ドアは何度でも開くことができる。 考えよう。 これはリドル(なぞなぞ)であり、神母が言うには、もはや私の人生では避けられなくなってしまった事なのだ。 ならば、受け止めようではないか。 それより、何より。 多分、私が今考えていることと、神母が告げる気づきかけていることと、それは。 実のところ、一致しているような気さえしたからだ。 第99話 リドルの解き方 舗装された道を歩く。 ファウスト様が待っているであろう、領主館への帰り道。 その横では、畑仕事を終えて家に帰っていくポリドロ領民が見受けられた。 家に帰りつけば、その夫や子供が待っているのであろう。 「ひとつ。悪徳について」 神母から与えられたリドル(なぞなぞ)。 穏やかな風景とはとんと縁のない、それについて考える。 私の母は、悪徳そのものであった。 何の罪もない人々を沢山に殺したのだ。 山賊と何の変わりもないどころか、それ以下であった。 だが。 「我が母カロリーヌは、本来は悪徳などとは程遠い人であった」 何もかも、この世の全てにビクビクと怯えていたような。 それでいて、せめて自分なんかに従ってくれる皆には優しくしてあげたいと。 軍役を命じられた平民の従士と兵隊――酷く母に対して冷たかった祖母は、陪臣の騎士一人すら母カロリーヌに従わせずに、平民ばかりの兵隊を編成させていた。 それとてスペア。 平民達も家を継ぐ長女ではなく、最悪は死んでも構わないと思われる次女どころか三女以下の集団。 それが、かつてのボーセル領にて軍役に駆り出される民兵の全てであった。 しかしそれは、家を守るという道義に対し、別に逆らうものではなかったのだ。 「母カロリーヌとその兵隊が逆らったのは、自らが家督を簒奪するため?」 誰も彼もが、安全な場所にいて、自分たちを危険な軍役へと追いやる家督相続者たる長女への憎しみを抱いてはいただろう。 それは悪徳であったはずだ。 だが――皆、私には優しかった。 それはマルティナという貴族階級に対する優しさではなく、小さな子供に誰もが持つような優しさであった。 兵隊としての酷く無骨な手で、頭をがしがしと兵隊たちに撫でられたことがある。 母カロリーヌは、それを苦笑して見守っていた。 彼女たちはボーセル領への反逆と、アンハルト王国直轄領への略奪という酷い悪徳を行った。 「ひとつ。富とパンの話」 ポリドロ領でさえ、ポリドロ家とそれ以外は明確に分かれている。 貴族階級である騎士と、働く人である平民の違い。 だが、その区別は家庭にもある。 五月祭。 豊穣の男神を祭るその儀式においては、年に数回しか顔を合わせぬ領主一族のボーセル家とて一堂に会した。 祖母と、伯母ヘルマ、母カロリーヌ、そして私ことマルティナ。 ああ、そうだ、もう一人いたはずなのだ。 伯母が産んで、すぐに亡くなったと知った少女。 祖母と伯母はそれを隠しており、母はそれを生きてると信じていた。 五月祭にその娘は現れず、代わりにその娘の分の食事が置かれていた。 当然、次女たるスペアの娘にすぎない、私へのパンとスープの量はその娘より少なかった。 幼少の記憶を辿れば、母は、あのとき憎しみの目でその座を見つめていたのではなかったのだ。 「私は疑っていたのだ」 伯母の子など、本当はいないのではないか? すでに死んでしまっているのではないか? と。 一度こっそりと、母に対して問うたりもしたのだ。 母カロリーヌは、それを悪いように解釈してすらいた。 「私が姉の娘を殺めないか、母や姉は疑っているのだろう」 返答は、母カロリーヌによる暗殺への猜疑があるから隠しているのであろう、という言葉であった。 信用されていないのさ、とも。 寂し気に呟いた。 これは推察になるが、伯母ヘルマと母カロリーヌは、明確に区別をされて育てられたのではなかろうか。 長女が家を継ぎ、次代に繋ぐための種として。 それ以外は、余裕があれば分家を与え、そうでなければ肥料として土に還る。 それすら出来ないのであれば、家を出て、勝手に野垂れ死ね。 そのような扱いでしかなかった。 違う環境があるとすれば、よほどに力を持つか、逆に家族全員が力を合わせねばならない程の貧困か。 公爵として分家することができたアスターテ公爵家などは前者。 ポリドロ領民のように、家族全員で死に物狂いで生きているのが後者。 貴族という存在に第三の道があるとすれば、王都に上がって実力を認められ、法衣貴族となるぐらいであろうか。 かつては王配たるロベルト様がその窓口になっていたと聞くが、今ではもう存在しないルートだ。 まあ、それはよい。 重要な事は―― 「母カロリーヌは、それについて最後まで恨み言一つ吐かなかった」 自分の境遇を憎んではいたが、恨み言までを吐くようなことはなかった。 家を憎んではいたのだが、そのような事を私に口する人間ではなかった。 多分、私に嫌われたくなかったのだと思う。 子にすら負の側面を見せられないほどに、ある意味で弱い人間だったのだ。 富とパンは全ての人に等しく与えられるわけではない。 その鬱屈は、母の内心にずっと埋もれていた。 嗚呼。 酷く、気持ちが重たくなる。 でも、やらねば。 あのケルン派の神母は、この事を理解する時が来たのだといった。 私が母カロリーヌを愛するならば、最後までやらねばならないことであった。 「ひとつ、改善のためのありとあらゆる模索について」 母は無学であった。 だが、その子供である私には、それゆえ余計に教養を望んでいたように思える。 神の門を叩き、修道院にて司祭様たる女性と縁を繋いだ。 私は、司祭様からの好感を得た。 幼いながらに知識を望み、高等共通語たる古語を幼い頃から容易に理解する私を見て、相好を崩した。 「信徒カロリーヌ! 貴女の子は本物だ、本物の超人なのだ!! 神に才知を与えられた子なのだ。この子は私の命を懸けてでも、本物に育て上げて見せる! ボーセル家が何を言おうが、私は貴女からの嘆願を守ろう!!」 貴族間にてよく行われる誉め言葉ではなく、本当の超人というそれであると、司祭様は私を賞賛する。 司祭様は私の頭を撫でるという、よくわからない行為。 何故、誰も彼も、兵隊も司祭様も、私の頭を馬鹿みたいに撫でたがるのか。 母は酷く困ったように、それでいて嬉しそうに私の顔を見つめている。 ――そんな、昔の事を思い出す。 母は私の才知に対して、自分の力でなんとかなる全てを行おうとした。 おそらくは、ファウスト様のように頭を地に擦り付けるような思いで、司祭様に嘆願して。 嗚呼。 母は、何でもかんでも、私の事ならばやろうとしていたのだ。 心臓が痛くなる。 未だ、ケルン派神母の言いたいことが判らない。 思考を続ける。 「ひとつ、ポリドロ家のルーツ」 暗いもの。 ポリドロ家とその領民が、容易に明かさないが、同時に心から誇りにしているもの。 それを馬鹿にする者がいれば、翌日には死体となり、所在は行方不明になるだろう。 そう感じさせるような、全ての一体感。 それは追放者としてのルーツがあることからの、それであった。 先ほど、長女とそれ以外の扱い、富とパンについて述べたが。 このポリドロ領では、ポリドロ家と領民が食べる食事の違いは、かつて量ぐらいでしかなく。 その量すら、ポリドロ家に招かれて、家に持ち帰られた野菜や果物という形で家族に平等に分け与えられるのだろう。 ポリドロ家とその領民は、一つの神聖なる共同体として今までを生きてきたのだ。 母は自分に心から付き従う兵隊――スペアである彼女たちとともに、共同体として何の心を一致したのであろうか。 長女たる私には、彼女たちの心は判らない。 いや、嘘を吐いた。 彼女たちは、貴種と平民という違いはあれど、スペアに過ぎないという点で一致している。 思考は続く。 「ひとつ、告解について」 母とて、司祭様に告解はしたであろう。 司祭様とは、かつての我がボーセル領にて最高の知能と学識を誇る存在に対して、古語の少しも読めない母は親しかった。 祖母と伯母は、聖職者に対する配慮が少し足りなかったのではないか。 母は自分の懐に入る金銭、少しばかりのそれを全て聖職者に収めて――いや、それでも足りない。 祖母や伯母から入る貨幣の方が、量は多かったであろう。 それでも、司祭様は母に心を寄せた。 修道院の図書室に閉じこもった私に対し、司祭様は時間さえあれば話しかけ、私からの質問に答えた。 図書室が暗い!などと叫んでは、私が本を読んでいる場所にステンドグラスを設けた。 神がステンドグラスを覗き見して、貴女を見守っておられるのだ、などと仰っておられた。 司祭様の事は嫌いではない。 嘘は一つもない。 そんな嘘、全ての爪を剥がされ、歯の全てを抜かれたって言えるものか。 だって、私のせいで死んでしまったから。 修道院に匿われた私の身を守るため、最期の最後まで抵抗し、司祭様は私を守り抜いた末に殺されてしまったのだ。 ボーセル領の陪臣騎士たちから。 私は図書室に閉じ込められ、その扉を守りながらも殺されてしまった、司祭様の嘆きの声を覚えている。 一生忘れられない。 「この扉を開けたものは、我が魂の全てを懸けて呪い殺してやる。殺せるものなら殺してみよ」と。 司祭様はそう全ての世の中に対する憎悪を込めて、叫ばれたのだ。 私は連れ去られ、その首を吊るされようとするところで、伯母であるヘルマに命を救われた。 嗚呼。 母は、何を司祭様に告解したのであろうか。 娘にすら漏らせぬ多くの悪徳と怒りを、司祭様に話していたと思うのだ。 それが知りたい。 「嗚呼」 言葉が漏れる。 私は何かに気づこうとしていた。 それは如実に予想できるのだ。 だが、続けなければ。 これが聖職者たる司祭様を巻き込んでしまい、死なせてしまった私に対する、ケルン派が出したテストであるのならば。 それは続けなければならなかった。 歩き続ける。 ファウスト様が待っている、領主館への道に、思い悩みながらも歩き続ける。 「ひとつ。告解の守秘義務を犯すことについて」 苦痛が起きている。 私は気づきかけている。 もちろん、司祭様が私に守秘義務を犯したわけではない。 だが、その内容は見当がつく。 娘にすら話したことのない、悪徳そのもの。 自分を軍役にて良いように扱う者たちへの怒り、そして――家督簒奪のための反乱についてさえ。 あの親しかった母と司祭様は会話したのではなかったのか。 だって、私が匿われている。 修道院の図書室が一番安全な場所だからと、司祭様は応じたのではないか。 母の家督簒奪に、それこそケルン派のように戦棍を握りしめて協力しないまでも、消極的な賛成を行ったのではないか。 だって。 だって、司祭様も長女ではないのだ。 あれほどの英知をもってしても、嫡女ではないという現実から逃れられず、家を継ぐことができなかった。 だから聖職者の道を選んだ。 栄達の手段として、子を産むことを諦め、聖職者の道を選んだのだ。 私は司祭様から、甚だしく可愛がられていた。 私の母と司祭様は親友で、司祭様にとっての、共有する一人の子なのだ。 度々に、司祭様は口にした。 嗚呼。 私は理解しかけている。 あの神母はおそらく、私にかつての領地たるボーセル領にて何があったかを、何らかの手段で知ったのだ。 これは寓意である。 あの司祭様と、私の母カロリーヌが親友であり、その子を自分の子のように思っていたのと同じくして。 あの神母様と、ファウスト様の母マリアンヌが親友であり、その子を自分の子のように思っていたのとは等しい。 私は理解しかけている。 ケルン派の神母が告解の守秘義務を犯してまで願う事。 ファウスト様が、その守秘義務を犯してまで、自分に全ての真実を打ち明けることを望んだことを。 その意味を理解しかけている。 誰も彼もが優しかった。 自分なんぞ地獄に落ちても構わないから、自分の子だけは救いたかったのだ。 泣きながら、顔を覆う。 そうしながらも、道は舗装されている。 歩く道ぐらいは、選ぶ事が出来るのが不愉快であった。 「ひとつ、本当は誰もが望んでないことについて」 ひとつ。 そして最後。 私は涙を流している。 理解してしまった。 理解してしまったのだ。 私はとんでもないクズであった。 何一つ、今まで何一つ、私は理解していなかったのだ。 私に関わる、全ての人が私を守ってくれていたことを。 私は何もをそれを理解していなかったことを。 「母は、それでもよかった」 母は、スペアとしての人生を甘受したのかもしれない。 「兵隊は、それでもよかった」 母に従う従士や領民は、スぺアとしての人生を甘受したのかもしれない。 「司祭様も、それでもよかったのだ」 司祭様は、聖職者として書物を読み書きする、その人生を甘受したのかもしれない。 「一人だけ、そこに混じってない異物がそこにいた」 私だ! マルティナ・フォン・ボーセルという、次女の娘にして、その嫡女たる私は何なのか。 母に、兵隊に、司祭様に可愛がられ、その存在を認められた私は何なのか。 それを問う。 私は気づきかけている。 自分という異物が何をもたらしたかの事実に! 彼女たちは我慢できたのかもしれない。 甘受したのかもしれない。 その彼女たちに、私は一つの問いをもたらした。 「お前はそれでも、良いのかもしれないが」 感情が、心臓の拍動に異変をもたらしている。 太ももに力を入れることはできず、よたよた歩きとなる。 一路、私の足は領主館へと向かっている。 そこで、何も知らずに、同時に、私に何があったのか全てを知ってしまったのであろうファウスト様の元に近づくために。 だが、もはや聞く必要はないのではないか。 私は気づいてしまっている! 彼女たちは、私の存在に問いかけを受けたのだ。 悪徳への誘いを受けたのだ。 私が自意識過剰の存在であり、これが思い込みにすぎないとは、もはや呼べなかった。 母も、それに従う領民も、司祭様も、こう誘いを受けたのだ。 「お前はそれでも良いかもしれない。だが、あの子はどうなるのだ」 マルティナ・フォン・ボーセルという存在はどうなるのだ。 スペアの子は、所詮スペアに過ぎないのか? お前はそれでよいかもしれないが、この子はどうなるのだ。 お前が産んだ子は、頭を撫でた子は、死ぬまで表舞台には立てぬだろう。 だって、スペアの子だからな。 一生、報われることなどないだろうさ。 スペアの子はスペアでしかない。 そういう差別的な論理。 「嗚呼」 皆が勘違いをした。 伯母ヘルマの娘が死んだ以上、私ことマルティナをボーセル家の跡取りとするしかない。 誰もが、その事実を知らずに勘違いをした。 お前らスペアの子はスペアでしかなく、家督なんぞ継げないぞ、などという現実を目の前にして狂ったのだ。 自分などはどうでもよいが、子が差別を受けた! その未来など、どこにもない。 その吐き気をする憎悪だけが、目の前に転がっていた。 「嗚呼」 私は手で顔を抑えても、抑えきれぬ涙を指の端から零していく。 私は知った。 皆が、自分の事などどうでもよくても、自分の子には、目の前の子の境遇には激怒をした。 マルティナ・フォン・ボーセルは領地など継げない。 母カロリーヌと同じく、病弱な伯母ヘルマのその娘、病弱な娘にとってのボーセル家の奴隷として従うしかない。 その架空でしかない未来に怯えたのだ。 どれだけ能力があろうともスペアの子はスペアでしかなく、飼い殺される。 誰もが、私というマルティナを眼前に理解したのだ。 私が、皆を殺した。 その事実が目の前にあった。 私など。 私など、産まれてこなければよかった。 誰もがスペアとしての自分に限界ながらも我慢している事実はさておいて、平穏な余生は送れる。 その事実を横にして、家督簒奪を行って、悪徳を行って、幸せな未来を望むなど。 その悪徳の理由とする、マルティナ・フォン・ボーセルという人物など。 私など、産まれてこなければ良かったのだ。 私は泣きながら、ファウスト様の場所に歩みを寄せる。 あの時、何もかもを理解せずに裁きを望んだ、斬首を望んだそれを。 再び、心からのそれを願っている。 第100話 葬送 嗚呼。 嗚呼、ようやく理解した。 私が何もかも悪いのだ。 あのどうしようもなく臆病な母は、確かに一つの決意をした。 流されるまま生きてきたスペアとしての自分の運命全てに、産まれて初めて反逆を決意したのだ。 たった一人の娘のために。 そうして、全て失った。 何もかも、私が悪いのだ。 私など、産まれて来なければよかった。 母の子が私ではなく他の誰かでさえあれば、何もかもが上手くいっていたのに。 皆が期待を掛けてしまうような事のない、平凡な子でさえあれば。 きっと、何事も上手くいっていたのだろう。 「私が母を殺した」 単純な事実を口にする。 夕暮れが訪れた。 太陽は暮れ落ちようとしていた。 ケルン派の木造教会の扉は、未だかんぬきを掛けられていないだろう。 だが、道を戻って、その扉をノックすることなどできない。 私の懺悔を聞いてくれる人間など、この世の何処にもいないのだ。 この罪を赦してくれる人間が、何処に居るというのだ。 「……」 太ももに力が入らない。 震えるのではなく、単に筋肉に力が入らないのだ。 なれど、足だけは動く。 酷くよろよろとしていて、覚束ない。 それでも、何処かには行かなければならなかった。 立ち止まるにしても、ここは相応しくない。 道端で死ねば、領民に迷惑がかかるだろう。 今、自分がもはや行ける場所などは、ただの一つしかなかった。 騎士見習いとして自分が従っている、その領主騎士の居場所。 「ファウスト様」 その名を口に出す。 あの人とて、かつては何もかもが絶望に見えただろう。 ヴィレンドルフに赴いた際の、あの人の背中を思い出す。 騎士見習いとして。 従士として傍に侍り、カタリナ女王陛下へ話しかける言葉を聞いた。 母の愛に何も気づかずに、何も返すことが出来なかった。 死んだその時になって、やっとのことで全てを理解をし、もはや何も出来ないことに絶望したとの言葉を。 だが、同時に。 私の眼前にて、涙を流しながらカタリナ女王陛下に告げたように。 相手が死してなお想う事で、亡き相手に届く愛があるのかもしれませぬ、という言葉も聞いた。 嗚呼。 違う。 ファウスト様と私とでは、明確に違う。 生前からその信頼関係が、絆が深いところで繋がっていた、ファウスト様やカタリナ女王陛下と私とでは違う。 「あなた方はそれでいいだろうさ」 明確にファウスト様とは違う点があった。 私はそんな信頼関係などなかった。 母カロリーヌが伸ばした手を、その歩み寄りを手酷くはねのけ、断った事すらあった。 母がその手で、恥ずかしそうに隠した、書き損じの古語の紙切れ。 嗚呼。 もはや、涙すら出てこない。 何もかもが嫌になる。 何故、私はその歩み寄りを恥ずかしいとすら思ったのか。 自分が吐き気を催す邪悪にすら思えた。 「私など、産まれて来なければよかったんだ」 それだけが結論だった。 ファウスト様は亡き母親であるマリアンヌ様に対し、全ての事をしたと聞く。 亡き母をおぶるような思いで、墓石を山で見繕って担ぎ上げ、一昼夜かけて墓地に辿り着き、墓を作った。 心残りであったであろう領地のために、領主としての統治をこなしている。 壊してしまった貴族間の関係を再構築し、アナスタシア様やアスターテ公爵といった王族、そして第二王女ヴァリエール様の相談役としての立場を手に入れた。 マリアンヌ様が生きていれば、涙を流して喜ぶであろう。 自分の人生に悔いなどなかった。 地獄に落ちても構わない――自分の悪徳に意味はあったのだと。 墓前を弔ってくれるファウスト様を、黄泉の国から優しく見守ってくれているのであろう。 私などとは全く違う。 「私の母には墓すらない」 何も残っていない。 想いも、願いも、全ては灰になった。 骨すら残っていなかった。 私の母カロリーヌの首は、ファウスト様に討ち取られ、晒し物にされ、森に打ち捨てられ、もはや見つかる事もない。 遺骸は――。 領民の遺骸だけは、ファウスト様とポリドロ領民がちゃんと弔ってくれたと聞いている。 魂の抜けた体に罪があるとでもいうのか、その遺骸を晒すことに笑みを浮かべるほど悪趣味なものはないと。 ケルン派の教えに従い、戦後に全ての遺骸を弔ってくれたのだ。 母の首を除いて。 「嗚呼」 それだけが、せめてもの慰めであった。 母に付き従った領民たちの遺骸は弔われ。 聖職者であり、最後まで聖堂にて幼子を守ったという手前、司祭様の名誉も守られた。 ただ、ただ。 母だけは駄目だった。 赦されなかったのだ。 付き従った領民の親しい人に恨まれ、善き聖職者を巻き込んだと教会に憎まれて破門され、善き人々を虐殺した。 そのような人間が赦されて良いわけがない。 だけど。 たった一人だけ、それが赦されても良いと言った人がいた。 ファウスト様だ。 ただ一人だけ、母の墓を作ろうと言ってくれた人がいた。 「ファウスト様は言ってくれたじゃないか。ちゃんと言ってくれたじゃないか」 自分へと呪いの言葉を吐く。 あの時。 ヴィレンドルフへ赴いた時に。 私の顔すら覗き込むことせずに、ファウスト様の背中にしがみ付いていた私に、こう語りかけてくれたのだ。 「母親の悪口は言うもんじゃないぞ。我が領内でよければ墓だって」 そう言ってくれたのだ。 あの時、ファウスト様は決して軽口で言ったのではない。 私が頭を下げて頼み込めば、本当にそうしてくれたのは間違いない。 だが、私は手酷く断ったではないか。 あのような愚か者に、墓など必要ないと。 私の母カロリーヌに、墓など必要ないと。 吐き気を催すような言葉を吐いてしまった。 だって。 しょうがないじゃないか。 母が赦されることなど、この世にあってよいはずがない。 地獄に巻き込んだ者の全てにおいて、誰が母を赦すというのか? 「……」 唇を噛む。 泣いてはいけない。 その資格すらなかった。 悪いのは、全て私であった。 ただ、ただ。 自分の愚かさの全てを嘆いている。 ついに、領主館に辿り着いてしまった。 酷く古びていて、年代物の、ポリドロ領民の誇りの全て、ファウスト様の家だ。 まだ夕暮れは続いている。 ファウスト様は庭で、長大のグレートソードを振り回している。 だが、その鋭敏な感覚で、私が近づいていることなど気が付いていたのだろう。 こちらをゆっくりと振り向いて、少し訝し気な顔で呟いた。 「どうした、マルティナ。私は、ケルン派の戒律を聞いて来いと言ったはずだが」 人の機微には疎い。 だが、この時ばかりは私の様子が違うことに気づいたようだった。 私の。 私の懐には、小さな短剣が忍ばせてある。 今は王領となってしまったボーセル領から持ち出すことができた、このマルティナ・フォン・ボーセルという少女の少ない財産の一つ。 いざというときは、自決のために隠し持ったそれである。 いっそ、死んでしまえばよいとさえ思えた。 産まれて来なければよかったそれが、死に至る。 それが当たり前の結論ではないか。 何もかもが私のせいであったならば、あの時、ファウスト様が頭を地に擦り付けてリーゼンロッテ女王陛下に助命嘆願をしようが、私の斬首を断ろうが、その時自分の喉を突くべきではなかったか。 斬首を請う価値すら、私の命には無く。 本当はそうすべきだったのではないか。 そうすれば。 ちゃんとそうすれば、今のような酷い苦痛を味合わなくてすんだ。 心臓が、血を噴き出して喉を今にも込み上げそうな、痛みを味合わなくてすんだのだ。 だが、マルティナよ。 マルティナ・フォン・ボーセルよ。 ケルン派の神母からのリドルは、まだ終わってはいない。 その謎解きを終えなければ、この超人としての貪欲な知識欲は収まりそうになかった。 最期に聴きたいのだ。 「ファウスト様に、お尋ねしたい事があります」 「何だ」 心配そうな顔。 ファウスト様は、本当に気持ち悪い程に、どこまでも甘いのだ。 私は酷く泣きそうな顔をしているのであろう。 その顔で、問うた。 「先ほど、神母様から聞いたことがあります。ファウスト様は昨日、一つの事を尋ねられたと。先代マリアンヌ様の告解について尋ねられたと。その告解を明かした神母様は、おそらく自分が地獄に落ちるとすらお思いでしょう。それが判らないファウスト様とは思いません」 私が知りたい、たった一つの、謎解きが終わってないリドル。 「何故、それでも。そんな酷いことを、ファウスト様は、神母に尋ねられたのか。その秘密を無理に解き明かしたのか。それを聞かせてほしい」 それだけだ。 何故、ファウスト様はそんなことを尋ねたのか。 私には、それだけが判らないのだ。 「――」 沈黙。 きょとんとした、私の言いたいことが判らなかった様子ではない。 何か、来るべき全てを悟った様子でもない。 何かを呟くにして――それでも、何を言いたいのか。 おそらく、ファウスト様にもよくわからないのであろう。 「すまない、マルティナ」 ただ、謝るのだ。 何もかもに、申し訳なさそうに謝るのだ。 「お前に、謝らなければならないことがある。私は、何もかも理解してなかったし、多分、今からやることの全ても、ちゃんと理解していないのであろう」 手を規則正しく横につけ、頭をぺこりと下げ、ごめんなさい、とでも言いたげに。 からかっているのか、それとも本気なのか。 そのジェスチャーの意味すら良く理解できないのだが。 ともあれ、本当にファウスト様は申し訳なさそうに謝るのだ。 「怒られるのも、仕方ないと思っているのだ。だから、怒ってよい」 それが「何か」なのが良く理解できない。 私は、絶望でもなく、タナトス(死の神格)への訴求でもなく、困惑を抱いた。 「私はお前に、自己完結じみていると言われた。その通りだ。私は、ちゃんと何もかもを説明しようとしていないし、それで良いとすら思っていた。酷く酷く、身勝手な人間なんだ。以前、リーゼンロッテ女王陛下もお前の処分について仰られたように、何も理解してなかったんだ」 頭を、がりがりと?いている。 短髪の黒髪、身長2m超え、体重130kg以上、筋骨隆々の身体。 その存在を申し訳なさそうに体を丸めて、私に、申し訳なさそうに何度も頭を下げる素振りを見せる。 「だから、だからだ。マルティナ。最後までちゃんと、聞いてくれ。私はまず、お前を連れて行く。自分がやってしまった事の全てを説明する。だから、どうか最後までちゃんと聞いてくれ、マルティナ」 嗚呼。 理解したから、やめてくれ。 その仕草だけは止めてくれ。 あの、何事にも申し訳なさそうに謝る、母カロリーヌの姿が浮かぶ。 ごめんなさい、マルティナ、と。 「私はただ、お前を悲しませたくないんだ。それだけは本当なんだ」 悲しそうな声。 何もかもに困ってしまい、窮に瀕したような声。 私はそれに、何か心を射抜かれたようにして、言葉を発する。 「連れて行くと、今、ファウスト様は仰られましたが」 どうしたらよいのか判らず、ひたすらに謝るファウスト様を遮り。 母への回想を止めるだけのために。 私は、ファウスト様が呟いた言葉へと方向を向ける。 「墓地へ、行こう」 ファウスト様は、悲しそうな顔で呟いた。 私は、そのたった一言で何もかもを悟り。 そんな超人の自分が、ただ悲しかった。 嗚呼。 「……」 ファウスト様は、後ろへと振り返って歩き出す。 墓地までついておいで。 その意味は理解できる。 私は懐の短剣を握りしめている。 何もかも理解してしまったならば、もう死んでよいではないか。 これ以上の迷惑をかけるわけにはいかないではないか。 そのように思う。 だが、もう遅い。 何もかもを、ファウスト様は先んじていた。 墓さえなければ! 墓さえなければ、私はここで、何もかもを理解した私は自分の命を絶つことができた! だが、もはやそれはできない。 「おいで、マルティナ」 こちらへ振り返ろうともせずに。 ファウスト様は、静かに呟いた。 私はそれに、黙ってついていくのだ。 アンハルトの美的感覚とは激しくずれた、筋肉の塊である無骨な、申し訳なさそうな背中についていく。 結末は理解している。 「お前の母、カロリーヌ・フォン・ボーセルの墓へと連れていく」 ファウスト様に言われなくても! 何を意図しているのか、墓地へと行こう、その言葉一つで何もかもを理解している! その信じられない、ファウスト様のしでかした、それを! 母カロリーヌの悪徳にふさわしくない結末のそれを! 「嗚呼」 どこまでも、この世は残酷で。 マルティナという9歳児の少女、その私が招いた地獄はどこまでも続いているのだ。 「マルティナ。私が勝手に何をやったのか、その全てを話すよ」 ファウスト・フォン・ポリドロという、それに巻き込まれてしまった男が犯した悪徳を。 私は、眼前にしようとしていた。 第101話 贖罪主は何処に? 墓地まで、そう遠くはない。 ファウスト様と私はよく領民が舗装した道を、二人して歩くのだ。 夕暮れはまだ落ちない。 やがて、墓地が近づいてきた。 クロス・アンド・サークルの紋章が、入口近くの大岩に刻まれている。 ポリドロ家の紋章ではない。 ケルン派の信徒たちが、その使用を許されている紋章である。 要するに、この墓地に眠る全ての人はケルン派の信徒であると。 その主張のためであった。 「……」 墓碑は質素である。 多くは石灰石でできており、ポリドロ領の近くの山から掘り出した、そのままであったような。 せめて少しばかりは形を整えてやりたいと、少々手をかけた程度。 装飾的モチーフにはあまり頓着していないのであろう。 そのような墓ばかりであるが、一つだけ大きな岩がある。 人が数人かけて丸太で転がしても難しいような、巨大な岩が墓碑として置かれている。 ファウスト様の母たる、マリアンヌ様の墓だ。 いくらファウスト様が剛力とて、信じられないサイズの墓碑であった。 「ファウスト様」 声がする。 私の声ではない。 そのマリアンヌ様の墓の横に、あの助祭が待っていたのだ。 「お待ちしておりました」 「……どうして、助祭が」 「神母様から、おそらく墓地へ行かれることになるだろうから、と」 ファウスト様は、少しばかり悩ましい顔をした。 勝手なことを、と。 そう思っておられるのだろう。 だが、そう愚痴を言う方でもない。 「判った。一緒に行こうか」 ため息を吐きながら、現状を諦めとして受け入れたのだ。 また、ゆっくりとファウスト様は歩き出す。 私はその後ろを歩くことしかできない。 「マルティナ・フォン・ボーセル」 私の横に、あの助祭が並ぶ。 歩みは止めない。 「貴女は、もはや全てを理解しているだろう。神母様が言われるには、全て何もかもを信徒ファウストにお任せすること。それが本来は正しいのだろうと」 並んで、二人して歩く。 「だが、今の信徒ファウストの経験では、全てを語るに足りないでしょうと。だから神母様は、助祭たるお前が見たままの事を、マルティナに話してきなさいと」 ファウスト様が少し困ったような顔をして、こちらへと振り返る。 「すまないが、マルティナとは私がキチンと会話する。先ほどマルティナに全てを話すと、そう約束した」 「客観的な視点が必要に思えます。ファウスト様の全てのお気持ちを話すのならば、猶更に」 理解できない、と。 ファウスト様は、そのような顔をされているが、私には理解できる。 全てを話すという言葉は真実であり、事実ファウスト様は全てを話そうとするだろう。 だが、ファウスト様がそれで自分の言いたい事全てを私に伝えられるかといえば、話は別となる。 ファウスト様の性格と、よくわからないところがある不可思議な感性を考えれば、本当に全てを語れるかと不安になる。 客観的な意見は必要と言えた。 「お聞きします」 戸惑う顔をされているファウスト様を遮るようにして、横から口を出す。 「では、僭越ながら」 助祭はコホン、と咳をつき、静かに語りだす。 「――神母様によれば、信徒マルティナは、もはやこの時点で、ほぼすべてを理解しているだろうから。ただ、ファウスト様の行いと、仰られた言葉だけを告げるべきだと」 やや私見が混ざってしまうかもしれませんが。 そのように前置きをして、話は続く。 「先日の晩の事です。ファウスト様がアンハルト女王陛下の我儘に付き合い、ようやく領地に帰られた時の事です」 助祭は胸の前に手を合わせ、両の手の指を重ねる。 「ファウスト様は、夜遅く、信徒マルティナにだけは気づかれぬように。こっそりと館から出て、小さな布袋を大切そうに抱えて、教会に現れたのです。そうして、ポツリポツリとたどたどしく話し始めた。夜分遅くに申し訳ないが、神母様にお尋ねしたいことがあると」 何かを祈るような姿で、助祭は語る。 「私は今から伏して頼みたいことがある。以前、私は神母様に対して、我が母の告解について明かす事を請うた。その時、私の悩みなど、神母様はお見通しであったように思う。全ては、マルティナを引き取った事に始まる」 私が知りたかったリドルの最後の一欠片について。 「様々な理由によって、世の利害によって、理によって、マルティナがリーゼンロッテ女王陛下の御前にて、その死を願ったときに、私はそれを拒んだ。それは私にとって、あまりにも受け入れられない結末であったからだ。それに対する後悔はないが、同時に、マルティナを引き取って育てるうちに考えたのだ」 その謎さえ解けるならば。 私の心は少しばかり安らぐものと思えた。 「この子の母カロリーヌは、この子が可愛くて仕方なかったのではなかろうか、と」 だが、助祭が言う、ファウスト様が放った言葉は少し意外なものであった。 「マルティナを騎士見習いとして引き取り、育てる最中に気づいた。私は、幼い頃に不思議な思い出がある。食事の時間に、母上が食事している自分の顔をじっと眺めている時があったと。私も、同じような経験をした。気づけば、マルティナがゆっくりとスープをスプーンで行儀よく掬い取り、それを飲む。そのような、何でもない仕草を眺めている時がある」 何を話しているのだ? 私には、唐突で少し理解が出来ない。 「子供の頃は、よく思ったのだ。母上は、何故私が一々、スプーンでくるくるスープを混ぜるような手癖の悪い仕草を、少し笑ってじっくりと眺めているのだと。ずっと不思議に思っていた。そのような何でもない、くだらない仕草に何故微笑むのかと」 私が指摘した手癖。 それすら、ファウスト様の母たるマリアンヌ様は微笑んで眺めていた。 「マルティナが時折、私の視線に気づいては不思議そうな顔で私を見つめ返すたびに、母上の事を思い出す。そうして、理解したのだ。私はおそらく、母上からこれ以上ないくらいに愛されていたし、マルティナもそうだったのであろうなと」 理解が、少し及ばない。 「私は母の愛情の全てが知りたいと、贖罪のような思いを抱いた。それについては、人生でじっくりと考えて、答えを出していくことのように思えた。だが、今の自分にどうしても足りていないことを同様に知ってしまったんだ。私はリーゼンロッテ女王陛下に、その助命嘆願を無理請いして、その結末としてマルティナを引き取った癖に、彼女を育てることについては何も知らないと。親として何も知らないと」 理解、できない。 「私はマルティナについて、できる限りを調べた。アスターテ公爵を拝み倒して調べた。マルティナを取り巻いていた環境について、カロリーヌやその周囲がどうして反逆したかについて、何もかも全てをいつかは知ってしまうだろうと考えた。あの優しい少女は、マルティナは、その現実に傷つくだろうと理解してしまった」 理解できないのは、我が母カロリーヌやファウスト様の母たるマリアンヌ様の愛情についてではない。 違う。 そのようなことは、全ての盲を開いたとさえ思えた、今の私には痛い程に理解できた。 理解できないのはたった一つ。 何故、ファウスト様がそこまでする必要があるというのだ。 「だから、神母様に頼み込んだのだ。もう時間はないのだと」 私のことなど、そこまで気にされる必要はないだろう。 「その告解を明かす事を望んだ。我が母が、私に対して何を考えていたのか、それをじっくりと考える時間は、もはや子を育てる責任を背負った私にはないのだ。私は命を救った以上は、その人生を引き受けた以上は、何もかもをマルティナにしてやらねばならないと思った」 たかが騎士見習い一人のために、そこまでする必要が何処にあるのだ? 反逆者の小娘一人が、罪を受け入れて、ファウスト様の情けを受け入れずに死んだ。 世間的評判などそれで片付く。 知られるのはファウスト様が頭を床に擦り付けて命を救った逸話だけで、話にも上らぬだろう。 だけど。 「私はマルティナの全てを守ってやりたいと思った」 ファウスト様は勝手なことをする。 皆が。 「私は母マリアンヌの心を知った。マルティナの母カロリーヌが何故あのような事をしでかしたのかを知った。だから、私は悪徳を行う。私は懇願する。そうファウスト様は仰られて、抱えてていた布から、悪徳の塊を取り出したのだ」 皆が、勝手なことをする。 私の気持ちなど知りもしないで。 「信徒マルティナなら理解できるだろう。骨だ。貴女の母カロリーヌの頭蓋骨をファウスト様は見せて、こう仰られたのだ。彼女を弔いたいと」 愚かな事をしている。 馬鹿な事をしている。 喉から、絶叫が起きる。 「何故、そのような事をされたんです!」 ファウスト様は、愚かだ。 どのような手段を取ったのかは知らないが、ファウスト様は王都にて晒された首の、反逆者のそれを手に入れて、ケルン派の教会に持ち込んだ。 「ファウスト様がどのような気持ちで、お前の母の赦しを懇願したかは、続きを聞け」 ファウスト様は、私の声に、悲しそうに眉を寄せている。 それを無視したように冷静に、いっそ冷たく感じられるほどに、助祭は答えた。 「カロリーヌは反逆者だ。罪を抱えるものだ。埋葬に『主の祈り』を与えられるものではない。墓地に葬られる者ではない。私とて、その時は断るべきだと考えた」 助祭の声は、冷たい。 「だが、その骸骨を抱いて、ファウスト様は尋ねられたのだ」 しかし、何処か湿気じみた、熱を帯びたそれを抱えているとも思えた。 「贖罪主は何処に?と」 多分、それは今から語る内容が含んでいるものだろう。 仕方なく、大人しく聞き入れる。 「我々が殺した、カロリーヌの従士や領民は埋葬した。質素な葬送であるが、死は誰にも等しく訪れる。我々は山賊に対しても、そのようにしてきた。ケルン派の教えに従って生きてきた。だが例外がたった一人いる。あのマルティナの母、カロリーヌだ」 仕方ない。 「マルティナは泣くだろう。自分を愛してくれた、母が共同墓地にすら葬られぬことに泣くだろう。なるほど、確かに、この骸骨は罪人である。愛すべき人を、何の関係ない者を、皆を自分の利己主義のために道連れにした。地獄に落ちただろう。なれど、この世界で論じられる通り、本当に親の罪は子に降りかかるのが正しいのか? 子はその罪と苦悩を一生背負って生きていく罰を求められるのか?」 それが当然の結末なのだ。 母は悪徳を行った。 その娘が、連座でその罪を罰として償うのも当然だろう。 そう考える。 だが。 「私は一つの不安を抱いた。マルティナを育てる内に、気づいてしまったのだ。この先、マルティナはいつか、母が自分のために悪を為してしまったことを理解してしまうだろうと。その時、誰かが彼女自身には何の罪もないと言ってあげなければならない。だが、彼女の母が救われなければ、それはただの欺瞞に過ぎないのではないかと。そう思ってしまった」 ファウスト様は、そう考えてはいない。 リーゼンロッテ女王陛下の目の前で、床に頭を擦り付けて、助命を願った。 「そう気づいたとき、私はカロリーヌの首を探していた。もう時が経ち、晒し物や見せしめとしての役目を果たした、マルティナの母の首をだ。手という手を尽くして、森に打ち捨てられたそれを、なんとか手に入れたのだ」 私の助命だ。 だから、もうそれでよいではないか。 「もはやこの骸骨は罪を悔いることすら出来ぬ。主に赦しを請うことすら出来ぬ。それも仕方ないと認めよう。地獄に落ちた彼女とて、それは当然のことと受け止めるであろう」 もう、やめてほしい。 「死者に対して、その死後も非難することは当然だろう。彼女は罪を犯した。その首が晒され、石を投げられ、肉が腐り果て、地に投げ捨てられる。彼女に殺された罪なき人々の事を思えば、それも仕方ないだろう」 我が母の罪に対する弁明は止めてほしい。 「死者への冒涜が赦されぬなどと、近視眼的なことは言わぬ。何もかもが仕方ないと判っている。その結果が、この骸骨だ。私にはちゃんと判っているのだ。それでも、それでも私は神に嘆願する」 誰も、そのような弁明は聞いてくれない。 だから、やめてほしい。 貴方はちゃんと理解していない。 「本当に彼女の罪は未来永劫赦されぬのか? この骸骨の娘は泣いている。だから――だからこそ、もう一度問う、贖罪主は何処に? 私は、彼女の贖罪を乞う。理由はたった一つ。その娘へ重荷をこれ以上背負わせぬためだ。神の慈悲を乞う、カロリーヌ・フォン・ボーセルの埋葬を、あの墓地に許可してくれと。神の赦しを与えてくれと」 詭弁にすぎない。 そう笑い、やり過ごそうとする。 自分の感情を無視して、理屈で何もかもを塗りつぶそうとする。 顔は地面へと向けられて、もはや何も見たくなかった。 自分のせいで、誰も彼もが無理をする不幸な現実は。 だが、襟首をつかむ者がいる。 助祭だ。 助祭が、怒気を?き出しにして、その聖職者としての分別の欠片もない野蛮な声で、叫んだ。 「我々の目の前で、跪いて乞うたのだ! 理解しているか! ファウスト様がどのように悩みあぐねた揚げ句に、我々聖職者に対して、お前の母カロリーヌの贖罪を乞うたのか! それを理解しているのかと聞いているのだ! 前を見ろ!」 私の頭に、血が昇る。 理解しているのかだと? お前だって、私の何が理解できるのだ。 「誰も頼んでいない! 私は一度として頼んだことなどない、私は!」 感情が止められない。 言ってはいけないことを言う。 「私を! あの時、リーゼンロッテ女王陛下の前で、私を殺してくれれば、それでよかったんだ!!」 涙が止まらない。 地面に顔を向けた際に、一つそれが零れた時点で気づいていた。 もう、涙は止められそうにない。 「誰もが勝手な事をする! 誰もが勝手に地獄に落ちようとする! 皆がそんな事をしてまで、私は救って欲しくなどなかったんだ!」 ファウスト様が、私の叫びを聞いて、酷く悲痛な顔を浮かべる。 誰も悪くなどない。 私は――もう。 「自分を殺してくれた方がよかった!」 もう、自分という存在に、何処までも嫌気がさしているのだ。 ファウスト様は、その言葉に酷く傷ついたようであった。 それが、何よりの苦痛であったのかもしれない。 だが、助祭がそれに怒りを放って叫ぶのだ。 「9歳の子供が、全ての罪を背負ったような面して、贖罪主気取りで調子に乗ってるんじゃない! お前は最後の最後まで全てを聞いて、この世の全ての愛を理解しなければならない。お前の死を誰も本気で望んでないという事を、理解しなければならない。それでも死にたきゃ、それがお前の寿命だ! 勝手にしろ!」 助祭は、襟首を掴んで離さない。 「続きだ。神母様は、ケルン派の聖職者として答えたのだ」 もはや聞きたくもない、皆の悪徳、その罪の全てを話そうとする。 「この骸骨が犯した罪を許そう。その死に憐れみを抱き、その娘が泣かぬように埋葬を許そう、と。人が赦さぬ罪ならば――贖罪主が、神の子がそれを償うだろう。その死に対して慈悲を乞うものが一人でもいるのならば、贖罪主が、代わりに神に赦しを乞おう。もはや信徒カロリーヌは、信徒ファウストによる斬首を受けたことから、痛悔したものとする」 ケルン派という、気の触れた宗派が答えた回答を。 「信徒カロリーヌ・フォン・ボーセルの埋葬を許可する。一度口にしたこの言葉は、聖職者として違えることはない」 私の母が破門を解かれ、ケルン派の信徒として、この墓地に埋葬されているという事実を。 「これがケルン派の回答である。私はしっかり伝えたぞ。後は、墓に訪れて、そこでファウスト様の話を聞け」 襟首を掴んでいた手は突然に離されて、私は全身の力が抜け。 もはや、今の力では、立ってもいられなくなったのだ。 第102話 初恋 背中におぶわれる。 赤子のように。 本当に幼い頃、自意識も曖昧な、その幼子の頃のようにして。 私は、ファウスト様の背中におぶわれていた。 ファウスト様の背中は筋肉の固い肉でゴツゴツとしており、その心臓の鼓動や、体温が私の身体に伝わっていた。 「ファウスト様、お聞きしたいことがあります」 「なんだ」 夕暮れは未だ暮れきっていない。 夜の闇は、まだ遠いように思えた。 この両足には力が未だ入らずに、ファウスト様が私を背負って、その為すがままになっている。 「私の」 私の。 私の、何だ。 言葉が続かない。 このような事は、今までに一度としてなかったのだが。 私は、私は。 言葉に、できない。 「反逆者の墓を作ったなど、リーゼンロッテ女王陛下にはどう申し開きをするつもりなのです」 話を、誤魔化そうとする。 「説明をするとだ。元より、このファウストがお前の母の頭蓋骨を探すためには、リーゼンロッテ女王陛下の力を借りなければならなかったのだ」 正直、この9歳児の知能でもある程度の予想はできていること。 アンハルト王国内の処分についてを尋ねた。 その答えは明瞭である。 「反逆者カロリーヌは、正々堂々たる一騎打ちにて騎士ファウストが討ち取った。反逆者の結末として見せしめを受け、多くの市民が石をその首に投げつけた。それで話は終いだ。その後の頭蓋骨の顛末など、誰が興味を持つのかと」 「女王陛下は、全てを見過ごすと言われたのですね」 「そうだ。一騎打ちを行ったファウストが、全ての裁きを終えた後の死体をどう葬ろうが。その死者の扱いに特別を取り計らったところで。後に公になったところで、何の問題もないだろうとまで言ってくだされた」 あの理知的なリーゼンロッテ女王陛下でさえ、私の判断を許してくれたのだ。 だから、何の心配もしなくてよい。 そのように、ファウスト様は仰る。 確かに、母カロリーヌは一騎打ちにて、ファウスト様に討ち取られたという。 その全ての結末に対して、一言を入れる権利が確かにあった。 「だから私はリーゼンロッテ女王陛下に対して言ったよ。私にカロリーヌ・フォン・ボーセルの首を与えてくださいと。その首は我が領地に葬るからと」 「私の」 私の。 再び、何かを言おうとするが、形にならない。 だから、再び誤魔化す。 「私の母の首は、森に打ち捨てられていたなどと、ファウスト様は仰いましたが」 「聞くな」 ファウスト様は、拒否する。 だが、ファウスト様は全てを仰ると一度、確かに言った。 「お聞かせください」 「私は全てを話すと言ったが、お前には聞かせたくないこともあるのだ」 まだ、何が聞きたいのか、自分は理解できていない。 だから、すでに想像がつくことを、あえて口に出す。 「お聞かせください」 ファウスト様は、諦めたようにして、口を震わせた。 「お前の母の。カロリーヌの首は、確かに森に打ち捨てられていた。探すのに、手間取ったと言われたよ。肉は小動物や虫に食い荒らされており、何か肉食獣に漁られたのか、頭蓋骨に穴が開けられ、脳は無くなっていた。完全な白骨と化していた」 たとたどしく、ファウスト様は語る。 私は、静かに目を閉じた。 想像がつく、結末であった。 「リーゼンロッテ女王陛下が、骨の回収に出してくれた貴族は確かな人で。砕けた骨の一片までをも集めてくれていた。私はそれを受け取り、この領地へと帰ってきたよ」 少し違うのは、リーゼンロッテ女王陛下が、ファウスト様の嘆願に対して優しかったことだ。 ファウスト様に優しいだけなのか。 いや、それほど甘い御方ではなかった。 本来なら、ファウスト様の行為すら厳しく窘める方であろう。 「私の」 もう一度、何か、呟こうとする。 やはり、形にならない。 だから、やはり誤魔化すのだ。 「私の母の埋葬を、女王陛下が赦しても、市民が赦しても、その被害にあった者が赦すとお考えですか? 王領の小さな村で、母は虐殺を行った。その行為について、どうお考えなのです」 「もうよい、死骸を冒涜するほど悪趣味ではない。そう言ってくれる人もいるだろう。同時に、カロリーヌの全てが灰のように砕かれてしまえばよい。埋葬など、もっての外だ。そう言う人もいるだろうと、私は思う」 ファウスト様の返答は、先ほどと違って淀みがない。 何度も、何度も、一生懸命に考えた末に出した結論であると思えた。 「マルティナ。私はお前の母を、カロリーヌを埋葬することを善とは思っていない。だが、同時に覚悟をしたんだ」 ファウスト様は、それを一つの決断のように答えたのだ。 「それならば、それを悪と呼ぶ人がいるならばだ。私は、もうそれなら悪と呼ばれても構わないと思ったのだ」 ファウスト様の、その歩みがぴたりと止まる。 「私は、正直善良とは程遠い人物なのだろうとさえ思う。我が領地の神母様のように、神に身を殉じているわけではない。例えば、かつてカロリーヌが殺した善き人々が、お前の母を埋葬したことについて激怒したとしよう」 仮定の話。 ファウスト様は、母カロリーヌが殺した善き人々の、その者たちが襲い掛かってきたときの話をしている。 現実には、超人にして騎士たるファウスト様に逆らうなどは有り得ない仮定。 だが、ファウスト様は私が問うた「善悪」について真摯に答えていた。 「頭に戦棍を振りかざされたところで、神母は避けないかもしれない。ケルン派の神母たる思想として、全力の鉄火を以てして反撃するのかもしれない。それは判らない。だが、ともかく私は逃げてしまうよ。背中に批難罵倒が降り注いでも、気にはしないことにした」 まあ、戦棍で頭を殴られたところで、超人たる私は痛いと思う程度で別に死なないから。 ともかく、全力で相手にしないことにする。 そのように、ファウスト様が話す。 「私は、それで地獄に落ちてしまっても良いと考えている」 「それは」 私の。 ようやく、迷い迷った言葉が口に出せそうであった。 「私のためでしょうか」 それは理解できている。 もう、何もかもが嫌であった。 だが、聞かなければならない。 「マルティナ。私は先ほど助祭が言ったように、確かにお前を守りたいと思った。それに嘘はないし、そのためにあらゆる事をしようと思った。だが、一つだけ付け足すことがある」 ファウスト様は、何か口ごもるように。 口端を動かした後に、ゆっくりと口を開く。 「私はかつてマルティナの助命嘆願をした。それは、私が親の罪を子が受けて、その死を請うなど。どうしても理解できぬし、あってはならないことだと思ったからだ。それと、同じなのだ」 それは、告白のようで、同時に泣き言であった。 「もう、いいじゃないか。これ以上は良いだろう。私には、どうしても、これ以上は耐えられないんだ」 ファウスト様の、どこまでも個人的な意見なのだ。 「ケルン派の戒律に、たとえ敵であろうとも、死ねば魂無き遺骸に過ぎぬ。その死骸に善も無ければ悪もない。死骸を弔ってやれとある。私は単純に、それに従おうと思っているわけですら――なんと言えばいいのか。私は先ほど助祭の言葉で、何やら格好つけた振る舞いを行ったように語られたが。少し、嘘があるんだよ」 助祭は、ファウスト様の言葉が戒律に反しているか。 怒っているのではなく、少し怯えながらにして、それを気にしている。 神母も、助祭もだが。 「なんと言えばいいのか。すまんな、マルティナ。正直に全てを話すといった以上は、何もかもを正直に言うよ。私ですら、何故このような事を思うのか、実のところ論理立てての説明は出来ないんだ。いくつか理由付けはできるが、全てが欺瞞に過ぎないとすら思える」 このファウストという、どこか一本筋が通っていながらも、同時に不安定な人物の事をどこまでも気にかけているのだろう。 「もう良いだろうと思う。カロリーヌの事を考えると、そう思ってしまう。彼女に同情すべき点はなかったのか? 最初の切欠は、彼女がもうどうあがこうと、彼女の視点ではどうにもならない環境であろう。利己主義の結末とはいえ、本当に同情すべき点はなかったのか?」 私は目を閉じている。 閉じ続けている。 「家督簒奪が失敗した後は、自殺でもすればよかった? それは誰もがそう思うだろう。だが、カロリーヌには未だ配下がおり、その兵隊は全てが忠誠を誓っていた。一緒に地獄に落ちてくれとは言えようとも、ただ無意味に一緒に自殺してくれなどとは言えなかったろうさ」 薄々わかっていた。 ファウスト様は、自分は悪などと卑下されるが、悲しい程にどこか善良なのだ。 何かが。 「兵隊の皆が死ぬから、代わりに貴女が生きてくれと言われて。自分の運命全てを呪った領地と姉への復讐を企まない程に、清廉ではいられなかったろうさ。国を売り払って、敵国ヴィレンドルフの騎士と成り果てるつもりにもなるだろうさ。それは、領主騎士として、たった一人残されたポリドロ家として思うのだ。だって、私は領民のためなら死んでも良いが、領民だって、私さえ生き残れば勝ちだと思っている節がある。カロリーヌは貴族として、彼女たちの頭目として、最期まで抗う必要があったんだよ」 どこかが狂っているというレベルで、純粋なのだ。 「だから、だからな。何を言っているか、纏まらなくて申し訳ないが。私は、カロリーヌに同情してしまったんだよ。そうして、私に殺されてしまったカロリーヌが可哀想に思えてしまったんだよ。だからな、マルティナ」 どこか、それが愛おしかった。 「私はカロリーヌを弁護してやりたいと思ったよ。赦しを与えてくれと思ったんだ。死者への冒涜が赦されぬなどと、近視眼的なことを繰り言のように言いたくはない。カロリーヌは確かに悪人だったよ。だけど言うよ。もういいじゃないか。これ以上、その死を貶めなくてもよいじゃないか、と」 この人は、何もかもを悲しんでいたし、どこか怒ってすらいた。 「そう庇うことを悪と呼ぶなら、もう私は悪でもよいと思ったんだよ」 それは八つ当たりのように思えたし、事実そうなのだろう。 ファウスト様の自身すら完全には理解できない、その道徳と価値観に縛られているようであった。 だが、ファウスト様という人格は、それを良しとしてしまった。 私の助命嘆願のために、何の得にもならぬのに、自らの頭を地に擦り付けたように。 「私はこの歪んだ誉れと共に、一生を生きていくと誓ったんだ。だからな、マルティナ」 それは嘘ではない。 今まで並べた言葉に一つも嘘は含まれていない。 たった一つだけ、嘘があるとすれば。 今から話す言葉だけだろう。 「私が勝手に何もかもやったことなんだ。だから、マルティナは気にしないでくれ」 その優しい本音の嘘一つだけだった。 ファウスト様は本気でその嘘を吐いているが、それは現実ではない。 嗚呼、助祭が先にファウスト様の全てを述べた事は、やはり何もかもが正しかったのだ。 ファウスト様は、やはり何もかもが自己完結じみていて、ちゃんと人に説明をするのに向いている人ではない。 私に対して全ての胸襟を開いてすら、このような有様なのだ。 「ねえ、ファウスト様」 揺さぶり。 ファウスト様は自分の言いたい事全てを語り終えたと思ったのか、また歩き出す。 だから、私もまた、その身勝手に答えることにした。 「なんだ、マルティナ」 「私はね」 悲しい程に、理解がようやくできた。 ファウスト様は、完全にこの世界の異物なのだ。 どこまでもが、この残酷な世界に生きるのに向いていない。 神の祝福を与えられ、武の超人として産まれ、領民僅か300名の領主騎士としてはなんとかやっていけるだろう。 それ以外はてんで、この世に向いていない。 神様は、その作りを間違えてしまったのだ。 「私は今、初めて」 ほのかに、心臓に何か鼓動のようなものを感じる。 この何もかもが不器用な男性に対して、初めて何かを感じた。 それは言えない。 「初めて、なんだ」 「何でもないですよ」 9歳児のこの身には言えない。 その愚劣とさえいえる、歪な誇りに何かを感じてしまったなどと。 とても言えない。 「私はね、ファウスト様。貴方が私のために、母のために、そこまでしてくれたのならば、私は」 色を知る歳には早いのだろうか。 9歳半ばなら普通と呼べるかもしれない。 いや、何を考えているのだ。 私は、今、母の墓に参ろうとしているのだ。 ファウスト様が必死になって、それこそ地べたを這いずりまわるような行為すらして。 愚劣とすら切って捨てて良い価値観の元に、私のために何もかもを果たしたのだ! それが。 それが、狂ったように愛おしい。 「貴方のためなら死んでもいいんですよ」 ああ、はっきりと今、理解したぞ。 私は初恋をした。 マルティナ・フォン・ボーセルは、ファウスト・フォン・ポリドロに初恋をした。 そして、ファウスト様には意味を理解してもらえないであろう、告白をしたのだ。 「それは私のもっとも望まないことだ。私がマルティナに望むのは、良い人生だ」 9歳の騎士見習いの恋は、22歳の領主騎士に対して実らないかもしれない。 何せ、この私を背負う男は、何も考えていない。 告白に気づくどころか、そこにあるのは親としての愛情だけだった。 「私の騎士見習いとして育ち、朗らかに生き、いずれは巣立ち、王宮勤めの立派な騎士になってほしい」 このような恩を受けて、相手がどう思うかなど、これっぽっちも考えていないのだ。 その存在と愚劣な誉れが、他人にどのような感情を呼び起こすか理解してないのだ。 ファウストという男は。 「そうだな。子でも出来たら、私の元に顔を見せてほしい。私は、その子の頭を撫でさせてもらうよ。恩返しをしてくれるというなら、それだけでよい」 どこまでも続くと思われた、夕暮れがついに暮れきった。 姿を現し始めた満月は、悲しい程に優しく、美しかった。 第103話 シスター・サン ブラザー・ムーン ここ数日、眠れない夜が続いている。 考えるのは、なにもかもファウスト様についてであった。 懊悩が、私の心身を蝕んでいる。 あの夜のこと。 私が初恋を知った夜の、墓参りを思い出す。 我が母の墓は、墓地の入り口から一番離れた場所にあった。 小さな石灰石で出来ており、真新しい。 造形的なモチーフなどは何もないが、形ばかり綺麗に整えられた墓碑の前に、ファウスト様が以前に手向けてくれたであろう花が置かれていた。 「ファウスト様」 熱病のように、その言葉を吐き出す。 名前を呼ぶだけで、頬が火照る。 熱に浮かされているのだ。 寝台に病人のように横たえている、わが身の口から、それ以上の言葉は出てこない。 あの人は、本当に、何もかもが本当に身勝手なのだ。 「嗚呼」 火が灯された。 もはや夕暮れも終わり、すっかりと暗くなり、照らすのは無数の星々と満月だけ。 その儚い光だけが照らす空の下で。 助祭が、松明すら持ってこなかった間抜けなファウスト様と騎士見習い、その二人のために火を灯したのだ。 明るくなった墓碑に刻まれた名前を、指でなぞる。 確かに、そこにはこう書かれていたのだ。 カロリーヌ、と。 「――」 あの時の感情をどう表現することができよう。 私の全てを救い上げようとした、あのファウスト様に何の感情を告げることができよう。 口から言葉など、どうしても出てはこないのだ。 誰も一言も呟かぬ。 ファウスト様は、もはや全てを告げたと、何も述べぬ。 助祭さえ、これ以上口を開くことは無用といったように。 誰も口を開かぬ、その騒がしい道中に対して、完全に無言の墓参りが終わったのだ。 「――」 その帰り道、意味のある言葉など、やはり一つも出てきそうになかった。 ファウスト様はその帰路で、ときおり優しく私の背中を撫でているばかりであった。 寝台に寝転がる、今の自分。 その頭の傍では、マリアンヌが寝ている。 ファウスト様の母親、それと同じ名前をしたファウスト様の愛猫が鎮座しており。 私はといえば自室にて、肌身に肌掛けを寄せ、まんじりと丸まっている。 そんな夜が、続いているのだ。 眠れない。 熱病のような、この初恋にうなされているのだ。 名前だけを呼ぶ。 「ファウスト様は――」 あの時、私に仰られた言葉を、何度も頭の中で繰り返す。 『私が勝手に何もかもやったことなんだ。だから、マルティナは気にしないでくれ』 その言葉を、繰り返すのだ。 ファウスト様は、ただ単に自分が嫌だったから、やったにすぎないと。 何もかも、自分の精神的な慰めを妨げるのに忌避を感じたなら、私は何でもするのだと。 これは全て自分の自己満足にすぎないのだと。 自己犠牲ではなく、自己陶酔のようなものなのだと。 そのように、自分可愛さの身勝手な行動だから、お前が気にする必要などないと。 心からの本音で、自分の行動に対して嘘を吐く。 私は、酷く、その姿に。 「――嗚呼」 興奮した、などと。 そそられた、などと。 下品な言い方を、少し変えておくとだ。 この男が、女として、心から欲しいと思ってしまったのだ。 そのような慰めの言葉を、騎士道精神とはまた外れ、宗教的道徳心とは違い、これが自分の心の全てであると告白することが誰にできようか。 ファウスト様以外に、誰が私にやってくれたというのだ。 「誰に理解できるものか」 私は私だけが、今のところファウスト様を完全に理解しているという欲望に汚染されている。 それを思うと、どうしても興奮してしまうのだ。 誰も知らない。 凡庸な婚約者である、ヴァリエール第二王女殿下も。 陰で人肉食べてそうな、酷く冷酷なアナスタシア第一王女殿下も。 理知的な選帝侯、リーゼンロッテ女王陛下も。 人の善悪に価値を抱いていない、気狂いザビーネであろうとも。 その本性を理解していない。 ファウスト様という存在そのものに、あの満月の輝きは、夜空で輝く星々など及びもつかない事を知らない。 嗚呼、そうだ。 アスターテ公爵が、あのファウスト・フォン・ポリドロという男性に、何故ここまで魅了されているのか。 私はあの才能狂いのド変態のスパイとして、ファウスト様の身辺調査などという卑しい真似をしたからこそ。 アスターテ公爵が、何を望んでいるかを理解する。 やっと、全てを『本当の意味で』心の底から理解した。 「アスターテ公爵に関してだけはファウスト様を、他の才能煌めく星々と同等になど、最初から見ていなかった」 夜空で残酷なほどに綺麗に輝く、満月だと見なしていたのだ。 ファウスト様の本性は、太陽の下で賞賛される英傑の姿にあるのではなく、夜闇の中でひっそりと背中を撫でてくれる優しさにある。 私が知る限りにおいては、あのアスターテ公爵だけは私同様に、ファウスト様の本性を理解しているのかもしれない。 仮に他に居るとすれば、同じ悲しみを共有したヴィレンドルフの冷血女王カタリナぐらいのものであろうか。 いや、まだだ。 アスターテ公爵も、カタリナ女王も、まだまだ理解には程遠いはずだ。 いつか理解してしまうかもしれないが、まだ完全には理解しきっていないだろう。 この世界においての、ファウスト様の異質さまでは理解していない。 あの優しさが、いっそ異常とさえ言える価値観に由来するものだとは知られていない。 だが、それは時間の問題だ。 もし知ったのなら、あの歪なやさしさを理解したなら、誰もがファウスト様に深く惚れこむだろう。 それは容易に想像できる。 「それが何より恐ろしい」 未だ完全には理解していない癖に、異様なまでにファウスト様に執着している者たち。 特にアスターテ公爵の情熱が恐ろしかった。 少し嫌なのが、今となってはアスターテ公爵という人物が、何故あそこまで頭がおかしいのか。 ファウスト様に対して変態そのものの行動を行うのかが、理解できることだ。 ――今の私には、ファウスト様の事が。 この想いを抱いた今となっては、理解できてしまったのだが。 あの悲観的で、自分の誇りに対して善悪という区別においては懐疑を抱いており。 場合によっては悲観的主義(ペシミズム)にすら思えぬような、どこか所在なさげな、陰りを見せる表情に。 それに、そそられてしまった。 目覚めた女の、どこか醜い欲が出てきてしまう。 この男の、悲しそうな顔は私のものだと。 ずっと私の目の前だけで、その物憂げな顔を見せていて欲しいと。 物凄く下劣な感情を抱いた。 「死ね!」 自分に唾を吐いて、寝台に頭を打ち付ける。 頭の痛みが、自分の正気を取り戻してくれるのではないかと、期待を抱いた。 だが振動と騒音に対して、不快気にマリアンヌが鳴いた。 「にゃーん」 眠りを妨げてしまっている。 「ごめんなさい! マリアンヌ!!」 マリアンヌに対しては、素直に謝る。 だが、どうしようもなかった。 あの物狂いのケルン派の助祭じみた行為をしてしまうのも、許してほしいのだ。 私は何を考えているのだ? あまりにも酷すぎる。 情欲。 ファウスト様の、あの不安げな、憂いを帯びた表情に悦びを抱いてしまったなどと。 今思い起こせば、あの不安定なファウスト様ほどに美しいものなど、この世には存在しないと。 だって、あんなにも。 あんなにも優しくて、健気で、美しくて、尊い。 理解できるか? この世の誰が、ファウスト様の、あの、自分は悪いことをしているのだろうと。 誰かに批難されることを理解しながらも、自分の誇りを貫いてしまう美しい姿を。 自分の信念に忠実な有様を理解できようか。 皆が、ファウスト様を愛するだろう。 ポリドロ領民だって、ケルン派の聖職者だって、アンハルト王国の王族だって、あの気狂いザビーネだって。 その濃度の違いはあれど、理解はしているのだ。 ファウスト・フォン・ポリドロという人物は、この上なく清廉だと。 あの人は自分が他者に抱かれている情欲など何も意識せず、自分が筋骨隆々にして身長2m超えの男子に対する、醜男への蔑視といったそれすら何とも思わずに。 自分の母やポリドロ領、その誇り全てを馬鹿にしない限りは、全てのものに優しさを振りまいてしまうのだろうと。 「嗚呼」 寝台に身体を横たえながら、顔を両手で覆う。 穢れが無い。 清らかなそれそのものであった。 あの人の立場を思うと、酷く、耐え難いものがある。 冷静になれ、私。 ファウスト・フォン・ポリドロは、そんな情欲を抱いてよい相手ではない。 こんな、酷く穢れある情欲を寄せてよい男性ではない。 そう思うのだが、どうしても感じてしまう。 私は、女としての性を理解しつつある。 「初恋はこんなに苦しいものか?」 多分、違うだろう。 通常の女が男に抱く情欲のそれとは、少々異なるはずである。 男が1人、女が9人。 どうしても男が足りぬから、姉妹や家族、或いは家同士で共有の夫をとることは当たり前である。 だが、それを社会通念としても、やはり争いごとは存在する。 男を独り占めにしたいのだ。 その考えは、誰もが持つものだろう。 別に、ファウスト様一人に固執した想いを抱くこと自体はおかしくない。 「だけど」 私のこれは、社会通念としてのそれから酷く歪んでしまった。 私は初恋を経て、そのような女になってしまった。 多分、私の男性への嗜好、それは酷くファウスト様に偏ってしまったのだ。 アンハルトにおいては醜男と侮蔑されているもの。 筋骨隆々のファウスト様の姿に魅了されている。 私をおぶってくれた大きな背中の筋肉は、意外なほどに柔らかくて、この寝台よりも心地よく。 私の頭や背中を撫でてくれる大きな手は、剣ダコだらけでごつごつとしており、その癖に私を触るときは酷く優し気で。 あの声が私の「マルティナ」という名を呼ぶたびに、心のどこかが触られたように感じている。 私は恋をしている。 もはや、あの人以外では駄目になってしまったのだ。 嫉妬が。 「――」 嫉妬がある。 自分の初恋が実る可能性。 それは乏しいとしか、言えなかった。 ファウスト様は、アンハルト王国の第二王女ヴァリエール様の婚約者である。 そして、アナスタシア様やアスターテ公爵の愛人候補でもあるだろう。 実のところ、ファウスト様と縁を繋いで、他の男に目移りできるかというと怪しいのだ。 今までの人生で会ってきた少ない男を思い出せば、なよなよとしていて、ファウスト様のように譲れぬものなど持ち合わせておらず、酷く頼りない。 ファウスト様を知ってしまえば、どうにもつまらない、価値を感じられないように思えた。 だから、あの二人は必ずファウスト様を愛人にするだろう。 自分の子を作るための男として選ぶのだ。 それは、ファウスト様にとっては良い事なのだろう。 ポリドロ領の領民などは実のところ酷く嫌がるだろうが、貴族社会の後ろ盾としては申し分のない二人であった。 けれど。 私にとっては、この醜い嫉妬の対象にすぎない。 初恋が実る可能性が低い、私にとっては、どこまでも羨ましい存在だった。 「大事なのはファウスト様の心だ」 考える。 必死になって、この超人としての頭脳に血を巡らせる。 22歳と9歳という、13歳の年齢差がある。 貴族社会にとっては重要な年齢差でなくとも、ファウスト様が私の事を子供のようにしか見ない。 大きくなっても、私のために死んでくれる事ならしてくれても、私を抱いてくれるかというと酷く怪しい。 それについては、如何ともしがたい重要な問題と言えた。 私は。 私は、ファウスト様が欲しい。 ファウスト様の子が産みたい。 だが、どのようにして、あの男を口説くのだ。 私は、いつか騎士見習いを卒業し、ポリドロ領から出ていかなくてはならない。 反逆者の娘としての困難な地盤から、立身出世しなくてはならない。 それが亡き母カロリーヌへの慰めになるように思えたからだ。 「……立身出世」 それを考えると、また心が痛む。 ファウスト様は、決して淫売の類ではない。 あのように清廉な人が、どのような女にでも股を開く男であるはずがあろうか? そんなことはないのだ。 だが、ファウスト様ならば、私のためなら、そのように汚いことを平気でしてしまうのも、今の私には理解できた。 アスターテ公爵のような真正の変態に、ファウスト様が身を開く! 私のせいで! その事実に、その事実に! 「嗚呼」 私は、どうも、何か良くない感情を抱いている。 これが怒り、それならばよかった。 ままならぬ世の中に対する、或いはアスターテ公爵に対する、怒りそのものであればよかった。 私は世界に何を恥じる必要があるだろうか? だが、違う。 この感情は違うのだ。 「何で、どうして」 嘆きの言葉が続く。 私は初恋の味を覚えたばかり。 自分の恋慕を邪魔する世界の全てに対して、何か良くない感情を抱いてよかった。 だが、私の本音は違う。 恥じ入るばかりの全てが、そこにあるのだ。 「何で、私は、私のためにファウスト様が、アスターテ公爵に身を開くことにちょっと興奮しているんだ」 顔を両手で覆う。 死んでしまいたかった。 マルティナ・フォン・ボーセルは、アスターテ公爵の変態性を少し理解をしてしまった。 あの清廉な存在が醜い存在に穢されることに、どうしようもない興奮を覚える。 マルティナは、自分がもうどうしようもない存在なのだなと、認めざるを得なかった。 その罪だけは、その性癖だけは、ファウストに文句をつけるわけにはいかなかったのだ。 眠れぬ夜は、まだ終わらないでいる。 第104話 立身出世の方法について 本を書くことを決めた。 やや唐突に思われるかもしれないが、それしかないのだ。 かつて育った場所、修道院の図書室にて、幼い私の様子を見守りながらに書物を書いていた司祭様。 その姿が、はっきりと思い出された。 私にはファウスト様が持つ名馬フリューゲルや、アナスタシア殿下が用立てた板金鎧一式、そして先祖代々受け継がれてきたグレートソード、そのような人に誇れるような逸品は何もない。 財産は懐剣を含めた個人が持てる少し、それ以外の全ては没収された。 唯一誇れるものがあるとすれば、母カロリーヌと司祭様が取り計らってくれた、古語に通じた学識と知能だけである。 そして、私の後見人であるファウスト様ならば、直通で王族に連絡を取ることが出来るという伝手。 縁を取り持つ手段があり、王族にこの身が有能であるアピールはできるのだ。 だから、本だ。 反逆者の娘たる私がこのアンハルトで名声を得るには、これしかない。 この財産をもたないマルティナなる9歳の少女にはそれしかなかったし、それが唯一の立身出世の手段のように思えた。 本を執筆し、それを就職活動のために役立てる。 自身の能力をアピールするには、一番有効な手段であることが確信できる。 そして、この計画をファウスト様に隠す理由はない。 自分の目論見全てについて、私はファウスト様に明かした。 「なるほど、それはよい考えだ」 ファウスト様は、私の目論見全てを肯定してくれた。 「しかし、何の本を書くのだ? 私はマルティナが賢い事を知っている。本を書き上げたならば、リーゼンロッテ女王陛下。またアナスタシア第一王女殿下やアスターテ公爵に献上することもできようが」 「いくつか考えはしました」 書けることは沢山にある。 それはアンハルト王国における文化・風俗について記したもの。 君主国の形態、戦力、武力の種類、軍備、貴族としての毀誉褒貶。 今までの歴史の事柄について。 何でも書ける自信はある。 だが、そのような事は後年に当時の事情を学びたい歴史家や小説家に感謝されようとも、およそ今のリーゼンロッテ女王陛下、およびアナスタシア第一王女殿下にはどうでもよいこと。 それをすでに学び、かつ実務者にして最高責任者たる彼女たちにそれを告げようとも、私がとんだ間抜けのように思われるのが目に見えている。 「テーマは一つに絞るべきだ。個人的には結論は最初に述べ、内容は後でもよいというのが考えだが」 「それは、最初が衝撃的であればあるほど宜しいとお考えに? やや荒っぽい書き方になりますが」 「このような考え方は、好まれないかもしれないが……まあ、マルティナの言った通りが私の意見である。多少論調が乱暴になっても、そうすべきだ」 本の命題は決まっている。 その内容も。 だが、本の叙述手法はまだ決めかねている。 就職活動を行うためであるのだから、まずはリーゼンロッテ女王陛下への美辞麗句と賞賛を重ねるべきであると。 そう考えたが、ここはファウスト様の言う通りにしてもよい。 そう告げる。 「ファウスト様、仰るようにしましょう。この際、勿体ぶった修辞や美辞麗句も消し去る方向で」 「何を書くつもりなんだ」 「これからお話します。その前に、少しばかり伺いたいことが」 私が自身の主義を少しばかり曲げても、ファウスト様の意見を受け入れるのは。 ファウスト様には、共著者になってもらわねばならないからだ。 こんな小さなことで、ファウスト様が機嫌を損ねないのは理解しているが。 「知恵とお名前をお借りしたく。本には、確かにファウスト様の意見と名前が盛り込まれていないと困ります」 「知恵はいくらでも貸そう。ただ、マルティナの名前だけでは弱いか?」 「ファウスト様のお名前があってこそ、最高実務者が本に目を通してくれるかと考えます」 アスターテ公爵ならば、この9歳児が書いた本とて気にせず、読んでくださると思われる。 だが、他の王族二人が読んでくれるかといえば、少し怪しいのだ。 いや、それだけでなく、実際にファウスト様の見識を多く取り入れるつもりであった。 名義貸しではなく、本当に共著者になってもらいたいのだ。 私の。 「私は、ファウスト様と一緒に本を作りたいのです」 私は、ファウスト様の子を産めないかもしれない。 自分の願望のため、私は全ての努力を行うだろう。 だが、そうしたところで願望が叶う可能性は低かった。 あまりにも自分の立場は弱い。 もし、私の希望が叶わなかったとき、一緒に本を作ったことは。 それは、産めない我が子の代わりとなるとさえ思えた。 だから私は、ファウスト様と一緒に本を作りたかったのだ。 「マルティナがそうしたいなら、協力するよ」 ファウスト様は、やはり優しく答えた。 だが、少々不安げな顔をする。 「しかし、本当に私の知恵など必要かなあ。この間も思ったのだが、私はマルティナほど賢くないんだよ。もちろん、協力はするが」 「ファウスト様。なんでそんなに自分に自信がないのかを私は知りませんが、そのアイデア、発想は余人では届かないものがあります」 武力以外に自信がないのは知っているが、あまりにも自信がなさすぎる。 この点だけは、何故かが判らない。 「マルティナ、お前は私の事を『何故そんなに自信がないのか』と思っているだろうな。私もそう思うよ。ただ、仮に愚策でも、なんとか実行してしまえる化物も世にはおり、逆にどんな良策でも台無しにしてしまう愚物はいる。私はどちらでもない。ただ人より剣を振るうことが出来る超人であり、そして知能という点では凡人なんだよ。私はアナスタシア殿下とアスターテ公爵の命令を受け、剣を振るうのが最も有用である存在なんだ」 このファウスト様の自分に対する卑下は、おそらく一生変わらないのだろうなと思う。 だが、それでもよい。 私はそんなファウスト様が好きだ。 「マルティナ。お前は私の自信の無さに困惑するが、それなら私も言うよ。マルティナ、お前は超人だ。お前の母カロリーヌから産まれたマルティナという存在を、私は最強の存在のように思っている。お前に比べれば、私はただの凡才に過ぎなかった。どこまで歩いても、この身の一生涯はただの武人として終わるだろう。だが、お前は違うよ、マルティナ」 「ファウスト様」 「以前に何もかもを正直に言うと約束した。だから、照れくさいが正直に言うよマルティナ。私はお前が可愛いよ。お前を実の娘のように思っている。今でも、アスターテ公爵に預けられれば良いと思う。その方が、お前の将来のためになるとさえ考えているのだ」 何を言っているのだ、この人は。 アスターテ公爵にもし、私が預けられていたならば。 私は今頃、自分の罪の重さに耐えかねて、懐剣で自殺していたであろう。 そのことが、ファウストには考えもつかないのだ。 嗚呼。 確かに、ファウスト様は何もかも完璧な存在ではない。 神様は歪な才能をこの人に与えた。 「だが、それでも私はお前を育てたいと思うよ。許してくれるか」 「……」 そんな歪だから。 私は、何やら困ってしまうのだ。 酷く猥褻じみた、神に顔向けの出来ない下品な妄想を抱いてしまう。 「許します。だから、全ての事をやってください。一緒に本を作りますよ、本を!」 わざと大声を張り上げて、赤くなりつつある頬を誤魔化す。 ファウスト様は、話題を変えたいという私の意に沿い、話を戻した。 「ああ、そうしよう。それで、何を書くんだ? 意見を出すが、生半可なものでは女王陛下や王族へのアピールにはなるまい。戦場で出世した騎士は数知れないが、私は文官として出世した官僚なんぞ聞いたこともない」 「それはファウスト様の偏見で、ちゃんと居はするでしょうよ。まあ名声という点では差がつくと思いますが」 騎士として戦場で多大な貢献をした人間が目立つのは、当たり前だろう。 そもそも騎士の本分は「戦う人」なのだから。 だが、統治や内政を行う文官もちゃんといる。 その評価はされているはず、とは言ったものの。 私が書きたいのは――。 「ファウスト様、私が書きたいのは戦場の未来予想図についてです」 「戦場の未来予想図? かつて、模擬戦の際にマルティナと語り合ったあれなのか?」 「そうです。一度、腰を据えてファウスト様と語り合いたいと思っておりました」 火器が登場した。 これにより、戦場は一変するだろう。 だが、それは騎兵や槍兵や、その他の兵科が不要になる。 そのような単純な話ではない。 騎兵、槍兵、弓兵、銃兵、砲兵。 そして、今の神聖グステン帝国では戦場の先行きを左右することになる傭兵。 ランツクネヒトの存在がどうしても出てくる。 兵科にはそれぞれ弱点があり、それを補填するような形で各兵科は発達、及び自身の弱点を補うように進化してきたのだ。 何度でも繰り返す。 銃が出てきた? だからどうした。 それが全ての兵科に対して勝利するなど、そのような単純な話は存在しないのだ。 それが全てを補うなれば、勝利するなれば、戦術なんてものはこの世に存在しない。 仮にそれが実現しても、それは本当に未来の話である。 本当に重要なのは、銃などではない。 火砲である。 ファウスト様の考える理想形、一方的な大量虐殺を行える火力そのものだ。 「火器は、私が未だ目にしたことのない火砲は、確かに戦争の様相を一変させる決定的な兵器になりましょう」 指を一つ立てる。 この推測自体に間違いはないだろう。 しかし、だ。 「それを活用するための戦略は? 戦術は? 軍事組織は? そして技術上の課題は? 単純に火器を用いたから、銃を持っているから強い。そんなバカげた話は存在しません。距離だけなら未だに弓が勝る」 「まあ、そうであろうな」 ファウスト様は、以前にもこの話題について色々考えた様子があり、素直に頷く。 良い事である。 私は、速やかに疑問を述べる。 「そもそも、価格はどうなのでしょうか。ケルン派が製法を知っており、大量生産しているとはいえ、火薬は、硝石の値段は?。何もかもが謎に包まれております。戦場では人の命ですら、コストの一つでしかありません」 ケルン派の火器開発状況はどうなのか、どうしても気にはなる。 ケルン派だ! あの狂った、それでいて――私は、私の母カロリーヌに為した慈悲深い行為を忘れてはいない。 非常に懐の深い存在は、必ずや何かを為すだろう。 いや、何かを企んでいるのだ。 それこそ、教義に則して、自らの属する共同体の全てを。 私が想像したような、マスケット銃の弾丸をなんらかの容器に詰め込んで、火砲の一撃によりそれをバラまくような。 大量殺戮のための、戦場を制するための兵器のそれを開発しているに違いない。 そう考える。 「ファウスト様。私は立身出世のために、本を書くことを考えました。だが、同時に、どうしても知りたいことがあります。私の知能は本当に未来を眺めているのか」 そうだ。 私の、この何ら論拠のない、現状では妄想と切って捨てても良い話は正しいのか? ファウスト様が出したアイデアの全ては、単なる物知らずの空虚な妄想の一つでしかないのか? それを知りたい。 だから、本を書くのだ。 「この私と、そしてファウスト様が呈した疑問の全ては、本を書くことによって何らかの解が得られると思います。すでに考えられており、実行されているのか。それとも、私やファウスト様の妄想通りで、未だだれも実現していない成果なのか?」 笑われても構わない。 私とファウスト様が一緒に笑われるのなら、それはそれで構わないと言えた。 この辺りは、誰にも理解できない感覚なのかもしれない。 私は、ファウスト様と一緒に侮辱を受けるなら、それも構わないと思えた。 「これは井戸に石を投げる行為であると思います。カツンと音がすぐに鳴るのか、それとも井戸の底はどこまでも深いのか。リーゼンロッテ女王陛下が音がすぐ鳴っているとお答えくださるのか、それとも音すら鳴らないのか。それはこの9歳児たるマルティナには判りません」 そうだ。 何もかも判らないが。 ただし、井戸に石を投げる必要はあった。 「音が鳴らないからといって、その井戸が枯れているかどうかはわかりません」 私は井戸自体は枯れていないと思うのだ。 なれば、水があるならば。 そのポチャリと落ちた石の、水の波紋に必ず何らかの反応は起きる。 それが小なりか、大なりかはわからないが。 「マルティナ。お前は、自分の才能がどこまでも届くと、実際には信じているのではないか?」 ファウスト様の疑問。 私は、素直に答えた。 「私は、母カロリーヌの娘として産まれ、司祭様に教育を受けて育ちました。今ではファウスト様に物を尋ねております。そして、その教育の全てに疑いを抱いたことはありません」 胸を押さえる。 そうだ! 私の母は、学識が足りなかったのであろうし。 司祭様は、私を守る力が足りなかったのであろうし。 ファウスト様は、自信に満ち足りた方とは言えない。 なれど、誰も間違ってなどいない。 私に与えてくれた教育の全てに、何処に虚偽が混じろうか。 その結晶の塊に、どこに不備があろうというのか。 「私は、まだ足りていないのかもしれない。だけど、これから書く本については自分の能力全てを込めて叫ぶつもりです。ここにマルティナ・フォン・ボーセルという一人の傑物がいるぞと! 世界はそれに対してどう応えると!!」 私は皆に生かされて、ここに立っているのだ。 ここで叫ぶことに、何の不備があるというのだ。 「マルティナ。たとえ、お前が最初に書いた本が否定されようが、私は今後とも書き続けることを望むよ。一度の失敗は気にするな。二度目も三度目も、チャンスはあるさ」 ファウスト様は、優し気にそう微笑んだ。 私は机の上に、本当は真正変態であるアスターテ公爵のために用意された、手紙用の紙の全て。 それを広げて、こう呟いた。 「それでは、執筆を始めましょう」 第105話 銃・砲・騎士 序論 まずは、本のタイトルである。 本のタイトルは仮題として「火薬がもたらす深刻な結果、戦場の未来予想図」としたが、ファウスト様が難色を示した。 少し長い、との事である。 よりシンプルであり、改題案として『銃・砲・騎士』とするように薦められ、そうする。 これについてはこだわる点ではない。 「できれば、辺境領主騎士の私が読めるように古語ではない方が嬉しいのだが」 ファウスト様は、次に執筆言語に関しても難色を示した。 これに関しては、私から反論する。 「ファウスト様には申し訳なく。ですが、この本にアンハルト王族以外の読者は必要ないと思うのです」 読者側に対する配慮であった。 理由は明確であり、活版印刷により多くの者の手にとられ、この知識が知られることなどを。 この本を捧げることになるアンハルト王族は決して望まないであろう。 私は執筆にあたって議論を行い、知識を共有し、時に眉をひそめた。 なるほど、アスターテ公爵が本当に知りたかった知識は、ファウスト様の脳みその中身はこのようなものであったか。 手紙を書かせるためだけに、少々の書き損じやメモ書き程度はためらう必要のない、本すら執筆できる量の紙を私に送り付けた意味。 ようやく、それを理解しつつある。 ファウスト様の知識は価値あるものではあるが、解読が酷く難しいのだ。 例えるならば、あまりにも過程を知らずに成熟しきった結論のみを述べてしまっている。 どのような試行錯誤を経たかを知らず、最新の技術を教本を読んで知っただけのようなそれ。 そのような印象を受けるのだ。 酷くちぐはぐで、要領を得ず、だが簡潔であり、そして結論を焦っている。 気狂いザビーネは直接会話することによって、何らかの軍事的な答えを得た。 アスターテ公爵は自らだけではなく、私ことマルティナというフィルターを通すことによって、より多くを解釈しようとした。 どちらが正しいとも言えないだろう。 どちらも間違っていないからだ。 彼女たち二人は、知能的には超人といえる存在であるのだ。 だが理解できる二人だから、それで良いだけであって。 古語すら理解できない階級のそれがファウスト様の言葉を聞いても、何を言っているのか理解できない。 正直なところ私でさえ、時々その結論はどこから出てきたのだとしつこく深堀りするほどに、ファウスト様は妙な事を口走るときがある。 先にファウスト様の四方八方に飛び散った結論があり、私が過程を考える。 そのような苦労をして、私は『銃・砲・騎士』を書いている。 要するにだ。 古語を理解できない人間が、最初から読めないようにするのが、誰にとってもよろしい。 元々、多くに売るためにあるものではないのだから。 それが私の判断だ。 「そして、本の内容ですが」 「先ほども言ったが、衝撃的かつ簡潔に、一方的に結論をまず述べよう」 「では、やはり火薬について話をすることとしましょう」 ?? 1 ?? 今後の火器が、何をもたらすかについて、リーゼンロッテ女王陛下に予言します。 火薬は、城や要塞、下馬騎士による防御的性質や用兵術の全てを終わらせてしまうでしょう。 急増したクロスボウに対する防御のため高くなった城壁は、意味を為さなくなり。 焼夷兵器に対する防御のため木造から石造りになった要塞も、意味を為さなくなる。 あの地獄の使者が産み出したマスケット銃という発明は、下馬騎士の板金鎧すら貫いてしまう。 歩兵・騎兵・弓兵の連携によって彩られてきた戦場の様相は、まったく違った景色を示すことになります。 銃を兵士が握るようになります。 大口径の砲が全てを薙ぎ払うようになります。 騎士はその流れに呑まれるのではなく、指揮官としての役割をより強く求められることになりましょう。 ???? 「ファウスト様と私の結論を出してしまえば、このようになりますが」 「やや衝撃的すぎるが」 「ファウスト様が、そうしようと仰ったんでしょうに」 確かに衝撃的であるし、同時に言い過ぎである。 そもそも時代の新技術というのは、古い技術の代用または補完のためにある。 火薬という新技術は、まだ完熟ではないのだ。 同じ飛び道具であるクロスボウはまだ強力であり、板金鎧こそ撃ち抜けないものの、そのチェーンメイルを貫く威力も飛距離も強力である。 火砲はおそらく石造りの要塞も破壊するだろうが、その運用は容易なものとはならないだろう。 マスケット銃は確かに板金鎧すら撃ち抜けるが、胸甲や兜とて対策は整えつつあるし、そもそも銃自体の命中率は低く近距離でなければ話にすらならない。 現時点での銃は、そもそもが兵科の一つでしかないのだ。 銃兵という兵科が産まれたにすぎない。 だが、その前提はとりあえず、無視してしまおうと思うのだ。 なぜなら、これは未来の戦場についての予想図であるのだから。 「次に、少しの前提に対する訂正を」 ?? 2 ?? これは未だアンハルト王国における現実ではありません。 そのような事は全てを解説するまでもなく、賢明なるリーゼンロッテ女王陛下は理解を示してくださるでしょう。 なれど最後まで投げ捨てる事は無く、この本を通読頂きたく。 この本は騎士という「戦う人」がその武勇を強調するあまりに、完全ではないものとなった多くの戦術逸話書のそれではありません。 純粋に火砲が変えてしまう、今までとこれからの戦場についての書となります。 騎士がその未来を、どう受容すべきかについて書かれております。 後方支援、戦力の集中点、戦列・陣形の突破方法。 それらを理解している、戦略の天才たるアナスタシア第一王女殿下にもお伝えいただければと思います。 そして、それ以上に火器が、これから戦場を支配するであろう火砲の運用を怠れば、その戦略すら打ち砕いてしまうことを知ってほしいのです。 ???? 「そして、ファウスト様が共著であることを念押ししておきます」 「そこまでしなきゃ本当に読まないのか?」 「ファウスト様がお考えになっているよりも、王族は忙しいのですよ。読まれない可能性は高いです」 ?? 3 ?? この本を書くにあたって、共著者であるポリドロ卿の言葉をここに記しておきます。 『仮に愚策でも、なんとか実行してしまえる化物も世にはおり、逆にどんな良策でも台無しにしてしまう愚物もいる。私はどちらでもない。ただ人より剣を振るうことが出来る超人で、そして知能という点では凡人なんだ』 このポリドロ卿という英傑騎士が、圧倒的な暴力が、ヴィレンドルフにおける英傑騎士レッケンベルの包囲策を一騎討ちにて打ち破った事は言うまでもないでしょう。 強力な暴力は、時に全てを薙ぎ払ってしまいます。 私が考える火砲という暴力は、野蛮な喧嘩とは言えず、ポリドロ卿と私が理想とする「遠距離からの一方的な大量虐殺」という理不尽な、喧嘩にもならない暴力に至るものと考えます。 そのような歩兵、騎兵、弓兵といった兵科の枠から外れてしまうもの。 まさに戦場の戦乙女とも呼べる存在が、私の考える火砲であり、それを運用する砲兵という存在なのです。 本書においては、最初に書いた結論に何故ポリドロ卿と私ことマルティナが至ったのかについて、章に分けて記します。 順を追って説明するのです。 どうか、最後までお読みくださいますように。 それが神聖グステン帝国アンハルト選帝侯リーゼンロッテ女王陛下にとって、そして女王陛下に膝を折る騎士であるマルティナ・フォン・ボーセルと、領主騎士ファウスト・フォン・ポリドロにとっての益になる、たった一つのお願いなのです。 私はリーゼンロッテ女王陛下の恩情とポリドロ卿の助命嘆願により長らえたこの命を、どうアンハルトに役立てるかを今の今までずっと考えてまいりました。 ???? 「最後の嘘だろ。全然考えてなかったろ」 「嘘ですけど。こんなのリーゼンロッテ女王陛下だって嘘だと知ってますけど、これぐらいは書いておいた方が心証良いでしょうよ」 飾りない文を書くと言ったが、この程度はやっておくべきだろう。 リーゼンロッテ女王陛下の心証はもちろんのこと、もし後世に本が残りでもした場合、私の名誉は少しでも回復しておく必要があった。 それは母カロリーヌへの慰めにもなるのだ。 「続けますよ。間違ったとき恥ずかしいから、言い訳も一応しておきます」 ?? 4 ?? そして、これから記述する火砲に関してでありますが。 マスケット銃があるならば、より大口径の火砲の開発は必ずや進んでいるものと思われます。 それは司教領にて火器開発を行っているケルン派を除けば、その報告が行われているであろう神聖グステン帝国の皇帝陛下や教皇猊下、そして選帝侯たるリーゼンロッテ女王陛下がようやく知るところと思われます。 この9歳児たるマルティナや、僅か領民300名の領主騎士たるポリドロ卿が知ることはできません。 ですから、本の折々に、リーゼンロッテ女王陛下がすでに知るところである確立した知識とやや相違があるかもしれません。 その際は、馬鹿な二人の妄想と笑って、お許しください。 ???? 「いや、確実に合ってるから言い訳はいらないと思うんだが」 「それだけは、何故かファウスト様自信満々ですよね」 「私の結論は確かに突飛なものかもしれない。だが、マルティナが補填してくれた知識の殆どは理屈づいており、間違っていることはないと思うんだが」 本当にファウスト様は自信満々である。 結論では確かにそうなるはずだと言い張り、過程においてはあやふやどころか何も考えてすらおらず、私が何とか理屈づけたそれに対しては多分そうだよ!と無茶苦茶良い笑顔で言うのだ。 ファウスト様は愚かでないし、私は確かに皆が信じてくれたように知における超人なのだろう。 だが、その無茶苦茶良いファウスト様の笑顔を見るたびに、物凄い不安に駆られるのだ。 本当に正しいだろうか? いや、間違っていても、そう思うのも無理はない程度にリーゼンロッテ女王陛下も考えてくれるはずだ。 このような懸念は筆を鈍らせる。 さっぱり忘れて、続きを書こう。 「……前述したように、火砲について書きましょう」 ?? 5 ?? 私は火砲を、理不尽な暴力であると前述しましたが。 その活用例の一つとして、マスケット銃の弾丸を容器に閉じ込めたような――仮にキャニスター弾と呼びましょう。 マスケット弾の数百発を収めた容器を空中に射出し、バラ撒かれた散弾が広範囲の敵を殺傷する、そのような仮想兵器です。 これは防御的陣形に対し、その密集した状態にこそ最高の効果を発揮する暴力であり、人体という血袋を破り、骨を砕き、一度の砲撃にて戦場における殺戮を行うでしょう。 もちろん、射程という課題におきましては研究の必要があるでしょうが、このような理不尽な暴力が今まで、ポリドロ卿のような超人という存在以外にありましたでしょうか。 敵はその絶望的な威力に怯え、如何に鍛え上げられた兵士であろうとも遁走し、戦列は崩壊するでしょう。 では攻撃的側面だけでなく、防御的側面はどうでしょうか。 重装甲騎兵、鎧を着こんだ騎兵が密集隊形で突撃を行う暴力は、現在のアンハルト王国において最強の攻撃手段であります。 突撃が秩序ある完遂に至れば、必死に掲げた槍の穂先すら易々とへし折り、敵の陣形は一撃にて崩壊します。 あとは蹂躙するのみとなりましょう。 ですが。 ですが、火砲が防御側にあればどうでしょうか。 今までの重装甲騎兵は、銃やクロスボウ、ロングボウといった遠距離による攻撃を受けても耐えることが出来ました。 馬が人の倍の速さで距離を詰めるまでの時間、そこで板金鎧を着こんだ騎兵が受ける損害は、まだ許容範囲であったからです。 ですが火砲の、キャニスター弾による損害は、許容範囲とはならないのです。 火砲による一撃は、突撃した重装甲騎兵の馬、板金鎧、兜、そのことごとくを破壊しつくし、騎士の命を奪うでしょう。 もちろん、騎兵の機動性からくる側面攻撃に対して、火砲が即応できるかどうかは考察の余地がありますが。 ???? 「キャニスター弾は射程範囲の何もかもを殺戮するでしょう。それは間違いない。ですが」 「どうしたマルティナ」 「これ、超人に対しては殺戮に至るかというと」 多分、魔法の鎧を装着したファウスト様と愛馬フリューゲルは、キャニスター弾の一撃を受けた程度では死なないだろう。 武の極まった超人というのは、そこまでの存在なのだ。 「私は死なないな。多分、ヴィレンドルフの英傑レッケンベルも死なない。両国が数を合わせれば数名くらいなら生き残れる超人がいよう。致命傷を避けて、突撃を続けるだろう。だがアンハルト・ヴィレンドルフ合わせても300万いるかいないかの国民のなかで、それだけだぞ。別に考慮する必要はないだろう」 「そうですね。そこまで化物じみた超人で構成された部隊が、世に有るわけでもあるまいし」 それこそ夢のような、100名を超える中隊の数さえ出揃うような部隊を編成することは不可能であろう。 この世の超人は、それこそファウスト様のような超人は、数える程しかいないのだ。 完全実力主義の国家でもなければ、それこそ魔法使いを世襲貴族として掬い上げるような特殊な採用主義をとっていなければ、農家に生まれた者は農民として埋没する。 よく働く女として評価されるのが精々であろう。 このマルティナの、封建領主のスぺアの子としての立場が、その今までの経歴が何より証明しているのだ。 「……」 ファウスト様が、少々眉を顰めた。 「どうされましたか」 「なんでもない。化物じみた超人で構成された部隊か。遊牧騎馬民族国家であれば、あり得るかもしれないと思ったのだ」 コツコツと、指で机の上を叩く音が鳴る。 私は、遊牧騎馬民族国家の社会性が、どのように成り立っているのかは知らない。 但し、実力主義の部族性を取る国家であれば、可能性は高いだろう。 「ファウスト様、そのような事を考えても仕方ありませんよ。我々はそれを知ることのできる状況下にはありません」 「そうだな」 ファウスト様が、少し重苦しい様子を漂わせながら。 静かに首肯するのを見届けて、私は執筆を続けることにした。 第106話 選帝侯家内紛 こめかみに、指を押し当てて悩んでいる。 「――」 本のように束ねた紙の全てを読み上げ、それを製本せよと部下に告げようとして。 はた、と立ち上がるのを止めた。 製本には時間がかかりすぎる。 というよりも、人目に触れるのが不味いのだ。 秘密を守れる人間にしか、これは見せられない。 「さて、どうするか」 今、王都にいる。 本来ならば、公爵家当主なれば自領に腰を据え、その統治を行うのが正しい。 だが、爵位継承こそ済ませど、このゲオルギーネ・フォン・アスターテはまだ若い。 齢は未だ18であり、当然、その母も若かった。 まだ母の齢は35にも達しておらず、領地経営を退いて私に公爵領の領民・騎士、それらの命全てを預けようとする様子はまるでなかった。 歳は若いが、齢16にして当主を娘に任せることにした。 だが、別に実権の全てを任せるわけではない。 働ける限りは、後見人として働くつもりでいるのだ。 後継者問題があるから、ある程度の領主教育が身についた長女を当主としてしまおう。 妹達がまだ幼い内に全てを決めてしまった方が、問題も起きぬ。 そういう母の意図により、若くして公爵家を継いだ。 神聖グステン帝国において、またアンハルトやヴィレンドルフなどの選帝侯領においても、そのような考え方は貴族において一般的であった。 「うーん」 だから、私には時間があった。 領地経営を母に任せ、第一王女相談役として、親戚にして親友であるアナスタシアのために王都にいる時間だ。 リーゼンロッテ女王陛下とアナスタシア第一王女の争いをなんとか仲裁するために、最近は時間を割いているが。 争いといっても、別に地位や財についての争いではない。 そろそろアナスタシアに女王の座を譲ると約束していたし、厳密にいえば、別にその約束を翻すつもりは女王陛下側にも毛頭なかった。 ただ一つ、但し書きを付け加えたのだ。 ファウスト・フォン・ポリドロという男の取り扱いについて。 リーゼンロッテ女王陛下は、ファウストをしばらく私に預けろとアナスタシアに命令した。 内容に関しては、こうだ。 「ファウストを私室に招き、ヴァリエールの夫として、そしてアナスタシアとアスターテの愛人として生きていくための教育を行おうと思うのだ。もちろん、その際に二人の愛の結晶、もとい王宮にて歩き回る幼児が一人産まれることとなるかもしれぬ。だが、もちろん誰が父親とも判らぬ子であるゆえに、王位継承権は持たぬ。何の問題もないゆえに、速やかにアナスタシアは了承してよい」 要は、リーゼンロッテ女王陛下は女王の座を退く際に、ファウストに手を出して自分を孕ませようと企んだのだ。 目の前に差し出された肉食って何が悪い! 自分の娘の婚約者に手を出して何が悪い! その結果、産まれた幼児が王宮を歩き回っても何の問題もない! 凄く自然! もうどこにでもある風景! そのような事を平然とほざいたのだ。 アナスタシアは露骨に拒否した。 怒れる感情を抑え込み、ぺこりと頭を下げ、今までの人生全てへの感謝を告げ、暴発した。 「今まで育ててくれて有難うございます。そして死ね」 アンハルトを受け継ぐことになる次代の女王として、明確な殺意ある返答を行ったのだ。 ここにて、王都にて男の取り合いという親子喧嘩が勃発したのだ。 あまりにも醜い。 小さく呟く。 「リーゼンロッテ女王陛下も業が深い」 何よりの問題は、再度言うが、別に地位や財を争っているわけではない。 リーゼンロッテ女王陛下は多少の助言はすれど、本当に自分の立場を権力から遠ざける気であったし。 自分が育ててきた実務官僚や紋章官といった、全ての人材をきっぱり譲るつもりでいた。 アスターテ公爵家や他家に見られるそれではなく、後見人としての自分を守る権力さえ、全てを愛娘に譲るつもりでいた。 この娘であれば、自分が心血注いで育て上げた娘であれば、全てを預けて引退できる。 実際のところ過不足などなく、アナスタシアならばアンハルト王国を引き継げるであろう。 それは私の目からも事実なのだ。 だが、一つだけ紛れがある。 お前の愛人となる予定のファウストを私の寝室によこせ、という紛れであった。 悲しいくらいに頭が悪い案件であった。 アナスタシアはもう明確にキレた。 頼むから死んでくれと叫んだ。 お互いに理性はあるので、愛用であるハルバードを持ち込んでの殺し合いにまでは至らずとも。 そりゃあもう、見苦しい程の罵りが王宮に響いた。 お互いに完全武装の女王親衛隊、第一王女親衛隊を並べての罵り合いである。 見苦しさのあまり、面を合わせた親衛隊は酷くげんなりしており、お互い大変ですねえなどといった哀愁さえ感じられた。 私は現場の酷さに、思わず横から口をはさんだのだ。 「それはそれで、もう凄く興奮できるからいいじゃないか」 ファウスト・フォン・ポリドロ。 アンハルトの価値観では美しいとは呼べない、身長2m、体重130kgを超える筋骨隆々の領主騎士。 だけど心根は本当に優しく、悲しいぐらいに実直であった。 そのファウストが、叔母の欲望により穢されてしまう。 未だ亡き夫に想いを抱いているくせに、それはそれ、これはこれと、自分の次女の婚約者にして、長女の愛人となるべき男に手をつけてしまう。 あのファウストは立場上逆らえず、アナスタシアよりも先にリーゼンロッテ女王陛下の手によって穢されてしまうのであろう。 私たちは奥歯を噛み締め、泣きながらそれを見守るしかないのであろう。 もうそれを考えると、凄く興奮できた。 パンが美味しく食べられるのだ。 「お前百回くらい死んで、その性癖直してこい」 アナスタシアは酷く、私を罵った。 お前は、何故このように産まれてきた? そのような、心からの罵りであった。 ビックリするほどに、冷たい声であった。 「このように産まれてきたのだから仕方ない。原体験であるのは、ファウストと同じく筋骨隆々であった、叔父ロベルトの尻を幼い頃にずっと眺めてきたことにあると思うのだ。もうこれは仕方ない」 私は弁明した。 この弁明には正当性があると考えたのだ。 「お前は、昔から夫ロベルトをそんな汚らわしい目で見ていたな。お前が幼い頃、何度か首を引き千切ろうかと迷った」 リーゼンロッテ女王陛下は、恐ろしい事を言った。 本気でかつては、そのような事を考えていたのだろう。 おそらくは実行に移そうとしたことも、何度かあるのだ。 そのような恐ろしい告白であった。 私はこの時、少し悩んだ。 自分の母であれば、ゲオルギーネが悪いなどと見捨て、私の首が千切られるのを健やかな面持ちで眺めたのではないかと。 皆が皆、アスターテ公爵領の長女にして、今は当主になりさえしたアスターテ公爵である私に対し、どこか冷たかった。 才能自体は認めるが、何か間違ったのが産まれてきたようにさえ、思われている気がする。 「嗚呼、そのような痴情はどうでもよい。私を今悩ませているのは、マルティナとファウストが差し出してきた本についてだ」 『銃・砲・騎士』という短いタイトルを論題にした、一掴みの資料。 それはファウストの知識について、ポリドロ領について調べよと、マルティナに送った紙束の結果であった。 確かにマルティナはその一辺について解き明かし、報告を為した。 それについては褒め称えてよいし、報酬を与えてもよい。 だが、内容は劇物であった。 「まず、銃について」 銃を扱うにあたって、銃兵の再装填や行動をより精緻にし、数十に分けた行動を訓練する目論見。 またその具体的な内訳と、方法論について触れている。 明確な軍事教練本へと、変化を遂げていた。 「私が考案していた方法と、一部合致する。だから『内容に狂いはおそらく無い』。少し腹立たしいのは、私より内容が具体的であることだが」 火砲について。 間違っていることもあれば、妙に具体的であることもある。 王族にして公爵であるアスターテと違い、ケルン派の火器開発状況を知らぬ二人であれば仕方ない。 しかし、内容に多少の紛れはあれど、アスターテより未来を見つめている。 砲兵がいかに脅威をもたらすか、それはアスターテにも理解できる。 本書においては戦術家にとって興味をそそる様々な運用方法、砲兵についてのそれが書かれているが。 重要なのはそこではない。 硝石について触れているのだ。 はっきりと、硝石の生産方法が書かれているのだ。 確かにケルン派は硝石を山から取り出しているのではなく、何か魔法により造り出しているのではないかと疑う向きがあったが、本書では否定されている。 ゴミを腐らせる、或いは動物の糞尿から、硝石を作り出す方法について考察している。 もちろん方法については大雑把なものだが、どうもこれは不味い。 多分、考察は当たっているのが不味いのだ。 なんであの馬鹿ふたり、ケルン派の秘事について平気で触れてるんだ。 ファウストとて、マルティナとて、おそらくは一人で考えたならば、不味いと思って書かないであろうことを平気で書いている。 馬鹿、もとい、ある種の知識人が二人そろって止まらなくなり、うっかり書いてしまったのであろうが。 ケルン派がその硝石の販売によって利益を得ている以上、具体的ではないにせよ、触れること自体が拙い。 下手な立場の人間ならば、もはやケルン派にぶっ殺されても不思議ではない。 ケルン派とて、いつかは誰かに情報が洩れると考えているだろうが、今バレてよいとは思っていないだろう。 最初に読んだのが私で本当に良かったと、アスターテは考えた。 今ならば止められるのだ。 「燃やすべきか? いや、待て」 この本を受け取るのは私ではない。 本来はリーゼンロッテ女王陛下に贈られたものであり、私は仲介役にすぎない。 この本にだって書いてあるではないか。 騎士について書いた章に、はっきりと書いてあるのだ。 『火器というものが、今後発展するそれが、いつかは騎兵の終焉すらもたらすかもしれない。だが、それは未来に過ぎず、騎士の存在が消えるという事ではありません。願わくば今の神聖グステン帝国皇帝陛下が最後の騎士などと呼ばれぬことを祈ります』 あまりにも飾り気がない。 神聖グステン皇帝陛下すら持ち出し、不遜とすら言われることを平気で書いてある本書。 これは、もはや選帝侯である我らアンハルト王族ですら持て余すと判断する。 確かに、アンハルトがこの知識を十分に活用できたのであれば、先手の利は得られるだろうが。 「……遊牧騎馬民族が気になる。神聖グステン帝国の対応も」 正直、半信半疑であった遊牧騎馬民族国家の西征論。 ファウストが言うのだからと、私は手を伸ばした。 僅かながら情報を握っているであろう神聖グステン帝国へ探りを入れたのだ。 結果はよろしくない。 神聖グステン帝国の首脳陣ですら、半信半疑であるといった状況であるのが不味い。 言葉通り、半分は信じているのだ。 それだけの情報がもたらされている。 もし遊牧騎馬民族国家が西征してきた場合、神聖グステン帝国自体がどうなるかは知らぬが、前線に立つことになるアンハルトと、ヴィレンドルフは酷い被害を受け、最悪は領地を失う可能性があった。 それは宜しくない未来だ。 私は立ち上がり、資料を文箱の中へとしまった。 燃やすのは止めだ。 だが、馬鹿みたいに世間にひけらかすものではない。 本と呼ぶべきですらないかもしれない。 これは、何らかの凶悪な武器、取引、交渉材料になり得ると考えた。 正直なところ、遊牧騎馬民族国家の侵略を受けることが確定しても、神聖グステン帝国中が力を合わせて打倒に立ち向かう。 そのような未来、私にはまるで見えない。 現皇帝は能力が高く、選帝侯の全員の投票により、選挙制の形を取りながら満場一致で認められた真の皇帝である。 帝国自体は強靭そのものの黄金期を迎えている。 だが、ヴィレンドルフとアンハルトが選帝侯同士で争っていたように、封建領主の皆が手を繋いで仲良くとはいかないのだ。 不安ばかりが募っている。 最後の騎士、そのキーワードがずっと頭に引っかかっているのだ。 ファウストがゲッシュを行ってまで示した懸念が事実であれば、火砲によるものではなく。 侵略による、神聖グステン帝国の崩壊という結末も見えてしまう。 「……」 グダグダと、つまらぬ思考。 そのような暗い思考は、私には不釣り合いであったし、事実すぐに思考を切り替えた。 前のめりに向いたのだ。 9歳の知能超人マルティナ、神聖グステン帝国中を探しても何人もいないであろう武の超人騎士ファウスト。 このような危険物を提出してきた、馬鹿二人。 「あの二人、帝都に連れていくか?」 リーゼンロッテ女王陛下から、アナスタシア第一王女への、アンハルト選帝侯の継承。 皇帝に対する顔見せには、アナスタシア自らが帝都に出向く必要があった。 相談役である私も、それに付いていくつもりであったのだ。 二人ほど増やしても問題はない。 問題は、二人が了承するかであるが。 さて、どのように口説く? 今から、手紙の文面を考える。 それにしても、だ。 「いつになったら、この喧嘩は終わるのだろうか」 アンハルト王宮の一室。 この部屋にて、嘆く。 廊下では双方の親衛隊が、必死にお互いの主君を止めているのだ。 もう醜い争いは止めてくれと。 「お前なんか産んだのが間違いだった!」 なんか母親が言っちゃいけない言葉言ってるし。 リーゼンロッテ女王陛下はいつもの沈着冷静な面持ちを投げ捨てている。 あんな人だったろうか。 まあアンハルト王族は、私含めてマトモな性格をしている人間はいない。 ヴァリエールと、叔父ロベルトが例外であるのだ。 「お前から産まれたなんて事実を否定する。木の股から産まれた方がマシだった!」 娘も言っちゃいけない言葉を口にしている。 これからアンハルト選帝侯家を継ぐ人間の台詞とは思えなかった。 だが、まあ、どうでもよい。 なんだかんだ言って二人とも現実が見えており、仲裁さえ続ければ落ち着くであろう。 男の取り合いで、本気で殺し合うわけにはいかないのだ。 「にゃーん」 最近飼いだした白猫が、座っている私の足元に、頭を擦り付ける。 ファウストとの話題のつもりで飼いだしたが、悪くない。 そのような、あまり大したことのない事に思考を落とし、猫を撫でるために椅子から立ち上がった。 第107話 神聖グステン帝国へ ケルン派教会。 その中央では、贖罪主の像の手に、ケルン派の象徴たるマスケット銃が飾られている。 弾薬が尽き、最後には棒切れのようにして銃で相手を殴りつけ、それこそ力の限りを尽くして異教徒に抵抗した贖罪主は打ちのめされ、ついに叫んだ。 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか)」 と。 贖罪主はケルン派の教義に従い、全身全霊で敵に立ち向かったにも拘わらず敗北し、磔にされた。 もちろん、ちゃんと三日後に復活した。 そのような狂った話を、今日の安息日の礼拝にてされていた。 もちろん、それはケルン派の嘘でまかせであり、贖罪主のおられた時代に火器はない。 当たり前の事をケルン派は無視していた。 やはり、何処か頭の大事な部分が壊れてしまっているのだろう。 私はそのような事を、ファウスト様に口にしたが。 「人生の輝かしい面を見よう」 などと漏らすばかりで、てんで相手にしてくれない。 このマルティナ、ケルン派には確かに恩がある。 だけど、狂った部分には目を背けずに生きていきたいのだ。 私はいつか、この狂った宗派に恩返しと、その狂気的思想に対する批難を行いたい。 もちろん本を書くことで、だ。 「さて、信徒マルティナ、信徒ファウスト、本は無事書き上げられたようで何よりです」 「神母様。本当によろしかったのですか?」 ファウスト様が、眉をしかめて呟く。 話しているのは、私たちが書いた本について。 『銃・砲・騎士』に書いた内容についてであった。 「私とマルティナは、勢いで本を書き上げた後に気づきました。やはり、ケルン派の火薬の材料である硝石の生産方法について触れるのは拙いのではないかと」 書くべきではない。 私もファウスト様も、ケルン派には恩があり、信徒である。 その利益を損なうような、恩知らずな真似はできなかった。 なので、神母様に少しばかり話したのだ。 一応は打ち明けるが、すでに削除することを考えていると。 回答はこうだ。 「構いません。書きなさい。貴方たちが自らそれを知ったならば、それを掣肘することをケルン派は望みません。それに、ある程度推察できたなら、これもまた理解できるでしょう。今まで築き上げてきた硝石の厳密な生成方法、醸成場の数、高品質な火薬を作り出すための方法。ケルン派が作り上げた知識の結晶の全て。それらを貴方達二人は知っているのですか?」 「……要するに、もはやケルン派のアドバンテージは揺るがないと」 なるほど、硝石を造り出すことが可能になれば、価格の低下が発生する。 だが、ケルン派の真似事が出来るようになるまで、どのくらいの時間がかかる? 何年か? 何十年か? それとも世紀か? その間に、ケルン派が次の段階に移行しないとでも思っているのか? 神母様は、もはや勝負は終わっていると明示した。 「当たり前のことを話しますが。この神母とて、硝石がケルン派により産み出されていることは知っていても、詳しい内容までは知り得ていません。その機密をケルン派から盗み出すことは不可能です。本当に知りたい重要なことは、多くの時間と莫大な費用をかけることになります。そして何より、このケルン派の聖職者たる私に報告したことで、貴方達の誠意は理解しております。司教様は必ずお赦しになるでしょう」 以上のような回答。 そうは言われても、気は咎める。 ファウスト様とて、そうは言われても教派における最高の機密であると考えた。 悩んだ挙句、ファウスト様は具体的な生成方法に関しては、ある程度省くことを選択された。 妥協案である。 私たち二人の後ろめたい気持ちとはよそに、神母様はどうということもなく呟く。 「そうそう。あの件については司教様に報告させて頂きました。おそらく、後は良いように司教様がやってくださるでしょう」 「司教様に?」 ファウスト様は怪訝そうな顔をされるが、私は理解する。 「……交渉材料?」 「今後はそのように扱われるかと」 要するに、ケルン派の火薬という技術は、もはや金銭で売り買いできない程なのだ。 金塊や硬貨などという金銭の段階ではなく、より高度な条件。 それは今後の皇帝への影響力、及び宗教的地位、より広大な司教領、或いはケルン派が帝国内火薬流通の全てを支配する許可、それらに深くかかわるように思えた。 ケルン派にとっては、おそらく最後を手に入れられることが一番望ましい。 いつか独占できなくなる技術を、今の段階で皇帝陛下により認められ、その功績に対し得られる報酬を確定させてしまうのだ。 「私たちがあの本を一冊書いただけで、そのような事になるのでしょうか?」 ファウスト様の疑問。 「確定ではありませんね。ですが、アスターテ公爵の動きが種火となり、大きなうねりが発生する可能性は少なくありません。こちらから売り込むのではなく、相手側に欲しいと嘆願させたいのが本音です」 深く、考える。 『銃・砲・騎士』は、まずアスターテ公爵の手に届けられた。 アスターテ公爵には、リーゼンロッテ女王陛下に献上する前に読んでもらうよう伝えている。 本を読んだからには火器の未来について考えを一致、場合によれば、より高度な考察に到達するだろう。 あの変態公爵の能力は高い。 まずは、硝石の生産方法が書かれていることに、そのケルン派の秘密に触れていることに気づくであろう。 アンハルト王族として、リーゼンロッテ女王陛下やアナスタシア第一王女と知識を共有するよう動いてくれる。 そして色々と考えた後に、おそらく目の前の神母と同じ考えにたどり着く。 この本は、知識は、神聖グステン帝国の皇帝陛下や他の選帝侯に対し、何らかの凶悪な武器、取引、交渉材料になり得ると。 ……アスターテ公爵から何らかの情報を得た者は、ケルン派に対して交渉を開始する。 その技術を得るために、アスターテ公爵に支払った代価以上のものを用意してだ。 なるほど、私の考えは浅かった。 眼前のケルン派神母とは、人生経験という明確な違いがあった。 ファウスト様は内容を理解し、少々渋い顔をしておられる。 「あの本が、そこまでの事態を引き起こすものだろうか?」 正直、そういった事態になるとは思えない。 ファウスト様は、話の流れ自体は理解しても、実現についてはあまり信じていない様子で呟かれた。 目的を言えば、私のために協力したものであり、それ以上の事は望んでいない。 私にとっても立身出世のため、この能力のアピール材料に過ぎなかった。 だが、ケルン派は何らかのうねりを引き起こすと考えているし、私もそのように考え始めている。 あの本には、確かに軍事技術発展のありとあらゆる課程と実現方法について。 そして、ファウスト様が漏らした幾つかの、最終回答的な技術について書いたのだ。 「あり得ますよ。読む人間はアンハルト王族です」 リーゼンロッテ女王陛下は非常に理知的であり、その技術を知り得たならば、アンハルトのために全てを利用することを考えることができる傑物である。 そして、それは自らが利用するだけでなく、他者に売るという発想もできる方だ。 神母から言われねば、気づかなかったことだが。 「アスターテ公爵が、リーゼンロッテ女王陛下が、アナスタシア第一王女が。あの三人が『銃・砲・騎士』の内容を否定せずに受け入れてくださったなら、実務者としてどう利用するか? すぐに行動を開始します」 その行動の先は。 取引相手が、神聖グステン帝国の皇帝陛下という事が有り得た。 最も高く売りつけるならば、最高権力者だ。 「まあ、その結果がマルティナに返ってきてくれるならば、何でもよい」 ファウスト様は、あまりにも上の話過ぎて、考えるのをやめた。 どうも自分の能力をある程度見限っており、上の事は上に任せるという方針で動いているが。 すでに、状況はそれを許さない。 「ファウスト様、それではすみません。私たち二人は――」 「本の著者がいてくれるなら、その口から本以上の内容を聞ければ、より良い。帝都に招かれることになるでしょうね」 神母様が、私の考えを肯定する。 なんでこんな辺境、ヴィレンドルフとアンハルトが睨み合う最前線の弱小領主にいるのか。 謎極まる彼女は、あっさりと呟いた。 「妄想が過ぎます」 ファウスト様は一笑して、かき消した。 あくまで否定的である。 皇帝陛下に拝謁する機会が与えられるなど、一生をかけてすら有り得ないと考えているのだ。 「……」 私といえば、少し困る。 確かに名声を得たい、立身出世したい、そのように考えてはいる。 だが、それはアンハルト領邦内でであり、もし可能であればファウスト様との子が欲しかった。 別に帝都に行きたいわけではない。 だが、覚悟はしておくべきであった。 「ファウスト様、アナスタシア第一王女殿下は、そろそろリーゼンロッテ女王陛下から選帝侯の地位を継承します。継承式のために出向く際、帝都へ随伴することになる可能性がありますよ」 「断るぞ。何が悲しくて、やっと領地に帰ってきたのに帝都に行かなくちゃならないんだ」 覚悟を求めるが、そもそもファウスト様は領地からあまり出たくないのだ。 封建制度の双務的契約として仕方なく軍役をこなし、嫁を手に入れる必要があるので仕方なく貴族関係を作ろうとしている。 悲しいぐらいに引きこもりであった。 だが、翻意を促さなければならない。 材料を一つ、思いついた。 「ファウスト様、遊牧騎馬民族国家が攻めてくると宣言し、ゲッシュを誓った事、まさか忘れておりませんよね」 「自分の命をチップにしたのに、忘れてるわけないだろ」 ファウスト様は、手をひらひらとさせながら、軽く笑う。 「だがなあ。私ができるのはあそこまでであって、ゲッシュですら大分無理をした。ここから先は上の人間がやるべきであり、私が出来る事などは無いよ」 「皇帝陛下への拝謁し、直言する機会があるかもしれません」 私が指摘すると、ファウスト様はひらひらとしていた手を顎にまわし。 少しだけ考えた後に、呟いた。 「私はそのような事が出来る身分ではない。何を考えているんだ、マルティナ」 「いかにすればファウスト様を死なせずに済むかを考えております」 どうも、ファウスト様がゲッシュを誓おうと動かれた際に。 私としては、ファウスト様が本心からそう思い込んでいるだけとしか思えなかったが、最近は違う。 ファウスト様は、自らの確信について、何らかの回答や知識を得ているからそうした。 そのように思えてならない。 「ファウスト様、今の私はファウスト様のゲッシュに意味が無いとは思っておりません。おそらく、何らかの確信があってそうされたのだと思います。ですが、ファウスト様に尋ねます。かつてこの私に、遊牧騎馬民族国家が如何に強力かを説いたことを覚えておられますか?」 「むろん覚えている」 「ならば、何故自らが発言しようと思わないのですか」 この人は帝都に連れていくべきだ。 私は自身のためではなく、ファウスト様と、それが愛しているポリドロ領民。 ファウスト様の御母上であるマリアンヌ様と、私の母カロリーヌの墓。 全てがあるポリドロ領を守るという、そのためには帝都に行く必要があるように思える。 「はっきり言います。ヴィレンドルフとアンハルト、その両国をもってしても、私の考えでは神聖グステン帝国からの強力な支援無くしては勝ち目がないでしょう」 「だろうな。それは判る。だがなあ、私に何が出来る? 皇帝陛下に拝謁するなど不可能だ」 「ファウスト様は、リーゼンロッテ女王陛下たちが何とかしてくれるだろうと。そのように考えておられるのでしょう。確かに動いてはくれるでしょうが、ファウスト様とて助力すべきです」 確かに、可能性はゼロに近いだろう。 ファウスト様はアンハルト王国にて訴えるのが限界と考えているが、それは違う。 この人ならば、それが可能であると思われた。 だって、ファウスト様は、このマルティナを生かすという無理難題を成し遂げている。 運命というものがこの世にあるならば、それすら左右できる人だと私は確信している! 「ファウスト様、マルティナは騎士見習いとして訴えます。もしアスターテ公爵から誘いがあった場合、それを決して断らないようにお願いいたします。従士長のヘルガや領民は反対されるかもしれませんが、それでもです」 「マルティナ、私は」 「私と一緒に行きましょう」 うーん、と。 ファウスト様は怪訝な顔をされ、少し悩んだ後。 まあいいか、と割といい加減な口調で呟いた。 「死ぬまでに、一度帝都に行ってみるのも悪くない。辺境からやってきた、マナーも知らない人間だと馬鹿にされねばよいが」 「馬鹿にされたらどうします?」 「ぶん殴るよ。相手を侮辱するというのは、領主騎士が背負っている領地と民と先祖を侮辱するとは、どういう事なのかを相手に理解してもらわねばならん」 ファウスト様は領主騎士として、どこまでも正しい。 そして、割と無茶苦茶なのだ。 帝都に赴いてもこのような調子であろうし、そして、この人ならば何かを帝都でも成し遂げられるだろう。 そのように考え、私は少しだけ笑った。 第五章 完 なかがき 本日(2021/9/11)の第5章(第一部完結)までお読み頂き有難うございます。 知っている方もおられると思いますが、当作品は章ごとに3週間から一カ月程度の休みを頂いております。 作者が積読を崩したいためです。 第二部神聖グステン帝国編である第6章の再開は2021/10/1からとなっておりますので、皆さま、のんびりお待ちいただけると嬉しいです。 それではよろしくお願いいたします。 追記 このなかがきの前に「第107話 神聖グステン帝国へ」を更新しております 第5章最終話としてキチンと6章に繋がる流れを書いておりますので まだ読んでない方はお読みください (PVを把握する限りでは、どうも「なかがき」に最新更新通知がかき消された事で かなりの読者様が107話について知らなかったようです。申し訳ありません) 神聖グステン帝国編 上 第108話 旅は道連れ 旅は道連れという言葉がある。 より詳しく言えば、「旅は道連れ世は情け」であり、同行者がいる旅が心強いのと同様に、世の中を渡っていくには情けをお互いに掛け合う事が重要という慣用句である。 まあ、とにかくも旅には同行者がいるに越した事は無いのだ。 故に、ヴィレンドルフ戦役以来の戦友であるアスターテ公爵の旅に同行する。 より厳密には、私とは少し反りが合わないアナスタシア第一王女殿下が帝都に出向き、神聖グステン帝国皇帝陛下からアンハルト選帝侯の継承を認めてもらう儀礼を行うための旅路である。 要は、私など添え物にもならない。 武の超人であり、アンハルトにおける最強騎士の立場であろうとも。 領民300名の辺境領主騎士に過ぎぬ身では、神聖グステン帝国という巨大な権力機構において何の価値もない。 まあ、それ自体には別に不満なんて無いのだ。 何の役に立てるかは判らないが、旅費も出してくれるし、こちらの事情で同行させるのだからと相応の謝礼も貰っている。 私が領地経営することで得られる額よりも、その金額が多額である以上、誰にとっても不満はない。 私は何一つ損をしないのだから。 私の騎士見習いが、マルティナがどうしても話を受けてくれと、何度も懇願してきたのもある。 繰り返すが、それ自体には不満が無いのだ。 では、何が問題かというと、隣席のアスターテ公爵である。 「アスターテ公爵、近いです」 「私は気にしない!」 私は気にする。 今は旅の途中。 神聖グステン帝国、その帝都へ向けて、私たちを乗せた馬車はひた走っている。 馬車に設けられた長椅子には豪奢な布が敷かれており、そこに私とアスターテ公爵が並んで座っている。 うなじを覆いつくす、燃えるような赤毛の編み込みに目を奪われた。 強引に首を振って、アスターテ公爵の細い首から視線をそらし、情欲を蹴散らそうとする。 が、駄目。 彼女は隣席から私の腕に手を絡め、その爆乳に身を引き寄せようとする。 口元からはハアハアと息荒げな声が届いており、その瞳は涙が零れ落ちそうなほどに潤んでいる。 アスターテ公爵は、明らかに発情している。 女性に対してこのような言い方はしたくないが、まあどう見ても発情している。 この人、何でこんなに私の身体に対して情欲を催しているのか。 今までの言動から知る限りでは、もう本気も本気で私の事を好きなのは理解しているのだ。 だが、それは私が忠誠を誓うアンハルト王国においては、相当な変わり者と言ってもいい。 私はあの国では醜男なのだ。 母マリアンヌから産み落とされた、この筋骨隆々の身体に恥じ入るべきところなど、私には一つもない。 だが、それはそれとして、世間の価値観は理解しているつもりだ。 「ファウスト、いいよな! もういいよな!」 さわさわと、私の丸太のような太腿が撫でられる。 その手つきは酷く嫌らしく、なんなら股間近くに触れようとしてきたので、やんわりとその手を止める。 何がいいのかと問いたいが、まあ意味はわかる。 「何一つ良くありません」 状況を考えて欲しいのだ。 そりゃあ私だって、性欲はあるというか、そもそも前世ではこのような頭悪い貞操観念が逆転した男女比1:9の世界と違い、男性の方がケダモノのような存在であった。 いや、もう今世の方が歳月では長いのだから、ひょっとしたら前世の方がおかしかったのではと、最近は思うのだが。 ――どうでもいい。 とにかく、そんな状況ではない。 「アスターテ公爵、あの、さっきからアナスタシア第一王女殿下が見ておられるんですが」 公爵家の馬車と言えど、帝都までの街道を通る旅である。 馬車のサイズには限界があり、調度や装飾に凝っている以外は特別な馬車というわけではない。 ゆえに、馬車内には4人しか座っていない。 そして、私の向かいの席にはアナスタシア第一王女殿下が座っておられる。 蛇目姫。 アナスタシア第一王女殿下が持つ瞳の虹彩の部分は人よりも小さく、白目の部分が多い。 そして瞳孔は爬虫類を感じさせ、他者に威圧感を与えるのだ。 その三白眼でじっと、私とアスターテ公爵を見つめている。 人肉食べてそうな目つきで、私たち二人を見ている。 その瞳は明確に、こう告げていた。 『殺すぞお前ら』と。 アンハルト王家の、選帝侯としての継承式。 領民100万をゆうに超える責任が、彼女の双肩にはかかっている。 この帝都への旅は、これから全ての責任を背負って立つための重要な儀式であり、万が一つにも失敗は許されない。 この私ことファウスト・フォン・ポリドロという男に政治劇はとんと判らないが、それでも皇帝陛下や他の選帝侯、そこまで届かずとも強力な封建領主達との関係を考えれば、この旅は重要なのだ。 それぐらいは、本当に小さな領地の、小さな封建領主でも理解できるのだ。 なのに。 「見られてる方が興奮するんだ!」 アスターテ公爵は、どうしようもない変態の台詞を吐いた。 第一王女相談役にして、アンハルト王家の血族にして、公爵という立場にあるアスターテはこの有様であった。 『殺すぞお前ら』。 アナスタシア殿下がそのような視線で、私とアスターテ公爵を射抜くのは当然の権利と言えた。 その視線に怯えている。 私は何も悪い事はしていない。 そう言いたいが、アナスタシア殿下から見れば、本当にただの言い訳にすぎないだろう。 それに。 私とて、正直本当に恥じ入るべき点が無いかというと、そうではない。 チンコが痛い。 本当にどうしようもない話をするが、言いたいことはそれだけである。 アスターテ公爵が胸を私の腕に擦り付け、さすりさすりと太腿を擦っている。 甘い吐息は私の首筋にかかり、口からは爽やかな柑橘類の香りがした。 前世の貞操観念が残ってる私としては、そろそろ限界である。 貞操帯がキリキリと痛むのだ。 アスターテ公爵の変態性に応じるつもりはまるでないのだが、このような状況下で人肉食ってそうなアナスタシア第一王女殿下に睨みつけられている。 何か妙な興奮と、生存本能が刺激され、背筋にぞくぞくとした物を感じるのだ。 誰か助けてほしい。 「見られてる方が興奮するんだよ!」 横でどうしようもない主張を続けている、アスターテ公爵も助けてやってほしい。 多分頭の何処か大切なところが可哀想なんだと思う。 戦場では酷く有能な人物であることを知っているし、普段は公爵として真っ当に政務をこなしている方なのだろうが。 どうにも、この変態性にはついていけないのだ。 「アスターテ公爵。ポリドロ卿が顔を真っ赤にして嫌がっておられます。すぐに離れてください」 顔が真っ赤なのは、股間が痛いからである。 嫌がっているのは事実であるが。 何も語らずにこちらを睨み続けているアナスタシア殿下の隣席から、救いの声がかかる。 彼女の名は、アレクサンドラ。 第一王女親衛隊長であり、昨年行われたアンハルト王国における馬上槍試合の個人戦優勝者である。 団体騎馬武術大会、ようするにトーナメントでも優勝してはいるものの、才覚ある人間で構成された第一王女親衛隊を率いている以上は勝って当然である。 団体戦には興味をそそられないので、そちらはまあどうでもいい。 私が気になっているのは、彼女個人の強さである。 容姿としては身長190cmと高く、髪は天然と思われるウェーブがかかった金髪を首の長さまで伸ばしており、全身はスプリング鋼のような特別製の筋肉で覆われていると推測される。 仮に彼女と一騎打ちするとすれば、苦戦を覚悟しなければならない。 まあ、負けるとも思わないが。 「アレクサンドラ、お前とてファウストが嫌いではあるまい」 「はあ。確かに嫌いではありませんが」 ともあれ、彼女を一言で称するならば、立場通りの「第一王女親衛隊長」としての能力と忠誠に満ち溢れた人物であった。 アナスタシア殿下からの信頼においては、私よりも評価は高いであろう。 実のところ、彼女とは割と仲が良い。 たまに王宮で顔を合わせれば、部下の指揮統率論において会話することもあった。 会話内容は、私が明確に指揮官としては彼女より劣等であると認識せざるを得ない結果に終わるのだが。 「この間、3人で話した時も言ってたよな。ファウストの嫁になるというなら喜んでなるし、次代の超人を産むと」 「はあ、確かにそう発言しましたが」 さっきから、アスターテ公爵何話してるんだ? 訝し気に思うが、少し会話の内容は気になる。 「親衛隊長という立場的にポリドロ領には常駐できぬものの、子を作り、ポリドロ領を継がせることは可能と考えましたので。きっと私とポリドロ卿の二人であれば、良い超人の子に恵まれると思います」 彼女はあっけらかんとした顔で喋る。 私とてアレクサンドラ殿は嫌いじゃないが、3人で何の話してたんだろう。 「ヴァリエール第二王女殿下が、ポリドロ卿の婚約者となられた今では過去の話でありますが」 横から口を挟むのは躊躇われたので、会話内容から想像で補う。 要は、私がヴァリエール様のための第二王女相談役としてではなく、もしアナスタシア殿下の傘下に加わるようであれば、アレクサンドラ殿との縁談話もあったのだろうと推測する。 少し下品ではあるが、自分の婚約者と彼女を比較する。 私の婚約者、貧乳低身長ロリータ14歳美少女、ヴァリエール様。 もしかしたらあったかもしれない未来の婚約者、豊乳であり身長190cmの高身長モデル体型にして、おそらく18歳の麗人たるアレクサンドラ殿。 私の好みとしては、もう明らかに後者であった。 この身長2m超え、体重130kg超えの自分の体躯について、アレクサンドラ殿は醜いとは感じてないようだ。 それが仮に良質な遺伝子の継承への期待から来る縁談としても、私には悪い話ではなかった。 婚約者たるヴァリエール様には申し訳ないが、そのように思う。 「今からでも遅くないだろ?」 「何が仰りたいのですか?」 アスターテ公爵とアレクサンドラ殿の会話を聞きながらも、一つだけ主張したいことがある。 とにかく私は14歳と婚約したものの、決してロリコンではないという事だ。 これだけは主張しておきたいのだ。 このようなことは誰にも聞かせられぬし、私とてヴァリエール様への好意はちゃんと有るのだから、生涯公にするつもりはないが。 私はどこか爛れた大人の女性が好みであり、清純な14歳の美少女へ情欲を向けるなど低俗であると思って生きてきたのだ。 それだけは、譲れなかった。 何かに対する言い訳のようにして、私はそう考える。 「婚約者のヴァリエールには後で適当に言い訳するとして、もうここで3人がかりでファウストを襲っても許されると思うんだ」 「頭大丈夫ですか?」 アレクサンドラ殿は、アスターテ公爵の正気を疑う視線を送った。 私も、本当にアスターテ公爵はどうしようもないなと思った。 誰がこの公爵を狂わせてしまったのだろう。 以前はもう少し、私の人格に配慮があったのだが。 少なくとも私に嫌われてまで、性的な接触はしてこないという配慮は有った。 「駄目なんだよ! とにかく、この馬車の中という密閉空間が、私を興奮させるんだ!」 知ったことではない。 アスターテ公爵は頭を両手で抑えながら、なんか叫んでる。 「さっきからファウストはお触りし放題で、あんまり抵抗しないし。ファウストから、なんか良い石鹸の匂いしてるし! もう駄目なんだよ!!」 駄目なのはアスターテ公爵の頭なのは、もう明らかであるのだが。 それなら、隣に座らないで欲しかった。 アナスタシア殿下の眼力は、いつにも増して強くなっている。 変わらないのは、とにかく人肉とか食べてそうという威圧感である。 「アスターテ」 ついに我慢しきれなくなったのか、アナスタシア殿下が呟く。 何一つ悪い事をしていない私まで、何故睨まれているのだろうか。 それは理解できないが、何故ちゃんと抵抗しないのかと責められれば返答に困る。 というか、もう立場に格差がありすぎて、本来なら直言すら許されない関係である。 ヴィレンドルフ戦役で生死を共にした戦友であるからこそ、許されているところがあった。 「これ以上、私に恥をかかせるな」 視線一つ。 顎をあげ、殺される前の家畜を見るような目で、アスターテ公爵を見やる。 それだけで、アスターテ公爵は両手の平をぱっと開き、子供のように言い訳する。 「なんだよ。確かにちょっと本気だったけど、そこまで怒る事ないじゃん」 表情は胡乱だ。 不誠実としか言いようがない表情をしているが、アナスタシア殿下は小さくため息を吐き、目を閉じた。 アスターテ公爵が私へのセクハラ行為を止めることで、矛を収めたようだ。 「悪かったな、ファウスト」 「別に気にしてはいません」 冷静になるように努め、アスターテ公爵の謝罪を受け入れる。 アスターテ公爵と、アナスタシア殿下。 この二人、実のところ私には未だ良くわからない部分がある。 付き合いは戦場にてお互いの生存を願うほどに濃厚であったが、正直期間としては短い。 初めて出逢ったのは二年と少し前の戦場にて。 それから私は第二王女相談役として、アンハルト王国における最強騎士として、この二人との関係を維持している。 アスターテ公爵はまだわかる。 私に対し、欲情している。 アナスタシア殿下というと、悪い人ではないと思っているのだが、正直たまに怖い。 この人の性格が良くわからない。 ……この先の人生において、アナスタシア殿下の内心について触れることはあるのだろうか? あまりにも立場が違いすぎる。 そのような事を考えるが。 「ファウスト」 そんな殿下から、名を呼ばれる。 「そろそろ帝都だ。私はアナスタシア・フォン・アンハルトとして、これから継承式のために皇帝陛下にお会いすることとなる。我が母リーゼンロッテは、選帝侯として不足はなかったし。父ロベルトは生前皇帝陛下との文通をやり取りしており、その印象もある」 声は鋭く、為政者として申し分ない。 「特に問題はないだろう。だが、私は帝都で失敗をするわけにはいかん。よろしく頼む」 そんな事言われても、私に出来ることなど何もない。 それが本音であるが、そのような事口に出来るわけもない。 私が言えるのは、ただの一言。 「私はアンハルト王家に忠誠を誓う領主騎士であり、粉骨砕身を以て、何もかもに応えるのみであります」 ただただ、求められた命令に応えればよいのだ。 それ以上に出来ることなど、有りはしないのだから。 私は目を閉じたままのアナスタシア殿下に、力強く答えた。 第109話 帝都での目的 馬車は街道を走り続けている。 だが、帝都までの道のりは遠く、まだまだ時間はかかるだろう。 少し、話がしたかった。 状況の整理をしたいのだ。 「話を整理したく」 馬車の中、声を上げる。 このような時、私はどうも自分の考えに深く入り込む癖があった。 それはファウスト・フォン・ポリドロという男の、どうしようもない悪癖であると。 今は別な馬車にて第一王女親衛隊と談笑しているであろう、騎士見習いたるマルティナに先日指摘されたばかりである。 もう、これはやめようと思うのだ。 私は酷く視野が狭く、時々どうしようもないくらいに自分の考えのみに拘泥することがある。 前世持ちという経歴ゆえに。 この生まれ落ちた異世界の常識と、自分の常識、理念、騎士道が混ざり合う。 前世の私と今世の私の価値観――歪んだ誉れのような。 これそのものが払拭されることは、私の生涯において無いだろう。 だが、緩和することは可能である。 「アナスタシア殿下。今回の事について、いくつかお聞きしたく」 「構わない。気軽に聞け」 報告・連絡・相談を綿密に行う事ことで、この自分の欠点をどうにかしようと思えた。 許可も下りた事だし、遠慮なく尋ねる。 「二つほど質問が。まず一つ目は、今回の主要目的について」 「ファウストも判っていようが、我々の目的はアンハルト選帝侯としての継承式を帝都にて執り行うことにある。もちろんアンハルトは我ら一族の領地であり、それを継承する事自体に皇帝陛下の許可が特別に必要なわけではないが」 むしろ、我々が選挙君主制にて、皇帝陛下を選ぶ側である。 アナスタシア殿下は一度、そこで言葉を止めて。 「皇帝陛下に謁見し、陛下自らの主催により、私の継承式を取り計らって頂くこと。神聖グステン帝国とアンハルトの強固な関係を公に周知し、理解させ、アンハルトを侮らせることのないようにする。これが主要目的である」 アナスタシア殿下は、簡潔に言葉を為す。 殿下と言っても、今回の旅が終わったころには女王陛下になるのであろうが。 かつてのリーゼンロッテ女王陛下が女王になったのは、殿下と同じ16歳の時である。 雑多な思考を一通り行い、次の質問に移る。 「二つ目の質問を。今回の旅の日程については、詳しく定められているのでしょうか」 「ある程度までは決まっている。現在決まっていることまでを話そう」 ある程度というのは、帝都でどのようなトラブル、また他選帝侯や貴族との関係を深めるための会談が必要となるのか。 それが判らないためだろうと察する。 リーゼンロッテ女王陛下が繋いできた縁もあろうが、それを新規に繋ぎ、逆に断ち切らねばならない縁もある。 母マリアンヌが気狂い扱いされたため、他の貴族からは疎外されているポリドロ領の領主にとって。 それはあまりにも実感が湧かない話であるが。 「まず、帝都に着き次第、すぐに継承式というわけではない。皇帝陛下にとって、我々は心からの歓待を行うべき重要なゲストであるが、招かれる側にとっても重要な式典となる。両国の紋章官同士の打ち合わせが当然必要となるのだ。外面的には、旅の垢を落とすという名目でしばらく帝都で暮らすこととなろう。継承式が行われるのは滞在の最後だ」 帝都で過ごす、ではない。 暮らす、と明言する。 年という長い期間にはならないだろうが、一時的に生活の場所を作り上げることになるだろう。 「その間にも、私は他貴族との関係を深めるべくパーティーや会談などに出席せねばならん。基本的にはアスターテやアレクサンドラが私と共に参加することになるであろう。だが、お前にも出席してもらわねばならん」 「粉骨砕身を以て、何もかもに応えると申しました」 正直、あんまりパーティーは好きではない。 アンハルトでは、この巨大な体躯から醜い男として扱われた。 敵国であったヴィレンドルフでは、逆に絶世の美男子であると言われた。 そして神聖グステン帝国においては、残念ながら前者である。 この筋骨隆々の体躯は、明らかに醜男として扱われる。 さっきからチラチラ私の身体を見てるアスターテ公爵は、はっきり言って奇妙な性癖をしているのだ。 である以上は、アンハルトと双務的契約を結んでいる領主騎士としては発言する必要がある。 「私はアナスタシア殿下からの如何なる命令も、それを拒むことはございません。幾千幾万の兵に囲まれようとも、戦場とあれば恩寵のため、主君のための勇敢な騎士として闘って勝ちましょう。ですが、パーティーには役立てぬものと思います」 むしろ名声を汚すことになるのだ。 何故、アナスタシア殿下はあのような醜い男を横に連れているのだ? 誰もが口にはせずとも、そのような目で見るのは間違いない。 「ファウスト。知っているだろうが、私には婚約者がおらぬ。パートナーとして連れ歩く男性がいないんだ。私はお前にその役を頼みたい」 社交の場において。 この男女比1:9の世界において、男を社交場におけるパートナーとして自分の横に侍らせるのは重要である。 それはそういった男という名の財産を手に入れられるという、社会的顕示効果を意味している。 そして、男側に求められるのは力強さではなく、美しさであった。 美少年や美青年、逆に初老の男性であっても良い。 美しさを維持していることこそが重要である。 この世界において、私にはそういった美しさという魅力が一つも無い。 前世の世界から見れば、化粧品を好み、装飾物を愛し、沢山の髪形を楽しみ、体の線はほっそりとした。 身長は低く体重も軽い、子供のようにこじんまりとした男が理想。 石鹸一つでゴシゴシと皮脂を荒っぽく落とし、装飾物が似合わず、髪は短髪、体の線はぶっとくて。 身長は誰よりも高く、体重は子供一人程度ならば、のし掛かるだけで潰してしまいそうな。 山のように巨大な男が私。 もう何もかもが駄目である。 少なくとも、アナスタシア殿下が横に侍らせる男として相応しくはない。 「私は醜いと知っております。母から産まれたこの身を恥じる事は一生においてありませんが、それとこれでは話が違います。私にパートナーは務まりません。お考え直しを」 明確に断りを入れなければならない。 この旅においては侍童も多数参加している。 アレクサンドラ殿が志願者を選別しており、しっかりと社交界におけるパートナーとしての教育も受けたそれだ。 目見麗しい一人でも適当にパートナーにすればよい。 婚約者ではないと相手側も知っている以上、少なくとも明確な恥になりさえしなければ良い。 私は私を恥に思う点は、細胞の一辺たりとて無い。 それは嘘ではない。 だが、部下としては私の容姿を否定せねばならん。 再考を願いでる。 だが。 「私はお前を醜いと思った事など、一度として無い」 アナスタシア殿下の視線は、少しだけ優しく感じた。 「お前は会った事がないだろうが。お前ほど背が高かったわけではないし、お前ほどに鋼鉄のような身体つきをしていたわけでもない。だが、私の父ロベルトの事をお前を見ると思い出す」 その視線は。 蛇目姫とも言われる、瞳孔が爬虫類のそれと錯覚させるような印象は薄れており。 ただ、何かを懐かしむ様に呟くのだ。 「私はな、ファウスト。どのように言えばよいか、少し悩むが。せめて心の内を話す」 アナスタシア殿下は、少し遠い目を、私ではない何かを見つめながらに話し続ける。 「ヴィレンドルフ戦役にて、かの国との国境線に近い砦にて。お前と出会って以降、何度も話す機会があった。その時に、少しばかりお前の事も聞いたな。何故男であるお前が領主騎士になったのかも聞いた」 手合わせ。 アナスタシア殿下は胸の前で、手のひらを下に向けながら両手を重ねた後に。 指と指を重ね、困ったようにつぶやく。 「私はな。あまりにも最初、父であるロベルトと似ていることから、お前を嫌ったよ。もちろん、お前の容姿が嫌いだからではない。あまりにも父と似通っていたから、逆に忌避したのだ。だがな、お前と戦場にいる間に少しづつ私は理解したよ。そして、お前が今までやってきた事を横で眺めていて、はっきりとこう言えるのだ」 子供のように。 少し恥ずかしいのだと言いたげに、自分の指と指を擦り合わせ、言い募るアナスタシア殿下。 人食いのようにさえ見える三白眼を、少し細めて呟く。 「その、これは、亡き父が大好きであった私にとって、私なりにできる最上の誉め言葉と思って欲しいのだ。お前は父ロベルトのように優しく、父のように傍にいるだけで、私の心を弾ませてくれる。そして、私はファウストが父ロベルトではない別個の人物であることも理解して、その上で、その心根が愛おしいと思うのだ」 横のアスターテ公爵が、ひゅっ、と息を呑む音が聞こえた。 横目で少し見れば、驚愕の顔を浮かべている。 何を驚いているのだろうか? 「だから――だからな、ファウストよ。私はお前の容姿が何であったとしても、世間一般の女どもが嫌う容姿であったとしても、私はそのような事どうでもよいのだ。私はお前がアンハルトどころか、神聖グステン帝国中で一番の男だと思っている。お前が世間の評判を気にする必要は何一つとして無いし、お前を馬鹿にするような女がいれば、それが皇帝陛下だって殴るつもりなんだ」 アナスタシア殿下の横に座っている、アレクサンドラ殿。 普段は軍人然とした無感情さえ感じさせる顔は、ニコニコと柔和なものへと変貌し、優しく横のアナスタシア殿下を見守っている。 「このような事、何度も言うべきではないと思う。だからこそ、この機会にハッキリと言っておく。私はお前が好きなんだ。ファウスト・フォン・ポリドロよ」 ――。 少し、思考が止まる。 このように、純粋に好意を伝えられたなど、今までにない事だろう。 私は、アナスタシア殿下の視線を黙って受け止め、目と目を合わせる。 「その、だから、なんだ」 手遊び。 指と指を重ね合わせていた手をほどき、それを止め、ひざ元に置きながら。 私と視線を重ねたまま、アナスタシア殿下は呟いた。 「私はお前を好いている。私のパートナーになって欲しい」 それはまるで、告白のようであった。 私は少し、アナスタシア殿下の事を誤解していた。 今まで悪い人ではないと理解していたものの、正直怖かった。 私の直属の上司たるヴァリエール第二王女、平凡だけれども優しい彼女とは違い、アナスタシア殿下には冷酷で無慈悲な判断を如何様にも下すことのできる為政者。 そのイメージがあまりにも強すぎて、理解が及ばなかったのだ。 アナスタシア殿下は。 「承知いたしました」 本当は、人を容姿で判断するようなことのない、優しい方なのだと。 私はしっかりと認識した。 「その、私の本心をわかってくれたか?」 「ええ、完全に理解しました」 私はアナスタシア殿下の真心に、誠心誠意応えねばならぬ。 「帝都在住中だけは、アナスタシア殿下のパートナーとして恥ずかしくないように。出来る限りの努力をいたします」 「そうか! わかってくれ――」 アナスタシア殿下は満面の笑みを浮かべ。 少しだけ不思議そうな顔を浮かべ、そして私の言葉を反芻するように呟いた。 「帝都在住中『だけ』は?」 もちろん、私は力強く応じる。 「は! 騎士として熱狂者のように振る舞うことは当然として、男として出来る限り恥ずかしくないように帝都内においてだけは、パートナーとして努力いたします」 狐につままれたような、何故か少しだけ悲しい顔をして。 いや、これはおそらく見間違いであろう。 アナスタシア殿下があまりにも鋭い眼力であるから、この顔はおそらく私に優しい視線を送ってくださっているのだ。 勘違いしてはいけない。 確かに告白のようなそれであったが、私はヴァリエール様の婚約者である。 まさか婚約者の実姉であるアナスタシア殿下が、このような場所で愛の告白をしてくるわけがないのだ。 「うん、そうか」 優しい表情。 私の言葉に感じ入ったように、身を僅かに震わせ、そして口を閉じるアナスタシア殿下。 目端に移る、私とアナスタシア殿下の会話に驚愕したかのようなアスターテ公爵。 目を細めて私と殿下を眺めた後、やがて眼を閉じ、首を振ったアレクサンドラ殿。 「そうか、帝都在住中『だけ』はか……」 私を優しく見つめながら、どうしても私の目には少しだけ悲しそうに映る。 まあ、やはりアナスタシア殿下は誤解されやすい容姿をしているから、多分優しそうに笑っているだけだろうが。 肩をすくめ、子供のようにいじいじと、また指を重ねる遊びを始めている。 そんな彼女を見つめながら、少し気にかかる点を思い出す。 そういえば、アナスタシア殿下が私に対して打ち明けてくださった、上司と部下としての親愛の情。 それと少し形は変わるが、以前にもハッキリとお前が欲しいと言われたことがある。 こちらも愛かどうかも判らないが、と前置きが入るが。 アンハルトに匹敵し、武においては凌駕するヴィレンドルフの女王。 イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ。 彼女は、今回の継承式に参加されるのかどうか。 私はそのような事に、少しばかり思考を飛ばした。 ------------------------------------------------------------------- 連絡 連絡があります。 5章完結話後の「なかがき」の前、5章最終話である「第107話 神聖グステン帝国へ」のPVが異常に少ない事から、どうも多くの読者様が知らないし、読んでない疑いがあります。 (「第107話」と「なかがき」を連続投稿したことから、フォロワーの方に更新通知がされていないため、数千単位の方が知らない模様です) 当方のミスであります。申し訳ありません。 第5章最終話としてキチンと6章に繋がる流れを書いておりますので まだ読んでない方はお読みください 第110話 告白失敗の理由 「ぶち殺すぞアスターテ」 あまりにも理不尽である。 私はそのように思い、人肉食ってそうな従姉妹の文句に言い返した。 「私悪くなくね?」 私悪くない。 アナスタシアの告白が失敗したのには様々な理由があり、少なくとも私に責任はない。 そのように答えるが。 「私予想したよ! ファウストと一緒にこの旅を通して、健やかに愛を育むんだなって」 アナスタシアはまるで聞いてくれない。 「お前言ったよね? 婚約者はヴァリエール。おまけにあのババア、もといお母様がファウストの子種を狙っている。お前がファウストの童貞を本当に欲しいなら、この旅で奪うしかないって!」 「それは言ったけどさ」 当然の結果である。 こうなったのは確かにファウストの察しが悪い点もあろう。 それは事実であるが、結果から見ればファウストの気持ちも理解できるのだ。 再度言うが、これは当然の結果である。 「もういいよ! 告白なんて止めだ! 押し倒す!!」 ばん、と無意味に横のアレクサンドラの肩が殴られる。 痛いですアナスタシア様、という親衛隊長の声を無視して、アナスタシアは叫ぶが。 「本当に力づくだとファウストには勝てないだろうに。それこそ素手なら、この三人相手でもファウストには負ける」 話題のファウストはというと、今この部屋の中にはいない。 今は街道から少し離れた、ある領主の城にて休息中である。 二、三日の間は糧食や飼葉などを補給し、そこからまた旅に戻る。 ファウストは今頃、連れてきた愛馬フリューゲルを撫でまわし、可愛がっている頃であろう。 「とにかく、失敗したのは私のせいじゃないよ」 「なんで失敗した? 私、無茶苦茶頑張って告白したぞ? 人肉食ってそうとか言われてる陰口だって知ってる。だから頬も頑張って緩めて、もう出来る限り穏やかに話した。出来る限りの努力したのに」 それには同情するが。 ともかく、何故失敗したのかというとだ。 「ファウストの性格をよく考えてなかったお前が悪い」 主な理由としては、である。 生真面目なファウストに対しては、あの告白は通用しない。 「ファウストの性格はよく知っている! 権力や利益による変な小細工は、嫌われるだけだ。だから小細工は抜きにして、真正面から告白したんじゃないか!!」 「やり方は間違っていなかったよ。決して」 とはいえ、別にアナスタシアの告白が不味かったわけではない。 ファウストに対して、あのやり方は何一つ間違っていない。 だが、通用しなかった。 「じゃあ何が悪かった?」 「順を追って話そうか。まず、ファウストの立場的にお前が欲しいという告白は通じない」 アナスタシアなら、この一言で理解できるだろう。 「まさか、婚約者に操を立てているとでも? ファウストは別にヴァリエールに恋慕の思いを持っているわけではないだろう」 「確かに恋い慕う気持ちはないだろう。あくまでも、将来はという形での婚約者でしかない。だが、あの生真面目なファウストならば、ヴァリエールを死んでも裏切らない。ならばその姉に身を許す行為は、完全な裏切りだと思うのではないか」 女が9に対し、男が1しか産まれない。 この社会においては、姉妹や親友同士で男を共有することなど普通の事である。 何一つとして珍しくもないし、別にアナスタシアの告白は罪にならない。 もちろん、従姉妹のアスターテがファウストを口説こうが、婚約者たるヴァリエールの同意さえあれば問題にはならない。 さすがにリーゼンロッテ女王陛下のように、親が娘の夫を味見するようなのは世間的にアレであるが。 悲しい事に、王家の歴史を見れば無いわけでもない。 そうでなければ、ヴァリエールが婚約者になることは皆に反対されていただろう。 「ヴァリエールは良いって言ったじゃないか。姉さまなら何をしても許されます。むしろお姉さまが一番最初にファウストを抱くべきですって言ってた。それが世界の決定だと。皇帝陛下だってそりゃそうよ!と言ってくださるって」 アナスタシアは平然と嘘を吐いた。 さすがにそこまで言ってない。 ヴァリエールは抵抗しても無意味だと理解していて、諦めてるだけだ。 アレクサンドラが、横から口を挟みこむ。 「アナスタシア様。残念ですが、ヴァリエール様からは何一つ言葉はなかったかと。姉妹やアスターテ公爵と三者にてポリドロ卿を共有する話は、少しも伝わっていないのではないかと思います」 ヴァリエールが仕方なく現状に納得するかと、自分の口でファウストにそれを言いたいかは全く別な話である。 絶対にヴァリエールから、そんな事言うわけがない。 私たちとて、それをヴァリエールから言わせるような無理強いだけは、さすがに出来かねた。 「要は、ヴァリエールが悪いのね」 さすがに、その結論は可哀そうである。 お前、妹と仲直りしたんじゃなかったのか。 仕方なく弁護する。 「そもそも、ヴァリエールはファウストの王宮におけるゲッシュ事件以降、地方領主へのドサ周りに出ている。ファウストに今後について相談する時間などなかった。ヴァリエールには本当に何の責任もない」 要するに、何一つ話が裏で通っていなかったのだ。 「婚約者のいる男を、横から?っ攫おうと襲い掛かった蛇目姫でしかないんだよ。アナスタシアのやってる事は」 「私はちゃんと筋を通してるだろ! 婚約者であるヴァリエールの許可取ってるんだぞ!」 何度も言うが、それをファウストは知らない。 そして、ファウストはというとだ。 「ファウストは、あれでもお前の事を為政者として、指揮官として尊敬しているんだよ。だから、妹と婚約しているファウストに手を出すような破廉恥な人間だとは思っていないだろうし、そもそもだ」 貞淑で無垢でいじらしい、朴訥で真面目な、童貞のファウスト。 そのイメージに対して、今回の行動は何一つ外れるものはない。 「ファウストがお前の言葉を真面目に受け止め、婚約者を裏切り、これからアンハルト選帝侯家を継承することになるお前の地位と金に目が眩み、ほいほいと告白を受け入れるような奴であれば良かったのか?」 「ファウストはそんなことしない!」 それは判っている。 そして、少し話がブレてしまったので、修正を試みる。 「ともかくだ。あれだけの告白をすれば普通の男ならば落ちただろう。だが、あいにくファウストにとっては、お前は信頼する上司であり、婚約者の姉なんだ。ファウストから見れば、お前からの告白は絶対に有り得ないんだよ」 結果はそれだけだ。 ファウストとて、面と向かって愛を囁かれても何も感じない程、鈍い男ではない。 さすがにこれは告白ではないか?と疑いもしたと思う。 だが、それは自分自身で否定してしまったであろう。 ファウストは自分の容姿に自信が無く、アンハルトにおいては好まれぬ醜男だと思っているのだ。 アナスタシアが今まで抱き続けてきた好意など、まったく知らない。 このアスターテのように、普段から尻を触ったり、抱き着いたり、首筋の匂いを嗅いだりするような性的接触。 もとい。 普段からの淑女たる正しいアプローチさえしていれば、本気だと思ってくれたであろうが。 今まで、アナスタシアからそういったアプローチは一度として無い。 今回の告白で、ようやくイメージが改善されたレベルである。 「私は勇気を振り絞って告白したのに!」 無意味に、横のアレクサンドラの肩が殴られる。 痛いですアナスタシア様、という親衛隊長の声は無視された。 人や物にあたるのは良くないと思うが。 「もうハッキリとベッドを共にしようと言え。お前を愛しているから、お前の子を孕みたいと言え。さすがにそこまで言えば、ファウストだって意を汲む」 「……嫌われないかな?」 アナスタシアは、下からの上目遣い。 本人にとっては不安そうな顔。 他人から見れば、生まれついてから生きてきた人生の憎悪全てを込めたような視線。 今からお前を無残に殺す! 激しく叩いて破いて壊す!とでも言いたげな視線を投げかけながら、私に質問する。 本当に目つき悪いなコイツ。 そんなことを思いながらも、問いを返そう。 「尻触っても、公にじゃなければ怒らないんだから。丁寧に断られることはあっても、怒りはしないだろう。ファウストは自分に対することなら、怒ることはない。本当にやると拙いのは、三つだ」 それは騎士の名誉に関するような、一つ貶せば、十は褒めないといけない。 そんな当たり前の事。 礼儀として当然の事である。 「一つ目、ファウストの母親マリアンヌを侮辱しないこと。二つ目、領地であるポリドロを侮辱しない事。三つ目、その二つの尊厳と名誉全てを背負っているファウストを、公の場で侮辱しない事。後は……まあ、ヴァリエールの初陣にて、あまりにも扱いの酷さに怒ったぐらいか」 アレは、初陣の規模がデカくなったから結果的にはまあ、良かったんだろうが。 そんなことを呟きながら、あの初陣で得た自分にとってのプラス要素。 マルティナという、一人の少女について考える。 今頃、ファウストと一緒に愛馬フリューゲルの世話でもしているのだろうな。 さて、あの少女が書いた書物については、今回どのように利用するか。 「もし、ファウストに嫌がられたらどうする」 色々と考えておきたいあれこれの前に、まずは眼前のアナスタシアの事である。 解決方法は単純だ。 強引に事を為せばよいだけ。 「嫌がられたら、それはそれ。昔と違って、今はちゃんとヴァリエールというポリドロ領の後継者を産んでくれる婚約者がいるんだから、権力を傘にファウストを押し倒せばいい」 昔は色々と配慮する必要があったが。 実のところ、ヴァリエールはそこら辺の問題の解消のためには、有難い存在であった。 そう告げるが、アナスタシアは眉を顰める。 「いや、私はファウストには絶対に嫌われたくないんだ。お互い同意の上でベッドインしたいんだ。そこのところ理解してるのか?」 「嫌がったら、それはそれで興奮するだろうが!」 私は怒った。 昔は確かにファウストへの配慮も必要であった。 だが、今となっては違う。 私はハッキリとアナスタシアに告げる。 「いいか! ファウストが一番大事にしているのは先祖代々の領地だ! その懸念が取り払われた以上、ファウストは私たちの配慮に対し、誠意をもって応える必要がある!」 力強く言う。 「そうなのか?」 「もちろんそうだよ! もう誰が見ても、領地のために配慮して縁談を用意してくれた婚約者の姉と従姉妹に腰を振るのは、とても自然な事だよ!」 私はあくまでも、力強く言う。 私たちがこれだけ譲ったんだから、ファウスト側だって少しは譲ってくれるべきなのだ。 「第一、嫌がられたら、嫌がられたで。それはそれで興奮するだろ! お前はしないのか!!」 私は怒気を剥き出しにして言う。 アナスタシアはちゃんと理解していないのだ。 それを諭してあげないといけない。 「お前に抱かれるのを嫌がって! それでも領地のためだけを考えて。婚約者のヴァリエールの立場も考えて断り切れず、仕方なくお前に抱かれる貞淑なファウスト! それを何も知らないヴァリエールに、心から謝罪するファウスト!」 ばんばんと、両手で部屋の机を叩く。 アナスタシアは、本当に何もわかっていないのだ。 「ヴァリエールとファウストは、そんな惨めなお互いを想い、ベッドで慰め合うんだ! 私とお前はそんな二人の事を考えて、美酒に酔う!!」 もし、私の言葉通りになったら、それはもう、とても凄いことになってしまうのだ。 「そんなことも判らないなんて! お前は貴族として恥ずかしくないのか!!」 私は絶叫した。 ここまで言えば、アナスタシアも理解してくれるだろう。 私は下げていた顔を上げ、アナスタシアと視線を合わせる。 「お前は人として恥ずかしいだろうが!!」 拳骨で、上げた横面を思い切りぶん殴られる。 何故だ。 「何で理解してくれないんだ!」 「お前の変態理論なんか、よっぽどのアレじゃない限り理解できんわ!!」 アナスタシアは何も理解してくれない。 これでは嫌がるファウストを、私とアナスタシアの二人がかりで襲う行為にも理解を示してくれないだろう。 駄目だ、これでは。 「言っておくが、アナスタシア。お前そんな奥手だと、ファウストを落とすのは無理があるよ」 「今回の旅は長い! まだまだ口説く時間はある!!」 今回の旅、紛れもなくアナスタシアがアンハルト王国を継承するための旅ではあるんだが。 そこには、どうしようもないくらいの爛れた欲望が隠されている。 ファウストをベッドに引きずり込む。 そんな欲望。 「とにかく、アスターテ! 何か考えるんだ。私は政治と戦略はともかく、恋路においては悲しいくらいに劣っている!」 「いや、恋愛経験は私もないんだけれどね」 特に意味もなく肩を殴られる、アレクサンドラ。 痛いですアナスタシア様、という親衛隊長の声は無視されている。 ともかく、告白は失敗してしまったが、じゃあ何の成果もなかったかというとそうではない。 少なくとも、アナスタシアとファウストの距離は確かに縮まったであろう。 で、あれば、後はどうしようもなく深い堀を埋めるだけ。 具体的にはだ。 戦術的に考えると。 「ヴァリエールに手紙を出そう」 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。 男を落とさんとするならば、まずその婚約者を口説き落とそう。 これは戦術家に言わせれば、当然の結論であった。 第111話 最近の婚約者 私は努力をした。 軍役以外では全く王家に関わろうとしないアンハルト領邦内、軍役以外では顔すら見せない偏屈な封建領主達へのドサ回りを全て済ませたのだ。 来年に予定している、北方の遊牧騎馬民族との戦場。 おそらくは大規模な殲滅戦となるであろう。 後顧の憂いなく叩きのめさなければ、後事に関わるのだ。 必ずや、ただの一撃で。 拳を振り下ろした先の猪が、一撃で昏倒するような形にて。 速やかに敵を滅ぼさなくてはならないのだ。 そのためには、ともかくファウストの言うように、指揮権を統一しなければならない。 「私、頑張ったわよね」 自分に語り掛ける。 封建領主が軍役として戦に参陣すること、これ自体には何の問題もないが、指揮権をアスターテ公爵に委ねるというならば話は別となる。 ……ゆえに、それを説得する人間が必要であった。 そして説得を容易にするのであれば、まず前提条件が必要だ。 封建領主側が少なくとも、話だけはとりあえず聞いても良いと判断する相手でなければならない。 たとえば初陣を済ませたばかりとはいえ、それが数で勝る相手への勝利であった軍役経験者。 それが王族であり、所詮スペアには過ぎねど、第二王位継承者であれば申し分なかった。 そのような人間は、私ことヴァリエール・フォン・アンハルト以外には存在しなかったのが問題だが。 「私、努力したわよね?」 母さまと姉さまから事前に許してもらった交渉材料について、一考する。 王家の資金により行われる国内街道の整備、要するに商人を訪れやすくする交易面の配慮、その工事における人足を封建領主の領民から雇い入れる事で、金を現地に落とすなど。 そういったちまちまとした譲歩、条件面での交渉すらしつつ、全ての偏屈な領主騎士を説得したのだ。 「ヴァリ様にしてはよくやったと思います」 愚痴を吐いた相手であるザビーネは、軽い口調で答えた。 ぶん殴ろうかな、と思った。 だが、私の親衛隊長であるザビーネは確かに私に忠誠を誓っていたし、こういう性格なのは理解している。 これでも心の底から褒めてくれてるのだ。 労いの言葉にしては、あまりにも礼儀知らずであったが。 「同時に、平凡なヴァリ様に無茶させすぎです」 「私もそう思う」 アナスタシア姉さまや、従姉妹のアスターテ公爵ならば確かに片手間の仕事だろう。 だが、私にとっては全身全霊を込めてやらねばならない仕事だった。 なんとか成し遂げたとはいえ、本当に苦労した。 私は確かに王族としての高等教育は受けているが、超人どころかただ一人の凡人に過ぎない。 能力的には命を擦り減らすような思いをして、やっとのことで達成した仕事である。 終わった事だから、それはもうよいが。 「というかさあ。ザビーネに私は色々言いたいことあるんだけどね」 「何か?」 「何かじゃないわよ」 色々言いたい事。 それは別に事前に許可なくやったことではない。 ザビーネはちゃんと私に許可を求めてから動いたし、私もそれを許したのだ。 親衛隊長であるザビーネは、私財を投じての――かつて自分の家であったヴェスパーマン家から毟り取った金で、第二王女親衛隊の拡充を行いたいと。 私がドサ回りで苦労している中、通信機である水晶玉の定期連絡にて提言してきたために、私はそれを許可した。 だからといってだ。 これはやりすぎだ。 「第二王女親衛隊、全員敬礼せよ! 指一つ震えるなら、その恥はヴァリエール第二王女殿下の恥になると思え!!」 私の騎士、親衛隊員の声が練兵場に響く。 まだ練度こそ低いだろうが、一つの軍集団が私の前で敬礼している。 私がいない間に、誰かさんは第二王女親衛隊の兵員数を14から100にまで拡大させていた。 私と騎士団14名、騎士15名に対して各従者5名、様々な役職の10名を加えての100名となる。 許可はした。 確かに許可を私はした。 ハンナを失ってしまった以上、騎士の補充はそれこそ母さまからも度々言われていたし。 いくら貧乏騎士団とはいえ、騎士に従者もいないなんて馬鹿みたいな話であったし。 だからこそ、まともな兵団として成り立つよう、部隊編成の許可を親衛隊長たるザビーネに出したのだ。 確かに私は許可した。 だけど、ここまでやれとは言ってない。 「あのね、ザビーネ。限度ってわかる?」 「大丈夫です」 何が大丈夫なのか。 いや、もう、腹立つ話ではあるが。 ザビーネが大丈夫だというからには、本当に色々と大丈夫なんだろうとは思う。 だが、状況を把握しないわけにはいかない。 「まず装備。兵隊がほとんど銃兵なんだけど」 チェインメイルすら装備していない兵隊たち。 精いっぱい防御力がありそうな厚手の服、キルティング加工された中古のギャンベゾンもどきを着ただけの兵がちらほら。 だけど、マスケット銃をほぼ全員が肩に担いでいるのだ。 このマスケット銃どこから用意した? 金があれば買えるものではないし、その金だってさすがに足りなかったろう。 「入手方法ですが、まずヴァリ様を含めた騎士団全員でケルン派に改宗しました」 「うん、私その話聞いてないんだけど。私初めて耳にしたんだけど」 宗教の自由は確かに存在する。 それが俗世における不完全性を補填するような「正当なもの」である限りであるが。 よほどの異端――神すら信じないような。 そのような明確な異端でない限り、改宗は自由であった。 だからと言ってだぞ、お前。 ケルン派はない。 ケルン派はないだろ、お前。 宗教のアレさでいえば、極端も極端だと言えた。 「一応聞いておくけど、私は? 私その場にいなかったんだけど」 「この顔合わせの後に、ケルン派教会に予約とったんで行っといてください」 無茶苦茶だコイツ。 私まで勝手にケルン派にしたのかよ。 思わず、悲鳴の一つも出そうになるが。 「ヴァリ様はポリドロ卿の領地に行き、妻として家名を受け継ぐことになります。ポリドロ家は家の起こりからずっとケルン派なんですから、家を相続することとなるヴァリ様だって将来的にケルン派に改宗するんですよ」 ザビーネのいう事は尤もである。 どう考えても、早いか遅いかの違いでしかない。 「あ、うん。そうだったわね」 「ともかく、銃に関してはヴァリ様含めた全員が信徒に改宗、そして数を大量に購入することで、安価にて入手しました。このザビーネ、多分この世で一番銃を安く買った騎士だと自負しております」 いくらで買ったんだろう。 怖いから聞けない。 だが、ケルン派の思想的に信徒となった以上は「身内」なのだから、「特別な配慮」はあり得た。 それこそ、第二王女とはいえ、その騎士団丸ごとが信徒になることの意味は確かにあった。 そして、なんかちょっと頭おかしくてケルン派に同調度は高いだろうザビーネである。 銅貨一枚で買ったと言われても、驚くところはなかった。 「軍装についてはもういいわ。でさあ、まず雇い入れはどうしたのよ? 伝手はないでしょ」 「簡単でしたよ?」 「ザビーネにとって簡単であったかどうかは、別に聞いてない」 ザビーネの簡単と、私みたいな平凡な人間にとっての簡単は違う。 理解はできないだろうが、経緯は知っておく必要がある。 この哀れな子たち――平民出自であろう兵隊たちがどうやって連れてこられたかは、聞く必要がある。 「姉妹団――要するにギルド、相互扶助会ですか。そこらへんに出向いて、とりあえず将来なんかないだろう連中。このままお先真っ暗で、後は死ぬまで世の中を恨みながら苦しんで死ぬだけ。そんな三女四女のスペアもスペア。いらない子。そういう子がいないかって聞いてきました」 「で?」 まあ、兵隊になるくらいであろうから、そんな可哀想な女達であろう。 それはわかる。 続きを。 「とりあえず騎士団全員でしばらく調査を行い、ある程度まで分かる範囲で打ち切って。なんとかまあ兵隊として使えそうな連中全員を連れてきて、私が全力で勧誘しました」 洗脳したのか。 ザビーネならば容易いことだった。 個々相手の交渉も酷い、えげつないものだが、ザビーネは集団相手の演説においてその真価を発揮する。 「皆泣きながら、喜んで兵に志願してくれました」 ザビーネの視点では、赤子の手を捻るように簡単に誑かせたであろう。 可哀想な子たち。 よくよく兵を見れば、マスケット銃を肩に掲げた子たちは、王族である私の事を憧憬の目で見ている。 自分たちが傭兵雇いではなく、正式に親衛隊の兵士として雇われたのだと。 ――嗚呼。 完全に詐欺師のような気分で心苦しいが、もう雇い入れてしまっている。 こちらの弱みを見せるわけにはいかない。 彼女たちのためにも、しっかりしないと。 「雇用条件は?」 「そちらの方もリーゼンロッテ女王陛下、アナスタシア第一王女殿下と交渉済みです。雇用契約金や軍装の金をそちらで用意するならば、兵隊の給料ぐらいは払ってやると」 なんでザビーネ、直接に母さまや姉さまと話してるんだろう。 私が各地をドサ回りしている以上、確かに第二王女親衛隊長として王族に直言する資格はあるのだが。 ともかく、もうそれはよい。 「だからと言って、一生雇えるわけじゃないのよ? 老後の年金を払ってあげられるわけじゃないでしょうに」 「私たち親衛隊員が出世して、世襲騎士になった場合はそれぞれ死ぬまで雇ってあげられます。要は運命共同体です。我々が活躍し出世したならば、兵役を終えた後、騎士の従者としての将来も約束されます」 運命共同体。 確かにそれは事実であろうし、そうなのだろう。 ザビーネは詐欺師そのものの人物であるが、嘘はつかない。 何一つ嘘は言っていないのだ。 ただ、ザビーネの目はそうだと言っていない。 私たちが生き残るためにお前らは死ね。 そう言っており、兵隊など消耗品だとしか思っていない。 ザビーネにとって、家族とは親衛隊員の騎士たちであり。 忠誠を捧げる相手はアンハルト王家ではなく、この私ヴァリエールただひとりであり。 例外があるとすれば、同じ戦場を共にし、ハンナの死に敬意を払ってくれたファウストという男ただひとり。 それ以外は、心の底からどうでもよいのだ。 「ザビーネ」 私はそれが少しだけ悲しく感じた。 このザビーネの本性は、例え何があろうが変わることはないだろう。 死ぬまで変わらない。 だが、そのザビーネは、本当に私に忠誠を誓っている。 仲間である親衛隊員たちを、家族のように愛しているのだ。 もし私の命を身を捧げて助けた――ハンナの代わりとしてお前が死んでもよいか。 そう神に囁かれれば、喜んで応じただろう。 それも判っているのだ。 「貴女の忠誠、有難く思うわ」 だから、せめてザビーネが幸せになれるようにしてあげたいと思った。 だって、ザビーネを理解してあげられる人間なんて、もうそんなにいない。 親友であったハンナを除けば、性根まで受け入れてあげられるのは、このヴァリエールしかいないかもしれない。 「そういって頂けると、本当に嬉しいです」 ザビーネは、本当に嬉しそうに笑った。 おそらくは、私のこの内心までを完全に見抜いた上で。 そこまでして私に忠誠を尽くしてくれる姿が、妙に悲しかった。 第112話 マキシーン皇帝陛下の来歴 深い堀に厚い城壁。 塔は何処までも高く、堡塁(小型の要塞)が都市を囲んでいた。 総延長30㎞を超えるとさえ言われる城壁は、もはや圧巻そのものである。 幾度とない異民族との戦乱、帝都にまで追い込まれることは神聖グステン帝国とてあった。 なれど、この城壁を越える事だけは不可能なのだ。 母マリアンヌから聞いた、幼少のみぎりの想い出。 もっとも、母はアンハルト王都ですら数回しか訪れた事が無い。 このような巨大都市を見る事は生涯なかったはずだ。 帝都ウィンドボナ。 初代皇帝陛下が部族、民族間の血みどろの争いを制し、築き上げた都市。 巨大な大河から得られる水運を用いた商業利益から発展を積み重ね、どこまでも膨れ上がっていく世界都市である。 「ひたすらに巨大ですね」 私的な感想。 神聖グステン帝国の歴史を象徴する都市であり、おそらくこの世界における最高峰の都市であると考える。 並ぶものがあるとするならば、東方の巨大王朝フェイロンの王都ぐらいのものであろう。 まあ、その王朝はもう滅んだのだが。 「王都とて負けてはいない、と言いたいところだが。まあ明らかに負けてるな」 アナスタシア殿下が、舌打ちする。 さすがに帝都相手に対抗しても仕方ないだろうに。 その負けず嫌いなところは嫌いでないが。 「アナスタシア様、痛いです」 アレクサンドラ殿は、また肩を殴られている。 どうもアナスタシア殿下は特に意味もなく、アレクサンドラ殿を叩く癖がある。 単に甘えているのか、習慣になってしまったのかは知らないが。 まあ、痛い痛いと言う割に、そもそもアレクサンドラ殿には大して効いてないだろう。 彼女は私に次ぐ武の超人、実力者である。 アナスタシア殿下とて、素手で人の首を千切るくらいはできようが、得意分野における超人としての能力差は明確に存在する。 「まあ、気楽にいこうじゃないか。ここは皇帝陛下の庭のようであって、そうではない。私たちアンハルト王国が一枚岩の国家ではないように、この都市の市民が全て皇帝陛下を無条件に奉じているわけではない」 アスターテ公爵が、にやにやと笑いながらに喋る。 確かに、神聖グステン帝国の皇帝陛下は最高権力者ではある。 それは誰も疑いようがない。 神聖グステン帝国における現皇帝は能力が高く、選帝侯の全員の投票により、選挙制の形を取りながら満場一致で認められた真の皇帝であった。 実力においては疑いようがない。 だが、別に絶対王政の時代ではなく、朕は国家にあらず、中央集権的ではない。 選帝侯、領主騎士との双務的契約、忠誠無くしては皇帝の地位を維持できないのだ。 「そもそも、この都市で皇帝陛下に拝謁するわけではない。アナスタシアへのアンハルト女王としての戴冠式自体もここでは行われない」 「あれ?」 少し、肩透かしを食らう。 ここ帝都じゃないのか? 「アスターテ公爵。ここは帝都ではないのですか?」 「帝都だよ。間違いなく帝都だ。これ以上の都市など神聖グステン帝国には存在しない。だが、皇帝陛下の都ではない。宮廷はここにはなく、政治的中枢を置いているわけではないよ。いるのは都市を運営する官僚貴族だけだ。皇帝陛下は滅多に訪れることがない帝都だ。興味があるのは都市から得られる莫大な税収だけではないかな?」 アスターテ公爵があっけらかんと言う。 駄目だ、イメージと少しずれる。 帝都には皇帝陛下がおり、それが当然と思って生きていたが、私は前世の教科書通りでの知識しか知らぬ。 今世で得られたのも辺境領主騎士、領民300名の封建領主としてのそれにすぎない。 帝都に陛下がいないなんて、考えた事すらなかった。 駄目だ。 この辺りで知識を仕入れておかねば、えらい目に合う気がしてきた。 「アスターテ公爵、少し自分の知識が不安になってきたんですが。詳しくお聞かせください」 「……」 アスターテ公爵が、少し黙り込んで。 私の横で、肌身を擦り付けながらに呟いた。 「ふむ、少し話すか。まあ色々と理由はあるのさ。当代の神聖グステン帝国皇帝陛下の名前は?」 「マキシーン皇帝陛下であります」 それぐらいはさすがに知っている。 「では、マキシーン皇帝陛下が幼少の頃に、このウィンドボナの王宮に幽閉されたことは? 彼女の母君が皇帝陛下の地位を簒奪され、親族とウィンドボナの市長によって父君とともに囚われ、その身を人質同然の扱いにされたことは?」 「いえ、さすがに」 皇帝陛下の来歴までは知らない。 この神聖ローマ帝国もどきの国家。 神聖グステン帝国における皇帝陛下に拝謁する機会など、未だないと思われる。 そこまで知ろうとは思わなかった。 「この馬車のケツにしがみついてきてる、マルティナ辺りなら知っていたろうにな。まあ9歳児にそこまでの配慮を求めても仕方ない。これも私の利得と考えて、教えるとしようか」 アスターテ公爵は、先ほどまでのにやけ面を収め、やや殊勝な顔をする。 その手は、私の太腿をこすりこすり触っていたが。 「きっかけはよくある話さ。親族争いだ。皇帝陛下が幼い頃に、それこそ5歳の頃の話だ。その母帝の地位を狙って、ある親族が扇動した。愛しきウィンドボナの市民よ、私こそが皇帝にふさわしいのだと。ウィンドボナ市長と通じ、当時混乱していた神聖グステン帝国を治めるにあたって、マキシーン皇帝陛下の母帝はふさわしくないのだと糾弾した。さて、とはいっても、地位を簒奪する方法など限られている。手段はわかるか?」 選帝侯の選挙もなしに。 騎士が騎士の権利を奪うなど、親族とはいえ選挙君主制によって認められた皇帝陛下から、その皇帝の座を奪うなど。 たった一つの方法しかない。 暴力だ! 血肉に剣を食い込ませることだけが、それを可能にする。 かつて、我が騎士見習いマルティナの母が、たった一人の娘のために全てを望んだように。 剣と槍にかけて、たった一つ許された実力行使により、それが可能となる。 つまり。 「フェーデでしょうか?」 「さすがにファウストは賢い。そう、フェーデだ! この閉塞的な封建社会において我々に認められた権利! 私戦さ! 自力救済だ! 勝ちさえすれば全てが肯定される」 ぱん、と両手を合わせる。 ちょうど柏手である。 日本人が神社で誓願を行うような――もちろんアスターテ公爵は、神道の存在など知らぬだろうが。 ともあれ、ご機嫌の様子でそれを行う。 「英明なるマキシーン皇帝陛下はもちろん5歳である。何ができるはずもない。選帝侯による選挙で選ばれたとはいえ、母帝は正直まあ無能であったよ。我々のリーゼンロッテ女王陛下と比較すれば、その小指ほどの力量すらなかった」 「あのクソババアがそこまで有能なものか!」 アナスタシア殿下の合いの手。 クソババア? そこまで酷く言われるようなことを、リーゼンロッテ女王陛下はなさったろうか? そのように疑問に思うが。 「クソババアではあるが、残念ながらリーゼンロッテ女王陛下はこの上ないくらいに有能さ」 アスターテ公爵が自分の言を曲げず、同時にアナスタシア殿下の言葉も肯定したので。 まあ何かあったんだろうと思い、あまり気にしないことにする。 「可哀想に、マキシーン皇帝陛下と父君は、殺されこそしなかったものの。王宮に人質として囲われる状況となってしまった。何もかも母帝の無能と、欲深き親族と、裏切り者のウィンドボナ市長のせいだ」 「それがマキシーン皇帝陛下が、帝都ウィンドボナにいない理由ですか?」 ここまでの話を、少しまとめる。 私が知りたいのは、何故マキシーン皇帝陛下が帝都にいないかの理由だ。 「かもしれない、という話だ。まあ、この辺りはリーゼンロッテ女王陛下の予想にすぎない」 私は叔父にして、アナスタシアの父親であるロベルトのように、マキシーン皇帝陛下と文通していたなどという事は無い。 だから、リーゼンロッテ女王陛下がおそらくは、と推察した結論にすぎないのだよと。 そう述べた後。 「さて、ここから話は進む。マキシーン皇帝陛下が、真の皇帝陛下となられた経緯の話だ。皇帝の地位を追われた無能な母親のせいで、父君と哀れな5歳の少女がどう追い詰められたかの話だ」 アスターテ公爵は語る。 何もかも、楽しくて仕方ないといった様子で。 アスターテ公爵の性格は知っており、この人は才能というものを異常に愛する。 マキシーン皇帝陛下は、間違いなくこの世でたった数人、場合によっては一位かもしれない御方である。 それを語るにあたり、楽しくて仕方ないといった様子であるのは、アスターテ公爵の性質上仕方ないと言えた。 「マキシーン皇帝陛下が、父君と一緒に閉じ込められた王宮の一室。そこで、3年もして、マキシーン皇帝陛下がようやく幼女から少女になるころ。父君は亡くなられたよ」 可哀想に。 そう口にはするものの、本気でそう思ってはいないだろう。 それはマキシーン皇帝陛下の覚醒に必要であったことだとすら、考えているのだ。 私は、少し目を閉じる。 「死因は栄養失調だ。餓死さ! 幼き娘の身体を何よりも大切に思い、一日一度のパン一つしか投げ入れられぬ牢屋のような王宮の一室にてだ。幼きマキシーン皇帝陛下の父君は、自分が飢え死にするよりも、娘が自分のパンを食べ、飢えを満たす事を選んだのさ」 状況からして、このような話がマトモに進むわけがない。 それは理解していた。 「マキシーン皇帝陛下は、その父君の死に涙一粒流さなかったと聞いている。その頃はだが」 その頃は、か。 話の流れは判る。 アスターテ公爵は、彼女にとっては英雄の来歴にふさわしく、私にとっては受け入れづらいことを話していた。 「さて、ここで皇帝の地位を簒奪した親族は困った。当たり前だな。人質にすぎない父君と幼き皇帝陛下をそこまでに追い込むつもりなど、その親族にはなかったのさ。ちゃんと人質としての待遇が与えられていると考えてすらいた。何もかもが、愚かなウィンドボナ市長の差配であった。何せ、その市長は皇帝派である市民の財産を掠奪することすらしていた」 楽しくなってきた。 アスターテ公爵が楽し気に語るが、私は何も楽しくない。 ただただ陰鬱なだけである。 私はアスターテ公爵に尻を揉まれることも、太腿を触られることも、何一つ拒んではいない。 ただ一つ、この人の他人の悲劇を楽し気に語る感性ばかりは理解できなかった。 「その後は、その親族の皇帝がさすがに選帝侯たちの目を気にして、皇帝派の資産を返還するように要求した。一度は返還した後、また市長は元皇帝派の財産を掠奪したがね。まあ、そのような無法がいつまでも通るわけがない。マキシーン皇帝陛下の無能な母君とて、そこそこの能力と意地はあった。自分の惚れた男が餓死し、娘は囚われている。それこそ選帝侯や教皇猊下に頭を下げてすら、何もかもを取り戻すための戦争に挑み、再起を図ったんだ」 そこから先は、ある程度予測できる。 なにせ、今の皇帝陛下は、その時の少女であるのだ。 「勝ったよ。アンハルト選帝侯であるリーゼンロッテ女王陛下が強力に支援したのさ。このとき、強烈な支援を受けて先陣を切ったのは、あのヴィレンドルフの英傑クラウディア・フォン・レッケンベルだ。何があろうが、負けるわけがない」 ヴィレンドルフが決定的戦力として出すならば、あのレッケンベル騎士団長の他にいないであろう。 勝利は、始める前から確定してすらいるのだ。 「レッケンベルは、当時の皇帝陛下を――ああ、違うな。『僭称した』こととなっている、当時のマキシーン皇帝陛下の親族を綺麗さっぱり、ぶち殺したよ。もう、悲しいぐらいに圧倒的な勝利だったと聞く」 私とて、一騎打ちに持ち込まなければ。 勝てる可能性など欠片もない相手がレッケンベル殿であったのだ。 だが、それは今どうでもいい。 大事なのは、マキシーン皇帝陛下のこと。 「で、さあ。笑えるのが、帝都ウィンドボナの市長の話さ。まあ、判るだろう? 帰り着いた先では、王宮から解き放たれた、マキシーン皇帝陛下がウィンドボナを占拠していた。あっさりと帝都を占拠できるほどに、皇帝陛下は有能であらせられた。笑っていたよ。どこまでも、ああ、狂ったように笑っていたよ。そして、市長に向かって泣きながらに叫んだらしいよ」 話のクライマックス。 アスターテ公爵は、楽し気に喋りを続ける。 「貴様は八つ裂きでは飽き足らない。四肢に縛った縄を馬に括りつけ、その身体を裂こうが、その程度で私の父に対し、その程度で! 何の慰めになろうか! 我が父は、笑って死んだぞ! 私の頭を優しく撫で、餓えたままに死んだのだ! 忌まわしい貴様の骨! その死体を野良犬に食わせ、その遺骸の欠片まで消しても何もかも足らぬわ!!」 マキシーン皇帝陛下の叫び。 糸のように細くなって死んだ私の母、マリアンヌ。 そのような悲しい事を想い、辛くなるが。 「そこからが違うのが、マキシーン皇帝陛下だ。なれど、その罪その罰を、その市長の家族に与える事は許されぬ! 私の、我が父が私に与えた愛ゆえに、お前の子がお前の死を悼むことだけは許そう、と。家族の情だけは許そうと」 やはり、皇帝陛下とも違うのであろうか。 私と少し違うかもしれない。 そして、少し近しいかもしれない感性で、マキシーン皇帝陛下は、決断を下したのだ。 「ここで、マキシーン皇帝陛下は一つのくびきを引いたのさ。自分の激情と、倫理と、現実との線を引いたんだ。私はこの時点で、マキシーンという名の皇帝陛下が、為政者としての完成に至ったと考えてすらいる」 アスターテ公爵は、また私とは違う感性で。 少しの線を引いている。 この世における英傑が完成に至った、その姿に対する評価。 「その後は、今の通りだ。マキシーン皇帝陛下は強烈に支援したアンハルト・ヴィレンドルフ両国に対して報酬を払い、地盤を固め、選帝侯や教皇猊下の賛成を以てして、皇帝の座についた。私は彼女こそが、一つの為政者としての完成形だと思うよ」 アスターテ公爵が、そこまで言うのだ。 この才能狂いが、そこまで認めるのだ。 マキシーン皇帝陛下は、どこまでも為政者としては完成したのだ。 「まあ、そういうわけさ。だからマキシーン皇帝陛下は、絶対にこの帝都ウィンドボナにだけは住まないだろう。それが亡き父君への狂おしい愛情ゆえか、亡き父君を飢え死にさせた市民への怒りからか、私には理解できないがね」 理由は理解できた。 私はただ。 親を思う一人の子として、マキシーンという一人の子に、ただ同情するのみであった。 第113話 騎士見習いとの会話 「ようやく、息抜きができるか」 ため息をつく。 ここまでの旅路について、少し考える。 帝都ウィンドボナへの旅路は危険であった。 もちろん帝都周辺ともなれば違うが、それまでの街道においては酷いものだ。 れっきとした通商路すら、馬車が通れる程度の道しかないのだ。 旅路は幅員2~3メートルしかなく、石造りですらない。 雨が降れば泥のような道となる。 当然その時は、馬車は出来た轍を一路に踏み、立ち往生することとなる。 ――そんな私たちの荷馬車を狙っての、数十名単位の山賊も現れたのだが。 「随分とまあ、第一王女親衛隊も強くなったものだ」 私の騎士としての出番は全くなく、第一王女親衛隊とその従者たちが対応している。 法衣騎士の優秀な次女・三女を無理やりに引っ張ってきた、アンハルトで最も優秀な騎士団。 ヴィレンドルフ戦役の時とは違い、第一王女指揮下にふさわしい充足を済ませた200人からなるアンハルト最強の兵団が、隊長たるアレクサンドラ殿の指揮のもとに蹴散らしてしまった。 正直言って、つまらない。 「ヴィレンドルフ戦役の頃は、時期が悪かったですしね。法衣貴族の家から優秀な者だけを集めたとはいえ、まだ従者の戦力化すら終わっていなかったと聞いています」 「あんな兵力で、よく勝てたもんだと思うよ」 レッケンベル騎士団長。 私が殺した、敵国において死してなお誇られる英傑の事を考え、それに蓋をする。 「今回はお客様ですよ、ファウスト様。騎士としてグレートソードを振る機会はないでしょう。御身の安全のみ考えてください」 「私は戦場で武器を振るうことでしか、この能力を発揮できない騎士であると自覚しているのだが?」 領主教育は受けた。 だが、それは領民300名の小さな辺境領地を養うための知識だ。 このような大舞台、帝都であるウィンドボナで役に立つはずがない。 「マルティナ。先ほども話したが、正直困っている。私は従士長であるヘルガを含めたポリドロ領民を置き去りにし、ここまで来てしまった。いや、ヘルガがいても役にはたたんから置いてきたのだが。可哀想な事をしたとは思っている」 「その代わり、このマルティナが騎士見習いとしております。ご安心を」 マルティナの姿を見る。 銀髪碧眼の9歳児であり、首のうなじを隠すような美しい髪を、三つ編みにして束ねている。 少し、嬉しくなる。 「何笑ってるんです」 「少し大きくなったか?」 「そりゃ、まだ9歳児ですからね。背も伸びるでしょう」 つれないマルティナの返事、その声は決して冷たくなく、むしろ優しささえ感じるのだ。 マルティナの成長を喜んでいる状況では、残念ながらないだろうな。 私はアナスタシア殿下とアスターテ公爵、それにアレクサンドラ殿。 その三人と一緒に馬車に閉じ込められながら、馬車で長い事揺られて。 その間、色々な事について考えた。 立場を考えて差し控え、彼女達には聞けなかった事。 「マルティナ、幾つか聞きたいことがあるんだが?」 「何なりと」 その疑問をこの場にて、解消しておく必要がある。 「一つ。アナスタシア殿下は触れようとすらしなかったが、選帝侯にたいする戴冠式においてだ。他の選帝侯は来られるのだろうか?」 「カタリナ女王陛下の事でしょうか?」 マルティナが、やや面白くなさそうな顔をする。 婚約者――とは違うな。 私の超人としての配合、いや、これもカタリナ女王陛下に対しては失礼だ。 そのような事を考えているわけではなく、しかし愛とは少し遠いかもしれない。 イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフについて考える。 彼女、今頃は何をしているであろうか? 何度か文通はしているのだが、お互いの普段の些細な事。 お互いの母親について。 レッケンベル騎士団長が生前どうであったか、私の母マリアンヌが生前どうであったか。 そのような事ばかりを話しているのだ。 恋人の会話とは少し違うのだろうな。 そんなことを考える。 「これは私の予想に過ぎません。なれど、彼女は確実に来るでしょう」 「和平交渉を結んだとはいえ、かつては殺し合った敵国である。選帝侯同士、価値観のずれもあり、仲が良いとは決して言えない間柄だ。それなのに来るのか?」 「何言ってんです」 マルティナは、大きなため息を吐いて呟いた。 「ファウスト様に会いに来るだけですよ。アンハルトの事なんか、関係ないです。皇帝陛下への拝謁すらも、ついででしょう」 「私に?」 私とて、まあ会いたいとは思っているんだが。 文通はすれど、あまりカタリナ女王の事は知らぬ。 会うまでは一カ月をかけて、それこそ念入りに調査したのだから、彼女について詳しくはあるが。 レッケンベル殿の愛情を骨の髄まで理解した彼女の、その後についてとなると、私は知らないのだ。 「カタリナ女王は約束を守るでしょう。嫁を娶った後に、褥を共にすると。和平交渉の条件がそれなのですから、ヴィレンドルフならば死んでも契約を遵守します。ですが、ファウスト様はすでに婚約者を得ました」 「まあ、どういうわけかヴァリエール様が婚約者になってくれたが」 嫌いではない。 ヴァリエール様、性格においてはむしろ好ましいのだ。 ただ、私はロリコンではないのだ。 貧相というか、もう明らかに14歳どころか12歳が精々の外見、それに昂るところはないのだ。 「ともかく、もうカタリナ女王にとっては婚約者さえ納得させたら、後は自由だレベルの状況ですし。何事も順調に進んでいるんですよ。彼女はファウスト様に会いにくるためだけに、この帝都ウィンドボナに来ます」 何故かマルティナは、かなりの不快感を表しながらに呟き捨てた。 私は納得する。 「帝都ウィンドボナに出向くついでに。アンハルトの王都にてヴァリエール様と話でもしてるんじゃないですかね。今頃はですが」 「ヴァリエール様にあまり負担はかけたくないのだが」 ヴァリエール様はなんか可哀そうなので、あまり負担をかけたくない。 肉欲的に興味が一切ないとはいえど、私はヴァリエール様の事が嫌いではないし、まあポリドロ領を代わりに継いでくれる子が出来たならば、ヴァリエール様の代わりに死んでも良い。 第二王女相談役として、その程度には忠誠を誓っているのだ。 「ヴァリエール様についてですが。あの人はあの人で、今のしんどい道を自分で選んだんですよ。同情すべきところは何もないです。精々苦労してもらいましょう」 割とマルティナは冷たい。 ヴァリエール様の話になると、時々刺々しくなるのだ。 あの人が現状で苦労に対して得られたものなど、そう多くはないと思うんだが。 私の婚約者としての立場など、価値はないだろうし。 「カタリナ女王やヴァリエール様の動向としてはそんなところです。他にはなにかありますか?」 「二つ目だが。マキシーン皇帝陛下について、道中アスターテ公爵から話を聞いた。どのような人なのだ?」 「当たり前ですが、私に面識はありません」 そうだろうな。 だが、もはや無いボーセル領の教会、その図書室にて本の虫であったマルティナだ。 私よりは状況に詳しいだろう。 「来歴について、多少お聞きしたとのことですが。まあ、可哀そうだとは思いますよ。そして私より間違いなく優秀でしょう。酷く我慢強く、倫理と現実へのくびきを愛し、同時に感情の激発においては火砲の砲撃よりもえげつない。そのような御方であると考えます」 マルティナの予想。 少なくとも私よりは詳しいそれ。 顎を撫で、途中で口を挟まない仕草をすることで、話を続けさせる。 「新紀元歴においての話となります」 目をつむり、話を聞く。 それはマルティナが本で読んだ通りの、歴史の流れ。 11年前に幼きマキシーン皇帝陛下が幽閉され。 8年前に、マキシーン皇帝陛下の父君がなくなり。 7年前に、先代皇帝陛下であった母君が選帝侯に、ヴィレンドルフやアンハルトに嘆願した。 遠国の海洋国から迎えた夫は、娘のために餓死をして。 その遺骸すら取り戻せず、娘は未だ囚われている。 報復を! どうか、私の全てを取り戻すための力を貸してくれ! 何もかもかなぐり捨てて、狂気すら感じる檄文を受け、アンハルト選帝侯王配たるロベルト様がまず動いた。 リーゼンロッテ女王陛下に、将来の利益あることを言い含めた進言を行ったのだ。 アンハルト選帝侯、リーゼンロッテ女王陛下は物資と資金においての強力な支援を。 ヴィレンドルフ選帝侯、カタリナ女王陛下は、より具体的な『剣』を。 クラウディア・フォン・レッケンベルという、ヴィレンドルフ最高の英傑という強力な指揮官を差し向けた。 先代皇帝陛下と、その指揮下であるレッケンベル騎士団長は戦に勝利した。 先代皇帝陛下ではなく、レッケンベル騎士団長の差配により勝利した部分が強いのだが。 「そこだな、そこ。その戦についてが詳しく知りたい」 「わかっております。レッケンベル騎士団長が勝利した理由についてですね。どうやって勝ったか? それについては、ファウスト様も名前ぐらいは聞いたことあるでしょう」 ――『ランツクネヒト』と呼ばれる、歩兵の傭兵部隊をレッケンベルが大量に導入したのだ。 グステン傭兵師団を大量に導入した、戦場のルールも騎士の名誉も何一つない戦を、これは私戦(フェーデ)だから知った事ではないとやらかした。 本当に酷い戦であったと。 確かに鮮烈に勝利したものの、騎士の名誉などとは程遠い。 皇帝陛下を僭称した先代皇帝陛下の親族、一族の愚か者の末路などは酷すぎる。 あれなど、ランツクネヒトどもに笑いながら体を切り刻まれ、8つの身体に分かれてマキシーン皇帝陛下に届けられたのだ。 生きたままにバラバラに引き千切られたその凄惨な有様については、マキシーン皇帝陛下の一言がそれを物語っている。 『私はウィンドボナの市長への怒りと違い、この女については『ここまで』恨んでいなかったのだが』。 届けられた死体を目にした、マキシーン皇帝陛下の言葉。 彼女はその死体を、親族には見せようとせずに速やかに埋葬したらしい。 そういった話をマルティナから聞く。 「ランツクネヒトか」 ポツリ、と呟く。 前世においては。 マクシミリアン1世によるもの? いや、厳密にはゲオルク・フォン・フルンツベルクだったか? やや曖昧になってしまう――私は前世において文学肌であって、歴史にそこまで興味があったわけではない。 かつての神聖ローマ帝国が編成したランツクネヒトの出自について考える。 この世界では、クラウディア・フォン・レッケンベルの手によるものなのか。 「言っておきますが、レッケンベル殿の騎士団はランツクネヒトがやらかすような一切の略奪を禁じております。ランツクネヒトは、まあ。あまりにも粗野と言いますか、騎士ではないというか、まあ武人ですらありません」 傭兵にそこまで求める方がおかしい。 現世での価値観では、そのように考える。 騎士のルールに厳格であったレッケンベル殿の方が、むしろ奇異ですらあるのだ。 「とにかく、そのようにして勝利しました。ファウスト様がレッケンベル殿をこれほどないまでに高く評価しているのは知っています」 「私は本来であれば、あれは私が敗北する流れであったとすら考えている」 偶然勝てた。 暴論を吐くが、確実に勝てたなどとヴィレンドルフ戦役においては口が裂けても言えぬ。 あれはそのような戦であったし、一騎打ちはそれより酷い! レッケンベル殿に勝てたのは何か、私の母マリアンヌが黄泉から力を貸してくれたか、そのような不可思議な結果であるとすら考えている。 「戦について詳細を知ることはできるか?」 「帝都ウィンドボナで図書室の閲覧許可を得る事ができれば可能です。そのように差配を」 「すまんな。私は古語を読むことができないから、マルティナに頼むことになる」 ランツクネヒト。 マルティナは賢く、その才能においては私など超えている。 手が届かない遥か遠くにあると思われた。 そのマルティナに、貴方は遊牧騎馬民族国家に対し、何の対策を練るのか? 神聖グステン帝国皇帝陛下になにも訴えないのか。 そう問われた。 私は考えている。 その役目は、すでにアナスタシア殿下やアスターテ公爵に任せてあると。 なれど、不安は消えぬし、同時に一つの期待がある。 前世の中世ヨーロッパの戦争のあり方において変化を遂げた傭兵集団。 その存在において、その存在は何か私の想像にも及ばないことをやらかすのではないか。 そのような期待をしている。 「とにかくも、調べてくれ。私はその間、アナスタシア殿下のパートナー役がある」 「本当にやるんですか?」 マルティナが心配そうにつぶやく。 安心しろ、私はもっと心配だ。 「まあ、これでも選帝侯のパートナー役なのだ。私がそれに足りないのはともかくとして、周囲が配慮してくれるであろう」 「私はそれですら不安なんですが」 私は今後、アナスタシア殿下のパートナー。 夫ではないが、選帝侯にふさわしい、横で周囲に見せびらかせる男。 その質によって権力と財力を誇示するそれ。 品が感じられぬ上級社会のそれに、ややウンザリしながらも呟いた。 「とにかく、私は努力する。それでも足りないのはわかっているが……」 私は、ファウスト・フォン・ポリドロは、レッケンベル殿との一騎打ちに次ぐ困難な戦になることを理解しながら。 パーティーに行くための準備を開始した。 第114話 騎士と侮辱 礼服に身を包んでいる。 いつも自分が王都で着ている一張羅ではなく、アスターテ公爵が用意してきたものだ。 採寸はしっかりとされており、自分のような筋肉達磨の身体にも、ぴったりと合った。 意匠は控えめであり、体の線を出すことが意識されていた。 「よく似合っている」 アスターテ公爵が褒めてくれる。 彼女はいつもの燃えるような赤い編み込みの髪形。 それを映えさせるようにシンプルな、黒いドレスを着ている。 腰は細く、胸は無意味に大きく、足のくるぶしを目で追ったが、それはドレス丈に覆われて見えない。 私は確かに巨乳が大好きだが、くるぶしフェチでもあるので残念に思う。 「お褒めの言葉どうも。アスターテ公爵も良く似合っていますよ」 「それは嬉しいが。ファウスト、たまに足を見るのは何故なんだ?」 「気にしないでください」 アスターテ公爵は派手な装飾を好むが、今はアンハルトの礼服よりも控えめである。 メインがアナスタシア殿下になるからであろうな、と考えた。 私の視線は見えないくるぶしの代わり、アスターテ公爵の爆乳に向かおうとするが、そのような場合ではないので辛うじて堪える。 「ところで、やはり私のような筋肉の塊を連れ歩くのはどうかと思うんですが? 先日、アナスタシア殿下の御心は理解しましたので断りはしませんが……神聖グステン帝国において、男の流行はどうなっているかお聞きしたく」 「アンハルトと神聖グステン帝国帝都、このウィンドボナでの男の流行に変わりはない。背は低い方がよく、線は細い方がよく、紅顔の美少年が好まれる。まあ、パーティーの場において、若さは別に重要視されないが」 すらり、とアスターテ公爵の腕が伸びて、私の腰を撫でた。 そのまま股間に手が伸びるが、親指と人差し指の二本で手の皮を掴み、窘める。 「要するに、私のような無骨な男は好まれぬでしょう。やはり、今からでも侍童に相手をさせるべきでは?」 「念のための代理も、帝都に連れてきてはいる。だが、それはお前が何らかの理由で出席できぬ際の代理にすぎぬ。ファウストの代わりがこの世にいるものか」 そういえば、私の立場はアナスタシア殿下の義弟となるのか。 そんな事を考えるが、アスターテ公爵の両手が私の腹を撫で、そこから首までをゆっくり、指の腹で擦りながら。 何か杯でも掲げるようにして、その手が私の顎に添えられた。 「私はお前が欲しいよ、ファウスト」 接近していた距離は近づき、アスターテ公爵の胸が、私の身体に押し付けられる。 色々と感じるものはあるが。 「そのような事をしている時ではないと思いますが」 「今日の夜会のことか」 晩餐会に招待されている。 主賓はアナスタシア殿下。 パートナーの私、連れのアスターテ公爵の3人だけ。 さて、帝都に着いて数日経ち、初めての夜会となる。 「ホストはテメレール公。神聖グステン帝国内における公国の地方君主と伺っておりますが?」 「それだけ覚えていればいい。何の問題もない。他はただの木か岩だと思え」 あまりにも適当である。 アスターテ公爵はあまりにもやる気が無い、とマルティナに愚痴ったのであるが。 マルティナはマルティナで、その頭脳を私のために回転させようとはしない。 どうでもよいじゃないですか、などとすら発言した。 私が手持ち無沙汰になって頭を撫でていると、猫のように目を細めて言うのだ。 そして不機嫌そうに、何で今どうでもいいこと言うんですか、と怒るのだ。 「マルティナも同じように言いました。アスターテ公爵もアナスタシア殿下も、私の記憶力に期待しておられないのですか? そんなにも頼り無いと?」 「違うな。厳密に言うと、パートナーとして、それほどの役割をお前に求めていないのだ」 なんか馬鹿にされているような。 そう思うが、ニュアンスが少し違うんだろうな。 「これが選帝侯の夫であれば別だ。私の叔父であり、リーゼンロッテ女王陛下の夫であるロベルトであれば別であった。公爵家の縁筋で、正式な夫だ。誰も粗略に扱わぬ。叔父ロベルトが抱く好悪が、その貴族の運命を左右する事すらあるのだから」 「まあ、私は領民300名の小領主に過ぎず、単なるお飾りのパートナーですからね。誰も重要視はしないでしょう」 「とはいえ、ファウストはやはりアナスタシアの公的なパートナーであり、義弟だ」 アスターテ公爵は少し口ごもって、赤い小さな舌で唇を湿らせた後。 少し困ったように呟く。 「つまりだ。重要視はせずとも、誰も粗略には扱わぬ。あまり気負う必要はないんだ。アナスタシアがお前をパートナーとして求める感情とは別として、私としても何も反対する理由はないんだ」 「しかし、それではアナスタシア殿下の利益にならぬのでは?」 そのようなどうでもよい立場であれば、やはりミスをしない侍童の方が良いだろう。 私がパートナーであることが、アナスタシア殿下の利益にどう繋がるかが理解できない。 「色々ある。アナスタシアはまあ単純に自分だけのために。私としては、アンハルト王国のための色々な利益を考えて行動している。この利益は必ずや、お前にも配当を出すんだ。だから、今は黙って従って欲しい」 「はあ」 アスターテ公爵のことだから、本当に色々とあるんだろう。 私を利用はするけど、嘘だけはつかない、これだけは信じているのだ。 戦友である。 なれど、どうしても心配がある。 「アスターテ公爵。私の晩餐会における失敗が、その利益を超えた不利益に繋がる可能性もあるでしょう。その点はどうお考えで? やはり、リスクが……」 「ファウスト。お前は変な心配をしすぎなんだ。何か変なトラブルが起きないように、お互いの名誉を汚さないように、ホストも主賓も最大限の注意を払っている。夜会に偶然『あら、あの方は誰かしら?』などと知らない顔をばったり会わせて、どちらかが無礼を働く事など絶対に無いんだ」 お前は貴族のパーティーに参加したことなどないから、判らないだろうが。 アスターテ公爵は困り顔で呟く。 仰るとおりであり、私にはパーティーの経験などなかった。 だって本気で一度も呼ばれた事ないもの。 最近はアンハルトの封建領主の方々と、少しばかりは文も交わすようになったが。 とにかく、私には貴族としての交流経験が足りない。 「もちろんアナスタシア殿下とて、テメレール公とは先日夜会の約束のために顔を合わせたばかりだ。顔合わせの際は、テメレール公が紹介の労をとることになる。つまりだ。貴族として当たり前の事さえ守っていればよいんだ。その当然の事とは何かが、わかるな?」 「まあ、さすがに」 適当に幾つかのことを頭に思い浮かべて。 結論としては、一つの事をだけを口に出す。 「誰に対しても侮辱しない」 「そうだ、貴族として当たり前のことだ。最低限決められたルールだ。それだけは絶対に許されない致命的な失敗だが、ファウストがそんな失敗をする可能性などないだろう」 信頼されていると受け止めてよいのか? そうはいっても、一応のマナーは学んだとはいえ、ミスったらどうする。 事前準備こそ積めど、本当に何もしなくてよいのかと不安なんだが。 アスターテ公爵にとってはどうでも良いようで、ホストについての話を始めてしまう。 「ファウストよ。今回会うことになるテメレール公は選帝侯ではない。だが、選帝侯ではないこと。それが領主騎士として実力が無いことを意味するわけではない。理解できるな」 それは当たり前の事だ。 爵位が高いからと言って、支配する荘園が大きいとは限らぬ。 純粋なる暴力たる私戦(フェーデ)の前には、皇帝陛下すら敗れることがある。 確かに爵位が高いということは、それに値する権力を有していることが多いが、それだけだ。 決してイコールではないのだ。 「テメレール公は欲深く、気難しく、苛烈で、豪胆で、かなり無茶苦茶な性格をしている。猪突公とすら呼ばれている。だが、動員できる兵は5000を上回るだろう。アンハルトやヴィレンドルフには劣れど、彼女を侮辱するような者がいれば」 「その日の夜には死んでいる、と」 別にそれは貴族として当たり前のことだと思うが。 騎士を侮辱するという行為は、その本人を侮辱するのみならず、その領民や従士、領地や先祖、父母や家族を侮辱するということだ。 侮辱したものが誰であろうと、私戦(フェーデ)を挑まれて、その場で殺されても仕方がない。 後で面倒になっても、その場でぶち殺さずに舐められるよりもマシだと誰もが考える。 だから、だ。 「そんなの当然ではありませんか。何を当たり前のことを言ってるんです」 「そうだ。当たり前のことだ。アナスタシアもテメレール公も、私もファウストも、それ以外の皆すら、誰もがそんなことくらい理解している。だから、何の心配もいらないんだ」 要するに、マナーなんぞ多少違反しても怒られる事は無い。 その場で素直に頭を下げ、ホストに恥さえ掻かせねば済む。 そういうことなのだろうな。 「理解しました。しかし」 「まだ何か心配なのか?」 「はあ」 侮辱について。 なるほど、貴族とは侮辱に対して全力で殴りかかる生き物であり、そこには生死すら平然と入り込む。 酷く暴力的であるのだ。 しかし、人を侮辱するとは残念なことに楽しいものだ。 何もしておらず無能な自分の誇りを持ち上げるには、他人を侮辱するのが一番容易い方法なのだ。 「生死のリスクすら理解できず私を侮辱する阿呆は必ずいるでしょう。私とて幾度も侮辱を受けました」 「ファウスト。お前の立場については色々と思うところがあるし、まあ私も冷静に考えればだ。お前がそう考えるのも無理はない気がしてきた」 この母が産んでくれた筋骨隆々の身体を侮辱されることなど、人生何度もあった。 面と向かって私を侮辱する者は少ないけれど、姿すら見えぬ安全圏という名の影から、私を侮辱する愚か者は必ずいた。 王都の市民にすら侮辱されるのだ。 アスターテ公爵直下の公爵軍、その兵士たちが私を侮辱した者を殴るトラブルも多数発生したと知っている。 私は何一つ知らない無能ではない。 そして、そういったトラブルが起きる可能性があるならば、相手に理解を求めるのではない。 原因たる私を排除する方が容易い。 「だが、やはりお前と私の視点では違うよ。今から行く場所は街頭パレードでも、無能な法衣貴族が蔓延る王都でもない。何度も言うが、これは正式な晩餐会なんだ。主賓がアナスタシアで、ホストはテメレール公なんだ。お前を侮辱することは、お前を侮辱するということだけではないんだ。主賓とホストの両方を侮辱することに繋がるんだ。呼ばれた招待客を、呼んだホストの庭で侮辱したら、もう庭にその場で殺されて埋められるんだ」 「……」 理屈は分かる。 確かに、私が致命的な失敗を起こさない限り、私を侮辱する愚か者は……いないのか。 「私が気にしすぎたんでしょうか」 「そうなる。何も理解してないそんな愚物、パーティーに出てくるわけがない。テメレール公はアンハルト選帝侯になる予定のアナスタシアと是が非でも縁を繋ぎたい。そう考えて、今回の宴席に招待したんだ。もちろんアナスタシアや私にも、色々と考えがある」 その考えとやらが、非常に気になるんだが。 かたや兵力5000以上を動員できる神聖グステン帝国の領主騎士テメレール公。 かたやアンハルト選帝侯に戴冠される予定のアナスタシア殿下。 あまりにも、雲の上の話すぎる。 私が聞いても意味はないだろう。 「理解したか? ファウスト。お前が酷く気にしているのは判ったし、私はお前の容姿が好きだから予想されるトラブルをあまり考えておらず、確かに少しばかり配慮が足らなかったかもしれない。それについては謝るよ。だがな、あまりにも『無い』ことを考えるな」 「確かに」 理解した。 結局は、私が侮辱に慣れすぎたんだろうな。 どうにも、これだけは耐えがたいのだ。 私なんぞが侮辱される、それ自体はどうでもよい。 騎士は面子商売であるけれど、そういう問題ではない。 私が許せないのは、我慢ならないのは。 結局のところただ一つ。 「理解しました。アスターテ公爵。ただ、もしもの事が起きた場合は、ご理解を。私の欠点は貴女も知っているでしょう」 私の母マリアンヌが侮辱されることだけは、我慢ならないのだ。 お前の母は、お前のような醜い存在を産んだぞ。 そう罵られた場合に。 私はそう罵った者を、間違いなく血の海に沈めてしまうだろう。 その危惧が消えないのだ。 私はきっと、マスケット銃の火縄が点火したように、後先考えなくなってしまうだろう。 以前にも何度かやらかしているのだ。 「お前を罵った者がいた場合? 本当にどうしようもない愚か者。そんな馬鹿がいたら、例えその場で殺してしまっても」 私が全ての責任を取るよ。 アスターテ公爵は、朗らかに笑った。 第115話 侮辱 気にしすぎであったのだろう。 テメレール公主催の晩餐会は何事も無く終わったのだ。 天然水晶の眼鏡をかけた――あれは別に目が悪いのではなく、自分の印象を本を愛する温厚な人間であると、そう見せかけたい為のブラフ。 伊達メガネなのだ。 年齢は28歳頃にして、背は180cmほどと高く、欲望に満ちたギラギラとした眼光を隠すように眼鏡をかけ。 声はややしゃがれておりハスキーじみていて、人に威圧感を与えることには天才的な才能。 そのようにアスターテ公爵は評していたが、猪突公と呼ばれる印象とは少し異なり、私に対しても柔らかく応じていた。 心の中ではどう思っているか判らないが、アンハルトにおける私の武勇を参加者全員に喧伝するように、そのしゃがれた声色で褒めすらしたのだ。 彼女は完璧にホストとしての役目を果たしている。 私が単純なのかもしれないが、悪い印象は受けていない。 同時に、こちらの事情をある程度掴んでいると判断する。 「言っただろう。テメレール公が私たちに喧嘩を売ることなど無いと。どこの世界に自分の利益になる重要人物を罵倒する馬鹿がいるんだ。私たちを威圧しても何の得もない」 「はあ。確かに私の勘違いだったようです」 自分の頭皮に指を伸ばし、かりかりと掻く。 テメレール公にとっての要人のみを集めた、参加者50名ほどの小さな晩餐会。 アナスタシア殿下はその凶悪な容貌、『人肉を食べていそうな眼光』とは裏腹に朗らかな口調で。 参加してきた全ての要人の過去の来歴について、テメレール公から事前に聴いておいた功績についてを、さも感心した様子に褒め称えていた。 参加者全員の名誉は、この晩餐会において完全に満たされている。 しかし――。 テメレール公はむしろ興味深げに私を見据えども、他の宴席客と言えば、むしろ私へ困惑の視線を送っていた。 事前説明はあったろうに、だ。 「やはり、男騎士は珍しいのですね」 「神聖グステン帝国をくまなく探したら、どうしても男しか産まれなかった稀有な例、家名の後継者が男しか現時点でいない例はあるだろうが、戦場に出てくるとなればな。さすがにお前だけだ」 私が同じ立場の貴族、そういった友人を得る機会など、この生において無いだろうな。 少し悲しく思う。 別に息苦しいわけではなく、好んで私はこの生き方をしているのだが。 それにしてもだ。 「アナスタシア殿下はどちらに?」 さっきから見かけないのだが。 先ほども言ったが、今は晩餐会を終えている。 もちろん今回のメインはそれであり、もう帰っても良いだろと思うが――。 「テメレール公と二人で、執務室に移動した」 「来客用に準備された談話室――ではないんですね」 「今から重要な話をするのさ。選帝侯候補者と有力な貴族の、未来についての大事な話」 それは別に神聖グステン帝国のためではなく、自分たちが支配する領邦をどう保つか。 どう維持し、どう発展させるか、そのために必要不可欠な外交関係の話。 やはり、雲の上の話だ。 マルティナならば聞きたがったろうが、私にとってはそうでない。 だから、私とアスターテ公爵は壁際の椅子に二人座っている。 テメレール公が今回呼んだ貴族とパートナーたちは、ダンスホールで優雅に踊っている。 私にはその技量が無い。 「踊られないのですか?」 「お前がダンスを下手なのは知っているからな。リーゼンロッテ女王陛下に、お前とワルツを踊ったと聞かされたよ」 凄い下手だったと。 私は口をへの字にする。 ダンスなんて経験殆どないんだから、どうしようもない。 「お前と踊るのは嫌じゃないし、望むところなんだが。この人が居並ぶ場所で見せびらかしては、お前の評価を落とすさ」 「私の評価に意味はないでしょう。先日もそう仰られた」 「お前の評価に意味はない。武人としての評価をテメレール公が落とす事は無いだろう。クラウディア・フォン・レッケンベルの名は帝都であまりにも有名にすぎる。なにせ幼きマキシーン皇帝陛下を救出している。ランツクネヒトを帝都に嗾けるなど、えげつない事もしている。あれに一騎打ちで勝った時点で、お前の名声が揺らぐことは後世においてもないだろうさ」 アスターテ公爵は、そのように仰られた後に。 少し、困ったように呟かれた。 「そうだな、本音を吐こう。もう評価でもなんでもなく、私はお前にろくに知らん女と踊られるのが嫌なのだ」 「はあ」 私はなんとなく嫌な予感がした。 あれだ。 アスターテ公爵が少しおかしくなる予兆だ。 「私はお前が初めて母親以外とワルツを踊ったと、リーゼンロッテ女王陛下に不器用でぎこちない弱味をお前が見せたと聞いて、すごく憎んだ。そして興奮した。畜生、私のデザートが取られたと」 何がデザートなのだろうか。 なんでアスターテ公爵はそれで興奮するんだろうか。 「それはよい。凄く興奮した。それは良かったんだ。デザートの美味しい味を知っているのが他人に取られた。もうそれはとてつもない興奮だ。えげつない興奮だったんだ。それは良いんだ。ただ一つ許せないのは、お前の味を知らない女郎めが、お前と踊る事だ」 私は味などしないが。 まあ、アスターテ公爵のいつもの病気なので気にはしない。 「違うんだ。理解して欲しいんだ。私はお前が他の誰かにいいようにされること自体を興奮できるような端女の類と一緒にしないで欲しいんだ。私はお前の価値をはっきりと認識し、その女に『お前が固執する男を奪った』とマウンティングされたいのであるし、そうでなければ何の興奮も無いんだ」 無心で聞く。 とりあえず、私には判らない言葉で語られてるだろうから。 「とにかく、私が興奮しているのはファウスト・フォン・ポリドロというお前だからであるのだし。その相手が誰であっても、このような興奮を味わっている淫売などではないと判って欲しい」 理解はできなかったが、なんか可哀想なので理解したふりをする。 「わかりました。アスターテ公爵」 「理解してくれたか」 アスターテ公爵は笑顔で呟いた。 この人は可哀想な人なんだな、という以前も一度決着づけたそれを感想として抱いた。 ――ふと、近寄ってくる気配を感じる。 「アスターテ公爵、出番です。アナスタシア殿下とテメレール公がお呼びです」 アレクサンドラ殿である。 軽く頭を下げて私に会釈し、アナスタシア殿下の護衛を務めていた彼女が、楽しそうに声を上げる。 「話が進んだか」 アスターテ公爵も、楽しそうに答えた。 この辺り、何がどうしているのかが判らない。 アナスタシア殿下とテメレール公は何を話しているんだ。 交易について? 軍役について? 何か具体的な領地の利益について、話しているのは間違いないだろう。 「さて、ファウスト。申し訳ないが、少し壁の花でいてくれ。すぐに戻ってくる」 「アスターテ公爵も、テメレール公と何か話を?」 「アナスタシア殿下とはまた話が違うがな。お前の利益にもなることについて、話をする予定だ」 その私の利益となること、が良くわからないのだが。 やはり、詳しく尋ねる事ではないだろう。 アスターテ公爵が手を大きく伸ばし、私の頬をするりと撫でる。 「期待していろ。さて、行くか」 「はい」 アスターテ公爵と、アレクサンドラ殿が連れたって場を離れる。 さて、困る。 やることが無いのだ。 「……」 いや、本当にやることが無い。 腕を組み、礼服の生地の良さを確かめながら、目を閉じる。 待つのは嫌いではない。 とにかく、誰にも関わらない方がこの場では良いと判断した。 「あら、お一人ですか」 だが、声を掛けられる。 目の前にいるのは、私の胸元にすら届かぬ背の低さ。 神聖グステン帝国では主流の好みであろう、紅顔の美少年が私の顔を見上げている。 「一人だ。殿下と公爵は、今頃テメレール公と話をされておられる」 無視するわけにもいかないので、返事をする。 何の用事だ? 「それはそれは。さっきから奇妙に思っていたんですよ」 テメレール公の反応から、私に喧嘩を売るような人物はいない。 そう思うが。 「何故、貴方のような人物がこの場にいるのか」 駄目だこれは。 アスターテ公爵、あれだけ自信たっぷりに言ってたのと違うではないか。 私はため息を吐きながら、適当にあしらう事を試みる。 「アナスタシア殿下の義弟として、未だ婚約者のおられない殿下のパートナーに選ばれたのだが。ご存じないのか?」 ただの事実を口に出す。 私の背後にはアナスタシア殿下がおり、その彼女の存在を口に出す。 本来、このような事は口に出すまでもない。 だが。 「嗚呼。可哀想なアナスタシア選帝侯、貴方のような男をパートナーにしなければならないなんて。いくら御国事情とはいえ、貴方も断るべきでしょうに」 眉を顰める。 私は眼前の美少年など、どうでもよくなっている。 思考はいままでに私を侮辱してきた、侍童やくだらぬ法衣貴族についてを考える。 どうしても理解できぬ。 人の侮辱を行う、それについてではない。 侮辱は甘美であり、安全地帯でひたすらに相手を罵り、自分は攻撃される恐れが無い。 それはそれは楽しいのだろう。 まして賛同するものがおり、一緒に笑って蔑めば、酷く楽しいのだろうとは思う。 共感はできないし、あまりにも人として醜くはあるが。 ――疑問はただの一つ。 何故私に喧嘩を売ろうと思うんだ? 「少年よ。一つ聞きたい」 「何でしょう」 「私が怖くないのか? 私は貴様の首など一撃でへし折ることができる」 ただの事実を口にする。 眼前に握りこぶしを作る。 私の剛拳は鈍器と何一つ変わりない。 剣や槍をぶん回し、肉が膨れ上がった醜い手だ。 頭を殴れば頭を果実のように砕き、心臓を殴れば一生心臓を止めることができるという魔法を使えるのだ。 これはケルン派における贖罪主の御業と一緒である。 「そんなことが出来るんですかあ?」 挑発するように言う。 出来るから言っているのだが。 「私はテメレール公に仕える貴族である――のパートナーの――」 くだらぬ口上を聞き流す。 貴様の自己紹介なんぞ聞く気はない。 アスターテ公爵の言葉をそのまま流用するが、そのお前のパートナーが仕えるボスであるテメレール公が、私の事を招待客として呼んでいる。 先ほどの晩餐会で私個人を褒め称えすらした。 何一つ理解していないのか。 「そのテメレール公が、さきほど晩餐会で私を褒め称えた事を聞いていなかったのか?」 「嫌々仰ってたんでしょう? テメレール公がたかだか領民300名程度の領主騎士を心から褒めるわけないでしょうに」 駄目だコイツ。 あまり聞きたくないが――。 「まさかお前、自分がテメレール公を代理して私に忠言している等と勘違いをしているのか?」 「まさか! 私はテメレール公が言わなくても分かるであろう程度の事を、貴方が理解していないから言っているだけです」 それを代理というのだ。 アカンわコイツ。 根本的に勘違いをしている。 テメレール公の配下はもちろん、そのパートナーである眼前の少年に発言権なんぞない。 私を侮辱する権利や忠言する権利どころか、私に何かを訴える権利すらない。 「私の妻は領民3000名の――」 また何やらくだらぬ事を呟く。 荘園の大きさは重要だ。 確かに階級差や爵位の差はある。 それを盾にした要求もこの世にはあるだろう。 しかし、何か根本的に勘違いをしているが、立場が上だからと言って下に何かを一方的に要求する権利など、この世のどこにもありはしない。 そういった関係は存在すれど、何の交渉も無ければ我慢の閾値を超えた先にあるのは、殺し合いだけだ。 双務的契約と、各自が所有している権利というものを、眼前の少年は理解していない。 唯一左右するものがあるとすれば、それは階級や爵位など建前ではなく。 根源的な恐怖、暴力のみだ。 予め設けられた秩序を破壊する自力救済のみであり、この異世界中世もどきはそれを是認している。 その解決方法が不利益だから、誰も彼もが相手を侮辱しないよう努力しているというのに。 この少年は何もかもを理解していない。 「わかりましたか?」 何か自慢気に語る少年を見る。 私は、少しここで周囲を見た。 ほぼ全員が、顔を引きつらせている。 誰か止めろよ。 そう思うが、この少年のパートナーたる配偶者がいれば、このような事最初からさせていないだろう。 私のパートナーである、アナスタシア殿下やアスターテ公爵と同じく、この場にはいないのだろう。 哀れだな。 もはや、この少年をパートナーに選んだ貴族の末路は決定した。 私が許すと言っても、このような公の場では許される状況でない。 招待客の全てがテメレール公の部下ではなく、神聖グステン帝国の貴族も多数いるのだ。 さて、どうするか。 私は対応に困っている。 「ああ、よく理解できたよ」 殺すか、殺さないかをだ。 まあ、それは三つほど聞いてからにしよう。 テメレール公が招待した周囲の人々は集まっており、準備はばっちりだ。 私は声を大きくして尋ねる。 「さて、君に尋ねよう。再度言うが、私はアナスタシア殿下に頼まれてパートナーとしてここにいるし、テメレール公に招かれてここにいる。貴殿は『貴方のような醜い男がパートナーなどあり得ないし、テメレール公が褒めた言葉などは嘘でしかない』と言っている」 「そうですよ。ここまで言っても判らないのですか! どこまでも――」 一つ目。 条件をクリアする。 「そしてその理由として、おそらく私の身長2m超え、体重130kg超えの容姿が気に食わない。この神聖グステン帝国においては男としてあまりにも醜い容姿を侮辱している」 「そうです。判っているならなんで――」 二つ目。 条件をクリアする。 「更に、私が領民300名風情の小領主でしかないこと。君が領民3000名の領主騎士の夫として、これは上位者として言ってやらねば気が済まない! そのように侮辱したと。私の愛する領地を『どうでもよいもの』のように扱った」 「理解しているではないか! 貴様のような醜い男を産んだ母親は何も理解して――」 三つ目。 これ以上お前の言葉は聞きたくない。 「理解しているよ。我が母マリアンヌの生前の言葉は『舐められたら殺せ』だ」 貴族の本分である。 それしかないではないか。 自分が愛した母親を嘲笑う人間に対する報復など、この世に一つしかない! 「殺すまではしないでやる」 私は最後の情けを一つだけくれてやり、少年の鼻を掴む。 一瞬、ひぃ、と怯えるような声が高らかに響いた後。 力任せに、それを千切り取った。 ぶちん、と肉と骨が剥がれた音がする。 痛みに悶える絶叫がダンスホールに響く。 「まあ、私が殺す価値すら無いだけだが。後はアナスタシア殿下とテメレール公の差配を仰ぐ」 私は凶悪な笑みを浮かべ、手に握っている鼻を地面に投げ捨てた。 鼻には鮮血と、そこから覗く白い物。 千切り取られた軟骨が見えていた。 第116話 何で殺さなかった! 「なんでぶっ殺さなかったんだ! 腕でも首でも引き千切ってしまえばよかっただろうが!!」 アナスタシア殿下が私を責める。 何故私が責められるのか。 あの私を罵った少年を殺さなかったこと、それを責められるのは理解できない。 私は少しばかり、報復に情けを与えたにすぎないのに。 どうもややこしい事になっている。 今は騒動冷めやらぬテメレール公の屋敷からひとまず帰り、帝都ウィンドボナにて皇帝陛下から借り受けている貴族用の大邸宅。 その屋敷にて、問答を行っている。 「拙かったでしょうか?」 「拙い! ぶっ殺せばそれで終わりだ。 始末の付けようがあるが……その」 殿下は怒っておられる。 だが、途中で口を噤み、何か迷っているようだった。 アナスタシア殿下の脳内では、狂ったように今後の計算が行われているだろう。 思考能力が高すぎて、戦場のように一撃たる決断が下せないのだ。 「アスターテ! これからどうなるか予想は!!」 「まず、お前はファウストを責めるのをやめるんだ。確かに殺した方がお前にとってもテメレール公にとっても都合が良かった。侮辱された人間が、侮辱した人間をぶっ殺した。テメレール公の顔を多少潰せど、それだけだ。それだけですんだが――こうなるとな」 殺した方がよかったか。 私はあの場では相手を『伊達にしてわからせる』に留め、上位者の判断を仰ぐべきだと考えた。 「だが、少なくともファウストは侮辱された被害者であり、本人は何度もこの事態を予想して進言していた。マトモに聞かなかった私たちの責任だぞ、これは」 「別にファウストを責めたいわけでは――私そういう風に見えるのか?」 アナスタシア殿下は眼力が凄すぎるのだ。 完全に激怒しているようにしか見えない。 「ファウスト、そう見えたなら謝る。私はとにかく――少し混乱しているようだ」 殿下は一つ息を吸い、それだけで冷静さを取り戻す。 「状況を考えよう。お前は何も悪くない。侮辱に対し応報した。それ自体は何も悪くない。だが、できれば殺してほしかったんだ。当事者の殺し合いなら良かったんだ。夫を殺された領主騎士が激怒したところで、面子を潰されたテメレール公も、事情を知る他の誰もが怒りに賛同しない。そいつに因果を含めて終わりだ」 私があの少年をその場でぶっ殺したケース。 それをまず例に挙げ。 「拙いのは、まだ生きてることなんだ。そして上位者たる私たちに判断を委ねたことなんだ。こうなると、私とテメレール公の面子に関わってくる。状況を見れば、もう悪いのは完全にテメレール公側だ。あちらさんだって、そんな事重々理解しているし、馬鹿なことをやらかした男をぶち殺して終わりならば喜んで実行するだろう」 そうすればよい。 それどころか、私はすでに侮辱に対する応報を済ませている。 あの少年の生死すらどうでもよかった。 私はこれ以上の賠償や謝罪を求めているわけではない。 今回の報復さえ正当であると認めてもらえれば、それでよいのだ。 「だが、テメレール公は今回のホストとして、自分の配下たる領主騎士の夫が主賓のパートナーにやらかした侮辱を謝罪せねばならない。テメレール公は、被害者であるお前に対して謝らなくてはならない。テメレール公にとっては『何故私が!?』と言いたくなる。性格からして、素直に認めるかというと……」 そこはどうしようもないんだから、素直に認めて欲しいものだが。 そうしてもらえれば私は評価するが、まあ面子商売であるがゆえに、小領主にすぎない私に謝罪するのはキツいだろう。 「だから、ともかく殺してくれた方が良かったんだ。こんな馬鹿話――嗚呼、判っているとも。ファウストは本当に何も悪くない。騎士として侮辱した相手を伊達にしただけ。だから、その先の責任は今回の役目を任じた私にあるんだ」 アナスタシア殿下は手で目を覆い、天を仰ぐ。 私、母親侮辱した相手の鼻をもいだだけなので、何も悪くないよ。 そう言いたい気持ちもあるが、まあ確かに双方の上位者にとっては面倒くさい事態である。 その場で殺した方が確かに良かったのだ。 私の考え足らずであった。 しかし。 「確かに私は上位者であるアナスタシア殿下に差配を求めました。そこまで面倒くさいのであれば、撤回――」 できないか。 アスターテ公爵の赤い唇が、滑らかに動いた。 私が口淀んだ言葉を、そのままに吐き出す。 「できないんだよ、ファウスト。もはやお前と侮辱した相手の争いで終わる話ではないんだ。これ以降はアンハルト選帝侯となるアナスタシア、そして帝国における有力者たるテメレール公の面子商売になるんだ。色々と複雑な話になるんだ。物事は幻想物語のように、単純じゃないんだ。お前が敵をぶっ殺さなかったから、ストーリーはそれで完結せずに続いちゃうんだ。だから――皆こういう面倒くさい事になるのが嫌だから、普通は侮辱なんか誰もしないのに」 本当にその場で殺してほしかったよ。 そうアスターテ公爵が呟く。 だんだん私が悪い気分になってきたが、私だって散々代理を立てろと訴えたのである。 それを口に出す。 「アスターテ公爵、私がパートナーの変更を求めた際に、私が危惧するようなことは絶対ない。有れば全ての責任をとると――」 「言ったよ! 言ったけど、私は常識論言っただけじゃん! そんな極まった馬鹿出てくると思わないじゃん!」 責任は取るよ! 私、ファウストに言った言葉には責任持つよ! お前の一生の責任をとってやりたいよ! やや悲痛な声色で、アスターテ公爵は部屋に響き渡るように叫ぶ。 「でも愚痴くらい言わせてくれ! 本当にこの事態の責任私たちが取らなきゃならないのか!? 今頃テメレール公も部屋で荒れ狂ってるよ!!」 まあ、そうだろうが。 だが、貴女の愚痴は私のミスを思い切り責めていて、私の心をチクチクとさす。 私は被害者であると言いたい。 「愚痴をおやめください! お二人ともみっともない!!」 アレクサンドラ殿が叱責する。 その声は鋭く冴えわたり、私の心にも突き刺さるようであった。 ――実際、私の失敗を上位者に転嫁する見苦しさにも言ってるんだろうな、これは。 「アレク!」 アナスタシア殿下は、とりあえずアレクサンドラ殿の肩をぶん殴った。 衝撃音が鳴り、痛いですアナスタシア様、と小さな批難が漏れる。 「良く言った。お前の言う通りだ。愚痴ばかり言っていても何も解決しない」 「わかってくれましたか。じゃあ何で今殴ったんですか?」 アレクサンドラ殿の疑問を、殿下は無視した。 ぱん、と手を合わせて大きな音を立て、思考を開始する。 「現状を整理しよう。私はファウストの上位者として、夜会でパートナーが侮辱された者として、テメレール公に謝罪を求めなければならない。そして、私もファウストも、事を荒立てたいわけではない。面と向かっての謝罪すら不要。謝罪の手紙一つもあればそれでよい。そうだな」 「そうです。テメレール公に謝っていただく必要すら本来はないのですが」 「そう考えるだろうが、誰が悪かったかは明確にしなければならないのだ」 今回の夜会は、テメレール公の配下のみが参加したわけではない。 すでにファウストが侮辱された事、それに報復したこと、その解決をどうするかは噂になってしまうだろう。 もっとも――。 「すいませんが、噂の制御は不可能なのですか? 今回の来客全員に対して、醜聞であるから口にしないで欲しいとテメレール公とも協力して……」 一つの案を出す。 殿下と公爵の二人から出ない案である以上、すでに考えられて駄目なのだろうが。 「駄目だ。テメレール公とて可能であれば、あの時事件が執務室に伝わった時点で私に話をもちかけたろう。あの場には50人以上の貴族と、それ以上の従者が居たんだ。口を塞ぐことは絶対に無理だ。帝都ウィンドボナでは市民の娯楽としての情報網。劇場、社交的な行事、そういったものが発達しすぎている。明日の新聞には醜聞として、貴族間はおろか市民の耳に――そうだ、私もテメレール公も、初期対応を間違えたんだ」 ファウストにその場で馬鹿を殺すよう、両上位者許諾の元に命じればよかった。 確かに、それが一番早かった。 その意はおそらく無いといえ、何度も何度も私の失敗を執拗に話すのは止めて欲しいのだが。 もうさすがに私が悪かったとは理解している。 「だから、この話を今更矮小化させることも、貴族や市民の口から噂されることを防ぐこともできないんだ。そして、私が出来ることはただ一つ。テメレール公に形だけでいいので謝ってくださいと、そう連絡するだけなんだ」 出来ることがあまりにも少ない。 簡潔に言おう。 テメレール公が、ごめんねと言ってくれたなら終わり。 テメレール公の面子が潰れるだけで終わりだ。 その怒りが何処に向かうかは知らないが。 「使者を送る。もう夜も遅い。明日にはアレクサンドラ、お前がケジメつけろとテメレール公に言ってこい」 「え、嫌なんですけど」 アレクサンドラ殿は物凄く嫌そうな顔をした。 実際に物凄く嫌な役目である。 「そもそもあの猪突公が素直に謝るんですか? プライド無茶苦茶高そうですよ」 「実際、貴族としても騎士としても、異常に高いと聞いている。馬鹿にされるのが殺されるよりも嫌いなタイプだからな」 「そんな人に、こんなアホみたいな内容の責任取らせて謝らせるんですか」 人間には謝らなくてはならない時がある。 それは仕方ない。 「こんなの予想しろという方が馬鹿みたいな話なのに、常識的な事一つ守れない馬鹿が一人混じっていただけで。それが身内だったからというだけで、テメレール公は責任取らされるんですよ。言わなくても分かることを言わなかったと、それも言ってても防げたかどうか判らない内容の謝罪ですよ」 だが、こんな事件の責任取らされたくないな。 被害者に納得を求めるために謝罪するのであるが、加害者にだって謝罪するための納得は必要であった。 私はテメレール公が、あまりにも哀れだと思った。 「それが責任者なんだ。悲しいけれど責任者なんだ。テメレール公には責任があるんだ。その責任を果たす時が来たんだ」 私はただ戦場にて剣を振るうだけが取り柄の騎士であろう。 そう確信した。 自分の愛する領地の民がやったことであれば、どんな責任でもとろうさ。 それ以上は絶対に御免である。 「テメレール公に謝らせよう」 別に私はちっとも謝ってほしいわけではないのだが。 なんなら、テメレール公に同情すらしていた。 なれど、悲しいけれど謝ってもらわなければいけない。 そうでなければ、私がテメレール公に侮辱されたままで終わってしまう。 殺せばよかった。 私悪い事何もしてない気がするが、ともかく行動の責任を背負わされている。 「アレクサンドラ、行ってこい」 「私はかつてアナスタシア殿下に、直接勧誘されて第一王女親衛隊長となりました。ですが、こんな事のために親衛隊長やってるわけじゃないんですけど」 嫌な役目。 可哀想なテメレール公に謝らせるために、ケジメつけさせるために、出向くことになるアレクサンドラ殿。 もう誰もが嫌な役目を命じられているのだ。 上位者は、嫌な役目を配下に押し付けるのである。 まあ、こんなことのためにアナスタシア殿下が出向くわけにもいかないのだが。 「いや、もう誰か適当な隊員に任せては駄目ですか? それかもう、アスターテ公爵が行けばいいじゃないですか」 第一王女親衛隊長は、人に嫌な役目を押し付けようとした。 アレクサンドラ殿は善人であるが、確かにこんなの嫌だろう。 アナスタシア殿下に肩を殴られるために生きてる存在でもないし、立派な騎士なのだ。 「最低限、騎士団長クラスが。お前クラスが行かないとテメレール公の面子が潰れるだろうが! 私は行きたくない! お前が行け!!」 アスターテ公爵は酷かった。 お前が全部責任とると言ったから、私ことファウストしては今回の役目を果たし。 結果的にアホの鼻をもぎ取るといった次第になったわけである。 責任とると発言した以上は、アスターテ公爵が行くべきではないかと思うが。 「一応アンハルト選帝侯の血族たる公爵家の当主だ。私が使者として赴いた場合、なんかテメレール公を威圧してるような感じになる! お前が行くしかないんだアレクサンドラ!!」 一応理由はあったので、仕方ないと納得する。 アレクサンドラ殿は、なにか可哀想な生贄の羊みたいな目で、私を見ている。 私には何もできない。 「猪突公が相手です。素直に謝るなんて報告は期待できませんよ。交渉はしませんよ。それでもいいですよね! 私何の判断も出来ないですからね!!」 アレクサンドラ殿は怒っていた。 可哀想なアレクサンドラ殿は、かなり怒っていた。 だけど、もう私には何の努力もできそうになかった。 まさか被害者にして小領主にすぎない私がテメレール公に会いに行くわけにもいかないのだ。 「何でぶっ殺してくれなかったんです!!」 だから、アレクサンドラ殿が少し理不尽に私にキレるのも許した。 あの時は、殺さずに上役に話を持っていくのが良策と思えた。 だけど、もうさすがにここまで責められると、私の判断は間違ってたと。 そろそろ認めよう。 『舐められたら殺せ』、母マリアンヌの言葉が何もかも正しかったのだ。 「ごめんなさい」 私は部屋にいる三人に、素直に頭を下げた。 第117話 謝罪できない理由 執務室の上に、テーブルクロスも敷かれずに料理が供されている。 帝都ウィンドボナの店で売られているような、廃牛を潰して肉としたものではない。 上等品であり、ただ食肉とするために育てられた仔牛肉のステーキ。 調味料としては海塩のみをかけ、その肉を刃渡り15cmほどの肉切ナイフにて切り分けながらに。 テメレール様は静かな声色で、まっすぐに呟いた。 「私が一番嫌いな事は知っているな?」 給仕しているのは、25歳を迎えたばかりの私であった。 領民3000名の荘園を支配する領主騎士である。 「知っております。舐められることです」 選帝侯に及ばずとも、いざ戦となれば兵士5000名以上を喚起できるテメレール様相手とはいえ。 その食事の給仕役としては不適格である。 命じられたならば、面子商売の領主騎士にとっては激昂すらあり得る屈辱であった。 相手がテメレール様以外であれば、このような事に応じない。 私が応じたのは、これがかつての私の役目であったから。 テメレール様の騎士見習いとして、むしろ喜んでやっていたことであったから。 「だが、お前は私を侮辱した」 「……テメレール様、それには」 「言い訳は聞きたくないんだ」 私はかつてのテメレール様との関係を考え、そして、目を閉じた。 私が罪に対し、赦しを求めることはできない。 テメレール様に与えた損害の補填をしなければならないのだ。 理由は明確である。 今夜の事件にて、夫がよりにもよって主賓のパートナーを侮辱した。 ポリドロ卿を公然の場で、何の言い開きも出来ない程に明確に、公然と侮辱したのだ。 今から貴様の鼻をもぎ取る理由――聞くところによれば、ポリドロ卿はその侮辱の内容を、明確に誰の耳にも伝わるように会話し、その上で報復した。 悪いのはこちら側といえど、えげつないこと極まりない。 ポリドロ卿は単に殺すよりも、酷い応報を為した。 彼も間違いなく激怒していたのだろう。 自分の手でぶち殺して全てを終わらせるよりも、より上位の案件にして、私を苦しめることを選んだ。 「お前は私を舐めているのか、それを聞きたいんだ」 「テメレール様、私が貴女に逆らう気持ちは欠片も」 違うと言いたい。 私の立場からすれば、もちろん夫の行為に対する責任は免れぬ。 それは理解していた。 罪に対する弁明などはせぬ。 その裁きは受けるつもりであった。 なれど、テメレール様には恩があり、それを侮辱するなど、あり得ぬ話であるとは弁明したかった。 「私は執務室にてアンハルト卿やアスターテ公と相対した際に、テメレール様の御傍におり。どうしてもパートナーを止めることが」 「私の質問を理解していないようだが」 視線を合わせずに。 肉を切り分け、口に運び、咀嚼する。 私はテメレール様の側近中の側近であるが、出自を言えば、ある小さな領主騎士の三女であった。 だが、幼い頃より才気を見せ、幼いテメレール様に目を付けられた。 私は騎士見習いとして彼女に引き立てられ、今の地位に引き上げられたのだ。 「お前は私を侮辱しているのか? それだけが聞きたいんだ。私は、お前には理解されていると思っていた」 言い訳はできない。 あの顔こそ優れど、領民3000名の領主騎士の唯一の子として産まれ、蝶よ花よと育てられてきた。 ――結果、出来上がったのは他人の威を借り、どこまでも調子にのるだけの愚物。 貴族としてあまりにも教育不足な美童という、顔に張り付いた肉にすら興味を抱けない男。 嗚呼、そうだ、何もかもが私の責任だ。 テメレール様は、その愚物にも価値を感じた。 男自体には何の興味も一切持たない御方だが、その男が相続する領地の価値は理解していた。 だから、自分の陪臣であり、優れた女と見込んでいた私を配偶者として認めさせた。 私を恵まれぬ立場から、引き上げてくださったのだ。 嗚呼。 「私はテメレール様を舐めた事など、人生で一度とてありません」 それだけは誤解されたくない。 何もかもが、私の失敗であった。 確かに私の夫は、その美貌に対してすら愛を抱けぬほどの愚物である。 私はあの少年を一度として愛したことはなく、愛しているのは財産のみである。 そして、その財産、私が貴族の三女として産まれて――どんな醜い、誰もが目を背けるような酷い事をしてでも得られないだろうと考えた物。 領地、領民、城、私の愛する全て。 それらを与えられた以上は、愛する主君たるテメレール様に才をもって陪臣としてお仕えする事が対価。 何もかもを得たのだから、私はそれに対し、明確な責任があった。 夫の教育不足を許し、放置した全ての原因は私に有るのだ。 指を。 執務机に両手をついて、両手の指を突き出す。 「この手指、足らなければ足指全て切り落とし、不具として構いません。なれど、卑怯未練なれど、私の命ばかりは助けを」 「その理由を問う」 「まだお役に立てます。私はまだ、貴女のお役に立てます。今回の失敗は完全に拭いされぬものなれど、両手両足の指を切り落とし、それをポリドロ卿にお届けし、お詫びとしてください。それでも、テメレール様の頭を下げる事だけは出来ぬと。これで赦しをくださいと」 手の指で剣を握れなくなったところで、足の指で地を蹴ることができなくなったところで。 今回の全ての責任を取ることになろうとも、それで解決するならば良かった。 私はまだ何もしていない。 与えられた報酬に対し、私はテメレール様のお役に立っているとは、どうしても言えなかった。 騎士の契約とは、双務的契約であるべきなのだ。 お互いに利益を与えなければならない。 私は叙任式(オマージュ)においてテメレール様に忠誠を誓った身であり、陪臣として全てを与えられた。 まだ足りない。 何も恩返しできていない。 テメレール様に賜られる死よりも、その事実が怖かった。 もっと。 もっと、何かを。 どうしようもないくらいに、涙が溢れ出た。 こんな有様で終われないのだ。 「テメレール様、私はまだ、お役に立てるのです。お赦しを。私は、私はまだ」 「泣くんじゃない。領主騎士が泣いて許されるのは、親の死に目ぐらいのものだ」 戦場で泣いてたなら、その間に死んじまうよ。 ぶっきらぼうに、テメレール様が慰めるように仰った。 「意地悪な質問をした。我が従卒よ。私はお前が、私を舐めたなどと実は欠片も思っていない。ただ、お前の状況把握を確認したかった」 「テメレール様、今回の件については」 「今考えている」 肉を咀嚼する。 テメレール様が晩餐会の後に、食事を摂っているのは別に小腹が空いたからではない。 頭蓋骨に保護された脳肉に、血を巡らす必要があるからであった。 だが、その結論は、私の頭では予想できている。 「私は謝れない」 「はい」 事情がある。 謝れない事情があった。 テメレール様は、自身の死よりも、舐められることが大嫌いだ。 それとは別な事情がある。 「だが、お前の両手両足の指を切断し、ケジメとするのもな。どうなのかな」 「テメレール様」 「ポリドロ卿はどうでもいいんだ。まあ、神聖グステン帝国の騎士として、あのような男をパートナーにするのはどうかな。そうは思うが、私にとってはどうでもいい。ポリドロ卿のことなどどうでもいいんだ」 会話を一度止め。 肉を咀嚼する。 「私は男に価値を感じていないし、あの醜い筋肉の塊たる超人をアンハルト選帝侯の娘が侍らかしていること何ぞ、心の底からどうでもいいんだ」 頭に血は巡る。 テメレール様はひたすらにその行為を繰り返し、言葉を紡ぐ。 男に興味を持たぬ価値観を言葉にしつつ、本音と現実を呟く。 心の底からどうでもよい。 なれど、そのどうでもよいポリドロ卿を公然と侮辱したのは、どう考えても我らの失点であった。 人を侮辱するなどで下らぬ快楽を得ようとした、どうしようもない夫。 そしてそれを制御できぬ、私の失点であった。 あのような貴族としての常識を何もわきまえぬ夫など、財産全てを毟り取った後は殺してしまうべきであったが。 あくまで現時点での財産は夫の物であり、まだ私はその全てを毟り取ってはいない。 領民を慰撫し、陪臣騎士を手懐け、夫とその両親を排除する段階に至るまで。 ある程度は好きにさせるしかなかった。 その適当な油断が、今の失敗を招いたが。 「アンハルト卿が何を要求するかはわからぬ。だが、何に対しても私が謝れない事。それだけが問題なんだ」 「テメレール様」 謝れない。 テメレール様は謝れない。 「私がアンハルト選帝侯となるアナスタシア殿を呼んだのは、表向きとしては神聖グステン帝国マキシーン皇帝陛下による戴冠式、それに対する祝辞を宴席にて述べるためのものだ。それは誰もが知っている」 対等の立場。 何も、アナスタシア殿を祝福し、それで終わりというわけではない。 表向きには――テメレール様の、選帝侯に並ぶ権力者なのであるというアピール。 そのために、今回の夜会が行われたし、アナスタシア側もそれを粗略に扱うつもりは無い。 テメレール様を権力者として認め、居並ぶ貴族にそれを誇り、それで終わりだった。 表向きは。 「だが、お前は知っているよな。それは表向きの話だ。私には目的があり、今回アンハルト選帝侯となるアンハルト卿を屋敷にお招きした。別に、お互いの権力誇示のためではない。あの人肉食ってそうな目つきの女が何を考えているかは知らんが、私の目的はそうではない」 知っている。 表向きではない話を、私はテメレール様より伺っている。 私は懐刀でありながら、今回どうしようもない失敗を――止めよう。 今更考えてもどうしようもない事であった。 「知っているだろうが、私は男に興味はない」 テメレール様は、男嫌いである。 とはいえ、別に女性を好むというわけでもない。 単純に――何か、男を家畜のようにしか見ていない。 この女が9産まれれば、それに対して男が1しか産まれぬ。 我らが乗る馬や、市街に住む野良犬などと違い、どうにも男女比が違う。 それに対し、テメレール様は一つの思想を持っている。 神が認めた完全たる人間である女に対し、男はただ人を増やすためだけに存在する家畜でしかない。 そのように考えている。 故に、テメレール様は男を抱かない。 自分の子に興味というものが湧かないようであった。 いざとなれば、親族の子を自分の継承者にするつもりですらいる。 そこまでしても、家畜と情を交わすつもりはないのだ。 「私が欲しいのは、もはや愛情でもなく、友情でもなく、ただの地位でしかないのだろう。後世に名を刻む程度の。それ以外に何をやりたいわけでもない。ただ、あのマキシーンという少女は、どうも私を舐めているようで気に食わぬ」 財は十分に備えている。 武力も握っていた。 あのマキシーンという少女皇帝、神聖グステン帝国の皇帝陛下という地位は、確かに血筋や帝国領という名の力は持ち合わせど。 それはアンハルトやヴィレンドルフといった選帝侯の賛意を得ることで、ようやく成し得ているのが現状である。 絶対権力では決してなく、選帝侯の意図が曲がれば、その地位は容易に揺らぐ。 選帝侯7人全員の賛意を得て皇帝になったなど、ただのペテン。 アンハルトとヴィレンドルフが財力と武力で、強烈に押しあげただけにすぎない。 「あの小娘自身にそこまで恨みはないが。やはり、気に食わぬ。あの小娘の才が、私より上だとでも言うのだろうか? どうしても気に食わぬ。選帝侯、いや、皇帝の地位すら私には望めるだろうに」 強烈な自負。 超人としての自負が、テメレール様にはある。 それこそ、あのヴィレンドルフの完全超人たるクラウディア・フォン・レッケンベル。 帝都にランツクネヒトを嗾けられた市民全員が恐怖する、悪魔扱いの化物の能力さえ上回る自負があった。 そうでなければ、夢など抱けない。 「私には夢がある」 テメレール様の夢は、昔から知っている。 「その夢は、帝位簒奪だ。マキシーン皇帝陛下が、アナスタシア殿に対しアンハルト選帝侯として戴冠式を授けるその場にて、戦を望むことだ。一心不乱の私戦を挑むことだ。私が皇帝の地位を奪い取ることだ。戴冠式という慶事に横やりをいれることに対して、アンハルト卿の理解を求めるために今回の夜会を設けた事はお前も知っていよう」 知っているのだ。 だから、アンハルト卿には弱みを見せられない。 公然と謝って、アンハルト選帝侯よりもテメレール様が下であるなどと、少しでも侮られるなど。 絶対にあってはならないのだ。 周囲の馬鹿どもは、弱み一つ見せればそれを絶対の評価だと思い込む。 武力が圧倒しているのであれば、その馬鹿の口を塞ぐことは出来る。 だが、単純な武力にてアンハルト卿を殴って格差を決定づけるのは酷く困難であった。 現アンハルト選帝侯リーゼンロッテの治世は財力ばかりが魅力の温厚なものであるが、その潜在力は侮れないものがある。 次期アンハルト選帝侯たるアナスタシアの協力も無しに、その戴冠式を壊すわけにはいかなかった。 根回しをせねばならぬ。 「私は神聖グステン帝国の皇帝位を奪い取り、テメレール皇帝陛下になりたいのだ。故に、アンハルト卿に謝罪することは、この頭を垂れることはどうしてもできぬ。むしろ、あの女を利益か力か、どちらかで捻じ伏せる必要があるのだ」 テメレール様の夢。 その欲望について、私は誰よりも知っているつもりである。 私はその望みに対し、両手両足の指を泣き別れさせるという手段、もはやテメレール様が望まないそれではなく。 別の手段にて、アンハルト卿とポリドロ卿を納得させる方法。 力か、利益か。 或いはその両方か。 それについての計算を、テメレール様の懐刀として始めた。 第118話 少女皇帝マキシーン一世 一人の少女皇帝がいる。 血統的に、多くの超人を産み出してきた一族当主の少女だ。 神聖グステン帝国においては、誰も頭を垂れることしかできぬ最良血である。 古来より続く血の濃さから、どの名家からも崇められ。 超人の発生率はどの血族よりも高く。 同時に、乳幼児の死亡率においては異常に高い一族の当主。 マキシーン一世と呼ばれる少女が眼前にいるのだ。 「血の限界が来ていると思わんか?」 「はあ」 私は少女に、言葉を返した。 先ほど考えた事について。 先ほどから語られていることについてだ。 我ら血統の限界に瀕し、誰もが頭を悩ませている。 超人一族として近い血統、皇帝陛下の近親者から結婚相手を集め、血を集めた結果。 確かに超人の産まれる確率は高まり、その権力により所領を徐々に増やし、一族は隆盛を誇った。 なれど、あまりにも乳幼児の死亡率が高い。 貧しい農村の乳幼児よりも簡単に、我らの子は死ぬのだ。 誰も彼もが死んでいく。 食物の滋養、環境、衛生面、そんな事関係ないとばかりに一族の幼児が死ぬ。 ふとした瞬間に我らの子は発作を起こし、苦しんで息を引き取るのだ。 原因は何か? 「血が濃い。この先は、これを薄めていかねば、我々一族は滅びるだろうな」 血統が限界に至った。 これにつきるのだろう。 未だ医学的な事は判らぬが、どう考えても血に原因があると、そう当主は判断を下した。 真実は判らない。 人ではない、伝書鳩や軍馬における近親交配の結果、あまりにも幼少時の死亡率が高いという結果。 根拠があるとすれば、その程度。 だが、少なくとも陛下は血統に原因があると考えている。 そして、それに反論できるわけもない。 この選帝侯全ての投票を集め、皇帝陛下の地位についた超人の少女に、一族の末端たる私程度が何を言えよう。 血族だからと宮廷に出仕しているだけの、騎士一人に何が言えよう。 「男が必要だ。超人の男だ。何処までも我々一族からは血が遠い男が必要なんだ」 神聖グステン帝国皇帝にして、一族の当主たるマキシーン一世陛下に誰が反論できるというのか。 来歴について。 彼女の来歴について、少し考える。 帝都ウィンドボナの市民全員が知っているであろう、彼女の怒りについて。 父君の死についてを含めた、その後についてだ。 「マキシーン一世陛下、そうは言っても、血からは逃れられぬもの。最低でも貴族。そして超人の子など、世にそうはおりませぬ」 一族の末端としての反論を為し、眼前の少女皇帝について思い浮かべる。 歴史書にはこう綴られるであろうな。 「知っているとも」 飢餓王マキシーン一世。 人生の全てを飢えに苦しんだ皇帝陛下として語られるのだ。 「私の父君とて、遠い異国の地から我が一族の元に売られてきたのだから」 その容貌は幼い。 齢はもう16歳であるが、あまりにも歳は幼く見えるのだ。 13の年齢に届かぬように見えるほどに、身体の線は細い。 もっと幼くさえ見えるのだ。 身長は低く、体重は軽く、ただ爛々とした眼光だけが、この少女が超人の最高峰であると証明している。 「嗚呼」 あばらの骨は浮いているだろう。 もちろん金糸銀糸と絹により作られた豪奢な服からはそう感じさせぬが、あまりにも痩せっぽちの少女である。 食事をとっていないからだ。 幼い頃の幽閉における栄養不足も、間違いなく影響はあるだろう。 だが、それよりも現状に原因がある。 「おいたわしや、マキシーン陛下」 食事を摂れないのだ! マキシーン陛下の父君の結末、その凄絶な幽閉経験は陛下の心に、心的外傷をもたらした。 食事とは苦痛そのものであるという、強烈な食事への忌避観をもたらしたのだ。 この少女の人生を思うと、その血を僅かなりとも連ねた自分としては、もはや涙しか出てこない。 パンやスープを少量口にするのみ。 肉や魚を食べようとすると、嘔吐する。 その食生活は明確に成長を阻害し、貧しい少女のような、やせっぽちの姿であるのだ。 それは、一つの呪いなのだ。 「時々、お前は妙な言葉を吐く。私の言葉を聞いていたか?」 自分のために飢えて死んだ、父君が望まずして与えた呪いなのだ。 その少女が抱えた摂食障害は、食物から血肉を得ることを許そうとしなかった。 どうでもよい。 そのような表情で、マキシーン陛下は呟かれる。 「マキシーン陛下。我々一族の、血統の将来など、どうでもよいのです。どうでもよいですから」 どうか食事を。 その身体の血肉を満たすことを。 そう望むが。 「知っているだろう。食えば吐くんだよ。別に生きるに困る事は無いし、それでよい。争いごとが起きないように、一族の後継者はちゃんと産むさ」 マキシーン陛下は、この世にめっきり幻滅しておられた。 私を虚しそうに睨み、そうして、大きくため息を吐く。 「虚しい」 ため息には、愚痴が入っていた。 「私は一族の当主として産まれた。だからこそ、その責は全うしよう。それだけはちゃんとするさ。血を繋ぐというのは、何よりも尊いのだ。でもな」 マキシーン陛下の御言葉。 この世に飽いている。 陛下は、我ら一族が産み出した最高峰の超人である。 最良の血の集約である。 神聖グステン帝国史上最高の超人なのだ。 なれど。 「時々、全てが無意味にさえ感じるよ」 それらの事について、すでにマキシーンという少女は何もかも見限っている。 幼い頃より従者として仕え、マキシーン陛下やその父君をお救いすることすら叶わず、こうして帝都ウィンドボナより離れた王宮のある都にて。 何もかもをかなえる事が出来なかった私が、あまりにも哀れな少女皇帝を眼前にしている。 そうしていると、自分など首をくくって死んでしまった方がよいのではないか。 その無力さを味わうことになるのだ。 もっと、何か、できたのではないか。 あの、有能とは言えなかったが、飢え死にした夫と、幽閉されている娘のために命を燃やし尽くしたかのような。 非才にして超人ならぬ自分の人生に全ての努力を払い、何一つ報いられなかった彼女。 先代皇帝陛下に対して比べると、そのような事を思う。 彼女も、3年前に、泣きながらに夫の名前を呼びながら死んでしまった。 自分の人生全てを果たし終えたと思い、亡き夫の遺骸を手に入れ、数年も顔すら見れなかった娘を奪い返し、糸が切れてしまったのだろう。 その後に皇帝の座に就いたのは、眼前のマキシーン一世皇帝陛下である。 当時13歳の幼い少女である。 このような馬鹿な話があったものか。 マキシーン皇帝陛下は確かに優秀であった。 割れた器にしか過ぎない先帝、その破片を接ぎ合わせ、親族の裏切りを追求することすらなく親族を呼び集め。 親の罪など子の罪ではないと、赦免を約束し。 皆の所領の保全を約束し、先の戦にて活躍した選帝侯への報酬を支払い、面目を保ったのだ。 その手練手管に対し、一族と選帝侯全員は確かに認めた。 マキシーン一世こそは、我らの主君にふさわしいと。 それだけ。 それだけだ。 確かにそれは認めてくれたが、マキシーン個人を救う何かを与えてくれたわけではない。 選帝侯全員にとっての都合が良かったという理由は多分にあった。 マキシーン個人を見てくれていたわけではないのだ。 唯一、アンハルト選帝侯の王配ロベルト様のみが気配りしてくださったが。 すぐに、毒殺により儚くなってしまった。 その心の怒り、悲しみ、会話する相手のいない、その全ては戴冠式の御言葉が全てを表している。 「すでにこの身は、我が人生にあらず。ただ父君に与えられた愛に執着し、亡き母君の執着を燃やして生きるのみなり。信仰のために、剣の道のために、恩寵のために身を捧げるものではない」 皇帝陛下が戴冠式にて教皇猊下に告げた言葉は、そのような内容であったと記憶している。 酷い文句だ。 自分の身はどうでもよく、何もかもが父君と母君への愛情により仕方なく、皇帝陛下に成るものと仰られた。 それに対し、教皇猊下は呟かれた。 帝冠を頭に与える際に、こう仰られたのだ。 「貴女は全ての選帝侯から選ばれた真の皇帝である。なれど、貴女に与える帝冠はあらず。死人に与える帝冠はあらず。私は神の代理人にしかすぎず。王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、私はその代理人に過ぎず」 あの恐れを知らぬ教皇猊下は、ひどく残酷な事を告げたのだ。 「皇帝陛下。私個人は貴女を、マキシーン一世陛下を神聖グステン帝国の皇帝陛下として扱います。なれど、私は、教皇は二次的な地位にいるに過ぎません。神より受諾された権限を皇帝陛下に与える過程に過ぎません。この世のありとあらゆる権力は神に由来するものであります。私は神の代理人です。世俗における教皇としての私は、貴女を皇帝として認めます。認めますが」 選挙君主制として選ばれた、マキシーン一世皇帝陛下を、教皇としての立場からは認めると仰った。 なれど。 「はっきり申し上げます。今のマキシーン一世陛下は、神への奉献を果たせるとは言えず。神は貴女を認めることが出来ず。貴方はただの屍にすぎない。父母の愛により生きる屍にすぎず、貴女は皇帝陛下の器に未だ成り立っておらず、今後は……」 噛み砕こう。 噛み砕いて話そう。 要は世俗的な慣習、選挙君主制からくる7人の選帝侯が選んだ皇帝陛下としては認めよう。 なれど、神からの恩寵は与えられない。 父君への悲しみに囚われ、母君の不遇な人生に嘆き悲しみ、神の慈しみなど欠片も感じてはいないだろう。 そう見切られた。 私には貴女が死人のようにしか見えないと。 だから、教皇としてはお前を皇帝陛下としては認めるものの、世俗的立場からそれを仕方ないと認めるものの。 神は貴女に恩寵を、神の慈しみを輝かせることは許さないであろう。 貴女が真の皇帝陛下として認められるためには、これからの神への懺悔が必要であるのだ。 そのように苦言をほざいた。 ふざけるな! 選帝侯の内に、直接手助けしたのはアンハルトとヴィレンドルフだけ。 何一つマキシーン陛下を助けようとしなかった教皇風情が何を言うか! 私などは思ったが。 「なるほど、確かに教皇の言葉は仰るとおりである。私は神の恩寵などこれっぽっちも本音では信じていない。神の恩寵はなく、遠国の海洋国から売られてきた我が父君は、私への愛ゆえに自分のパンを分け与え、飢えて死んだんだ。神などこの世にはどこにもおられはしない」 マキシーン陛下は、もはや神など信じていなかった。 「くたばりやがれ!」 戴冠式にて、そのように叫んだのだ。 「お前が、お前らが信じている神を信じる聖職者と市民は! 帝都ウィンドボナの市民は、パン一つすら差し入れてくれなかったぞ! お前ら聖職者と市民が信じる神は、その信徒は、私の父が痩せ細り衰えるのを笑いながら眺めて、それを放置したんだ!」 血の滲んだ言葉を叫んだのだ。 父君の仇、その家族が、仇の慰霊を弔う事すら許した少女の叫びであった。 「誰が自分の父を殺した奴らを許すんだ! 私はお前らを許さないし、私は私を赦さないぞ! くたばりやがれ!! 私は神など信じはしない!! 神に懺悔せよ、だと!」 神と倫理と現実において、親の罪を子に与えるべきではないと。 そんなくびきすら引いた、マキシーン皇帝陛下は神に対して激怒した。 「神など、この世の何処にもありはしない!」 神の不在を叫んだのだ。 「神の存在証明は――道徳論的証明は、私には証明できかねます。マキシーン皇帝陛下、私は貴女を一度見捨てたのだから。貴女の父を見殺しにした、私を殺したければ如何様にも。誰もその行為を咎めません。貴女は神聖グステン帝国の最高権力者なのです。ただ一つ、ご理解を。神は悲しい迷い子たる貴女に、王権神授に基づく皇帝陛下としての祝福を与えることはないでしょう」 それに対しての、教皇猊下の解答はこうであった。 貴女が私を殺すことは許されるだろう。 なれど、考えを改めなければ神は、貴女を許されないだろう。 マキシーン陛下の返答は、それに対して明確である。 「私は神の赦しなど求めぬ。私は神に認められた皇帝陛下ではなく、ただの迷い子に過ぎないというなら、それでもよい。その立場で民を導いて見せようぞ」 教皇猊下から、帝冠を奪い取り。 自分の頭に、それを被った。 「私は本日をもって、神聖グステン帝国皇帝マキシーン一世である」 戴冠を自ら行ったのだ。 もちろん、世間にはそのように伝わっていない。 誰もが口を塞いだのだ。 醜聞も侮辱する相手の度を過ぎれば、誰も口を紡がぬ。 最高権力者たる皇帝、戴冠を拒まれた教皇、その場にいた選帝侯、全てに喧嘩を売る行動など出来るわけもない。 嗚呼。 「おい、話を聞いているのか?」 長考に入っていた私の耳に、マキシーン陛下の御言葉が耳に入る。 私も、あの教皇猊下――実際には何もしなかった者と同じにすぎない。 「今日の話は、アンハルト選帝侯の戴冠式において、帝都に兵士を埋伏させているものが居ると。私の帝位の簒奪を狙っているものがいると。まあ、推測するまでもなく首謀者はテメレール公だろうが。それがどうなったかの報告を聞きたいのだが」 きっと、マキシーン陛下はどこか、完璧な超人ではあるものの。 何かが足りないのだろう。 いけすかない教皇が見抜いた――神への信頼であるかのような、何か陛下をお救いするようなもの。 不定形の何か、それをどうにかする方法が私には見当たらなかった。 ただただ、ひたすらに陪臣騎士として仕えるのがせいぜいである。 仕事に戻らなければ。 「お伝えします。マキシーン陛下の仰る通り、テメレール公は数年かけて兵を埋伏させております。あの猪突公、ヴィレンドルフの悪魔超人たるレッケンベル卿に負けた頃から、今回の計画を狙っていたようで……」 「本当にしつこいな。何でレッケンベル卿はテメレール公を殺してくれなかったのか。あの猪突公、もう今までに何度も私を殺そうとしてるんだが」 「知りません、と言いたいところですが」 レッケンベルは、皇帝陛下を僭称したマキシーン陛下の親族をぶち殺している。 その際に、漁夫の利を狙って横合いから突撃してきたテメレール公も、一緒にぶちのめしていた。 あの時、殺してくれればよかった。 直接対決にまで及び、一騎打ちにて散々にテメレール公を滅多打ちにし、半殺しにすらしている。 なれど、殺してはいない。 陛下救出の立役者たるレッケンベル卿が見逃した以上、それが全てであり、同じようにマキシーン陛下に赦された私たち一族が殺すよう要求する権利もなかった。 おかげで、今凄い面倒くさいことになっている。 「マキシーン陛下、レッケンベル卿の悪口を言いたくはないのですが、どうしても言わなければならないことが」 「何か」 「レッケンベル卿は、いえ、ヴィレンドルフは」 おそらく、マキシーン陛下も読んでいるとは思うのだが。 「テメレール公の帝位簒奪を強烈に後押ししており、それを狙っていた可能性があります。いえ、より具体的には」 次の言葉を継げようとして。 私はゆっくりと手を挙げたマキシーン陛下に止められ、頷く。 言わなくてもマキシーン陛下ならばわかるのだ。 「レッケンベル卿は、テメレール公に帝位簒奪させて、その後はあのカタリナ女王にぶち殺させて。ヴィレンドルフ王家による帝位簒奪を狙っていた。マキシーン一世には、カタリナ女王が女王として成長するまで、その座を少しばかり預けていただけにすぎないと」 もはや亡くなったレッケンベル卿の真意はわからないが。 少なくとも、今の状況はそれを狙える立場に居た。 レッケンベル卿が愛したヴィレンドルフ女王、イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフならば、それぐらいは理解しているはずなのだ。 マキシーン陛下は、少しばかり楽しそうに笑った。 第119話 カタリナとニーナ 「つまりだ。私に初子が生まれた場合、その名を我が母から頂き、クラウディアとするか。ファウストの母から頂き、マリアンヌとするか。それを悩んでいるのだ」 ヴィレンドルフの超英傑、クラウディア・フォン・レッケンベルの一人娘として。 私ことニーナ・フォン・レッケンベルは、義理の姉のようなものに言いたかった。 知らんがな、と。 「ニーナよ。お前も他人事ではないのだ。血こそ繋がらぬが、私はお前の母レッケンベル――クラウディアから、姉として認められているのだ。お前の最初の姪が、どちらの名を継ぐかは酷く大事なのだぞ」 「いえ、言いたいことは分かるんですがね」 そんなもん私に言うな。 ポリドロ卿と話せ。私は当事者ではない。 確かにポリドロ卿と、母クラウディアが愛したカタリナ女王陛下の血が混ざりあうのは既定路線である。 誰がどうしたところで、覆らない決定事項である。 私はそれを祝福する者である。 さりとて。 「いえ、ほんとポリドロ卿と話してください。私に言う事ではないです」 「そうは言うが、今馬車にはニーナと私しかいないではないか」 「いたら別の誰かに話すんですか? それ」 頭がどうかしてるんじゃないのか? そう思うが、世俗に対してあまり興味を示さないカタリナ女王が妙に拘っている。 おそらく、自分の子に愛する母の名を与えるという未来に、少しばかり興奮しているのだ。 どうしようもないので話を合わせる。 「やはり、母であるクラウディアの名前をもらうべきでしょう」 母はヴィレンドルフの超英傑である。 歴史にその名を刻み込む強烈な超人であるのだ。 死してなお、その名の影響力はヴィレンドルフ内に強く、誰もが尊敬しているのだ。 カタリナ女王陛下の初子がその名を受け継ぐことは、その子の未来をも約束するとさえ思えた。 「うむ、言いたいことは理解している。国内の評判を考えればそうすべきである。だが、ファウストとて子供に自分の母の名前を付けたかろうと思うぞ」 「ポリドロ卿ならば、話せば意図を理解してくれるでしょう。そもそも、マリアンヌの名はポリドロ領を継ぐこととなる正妻であるヴァリエール殿下の子に引き継がれるのでは?」 ヴィレンドルフではあのような美丈夫の好青年を産んだ存在について、すっかり英雄詩になってしまっている。 ファウストという筋骨隆々の見惚れるような美しさに加え、カタリナ女王陛下の蒙を啓いた情熱の持ち主を育て切ったマリアンヌ・フォン・ポリドロと言う女性。 それに対する賞賛であふれかえっており、謁見の前でポリドロ卿が語られた言葉はヴィレンドルフの国民誰もが知るところとなり、涙を禁じ得ない。 あの良識人気取りの薄汚いアンハルトの貴族から爪弾きにされながらも、ポリドロ卿を必死に育てた母親なのだ。 賞賛されるべきであり、その名は残されるべきだった。 もし自分の子に、自分の母と同じ名を名付けられるとすれば、涙を流しながらに私は血を繋いだとポリドロ卿は喜ぶであろう。 「ヴァリエールの奴、その辺わかっていないところがある。私の子供、どちらの名にすべきかと相談したのに。それはカタリナ女王陛下がファウストと会話するべきであり、私が口を挟むことではありませんなどと」 「まあ正妻の立場について、正直大して意味はないのですが。さすがにヴァリエール殿下に尋ねるべき言葉ではなかった気もしますよ。あちらさん困ってましたよ」 今回の帝都ウィンドボナへの出発時、陛下はついでとばかりにアンハルトのヴァリエール殿下のもとを訪ねた。 私は現在、カタリナ女王陛下の騎士見習いの立場となっており、当然それにも付き従っている。 だが、あの時は少々ザビーネに辟易した。 ◇ 「なんで産まれてくる子供の名前も考えていないのだ?」 「はあ」 カタリナ女王陛下が本当に不思議そうに幾つかの質問をぶつけるのに対し。 ヴァリエール殿下は困ったような返答をするのみ。 あまりにも覇気が感じられない。 人肉食ってそうと言われるアナスタシア王女の妹としては、あまりにも気迫が足りない。 「おまえ頭が幸せになってんじゃねえよ。今からそんなもん考えてんのお前ぐらいのもんだよ」 どちらかと言えば、あの横合いから口を挟んできた無礼な口調のザビーネという女。 第二王女親衛隊の隊長の方に、興味が湧いている。 硝煙の匂いが漂っている。 ――銃兵隊? 「ザビーネか。お前の名は聞いている。銃兵隊を組織しているとも噂で聞いているよ」 「耳聡い事で嬉しいかぎり。まあヴィレンドルフは今は味方だからね。少なくとも東方の遊牧騎馬民族国家に対してはね。こちらの事情を知っているという事は良い事さ」 ……評価が難しい。 この女、どうも礼法はもちろん美辞麗句も放てるくせに、あえて無礼な口調でカタリナ女王陛下に応じている。 おそらく、これで女王陛下は怒らない。 そこまで読み切って会話をしているのだろうが。 「ふむ。ザビーネ殿から見て、遊牧騎馬民族国家は来ると?」 「カタリナ女王陛下とて、そうお考えかと。いやー、私は自分の男の判断はある程度信じる事にしてるんだわ。どうしてそうなる? まではわかんないんだけど、ファウストがゲッシュ誓ってまで来ると判断してるんだよ。間違いなく来るさ」 「うん」 カタリナ女王陛下は、少し首肯した。 信じる者が予測した以上、信じるに足る。 そのような考えを、陛下は肯定する。 何故ならば、我が母クラウディアも『遊牧騎馬民族国家が征西する』と読んだからだ。 それは理屈ではなく、多分に超人感覚的なもので。 そして、母クラウディアを打ち破ったポリドロ卿もそう判断をしている。 これを疑えというのは、ヴィレンドルフの領邦民にとって難しい話である。 「レッケンベルが言うならば、それはもう確実と言っていいのだ」 カタリナ女王陛下が以前語った言葉について、誰もがそれを肯定している。 もし東方から征西があった場合、地理的にヴィレンドルフは神聖グステン帝国への玄関口になる。 いや、母は、クラウディア・フォン・レッケンベルの予測では先に―― アンハルトとヴィレンドルフを跨ぐ、北方の草原地帯。 その確保を目指すだろうとのこと。 抑えられれば、馬の飼料補給を確保された時点で、ほぼ確実に神聖グステン帝国は敗北する。 そのような考え。 そもそもがこのように勝ち目の薄い戦で、もし東方の遊牧騎馬民族に対して勝ちの目があるとすれば、それは遠征軍であること。 もちろん相手も補給線を重視してはいようが、本当に完璧とまでは言えない。 そこに活路を見出しているかのような、母にしては自信に欠ける、相手の力をそぎ取ったうえでの斬首戦術といったプラン――そんな思考を続けるが。 「で、カタリナ女王陛下さんよ。聞きたいんだけど、やっぱ皇帝陛下の座を簒奪するの?」 「ザビーネ!」 横のヴァリエール殿下が、ぎょっと目を剥く。 無礼。 ザビーネよ、いくらカタリナ女王陛下が許すとはいえ、そのような無礼なる口。 妹として認められている、このニーナが許すとは言っていない。 ましてや、この女はヴィレンドルフの秘事について、少し推測している。 帯剣を抜こうとして。 「場合による」 それを止めるようにして、カタリナ女王陛下は口を開いた。 「ザビーネとやら。まあ言ってしまうと。我が母たるレッケンベルは、少しばかり神聖グステン帝国に毒を埋伏させているのだ。いざという時に相手を殺すための優しい毒さ」 「それは? 噂に聞いた猪突公とやら? 帝都を襲ったくせに、今は帝国の資産で養われているランツクネヒト?」 閉口する。 なんだ、このザビーネとかいう女は。 よく知らないが、外交について携わっているのでもなければ、神聖グステン帝国の内情をここまで知るまい。 私は先ほどまで、ザビーネの横にいるヴァリエール殿下を少し下に見ていたが。 この女を従わせているというなら、評価を改めなければならない。 「ザビーネとやら。詳しい事を教えてやる前に、少し聞くが。お前ファウストの女か?」 「順番が違う。ファウストが私の男なんだよ。アレは私が惚れて見込んだ男なんだよ」 「よろしい。愛していることは理解できた」 ザビーネの返事を気に入ったようだ。 カタリナ女王陛下は、その冷血じみたポーカーフェイスを少しばかり崩し。 「教えてやろう。我が母レッケンベルは、誇り高い女だ。ヴィレンドルフの建国史上、最高の女だ。必要とあればえげつない手もとるが、基本的には騎士の誇りを重視する。ただ、ただな。時々、周囲が勝手にそのように動いてしまう事もあるのだ」 「言い訳はいいさ。何もかもヴィレンドルフにとっては上手くいっている。私はそれが気になってね。夜も眠れないよ。ヴィレンドルフが皇帝位を簒奪したところで、もう誰も文句を言わない状況になっているのが気になってね」 舌打ちが出そうになるが、止める。 確かに、傍から見れば何事もヴィレンドルフの思惑通りに進んでいる。 現皇帝マキシーン一世は、逆らった者たちの処刑全てを行ったが、その親族に対しての追及はしなかった。 そして皇帝領を完全に守り切り、権力を維持したのだ。 その手練手管は疑いようがなく、あの少女皇帝は間違いなく有能である。 なれど、傷は存在する。 それは強力な諸侯たるテメレール公が、誰の目にも明らかなほどに野心家であること。 いつか皇位を簒奪することを望んでいることは、少し調べればわかるほどだ。 なのに、我が母クラウディアは一騎打ちで破りながらも、それを殺さなかった。 「帝都を襲ったランツクネヒトを解散させず、皇帝陛下に傭兵雇用を継続させる。忠誠を誓っているのは、税収から金を払っているだけの皇帝陛下か? それとも傭兵たちを集め、団を結成し、給料の支払元を確保してくれた偉大なるレッケンベルか?」 顔を顰める。 そうだ。 今でも、我がレッケンベル家にはランツクネヒトの傭兵団長から手紙が届く。 いつでも殺せる。 マキシーン皇帝陛下など何を恐れるものか。 皇位簒奪への誘い。 そうだ、あの残虐なるランツクネヒトは夢を見ていたのだ。 「ザビーネよ、応えよう。お前の想像が全てだ。レッケンベルは望まずして皇帝陛下の地位を簒奪できるほどの力を持っていたし、ランツクネヒトなどはそれを望んでしまったよ。あの傭兵集団の団長、騎士崩れの次女三女はギルド(姉妹団)として傭兵集団の地位を得るだけでは満足していないんだ。レッケンベルを持ち上げることで、我が母の力でヴィレンドルフ王家を皇帝の地位につけることで。自分たち団長は貴族の地位にまで立てると夢を見たのさ」 カタリナ女王陛下は全てを明らかにした。 攻撃的な選択。 我が母クラウディア・フォン・レッケンベルを亡くした今でも、遺産は帝都に残っている。 現在でも、望みさえすれば皇位の簒奪は可能である。 但し。 「もし、レッケンベルが生きていたならば。我が母がそれを望んだならば、その選択もあったろうが」 先ほども言った通り、カタリナ女王陛下は別に望んでいないのだ。 「ザビーネよ、私は別に皇帝位など望んでいないのだ。今はファウストが7年以内に来ると読んだ存在について。東方の遊牧騎馬民族対策が優先だろうと考える」 皇帝位を望むほど野心家ではないのだ。 カタリナ女王陛下にとってはそもそもが皇帝位など興味の範疇外であり、将来産まれる子供の名づけの方がよっぽど大事なのだ。 「つまり、皇帝位を簒奪するとは言っていない?」 「ふむ、ザビーネよ。私は最近、ファウストのおかげで少しばかり蒙を啓いた。なれど、我が母が作り上げた遺産を活用しないとも言わない」 カタリナ女王陛下は、私に以前漏らした結論をザビーネに打ち明ける。 「結局は、状況次第となってしまう。マキシーン皇帝陛下が、神聖グステン帝国が、遊牧騎馬民族国家の征西に対して不十分な対応をとる。そのような醜態をさらけ出す事が予想された場合、私は介入することになる。ヴィレンドルフのためだ。皇位簒奪も選択肢に入るんだ」 「なるほど。場合によっては、ポリドロ卿が皇帝の皇配になる可能性があると」 「安心せよ。そうなった場合でも、お前の大事なヴァリエールはファウストの正妻のままさ。権力差で無理を押すつもりはない。お前はとどのつまり、そんなことが気になっているんだろう?」 ザビーネの心中。 結局この女が大事なのは、ヴィレンドルフの秘事を聞いてそんなことになってんの? と驚愕の顔を浮かべているヴァリエール殿下のこと。 ヴィレンドルフが皇帝位を簒奪しようが、どうでもよいのだろう。 実際のところ、ヴィレンドルフが何もかもに成功しても、アンハルトとの不戦条約が破られるわけではない。 現選帝侯であるリーゼンロッテ女王陛下にとっては、座視するところであった。 「お前は何も困らない。ザビーネ、お前がファウストの妻となるのも別に邪魔しないさ。ヴィレンドルフの女王として認めてやる。この身が皇帝になったとしてもな」 「ならいいさ。約束は守れよ」 ◇ ザビーネは確かにカタリナ女王陛下にポリドロ卿の妻の一人として認められたのだ。 一つだけ、奇妙なしこりのようなものが残っている。 あの時、ヴァリエール殿下はカタリナ女王陛下とザビーネの顔を何度も見つめ。 え、なんでそんなことになってんの。 といった呆気にとられた表情をしたが、まさか正妻であるヴァリエール殿下に通っていない話では無かろうし。 まあ、あれはさすがに私の勘違いであろう。 私は考える。 我が母、クラウディア・フォン・レッケンベルよ。 貴女の愛情は確かに義姉たるカタリナ女王陛下に通じたし。 ヴィレンドルフに残した、貴女の遺産は役に立てるつもりだ。 我が国にとって最善となる道を選択するつもりなのだ。 見守っていただきたい。 そう静かな祈りをし、そういえば次女・三女の名前をまだ考えていないと呟いたカタリナ女王陛下に対し。 だから、ポリドロ卿に聞けと。 そう怒鳴るように言いつけて、私は目を閉じて少し眠ることにした。 第120話 アレクサンドラの憂鬱 「これはどういった意味でしょうか?」 私は問う。 テメレール公屋敷の応接間、そのテーブルに金貨袋が積まれている。 向かいの席にはテメレール公が座っており、眼鏡の光沢がガラス窓から差し込む日光に照らされ、眩しく光っている。 公は優雅に、眼鏡の丁番をひと撫でしてから。 どうという額でもない、という風情で呟いた。 「何も言わずに受け取っていただきたいということです」 「謝罪金と解釈しても?」 それにしては多すぎる。 金貨袋の小山は、長身のアレクサンドラでも一抱えもある程の量である。 詰められた額は小さな領地――それこそポリドロ卿の小領地ぐらいならば、容易に買い取れる。 それほどの額であるのだ。 「アンハルト卿なら、言わずともお分かりかと思いましたが?」 金のフレームで出来た、水晶の眼鏡。 テメレール公領内の金山や水晶鉱山の質について考える。 確かに目の前の金額は多額であるが、有力な諸侯たるテメレール公にとっては容易に出せる額であった。 私は眩暈がした。 これから何をテメレール公が言い出すかは、承知している。 侮られまいと、先に口を紡ぐ。 「確かに、殿下は何もかも理解されております。執務室では『余計なトラブル』により最後まで話を詰めることが出来ませんでしたが。まあ、そもそもテメレール公の裏向きの要件は理解しておりました」 余計なトラブル、テメレール公側の失態。 それを口にしつつも、話自体は進める。 今回の目的を明確化しようと、脳血を必死に巡らせる。 私が命じられたのは、ポリドロ卿へのテメレール公からの謝罪を勝ち取ってくる事である。 「アナスタシア殿下の戴冠式における、市民及び入り込ませた兵の蜂起による皇帝位の簒奪に対しての根回しでしょう?」 アナスタシア様及びアスターテ公爵が行うはずであった、裏向きの交渉ではない。 とはいえ、この話題は避けられそうに無い。 テメレール公の目が、眼鏡の奥で静かに細くなる。 「アレクサンドラ殿は事実上の交渉役と判断しても?」 「事前交渉役とお考えください」 決定権何ぞ私には無い。 交渉とて、本来は望むところではない。 なれど、状況は理解していたし、テメレール公との会話を全突っぱねして。 話も何も全てはテメエがポリドロ卿に頭下げてからだろがカス、などと本音を言うわけにはいかない。 もちろん、可能であればそうしたいのだが。 「宜しい。では、話に入りましょう」 本当に不愉快な話であるが、目の前の猪突公は実力者である。 今回手酷いミスはすれど、それで彼女の武力や財力といった権力が低下するわけではない。 この猪突公の要求を、アナスタシア様の代理人として粗雑に跳ね除けるわけにはいかないのだ。 そのような思考を無視して、テメレール公は喋り続ける。 眼前に置かれた、目もくらむような金貨袋の山についての話題。 「これは手付です。私が皇帝となったならば、この10倍の額をお支払いすることもお約束しましょう」 酷い話だ。 何故私が、このアレクサンドラがこのような交渉をしなければならないのか。 こんな薄汚い会話は、あの優しくも人肉食ってそうなアナスタシア様が行うべきである。 特に意味もなく私の肩をぶん殴る癖のある、あの御方がもう血も涙もない交渉で、テメレール公の財産をあらかた掻っ攫うような真似をしてくれればよかった。 その後でテメレール公の死肉を多少齧っていても、私は目を瞑るつもりなのだ。 いくら親衛隊長とは言え、もう大した家でもない世襲法衣貴族の次女――たまたま超人として産まれ、そこをアナスタシア様に目をつけられただけ。 そのような出自である私がやる仕事では絶対ない。 卑しい生まれではないが、大した家の出でもないのだ。 時々、ポリドロ卿と酒を飲んだりするが、私はあの貴族らしからぬ振る舞いに共感すら抱く。 「アンハルト卿の御心はどこにあるか、アレクサンドラ殿に是非伺いたい」 猪突公の戯言を、右から左に聞き流し、自分の不満について考える。 給料安いんだよ。 そのような不満が私にはある。 アナスタシア様は装備一式を支給してくれたし、軍馬も買ってくれた。 だが、給料は安かった。 アナスタシア様が女王になられる戴冠式の後には、隊員全員が世襲貴族となる予定である。 要するにまだ予定であり、私たちの貴族としての階位は低い。 第一王女親衛隊としての役職給が、馬の維持費などを補填してくれるのみで。 三度言うが、未だ給料は安かった。 貴族として食うに困らないだけの金はもらえるが、それだけだ。 第二王女親衛隊など我らより酷いが、我らとてそれほど裕福でもない。 「別に、アンハルト卿にとってマキシーン皇帝陛下が大事というわけでもありますまい。卿にとって領地の利益につながるのであれば、本音は皇帝位が誰に有ろうがどうでもよいはず」 そもそもが所詮は王家に仕える法衣貴族に過ぎず、小さくても数百名の領民から税収を得ている領主騎士。 彼女たちと比較するとなれば、よほどの高級官僚でもならない限り俸給は低い。 小領主のポリドロ卿と比べてさえ見劣りするのだ。 ポリドロ卿が、嫌々予定外の軍役に兵を動員する際に支払われる特別手当。 そういったものも多少は出るが、まあ知れていた。 金だ。 正直、金が欲しかった。 騎士としての名誉欲はもちろんあったが。 それ以上に自分の領地、土地や城が欲しい。 私はアナスタシア様に絶対の忠誠を誓えども、それはそれとして領主騎士にはなりたかった。 「もちろん、今回はこうやってアレクサンドラ殿に足を運んでいただいたことですし。貴女にも多額の礼金を支払うつもりです」 それには金が必要であった。 金で領地を買う必要があるのだ。 騎士が金を儲けるにはどうすればよいか? 戦場で功績をあげ、アナスタシア様から好意のしるしとして金銭を得る。 敵から略奪を行い、都市や商人から奪い取る。 そして今回のようにアナスタシア様に最も近い距離に居るという立場を利用して、役得を手の内にする。 正直言えば、嫌だ嫌だと口にはすれど、期待していなかったわけではない。 おそらくは、たまにはお前に美味い汁も吸わせてやろう。 昨夜はポリドロ卿の前で三人してふざけていたが、アナスタシア様にはそのような思惑もあったのだろう。 私が今回の交渉を良いようにまとめれば、猪突公から金銭的報酬を得ることに何も不満はない。 むしろ、いくらか分捕ってこい。 あの人肉食ってそうな私の主君様は、遠回しにそう仰っている。 「返事は如何?」 なれど。 なれども、だ。 「テメレール公。お尋ねしたいことが一つ」 ファウスト・フォン・ポリドロ卿の名誉に関わるのであれば、話は全く別になるのだ。 彼の名誉を代償に自分が金銭を得るなど、このアレクサンドラにとって許されない事である。 私は。 この帝都までの旅路、その馬車内でもポリドロ卿に静かな告白をした。 私は、ポリドロ卿が夫になるのであれば、それも悪くないと思っていた。 もうその機会は失われてしまったかもしれないが。 「アナスタシア様のパートナーであるポリドロ卿に対し、謝罪するおつもりは?」 私はポリドロ卿の事が好きだ。 あの無骨で、男らしくなく、あまり魅力的な容姿ではないものの。 時々、あの男との子が作れたらどんなに楽しいかと思うのだ。 ヴィレンドルフ戦役にて戦友となり、時々話しては貴族としての知見がどうにも足りず、私に指摘されては恥ずかしそうにするポリドロ卿が私は好きだった。 未来の超人を作るなどといった目的、私が良く他人に口走るような照れ隠しではない。 ワインをお互いに酌み交わし、互いの杯を満たし、一つのテーブルで同じ柄の食器を王都で囲うような日々。 できれば、二人の間で出来た子供と一緒に。 そんな家庭的な安らぎを、どこかポリドロ卿に求めているのだ。 恥ずかしくて、誰にも想いを口にすることはできないのだけれど。 「ポリドロ卿は領主騎士でもあります。状況は複雑であり、男一人を侮辱しただけなどとは思わないで頂きたい。彼をパートナーとして連れていたアナスタシア様を侮辱しただけではなく、ポリドロ卿という貴族をも侮辱したのです。彼はわが国アンハルトにおける最高の騎士なのです」 「理解している。『そういう話になっている』のは理解している」 テメレール公が一言でも謝罪してくれればよかった。 ほんの少しで良い。 そうしてもらえれば、私はテメレール公に適当な色良い返事をして。 アナスタシア様は人肉食ってそうな眼光で、よろしい、後は任せろと優しく言ってくれたろうし。 もう何かアスターテ公爵はえげつない事を企んでくれるだろう。 ポリドロ卿は全く以って不幸な事故だったけれど、私が何か良いワインでも奢ろう。 テメレール公からの謝礼金で買ったワインであれば、それはもう美味しい味になるはずだ。 だが。 「理解しているから、その分の金を出す。ポリドロ卿には金銭を分け与えて頂きたい。なれど、表向きには謝れない。理解を求めたい」 もう、さっきからテメレール公が謝る気などさらさらない事は理解している。 空気でわかるのだ。 テメレール公はハッキリ言ってしまえば。 「私はポリドロ卿と二度と会う気すらないのだから」 口にしないだけで、ポリドロ卿を心の底から馬鹿にしているのだ。 このアレクサンドラに言わせれば、開いた口が塞がらないほどに、ポリドロ卿の事を見下しているのだ。 「テメレール公。私に払う礼金などは無くても良いのです。どうかポリドロ卿に一言で良いので、謝罪を」 私は問う。 何故そこまでに一言謝るのを嫌がる。 「アレクサンドラ殿。何故そこまでポリドロ卿への謝罪を求める」 「理由は先ほども言いました。ポリドロ卿は当国アンハルトにおいて最高の騎士であると。それに対する侮辱を謝罪しないということは」 ファウスト・フォン・ポリドロ卿はアンハルト王国における最高の騎士である。 ヴィレンドルフ戦役で格別の功績を叩き出した。 選帝侯同士の戦争において、敗北寸前の絶望的状況から勝利を掴んだ。 ヴィレンドルフの最強騎士クラウディア・フォン・レッケンベルを打ち破った。 その上で、和平交渉をもぎ取ったのだ。 あのような騎士、神聖グステン帝国中のどこを探してもいないと私は思っている。 それを侮辱するという事は。 「テメレール公はアンハルトを舐めておられるのか?」 ついに、言ってしまったが。 テメレール公とて、ポリドロ卿の功績は知っているだろう。 何せ、この女は先日の夜会にて、ポリドロ卿の功績を自らの口で褒め称えたのだから。 「アンハルトを舐めてなどいるわけがない。そうでなければ、こんな根回しするものか。唯一、気に食わないのは私が――」 トントン、と指で応接間のテーブルを叩く音が聞こえる。 テメレール公の仕草。 それをやや不愉快に思いながらも、聞いてやることにする。 本音は。 「何故、男なんぞに謝らなければならないのか」 本音は、これから皇帝位を目指す立場が原因でも、アンハルトを甘く見ていることでもなく。 テメレール公のプライドが原因であり、男であるポリドロ卿を嫌っていることなのだ。 「どうも、理解されていないのでハッキリ言おうか。なるほど、表向きには褒め称えもしよう。事実、私は先日の夜会にて彼を褒め称えた。私が以前に敗北した――レッケンベル卿に勝利したことを褒めた」 そうだ。 テメレール公の経歴からくれば、自らが敗北した超人を敵に回し、勝利した。 それを騎士として褒め称えこそすれ、嫌う事など。 「勝利した経緯は、どうもあのレッケンベル卿が色に狂ったと聞く」 無言。 何か言おうとして、それでいて何かを言える事は無く、口を閉じる。 アレクサンドラは、自分の耳を疑っていた。 「私は知っているぞ。戦場でポリドロ卿に対し、私の第二夫人となれと迫った上での敗北だそうではないか。あの天下のレッケンベル卿も落ちぶれたものだ。私と相対したときは、悪魔と見間違いするほどに凶悪な強さであったのに。色に溺れて、手加減して負けるとはな」 要するに、眼前の女は何一つ理解していない。 知ってはいるが、知ってはいない。 「私はレッケンベル卿が人生最大の好敵手だと思っていたが、そのような無様な死に方をするとはな」 確かな情報を得ながらにして、その伊達眼鏡を通して、真実を大きく見間違えていた。 何を馬鹿な事を。 私はアナスタシア様の御傍にいたため、その一騎打ちを目にしていないが。 アンハルト、ヴィレンドルフ、両国最強の英傑騎士が死に物狂いで戦ったのだ。 騎士の誇りをかけて一騎打ちを行ったのだ。 何一つ手加減など存在するものか。 そのような侮辱を、クラウディア・フォン・レッケンベルがするわけがないし。 ポリドロ卿は敵とは言え、偉大なるレッケンベル卿の死を以てして、強さを証明したのだし。 そして、彼は彼女の死を何一つ侮辱しなかったのだ。 「理解したか。アレクサンドラ殿。私はポリドロ卿にだけは頭を下げたくないのだよ。彼の功績など偽物にすぎない。彼が本当に真実、レッケンベル卿を破ったというのであれば別だったがな」 私は口を閉じ。 もう何も言うまいと思った。 そうして、数回の会話を交わし、テメレール公の屋敷を去ることを決意する。 その時、この手には礼金の金貨一枚握られていないだろう。 今私に予測できる未来は、それだけであった。 第121話 殺したいほどウザイ女 「アスターテ、状況を整理したい」 ファウストはアンハルト最高の騎士である。 なるほど、ファウストを男だてらの騎士であると、醜い姿であると侮蔑するゴミはわが国にもいた。 なれど、その功績を疑うような人間だけはいなかった。 少なくとも、このアナスタシアが知る限りでは、そうだ。 アスターテが私の視線に対して、困った顔で呟く。 「落ち着け、アナスタシア」 「落ち着いているとも。私は状況を整理したいのだ」 アレクサンドラが全て明らかにした報告から考える。 今の問題は、そのような話ではない。 ひとまず、テメレール公の認識が普遍的なものであるのかが知りたい。 「神聖グステン帝国中で、このような認識であると受け止めた方が良いのか? 皆がファウストの実力を疑っているのか?」 「まあ、私たちはファウストの実力を知っている。ゆえに、誰もそれを疑う者はいなかった。しかしなあ」 アスターテが、横のファウストを見て口を濁す。 ファウストの思考は今のところ、よくわからない。 怒っているのか、困っているのか。 無表情であるのだ。 私とアスターテは一度口を閉じたものの、再び思考をまとめて現状の整理を開始する。 「テメレール公がファウストに面と向かってではないにせよ、心境を明らかにしても問題ない内容だと考えている。出来れば口にすらしないで欲しかったが、そうはしなかった」 「公の場ではないからまだ良いにせよ、ハッキリと謝る気はないと言うのは……」 「要するに、帝都においては共通認識なのだ。ファウストがあのレッケンベルにマトモに勝てるわけないと、誰もが考えている。功績を認めていない。嘘でまやかしにすぎないと認識している」 下手すれば、それでも勝利したこと自体は認めているテメレール公さえ変わり者なのかもしれない。 勝利自体が偽物であり、本当は誰か――何らかの原因で死んでしまった。 それを、ファウストが一騎打ちで勝利したことと周囲が吹聴しているだけ。 帝都の状況を先ほどから調べさせているが、その認識すらあり得た。 「ちと困るな」 まあ、正直ファウストに帝都でやって欲しい事がそれほどあるわけではないのだ。 アスターテは何やらファウストを使う画策をしているようだが、このアナスタシアにとっては傍にいてくれるだけで良かった。 別にファウストの功績を信じなくても良い。 それは何の問題もない。 不愉快ではあるが、逆に言えば不愉快なだけであるのだ。 そもそもテメレール公に謝罪せよと要求しているのは、ファウストが侮辱された事自体が本当の問題ではない。 ファウストのパートナーである、これからアンハルト選帝侯になる私を侮辱したことに繋がるから問題となっているのだ。 なあなあに済ませて、周囲に舐められるわけにはいかないのだ。 だから、謝罪だけは必ずさせなければならない。 「まあ、テメレール公も複雑なんだろうな」 アスターテが、少し変な事を言う。 「というと?」 「アナスタシアも知っているだろうが、テメレール公はレッケンベルに敗北している。それは事実だ」 「知っている。要は、自分が一度は敗北を認めた相手を、男騎士風情が破ったなど気に食わぬ。それだけだろう?」 器が小さい。 そう笑い飛ばそうとするが、アスターテはちと違う、と呟く。 「私は英傑の争いが好きでね。あの二人がどのように争ったか知っている。レッケンベルが皇帝を僭称した者を打ち破り、帝都ウィンドボナにおいて包囲戦を行った。テメレール公は狂喜して、今こそ皇帝位を簒奪する時だと動いたよ。本当に良いタイミングだったんだ。丹念に準備していた兵を起こし、帝都に潜めていた市民兵を内応させ、もう見事に動いた」 本当に見事なものだったそうだよ。 生半可な相手であれば、勝ちは確定していた。 それこそ、相手がレッケンベルでさえなければ。 「結果は酷いものだ。兵の指揮で負け、軍略で負け、一騎打ちで負けた。何度も何度も、どうしても諦められないとテメレール公は猪突して挑んだよ。一騎打ちの回数知ってるか? 五回だよ五回。五回も負けてるんだよ」 レッケンベルに勝てるわけがないと、私もまあ思う。 事実、アスターテは兵の指揮統率で一度負けているし。 私は軍略で一度負けているし。 勝てた理由はただの一つだけ、武勇に勝るファウストが一騎打ちで仕留めたからだ。 それとて、僅かの実力差しかなかった。 それにしても。 「何で一騎打ちで五回も負けてるんだ。そこは一回で死んどけよ」 「何故か死んでない。猪突公なんて言われてるくせに、最後の引き際だけは異常に上手いらしいんだ。テメレール公が育てあげた陪臣たちが命がけで、死に物狂いで救出する。退却時、レッケンベルに吐き捨てた言葉はいつも同じだ」 アスターテ公は楽しそうに語りながら、テメレール公の捨て台詞を口にする。 「これで勝ったと思うなよ、だ」 「五回も負けてるじゃないか」 完全に小者だ。 どこまでも小者の台詞だった。 なれど。 「テメレール公は、いつかは、何度かすれば、次こそは、繰り返し繰り返しやる内に最後は勝てると信じていたんだろう。絶対に負けを認めないんだ。そういう性格をしているし、私はここまで突き抜けると感心するよ。確かに挙動は小者そのものだが、本当に小者であれば五回も挑まないし、生き残ってもいない」 それはレッケンベルがわざと逃がしたんじゃないか、とも思うが。 さすがに途中で鬱陶しくなって殺すだろう。 殺したいほどウザイ女であった。 「あれは間違いなく英傑の類さ。何がいけなかった? 何が悪かった? どうすれば勝てるんだ? 試行錯誤の上で成長するんだ。最初など数合で叩きのめされたらしいテメレール公は、最後の五回目にはマトモにレッケンベルと打ち合っていたというよ。まあ結局は最後の最後まで負け通しだったんだが、多分今でも次は勝てると思ってるんじゃないかな」 レッケンベルがとにかく強すぎた。 アスターテは酷く楽しそうだ。 英傑が大好きで、超人が大好きで、その能力が輝いた時に本当に楽しそうに笑う。 悪い癖である。 「自分が一度は敗北を認めた相手を、男騎士風情が破ったなど気に食わぬ。さっき、お前はそう言ったし、間違いなくそれは事実だろう。とはいえ、おそらくテメレール公の心境は我々が想像もつかないほどに複雑なんだろう。だからまあ、単純にファウストを侮辱したとは受け止めるな。偏屈な老婆が、駄々をこねていると思え。ただの八つ当たりにすぎないんだ」 「ふむ」 レッケンベルへの愛憎が入り混じっている。 ファウストが勝ったのは認めるが、何か理由があったに違いない。 色に溺れた、力量が低下していた、何か理由があるはずなんだ。 そうでなければ『あの』レッケンベルが真正面から負けるわけがない。 そんなことがあっては絶対にならない。 許されることではない。 そのようにテメレール公は考えている、と。 「アスターテの言いたいことは判った。それは理解しよう」 アスターテの人物評は、この変態による超人への見識は基本的に間違いない。 テメレール公は結局、猪突公であり異常に思い込みが激しいのだ。 こうと決めてしまったからには、そうだと決めつけてしまっている。 だから、それは信じよう。 「だが、現状は何も変わらんぞ。テメレール公は私とファウストを侮辱している」 「だからと言って、殺すわけにはいかん」 殺せない理由。 いくつかある。 テメレール公は、視野狭窄で、もう性格など小者中の小者とすら言ってよいレベルである。 なれど、選帝侯に次ぐ強力な諸侯であり、何か色々と足りない小者だが、紛れもなく強力な超人の部類である。 あの誰の目にもバレバレな皇帝位の簒奪を目論んでいても、だからと言って、はい殺すというわけにはいかない。 「私はテメレール公を利用したいんだよ。無茶苦茶に利用したいんだよ。今死んでもらっては困る」 アスターテの画策。 いくつかは聞いているし、アスターテがどうなるかわからんから、と口にしてない計画もあるらしい。 私に知られたくない事柄もあるだろうし、それはあえて聞いていない。 後で結果を教えてくれれば、それでよかった。 例えテメレール公にどれだけえげつない事をさせようが、私の知った事ではないのだ。 「理解している。どのみち、東方の遊牧騎馬民族国家の侵略を前にして、テメレール公を殺すわけにはいかんのだ。死んだ後の領地の争奪戦で、無茶苦茶に荒れるのが目に見えている」 身内で争っている状況ではないのだ。 どうしても殺せない。 あの野蛮なヴィレンドルフなら、みんな殺して全部私のもの、などとほざくかもしれないが。 国内バランスを重視しているアンハルト選帝侯の立場としては、その選択肢はありえないのだ。 それに。 「まして、テメレール公は何をどうしたのか知らんが、ずっと東方からの侵略を警戒しろと帝国に訴えていたらしいし」 神聖グステン帝国は、遊牧騎馬民族国家への対策において割れている。 テメレール公は強硬論者であり、すぐにでも対策に動くべきだと訴えている。 帝都に入り、まず最初にテメレール公のパーティーに招かれた理由。 「猪突公は絶対に何か知っている。理由を尋ねたいが、その時間が無かった」 傍から見れば、どうにも意味不明な行動をしている。 ファウストは何か天命を受けたのかもしれないと、無理やり納得したが。 テメレール公は少し頭がおかしいが、かなりの理論派である。 何かの論拠があるかもしれないと、私たちは考えている。 「最近知ったが、どうもレッケンベルも東方からの侵略においてファウストと同じように警戒していたらしい」 『あの』レッケンベルならそういう話もあり得るだろう。 そう考えた。 だが、レッケンベルが築き上げた鉄壁の諜報機関と言えど、情報源は別などこかにいるのだ。 「テメレール公が情報源という可能性があるんだよ」 だんだん腹立ってきた。 とにかく殺しにくいし、殺せない。 『あの』レッケンベルが五回も殺し損ねている話を聞けば、それは確信じみてきている。 なんだアイツ。 意味が分からない存在である。 「殺せないか」 「殺せない。殺す以外の方法でケジメをつけさせるんだ。頭を押さえつけて、どっちが上かを思い知らせて、利用するんだ」 「生半可な勝ち方では、絶対に負けたと認めないような相手をか? レッケンベルが何らかの利用価値を見出したようにか? どうしてもやらなきゃならんのか?」 ウンザリしてきた。 五回も挑まれたレッケンベルとて、似たような感情を抱いていたのかもしれない。 横で聞き役に回っていたファウストに、話を振る。 「ファウスト。話を聞いていたと思うが、どう思う?」 「……テメレール公が、私はともかくレッケンベル卿を単純に侮辱している、そんな話ではないとは理解しました。ならば、私が怒る事では」 レッケンベルへの侮辱。 死に物狂いで、一騎打ちにて葬った相手を侮辱する行為は致命的である。 ファウストは実のところ、酷く気が短い。 誰にでも身分問わず優しいようでいて、何処かしこで酷く感情の沸点が低いのだ。 激情を簡単に起こす。 別に、負の方面に偏ったそれというわけでもない。 それは母の連座で殺されようとしたマルティナのための、頭を地に擦り付けての嘆願であり。 ヴィレンドルフのカタリナ女王に対する、親に対し、愛情を与えられた子としてどうすべきかの訴え。 そんな涙交じりの愛情の発露であったり。 自分の意に添わぬ、遊牧騎馬民族国家に対しての発狂じみた演説とゲッシュであったりする。 少なくとも、このアナスタシアが知る限りでは、そうだ。 「私が男騎士であることへの侮辱。どうでもよい。私の容姿が醜いことへの侮辱。どうでもよい。それが公のものでなければ、我慢いたしましょう。なれど、私が倒したレッケンベル卿を侮辱したのであれば、もはや殺すしかないところでしたが」 やっぱり殺す事考えてた。 まあ、そうなるよな。 侮辱されたらその場でぶち殺せと言ったところであるし。 「とりあえず、テメレール公にも複雑なようで、妙に愛憎じみた事情があると知りました。ひとまず矛を収めることにします。しかし、どうするべきか」 「それを今考えている」 本当にどうしよう。 とにかく、あの殺したいほどウザイ女に、負けを認めさせなければならない。 その方法を今、必死に考えている。 どうにも思いつかない。 「あのヴィレンドルフの冷血女王、カタリナであればどうしたか?」 そんなことさえ考えている。 さて、どうしたものか。 私は考えをまとめるため、横に座っているアレクサンドラの肩を特に意味もなく殴りつけることにした。 第122話 レッケンベルとランツクネヒト 「ここが我が母レッケンベルに指揮されたランツクネヒトが包囲した帝都、ウィンドボナか。この大きな都市が燃え上がると、さぞ美しいだろうな」 「他に褒め方無いんですか?」 「レッケンベルとて、燃えると綺麗だったでしょうねと言っていたんだが」 布で束ねている、長髪の黒髪を撫でながらに。 馬車の窓から、帝都を眺めながらにして私は呟いた。 ふと、昔の事を思い出す。 私の故郷フェイロンの王都はどのように燃やされたのだろうか、と。 西方人の膨れ上がった鼻とはまるで違う、ぺちゃりとした鼻に何か痒みを抱きながら。 自分の一族が領地として支配していた都市を思い浮かべる。 「ユエよ、あの近くの堡塁は真新しいであろう?」 「はい、それが何か」 「レッケンベルが大砲の一斉砲撃にて、無茶苦茶に打ち崩したらしいのだよ」 カタリナ様が、本のページをめくっている。 堡塁同士の射線が組み合わさり、攻略するに鬱陶しかったらしいなどと呟いている。 本の内容は大体予想がつくが。 「それは?」 「レッケンベルの日記帳だ。厳密には覚書といった物に近く、こうすればよかった。ああすればよかった。そんな言葉が時系列で書かれている」 少し読んでみたい。 まあ、おそらく読むことが許されるのはレッケンベル卿の娘たる二人。 カタリナ女王陛下とニーナ殿くらいであろうが。 「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」 「なんだ」 「レッケンベル卿とランツクネヒトとの関係が良くわかりません」 質問する。 傭兵は理解できるのだ。 だが、単純な傭兵とランツクネヒトの違いとは何なのか。 「一言で言えば、国(ラント)の従者(クネヒト)と言ったところか。まあ実態とはまるで違うが。彼女たちが忠誠を誓っているのは金であり、国ではない」 「語源を聞いているのではないのですが」 「わかっている。あの奔放無秩序な生き物、僅かな金で人殺しを行う虚栄の塊。服はボロボロ、ズボンはくるぶしまで垂れている。手に握る武器は三分の一がクロスボウ、三分の一がマスケット銃、三分の一が槍。ああ、たまにファウストのようなツヴァイヘンダーを振り回すものもいる」 明確な違いとして、彼女らは両手で剣を振りまわすだけだが、ファウストは片手にて巧みに操る。 ポリドロ卿への細かい賞賛を加えながら、カタリナ様は呟く。 「彼女たちは個人傭兵ではない。軍集団である。その生活様式において触れるまではしない。神聖グステン帝国のどこからともなく湧き出てくるような。多くは追放者であったり、くいっぱぐれの三女四女であったり。指揮官は家を継げない没落貴族であったり。そのような出自の塊である」 「なるほど。大体は判りましたが」 「お前が一番聞きたいのは、レッケンベルが組織した経緯であろう」 本のページをめくる音。 カタリナ様は、ここだな、などと呟きながらに読み上げる。 「前皇帝陛下からの嘆願に対し選帝侯たるヴィレンドルフは兵を出し、アンハルトは金を出した。だが、ヴィレンドルフとて多くの兵を遠征に出せる余裕があるわけではない。アンハルトによる準備金も巨額ではあるものの、武器・馬・軍装などを潤沢に用意するには至らなかった。また、戦時が長引けば補給もままならないだろう。ヴィレンドルフから帝都まで補給線を伸ばすのは厳しく、現地調達が大前提となる」 このままでは、皇帝を僭称する者を打ち破る数には至らず、帝都ウィンドボナを包囲しても落とすには足らないと思われた。 平地戦など、騎士の戦いでは滅多にない。 城塞都市の奪い合いたる籠城戦が普通であり、帝都に引きこもられれば厳しかった。 握り拳の一撃で無茶苦茶にしなければならない。 「仕方なく、レッケンベルは歩兵による傭兵集団を組織することを考える。農民傭兵なるものを考えついた」 「農民傭兵?」 「本当に細かいところ、厳密にいえば違うんだが。ランツクネヒトには多少の没落貴族もいるし、最初から傭兵業の者が入隊する事もあった。それでもこう呼ばれるのは、レッケンベルが帝都までの道中における農村で傭兵勧誘を行ったからだ」 村々を歩き、徴募を行った。 身体の肉付きは良いか。 身体を守る厚手の服はあるか、靴は丈夫か。 鎧や武器を持っているか? そんな基準の審査を行い、クリアすれば兵として受け入れた。 要するに――。 「人買いみたいなものですね」 「人聞きの悪い事をいうものではない。あくまで志願制だ。レッケンベルは短期決戦で人数を揃えるとしか考えていなかったし、とにかく歩兵連隊による軍集団を作り上げることしか頭になかった」 もちろん、問題は色々起きただろう。 農民とはいえ、土地持ちならば傭兵なんぞに参加せぬ。 僅かな金を目当てに参加するなど、もはやスペアですらない三女・四女の集団であり、要するにだ。 レッケンベル卿は、兵を畑から採ったのだ。 「進軍しながら、兵を膨らますことにした。帝都への道のりで、軍集団は1000にも満たぬ数から10000に膨らんだよ」 もう人生に何の望みも抱けないじゃないか、ここは傭兵になって一旗挙げてみないかと。 酷く魅力的で、ヴィレンドルフの誰もが陶酔する英傑が各村々で演説して口説くのだ。 枯れた『バラの花がら』のようにして、誰もがあっさりと落ちてしまう。 人生唯一に差し出されたチャンスのようにして、その手を握ってしまうのだ。 何も資産など持たぬそれらが、実家から最後の情けや手切れとして渡された物や金。 それを元手に、レッケンベル卿から紹介された酒保商人から銃や槍等を入手して、ランツクネヒトに参加する。 給金だけは確実に払ってやるが、他はお前らがなんとかしろ。 レッケンベル卿は効率的である。 「色々問題はあったでしょうね」 親に最後の情けすら貰えないからと、親姉妹を殺して金を奪い取ってしまう事件もあっただろう。 ランツクネヒトに参加して二度と帰ってこない故郷なのだから、そのまま逃げ切ることは可能であった。 そういった問題も起きたであろう。 そうつぶやくが。 「念のため言っておくが、そんなことレッケンベルには関係ない。我が母がどれだけ優しい女であったか」 カタリナ様は語る。 レッケンベルは建前を大事にしていたし、本人は美徳そのものであった。 物凄く丁寧に、全ての事を事細かに運んでいる。 他の貴族のように、無理やりに村々から農民を徴兵するようなことはしなかった。 あくまで全てのランツクネヒトが志願制であった。 他の貴族のように、無理やりに村々から食料を掠奪するようなことはしなかった。 完全武装の数百名の兵で取り囲み、笛や打楽器を打ち鳴らしながらにして村の顔役に交渉に臨み、酒保商人を介して安く物資を買い入れただけである。 あまりにも惨い値段で物資を買い入れてしまった全ての商人はちゃんと後で罰したし、差額の罰金を差し出させては全て軍費にしたと聞く。 貴族ならば、軍費などにせず確実に自分の懐にしまい込んでいただろう。 レッケンベルは本当に高潔である。 「とにかく、レッケンベルは酷く上品だった。あんなに優しい女も珍しい。普通の貴族ならば、道の村々にて『皇帝陛下お救いのためである! 我ら正義なり!!』などと大義名分を叫んでは略奪を働いて、人狩りを行って兵隊にする。金や物資は全て自分の物にしていたであろう。抵抗した村の幾つかは滅んでいたであろう」 「言いたいことは判ります。我が国フェイロンでもそんな感じでした」 というかフェイロンなんか、もっと色々と酷い国であったし。 争いになったらちゃんと相手だけでなく、その三族も皆殺しにしましょうね、などと母親がよく私に教えていた。 復讐が怖いので仕方ないところはあるのだ。 「うむ、しっかりと当初の目的のために動き、兵は志願制をとり、物資には金を払い、自分の懐にピンハネすることなく現地で軍費を稼ぎ、どこまでも兵を纏め上げた。レッケンベルこそ真の騎士である」 うんうん、とカタリナ様は嬉しそうに呟く。 レッケンベル卿は本当に騎士としては極めて善良な人だから、被害にあった方は泣き寝入りすべきであった。 他の貴族だと馬鹿みたいな数の死者が出ている。 「とにかく、そのようにしてレッケンベルはランツクネヒトを築いた。金と、それを与えてくれたレッケンベル以外に何の忠誠も感じていない、人の首を絞め殺したり、火を付けたり、掠奪したりすることが大好きな軍団の完成だ。同時に、軍としては酷く無秩序だった。武器にこそ金をかけるが、防具にまでは回さず、前衛の兵――危険な任務であり、給料が倍であったことから倍給兵などと言われているが。そいつらぐらいしか装備していない」 まあ、酷く合理的ではある。 銃やクロスボウ持ちであれば、遠距離から攻撃すればよいのだから。 「あの色とりどりのズボンの悪魔どもは、まあそのようなものだ」 「ランツクネヒトが産まれた経緯は理解しました。して、一番聞きたいところが一つ」 「何か?」 聞きたいことはつまり。 「狂えるランツクネヒトが、レッケンベル卿に対して抱いていた奇妙な忠誠は、カタリナ様に引き継がれるものでしょうか?」 「私はレッケンベルの娘である。と言いたいところだが、まあ血は違うし、単純に娘だからと忠誠が引き継がれるなどとは思っていない。念のためニーナは連れてきたが」 私はランツクネヒトに期待などしていない。 給料を支払わなければ、レッケンベルにだって平然と剣を向ける連中であるのだから。 そうカタリナ様は呟くが。 「まあ、それでも他の貴族やマキシーン皇帝陛下よりも、私が皇位を簒奪することに期待しているだろうさ。だって、世が乱れなければ傭兵は食っていけないし、立身出世も望めない」 「確かに」 ランツクネヒトは治世を望むものではなく、戦乱と血を望むものである。 「とはいえ、私がそんなことするとはまだ決まってないんだがね。とりあえず、帝都に入り、旅の垢を落とした後にはだ」 「ポリドロ卿に御逢いしますか?」 「本音ではそうしたい。すぐに会って、まずは抱きしめ、産まれてくる子の名前を相談したい」 あの身長2m以上、体重130kgの筋肉の塊。 この神聖グステン帝国よりも大きいフェイロンですら見た事の無いような男。 遊牧騎馬民族国家の西征を信じ、アンハルトにて訴えてくれた騎士である。 私も、少々あの方とは色々と話をしてみたいとは思っている。 ヴィレンドルフでは、親しくなるにあまりにも時間が足りなかった。 「だがまあ、そういうわけにはいかん。先触れの兵の話では、少々帝都では奇妙な事になっているようだぞ」 「奇妙な事?」 「アンハルト選帝侯と、テメレール公が争っているそうだ。ファウストについてだ」 はあ。 と、困ったように声を返す。 カタリナ様の様子がどこかおかしい。 いつもの冷血女王としての鉄面皮が崩れたわけではないのだが。 「テメレール公の配下が、ファウストの容姿を侮辱した。帝都ではその噂が広く流れている」 「……」 どこか、少し怒っているような。 いや、冷血女王カタリナ様は哀しみと愛しか知らぬ。 怒りについて、よくわからないはずであるが。 「ユエよ。東方からの来客よ。私は基本的に、レッケンベルが残してくれた財産を大いに活用するつもりなのだ。ランツクネヒト、そしてテメレール公、これらをどう利用するかは重要だ。ヴァルハラのレッケンベルが、笑顔で『そうです! そいつはもう用済みです!』と叫ぶ前の段階までは利用しなければならない」 カタリナ様の声色は変わらない。 感情に跳ねた様子はなく、その顔は無表情である。 「しかし、テメレール公が私の男を。ファウストを侮辱したというのであれば。そしてファウストが怒っているというのであればだ」 だが、やはり少し怒っているのだ。 興味深い。 カタリナ様が、もし本当に怒ることがあるとすればきっと。 「私も対応を考えねばならん」 レッケンベル卿かポリドロ卿が侮辱された時だけだろうな。 私はそう考え、ぺちゃりとした自分の鼻を、くすぐるように撫ぜた。 第123話 契約破り 情報をまとめた上で、ヴィレンドルフ選帝侯として何をすべきか? 愛すべき領邦民たちから、『そうあれかし』と望まれて生きてきたカタリナは何をすべきか? 我が母レッケンベルならば、どう臨むのか? 結論から言えば、私の行動原理とはそのようにできている。 「旅の垢を落とす気はなくなった。状況が変わった。このままテメレール公の館に直行する」 「ポリドロ卿に御逢いにならないのですか?」 「会わぬ。子の名前を話し合うなど、後でも出来る」 別に後でも良い。 ザビーネなどからは頭が幸せになっているなどと苦言されたが、私は冷血女王である。 こちらを先にすべきだと理解していた。 「そもそも、ファウストはアナスタシア王女と行動を共にしているではないか。私の行動をアンハルトに誘導されることは好まぬ。独自で動きたい」 帝都内を走る馬車内、眼前で服のそこかしこにナイフを忍ばせ始めたユエに声をかける。 この会話は、自分の脳内に血を巡らせ、行動の仔細を決めるためでもある。 私は自分の英知に疑いはないけれど、相談役たる軍務大臣の婆は今おらぬ。 会話する相手が必要であった。 「別に会えば良いではないですか。ポリドロ卿への侮辱案件に関してならば、アンハルト選帝侯と連携すべきかと」 ユエの発言に一理ある。 一理だけだが。 確かに、私はファウストが侮辱されたのであれば怒るかもしれないとユエに語った。 しかし、状況が変わったのだ。 「情報をまとめよう。テメレール公の部下のパートナーがファウストを侮辱したと噂が流れている。あのような醜い筋骨隆々の男など、よくもまあパーティーに連れて来れたものだなと。母親まで侮辱したことで、激怒したファウストに鼻をもがれたと」 「はい。まあ東方西方問わず、そういった愚か者もおりましょう。宴席の主客を侮辱して主人に恥をかかせるような阿呆、わが国にだっておりましたとも」 「そいつはどうなった?」 一言尋ねる。 「馬を四頭用意して手足を縄で縛り、四方向に馬を走らせることで五体バラバラになりました。それが主客へのお詫びです。まあ馬力といえど人体を引き千切るのは酷く困難で、体が千切れる前に罪人は痛みで息絶えてしまいましたが」 「神聖グステン帝国でも似たようなものだ。それ相応の詫びが必要となる」 別に珍しくもない処刑方法である。 世界中にあるだろう。 「しかし、帝都に潜ませていた我が国の諜報が調べた限りでは、未だ詫びが行われていない。もう数日経っているのにだ」 「はあ。奇妙ですね。憤怒の騎士とは言われるものの、話は通じるポリドロ卿相手であれば、頭下げて謝罪金を払えば終わりでしょうに」 「背景を知れば、謝罪できない理由は色々ある。テメレール公は28歳になっても人に謝罪することが出来ない女であるし」 レッケンベルの日記にもそう書いてある。 当時から非常に辟易していた様子が窺えるのだ。 「さて、まあそれはよい。テメレール公が何を考えているかも、ある程度読める。問題は、むしろアナスタシア王女だ。何もしてない」 「はあ、英明なれど慎重派だと聞いています。今頃は、どのようにケジメを付けるか考えているのではと」 「くだらぬ」 腰にぶら下げた刃渡りの長いナイフの鞘を、指で撫ぜる。 「テメレール公に利用価値はまだあるし、混乱を考えれば殺すわけにもいかぬ。ケジメはつけるが、慎重にやろう。アンハルトと名乗るモヤシの国の王女様は間違いなく、そんなつまらんことを考えている。非常にくだらぬ」 「ヴィレンドルフはそうじゃない、と」 「殺すと思ったら殺すのだ。いいか、利用価値があるから待とう。こいつが用済みになるまで待とう。忍耐も時には必要だ。それはレッケンベルから何度も教えられてきたし、他所からは蛮族などとすら呼ばれる我々とて理屈は知ってる」 理屈は知っている。 我々ヴィレンドルフ人が、豚が肥えるまで殺すのを我慢できない愚か者だとでも思うのか? 利益や都合に合わせて、時には我慢しなければならないこともあるのだ。 ヴィレンドルフ最高の騎士であるレッケンベルも、そうしてきた。 「だが、殺すべき時は『もういいや』の一言で激発して殺すべきだ。侮辱に対しては、騎士を名乗るならばそうすべきだ。それこそ約束を破った時などは、それは殺してよいと思うのだ」 「約束を破った時、ですか」 「これは神聖グステン帝国共通の価値観ではなく、あくまでヴィレンドルフ領邦人の価値観であるがな」 遊牧騎馬民族国家の王をぶち殺すまでは、家名を名乗らぬと語っている東方人。 ただのユエという名の女性に、ヴィレンドルフの理を優しく教える。 「ヴィレンドルフ人が我慢できないことが三つある。正当な約束や契約を、不当に破られることが一つ目。このままならぬ世の中を必死に生き足掻いている者を指差して笑う事が二つ目。レッケンベルを侮辱することが三つ目だ」 「はあ」 「最も重要なのは一つ目である。約束は約束だ。その契約が正当であるかぎり、何をどうしても守らなければならぬ。流行りの戯曲で例えるならば、莫大な金を借り受ける代わりに自分の肉を切り取る契約があったとしよう。金を返す約束が守れなかったとしよう。ならば当然、自分の身体を切り刻んで相手に渡さねばならぬ。それは正当な契約なのだから」 人の命は金で買えるのだ。 それほどの価値はない。 ヴィレンドルフ人にとって、いざとなれば命はそれほど重要でもない。 少なくとも名誉よりは軽い。 「続きだ。確かに肉は切り取っても良いが、その際に血を流してはならぬ。ゆえにこの契約は無効だから金すら返さなくても良いし、貸した方に罰金を科すなどと吐き気を催す邪悪のような屁理屈。世間の戯曲では、そのようなふざけた結末となっているが、ヴィレンドルフ人にとってはあり得ぬ。そんなもの通じぬ。実際、ヴィレンドルフ領内でやらかした舞台では観客全員から石を投げられたとも聞く。何故そんなものがヴィレンドルフでウケると思ったのか正気を疑うが」 握り拳一つ。 それを作り、ユエに告げる。 「ともかくも理屈が合わぬことは気に食わぬ。それは当然だが、それ以上に契約をした者たちへの、契約した双方の魂への冒涜は許されない。約束を違えたのに、なお屁理屈をこねるならば、魂が穢れた相手を是が非でも殺してやらねばならぬ。それが慈悲なのだ」 「魂への冒涜ですか?」 「そうだ。私の血肉を担保にするから金を貸してくれと片方が言った。お前の血肉を担保にするなら金を貸してやると片方が言った。それで契約は正当に成立した。ただの冗談でなく真実本気で会話した、そこに委細を挟む必要はない。お互いが納得したならばそれでよい。魂が契約したのだ」 もはや重要なのは命そのものではない。 契約を守る事であり、魂の純粋さを守る事だ。 約束も守れずして、人の誇りは存在しない。 一つ、例をあげる。 「ファウストがゲッシュを誓った事は知っているな?」 「はい。遊牧騎馬民族国家が7年の内に来なければ、それに彼が正真正銘抗わなければ、腹を斬って死ぬと」 「本来の契約とはそうでなくてはならんのだ。事実、ファウストはゲッシュを破った時、腹を斬って死ぬであろう」 もっとも、守らなくても神は罰を下し、ファウストは死ぬであろうが。 そういう契約を、ファウストは神と交わしたのだ。 「ファウストの魂は眩いほどに輝いている。ゲッシュの話を聞いた時、ヴィレンドルフ人が感じたものはそういうものだ。私は感じられぬが、理屈では理解している。ヴィレンドルフの価値観では、あれこそが至上の誓いなのだ」 「つまり、約束を破るのは、涜神に近い行為であると」 「それ以上かもしれぬ。奴隷と王が命を懸けた約束をしたとして、王が約束を守れなかったら自害して奴隷に詫びるのがヴィレンドルフである」 ユエが、眉を顰める。 特異な価値観ではあるのだろう。 「カタリナ様にお聞きします。それはほんの些細な約束でもですか」 「さすがに違う。なれど、一度約束したならば、それを守るためにありとあらゆる努力をしたが出来なかった。私は望んだけど出来なかったんだと、約束した相手の理解を求めるべきである。それが命を投げうって当然の契約内容であれば、死ぬべきだ」 「些細な約束でも、ヴィレンドルフにとっては途轍もなく意味が重いと」 まあ、そうだな。 ここまで約束に拘るのは、世界どこを探してもヴィレンドルフぐらいのものであろう。 レッケンベルよ。 我が国家史上最高の騎士よ。 お前がテメレール公と交わした約束が、私はどうしても気になっている。 「ユエよ。色々言ったが、要するに今そこかしこに流れている噂から、私は一つの事が気になっている。ファウストが醜い容姿だと侮辱されたこと。それ自体もヴィレンドルフとしては不愉快だが、忍耐することにした。ヴァルハラのレッケンベルとて止めるだろう」 ユエに、話を向ける。 賢い彼女であれば、言いたいことはわかるはずだ。 「筋合いとしては侮辱されたアンハルト自らが解決すべきことであるから、ヴィレンドルフは何も言うべきではないと、忍耐するのですか」 「そうだ。我々にとってこの上なく美しい男が容姿を侮辱されども、横合いから怒る権利はない。私の将来の愛人が侮辱されど、やはり怒る権利はない」 ゆえに、連携しない。 アナスタシア王女が着地点としてケジメをつけるために、仕方なくヴィレンドルフの力を借りようと考えてもだ。 筋目が違う。 私は利用される気はないし、それが例えファウストの利益に繋がる事でも断るつもりなのだ。 「自分が侮辱されたなら自分で殴れ。ファウストが侮辱された件は、寄親であるアナスタシア女王とファウストが解決すべきである。ヴィレンドルフの考えではこうなる」 「なるほど、それは判りました。はて、それでは」 何故、私たちは失礼にならない程度の武装を命じられ、服にナイフを仕込み、騒ぎがあればすぐ待機人員がテメレール公の館に突入するように命じられているのか。 修羅場を覚悟することを望まれているのか。 それがわからない、とユエは問う。 「当然の質問である。アンハルトが決着すべき問題について、何故ヴィレンドルフがテメレール公に尋ねに行くのかということだな」 「そうです」 「お前には説明しておく。つまり、私が気にしているのはファウストの侮辱への噂ではなく、先ほど得た別な情報である。東方の遊牧騎馬民族国家についての話なんだ」 他の部下には、もういいや、その一言でテメレール公を殺しにかかれと命じている。 それで我が部下なら納得するし、私も不必要な説明をするつもりはなかった。 だが、ユエにだけは説明しておこう。 「レッケンベルはテメレール公に対して、一つだけ約束をしている。五回打ち破れども、テメレール公は最後まで敗北を認めなかった。レッケンベルが何を考えていたかは日記帳にすら書いていないが、許した代わりに一つの契約をした」 「その命を見逃すのと引き換えにですか?」 「そうだ」 まるでレッケンベルの真似事をしているかのように、私は目を糸のように細める。 そうして、呟いた。 「約束は、情報提供だ。神聖グステン帝国における強力な諸侯たるテメレール公が、帝都という巨大な商業都市の近隣地として関わることで得られる、ありとあらゆる情報をヴィレンドルフに提供せよと言った。今までレッケンベルは情報源として、あの女を利用していた」 交換条件として良いのか悪いのか。 それはレッケンベルにしかわからないが。 「役には立った。ヴィレンドルフが隣国の情報を得ようとしても警戒されて難しいが、神聖グステン帝国という第三者を経由すれば、容易に得られる情報があった。帝都の近況も知ることが出来た。役に立っていたのだ」 「それに何の問題が?」 「これは推測だが、レッケンベルが生きている間は本当に全ての情報を提供していたのだろう」 だが、2年前に死んだ。 ファウストとの一騎打ちに敗れたのだ。 問題はそこだ。 「ユエよ。お前が客将となる前から、二年も前からレッケンベルは東方の遊牧騎馬民族国家を警戒していた。その情報源は間違いなくテメレール公からだ。なれど、レッケンベルの死後は一度とて、テメレール公から騎馬民族の情報が伝わってこない」 「テメレール公は確か、先ほど帝都に潜ませた密偵から得た情報では」 「強硬派だ。今すぐにでも遊牧騎馬民族国家の対策を取るべきだと、神聖グステン帝国中に訴えている。その癖、何故そうするべきなのか、理由は何なのか。何の情報を得てその判断を下したのか、さっぱり判らぬ」 つまりだ。 長々と話したが、ユエにもこれで理解してもらえたと思う。 「我が母にしてヴィレンドルフ最高の騎士たるクラウディア・フォン・レッケンベルは、テメレール公と契約を交わした。お前の命を見逃す代わりに、ヴィレンドルフに全ての情報を捧げよとの契約だ。なれど、その契約が」 「破られている、と。あるいはもう」 レッケンベル卿が死んだからおしまい、などとテメレール公は考えている。 そうユエが、小さく呟く。 「なるほど、レッケンベルは確かに死んだ。死んだからと、あの女は身勝手に契約は終わったと考えている可能性が高い。結論から言おうか」 すう、と息を吸い。 一言で語る。 「レッケンベルに命を見逃してもらったくせに、はい終わりなわけないだろうが。お前との契約はヴィレンドルフという国家との契約で、お前が死ぬまで続くんだよ。レッケンベルとヴィレンドルフ舐めてるんじゃねえぞテメエ。お前の回答次第ではぶち殺してやる。殺してやるぞテメレール公。そういう話を今からやりに行くんだ」 乱暴な口調で語ると、以上である。 単純化すると、ファウストを侮辱された事には腹が立つ。 それは私が怒る事ではないから堪えるが、更にレッケンベルがテメレール公と交わした契約が守られていない。 契約破りがヴィレンドルフでどういう目に遭うのか、思い知らせる必要が生じている。 要するに、テメレール公が戯言ほざいて『もういいや』になったら、ぶち殺す。 レッケンベルとて「仕方ない」と言ってくれるはずである。 「理解しました」 ユエは、なんか酷く面倒くさい話になってないですか、と眉を大きく顰めた後。 出来れば生かして情報吐かせた方がいいと思うんですが、と一言だけ呟いて、それ以上は何も語らなかった。 第124話 もういいや テメレール家応接室。 私とテメレール公は相対し、十分な装飾を凝らせた椅子に座っている。 それ以外の人員、私が連れてきたユエを含めたヴィレンドルフの超人達数名。 ――傍目では判らない程度に、ナイフ等で武装させている。 同様に、テメレール公の配下たち。 こちらも手抜かりは無く、服に膨らみなどが見て取れる。 私とテメレール公以外は全員が立ったまま、静かな睨み合いを始めている。 要するに、お互いを警戒していた。 「御託を並べるのはいいんだ」 トントン、と机を指先で叩く。 話の分からん奴だ、と。 テメレール公の言葉は実に明快ではなく、要領を得ないと告げる。 「私が知りたいのは、お前の願望じゃないんだ。皇帝陛下になりたい? お前の願望何ぞ言わずとも、誰もが知っている。好きにしろ。そんな事はどうでもいいんだ。ヴィレンドルフにとっては、誰が皇帝であろうがどうでも良いんだ。興味がない。協力こそしないが、見逃すだけならしてやる」 私が言いたい事とは、ずれている。 テメレール公の願望何ぞどうでも良い。 必要があればテメレール公もマキシーン皇帝陛下もぶち殺し、私が簒奪する。 十分な理由さえあれば、両方を相手どっても構わない。 ヴィレンドルフの武力を以てすれば、ランツクネヒトの動員さえ可能なれば、大した問題ではなかった。 「ヴィレンドルフ選帝侯。失礼ながら、先ほどから『お前』、『お前』と私の事を呼ばれるのは如何かと」 伊達眼鏡。 不愉快そうな面に、冷血の表情を以て応じる。 金銀で縁取り、水晶造りの下品な眼鏡をしたテメレール公に対し、私は吐き捨てた。 「お前なんぞ『お前』で十分だ。舐めているのか? 私が聞きたいのは、何故レッケンベルとの約束を破ったのかだ。確かに口約束に過ぎぬ。だが、お前が5回目に敗北した際、レッケンベルから逃げきれずに一つの約束をしたはずだ」 「私は敗北などしていない」 不愉快を前面に出した表情のまま、テメレール公は呟く。 「私はあの時はまだ、レッケンベルに勝てなかっただけだ。今なら勝てる。もうレッケンベルは死んだが」 「……」 私は冷血女王と呼ばれてきた。 レッケンベルが死んだ時、初めて泣いて哀しみを知った。 ファウストにバラの花を捧げられた時、初めて母の愛を知った。 それだけ。 私の感情とは、それだけだ。 なれど、私は少しばかり――そうだ。 なにか、霧のような、靄のような、そんな物を心に抱いている。 「約束はした。私は約束を守った。レッケンベルに対し、私個人の情報網から得られる全ての情報を渡した」 「2年前まではそうであっただろう。レッケンベルはお前から情報を得ていた。それは知っているし、認めてやる」 なにか、そう。 ああ、そうだ、テメレール公の顔を見て理解した。 私は『不愉快』なのだ。 「私が問題にしているのは、その後の事だ。2年前、ポリドロ卿にレッケンベルが討ち取られた後の話だ。お前は情報をヴィレンドルフに渡さなかった」 「……」 顔を合わせるのは初めてである。 そして、顔を合わせた最初から気に食わぬ。 何故か? 「お前は勘違いをしている。お前がレッケンベルと約束したのは、お前が死ぬまでヴィレンドルフに情報を渡す事である。レッケンベルが死んだら終わりなどという話ではない。今ならお前の罪を問わず、何もかも誤解であった。それで終わらせてやる」 私を舐めている。 その雰囲気が、テメレール公の心根が、私には読み取れるからだ。 ならば、私はヴィレンドルフ選帝侯として、この女の頭を掴まねばならぬ。 地面に引き倒し、顔面を足の裏で踏みつけねばならぬ。 私が上で、お前が下だ。 それを理解させなければならない。 それが貴族というものだ。 「終わらせてやる、と。そう仰るか」 だが、それは容易ではない事も理解している。 テメレール公の口端が引きつり、凶暴的に歪む。 屈辱に耐えかねるという表情だ。 何か、口にしようとしたが。 こちらの目ではっきり分かるぐらいに必死に歯を食いしばって、堪えている。 「よろしい。非常によろしい。認めよう。私は勘違いをしていたようだ。確かにレッケンベルとの約束というなら守らねばならぬ」 折れた。 とは違うのだろうな。 ひん曲がったという言い方が正しい。 この事実は公になり、世間での恥となるようなものではないから、仕方なく受け入れる。 世間でテメレール公がレッケンベルに捕縛された事実はない。 情報提供の義務、首に縄をつけられた事実はないのだ。 テメレール公は自分の感情ではなく、目的を優先した。 そういう性格であるのは知っている。 「……ヴィレンドルフへの情報提供は今後も守りましょう。私が死ぬまで」 彼女の眼光はギラギラと、獣のように輝いている。 心から納得したという眼ではない。 なれど、私の意図した通りに動くのであれば、レッケンベルとの約束を守るのであれば、それでよかった。 さて。 「では、早速聞きたい事が有る。ああ、先ほどまでは済まなかった。お詫びを。改めて名を呼ぼう、テメレール公。最初に言ったが、テメレール公が皇帝陛下になりたくても、私はどうでもよい。帝位簒奪なりなんなり、好きにするといい。だが、正直消極的賛成といくまでには幾つか知りたいことがあってな」 「知りたい事。それは?」 こめかみに血管が浮いているぞ、テメレール公。 私は心の靄、『不愉快』が晴れたのを自覚しながらに。 事前に組み立てておいた質問を並べる。 「三つの質問に答えよ。一つ目。東方の遊牧騎馬民族国家、その存在をどうやって知ったのか」 テメレール公は、少し神経質気味に眼鏡の縁を撫でた後に。 その程度の事も知らないのか、と言いたげに呟く。 「帝都ウィンドボナから、東方の王朝フェイロンに繋がる東方交易路が小規模ながら今でも存在する。私は以前からその旅団に人員をもぐり込ませ、情報や利益を得ておりました。フェイロンが滅びつつあることも知っていたし、レッケンベルにもその旨を伝えましたとも」 テメレール公は、私の背後にいる人物に目をやる。 ユエである。 今は滅んだフェイロン王朝の武将であり、レッケンベルには弓の腕で同等たる東方人が警戒を解かずに立っている。 「ある程度はヴィレンドルフ選帝侯もご存じでは? 東方人を引き連れていて、何も知らないという事はありますまい」 「知ってはいる。フェイロン王朝が滅んだことも、レッケンベルがそれを昔から知っていたことも」 逆に言えば、それだけだ。 レッケンベルの日記帳は残っているが、思考の全てが記録されているわけではない。 「一つ目の質問はそれだけ?」 くだらなそうに、テメレール公は呟き捨てた。 先ほどの屈辱に満ちた顔とは違い、また調子に乗っている。 くだらぬ女だ。 「それだけだ。二つ目の質問をする。マキシーン皇帝陛下は当然、その辺りの事をご存じであるな?」 「小規模ではあるが、交易路がありました。その交易相手が滅んだ事ぐらいは知っているし、交易商人に遊牧騎馬民族国家との交易許可も引き続き出しております。まあこの辺り、禁じても異国の商人が密貿易するし、情報も売り買いされます。流通を制限しないこと自体は仕方ないと言ったところ」 「ふむ」 少し、考える。 続きの質問だ。 「尋ねよう。東方の遊牧騎馬民族は、マキシーン皇帝陛下と何らか交渉を? フェイロン王朝を滅ぼし、領地を支配したのであろう? 国家として、使節団をお互いに送ったりなど」 「何もしておりません。そうです、『皇帝陛下は』何もしていない」 「?」 何か、酷く阿呆らしいとでも言いたげに、『皇帝陛下は』と強調する口調。 テメレール公のニヤニヤとした、それでいて心底阿呆らしいという表情。 「何が言いたい?」 「いや、なんでもありません。とにかく、あの皇帝陛下は何もしない。年若いは理由にならない。統治者として、明確に足りなかった。繰り返しますが、『皇帝陛下は何もしない』。あの小娘――」 不快気に呟くテメレール公。 心のモヤ。 私はこの女に何を感じている? 再び思考する。 私の感情はどうでもよい。 この質問で私が一番聞きたい要点は。 「テメレール公は強硬派であるらしいが。遊牧騎馬民族国家が西征するだろうと。いずれ神聖グステン帝国を滅ぼしにくると発言している。何故か?」 「ご存じかどうか知りませんが、フェイロン王朝に引き続き、パールサ王朝に侵攻して滅ぼしております。内容をお聞きになりますか? 侵攻した、破壊した、放火した、虐殺した、略奪した、そして去った。それだけ。何も残らなかった」 テメレール公は、侵攻を確信している。 それは、私よりもかの国を理解しているゆえか。 「私なら、それだけの武力があれば、神聖グステン帝国など滅ぼす。大陸全てを支配する王者となる」 それとも、テメレール公自身がアレなだけか。 判断に困るが、これ自体は別に悩む必要がないのだ。 ファウストがゲッシュを誓っているのだから、それ自体を疑う気などさらさらない。 侵攻可能性がほぼ確定となっただけである。 「よろしい。マキシーン皇帝陛下は、未だ遊牧騎馬民族への対策を練っているだけで、判断にすら困っている状況という事だな」 「おそらくは、最終的には私と同じ結論に至るのでは? あの小娘もただの無能ではない。ただ、あまりにも遅いし、何も知らなすぎる」 ならば、テメレール公が帝位簒奪することへの消極的賛成もあり得た。 ついでとばかりにテメレール公もブチ殺して、仕方なく私が皇帝に成り代わる必要もあるだろう。 マキシーンは死んだ、テメレールは死んだ、もう仕方ないから私が皇帝の地位につこう。 レッケンベルが築き上げてくれた道筋通りに動いて良いのだ。 問題は。 私にとって現状は、まあ、そこまでやらなくてもいいだろう、と。 私が確信していることなのだ。 くだらぬ世間などにそこまで配慮する必要が、私にはもはや存在しない。 私は現在、帝都にて最高の武力を握っている。 さて、ヴィレンドルフとは他国に蛮族などと呼ばれているが。 それはいつでも気兼ねなく誰にでも暴力を振るうという、武人として最も求められる才能を備えていることにつきる! アンハルトごとき脆弱な者どもと一緒にしてはならない。 私は、決断を下す。 もういいや。 「なるほど。さて、三つ目の質問だ」 最も重要な質問である。 我が配下ども、ヴィレンドルフの武将ども。 闘争の準備は整っているか? 私は今から、決定的な一言を呟くぞ。 「『お前』はヴィレンドルフ選帝侯より自分が、テメレール公風情が上だとでも勘違いしているのか? 明確に答えよ」 返事は判っているんだテメレール公。 お前は救われない。 だから、今ここで死ね! 「お前が私より下と認めるならば、生かしてやろう。皇帝の地位にも、まあつけてやろうではないか。私の下だと、ここだけでなく、誰もが知るように、公に認めるのであればだが。私に跪くのであれば、一応は皇帝にしてやろうではないか。これはヴィレンドルフ選帝侯イナ=カタリナ・マリア・ヴィレンドルフの大いなる慈悲である。さあ、返事をしろテメレール」 テメレール公は、私の言葉に大きく目を見開いた後に。 赤子の手を捻るように、容易く激昂した。 「レッケンベルに乳母日傘で隠されて育った餓鬼風情が!」 私はにこりと微笑んだ。 結論は下りている。 テメレールから、情報は抜き取ったし、まあもういいだろう。 コイツはなんか危ないから、ここで殺しておいた方がいい。 遊牧騎馬民族国家との闘争が確定した以上、不安定要素はここで消しておくべきであった。 テメレール公の領地は何もかもヴィレンドルフとランツクネヒトで奪いつくす。 マキシーン皇帝陛下は私の意向に従うならよい、従わないなら殺す。 そうして、私が皇帝となる。 そのような判断で、何の問題もなかった。 「そうだ。レッケンベルに乳母日傘で育てられた餓鬼だからこそ、ここまでの事が出来るんだよ。さあ、全員に告げるぞ」 私は椅子に座ったまま、両手をあげる。 何もかもテメレールの言う通りだ。 有難う、レッケンベル。 多分私は貴女のように、母のように高潔にはなれないだろうが、ヴィレンドルフの女にはなれる。 約束を決して破らず、殺すときはお前を殺すと正々堂々と告げ、一切の濁りを瞳に感じさせない女に。 「もういいや」 私はテメレール公を殺害するように、配下の全てに命じた。 第125話 おのれらに告ぐ まず動いたのはテメレール公であった。 眼前の巨大なマボガニーの机を蹴り上げ、宙に浮かせる。 我ら女王親衛隊全員が抜き打ちで放ったナイフは、全て机に突き刺さる。 なるほど、良き判断である。 だが、もはや袋のネズミよ。 「テメレール。この館はすでにランツクネヒトで取り囲んである。もう逃げ場はない」 カタリナ様は堂々としており、椅子に座ったまま動じた様子もない。 嗚呼、我らが英傑レッケンベルよ。 ヴァルハラからご覧になって頂きたい。 カタリナ様が、見事ヴィレンドルフの女王として成長なされた姿を。 「その首ここで切り落としアナスタシアの奴にでもくれてやるとしよう。まあ、選帝侯となる宴への祝いの品もすっかり忘れていたので、ちょうどよい」 ポリドロ卿へのケジメもつけてあげられない、脆弱なモヤシのアンハルト選帝侯へ贈り物をさしあげるのさ。 そう呟き捨てて、ぱちん、と指を鳴らす。 我々は二手に分かれ、中央に転がっている巨大な机――テメレール公の姿は見えない。 ドアは、我々の背後にある。 要するに、すでにテメレール公とその配下は詰んでいるのだ。 「……所詮、レッケンベルの乳母日傘で育った女か」 「何?」 強がりを。 我らは内心嘲笑いながら、慎重に側面から挟み撃ちにしようと企む。 だが――私たちは理解していなかった。 テメレール公は愚かな女なれど。 「レッケンベルならこのような下手を打ちはしないものを」 紛れもなく、武力においては超人である。 それこそ英傑レッケンベルに一歩届かないだけの。 「我が配下どもよ。前進して退却する。脱出を優先せよ。私は、ついでに蛮族カタリナの首をもらっていく!」 テメレールが金切り声をあげた瞬間。 マボガニー製の机が、テメレール公の気合一拍の拳一撃にて粉々に吹き飛んだ。 思わず眼を疑う。 いくら超人とはいえ、そのような事が可能なのか!? 宙に舞う木片を身体で弾き飛ばしながら、テメレールとその配下は前進する。 ――拙い。 我々は部屋の壁際へと回り込んでおり、カタリナ様は椅子に座っている状態である。 カタリナ様の傍にいるのは、たった一人だけ。 「ユエ!」 「かしこまりました」 客将にして、超人たるユエである。 彼女はああ、やっぱり、という顔をしている。 この展開が読めていたかのように、カタリナ様の傍から離れなかった。 両手にてナイフをそれぞれ掴み、こり、と小さな骨音を立てるように首を捻っている。 「邪魔だ! 東方人!!」 テメレール公の怒声。 浅く、息を鋭く吸い込んでの口笛が鳴る。 ユエが戦闘時に放つ、特殊な呼吸音。 それが静かに、部屋に流れる。 交差は一瞬である。 テメレール公は、カタリナ様の首に刃を叩き込もうとした。 ユエは、膝を動かすことで対応する。 蹴り。 靴の踵をこじり、刃先を力任せに引っ張り、そのままテメレール公を捉えようとするが。 あっさりとテメレール公はナイフを手放す。 「――仕方ない」 逃亡を優先したのだ。 テメレール公が脇目もふらずにドアを乱暴に開け放ち、その後に配下全員が続く。 「追いましょう!」 「待て」 我らが後を追おうとして、カタリナ様に止められる。 ユエ殿は先ほどよりカタリナ様の傍から離れる様子が無い。 「駄目だなあ。私は失敗した。追うな」 カタリナ様は、未だ椅子に座ったままである。 慢心していた。 やはりレッケンベルにはまだ及ばぬ、と呟き捨てる。 私は進言を行う。 「今から追いかけて殺せばよいだけでは?」 「いや、多分逃げられる。逃げの一手を打たれると駄目だ。レッケンベル相手に逃げ切れる超人が、逃げの一手に回って捕まるとは思えない。拙いな」 カタリナ様が、ゆっくりと椅子から立ち上がる。 腰元からナイフを抜き取り、その刃を見つめ、そうして――自分の腕を一つ掻くようにして傷をつけた。 血が、地面へと滴る。 「これは戒めである。この傷跡を見るたびに、私は今日の失敗を思い出そう」 カタリナ様が、血の付いた刀身を布で拭い、また鞘に納める。 血をふき取った後の布は、そのまま傷口を縛るのに用いられた。 失敗したとき、身体に傷を刻んで覚えるヴィレンドルフ騎士の作法である。 カタリナ様は、これで禊は済んだ、とまたゆっくりと椅子に座る。 そうして、ユエの顔へと視線を向けた。 「ユエよ。何故止めてくれなかった。私の傍に離れなかったのは展開が読めたからであろう?」 「私が彼女の立場であれば、テメレール公の立場であるならば、正面からの脱出を図ります。本当の超人であるならば、私やポリドロ卿のように真実本物であるならば。机を粉々に破壊して、突撃してくることはありましょう。ドアは私たちの背後にしかなかったので」 ――なれど。 そうユエ殿は、少し眉を曇らせる。 「とはいえ、回り込んで挟み撃ちにするのは悪手とは思えませんでしたので。テメレール公の力量を測りかねました」 「ふむ」 テメレール公の怒号が混じり、罵倒が混じり、金切り声が聞こえている。 屋敷中の人間に声をかけ、脱出させようとしているのだ。 「元気なものだ」 「カタリナ様。そんなにのんびりしていていいんですか」 「いや、失敗したからには焦っても仕方ないだろう。これはまあ逃げられた。だがまあ、嫌がらせぐらいはしておくか」 カタリナ様が、自分の唇を撫ぜる。 合図である。 私はすぐさま懐から水晶玉を取り出し、通信を開始する。 「ランツクネヒトを屋敷に突入させろ。テメレールを討ち取った者には格別な報酬をくれてやる」 カタリナ様の命令が下った。 ◇ 「テメレール様! 早くお逃げください!!」 「判っている! ええい、蛮族どもめが!!」 話の分からぬヴィレンドルフの蛮人どもめが。 筋骨隆々の醜い男に好意を寄せる、アンハルトの変態選帝侯めが。 私だけだ! 私だけが、この神聖グステン帝国を救えるのだ! 私こそが、このテメレールこそが皇帝位にふさわしいのだ。 「何もしない」マキシーンなどという小娘ではなく。 「全てをやり遂げる」覚悟がある、このテメレールこそが相応しい。 そんな簡単な事が何故わからぬ。 あの遊牧騎馬民族国家から、あの『モンゴル』から帝国を守れるのは私だけなのだ!! 「家人よ! 貴様らの私有財産は私が全て補填してやる! 着の身着のままにて逃げよ!!」 ランツクネヒトが来る! あの薄汚いズボン姿の、乞食の兵隊が、我が館の財産目当てに襲い掛かってくるのだ! 私の叫びと共に、家人が全員家から飛び出していく。 側近が叫び返してきた。 「大丈夫ですよ、テメレール様! 普段からの逃亡訓練は家人全てが欠かしておりませんので!」 「死んだら終わりだからな!」 私は絶叫する。 そうだ、死んだら終わりだ。 死んだら何もかも失ってしまう。 逆に死なない限り、それは勝利である。 「逃げは負けではない! 私は頭を下げてない! 次にあった時、あの蛮族カタリナはぶち殺す。全員、生き延びるぞ! さあ逃げるぞ! やれ逃げるぞ!」 「はい、テメレール様」 さあ、勝利するぞ。 私は見事あの蛮族ヴィレンドルフの女王から生き延びた。 つまり勝利である。 次は館からの脱出である。 私は伊達眼鏡の縁を抑え、一呼吸だけ息を吐く。 まずは状況把握だ。 「カタリナは!」 「追ってきません!」 まず、カタリナは動かない。 あの蛮族女王は、動かない事を選んだ。 ならばよい。 「武装している暇はない。荷物をかき集めている暇もない。ランツクネヒトが来るぞ!」 ランツクネヒトだ。 甲冑を着た乞食どもだ。 さて、乞食には乞食に与えるにふさわしい餌というものがある。 配下の一人が、袋を担いできた。 「金貨袋を持ってまいりました! 逃げる際に撒きましょう! あの乞食の殆どは、我らなんぞ無視して這い蹲って拾うでしょう」 「よろしい」 乞食には小銭こそ役に立つ。 金なんぞ幾らでも後で稼げる。 今は、命を優先すべきであった。 「正面玄関から逃げるぞ。我が配下ども、殺しの準備は済ませたか」 「は!」 「おのれらに告ぐ。いつもの話だ。いつものように返事せよ」 鎧を着ている時間は無い。 我が配下どもはその礼服に仕込んだナイフだけを手に掴み、完全武装のランツクネヒトを相手どらねばならぬ。 甲冑を着た乞食の数は数百名を超える! こちらは私を含め、ナイフで武装しただけの数名である。 なれど! 「我が配下ども。私はおのれらの事を知っているぞ。誰よりもよく知っているぞ。おのれらは本当にどうしようもない者たちだ。クズばかりだ。私に侍っているだけの犬にすぎぬ。その価値しかない。おのれらはそれだけの存在でしかない」 「理解しております」 配下は声を揃えて応える。 私の犬ども。 人殺しにおいては何よりも優れたものたち。 「私はおのれらの主人だ。おのれらの出自は知っているぞ。酷いものだ。弱い民を襲うが仕事の元山賊、人殺しが生きがいの元傭兵、食い扶持にあぶれた元農民、親姉妹親族が山賊に皆殺しにされて孤児になった元旅芸人、どこでも石を投げられる被差別民、明日のパンにありつけない捨て子、生まれついて神から祝福なんぞ与えられなかった、犬コロとして産まれついた運命の奴隷どもの集まりだ。カスだ。墓に埋もれる価値すら無く、死体すら地面から引きずりだされて野良犬に食われる末路が精々であったものだ。私のように貴種の中の貴種として生まれついた者とは天と地の違いがある。貴様ら偽物の青い血と、私の純潔とでは違いがあるのだ。理解せよ!!」 「理解しております!」 「おのれらは犬に過ぎない。くだらぬ人生を生きて、くだらぬままに死ぬ。そのようなものだ。だが、たった一つ良いところがあった」 たった一つだけ。 たった一つ、『超人』という全てを覆す鍵を生まれついて持ってきた。 「おのれらは『超人』であり、おのれらは私にそれを見込まれた。人の首を、草花を千切るように平気でへし折れるものとして産まれてきた。私は言ったぞ、おのれら犬に約束したぞ、私の領地にて産み落とされるという栄光を与えられたゆえに、おのれら超人の全てに約束したのだ。私に絶対の忠誠を誓うならば、全ての栄光を与えて良いと。輝かしい人生を与えてやると! 貴族としての地位も! 領地も! 城も! おのれらの血をそっくり青い血にしてやると約束して、その約束通りに何もかもをくれてやってきた! 人生をひっくり返してやったんだ!!」 「理解しております!」 私の心のボルテージは上がっている。 そうだ。 雑魚どもが、畜生どもが、私の野望を打ち破れることなどない。 負けるとすれば、悪魔として生まれるはずが、うっかり人間として間違って産まれてきたあのレッケンベルくらいのもの。 死んだ以上、もはやこの世に恐れるものは何もない。 私が人生で恐怖を覚えた相手など、獣が火を恐れるようにして怖がった相手など、レッケンベルのみだ。 それが死んだ以上、もうこの世に怖いものなどあるものか! 私は、この世の全てに勝利することができるのだ!! 「レッケンベルはもういない! あの悪魔はくたばりやがった! つまり結局のところ、私はレッケンベルにどうしようもないほどに勝利してしまったわけだ! レッケンベルに勝ったという事は、この世で一番強いという事にほかならぬ!!」 私は屋敷の全てに響き渡るような絶叫を行う。 ヴィレンドルフの阿呆どもにも、聞こえるような絶叫を行うのだ。 「おのれらは生きているか! 勝利しているか!! まったくもって完全勝利してしまっているのか?」 「まったくもって生きております! テメレール様! まったくもって完全勝利であります!」 配下全員が答える。 背筋はしっかりと伸びている。 「おのれらは負けているのか! どうしようもない人生だからと全て投げてしまったのか!? 負け犬に過ぎぬのか!!」 「まったくもって違います! テメレール様! 仮に負け犬という言葉が裏返るとすれば、我々は勝ち犬と呼ぶべき存在でありましょう!!」 配下全員が答えている。 声を張り上げて、いつもの儀式を行っている。 「よーし、よし、よし。負け犬はいないのだな。これで終わりだなどとふざけた事を抜かすような者がいれば、ここで死んでもらうところであった」 「我ら死に至るのであれば、全員がテメレール様の御傍にて!」 「よろしい! おのれらに告ぐ!」 私は歓喜に震える私の犬どもに、どうしようもなく惨めな人生を与えられてきたものに、私の領民であるがゆえに全て与えてやった慈悲に対して。 貢献を以てして応えてもらうのだ。 「今から館を放棄し、近くの堡塁へと向かう! あそこには食料がある! 潜ませていた配下もいる! 大砲もある! 我が領地から救援が来るまでは、完全に持ちこたえることが出来るであろう!!」 「承知いたしました!」 「ランツクネヒトどもが来る! 最低でも3桁はぶっ殺すぞ! 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!!」 ボルテージをあげていく。 血肉を滾らせ、超人としての暴力を薄汚い乞食どもに振るうのだ。 こんなところで私が死ぬわけがない。 シャルロット・ル・テメレールが死ぬなどと、神が許してしまうならば。 私は生存という形を以て、神に完全勝利してしまう事になるだろう。 そう、神でさえ私は屈服させてみせるのだ。 眼鏡の縁を撫ぜ、私は高笑いをしながら正面玄関へと、我が犬どもを引き連れていくのだ。 誰よりも威風堂々として、私は強く胸を張った。 第126話 狂える猪の騎士団 タイプライターや輪転機など未だ生まれていないこの時代にも、帝都のような超巨大都市においては新聞が存在している。 この世界でいつごろから活版印刷技術が用いられているかは知らぬが、まあその辺りはどうでも良い。 ともあれ、活字組版により生産された新聞が、私の手には握られている。 内容を意訳すれば、こうである。 ◇◇ 1 ◇◇ 帝都ウィンドボナ速報! 『テメレール猪突公とランツクネヒトの闘い』 先日、あのテメレール公が起こした騒動は皆さんもご存じでしょう。 テメレール公に対し、ランツクネヒトがフェーデを挑んだ! テメレール公側、公爵当主含め僅か騎士7名。 ランツクネヒト側、指揮官、下士官含め総勢およそ500人。 話にもならぬ勝負、目に見えた勝敗。 ランツクネヒトは歌う。 あの猪めはわれらランツクネヒトのことを 甲冑を着た乞食どもだ 今でも死んだレッケンベルの従僕だ やつらだけではなにもできない 放火殺人をしては手を叩いて喜び、臆病者の農民をあぶり焼きにして略奪するだけの 自分の利益しか考えることのできない、一生死体を這う蛆虫であるなどとぬかした 誇りもなにもなく、金以外に何の興味もないものと蔑んだ 財産を掠奪して殺すに十分値する侮辱である 自分の舌禍を恨んで死ね、物狂いの猪めが! ◇◇ ◇◇ 要するに、ランツクネヒト側がテメレール公に私戦を起こしたのだ。 テメレール公の普段の舌禍が招いた暴動であった。 と、この新聞には書かれている。 私はカタリナ女王の顔を見つめた。 「うむ、ファウストよ。まずは新聞を読め。確かに、先ほどから私がお前やアナスタシアに話している内容と齟齬があるが……」 言いたいことはあるが、とりあえず表向きにはランツクネヒトが起こした私戦として処理されている。 カタリナ女王がテメレール公殺害を目論んだこと、それには触れておらず、どうも『そういう事にした』ようだ。 税金払ってないから帝都市民じゃないランツクネヒトに、フェーデの権利があるのかというと酷く疑問であるが、まあ今は重要な事じゃない。 アナスタシア殿下の元に、いつもの無表情で訪れたカタリナ女王。 彼女が持ってきた新聞の内容が気にかかる。 「はあ、まあ続きを読みます」 ◇◇ 2 ◇◇ 彼方、テメレール猪突公。 屋敷を取り囲むランツクネヒトどもを見やった後、門を開け放ち、合図とともに騎士が金貨銀貨を一斉に放り投げる。 此方、ランツクネヒト。 数枚拾えば自分の年給をも超える額と知り、誰もが狂喜の声を上げる。 すぐさま歌をやめ、一斉にそれを拾い始める。 まさしくテメレール公の言う通り、甲冑を着た乞食どもなり。 テメレール公及び騎士6名、それを無視して一斉に包囲中央へと突撃を始める。 ランツクネヒトの歌に対する返事が為された。 我ら、狂える猪の騎士団なり 死など忘れた騎士団なり 我ら僅か6名ばかりの超人なれど、神の慈悲など与えられたことなどこの生にない 代わりにテメレール公よりの恩寵を賜るなり 千剣の敵兵が眼前におろうとも 一人たりとて生かしておかぬ テメレール公が敵だと仰られたならば それが神であろうと殺してみせよう 死ね、甲冑を着た乞食どもが! 返事は、ランツクネヒトの血飛沫とともに行われた。 まず前列にいた、ランツクネヒトでも優秀な倍給兵の7名が殺された。 槍衾をナイフ一本で切り落とし、日暮れの人影のように足を延ばし、あっさり喉をかっ切った。 最前列が、それだけで崩れた。 背後に回って包み込め、と指揮官が叫んだ。 多くのランツクネヒトは、地面に這い蹲って金貨を拾っている。 ある者などは、他人が拾ったそれを奪おうとさえしている。 統率など、まるでとれていなかった。 テメレール猪突公と『狂える猪の騎士団』の脅威に晒されているものだけが、理解している。 今そんな事をすれば死ぬことを。 そんな事しなくても死ぬことを。 どちらにせよ、大猪の突撃を受ければ、人は四肢がもぎれて死ぬのだ。 御助けを。 前線の兵士から悲鳴すら出始めた。 騎士と兵士の力量差は歴然としている。 超人騎士と兵士との差となれば、もはやどうにもならぬ。 個では敵わず、それが背後をつけぬ集団相手では火を見るよりも明らかな結末なり。 帝都を燃やし尽くす大火に、如雨露程度の水をかけて何の意味があろうか? 瞬く間に30名が殺された。 テメレール猪突公、気炎を吐く。 何も語らず、何も喋らず、一方的にランツクネヒトを殺せり。 彼女の気質、帝都の歌に伝わるレッケンベルとの一騎打ちの様と相違無し。 本気になれば何も喋らぬ。 眼光鋭く、指揮官だけを睨めつける。 「銃兵隊! 発砲! 味方ごとで良いから撃て! 次はお前たちが殺されるぞ!!」 指揮官の合図とともに、マスケット銃を抱えた80名が一斉に発砲する。 彼我の距離は短く、弾丸は対象範囲に集束せり。 なれど、テメレール猪突公と『狂える猪の騎士団』を一人も傷つけられず。 哀れなるランツクネヒトを両手に捕まえて引き寄せ、生きたままの彼女たちにて銃弾を防ぎたり。 用済みの死体をそのまま銃兵隊に投げつけ、マスケット銃の次弾を放てぬ彼女たちに死の影が忍び寄る。 逃げ惑う者は無視し、最後列へと向かう片手間に銃兵隊を殺傷せり。 またもや一方的な殺戮が行われた。 テメレール猪突公が通り過ぎた後には、30名の死体が残っている。 ランツクネヒトの死体だけを生産する行軍が続いている。 テメレール猪突公と『狂える猪の騎士団』による地獄の行軍は続いている。 数で劣り、武装で劣り、包囲されている。 にも拘わらず、テメレール公による一方的な突進は続く。 超人とはここまで恐ろしいものか。 超人が固まって動くと、このように動くのかと。 テメレール公付近の館の貴族が、窓から様子を眺める限り全てを語るところなり。 狂った猪の突進が続く。 哀れな兵士の死体が増える。 それだけが延々と続く。 誰もが先陣のテメレール公に殺戮されていき、それを包囲させないようにして『狂える猪の騎士団』が補佐を行う。 ランツクネヒトたちは一方的に死んでいく。 もはや、包囲を試みようとするものすら減り始めた。 彼女たちに勇気が無いわけではないだろう。 「テメレール公を殺せば、特別なところから褒美があるぞ! 勇気ある者はおらんのか!!」 指揮官の絶叫は、誰の心にも響かない。 先ほど自分のポケットに年給を超える額の金貨を入れたのに、更なる金欲しさで狂った猪に突撃しろなどという命令を誰が聞くのか。 塵芥のように消費されて死にたくはないのだ。 これは戦場ではなく、自陣の中央を突き抜けていく猪に追いすがらない分には、後で罰せられる理由もなかった。 記者たる私めが、最初にこう書いたのは覚えておられるだろうか。 話にもならぬ勝負、目に見えた勝敗。 ランツクネヒトたちは最初そう考えたであろうし、誰もが普通はそう思う。 認識が甘かったのだ。 慢心が彼女たちの足を引っ張っている。 この時点で、後悔を抱いている。 ある兵士が、首を斬られるときに叫んだ。 レッケンベル様! 黙々と殺戮を続けている猪突公の代わりに、『狂える猪の騎士団』の一人がこう答えた。 もうあの悪魔は死んだよ! テメレール様の天下だ!! 愉快そうな声であったと、近くの陰に身を潜めていた市民が証言している。 正直、これは新聞であるがゆえに、騒動の全てを最後まで記しはする。 なれど、書くことはあまりない。 テメレール公はランツクネヒトの戦列を真っ二つにするように突破し、最後列の指揮官を殺害して、そのまま館から逃亡した。 まさしく「猪突公」の突進であった。 ランツクネヒトは指揮官が死んだので、内部ではその責任のなすりつけが始まっているそうだ。 「ざまあみろ!」 テメレール公は百名を超えるランツクネヒトを殺害し、最後に指揮官を殺した後にそう叫んだそうだ。 そして現在、テメレール公は付近の堡塁に立て籠もり、やはり数百のランツクネヒトに包囲されている。 なれど、もはやランツクネヒト手が出せず。 私戦ゆえに帝都の兵士は双方の間に兵士を置き、これ以上の事態の悪化を抑えている。 アナスタシア選帝侯の慶事を目の前にして、帝都ウィンドボナ動乱の動き有り。 愛する市民の方々は、現地にはどうか近づかぬように! ◇◇ ◇◇ 新聞を完全に読み終える。 その意図を告げるため、アナスタシア殿下とカタリナ女王が座っている席の間の机。 そこに新聞を置いて、どうぞ、とばかりに掌を上に向けて会話を促した。 「お前これだけボロボロに負けて、よくここに顔出せたな。ファウストに恥ずかしいと思わんのか」 アナスタシア殿下が、ゴミを見るような目でカタリナ女王に話しかけた。 ある意味感心するという口調であった。 「いや、別に負けてないぞ。私はちゃんと結果がこうなるだろうと読んだし、ランツクネヒトが死んでも、私は痛くも痒くもないし。ただ、嫌がらせにランツクネヒトを嗾けるのはすべきでなかった」 感情があまりよくわからぬカタリナ女王。 本当にそう思っているのかいないのか、私にはよくわからない。 いつもの無表情で、どうでも良さそうに言葉を続ける。 「すぐに数は農村から補充できるし、死んだこと自体は何の問題もない。ただ、ランツクネヒトが割と本気でテメレール公にビビり始めたのが問題だ。根性なしどもめが」 正直、少しランツクネヒトの脆弱さに責任転嫁してないか? と思うが。 まあ、カタリナ女王だって全て何もかもを読める人間ではない。 「総指揮官がレッケンベル卿からお前に代わったせいだろ。お前の無能だ」 「ファウストを侮辱されたのに、ろくにケジメもとれん無能のお前に言われたくはない」 「なかなか面白い事言うな。少なくともお前よりは有能だよ。私はちゃんとテメレール公が、どうもよくわからない人物だから様子見した。あのさあ」 私が言いたいのは、テメレール公の力量をレッケンベル卿から聞いていただろうに、それでも油断したお前の知能に問題があるんじゃないかって事だよ。 そのようにズバズバと物を言うアナスタシア殿下。 「いや、レッケンベルの日記では、帝都ウィンドボナでの記録なんか『5回も見た! 5回も来た! 5回も勝った!』ぐらいしか書いてない。実際、戦でも一騎打ちでも一方的にテメレール猪突公に勝ってるんだぞ」 そこから何を読み取れと言うのか。 やや視線を背けて、カタリナ女王が弁明をする。 そして、話を逸らすようにして呟いた。 「まあ、私の失点があるとすればだ。超人騎士団作ってるなんて知らなかったんだよ。テメレール公は噂に聞いた忠臣どもを失いながらも、最後になんとか逃走に成功した程度に思っていた。一応聞くが、ファウスト。お前ひとりでここまで出来るか? 総勢500名のランツクネヒトに突撃し、3桁殺して逃げ切ることが出来るか?」 少し、考える。 カタリナ女王は、おそらく否定して欲しいんだろうが。 「私なら可能ですが」 不可能という嘘は言えなかった。 超人騎士団すら必要が無い。 愛馬フリューゲルと愛剣のグレートソードがあるならば、もう確実に虐殺した上で逃げ切れる。 銃兵隊80名の発砲に対しては、さすがに甲冑が欲しいところであるが。 致命傷となる銃撃さえ弾き返せば良いだけだから、無くても死なぬ。 「え、できるのか?」 アナスタシア殿下が呟く。 カタリナ女王も驚いた様子ではあるが、どうも二人とも超人の部類の癖に、完全な武人というわけではない。 だから、理解が足りないのだ。 「アナスタシア殿下。カタリナ女王。ハッキリ言えば、私やレッケンベル卿であれば今回と同じ虐殺が一人で可能です。何度か騎馬突撃すれば、500名を皆殺しにすることだって可能です。疲労に耐え、全力で力を発揮できる時間は長く、一つ息を吸えば削れた体力は容易に回復していく。そのようなものです。超人というのは」 「……? いや、ファウスト。レッケンベルとて」 そこまで無敵ではなかった気がするのだが。 カタリナ女王がそう呟くが、ようするに超人と言えど致命傷を負えば死ぬ。 首を刎ねられれば死ぬのだ。 だから、私もレッケンベル卿も戦場では基本安全策を取っていたにすぎぬ。 「騎士としての訓練を受けた重装甲騎兵数名に取り囲まれれば、それは厳しいですけれど。事実、私とてヴィレンドルフの騎士に囲まれると厳しいですよ。ですが、完全武装でもない兵士相手なんぞ、一方的に虐殺するだけとなりますよ」 要するに、今回は力量差がありすぎたにすぎぬ。 ヘヴィー級ボクシングチャンピオンと5歳児が殴り合いしたら、そりゃ5歳児が数百名いても一方的に殺されるだろう。 私から見れば、そのように当たり前の結果に過ぎないのだが。 「ええ……」 「いや、レッケンベルはそんな無茶苦茶しないんだが」 二人とも否定する。 私は何一つ間違った事は言っていないつもりだが。 レッケンベル卿とて、同じことを言うだろう。 私なら別に勝てるけど、私を必死に庇おうとした領民(部下)が死ぬから、あまり無茶してないだけだよと。 「ファウストの意見は興味深いので、また聞きたい。だが、今話したいのは私がここに来た要件についてだ。別に自分の尻を拭いてくれと言いたいわけではない」 「まあ、ランツクネヒトが恐怖しているだけだしな」 そうだ、テメレール公の結末は決まっている。 結局、超人騎士団がいたところで何だというのだ。 数の暴力には超人とて叶わぬのだ。 万軍と万軍が衝突する戦場であれば、超人とて容易く死ぬ。 たかが500名という軽武装の少数で超人の集団に挑んだのが、このファウストに言わせれば間違いなのだ。 「テメレール公がいくら抵抗したところで、戦えばヴィレンドルフが勝つ。なんならランツクネヒトを動員するだけでも勝てる。だがな、ここまで面倒くさいことになると判断に迷ってな」 「殺すべきか、殺さざるべきかをか?」 「それもある。だが……いや、そうだな。色々考えた事はあるが、究極的にはそうだ。考えれば考えるほど、アイツに何もかも情報吐き出させた方が良さそうだ」 認めよう。 このカタリナの判断は間違いであった。 そのように、ヴィレンドルフ選帝侯が自戒する。 「殺すべきではないだろう。ユエも、最新の遊牧騎馬民族国家の情報をしきりに知りたがっているしな」 「なれど、一発ぶん殴る必要はあるだろう。屈服させなければならん。あの無茶苦茶な女を皇帝にするなんぞ在り得ぬ」 「理解している。でも、普通のやり方であの頭おかしい女が屈服するわけない」 結局のところ、二人とも誤解しているのではなかろうかと思う。 あのテメレール公の考えは私にも読めぬが、二人とも頭が良すぎて、視界が曇っている。 もっと、問題はシンプルであるべきだ。 「解決方法はあります」 私は、率直に二人に訴えることにした。 要するに、侮辱された私がぶん殴れば良いのだ。 第127話 キャノンボール! 思い立ったが吉日である。 二人の選帝侯を説き伏せ、私はテメレール公が立て籠もる堡塁へと足を向けた。 傍には、アレクサンドラ殿とユエ殿が付いてきてくれている。 流石に、単身では出向かせるわけにいかぬとの仰せだ。 「ポリドロ卿、兜は本当に必要ないのですか?」 「必要があれば、被るとしましょう」 ヴィレンドルフの強力な客将たるユエ殿。 それに兜持ちをさせるなど、少し心苦しいのであるが。 「顔を見せぬままに、テメレール公と会話するのもなんですから」 私の目的とは何か。 酷くシンプルに言ってしまえば、あの28歳のメスババアたるテメレール公に「わからせる」ことだ。 今までの内容を鑑みるに、私が考える限りの話ではあるのだが。 自分で「死んだ! レッケンベルは死んだ!」などと何度も口走っている癖に、心のどこかできっと信じていないのだ。 レッケンベル卿が死んだとは、どうしても信じ切れていない。 私はそういう者たちをヴィレンドルフにおける一騎打ちで知っていた。 99人の勇敢なるヴィレンドルフの騎士たちが、何度も何度も口にした言葉だ。 レッケンベル様は確かに死んでしまったのだ。 そのたった唯一の事を、実のところ理解したくないのだ。 テメレール公は、奇妙な人物だ。 罵ってしまえば、酷く肥大した自意識過剰のそれ。 アナスタシア殿下やカタリナ女王を下に跪かせるべき存在だと自分を認識しているもの。 男に負けたなどあり得ぬと、見識違いの性差別。 正直、その辺りはもうどうでもよい。 私は、領主騎士としてやらねばならぬことを、今からやるのだ。 「目的を整理したく。テメレール公は何も認めない。マキシーン一世皇帝陛下を認めない。アンハルト選帝侯を認めない。ヴィレンドルフ選帝侯を認めない。このファウストが、レッケンベル卿を打ち破った事を認めない」 「血迷うておられるのです」 アレクサンドラ殿が、横合いから口を挟んだ。 先日、堡塁まで再度話し合いに訪れたが「勝つまで止めねえぞ!」と言われたと愚痴っている。 私は、先ほど挙げた認めなかった事の羅列。 その最後だけは、そうとも言い切れないと呟く。 「レッケンベル卿のことだけは、テメレール公はそこまで間違えていない」 テメレール公だけではなく、帝都の誰もが私がレッケンベルに勝てたとは思っていない。 それはこの世界における普通の男への考え方もあろう。 テメレール公の男嫌いもあろう。 なれど、それだけではないのだ。 確かに、レッケンベル卿に勝ったとは、私ですら疑わしい。 私は彼女を倒したという誇りを持たねばなるまいが、やはり二度目も勝てるか? あと一年若ければ勝てなかったのではないか? 技量は負けていた。 速度が負けていた。 判断力も負けていた。 彼女の槍が早かった、彼女の槍が重かった、私の剣など届かなかった。 そのような事を今でも考えるのだ。 テメレール公は、確かにどうしようもなく無茶苦茶な行動をしているし、別に弁護の余地はない。 アレクサンドラ殿が言うように、何か血迷った狂人の行動である。 なれど、一つだけ正しい事を言っている。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿が、レッケンベル卿に勝てるわけがないのだ。 私は今でも自分が勝利できた理由について、たまに理解できなくなる。 「アレクサンドラ殿、ユエ殿。私はテメレール公を今から殴りに行く。私への侮辱に対して、私は報復しなければならない。そういう理屈で殴りに行くのです。同時に、一つ確認したいことがあります」 「それは?」 「私の超人としての力量が、どれほどかの確認です」 アレクサンドラ殿、ユエ殿が一度互いに顔を見合わせて、その後にこちらを見る。 「テメレール公を試金石にされようと? 手合わせ程度であれば、私と何度もやっているではありませんか」 アレクサンドラ殿が不思議そうに尋ねる。 正直に言えば。 「アレクサンドラ殿。貴女の技量は確かでありますが、私は本気を出しておりません。そもそも、私が本気を出したのは、本当に真実本気であれたのは、レッケンベル卿との一騎打ちだけでありましょう」 死狂いである。 ずっと、色々ややこしい事を考えてきた。 その結論として、やはり私はレッケンベル卿より弱かったのだ。 あの時点で技量の何もかも、私はレッケンベル卿に劣っていた。 それでも勝てたのは、死に物狂いであったからだ。 技量において劣る私が、真実本気で生にしがみ付き、死狂いの境地に至ったから勝利できたのだ。 「テメレール公が、それほどの実力者でしょうか。私は神聖グステン帝国の人間ではありません。ゆえに、レッケンベル卿の強さは判りません。なれど――」 「ユエ殿。多くの者が見誤っておりますが、私はテメレール公が弱いとは思わないのです。頭が悪いからと、感覚がおかしいからと、それで誤魔化されてしまっている。何もかもが、アスターテ公爵の見解が正しいと思うのです。彼女は強力な超人であり、英傑なのです」 レッケンベル卿に五回負けた。 それでもテメレール公は挑んでいたし、次は勝てるとさえ思っていたと聞く。 誰がどう考えても頭がおかしい。 だが。 私とて、正気とは言えないだろう。 私は感情が昂ってしまうと、自分でも何をしているのかよくわかっていない時があるのだ。 多分、あまり頭がよろしくないのだろうな。 自分でも、そう思う。 案外、テメレール公と私は似た者同士なのかもしれぬ。 何処か欠けているのだ。 そして、私は欠けた代わりに得た、この超人としての腕力によって生きていく領主騎士である。 「私はテメレール公に期待をしているのです。彼女の超人騎士団に期待しているのです。私は彼女達七人に挑むつもりでいるのです」 「ポリドロ卿、それは」 「彼女達七人の騎士に、超人騎士達に連戦での一騎打ちを挑むつもりでいるのです」 以前から考えていたことである。 自分の力が何処まで届くか、一度試してみる必要があった。 それは訓練ではなく、戦場でもないが、死地に近くはある状況。 どこまでも死に近い代償や誇りを賭けとした、名誉ある一騎打ちによる死闘こそが必要であるのだ。 「お二人には、立会人になって頂きたい。私が相手を殺してしまおうとしたら止めて頂きたい。相手が私を殺してしまおうとしたなら止めて頂きたい。超人にしかできぬ仕事です」 私は二人に頼み込む。 「反対です!」 「なるほど、是非おやりなさい」 二人の反応は、両極端であった。 アレクサンドラ殿が、ユエ殿を睨みつける。 「ユエ殿! 貴女、ポリドロ卿とて超人七人相手では!!」 「勝てるか勝てないかが問題ではありません。良いではないですか。ポリドロ卿が己の信条に則って、己のあり方を示そうというのです。理不尽を武力にて踏み潰そうというのです。ポリドロ卿は男なれど、誠に以て武人として最も尊いものが何かを理解しておられる。貴女はポリドロ卿を侮辱なされるおつもりか?」 「東方人の考え方を、騎士に押し付けるでないわ!!」 二人の言い争い。 おそらく答えは出ないだろう。 だが、これはアナスタシア殿下、カタリナ女王の両方から渋々ながらも了承を得ている。 一応お願いこそしたが、すでに決定事項だ。 さて、二人が争っている間にも、堡塁に到着した。 ランツクネヒトは遠巻きに窺っている。 帝都兵は、困った顔で通行を許可した。 「そこで止まれ!!」 その声は、夜会にて知っている。 石造りの堡塁の上に立ち、横には大砲がある。 いつもの伊達眼鏡で、少し年増であり険のたった美人。 それが厳しい口調で、私たち3名に静止を求めた。 「それ以上近づけば、お前らをこのファルコン砲にて撃つ!」 車輪付き、移動可能であり砲身の長い砲。 なるほど、堡塁であれば大砲も備えているだろうな。 「テメレール公に嘆願がある! どうか対話を願いたい!!」 「不許可である! これはランツクネヒトとの私戦である! 選帝侯の使者はお引き取り願いたいものだ」 予想された返事。 言葉通り、選帝侯まで表向きに敵に回すと負ける。 そのようにテメレール公は判断している。 ゆえに、カタリナ女王陛下が強引に「そのようにした」話に乗っかっているのだ。 私にはもはや関係ない事だ。 「くだらぬ問答はもはやいらぬ!」 この領主騎士に。 ファウスト・フォン・ポリドロには何の関係もないことだ! 知った事ではない!! 「テメレール公にとって利益のある話をしよう。貴女が私に勝利するならば、全てを与えよう。そんな話だ。聞くに悪い話ではないと思うが」 一歩、歩みを進める。 「そこから動くな!」 「動かなければ、対話は叶わぬ」 「火を付けよ!」 砲兵が動く。 すでに大砲に火薬と弾は込められているだろう。 砲兵が持つ点火棒には火が付いており、大砲の尻に火が付けば、すぐにでも砲弾が発射される。 「対話を望めぬか!?」 「レッケンベルを殺したなどと?を吐き、偽物の名誉を掲げていい気になっている腐れ乞食の小僧風情が調子にのるな! 私がどれほどの怒りを抱きながら、どれほどの屈辱で、あの夜会で貴様を褒め称えたか理解にすら及ばぬか!!」 テメレール公は激昂している。 それを本気で信じているならば、怒りも当然である。 「ユエ殿、アレクサンドラ殿、離れていてください」 「承知!」 ユエ殿が、アレクサンドラ殿の手を引っ張る。 アレクサンドラ殿は困った表情を一瞬だけして、やがて諦めて離れた。 「死ね小僧! その五体バラバラにして地に撒いてやるわ!!」 「撃ってこい!」 私はグレートソードを抜刀した。 剣帯は背中でたすき掛け、斜めに差している。 体格で雑嚢を抑えるような感じで、強引に安定させているのだ ぶらつかないようにベルトで鞘を固定しているが、鞘にはスリットが入っていて。 私の馬鹿力だと何もかもをぶちぎって、緊急時は背中の鞘から無理やり刀身を引き出す事が可能であった。 ベルトを、ぶつりぶつりと引き千切る。 「我が怪力、地を砕き天を切り裂くと母マリアンヌに褒め称えられたものだ。我が愛する母に認められたものだ。それが、たかが砲弾風情を」 テメレール公がファルコン砲と呼ぶ、野戦砲。 それが、私めがけて発射された。 「どうして撃ち破れぬものか!!」 砲弾が飛んでくる。 テメレール公の砲兵は優秀で、まっすぐに私を目掛けて一撃を放つ。 宜しい。 非常に宜しい。 これで、私にすら届かぬとあれば、とんだ興ざめだ。 歯を食いしばった。 グレートソードを腰に回す。 いつもの片手ではなく、両手である。 両足は力強く、地に張り付いている。 我が総身の力を、先祖代々伝わる魔法のグレートソードに伝えるのだ。 このグレートソード、よくわからぬ。 ヴィレンドルフの騎士を先祖が殺して奪ったものである。 領主騎士といっても、教養の無い私には何の力が込められているのかわからぬのだ。 ただ、壊れない。 何があろうとも、何を殴ろうとも、地を砕こうとも、空を切り裂こうとも、何があろうと壊れない。 それだけの信頼があるのだ。 ならば、このファウスト・フォン・ポリドロにとってこれ以上の剣などは、この世の何処にも存在しない。 血肉を沸騰させるために、祝詞のような言葉を呟く。 「おれはひとりの修羅なのだ」 宮沢賢治の一句であった。 そぐわないもの、ではない。 あのうねりのような詩を口にするたびに、我が血肉は沸騰するようなものを感じるのだ。 リズムを、合わせて。 「――」 嗚咽のような咆哮が、響いた。 砲弾と剣がかち合い、轟音が鳴り響く。 なれど。 私が負けるものか!! ただ、受け止めるだけのくだらぬ結末など許されぬ。 意味があるのは。 この砲弾を堡塁にぶつけてこそにある! 「――雄々!」 受け取れ、テメレール公。 とりあえずの挨拶ばかりである。 堡塁の門へと、砲弾が撃ち込まれた。 木製の大門が衝撃に耐えられず、破砕音ともに砕け散る。 門の閂が、石畳に落ちて音が鳴る。 カーン、と金属が震えて鳴り響く音が、小気味よく聞こえた。 「テメレール公、今からそちらに話し合いに出向く! 茶と菓子を用意して待っていろ!!」 私はテメレール公に届くよう、全身に力を込めて大声を張り上げた。 第128話 勝利条件 ずしん、とした衝撃が、足の裏に響く。 気が付けば、轟音と共に堡塁の門が砕け散っていた。 ファルコン砲の砲弾を、あの男が撃ち返したのだ。 馬鹿な! そんな事が人間に出来るわけがない。 超人などと呼ばれようとも、人には神に赦された領域というものがあるではないか。 なれど、こちらとて騎士よ。 すぐさま戦況報告を上に伝えねばならない。 「――被害を報告せよ。門に土嚢を詰めろ! 決して誰も堡塁に入れるな!!」 轟音と同時に辺りが一斉に静まったのに対し、私は辛うじて声を上げることができた。 これでも、我らはテメレール家の家臣である。 必死になって声を張り上げたに対し、皆がすぐに動いた。 何か情報を得ようと、必死に周囲を見渡す。 30mもの高さを誇る、立派な石造りで出来た堡塁の屋上から見える光景は異様である。 さっきまで、筋骨隆々の醜い男騎士が何の芸を見せるものかと嘲笑っていたランツクネヒト。 一応は止めようとしたが、死ぬだろうなと薄笑いで見送っていた帝都兵たち。 ここから、彼女たちの表情までは窺えぬ。 嗚呼、なれど、誰もが思う事は偏に同じであろう。 何だ、あの男騎士は? レッケンベル卿を倒したなどとフロックではなかったのか? いや、そもそもが英傑譚の功績自体が他人に譲られた偽物で、帝都市民とて誰も信じてはいないだろう。 そのように看做されていたポリドロ卿という男騎士が、砲弾を撃ち返した余韻を断ち切るようにして、一歩一歩とこちらに歩き出す。 「テメレール様、ポリドロ卿がこちらに来ます!」 「――」 テメレール様は、足元からの振動に動じた様子もなく。 ただ、まなじりを決して、少しだけ黙り込み。 「ふん」 形の良い鼻を少しだけ鳴らした。 「なるほど、レッケンベルを相手に正々堂々勝利したなどと嘘を吐くだけの事はあるらしい」 「テメレール様!」 まだ信じていないのか、この御方は。 確かに私とて、あのレッケンベル卿に勝利したなどという話は疑っていた。 誰も信じていなかったのだ! 別にテメレール様の見識が劣っていたわけではない。 だが、飛んでくる砲弾を目の前にして、腰だめの剣で砲弾を撃ち返すなどと。 狂人じみた行為を実行できる超人など、この世にいるものか! 私はそう呟こうとするが。 「レッケンベルならば、同じことが出来た!」 その言葉を先読みされ、強く跳ね除けられる。 レッケンベル卿の強さを思い出すようにして、どこまでも言い張るテメレール様。 私はそんなことはない、と言おうとしたが。 「はい、仰る通りです」 出来たのかもしれない。 あの瞳が見えるかどうかの細目に、アルカイックスマイルを悠然と浮かべた悪魔超人であれば、可能であったのかもしれない。 私はテメレール様が何度も何度も挑み、そして全て半殺しの目にあったのを見ている。 『狂える猪の騎士団』と共に割って入り、何度も救出しているのだ。 五回目には、レッケンベル卿に騎士団ともども全員仲良く半殺しにされたが。 「間違いなのだ。全てが狂った。全てが『あの男のせいで』何もかも狂ってしまった。あの男のせいだ、あの愚物のせいだ、何もかもが間違えてしまった」 ぶつぶつと、自分に言い聞かせるように独り言を続けている。 テメレール様は、男嫌いである。 この世の男など、全て繁殖するだけの家畜であり、種馬としか看做していない。 なれど、ここまで嫌うようになったのは。 レッケンベル卿という終生の好敵手と賞賛した相手が、儚くなってしまってからだ。 脆くも死んでしまった。 たった一度の一騎打ち、名も知られぬ男騎士との争いの末に打ち崩されてしまった。 テメレール様にとっては悪夢のような出来事である。 「――テメレール様、その男がこちらに来ます。如何しますか」 「如何しますか、か。テメレール領の騎士に、兵士に弱兵などおらぬ。なれど、なれど」 言いたくない言葉。 それを無理やりに紡ぐために、全身に瘧のような震えを走らせている。 なれど、最後まで指示は行われた。 「話を聞く。兵を抑えろ。使者に対し相応しい態度をとれ。門を土嚢で埋めるなど、無駄な事はするな。あの男は容易く蹴破る」 「はい」 私はすぐに配下に視線をやり、連絡兵は大声を張り上げながら堡塁中を走り始める。 そのような対応をしている間にも、一歩一歩とポリドロ卿はこちらに歩いてきている。 アンハルト選帝侯の将軍であるアレクサンドラ卿。 そしてヴィレンドルフ選帝侯の客将である東方人ユエは、三歩ほど遅れてくっついていた。 超人同士の大音声による、会話が始まる。 「シャルロット・ル・テメレールである!」 「ファウスト・フォン・ポリドロであります。先ほどの大砲による挨拶は楽しめました。そちらのご機嫌は如何?」 「不愉快である!」 大砲の一撃を撃ち返しておいて、ご機嫌も糞もあったものか。 「貴様に感じる私の機嫌など、先ほど大砲を撃った際に述べた通りよ! 私はお前なんぞ大嫌いだ!! 死んでしまえ!!」 ぴしゃりと、テメレール様が言い返す。 だが、砲弾を撃ち返すような化物が、それに動じるわけもない。 「私がレッケンベル卿に勝ったという事実を、認めがたいと?」 「当然だ!」 私は、半ば信じ始めている。 やはり、あの悪魔超人はこの男騎士に真実本気の一騎打ちにて破れてしまったのだ。 その真実を認められないのはもはや、眼前のテメレール様と、『狂える猪の騎士団』の連中ぐらいであろう。 テメレール様などは、ふと、時々折に触れて、レッケンベルは何をやっているのかと口にする時がある。 未だにどこかに身を潜めていて、あるいは死んだところで生き返るとすら信じているさまであった。 ヴァルハラで、ヴィーグリーズの野にて今頃は闘っているという事実を信じないのだ。 「お前がレッケンベルに勝ったなどと、私は決して認めない」 「ならば、信じさせよう」 ポリドロ卿が言い放った。 「私は本音を言ってしまえば、何故レッケンベル卿に勝てたかなど今ですらわからぬ。なれど、相手を破った事を偶然の勝ちと呼ぶことは出来れど、私を侮ったから負けたのだ。相手が失敗をしたゆえに勝てたなどと、レッケンベル卿を少しでも侮辱するようなことを言うつもりは無い。つまりだ、テメレール公」 ポリドロ卿の人差し指が、テメレール様に向けられる。 「私は貴女の考えを改めさせなければならない。『わからせなければ』ならない。アナスタシア殿下のため、カタリナ女王陛下のため、理解してもらわねばならない。私は貴女に屈服してもらわねばならぬ」 「お前らに頭下げるぐらいならランツクネヒトどもに死体を玩具にされ、喉かっ斬られて舌を首の切り口から引き出された方がマシだ!!」 「それもわかる。だんだん、貴女の性格を理解してきた」 わかるのか、ポリドロ卿。 本当に単純なようでややこしい性格してるぞ、この御方。 「一騎打ちを望もう、テメレール公。騎士の名誉を懸けた、主君の名誉を懸けた、神の恩寵を得んがための正々堂々の一騎打ちである」 「私に一騎打ちに応じろというのか?」 受けてはなりませぬ、テメレール様。 テメレール様がレッケンベル卿に勝つために、血反吐を吐くような鍛錬を続けてきた事を知っている。 なれど、このような化物と闘わせるなど家臣としては認められぬ。 そう口にしようとしたが。 「私の力を認めぬ者は他にもおりましょう。ランツクネヒト! 私と殺し合う勇気があるものがおれば出てこい! 誰とでも戦ってやるぞ!!」 一人もいるわけないだろ。 何考えてんだこの狂人。 砲弾撃ち返す化物と一騎打ちするのは、勇気があることとは別に知能の欠如が必要である。 あるいは、何もかもを覆す超人としての力量か。 そして、ランツクネヒトにも超人はおれども。 「……いないか」 少なくとも、この中にはいない。 高給取りとして、今頃酒でも飲んで昼間から寝ているだろう。 マキシーン皇帝陛下に大金を与えられた命令でもない限り、動かないのだ。 この場にいるランツクネヒトの誰もが首を縮こまらせ、先ほどまで侮っていた男騎士に目を付けられないようにしている。 「次、帝都兵! 勇気ある者はいないのか!!」 この男騎士、実は少し頭悪いのではなかろうか。 ランツクネヒトも帝都兵も別にお前の敵ではないし、何度も言うが、化物と闘いたい相手はまず普通におらぬ。 蛮族と呼ばれるヴィレンドルフの騎士とは違うのだ。 強い者に勝ったらそれを終生の誇りのように抱いて、誰に誇示できずとも、自分がそれに勝利したという満足感だけで死ねるような騎士達とは違う。 一騎打ちでお互いがお互いの胸を剣で貫き、一緒に死んだのを見届けたら、それがお互いの最高の誉れであり至上の死に方であるなどと。 手を叩いて親族姉妹友人一同が一騎打ちまでの遺恨を互いに忘れ去り、お互いの健闘を讃えて喜び合うなどという異常な価値観の蛮族とは一緒にされたくない。 きっと頭がケルン派であるのだ。 そうか、だんだんわかりつつある。 この男、どうもヴィレンドルフの蛮族騎士の感性に近いのだ。 本当にアンハルト選帝侯の配下なのだろうか? 国を間違えて産まれてきたのではないだろうか。 私は訝しむ。 「いないのか。ヴィレンドルフでは大人気だったのだが」 ポリドロ卿は少し、寂しそうに呟いた。 口にしてはいないが、正直、この男。 「おい、あの男騎士、ちょっと頭おかしいぞ」 テメレール様が、誰もが思っていることを口にした。 「英傑譚を色々と聞き及んでおりますが、確かに少しおかしいところがあるとは聞いています」 私は色々と帝都に流れ着く吟遊詩人の英傑譚。 アンハルトとヴィレンドルフで、毀誉褒貶ある内容について脳裏に浮かべて、すぐ消した。 今、そのようなことを考えている場合ではない。 何より、それらの英傑譚は確かな情報とは言えない。 「なるほど、少し思い違いをしていたが、ランツクネヒトや帝都兵にはもはや、私の強さを疑う者はいないようだ。なれど、テメレール公やその配下の『狂える猪の騎士団』は違うであろう!」 「その通りである!」 「なれば問う!」 ポリドロ卿は、大振りに手を振り上げて。 それを斜めに切り裂くように、手を振り下ろしながらに叫んだ。 「私は今から、テメレール公と『狂える猪の騎士団』の7名に一騎打ちを望む!」 「……条件は」 「命までは取らぬ、それだけは無しにしよう。私とて、領民や領地を残して今死ぬわけにはいかぬ。立会人は、アンハルトよりアレクサンドラ殿が。ヴィレンドルフからはユエ殿が、それぞれ務める。二人とも強力な武の超人である。決して、私だけに肩入れするようなことはさせぬ」 脳の血肉を必死に回転させる。 それが今回の事件を引き起こしてしまった――あの鼻を引き千切られた夫が、今回の事件全てを招いてしまった。 それに対する、その妻たる私の責任であるように考えている。 なれど、ここに至っては、もう。 「面白い話だ。お前一人が、レッケンベル卿を正々堂々倒した強さの証明として、我々7人の超人を打ち破ってくれるというわけだ。その意気は買おうじゃないか」 「私の挑戦を受けられるか?」 「少し待て」 テメレール様の、追い詰められた際に頭の血肉が沸騰し、不可能な事を成し遂げてしまう。 その力強さに任せるしかなかった。 「なるほど、それは良い。なれど、私が勝って何のメリットがある? 逆に、お前が勝った時に要求するものは何か?」 「まずテメレール公が勝った際には、しかるべきところから連絡が入りすぐにランツクネヒトは撤退することになるだろう。大手を振って帝都の館に帰ることができる」 ヴィレンドルフ選帝侯が手をまわし、もはやランツクネヒトを嗾ける事はせぬという条件提示。 「もちろん、帝都をフェーデにより騒がせはしてしまった。マキシーン皇帝陛下はお怒りになるかもしれぬが、そこにはアンハルト・ヴィレンドルフ両選帝侯が諫めてくれるであろう。つまり、もはや『帝都の問題には関わらぬ』ということだ」 要するに、両選帝侯はテメレール様の皇位簒奪に対し、協力こそしないが邪魔もしないということだ。 事実上の、アンハルト選帝侯による継承式の場での蜂起。 テメレール様による武力行為を見逃すということだ。 マキシーン皇帝陛下に勝ちさえすれば、後は全てが追認される。 「悪い条件ではない、な」 悪い条件ではない。 むしろ、追い詰められたテメレール様にとっては良い条件ですらある。 大事なのは、二つである。 一つ目は勝利した際に、それが本当に履行されるかどうかであった。 だが。 「問おう、ポリドロ卿よ。何故そこまでお前に両選帝侯が許すのだ。言ってしまえば、これはお前が私と闘いたいという我儘のようなものではないか」 一つ目、それに対してテメレール様は疑いすらしていない。 ヴィレンドルフ選帝侯は契約遵守を国是としている。 一度契約したならば、それを破ることは決してしないのだ。 だから、気になるのは何故ポリドロ卿の望みがそこまで許されるのかについてだ。 「私が勝利した際にメリットがあるからだ。まだテメレール公が敗北した際の条件を口にしていないぞ。テメレール公が敗北を真実認めたならば、このファウスト・フォン・ポリドロに屈したのであるならば、それは両選帝侯に負けたのと同じことよ。潔く夢を諦め、何もかもを任せるのだ。そして何もかも協力せよ。貴女が未だ隠している全ての情報をこちらに委ねて欲しい」 飼い犬になれ。 かつてレッケンベル卿に負けた際の条件と、似ているようで違う。 決定的な敗北と言う形であった。 「……負けるわけがない」 テメレール公は、ポリドロ卿に聞こえないよう、側近である私に唯一聞こえるような小さな声で呟き捨てた。 それは、少しだけ不安の籠った声色であったが。 「私と、私の集めた超人達が負けるわけがない!!」 ここで負けを認めるようであれば、負けるなどと口にしてしまうようであれば。 ここまで面倒くさい生き方をテメレール様はやってこられなかったし、私も苦労してなかった。 同時に、私が側近として領主騎士に引き上げられ全てを与えられることも、『狂える猪の騎士団』という哀れな出自の超人達が、拾い上げられることもなかったのだ。 何もかも面倒くさいのが我々の愛しのテメレール様なのだ。 「その顔を見飽きた。横の東方人から兜を受け取り、しっかりと完全武装で参られよ。堡塁内にて、相手をしよう。変則的な一騎打ちを行う。他の騎士や兵に手出しはさせぬ。言わずとも、立会人がさせぬと思うが……少し待て、堡塁内に騎士団を配置させる」 「何もかも承った。感謝の極み」 両手を身体の横にやり、綺麗な姿勢で身体を45度前傾に向ける。 奇妙な礼を、ポリドロ卿は行った。 「……少しお前への不快感が和らいだ。ところで、条件を一つ加えさせていただきたい。宜しいかポリドロ卿」 テメレール様は、その奇妙な礼を受けて。 何か少し考えた後に、追加条件を口にする。 「これ以上を望まれるか? 両選帝侯が約束してくれた内容が今告げた全てであるし、これ以上は約束しかねるが?」 「お前の事だ。両選帝侯に対する条件はそれでよいが、お前には何の痛苦もないではないか。自分だけ何も懸けずにやり過ごそうという仕草は気に食わぬ。これはお前の名誉を懸けた闘いではないのか」 無理押しではあったが、理屈としては理解できる。 テメレール様は、一つの要求を行った。 「これはファウスト・フォン・ポリドロという領主騎士個人への条件である。もし、お前が負けたならば、私に屈しろ。永遠にとは言わぬ。両選帝侯が継承式のため滞在する暫くの間で良いから、その身柄を私に預けろ。どんな命令でも私に従うのだ」 テメレール様は、すでにポリドロ卿の強さ全てを否定しているわけではない。 もし勝利した際に、皇位簒奪の際に強力な超人の力は必要であった。 要するに、ポリドロ卿に皇帝陛下を殺害させようと考えているのだ。 ポリドロ卿は、その要求に少し考えたようにしているが、さすがにそこまでは思い至らないのだろう。 「承った」 全てに承知した。 騎士の契約を果たしたのだ。 この誓いは、死んでも守らなければならない。 そして、ポリドロ卿は死んでも誓いを破らないであろう。 ポリドロ卿が兜をかぶる前に、少しだけ微笑んだのを見て。 テメレール公は、色々な感情を含んだ表情で顔をそむけた。 第六章 完 ------------------------- いつもの事ですが、章終わりには少し休ませて頂いております。 ご了承ください 第七章は2022/1/1より開始となります。 神聖グステン帝国編 下 第129話 年増猪との問答 堡塁の門は、ポリドロ卿によって粉々に打ち砕かれた。 だが、木々の破片や閂などは、もはやそこには在らず。 テメレール公の兵士により片付けられており、門は開け放たれている。 その兵はというと、全てが堡塁から出てきていた。 「準備は整った!」 私は、アレクサンドラはただ、見届け人としての役目を全うしようと考えている。 「兵は見ての通り、堡塁の中から外へと出した。ファウストよ! ファウスト・フォン・ポリドロよ! 愚かしくも、貴様は『狂える猪の騎士団』に勝負を挑んだのだ! 覚悟は良いな」 「承知! 覚悟などとうに済ませている。このファウスト、騎士として死に物狂いでなかったことなどないわ!」 「ならばよい。ならばよいのだ」 テメレール公は、何か感慨深く呟いた後に。 微かに。 このアンハルト王国第二の超人から見て、明らかに今までとは何か違う雰囲気を見せた。 レッケンベル卿を殺したポリドロ卿への、憎悪に満ちた表情ではなく。 何かの勝利を眼前にした、自信にあふれた誇らしげな顔ですらなく。 ひたすらに真顔であるのだ。 ぞくり、と。 嫌な予感が背筋を伝う。 考える。 なぜ、一筋の汗が背中に伸びたのか。 今のテメレール公からは、何か違うものを感じたからだ。 以前の、ポリドロ卿を私の目の前でくだらぬ男騎士と見下した時の。 あのただの愚か者としか、小物中の小物としか見えなかった存在ではない。 もっと大きな、何かを背負うものとしてそこに存在しているのだ。 「お前の望むとおりにした。私が領地から連れてきた『狂える猪の騎士団』でも最強の超人6人を堡塁の各所に配置している。その全てに挑み、勝利せよ。そして、屋上にいる私のところまで登ってこい」 テメレール公は、今のところポリドロ卿の望むとおりにしている。 それは疑いないのだ。 何も謀る気配はなかった。 なれど、この不安はなんなのだろうか。 「なれどなあ、ポリドロ卿」 それがわからないのだ。 しかし、友人である私が分からないことに対し、敵であるテメレール公は分かっているように呟くのだ。 「なるほど、私は確かにお前を侮辱していた。私はお前を舐めていた。それは認めよう。なれど、先ほど口にした言葉は本物か? 本当に死に物狂いであるのか? このテメレールと比べて、本当にお前が死に物狂いであると言えるのか? それは疑わしいな」 テメレール公は、わかった風な口を叩いている。 生命の危険に至り、半ば詰みまで追い詰められて、やっとテメレール公はその本領を発揮しつつあるのだ。 アスターテ公爵に言わせれば、あの年増猪は危険を眼前にすれば、ようやく頭が狂ったように回りだすとのことだ。 「テメレール公が何を言いたいのかが、わからぬのだが」 「ポリドロ卿。私は貴様のことが大嫌いだ。だが、私は何もお前のことを知らぬというわけではない。レッケンベルを倒したと、仮初にもそんな話を聞いた。だから、よくよく調べたのだ。お前の毀誉褒貶ある英傑譚を聞いたのだ。そして、やはりお前はレッケンベルにはとても及ばぬのだ」 ポリドロ卿が、訝し気な顔をする。 テメレール公は朗々と喋り続けた。 「お前は今までよくやってきたのだろう。領民300名の小さな辺境領主騎士としてはだが。民が大切だろう、領地が大切だろう、母の名誉が大切だろう、何もかもを守るために生きてきた。きっとお前は、男ながらにして一騎当千に値する騎士なのだろう。でも、それだけじゃないか」 「それの何が悪い。テメレール公、選帝侯に次ぐ強力な諸侯の貴女とて領主騎士には変わらぬ。民と領地と祖先の名誉以上に大切なものなどこの世にはどこにもない。自分の所有物であり、存在意義たるそれら全てを愛して何が悪いのか」 「お前ごときと一緒にするな!」 突如、激発する。 いくら冷静になったところで、テメレール公の性格ばかりは変わらぬ。 「レッケンベルと比較するとあまりにも小さい。このテメレールと比べるとあまりにも小さい。貴様、別に神聖グステン帝国自体がどうなろうと、知ったことではないというのが本音だろう。貴様の領地さえ守れればそれでよいのだろう。アンハルトも、ヴィレンドルフも、帝国も、守るとすれば、そのついでにすぎぬ」 「……」 ポリドロ卿は、少し沈黙し。 やや苦し気に答えた。 「それの何が悪い!」 「悪いな。はっきりと悪いな。嗚呼! 何も悪いことはしていないなどと、平気で嘯けるそのお前の根性が何より悪いとも!!」 私は眉を顰めた。 ポリドロ卿と同様に、テメレール公が何を言いたいのかがよくわからぬ。 もっともわからないのは。 ポリドロ卿が、何やら苦しそうな表情をしていることである。 あの年増猪が何を言いたいのか、この場では彼にしかわかっていないかもしれない。 何が悪いのか。 それが、このアレクサンドラにはとてもわからぬ。 「出しゃばりすぎなんだよ。小僧風情が。お前だけではない。あの人肉食ってそうなアンハルトも、あのレッケンベルの乳母日傘で育ったカタリナも、誰一人として帝国のことなど何も考えておらんではないか。自分の領地さえ無事であれば、それでよいとばかりに生きている。誰もが自分の都合だけで生きている」 それの何が悪いのだ。 自分の都合で勝手に生きる権利がどの貴族にも有り、その責任など自分の権益以上に求められるべきではない。 このアレクサンドラとて、将来領主騎士になれたのであれば自分の領地が最優先である。 アナスタシア様への忠誠は誓えども、契約以上の義務などあるものか。 だが、年増猪にとっては違うようである。 「お前らにだけは絶対に頭を下げなどするものか。私はシャルロット・ル・テメレールである。私こそが神聖グステン帝国皇帝という至高の座にふさわしいのだ。自分の父の死を今でも嘆いているような、私の年齢半分やっとの拒食症の餓鬼を皇帝の座に据えて、強大な遊牧騎馬民族国家にどうやって勝てるというのか」 テメレール公は、もはや私たちすら眼中にないようにして。 声量を落としながら、独り言のように呟く。 「もうそれしかないんだ。私以外に誰がいるんだ」 本当に、何か。 「お前らは本当に神聖グステン帝国の現状が、何もわかっちゃいないんだ」 自分に対して言い聞かせるような言葉であった。 「話を戻そうか、ポリドロ卿よ。お前は挑戦者である。なれば、どうせなら挑戦者としての格があって欲しいものだ。お前が本当に死に物狂いであるのか? このシャルロット・ル・テメレールと比べ、本当に必死であるのか。少しでも疑問に思ったならば、よくよく考えることだ」 ここで、私は少し判断に困る。 はて、あの年増猪は間違いなく小物である。 ポリドロ卿は侮辱してるし、性格は酷いし、頭を下げないし、どう考えても小物だ。 小物であるはずなのだ。 彼女をまともに評価している人間がいるとすれば、それは才能狂いのアスターテ公爵ぐらいのものであろう。 ポリドロ卿の尻を撫でるのが大好きな変態公爵ぐらいしか目に留めていない。 小さく呟く。 「結局、あの女は何を知っているんでしょうか?」 年増猪の背景が分からぬ。 アナスタシア様はどうにも手に入らぬ神聖グステン帝国の内情から判断に迷ったし。 カタリナ女王は、もういいやと面倒くさくなって、ぶち殺そうとした。 まあ、それは失敗したけれど。 「……」 ぽん、と私の肩が、優しく叩かれた。 ポリドロ卿の手であった。 彼は優しくささやいた。 「直接聞けばよい」 結局、それが一番良い方法なのだろう。 解決方法は単純で簡潔なのが良い。 今のところ、ぶん殴れば相手は従うという単純な話になっているのだから。 ヴィレンドルフ客将、東方人のユエが抱えてきた兜を私に渡してきた。 「ポリドロ卿、兜をお付けいたします」 「自分でもできるのですが」 「私がやりたいのです」 従者の真似事をするのは、いつぶりであろうか。 私は身長2mのポリドロ卿が屈みこむのを待って、兜を両手に持つ。 「……まあよいか」 ポリドロ卿は屈みこんだ。 私は兜をしっかりと被せ、接続具を嵌め込む。 完全武装のファウスト・フォン・ポリドロ卿を見て、一つ息を吸う。 猪突公なぞ何するものぞ。 「貴方が負けるわけないのです」 彼の耳元で囁く。 そんなことは、ヴィレンドルフ戦役を共にした私が一番よく理解している。 いざ戦場となれば、一人で数十の重装甲騎兵を屠る強力無比な騎士であり。 そして、一騎討ちであれば勝てるものなど、神聖グステン帝国中には何処にもいないのだ。 「……さて」 ポリドロ卿は、私の囁きに少し微笑んだ。 そして立ち上がり、アンハルト最強の騎士として叫んだ。 「テメレール公よ。実のところ、貴女が何が言いたいのか、このファウストに完全にはわからぬ。生まれつき頭がよろしくないのだ。それは申し訳なく思う。なれど、貴女ばかりが私に覚悟を問い掛けるのは如何なものか!」 その叫びに対し、テメレール公は奇妙な反応を見せる。 「ほう」 怒りではなく、拒絶でなく、それは関心による返答に思える。 テメレール公は言葉に愉悦じみた声色を交えながら、叫び返した。 「お前が私に覚悟を問うと言うつもりか?」 「いや、貴女ではない。部下は上司の鏡というではないか。『狂える猪の騎士団』に問おうではないか。貴女の騎士団を、私はこの剣を以て今から撃ち破ることとなるが」 ポリドロ卿は、背中の剣帯に帯びているグレートソードを抜き放ち。 大砲の弾を打ち返した時のようにして、テメレール公に差し向けた。 「その際に、剣を持って問おう。さて、テメレール公は本当に神聖グステン帝国の皇帝位を目指すに値する存在なのか。それを尋ねようではないか」 剣を差し向けられた、年増猪は答えた。 「よろしい。存分に問うが良い。私の騎士団に、彼女らに、私に侍っている犬どもは、人としては恥ずかしいものばかりなれど、私の部下にふさわしくないものなど一人もおらぬ」 そう呟き、剣を抜いた。 柄の長いレイピアである。 刺突用に見えるが、片刃はしっかりとついており、おそらく切り裂くこともできる。 刃渡りは異常に長く、ポリドロ卿のグレートソードと同じ長さ。 莫大な金と労力を投じた緻密な魔術刻印によって成立する、ゲテモノ武器である。 アスターテ公爵曰く、レッケンベル卿との一騎討ちはアレで渡り合ったと聞く。 「さて、言葉はもはや尽くした。戦おうではないか」 「よろしい」 堡塁の屋根にいる、テメレール公。 門前に立つポリドロ卿。 二人の剣先が、遠い距離なれど確かに重なり合ったように見えた。 「ポリドロ卿、ここで待つ。お前が私のところまでくらいは辿り着くことを望むよ」 「承知。それまでに、先ほどの問答における回答は導き出せよう。私の問いかけに対し、貴女の騎士団が全てを答えてくれるであろう」 お互い、最後の言葉。 両者が堡塁の屋根にて相対するまで、お互いに言葉を掛けることはもう無い。 「アレクサンドラ殿、ユエ殿、行きましょうか」 「わかりました」 「……」 私は返事をするが、ユエ殿が喋らぬ。 呆けたように、堡塁の屋根で佇む年増猪を見つめている。 「どうしましたか、ユエ殿」 「フェイロンに」 やはり、呆けたようにユエ殿が呟いた。 「私の故郷、フェイロンに、自分の土地だけでなく、自分の一族のためだけでなく。国家の滅亡に至るまで、国家内部の権益争いを続けるのではなく。本当に、ちゃんと全てを守るために自分が上に立とうという人間が――」 それは独り言のようであり。 私やポリドロ卿と違い、彼女はテメレール公が何を言いたいのか少し理解できるかのようであった。 私はそれが何か尋ねようとしたが。 「いえ、なんでもありません。早く行きましょう」 この東方人、自分が言いたいことだけを呟き捨てて話を打ち切ってしまった。 何かを質問しても、何が言いたかったのかは答えないのであろう。 少し苛つきながら、精神安定のために愛しいポリドロ卿の横顔を眺めようとしたが、すでに兜を被っている。 まあよい。 あの年増猪が何をほざこうが、横の東方人が何を考えようが、ポリドロ卿は負けぬ。 この堡塁にて待つ全ての騎士を討ち果たし、あの猪を月までぶちのめす。 そうして、アナスタシア様に屈服させる。 単純な事。 話はそれだけのことだ。 だが、このアレクサンドラとて超人の勘というものがある。 どうも、そう単純な話にはならないだろうし。 最強のポリドロ卿とて、容易には勝利を成しえぬだろう。 その予感がある。 我々三人は、テメレール公が占拠した堡塁の中に、ゆっくりと足を踏み入れていった。 第130話 desdichado(勘当者) 堡塁内部はやや薄暗い。 たまに鎧戸はあれど、そもそも防御用の要塞であるのだ。 採光、そして外気を最低限取り入れるためだけの鎧戸であり、華美なステンドグラスなどどこにもありはしなかった。 世界は薄墨色である。 我ら三人の靴音だけが響き、静寂に包まれている。 はて、この堡塁は大きいけれど、そろそろ―― 「ポリドロ卿、人影が」 このような事を口にするまでもなく、ポリドロ卿ならば気配だけで気づいているだろうが。 鎧戸のささやかな採光。 その光によって影が伸び、地面に人の形が描かれているのだ。 大柄な女騎士がいた。 いや、騎士か? 『明けの明星』、ようするにモーニングスターといわれる鈍器を手にした人間が立っている。 甲冑姿から見るに、間違いなく騎士ではあるのだが――様子が少し違う。 所属や身分を証明するために刻む盾の紋様、そこにはテメレール公家の紋章でもなく、さりとて彼女の家紋でもなく『desdichado』という文字が記されているのみ。 このアレクサンドラ、アナスタシア様に無理やりに親衛隊長にされた立場なれど、多少異国語の心得があった。 「恥さらし? いや、臆病者?」 西方の海洋国家の言葉にて、そのような意味があったはずだ。 「違うね。勘当者って読むのさ」 恥さらしも勘当者も、大差ないではないか。 そのように考えるが、まあ理解する。 「要するに、家から追い出された元騎士の出身であるのか。西方の海洋国家から参られたと推察する」 「ご名答」 彼女は悪びれた様子もなく答えた。 「家から叩きだされて、家名すら名乗れない騎士なのさ。流れ流れてテメレール様の領地に辿り着いた、要するに強盗騎士だな」 「強盗騎士か」 ポリドロ卿が、少し興味ありげに呟いた。 戦時には傭兵として戦い、平時には強盗を行って生計を立てる存在。 紛うことなきロクデナシであるが、まあ騎士身分であっても金が無ければ食べてはいけぬ。 人殺し、掠奪、男をさらう、農民や市民を奴隷として捕まえて売り払う。 戦の際には教会を見つけ次第「貯金箱だ!」などと叫んでは全てを掠奪して火を放つ。 世間では良くある話である。 このアレクサンドラとて、戦における敵領地とあれば教会を見つけ次第「貯金箱だ!」と叫んで襲うだろう。 教会が貯金箱なのは騎士界隈の常識であるのだ。 違うのは、火薬と塩しか倉庫に無い気狂いのケルン派教会ぐらいのものだ。 火をつければみんな諸共爆発して死ぬから、暗黙の了解で誰も襲わないのだ。 「これでも、昔は傭兵やってたんだぜ。領主が軍役で不在の領地を襲ったり、司教領を襲って坊主の財産を掠奪したり、上手いことやってたんだ」 鼻を鳴らすような声。 勘当者――勘当騎士とでも呼ぼうか。 神に認められぬ自分の罪を、どうでもいいように勘当騎士は語る。 そして、やはりどうでもいいように、開始の言葉を告げた。 「じゃ、やろうか」 彼女は、甲冑姿にして右手にモーニングスター、左手に『勘当者』と書かれた鋼鉄製の盾を構えている。 ポリドロ卿は問う。 「まだお互いの名乗りを上げていないが? これは決闘であり、戦場ではない。前口上ぐらいは述べてもらいたいものだ」 勘当騎士は答える。 「すでに名乗った。私は『狂える猪の騎士団』の一員、ただの勘当者である。家名は捨てたし、名などテメレール様一人が知っていればよい。我が団の超人騎士達とて、私の名前は『勘当者』としか呼ばぬ」 無茶苦茶である。 だが、その放埓が、かえってポリドロ卿の興味を引いたようであった。 「ならば、何故貴女が『勘当者』を名乗るかを問いたい。貴女も先ほど、私がテメレール公に呼びかけた言葉を聞いていたと思うのだ。テメレール公は本当に神聖グステン帝国の皇帝位を目指すに値する存在かを、貴女の部下に問い掛けるぞと」 「確かに聞いた」 勘当騎士が頷いた。 ポリドロ卿の大音声は、堡塁内部におろうが兜を被ろうが、全てのものに聞こえたはずである。 「で、あるならば。私はテメレール公の部下がどのような者たちであるのか。それを知る権利がある。なぜあなたは『勘当者』という名前に固執するのか。それをお聞かせ願いたい」 勘当騎士が、少し黙り込んで。 「いいだろう」 やがて、渋々と語りだした。 「ちいとばかし昔の話だ。今じゃ少しは違うらしいが、私がいたころの出身国は地獄みたいでよう。ああ、横の背高のっぽのお前、名前は」 「アレクサンドラだ」 「アレクサンドラ、お前異端審問って知ってるか? 魔女狩りとかじゃねえぞ」 知ってはいる。 アンハルトとて、放浪民や、神にまつろわぬ民はいる。 わが国では、今は亡きリーゼンロッテ女王陛下の王配たるロベルト様の努力によって、なんとか共生の道を探してはいる。 西方の海洋国家では、特別『酷いこと』が行われたようだが。 「……知っている」 「私の子供の頃なあ、一人の友人がいたんだよ」 知ってはいるが。 お前の過去などどうでもよいというのが、私の本音である。 あまり愉快な話ではないだろう。 そう思うが、ポリドロ卿が手を横に伸ばす。 黙って待て、と言いたいのだろう。 「私の友人は、邪悪な信仰に固執して贖罪主を殺した、いわゆる神殺しの民なんて言われる異端者でよう。まあ、その異端者にはわりといる金貸しのところの子供でな。家が貧乏騎士でそいつの家から金借りてて、いつもそこんとこの子供が利息の取り立てに来るんだよ。私とそいつバカだから、その金いくらかちょろまかして、いつも二人して市場で串肉食ってたり、アホなこと一緒にやってつるんでたんだよ」 このような勘当騎士の話聞いて何か良いことあるのか? そういった目線を送るが、ポリドロ卿は沈黙している。 兜を被っているため、表情は窺い知れない。 「貧乏騎士家の長女と、高利貸しの長女の、奇妙な友情ってやつだよ」 ポツリと、勘当騎士が吐き捨てた。 少し、黙る。 だが本当に少しだけで、再び口を開いた。 「そろそろ、私が家を継ぐって頃かな。まあ、なんだ。ずっと長い間、この世の地獄みてえな国で続いてた戦争が終わってさ。そろそろ貧乏騎士家にも明るい未来が見えてきたかなって思えた頃にさ。ある日、そいつが。高利貸しの長女が、家に利息の取り立てに来なくなってよう」 話の流れは読めている。 「仕方なく探し回って。やっとこさ見つけたら、そいつ首括られて火刑にされてたよ。そいつの両親も、妹も、家族みんなまとめて火炙りにされてたんだ」 西方の海洋国家、そこで異端審問と称される『酷いこと』が起きた。 異端である「神殺しの民」への強制改宗運動。 それとて酷いことであろうが、異端ではない、このアレクサンドラにとってはあまり気にするところではない。 眉を顰めるのは、そこではないのだ。 先ほどから、眼前の勘当騎士が口にしている内容は―― 「要するに戦争が終わったから、次はアイツら『神殺しの民』だって事だったんだよ。昔の流行り病は聖体冒涜を繰り返すアイツらのせいに違いないとか。まあ、正直理由なんてなんでもよかったんだと思う」 異端審問という名の虐殺である。 アンハルトでは起きなかった異端者への大虐殺が、勘当騎士の国では起きたのだ。 理由は一つだ。 異端者を皆殺しにして、その財産を没収したかったのだ。 「高利貸したちを異端審問によって社会的に抹殺できれば債務が帳消しになるって考えが本音だと、私は知っているんだ。戦争で抱えた借金を返したくなかっただけだと知ってるんだ」 そして勘当騎士の言う通り。 教会を貯金箱だと笑いながら掠奪し、火をつける騎士と同じ理由なのだ。 金が絡めば、誰もが信仰などに価値を見出さなかった。 「私の友人を火にくべた神母が言うんだ。安心しなさい。貴女の友人は異教徒として死んだわけではありません。異端者としての罪全てを告解したのです。この火刑は霊的救済のために行われたものです、と」 勘当騎士の、歯軋りの音が聞こえた。 「そうだな、神母の仰る通りだ。私の友人の遺骸には、確かに拷問の跡があった。生きながらに火にくべられたのではなく、異端審問により酷い拷問を加え、家族を売るような告解と神に対する懺悔を無理強いされ、証言をとれたと分かれば家族全員皆殺しにして火にくべたのだと、ハッキリと理解できたよ」 ごり、と音がした。 首の骨を鳴らす音だ。 「私は何もできず。泣きながら家に帰ったよ。そしたら、母親が言うんだ。こう言ったんだ。高利貸しのクズめがくたばった! これで借金を返さなくてすむ!! そうほざきやがったんだ」 首の骨を鳴らしたのは、ポリドロ卿であった。 話に飽きたのではないだろう。 優しい男であるのは、マルティナ・フォン・ボーセルの助命嘆願の時に十分理解させられている。 「だから、私は母親を殴ったんだ。皆くたばりやがれって言って、泣きながら」 私にとっては、まあそういう悲惨な話もあろう。 それで済むのだが、横のポリドロ卿はめっきり同情してしまう。 だから、あまり聞かせたくなかったのだが。 「出て行けって言われたよ。あの神殺しの民とともに、この家から、国から出て行けって言われたんだよ。だから私は家からも国からも叩き出された『勘当者』なんだよ」 彼女は過去を懐かしむように語りながら、呟き捨てた。 「そうこうしているうちに、いつの間にか強盗騎士になってた。最後にテメレール様の領地へ入ったのが間違いだった。いや、良かったのか? 良かったんだろうな」 話が終わる。 私は頃合いを見計らうようにして、ようやく口を開くことができた。 「テメレール公にぶちのめされたのか?」 「ぶちのめされたとも」 へっ、と鼻で笑う。 狂える猪の騎士団。 アナスタシア様とアスターテ公爵が必死に駆けずり回って調べた限りでは、なんとも無茶苦茶な騎士団である。 テメレール公領の生まれでない者どころか。 神聖グステン帝国の生まれですらない者とて、当たり前のようににいる。 「テメレール様が先陣を切って指揮官突撃してきて、その一撃だけで見事にぶちのめされた。配下の全員が死に物狂いでテメレール様のケツにくっついて騎馬突撃してきやがって、私の傭兵仲間なんか全員轢かれて死んだよ。まあ、今じゃ同じようにテメレール様のケツにくっついてる私が文句言うことじゃないかもしれんがね」 私に聞かせたいのか、ポリドロ卿に聞かせたいのか。 それとも、ただの独り言か。 「私はテメレール様に言ったよ。負けだ。私は罪人だ。強盗騎士なんて名乗っても、どう考えてもぶち殺されて仕方ないことをしてきた犯罪者だ。アンタの領地を襲った以上、どのようにされても仕方ないだろう。好きにしなと。だけど――」 どちらかは分からないが、少しだけ。 ほんの少しだけ、勘当騎士は楽しそうに呟いた。 「言われなくてもそうするだろうが――私の死体は火にくべて燃やしてくれないか。墓になんぞ埋めないでくれ。そう地面に倒れ伏しながら、お願いした。テメレール様は答えたよ」 「何と?」 ポリドロ卿が、興味深げに呟いた。 勘当騎士は答えた。 「テメレール様はこう言ったよ。そうしてもよい。死にゆく者の望みならば叶えてやってもよい。だが、我が領地においては一つルールが存在している。お前は知らぬであろうから、教えてやろう。テメレール領に存在する全ての人において、才能があるのに私に仕えないやつは有罪である。異端者、異邦人、何の神をあがめようが、どのような出自であろうが、そのような『どうでもよいこと』を問わぬ。お前、私にぶちのめされてまだ生きているなら見込みがある。超人ではないか。私の配下に加われ、と」 そう、楽しそうに答えた。 ポリドロ卿は、また、何を悩んでいるのかわからないが。 ごきり、と首の骨を鳴らした。 勘当騎士は、それを合図にしたようにして呟いた。 「だから、私は『勘当者』であり、テメレール様の『狂える猪の騎士団』の超人騎士として仕えている。以上だ。ファウスト・フォン・ポリドロ卿、テメレール様が神聖グステン帝国の皇帝の座にふさわしいか、ふさわしくないか。よくよく私の言葉を?み締めた上で考えろ」 「ああ」 また、ごきり、と。 ポリドロ卿は首を鳴らす。 やはり、ポリドロ卿の表情はわからない。 「まあ、私はあの人、無茶苦茶過ぎて皇帝なんか絶対駄目だと思うがね。男嫌いだから子供作らないとか言うし、頭下げるの死ぬほど嫌いだし、控えめに言って糞みたいな女だ。イカれてるよ」 逆に、勘当騎士が何を考えているのかはわかるのだ。 先ほどの過去へのさもウンザリとした発言と違い、彼女の言葉は。 「でもそれは別の話さ。自分が死に物狂いで仕えるに値する相手だと認識して、それこそ自分の命を擲っても良いと気狂いの猪になれるかどうかは、全く別の話さ。さあ勝負しようか、ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 テメレール公への、至上の忠誠に満ちているのだ。 ポリドロ卿はゆっくりと、背中の鞘からグレートソードを引き抜いて。 それを斜め下に構えた。 決闘が開始された。 第131話 全身全霊の暴力 私は、モーニングスターを上段に構えた。 右手で鈍器を握りしめ、左手に『勘当者』と刻印された盾を構える。 さて、どうするか。 実のところ、私は攻めあぐねていた。 鈍器は普遍的な武器であり、刃を通さぬ甲冑相手なれば、単純な破壊力こそが戦場では求められる。 甲冑や分厚い鎧下の防御を抜いて、敵にダメージを与えて骨を砕き、肉を潰す方法。 この手で握りしめたそれは、その答えを求めるにあたっての単純明快な回答であり、そして原始的にして強力な武器であった。 剣よりも使い手は多いのかもしれない。 脱穀に使われる農機具をそのまま転用しただけの、山賊団が使うフレイルやピッチフォーク。 兵士や従騎士が振り回すような、軍用の剣や槍。 騎兵が使うロングスピアー、片手で扱える長さの戦棍。 私は強盗騎士時代に様々な形の武器を目にしてきたし、それを打ち破ってきた。 なれど。 「さて、どうするか」 ファウスト・フォン・ポリドロの大剣はあまりにも巨大であった。 そのうえ、それを扱う体躯があまりにも立派なのだ。 私が手にする鈍器とて長いほうだが、全長1.3mも無いだろう。 ポリドロ卿の立派な体躯と腕の長さ、大砲すら打ち返す馬鹿力で片手にて振り回すグレートソード、全長2m以上の大剣という凶悪な暴力に立ち向かえるものではない。 間合いにおいて、絶望的な格差があるのだ。 神聖グステン帝国において、果ては私が生まれた西方国家の騎士家でも、広く伝えられている武術の基礎がある。 最善の行動をするための「判断」。 自分と敵との距離、互いが攻撃するための「間合い」。 何か行動をするための「時間」。 自分が相手を攻撃することができるか、そして相手の攻撃から自分を守れるかの「位置」。 この4要素で、全ての戦闘は構成されていると。 そして、ありとあらゆる武器は、それを色々な意味で見事扱えるという前提を満たす限り、敵より長い武器が強いのだ。 私を攻撃するために、敵が一歩踏み出すまでの「間合い」を作りだす間に。 ポリドロ卿のグレートソードは、私の身体まで届いてしまうことだろう。 結論から言うとだ。 「――」 私が先手を打つのは無謀と考えた。 この『狂える猪の騎士団』でも強力な超人の身なれば、相手の懐に飛び込むことさえできれば、致命的な一撃を。 殺しはしないまでも、あのフリューテッドアーマーに保護された身長2mを超える肉体に、行動不可能といえる一撃を与えることができるであろう。 なれど、もうこの間合いだけはどうにもならぬ。 懐に飛び込める自信は湧いてこない。 全ては大砲だ。 テメレール様のファルコン砲による砲撃を打ち返した、あの一撃を目にしてしまった。 総身全身全霊に至れば、この眼前の大男はそれを成し遂げてしまえるのだ。 確かにポリドロ卿の馬鹿力は恐怖だ。 だが、それだけではないのだ。 大砲を打ち返すにあたって総身全身全霊に至ることができる、狂気的な技量が無ければ成し遂げられるものではない。 ハッキリ言ってしまえば、この『勘当者』にはポリドロ卿に勝てる自信などありはしない。 騎士としての技術全てに劣っていると言えるのだ。 そもそもからして、あのレッケンベルに勝利したという騎士に立ち向かえると思うほど傲慢ではないのだ。 だけど。 ポリドロ卿という恐怖に立ち向かう、勇気だけはあった。 死ぬことなんぞ怖くない。 この試合は殺し合いだけは無しとしているが、正直自分はうっかり死んでしまっても構わない。 いつでも、そう思って生きてきた。 そう思って、テメレール領まで強盗騎士として流れてきたのだ。 そうして、あの性格悪くてクズで人にロクに頭も下げられない女に仕えているのだ。 国にも教会にも家にも唾を吐いて、「勘当者」となった一人の愚かな強盗騎士を拾ってくれた女のためならば、本気で死んでも良いと思っているのだ。 「だから」 ふう、と息を吐く。 せめて、あのクズで人にロクに頭を下げられない哀れな女が、頭を下げないで済むようにしてやろうではないか。 勝てないことと、勝負しないことは全く別な話である。 せめてポリドロ卿の身体に一撃を加えて、次に繋ぐという考えが私にあった。 これは『狂える猪の騎士団』の6人、そしてテメレール様の計7人で勝てばよい勝負である。 私は、大きく息を吸い込んだ。 「参るぞ」 私は始まりを口走った。 同時に、すさまじい気合に満ちた裂帛の声を出した。 続いて、突進を行う。 もちろん、こちらは後手に回るつもりだ。 だが、ポリドロ卿はまだ若い。 武人としての技量は私などより遥かに高いところにあるのだろう。 だが、それにより戦場では敵など、一方的に虐殺するだけの塵芥だったのではないか。 真実本気で、死に物狂いで戦ったことなど少ないだろう。 「――ッ!」 だから、このような殺意のフェイントに引っかかる。 強盗騎士として、生死を分かつギリギリの決闘を繰り広げてきた私と、ポリドロ卿。 そこには圧倒的な戦場経験の差があるのだ。 ポリドロ卿は、斜め下に構えたグレートソードを大きく上に振り上げた。 私は岩も割れよというほどの強烈な踏み込みを爪先で行い、全身を止めた。 轟音が鳴る。 空気を切り裂くどころか、剣圧で引きずり込まれそうな刃が眼前を通り過ぎる。 最高のタイミングであった。 判断は最善であった。 間合いは埋めた。 ポリドロ卿が剣を戻すには時間がかかる。 位置取りも問題ない。 戦闘における4要素を私は確保している。 後は、この『明けの明星』をポリドロ卿の身体に叩き込むのみ。 リズムを、合わせて。 「ポリドロ卿、もらったぞ!!」 私は手首のひねりだけで鈍器の頭部に遠心力を与え、それを眼前のポリドロ卿の身体に埋め込んだ。 凄まじい打撃音が、ポリドロ卿の脇下から鳴った。 なれど、微動だにせず。 ポリドロ卿の巨大な体躯は身じろぎすらしない。 「はっ」 効いているはずだ。 さすがに、肉潰れ骨の数本は折れたであろう。 そうであって欲しい。 そうあって欲しいが、手ごたえで分かるのだ。 「骨の一本も折れたか!?」 私は与えたダメージに対して誇らしげに声を上げたのではなく、確認のために口を開いたのだ。 鋼鉄の塊か何かを殴ったのではないか? そのような手ごたえしか残っていない。 一瞬、呆然とする。 だが、一瞬であり、すぐにニ撃目を加えようとして。 何か、天井に異様な音が走った。 がつん、と何かの金属が岩を断ち切ったような轟音であった。 何の音だ? 「雄々!」 そこには、ポリドロ卿が渾身の力を込めたグレートソードがあった。 ポリドロ卿は、先ほど右手で振り上げた剣にて岩づくりの天井を叩き斬っていた。 狂っている。 いや、そのような事を考えている暇はない。 「雄々っ!!」 どのように狂っている現状だろうと、剣がそこに在るのは現実なのだ。 ぞっ、とする私をよそに、ポリドロ卿は振り上げた剣を両手で握りしめた。 落ちてくる。 砲弾さえ打ち返す、ポリドロ卿全身全霊の一撃が落ちてくる。 判断する余裕はない。 間合いからは逃げられない。 回避する時間はない。 位置取りは最悪である。 戦闘における4要素において、私はもはや何もできない。 死。 その言葉が頭によぎる。 ポリドロ卿が、笑いながら叫んだ。 「死ぬなよ、勘当者!!」 何が死ぬなよだ、お前明らかに殺す気じゃないか! 最初の天井を切り裂く一撃からして、最初から殺す気まんまんじゃないか!! この頭おかしい男騎士、殺すのだけは無しにしようって大前提の約束すら忘れてやがる!! 罵倒と悲鳴が口に出そうになったが、その暇すらない。 私はその言葉に跳ね起きたように動いて、鈍器すら投げ捨て、楯を両手で支えた。 死んでもよいと思っている。 いつ死んでもよいと思っているんだ。 なれど、このような剛力無双にして無茶苦茶な人間に塵芥のように殺されたくはない。 死に方くらいは選ばせてくれ!! その時は、そう思ってしまった。 祈りすら浮かべる。 だが、私が心の支えにしているのは神様などではなく。 たった一人の領主騎士なのだ。 「テメレール様!」 私は仕える主人の名を絶叫し、武の超人としての全力を総身に込めた。 月が落ちてきた。 そのようにすら思えた。 自分が両手で支える楯に、人生全てで味わったことのない重力が圧し掛かっていた。 潰れてしまう。 腕はとれそうになっている。 足など、ぶちぶちとなにか筋のようなものが千切れた音がしている。 ぎいい、と奇妙な音がした。 金属が、金属を斬り落とす。 いや、無理やりに狂った力で引きちぎるような音であった。 鋼鉄の盾が、割れそうになっているのだ。 「テメレール様!!」 表面には『勘当者』と記され、裏面には魔術刻印が丹念に記述された魔法の盾が壊れそうになっている。 そうか、今わかった。 わざと私の一撃を受けたのだ。 フェイントに引っかかったのではない。 全身全霊の暴力を振るう溜めの時間を作るために、この男はあえて一撃を受けたのだ。 何もかも、ポリドロ卿が上手であったのだ。 もう。 もう、持たない。 私の身体も、私の盾も。 私は愛する愚かな主人の名前を三度叫ぼうとして、その前に楯が壊れた。 ぎいぃ、という奇妙な悲鳴のような音を立てて、『勘当者』の刻印が真っ二つに断たれた。 私の頭上に、そのまま全身全霊の暴力が落ちてきた。 「――っ!!」 声にならない悲鳴とともに。 私はグレートソードに押し潰された。 轟音とともに、自分の身体が地面に押し付けられた。 口から臓物の全てを吐き出しそうになりながら、屍のように転がる。 痛みはない。 身体が耐えかねて、強烈な痛みを遮断したのだ。 自分の身を保護してくれた甲冑はやや歪んだように感じられ、兜などは奇妙な形にひしゃげて地面を転がっていった。 私の身体は、もう何もできない。 ぴくりとも動けない。 先ほどまでの異常でしかない戦場音楽。 岩づくりの天井を叩き切る轟音。 金属が金属を断ち切ってしまった音。 人体が地面に磔にされる音。 それら全てが空間からは忘れ去られ、奇妙な沈黙が落ちた。 「生きてる?」 ポリドロ卿の声が、沈黙を切り裂いた。 少し不安そうな声であった。 この男殺してやりたいと思ったが、じゃあ本当に逆らおうかという気は欠片も起きなかった。 「今調べます」 立会人の二人、アレクサンドラという女と、ユエという女が近づいてくる。 「なんで殺したんです」「いや、明らかに死にましたよ。この人」などと言う声が聞こえた。 「生ぎてるよ」 私は辛うじて声を上げた。 言葉には、濁音が混じっていた。 呼吸さえ苦しいのだ。 「さすが武の超人である。私の全身全霊の一撃を受けて死なないとは、見事なものだ」 しれっと呟く声が聞こえた。 やっぱりこの男、殺し合いはしないって約束忘れてないか? 「ポリドロ卿、命まではお互いとらないって約束ではなかったかと」 「いや、全力でやっても多分死なないだろって考えて……。そもそも全身全霊で戦いたいからこそ、私は今回の一騎打ちをやっているわけであって、殺す気はないが手抜きはしない」 ユエが、眉を顰めて呟いた。 ポリドロ卿はものすごく適当な言い訳をしていた。 実際死ななかったが、もうそれは結果がそうだっただけである。 文句を言おうと思ったが、それより気になることがあった。 「ポリドロ卿、一つ尋ねたい。私の一撃は効かなかったのか?」 「いや、確かにあの一撃は効いている。肋骨にヒビが少し入ったかもしれない」 真面目くさった声で、ポリドロ卿が答えた。 骨の一本すら折れていなかった。 どういう身体をしているのだろうか。 「多分、治るのに少しかかるんじゃないかと思う。見事な一撃だった」 超人は確かに怪我の治りも早い。 なれど、ポリドロ卿のいう少しが1週間か1日か、その軽い声の調子ではよくわからなかった。 嗚呼、なるほど。 この男騎士は、確かにあの悪魔みたいなレッケンベル卿に勝ったんだ。 私はようやく、骨の髄まで理解した。 だから、自分がどうしても頼みたいことを告げる。 「ポリドロ卿、一つお願いしたいことがある」 「何か?」 もはや口を開くことすら億劫になっているが、これだけはきちんとしないとな。 「テメレール様は全身全霊で殴っても死なないと思うが、殺すのだけはやめてくれ」 「わかった。五・六回全身全霊でぶん殴るだけでわかってもらえると良いのだが」 私みたくぶちのめされたら、ほんの少し素直になれるかもしれない。 レッケンベルが死んでからは、一層性格をこじらせてしまった主のこと。 それだけを考えて、私は目を閉じた。 第132話 サムライ 意識を失った勘当者が、命あることを確認した後。 私とポリドロ卿とユエ殿は、3人して再び歩き出す。 数百人単位が籠城できる堡塁はさすがに巨大であり、一種の城のようなものである。 さりとて、超人と超人が存分に斬りあえる場所となると少ない。 やがて、我々はまた一人の超人に行き当たった。 超人は、異邦人であった。 肌は白かれども、少し私たちと違い、例えるならユエ殿の―― 「もしや、貴女はフェイロンの産まれであるか?」 ユエ殿が、目を見開いて叫んだ。 同じ国の生まれのように見受けられたのだ。 異邦人は返した。 「ユエ様は、大陸の御方とテメレール様にお聞きしておりますが。残念ながら、違います」 異邦人は、奇妙な姿をしていた。 膝を屈しているのである。 石畳のうえに絨毯を敷いており、そこに膝を屈していた。 膝を折り畳んで、その太ももに手を置いて鎮座しているのだ。 足が痛くはならないのだろうか? 「それよりも東方の、海を隔てた島国です。フェイロン産まれであるユエ殿ならば、知っておられるかもしれませぬ」 「倭国の者であるのか!?」 「フェイロンではそう呼ぶとお聞きしております」 彼女は兵士らしからぬ長髪を伸ばしていた。 髪は白布で縛っており、美しい黒髪であった。 膝を曲げたまま、まるで首を差し出すようにして、頭を絨毯近くまで深々と下げた。 身をかがめて、頭を地に打ち付けるように擦り付けている。 ――このアレクサンドラは、この姿を知っている。 まるで、リーゼンロッテ女王陛下に頭を下げた、ポリドロ卿のようではないか。 「お初にお目にかかります。私、フェイロンの東、島国から流れ着いた元傭兵奴隷、現狂える猪の騎士団所属の『サムライ』であります。此度、テメレール様より皆様のお相手を仰せつかりました」 頭を下げたままに、彼女が呟いた。 正直、困る。 おそらく彼女が礼を尽くしてくれているのだとは理解できるのだが、神聖グステン帝国にこのような礼儀はない。 ふと、ポリドロ卿を見ると。 グレートソードを石畳の床に置き、膝を折り畳んで。 彼女と同じようにして、頭を下げたのだ。 「こちらも、初めて礼をいたします。神聖グステン帝国アンハルト選帝侯領、ポリドロ領の領主騎士たるファウスト・フォン・ポリドロであります」 「あら」 額は、石畳の上に擦り付ける寸前まで下がっていた。 『サムライ』は嬉しそうに微笑んだ。 「有難うございます」 柔和な笑顔であった。 本当に、本当に嬉しそうな顔であったのだ。 はて、騎士らしくない。 ポリドロ卿の対応にも驚くが、それよりも彼女は異質である。 さて、どうしようと思うが、私には何もできぬ。 決闘相手への問い掛けも、どう戦うかも、何もかもポリドロ卿に主導権があるのだ。 「サムライ殿。先ほど、貴女は傭兵奴隷と申したが」 ポリドロ卿が、腑に落ちぬように呟いた。 「戦で負けました」 サムライが慎ましく、ぽつりと呟いた。 「ポリドロ卿はご存じないと思いますので、説明いたしますね。祖国には今もちゃんと統治機構たる幕府があるのですが――神聖グステン帝国と同じ、いえ、それ以下ですね。この国で例えれば皇帝陛下の相続争いで、歳遅くに子を産んだ正室と、養子との相続争いで帝国地盤が無茶苦茶になってしまって。諸侯が沢山起こした戦の一つで、私の国が負けてしまいました」 こてん、と首を横に傾けた。 私、困ってしまった、などという風情であった。 「私自身が負けたわけではないのですが、総大将を討ち取られ、人質に一族を捕らえられてしまってはどうしようもありません」 「それで、奴隷に?」 「はい。お前もお前の一族も殺さないが、お前だけは超人ゆえ邪魔である。この国を出ていけ。そう言われて、異国人の船に奴隷として売られてしまいました」 ポリドロ卿は、何か深く考えるような顔をしている。 「流れ流れました。私を買った人間は、この帝国で言う「神殺しの民」の一人でありました。奴隷商人は金のために贖罪主の宗教に改宗したと呟いておりました。布教のため――そう偽って、いいえ、本人は間違いなく自分は善良であるなどと信じていたのでしょう。船に乗って様々な異国に赴き、色々な人々を襲い、殺して財産を奪い、新しい奴隷を得て掠奪しました。私はその手伝いをした、奴隷商人の傭兵であったのです」 よくある話である。 このアレクサンドラにとっては、別段これといって感じるところはない。 「私の運命が変わったのは、その商人が私を奴隷として連れ、神聖グステン帝国に帰り着いてのことであります。ある日、テメレール様が私のところにいらっしゃいました。私の超人としての実力を聞きつけて『狂える猪の騎士団』に勧誘にきたとのことでありました」 「それで?」 対して、ポリドロ卿は酷く興味深げである。 サムライは答えた。 「私は奴隷の立場で、そのような勧誘をお受けできる立場にありませんと答えました」 「何故そのようなことを? 私なら受けている」 ポリドロ卿は不思議そうに呟いた。 なるほど、確かに法の上では奴隷である。 だが、そんなこと「どうでもよい」ではないか。 奴隷商人など、ぶっ殺して逃げたら良いのだ。 悪法も法など所詮は戯言である。 勝てばよかろうなのだ。 奴隷とて「後はどうでもいいから」の覚悟があれば、皇帝だってぶっ殺してよいのが世の中である。 「多分、疲れてしまったんでしょう。ええ、何もかもに疲れてしまっていたんです。私は意思が弱く、その――子供の頃から、こうでして。その気になれば一族を見殺しにて、どこか遠くに行くこともできたでしょう。気が向けば奴隷商人風情などその場で嬲り殺しにして逃げればよかった。でも、こうなんです。多分頭が弱いのでしょう」 そうやって生きてきました。 そのように、寂しげに呟く。 確かに、どうも意志薄弱で何をやっているのか、よくわからない人間もいる。 サムライもその類であるのだろう。 「ポリドロ卿が今お尋ねになられましたように、テメレール様も不思議そうになされました。 何故殺さない? お前の両手は何のためについている? ああ、たまにお前のような奴がいるんだが。お前、自分はもうそれでよいと思っているかもしれないが、本当にそれでいいのか、と」 ぽつぽつと、先ほどまでは語っていた。 それとは打って変わって、少し饒舌にサムライは口を紡ぐ。 「お前なんか勘違いしているな。腹が立たんのか? お前、奴隷商人に腹が立たんのか。お前だって薄々気づいているだろう。お前、侮辱されているんだぞ。お前はそれでうまく生きてきたなどと思い込みたいのかもしれないが、お前の事を嘲ってへらへらと笑っている奴がいるんだぞ。あの奴隷、なかなか使えるじゃないか。あの奴隷、主人に仕える心得が分かっているなどと」 テメレール公はこのように仰られた、と。 そのように楽しそうに語っている。 「お前を侮辱してへらへら笑っている奴がいるんだ。それだけで殺してやりたくならないのか。ならないなら、お前はもう奴隷どころか人間ではないぞ」 テメレール公の言うことは至極真っ当である。 貴族であろうが平民であろうが奴隷であろうが、侮辱されたら相手を殺すしかないのだ。 名誉を守るという理由、立場を守るという理由、大事だが、それだけではない。 自分の面子を踏みにじられたら、相手を殺すしかないではないか。 だが。 「お前を笑っている奴がいるんだ。お前、何どうでもよさそうな顔してんだ。さっさと殺してこい。侮辱には死をもって報復することが神聖グステン帝国全体ではともかく、ヴィレンドルフなんかじゃ当たり前のこととして許されている。レッケンベルを産んだあの狂った国では、殺された方が悪いとまで言われる」 ポリドロ卿を侮辱した口で、どうほざいてんだ。 そう思うが、はて、そういえば。 「お前がどうしても人に許可してもらえなければ動けない、頭がよろしくない類の人間なら、仕方ない。私が赦してやろうじゃないか。さっさと殺してこい」 ああ、そうだ。 私に対し、テメレール公は謝らないと答えた。 金を払うが、ポリドロ卿に山のような謝罪金を払ってもよいが、誤魔化せと。 私側の責任ではあるとちゃんと認識しているが、それだけはできぬと。 アナスタシア様の面子を潰したくはないが、あの男に謝罪するのだけは嫌だと。 レッケンベルに勝ったなどと虚偽を吐く男に頭を下げるなどと死んでもあり得ぬと叫んだ。 多分、あの時絞り出した言葉は、テメレール公の本音であったのだろう。 はて。 今、テメレール公は。 嗚呼、考えがまとまらない。 「私が赦してやるのだから、お前さっさと自分を侮辱した者を殺してこい。そう仰せられた」 どうも、眼前のサムライの言葉を聞きながらでは考えがまとまらぬ。 テメレール公とて、理解しつつあると思うのだ。 大砲の砲撃を跳ね返したことで、ポリドロ卿が本物の狂ったレベルの超人であることを。 ならば、今のテメレール公は何を考えているのだろうか。 答えが導き出せない。 ポリドロ卿の、銅鑼の様に笑う声が響いた。 「それで、殺しましたか」 「殺しました」 サムライは答えた。 「あの奴隷商人、時々私が人を殺す姿を見ては笑っておりましてねえ。テメレール様に言われるまで気付きませんでしたが、私腹が立ってたんですねえ」 サムライは、嬉しそうに語っている。 「まあ、奴隷商人をぶっ殺して、その後はテメレール様に仕えました。あの人、評判は悪いですけれど、自分が認めた人には優しいんですよ。そればかりか、領地と城までもらっちゃいました。異邦人なのにですよ。私なんか、祖国でも一族の隅っこに偶然産まれた超人だったのに」 「よかったですね」 ポリドロ卿は、その言葉に、本当に優しそうに答えた。 何故だかポリドロ卿、この人に酷く甘いな。 なんとなく女として嫉妬を覚える。 「さて、まあ、そういうわけです。ポリドロ卿、私は大砲の砲弾を撃ち返す貴方の姿を見ました。私が勝てるなど、欠片も思っておりません。なれど、私がテメレール様に従わない理由とはならないんです。そんなもの、口悪くいってしまえば糞ほどの理由にもならないんですよ」 「そうですね」 二人が、優しく会話している。 「私ね。私はですね。あのテメレール様のことが何処か好きなんです。あの夜会で侮辱された貴方がお怒りになられるのは当然です。それは私にとっても当然のことなんです。ですが、どうしても私はテメレール様のお味方がしたい」 「わかります」 優しい会話は続いているが。 「なれば、貴方に刃を向けることをお許しください。勝負の方法は、貴方の望む方法にて」 この二人は、お互いが死ぬ寸前まで刃を向けることを理解している。 サムライが鎮座する脇には、ふと奇妙な形の刃物があった。 鞘に入っており、長大であり、反りがある。 刀身だけで目測1.5mにもおよび、柄を含めるとなると更に長い。 普通の兵士なれば、馬の上でも振るえぬような武器であろう。 なれど、超人であれば扱うことができる。 私が知る最強超人たるポリドロ卿の様に。 「貴方の望む方法にて、と申したか」 ポリドロ卿が、小さく呟いた。 「はい、言いました」 サムライが答えた。 ポリドロ卿が再び小さく、それこそ私やユエ殿など無視をして。 ――まるで、サムライと二人だけの空間に入ってしまったようにして呟いた。 「ならば、今すぐこの場にて。その太刀を鞘から抜き放った後に、その場にて」 「ポリドロ卿」 サムライが、本当に嬉しそうに答えた。 「すみません。すみませんね。そう仰ることは、先ほど頭を下げられた際に分かっていたのです。そういう御方だろうなと、理解してしまいました。もはや、言葉はいりませぬ。大変失礼をいたしました。鞘にまで気を配っていただいて」 そうして、深々と膝を折ったままに頭を下げた。 「申し訳ありません。テメレール様が貴方への侮辱に、貴方がテメレール様の元に辿り着いて、我が主がまず謝罪を為される前に、臣下としてお詫びいたします。本当に失礼いたしました」 そうだ、おそらくテメレール公は、あの性格を複雑骨折をしたような女は。 あの女が、超人といった優れた者に一定の敬意を払うことを私は理解しつつある。 ポリドロ卿が見事辿り着けば、あの女から出てくる言葉はまず謝罪からであろう。 「テメレール公は謝ってくださるんでしょうか」 「ちゃんと謝ってくださりますよ。まあ、それはそれとして死に物狂いで『私はまだ負けていない』と斬りかかってくるのがテメレール様なんですけど」 ポリドロ卿とサムライ。 二人は、本当に奇妙と思えるくらいに朗らかに笑った。 第133話 「渦巻」 ポリドロ卿と話していると、どこか心がむずかゆく感じる。 どういうことかと少し考えたが、どこか同郷人の気配を感じるのだ。 故郷でも、男(おのこ)など目にすることは少なかったのだが。 それに、ポリドロ卿は家に閉じこもってひっそりと双六などを楽しんでいた男とは違う。 身長2mを超える巨躯の英傑であり、女顔負けの強力な武人であるのだ。 どこにも自分の故郷の男と似たところなど無かったが、それでも妙に心がほぐれた。 はて、男に惚れたことなどないのだけれど。 少々色気づいたことを言ってしまえば、私は生まれて初めてポリドロ卿のような人物が好みであることを知った――というより、齢28にして恥ずかしいばかりだが、これが初恋なのかもしれない。 あのレッケンベル卿が、色に溺れて負けたというのも案外嘘じゃないのではなかろうか。 嗚呼――くだらないことを考えている。 あの酒呑童子もかくやといった鬼そのものの超人が、そのような事で手を抜いてくれるわけがない。 テメレール様とて、下手すればこの世の誰よりもそれを理解しておられるだろうに。 レッケンベル卿の死から2年、いくら忠言したところで聞く耳をもってくれぬ。 色に溺れて手を抜いて死んだ。 あの人肉食ってそうなアンハルト第一王女の卑劣な罠にかかり、数百人の重装甲騎兵にたった一人で挑んで、全てを道連れにして死んだ。 実はこっそり生きていて、私を騙そうとしているのではないか。 悪魔であって人間じゃないから、死んでも生き返るはずだ。 そのような空想に溺れている。 眼前のポリドロ卿を見れば、その全てが悲しい妄想にすぎなかった。 もうしばらくすれば醒めてしまう、浅い夢である。 クラウディア・フォン・レッケンベルは、ポリドロ卿に正々堂々たる一騎打ちにて敗れた。 それが真実だ。 「――」 息を吸う。 事ここに至っては、なるようにしかならぬ。 ポリドロ卿は私を破り、「狂える猪の騎士団」の団員を破り、テメレール様の眼前に立つであろう。 その先の想像などつかぬ。 私がやれることはもはや、剣を抜き放つ事のみであった。 自分の愛刀の位置は、爪先の誤差すらなく把握している。 刀身5尺の大太刀であり、本来の柄は2尺、合わせ7尺(およそ2m10cm)とポリドロ卿のグレートソードと得物の長さは変わらぬ。 なれど、刀身5尺の全てが鞘に収まっているわけではない。 戦場で振り回しやすいように刀身の鍔元から中程の部分に、朱色の革紐を巻き締めてある。 これを「長巻」と私は呼んでいた。 今まで何百人もの血を吸ってきた豪刀である。 騎馬武者を人馬諸共叩き切った事さえある。 ああ、けれど。 私と同じ姿勢にて、わざわざ私の剣の間合いにて正座し。 それでいて、私に掴みかかるにはやや遠い。 なれど、その太刀を鞘から抜き放った後に、その場にて勝負をと望む者に。 横道など無いとでも言うように、私を穏やかな目で見つめている武人に。 そのような豪傑に、どのような豪刀であろうと通じるものか。 きっと、何も通りはしない。 武器が悪いのではない。 私の武力が及ばぬゆえに。 「――」 だけど、それは私が挑まない理由にはならないのだ。 一撃を浴びせねばならない。 テメレール様に、あの御方のために何もしないわけにもいかぬ。 心が静まるのを待つ。 私が許されるのは、ただの一撃である。 人生で一番の、最強最速の一撃である。 レッケンベル卿に浴びせ、そして敗れた一撃を、あの今までで最高の一撃を上回るものである。 そうでなければ、通じそうにない。 幸い、時間はあった。 ポリドロ卿は、私が本当に刀を鞘から抜き切ってしまうまで何もしない。 「や――」 やりましょうか、と口にしようとして。 やめた。 ポリドロ卿は、その私の心を読んだようにして、少し笑った。 どうにも恥ずかしい。 口にするまでもないことを、口にしようとした。 どこか浮ついている。 もう両手で自分の顔を覆って、隠してしまいたくなるが。 「やりましょうか」 優し気な声で、ポリドロ卿が囁いた。 本当に、優しそうな声であった。 何処かが蕩けてしまいそうだった。 私は、少しだけ顎を動かして答えた。 長巻に右手を伸ばす。 左手にて、鞘を掴んだ。 ポリドロ卿は、動かない。 その両の手は膝の上に置かれており、動く気配はない。 ポリドロ卿は黙って此方を見つめている。 「――」 鞘は握るだけ。 足の爪先を立たせる。 下半身の全てに血肉躍らせ、上半身は脱力させる。 同時に、全身を回転させる。 ポリドロ卿に背を向けた。 まだ鞘は抜かない。 回転している間にも、体に捻じれを加える。 身体を仰け反らせる様にして、大きく捻るのだ。 背筋が、腹筋が、太腿が、脛肉が、いや、筋肉どころかその血管一本に至るまで、奇妙な捻じれを作るのだ。 超人という物体の弾性が、その行為に耐えうることで。 その全身の血肉が、剛力によって圧縮された超人の総身の血肉が、一つの爆発した力を産み出すのだ。 神速にして狂気の暴力に至る一撃を産み出すのだ。 刹那の間に、その全ての所作を行う。 戦場における百人殺しの達成により、ようやく主家から教えが許されたもの。 超人といえど血の滲む修練によって結実する、我が一族の秘奥義である。 その名も「渦巻」という。 「――ッ!」 声にならぬ絶叫とともに、鞘を斬り捨てるように右手を振るった。 爆発を行うのだ。 剣を始めるのだ。 静から動へと、暴力がための渾身の力を振るう。 左手と右手、両の手が滑るように互いからするすると離れていった。 右手が柄の端まで、緒紐を通すための穴である鵐目にて小指がかかり。 左手が剣先までの鞘を抜き取り、刀身の全てを顕わにして。 我が右腕にのみ、全身全霊の「渦巻」の力が圧し掛かる。 腕、脳、血管の全てが破裂しそうになる、刹那の瞬きの後に。 全ての暴力が長巻に籠められた。 痛みによる声なき発狂とともに、人生で最速にして最狂の一撃が放たれた。 真向勝負。 最上段斬り下ろし、唐竹割り。 頭蓋を割り、眉間を切り裂き、頭が柘榴のように弾ける一撃である。 仏陀切りの一撃であったのだ。 嗚呼、なれど。 酒呑童子には届かぬだろう。 レッケンベル卿には届かなかった。 であるならば。 当然、眼前の男騎士にも届かぬ一撃であった。 ポリドロ卿は、目を見開いていた。 背を向けているがゆえに分からぬが、私が鞘を抜き放った瞬間に動いたのだろう。 膝は崩さず、グレートソードには手を伸ばさずに。 ただ、両手を頭上に伸ばした。 神の恩寵を承る騎士がごとく両手を天にかざした後、拍手のように両掌を重ねた。 その手の間には、我が長巻の剣先があった。 銅鑼のような大きな濁音。 ただのそれだけで、我が「渦巻」の一撃は防がれた。 「嗚呼」 口から、感嘆が漏れた。 なんと呆気ない。 そして、ふざけていると思った。 そのような方法で受け止めるのであれば、他にも防ぐ方法があったろうに―― 「ご無礼」 ポリドロ卿は、私の心を読んだように呟いた。 真剣勝負である。 命の取り合いをしないことを前提としているが、まあ死んでしまっても構わない。 そういう勝負であった。 力量差のある相手であるならば、如何に相手が自分を弄ぼうが。 それこそ、石ころのように蹴飛ばしてしまっても構わない。 そういう勝負であった。 だから、ポリドロ卿がどのような無礼を通そうが、それに文句を言うことはしない。 ただ。 あまりにも、自分の能力の低さが腹立たしかった。 頬肉が引きつるのを感じる。 ポリドロ卿が両の手指を動かし、剣先を握りしめる。 めきりと、玉鋼を叩き割る奇妙な音色とともに、剣先が飛散した。 我が全身全霊の一撃を、ポリドロ卿はただ受け止めるだけでなく、握り潰したのだ。 私は自分の正気を少しだけ疑い――一瞬だけ置いて、狂ったように嬌声を挙げた。 「お見事なり!」 それ以外に何を言えというのか。 全身全霊の一撃を、無手にて受け止められた。 他に言うべき言葉など無かった。 そうして、ポリドロ卿は我が剣先の破片を膝上より跳ね除けながら。 こう呟いた。 「貴方のカタナを破壊したこと、済まぬとお詫びします。なれど、これは勝負ゆえに」 近づいて。 私に近づいて、振りかぶり、全身の力を込めながらに、続きの言葉を紡ぐ。 「貴女を倒します」 「勿論」 私は微笑んで答えた。 次の瞬間、私の腹にポリドロ卿の握り拳が突き刺さった。 襤褸切れのようにして、ただの一撃にて身体は吹き飛んだ。 腹の臓物が盛り上がったような吐き気とともに、私は地面に倒れこむ。 胃から液体が逆流した。 肉が破れて、液体には血が混ざっている。 「勝負あり! ポリドロ卿、それ以上は」 フェイロン産まれの武将、ユエ殿が叫んだ。 気持ちは有り難いが、正直この勝負に他者の裁定などいらぬ。 私は敗れた。 何をされようが文句は言わぬ。 この勝負に死は無いというが、私はこれでポリドロ卿が死んでも良いという人生最高の一撃を放ったのだ。 ならば、逆に殺されても文句など言えるわけもない。 それだけであった。 私は、せめて無様に俯けに寝っ転がることは避けなければ、と。 必死になって、天井を睨みつけながら倒れる。 意識が混濁している。 「ユエ殿、気持ちは有り難いが。この勝負は私とサムライ殿が決める」 私と似たようなことを考えている。 ポリドロ卿の言葉を聞き、私は少し微笑んだ。 「敗北をお認めになるか」 どう答えようか、少しだけ考えて。 素直な気持ちが口から出た。 「私の負けですよ、ポリドロ卿」 濁音交じりに答える。 涙と胃液が止まらない。 それでも気が触れたようにして、どうにも笑いが止まらなかった。 ああ、そうだ。 このような強い人間が、世界には何人もいるのか。 私の国では出会えなかったもの。 初めて、自分が傭兵奴隷として祖国から離れたことを感謝している。 今日出会って決闘したばかりのこの男に、先ほどからめっきり惚れてしまっているんだ。 武人としてなのか、女としてなのかは、さっぱり分からぬが。 「宜しい」 負けを認めぬとあれば、頭を蹴飛ばすつもりであったのだろう。 ポリドロ卿は不要になったとばかりに、鉄靴の爪先をトントンと石畳で叩いた。 そうして少し、私の嘔吐が収まった様子を眺めた後に。 「先ほど」 ポリドロ卿は私に話しかけた。 自分の身体をぐっ、ぐっと捻りながら、何か身体の調子を確かめるようにしている。 別に、疲れていないだろうに。 「先ほど放った一撃にて、身体に捻りを加えた動作がありましたが。良ければ技の名を教えて頂けないでしょうか」 ポリドロ卿に全く通じなかった奥義。 そのような名を聞いてどうすると思ったが、答えぬわけにもいかぬ。 私は枯れ木のように掠れた息を整えながら、一言だけ答えた。 「渦巻」 ポリドロ卿は、少しだけ、何か思案した様に停止した後。 「渦巻」と同じ所作を真似るようにして自らの身体を捻り、二、三回試した後に。 頭がぼうっとして少しづつ遠くなりつつある私の耳元に、囁くように呟いた。 私の視力がまだ確かならば、ポリドロ卿は私の祖国の最上位の敬意の姿勢。 両手を身体の横にやり、綺麗な姿勢で身体を45度前傾に向けている。 その所作を行った後に、呟いたのだ。 「有難うございます」 脳が蕩けるような声であった。 何の礼なのだろうか。 勝負への礼かと思ったが、少し違う気もした。 まるで、何かの教えを聞き、それを覚えたばかりの弟子のような謙遜さに見えたが。 私には、それ以上のことを考える余裕などなく。 やがて意識は闇に溶けていった。 第134話 ケルン騎士 嫉妬している自分の心が、酷く醜いように思えた。 理由は明確で、ポリドロ卿があのサムライとやらに酷く優し気であり――まあ、その割に鉄靴で頭を蹴り飛ばす素振りなども見せていたが、騎士の優しさは決闘相手を傷付けぬ事ではない。 それが真剣勝負であるならば、仮に自分の主君とて討ち果たさなければならぬ。 武人としては双方、この以上ない敬意を払った結果があの勝負であった。 ハッキリ言えば二人だけの世界に入っており、私やユエ殿など邪魔者とすら見ていた。 気に食わない。 私とて、あのようにポリドロ卿に想われたかった。 ポリドロ卿は私の心内など知らぬだろうが、私は貴方と小さな家族を作りたいのだと。 そのような軟弱な心など打ち明けられぬのが、もどかしかった。 とはいえ、立会人の務めは果たさねばならぬ。 私とユエ殿、そしてポリドロ卿の三人は無事を確認したサムライを置き去りにし、再び三人そろって歩き出した。 当然、また超人と出くわす。 超人は今までの異邦人と違い、同国たる神聖グステン帝国内の者であると思われる。 というよりも―― 「ケルン?」 思わず呟いた。 兜は脱いでいる。 煌めくような銀髪の麗人であった。 胸甲冑にはクロス・アンド・サークルの紋章が刻まれている。 ありとあらゆるケルン派教徒が使用を許されている紋章である。 知っての通り、ケルン派は頭がおかしい。 あのような紋章を好んで使う騎士などそうおらぬ。 そもそも、騎士であるならば盾に、家の紋章、あるいはそれを少しばかり変化させた紋章を刻むのだ。 仮に、ケルン派の紋章を意図的に誇示するものがいるとすれば、それは―― 「ケルン派司教領の騎士であられるか?」 私より先に、ポリドロ卿が問うた。 知っての通り、ポリドロ卿もケルン派の信徒である。 答えはすぐに出たのだろう。 「仰る通りであります。ポリドロ卿」 ケルン騎士は答えた。 「『狂える猪の騎士団』に私以外の信徒はおりませぬ。それゆえに私は『ケルン』と呼ばれております。我が騎士団の全ては、愛称やテメレール様より頂戴した名など、その者が名乗るものでしかお互いを知りませぬがゆえに」 随分と変わった騎士団である。 そして、随分と変人ばかりを集めている。 とはいえ、ケルン派教会からどうやって騎士を動員しているのだ? 何の関りがある、と悩んだが。 先に、ポリドロ卿が憶測を口にした。 「もしやテメレール公は、ケルン派信徒であられるのか?」 話が飛びすぎであり、いくらテメレール公が無茶苦茶な人物とて、そのような事はせぬ。 領主の改宗とは個人のみならず、家臣や領民、外交関係にすら及ぶのだから。 そんな簡単にしてよいものではない。 しかし。 「ええ、お察しの通り3年程前にケルン派に改宗されておられます」 ポリドロ卿の言葉通りであった。 私の表情に、困惑が浮かぶ。 何をやっているのだテメレール公は。 「私はお会いしたことがありませんが、かのレッケンベル卿がご存命の頃でありますね。今でも覚えております。テメレール様はケルン派の司教区に訪れ、自身の改宗と領地の改革について相談に来られました」 『ケルン騎士』が両手両指を組み、胸甲冑のクロス・アンド・サークルを隠すようにして呟いた。 「きっかけは、貴方が相手をした勘当者やサムライなどのように、私という超人を求めてではなく。テメレール領における軍事改革を望んでのことでありました。どうも、このままでは来るべき災厄に対抗できぬ。今世の全てにおいて最高の軍備を整えねばならぬ、そのためならば私自らが改宗することも厭わぬと」 災厄とは何ぞやと考えるが、現状においては一つしか思い浮かばぬ。 眼前のポリドロ卿がアンハルト国中にゲッシュを誓いて訴えた、遊牧騎馬民族国家の事。 当時、レッケンベル卿は存命であり、ヴィレンドルフのカタリナ女王が話す限りでは。 ――まだ、テメレール公とレッケンベル卿は繋がっていた。 テメレール公とレッケンベル卿は、3年前には騎馬民族国家の西征を危惧していた? その可能性が高い。 そんな思考が止まらぬ私を置いて、ポリドロ卿とケルン騎士は会話を続けている。 「軍事改革を望んでと仰るが。つまり、具体的には?」 「象徴するものとしては砲兵であります。テメレール様はケルン派が開発している大砲、キャニスター弾と呼ばれる対人用兵器、それを火力として放つための砲兵という兵科の導入を望まれました。堡塁にてポリドロ卿が撃ち返された砲弾、あれを放ったファルコン砲なども成果の一つです」 ケルン派の火器開発状況は、このアレクサンドラも知っている。 アンハルトでは本当に一握りしか知らないこと。 リーゼンロッテ女王陛下、アナスタシア第一王女殿下、アスターテ公爵、そして第一王女親衛隊長たる私アレクサンドラ、そういった本当に国の運命を左右するものしか知らない。 第二王女ヴァリエール様とて知らぬことだ。 とはいえ、神聖グステン帝国の中枢諸侯たるテメレール公であれば、知っていて当然の事でもある。 下手をしなくてもアンハルトやヴィレンドルフよりも中央の情報を熱心に入手しており、その有効活用を考えていたはずだ。 彼女が帝都における情報源であるならば、レッケンベル卿も全てを知っていたはず。 「詳細はテメレール様に直接お聞きになって下さればと考えます。私とて全てを知る身分にありませぬ。もっとも、素直に答えてはくれぬでしょうが」 テメレール公とレッケンベル卿。 三年前、二人は何を考えていたのか、何をしようとしていたのか。 どうしても聞き出さなくてはならない。 とはいえ、これ以上の情報をこの場で得ることは難しいだろう。 結局は、あの頑迷固陋なテメレール公を打ちのめさなければならない。 「では、次に貴女の事などを尋ねたい。貴女は何故、テメレール公の配下となっておられる? 今までの事情を聞く限りでは、貴方は直接勧誘を受けたわけではないようだが」 ポリドロ卿は、軍事情報をこれ以上聞き出すのを諦めた。 代わりに、彼女の素性を聞き出そうとする。 「仰る通りです。勧誘を受けたのではなく、私はケルン枢機卿の命で来ております」 「枢機卿の命で?」 「はい」 凛とした声が堡塁に通った。 迷いなど感じられぬ、肯定の声だった。 「私は超人としてケルン司教領の家人に産まれ、その能力により枢機卿から騎士叙任を受けた者でした。司教領の聖職者であり、領邦を防衛するための騎士でしたが――現世利益の事しか口にせず、改宗してやるし金もやるから銃と大砲よこせと、傲岸不遜にふるまうテメレール公を叱り飛ばしたのです」 まあ、あの性格である。 いくら諸侯相手とは言え、マトモな聖職者であればあるほど気に食わないのであろう。 「しかし、彼女は言い返してきました。現世利益以外に何が必要なんだ腐れ坊主ども。銃と大砲が無ければ、火薬の製法を貴様らが抑えてなければ、こんなところ好き好んで来るものか大馬鹿者。お前ら、他人からケルン派がどのような目で見られてるのか理解してないのか、聖書の記述すら平気で捻じ曲げる気狂いどもが!」 それはそれとして、まあテメレール公の言い分も正しかった。 こればかりは正しかった。 「聖書のどこを読めば『贖罪主は頭を殴れば頭を果実のように砕き、心臓を殴れば一生心臓を止めることができる奇跡を起こした』などという描写があるんだ。お前らは狂っている!」 これだけはテメレール公が明らかに正しいのだ。 どこがおかしいの? と不思議な顔をしているポリドロ卿も大概である。 すっかりケルン派の聖職者に洗脳されてしまっているのだ。 「彼女は大聖堂に唾を吐きながら、我らケルン派を罵りました。とにかく大砲を差し出せ気狂いども! 帝国を守るためだから。苦汁を飲んで、改宗してやるのだからと。そのようにテメレール様は仰られましたので、枢機卿は浄財を投じること、改宗することに加え、一つ要求を出しました」 「それは?」 「監視役をつけることです。つまり私ですね」 ケルン騎士が、自分を指さして呟いた。 お前、『勘当者』や『サムライ』みたいになんか悲しい過去とか無いのか。 無いんだろうなあ。 「要するに、私は「狂える猪の騎士団」同僚のように、テメレール様に絶対の忠誠を誓っているわけではないのですよ。レッケンベル卿とも御会いしたことがありません。今回の状況には少し戸惑っております」 キッパリと、ケルン騎士は別に忠誠など抱いていないと言い放った。 声は冷たく、そして何の迷いもないようであった。 ああ、そうか。 「私の監視役としての役目は、テメレール様の『帝国を守るため』という言葉に虚偽があった場合、即座に殺害することです。この身が如何に同僚に切り刻まれようとも、役目を全うしなければなりません」 眼前の騎士は『勘当者』や『サムライ』のように、ある意味で狂っているのだ。 ケルン派から差し向けられた、もしもの時のための処刑人であった。 宗派の敵を排撃するためならば、どのような事でも平気でするのだ。 とはいえ。 「ゆえに、ポリドロ卿とは争う理由がない、と言いたいところですが」 ケルン騎士の言葉通りである。 そういう話であるならば、我らが争う理由はなかった。 私とユエ殿は、ポリドロ卿に次へと進むように視線を送ったが。 「そうはいかぬ。『心臓殴りの儀』を行いたい」 ポリドロ卿の口から、何か良く分からぬが明らかに狂った儀式の名前が出た。 うん、なんか嫌な予感はしていた。 あのクロス・アンド・サークルのケルン派の紋章を目にした時から嫌な予感はしていたのだ。 「ケルン派の騎士同士として『心臓殴りの儀』を行いたいのですね。それも結構、お相手仕ります」 勝手に二人で話を進めている。 聞きたくない。 聞きたくはないが。 「ポリドロ卿、『心臓殴りの儀』とはなんでしょうか」 聞いてしまった。 聞くのかよお前、という顔をユエ殿がした。 立会人として、よくわからぬ事をよくわからぬ内に始められても困るのだ。 他にどうしようもなかった。 「聖書の逸話に端を発するものなのですが。アレクサンドラ殿も知っての通り、贖罪主には多くの弟子がおりました。その一人がある日、贖罪主の奇跡を疑いました。人は死んでしまえば生き返らないのだと。贖罪主は人を蘇生させたことがあると伺いましたが、そのような事ができるはずがないと」 贖罪主が蘇生した話は確かにあるが、弟子が疑った話などあっただろうか? さすがに聖書の全てを通読したことはないから、何とも言えぬが。 「高弟や多くの人々が居並ぶ中で、贖罪主は答えました。信じられぬなら、今ここで見せようと。疑った弟子の心臓を思い切り強く叩きました。弟子は仰向けに倒れ、心臓が止まりました。『心臓を殴れば一生心臓を止めることができる』という奇跡をその場で起こしたのです。弟子は死にました」 ポリドロ卿はめっきり信じてしまっているようだが、それは奇跡ではなく単なる暴力である。 「次に、贖罪主は人々にこう言いました。心臓が止まっている。呼吸をしていない。白目を?いている。弟子が確かに死んでいるか確認しなさいと。人々は弟子の様子を確認し、贖罪主の仰ってる通り死んでいると確認しました」 確認している場合ではないだろう。 「贖罪主は仰いました。この神を信じぬ背教者を蘇生してみせようと。『弟子よ。あなたに言う。起きなさい!』。そう叫んで、仰向けに倒れている弟子の心臓を大きく叩きました」 ただの追い打ちではなかろうか。 「弟子は起きません」 そりゃそうだろう。 「今のは冗談であると贖罪主は仰いました。そうして、もう一度『弟子よ。あなたに言う。起きなさい!』と叫び、心臓を大きく叩きました」 ユエ殿が「冗談で済まないと思うんですが」と呟いたが、ポリドロ卿は無視した。 酷く真面目な顔であった。 「弟子は動きません」 それ本当にケルン派の聖書には書いてあるのか? 「人々はざわざわと騒ぎはじめ高弟すら疑うような顔をしました。本当に蘇生できるのですか?と。贖罪主は仰いました。はっきり言っておく。三度目は必ず蘇生に成功する。コツがあるんだ、私を信じろと。贖罪主は『弟子よ。あなたに言う。起きなさい!』と三度叫んで、弟子の心臓を大きく叩きました」 コツとかそういう問題でないと思うのだけど。 「すると、どうでしょう。弟子が蘇生したではありませんか。止まった心臓が動きだし、呼吸を始め、白目を?いていた瞳からは涙を流しています。贖罪主は確かに蘇生の奇跡を起こすことができたのです。蘇生した弟子は贖罪主の奇跡を疑ったことを謝罪しました」 もう誰もが言いたいことを言ってしまうと、それは「贖罪主が弟子を生き返らせた」のではなく「贖罪主が弟子をうっかり殺しかけた」の間違いではなかろうか。 「この説話は、神は三度目までなら疑っても優しく信徒を御赦しになられ、主は悔い改めて生き返った信徒を受け止め、再び立ち上がらせてくださるという意味と伝えられているんだ。誠に情け深い贖罪主の説話である」 ケルン派がいかに狂っているかの説話はどうでもよいが、それはそれとして。 「で、その逸話が『心臓殴りの儀』と、どう関係するんでしょうか?」 とりあえず聞いてみた。 別に聞きたくはないのだが、聞かざるを得ない。 「要するに、この逸話を起源としたケルン派の騎士同士が望まずも争うことになった場合の神前決闘作法である。お互いの陣営から出てきた代表者二人が心臓を狙って殴り合い、仮に心臓が止まって死んでも遺恨無しとする。同時に、勝者は倒れた敗者の蘇生を誠心誠意行わなければならぬ」 無理やり解釈すれば、信徒同士の被害を最小限にするために定められた神前決闘作法なのであろう。 最悪でも一人が死ぬだけだ。 一応理屈は分かるのだが、ハッキリ言っておきたい。 「ケルン派は頭がおかしいのですか?」 自分が口にする前に、ユエ殿が口を開いた。 そして、ポリドロ卿もケルン騎士も全く聞いてやしないのだ。 「いくぞ、ケルン騎士殿!」 「かかってこい、ポリドロ卿!」 立会人の私たち二人が止める声も聞かずして、勝負が始まった。 一分も経たない内に、ポリドロ卿の鉄拳がケルン騎士の胸甲冑、クロス・アンド・サークルの紋章ど真ん中に突き刺さる。 心臓真上である。 そして――ケルン騎士は仰向けに倒れこみ。 私とユエ殿は、慌てて彼女を蘇生するために駆け寄ったのだ。 第135話 敗北者 ケルン騎士は結局、甲冑を脱がせてからの気道確保をポリドロ卿が行い、ユエ殿が人工呼吸をし、私が胸部を何度も圧迫したことで蘇生した。 胸部への強打にて、拍動する心臓が拍子を止め、そのまま死に至る――そういったことは、訓練でも稀にあることだが。 ケルン派では心臓殴りの儀があることからか、治療法が熱心に研究されたそうだ。 その教義では心臓を止めることが目的ではなく、そこからの蘇生こそが大事であるのだ。 「贖罪主の行為をなぞる神聖な行為です。蘇生してこそ、主の意思に沿うこととなります」 ポリドロ卿の言葉。 さきほど処置した治療法は「結局、贖罪主はどのようにして蘇生の奇跡を起こしたのか」をケルン派が念入りに調べたうえで、学術的結論として導き出したものであるとポリドロ卿は話してくれた。 いや、学術的に可能であれば、奇跡でも何でもないではないか。 そうツッコんだのだが、この治療工程を踏まえねばならぬ事を贖罪主は拳一つで為されたのだ。 これは結論として奇跡としか言いようがないとケルン派は主張しており、その狂った宗派に幼少期から洗脳を受けてしまった可哀そうなポリドロ卿も奇跡だと認めている。 「新紀元――贖罪主が生まれた年が世紀元年であることから、聖書は『新世紀贖罪主伝説』ともケルン派では呼ばれております」 特に知りたくもない豆知識。 ケルン派には狂った経緯から生まれた謎の英知が垣間見られる。 なれど、狂った経緯から生まれた以上、正気に返ることもまた無かった。 始まりがそこならば、結論が悲しいことになるのは至極当然であったのだ。 「アレクサンドラ殿」 思い悩む私に、ユエ殿がささやいた。 「フェイロンでも、ケルン派のように頭のおかしな人々は結構おりましたよ」 フェイロンという、今は滅びた王朝からヴィレンドルフに訪れた客将の言葉である。 私への慰めなのか、それともフェイロンだって負けていないぞという主張なのか。 前者ならばあまりに虚しい慰めで、後者ならフェイロンは滅んでよい国だったのではないか。 口にすると喧嘩になるので言わないが、そんな思いを抱く。 ああ、もういい。 ケルン騎士は蘇生すれど、負けを認めて立ち去った。 我々三人はというと薄暗い堡塁内をしばらく歩き、すでに眼前には次の決闘相手が見えている。 「お待ちしておりました」 四番目の決闘相手。 サムライと同じく異邦人である。 西洋甲冑こそ着用すれど、兜のスリットから見える肌の色は帝国領邦民の者ではない。 ユエ殿が詳しくなかろうかと、横を見ようとした瞬間に。 ――強烈な殺気を感じた。 「問う」 ユエ殿の殺気である。 我ら立会人は甲冑こそ身に着けざれど、腰にナイフ程度ならば帯びていた。 「カタリナ女王陛下の御傍にて、テメレール公の背後に控えるお前を見た時から――もしやと思っていた」 それを抜き放ち、刃を向けながらにユエ殿は呟いた。 「貴様、我が祖国を滅ぼした民族の者ではないか」 フェイロンを滅ぼした存在、遊牧騎馬民族国家の人間に違いない。 ユエ殿は確信を抱いて、それを口にしていた。 私は一瞬判断に困るが、ポリドロ卿がユエ殿の激昂に応じた。 「ユエ殿、これは私の決闘相手で、貴女は立会人にすぎない。手出し無用」 当然の理屈であった。 そのあと、何かユエ殿は呟こうとして――やめた。 すん、と鼻で何かを啜る音がした。 激情は収まらねど、正論だと理解していた。 「すまない、ポリドロ卿。後をお願いする」 ポリドロ卿の言葉一つで、冷静になったのだろう。 そうだ、色々聞きたいことはあり、疑問も沢山ある。 なれど―― 「貴女に問う。貴女の「狂える猪の騎士団」における名は何か? できれば出自もお聞かせ願いたい。今回の決闘相手全員に尋ねることにしているのだ」 これはポリドロ卿の決闘であり、そして疑問があれば全て彼が尋ねてくれるのだ。 我々の出る幕はない。 彼女は質問に答えた。 「私の名は『敗北者』。そこの女――ユエ殿が見抜いた通り、私はフェイロンの北方にある大草原にてある部族の長だった。だが、少しユエ殿の見解とは違うところがあるなあ」 水を向けられたユエ殿は、怒りに燃えた瞳をしている。 「そう怒るなよ。お前は遊牧騎馬民族国家が単一の部族とでも考えているのか? 嗚呼、さすがにそんなことはお前も承知か。お前は何かを疑っているね」 ユエ殿が何を言いたいのかわかっている。 それを承知で、彼女は笑った。 ポリドロ卿が、たまりかねたように言葉を遮って呟く 「ユエ殿を挑発するのはその程度にしてもらおう。率直に質問に答えぬならば」 その四肢この場で斬り落とす、と。 ポリドロ卿が呟き捨てた。 彼女は笑った。 「おっかないね。私は確かに、彼女の言う民族の出身であるが。私があの国からテメレール公の領地へ流れたのは10年も前なのさ。レッケンベル卿とも戦って、勘当者やサムライと一緒にぶちのめされた頃には神聖グステン帝国にいた。フェイロンを襲ったことなんて、私には一度もないね」 ユエ殿が眉をしかめた後に――嘘ではないと判断して、ナイフを鞘に納めた。 ポリドロ卿が言葉を繋ぐ。 「念のため伺うが――テメレール公が、遊牧騎馬民族国家に内通しているということは無いのか? 貴女を仲介としてだ」 「神聖グステン帝国を裏切ってか、まあ、そりゃ心配するだろうけどさ」 けらけらと、「敗北者」殿が笑った。 掌を縦に向けて、ひらひらと横に振る。 「いや、そんな器用な事できたなら、こんな状況になってないって。あの人は、テメレール様は人に頭下げるのが死ぬほど嫌いなんだよ。何が悲しくて、皇帝陛下にすら下げたくない頭を他に下げるのさ」 少し私も内通を疑っていたのだが。 まあ、そんなことができる性格ならば、こんなややこしいことになってないな。 私たち三人は納得した。 「そもそも内通を疑うどころか、テメレール様が強烈に帝国に働きかけて各選帝侯領に、アンハルトやヴィレンドルフに遊牧騎馬民族国家に備えるよう促したんだ。あの御方に、勘違いして変な疑いをかけてほしくないね」 ……神聖グステン帝国内に、アンハルトとヴィレンドルフ双方の争いにおいて、それをやめて遊牧騎馬民族国家対策に注力せよと意見した者がいる。 警告を促した者がいる。 それは間違いなく帝国において中枢ともいえる人間であり、最低でも有力な諸侯であった。 テメレール公が遊牧騎馬民族国家に対し、強硬派なのは聞き及んでいるが。 「それは真実か?」 「間違いなく真実さ。まあ、テメレール様はレッケンベル卿が死んだことにしばらく呆然としていて、初動が遅れた嫌いはあるがね」 だから、疑うのはよせ。 そのように敗北者が呟き捨てる。 「テメレール様は役目を果たされた。自分が帝国との軍事契約において果たさなければならぬ最低限の領分を果たしたのだ。皇帝陛下に訴えた、教皇猊下に訴えた、選帝侯に訴えた、だけど誰もテメレール様の望み通りには動いてくれない」 結局、テメレール様は自分が生涯で唯一敗北したレッケンベル卿以外の事を認めていなかったし、そのレッケンベル卿さえもテメレール様の期待を裏切ってしまった。 この世で史上最強の存在であるという期待を裏切ってしまった。 相互不理解。 へらへらと、やや腹の立つ表情で、敗北者はそのように語る。 「だから自分でやることにした。テメレール様は、まあ、アレなお人だし。そのような結論に陥るのも仕方ないのだろうなあ。まあ、私はそれに従うだけさ」 敗北者はどうでも良さげであった。 何もかもがどうとでもなれ、という口ぶりであった。 それでも唯一、たった一つ。 「貴女は何故、どうでもよさそうなのにテメレール公に仕える? 何故、自分を敗北者などと呼ぶ?」 眼前の「狂える猪の騎士団」四番目の超人は、テメレール公への忠誠だけは捨てていないようであった。 それをポリドロ卿が問うた。 「――それを教えるためには、私の話をしなければならない。私の出身、私の部族の話だ。フェイロン王朝の北方にある広大な高原の中には、人が草の海にさすらう必要がない土地があることを知っているだろうか。私の部族はそこを生活拠点とした、半定住・半遊牧民の生活を続ける者達であった。私はそこの長だった。まだ年若くして部族を継いだが、親族が協力してそれを支えてくれた」 敗北者は懐かし気に語る。 「このまま何事もなく愛する婚約者と結婚し、私の部族という小さな火種を次に繋げて。小さな生活拠点を大きくして、やがてフェイロンとも交易することで大きな都市を作る。そんな夢みたいなことばかり考えて暮らしていた」 一瞬、奇妙な誇りさえ抱いた表情をした。 なれど、すぐに自分自身を嘲笑するように言葉を繋げた。 「ある日、不思議な少女がやってきた。奇妙な少女だった。まだ幼ささえ感じさせる風貌であるが、大草原の果てまでも見通してしまうような少女だった。名をセオラと言った。当時すでに大きな戦いに勝ち、諸部族をまとめたトクトア・カンの次女で、私に服属を命じにに来たそうだ」 「……それで?」 「勝ち目は最初からなかった。私は服属を受け入れた。それで部族の命を繋げることができるならば、それで良いじゃないかと納得した。血の気の多い親族もいたが、最終的には力づくで納得させたよ」 東方の事情はさっぱり分からぬが、まあそれは仕方あるまい。 勝てない戦などする意味がない。 彼女は賢明な判断をしたのだ。 そう思う。 「そこまでは良かったんだ。トクトア・カンは味方に対しては寛大で惜しみなく褒美を振る舞う。服属を拒むのであれば息を吸うように虐殺するが、私は最初から受け入れた。ならば、後は自分の超人としての貢献を成せば、部族の未来は明るいように思えた。それで何もかもが片付くと単純に考えた」 だが、そうはならなかったんだろうな。 「だけど、トクトア・カンは言ったよ。私の目の前で言ったよ。お前の婚約者が気に入ったから寄越せと、飽きたら返してやると言った。お前の占有地は交易都市として使えるから全て奪えと財務官僚どもが言っていた。代わりの牧草地を用意してやるから、全員そこに移動しろという。お前自身はセオラによる超人部隊の配下にする予定なので、長の地位は別な誰かに譲れという」 婚約者も、先祖代々の領地も、自分の地位も。 「トクトア・カンは味方には寛大などと嘯くくせに、私には何の配慮もしてくれなかったんだ。服属を承知したならば、何もかも全て奪うだけだった。とんだ?吐きだった」 何もかも全て奪われてしまったのか。 「それで?」 ポリドロ卿は、目を閉じながらに呟いた。 自分が同じ立場ならばと考えたのであろう。 「何もかも投げ捨てて逃げたよ。だって、戦っても絶対に勝てないことは分かり切っている。それなら、婚約者も親族も皆が幸せになれる可能性がまだ残っている服属の道を選ぶべきだった。かといって、そこまで屈辱的な仕打ちを受けて大人しく従うのも嫌だった。私一人が消える分には、全てを奪ったトクトア・カンも気にしないだろうと思った」 流れ流れて、昔話で聞いたシルクロードを通って。 草の道を歩いて歩いて、やがて旅人としてテメレール領に辿り着いた。 そのように、敗北者が語る。 「ある日、テメレール様の元に招かれた。私は当時商人の護衛などで生計を立てていて、山賊団を返り討ちにしていたことで目に留まったらしい。私はそこでテメレール様に自分の出自を尋ねられたので、正直に答えたよ。私は敗北者でございます、と自嘲気味にな」 敗北者は薄ら笑いを浮かべている。 「さて、テメレール公はなんと言った?」 ポリドロ卿は、興味深げに尋ねた。 「生きてりゃ勝ちだろ、と単純に言ったよ」 そういう問題ではないと思うのだが。 眼前の敗北者は悲しいかな、完全に人生の荒波に揉まれて負けている。 「そこで自殺してたら、お前は誰かが同情して泣いてくれたとしてもいつかは忘れ去られる。もう、どうしようもないくらいに負け犬になってしまうわけだが。生きてたら、報復するチャンスはまだ残っている。再戦の機会は残っている。次に勝てばよいのだ。お前はまだ負けていないぞ」 だんだんと、テメレール公の価値観が気になりつつある。 視野狭窄にして、性格はどんなに負けても捨て台詞を吐いて逃げる小物にすぎぬ。 「人は負けたと自分が認識してしまったときに、初めて負けるのだ。自分がオケアノスの海の果てに消えてしまわぬ限り、まだ勝負は終わってない。勝つのはこれからだ!」 なれど、それで片付けるにはあまりにも奇妙な生き方をしている。 「私はそれを聞いても、じゃあ負けたと思いきってしまった自分はトクトア・カンに完全に負けたんだなと思っただけだよ。だけど、奇妙な事にいつの間にかテメレール公の配下になってしまっていてね。そうして人生を過ごして、レッケンベルに五回も殺されかけたのにまだ負けを認めない、アホみたいな、いや、アホそのものの我が愛しのテメレール様を眺めている間に気づいたんだよ。この人、あの時の言葉は真実本音で言ってたんだって」 敗北者が息を大きく吐いた。 「まあ、このアホに付き従って生きていくのも、そう悪くはないと思っている自分を理解してしまった」 小骨を鳴らすような音が鳴った。 ポリドロ卿が大きく首を回した音であった。 戦いの準備である。 「まあ、なんだ。理屈だっての説明ができたものか。トクトア・カンは嘘つきで、テメレール様は馬鹿にしたくなるほど正直だった。少々不安だけど、私が敗北者を名乗る理由と、テメレール様が愛しの主君である理由はそれだけだ。私は完全に気分であの御方に仕えている。理解できたかい、ポリドロ卿?」 「理解した。私はテメレール公の意見全てには賛同せぬが、まあ、なんだ」 ポリドロ卿は、少々愉快そうに笑った。 「なかなか楽しそうな主君様じゃないか」 「そうだろう?」 敗北者とともに、楽し気に笑い合う声が掠れて響いた。 その一拍だけを置いて。 剣がぶつかり合う音が、周囲一帯に響いた。 両者裂帛の叫び声とともに、全力で剣技を振るう。 勝負は十三度目の金属音が鳴ったと同時に、ポリドロ卿の勝ちで終わった。 第136話 日陰者 敗北者はポリドロ卿による十三撃目にして、壁に叩きつけられて倒れ伏した。 気絶したようだが、致命の一撃ではない。 ポリドロ卿は一瞥すらせずに歩き出した。 別に認識する価値もない相手と看做したわけではない。 「強いな」 ポツリと、そう呟いた。 先ほど初めてポリドロ卿の連撃に付き合うことができた敗北者だけが、ではない。 意図は理解しているが―― 「あっさり勝利しているように見受けられますが」 「実力差はあります。なれど、我が全身全霊の一撃を受けても、誰一人砕けて死ぬことは無かった」 ポリドロ卿は、全身全霊にて暴力を振るっている。 その暴力にて相手が硝子のように砕け散る結果は見えてこない。 だが私は、このアレクサンドラには、このような実力を発揮されたことはない。 「ポリドロ卿、私との模擬戦闘では本気を出されていなかったのですか?」 「――手を抜いていたわけではありませんが」 あのヴィレンドルフ戦役後、アンハルト王都にて何度も行った私との訓練では、模擬戦闘では一度も本気を出していなかったのにだ。 私は勝つ事などできまいが、ライバルにはなれると今まで考えていた。 少し、悔しい。 「本気を出したかったのならば、私に言って下されば良かったのです」 勝てるとは思えない。 なれど、先ほどの敗北者のように剣戟に付き合う実力程度はあるのだ。 「弓槍入り混じる戦場なれば面倒くさい」程度の認識を味わわせることはできた。 このような変人色物超人集団「狂える猪の騎士団」の相手をする必要までなかった。 「貴女を」 ポリドロ卿は困ったように、小さく口を動かした。 「貴女を怪我させたくなかったのですよ。困ります。お許しください」 その声が、本当に困った様子であることから。 私はその謝罪を許した。 仮に他の騎士からの言葉であれば、侮辱であると怒り狂った発言であるのだが。 「――この件が終わり次第、私と手合わせを」 なれど、どうもポリドロ卿は本気で困っているし、心から謝罪をしている。 貴方が私を傷付けたくなかったのは、戦友であるゆえか。 それとも、私に好意を持っているからであるのか。 そのように尋ねたかったが、私は自意識過剰の性ではなく、前者であるがゆえと承知している。 第二王女たるヴァリエール様の婚約者であるポリドロ卿に、このような横恋慕をすべきではない。 そう思うが、どうにも想いを止められぬ。 あの人肉食ってそうな我が主君アナスタシア様や、性欲に頭が狂うたアスターテ公爵に身を許す事になるならば、私とてそれに加わっても許されるだろうに。 マトモな人間などあの国にはそんなにいないのだから、私が加わったぐらいでバランスがとれるはずである。 第一王女親衛隊長として誓った主君アナスタシア様との契約は遵守するけれど、好意のしるしにどっかの領地買えるほど金くれないかなとか。 いくら無茶苦茶しても許されるくらいに心が痛まない悪徳領主の土地を襲っては、掠奪して金ぶんどれる仕事くれないかなとか。 手に入れた領主騎士としての地位と金でポリドロ卿の貞操を買って、子を孕んで、その子やポリドロ卿と一緒に小さな食事会を楽しみたい。 そのような、本当に小人物じみた、ささやかな夢しか見ていないのが私ことアレクサンドラであるのだ。 もうこれは全面的に許容されてしかるべきではないか。 そう思う。 「承知しました」 ポリドロ卿は、そんな私の思考を解さぬままに呟く。 ――まあ、何にしても後の事だった。 「現れましたよ」 ユエ殿が、小さく呟いた。 しばらく歩いた後には、5人目の超人がいた。 直立している。 こちらに気づいたようで、ぶんぶんと片手を――うん? 友好的に、まるで親友に出会ったように喜んで片手を振っていた。 「なんだアイツ」 ユエ殿が、先に疑問を口走った。 言葉にするのも無理はないと思う。 今からポリドロ卿と死ぬ寸前まで殺し合って、全身全霊でぶん殴られて死ぬほど痛い思いして地面に這いつくばる相手である。 そんな友好的に来られても困る。 「まあ、テメレール公の部下ですし」 私は首を傾げながらに呟いた。 頭がおかしくても、その言葉さえ口にすれば多少は納得できた。 三人して歩いていく。 やがて、ポリドロ卿のグレートソードの間合いには少し遠いか。 その距離にて対峙したところで、五番目の超人は叫んだ。 「太陽礼拝!」 彼女は、両手を頭上に大きく伸ばした。 胸を大きく前に反りだし、叫んだ言葉のように太陽を礼拝しているかのようである。 要するに、全くの無防備である。 剣を伸ばせば首に届きそうであった。 ポリドロ卿にその気はないであろうし、彼女とて戦場ならばこのような事はしないだろうが。 それはそれとして、決闘相手にふさわしくない姿であった。 「宜しければ、ご一緒に!」 彼女はそう私たちに呼びかけた。 ポリドロ卿は、少し困ったように首を傾げた後に。 彼女と同じようにして、両手を頭上に大きく伸ばした。 ……付き合うのか? 私は嫌だよ、と思ったが、ポリドロ卿はやっている。 ユエ殿さえ少し不思議な表情をした後に、神聖グステン帝国ではこのような儀礼もあるのかと。 異文化に完全に騙されきっている可哀そうな異邦人そのままで、両手を大きく広げて胸を反った姿を保っている。 仕方あるまい。 私もやる。 両手を大きく伸ばして、胸を反って、太陽を称賛するようなポーズをとったのだ。 「太陽礼拝!」 彼女が、もう一度叫んだ。 四人して妙ちくりんなポーズをとっている。 少し阿呆らしくなっている。 「有難うございます! 有難う!」 彼女は朗らかとした声で、本当に嬉しそうに笑っている。 「私めは、「狂える猪の騎士団」にて『日陰者』を名乗っております。真名を貴方に、こうして友誼を示していただいたポリドロ卿に明かせぬ事、本当に申し訳なく思います。お許しあれ!!」 『勘当者』は激昂して家名を捨てた。 『サムライ』は国から離れたゆえ、もう名乗る気が無い。 『ケルン騎士』は頭がおかしいので、こっちが名など知りたくもない。 『敗北者』はテメレール公以外この世全てに興味を持っておらず、自分の名前すら忘れてしまっている節がある。 では『日陰者』は何が理由で名を名乗らぬのか? 疑問に思ったが―― 「構わないさ」 ポリドロ卿が、酷く優しい蕩けそうな声で了解を告げてしまう。 これでは、理由が聞けぬ。 「さて、名を強いて聞くことはせぬ。なれど、貴女の出自は聞かせてもらいたいのだが。これも無理強いはせぬ」 やはり、優しい声であった。 時々、ポリドロ卿はこのように酷く優しい声をするのだ。 殆どにおいては、その声はマルティナが独り占めしてしまっている。 私はあの少女と時々世間話もするし、友好的な関係こそ築いているのだが。 ――どうも、あのポリドロ卿に優し気に声を掛けられた瞬間に、微妙に甘ったるい声で返事するようになったマルティナは好まぬ。 あれは明らかに子供の声ではなく、男性として認識した者に対する声である。 あの少女は9歳児で被保護者の癖に、保護者たるポリドロ卿に懸想しているのだろうか。 嗚呼、どうでもよいことを考えてるな私。 「嫌であるか?」 「喜んで、とは言いませぬが、貴方にならばお答えしましょう」 日陰者は、柔らかな声にて答えた。 「それは私が、私たちが日陰者だからであります。さて、ポリドロ卿は大陸西の島国をご存じか?」 はて、この大陸西の島国。 知ってはいるが、ポリドロ卿はあまり―― 「知っている」 頭の方はよろしくない。 私はそこまで理解して惚れているというか、それはそれで酷くよろしく大層に興奮する。 頭が可哀そうなポリドロ卿を騙くらかしてベッドで組み伏す将来を考えると、酷く興奮してしまうのだ。 そのように考えてはいたが、どうやら知っているようだ。 「では、西の島国の。その更に西の島国は御存じか。そこまで小さくはない。大陸と比べて、その島国と比べては小さいかもしれない。なれど、そこまで小さくはないと思い込みたいのだが」 どうも卑下した言い方である。 奇妙に思ったが、私は知らぬ。 なれども。 「知っている」 ポリドロ卿は知っているようであった。 「嗚呼」 日陰者が、呻いた。 それが何故かはわからぬ。 おそらくは、知っていると嘘か誠か知らぬが「知っている」と答えてくれたポリドロ卿に対し、心が揺らいでしまったのだろう。 「なれば、我が国の歴史は御存じか。我が国から東の島国に収穫物を収奪され、先祖伝来の習慣を禁止され、言語を禁止され、抑圧された歴史をご存じか」 今までの朗らかな言葉とは打って変わって。 日陰者の言葉は、憎悪に満ちていた。 「すまぬ」 ポリドロ卿は詫びた。 「それについては詳しく知らない。本当に申し訳ない」 何故、そのように詫びるのだ。 そう思うが、ポリドロ卿は先ほどの私へと同等に、いやそれ以上に困った顔をしている。 「申し訳ない」 だが、ポリドロ卿は本心を込めて酷く詫びた。 それは日陰者にも伝わったようである。 「――すみませぬ。何も知らぬ方に無理を強きました」 日陰者は、ポリドロ卿に逆に謝罪をした。 なれど、言葉は連ねる。 「要するに、私は西の島国の、更に西の島国の出身であるのです。私の国は、収穫物を収奪され、先祖伝来の習慣を禁止され、言語を禁止され、抑圧されました。だから、助けを求めました」 「それは誰に?」 「もちろんテメレール公であります」 テメレール公、西の島国に何か調略をしているのか? 「テメレール公は、西の島国の王朝の遺児であると、我が国のそこら辺のパン屋の娘に偽証させて、それを旗印に西の島国を滅ぼしてしまおうと企んだのです」 待てや。 「ちょっと待ってください」 思わず私は呟いた。 ポリドロ卿も、ユエ殿も、日陰者も私を見ていた。 「もう一度言ってください」 私は再発言をお願いした。 「テメレール公は、西の島国の王朝の遺児であると、我が国のそこら辺のパン屋の娘に偽証させて、それを旗印に西の島国を滅ぼしてしまおうと企んだのです」 「待てや!」 何言ってんだテメレール公。 何企んでんだよ。 我が大陸の西の島国の、更に西の島国。 存在すら知らなかったその国のパン屋の娘に、なんだかんだ言って第一王女親衛隊たる私であれば遠方なれど当然ながら知っている、強力な『西の島国』に闘いを挑ませたのか? 「狂ってるだろテメレール公!!」 「何をいまさら」 日陰者が微笑んだ。 「我が太陽が。偉大なる太陽であらせられるテメレール公が狂っているなど、何をいまさら。あの太陽が普通の人であるわけがない」 日陰者が太陽と崇める主君と同様、少し狂った表情であった。 いまさらながらに気づいた。 この日陰者、普通の超人ではない。 いささか頭が狂うている。 変人色物超人集団「狂える猪の騎士団」の中でも、殊更に狂うている。 「勝てるわけがあるか!」 「確かに、負けました」 日陰者が、寂しそうに呟いた。 「皆が力を貸しました。真実などどうでもよかったのです。あの憎き東方の強力な島国からのくびきを外せれば、真実などはどうでもよかったのです。実は『牢獄塔を脱出していた王朝の末裔である』などとパン屋の娘を持てはやしました。町の皆が力を貸しました。なれど、負けました」 「当たり前だろ!」 私は叫んだ。 勝てる道理が無い。 そもそも、国力が違うのだから。 「私はその戦争に従軍していました。なれど、負けました。もはや、国の何処にも行き場所がありません。そこでテメレール公が仰ったのです」 「何と?」 もう、段々話が読めてきたが、私はポリドロ卿に代わって呟いた。 「お前、何処にも行く場所がないなら私の所に来ないか?」 「お前騙されてるよ!」 明らかに騙されていた。 西方の島国に勝てれば、もちろんそれはそれでよかったのだろう。 だが、目的はそこではない。 多分、負けても『超人とか欲しいものは仕入れたから、まあ良いか。安い買い物だった』的な考えであったのだ。 私はそこを攻める。 「もう一度言うが、お前はテメレール公に騙されて――」 「侮辱するな!!」 なれど、日陰者は怒った。 要するに、この『日陰者』という名は我が国から見て認識すらされぬ、西方の島国の更にその島国という存在を自嘲したための名であるのだ。 私は黙り、日陰者は叫んだ。 「テメレール様は、私の太陽はそこまで賢くないわ!!」 私の太陽は頭が悪いと叫んだのだ。 「私の太陽は、私のテメレール様は。この旗印にされたパン屋の娘に対して、もうどうあがいても負けるから逃げてしまえと。私の所に来いと、そう仰ったのだ」 お前、旗印にされたパン屋の娘かよ。 西方の島国に難癖つけるためのネタを、テメレール公は仕入れていた。 「テメレール様は仰られた。このまま神聖グステン帝国を支配したならば。私が皇帝の座に就いたならば、お前が西方の島国を支配する目もあるぞと。そう仰られたのだ!!」 「お前はそれを信じているのか?」 私は疑問を口にした。 正直、口をするまでもない疑問であった。 「私は信じてない」 そして、予想通りの言葉が返ってくる。 なれど。 「だが、私の太陽は。たかがパン屋の娘が、国家の王になる価値があると仰られた方は。頭がおかしい愚かな方は、そう信じておられる。超人なれば、その能力に価値があれば、私が力を貸せば、西方の島国の王たりえると考えておられるのだ」 テメレール公は頭がおかしい。 「貴女が考えている通り、テメレール公は頭がおかしい」 その考えを読んだようにして、日陰者が呟いた。 「興味が無いのだ。肌の色も、出自国も、産まれも興味がない。犯罪歴がどうでさえ、そのような事は些末な慮外であると考えておられる。パン屋の娘であるとか、皇帝を輩出した家の生まれであるとか、そのような事に興味はないのだ」 そのような人が今まで、我らの上にいたか。 あの太陽が空に輝いていなければ、私は今頃パン屋でパンを売っている一市民であったろう。 日陰者はそう呟いた。 そっちの方が良かったと私は思うのだが。 日陰者はそう考えていないようだ。 「確かに、あの御方には、あの太陽には欠点がある。頭が悪いという欠点がある。他にもあるのだ。男嫌いだとか、子供を作らぬとか、そのような太陽としてふさわしくない拘りに満ちている」 何度も考えたが。 この日陰者は狂っている。 「なれど、我が眼前のポリドロ卿を手にすれば、そのような考えすら改めてしまうであろう。何せ、あの人は超人という明確に優れた者に弱いのだから。その弱さが、レッケンベルという強力な超人に惹かれて今回の事態を招いてしまったとさえ私は考えている」 日陰者は、陽気に笑っていた。 友好的ですらあり、殴るのにも不都合とさえ感じた表情のままで。 「なれど、ポリドロ卿を得られれば違う。私が勝ちさえすれば、私があの御方の期待に答えさえすれば、太陽に成り得るのだ。嗚呼、長々と話したが、つまり私の言いたいことはだ」 日陰者は笑って呟いた。 「ポリドロ卿。私に負けて、テメレール様の配偶者になってくれないか。そうすればあの御方は本物の太陽に成り得ると私は考えている」 無茶苦茶な要求である。 ポリドロ卿は正直に答えた。 「お断りする」 ポリドロ卿は私に対する先ほどまでと同様、酷く困った表情であった事を証言しておきたい。 私ことアレクサンドラは、此度の事を日記に残すことにした。 テメレール公の無茶苦茶さを後世に残しておきたいと思ったのだ。 だが。 まあ、ポリドロ卿がそれを許してくれるかどうか。 困りつつも少々愉快気に笑っているポリドロ卿を横目に、私はそんなことを考えた。 第137話 太陽 三つの太陽を見たことがあるだろうか。 我が祖父母は見たことがあるらしい。 薔薇戦争において、彼女とその兵士たちは払暁に三つの太陽を見たそうだ。 戦の前に三つの太陽を眼前にした祖父母は「あの太陽は私たち三人の指揮官を称えている」などと大法螺を吹いて、戦の前に横の指揮官達や兵士を鼓舞し、見事に戦に勝利した。 故に、彼女は自身の記章に『太陽』を取り入れたのだという。 古い話だ。 薔薇戦争など、私がこの世に産まれ落ちる前の話である。 嗚呼。 なれど。 私がその記章を、『太陽』を、その血を受け継いでいるのは間違いないらしい。 ただのパン屋の娘にすぎない私に対し、母はそう告げるのだ。 祖父母の息子が酷く好色で淫売だったらしいのだ。 過度な快楽主義者にして、平民相手でも夜を共にし、それこそ誰とでも寝たらしい。 それこそ王都どころか自国ですらない、税収を毟り取るだけの土地に住むパン屋の娘とでもだ。 『あの国の貴族の癖に素敵な男だった』と母は言うが、明らかに快楽に負けただけである。 まあ、そこのところはどうでもよい。 要点をまとめると先代王朝の血を、このパン屋の娘にすぎぬ私が受け継いでいるということであった。 そんなことを言われたところで困るのだが。 不思議な事に与太話としか思えぬそれを、我が街の司祭様までもが信じていた。 『貴女はあの素敵だった御方の娘なのです。それを自覚しなさい』なとどほざいていた。 実は司祭様も抱かれたとかそういうオチではなかろうか。 そう疑っていたが、金も受け取らずに私に文字を教えてくださる司祭様をそう罵るわけにはいかぬ。 ――くだらぬことを考えている。 母も、司祭様も、皆死んでしまったというのに。 「太陽」 それだけを口走る。 祖父母の事など、よく知らぬ。 そもそもが貴種流離譚なんぞ、物語だからこそ受け入れられるのだ。 苦しい生活の中で思考を妄想に飛ばすだけの夢物語でしかない。 青い血を引いていることなんぞ、パン屋の娘である私に何の関係もない。 一生日陰者として終わり、それで私の一生は終わりであろう。 ずっとそのように考えていた。 生活はいつも苦しい。 パンはあまり売れないどころか、そもそもパンを作るための麦を育てても全て奪われてしまう。 この土地を支配するあの国の不在貴族に、税として何もかも奪われてしまうのだ。 もっと言えば農耕が可能な土地自体があの国の貴族に奪われてしまっており、私たちが育てた麦を口にすることなど滅多にない。 私の家がパン屋であるのは、昔まだ豊かであった頃の名残にすぎぬ。 我々がいつも食べるものは、これだ。 ジャガイモを取り出す。 遠い国までたどり着いた船乗りが、土産物として我が国に持ち込んだ作物である。 ?せた土地、石灰質の岩盤、石を砕いた土でさえ作れる作物なのだ。 国の誰もが喜んだ。 これさえあれば、なんとか食べていけるのだ。 いや、違った。 かつては食べていけた、だ。 「もう食べていけない」 誰もがそう口にする。 ある日、冷たい雨が降り注いで――ジャガイモの葉が枯死して黒ずんだ。 その年のジャガイモは全て腐敗していた。 単純な話で、パンを口にできぬ我々の主食がどこにもないのだ。 私たちには三つの手段があった。 一つ目は、船乗りたちと一緒に、最後の希望を賭けて遠い国に逃げること。 二つ目は、我々が税として納めた麦を取り返すために、支配者たる東の島国と戦うこと。 三つ目は、飢え死にする。 どれもあまり良い手段とはいえない。 本当に遠い国に辿り着けるか分からぬ上に、そもそも食料自体が少なく、運よく辿り着いても何も財産を持たぬ私たちがどうなるかわからぬ。 かといって、戦ったところで勝てるとは到底思えず、皆が殺されてしまう。 まあ、結論としてはどうしたところで我々は死ぬだろう。 虚しい結論だった。 どうにもならない。 どうにもならないことを、私たちはどうにかしようとしている。 やらないと飢饉で死ぬからだ。 だから、どのような事でもする必要があるのだ。 司祭様が、私に悲しそうなお願いをした。 「生贄になっておくれ。私たちと一緒に死んでおくれ」 司祭様は言葉を少しも濁さなかった。 私がそれを理解できるだけの教育を司祭様から受けていたことなど、誰よりも司祭様が知っている。 美辞麗句など必要ない。 お飾りの旗印として、私を前王朝の正統後継者として掲げ、反乱を起こしたい。 我ら最後の抵抗を示してやろうじゃないか。 一人でも多くを道連れにすることで、奴らを後悔させてやろう。 ひょっとしたら、ひょっとしたら。 私たちと違い、もはや最後に抗う力すら持たぬ者達は、我らへの恐怖ゆえに救われぬかもしれぬと。 我らが生きているということを思い知らせてやるんだ、と。 そう司祭様は告げられた。 私は返答に困った。 「母に相談します」 何をやっても死ぬならば、別に戦って死ぬのは構わない。 皆が最後にその死に方を選ぶというのであれば、そうしてもよいと思った。 なれど、せめて母に相談しよう。 私は司祭様に今日中に返事をすることを告げて、家に帰った。 パン屋とは名ばかりの、半農の私の家だ。 そこで私の母と貴族の兵達がいがみ合っている。 私はそれを止め、どうしたのかと問うと、税が払えぬならば家から出て行けと兵士がいう。 地代が払えぬゆえの立ち退き命令であった。 要するに、我々は食料どころか家すら失うべきであるとのことだった。 「ここは私の家だ。ずっと私の先祖が住んできて、この子を育てた私の家だ!」 母が抵抗しようとする。 どうにもならない。 超人たる私なれば、この兵どもを殴り殺すぐらいわけもない。 だが、この兵を殺しても、もっと多くの兵が来るだけである。 私は兵士に、説得するので今日だけは帰って欲しいと言ったが。 「今日からお前の家じゃない。薄汚い二級市民の猿風情がすがりつくな」 兵士は言うことを聞かず、そう吐き捨てた。 「そもそも、何がパン屋だ。お前らにパンを口にする権利などない。芋を齧っていればそれでよい。麦は人間が口にするものだ。芋が腐ったというならば」 家庭菜園。 半農パン屋の、私の母が作った石造りの小さな菜園の、枯死した黒いジャガイモの葉っぱを指さして。 兵士はこういった。 「あのジャガイモの葉っぱでも食べていろ。それで死んだら、お前の自己責任だ」 そうして、笑いながら槍を私に向けた。 「理解したか。お前らなんか多少餓えて死んだってかまいやしないんだ。どうせまた増える」 それは人を見る目ではなく、肉にする前の家畜が餓えたからとわんわん泣いているのを指さして笑っている表情であった。 完全に、東の島国の価値観というものを理解した。 我らを自分の懐を増やすだけの奴隷以下のものであると認識していた。 私は自分に流れるという祖父母の血が忌まわしく思えたのだ。 そうして、それが利用できるならば。 もはや何を躊躇うことがあるだろうか。 私はその場にて兵士全員の首を両手で引きちぎり、惨たらしく殺傷した。 様子を見に来た町中の人々に、こう訴えたのだ。 「皆も知っているだろうが、私はあの国における前王朝の血統を引き継ぐものである」 演説のやり方など私は知らぬ。 司祭様なれば、もう少しスマートにできたかもしれないが。 私にはこのような言葉しか言えぬのだ。 「反乱を起こす。今から徴税官の屋敷に出向いて悉く皆殺しにして、腹を麦で満たそうじゃないか。パンなら私が焼いてやれるぞ!」 どうにも即物的な事しか言えぬ。 お前のパンを私が焼いてやるから一緒に戦わないかなど、まるで間抜けの台詞である。 そのセンスが酷く恥ずかしくて、私は顔を覆いたくすらなってしまったのだ。 私に指揮官としての才能など無く、お飾りの旗印にしかなれないであろう。 それは誰もが理解していたが。 「やってやろうじゃないか!!」 誰もがそう、何もかも打ち捨ててしまったような表情で答えた。 皆が貴種流離譚というくだらぬ物語に縋っていた。 ただの反乱民として無残に殺される結末は嫌であった。 せめて――大義名分くらいは用意して、我ら誇れる兵として、敵を道連れにして死んでやろう。 そう誓い、我々の反乱は始まった。 ◆ 司祭様の手は、私が思ったよりも長かった。 テメレール領という、私が司祭様の授業でしか知らない神聖グステン帝国における大諸侯が力を貸してくださるというのだ。 なんで遠い国からわざわざ、とは思ったが、要するに私の血統に価値があるというのだ。 薔薇戦争において前王朝派であったから、今でも支援しているらしい。 反乱を起こし、いけ好かない徴税官を殴り殺し、食料と武装を奪ったが足りぬ。 裕福な領地を支配するテメレール様からの支援をもってして、ようやく戦という形になっている。 だが、まあ。 負けるだろう。 それは皆が理解していた。 誰もかれもが死んでいく。 母は後方で皆が食うパンでも焼いていれば良いのに、指揮官である私に恥をかかせまいぞと。 誰よりも前線で大いに戦い、すぐに戦死してしまった。 一緒に司祭様のところで勉強していた友達も皆死んだ。 司祭様も疫病で死んでしまわれた。 最期の言葉は今でも覚えている。 「我々は飢えで死んだものも、新大陸への航海で死んだものも、戦場で死んだ者も等しく魂を燃やしたのだ。その中で我らは生き延びる道ではなく、全ての侮辱に対する報復を選んだ。いずれ我らの血肉が土に還り、この土地で何かの作物を育てるであろう。何一つ後悔はない。なれど……旗印にした、生贄となったお前にだけは本当に申し訳ないことをした。後は太陽のように自由におなりなさい。テメレール様にお願いしたから、もうお逃げ」 太陽とはなんぞや。 太陽とは何なのだ。 三つの太陽などどうでもよい。 私の祖父母の記章など関係ない。 太陽などどうでもよい。 私はただのパン屋の娘にすぎぬ。 あの最後まで笑いながら死んだ、半農にしてパン屋の一人娘にすぎない。 生贄などと言うが、私は何もかも理解して、覚悟して全てをやることにしたのだ。 皆と一緒に死のうと思う。 最後、手配していただいたテメレール様にお詫びの手紙を送り、それで全てを終わらせることにした。 これで私の人生は仕舞いだろう。 今では数少なくなってしまったが、ケルン派教会に眠っていたマスケット銃を全員に配布した。 私位は着慣れぬ甲冑を着込み、一番見栄えの良い馬に乗る。 今回だけは、司祭様には及ばねど指揮官としてやり遂げなければ。 一兵でも敵を道連れにして死ぬのだ。 そうしたいと思ったのだ。 あの御方さえ現れなければ。 「シャルロット・ル・テメレールである」 狂ったような練度の超人部隊と、銃や馬はおろか、移動式の大砲まで備えた最新鋭の兵隊を引き連れたテメレール様が現れたのだ。 最終戦を目前にして、あの島国の兵士など怯えて近寄らなくなってしまった。 「お前がパン屋の娘であるか? 超人であるがゆえに、不幸にも貴種流離譚というくだらぬ願望の生贄にされてしまった者であるか?」 テメレール様が呟いた。 私をじっくりと検分しているようであった。 「私は先代王朝の末裔にして――」 自分の名乗りを上げようとして。 テメレール様が手をすっと上げて、私の言葉を止めた。 「お前はパン屋の娘である。すでに死んだ司祭に道具として操られただけのパン屋の娘にすぎぬ。反論は許さん」 何がしたいのだ、この方は。 私はあまり頭が良くない。 真意を問いただそうとして―― 「すべてはこのテメレールと、お前を養育した司祭が企んで、あの島国を乗っ取ろうと企んだことが真相であったと、そういうことになる。どうせあの遠い島国からは私まで手を伸ばせぬ。皇帝経由の苦情は無視する。さすがに、王朝の遺児を抱えこんでいるのは拙いから、お前は一度僭称者にすぎぬただのパン屋の娘として扱うことになるが」 何を言っているんだ、この人は。 私は言に詰まる。 何を目的としているのか、何がテメレール様の利益になるのかがさっぱりわからぬからだ。 「これは秘密の話だが、私は神聖グステン帝国の皇帝になる予定である」 秘密の話と言いながら、私とテメレール様の周囲には多くの人がいる。 相手は側近だけかもしれぬが、私の周りなどは奴隷も同然の無学な平民しかおらず、神聖グステン帝国の名すら知らない者さえいるのだ。 その中で、無茶を言っている。 「多くの超人を集め、多くの兵士を集め、帝国の一切合切を手に入れるつもりである。お前が私に協力するのであれば、将来『実はお前は本当に王朝の末裔だったんだよ』ということにして、二つの島国ぐらいはくれてやることも考えないでもない」 無茶苦茶である。 何がしたいのかが。 何をしたのかが、どうしてもわからぬ。 だから、単純に尋ねることにした。 「何がしたいのですか? 正気であられるとは思えない」 「私は正気である。全て本音で語っている。すでに述べた通り、神聖グステン帝国の皇帝になるつもりである。この世全ての皇帝として、配下たるお前を島国の王にしてやってもよい。私はお前と、お前の最後の兵士たちを我がテメレール領に優秀な超人と兵士として連れていくつもりである」 最後まで死ななかった、超人たる私と、死すら恐れぬ兵達。 私と彼女たちの命にはまだ価値があった。 なれど。 「今、神聖グステン帝国は皇帝の親族が皇帝位を乗っ取っておる。今がチャンスだ。一人でも多くの超人と兵隊を集める必要がある。ついてこい」 私の懊悩を無視して、テメレール様は勝手に話を進めている。 船の出港準備を進めている。 駄目だ、私たちはすでに死んでしまった仲間たちと一緒に死ぬのだ。 そこにもはや意味はないかもしれない。 私は武器をくれた恩はあれど、もはや生き延びる気はない。 そう告げようとする。 だが。 「見ろ、空に三つの太陽が現れている」 空に太陽があった。 三つの太陽であった。 「あれは私を、このシャルロット・ル・テメレールを称賛するにあたって、もはや一つの太陽では足りないだろうと、神が三つの太陽を以てして称賛しているのだ。もはや私自身が太陽であると断言しても不足はないかもしれぬ」 何言ってんだろう、この人は。 「私だけを。他ならぬ私だけを、この神聖グステン帝国皇帝にして、我がテメレール領から見れば田舎も田舎にすぎぬ島国の先代王朝の遺児を配下に加えた、この私だけを称えているのだ」 私は色々考えた挙句に。 はて、どうしようか。 そう悩んだ。 正直、困る。 度を過ぎた馬鹿を見ると、どうにもならぬというか、何を言ってよいのか分からぬ。 「さあ、行くぞ」 無理やりに、この薄暗い性格の『日陰者』の手を引っ張っていく馬鹿がいる。 私は困惑している。 テメレール様の側近は苦笑いしている。 私の兵士たちはというと、私の指示をただ待っている。 「本当に行くの?」という不安げな顔すらしているものがいる。 なれど。 この島国の王朝の僭称者『日陰者』は、結局のところ『太陽』の僭称者に着いていってしまう。 私は。 神聖グステン帝国の皇帝位簒奪戦にて、レッケンベル卿に何度も殺されかけるテメレール様を、何度も死に物狂いで助け出す羽目になる。 あの太陽、私がいなければ今頃死んでいたぞ。 そのように愚痴じみた事を考えている。 更には、このような酷い目に合っている。 ファウスト・フォン・ポリドロという化け物に殺されかけている。 私はあまり武器が得手ではない。 パン屋の娘に技量を期待するものではない。 私が自慢できるのは耐久力だけであり、狂ったようなポリドロ卿の暴力で、何度も致命にすら至りかねない一撃を防いでいる。 私はひたすらに、それを受けている。 レッケンベル卿からテメレール様を救出した時と、全く同じように。 だけど、今回は私が死んでもよいから助けて終わりとはいかない。 私が負けては、そのままテメレール様が負けてしまう気がしている。 「――」 ポリドロ卿が何かを喋っている。 激痛で耳は聞こえぬが、降伏するか否かの要求であろうと考える。 私は呟いた。 「私は太陽になりたいんだ」 レッケンベル卿相手にも、殴り殺されかけながら、朦朧として似たような事を告げた記憶がある。 何がしたいのか? 複雑な思いがある。 私はただのパン屋の娘であり、本当に王朝の末裔であり、皆の心の慰めのための貴種流離譚としての存在にしかすぎなかった。 人生で誰一人として救えた気がしない。 誰かの太陽になったことなどない。 母を救えなかった、司祭様を救えなかった、友人たちを救えなかった、誰も救えなかった。 生贄にすらなれなかったのだ。 ポリドロ卿は私の言葉に返答せず、グレートソードを振り下ろした。 その行為には躊躇など欠片もない。 私は石畳に音を立てて這いつくばる。 「私は」 太陽になりたいんだ。 私は理解している。 私は、私が惨めな「日陰者」であると理解している。 どのような言葉を連ねても、私は負け犬であるのだ。 私たちテメレール様の配下は、一度何もかも投げ捨ててしまった負け犬の集まりにすぎぬ。 負け続けの人生を送ってきて、それでテメレール様の元に辿り着いた悲しい者たちが殆どだ。 だが。 『おのれらは負けているのか! どうしようもない人生だからと全て投げてしまったのか!? 負け犬に過ぎぬのか!!』 テメレール様の酷い叱咤が背を焼いている。 そうだ、あの馬鹿で阿呆で愚劣で、どうしようもなく愛おしいテメレール様の配下であるのだ。 立ち上がろうとする。 ポリドロ卿はその隙を与えるつもりなどない。 私が立ち上がろうとするたびに、私の頭上から致命にすら至る一撃を加え続けるであろう。 だが。 「私は太陽になりたいんだ」 「日陰者」は太陽になりたい夢を見ている。 暗い性格を明るく振る舞い、何処かあの馬鹿のように明るくなれるかと夢を見ている。 全身の力を込めて、その一撃を跳ね除けた。 もはやこの手に剣など無い。 血も涙もないポリドロ卿が反撃を許すまいと、遠くに蹴飛ばしてしまっている。 この頑丈な体のみが、残された武器である。 日陰者は立ち上がり、鉄靴を前方に伸ばす。 足の曲げ伸ばしの反動に体重を乗せるだけの簡単な蹴り技だった。 初めての反撃がポリドロ卿の胴体に突き刺さる。 なれど、ポリドロ卿は気にした様子もなく剣を再度振り上げて、勢いよく振り下ろした。 八十七撃目である。 レッケンベル卿に5度相対し、その内4度までもテメレール公を逃がした超人。 「日陰者」はその強打を受けて地面に再び這いつくばり、降参の言葉一つ口にすることなく、完全に沈黙した。 第138話 忠義者 一つだけ明確な事は、あのパン屋の娘が身分について詐称しているということだ。 平民生まれでも超人は存在する。 確かに存在するが、超人とて位というものが存在する。 私が知り得る二人の化け物超人、レッケンベル卿やポリドロ卿らは平民の出身ではない。 法衣騎士と領主騎士という違いこそあれ、両者とも明確な青い血である。 血統は力なのだ。 祖先が必死に何代もかけて紡いできた血が、その者に力を与えているのだ。 あの日陰者は、本当に王朝の末裔である可能性が高かった。 「どこまで無茶苦茶をしている」 テメレール公の目的が、荒唐無稽な夢の果て、神聖グステン帝国の皇帝として西の島国すら征服するための正統性を得ることなのか。 単純に「日陰者」という強力な超人を手にしたかっただけなのか。 それはわからないが、何にせよ酷い。 「そうは思いませんか。テメレール公側近の御方」 「まあ、あのテメレール様はそういうお人ですので」 眼前に佇む「狂える猪の騎士団」6人目の超人、テメレール公に辿り着く前の最後の門番が呟いた。 神経質な顔であり、今までの超人の中で、この顔だけは知っている。 なにせ、テメレール公の傍についている側近であり。 「狂える猪の騎士団副団長『忠義者』であります。まずは、ポリドロ卿に此度の事、何もかもお詫びせねばなりませぬ」 ――今回の騒動のきっかけである、ポリドロ卿を侮辱して鼻を毟られた美少年。 その配偶者であるテメレール公の陪臣が彼女であった。 「すでにご存じかと思いますが、全ては私の失敗でありました。申し訳ありません。本来ならば、死んで詫びねばならぬところですが、もはやそういう話でありません」 「そうですね」 ポリドロ卿が短く答えた。 この物語は、ポリドロ卿が眼前の「忠義者」の夫に侮辱された。 ポリドロ卿が侮辱に報復して鼻を毟った。 殺せば終わりだったところを、ポリドロ卿が貴族の常識を知らなかったせいで物語は続いてしまい、テメレール公が謝罪しなければならない事態に陥る。 テメレール公は、あの猪突公はポリドロ卿に謝罪するどころか侮辱してきた。 もう殺し合うしかない。 まあ色々あったが、端的にいえば、それだけ。 すでに決闘に至っており、誰かがどうかすれば取り返しがつく話でもない。 「それはそれとして、重なる無礼をお詫びします。それでも、貴方に言っておかねばならないことが」 「何か?」 ポリドロ卿は優し気な声で答えた。 忠義者は、意を決して口を開いた。 「我が主君、シャルロット・ル・テメレールを見事討ち果たしていただきたい。もちろん殺さずに、ですが」 自分の主君を倒してくれないか。 そのような事を告げている。 はて。 「テメレール公がお嫌いか?」 私の抱いた疑問に対して、ポリドロ卿がそのまま口に出した。 「まさか。私はテメレール公に悪心を抱いたことなど一度もありませんよ。貴方は、我が『狂える猪の騎士団』の5名を打ち破ってここまで来られた。私は副団長などと名乗っておりますが、強さだけならば「日陰者」の方がよっぽど強い。戦っても私がポリドロ卿に勝つなど有りえぬから、先にお願いをしております」 日陰者は身体こそ頑健であるものの、それに頼り切りでいささか技量が足りませんけどね。 そのような欠点をあげつらいながらも、忠義者の言葉は止まらぬ。 「この堡塁にはテメレール様を含め7名ですが。テメレール様は30余名の超人を集められた。異邦人がおり、肌の色が違い、出自が違い、王朝の末裔から乞食の子までいる。ですがね。テメレール様が死ぬくらいならば自分が死んでもよいだろうと、そのような覚悟で仕えているのが殆どです」 超人兵団。 確かに作れれば理想であるが、夢物語としか思えない兵種である。 だが、テメレール公は見事に完成させていた。 それだけは認めても良い。 「まあ、大いなる暴力は更なる大いなる暴力に敗北します。我ら狂える猪の騎士団は、物の見事にレッケンベル卿一人にあしらわれてしまったんですが」 レッケンベル卿はレッケンベル卿で無茶苦茶である。 超人一人で超人兵団を打ちのめしてしまっている。 よくもまあポリドロ卿が勝てたものだと感心する。 ポリドロ卿の唇が、少し動いたのが兜のスリットから見えた。 「今しがた、テメレール公を倒してくれないかと仰いましたか?」 「ええ、言いました。まあ、対戦相手の私などに、このような事を言われても困るとは思いますが」 事情があるのですよ。 小さな声で、忠義者が呟く。 「我が主君テメレール様はすっかり変わってしまいました。昔のあの人は、あのような方ではなかった」 というか病気であろう。 視野狭窄で、もう性格など小者中の小者と切って捨ててすら良い。 死ななきゃ安いなどという精神などを評価してしまうと、命より名誉を守るべき貴族とは扱えない。 私の主君であるアナスタシア様などは、毎晩寝ぼけ眼で墓場をうろついては屍を墓から掘り出して死肉を齧ってそうな目つきをしているが、人格者にして素晴らしい貴族である。 私はこれでもアナスタシア様を敬愛しているのだ。 「昔は、あのような人ではなかったと?」 ポリドロ卿が興味深げに尋ねている。 何らかの事情がテメレール公にもあるのか? 「幼少のみぎりから、視野狭窄で、慢心しがちで、性格など小者中の小者と言ってよい御方でした。自分より価値のある人間はこの世にいないと本気で信じておりましたし、それを肯定するように強力で裕福な領主騎士として産まれついたせいで、悪い方向にそれがどんどん進んでいきました。28歳にもなって人に謝れないのです。もう自己愛が肥大した汚物そのものです。侮辱されるのが嫌いというより、人に否定されること自体が許せないのです」 駄目じゃないか。 忠義者は、ひたすらにテメレール公について語り続けるが、良いところは一つもない。 というか今、汚物とか言わなかったか。 「ポリドロ卿、貴方はここまでに5人の超人と戦いました。その出自と今の境遇を聞いて、どう思われましたか?」 「む」 ポリドロ卿は一つ唸った後に、単直に答えた。 「誰もが見事な武人であったと」 「本当に? 少しでも彼女たちを哀れと思うところはありませんでしたか?」 言外を問う。 ポリドロ卿は困っている。 悲惨な出自など世にはありふれていて、人には事情がある。 だけど、優しいポリドロ卿であるならば、色々と思うところはあったであろう。 「貴方は優しい人なのでしょう。ですが、その優しさで救えない人もいるのですよ。テメレール様ならば、彼女たちを哀れに思うことなど欠片もありません。そのような価値観の者にしかついていかぬ者も世にはいるのです。テメレール様が彼女たちを救った理由が何かわかりますか?」 「……彼女たちから見たテメレール公の姿は伺いました。なれど、当人のこととなると」 正直、このアレクサンドラとて、わからなくなっている。 テメレール公は何を考えているのか。 おそらくは、それなりの計算が――あるようには思えない。 「結論を言えば、何も考えていないのですよ。テメレール様は」 忠義者が、笑って回答を出す。 「勘当者は確かに殺したはずなのに、何故か生き残っていたから拾いました。サムライは優柔不断だったことにイラっときたから、奴隷商人を殺すようにそそのかしました。ケルン騎士はテメレール様より彼女の方が狂っている。敗北者は死んだ目をしているのが気に食わないので、その時の気分で励ましました。日陰者は死んだら負けなのに、自殺しようとしているのが気に食わない。それだけで無理やり引きずってきました」 「確かに、何も考えていませんね」 「もちろん、超人兵団という兵種を作りたいという思惑があったから勧誘を行ったのですが」 別に、彼女たちを懐柔して自分の配下にしようなどと考えての行動ではないのです。 そもそも自分の配下に勧誘なんぞしなくても、お前らの方から来て当然だろと。 そのようにすら考えている御方なので。 ぺらぺらと言いつのった後に。 「まあ、頭が悪いんでしょうね」 忠義者は憐れみのような、それでいて優し気な声で呟いた。 明確な侮辱の言葉である。 それと同時に忠義者の言葉は、死をも厭わぬ忠誠を含んだ声色に満ちている。 「ああ、つまらぬことを色々と話してしまいました。別に、どうでもよいことを。大事なのは、レッケンベル卿に敗北してからのことです。敗北したところで変わらなかった。5回殺されかけても、あの御方は変わらなかった」 それでよかった。 別に、私たち側近たちが補佐さえしていれば、領地経営に問題はないし。 そもそも、テメレール様が皇帝陛下に向いているなどと、領地の誰一人として思っていない。 多分くたばるまで、あのまんま有力諸侯の一人として子も作らぬまま死ぬだろう。 それでもよかったのだ。 なのに。 また、ぺらぺらと忠義者がしゃべり続ける。 どうにも口が回る女だ。 「レッケンベル卿を貴方が殺してしまってから、何もかもがおかしくなってしまいました」 悩みなど知らない自己愛肥大の大馬鹿者が、陰に籠もるようになった。 おかしなことを口走るようになった。 レッケンベル卿の死を、色に溺れて死んだ間抜けと嘲笑う日があった。 その次の日は、レッケンベルは必ず生き残っているのだと叫ぶことがあった。 レッケンベルはこのテメレールを謀っているのだ、私を試しているなど叫ぶ日もある。 繰り返し繰り返し呟いては、たまに「どうしたらいいんだ」と嘆く。 そんな日が続く。 忠義者は、悲し気な目で呟いた。 要するに、テメレール公は少しずつ狂っていったのだと。 「勿論、私とてテメレール様を宥めましたし、事実であると認めさせようとしましたが――どうにもなりません。原因がわからないからです」 「原因がわからない?」 原因は先ほどお前が言ったではないか。 ポリドロ卿が、私が思ったことそのままを諳んじて呟く。 「テメレール公は、そもそも最初からレッケンベル卿に対してだけは負けを認めていたのではなかろうか。自分が本音では認めていた好敵手が、自分のあずかり知らぬところで負けてしまった。それがどうしても認められなくて、困惑している」 結局は、テメレール公も人であったのだろう。 それ以上の理由など、どこにもなかった。 「確かにそれはあるんでしょう。ですが、それだけならば、ああはならない」 忠義者は静かにそれを否定した。 言葉では聞けても、テメレール公がどこまで狂ってしまったのか。 元々頭がおかしい人物なので、具合がわからぬ。 「突然に喚いたり、泣きだすような人ではなかったのです。急に明るくなったり、急に落ち込んだりするような人ではなかったのです。本当にあの人は「狂える猪」になってしまった」 話を聞く限りでは、貴族としての責任に耐えかねて押しつぶされて、二度と立ち上がれなくなってしまった。 修道院にて静かに人生を終えることが出来れば、むしろ幸せと言える人。 たまに目にする心の病を引き起こしているように思えるのだが。 「いくら馬鹿とはいえ、側近の側近たる私に対してだけとはいえ、憎悪に満ちた目で皇帝も教皇も殺してやるなどと放言する人ではなかったのです」 どうも、雰囲気がおかしい。 テメレール公は元々頭がおかしいし、そのまま本当に病気になってしまったのだろう。 それだけと断じて良いが、忠義者から見てそうではない。 「私は何故そのような事を仰るのですか、事情をお聞かせくださいと尋ねたのです。幼い頃から私を従者として引き立ててくれた御方の剣になれぬなど、わが身を恥じて死んでしまいます。全てを話してくださいと。なれど、テメレール様は酷く何かに怯えた様子で、こう仰られたのです」 忠義者は悲し気な声で、ぽつりと呟いた。 「全ての情報を聞き終えた後は、お前も私を裏切るのか? と」 身を切られそうな寂しい声である。 忠義者の顔は悲痛に満ちている。 「テメレール様が直属の部下を疑うことなど絶対にありえないのです。あの人は愚かでありますが、それゆえに、そのようなことはなさらないのです。愚かゆえに身内だけは切れないのです。そんな御方が、それだけのことを口にする事情が何かあるのです」 嗚呼、と。 嘆くような、愛おしいような、何かを失ってしまったような。 喘ぎ声に近い何かを、忠義者は口にした。 「レッケンベル卿が死んでから、何か全てがおかしくなってしまっています。テメレール様をお助けするには、あの人の望み通りに皇帝位を簒奪すること。それが最も良い方法と考えておりましたが、もはやテメレール様がポリドロ卿に勝てるなどとは、露程も考えておりませぬ」 負けるのであれば。 どうせ、負けてしまうのであるならば。 「ポリドロ卿にテメレール様へ何か心安らぐ言葉を掛けて欲しいなどと言いませぬ。貴方は王に侍る道化師などではなく、何もかもを破壊するだけの憤怒の騎士であるがゆえに。ですが、どうせならば、本当に一切合切を破壊していただきたいのです。テメレール様の地位や名誉、肥大化した自己愛だけでなく、その隠している懊悩の全ても」 全てを破壊して、テメレール様が何を隠しておられるのか。 どうしてああなってしまったのか。 テメレール様を倒して、その全てを明らかにしてください。 それだけを嘆願して、忠義者は剣を抜いた。 剣戟が始まり、轟音が鳴り響く。 勝負は五合目にて決着する。 粉々に砕け散るような轟音が忠義者の身体から鳴り響き、何も語らぬポリドロ卿が全てを終わらせた。 ――残すは、テメレール公のみである。 第139話 時には昔の馬鹿話を この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば そのような詩を『サムライ』より聞いたことがある。 『この世で自分の思う通りにならぬことなどない。満月のように、欠けた所など無く全てが足りている』 人によって解釈は異なるが、サムライはそう認識しているらしい。 「かつては、私もそうだと思っていた」 私はその酷く美しい詩を読んだ者に共感していたのだ。 強力なテメレール領の領主騎士として産まれた。 我が身は超人であり、どのような者にも負けたことはない。 部下にも恵まれ、誰もが私を崇めた。 ああ、そうだ。 きっと、私は騎士物語の主人公であると思っていたのだ。 苦労に喘ぐ、くだらぬ者達が好む貴種流離譚の主人公などではない。 血統も、実力も、地位も、名誉も、配下さえ。 何もかもが生まれつき揃っている。 苦労など、苦難など、全ては何もかもがこの私の物語を引き立てるための些事に過ぎぬ。 そのように思って、今までずっと生きてきた。 7年前まではずっと。 そうだ。 「クラウディア・フォン・レッケンベル」 特徴的な糸目。 本当に細い目で、瞳の色すら定かでないほどであった。 大柄で、地面に水が染みわたるように声が良く通り、平時はもちろん戦場でこそ狂ったように明るく輝く存在。 ヴィレンドルフ選帝侯国が生み出した最高の誉れ。 彼女に褒められたとならば、それだけで永代の名誉が約束されヴァルハラへの道が開かれたと兵や騎士が狂喜して、戦場にて命を喜んで投げ捨てる最悪の化物。 あの悪魔に出会うまでは、そう思っていたのだ。 初めて出会ったのは、戦場だった。 私が神聖グステン帝国の皇帝位を簒奪するために、帝都に侵攻するレッケンベルに勝負を挑んだのだ。 私には強力な兵がいた。 我が領地から上がる莫大な収益を用いて雇った傭兵であり。 訓練を行い、十分な給金を与え、兵役にて嫌々徴用されたわけではない常備兵である。 複雑な諸兵科連合と野戦砲を組み合わせ、強力な軍団を用意したのだ。 兵数は一万を超えている。 ランツクネヒトが何ほどのものか、甲冑を着た乞食どもが。 結局のところ、奴らはどこまでいっても農奴兵に過ぎぬ。 いかに残虐であろうと無秩序では天に唾を吐く山賊にはなれても、兵士には成り得ぬ。 まして、このテメレールには当然のことながら、いつの間にか私に惹かれて付いてきてしまった犬どもがおる。 「狂える猪の騎士団」という名の超人部隊であった。 そうだ、その犬どもが。 「テメレール様! テメレール様! お逃げください!」 私と一緒に殺されかけている。 戦場であるというのに『勘当者』の泣き声が響いている。 「カーッカッカッカ!!」 酷く上擦った悪魔の声。 一種の奇声を高らかに叫んでいるレッケンベルが、必死に抵抗していた勘当者をハルバードで薙ぎ払った。 殴打される轟音とともに、勘当者は右腕をおかしな方向に折り曲げながら、地面を転がっていく。 すでに狂える猪の騎士団の半数が、レッケンベル一人に半殺しにされている。 逃げて、逃げてとばかり赤子のように泣き叫ぶ犬どもを無視する。 ここでお前らを見捨てて逃げるようなれば、猪突公の名が泣くわ! 「シャルロット・ル・テメレールである! レッケンベル卿、尋常に一騎打ちにて勝負を!!」 「よかろう!!」 レッケンベルと初めての会話。 彼女はまた奇声を上げながら、右手にハルバードを、左手に勘当者から奪い取ったモーニングスターを用いて、頭の上でその柄を重ねて打ち鳴らした。 肌どころか脳すら痺れるような轟音が鳴る。 最初の一騎打ちは――実のところ、あまりよく覚えていない。 一撃目にして頭上からの鋭い一撃、ハルバードで頭を殴られて兜をかち割られ昏倒したのだ。 「日陰者」がレッケンベルに何度も殺されかけながら、必死で私を担いで逃げたと聞く。 「狂える猪の騎士団における半数がレッケンベルに捕らえられました」 「アイツなんなんだよ!!」 割られた兜を床に投げつけると、かーん、という小気味よい音が鳴った。 いかに超人と言えど、人である。 人の腕は二本しかなく、処理できる行動には限界がある。 であるのに、何故あのレッケンベルたった一人に超人部隊が半壊しているのか。 腕が六本あるのではないかと疑うほどに機敏かつ精密に、レッケンベルの技は戦場で煌めいた。 「右腕痛いです。右腕が痛いんです」 勘当者が右腕を複雑骨折したらしく、わんわんと泣いている。 超人騎士が泣くものではないわ! ともかくも、捕らえられた私の配下を救出せねばならぬ。 というか、だ。 「なんで戦闘のプロである傭兵どもが、私の常備兵どもが、剣槍を握るのも初めてであろう農兵混じりに負けてるんだよ!!」 これが数年も経過した後の傭兵団というのであるならば、不思議ではない。 だが、あの農奴兵は――ランツクネヒトと言われる者どもは、レッケンベルが集めてまだ一年も経過してないヒヨッコどもであるというのにだ。 会戦にて明確に押されているのはこちら側である。 「レッケンベルのせいです。敵はただの狂暴粗悪な掠奪兵ですが、どうしようもない者達にも使い道はあるということでしょう」 あの悪魔のせいであると「忠義者」が呟いた。 未だ全容は分からぬし、そもそも具体的な指揮内容や戦略などは戦後にようやく知り得るようなものだ。 ともあれ、あの悪魔のせいである。 「どうせいというのだ!」 「テメレール様。領地に帰りましょう。帝都にも工作員を潜らせておりますが、状況が怪しい。マキシーン一世が帝都ウィンドボナを乗っ取る気配を見せつつあります」 「小娘風情が!!」 判断に困る。 あまり時間が無いのだ。 時間が経過すれば、帝都はいずれレッケンベルとマキシーンにより奪われてしまう。 そして、それを見過ごすべきであった。 この時点で最適な手段は、領地に帰って適当な言い訳をすることだ。 選帝侯達の玩具に過ぎぬマキシーンは私を処罰する武力など持たぬし、レッケンベルも適当に策略の種を蒔いて、ヴィレンドルフに帰るであろう。 ひとまず、引くべきであった。 皇位の簒奪など、この先の人生で何度でも機会はある。 忠義者の進言が正しいのであるが、その前にたった一つだけやることが。 「私の犬どもは! 超人騎士や、我が領地の兵士どもは! 取り返さぬままでは領地に帰れるか!!」 「身代金による交渉を試みておりますが、レッケンベルが応じませぬ」 「なんでだよ!!」 金ならある。 金ならあるんだ。 私の領地は領民誰一人として飢えに困らぬほどに裕福であるのだから、金を払って済むなら、ここは引いてよい。 生きていれば勝ちなのだから、ここは一時引くべきであった。 なれど。 「正直助かった。もう一度かかってこい。しばらくやることないから付き合え、だそうです」 「嘘だろお前! 助かったってなんだよ!!」 レッケンベルは何を考えているのだろうか。 私の灰色の猪脳を巡らせれば、いささか思い当たる点はあった。 このままレッケンベルが帝都を占領するのはどうにも拙い。 彼女が率いるランツクネヒトは残虐で無秩序で、農民の舌をナイフで突き刺して、農民から切り取った髪の毛を通して、奴隷市まで引っ張る遊びを考案したり。 貧乏な農民が住んでいる藁葺の家に火をつけては、酒の肴が出来たと大爆笑して手を叩いて喜び。 金が手に入るとあれば、市民でも貴族でも八つ裂きに文字通り刻んで、それを豚肉ですと肉屋に売るような連中であった。 甲冑を着ただけの乞食であるのだ。 そうだ。 レッケンベルがこのまま帝都を支配すれば、ランツクネヒトによる帝都市民への無茶苦茶な掠奪と虐殺が起こる。 下手しなくても、帝都が中枢都市としての機能を数年は麻痺させてしまう。 レッケンベルも非難を受けるであろう。 要するに、レッケンベルは今までの勝利のための手段こそ選ばない悪魔ではあるものの、勝利が見えた時点で何もかもが無茶苦茶になることを不安視している。 ヴィレンドルフ選帝侯から命じられた将軍の戦略目標としては、皇帝から勝利報酬を毟り取れればそれでよかった。 だから、帝都に辿り着いても意味のない包囲をすることしかレッケンベルにはできぬ。 大人しくマキシーンの小娘が帝都を掌握するのを待とう。 だが、表向き何かしていないと「レッケンベル卿は何をしているのか?」と後で言われてしまうので、しばらくお前と戦っていることを停滞の理由にするから付き合え。 誰にも言えぬが、政治上必要になる遊び相手だ。 そのような大上段からの命令であった。 「調子に乗りやがって!!」 「テメレール様、我ら狂える猪の騎士団、すでに捕まっている者達も気持ちは同じでありましょう。領地までお逃げください」 「そんなことが出来るか! 私を侮辱しているのか!!」 死んだら終わりなんだぞ! ここで逃げると、身代金にすら応じぬレッケンベルが、私の犬どもをランツクネヒトに放り投げる可能性が少しある。 人の名誉を慮ると聞くレッケンベルであればそのような事はしないと期待しているが、それは私の勝手な期待に過ぎず、何の保証もない。 何の才能もない、何の実力もない、雑兵どもに私の兵が殺される。 何の抵抗もできず、何の名誉も与えられず、玩具のように拷問されて、ただ苦しめられて殺される。 「受け入れられるか! 私の犬どもを救出する! 私の犬どもを救出するんだ!!」 「あの化け物にどうやって勝つと言うんですか!!」 忠義者の顎をぶん殴る。 彼女は平衡感覚を失って、床に倒れこんだ。 「あの化け物が調子に乗っているなら、それをわからせてやるのみよ! 死にたい奴だけついて来い!」 私と、足元おぼつかない忠義者を含めた犬ども全員が従う。 再戦だ。 私の二回目の一騎打ちである。 私は全身が動かなくなるくらいに何度も何度もハルバードで殴りつけられ、全身に痣と腫れと骨のヒビを抱えたまま、日陰者により抱きかかえられて逃げた。 「死なないでください!」という日陰者やサムライの何度も励ます声は、今でも耳に残っている。 私は気絶したまま、寝台の中に放り込まれた。 優しい羽毛に包まれた私の元に、泣きそうな顔の忠義者がやってきた。 「お逃げください」 逃げろというセリフであった。 嗚呼、話は聞いているとも。 レッケンベル指揮下のランツクネヒトが皇帝を――厳密には皇帝の僭称者を七つ刻みにしてしまって、これはレッケンベル様も大喜びするぞとばかりに届けに来たと聞く。 レッケンベルは表向き大爆笑しながら、彼女たちに褒美を与えたと思う。 そいつ私が殺すんじゃなくて、皇帝陛下に引き渡す奴だよと、寝台では泣いていたと思うが。 このままでは、レッケンベルが勝利してしまう。 このままではレッケンベルが帝都を滅ぼして大勝利してしまうのだ。 超人ですらない、自分の娘を救い出そうと必死になっている現皇帝たるマキシーン一世の母には皇帝たる資質など欠片も無い。 ランツクネヒトも、レッケンベルの部下も、誰一人として彼女が皇帝などと認めない。 誰もが必死に帝都を雑草すら残らぬほど掠奪して『帝都を滅ぼしたレッケンベル卿こそ神聖グステン帝国皇帝にふさわしい』と言い張る可能性があった。 人どころか犬一匹いなくなった掠奪された帝都の支配者、レッケンベル皇帝陛下の誕生である。 「レッケンベルは何と言ってきた」 「助けて」 「助けてじゃねえよボケ! お前この間は調子こいて、気持ち悪い奇声上げながら私たちをぶん殴ってたじゃねえか!!」 レッケンベルは私と違い、皇帝になんぞなりたくないのであろう。 ヴィレンドルフ選帝侯、彼女が忠誠を誓っており、相談役として仕えているカタリナとか言う小娘を至高の地位に就けるならば全力を出したのかもしれないが。 法衣貴族たるレッケンベルが、武力ゴリ押しで皇帝陛下になり、各選帝侯が認めたところで得られる名誉などなかった。 簒奪者の汚名すら受け、後は何もない。 色々流れてきた話を聞くに、彼女が大切にしているというカタリナの立場すら怪しくなるだろう。 「この戦に何の意味があるんだ!」 「だから、逃げましょう」 「逃げたら私の犬どもが、大切な配下がどうなるかわからんだろうが!」 私は悲鳴を上げた。 私は勝てる戦が好きなんだ。 負ける戦はしたくない。 生きてたら勝ちだぞ! なればこそ、無意味に部下を殺すわけにはいかなかった。 配下を人質に取られているのだ。 我が兵を巻き込まず、雇い入れた傭兵たちすら巻き込まず、なんとか私たちだけで戦に始末をつけることを必死に考える。 「付き合ってやる! 付き合ってやるよ! あの勝ち過ぎた阿呆の常勝将軍様に付き合ってやるとも! くたばれレッケンベル!!」 正式に超人のみでの一騎打ち、三回目を挑んだ。 全身ズタボロの超人騎士団「狂える猪の騎士団」は、未だ無傷のレッケンベルに必死に挑んだのだ。 結果は眼を閉じても、明らかに見えておる。 誰もが地に伏し、私などは本気でレッケンベルを殺す気で挑んだが、届かなかった。 甲冑に傷をつけることすらできなかったのだ。 レッケンベルは裏事情を何一つ配下に説明せず、何一つ手加減どころか、私を見逃すことすらせず追いかけてすら来た。 勘当者は二回目でとっくに捕らえられていた。 サムライが殴り倒されて、血だまりに伏しているのを最後に見た気がする。 敗北者と日陰者、忠義者はまだ残っている。 他は全員捕まった。 「レッケンベル卿から四回目の一騎打ち要求が来ました」 「私の大事な部下を返してくれないのか? もちろん兵隊ゆえ、誰もが死にゆく覚悟はできているだろう。なれど、下らぬ理由で殺されるのは余りに可哀そうではないか」 私の心はすでに折れていた。 死んだら終わりなんだぞと思う。 このテメレールが、このシャルロット・ル・テメレールが、敗北という結論すら受け入れようとしているのだ。 忠義者は、嫌そうに口を開く。 「このままでは帝都が滅んじゃうから助けてくれ。お前の命は多分保証する。そうレッケンベル卿は仰っています」 「多分とは何ぞや」 最優先ではないのだ。 レッケンベルにとって、この私の、テメレールの命は最優先ではなかった。 大切なのはレッケンベル自身の名誉と、娘のように可愛がっているカタリナという少女と、帝都市民の財産と命であった。 嗚呼。 本当に。 本当に、酷い目にあった。 なれど、本当に自分が惨めに感じたのはあの時か? 違うな。 レッケンベルが死んだと聞いた時であったな。 懐かしい。 嗚呼。 嘆息を繰り返す。 天に、その光を掲げていた太陽は落ちつつある。 すでに夕焼けである。 テメレールは、今しばしの昔の回想を続けようとしている。 一つだけ、確かな事がある。 自分は騎士物語の主人公ではなかったのだ。 ――でも、主人公の相棒にはなれたかもしれない。 そのような事を、昔の馬鹿話に口端を笑わせながら考えている。 「松明を灯せ」 もっと、明かりを。 そう配下に告げて、私は瞑目して、回想を続けた。 第140話 浅い夢 四回目の一騎打ちは酷かった。 とにかく酷かった。 我ら「狂える猪の騎士団」三十余名は、もはや三騎を残すのみである。 事情をある程度理解している忠義者が必死で挑み、何一つ事情を知らされていない日陰者が死に物狂いで挑み、そして茶番劇であることを理解している私は殺されかけた。 何一つ、全然、レッケンベルの奴は手加減しなかった。 命を保証すると約束したのに、何の心配りも見られぬ。 きっと良心と道徳が働いていないのだと思う。 「カーッカッカッカ!!」 酷く上擦った悪魔の声。 から笑う孤島の怪物――まるでミノタウロスもかくやという化け物、人面獣心の外道、糸目からは瞳の色すら把握することができない、ヴィレンドルフという蛮族の結晶。 クラウディア・フォン・レッケンベルには数か所の甲冑傷しか付けることが出来ず、また敗れた。 勝ち目など無いことは最初からわかっていた。 わかっているけど、私の部下が人質に囚われている。 挑まざるを得なかったのだ。 逃げる際に、忠義者が捕らえられてしまう。 私はというと、何も事情をわかっていない日陰者に死に物狂いで掴まれて――なんとかレッケンベルから逃げおおせた。 「忠義者すら失ってしまった」 どうしよう。 何もすることができない。 というのも、私は基本的に配下に仕事を任せている。 私とて高等教育は受けているので内政はある程度ならできるし、戦場においては空気や戦況の把握さえ俯瞰的な視点を持つことが出来た。 だが、細かい仕事といえば官僚任せになってしまうし、内政を担当する文官と言えば全て領地に置いてきてしまっている。 そして戦場の細かい指揮系統においては基本、忠義者任せとなってしまっていた。 万軍を指揮するとなれば、諸兵科を運用するとなれば、そうそうの人間には任せられぬ。 我がテメレール軍の欠陥の一つである。 「だが、私は動けぬ」 全身がズタボロになっており、身体の腫れや痛みはもちろんのこと、今後の人生に関わる致命的な障害が出ていないのが不思議なくらいであった。 裕福な資金から捻出した、田舎の城程度なら領地ごと買えるぐらいの費用から拵えた甲冑が身を守ってくれたのだ。 「唯一、日陰者が残っておるが、戦場以外では役に立たぬ」 日陰者――とある国にあった王朝の末裔は、ある程度の教育を受けているものの、指揮官や貴族教育を受けているわけではない。 そもそも異邦人である。 自分の命の恩人を貶すつもりはないが、私の代理が務まるかというと出来ぬ。 ゆえに私を覆う毛布の上は、連絡不備により生じた手紙で埋め尽くされている これは別に私の安否を気遣っての手紙ではない。 それならば水晶玉による通信で済ませればよく、要は手紙という都合の良い形式に頼った一方的な連絡なのだ。 いくつかを開封する。 「もうレッケンベルから逃げることにします。これ以上は持ちませぬ。ごめんなさい。前線指揮官より」 「先払いの契約金だけで結構。後金はいらぬので、もう帰らせていただきます。もう無理。傭兵団より」 「軍役で契約した動員日数が過ぎたので、領地に帰らせていただく。お許しください。地方領主より」 全てが、もうこの戦場から撤退する――いや、しましたという報告である。 この戦は明らかに誰の目から見ても負け戦である。 戦略で負け、戦術で負け、モラール(士気)で負け、それ以上に最高指揮官同士の一騎打ちにて四回負けているのがどうしようもない。 もう何一つ勝ち目がなかった。 この戦争を経験した全ての人間の記録からは、このテメレールはどうしようもない猪騎士の阿呆と看做されてしまうであろう。 それは違うと言いたい、もう止めたいけどやめさせてくれないんだと弁明したいが。 そもそも相手が人間などではなく、超人の枠をはみ出た悪魔と知らずに挑んだのが間違いであった。 やはり、このテメレールが全て悪いのだ。 謝って許されるならば貴族の面子を投げ捨てても、そうしたい気分であった。 「故郷に帰りたい」 テメレール領に帰りたかった。 でも、帰れない。 部下や兵を見捨てて故郷に帰ることなどできないのだ。 両手で顔を覆う。 涙すら流れそうであったが、なんとかこらえる。 状況の全把握のため、再び手紙の束に手を伸ばす。 ヴィレンドルフの封蝋印が押された手紙である。 差出人はわかっているのだ。 ――クラウディア・フォン・レッケンベル。 手紙の形式は公式なものではなく、手近な友人に宛てたような私信に近いものである。 声に出して読み上げた。 「最近は如何お過ごしでしょうか。お怪我などはされていませんでしょうか? 貴女の姿が戦場で見受けられず心配しております」 お前に殺されかけたから寝込んでいるのだが。 「挨拶はここまでとし、私情を申し上げます。英明と知られるテメレール卿であるならば、ある程度は御承知でしょう。思えば、現状を見れば私の力量不足を恥じるのみであります。前々から考えていた通り、兵隊の現地徴収策たる『ランツクネヒト計画』は上手くいきました。強制徴兵ではなく、志願制にすることで士気や練度を高める工夫。行き先の無い農民の三女四女を雇用してトラブルを防ぐ工夫。既存の概念を打ち破る新時代の風を呼び込むことが出来たと考えております。そこまではよかった。ですが、どうにも勝ち過ぎた。私とランツクネヒトは勝ち過ぎた」 そうだな、お前は勝ち過ぎた。 ヴィレンドルフから帝都までの道程にて、今は七つ刻みにされて死んだ皇帝の僭称者側に立った全ての城を焼き、騎士をぶちのめして財産を奪った。 そうやってランツクネヒトの武装を整え、掠奪物を売り払うことで酒保商人の懐を潤し、その酒保商人の一部から上前をはねる事で、お前は行軍資金を稼いだのだ。 お前に立ち塞がるものは全て餌でしかなく、また敵になるものなど一人もおらぬ。 『レッケンベルの騎行』と後日語られることになるそれを理解していながら、私は挑んでしまった。 「思えば、ランツクネヒトも哀れであります。彼女たちは私に『バラのはながら』を渡された者ども。枯れてしまっている価値の低い花を、価値あるものと信じ込んでしまったものたち。哀れなる農民出の無教養な、土地も財産も持たぬ者に過ぎませぬ。尊厳や権利を踏みにじられてきた者たちに、全ての戦における圧倒的な勝利と掠奪という初めて口にする甘い果実を与えてしまったならば、もはや誰一人止まらぬのも道理でした」 私も愚かだが、それならレッケンベルも大概である。 レッケンベルは確かに神聖グステン帝国最強の超人であり、戦場においては最強である。 頭も回れば教養もあり、人の気持ちも十二分に掴むことができるカリスマであった。 そして、だから。 「彼女たちはより多くの金貨を、今後の生活を保障する何かを、市民と言われる権利や、一部の指揮官は貴族の地位すら望んでいる。私とて、彼女たちの今後を何一つ考えなかったわけではありません。勝利した報酬として、皇帝の地位を取り戻した陛下に、そして次代のマキシーン王女殿下にランツクネヒトを今後継続雇用して給金を捻出するよう要請するつもりでした。ですが、そのような未来では足りないと彼女たちは望んでしまっている。私が渡した『バラのはながら』に固執して、この花を咲かせて見せようなどと夢見てしまっている。帝都ウィンドボナへの侵攻に成功し、勝利さえすれば、このクラウディア・フォン・レッケンベルが皇帝陛下になれるなどと言う何の根拠もない荒唐無稽な夢を見ているのです。もはや私では止められない」 本当に哀れな者たちの心が理解できなかったのだ。 クラウディア・フォン・レッケンベルは採用したランツクネヒト全ての兵に一人一人優しく語り掛け、歓迎したと聞く。 お前にとっては万を超える軍の一人にすぎないかもしれないが、兵士にとってはお前しかこの世で縋りつく者がおらぬ。 現皇帝陛下の名前すらも、彼女たちは知らぬのだ。 どうなるかなど目に見えている。 ――だが、結果論にすぎん。 「五回目の一騎打ちを提案します。これが最後です。貴女の部下たちは全て生きているし、身代金を勝ち取るためであると周囲に伝え、信頼するヴィレンドルフの騎士たちに保護させています。テメレール公、お許し有れ。全てを上手く落着させるために、帝都市民の虐殺を防ぐために、最後の一騎打ちを望む。ここさえ乗り切れば、後は囚われのマキシーン王女殿下がなんとかする手筈となっています」 レッケンベルは皇帝陛下になりたくないし、泥縄的簒奪を行うことが出来たとしても結果は見えている。 もはやヴィレンドルフという故郷には帰れず、彼女が育てているカタリナ王女の立場も保証されない。 私とて、もうテメレール領に帰りたい! これほど故郷の地を踏むことを望んだことが、今までの人生であろうか!! 「テメレール公、お助けを」 このような手紙無視したいが、レッケンベルが怖い。 私がこの手紙を無視したが最後、時間稼ぎのために私の部下を一人一人ランツクネヒトに処刑させるくらいのことはしかねない。 誇り高い騎士であろうが、目の前の破滅を防ぐためには、えげつない手段に出ることが彼女にはできた。 「日陰者! 私の甲冑を用意しろ!!」 私は全身ボロボロの姿で立ち上がった。 最後の戦いだ。 誰もが指さして笑い、殆どの人間が背景を理解すらせぬ五回目の一騎打ち。 私はそこで人生全てを懸けて辿り着いた武芸の極みを見せ、自分がやはり他の凡百の超人どもではたどり着けない境地にあることを自覚し。 ――同時に、私は騎士物語の主人公などではないことも理解してしまった。 私は、レッケンベルという主人公に立ち塞がる、ただの間抜けで何か勘違いをしてしまった悪役の類でしかなかったのだ。 数十合の剣戟を行い、何一つ手加減などせぬレッケンベルに私は敗れ、捕らえられた。 日陰者が私を今までのように連れ去ろうとして、失敗した。 何も知らぬ無邪気なランツクネヒトどもが指をさして笑っている。 全てがどうでもよい。 私は敗れた。 徹底的に負けたのだ。 もはや皇帝となる夢すらもどうでもよいとすら思えた。 だが、私のシャルロット・ル・テメレールとしての人生はまだ終わらぬ。 今は、ヴィレンドルフ選帝侯の屋敷にて捕らえられている。 身体の数か所が骨折し、寝台に寝転がっているだけの私に声がかかった。 「こんにちは、友達。ご機嫌いかが? 政治劇の後始末がやっと片付きましたよ」 糸目の悪魔、レッケンベルが微笑んで立っている。 酷く白々しい言葉を口にしている。 お前なんか友達じゃねえよ馬鹿死ね。 どんな狂った思考回路持ってたらそんな言葉吐けるんだ。 くたばれ悪魔め。 思わず罵りの声をあげそうになるが、無意味な抵抗である。 完膚なきまでに負けた以上は、従うしかなかった。 「私は敗者である。もう心も折れた。身代金をとるなり、私を殺すなり好きにせよ。なれど、部下だけは解放してやってくれないだろうか? それぐらいは私だって働いたであろう?」 間抜けな悪役とて、部下を哀れに思うぐらいの情はあった。 私はもう別によいが、彼女たちは助けてやりたい。 「いえ、貴女には借りができたと私などは思っています。このまま貴女も、貴女の部下全員も解放することとしましょう。どうもご迷惑をおかけしました」 レッケンベルの瞳はやはり見えず、何を考えているのかよくわからないが。 領地に帰れるなら、それでよい。 「なんと申しますか、テメレール公には本当に申し訳ないことをしたと思っているのですが。ですが、最初に貴女が襲い掛かってきたわけですし、まあ私が一方的に謝るのも変だと考えております。最終的には皇帝陛下にお願いしてランツクネヒトにも食い扶持を残したわけですし、私どこから見ても悪くないですよね? 死後は聖人として崇められるようなことを成し遂げましたよね?」 あれだけ無茶苦茶した上に、戦場では茶番ですら手を抜かない気狂いが何をほざいているのか。 お前は死後ヴァルハラに行くか、生まれ故郷である地獄に悪魔として再臨するかの二択しかない。 お前が正義なのは、誰よりも狂ったように強いからだ。 そして、強さは何にも代えがたい正義という証明である。 敗北は何よりも邪悪である。 なれば正しいのはレッケンベルで、悪いのはテメレール。 そうなってしまう。 もはや、これ以上は会話したくないのだが。 どうもこのレッケンベルは突っ込みを入れざるを得ないようなことを平気で口にする。 「今回の事って日記に書いても良いですかね」 「馬鹿だろお前。何一つ記録に残すな」 こんなもん歴史に残したら、帝国歴史上でも極めつけ強力なアホと哀れな弱者しかいない時代だったと後世で馬鹿にされるわ。 私の名などは、ありとあらゆる騎士物語で罵られ嘲笑われる仕打ちをうけるだろう。 「テメレール公を五回も見た! 五回も来た! 五回も勝った! とでも書いておけ」 それでよい。 私が敗れた事自体は事実なのであるから。 さて、しばらく動けぬが、どうしようか。 私の言葉を聞いて『愛するカタリナに贈る私の日記帳』などと表紙に書かれた本に、早速私が言った言葉を書いているレッケンベル。 本気で頭がイカれている彼女を見つめている私。 それから、それからだ。 騎士物語の主人公たるレッケンベルと、それに巻き込まれた間抜けな悪役たる私の静かな交流が始まったのは。 あの2年前までの5年もの間、私と彼女の友誼は静かに続いていたのだ。 何も知らぬカタリナ女王などは、私を見逃した代わりに、レッケンベルへの生涯の情報提供を約束したなどと勘違いしていたようだが。 年に数百回もの文通を重ねているようであれば、そのような勘違いもしようか。 まあ、よい。 何を勘違いしようが、どう誤解されようが、どうでもよい。 レッケンベルはもうどこにもいない。 だから、『私がやるしかないんだ』。 もう私しかいないんだ。 騎士物語の主人公が死んでしまったところで、間抜けな悪役の物語は別個として存在している。 私の物語は続いてしまっている。 お前がちゃんと私を殺さなかったから、私の物語は続いてしまっているんだ!! だが、時々思うんだ。 「本当に死んだのか。嘘をついているんじゃないのか。レッケンベルの事だから、また何か変な策を考えてるんじゃないのか。私を騙そうとしてるんじゃないのか」 死ぬわけがない。 あの悪魔が死ぬわけないんだ。 私はあの悪魔の死に顔一つ拝んでないのに、それを信じろというのか? そのような不信をずっと抱いている。 抱き続けることが出来たんだ! 目の前に。 「失礼。テメレール公、遅くなってしまいました」 堡塁前にて大砲を打ち返し。 レッケンベルと同じように我が配下の全てをなぎ倒し。 あのレッケンベルと同じように、どこか惚けた雰囲気を見せるポリドロ卿が眼前に現れるまでは。 私は、ずっとレッケンベルの生存を信じていたのに! 浅い夢がついに醒めてしまった。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 お前が、レッケンベルを殺した。 くたばれ、疫病神が。 私は小さく呟き捨てて、少しだけ泣きそうになった。 第141話 謝罪と決意 全身が脱力し、何処か寂しげな表情で、私を見つめるテメレール公。 それはまるで、憑き物が落ちたかのように見えるのだ。 はて――彼女の部下である「忠義者」の話を聞く限りでは、躁鬱病ではないかと考えていたのだが。 はっきりと私と視線を重ねるテメレール公の視点は定まっており、どう見ても正気の目である。 もちろん会話してみなければ、はっきりとはわからぬのだが。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿」 私の名を、テメレール公が口に出した。 「まずは、お見事と言わせていただきたい。我が狂える猪の騎士団における六超人をよくぞ打ち破った。褒めるというには大上段かも知れぬが、純粋な騎士としての敬意を述べさせていただく」 「……貴女の称賛、有り難く受け取ります」 誰だお前? 思わず、そんな感想を表情に浮かべてしまう。 アナスタシア様のパートナーとして、夜会において柔らかい声で私を褒めたたえてくれた彼女ではなく。 さりとて、堡塁前にてレッケンベルを打ち破ったなどと僭称した醜い男騎士めと激昂していた彼女でもない。 私が相対しているのは、どちらでもない一人の騎士であった。 「また――貴方が、ポリドロ卿が、レッケンベル卿を一騎打ちにて見事打ち破ったこと。これを私は認めよう。今までの誤解を訂正したい。そして、私はポリドロ卿に謝罪しなければならない。私の配下の忠義者、そのパートナーが夜会にて貴卿を侮辱したこと。その責の全ては、彼女の寄親にして夜会の主催者であるこのテメレールに帰結する」 「テメレール公」 「全ては私の不明のいたすところであった。申し訳なかった、ポリドロ卿」 テメレール公が、素直に謝意を述べて頭を下げた。 本来ならば、これだけで済む話であった。 そして、私としてはもうこれだけで良いと思ってはいるのだが。 「以上は私の本音である。ポリドロ卿が我が堡塁前で為した『砲弾返し』に対すること。私の『狂える猪の騎士団』を破った事。全てに対する、陰りの無い本心であるのだ。それはお疑いなきように」 もはや、そういう話ではない。 私とテメレール公は今から決闘をするのだ。 「さて、ヴィレンドルフ客将ユエ殿、それにアンハルト選帝侯――第一王女親衛隊かな? それとも、もはや女王親衛隊の隊長とお呼びすべきか? アレクサンドラ卿よ」 「選帝侯継承式が行われるまでは、一応まだ……」 「そうか。此度の事、誠に申し訳ない。お二人にも迷惑をかけた。いらぬかもしれぬが、御二人にも礼金を支払うことにしよう。貴女方には立会人として、最後まで見届けて頂けねばならぬゆえに」 私が謝意を受け入れて終わり。 すでにそれだけで済む話ではないし、何よりもテメレール公がそれで終わらせるつもりがない。 私が止めようと言ったところで、もう聞かぬであろう。 「そうだな。そうだ。おい、そこの兵士。忠義者によくよく言っておけ。これは私が約束したことだ。この勝負で何があろうが、どうなろうが、約束は最後まで守るようにと。私はヴィレンドルフの流儀自体は嫌いではないのだ。一度約束したなら、最後まで遵守するべきなのだ。あのレッケンベルに育てられたくせに、アイツが死ぬまで、その愛情を理解できなかった出来損ないのカタリナ女王などは本当に大嫌いであるが」 一種の殉教者のような顔をしている、テメレール公にはもはや何の言葉も通用しない。 それぐらいは、このファウストにも理解できる。 「そう。それぐらいだ。それぐらいが心残りよ。後は勝手に誰もが望み望むがままに命数を果たせばよい。死んだら負けだが、死にさえしなければ、その者の物語は続くであろうさ」 テメレール公は、私に負けるかもしれないという認識がある。 それは言動で理解できる。 そして。 「私は私の騎士物語を完遂するのだ。これは私の物語だ。もう誰にも邪魔はさせぬ」 同時に、雑念を捨て去る儀礼を行っているのだ。 秩序ある完遂に至った重装甲騎兵が、敵兵の槍の穂先をへし折りながらに突撃するように、それで死んでしまっても構わないと。 勝利のための儀式を、私の目の前で消化しているのだ。 そうして、全ての儀式を終えてしまったテメレール公は私に尋ねる。 「さて、私が言いたいことは全て言い終えた。何か貴卿も言いたいことは?」 「……聞きたいことは山ほどに。なれど、それは勝負を終えてからでもよいのですが」 アナスタシア様やアスターテ公爵、それにカタリナ女王が聞き出したいこと。 このファウストとしても知っておきたい、遊牧騎馬民族国家に関する全て。 それについては後でも良かった。 どうしても、先んじて聞きたいことがあるとすれば。 「三つ、お聞きしたい」 率直に述べる。 「尋ねよ」 テメレール公もまた、短く答えた。 「一つ、レッケンベル卿は貴女にとって何であったのか?」 「この世で最も憎たらしく、誰よりも強く、おそらくは今もヴァルハラにて私とお前の決闘を見守っているであろう神聖グステン帝国史上最強の英傑よ」 それは紛れの無い言葉なのだろう。 テメレール公は、視線一つそらさずに答えた。 「二つ、レッケンベル卿の情報源は貴女であったのか?」 「……答えよう。遊牧騎馬民族国家の情報を伝えたというならば、その通りである。おそらく、貴卿はレッケンベルが最初に彼の国の脅威に気づいたなどと誤解しているかもしれぬが、それは違う。私がフェイロン王朝と交易を行っていたことから最初に気づき、それをレッケンベルに相談したのだ。それ以上の詳しいことが知りたければ、私に勝利して見せよ」 テメレール公は、私の下手糞な質問に少し躊躇った後。 何が聞きたいのかを?み砕いての返事が為された。 これ以上の情報はくれないだろう。 頭をがりがりと掻き、最後の質問を行う。 「三つ、貴女の部下が、忠義者が心配している。ある言葉を耳にしたといっている。『全ての情報を聞き終えた後は、お前も私を裏切るのか?』と。どういう意味であるのか」 「……余計な事を」 眉を潜めながら、彼女は少しだけ困った顔を見せて。 それでいて、もはやどうでもよいことだと。 おそらくは元来の性根であろう鷹揚さを見せ、少しだけ笑っていった。 「裏切者がいたんだ。ああ、この神聖グステン帝国に裏切者がいるのさ。皆が、誰もが、自分の大切な物のためならば、国を潰すぐらい何とも思っていないのさ。それは仕方ないことかもしれない。自分の故郷のため、自分の愛する者のため、恩寵のため。レッケンベルに渡された『バラのはながら』しか持っていないランツクネヒトならばそれも仕方ないと言えるさ。何も持たぬ哀れな者達が、目の前の金貨に目が眩んでも私は許されるべきだと考えている。それを責める方が筋違いなんだ。だがなあ。絶対に裏切ってはならない立場の者だって――嗚呼。良いだろう。そうだな。私が悪かった」 何かを糾弾するでもなく。 何かを馬鹿にするでもなく。 どうも、少しだけ寂し気な、ハスキーボイスの掠れた声が響いた。 「忠義者が、私の愛する犬どもが私を裏切るわけないのに。なんであんなこと言っちゃったんだろうな。この勝負が終われば、彼女にも謝ることにするよ。それでよいか」 「よろしいかと」 貴女の配下たちも報われるでしょう。 私にテメレール公を殺傷するつもりは最初からない。 いくらでも取り返すことはできよう。 そのように述べる。 「そうか」 テメレール公は、それに静かに返事をした。 だが。 「侮辱するなよ。ポリドロ卿」 どうも、会話の選択肢を間違えたようだ。 多分、今の言葉は言うべきではなかった。 「私はお前を殺す気はない。お前も私を殺す気はない。それはそれ、これはこれだ。どちらが死んでしまっても仕方ない。当たり所が悪く死んでしまっても仕方ない。決闘とはそのような覚悟で臨むべきなのだ。私を侮辱するんじゃない」 兜をまだ被っていないテメレール公は、酷く悲しそうな顔をしている。 「レッケンベル卿は。レッケンベルは。私と五回戦って、何一つ手など抜いてくれなかった。どの一撃も、私の物語を終わらせてしまいかねない強烈な一撃であったぞ。お前は私の決闘に手を抜くつもりなのか? 殺してしまっては拙いからと、手加減するつもりなのか?」 瞳の色が、少しづつ濁りつつある。 それは正気の目であると判断した先ほどと違い、視点定まりかねる表情で。 「私は侮辱されるのが嫌なんだ。レッケンベルより上がいるなどと断じて認めぬ。認めるものか。お前がアイツに勝ったところで、お前はレッケンベルの代わりにはならん。何の意味があるんだ。お前がレッケンベルに勝ったところで、何の意味があったんだ」 激昂と発狂を重ねた、狂える猪としてのテメレール公の顔が現れつつあった。 「一度、堡塁前でも言ってやったな。お前は、男ながらにして一騎当千に値する騎士なのだろう。でも、それだけじゃないか! レッケンベルじゃないんだ! 私のように死に物狂いでやってるわけじゃないんだ! この帝国で何が起こっているのか、お前は知りもしないだろうさ」 テメレール公が、狂気に至った表情で叫んでいる。 「私はお前の事を知っているぞ。知っているんだ。レッケンベルを誰が殺したのか必死に調べたから知ってるんだ。お前の英傑譚が帝都に流れ着く前から、何もかもを調べ上げたんだ。ヴィレンドルフで99人の騎士を打ち破ったこと。アンハルトでゲッシュを誓ったこと。何もかもを知っている。知っているんだ。その上で言ってやろう。お前は何も理解してないんだ。何もわかっちゃいないんだ。お前がレッケンベルを殺したことが、その罪がどれほどに深いものなのか!!」 その超人としての握力から、甲冑に覆われた鉄拳が軋みを挙げている。 狂える猪、猪突公という毀誉褒貶ある称号を持っているシャルロット・ル・テメレール公は。 「お前は何もわかっちゃいないんだ。かかってこい、ファウスト・フォン・ポリドロ卿。お前なんか産まれてくるべきじゃなかった。くたばりやがれ疫病神」 ありとあらゆる憎悪を超えた瞳と声で、ただ私を罵った。 私は、兜を被るように彼女に促した後。 静かに、私の存在意義を呟いた。 「私は母の名誉、領地のため、その全てを誇るために、この世界に産まれ落ちた」 その誇りに揺らぎなど欠片もなかった。 第142話 ヴァルハラより来たりて このシャルロット・ル・テメレール公は決して弱者なのではなく。 むしろ、明確な強者であるのだ。 その自覚だけはいつも揺らいでいない。 あのレッケンベルに縋りつくことが出来た。 甲冑に傷をつけることが出来た、何十合と剣戟を重ねることが出来た。 あれからも努力を重ねた。 レッケンベルが死んでからも、その死すら疑って努力を続けた。 その事実だけが私を支えている。 「何もかもが終わったら、もう一度一騎打ちをしましょうか。戦場ではない、何かを掛けた勝負でもない。どちらが強いかだけを証明するための勝負を」 そう約束をしていた。 そのような約束をレッケンベルとしていたのだ。 すでに彼女は儚くなってしまったが。 「テメレールが言う、その遊牧騎馬民族国家とやらを打ち破った後ならば。ちょうど私も貴女も若いとは言えぬだろうが、騎士としての技量は最高に達する。良い勝負になるでしょうね」 『モンゴル』という国号を称するようになった、あの国を破った暁には、そうするつもりであった。 だから、ずっと努力をしてきた。 ゆえに、目の前の化物に抗うことが出来ている。 そして。 ただ、それだけだ。 手槍も同様の長さのレイピアを振り回し、ひたすらに剣戟を行う。 我が武器は、莫大な金と労力を投じた緻密な魔術刻印にて成立するゲテモノ武器で。 ポリドロ卿が繰り出すグレートソードによる質量と速度、その威力に耐えきることができた。 そうだ、武器は悪くない。 私の技量とて劣らぬ。 ゆえに、剣戟はなんとか成立している。 そして。 そして、それだけと言えた。 私はずっと考えていたことがある。 『何故、あのレッケンベルが負けたのか?』 誰もが抱く難問について。 その解明を私は果たしつつある。 推測はできていた。 私は本日この場にてポリドロ卿が眼前に現れたことにより、レッケンベルの死を受け入れて。 ヴィレンドルフの騎士どもが延々と語り継ぐ、歴史にすら残るであろう英傑譚を聞き入れて。 結論は、誰もが理解しているただ一つ。 持久力が、決闘における粘りが足りなかった。 レッケンベル卿は年老いているがゆえに、若きポリドロ卿には勝てないという結論である。 ヴィレンドルフの騎士どもはどうしても「全盛期のレッケンベル」であるならば、ポリドロ卿にすら負けなかったという、不愉快な理由付けをした。 阿呆どもが! そのような身勝手を貴様らが唱えて良い道理はあるまい。 レッケンベルに粘りが、鍛錬の練りが足りないなどあるものか。 お前らはレッケンベルと戦場にて五回も殺し合ったことなどないだろうから、理解できぬのだ! 私だけが、私だけが理解しているのだ。 レッケンベルに何か「足らぬ」などこの世に在りはしない。 望月の欠けたることなど、何一つとして無いのだ。 どうしても、どうしても何か負けた理由があるとすれば。 レッケンベルに何かが不足しているのではなくて、それ以上の何かがポリドロ卿を最強の英傑たらしめた。 「偶然の勝ちと言うことは出来れど、私を侮ったから負けたのだ、相手が失敗をしたゆえに勝てたのだなどと、レッケンベル卿を少しでも侮辱するようなことを言うつもりは無い」 それがポリドロ卿が為した、堡塁前にて私に告げた回答である。 何がポリドロ卿に充足していたのか。 多分、それは、不愉快な事にヴィレンドルフ騎士どもが為した結論とは。 レッケンベルが不足していた、ポリドロ卿が充足していた、その見解は違えども。 内容としては変わりない。 「嗚呼」 重ねた剣合は三桁を超えたか。 剣先を重ね、剣刃を重ね、力で押し切ろうとして。 それ自体は互角であると両者が認識し、また相打ち合って、理解しつつある。 このままでは、テメレールが負け、ポリドロ卿が勝つ。 立会人であるアレクサンドラ卿や客将ユエ殿も、強力な超人であれば理解しているであろう。 息を切らし、ぜいぜいと喉を鳴らし、唾を呑む。 私は叫んだ。 「何故お前は疲れない!」 疲労しないのだ。 代わりに、時折不思議な呼吸音がしている。 息吹とでも呼ぼうか。 私の狂える猪の騎士団の一員たるサムライが使う、特殊な呼吸法を行っているのだ。 一撃を放った後に大きく息を吸い込み、呼吸を整える。 ぞっと言う音とともに、巨躯の大きな肺が息を吸い込み、吐き出す。 それだけの単調なる人体の奏で。 このテメレールの耳はそれを認識している。 ポリドロ卿が、静かに答えた。 「知らぬ」 返事こそすれど、つれない回答である。 「昔から、こうなのだ。我が母が、私に騎士としての教練を施しながらにして。ある日、数時間の教練の上で私の様子に気づいた。私は自分の体力が無いゆえに、子供の無尽蔵の体力に追いつけぬとばかり考えていたと」 ポリドロ卿の母、アンハルトでは気狂いマリアンヌとして蔑まれども、ヴィレンドルフでは我が子のために全ての名誉を擲った。 アンハルトのモヤシどもには何一つ理解できなかった、真の騎士であるとすら謡われるマリアンヌの事。 「だが、どうやら違うようだ。我が愛息は生まれながらにして、特殊な呼吸と、それを受け入れる身体を持っている。我が息子ファウストは超人としての体躯と、筋力と、肉体の跳ねに加えて。どう尽くしても有り余る体力を持っていると」 そう私の母は、私に教えてくれたのだ。 そのようにポリドロ卿は告げた。 ああ、そうか。 私はふざけるな!という怒りと同時に、不思議な納得を受け入れてしまった。 ならば、どうあがいてもレッケンベルとて勝てぬ。 いくら殴り合っても、鎧を切り裂いて血の雫を零しても。 戦闘中に盛り上がった肉が傷を塞ぎ、一つ息を吸い入れただけで体力を回復させる。 我が狂える猪の騎士団における、勘当者が加えた骨のヒビすら短い時間に回復しておる。 そのような化け物に誰が勝てるのか。 「レッケンベルよ。私はお前と同じ魔境を味わおうとしている」 彼女が抱いた苦境を、私は認識する。 賦活する。 何度でも、何度でも、ファウストは賦活する。 生き返るのだ。 息を吸う事で、肺に空気を取り入れ、その全てを吐き出すだけの仕草で。 ファウストは生き返るのだ。 常人なれば気が狂って抵抗できぬほどの、痛みに抗うことができた。 それだけで、全力で剣を振り回すことができるのだ。 そうして、私のように。 そうだ、この私、テメレールがレッケンベルとの一騎打ちにて学んでいったように学習する。 必死に眼前にて得た情報全てをかき集め、最高峰の武人としての技量を以て完成していく。 相手が何をしたかったか、その間合いがどれくらいか、武器に加えられた威力はどれほどのものか、相手が成し得る全力がどの程度か、次の手段は何なのか。 何もかもを少しづつ、一合ずつに把握して、それを学習している。 ふざけるな。 そんな出鱈目な存在があったものかと思う。 いくら訓練したと言え、人が本気も本気の全力で動ける時間などどれだけであろうか? 3分動ければ上等な兵士だ。 5分動ければ素晴らしい騎士だ。 10分動けたならば超人だ。 15分を超えたならば、もはや特別に武に秀でた超人と言えるだろう。 30分を超えたなら、それすらも超えたなら、それはもはや。 ――レッケンベルぐらいしか、この世にいないとすら思えた。 だが、いるのだ。 しかし、いるのだ。 眼前に、ファウスト・フォン・ポリドロという化物が存在する。 呼吸を繰り返すだけで、永久無限に、それこそ空腹で倒れるまで、飢えて死ぬまで動き続ける化物が存在するのだ。 何度で諦めた? レッケンベルは何度目で諦めたのか? ファウストとレッケンベルの結末を、このテメレールは知っていた。 何故レッケンベルが負けたのかを知っていたのだ。 数百合。 どこまでもどこまでも続くお互いが全力を振り絞った近接剣術戦を、誰もが見守っていたのだ。 敵も、味方も。 誰もが口を開け、眼前の不思議を受け止めたのだ。 誰も彼もが、どちらが勝つのかすらわからないまま、このままではレッケンベルが勝つであろうと。 手数はレッケンベルが多く、血を流した数はファウストが多く、消耗戦になればファウストが負けると。 そのような考えに至る。 そんな英傑譚を、吟遊詩人から何度も、何度も。 動揺を配下に隠し、誰にも判らぬように何度も聞いたのだ。 そして私は狂った。 色に溺れて手を抜いて死んだ。 あのアンハルト第一王女の卑劣な罠にかかり、数百人の重装甲騎兵にたった一人で挑んで死んだ。 実はこっそり生きていて、私を騙そうとしているのではないか。 そう自分を騙すことにした。 私は、ようやく死に物狂いのファウスト・フォン・ポリドロを眼前にすることで正気に返った。 お前が死んだ理由は、レッケンベルが死んだ理由は。 もはや明確となった。 「お前はヴァルハラより訪れたのか?」 ヴァルハラの戦士。 殺しても翌日蘇る猪のセーフリームニルの肉を食べ、ヤギのヘイズルーンの乳で作った酒を楽しみ、翌朝になれば再び殺し合う。 傷などその場で回復してしまい、死ぬことなどなく、無限永遠に殺し合いを楽しむことのできる。 そのような存在。 クラウディア・フォン・レッケンベルが悪魔の子であるならば。 ファウスト・フォン・ポリドロはヴァルハラの恩寵を受けて産まれたのだ。 そのような存在であると、もはや受け止めざるを得なかった。 「レッケンベルは途中で諦めたのか?」 レッケンベルは、首を刎ねられたと聞いている。 笑っていたと聞く。 その死顔は、いつもの細目で、顔は微笑を浮かべていた。 見苦しい仕草など、眼前の敵を恨んだ仕草など、一つとしてなかったのだ。 完全に死を悟った顔をしていたのだと聞く。 その首は花に包まれて、ヴィレンドルフ女王カタリナの元へと送り届けられたのだ。 私は結末を知っている。 同時に、その結末を嘘だと思っていた。 信じたくなどなかった。 貴様が死んだなどと思いたくもなかった。 だが。 理解している、何もかも事実なのだ。 「一呼吸するだけで賦活するファウストを眼前に、お前は何百回で諦めたのか?」 私は、レッケンベルの事を、何百合と刃を交わしたレッケンベルの事を考えている。 ずっと考えている。 レッケンベルが踏んでしまった轍を乗り越えるには、一手しかあるまい。 私との立ち合いにおいて、私の全ての技術を理解し終える前のポリドロ卿。 それがゆえに、レッケンベル相手に使おうと思っていた一つの技術がある。 「喰らえ」 地虫の構えをとる。 レイピアを下にやり、剣刃に手を添え、勢いづけて床の石畳すら切り裂く。 下からの籠手斬り。 ポリドロ卿が片手に握る武器を奪い、一方的に追いやることで得られる勝ち目。 「くたばれ、疫病神」 完璧に入った。 籠手斬りが完璧に入り、ポリドロ卿はグレートソードを手から取り落とした。 これで、勝ちの目が見えた。 私が、このテメレールが、レッケンベルすら撃ち破った相手に勝つのだ。 一瞬だけ。 一瞬だけ、私は達成感に満たされたが。 「そのパターンは、我が母上マリアンヌとの鍛錬により習得している」 無慈悲な言葉が、私の頭から降り注いだ。 取り落としたグレートソードを、ポリドロ卿は頭上に鉄靴で蹴り飛ばした。 私はそれに辛うじて反応し、かわしこそしたものの。 次の一撃には。 「殺撃」 頭上に蹴飛ばされた剣を、ポリドロ卿が両手にて握った。 握ったのは柄ではなく、剣先である。 甲冑に覆われた鉄拳にて、力強くグレートソードの刃を握りしめた。 混戦でたまに見られる、騎士の剣術である。 剣の刃ではなく、遠心力を抱えた頑丈なる剣の柄にて相手の鎧ごと叩き潰す剣術。 ハルバードやルッツェンハンマーが流行した昨今では、容易にみられぬもの。 その技法をポリドロ卿は習得している。 足元に零れた剣を頭上まで蹴飛ばし、その剣先を握り、その柄を相手の頭上に向かって振り落とすまでの作業を。 ポリドロ卿は狂ったような修練の元に、一つの技術として習得している。 「渦巻」 嗚呼、それは我が狂える猪の騎士団におけるサムライの技である。 彼女が主家にて狂った功績によりようやく与えられた、狂った修練の元に結実する秘奥義である。 それをポリドロ卿が為そうとしている。 何もかもが、虚しくなりつつあった。 私は強者だと思っていた。 せめて、レッケンベルに次ぐ二番目だと思っていた。 だが、その儚い望みすら叶いそうになかった。 私はおそらく、この世においては三番目ですらないのであろう。 であれば。 なれども。 それでも、私は諦めないのだ。 「やれ」 私はその一撃を受け止めきれぬことを理解し、それゆえに捨て台詞を吐いた。 第143話 ストロンガー・ザン・ユー テメレール公に、強力な頭上からの振り下ろし。 殺撃が入った。 グレートソードの柄が完全なる衝撃力を抱き、テメレール公の頭蓋という衝突点に強力な威力をもたらした。 あのサムライから学び取った『渦巻』による、筋肉の異常なる捻りから発生する瞬発を加え、私は魂消えとなりさえする。 頭どころか存在すらかき消すような一撃を放ったのだ。 悲鳴は挙がらず。 代わりに、強力な打突音が辺りに広がった。 確かに。 確かに私はテメレール公の要求通り、「やれ」という言葉通りに役目を果たした。 テメレール公を彼女の望み通りに討ち果たしたのだ。 なれど。 「ははっ」 テメレール公が笑った。 兜が変形し、頭蓋が割れ、血が流れている。 間違いなく頭蓋の一部が割れており、血の噴出が止まらず、髄液は漏れておる。 それでなお、テメレール公は笑った。 「あははっ」 笑い声が聞こえている。 テメレール公は地に伏して居る。 超人でなければ、いや、生半可な超人では完全に致命に至るダメージを与えており、同じ打撃を受けたのであれば、このファウストどころか。 疲労限界という一点を除けば、私より強かったレッケンベル卿すら打ち倒す一撃を受けて。 なお、テメレール公は笑っている。 「ポリドロ卿、離れて。そこまで! そこまでです! これ以上は死んでしまいます!!」 アレクサンドラ殿が絶叫して、私とテメレール公の間に割って入った。 立会人としての仕事を果たすためである。 誰もが、テメレール公がもはや何もできぬと見切っている。 このファウスト以外の誰もがだ。 「この疫病神めが。お前だ。お前がこの神聖グステン帝国を滅ぼすのだ」 テメレール公は笑っている。 もはや、何もかもが嫌になってしまった。 投げやりのようになってしまった、正気定まらず、なれど狂人とは呼べぬ理性に満ちた声である。 「お前は確かにレッケンベルを倒した。お前はレッケンベルを倒したんだ。このテメレールとて討ち果たした。お前は帝国最強の騎士かもしれない。なれど、それがもはや何になるというんだ。お前は全てを間違えたんだよ、ポリドロ卿」 ユエ殿が、テメレール公に歩み寄った。 怪我を手当てするためであり、必死にテメレール公の名を呼ぶが。 テメレール公は応じようとしない。 「お前はレッケンベルに劣る。たとえ、お前が一騎打ちで勝ったところで、どうしようもないほどに能力で劣るんだ。人食いアナスタシアなど相手にもならぬ。あの女はレッケンベルの策略に陥り、前線指揮する事すらままならず、本陣防衛に精いっぱいだったと言うではないか」 ユエ殿が、必死になって変形した彼女の兜を脱がした。 兜が脱げたテメレール公は、痛みゆえか、それとも悲しみ故か。 「カタリナも話にならぬ。所詮は乳母日傘で育った道化にすぎぬ。あれには、ほとほと愛想が尽きたよ。レッケンベルの後継者? あの小娘が? 笑わせるよ。あの小娘がレッケンベルの後継者ならば、私は今頃あの女の手で死んでいる」 何もかもを憐れむような表情で、涙を流していた。 頭部からは血が流れている。 黒ずんだ血であった。 「お前が一番ひどい。ファウスト・フォン・ポリドロ。お前はそれだけだ。一騎打ちの力量以外の何もかも全てにおいてレッケンベルに劣るだろう。お前は戦とあらば1000人を殺せよう。まさしく一騎当千である。なれど万軍には容易く負ける。それだけだ。そんな力自慢が、何の役に立つというのか。お前が何の役に立つというのか」 赤い鮮血ではなかった。 静脈の血が流れている。 ユエ殿が針と糸を用意しろと、テメレール公の側近兵に叫んでいた。 「来るべき遊牧騎馬民族国家の襲来に、『モンゴル』の襲来に対して、ただの力自慢が、何の役に立つのか」 モンゴル。 ある程度、ある程度は予想していたのだ。 ゲッシュを誓ったときに、覚悟はしていた。 なれど、その名は初めて聞いた。 この世界の騎馬民族国家の名が、一度は前世の文化圏全てすら覆いつくそうとした英傑。 「カリスマが必要だったんだよ。誰もが、この女ならば付いていっても良いと、従っても良いと、それで死んでしまってもよいと。そう認めてしまう英傑でなければ話にならぬのだ。お前ではない。私でもない。帝都さえも包囲し、私や皇帝の僭称者に勝ち得て、帝国中の誰もが知っている将軍たるレッケンベルのみが能力とカリスマを有していた」 チンギス・ハンが興した国と同じ名であるなどと、初めて聞いたのだ。 私は目を開き、もはや私に語り掛けているのか、それともままならぬ何かに叫んでいるのか。 それすら分からぬテメレール公の言葉を聞く。 「なんでお前らなんかが、あのレッケンベルを殺してしまったんだ。お前らの弱さが、中途半端な強さが、蛭のようにして、よってたかって彼女を殺してしまった。この帝国を救うはずだった彼女を、お前らが殺した!」 テメレール公が、ユエ殿の手を跳ね除けた。 兜が脱げたその美麗なる顔は、怒りでも悦びでもなく悲痛に歪んでいる。 何もかもがお仕舞いになってしまった。 「これはレッケンベルの物語だ。アイツが主役だったんだ! 私ですら脇役で、お前らなんかは、端役も端役。お呼びじゃなかったんだ! 何も知らない、何も理解しない、何もしようとしない、裏切りすらしたお前らどもとは違うんだ! 私はレッケンベルと一緒に何もかもをやろうとした。でも彼女は死んでしまった」 そのような表情で、頭からドス黒い血を垂れ流している。 ユエ殿が止めようと必死の表情で何か叫んでいるが、テメレール公にとっては視界にすら入っておらぬ。 「私なんか、私なんかでは、レッケンベルには及ばぬと理解している! でも、もうどこにもいないんだ。なら、私以外に誰がいるんだ。このシャルロット・ル・テメレール以外に誰がいるというんだ!」 テメレール公は立ち上がった。 頭から流れる黒い血が甲冑を汚し、それでもなお彼女は全てを気にしないでいる。 「私はレッケンベルになりたかった。でも、なれなかった。ならば、シャルロット・ル・テメレールとしてやるのみだと思った。そして、それにすら失敗した!!」 誰に言い聞かせているのか。 目はこのファウストを見つめているが、それすら定かならず。 もはや、自分に言い聞かせるような声で語っている。 「帝国中で力を合わせて打倒しようと思った。我が領地を守るため、帝国を救うため、私ができる何もかもをやろうとした。我が「狂える猪の騎士団」における「敗北者」から少ない情報を仕入れ、交易路を持つフェイロン王朝の残党を集め、異国の商人に金を掴ませ、モンゴルを編成する財務官僚にすら繋いで、多くの部下を潜ませて情報を手に入れたんだ。帝国に征西する軍団の規模も、軍の編成も、侵略ルートも、侵攻目標も、このテメレールは奴らの何もかもを掴んだんだ!!」 テメレール公の瞳の焦点はあっておらぬ。 こちらを見ているが、意識などどこか浮いており、それゆえに全てを告白しているような表情である。 ぞっとする声であった。 テメレール公は何を言っているんだ。 彼女は失敗したと先ほど言った。 モンゴルの征西における全ての情報を掴み、それを――。 「全部教えたのに! 私が知る情報の全てを教えたのに! 帝国を守護する為であるからと、あの二人には全ての情報を教えてやったのに!!」 テメレール公は、落ちていたレイピアを拾い上げており、 ゲテモノじみた長い刀身のそれで、石畳を叩き斬ろうとして――できなかった。 「皇帝も教皇も裏切りやがったんだ! もうモンゴルに勝てないと見込んで、帝国を見捨てる決断を下したんだ!!」 もう、彼女にそのような力は残されていない。 そして彼女が切り刻みたいのは、石畳などではなく。 「レッケンベルがいないから、もう勝てないって! テメレール公や、選帝侯たるアナスタシアやカタリナじゃモンゴルに勝てないって見切りをつけやがったんだ!!」 ままならぬ此の世の全てである。 私やアレクサンドラ殿、そしてユエ殿は、思考をまとめようとしている。 テメレール公が叫んでいることは。 「皇帝は裏切った。あのマキシーンの小娘は何もしようとしない。自分の一族の延命のみを考えている。自分の一族の血を。自分の愛する父母の血統を次代につなぐことが出来れば、神聖グステン帝国を生贄として、魔女の鍋にくべてしまっても良い。自分の血族さえ保護してもらえれば、帝国を売ってもよい。そう判断しているんだ」 帝国の至尊の座たる、最高位たる皇帝陛下と。 「教皇は地位を絶対保証しようとせず、王権神授説を否定する皇帝などいらぬと。マキシーンの小娘などいらぬと。負けが明らかなれば帝国の信徒さえ売り渡し、モンゴルのトクトア・カンに神聖グステン帝国の皇帝位すら明け渡して。宗教的権威の保護さえしてもらえればよいと判断したんだ」 聖職者の最高位たる、教皇猊下が裏切っているとの情報だった。 「そのような状況で、レッケンベルがいない今、誰が至尊の座にふさわしい。帝国中枢の情報すら掴めず、何も理解していない選帝侯どもか。違うね! 私しかもういないんだ。私はかつてケルン騎士の前で、彼女の前でゲッシュのような宣誓すらしたぞ。帝国を裏切らぬと、守るために全てを擲つと約束さえしたぞ!!」 アレクサンドラ殿と、ユエ殿がテメレール公を何かこの世における異物のように見ている。 私はというと。 手も震えず、足もすくまず、情報を手に入れて。 やっと、かつてアンハルトにて、リーゼンロッテ女王陛下の御前で。 ゲッシュを誓いし私だけが、テメレール公が何を言おうとしているのか理解できた。 「私は何もかも守らないといけない。配下を守ってやらないといけない。領民を守ってやらねばならない。国を守ってやらねばならない。この神聖グステン帝国に何人の人間が住んでいると思っているんだ。農奴がおる。神殺しの民がおる。放浪民がおる。それらすべてを、この地に住まう民と考えたなら、およそ数千万という人間がいるんだ。誰がそれを守ってやれるんだ。貴種として産まれたのだ。貴族として産まれたのだ。誇り高き騎士として生を受けたのだ。神聖グステン帝国の公爵として産まれたのだ。ならば、誰よりも強くなければならないのだ。あの愚か者どもを、くだらぬ民どもを守るものとして。誇るべき貴種として立っておらねばならない。この地にて、憎みあい、罵りあう、愚劣な、どうしようもない者達。私にまつろう民であろうと、まつろわぬ民であろうと、もはや関係ない。全責任が皇帝にはあるのだ。一度は皇帝位を目指した私の背には圧し掛かっている。お前らごとき餓鬼に、どうしようもなく何もわかっていない無能な餓鬼どもに頭を下げてなるものか。たとえこの首を千切り取られても、私は負けを認めない」 全ての主張を、テメレール公がその存在全てにおいて述べたかった事を告げて。 ほんの少し置いた後に、呼吸音がした。 私やサムライと同じ、ぞっとしたような音とともに大きく息を吸い込み、呼吸を整える。 息吹という、空手のそれとも少し違う特殊な呼吸法。 「諦めるものか! 『教皇』が裏切ろうと、『皇帝』が諦めようと、私だけは諦めないんだ!」 それをテメレール公は、私との戦闘経験において習得していた。 「このシャルロット・ル・テメレールがそう簡単に諦めると思ったら大間違いだ!! 私はお前よりも」 テメレール公は、もはや正気定からぬ表情ではなく。 「私はお前よりも、強い」 私の瞳をまっすぐに見つめていた。 「死んでしまったレッケンベルのためにも、レッケンベルに勝ったお前に勝たないといけないんだ。そうでなければならないんだ! 私は私の物語を全うするんだ! 最後まで――最後までやるんだ!!」 テメレール公の言葉は、自らを励ますようでいて、死すら覚悟した真なる決闘を前にして、何もかもを告白する痛悔者のようなものであった。 黒い血が流れている。 頭蓋が完全に割れている。 肉が潰れている。 甲冑の下、全身が内出血で膨れ上がっているだろう。 美麗なる顔の鼻の骨など、ありえぬ方向にへし曲がっている。 今すぐ五体を地に伏せば、きっとテメレール公は最上の幸せを味わえるであろう。 もはや死ぬことさえ幸せである痛苦を、先ほどまでの決闘にて与えている。 ハッキリ言ってしまおう。 どうあれど、もはやテメレール公が私に勝てる確率は皆無だ。 それは決闘相手たる私が、何よりも理解しているのだ。 なれど、テメレール公は指一本動く限り、負けを認めはしないだろう。 彼女はレッケンベル卿のため、彼女が誓った約束のため、全て担うこととした責任のため、最後まで抗うつもりなのだ。 私は確かにテメレール公の言葉全てを理解し、彼女の一言一言をかみ砕いていた。 同時に、彼女に同情するつもりは全くなかった。 戦闘中の騎士として心境は平然としており、何一つ動じることはなかった。 「すまない、テメレール公。貴女に対する今まで全ての誤解と侮辱は、このファウスト頭を床に擦り付け、血が滲んでも貴女が許すまで詫びることとする。それでも」 それでも、貴女に負けるつもりは欠片もない。 私は、貴女を、テメレール公が誤解している此の世全てを「わからせる」必要があるのだ。 私を止めようとするアレクサンドラ殿を、言葉ではなく腕にて弾き飛ばす。 「アレクサンドラ殿! どかれよ!!」 さて、説得の時間だ。 私はテメレール公に対し向き直り、グレートソードをぶん、と音を鳴らして片手にて振り下ろし。 地面に叩きつけて、それを手放した。 もはや武器は必要なかった。 論戦の時間である。 第144話 井の中の蛙大海を知らず 私は武器を手放して。 もはや気力だけで立っているテメレール公に歩み寄り、問いを放つ。 「テメレール公に問う。貴女が本当に望むのは、皇帝の座ではないと知った。それは手段でしかなく、帝国を救えるのであれば。手段は問わないのだと解する」 「私が皇帝の地位に就く以外、どのような手段がある。お前らの底は知れているんだ!」 確かに。 テメレール公が口にしているのは私たちへの偏見などではなく、テメレール公から見た真実であるのだ。 アナスタシア殿下、アスターテ公爵は戦略・戦術ともにレッケンベル卿に負けていたし。 このファウストには、人を殴りつける暴力以外の能力は持たない。 我が身は、転生者である。 なれど、間違いなくこの世に産まれ落ちた人間で、価値観さえも現世と前世が相混じっている。 そして頭はよろしくなく、前世の知識をこの世界において流用することなどできず、それによる何かを成し遂げるなどは何一つできなかった。 私の力は全て母が産み落としてくれた、私の肉体のみによるものである。 私がゲッシュを誓い、それをアンハルト王国の騎士たちが信じてくれたことは。 モンゴルという強力無比な国家の知識があったからではない。 アナスタシア殿下、アスターテ公爵、私がかつて成し遂げたレッケンベル卿との戦いという結果において恩義を感じてくれた騎士がいたから。 私一人ではここまで何もできていないことを、この小さな脳みそで理解している。 私は自分のみの力にて、ここまで辿り着いたわけではない。 なれば、テメレール公とて、誰かを頼るべきではないか。 「テメレール公。では、私たちは何一つ役に立たぬということか。全部自分でやるということか。選帝侯足り得るアナスタシア殿下や、カタリナ女王には何も任せぬということか。何もかも成し遂げたところで、孤独な皇帝としてただ一人何もかもを成し得るつもりだったのか」 「――私は理解しているだけだ。お前らはどうせ裏切ることを理解しているだけだ」 テメレール公が、悲痛に満ちた表情をしている。 「裏切るんだ。皇帝や教皇と同じように裏切る。だって、お前らは自分の領地を保全するためならば、何だってやるだろうが。領地のためにトクトア・カンの小便を飲めと言われれば喜んで飲みさえするだろう。『死よりも名を惜しめ』などという無謀が許されるのは、子孫の名誉がために他ならぬ。自分の一族が敗北必至なれば、自分の領地と民を失う選択肢を告げられれば、誰もがそうする」 お前とて、そうする。 寂しそうに吐き捨てるテメレール公。 「我らが裏切らず、貴女に協力するとすれば。裏切らぬようにゲッシュを誓えば如何するか」 「ポリドロ卿。私は先ほど言ったな。裏切ってはいけない立場の人間と、裏切っても許される立場の人間がいると。皇帝や教皇などは明確な前者で、お前などは明確な後者よ。領民300名の辺境領主騎士が、民や領地のために名誉をかなぐり捨てて誰が責めようか」 妙に優し気な声であった。 テメレール公は、それだけ言った後に膝を崩した。 ユエ殿が支えようとするが、彼女はそれを強く跳ね除けた。 あくまでも一人で立とうとしている。 「ポリドロ卿。お前はきっと、アナスタシア選帝侯やアスターテ公爵の事を強く信じているのであろう。お前の事を裏切らぬと。お前が命を投げ捨ててゲッシュを誓ったゆえに、それを信じてくれたがゆえに、裏切らぬと。そう信じたのだろう」 皇帝や教皇という立場の者が裏切ることなど有りえぬと信じてしまったように。 そのようなとんでもない間抜けがこのテメレールであると。 お前はそのようになるなと。 小さく彼女がそう呟いて、幼子を諭すように呟く。 「お前がどのようにして遊牧騎馬民族国家の侵攻を知ったかは知らぬが、その全容については知らんだろう。それはゲッシュの言葉から理解できる。お前はモンゴルが攻めてくるのは7年以内と言ったそうだな」 「仰る通りです」 「私の予想ではあと2年もない」 ――かつて前世で金王朝が屈服し、モンゴル帝国がドイツ・ポーランドを攻めるまで何年かかった? 私がそこから予想して導き出したのが7年であった。 だが、テメレール公の言葉からすれば、もう悲しいぐらいに時間がなかった。 「ポリドロ卿が言葉通り、7年だったらまた違ったのかもしれないな。あのマキシーンの小娘も、勝てる要素を見出したかもしれない。だが、もう時間は無いのだよ。もう2年もすればモンゴル軍158000騎が押し寄せるだろう。道草とばかりに東の大公国を滅ぼして、亡国の兵隊すら使い捨ての奴隷兵として加えて兵力を増して。やがてアンハルト・ヴィレンドルフ北方の大高原を補給拠点として、神聖グステン帝国の何もかもを掠奪する」 「テメレール公、私は」 「ポリドロ卿。ヴィレンドルフぐらいでしか好まれぬ醜き男騎士よ。もうよい。お前は何も知らなかったんだろう。私は一度言ったな。何も知らない、何も理解しない、何もしようとしない、裏切りすらしたお前らどもとレッケンベルは違うと。お前は、そのうちの『何も知らない』の枠に入るんだろう。中途半端にモンゴルの事を理解していたからこそに失敗してしまった。そのような存在なのだろう」 ゲッシュを誓ったと聞いている。 契約を遵守しなければ、あと7年以内に死ぬと聞いている。 私はレッケンベルを殺したお前について調べたのだから、全てを知っている。 そのようにテメレール公は述べた。 「逃げよ。22歳のお前が29歳まで生き残れるならばよかろう。子供を作る時間もある。『騎兵なれば30歳まで生き残れると思うな』なんて言葉もある。騎士なれば、長生きと言っても良いであろうさ。どこか遠くに領民を連れて逃げてしまえばよい」 私はお前の裏切りは許されると思っている。 テメレール公はそう告げ、少しだけ、急にきょとんとした幼子のような表情をした後に。 けらけらと、何かおかしくなってしまったように笑い出した。 「何を言っているんだろうな私は。いや、そうだ。私は何一つ間違ったことなど言ってはいない。私はお前に殺されても負けを認めないが、少なくとも一騎打ちにおいてお前は私なんぞやレッケンベルよりも強かったことを証明した。その褒美としてアドバイスぐらいはあってもよかろう」 全てを知れば。 私が知る情報の全てを知れば、お前が信じるアナスタシアとて裏切る。 「だから、もう逃げよ。この堡塁からすぐに出て領地に帰り、民を連れてモンゴルすら及ばぬところ逃げよ。そうだな。お前が打ち倒した『日陰者』の故郷たる島国まで逃げれば、さすがに襲ってこぬだろうさ」 テメレール公は、本心からの優しさでそう告げた。 それを理解している。 ああ、そうか。 私はようやく理解しつつある。 「テメレール公、本音が透けたな。結局のところ、貴女は皇帝になるなどと嘯いているが、その結末として自分の勝利が見えてなどいないのだろう」 「……」 「貴女は皇帝になりたいのだろう。嘘か真かは知らぬが、貴女から見て裏切者である皇帝陛下や教皇猊下にはもはや任せられぬのだろう。だが、じゃあ貴女が皇帝になれば勝てると考えているかといえば、そうではない」 もはや神聖グステン帝国最後の皇帝という名とともに、自分の首がウィンドボナ市街に晒されることすら覚悟している。 テメレール公は自分が皇帝ならばモンゴルに勝ち目があるとは考えていないのだろう。 彼女が皇帝になろうとしているのは、私の眼前にて一人立ち塞がっている通り。 結局はただの意地張りにすぎなかった。 「……やるまで勝負はわからんさ。どう考えても倒せぬレッケンベルとて、お前が倒した」 「テメレール公。もうよい。貴女は確かに我々より多くの事が見えているのだろう。私の事を何も知らない者だと言ったし、事実私は貴女が知る情報など何一つ知らなかった。ゆえに、私は貴女に全ての情報開示を望む。アナスタシア様やアスターテ公爵、カタリナ女王陛下にモンゴルの事、帝都における現状の全てを教えて頂きたい」 私が求めるのは、テメレール公が未だ隠している全ての情報をこちらに委ねて欲しい。 一騎打ちにて私が勝利したならばと約束をした一つの事だけである。 「信じられぬと言っている」 それにはテメレール公に一騎打ちで勝つ必要がある。 だが、テメレール公は殺されても敗北を認めぬだろう。 だから。 「貴女はレッケンベル、レッケンベルなどと口を開けば呟くが、実に愚かしい。それ以上の人物を知らないからそのような事を言えるのだ」 私は強い言葉を吐いた。 テメレール公に対する挑発である。 「何を言っている」 「確かにレッケンベル卿は強かった。彼女に比べれば、貴女の言うように私たちなどは脇役や端役なのだろう。私はテメレール公の言葉全てを否定せぬ。何一つ否定せぬ」 私はレッケンベル卿を侮辱するつもりなど欠片もない。 なれど。 私は心にもないことを呟くこととする。 「なれど勘違いするなテメレール公。貴女の増上慢ぶりに酷く吐き気を催すんだ。何もかも悟った気になっているようだが、貴女が此の世全てを知り尽くすことなど生涯かけても有りはしない。このファウストが、貴女の言う通りにアナスタシア様やアンハルト王国の他の同胞騎士を見捨てて逃げ出すなどと少しでも頭によぎった時点で底が知れている」 「――人の善意を」 「貴女のそれは善意ではない。死にかけの老いぼれが耄碌してほざいた生き残ること全てが美しいなどという言を真理や善意と呼ぶも同然だ。もう一度言う。何を悟った気で居やがるんだ」 私は誰も裏切らぬ。 そして、アナスタシア様やアスターテ公爵が私を裏切らぬことを知っている。 カタリナ女王陛下が私を裏切らぬことを知っている。 薔薇の花を捧げた際に、此の世全てたる母の愛に気づいて涙を流した彼女を見たことから。 ゲッシュを誓った私に、何の理屈も示せぬ私に同意してくれたことから。 それだけで、私が死ぬまで信頼を注ぐには十分に過ぎる! 「物知り顔で、それ以上に賢しらに振る舞うのはよせ。卑怯な振る舞いはよせ。レッケンベル卿にこれ以上縋るな。貴女がやることは、結局のところ一つだけでしかない。帝国を救うのだ。貴女の本来の目的に立ち戻れ。その方法は皇帝になることなどではなく、全ての情報を私と私が信じる全ての人に明かす事だけである。過去にいつまでも縋るな、この意地っ張りの老いぼれ風情が!」 テメレール公の頭から、液体が噴き出た。 激昂したのだ。 脳に血が巡り、髄液と黒い血が混ざりあって、彼女の顎先から垂れ落ちた。 「何の方策もなく、何の目算もできず、ただ若さに任せて駆け走るがばかりの愚か者になるぐらいであれば。意地っ張りの老いぼれ風情で構わぬわ!」 テメレール公が叫んだ。 結局のところ、私は愚かなのだろう。 私だけは、このファウスト・フォン・ポリドロだけは彼女の言う通りどうしようもない愚劣でしかなかった。 この帝都に来ることすら、私には何もすることができないからと拒むつもりであった。 彼女を老いぼれなどと呼ぶ権利がどこにあったものか。 なれど。 「勝利の見込みはある」 私の背中を押してくれた子供がいる。 貴方はゲッシュを誓い、自分の命をチップにしたのだから。 ありとあらゆる努力を実現に向けて果たさなければならぬと。 そのように告げたのは、未だ9歳児たる少女である。 「少し待て。貴女に見せたい物がある」 アレクサンドラ殿に頼み、甲冑を外そうと試みる。 兜を脱ぎ捨て、フリューテッドアーマーを外し、鎧下たるギャンベゾンの拘束を外して。 一冊の本を取り出す。 この本はこの世に二冊あり、一冊はアスターテ公爵の手中にて。 マルティナ自身が写本したもう一冊が、私の胸元にある。 「見ての通り、一つの本にすぎない。ある一人の少女が書いた本だ」 「その本がどうした」 「この本自体にも価値はある。なれど、私が言いたいのは一人の少女のことだ。マルティナ・フォン・ボーセルという9歳の少女の事だ」 テメレール公は、少しだけ悩んで。 さすがに、アンハルト王国内の小さな事件までは知らないようで。 「知らぬ。誰だ」 全てを知り得ると言った彼女ですら、知らないことがあることを軽く証明した。 彼女は知らぬ。 「レッケンベル卿を、このファウストをいつか超える存在だ」 「――何をバカげたことを」 「テメレール公。本が汚れては困るゆえに、まずは頭の血を拭かれよ。ユエ殿、絹糸と針の準備は良いな。傷を縫合せよ」 このファウストが、どうしようもない程にねじくれた価値観の元で救った少女を知らぬ。 彼女の優秀さを知らぬ。 この私が、剣技にて私を上回ると、レッケンベル卿すら超えた完璧なる超人に成り得ると見込んでいる幼い少女の事を知らぬ。 私が育てること自体が間違っており、もっと良い環境をと望んでしまうような。 眩い結晶の塊が存在を知らぬ。 「読めばわかるのだ。どう見ても9歳児の少女が書いたものではない。私など教養が無くて古語を知らぬから読むことすらできぬ本だ。なれど、その愚かな私とて、分かるぐらいの物なのだ」 読めもしない本を、無茶苦茶に褒めたたえる。 内容自体は理解しているので問題ないだろう。 子など持ったこともない私がこのような事を口にしたところで、笑われるかもしれないが。 私はこの本の共同著者たるマルティナに、もはや実の娘にも等しい感情を抱いている。 「その名も『銃・砲・騎士』という。内容も大切だが、私とてこれだけでモンゴルに勝てるなどとは思っていない。だが、それでも」 勝利の見込み、可能性、目算の欠片ぐらいは浮かぶだろう。 最低でも、貴女がやみくもに皇帝位を目指すなどよりは高いはずである。 そのように述べる。 テメレール公というと、気でも狂ったかという目で私を見ている。 無理もないが。 「貴女は何もかも知っているような顔をしているが、そうではないと分かっていただきたい。私やレッケンベルを超える超人が今にも目覚めようとしていることを知り、貴女は考えを改めなくてはならない」 テメレール公すらも、まだ知らないことが沢山残っていると思われた。 ケルン派が硝石を大量生産しており、多数の醸成場を抱え、彼女が想像している以上に火砲の開発状況は進んでいることを。 軍隊というものを即席で大量生産する術があることを。 神聖グステン帝国には、勝利の要素がまだ眠っている。 「まずは読まれよ」 テメレール公を翻意させることが肝要である。 これ以上喋ればボロが出るだろう。 だから、これ以上の事は口にしない。 何せ、私にはアナスタシア様やカタリナ女王陛下、テメレール公やマルティナのような智謀はない。 あの醜い男騎士、脳味噌さえ筋肉で出来ているだろうともっぱらの評判である。 モンゴルが2年以内に来ると理解できたならば、それに抗えるように、信じる者全てに危難を訴えるだけであった。 それだけ。 私ができることなどは、それだけである。 テメレール公とまっすぐに視線を合わせて。 やがて、彼女は何か諦めたようにして座り込み、ユエ殿から治療を受け始めた。 第145話 致命の一撃 私の名はユエである。 祖国たる、もう滅んでしまったフェイロン王朝では「月」を意味した言葉である。 家名は名乗らぬ。 それはすでに捨ててしまったものなのだ。 もし名乗るとすれば、それはトクトア・カンを。 私の一族を皆殺しにした、私の祖国を、故郷を滅ぼしたトクトア・カンを。 テメレール公が言うところの国号「モンゴル」なる国の皇帝を殺した時に、再び名乗ることが許されるのだろう。 そのような事を考えている。 私はというと、この夜半に、奇妙な沈黙に耐えかねているのだ。 夕陽はすでに落ちていた。 堡塁前に集まっていたランツクネヒトや帝都兵などは、すでに撤収してしまっている。 アレクサンドラ殿が、もう終わったと。 この勝負はもはやポリドロ卿の勝ちで終わったと周囲に告げてしまい、まあテメレール公さえも口では抵抗しつつも、負けたと言われたところでそれを咎めなかった。 ポリドロ卿に殺されかけたダメージから回復してきた「狂える猪の騎士団」などが集まってきて、周囲の兵士などを無理やりに収めて、解散を告げてしまった。 ポリドロ卿は異常である。 あのような騎士、巨大なるフェイロン王朝にすら存在しなかった。 一呼吸するだけで削れた体力を回復し、骨のヒビすら短時間で回復し、その技量はどのような達人相手であろうとも抗えるほどで、対抗している時間に相手の技を覚えてしまう。 一騎打ちなれば、何があろうと負けぬ。 もちろん彼に勝つ方法はあり、強力な騎士や武将の集団で取り囲み、呼吸を整えることが出来ぬほど矢継ぎ早に殴りつければ、勝つことは可能と思えた。 ポリドロ卿はそれを打開するための何らかの手立ても未だ隠しているだろうが、まあ死ぬときは死ぬであろう。 同時に、準備万端なれば何があっても一騎打ちにては死なぬだろう。 そういう感想を抱いている。 まあ、それはよい。 大事なのは、このユエにとって大事なのは、シャルロット・ル・テメレールと名乗る公爵である。 「なるほど」 一つの本を、「銃・砲・騎士」なる本を読みふけっている。 彼女こそが重要たり得た。 神聖グステン帝国の重要な起点として、私の目的に足り得るように思えたのだ。 カタリナ女王陛下は私を重要な客将として迎え入れてくれた。 肌の色さえ違う私を、強力な超人として、ヴィレンドルフの最英傑たるレッケンベル卿の代わりの将軍として迎え入れてくれたのだ。 そこに文句をつけるなど、恥を知るべきである。 なれど。 なれど、やはりテメレール公に比べればやや劣る気がしている。 「ポリドロ卿、尋ねたいことがある。いくつかだ。ほんの少しで済むだろう」 もしフェイロン王朝にテメレール公がおれば。 モンゴルに、トクトア・カンに追い詰められる前のフェイロン王朝なれば、勝てたかもしれない。 フェイロン王朝が、騎兵20万の軍を率いる遊牧民族の長に、トクトア・カンに勝てる要素たり得た。 あの遊牧騎馬民族国家の王は確かに強かったし、フェイロン王朝における全ての超人の能力を超えていたのだろう。 だが、それは理由になどならぬ。 負けたのは、トクトア・カンが強者だっただけではない。 フェイロン王朝がどうしようもない弱者であったからに過ぎない。 吐き気を催すほどに国の機能が死んでいたのだ。 国家の滅亡に至るまで、国家内部の権益争いを続けていたのが我々だ。 誰かが必死になって戦争のための物資をかき集めても、いつの間にか誰かがそれをくすねてしまう。 どこもかしこも準備不足のままの戦争を強いられる。 故郷のため必死になって兵士を集めても、それは野盗と変わらぬような顔ぶれで、酷い時など官軍であるからと味方の町や村を焼いては、掠奪を働いていた。 誰も真面目に戦わぬ。 フェイロン王朝が完全に滅ぶまで、その様子が続いた。 味方が懐を肥やすために自国を食い荒らす有様で、どうやって戦争に勝てようか。 「……象徴がいなかったんだ。私も故郷を守る一人の将軍に過ぎず、それだけだった」 酷いのは、戦争中に軍による政権奪取が起きて皇帝が殺されたことだった。 戦争に勝つ為にやったことではない。 担当地区における敗戦責任を問われたくなかった将軍が軍権を掌握し、皇帝を殺したのだ。 国を奪ったその将軍もまた、全く同じ理由で別な将軍に殺されてしまった。 ここまでくると、笑うしかない。 最初からどいつもこいつも、国のことなんぞは考えていなかった。 自分の責任なんぞ放棄して、咎められたらその相手を殺し、将来など何一つ見えておらず。 誰一人真面目にやろうとしなかった。 滅んで当然である。 グステン帝国の方がマシであった。 皇帝と教皇は裏切れど、まだテメレール公がいた。 危難を理解し、国の為と何もかもやろうと動いた人物がいた。 私は少しばかり、この偏屈で増上慢な超人に感激すらしていた。 人格面には何一つ褒めるところなどないのだけれど。 まあ、それはそれとして。 「力不足ですね」 虚しさも同時に感じている。 テメレール公は確かに一廉の人物であるが、明らかに力不足だ。 今の神聖グステン帝国に勝利をもたらすには足りなかった。 彼女自身すらそれを理解しており、表立って認めようとはしないが、せめて帝国における最後の皇帝として相応しい在り方を世に示そうと。 せめて最後まで抗うだけ抗おうと。 そのように動いていた。 実のところ、その程度しかできないだろう。 そして、それすらもファウスト・フォン・ポリドロという一人の暴力に打ち砕かれた。 「……さて」 このユエの目的は、トクトア・カンの殺害である。 私を逃した一族の復讐である。 家名を取り戻すための報復を果たさなくてはならない。 何一つブレの無い覚悟である。 そのためだけに生きており、その達成のためには目の前の事件の解決が必要である。 シャルロット・ル・テメレールという一人の武人を、自陣営に引き入れる必要があった。 私は。 「ポリドロ卿よ。貴方はどうされるか?」 彼には聞こえぬように、小さく呟いた。 私は、彼に密かな好意を寄せていた。 彼を見ていると「武?」という二つの言葉が浮かぶのだ。 ポリドロ卿は己の信条に則って、己のあり方を示そうとしている。 此の世全ての理不尽を武力にて踏み潰そうというのだ。 ポリドロ卿は男なれど、誠に以て武人として最も尊いものが何かを理解していた。 「惚れるわね」 じろ、と横にいるアレクサンドラ殿が私を睨んできた。 ふむ、聞こえてしまっただろうか。 フェイロン王朝でもポリドロ卿の姿は異形であり、男としての魅力には欠けているが。 じゃあ人として好まぬかというと、全くの正反対である。 あの男が「狂える猪の騎士団」の超人一人一人を打ち倒す度に、心のどこかが疼いていた。 「何か言われたか、ユエ殿」 「貴女が聞こえたとおりですよ。アレクサンドラ殿」 私は声は潜めれど、復讐を誓ったこの身が男に好意を告げるなど、武人らしくないと思うだけであって。 別に、私がポリドロ卿に好意を寄せていることが誰にバレようと構わなかった。 それはアレクサンドラ殿も理解しているようで、別に私が彼に惚れようが咎めるつもりもないのだ。 「私はポリドロ卿が渡した本に興味があります。内容は御存じないでしょうか?」 「知りませんね。マルティナ・フォン・ボーセルという少女については知っておりますが」 よく世間話などもするのですよ。 本当に賢い子で。 ああ、これは本当にポリドロ卿が床に頭を擦り付けてでも、助命する価値があったのだと理解してしまうほどに。 あのくらいの子供であれば、もう少し我が儘であってよいと思うくらいには、理知的で優しい子ですよ。 そのような、アレクサンドラ殿の優し気な声を聴く。 酷く興味が湧いている。 ポリドロ卿に頼めば、会って話ができるだろうか。 そのような事を考えている間にも。 「理解しつつある」 テメレール公が、私が絹糸と針で強引に縫い付け、髪の毛などナイフで短く切り取ってしまった頭で。 金のフレームで出来た、水晶の眼鏡を掛け、静かに本を読んでいる。 「ポリドロ卿。私はこの本の内容を理解しつつある」 視線を上げることもなく、テメレール公はずっと本を読み続けている。 狂える猪の騎士団6名が半死半生で縋りつくように周囲に集まり、蝋燭を保持した灯火具を用いて、テメレール公の手元を照らしていた。 夜の闇は、彼女の手元以外を隠している。 明かりはそれだけであった。 「この本にはいくつも目を見張ることがあり、この本を書いた人間にはいくつか聞きたいことがあり、逆に私が増補できることも多々ある。足りないことなど多いさ。まだ経験が少ないのだろうな」 テメレール公の声には、微かな興奮が感じられた。 私を倒したのだから、まだ負けを認めていないが、まあ一応は読んでやる。 ひねくれた子供のような態度で読み始めた時とは改まって、真剣な声色で。 「私は諸兵科連合を、自らの軍にて試みた。兵科相互に欠けている能力を補完し合うことで、戦場を操る術をこの手にする事が出来ると考えた。まあ、レッケンベルが用意した、命など投げ捨てて狂人のように突撃してくるランツクネヒトには負けてしまったのだが」 あの時は、自身の能力が足りないというより、結局はレッケンベルが強かったのだ。 そう結論付けてしまった。 だけど、と。 そうテメレール公は前置きして。 「私がこの本を、7年前に手にしていれば。少なくともあのように無様な負けを喫することはなかったであろうな」 少し、面白そうに呟いた。 テメレール公は笑っている。 「……兵科の能力を把握し、それを補填する考え自体は昔からあったのだが。そうか、この少女は砲兵こそ今後最も重要であると考えているのか。私もそれは変わらぬ。彼女が凄いのは、ではどのように運用するか、その訓練方法は何か。銃や砲を放つ作業自体を、武術の動作のように緻密に記載していることだ。もちろん、それは机上の論も多数目立つが、この少女であれば一つ教えてやりさえすれば、すぐ修正してしまうことだろう。私などあっさり超えて」 テメレール公の頬が紅潮していた。 灯火具に照らされて、闇の中で唯一それが良く見えた。 「そうか、そうか。私は何か勘違いをしていたのだな。お前が言うように、老いぼれであったのだ。レッケンベルや私など、一時代前の将軍に過ぎず。我らの考えすら追いつかぬほどの人物が、今も神聖グステン帝国には産まれているのだ。もしこの本のような軍事教練が実現可能なれば、まだ帝国にも勝ち目が残っているかもしれない」 大切そうに本を抱えていたが、やがて瞳が潤んで、テメレール公は本を閉じた。 本の頁を最後まで読み終わったのだ。 横を向いて、狂える猪の騎士団の一人に声をあげる。 「ケルン騎士。私はお前らの、ケルン派の秘密を知ったぞ。硝石の生成方法をお前らが知っていることを、おそらく醸成場があることを、私の想像以上に大量の火薬を抱えていることを」 「ええ、仰る通りです」 「私はそれを知らなかった。私は――ケルン派にとって信じるに値しない、全てを任せるには至らない存在だったのだな」 テメレール公は、寂しそうにつぶやいた。 ケルン騎士が答えた。 「少し違いますね。もしテメレール公が皇帝位簒奪に成功したのであれば、全てを教えるように指示されていたので。貴女しかいないのならば、自然貴女に全てを任せることになったでしょう」 「……そうか。見ての通りだ。私はただ醜く足掻いていただけで、何もかもに失敗した。お前らの見込みは間違っちゃいなかったよ。そうか。私が一人馬鹿みたいに暴れていただけだったのか。この分だと、ケルン枢機卿も教皇の裏切りには気づいているだろうな」 裏切り? とケルン騎士が呟いた。 教皇の裏切りまでは、さすがに知らないようであった。 だが、知っているのがテメレール公だけとは、もはや思えなかった。 おそらくは宗教派閥でも闘争が始まっている。 「……」 テメレール公は、閉じた本の題名を指で愛おしそうになぞった。 「銃・砲・騎士」と書かれているのみである、その騎士の部分を親指で覆い隠して。 「『願わくば今の神聖グステン帝国皇帝陛下が最後の騎士などと呼ばれぬことを祈ります』と。そう本には書かれていたな。そうだな、まさに私だよ。今気づかされたが、せめて皇帝に成りあがって、モンゴルに最後まで立ち向かって死ぬ最後の騎士としてあらんと私は考えていたんだろう。どうしようもない阿呆の老猪にすぎぬ」 よろよろとして立ち上がり、ポリドロ卿に本を渡そうとして手を伸ばす。 「本を返すとしよう。お前の言いたいことはよくわかった」 ポリドロ卿は黙って、それを受け取った。 もはや両者に殺意は無いように思えた。 「さて、そうだな。私の負けさ。それを完全に認めよう。私は何も知らないとお前を罵ったが、私の方こそお前らの何も知らなかった」 テメレール公は、今までの様子が嘘だったように負けを認めた。 「それで――どうするかな。お前の望み通りにするのはよいが」 何か、少し困ったように呟いて。 ふらり、とテメレール公の身体が揺れ動いた。 頭上の縫合傷から、また血が滲み出ていた。 「すまんが、生きてたらになるだろうな。死んだら、後は任せた」 テメレール公は全ての気力を使い果たして、前のめりに倒れた。 慌てて私は駆け寄り、なんとか彼女を抱きとめる。 その体は血が流れ過ぎており、驚くほどに冷たかった。 第146話 ぶっ生き返す! きっと、この身は死んでしまうものだろうと思えた。 自分を支え続けていた信念が、完全に折れた音を聞いたのだ。 ならば、私は死んでしまうのだろう。 困ったな。 私は見事に何もかもをポリドロ卿に撃ち破られた。 剣で私を打ち倒し、論にて上回った。 私の懸念を、懊悩を、発狂すらも遠ざけてしまった。 ならば、私は彼と約束をした通りに、この後は全て彼の言う通りに動く必要があった。 私は騎士同士の約束を破るなどせぬ。 犬馬の労を厭わず、この猪が犬畜生のようにして働いてあげてもよかった。 なれど。 私はもう、どこかこれで良いと思ってしまっている。 「テメレール公、死なれては困ります!」 ヴィレンドルフの客将、フェイロン王朝出自のユエとやらが叫んでいる。 これも一つの結末なのだろう。 私はそれを受け入れつつあるのだ。 もうよい。 血が流れすぎてしまったのだ。 これではさすがに助からぬと、自分でもよく分かっている。 「さらばだ。この気狂い猪はこれで終わりよ」 私にはもう心残りなど無い。 ちゃんとモンゴルの資料は残しているし、このファウスト・フォン・ポリドロという男なれば、何もかも良いようにしてしまえる。 そう思えるのだ。 私は、そうして意識を失った。 微かに私の愛する配下どもが、「狂える猪の騎士団」の悲鳴だけが耳に残っている。 そこまでは覚えているのだ。 そして、そこからがさっぱりわからぬ。 私は死んでしまったと思うのだ。 それだけは間違いないのだが。 「――ここは何処だ」 私はと言えば、自室の寝台で毛布に包まれて眠っていた。 あの堡塁にある粗雑な兵士用の簡易寝台ではない。 私が帝都にて所有している館、ランツクネヒトに取り込まれたことで放棄したはずの我が寝室である。 流石に調度品などは何もかも奪いつくされてしまっており、毛布ですらも元々私が所有しているものではなかった。 ただ一つ、異物がある。 「お前は誰だ」 毛布に、一人の少女が潜り込んでいる。 温かい。 血が足りず、すっかり冷たくなってしまっていた私の身体を、少女の体温が温めてくれていた。 要するに、これは低体温症状への治療行為であると思えた。 なるほど、この10歳にもならぬだろう少女が私の横にて眠っていることは理解した。 私は別に同性愛者ではない。 とはいえ、繁殖のための存在でしかない男など大嫌い――一人だけ例外のような存在を見つけてしまったが。 ともあれ、淫売夫などが忍び込んでいるよりは少女の方がマシであった。 さて。 自分の手のひらを眺め、ぐっぐっ、と握りこぶしを作る。 「……生き残ってしまったか」 まあ、これでポリドロ卿との約束を守れるのだから悪くはない。 契約を全うできること考えれば、むしろ喜ぶべきである。 私は私の生存などよりも、その点の方がよほど気がかりであった。 「よいだろう」 私は握りこぶしを解いて、静かに応諾を為した。 同時に、ドアからノックの音がした。 「入ってよい」 私は応答する。 死にかけの私を気遣うようにして、一人の男が現れた。 もちろん、私の部屋を訪れる男など一人しかおらぬ。 「失礼します」 ファウスト・フォン・ポリドロ卿である。 世間では醜いとしか扱われぬ筋骨隆々の姿にて現れ、私の様子を見てほっと息をついた。 「お目覚めでしたか」 「何故私は生きている?」 まずは問う。 結果は良いが、過程がわからぬ。 ポリドロ卿に尋ねて、彼が答えた。 「輸血というものをご存じでしょうか?」 「ケルン騎士より聞いたことがあるな」 はて、聞いたことはある。 医学において一部の修道院や大学が、社会全体における医学の発達を促進している。 瀉血療法などはとうに廃れており、輸血の概念自身は聞いたことがあった。 ケルン派などは忌々しいことだが、戦場音楽奏でる場所に赴くことが多い狂人集団である。 医療などでも秀でているのだ。 だが、輸血自体はあまり上手くいくという話を聞いたことがない。 輸血には副作用がある。 所詮は他人の血液というのが問題であり、血液を保存する方法など無いから、誰か他者を別な寝台に並べて輸血せねばならぬ。 何かの流行り病、体質が合わず衝撃により死ぬ、血液が上手く練り合わずに血が固まってくたばる。 未だ優れた治療方法とは呼べまい。 「どう考えても輸血せねば死ぬという状況下がケルン派信徒において多数あり、どうせ死ぬならやってみようという多くの犠牲を元にして、血液型――互いの血を混ぜ込み、血が固まらぬ組み合わせを見つけ出したのだとか」 「……ケルン派は頭がおかしい」 ケルン派がどのような犠牲者――それも自らの信徒、多くは傭兵か、あるいは従軍司祭などを生贄に捧げてその方法を見つけ出したのかは知らぬ。 知らぬが、私を生き返らせたのはケルン派の知識であるようだ。 アイツらにだけは助けられたくなかったが、現実は違った。 悲しい現実が私を襲っているのだ。 「変な血を混ぜたのではなかろうな――いや、あまりにも失礼な事を言った。謝罪する」 あの状況では、血を分けてくれるものから、その血をもらうための道具すらなかったであろう。 なれば、互いの静脈と静脈たる血管を直接つないで行わねばならぬ。 自分の腕をナイフで切り裂き、血管を引きずり出して血を受け渡してくれたのだ。 誰がそこまでしてくれたというのか。 私の部下ならば当然のようにやってくれたのは分かっているが、そこまでしてくれた者がいるのだ。 「私に血を分け与えてくれた。その勇気ある者には、勇気に対する褒美を渡さねばならぬ。名を教えてくれ。兵士ならば騎士としての身分を。騎士ならば領地を与えよう」 「元はと言えば、私がやったこと。褒美はお受けできませぬ。謝礼を頂けるのであれば、治療を手助けしてくれたケルン騎士殿に」 ポリドロ卿が、あっさりと言い放った。 そうか、お前か。 私の全身に流れる生命力ある血は、お前の物か。 「ふふ」 私は少し笑った。 なるほど、なるほど。 これが私を打ち破った男か。 「勝てぬな」 この全身を巡る血を受け入れて、理解する。 このような熱き血の持ち主に、私のような老いぼれが勝てるわけもなかったか。 「……褒美をやるなど、大上段から失礼な事を言った。お前の言うようにしよう」 全身にほのかな熱が灯った。 顔は紅潮し、どうか、どうしてだか。 私はポリドロ卿の少し困って、それでも微笑んだ顔を真っ直ぐに見つめられないでいる。 理由は知らぬが、私は私を恥じている。 「ポリドロ卿、私を見るな。私の今の姿は余りにも惨めよ。髪が整っておらぬ」 病床の身だからではなく、ポリドロ卿に頭蓋を砕かれた故に。 ユエが治療行為として縫合するために、私の髪などナイフで切り刻んでしまったのだ。 私の美しい髪は短く刈り込まれている。 「それに、鼻だって潰れている」 ポリドロ卿との剣戟において、兜越しに鼻の軟骨をグシャグシャに潰されてしまった。 曲がった形こそ医者が整えてくれたかもしれぬが、ペチャンコになっているのは間違いない。 自慢げにピンと立っていた鼻は、完全に潰されてしまった。 「体も膨れている」 私が眠って起きるまでに、どれだけの時間が経ったのかは知らぬ。 だが、私の身体は未だ回復に至らぬ。 内出血で身体のラインは崩れ、そこかしこに紫色の痣とふくれが目立っている。 「だから、その、私を見るな」 私は今の姿を、何故か眼前の男に見られたくなかった。 理由など分からぬが、そうされたくはなかった。 そうして、そのような事を恥じたところでだ。 「私が全てやった事であり、私がそれを醜いと思うなど、天が切り裂け海が砕けようとありません。今のテメレール公を侮辱するような者が居れば、すぐにでも殺してまいります」 多分、このファウスト・フォン・ポリドロという男は本当に心底気にしないのだろう。 私はそれを知ってしまった。 「……あの増上慢な貴女も正直、それほど嫌いではないのですが。今の素直な貴女は、初めて夜会であった時などより余程に美しい」 私は男が嫌いだ。 だって、アイツら何のために生きているのかわからぬ。 何か喋るとしてもボソボソとしており、奥に引きこもって調度品のように扱われる者か。 あの忠義者の夫のように、庇護される立場として蝶よ花よと育てられ、何か完全に勘違いをした吐き気を催す愚か者ぐらいしか見たことがなかった。 私はそんなものとは違う、一人の男を産まれて初めて知ってしまった。 世間では酷く醜いと扱われる男が、どうしてこうして、ふと見れば良い面をしていると理解してしまった。 「美しいなどと言うな」 お前に褒められると、ようやく蘇生したばかりだというのに、何かもう心臓が破裂して死んでしまいそうになるのだ。 私はそこらの何も分からぬ阿呆どもとは違う。 自分に起きている現象が何かを理解している。 この男は自分を思う存分叩きのめした。 暴力だけでなく、論弁にて私を打ちのめした。 それどころか、自分の血さえも私に分け与えた。 「……」 嗚呼、駄目だ。 顔の紅潮が止まらぬ。 そうだ、私は理解したぞ。 あの死肉喰らいの薄汚い爬虫類じみた目つきのアナスタシア選帝侯が、レッケンベルの愛情を死んだ後にやっと理解するような乳母日傘育ちのカタリナ選帝侯が。 どうしてこの眼前の男に惚れたのかを、今この場で理解できたんだ! 嗚呼、そうか、人はこのように恋をするのか。 私は今まで、貴族としての義務たる自分の子供すらいらぬ、そう思うて生きてきたが。 今では過去の自分が何を考えて生きてきたのかすら分からぬ。 「そうか、レッケンベルは本当にお前に惚れていたんだな」 あの悪魔が何を考えていたのかわからぬが。 男を見る目は間違いなく確かだった。 「――さて」 さて、と呟いて。 どうにかしようと考えたが、どうにもならぬなとも考える。 だって、この28歳の老いぼれ女猪の求愛などを、22歳のポリドロ卿が好むとは思えぬ。 第一、私はポリドロ卿を散々に侮辱してしまったし、ここでお前に惚れてしまったなどと言う権利などはどこにもなかった。 私は恋を自覚したが、そのような事を口に出す意味はない。 ポリドロ卿の貞操を買えるならば、大領地一つ容易く買えるぐらいの金ぐらいは払っても良かったが。 それで彼が話を受けてくれるとは、とても思えぬ。 私の産まれて初めての恋は、始まる前から敗れてしまっていた。 断られて傷つくくらいなら、口に出さぬ方が良い。 私は静かに自分の初恋を諦めた。 話をすり替えてしまうことを試みる。 「一つ尋ねたいことがある」 「何でもお答えしましょう」 私の心中など何一つ理解していないだろう武骨なるポリドロ卿に対して。 さっきから気にしていたことを口にした。 「この少女は誰だ?」 血を失い、身体を冷やした私の身体を暖めてくれた少女のこと。 「誰の子どもかは知らぬが、この少女と、その親にも礼を言わねばならぬのでな」 「親はもう、此の世にいませぬ。あえて言うならば、私の子供とでも申しましょうか」 ポリドロ卿が、全ての慈愛を込めた瞳にて少女を見つめている。 私はあのような目で父親から見られたことなどなかった。 少し、私は自分の過去について理解しつつあるが、多分男嫌いなのは父親が塵芥のような存在であったからだろうな。 恋叶わぬこの身にはもはやどうでもよいことだが。 「――お前の子供?」 ポリドロ卿が、ファウストが呟くその言葉は酷く気にかかった。 どういう意味であろうか。 「私がアンハルトにて引き受けた従者にして、騎士見習いにして、私が貴方に教えた本の著者。マルティナ・フォン・ボーセルです。私にとってはもはや娘のような存在です」 意味はわからぬ。 なれど、ポリドロ卿は本当に優し気な声で呟いた。 そうか。 なるほど、これがレッケンベルさえも超える才能の持ち主か。 私にとって。 私にとっては、何かこれはもはや、天命のようにすら思えた。 子などいらぬ男嫌いとして今まで生きてきて、どこか親戚の子をもらってきて後を継がせれば良いと考えていた今までの私が。 28歳にして初めて恋に溺れかけ、その恋が叶わぬことを挑む前から知っており、その男が自分の娘と呼ぶ者が私の傍で寝こけている。 同時にそれは私の眼を開いた存在であり、この神聖グステン帝国の未来を変えるかもしれぬ才能の持ち主なのだ。 そうか。 多分、これはきっと一つの運命なのだろうな。 自然とそう思えた。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿。話がある。このような事を突然に言われて困るかもしれぬし、貴方がこの子の父親だというのであれば、拒むかもしれぬ。この少女の事はろくに知らぬが、私はこの少女が書いた本の価値を理解している」 私は今考えていることを口に出す。 「だから、どうか、お尋ねしたいことがある。もしも、この少女の未来がまだ確定していないのであれば。騎士見習いとして未来がまだ定からぬ立場であるならば、一つの選択肢を提示したいのだ」 私が今考えたばかりの、何を言い出すんだと言われそうな。 それでいて――運命を感じた男と少女に対するお願い。 「この娘を、私の跡継ぎに。お前が父親のようなものであれば、私が母親という立場に。このシャルロット・ル・テメレールが支配する領地の後継者に推薦するつもりはないだろうか。この老猪、伏して希い奉る」 私は未だ目覚めることの無い、多くの才能を秘めた少女に対して。 多分、男女の交わりなどする事は生涯無いであろう惚れてしまった男に対して。 ありとあらゆる願望を込めて、そのように呟いた。 第147話 あとしまつ 「ファウストは完璧に仕事を果たした」 アスターテは、静かに呟いた。 決して大仰な表現ではなく、確かに仕事を達成したのだ。 テメレール公を心身ともに打ちのめした上に、彼女が隠している全ての情報を明かした。 目的は全て果たされたのだ。 これで仕事をしていないなどと誰が言えようか。 「テメレール公はもはや敵対者ではない。私たちの言うことに――いや、厳密には『ポリドロ卿が言うのであれば仕方ない』という形を彼女は踏まえるだろうが。当初の目的通り、私たちはテメレール公を屈服せしめた。完全な勝利だと言えるだろう」 分析するかのような、我が従姉妹の言葉を聞く。 全て事実である。 何一つ間違っておらぬ。 なれど。 「ただ一つ、問題が。それは、私たちがテメレール公をくだらぬ老猪と侮っていたことだろうか? 彼女の信念を見間違えていたことだろうか?」 未だ寝台に伏せており、この場にはいないテメレール公。 彼女が明かした全ての事。 ついに明らかになった遊牧騎馬民族国家の国号たる「モンゴル」について。 「もちろん違う。彼女がただの盲猪でないというのならば、それはそれで良い。今後は強力な支援者となってくれるだろう」 テメレール公はよくもまあ、というほどに情報を手に入れていた。 モンゴルが実務官僚に異邦人を大量に抱えざるを得ない現状を上手く利用し、内部に多数の部下を潜ませている。 帝国に征西する軍団の規模も、軍の編成も、侵略ルートも、侵攻目標も、何もかもを掴んでいた。 あの猪はそういった手練手管に異様に長けている。 大規模な遠征や、神聖グステン帝国領邦内以外との戦役経験があるのだ。 これは喜ばしいことで。 「では、問題とは何か? 全員が理解はしているよな?」 アスターテが周囲を見回して呟く。 私の長椅子の前、その机の向かい側に座るヴィレンドルフ選帝侯カタリナ。 彼女が、朴訥じみた表情で答えた。 「テメレール公とレッケンベルが友誼的な文通相手であったなどと知らず、私があの猪公を殺そうと目論んだことか? あれは拙かったであろう。ヴァルハラのレッケンベルが頭を抱えていそうだ」 別にそんなことどうでもよいだろう。 私はカタリナの言を否定する。 「何も弁解しなかったテメレール公側に原因があるのでは?」 「人の心がわからぬ私とて、そうとは思えぬのだが……。よく考えれば、テメレール公が私に対して敵対的姿勢であったのは、レッケンベルの愛情を死ぬまで理解できず、何も知らずにいた私への敵意からであって。私がもう少ししっかりしておれば。人の心を理解できていれば」 カタリナは理屈で考えるのが悪いのだ。 基本的には相手が悪いと考えれば良いのだ。 自分は此の世全てにおいて完全な正義であり、それを邪魔する者は悪ととらえる。 私は相手の物を掠奪してよいが、相手がこちらの物を盗んだなら泥棒であり殺して何もかも奪ってよい。 そのような心持ちで生きていれば、もう何もかも相手が悪いと断言することができる。 それくらい自由に考えるべきである。 私はそうカタリナに諭す。 カタリナは訝し気に答えた。 「お前はお前以外の、他人の気持ちとか考えた事があるのか?」 誰もが自分の役割を果たすために一生懸命に生きていると考えれば、そのような事は口にできないはずだ。 感情があまり理解できない冷血女王カタリナはそのような事を口走る。 みんな一生懸命生きているんだぞ、と命の尊さを訴えてくるのだ。 大丈夫かコイツ。 なんかレッケンベルが絡むと、前後の判断が覚束なくなるようだが。 「自分の母たるリーゼンロッテすら、私にとっては私と妹たるヴァリエールを産み終えるという役目を終えた老婆にすぎず、それはもはや他人よ」 ファウストの子が産みたいと。 あの32歳の母が馬糞ほどの価値もない戯言をほざいたときに、私はそう決めたのだ。 これは当然の帰結と言えた。 「え、いや、母親は大事にすべきであると」 カタリナは訝し気に呟くが。 カタリナも母親とはレッケンベルの事で、本当の自分の母親などどうでも良いと考えているだろう。 自己矛盾に気付いてないだけで、そもそも彼女はヴィレンドルフの継承権争奪において実姉も実父もその手で殺している。 産みの母の名すら覚えていない毒親持ちのお前が何をほざこうというのか。 自己矛盾は感じないのだろうか? 感じないのだろうなあ。 所詮我らは腐れ外道なのだ。 このアナスタシアとカタリナの差はそれを理解しているかしていないかの差に過ぎぬ。 そう把握できたが、まあ突っ込まない。 代わりの言葉を叫ぶ。 「人は生まれた時から一個の人間たる資格があるのだ。お前はそれを分かっておらぬ」 独立独歩の人間であるのだ。 だから、私はあの『お前の惚れた男の子が産みたい。次女の婚約者であるファウストとの子が産みたい』などと戯言をほざく母の事は認めぬし。 なんなら、殺す権利すらあるのだと。 母殺しの権利すら産まれもって所持しているのだと。 私はそう考えている。 そして、宣言した。 「私は私の母親を詐称し、あのリーゼンロッテ女王とか名乗りながら玉座でふんぞり返っている32歳のババアを殺してやりたい」 今の現状を考えれば、そんなことをしている余裕は全くないのだけれど。 カタリナは信じられない目をして――だが、少し諦めた顔で答えた。 「いや、まあ、うん。そうしたいなら好きにすればよいが……」 隣国にして仮想敵国たるヴィレンドルフ選帝侯カタリナにとっては、極論どうでもよい話ではあった。 大丈夫だ、私はあと4年もすれば、20歳になりさえすればだ。 あの婆の能力を超えていると思うのだ。 上手く国を回せるので何も問題ないと続けて言おうとして、困ったようにしてアスターテが話を遮った。 「話がずれている」 確かに話はずれており、馬車は横転していた。 アスターテが大柄な体でぱん、と手を合わせて、室内に響く音により焦点を戻す。 「困るのは、カタリナ女王が懸念するようにテメレール公をぶち殺しかけた事ではないし、叔父ロベルトが亡くなってから寝台を寂しくしている叔母上の事でもない。というか、叔母上がこっそり子供産むくらいは認めてやれ」 アスターテはどうしようもない変態だから、母がファウストの子を産んでも良いなどと考えるのだ。 彼女は指を、二つだけ立てる。 その二本指の意図は理解している。 「テメレール公の予想では、モンゴル侵攻まであと二年しかない。あまりにも時間がなさすぎるだろうに」 話の焦点を合わせる。 私は人差し指を眉間に当て、少し力を込めた後に。 小さく呟いた。 「もっと他にも問題は――ないか」 「ないな」 カタリナが合わせてくれる。 他に問題はあるが、それは短期的な問題であり、モンゴルが二年で来るほどの大きな話ではない。 「教皇が裏切った? 殺せばよい」 「皇帝が裏切った? 殺せばよい」 二人合わせて呟く。 それだけだ。 邪魔をするならば、我々を売りとばしてまで権力を保全しようと考えるならば、そいつを殺して地位も名誉も権力も財産も土地も何もかも奪ってしまえばよかろうなのだ。 騎士としてあるならば当然の事。 自己救済の権利――暴力を行使する。 「そうだ、何の問題もない。短期的に最初にすべき行動としては、テメレール公の情報が真実本当であるか精査の必要がある。彼女が抱える神聖グステン帝国の内実の情報も、モンゴルの情報も」 本当に教皇は裏切ったか? 本当に皇帝は裏切ったか? テメレール公の予想と情報は何もかも正しいのか? 「テメレール公は嘘を吐いたと? 私はテメレール公の証言を信じているが」 「私も信じているよ、カタリナ女王」 もう一度、アスターテが両手を強烈に叩いた。 その反動で大仰に手を開きながら、犬歯を覗かせて口を回す。 「だが、彼女が信じていても、それが真実とは限らぬではないか。私たちがテメレール公とレッケンベル卿が友誼を結んでいたなどと知らなかったように。それに、皇帝や教皇を殺すとなれば簡単ではない。いや、殺すだけなら簡単だが」 「後始末に困るな」 殺すのは良いのだ。 だが、殺せば皇帝領や司教領といったものの奪い合いや、帝国の混乱は避けられぬ。 殺すこと自体に問題は無いと口にしてしまえるが、どうしても後始末は必要であった。 「殺す理由が必要だ。殺す権利を持った人間が必要だ」 自己救済がための暴力を行使するならば、最低限の面子は整える必要がある。 面子――体面という意味で、そして人手という意味で。 少し考え、口に出す。 「まあ、裏切ってないことを祈りつつも、手配は必要となるだろうな。ヴェスパーマン家を使うか」 アンハルト王国の諜報統括たる名を口にする。 今は帝都の情報収集を行わせているが、テメレール公からの情報を照査させるべきである。 それと――可能ならば密殺する方法も。 「ザビーネを使え」 そう口を開いたのは、アスターテではなくカタリナであった。 何故、彼女がウチの妹の親衛隊長の名なんか出すんだ。 「なんでザビーネ?」 「アイツもファウストの妻となるならばキチンと働いておくべきだ」 しれっと呟く。 あの気狂いがファウストに懸想していることは知っているが、それは置いといて。 「嘘を吐くな」 カタリナが彼女の名を口に出したのは、そういう理由ではないことはわかっている。 顎で促して、訂正させる。 「じゃあハッキリ言おうか。敵国として言ってやる。貴様の所のヴェスパーマン家は役に立つとは思えん。あの紋章官家、結局我がヴィレンドルフの諜報を一度も破れなかったではないか。そして、私はあの気狂いザビーネの方がそう言ったことに『強烈に向いている』と考える」 「――そう」 何か言おうとして、止めた。 カタリナが、そういう評価を下した理由は全て正当である。 私とて、ヴェスパーマン家自体は情報網だけでしか評価しておらず、今の家長たるマリーナも私と合わせて成長していけば良いと考えただけで。 マリーナは別に働かせてやるとして、ヴェスパーマン家自体は別に潰してよいとも考える。 「使うならザビーネを使え。お前の妹が抱えている銃兵隊ごと、今すぐ帝都に呼び寄せろ。諜報も、教皇や皇帝を殺すのもだ。ヴィレンドルフとて協力はするつもりだが、私はあのザビーネという女を見込んでいる。お前が使っているヴェスパーマン家よりもな」 確かに、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンは能力だけ見れば申し分がない。 諜報員としての教育を受けており、人殺しとしては十分である。 だが気が触れている。 同時に、気が触れているのだから、そこらの教会に忍び込んでカモを盗んで奪い取ってくるぐらいの感覚で。 教皇だろうが皇帝だろうが、あっさり殺すだろう。 公に殺すならばファウストを突撃させれば、それで済む話となるが。 密殺するのであれば、ザビーネが都合よい。 「……そうね」 さて、問題はヴァリエールである。 どうも、最近は母もどきのリーゼンロッテ女王などは「今日はお空が綺麗だったから」という理由で殺してしまいたくなってしまうのと裏腹に。 無性に妹として甘やかしたくなってしまう時がある。 私も気弱になったのだろうか。 「カタリナの言う通りにしてもよい。けれど、使い潰しはしない」 ヴァリエールの大事な部下を、一方通行の銃弾にしてしまうのは拙かった。 ザビーネを使うのは良いが、それなりの待遇が必要である。 それと―― 「そして、ヴェスパーマン家にも最後のチャンスを与えるわ。どうせなら使い潰す」 「ザビーネさえ使えれば、私は文句などない」 カタリナは冷血女王の表情ままにして、何一つ微笑まずに頷く。 「……選帝侯同士の話がまとまったところで、じゃあ長期的な話をしようか」 それとは対照的に。 アスターテが少しだけ微笑んだ後に、私たちの前のテーブルに資料を広げた。 さて、長期的な話をしよう。 モンゴルの侵攻をどう排撃するのか。 ファウストが仕事を成し遂げたのだから、後は我々の仕事であった。 第148話 序章閉幕 基本的に、テメレール公が起こした事件は落着したのであろうと考える。 基本的にはだ。 問題は、むしろこれからであろうな。 そう人心地をつく。 「ポリドロ卿。油断をするな。何もかもこれから始まるのだと思え」 そうテメレール公に、念押しされているのだ。 「お前は私を倒した。そして、それだけだ。この神聖グステン帝国における問題は何一つ解決しておらぬ。私はお前を信頼した。マルティナに一つの輝きを見た。なれど、お前がレッケンベルのカリスマに至らぬ存在であり、今は罪人の娘に過ぎぬマルティナに発言権が無いこと。これに何ら変わりはないのだ」 苦言である。 このような事を私が言える立場ではないのかもしれないが。 そう前置きをして、テメレール公は言い募るのだ。 「単純化せねばならぬ。たとえどれだけの役割を砲兵が見せようとも、銃が一定の発展を見せようとも。マスケット銃を渡されただけの農奴兵が、モンゴルにおいて人馬一体となるべく訓練された優秀なる弓騎兵に勝つなど、此の世に決して有り得ぬのだ。世の理を理解せよ」 思えば、酷く魅力的な風貌をしている。 今は私が割った頭を縫うために短髪となり、鼻の骨がへし折れて、ぺっちゃりとなり。 それでいて美麗なる風貌に、水晶の伊達眼鏡に知性ある輝きを爛爛としているテメレール公には酷く男として惹きつけられるのだが。 まあ、彼女を半殺しどころか出血死する寸前まで追い込んだ私が、好意など口にしていい立場ではない。 「お前は先頃、アンハルト王国にてゲッシュを誓った。再度同じことをせよとは求めておらぬ。軍権の統一など、そもそも本来は選帝侯や皇帝が為すべき仕事である。お前がやるべきことは、マルティナが導き出した『銃・砲・騎士』の内容を神聖グステン帝国の組織に行き渡らせることにある。わかるな」 私がすべきことは、テメレール公が必死に嘆願することである。 今の彼女は、あの発狂状態から解き放たれ。 私――このファウストよりも、私が騎士として誓いを立てるアナスタシア様、そしてヴィレンドルフ選帝侯カタリナ以上に。 明確に未来が見えているように思えた。 「アナスタシアは若い。能力自体は申し分ないが、どうにも経験不足だ。何もかもを任せるには足らぬ。蛮勇を嫌い、何であれ一度留保してから片付ける癖がついている。数年後はともかく、彼女の母たるリーゼンロッテ選帝侯にさえ今は劣るだろう。カタリナは一言で評すれば――レッケンベルの乳母日傘で育った餓鬼だな。これは侮蔑と同時に誉め言葉である。レッケンベルが忠誠を果たした、それだけの価値はあるのだろう。なれど、どうも見当違いの方向に突っ走ることがある。同時に、思い切りが良いともいえるが。嗚呼、案外組んでみれば良いコンビなのかもしれぬ」 結局、足りないのだ。 我々は、アナスタシア様は、カタリナは、不足しているように思える。 ならば、補う必要があった。 「まあ、無様な暴走をしていた私などが言えた台詞ではないのだが」 私はその充填剤が、テメレール公の発言にあると考えていた。 だから、黙って彼女の言葉を聞くのだ。 「ファウスト・フォン・ポリドロ。問うぞ。お前はこれから何をする」 テメレール公の問い。 私は静かに決意を答えた。 「私はアンハルト王家に忠誠を誓う領主騎士であり、粉骨砕身を以て、何もかもに応えるのみであります」 何一つ嘘ではない。 アナスタシア様に誓ったこの決意は、何一つ嘘ではない。 なれど。 「それだけで良いとはお前も思っていないだろう」 テメレール公が物憂げに切り捨てた。 ――そうだ。 もはや、それだけで片付く状況ではない。 「ファウスト。お前はもはや単なる辺境の、領民300名の領主騎士であるなどと言い訳をして行動することは許されぬ。お前は頑迷なる私の頭を叩き割った。肉体も心も打ち砕いた。お前は、行動で全てを示した。だが、お前の仕事はまだ終わっておらぬ」 テメレール公が、一冊の本を返した。 装丁もままならぬ写本であり、『銃・砲・騎士』と題名が殴り書きされている。 「お前はマルティナならば、彼女の理論が、レッケンベル以上の存在であると。これだけでモンゴルに勝てるとは思えないが、私の計画よりは可能性があると言い放ったのだ。私に一つの輝きを見せつけたのだ。ならば、それを実現させねばならぬ。私は協力する。全てを果たそうではないか。だが、お前が自ら動かぬのならば話にならぬだろう」 マルティナと一緒に作った大事な本。 私が死んでも、ずっと持っているだろう。 それを手に持ったまま、まんじりと動かずにテメレール公の話を聞く。 「アナスタシアの命令を聞く。カタリナの命令を聞く。それは別に良い。お前は騎士としてあればよい。なれど、お前は私に告げたことを守らねばならぬ。これは――」 やや、不安そうな声。 疑っているわけではないが、お前を疑っているわけではないが。 違うと言われたならば死んでしまおう。 そのように不安げな、双極性障害の患者じみた告白であった。 「お前と私があの決闘にて誓った約束ではないだろうか。返事をしてくれないか、ポリドロ卿」 私はそれを否定する気など無いし、あの時吐いた言葉に何一つ嘘など無い。 「問う必要すらあらず」 私はテメレール公の問いを否定して。 「私はアナスタシア様の命令に従い、カタリナの言葉を聞き、テメレール公との約束を達成しよう。そのような、私が騎士として当たり前のようにすべきこと。その約束をこの場で誓えばよいか。テメレール公」 私は真っ直ぐにテメレール公の瞳を見た。 「よろしい。何もかもが」 テメレール公は、その視線を受け止めて静かに答えた。 「この状況に及んですら、お前を疑ったことを許せポリドロ卿。私はお前が騎士として生きるというならば、全ての約束を果たしてくれるというならば、私は全てを実行しよう。お前がすべきこと、その全てを支える為に」 静かな、語りであった。 一つの告白のような言葉が、テメレール公の私室に響いている。 「この身を犬畜生にすら落とそう」 テメレール公は確実に、今言った言葉を果たすであろう。 それは確信できた。 「……ファウスト。すまないが、多分お前は頭が悪いと思える」 事実である。 私の頭が悪いことは、私が一番理解している。 私はテメレール公との約束全てを果たすつもりである。 なれど、果たすための手段はよくわからなかった。 私の知能レベルは悲しいぐらいに愚かなのだ。 「承知しております」 「ゆえに、お前が神聖グステン帝国にて今からすべきことの全てを教えよう。よく聞け」 その全てを察して、何もかもを教えてくれるテメレール公の存在は有り難かった。 彼女の存在をして、ようやく私が帝国にて為すべきことが理解できるのだ。 「一つ目。ケルン派の存在。おそらく、マルティナが予想した展望の全て。銃や砲兵に関わる開発状況の全てを握っている。絶対に胸襟を開かせ、モンゴル戦のために必要な全ての知識を手にせねばならぬ。私もケルン騎士を通して、その手筈を整えよう。お前もケルン派の信徒として行動してくれ。必要があれば仲介役として呼び寄せるつもりだ」 私の行動の全てを補佐してくれたケルン派。 アンハルトのゲッシュにおいては騙すようなやり口ではあったが、司祭様は答えてくれた。 我が領地の神母様は、マルティナの心を助けてやりたいから罪人の死骸を墓に埋めてくれという、普通ならば通らぬ祈りすら聞き届けてくれた。 なれど、この帝都においてはそれが叶うかは、まだわからぬ。 祈りあれば全てが通じるなどと単純な話ではない。 「二つ目。教皇の存在。裏切っている。お前らが私の情報を照査するのは良いが、確実に裏切っている。モンゴルと連絡を取ろうとしている。おそらく今頃、アナスタシアとカタリナは単純に殺せばよいなどと考えているだろう。その発想自体は何一つ間違っておらぬが、簡単に殺せるならば私がとうの昔に殺している。そう単純ではないのだ。相手は弓矢を放てば射貫かれてくれる止まった的のような存在ではない。宗教という巨大組織の長なのだ。それを心得ておけ」 神聖グステン帝国教皇。 どのような御方かは全く知らぬ。 私が知る情報は、王権神授説を否定する現皇帝マキシーン一世陛下とは相容れないこと。 テメレール公の情報が真実ならば、裏切って何とするのか。 単純に宗教的地位の保全が目的なのか。 教皇の本心が知りたいところであった。 「三つ目。皇帝の存在。裏切っている。元より、あの小娘にとっては神聖グステン帝国など自分の父を見殺しにした、何一つ愛情など抱けぬ存在でしかなかった。彼女が愛するのは、愛しい父親の血を受け継いだ自分と、死に物狂いで自分を助け出すために足掻いた母と、裏切らなかった一族全てだ。その血統さえ保障されれば、別に帝国がモンゴルに奪われて支配されてしまい帝都市民が塗炭の苦しみに喘ごうが、心の底からどうでもよいのだ。気持ちが全く分からないとまでは言わぬが、彼女がその才の全てを売国に費やした場合、強力な障害となるだろう」 皇帝マキシーン一世陛下。 私としては、その経歴から憐みの感情をどうしても寄せてしまうのであるが。 ――割り切るべきであろう。 必要があれば殺す。 願わくば、裏切っていないことを祈るが。 「三点だ。この三点の障害を乗り越えられなければ、まずモンゴルとの戦に臨むことすらできぬ。戦う前から負けが確定している。そして――先ほども言ったが、相手は弓矢を放てば射貫かれてくれる止まった的のような存在ではない。今後の生存戦略がために、誰もが死に物狂いの覚悟で挑んでいるのだ。私たちが相手を殺そうとするより先んじて、相手の方から我々を殺しにかかってくることさえあるだろう」 テメレール公が、手を伸ばす。 それは私に向かって伸び、顔の少し前で止まった。 「この三点だけを覚えておけ。そうすればお前の軸がぶれることはない。後はお前の信じる騎士道を歩けばよい」 「わかりました」 私は素直に頷いた。 テメレール公は、未だ本調子ではない。 興奮した感情を少し収めるために息を吸い、やがてまだ喋りだした。 「さしあたっての、短期的な予想を語ろう」 テメレール公は、知性的な輝きを眼鏡の奥に見せている。 その瞳の色に、決闘の時のような狂人めいたものは残っておらず。 力強い意志と経験からくる強烈な自負を見せていた。 「お前に殴られたことで目が覚めて、よくよく検討して理解したのだが。ケルン派はおそらく教皇の裏切りに気づいている。教皇もケルン派を以前から異端視しており、ケルン司教枢機卿を目の仇にしている節がある。おそらくはアンハルト選帝侯継承式よりも、この両者の争いが先に起きるだろう」 テメレールの頭脳は回転しており、脈拍が上がっているのだろう。 その頬は紅潮している。 「私の予想になるが、おそらく先に動くのは教皇側だ。教皇側が、自らの裏切りに気づかれたと知ったなら、どのような手段を使っても口を塞がねばならぬゆえに。そして、その手段とは――異端審問だ」 一度、言葉が途切れた。 テメレール公は静かに結論を導き出す。 「ケルン派を異端認定し、その教会組織による異端信仰を破却するための破門宣告。聖職者信徒への改宗要求を行うだろう。論争する暇すら与えまいと、すぐさまに帝都に滞在しておられるケルン枢機卿猊下を火刑台送りにする。そうだな、私ならばそうするだろうな」 私は立ち上がり、部屋をすぐに出ようとする。 ケルン騎士と話し合って同心し、今すぐ教皇を殺害せしめる手段を見つけねばならぬ。 「ポリドロ卿。話はまだ終わっておらぬ。今語ったことは、私の短期的予想であり、同時に今日明日に起きるという話ではない」 「ですが」 「おそらく先手を打つのは教皇だ。なれど、じゃあ後手に回った側が負けるという話でもない。静かに準備をしよう。そうだ。世間じゃ猪公なんて呼ばれているが、私は元々こういう手練手管の方が得意であるのだ。私は今まで発狂して、私自身のやり口さえ忘れていたよ」 テメレール公は笑みを深くして。 瞳の奥で、静かに目を細くした。 かつての彼女の友人たる、レッケンベル卿のような糸目になるようにして。 「静かに、静かに。教皇を殺すための準備を進めようじゃないか。危難のケルン枢機卿猊下を救った暁には、ケルン派も自らの知識を私たちに明かしてくれるだろう。何事も上手くいけば、全てが丸くおさまるはずだ。まあ、残念ながら。このテメレールは酷く運が悪いのだ。予想通りに、そう簡単には上手くいかないだろうがね」 テメレール公は、本当に楽しそうに笑った。 最初に「これからであろう」と考えたことは何一つ間違っていなかった。 テメレール公との決闘は、プロローグにすぎない。 ようやくにして、この帝国においてやるべき物語の本編が始まったのだ。 私はそれを理解して手に力を籠め、大きな握りこぶしを作った。 第七章 完 第8章は2022/5/1より開始となります ご了承ください ヴァリエールの帝都進撃編 上 第149話 異端とピストル 私ことザビーネ・フォン・ヴェスパーマンの口元に聖餅が与えられた。 異様に塩辛いパンであるが、汗をかいた訓練後の身体にはちょうど良かった。 頭上から、聖職者の言葉が与えられる。 「天にいます我らの母よ、主よ。私たちが『物質を超えたパン』を、我らがいつか作り出せることを御見届けくださいますように。世の初めから終わりにいたるまで。アーメン」 聖餅の儀式を行う聖職者は、ケルン派所属の者である。 アンハルト王都からは離れた辺境領、ポリドロ領にて『助祭』を務める者であった。 今はポリドロ領との連絡係を務めるために王都に出向いており、ついでだからと全員ケルン派の信徒であるヴァリエール様と私たち指揮下の兵に、聖餅の儀式を行ってくれている。 彼女の腰には、ケルン派の間では廃れつつあるメイスがぶら下げられていた。 無用の長物とは言えないし、以前のケルン派では珍しくもない武装である。 なれど、ケルン派の騎士や聖職者における流行からは少し遠かった。 そのような事を思う。 「助祭さんはピストルを買わないのかい?」 私は疑問を口にした。 最近ケルン派になったことで知ったが、ケルン派が開発している火器はマスケット銃などの歩兵運用を基礎としたものばかりではない。 携行性の高い、片手にて扱うピストルなる火器も信徒に販売していた。 最近のケルン派聖職者などは、好んで腰の鞘にそれをぶら下げている。 「いえ、一丁は所有しております。ですが、そもそも火器自体が戦場においては役に立てども、普段の護身用としては如何かと……」 助祭はピストルの効果を疑問視しているようだ。 メイスの方が護身としては良いとのことらしい。 対して、私はピストルに一定の評価を置いていた。 装填の問題などは確かにあるが、数さえそろえれば良い。 甲冑を身にまとって馬上でのマスケット銃の装填などは確かに難しいが、ピストルであれば馬の鞍などに鞘をつくり、数丁を保持すれば良い。 そう考えたのだが。 「使えないのかね?」 「ポリドロ領地にて、ファウスト様や信徒マルティナと話をしましたが。なるほど、確かにピストル自体は効果的な武器なれど、まだ『早い武器』である。命中率が低く、射程が短く、装填に時間がかかる。現在における銃器の欠点をピストルはより明確に表していますよ」 6mのパイクを持つ槍歩兵なる戦列を打ち破るには、10mの射程を持つピストルを機動力に勝る騎兵が数丁持つこと。 単純論で言えば、これで解決するはずなのだが。 「マルティナの嬢ちゃんは批判的と」 「信徒マルティナは明確に否定しておりました。現在の馬上火器においては、これならば覚悟を決めた重装甲騎兵の秩序ある突撃の方が勝ると。ピストルを捨て、騎士として突撃せよと」 未だ騎士の暴力は火器に対抗できるということか。 結局、火器は新たなる兵科にして、まだ発展途上なのだ。 マルティナはピストルがまだ騎兵にとって有効ではないと見切っている。 私は意を汲みとったと同時に、ピストルへの評価を少し落とした。 マルティナという9歳児が異常な才能の持ち主であることを理解しているからだ。 ふと思う。 はて、ピストルなるもの――語源は。 「なんでピストルって言われてるんだっけ」 「前世紀に起きた戦争が原点ですよ。きっかけは『異端』です」 助祭は、どこか馬鹿にしたように口を開く。 教皇が十字軍の遠征費用を稼ぐために贖宥状の売買を始めた。 それをきっかけにして――とある国家の大学長であった聖職者が、本家本元の神聖グステン帝国における教会の現実を公然と罵倒したのだ。 金で罪の赦しを売り払うとは、聖職者として見苦しいことこの上ない。 男娼を買って市街にて悦楽を楽しむ詐欺的な姦通者、金により権限を売り渡す聖職売買者、肥えた身体を揺すりながら、貧乏で痩せた農奴に説教をする聖職者。 これらが教会の有様である。 かつて『グレゴリウス改革』においてグレゴリウス教皇が綱紀粛正を図ってから何世紀経つと思っているのか。 要するに。 神聖グステン教会の聖職者は自分で定めたことすら守れない堕落した欲望の豚どもにすぎないのだ。 お前らは聖書に従っていない。 悔い改めよ。 そう公然と罵った。 対する教皇からの返答は、グステン教皇と教会を批判したことに対する『異端審問』であり、異端者たる学長の火刑死である。 「経緯は知ってるよ。ヴェスパーマン家の御先祖様は立派だったからねえ。ご先祖様は」 どう考えてもこれ学長の方が正しくないか、などと私的落書きの跡が残った文書を見たことがある。 ヴェスパーマン家はアンハルト王国を支え続けてきた紋章官であり、諜報統括を一手に引き受けた貴族の一門であった。 今は糞だけど。 もう零落して滅びさるのみだろうと、私はかつての実家の事を看做していた。 「ともかく、学長が火炙りにされたことで切れた信徒が大暴れして、結局学長だけでなく、その信徒も全員異端認定されて十字軍が発動されました」 「アンハルト王国も巻き込んでね」 一世紀ほど前、神聖グステン帝国が教皇の要請に従って異端審問の十字軍を起こした戦争。 その経緯はそのように救いが何一つないもので、まあアンハルト王国も選帝侯としての立場上、巻き込まれて参戦している。 なお、その十字軍は何回も負けた。 グステン教皇側に神の恩寵が無かったせいだと思う。 「少し長くなりましたが、まあその学長側の信徒たちが当時、初めて戦場に火器を持ち込みました。その火器を『口笛(ピューレ)』と呼んでいたことが語源ですね。そこから帝国語に変化してピストルと呼ばれています」 「異端が使用した武器が語源ねえ」 尤も、本当に異端かどうかといえば話は別である。 結局は気に食わない人間を殴り、土地や財産を奪い、命さえ掠奪するための大義名分にすぎないのだ。 私は十字軍なるものを心の底から侮蔑していた。 同時に、異端が初めて戦場に持ち込んだ兵器を、ケルン派が好んで活用しているというのは少し笑えた。 助祭は目前から立ち去り、仲間の騎士の口元に聖餅を運んでいる。 聞こえないように、小さく呟いた。 「お似合いかもね」 ケルン派は異端である。 少なくとも私にはそう感じられた。 なるほど、知れば知るほどケルン派の聖職者たちは清貧であった。 さすがに全員が全員とまではいかないだろうが、少なくとも私が知る限りの聖職者は誰もが姦通や聖職売買などとは縁遠い存在である。 飢えるほどの生活は送っていないものの、ケルン派教会の倉庫には火薬と塩しかない。 「……」 火薬の流通はケルン派教会がほぼ握っており、莫大な寄進に対して貴族や傭兵に火薬を融通しているにも関わらず、生活は質素。 それは火器開発に全力をつぎ込んでいるためであると。 世間での風評ではそうなっている。 だが、私には少し違うように思えた。 彼女たちは、ケルン派の聖職者たちは、何かやりたいことがあって全身全霊で進んでいる。 別に神を否定するわけではなく、戒律を好んで破るのではなく、きっと何かを目指して行動しているのだ。 私は彼女たちの在り方を、少なくとも高位聖職者の行動においては、一つの目的を目指している組織として見ていた。 もちろん、何の確証も無いのだが。 ケルン派の説話を聞けば聞くほどにそれを感じている。 象徴的なものとしては、15世紀も前に贖罪主がマスケット銃一つで多数の異端相手にやりあったそれであり、教会では贖罪主の像がマスケット銃を抱えている点である。 「ケルン派は贖罪主や聖人をなんだと思っていやがるんだ?」 馬鹿にしているわけではないのだろう。 理屈も筋も一応は通ったことを言っている。 自分に鉄砲と火薬さえ融通してくれるなら、ケルン派が異端でも別に良かった。 だから、気にしない。 「利用できるものは利用するさ」 この考え方は、ケルン派にも通じるところがあった。 多分、ケルン派は話の整合さえとれれば、聖人や贖罪主を如何に説話にて利用しようがどうでもよいと考えているのだろう。 宗教は信徒の心を安んじ救済するために存在しており、神を崇める為ではない。 そのような割り切りが感じられるのだ。 ケルン派についての思考をしばらく続けていると―― 「ザビーネ、調子はどう?」 横から、可愛い声が飛んだ。 すたすたと歩き、愛しい殿下の御前に立つ。 「ヴァリエール様、本日は礼拝に参加されなかったようですが?」 「いや、参加したかったんだけどね。お母様に呼ばれてたから時間的に無理だったのよ。助祭には悪いんだけど、礼拝は後で個別にやってもらうとして……」 真面目で優しいヴァリエール様にとって、騎士団や従士隊と一緒に礼拝に参加しないのは珍しかった。 リーゼンロッテ女王陛下から呼ばれたとあっては、まあ仕方ないのだが。 気にかかっているのは、その用件についてである。 ろくでもない用件なのはわかっている。 「ザビーネ、悪いけどちょっと帝国行ってきてくれない? 兵隊もつれて」 「あの人食いが何か言ってきたんですか?」 深夜に墓場を徘徊し、親が泣きながらに土葬した赤子の死体を掘り起こし、食べてそうな目つきのアナスタシア殿下。 ヴァリエール様に命令できるとなれば、陛下とあの女しかいなかった。 「いや、姉さま別に人肉食べてないから。詳しくは話せないけど、ザビーネが必要だっていってるのよね。うまくやれば世襲騎士への昇進も保証してやるって」 「お断りしますよ。なんで私が」 アホらしい。 私はヴァリエール様指揮下の第二王女騎士団長であって、他の何者でもない。 たとえアナスタシアが将来のアンハルト女王となろうが、表向きの敬意以外を払う気などなかった。 「筋が違うと断って下さい。と言いたいところですが」 まあ、無駄だろうな。 あの人食い、このような断りが通じる程度の盆暗ではない。 「ええ、まあ姉さまもザビーネが断ることは予想していて。もう私がザビーネと従士隊を引きつれて帝都に来なさいって言ってるわね」 「断るべきです」 どう考えても面倒ごとであった。 アナスタシアが別にヴァリエール様を敵視していないことはもう分かっているが、そもそも自分の手札では処理できない事があったからこそ、このザビーネを呼んでいるのだ。 ロクでもない事態になっていることは容易に理解できる。 ……それで済まないのは分かっている。 「無理よ。姉さま本気で困ってるみたいだし」 立場的に拒否はできないし、そもそも拒否できるような性格であるならば、もうヴァリエール様ではなかった。 仕方なく、頭を動かす。 「承知しました。帝都へ向かうための食料や装備、旅費などはすでに計算しております。ヴァリエール様は財務にすぐ請求してください」 「……あれ、もう計算してるって?」 「何があってもすぐに行動できるように、第二王女騎士団の行動費は逐次計算しております。財務の許可さえ下りれば、すぐにでも動きましょう」 元々、私は紋章官でも最大の一門の当主となる予定だった身である。 この程度なら容易くできた。 「さて、動くとなれば酒保商人も、従軍神母も必要となります」 「酒保商人は、あの、なんだっけ。ファウストが前に紹介してくれたポリドロ領の御用商人がいるじゃない。彼女でいいでしょ」 イングリット商会。 ポリドロ卿が私とヴァリエール様に紹介してくれた、中肉中背の女が脳裏に移る。 ヴィレンドルフへの和平交渉時にも同行していたな。 「それでは、酒保商人は彼女で良いとして、すぐにイングリット商会にも連絡します。目ざとい商人の事です。帝都までの交易護衛をしてやると言えば、すぐにでも飛びついてくるでしょう」 「お願いね。従軍神母は……まあ、ケルン派に依頼しに行くとして」 手が上がった。 ポリドロ領の教会において、助祭と呼ばれる人物の筋肉質な手である。 メイスを奇声とともに叩きつける毎日の鍛錬を忘れていない、武骨なる手である。 「私が行きます!」 「……じゃあそれで」 ヴァリエール様は、おそらくケルン派に頼んだところで、帝都までの旅に派遣されるのは若い聖職者であろう。 どうせならば、気心の知れたポリドロ領の聖職者が良い。 そう考えて、応諾したと思われる。 「ザビーネ、あと何が足りない?」 「色々と足りませんが。まあ、最悪は道中で掠奪すればよいだけです」 我々は兵隊なのだから、最悪はそこら辺の村を掠奪すればよいのだ。 「良いわけないでしょ。そもそも私は皇帝陛下にお呼ばれしたわけじゃなく、次代のアンハルト選帝侯の妹としての立場しか無いし……。通過する土地の領主からのお呼ばれも、何もかも断って一直線に行軍するわよ」 まあ、ヴァリエール様はたとえ合法だとしても、掠奪など好む人柄ではない。 それを知っている私は、そんなヴァリエール様が大好きである。 それでいてヴァリエール様のため、自分の為ならば、どんな畜生働きをやったところで心が痛まない。 自分でも奇妙に思える。 「まあ、そんな私を必要とする現状が、今の帝都では起こってるんだろうけどね」 昇進といった報酬が約束されているならば、ある程度は働いてやるさ。 私はそんな事を考えながら、何が足りないのか指折り数えているヴァリエール様の短躰を愛おしく見つめた。 ---------------------------- 近況ノートにて報告ありますので、よろしくお願いします 第150話 酒保請負契約 アンハルト王都において、ポリドロ家には王家より下屋敷が貸与されている。 第二王女相談役としての役得であるのだが、この屋敷の利用権は元々第二王女である私のものとされており、ファウストが不在の間は自由に利用することが出来た。 「これでいい?」 「はい。これにてヴァリエール・フォン・アンハルト殿下と、このアンハルト市民たるイングリットとの間に契約が結ばれました」 机上の書類にサインを済ませ、それをイングリットが受け取る。 現場の事はザビーネに任せようと思ったのだが。 酒保契約において、今回の指揮官たる私が直接にサインをしなければイングリットは承知しなかった。 まあ、別にそれはよいのだが。 「あのね、イングリットさん」 「イングリットで結構ですよ殿下。市民として立場はわきまえております」 「じゃあイングリット。なんでこんなに商人多いの?」 もう明後日には出発しちゃうしさあ。 酒保周りの事は私やザビーネわかんないから、全部イングリットにぶん投げたけどさあ。 減らせとはいわないけど、これ明らかに多いわよね。 第二王女親衛隊って兵数100なのに、なんで付いてくる商人が300人もいるのよ。 人員比率がおかしい。 そのような事を口走る。 「いえ、こちらについてはザビーネ卿からすでに許可を取っているのですが」 「そりゃわかってるから私もサインしたわよ。でも説明はしなさいよ。ザビーネ誤魔化すかもしんないから、イングリットの口から聞きたいのよ」 ザビーネは信用できないのだ。 アイツは事後報告で何もかもが終わった後、「実はこういうことだったんですよ」と答えるやつなのだ。 そして怒り狂った私に全力で殴られて、その与えられた痛みで凄く興奮するところがザビーネにはあった。 ザビーネがその類の変態であることを、私は理解していた。 「ヴァリエール殿下。今回の行軍は、このアンハルト王国からグステン帝都ウィンドボナまでの旅路となります」 「そうね」 イングリットが瞳を輝かせながらに呟く。 そうして、まあそこそこの教養があれば誰もが承知している理屈を口にする。 「商人の仕事の基本とは、必要のないところで余っているものを、必要のあるところに運び、その差額を得て利益とする。それは理解されておりますね」 「まあ基本ね」 「我々が向かう帝都には何でもあります。この王都にて不足する物があったとて、帝都で探せば見つからぬものなど無いでしょう。さて、それがどうしてかはおわかりになりますか」 私は、ん-、と一つ唸りながら答える。 「流通が発展しているから?」 「それは一つの正解でしょう。大河を用いた水運により、グステン帝国では最も流通が発達した都市が帝都ウィンドボナです。ですが、まあ違います。水運にしたって河川に辿り着くまでは陸路ですし、我々が帝都まで行く道は馬車一台がなんとか通れる程度しか舗装されておりません」 イングリットは否定した。 間違ってはいないが、それだけでは全ての物資は集まらないとの回答である。 他に理由があるならば。 「単純に市場が大きいから?」 「それも一つの正解です。売る場所が多く、買う人間が多い。単純に人口が多いのです。運んだものを捌く場所があるからこそ、商人は物資を運びます。ですが、私たちアンハルトの商人たちは、帝都において販売する許可を得ることが出来ません。帝都の商業ギルドが場所も権利も全てを仕切っており自由市が無いのです」 ギルドにみかじめ料を払えば別でしょうが、そこまでする気はありません。 私たちが持ち込んだ商品は全て帝都の商業ギルドに売り払うことになるでしょう。 そうイングリットは答えて、ヴァリ様はまた呟いた。 「言いたいことは分かったわ。そこまで流通に苦労して運んで、市場で自由に捌けないことを考慮してでも。それでも単純に物を運ぶだけでお金になるのね」 別に今までも間違ったことは言っていないが、結局商人の動く理由など一つだけである。 『金になるから』に他ならぬ。 難しい理由などいらないのだ。 「そうです。卵が先か、鶏が先か。都市が発展するには立地や水運など、様々な条件がありますが結局は商人にとっては金になるかどうかなんですよ。諸条件はどうでもよろしいのです。物資を持ち込んで、最も単純に金になるのが帝都なのです」 「なるほど」 商人が帝都に行きたい理由はわかった。 それは理解できたのだが。 「とにかく、私たち商人は誰もが王都にて商品を仕入れ、それを帝都に持ち込んで利鞘を稼ぎたいのです。一声かければ300人くらいならば、すぐに集まりますとも」 「それはわかったんだけど、そんなの姉さまの時にやればよかったんじゃないの?」 私たち第二王女親衛隊の旅になんぞ加わる必要がない 先んじて出発した第一王女アナスタシアの酒保商人として――ああ、そうか。 「要するに、姉さまの許可をもらえないような連中が今回集まっているのね?」 「そういうことになります。王家の御用商人が酒保を務めることになり、イングリット商会の規模では相手にされません。入り込む隙間が無いのです」 しかして、このイングリット商会はポリドロ家の御用商人であります。 現領主ファウスト様の婚約者にして、将来ポリドロを名乗ることとなるヴァリエール様の酒保商人を務めておかしいことは何一つありません。 彼女は微笑み、楽しそうに呟く。 「仮にもアンハルト選帝侯家の第二王女殿下が、急用ありて帝都に赴くのです。旅路においては様々な交通路、橋において関所が設けられており、本来は通過料がかかってしまうのですが、殿下は真面目に料金を支払うおつもりですか?」 「え、うん、いや」 私は言葉を詰まらせた。 私としては少々気まずい思いはあったが、正直関所の通過料なんか払いたくはない。 払わなくて済むものならば、払うつもりはなかった。 なにせ第二王女親衛隊は金が無いのだ。 そんな金を払うならば、パンの一個でも兵への配給を増やしてあげたかった。 「とにかく、威圧の為には数を増やす必要がありました。利益を増やすためには商人をできる限り集める必要がありました。殿下の兵数100、アンハルト商人300。傍目には400からなる軍集団となります。さすがにこの数に加え、殿下の名分があれば関所の兵も通過料など請求してはきません」 だから、まあイングリットの言いたいことはわかるのだ。 一銅貨も金払いたくないんです。 その気持ちは痛いほどに理解できた。 私これでも税を徴収する側の第二王女なんだけど。 そもそも姉さまとて『何、このアナスタシアの兵に通過料を課すだと。選帝侯継承式にて皇帝陛下に謁見するが故の通行と知ってのことか。この侮辱、必ずや皇帝陛下に掛け合って貴卿の一族郎党滅ぼしてくれる! 覚悟しておれ!!』とか言って、一銅貨も払っていないに違いないのだ。 もう絶対確実に払ってない。 それどころか、もう通過する領地の貴族から『皇帝陛下に直接かけあってやるゆえ、各領地間での騒動があるならば私に言え。まあそう、なんだ。相談料はわかるな』と言っては金を要求するぐらいはするのが姉さまだ。 しかも、金貰うだけもらっておいて『あれは相談料だろう。皇帝陛下にかけあった結果までは保証すると誰が言ったのだ』と強弁するだろう。 だから月に一度は気に食わない貴族を殺しては、その心臓を食ってるとか言われるのだ。 ――姉さまの事は良い。 話を戻そう。 「関所の通過料本当に払わなくてもいいのね? 領主にとっては重要な収入源だと思うんだけど」 「これは商人の知恵というやつです。少しでも酒保商人として経費削減しようというイングリット商会からの、殿下への敬意とお受け止めください」 ただそれは商人の知恵などではなく、単なる暴力を背景にした脅迫である気がした。 酒保商人を300人も連れて行くなんて、ザビーネは馬鹿かとは思ったのだが。 そういう事情なら仕方なかった。 「もちろん、旅路においても酒保商人としての役目は果たします。さすがに補給せねばならぬので、旅路にて寄った町々にて物資を買い込むことになりましょう」 「そうなるわね」 酷い話になると、兵隊や傭兵団だと掠奪を行って物資を補給するのだが。 その都市や街の市民の代表役に対し、海戦山千の商人が交渉するのだ。 恥ずかしながら、私などが交渉をしてしまうと舐められる可能性があった。 ザビーネが交渉をしてしまうと、その場の気分で顔役を殺して掠奪する可能性があった。 そうしないために、酒保商人たるイングリット商会がどうしても必要なのだ。 「100人からなる第二王女親衛隊がマスケット銃を背負って街を取り囲み、我々300人の商人が笛や打楽器を打ち鳴らしながらにして都市の顔役との交渉に臨みます。必ずや安価にて交渉が成立するでしょう。これも商人の知恵です」 「ちょっと待って」 だからそれは、商人の知恵などではなく、単なる暴力を背景にした脅迫である。 いや、理解してはいるのだ。 もう舐められないためにはそれしかないと理解してはいるのだが。 「私たちは山賊じゃないのよ? 荒くれの傭兵団でもないのよ?」 「ご安心くださいませ、我ら商人もピストルにて武装しております。多少の傭兵も雇っております。顔役がギリギリまで追い込まれて暴走しても、そうやられはしませぬ」 「人の話聞いてる?」 多分聞いてなかった。 というより、意図的にイングリットは聞かないようにしていた。 「私たちは帝都に行くのが目的で、酒保商人が交易するのは認めるし、確かにできれば関所の通過料は払いたくないし、物資の補給も安価にて行いたい。それはそれ、これはこれとして」 私たちは掠奪しに行くわけではないのだ。 このイングリットなる商人はわかっているのだろうか。 「わかっております」 彼女の瞳を見た。 中肉中背の彼女の瞳は、少し潤んでいた。 莫大な利益のために、狂気さえ口に含んだ商人の目をしているのだ。 「全てはこのイングリットがすることであります。ヴァリエール殿下は何一つ指示しておられませぬ」 スゴイこの商人。 何一つわかってない。 私の手は汚したくないから、お前が手を汚せとかそういう話をしたいわけではなかった。 「んとね、えとね、イングリット。私そういう話はしていないんだけど」 「全て私にお任せください。ヴァリエール殿下の御心のままに」 だから、御心のままじゃないから文句言ってんだけど。 いや、でも、仕方ないのだろうか。 ザビーネが財務と交渉すると言ったからには、確実に必要な行軍費用をぶんどってくるだろう。 だが、財務のケチンボがそう簡単に金を出すわけがない。 本当に必要最低限ならば、貧乏行軍となってしまう。 兵にパン一つで行軍を命じるのは、私の矜持が良しとしなかった。 ならば、自分の可愛い兵が泣かないためならばだ。 「……全て貴女に任せるわ。イングリット。私の兵が餓えないようにしなさい」 私は妥協した。 これはもうどうしようもないのだ。 どうしようもないのならば、私が嫌だからと拒否することなど許されない。 「全てお任せを! すでにケルン派教会とも通じて弾薬、ケルン派信徒の傭兵ともに用意しております。戦とあらば、全てを殿下の兵に任せて足を引っ張るなど致しませぬ。我ら自らが馬車と財産を守るために闘うつもりです!!」 許されないし、確かに旅路は平和とは言えない。 陸路は馬車一台が通れるぐらいに細く、それを狙った山賊団に襲われることもあろう。 だから、商人たちが武装してるのは当然と言えた。 だが、だが。 「私たちは別に戦争に行くんじゃなくって、交易に行くんでもなくって、姉さまがザビーネいるからちょっと来いって言われたから――」 ただ行くだけであって、もうそれ以外に何の目的もないのだが。 なんか話がデカくなりすぎてないか。 そう呟こうとしたが、なんか瞳をギラギラに輝かせているイングリットの耳に言葉が届くとは思えない。 私は諦めて、ザビーネが財務からちゃんと予算を分捕ってくることと、とにかく目の前の酒保商人が善良なる人々に迷惑をかけないことだけを祈りながら、大きなため息を吐いた。 第151話 市民ケーン アンハルトの安酒場にて、複数の商人が集まっている。 一つの疑問が、商人たちに提示されていた。 誰もがそれを解こうと試みる。 「ヴァリエール第二王女殿下は凡庸――いや、失礼。どうにも選帝侯の子女としては器量が劣ると聞いていたのだが。違うのだろうか」 ヴァリエール・フォン・アンハルト殿下は姉たるアナスタシア殿下に何一つ勝るところのない凡庸なる姫君である。 市民はおろか交易商とも呼べぬ、単なる村々の中継を保つための輸送業者に過ぎぬ我ら馬借ですら知っていることだ。 疑問に対し、別な商人が答えた。 「……凡庸とは聞いていたが、同時に無能と聞いた覚えもない。それに、初陣は相談役たるポリドロ卿を引き連れて見事な戦果を挙げている。さして欠点たるエピソードなど聞いた覚えはないな。せいぜいが、王夫なるロベルト様に引っ付いて離れなかったところが覇気に欠けるとされるぐらいで」 「凡庸を装っていたのでは?」 「何のために?」 いくつかの声が飛び交う。 酒が混じっていれば、雑言が飛び交うなど珍しくもない。 商人が複数いれば、その中でそれなりの結論を見出すこともできるだろうが。 私個人として、すでに結論付けられているものを提示してやる。 「ヴァリエール殿下が有能さを示し始めたのは、もはやアナスタシア第一王女殿下が無事選帝侯を継承することが確定になってからだ。それまでは勇猛なる鷹が凡庸なる鳩を装っていただけのこと。玉座に野心がなく、無事に後継者レースから外れることが決定し、今後は一貴族として生きていくとなればだ。大いに翼を広げようというものではないか」 要するに、今までは姉たるアナスタシア殿下に敬意を払っていただけの事。 スペアとしての役目を終えたならば、そこから先は自分だけの人生だ。 ヴァリエール殿下はそうお考えになられた。 自分が長じる能力に足る何かを得ようとした。 そう結論付けられる。 ヴァリエール殿下の実績とあれば、そもそもが輝かしい経歴である。 初陣にて数で勝る「青い血崩れ」相手に、そのカリスマにて民兵を志願させて僅かなる犠牲にて勝利。 蛮族ヴィレンドルフ選帝侯相手の和平交渉に正使として出向き、見事に成立させる。 この間など、女王陛下やアナスタシア殿下が政務を休む際、頑迷なる地方領主へのあいさつ回りのために数世紀前の移動宮廷のようにして親衛隊と走り回っておられた。 武でも政でも、一人前とはいえ14歳の騎士が為した経歴である。 これを見てヴァリエール様の能力を疑うなどできようか。 「今までの経歴を鑑みて、凡庸だと思う方が愚かなのだ」 「しかし、相談役たるポリドロ卿に助けられたところがあるではないか」 「なるほど、確かにポリドロ卿は有能な騎士であろう。では今まで、ヴァリエール様以外の誰が彼の助けとなり、その直属の上役となり得たのか。それくらいは誰でも知っていよう」 ヴァリエール様は自らポリドロ卿を自分の相談役として選んだのだ。 そうだ、ちょうどこの酒場の宿だ。 かつてポリドロ卿はこの安酒場の宿屋に在していたのだ。 そのころは領主騎士とは言え、正直領民を食わせることに必死な貧乏騎士にすぎなかったのだ。 「ヴァリエール様は12歳にして誰の力も借りずに『気狂いマリアンヌ』の息子たる評判悪きポリドロ卿を見つけ、自らがこの安酒場まで赴き、自分の相談役として見事迎え入れたのだ。この事実だけで無能や凡庸とは程遠いとしか言えぬ。それが運が良かったなどの一言で片付けられる出来事か?」 今ならば、誰もがポリドロ卿とならば縁つなぎになりたいと思うであろう。 あのように強力無比な忠誠厚き騎士と、誰が敵対したいなどと思うのか。 だが、あの時本当に卿は孤立していたのだ。 それに声をかけ、下屋敷を与え、自分の相談役としたのがヴァリエール殿下である。 「その有能さなど、もはやどこも疑いようがないわ。それくらい誰でも気づくし理解できる」 「つまり、そんなことも見抜けぬ我らが愚かということか」 「そうとしか言いようがない。考えを全くもって改めるべきだ」 ヴァリエール・フォン・アンハルト第二王女殿下の有能さはもはや疑いようがない。 そう結論が下され、誰もがそれを呑み込んだ。 その結果として。 「参加するのだ。ヴァリエール殿下による帝都までの御親征に我らも参加するのだ。それ以外の結論は有り得ぬ」 貧しい馬借たる私が、イングリット商会による人足として参加しようと。 そう彼女たちに勧誘をかけた。 それを一人の商人が嘲笑った。 「この安酒場で酒を飲むのが精々の楽しみである我ら馬借風情が。市民権すら持たず、商業ギルドに上納金を納め、ただ輸送することが精々の私たちに何を求める」 「その馬により、馬車により、物資を輸送することのみを求める。それでお前の馬が死んでも、お前の馬車が壊れても、お前が物資を失っても、お前が命を失っても、お前らの責任だ」 殿下が、そう求めておられるのは間違いない。 笑いが起こった。 「誰がそんなものに参加するか!」 「別に殿下は強要しておられぬ。やりたい奴だけやれば良いのだと仰っておられよう」 余りにも酷い条件だ。 殿下は商人たちに対して、何の責任もとってはくれぬ。 だが、そのメリットは多分に存在する。 「ヴァリエール様の隊列に加われば、その交易における税はいらぬと知っているだろう?」 「聞いた。聞いたさ」 「都市における入場税はいらぬ。関所における通過税はいらぬ。そう仰っておられるのだ」 ヴァリエール殿下は商人に対して何の責任もとらぬ代わりに、お前らは自由に税を払わずにアンハルト王都からウィンドボナ帝都までを通過して良い。 そう告げている。 「普段は税を払って輸送している我ら商人が、完全に無税にて取引を行うことが出来るのだ。王都から帝都まで物資を運ぶことに成功すれば、その利益は莫大なものになる」 「だが、我らが旅の途中で倒れても置き去り。見捨ててゆくのであろう?」 「そうだ。これはヴァリエール殿下の御指示ではない。イングリット商会からの条件提示に過ぎぬゆえに。つまり、そういうことだ」 ヴァリエール殿下は酒保商人たるイングリット商会の被害補填はある程度行うが、本当に、何一つ、一切、それ以外の商人のことなど知らぬと。 それを繰り返し、残酷なまでに告げていた。 「私などは人頭税も払いたくないから家を出された三女の……商店への奉公すら叶わぬから、街から街への馬借をやっているようなものだ。だから」 馬すらおらず、こんな私に懐いてくれている二頭の可愛いロバと荷馬車だけが財産で。 交易品を買う金すらないから、ロバと荷馬車を担保にして。 イングリット商会から、もし旅に倒れた時はそれを全て譲渡する契約で多額の金を借りて、交易品を買い入れるのだ。 それを王都から帝都まで運ぶ。 失敗したら、その場で死んだ方がマシだろう。 病気になっても、強行軍で歩けなくなっても、森の小道で狼の大群に襲われても、運悪く隊列の端で盗賊に襲われても。 ヴァリエール殿下は何も補償してくれぬ。 飢えて死ぬだけなのだから。 「そうさ、私は一か八かに賭けてみようと思う」 木製コップに満ち満ちたエールを見つめながら。 今まで大いに語っていた馬借たる私が、他人を説得するわけでもなく、全ての本心を詳らかにして。 最後に一言ポツリと呟いた。 そうだ、一か八かだ。 人生をヴァリエール殿下に全賭けするのだ。 のるかそるかだ。 すでに述べた通り、失敗したら何もかもが終わってしまうだろう。 だが、それでも。 「成功したら全てが手に入るんだ」 何もかも見返せる。 お前など人頭税がかかるからいらぬと見捨てた親姉妹も。 マトモに奉公すらできぬと私を解雇した勤め先も。 全てを見返すことができるだろう。 アンハルト王都の市民権を手に入れるには、金だけでは済まぬ。 自分の身分を保証してくれる人物が必要であり、「これこれはどういう人物です」と何かあった時に説明してくれる親類や縁故の者がいなければ話にすらならぬのだ。 いくら金を積めど、市民の権利すらもらえぬ。 だが、もし今回の交易を成功させれば、イングリット商会当主たるイングリットが背景を作ってくれるというのだ。 ヴァリエール殿下の御親征にイングリット商会と付き合って富を得た商人であり、立場も経歴もしっかりしております。 まさかそれが市民となることを、税を払い、居を構え、市民として尽くすということを王都として拒むということはありますまいな。 これがヴァリエール殿下の耳に届きましたら、このヴァリエール殿下御用商人たるイングリットが口にしましたならばですが。 はて、忠誠を果たした彼女が市民となることを拒みました役人様がどうなるかわかっておいでですか? わかってるならば市民登録証に直ちにサインを。 そう『説得』してくれるというのだ。 それは。 この上なく自分の存在を肯定してくれる立身譚と言えた。 私だって、この単なる馬借であり、木皿のスープを舐めるように飲む惨めな私だって。 「私を見下してきた奴らを見返すことが出来る」 そうだ、私は今はっきりと自覚したぞ。 こんな人生なら死んだ方がマシだ。 懐いてくれる二頭のロバを自分の運命の巻き添えにするのが可哀そうなだけで、私にはもう他に何もないじゃないか。 のるかそるかだ。 こんな博打なら打たない方が損だぞ。 私の目の前には、ヴァリエール様の麗しく艶やかなる幸運の赤髪は長い。 幸運の男神は前髪しかないなどと噂されるが、ヴァリエール殿下はさにあらず。 勇猛果敢にして忠実なるポリドロ卿を拾い上げる事を世に示した。 初陣にて、見事なる戦果を成し遂げた。 政治にて、蛮族相手の和平交渉を勝ち取った。 移動宮廷を行って、地方領主に権を示した。 もうそれだけで十分ではないか。 ヴァリエール殿下の能力は世に示されている。 ならば、後は殿下がのるかそるかではないのだ。 殿下は成功するのだから、後は私が成功するかどうかにすぎない。 私が殿下の足跡を踏んで歩くだけの能力があるかどうかを問われるのだ。 私は、私は。 「ヴァリエール殿下に全てを賭けるのだ。それが駄目なら、そんな私なら死ねばよい」 そう覚悟を決めたのだ。 ならば恐れをなすことは何一つなかった。 ヴァリエール殿下の麗しい幸運の赤髪すら掴めぬ私ならば、死ねばよいのだ。 私は理論的に狂気的に、そう決めている。 商人としてのるかそるかを決断してしまったのだ。 「貴女たちはどうするかね?」 別に、私が掴んだからもう他人に譲らぬという話ではない。 むしろ、人は多ければ多いほどによいと、今回は酷く特殊な商機であるのだ。 だから、問いかける。 「全てを賭けて全てを手に入れるか。そのまま惨めにくたばるか。運悪くして旅路にて倒れるか。全て呑み込んだうえで倒れたならば、私を恨むことすら筋違いと事前に仰られたヴァリエール殿下の提案を受け入れるか」 今回はそれだけの話だ。 それだけの話だった。 莫大な財産と、市民という権利と、それを手に入れるには死を覚悟せねばならぬと。 それだけの話なのだ。 私はゆるやかに笑い、同じような立場の商人たち。 自分と同じ惨めな私たちを眺めた。 誰もが、誰もが。 自分の立場を考えて、自分の惨めな立場を考えて。 そうして、爆発したように叫んだ。 「ヴァリエール殿下様に、そして我ら哀れな馬借たちに、商人に栄光あれ!!」 木製のコップに満ち満ちたエールを飲み干し、安酒場から抜け出した。 もはや正気ではおられぬ。 イングリット商会に出向いて、全財産全てを担保にして借りれるだけの金を借り入れて、ありったけの交易品を仕入れるのだ。 それしかないし、それしかできない。 「勝つぞ、勝つぞ」 そうして、全てを見返してやる。 私は自分のコップに入ったエールを飲み干して、空になったそれを天高く掲げた。 私はかつてこの安酒場からヴァリエール殿下に拾われたポリドロ卿にまでなりたいとは言わぬ。 それでも、それでも。 命を賭けるのだから、どうか。 「ヴァリエール殿下と私に栄光あれ。幸運の赤髪に幸あれ。私に市民権あれ。全てを誇る人間たる権利あれ!!」 そう叫んで、私は次のエールを注文する権利を自分に許した。 第152話 ポストを寄越せ アンハルト宮殿におけるバラ園の使用許可は、両手の指に数えられるほどにしか与えられぬ。 リーゼンロッテ女王陛下にとっては愛する夫ロベルトが残した聖域であり、その家族たるリーゼンロッテ本人、娘たる長女アナスタシア、次女ヴァリエール。 そして庭師ミハエルを代表とした、生前のロベルト様と特別に親しい人間のみが足を踏み入れることが許されていた。 私はその一人である。 この年若き実務官僚にして、リーゼンロッテ女王陛下の片腕にして、ロベルト様の侍童であった夫を配偶者として迎えた私には。 ――王宮のバラ園に立ち入り、そこでかつてのロベルト様のようにして、ガーデンテーブルにて客人を招き入れる権利が与えられていた。 ここで私が今掴んだ地位と権力を見せつけてやるのが、客人への交渉を始める前の貴族の作法というものである。 「立身出世の極みというやつで? まさか女王陛下にここまで愛されておられるとは」 客人であるザビーネ卿が、どうということもなさそうに呟いた。 たいていの人間はここで私との権力差を知り、媚びを売り始めるのだがな。 まあ、眼前の客人がそういう小人物ではないことくらい知っている。 私は彼女に答えてやる。 「さて、どうだか。私はかつて、困窮した法衣貴族の三女に過ぎなかったが――これで苦労も」 私の家庭は世襲騎士と言えど、役職にはありつけず貧しかった。 だが私の家族は皆が支え合うように生きており、娯楽すらないからと姉二人は優しく学校で学んだ物事を私に教えてくれ、水を得た魚のように吸収していく私を撫でて喜んでくれた。 親などは叱責も覚悟の上で、ウチの三女は必ずや王家に貢献できる人材だとロベルト様に陳情してくれたおかげで、私の王宮への奉公が叶ったのだ。 そこでロベルト様の侍童を務めていた今の夫と出会い、恋も成就させた。 すでに子供もいる。 それについてはザビーネ卿もすでに知っており、説明すべき点もない。 「いや、そうだな。私はどうしても人から見ると、恵まれすぎているほどに恵まれているんだろう」 姉に恵まれた、親に恵まれた、上司に恵まれた、配偶者に恵まれた。 そうして私は家から独立して新たな世襲騎士位を手に入れ、法衣貴族として、女王陛下の片腕たる実務官僚としてこの地位にいる。 ああ、もちろん私に優しくしてくれた実家も引き立てており、そもそも姉二人などは元々優秀だった。 法衣貴族として役職にきちんとついているし、家族には多くの仕送りをしている。 というか、私の家族には王城に出入りしている商人から多額の付け届けがあるから、本来は仕送りすら必要なかった。 私は幸福だ。 「君とは大違いだな。ザビーネ卿」 ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンの立場を揶揄してやる。 ポリドロ卿がゲッシュを誓った際は、満座の席で馬鹿にされたヴェスパーマン家。 知るものこそ少ないが、そのポリドロ卿はロベルト様の暗殺事件を解決しており、対してヴェスパーマン家は結局事件を解決することができなかった。 女王陛下においては、もはや彼の紋章官家に何の価値も見出していない。 爵位を失うまではしないが、単なる紋章官への没落までは確定だろう。 私とは真逆。 とはいいたいが、だ。 「まあ、君は実家のことなんかどうでもよかろうがね」 「どうでもいいねえ。潰れるなら勝手に潰れたら?」 ザビーネ卿にとっては実家のことなど、死ぬほどどうでもいい話題である。 そして、私にとっても同様で。 「女王陛下はともかく、アナスタシア殿下がどうされるかは知らんがね。マリーナ嬢くらいはなんとかアナスタシア殿下の御寵愛でやっていくかもしれないが、ヴェスパーマン家はもう『ない』ね」 「そこさ」 ザビーネ卿が、ようやく本題に入るのか。 そんな顔をして、少し愉快気に口端を緩ませた。 「ヴェスパーマン家はもうないとして。さて、女王陛下より御寵愛を賜った実務官僚殿は、はたしてアナスタシア殿下からも片腕として受け入れられるかね?」 「その実力はあるつもりだ」 今回の茶席。 それはザビーネ卿からの依頼であり、このバラ園には私と彼女の二人しかいない。 さて、二人きりで話をするほどの価値はあったのか。 「じゃあ、アナスタシア殿下にも実力を示しておくべきじゃないかね。無事に選帝侯継承式を終わらせて、帝都から帰ってくるまでにだよ」 それを今から判断することになる。 「聞こうか」 私は小さく呟いた。 ザビーネ卿は、まず少しだけ笑った後に。 「法衣貴族の家を大分潰したそうじゃないか」 「必要であったからな」 ファウスト・フォン・ポリドロ卿への侮辱を隠そうともしなかった連中。 ゲッシュ事件において、命を投げ打ってまでも王国への危難を訴えた彼を侮辱した者達。 その無能は、死にも相応しい罪であった。 表向きの顔すら取り繕うこともできない法衣貴族たちをリストアップし、女王陛下の命により爵位を取り上げて家ごと叩き潰した。 で、だ。 「それが何か? アナスタシア殿下も私を評価こそすれ、あれをお咎めはしないだろう」 「別にそれが悪いなんて言わないさ。仰る通りだよ」 そこからの話さ。 そう前置きを置いて、ザビーネ卿は用意しておいた茶を啜る。 彼女の会話方法は少しねちっこくて好かぬ。 頭の良さは認めているのだが。 「さて、沢山の騎士家が消えました。沢山の爵位が宙に浮きました。沢山の役職が空きました。沢山の予算が浮きました。みんな、首になった連中への同情もそこそこに、誰もがそのことを気にかけている」 「なるほど」 私は理解した。 要するに、空いたポストの奪い合いについて噛みたいのか。 「別に、領主騎士の三女や四女など、単純に仕事をこなせる経歴の者であればいくらでもいる。今は順当に配分する予定だが?」 「領主騎士に恩を着せ、縁で繋げるのは悪いこととは言わないさ。でも、結局は領主騎士の紐付きになってしまうのもどうかね?」 考える。 ザビーネ卿が何を言いたいのか。 その前に、次の言葉が紡がれる。 「というか、そもそも実戦経験や遠征経験すら持たない騎士が今のアンハルトに必要かね?」 「ふむ」 優先ではない。 なるほど、潰したのは腹芸もできない無能どもであったのだ。 職務も有能と言えるほどにこなせていたわけではない。 正直言ってしまえば、紋章官や租税官などの実務官僚は人が足りていた。 もちろん沢山居て困ることはないが―― 「『戦う人』としての騎士どもを優先せよと」 ポリドロ卿が国の危難を訴えた事を信じ、それこそ十字軍に至るほどの大戦が起きるとするならば。 今必要なのは、即戦力の騎士であった。 「そういうことさ。で、心当たりあるの?」 「さて」 別にアンハルト王国内においても、領主騎士同士の領地境界線における争い何ぞ珍しくもない。 そもそも、それを調停する立場を必要としているから、自分の領地を守る主君を必要としているからこそ、アンハルト王家との双務的契約が存在するのだ。 騎士道精神など都合よい時には利用すれど、誰一人として無私の忠誠を誓っているわけではない。 殺し合いの経験者など、どこにでもいる。 とは言いたいところだが。 それは小規模であり、酷い時には近くの村に掠奪に行く程度が殆どであるとも言えた。 「指揮官にして強力な騎士としての実力を持ち、遠方までの外征経験を持つ軍勢となるとな」 そうはいなかった。 少なくともアンハルト王国にはいない。 領主騎士ならば軍役があるから別だが、それらは当主か嫡女の後継者であり法衣貴族には引っこ抜けぬ。 で、あるならばだ。 「考えていることはわかる。外国から兵を買うんだろう? 勿体なくないか?」 大金を支払って、外国から傭兵団なり領主の軍勢なりを買わねばならぬ。 それは金貨銀貨や物資の外国への一方的な流出であり、その後に王国内で回ることはない。 どうしようもなければやるが、国家経済を担う実務官僚から見て最善手とはいえなかった。 「つまり、ザビーネ卿をさっさと世襲貴族の地位まで上げよと?」 私はあえて間違った回答を為す。 言いたいことは、こんなふざけた私欲ではなかろう。 「違うね。そんなもんは今回の旅でアナスタシア殿下に約束させてるさ」 ならば、次は少し足りない間違いを。 「第二王女親衛隊の騎士全員を世襲貴族にしてほしい?」 「違うね。それはポリドロ卿が訴える大戦で叶うこととなるだろうさ」 では、思いつく正解としては。 「今回のヴァリエール殿下御親征にあたって『長日程での戦陣経験』があり、『多数の実戦経験』があり、『指揮官として強力な騎士』を見繕ってやるから、空いたポストを相当数よこせ?」 「そういうことになるね」 馬鹿馬鹿しい。 私は立ち上がって、話を打ち切ろうとすら思ったが。 あまりにふざけた話であるからこそ、ザビーネ卿の提案は気になった。 実際に用意できるのであるならば、別に悪い話ではないのだ。 私は尻を浮かさずに話を促す。 「続きを」 「まあ『長日程での戦陣経験』。これは単純に王都から帝都に辿り着くだけで済むさ。都市の城壁から出た事もないモヤシどもよりもこれだけで上だろう」 それは認めてやろう。 次だが。 「『多数の実戦経験』なんぞをどうやって用意するんだ?」 「人は助け合って生きてるんだよ」 回答になっていない。 例えばだが。 「圧倒的多数による町や村の掠奪なんぞを実戦経験と呼ぶつもりか? 戦争目的よりも掠奪に目がゆく阿呆騎士なんぞ戦場で何の役にも立たんぞ。騎士道精神は純粋に戦場で役立つ戦士を作り上げる為でもあるのを理解しているか?」 「そもそもヴァリエール殿下が掠奪なんか許すわけないだろ。帝都に行くまでの道中で、地方領主が手を焼いている山賊団や、山賊まがいの荒くれ傭兵団を狙う。これらなら珍しくもない」 確かに、アナスタシア殿下の第一王女親衛隊でさえ旅路にて山賊に襲われている。 探せば山賊団などそこら中にいるだろうが。 「さて、哀れな善良なる人たちが苦しめられている。旅路において、少しばかり寄り道をしてでも見過ごさないのが本当の騎士道精神でなかろうか? 私はそう思うね」 「ふむ」 善良なる人たちを悪党から守る、というよりも。 善良なる人たちが襲われているのだから守るという大義名分で、悪党をいっぱい皆殺しにして実戦経験を身に着ける、としか聞こえない。 そして、そのために帝都への到着が遅れても別にいいよね、と言っているようであり。 それは人として、アンハルト王国に仕える騎士としてどうなのかと思ったが。 「なるほど」 さて、この実務官僚は少々耳が悪いので、どうにもたまに言葉を取りこぼしてしまう時がある。 仮に言葉を取りこぼした時があったとしても。 耳の障害を持つ可哀そうな私に配慮してくれない相手が悪いのであって、私は悪くないと断固として言い張る度胸が私にはあった。 「なるほど、よくわからんが、分かったような気がしてきた。多少聞きづらい点はあったが」 「実務官僚殿は耳が悪いと評判であるから仕方ないね」 さて、なんだかわからない内に話は続いてしまっているが。 「『指揮官として強力な騎士』はどうやって用意するつもりなんだ?」 「これについては少し難しい。出来る限りは育てあげるつもりだが、経験者採用となってしまう事もあるだろう」 経験者採用。 まあ、ない話でもない。 「傭兵団を丸ごと取り込む?」 「そもそもが傭兵団をまとめ上げてる連中なんか、騎士の三女四女や従士の成れ果てじゃないか。よっぽどの才能がない限りは、教育を受けてない奴が傭兵団の頭になんかなれるもんか」 まあ事実ではある。 青い血としての教育を受けた貴族の子女が傭兵団の団長になる。 さして珍しい話でもない。 「そんな彼女たちにヴァリエール様という、いと尊き御方から手を差し伸べてやるのは悪いことかね」 「感動的な話だ」 酷く感動的な話である。 戦場にて貢献した傭兵団の団長、それも元々は貴族の縁がある人間に手を差し伸べてあげる。 王族の人間が直接に。 それも率いている兵隊丸ごと拾い上げてやるという。 名誉も権利も金もやるという。 「美談だな」 「1000年後のアンハルト王国でも語り継がれるほどに」 拾い上げられた連中の末裔が、それこそ誇りのように私の家はこういう来歴でございと語るだろう。 ザビーネ卿は楽しそうに言ってのける。 確かに、悪くない話ではある。 「ザビーネ卿、少しばかり独り言を言うが宜しいか?」 「構わないよ。実務官僚殿は独り言の癖があると聞く」 「有難う」 私は茶を一口だけ、舌を湿らせるように含んだ。 さて。 「確かに、経済的な話を聞いた気がする。外国から雇用するよりは国内に金をばらまいて、兵を調達した方が良いのは明確だ。私が興味を引いたのは、経験者採用だな。何の手柄も上げておらぬ奴らが使えるからといって、傭兵団の頭なんぞに爵位を与えてやるのは体裁が拙い。なれど、ヴァリエール様の御親征において善良なる人たちを守り、悪党を打ち破るにあたって活躍した者に。感動したヴァリエール様が特別に爵位をやっても、何が悪かろう」 それに文句を言うやつが阿呆なのだ。 ポリドロ卿を侮辱した無能と何一つ変わらぬ、空気を読めぬ者ども。 「文句を言う者は、この女王陛下の片腕である私が抑えることになるだろう」 暗に、爵位の空きも、兵士を今後雇うコストも、体裁もなんとかしようと告げてやる。 これについてはよかった。 だが。 「だが、『多数の実戦経験』はさすがに運否天賦であろう。山賊は基本的に逃げるぞ。不利と見れば一目散に逃げる。あくまで最優先の目的は帝都へ到着することだぞ」 「……確かに、簡単にはいかないだろうけどね。本命は経験者採用の方だから次善策さ」 そこらへんは山賊討伐経験多数のポリドロ卿から、自分を見たら山賊は皆逃げるって愚痴られたから知ってる。 まあ身長2m以上体重130kg超えである筋骨隆々のポリドロ卿が、パレード用みたいなグレートソードを片手でぶんぶん振り回して来たら、そりゃ知能が昆虫以下でも逃げるだろうけどさ。 そうザビーネ卿は呟き、ふう、といつの間にか飲み干していた茶のコップを置いた。 「まあ、なんだ。アナスタシア殿下が、無事選帝侯になってお帰りになられた際に、無能を潰して空いたポストが全部戦場で使える騎士に代わってたら喜ぶだろう。それが将来の自分の片腕たる実務官僚殿が手配したことであれば、酷く喜ぶだろう。手腕を認める。そんな話さ」 言いたいことは全て理解した。 悪い提案ではない。 明確に了解した旨を口にしてやる。 「……ザビーネ卿。無事に成功した暁には、君が為した全てを認めてやろうじゃないか。爵位を受けた後の役職も複数用意するし、軍勢を養う給金も出してやろう。それで、他に必要な物は?」 「法衣貴族の三女、四女にも家でくすぶっている奴らがいるだろう。それこそ、その内に家を飛び出して傭兵団の団長に成っちまいそうなやつらが。このザビーネみたいなやつらが。そいつらの尻を上手くひっぱたいてくれ」 「一応は騎士教育を受けた卵どもを、お前に預けろとの事か。指揮官適性があるならば、そいつらも騎士にしてやると。いいだろう」 静かに、茶の残りを最後の一滴まで飲み干して。 ザビーネ卿の要求を、私は大いに受け入れることにした。 第153話 聖遺物 アンハルト王都のケルン派大教会にて、私は跪いていた。 崇敬の対象は教会の中央であり、磔にされた贖罪主の像が飾られている。 その手にはマスケット銃が握られており、腰の鞘にはピストルが収められている。 大昔は手にクロスボウ、腰にはメイスであったが、写本などを担当する聖職者達が新たなる聖書を発見してきたのだ。 異端どもと最後の最後まで戦い抜き、弾丸が尽きるまで戦い抜き、捕らえられて処刑された後も『勝つまで止めねえぞ! この地獄に何度でも這い上がってやる! 何度でも、何度でも勝つまでだ!!』と絶叫しながら蘇生した贖罪主。 なんて美しい姿なのだろうか。 これほど美しい御姿が世界のどこにあろうか。 このように美しい御方がおられ、聖書たる『新世紀贖罪主伝説』にて今も語られていることを思うと胸が張り裂けそうになるのだ。 私は像を見つめながら、ほう、とまるで梟のように大きな溜息を吐いた。 私などは法衣騎士の長女として産まれ、しょうもない家を継ぐための騎士教育を受けてきたのだが。 ケルン派の教会を訪れ、その極めて神聖なる『新世紀贖罪主伝説』にて贖罪主が復活したくだりを読んで感涙してしまった。 そのまま俗世の穢れを厭って、聖職者となってしまった経歴の持ち主である。 今までの人生に何一つ後悔したことはない。 と、過去を振り返ってしまったが、これはいかぬ。 礼拝の最中であるというのに気を逸らしてはいかぬ。 私はぶんぶんと首を振り、また祈りに集中しようとして―― 「姉妹よ」 背後から声がかかり、このポリドロ領の助祭は振り向いた。 「司祭様」 此の世に産まれ落ちた人の殆どが20歳まで生きられぬ。 平均寿命でいえば、農奴など30を生きる者が殆どおらぬ。 人とは長く生きられぬものなのだ。 そんな中で老境に差し掛かり、いよいよもって神秘性を漂わせるケルン派大教会の司祭様が私に声をかけている。 私は一度立ち上がり、再び向き直って跪いた。 「姉妹よ、そのままお聞きなさい。今しがた信徒ヴァリエールの旅立ちにあたって、我が宗派が為すべきことを決めてきました。ケルン派を代表して赴く立場として、この司祭の言葉をお聞きなさい」 「はい」 アンハルト第二王女殿下ヴァリエール様、およびその指揮下の第二王女親衛隊100名は全てケルン派信徒である。 その従軍神母には私が選ばれ、付き従うことになったのだ。 名誉ある立場である。 この助祭にとっては初陣ともいえる。 もちろん、信徒の旅立ちにあたってケルン派が何も支援しないというわけにはいかぬ。 「信徒ザビーネからはもちろん、イングリット商会からの個人傭兵雇用の要請もあり、火薬の取引があるケルン派信徒の傭兵団に広く声をかけました。急ぎの話であるため、確実な数は答えかねますが……」 「どのくらい集まるでしょうか?」 「ふむ」 司祭様が、片手の掌を開く。 5本の指が立っていた。 「公爵の常備軍に匹敵する兵数500は保証できましょう。だって、こんなにも魅力的な話はない。信徒ザビーネが伝えてきた条件――旅路にて傭兵団の特別な活躍有れば、その団長を騎士とする。指揮下の傭兵も、アンハルトの兵士として雇い入れる。これは法外なものですよ。よく王宮からこれほどの条件を引き出してきたものと」 「信徒ヴァリエールは相当な御方ですね」 あの短躰の可愛らしい顔に詰まった脳味噌に、どれほどの展望を詰めているものか。 市井では今、幸運の長い赤髪を持つ麗しき妖精殿下などと謡われている。 その髪一本でも掴むことが出来れば、生涯の安寧が約束されると。 イングリット商会が吟遊ギルドに金を出したとは聞いているが、麗しい姫君の経歴と真実を謡っただけであるのだからこそ、聖職者としても眉を潜める点はない。 ついでにケルン派が如何に崇高かも謡って欲しいところだが。 「実に素晴らしい。元々、領民が全員信徒たるポリドロ領を将来率いる立場であり、婚約者であるのだから――悪い印象はこれっぽっちも抱いておりませんでしたが。婚約が決まってすぐに直下の親衛隊全員を改宗させるカリスマといい、月ごとの報謝といい、私たちが助力するにふさわしい御方」 「アナスタシア殿下は、私たちの従軍参加を拒みましたからね」 ポリドロ卿が行くのだからと、私たちケルン派もアナスタシア殿下が帝都に赴く際は助力しようとしたのだが。 よりにもよって司祭様に対して、あの御方は。 「頼むから付いてくるな気狂いども、と心底嫌そうに断られるとは思いませんでした」 「まことに」 伝説のバジリスクにも似た――全ての蛇の上に君臨する蛇の王、そのような爬虫類そのものである目つきのアナスタシア殿下。 きっと彼女を槍で刺し殺せばその毒で、槍を持った騎士が苦しみ悶えて死んでしまうし。 馬上の騎士なれば、その騎士が流した汗からの毒で馬すら死んでしまうだろう。 「姉妹よ。とはいえ、アナスタシア殿下を恨んではいけませんよ」 「理解しております」 嘆かわしいというのが本音だ。 正直、ケルン派としては信徒であるヴァリエール殿下に王国を継いでほしい。 だが、能力だけは確かに優秀で、アンハルトを継承するのがアナスタシア殿下であることは決定事項だ。 寡兵、初陣、野戦という重なる悪条件で見事に勝利した彼女を否定することなど誰ができようか。 すでに選帝侯としての継承式も行われる予定であり、信徒ヴァリエールはポリドロ領の領主として迎えられることが決定している。 幸運を与える妖精にも等しい魅力を持つヴァリエール殿下は、アンハルト王国を継げぬのだ。 「姉妹よ。アナスタシア殿下と信徒ヴァリエールを比べて、片方を憐れむなど許しません。『後悔はするな、人を妬むな、人の持ち物や地位を羨むな。やっていいのは見下してきた社会や侮辱した相手への報復だけ』と贖罪主も仰っておられます」 悪に対し悪を以って報いてはならない。 これは贖罪主の警句である。 不当な理由で左の頬を殴られたら、正当なる理由で相手の顔面を殴り返すのだ。 殴られたら人は痛い、侮辱されたら人は悲しい。 それをお前は人に対してやったんだということを十二分に相手に理解させ、改悛を促すのがケルン派の教えである。 「なんて素晴らしい聖句なのでしょうか」 私は感涙を流した。 感動に身を震わせ、心臓は張り裂けそうになる。 脈動が止まらない。 「アナスタシア殿下は確かに私たちケルン派を気狂いと侮辱したが、私たちケルン派が気狂いと呼ばれるのは承知の上であります」 知っている。 『私たちは狂っている』。 それだけは認めなくてはならないし、そうでなければやっていけない。 それはケルン派に改宗した聖職者が最初から何度も何度も教えられる聖句であり、それを否定してはいけない。 私たちはどこかおかしいのだ。 きっと、何か、誰から見ても狂った方向に向かっている。 だから、それ自体は否定しない。 「姉妹よ。私たちは狂っている。それを承知しなさい。いつかいつか、私たちが辿り着く極点に至るまで。本願に至るまで。私たちは喜んで狂い続けましょう」 「司祭様」 私はまだ全ての教えを受けていない、助祭たる立場である。 だから、ケルン派が目指す本願が何なのか教えは受けていない。 私は問うた。 「ケルン派の本願は、『物質を超えたパン』なのでしょうか」 聖餅の儀式にて、ずっと疑問に思っている言葉。 それが何かもわからずに、聖餅とともに信徒に与えている言葉。 私にはそれが本願足り得るように思えた。 きっと、この助祭がケルン派にて学び、聖職者として学術研究の一端を担う結果にはそれがあるように思えた。 「違います」 司祭様は、静かに否定して。 更に言葉を繋げる。 「姉妹よ。貴女は賢い。なれど、未だにケルン派が目指す本願について教えることはできません。『物質を超えたパン』は至る道の、経過点に過ぎません。もっともっと、遠いところにあるのですよ。空に浮かぶ星々よりも、それはきっと遠い」 全てを否定して。 空の星々を刺すようにして腕を上げ、教会のステンドグラスに司祭様は指をさした。 今は昼間であり、星は見えず。 そもそもがケルン教会の夜は経費節約のため松明など灯さぬ。 大教会とはいえ、それがケルン派の在り方である。 司祭様は、この盲目なる私に教えた。 星々など見えぬ昼間の空を指さし、星々を目指すというのがケルン派の本願であろうと思えた。 「いつか全てを教える日が来るでしょう。全てを理解する日が来るでしょう。ケルン派の教えの何もかもを知る日が来るでしょう。ポリドロ卿の神母となり、この司祭の代わりに王都にて司祭となる日が。ですが、それは貴女が帝都に向かう信徒がための従軍神母としての務めを果たし、そこからずっと先の話です。傲慢を恥じなさい」 諭す言葉。 私は有り難き司祭様の言葉を受け入れ、自分の先走りを恥じた。 ケルン派の教えを理解したなど傲慢でしかなかったのだ。 歯を噛んで、顔を赤らめ、目を強く閉じる。 「悔い改めます、司祭様」 「よろしい。貴女の疑問は当然のものでありました。では、話を戻しましょうか」 お互いに頭を下げ、私の頭に浮かんだ傲慢を消し去る。 そうして、話題を戻す。 「信徒ヴァリエールが求めた傭兵団の斡旋は済みました。帝都への旅路は大勢のケルン派信徒が連なるものになります。この行軍が失敗することはないでしょう」 「確かに」 第二王女親衛隊兵数100、ケルン派信徒傭兵団500。 これで、私が知り得るだけでも兵数は600を超える。 加えてイングリット商会が手配する酒保商人を合わせれば、そこらの小さな村の領民数など超える数になるだろう。 幸運なる赤髪を持つ妖精殿下なれば、もはや失敗することなど有り得ない。 成功が保証されているのだ。 「ゆえに、これを機会として。貴女には帝都におられるケルン司教枢機卿猊下に届けて欲しいものがあります」 「届けて欲しいもの?」 確かに、この機会に輸送を行えるのであれば、ちょうどよい。 だが、塩と火薬しか倉庫に無いと笑われる清貧なるケルン派である。 枢機卿に届けたい物など―― 「さて、姉妹は聖遺物なる存在を知っているでしょうか。清貧なるケルン派にも、そういったものがあるのですよ?」 司祭様は、優しく微笑んだ。 何もかもを包み込むような老婆の、しわくちゃの笑顔であった。 第154話 テメレール先生の授業 テメレール公邸の庭にて。 帝都を騒がせた事態が片付き、皇帝への『言い訳』などを顔も合わせずに各々が済ませる中で。 未だ頭の傷が癒えぬ彼女のお見舞いに訪れている。 まあ、お見舞いというよりも、知恵足らぬ私への授業と化している側面もあったが。 「テメレール公、ご機嫌如何?」 「すこぶる良いさ。ファウスト」 テメレール公は公邸の庭にて、日向ぼっこをしていた。 私がかち割った頭蓋も引っ付いたようで、完治には遠いが庭に出るくらいの気力はあった。 「さて、帝都の様子を探る分だとまだ時間はあるな。アナスタシアにカタリナ、あの二人が呼んだという刺客のザビーネが到着するにも間に合うであろう」 「……」 ザビーネか。 まあ、すでに伝えられた話ではあるし、必要とあれば教皇の暗殺でもなんでもやるべきではある。 なれど。 「ザビーネ卿に暗殺が向いているとは思えないのですが?」 「お前は反対か?」 「手段の反対ではありません」 私が疑問視しているのは、聖職者を殺すのが嫌だのと騎士として軟弱な考え方や、教皇を殺して悪名を為すが嫌だとかの名誉的な話ではなく。 「なるほど、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンであれば暗殺の対象が教皇であろうと、物怖じすることがなく遣り遂げるであろうかと。それに疑問を挟む気はありません。性格も才能も、聞くところによれば刺客としての教育すらも受けている。教皇の死体から絹の法衣を奪い、古着屋に売り飛ばすぐらいはするでしょう」 「では?」 テメレール公が顎をしゃくり、促す。 私の疑念は、というと。 「暗殺どころか、帝都の時刻を告げる大鐘の代わりに教皇の死体をぶら下げて帝都を騒がせる。それぐらいならばやりかねない。彼女に手段を任せると、どうも話が派手になりそうな……」 「……」 テメレール公が、胡乱な目つきをした。 お前が言えた義理ではないだろうといった目つきである。 このファウスト、脳筋であることを自覚しているが、自分としては問題解決のために穏当な手段を今までとってきたつもりである。 何一つ恥じる行為などしたことがないことを、いずれ黄泉路で再会する我が母マリアンヌに誓えた。 誰から見ても大人しい人柄であるのだ。 「派手が好きなら別に派手でもよい。教皇の殺害が確定すればよい。どうしても殺害による混乱は起きるだろうが……元々は巨額の賄賂によって枢機卿たちの票を買いまくった前教皇から追い出された後、火薬売買で大儲けしていたケルン司教に枢機卿を与える約束で膨大な出資をさせ、その金で新たな教皇に成りあがったのが今の教皇だ。ド派手に殺しても神はお許しくださるさ」 派手というならば宗教合戦の方がよほど派手である。 公然と汚職が為されており、お互いに平然と告発しあっており、それが真実か虚偽かを公判にて左右するのは論争ではなく純粋なる金貨と暴力のパワーゲームでしかない。 教皇選出は誰が本当の権力者かを、グステン皇帝や他国の王に公示するための殺し合いなのだ。 「それは先日お聞きしました。恥ずかしながら、この私にとっては雲の上の話なので」 「まさか、教皇の名前すら知らないとは思わなんだが。前回の授業の復習だ。教皇の名前を言ってみよ」 そりゃ皇帝はまだしも、教皇に会う機会など一生なかろうと思っていたから興味もない。 しかし、アレだな。 そこらの力自慢の強盗騎士程度では宗教戦に関わったところで一時間後には五寸に刻まれ、野良犬の餌になっているのがオチとなる。 前世はどうだったか知らぬが、聖職者とて淫欲にふけって普通に隠された子はおるし、聖職は実家からの支援という形で平然と売買されておるし、それにより社会は構築されている。 これに文句をつけた他国の学長もおり、その際には十字軍も起こされたが――テメレール公に言わせれば、聖職者に清貧に生きろなどとほざくのは現在の社会秩序の否定だから、ぶっ殺されて当たり前だろの一言で済まされた。 それなりの地位がある聖職者ならば、隠して作った子供も、自分が運営する教皇領も、そこに住む家人や領民もいるのだから、それを公然と非難されたらたまったもんじゃない。 清貧そのものなケルン信徒たる私には初めて耳にする話であったが、まあ私とて辺境領を統治する領主騎士であるのだからこそ、理解はできた。 「ファウスト?」 「失礼。回答します。教皇の名前はユリア2世。公にはユリア教皇で通っております。世間での通り名は戦争好きの政治屋、『暴力教皇ユリア』と謡われております」 「続きを」 テメレール公がチェックを入れるように呟く。 彼女は28歳巨乳眼鏡美人のハスキーボイスで、その本性は人にビシビシ指摘するのが好きときている。 私の前世からの厳しい眼鏡女教師萌え基準を極端に満たしており、私は興奮することしきりであったが、そんなことを口にすればゴミ屑のような目で見られてしまう。 それはそれでよかったが、今はそんな時間ではない。 必死に頭を回転させ、習ったことを口にする。 「経歴は托鉢修道会出身。超人として生まれ、スコラ学(自然科学)に優を見せて成り上がり、若くして枢機卿への推薦を受ける。コンクラーベ(教皇選出)では強力な賄賂の手段に優れる前教皇に一度敗れてしまいましたが、それで諦めるユリア教皇ではない。前教皇から仕掛けられた自派閥に対する断罪、粛清、殺害の暴風雨を生き抜いて、対抗策として火薬売買にて財を成していたケルン司教に枢機卿の座を約束する」 「続けて」 「代替として膨大な出資を要求し、その資金を用いて強力な政治戦力を構築。神聖グステン帝国はもちろん外国に対して影響力を強めていき、ついに他国の王すら動かすことに成功。教皇領に攻め入って、前教皇を散々に打ちのめした後に断罪処刑。威勢にのって、どさくさ紛れに教皇領を占領しにきた貴族どもを打ち払うために自らが教会軍を率いて断罪、粛清、殺害を繰り広げました。故に、謡われるその名は暴力教皇ユリア」 軽い拍手の音が鳴る。 もっと細かな内容を質問されると困るのだが、大部分は私より遥かに賢いマルティナからも補習を受けたので大丈夫である。 「大変よろしい。質問はあるか?」 「ではお聞きします。ユリア教皇は自らケルン司教に枢機卿の地位を与えておきながら、それに異端審問を仕掛けるのですか?」 宗教も政治も複雑怪奇の世界であることは理解しているが、小市民的な自分にはどうも腑に落ちぬ。 「昨日の敵は今日の友。今日の友は明日の敵。かつてユリア教皇は、教会軍総司令官の地位を得ていた前教皇の娘すらも教皇領侵攻時に内応させている。そして、利用し終わった後は処刑した。ケルン司教ですらも、彼女にとってはもう用済みであろうさ」 前教皇の娘が軍人として堂々と表舞台に出ており、母親を殺すのに内応して協力している時点で、このファウストにはもう理解が付いていかないのだが。 そんな情けないことを口にしたら、従者たるマルティナにいつものジト目で見られたのでもう言わない。 言わないが。 「テメレール公、私は信徒としてケルン司教を救うのには協力しますが」 やはり聖職者を殺すというのは別に良いが、教皇相手となるとやり辛かった。 相手に敬虔さなど無いと知ってはいるが―― 「神が恐ろしいか?」 「……なんとも言い難いです」 神の存在証明。 どうしても宗教に関わると、それについて考えざるをえない。 この世界には魔法があり、ゲッシュなる神への誓いも存在している。 だが、人々は貧しく、誰もがその日のパンを得るために生きており、それを身内に与える為ならば他人なんぞ平気で殺せる。 人々は生きている限り、争いを止めない。 さて、神が本当におられるならば、何故このような醜い世界の存在を許すのか。 「私は神の存在を信じています。ですが神はもう世界から去られたのではないかと思っています」 もっとはっきり考えていることとしては、神はシステムとして機能しているが、もはや意思など存在していないのだ。 醜い人を憐れむでもなく、観察して楽しむでもなく、そもそんな感覚を抱いていない。 訴求に対して返答を機械的に為すだけのシステムと看做している。 人を産み出したことにすら何の意味もないのだ。 「我ら騎士が神の恩寵を与えられ、死んだ際に辿り着くヴァルハラすら信じておらぬと?」 「ヴァルハラは存在しますが、それすらも人々を機械的に振り分けているだけだと思うのです」 騎士として徳というポイントがあって、それをガン積みすればヴァルハラに行くことができる。 もちろん、私ごときがその採点基準を知ることはできないが。 「……失礼を。宗教家ではないのだから、この話はやめにしませんか」 ここら辺を考え続けるときりがない。 私は本を読むのは好きだが、哲学は限界がないため好まないのだ。 「構わんよ。お前と話せるならば、どのような話でも良いさ。同時に、嫌な話題というのであるならば止めよう」 テメレール公は眼鏡をひと撫でした後に、そう呟いた。 「有難うございます。では、話を戻しますが――大丈夫です。ザビーネ卿に任せるとは聞いていますが、私とて目的があります。ゲッシュにて誓った、モンゴルの侵攻に立ち向かうという目的です。そのためならば教皇であろうが皇帝であろうが殺しましょう」 「そう言ってもらえると心強い。まあ、いまさら覚悟を疑ってなど居ないが――そうそう」 これで政略の話は終わり、と言ったところで別な話が持ち出される。 「ザビーネ卿を呼ぶのが目的であるとは聞いているが。その、なんだ。お前の婚約者も来るというじゃないか」 「そうですね」 まあ、ザビーネは本人だけを呼んでも来ないだろう。 ヴァリエール様も来るのは当然であった。 「正直、あまり詳しくない。私はアンハルトの情報を収集していたが、特にヴァリエール嬢に秀でた点を感じられぬ。無能ではないが、優秀とも呼べないだろう」 事実である。 私とて、ヴァリエール様が優秀だとは少しも思っていない。 優等生といった呼び方がふさわしく感じられ、知能明晰とは程遠い。 ただ、人は必ずしも優秀さだけで上役を選ぶというものでもないのだ。 あまり悪口は言われたくないと思ったが。 ――テメレール公が言いたいことは、どうも能力へのこだわりではなくて。 「お前から見てどうなのだ? その、なんだ。お前の婚約者というからには、私も、その、色々と話したいことがあるんだ。様々な条件交渉とか。狂える猪の騎士団のサムライなども、是非一度お会いしたいと言っててな」 「はあ」 何を話したいのかは知らないが、話したいというなら咎める点はない。 「構いませんし、御引き合わせはしましょう。ですが、私は正直ヴァリエール様の婚約者という実感がないのですが……」 「おや、そうなのか?」 「嫌いではありませんし、確かに結婚はすることになるでしょう。まあ私が二年後も生きてたらの話でしょうが」 人柄は好ましいと思っているし。 お互いを支え合える幸せな結婚生活も送れるだろう。 性格面には非の打ち所がない素敵なパートナーである。 我がポリドロ領を運営していく上でも、血統から得られる権力としても不足などなかった。 だが、それでも。 ヴァリエール・フォン・アンハルトは乳が無い短躰のメスガキであるという致命的な欠点が存在した。 それはオッパイ星人である私にとっては、罪とすら言い換えることが出来た。 だから、だから。 まだ14歳だし、あの母と姉がいるのだから、どうにかしてオッパイの大きなお姉ちゃんに成長しないかと私は毎週日曜日、礼拝にて神に祈っている。 だが神はもう世界にいないから、多分叶えてくれないだろうなと。 オッパイ神からの恩寵を受け賜るための、その徳の積み方も知らないから、どうにもならないんだろうなと。 私は半ば諦めかけていた。 第155話 優しいヴァリ様の悲嘆 私は親衛隊で一番のアホタレの名前を呼んだ。 「ザビーネちょっと来なさい」 「はい、ヴァリ様」 ヴァリ様じゃねえんだよ。 私の名前はヴァリエールであってヴァリ様じゃねえんだよ。 いつからか、第二王女親衛隊の連中は私の名前を簡略して呼ぶようになっていた。 アンタたち、これが他の貴族相手なら侮辱扱いでぶん殴られてるからね? まあ、別にそれを咎めはしない。 悲しいかな、私の部下のチンパンジーどもは愛情をこめて私の名前を簡略している。 それは理解しよう。 咎めたいのは別な点だ。 私がアンハルト王都から帝都に行くにあたって、城壁外にて壮行式を行おうと――して、集まる人々を見て理解した。 なんか私の軍勢多くね? もう、なんか、明らかに10倍ぐらいに膨れ上がっていた。 「なんでこんなに人がいるの? 私の親衛隊と酒保商人だけで行くんじゃないの?」 「ヴァリ様が帝都に向かうというのです。なれば騎士、従者が増えても当然と言うもの。この旅路にて名を揚げたいという者もおりますれば、道行きを共にして商売がしたいという商人もおりましょう。何せ旅は危険なので、どこで賊に襲われるかもわかりません」 「うん、それはまあわかる」 特段、珍しい話ではないのだ。 旅芸人、交易商人、初陣の機会すらない騎士、そういった者達が行軍に加わるというのは別に珍しい話でもない。 当然、他国や敵方の諜報員ではないかとこちらも疑うのだが、旅というのは娯楽も無ければ物資を、護衛を十二分に備えることも難しい。 それを補填してくれて、かつ相手の身分が保証できるのならば両者にとって損はなく、同行することも珍しくない。 逆に都市商人たちの懇願に対して、領主から命を受けた騎士や傭兵といった軍人たちが護衛をして都市間を移動することすらあるのだ。 だから、同行者がいることは珍しくないし、私とて数名ならば受け入れる心構えをしていた。 「ザビーネ、誤魔化すのはやめなさい。私たち第二王女親衛隊に同行する人数をちゃんと言いなさい」 「さすがにヴァリ様は騙せませんね。およそ900名。内訳は商人が300、傭兵が500、志願した騎士家の騎士もどき三女四女が100であります」 「お前ふざけんなよ」 騙すも何も、どんなアホだって一目見りゃ私の軍勢多くね?10倍くらいになってね?って気づくわバカ。 定数100名にてアンハルト王都からグステン帝都に移動するはずが、なんで同行者900を加えた10倍の1000人に増えてんのよ。 これは明らかにおかしい。 何かの力が働いているとしか思えないし、もう誰がやったかは理解している。 「ザビーネ、何をしたの?」 「ヴァリ様の慈悲深い御心が皆に伝わり、誰もが旅に参加しお助けしたい。そう思うようになったのです。全てヴァリ様の御心に適うことになったと思っております」 「しばくぞ」 鞭か何かで叩いてやりたかったが、それをしてもザビーネは何らかの性的倒錯に陥り喜ぶだけである。 だから、それはしない。 代わりに説明を求めた。 「いや、本当に何。マジで何。何で皆こんなに集まったの?」 「まあ、真面目な話、確かに私は色々とやりました。多少予想を超えましたが」 確かに商人が集まることも、法衣貴族家からいらない子が集まることも、傭兵が集まることも予想しておりましたが。 ちょっと多かったですね、とザビーネは呟いた。 「私たちどっかの街に掠奪したり燃やしたりに行くんじゃないのよ? 私、こんな人数を捌く自信なんて欠片もないわよ?」 何が悲しくて、そこら辺の小さな町よりも多い人数引き連れて旅をせねばならないのか。 それをザビーネに問い掛ける。 初陣だと私と親衛隊15名だけで、ファウストの領民なんか指揮権すら預けてもらえなかったのに。 どう考えても私なんかが指揮してよい人数じゃなかった。 「大丈夫です。そもそも1人の指揮官が1000の兵を指揮できるわけありませんよ。ポリドロ卿の領民を幕下に加えた時と同じで、ヴァリ様は同行者に直接の命令権を持ちません。同時に、同行者たちが何の失敗をしようがヴァリ様は何の責任も問われません」 「本当に?」 「本当に」 私は少し、安心しようとして――いや、待てと自分を止める。 何の責任もないという甘い言葉に騙されてはいけない。 確かにそれは事実かもしれないが、ザビーネの事だから何か甘い嘘をついているのだ。 私は尋ねる。 「要するに、彼女たち同行者が死んだところで、このヴァリエールは何の責任もとらないという約束で騙して連れてきた?」 「ヴァリ様は面白いことを仰る。――まあ、実際その通りなのですが」 「お前マジでふざけんなよ」 冗談ではない。 なるほど、確かに同行者たちは、彼女たちなりの事情があって私に付いてくる。 それは私の知った事ではないと切って捨てればよいのかもしれないが、私はそんな貴族としてふさわしい性格をしていない。 ザビーネを問い詰めようとして―― 「ヴァリ様。傭兵団の団長やら、イングリット商会以外の商会長やらがヴァリ様への謁見を求めておりますが――」 私の親衛隊の面子が、注進してくる。 そういう状況じゃないのを思い知る。 とにかくも、同行者たちも面子があるだろうから、それを慮るために了解しようとして。 「舐めるな。全部断れ。私は誰も彼もに事前に言っておいたはずだ。何らかの成果を見せない者にヴァリ様はお会いにはなられないと。この旅路にて何か成し遂げてから申し出ろと」 「……承知した」 ザビーネが拒否して、冷たく跳ね除けた。 親衛隊員はまあ判ってた、と理解の笑みを浮かべて部屋から出ていく。 私は叫んだ。 「ザビーネ!」 「ヴァリ様。これは必要な事なんです。不要ならば、このザビーネはヴァリ様が嫌がることなどいたしません」 必要も糞も、私はそんなこと望んでない。 「私は王都から帝都に移動するだけで――」 「いや、どう考えてもそうはなりませんって」 ザビーネは否定する。 コイツ、結局何が言いたいんだ。 冷静になろうと試みて、息を吐いて、促す。 「話して」 「さすがにこのザビーネとて全ては理解できませんが、ヴァリ様と、この私ザビーネの婚約者たるポリドロ卿が面倒くさい状況に陥っていることは容易に想像できます」 「私少し流されつつあるけど、別にザビーネの事を愛人として許したわけじゃないわよ? なんでどいつもこいつも、私の婚約者の貞操を先んじて要求するの? 頭がおかしい人たちしかいないの?」 一応口を挟むが、まあザビーネは当然のように聞いていない。 「何故このザビーネを帝都にわざわざ呼ぶのでしょうか? ヴァリ様も多少はご存じでしょうが、私は実家のヴェスパーマン家に居た際に、諜報員はもちろん刺客としての教育も受けております」 「知ってはいるけど。だからと言って――別にそういった用件とは」 「限っております。私の実家たるヴェスパーマン家では頼りない。ならばザビーネを使おう。だが、あやつ単体では帝都にすら来ないから――仕方ない。上司であるヴァリエールも呼ぼうじゃないか。そういう話となります」 ……ザビーネの忠言を噛み砕く。 なるほど、確かにそういう話なのだろう。 帝都に今必要とされているのは私ことヴァリエールなどではなくザビーネであり。 そうして、ザビーネに何らかの命令を姉さまが与えるのは理解している。 「はっきり言います。無事帝都に辿り着けばヴァリ様の命は保証されますが、旅路にては一切保証されません。このザビーネ諸共殺害される恐れがあります」 「どういう意味?」 「確実に妨害工作を受けます。このザビーネが帝都に出向くにあたって、帝都にてアナスタシア殿下と敵対した者から、何らかの妨害を受けると思われます」 ……気にしすぎじゃない? そう思ったが、はて、困った。 ザビーネの言を覆す根拠がないし、そもそもアナスタシア姉さまの配下にはヴェスパーマン家の当主たるマリーナがいた。 なんで実家から追い出されたザビーネをわざわざ呼ぶんだよと考えると、否定しきれない。 「ヴァリ様。お願いです。このザビーネが間違えていたというならば、幾らでも後で謝りましょう。頼みますから、軍勢1000にて帝都に赴いてください。理由もなしに、このような事をしたわけではないのですから」 困る。 自分の短躰に相応の小ぶりな手を額にやり、目を閉じ、しばし悩む。 駄目だ、どう考えても何か帝都で騒動が起きていて、もうザビーネすら投入せざるを得ない事態に陥っていると思えた。 ならば、姉さまへの敵対者からの妨害工作も必然と思えた。 「……わかったわよ。そもそも今さらなんでしょう?」 「今さらであります。集まった皆は誰も彼もが事情があってここにおり、今さら引く気などヴァリ様が直接告げても有り得ません」 むしろ、いよいよ燃え盛るでしょう。 命すら約束されない旅路を自ら了承してここに来た彼女たちが、ヴァリ様の忠言をもって、さあ最後の選択肢だ。 「承知の上だ!」という覚悟を持ってここに来たと、誰もが喜んでしまうでしょう。 ザビーネがそう呟いた。 ならば、どうしようもなかった。 「理解したわ。せめて、このヴァリエールが出来る限りのことを皆にしましょう。ザビーネが言いたいことは理解したけれど、ここから先は私がやりたいようにするわ」 「承知しております。このザビーネはヴァリ様の忠実な騎士でありますから」 忠実な騎士は、いつのまにか主君の軍勢を10倍にしてたりしねえ。 そう言おうとして、止めた。 「とりあえず、どんな人間集めたのよ。そこから始めましょう」 現状を整理するのだ。 ともかくも、集まった人たちが困らぬように、何らかの手筈を試みねばならない。 誰にでも優しくありたいと、心の底から思っているのだ。 私は説明を求める。 「は、説明いたします。まずは商人300名。酒保商人たるイングリット商会長が召集をかけました小さな商会もありますが、殆どは貧しい馬借であります。皆が今回の交易に全財産をぶちまけて、なんなら自分の命すら担保にして今回の王都ー帝都間の商売に全てを賭けております。あの二匹のロバを撫でながら、勝つんだ!勝つんだ!と自分を必死に励まして、ヴァリ様に頭を垂れている貧しい馬借が見えますでしょうか」 「次!」 もうあんまり商人の悲嘆劇は聞きたくないので次にした。 私にはどうにもしてやれない。 さすがに死んだら命は補填できないからだ。 「はい、次に移ります。次は傭兵団500名。事前に面接したところによりますと、傭兵団長は様々な経歴でありますが、とどのつまりは元青い血。貴族の三女四女で先の見えない未来に嫌気がさして実家を飛び出し、最終的に山賊なのか傭兵なのか、なんだかよくわからない傭兵団を率いていたのが彼女たちの現在。もちろん、彼女たちが率いるのも実家を飛び出した貧しい元農民が殆どであります。村が山賊に焼かれてしまった、実家でいらない人間として疎外された、村から追放された。そのように悲しい経歴が殆どであります。今回の旅には誰もが命を賭けており、傭兵団長が世襲とは言えずとも憧れた騎士に成り爵位をもらえる機会に、そして傭兵たちはアンハルト王都直属の兵士として市民権と収入、定住が約束されることに目を輝かせております。見ての通り、ヴァリ様を眩しい目で一心に見つめております。一回こっきりの雇用金が目当てではなく、もう誰もが命懸けで今回に賭けております。今回で駄目なら私の人生など嘘だったと思っている人間すらいるでしょう」 「次!」 もうあんまり傭兵団の悲嘆劇は聞きたくないので次にした。 どうにかしてやりたいけど、どうせいというのか。 いや、もう旅路でなんらかの戦功をあげたら、どうにかしてあげられるかもしれないけど。 何も理由なしに、一代騎士とはいえ爵位なんかあげられない。 人を救うにも理由が必要であった。 まあ、なんか成果をあげたらなんとかしてやれるぐらいの背景をザビーネが用意してそうだが。 だから、次だ。 「はい、次に移ります。100名ほどの法衣貴族家の三女四女です。まあ、ぶっちゃけ先ほどの傭兵団の末路に至る前の、ちょっと若いから、まだ完全になり切れていない荒くれが殆どでありますね。色々実家の紐付きはややこしいので、各々の実家には『今回の旅で死んでも文句言わない』を条件に声をかけております。誰もが札付きの悪で、強盗騎士紛いのゆすり集りを聖職者や市民に働いており、なんなら死んだら実家は喜ぶでしょう。ですが、あの目を見てください。騎士家に産まれた者が、生半可でも騎士教育を受けた者が、騎士に憧れぬわけがない。今回の旅にて成功すれば、一代騎士の爵位と食べていける程度の役職を用意されるのです。以後の活躍にあたっては、それ以上が望めるかもしれない!これで奮い立たぬわけがない!ヴァリ様のためならば死ねる!我々と同じ、長女であらぬがゆえに不遇を受けているヴァリ様の為ならば死ねるんだ!そのような気持ちでヴァリ様を崇め、誰もが膝を折って忠誠を掲げておりまする」 「次!」 もうあんまり、法衣貴族のスペアの悲嘆劇は聞きたくないので次にした。 ちょっと、初陣にて私を庇って死んでしまったハンナの事を思い出してセンチメンタルな気分になる。 彼女の思い出は、私が死ぬまでずっと胸に残っているのだ。 なんでザビーネが死んでハンナが生き残らなかったんだろう。 そしたら、もうちょっとマシな未来が私にもあったんじゃないのか。 ハンナだって有能だったんだから、ザビーネより私の心臓に優しく動いてくれただろう。 そう思えてならない。 だから、次だ。 もっと、なんか胃に優しい存在がいるだろう。 私はそう呟いて。 「聞く必要あるんですか?」 ザビーネが急に真顔になって私に語り掛け、私も黙った。 なんかいる。 なんかいた。 30名ほどの集団であった。 「あれ何?」 「ケルン派です」 マスケット銃を天に向けて、空砲を幾重もぶっ放している集団がいた。 命懸けの旅立ちにあたって調子がおかしくなり、気が触れているのだ。 なるほど、ケルン派であった。 修道女服に身を包み、腰にメイスやピストルをぶら下げ、マスケット銃を手に持つ集団である。 山賊団すら出くわした瞬間に逃げの手を打つ存在である。 誰もが闘争心に満ちているのが分かり、死すら恐れないと一目で理解できた。 命懸けの商人よりも、百戦錬磨の傭兵団よりも、盗賊騎士紛いの貴族子女よりも。 誰よりも、ちょっと、なんか近寄りたくなかった。 明らかに気が触れているのだ。 ケルン派の聖職者集団であり、活きのよい若いのが集っていた。 誰もが命懸けの集団の中ですら、ちょっと浮いた存在であった。 「誰がアイツら呼んだの?」 私は質問した。 「いや、ポリドロ領の助祭以外は呼んでないんですけど」 ザビーネは答えた。 本当に知らないという答えではあったが、だからといって私から「お前ら帰れ」とはケルン派に言いたくなかった。 私は静かに膝を屈して、地面に突っ伏した。 誰一人として救えるものがいない。 悲しい事実を、私は噛み締めた。 そんな私をザビーネが見つめている。 きっと、ザビーネはかわいそうな私を見て、何か異常な快楽に達しているのだろう。 それだけが容易に理解できた。 第156話 落ち穂拾いのヴァリエール 我等は盤の弾かれもの。 或いは家庭、或いは市場、或いはお城。 要らぬ要らぬと棄てられて、石を舐めて飢える日々。 このまま路傍の塵芥と、変わらぬ未来が精々だ。 しかしながらあの方は、枯れた我等の手を取りて 確かに言って下さった。 泣くな、憂うな、腐れるな。お前達は落ち穂なり。 その気があればまだ見えぬ、価値をこの世に示せるとも。 命を懸けて付いてこい。我が身を落ち穂と思うなら、落ち穂の矜持があるならば。その身を以て価値示せ。 どうせいずれは塵芥。此処に居場所が無いのなら、落ち穂の爆ぜ音鳴らすべく、裸足で参じた1万人(※吟遊詩人独特の誇張) 熱砂を、砂利を、ぬかるみを。等しく肩組み踏み越えて。 倒れるものを踏み越えて、長らえ者と生を祝う。 明日もこうして価値示そう。そうして生き抜いた夜明けには、新天地にて芽吹くのだ。我々だけの人生が。 某国の小教会の納屋に納められていた羊皮紙に記された「落ち穂の行進」より抜粋。 ――――― また吟遊詩人が何やら詩を思いついたようであった。 ロバに引かれる荷台の上にて、足を崩してリュートを奏でていた。 「至難の旅。絶えざる危険。生還の保証無し。なれど、貴様には吟遊詩人として我が旅団1000人の顧客を得られよう。同時に衛兵や巡回騎士に袖の下を渡さずして、その命が絶えるまで城下大通りにて自由に謡う権利を与える」という約束で同行を決意した者である。 まさに大盤振る舞いであり、死を賭してこそ初めて叶う欲望により、彼女が奏でるリュートは冴えわたっていた。 さて、一応今回の徴兵は成功したが、不確定要素も混じってどうなるか。 このザビーネ、少しばかり先を危ぶんでいる。 「少し失敗しているか? 誰も彼も予想通りに動いてくれるはずもなし」 思わず愚痴を漏らす。 当然、横で馬に乗る指揮官にも伝わった。 「ザビーネ、なんか凄く不安になることを口走らなかった?」 「何でもないですよ。ヴァリ様」 「何でもないわけあるか」 失態である。 胡乱気に私を眺めるヴァリ様に、私はどうしようかと一寸悩むが。 さて、もはや旅出にまでこぎ着けたなら何も隠す必要は無い。 このザビーネ、ヴァリ様の身代わりであるならば、どんなに惨たらしく死んでも良い。 同時に、全ての実権を握り、ヴァリ様を傀儡として何もかも身勝手を行うつもりでもない。 最後の手綱だけは、ヴァリ様に握っていただくと決めているのだ。 「ヴァリ様。状況は理解しておられると思いますが――」 「理解しているわよ。官僚に筋を通してある話も聞いた。はっきりいって、ザビーネのやり口は気に食わないけど。まあ、誰も彼もが命をベットする権利があるし、ザビーネとて別に善男善女を騙すための嘘をついたわけではない。それは理解してるわ」 決して頭の悪い方ではないのだ。 高等教育を受けており、人心を安寧させる気品と外見を持ち、部下の幸せを考える優しさも持ち合わせていた。 だが王宮では凡庸と扱われ、実際に踏ん切りが弱く、その能力を活かせていないものと看做されていた。 今でこそ初陣や和平交渉など実績を積み上げた事、アナスタシア殿下との関係が良化したために、侮られることなど早々ないが。 どうしても悪いと言えば。 結局は、ヴァリ様は蜂蜜のように甘いのだ。 その甘さは王と騎士という双務的主従契約の上では、お互いのためにならぬ。 だが―― 「成功の暁には、私だけが集まった彼女たちに代価を支払う保証ができるなら。そうありましょう」 ヴァリ様は私が死んだら心の底から泣いてくれるし、死ぬまで私の事を覚えているだろう。 死に際に私の頭を膝元に置いて手を握り、わんわんと泣いてくれるであろう。 だがアナスタシア殿下などは、私が本性のままに力の限りを尽くしても、その死に際には「ザビーネが死んだ? 吉日だな」などと笑って手を叩くしかしてくれぬ。 人から見れば自分の本性など醜い化物だと、理解しているのだ。 「だからザビーネ。何か気にかかっているなら全てを話しなさい」 だから、私はヴァリ様に仕えているし、それ以外を主君にする気もない。 何度も言うが、その立場を傀儡にするつもりもなかった。 さて、最後の手綱を握ってもらうことにしよう。 ここからはヴァリ様が主導し、私が支える旅が始まるのだから。 「では忠言を。ケルン派聖職者があまりに多すぎます。このザビーネは確かに成功報酬を約束して人を集めましたが、ケルン派教会に対しては何もしておりません。ヴァリ様が手ずから助祭の旅費と幾何の報謝を約束したのみでありますから」 懸念を口に出す。 ケルン派はロバなどを連れており、そこに自分たちの食料も載せていた。 火薬と塩も数樽載せていた。 おそらくは酒保商人と取引を行いながら、旅費を補填するつもりである。 ヴァリ様に旅の費用を求めるつもりは全くなく、自弁しようというのだ。 「要するに、ケルン派30名側は何の利益もないというのに。私たちの旅に喜んで同行しております」 ケルン派は確かに頭がおかしい。 聖職者だからと何の利得もないのに、清貧や不遇を呑むこともするだろう。 だが自分のパンや金貨を他人に与えるとか、今回はそういうレベルではない。 聖職者30名の命がかかっているのだ。 「ケルン派独自の、何らかの目的をもって同行してるってこと?」 「はい。何か隠していますね」 だが、断ることもできなかった。 我々はケルン派信徒であり、むしろ聖職者達が何らかの目的をもって動くならば、なにかしら手助けせねばならぬ立場である。 たとえ目的を吐かせようとしても―― 「ですが、おそらくケルン派の末端は今回の意図など知らぬし、下手すればポリドロ領の助祭すら内容を理解しておりませぬ」 脅迫に怯えるようなケルン派ではないし、仮に成功したところで何かわかるとは思えないのだ。 「……私から聞くだけ聞いてみようか」 だが今回の旅団長であるヴァリ様ならば、目的を尋ねる権利ぐらいはあった。 答えが無くても、別に損はしない。 「それとなく、聞いていただければ」 とりあえず、対症療法としてはそれだけである。 しばらくは目的通りに動くだけだ。 「そうするわ。さて、無事にアンハルト選帝侯領も抜けたわ。ここからは我々の誰一人知らない土地だし、アナスタシア姉さまのように皇帝が手配してくれた道先案内人すらいない。大雑把な地図を眺めて、都市と都市で案内人を雇って行動。ついでに」 「めぼしい山賊団を皆殺しにします」 「ねえ、本当にやるの?」 ヴァリ様が嫌そうに呟いた。 別に、人を殺すのが嫌だとか、自分の兵隊が死ぬのは嫌だとか。 そういった現実を忌避しての事ではない。 初陣にて一皮剥けている我が主君が嫌がっているのは―― 「ファウストから散々聞いたでしょう? 山賊殺しても金にならないのよ」 金にならないからである。 本当に金にならないからである。 ヴァリ様はなんか、ものすごい金についてだけは、凄くこだわる人だった。 第二王女に与えられる歳費が変に少ないせいである。 「ヴァリ様の懸念は理解しております」 このザビーネとて、我が愛人たるファウストが軍役で山賊退治をさせられたことの愚痴。 仕方なくやってるけど、もう殺してもアイツら全然金持ってない。 そもそも金持ってたら盗賊は盗賊なんかやってない。 装備も低廉質で、服ごと剥いで売り払っても金にならぬ。 軍役でやってることであり、領主騎士が双務的保護契約を王家と結んでいるがための行動であるから、危地に陥っていた都市に金を要求することもできぬ。 そう散々に愚痴っていたことを知っている。 「これで、まあ誰か善男善女が救われるって話なら騎士として報われる気もするけれど。ファウストが若い時に山賊退治してた話を聞くとねえ……」 もう酷い時は、実は襲われていた村が山賊団とつるんでいて旅商人を襲っていたこともある。 じゃあなんで山賊団に襲われていたかというと、商人から奪った金銭の配分で争いになって殺し合いしてただけで、ファウストはその尻ぬぐいに呼ばれただけ。 よくある話だ。 山賊だけでなく村の住人ごと皆殺しにしてやりたいと思ったらしいが、ただ軍役で参陣してるだけのファウストにそのような権限は無かった。 そのような何一つ報われない軍役負担は全て自弁であり、王家からすら軍役期間の延長といった特別な事情がなければ費用の補填もしてくれない。 ウチの領民はその間、畑すら耕せないのにですよ、と。 そうファウストは大酒を飲みながら、主君たるヴァリエール様に絡んでいたのだ。 主君たるヴァリ様にそんな事を愚痴んなと思ったが、身になっているからまあよいか。 「一騎当千のファウストが心底嫌だと愚痴るのが、山賊退治よ。それを自分からやりたいとは思わないんだけど」 だって金になんないのよ。 ヴァリ様は優しい人だが、蜂蜜のように甘い人だが。 自分の部下が傷つくくらいなら、まあ他人が死んだ方がいいんじゃないの? お前が痛くても私の部下は痛くないわよ? そう言える程度には世の道理を理解している。 「ヴァリ様、要するに金になれば良いのでしょう?」 「そりゃそうよ」 ザビーネが行軍費用かっぱいできたけど、まあアンハルトの根っこがドケチな事には変わりないじゃないの。 というより、100人の第二王女親衛隊の費用だけならともかく、1000人の旅団を王都から帝都まで動かすならば、費用は単純に10倍必要となる。 ハッキリ言って不足なのよ。 ヴァリ様は妖精のように可愛らしい小さな唇でそう現実を紡いだ。 「でも通り道での掠奪は嫌だと」 「掠奪したら本当に見限るからね。ザビーネ」 「やりませんよ。酒保商人を通して交渉はしますが」 それとて、余り酷い真似はするなとヴァリ様に言われている。 このままでは帝都にこそ辿り着けるが、くうくうお腹を空かせながらに歩くことになる。 なれば、このザビーネがやれることは一つしかない。 「だから、山賊団を掠奪します。そうすれば誰一人不幸にならない」 「金にならないから嫌って言ってるでしょう? 何度言わせるのよ」 「なりますよ」 このザビーネには方法論がある。 そもそも、ヴァリ様は勘違いをしているのだ。 ヴァリエール・フォン・アンハルト第二王女殿下と、ファウスト・フォン・ポリドロ卿では身分も立場も違うのだ。 なんなれば、今擁している兵力でさえ桁違いだ。 だからこそ、できることがあるのだ。 私は口を愉悦に歪めた。 第157話 心配性のポリドロ卿 ふと、直感がよぎる。 それは第六感覚的なものであると同時に、ある種の経験則的な要素も含んでいた。 このような時、私の勘はまず外れぬ。 「ヴァリエール様が、なんだか酷い目に遭いそうな予感がしている」 そのようなことが頭によぎり、思わず口走る。 私の従士たるマルティナが、新聞を読みながら答えた。 いつものジト目が入ったすまし顔である。 「いつもの事ではないですか。あんなチンパンジーなのか人なのか、なんだかよくわからないザビーネ卿を筆頭とする頭悪い部下たち抱えて、平和な日々を過ごせているわけないでしょうに」 「うん」 よく考えれば、いつもの事である。 何を当たり前の事を口にしているのだろうか。 ヴァリエール様が不幸なのは誰にとっても当たり前で、私もマルティナも周知の事実である。 私は笑って、自らの短髪を掻きむしった後に――いや、違うなと否定する。 「そうではない。今回の帝都までの旅にて、いつもよりも酷い目に遭いそうな気がしているのだ。なんなら初陣の時よりも酷い事になりそうな気がしている」 「はあ」 じゃあ、いつもより酷い目に遭ってるんじゃないですかね。 だから、それがどうしたんですか。 別に酷い目に遭ったところでいいじゃないですか。 私の知った事じゃないですもの、と言わんばかりにマルティナは新聞を折り畳んだ。 マルティナは何故だか、私の婚約者に刺々しいというか、冷たいところがある。 「先日、テメレール公にも婚約者ではないのか?と問われたばかりだ。よくよく考えたが、ヴァリエール様の相談役でもある私が、こうして何もせず帝都で腰を据えているのはどうか」 「出迎えに行くとでも?」 「それを今考えている」 真面目な話、まあこの世界では男が家で大人しくしている。 女の訪れを心待ちにしているというのは、世間体が悪い話ではない。 だが、私としては好ましい在り方に思えなかった。 このファウスト・フォン・ポリドロは騎士として生まれており、その誇りがある。 「ヴァリエール様が困っているというならば、それが予測できてしまうならばだ。配下として手助けするべきではないか。私は領主騎士として領民を無為に犠牲にすることなどせぬが、ファウスト個人としてならば主君のために力を尽くそうと誓っている。それを違えることなどせぬ」 「……まあ、ファウスト様の性格は理解しております」 さすが私より賢いマルティナだ。 ならば、言いたいことも分かっているだろう。 「真面目な話、拙いだろうか?」 私がしたいのは、そのようにして何の問題もないか? 貴族的な感覚としてそれが問題なのかが、どうも分からぬ。 悲しいかなこのファウストは社交にはとんと疎く、常識など知らなかった。 ゆえにマルティナに問い、解答を求める。 「拙いに決まってるじゃないですか」 我が知恵袋の答えは明瞭である。 「あのね、ファウスト様。確かにファウスト様の婚約者はヴァリエール様ですよ。それは誰もが知っています。さりとて、その婚約者の了承を得たうえで、選帝侯継承式にあたってアナスタシア様に付き添い、パートナー役として祝宴やら夜会やらに参加しているわけです」 「うむ」 相変わらずアナスタシア様が何を考えているかはわからぬが、この帝都で私は彼女のパートナー役を務めている。 この帝都に入る前に彼女と約束した通り、なんとかこなしてはいるのだ。 テメレール公の夜会ではもう酷い目に遭ったし、結果的には色々とやらかした。 占拠されていた堡塁の門は大砲を打ち返して門扉ごと破壊し、三桁のランツクネヒトをぶっ殺した狂える猪の騎士団を全員半殺しにし、テメレール公の頭蓋をかち割って殺して蘇生した。 テメレール公は覚えていないので良かったが、彼女は出血性ショックで一度心臓が停止している。 輸血が間に合って生き返っただけだ。 何もかも、このファウストから見れば仕方ない事であった。 精一杯に状況を解決しようと、こじんまりとした努力を重ねた結果がアレなのだ。 どこまでも大人しく立場をわきまえているのだから。 化物に怯えるような視線は止めて欲しいし、握手していると突然相手が泣き出すのもやめて欲しかった。 怖がって泣かれるのはまだ良いとして、騎士として光栄であると感極まって泣くのがたまにいるのは止めて欲しかった。 もう私、夜会に呼ばれない方がアナスタシア様のためになるんじゃないかと思うんだが。 なんで呼ぶのあの人。 「この帝都におきましては、もうアナスタシア様のパートナーはファウスト様であると周囲に認識されているわけですよ。まあ、その目的は個人的な欲望――いえ、それは今どうでもいいことです。ともあれ、この状況で出ていくのは拙いです」 「私なりに答えを出すとだ。将来の主君たるアナスタシア様を見捨てて約束を破り、婚約者を優先したことになるのか。臣従の義務に違反しているな」 「そうなります。アンハルト選帝侯継承式が目前なんです。そのような明確な侮辱を殿下に浴びせることは許されませんよ。ああ、あの人食い、パートナーにすら見捨てられて婚約者に逃げられたぞ。そう世間で言われるのは間違いないです」 そこらの浮浪児にすら馬鹿にされるような境遇に、アナスタシア様を貶めたいんですか。 そうマルティナに忠告される。 確かに、私はそのようなこと全く本意ではないし、面子商売では許される行為ではない。 騎士道としても当然許されるべき行為ではない。 ただ、アナスタシア様の場合は浮浪児に馬鹿にされようものなら、その場で浮浪児の心臓をナイフでえぐり出して齧るぐらいはしそうであるが。 ともあれ。 「理由は分かったが、なんとでもなるだろう?」 「どのようにすると?」 「この私が、ファウスト・フォン・ポリドロ卿がヴァリエール様を出迎えに向かった事さえバレなければよい。パーティーのお呼ばれだって、もう完全に挨拶周りが終わった後だろうに。要するに、帝都にはキチンと滞在していることにしておけばよい」 別に、誰にも見える形でヴァリエール様を公式に出迎えたいわけではないのだ。 今回かかっているのは婚約者の面子でもなければ、私の領主としての責任でもない。 単に、私がもう心配で仕方ないから、出迎えに行って手助けしたいというだけの話である。 「なんだ、マルティナ。この私の勘はもう確実に当たる。なんなれば、放置すればヴァリエール様は死ぬ予感さえしているのだ。行かねば拙い」 「人はいずれ死にますよ」 「そういう観念論を話しているわけじゃないんだが」 前から気になっているのだが、なんでマルティナはヴァリエール様に冷たいのだろうか。 いくらド短躰のド貧乳とはいえ、私がピクリとも性的に魅力を感じないロリータとは言え。 そのように人様に対して、無礼や失礼を働いてはいけないのだ。 正真正銘侮辱されたならば、人は殺し合うしかなくなるのだ。 私はそれをテメレール公との殺し合いで学んだ。 「ともあれ、決定した。これよりファウストは怪我や病気をしたとして屋敷に引きこもる」 「無理があります。誰も信じてくれません」 「――何がいい?」 確かに、このファウストは怪我もあまりせねば、病などかかったこともない。 何か適当な理由が必要であった。 賢いマルティナにこじつけを求める。 「こうしていては身体がなまると、近くの盗賊団を殺して回っているので忙しい」 「金にもならん盗賊団をわざわざ殺しに行くなど、不名誉である。却下」 浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ、とはよくいったもので。 確かに探せば小さな盗賊団くらいはいるだろうが、何故わざわざ悪人退治などせねばならんのだ。 「騎士としては一見名誉だが、何の利益もないことを誉とやってる愚か者と笑われるのは嫌だ」 「……私の命を救ったファウスト様がそれを言いますか?」 「マルティナを救ったことを馬鹿だと人が笑うならば、別に私はそれでよい。例外だ」 別に私は善人でもなんでもないが、親の罪を背負って幼子が眼前で殺されるなど認められぬ。 全くもって不愉快だから、単純に私が耐えられんのだ。 馬鹿にしたきゃそうしろ。 前世としての私はどうしても許せないし、騎士としての私は愚かな行為をしたと自分を嘲笑っている。 私は二律背反したこの誇りを、私の本性とした。 「ともあれ、帝都の治安維持機構たる騎士や衛兵たちを馬鹿にする行為など論外である。それこそ事前に許可を得てならばともかく、人の仕事の領分に首を突っ込むな。このファウストにそのような権限はない。繰り返すが論外である」 盗賊に法の保護など存在しないが、人様の恨みを買うような行為は避けたい。 騎士道物語的には王道かもしれんが、世知辛い騎士界隈的にはよろしい行為ではない。 「ファウスト様は我が儘ですね。それ以外だと、あまり思い浮かびませんよ」 「賢いマルティナ。私の従士よ」 「下手糞におだてても駄目です。単純に思いつかないんですよ」 ジト目で私を見るマルティナ。 絶対嘘だろう。 いくつか『こじつけ』は思い浮かんでるくせに、わざと教えてくれない。 私は溜息を吐いた。 「結局のところ、何が言いたいんだ?」 「……私を置いていくつもりですか?」 そういう話か。 まあ、そういう話になるんだろうな。 我がポリドロ領にて、今頃は小さな娘と食事をしている――従士長たるヘルガとて同じことを言うだろう。 貴方は、従士たる私を置いていくつもりなのか、と。 「私はヘルガにさえ言い聞かせたのだぞ。この帝都に付いてくることは許さぬと」 「あれは物知らぬヘルガ殿を騙したのでしょうに。十分な護衛を連れ、金をもらって帝都に遊びに行くようなものだから。お前は付いてくる必要は無いのだと」 ――嘘ではない。 私は従士長たるヘルガに問われれば嘘など決してつかぬし、本当にそのつもりであった。 だが、もうそういう話ではない。 「ヘルガ殿が聞けばお嘆きになるでしょう。9歳児にすぎぬ私の足元にしがみついて、大泣きしてファウスト様の従士として務めを為すよう頼み込んできたヘルガ殿が」 ……それを言われると痛い。 要するに、これは従士マルティナとしての言い分なのだ。 貴方が騎士として務めを果たすというならば、それはそれでよい。 よいが、私も従士の務めとして付いていくことに当然なるよな、まさか置いていくつもりではあるまいな、と。 そう遠回しに責めているのだ。 「……いいだろう。マルティナ。騎士として命じる。従士として付いてきなさい」 「素直に最初からそうすれば良いのです」 幼子はあまり連れ歩きたくはない。 本音はそうだが、さりとて単なる子供とマルティナを見るのも失礼であり、これ以上は侮辱に値する。 まあ、下手な大人より強いマルティナを心配する方が馬鹿を見るのだ。 「さて、早速アナスタシア様に会いに行きましょうか、ファウスト様。どのみち、主君の許可を得ずに勝手にヴァリエール様の元へ出向くわけにもいかないでしょう」 「そうするか」 私は大きくため息を吐いて、頷いた。 しかし、どうにもヴァリエール様のことが気になる。 まさか、このファウストが到着する前に悲惨な事にはなるまいな。 婚約者に対する恋慕などではなく、純粋な主君に対する敬慕として、私はヴァリエール様の事がひたすらに気がかりであった。 第158話 権力者からの特別な好意 ――まずは現状把握を。 我が指揮下の傭兵団100名余、その下士官は十全に機能している。 これまで、傭兵団なのか山賊団なのか、なんだかよくわからぬ人生を送ってきた我らである。 村を襲う悪人をぶち殺してきた時もあり、報酬をマトモに支払わなかった村を襲って農民をぶち殺した時もある。 どいつもこいつも私を侮るクズばかりだった記憶だけがある。 戦の機微はそこらのモヤシ騎士より心得ており、静かに静かに、とても丁寧に追い詰めれば被害なしでチンケな盗賊団など確殺できる。 だが、生憎のんびりと長期戦を試みる暇など我々には無い。 今回は戦果を奪うライバルがおり、敵よりもそちらに負けないことが大事である。 「殺せ! 全て首を奪え! 今にも追いついてきそうな、他の傭兵団に未来を奪われるな!」 敵は僅か弱兵30名、放っておけば逃げる相手である。 殺したところで大した金銭は持っておらぬゆえに、盗賊退治の依頼でもなければ無視する。 いつもならば放置し、相手が目も合わせず道を逸れていくのを待つだけだ。 今回は事情が違う。 先日立ち寄った都市にて、ザビーネ卿と手分けして山賊団の噂を入念に仕入れ。 第二王女親衛隊の一員が双眼鏡を用いて索敵を行い、やっと発見した盗賊団である。 必ずや山賊団全員の首を刎ね落とし、ヴァリエール様に捧げねばならぬのだ。 血にまみれた手で、死の恐怖に怯え切った盗賊団全員の首を捧げるのだ。 血に飢えた妖精殿下に捧げる生贄なのだ。 こんな機会が、この帝都までの旅路にて再び得られるかはわからぬ。 貴殿が戦果を示すならば、ヴァリエール様から特別な話があるぞと。 第二王女親衛隊長たるザビーネ卿より耳元でそうささやかれたからこそ、我らはここにいるのだ。 何があろうと、我が傭兵団が今回の戦果を手に入れる。 「団長、お先に!」 足の速い下士官が咆哮を挙げ、ただ逃げの一手を打つ盗賊どもを追いかける。 走りながらも狙いをつけ、マッチロック式マスケット銃を肩で抑えた。 又杖を用意している暇はない。 「狙い撃つぜ!」 下士官は足も達者なれど、銃の命中率など知れていた。 だが弾丸は上手く飛び、有効射程ギリギリの50m先にいる盗賊の肩に命中する。 「まぐれ当たりだな!」 「どこでも当たりゃいいんだよ! 当たれば!!」 もんどり打って地面を転がる盗賊目掛けて、全力で走っていく配下たち。 逃げ惑う他の盗賊にも見捨てられ、地面に転がったままの盗賊が絶叫した。 命乞いだろう。 「殺さないでくれ! 金なら全部くれてやる!!」 「残念だがな。欲しいのはお前らのちんけな金じゃなく、お前の首だ!」 冷たく斬り捨てた。 盗賊のちっぽけな財布が目的ではない。 我々が欲しいのは未来だ。 「首を刎ねろ!!」 配下の一人が盗賊を地面に抑え、もう一人が首を斧で刎ね飛ばした。 まだ足らぬ。 他の傭兵団が追いつくまでに、最低でも過半数は我が傭兵団が首を獲得しておかねば。 「容赦はするな、皆殺しだ! ヴァリエール殿下は一心不乱の皆殺しを望んでおられる! 妖精殿下が歩かれる地面、その全てを血の絨毯で染め上げるのだ!!」 捕虜などいらぬのだ。 行軍の邪魔であるし、降伏した者を奴隷として売り飛ばすような細々とした行為を妖精殿下は望んでおられぬ。 我が行軍に立ち塞がる盗賊は皆ことごとく誅し、地獄送りとしてやれ。 ……ヴァリエール殿下は初陣でも敵を殲滅しておられ、一人残らず皆殺しにしている。 その意味を忘れるなと、私などはザビーネ卿に散々聞かされている。 敵に容赦せぬ性格なのだ。 間違えはしない。 間違えはしないぞ、これが最後のチャンスだろう。 あの幸運の赤髪を持つ妖精殿下に認められ、私が騎士として任じられるかもしれない人生最後のチャンスだった。 「団長! 8名ほどをすでに殺しましたが、他の傭兵団も追いついてきております」 「――団長、か」 そう呼ばれるのも本日が最後だろう。 そうだ、もう団長なんて名前は捨てることになるのだから。 「殺せ、鉛弾も玉薬の残量も今は気にせず、ただひたすらに盗賊の尻を追い回して撃ちまくれ。地面に転げまわれば息の根を止め、すみやかに首を刎ねろ。他の傭兵団に奪われるなよ。死体など打ち捨ててよいが、首だけは回収しろ。懐の銅貨を漁るなど無駄な小遣い稼ぎは許さん! 銅貨一枚のために我々の未来を捨てるなど許されんのだ! それは貴様らとて分かっているだろう!!」 盗賊団の首、その過半数が収穫できればよい。 武功一番とあれば、殿下への報告時にその者の謁見が許される。 そうすれば、そうすれば。 私は団長という名前を捨て、騎士になれるのだ。 今の兵たちを指揮する形での役職さえもらえる。 「殺せ、とにかく殺すんだ。銃で背中を撃ち、身体を蹴り飛ばし、哀れな首を刎ねて回収しろ」 私が今指揮官としてできる命令など、それだけである。 そして、下士官は訓練通りに滞りなく動いた。 結果として、我々は盗賊団30余名の内、18名の首を先んじて手に入れることが出来た。 ああ、これで、やっと。 私は小さく、喉の底で感嘆の声を漏らした。 ―――――――――― 人が取り囲んでいた。 殿下の親衛隊から傭兵団、貧しい馬借をより集めた商人から、私が火薬と銃欲しさで表向きに信仰してるケルン派の聖職者まで。 1000人を超える者が、ヴァリエール殿下と、この私との謁見を見守っているのだ。 他の傭兵団長などが、武功一番にて殿下への謁見を認められた私を羨ましそうに眺めている。 もっと悔しがれ。 その嫉妬が私を肯定する。 嗚呼、なんだかたまらなかった。 今までの人生を考える。 酷い――本当に酷いものだった。 産まれは法衣貴族家の、四女だった。 子供の頃はフェーデと称しては、商人の子供を殴り飛ばしては金目の物を奪ったり、食べ物を奪ったりしていた。 世間によくいる、ごくありふれたクズだったのだ。 少女だった頃の私は勘違いしていた。 暴力は全てを可能にする。 暴力こそ全てを可能にするのだと。 いつか、兵さえ集めれば。 人を服従させるだけの暴力さえ集めれば、領地だって、城だって、爵位持ちとの主従契約だって。 暴力を求める権力者の需要に応じることで、自分が欲するものを誰かが与えてくれると思ってたんだ。 夢が叶いそうな今、それは嘘ではないにしても。 それは困難な道だった。 騎士の成人たる14歳を迎え、母が隠居して、姉が実家を継ぐことになったあの日。 私は実家の金を盗んで家を出て、昔からつるんでいた仲間と集まって傭兵団を組んで一旗揚げようとした。 そうだ、あれが間違いだったんだ。 今ならば、あのような事はしない。 金を盗んだことなど罪深いとは思っていないが。 「家族に騙された」 思えば、私の手の届くところに金があることがおかしかった。 あれは実家からの、体の良い手切れ金であったのだ。 無事に嫡女が家を継ぎ、もはや不要となった出来損ないの四女を家から放逐するために母が仕掛けた罠だった。 あの時、あの場所に戻れるならば、私はちゃんと実家の名誉への脅迫を含めた金銭交渉を経て家を出たというのに。 ああ、それはまだよい。 金を盗んで実家を出て、市警にも手配が回り縁切りとされ、もはや親姉妹と同じ都市には住めぬだけの話だ。 自分の身分証明が出来ぬのは心細いが、金さえ衛兵に握らせれば別な都市には入れる。 だが、次が拙かった。 「どこにも先達はいるものだ」 未だに、あれは傭兵団だったのか、山賊団だったのかわからん。 私自身とてどちらかわからぬので、多分両方であったのだろう。 一応は傭兵団としておこうか。 私と仲間たちは近場の都市へ移動中に、ある傭兵団に出くわした。 勿論私たちは道を明け渡したが、傭兵団が欲しいのは道の優先権ではない。 「金払うか死ぬか選べ」 そのようにストレートな要求。 誕生したばかりの傭兵団の少ない資金が目当てであり、私たちは必死に抵抗した。 中途半端とはいえ騎士教育を受けているのだ。 そこらの庶民より暴力には自信があったし、何より資金を失えば都市にすら入れず死ぬしかない。 だが、駄目だったな。 実戦経験値と、数の暴力にはさすがに叶わなかった。 いや、一騎打ちですら傭兵団の指揮官には、あの頃の私では勝てなかったろう。 おそらく先達だ。 私たちと同じように実家を飛び出した元青い血の穢れた成れ果てだったのだろう。 そして、すでに痛い目を何度も見ていた経験者なのだ。 私が傭兵団の指揮官の槍にて、手酷く打ちのめされたように。 気絶するほどの怪我を負い、服以外の金目の物全てを奪われ、殺された仲間の死体全てが転がる中で呆然とした私のように。 嗚呼、あまり思い出したくない過去だ。 私は紛れもなくクズだったけど、中には巻き込まれて付いてきただけの意志薄弱にすぎない仲間もいたのに。 いい奴だったな。 だから、生き残った私が死んだ仲間の服を全て剥いで、そこらの農村に強引に交渉して売りつけた旅費で、なんとか生き残ったことは許してほしい。 なにせ金が無かったのだから、それはもう全てを弁明するだけの理由に値する。 「嗚呼」 懐かしい。 それでも私は生き残った。 いくらでも代わりの利く兵として傭兵団に入り、元青い血としての暴力を発揮して部下を任されるようになり、傭兵なのか山賊なのかよくわからない集団の団長になって。 流れ流れて生きてきた。 時々、お前どんな経歴でここまで落ちてきた? そんな話を他の傭兵団長や部下とする。 誰もが似たような経歴で、誰もが似たような痛い目に遭い、クズがクズ同士でお互いの血をお互いの身体に塗りたくって生きてきた。 誰もがこう言うんだ。 「結局、真面目に生きてりゃ良かっただけの話なんだけどさ」 そう呟く。 確かに、その道はあったのだ。 それこそ騎士の出身なれば、青い血であることを捨てればどうとでもなる。 姉の従士として今後は生きていくことを誓い、姉妹ではなく主従関係となる。 それがどうしても気に食わないのであれば、他家の子供と交換する形でなってもよい。 戦場に連れていくのだから、騎士とて従士に酷い待遇はしなかった。 これならば普通に生きていくことはできた。 なんなら、普通の庶民などよりも良い暮らしができた。 「従士が嫌なら、他の道もあった」 子供の頃に親に嘆願して手工業ギルドに加入して、職人組合の一員として弟子になる。 親方にはなれずとも、職人くらいにならば成れたであろう。 よっぽど覚えが悪くなければの話になるが、まあ食べていくだけならできるだろう。 そうだ、なんだかんだと言って、どこの母親とて私のようなクズを好んで育てているわけではない。 真面目に生きる。 それだけができればよかった。 本当はそれだけが出来れば、食べていくことならできた。 誰も彼もが、たまに後悔をして愚痴を吐く。 そんな私でもわかっていることを、そんな当たり前のことを皆が言うんだ。 私はそれが嫌だった。 「一度きりの人生なのにそれでよいのか?」 思えば、私のような山賊とも傭兵ともつかぬ人間など、世界に沢山いるのだろう。 そうして、私と同じように単純なる暴力で何もかもが叶うと阿呆な事を考えて、阿呆物語を演じて死んでいく。 此の世は法と血縁が固めた社会秩序という、封建社会における史上最強の暴力が支配しているというのに、それを認めないのがいけない。 川の水を飲む権利から、森で動物を狩る権利まで権力者が所有しているのだ。 権力者は貴族であり、聖職者であり、場合によっては商人であった。 それぐらい私とて騎士教育を受けていたのだから十分理解している。 理解しているくせに、夢を見た。 私は。 「私は騎士になりたいのだ」 暴力以外に何のとりえもない四女の私は、一つの原風景を覚えている。 ある騎士の姿だった。 立派な馬に乗り、よく磨かれた甲冑を着て、見栄えの良い家紋の刺繍入りマントをひるがえして。 槍を持った従士を傍に従えて、通りすがりの庶民などが畏怖と、少々の憧れの目などで見ている。 それだけだった。 私は権力者になりたいのではなく、きっと、おそらく、あの騎士の姿に強い憧れを抱いてしまった。 だから100余名を率いる団長になっても、少しばかり年増になっても。 このような傭兵団なのか山賊団なのか、なんだかよくわからぬ連中を率いてきた。 強大な暴力を有すれば、大きな戦が起きれば、きっと大きな戦功を上げることができれば。 権力者からの特別な好意が与えられると信じて。 そして。 「ヴァリエール・フォン・アンハルト殿下。こちらが今回の盗賊退治にて、武功一番であった傭兵団の団長であります。名を――」 今は、アンハルト王家の第二王女殿下にして。 今回の帝都までの旅団を率いている、明確な権力者であるヴァリエール様に私は膝を折り、平伏している。 何もかもザビーネ卿が約束した通りであり、彼女は私の夢を現実のものにしてくれた。 権力者からの特別な好意を目前にしていた。 「本人から聞くわ。名乗りなさい」 蕩けそうな声が聞こえた。 妖精殿下と呼ばれるヴァリエール様の声が尊いのか、私の頭がどうかしてしまっているのか。 それすら、よくわからぬ。 凛とした、それでいて甘ったるい少女の声だった。 私は名乗りを上げた。 自分の声が震えていないか、それだけを気にして、目の前の権力者に告げたのだ。 「よろしい。貴女は今回、特別な戦果を挙げた。善男善女を苦しめる盗賊団を見事掃討し、この地に安寧をもたらした。この土地の領主も喜ぶことだろう」 ヴァリエール様が、顔を上げなさいと。 そう呟いたが、さて、どうしようかと迷った。 一度目のお呼びで顔を上げるのは拙いかもしれない。 だが、遠慮して再度促されるのも失礼なのかもしれない。 嗚呼、どうかしている。 脳から、何か変な汁が垂れてしまっているような。 異常な興奮が私の拍動を早めている。 「……顔を見たい。顔を上げなさい」 私が困っているのを察してか、再度ヴァリエール様が促した。 顔を見つめる。 こちらを優し気に見つめる少女の顔であり、王族の血統がその美貌を与えていた。 彼女がたとえ襤褸を纏っていても、これでは身分など隠せないと思うほどに。 「私はこの旅団を指揮するものとして、アンハルト王家を代表して褒美を与える義務がある」 嗚呼。 私は、ついに。 「問おう。汝はアンハルトの騎士として仕える気があるか? 貴女が望むならば、私は本日この場にて騎士叙任式を執り行い、汝の肩を剣で叩くことになるだろう」 穢れた青い血崩れが、騎士という原風景を手中にしたのだ。 もう死んでも良いような幸福感が、私を満たしている。 答えなど決まっている。 「至上の誉れであります。我が王。マイ・ロードよ」 この儀式はアンハルト王家の騎士となる叙任式であり、ヴァリエール様と主従関係を結ぶための契約ではない。 だが、それでも。 私は今、目の前の権力者の好意を受けて、心が蕩けそうになるほどの忠誠を抱いた。 ヴァリエール殿下は何もかも約束を守って全ての報酬を支払ってくださったのだ。 殿下の命令とあらば、何だってやってしまうだろう。 それだけの特別な好意を殿下に受けてしまった。 「私は今日、騎士となるんだ」 叙任式が始まる前に、それだけをポツリと呟いて。 今までの人生全てを賭けた代価を、私はようやく手にした。 第159話 肩を剣で叩く意味 傭兵団の団長に対し、神聖なる騎士叙任式を済ませた後。 私は親衛隊で一番のアホタレの名前を呼んだ。 「ザビーネ、ちょっと来いや」 「はい、ヴァリ様」 ヴァリ様じゃねえんだよ。 この状況で、よく人の名前を愛称で呼べるな。 私は怒っているんだよ? お母様が出来る限り行軍の見栄えが良いようにと、今回のため貸してくれた豪奢な馬車の中に二人で潜り込む。 よく考えればお母様、行軍の見栄えが良いようにって、今回の行軍が大規模になることを事前に把握してたくせに私には何も教えてくれなかったってことじゃないの。 むしろ、私に状況がわからないように妨害してた節さえある。 私をいじめて楽しいのか? さぞかし楽しいんだろうな、あの性悪ども。 懊悩するが、今はそんな事考えている場合ではない。 周囲は我が親衛隊が陣を敷いているため、多少は大声を出しても大丈夫だ。 私は声を絞った絶叫を放つ。 「どうしてこうなったの!?」 「いえ、ですから、説明したはずですよ」 ちゃんとリーゼンロッテ女王陛下にも事前説明はしておりますし、実務官僚殿からも了承を得ておりますので。 ヴァリエール様は心置きなくアンハルト第二王位継承権の持ち主として、王族にふさわしい態度にて騎士叙任権をお奮いくださいと、そう申し上げたはずです。 しれっと、ザビーネは呟くが。 それに関してはキッチリやったわ! 全身全霊で私なりにやり遂げたわ! 私の身の丈風情のちっぽけなカリスマが、ぶんぶん奮ってたわ! 「これがアンハルトに向いた忠誠だったなら私だって、別に気にしてないわよ! こんな思い悩んでないわよ!!」 別に、これが叙任権を奮う初めてではない。 古くは第二王女親衛隊に示したし、最近では地方領主へのドサ回りの際に、ついでだから娘に殿下が叙任式を行っていただけないかと。 領主に頼まれて、好意を示したことさえ幾度もある。 問題は、そういうことではない。 「あの娘、明らかに王国じゃなくて私に対して忠誠を向けたじゃないの!」 「いや、そりゃあそうですよ」 別にアンハルト王国が何かしてくれたわけじゃないもの。 騎士という権利を得る機会をくれたのはヴァリエール殿下であって、別にアンハルト王国ではないのだから、と。 ザビーネがどこ吹く風といった顔で呟く。 「彼女が恩を感じるのはヴァリエール殿下に対してであります」 「今後、給金を彼女に払ってあげるのは私じゃないのよ? アンハルト王国の歳費からなのよ?」 で、あるのに。 これから給金を払ってくれるのは確かに王国かもしれないが、恩を感じるのは、自分の肩を剣で叩いてくれたのはヴァリエール殿下である。 リーゼンロッテ女王陛下? 次期女王陛下のアナスタシア殿下? うん、それが王命ならば、理不尽でない限り言うことは聞くよ。 その程度でしかない、そういう目であった。 「ヴァリ様、ヴィレンドルフの英傑レッケンベル卿が帝都ウィンドボナ侵攻に際して、ランツクネヒトと呼ばれる傭兵集団を集めたのは御存じですよね」 「知ってるわよ」 「彼女たちに現在給金を払っているのは神聖グステン皇帝マキシーン陛下ですが、ランツクネヒトは義理以上の忠誠を誓っておりませぬ。彼女たちは未だにレッケンベル卿の名前を忘れておりません。人は給金を今払ってくれている人間よりも、チャンスをくれた人間にこそ恩を感じるのです」 いくら自分がその組織に属して給金を得ていることを認識していても、その組織で会ったこともない最上位の人間に、義理以上の忠誠など決して誓いはしない。 幾ら神聖なる騎士道精神を説いたところで、所詮ほとんどの人間などその程度だ。 人は自分の手を握り、自分の存在を認識し、自分の名前を読んでくれた偉大なる人物に従うために生きるのだ。 それはわかる。 それは王族としての教育を受けた者として、理解できるのだが。 「なんで初めて会ったばかりの人間が、私に対して絶対の忠誠を誓っちゃうのよ!!」 「いと尊き血統にして騎士叙任権を持つヴァリ様が、彼女の存在を認識し、彼女の名前を呼び、彼女の肩をその剣で叩いたからです」 なんでそんな簡単な事がわからないんですか、ヴァリ様と。 ザビーネがそのように、少しばかり悲し気に呟いた。 まあ完全なポーズであり、私がこうして怒っているのもザビーネの掌の内なんだろう。 それだけは私もわかっている。 「ヴァリ様。ポリドロ卿が何故、貴女に従うか考えた事は?」 「何よ、突然」 「ちょうど良い例だからです。ファウスト・フォン・ポリドロ卿はヴァリ様を死んでも裏切ることはない。それが何故なのか、お考えになったことは?」 頭痛がしている。 しているが、ザビーネは無意味なことなど言わぬ。 私は少しだけ頭を整理しながら、反射的に返答を為す。 「私の婚約者だから?」 「ポリドロ卿はヴァリ様に性的な興味を一切抱いておりませぬ」 薄々気づいていることを、ザビーネはズケズケと言った。 いや、ファウストは生真面目の塊のような人間だから、まあそうなんだろうけどさ。 私との婚約とて、まあ領主としての側面からの義務的な意図があるだろう。 私とファウストの間に情欲がないとするならば。 「……王族だから?」 「間違ってはいないでしょうが、ずれております。ヴァリ様には権力があり、それによりポリドロ卿は救われた。それは事実ですが、少しだけ違います」 自分で違うだろうと理解している意見を言い、ザビーネに半分認められて半分否定された。 まあ、しっかりと頭を整理すれば、ちゃんと答えは出せるのだ。 今までの会話から読み取るならば、理由は一つしかないのだから。 「ファウストの肩を剣で叩いたのは私であり、他の誰でもないから」 ファウストが命懸けで私に尽くしてくれる理由など、ただの一つしかなかった。 私がファウストを見つけて、彼を自分の相談役にしたからだ。 ファウストは確かにアンハルト王国リーゼンロッテ女王陛下と領地保護のための主従契約を結んでいるが、叙任式(オマージュ)において肩を剣で叩く相手は私を選んでいる。 どうか叙任式は女王陛下からではなく、ヴァリエール様に代行して頂けないだろうか。 そうファウストが訴えたのだ。 「……正解となります。ヴァリ様、私は以前にポリドロ卿に酒の席で問うたことがあります。何故、ヴァリエール様を見捨ててアナスタシア様に尻尾を振らないのかと。そっちの方が明らかにポリドロ卿にとって得じゃないかと」 「なんて答えたの?」 まあ悲しいくらいに事実ではあるが。 少しだけ、気になった。 「人肉食ってそうだから嫌だと」 「いや、まあ。確かに姉さまは怖いけれど」 本気でそう言ったわけじゃないでしょうに。 ザビーネは、こほんと喉を鳴らした。 「それは冗談として。まあ私にも情があるのだから嫌だと。別にアナスタシア殿下にもその情がないわけでない。ヴィレンドルフ戦役での戦友としての関係もある。主従契約の対象をアナスタシア殿下に変更したとして、誰が批判をするわけもないだろうがと前置きをして――」 ザビーネが、にやにやと笑いながらに言葉を止めた。 さっさと言えやカス。 私はそう言った視線を送り、ザビーネは頷いた。 「まあ、このような事は酒の席だから言えるんだが。正直、ヴァリエール様にお声を頂いたときは困っていたのだ。何せ、アンハルトでは醜いと蔑視される筋骨隆々の身の上で、しかも男騎士だ。それどころか、家の評判とて良くない。世間では発狂した扱いでしかない『気狂いマリアンヌ』の一人息子と呼ばれ、周囲の貴族の縁とて全て絶えており、もはや身動きが取れなかった。リーゼンロッテ女王陛下との主従契約のための謁見は延々と待たされており、三か月をとうに過ぎていた。それでも私は待つ以外に何もできなかったよ。本当に何もできなかった」 ――そうだ。 その弱みに付け込んで、私はファウストを相談役として選んだ。 姉さまと比べて何の才能もないと、周囲全てから馬鹿にされていたのが私のあの頃の立場だ。 そのような私とて、窮に瀕した立場のファウストならば断わらないと思った。 「もちろん、私とて利害を計算してヴァリエール様の手を握ったさ。王宮闘争など関わりたくないが、まあヴァリエール様にその力量など無いからよいか。そういう相談役ならやってやろう。そう計算したし、それは間違いなく本音だ」 別にファウストの本音を責める気はない。 自分の領地を一番に考える封建領主としてはそれが正しいし、そもそも主従契約とは双務的契約であるべきなのだ。 御恩と奉公であり、お互いに利益のある契約でなければならない。 「だがな、まあ。正直言えば、私はヴァリエール様に感謝したし、だから叙任式においてはヴァリエール様に自分の肩を剣で叩く役を自らお願いした。そうさ。ザビーネ卿」 ザビーネは、ただファウストが何を酒の席で言ったかを単純に並び立てている。 彼女が何を言わんとしているのかは、もうわかっている。 「私は、このファウスト・フォン・ポリドロは、領主騎士としては利害を交えずして物事を考えられぬが。一人の騎士としては、あの時、まあ自分を助けてくれたのはヴァリエール殿下なのだから、この人のためならば死んでも良いだろうな。そう考えたのだ。こう言わせたかったのだろう、ザビーネ卿と」 結局、あの傭兵団の団長と同じなのだ。 私としては、別にその程度で命を捧げろなんて傲慢な事は考えていないのに、ファウストはそう受け取っていない。 「まだヴァリエール様は王族教育を受けたといえども経験が浅いのだから、剣で肩を叩かれた騎士が何を考えるか、下々の気持ちも実感できぬだろう。私のような低俗な者こそが、受けた恩に執着することがあることを、まだ分からぬだろう。それを人は時に情と呼ぶのだ。だから、もし機会があれば今の言葉をよくよく殿下に伝えるといい。どうせ、ザビーネ卿の事だから、この話をいつかは殿下にお伝えするつもりなのだろう? 是非そうするがよい」 すう、とザビーネが一息吸った。 ほぼ、言いたいことは全て言い終えたという顔であった。 最後に一言だけ。 「ヴァリエール様にこのような事を考えていると知られるのは気恥ずかしいが、まあ、殿下のためになるならそれでよい。ついでに、ヴァリエール様には、殿下は気づいていないが殿下なりに騎士が忠誠を誓うに値する魅力があることを、よくよく申し上げておけ。人は貴族としての立ち回りの良さだけに従うのではないと」 ファウストが何を考えて、今まで私に尽くしていたかを教えて。 ザビーネは次の言葉を告げた。 「初陣にてヴァリ様を庇って死んだハンナとて同じ。不肖ながらこのザビーネも、まあ他にも色々とありますが、ヴァリ様のために死んだところで後悔などしませんよ」 私は、その言葉が理解できない。 別に騎士であるからとか、自分の主君であるからとか。 私が利益を提供できないなら、もう見捨てていけばよいのだ。 「私を利用して、踏み台にして、より良い立場に行こうとは思わないの? 私はそれでも責める気はないわ。主従契約の破棄なんて、よくあることよ。お互いを利用して、それだけでしょうに」 「それはヴァリ様の勝手な理屈であり、恩を受けた側はそう思いませんよ?」 ザビーネが、寂しそうに呟いた。 頭のおかしいザビーネが、本当に少しだけ寂しそうにして。 「ヴァリ様。私は今さら、アンハルトの王位を継いでほしいなど全く考えておりません。王族として貴族として成長して欲しいとか、そのような目論見で今回の事をやったわけではありません。正直、知らない方が幸せということもあるでしょう。ですが」 一つだけ、忘れないで欲しいことがあると。 そう呟いた。 「私たちが死んだときに、我々の気持ちを全く理解せずに、勝手に哀れむなど止めて欲しいのですよ。我々には我々の意思があり、貴女のために死ぬのです。心底それでもまあよい人生だったと、受けた恩を返したと、そう思っているのですから」 ――きっと、死んだハンナとて同じことを言うでしょう。 ザビーネはそう告げて、口を閉じた。 私は、何も答えられない。 少し沈黙し、感情を整理する。 「……私に従う者の気持ちは理解したわ」 それしか言えない。 なるほど、このヴァリエールは、自分に仕える騎士の気持ちもわかってない未熟な人間で。 そういう人間がいることは教育で把握できても、ちゃんと理解してなかった。 反省するとしよう。 「わかっていただけましたか」 念押しするように、ザビーネが声を出す。 確かに、私は未熟であり、反省するべきところがあった。 それはわかってはいるが、一つだけ。 「ねえ、ザビーネ。それはわかったけど、一つだけ気になってることがあるの」 「何でしょうか?」 そのちょっといい話と、今の状況に何の関係がある? それだけが気になった。 「なんかちょっといい話されて誤魔化されかけたけど」 私ははっきりと、自分の意思を述べた。 「重いこと極まりない忠誠を傭兵団長から誓われたことと、今後も行軍に参加した色んな人たちから私に忠誠が集まることと。ザビーネにもう純粋に騙されたせいで私の胃が今後もズキズキ痛むこと間違いなしなのと、今までの話に何の関係があるの?」 私が本当に聞きたいのは傭兵団長が何故忠誠を私に誓うのかではなく、全部理解してたザビーネが何故私をこの状況に追い込んだかである。 もう、なんか、私の教育が足りないこととは何も関係ないじゃん。 今の話、今の状況と何の関係もないじゃん! ちょっと感動したけど、もう、私が困っているのはお前のせいだよね!? 一から百までザビーネのせいよね? こうなることに全然気付かなかったヴァリ様側がもう全部悪いとか言わないわよね? 握り拳を作って、そう率直に述べた。 小さな腕をぶんぶん振り回して、ちょっと泣きながら叫んだ。 「……」 ザビーネは少しだけ言い淀んだ後に。 簡潔に答えた。 その頬は少しだけ紅潮していた。 「ヴァリ様が人に崇められている姿を見ると、それをヴァリ様が心底嫌がっている姿を見ると、性的に興奮するので――やったところはあるかなと。まあ正直、ヴァリ様に対する教育はおまけです」 「しばくぞ」 結局、今の状況は何もかもザビーネのせいであり、もう私が王族として、上に立つべき者として未熟な事とは一切何も関係がなかった。 私はザビーネの尻を思い切り蹴飛ばして、悲鳴を挙げさせた。 その悲鳴がやや快楽を帯びていたことに――私は心底ウンザリした。 第160話 ザビーネの倫理観 ザビーネへの折檻を終え、陣を引き払いて。 ゆっくりと、私とザビーネのみを乗せた馬車は動いている。 結局のところ、まあ何をやりたいのか、『ザビーネが本当は何をしたいのか』については十分に理解しつつあるのだ。 ――私の今後の人生の目標は。 かつて従姉妹であるアスターテ公爵に宣言したように、第二王女親衛隊14名の将来を約束することであり。 後はアンハルト王族の務めとして、そして婚約者たるファウストへの僅かばかりの礼として、彼の子供を産めばよい。 それで私の人生などは終わりであると考えていたし、正直言えばそれ以上の望みなど私にはないのだ。 気心の知れたファウストと結婚すること自体は歓迎だし、宮廷から離れて田舎領地に隠棲できると考えれば良い話であった。 このヴァリエールが歩く人生の結末としては、決して悪くないエンディングである。 だが、そうはならぬ。 「少し真面目な話をするわ、ザビーネ。さっきみたいな誤魔化しをしないで、何もかも正直に答えなさい」 「はい、ヴァリ様。私は主君が気づかれたことならば、騎士として全てを正直に答えると誓います」 逆に言えば、気づかないなら死ぬまで黙ってるってことでしょうに。 こめかみに走る頭痛を抑えて、言葉を吐く。 「私の人生プランって容易く崩れそう? もうポリドロ領に引きこもる未来はないの?」 「正直に言えば、いつまで夢見てんですかといったところですね」 このザビーネとヴァリ様の婚約者たるポリドロ卿は、ヴァリ様との結婚生活を考えている状況下には無い。 ゲッシュを誓ってまでも、アンハルトに対する侵略に立ち向かうと訴えたのだ。 それを考慮すれば、ポリドロ卿の予感を信じるとするならですが。 そう前置きして、ザビーネが訴える。 「私の見立てでは、戦は確実に起きるでしょうね。それも歴史に残るような大戦です。その詳細については、我々が帝都に到着するまでは明らかにならぬでしょうが。ていうか、もうどうせその関係のトラブルですよ。帝都で今起きてるのは」 まあ、そうなるのか。 どうせ帝都ではもう、なんか無茶苦茶な状況になってるんだろうなというのはわかる。 だが、どうして。 私が予想するならば、どうして。 「どうして私がその歴史的大戦に参加しなきゃならないのよ……」 「いえ、そりゃヴァリ様が王族だからですよ。あとポリドロ卿の婚約者だからですよ。しかも最近まで防衛戦争のために協力してねって地方領主にドサ周りまでしたでしょうに」 「まあわかるんだけど」 立場的にはわかるんだが、愚痴は言いたい。 婚約者が死に物狂いにて国のために戦うって主張してて、それにゲッシュの場にいたアンハルト領邦貴族ほぼ全てが同意しており、私などはそれを地方封建領主に認めさせるために各地へドサ回りまでした。 で、いざ大戦となってみれば、何度も繰り返すがアンハルト王族でポリドロ卿の婚約者で地方領主に大戦参加を約束させたヴァリエールは、国家の存亡を懸けた戦場にいません、と。 もう姉であるアナスタシアが女王になったんだから、私はポリドロ領にて隠棲することにしました。 そんな舐めくさった戯言が誰にも通るわけがないことは、私だって理解できる。 それはそれとして愚痴を言わせてもらえれば。 「私、本気で何も役に立つ自信ないんだけど」 私いらないわよね? どう考えてもいらない子よね? そんなんザビーネだってわかってるじゃないの。 私は高等教育を受けているが、もう何の軍才もなければ政治力もない女なのだ。 そう訴えるが。 「できるかできないかじゃなく、もうどうしようもなかったら最後までキッチリやって死ぬのも貴族の義務だよね? 仮にも王族だよね? 違うならお前今まで何のために市民の税を食んで生きてきたの? 戦勝祈願の儀式としてヴィレンドルフでは出陣前に牛の首刎ねたりするらしいけど、お前その牛さんの代わりに首斬られて死ぬ? くらいならば、あの人食いなら言います」 うん、姉さまならそれくらいは言う。 アナスタシア姉さまとは初陣以降、なんとか関係改善はできたのだが。 それはそれとして、王族なんだから国のために死ね、役目だろぐらいは平然と言う人間である。 姉さま自身がそういう覚悟を決めており、そういう人物だからヴィレンドルフ戦役にだって王族の義務として自ら戦場に赴いたのだ。 戦場における能力が無いなどは、それが事実でも怯懦な言い訳としか扱われぬ。 「ぶっちゃけ、ヴァリ様に大軍を率いる能力などないこと。このザビーネよくよく承知しておりますが、別にいらないでしょうに。そんなの」 「どういう意味よ」 「そのままです。個人の突出した武力であれば、それこそアンハルト最強騎士たるポリドロ卿がおります。このザビーネとて、親衛隊直下となるだろう兵卒数百名程度とあらば十全に統率して見せましょう。むろん実戦経験については、この旅路にて積む必要がありますが」 アナスタシアやアスターテ、ヴィレンドルフのカタリナ女王とて相手取ってみせましょうぞ。 その三人合わせたより強かった上に、このザビーネをして諜報戦でも勝てなかったであろうレッケンベル卿だけは勘弁ですが。 もうポリドロ卿に運悪くぶちあたって、ダイスの目が狂って死んだから大丈夫。 レッケンベル卿の死について、ザビーネはまるで事故死のように解説した。 まあファウストと一騎打ちするってことは、もう隕石が自分目掛けて落ちてくるレベルで運が悪い事故死みたいなもんなんだろうけど。 「我々がヴァリ様に戦場で唯一お願いすることは、天蓋の無い馬車の椅子に座って、私たちや兵士が戦うのを後方から見守っていてください。それだけでありますよ」 まあ、そうなるだろうし、それしかできないだろな。 結局は私が出来るのは活躍した騎士や兵に褒美を与え、誰に対しても公平である事。 それだけは王族たる私にしか許されていないのだ。 溜息をつく。 結局、ザビーネはそれこそ実家のヴェスパーマン家にゆすり集りを働いて金銭を入手して。 第二王女親衛隊の従士を集めて銃兵として訓練し、帝都に向かうこの旅路にて多くの参加者を集めた事と全く同じで、目的など一つだけだ。 『ヴァリ様の兵隊を作ろう。肉盾を作ろう。私の家族の第二王女親衛隊を守るため、私の主君たるヴァリ様を守るため、私の男であるポリドロ卿を守るため。こいつらはその生贄なのだ』 その考えから、少しばかり規模が拡張しただけで。 大戦において、私が声をかけたならば配下として加わってくれるであろう集団を、ザビーネはこの旅路にて作ろうとしているのだ。 もちろん、すでに語られているとおりに「帝都到着まで私を護衛するための兵」であり、「なんか黙ってた方が楽しそうだったから」という愉悦じみた理由や、「はっきり肉盾用意しますって言ったらヴァリ様怒るじゃん。別に気にしないでいいのに」などの気遣いもあったのだろう。 ザビーネは今回の旅路にて幾重もの目的を叶えようとしており、確かに集まった彼女たちへの報酬についても何一つ嘘などついていなかったが、まあ最後には全員ヴァリ様の為なら使い潰して大戦で殺しちゃえばいいと。 そこから先はヴァリ様の人生にとって用済みになるからと。 この旅団に集まった兵士の命を、そのように考えているのだ。 特別に親しい者を除けば、本当にムシケラ以下の価値すら感じていない。 頭痛がする。 胃痛がする。 とにかく、吐き気がするほどにザビーネの狂った倫理観や私への忠誠が悲しかった。 ザビーネの思考は稚気じみた純粋さがあると同時に、どこまで即席で利益を得ようとするのかというぐらい、直情的にして計算高いのだ。 サイコパスのチンパンジーであるのだ。 もうよい、どうにもならない。 私はそれでも忠誠を誓ってくれるザビーネを見捨てる気にはなれないし、一度私を頼ってきた以上は、もう誰一人として見捨てることはできないのだ。 私が自身についてを、どうしようもない阿呆と断じるしかできない欠点である。 夢見る傭兵団も、貧しい馬借も、家に見放された貴族の三女四女も、すでにザビーネがしてしまった約束があるならば、それを私は上司として最後まで保証するのみだ。 それはもうよい。 それは覚悟できた。 「……理解した。全て理解したわ。で、ザビーネ。もう一つだけ聞きたいことがあるの」 馬車の外を指さす。 新たにアンハルト騎士となった元傭兵団長とその部下が盗賊30名の首を荷台に放り込んで、嬉々として馬車を引いている。 いくら盗賊とはいえ死者の遺体を辱めるなど贖罪主の意思に反しますと訴えるケルン派の聖職者を一時退けて――なんでたまに下手な聖職者よりもマトモな「祈る人」になるんだ連中。 私だってこんなことやりたくないし、ケルン派が弔うというならば任せてもよいのだが。 ザビーネが「これから使うんで、もう少し待ってください」と主張するのだ。 だが、首など集めてどうするつもりなのか。 何度も言うが、盗賊など殺しても金にはならない。 粗末な装備なども一応は回収できたが、ファウストが散々言っていたように金目の物など何一つなかった。 「集めた盗賊の首を使って何をする気なの」 「ヴァリエール様は、都市への掠奪は許さないと仰いました」 「確かに言ったわ」 私が言わなかったことをザビーネは守らない。 私が気づかなかったことをザビーネは語らない。 だが、逆に言ったことならば守るし、私が気づきさえすれば正直に答える。 そのような不可思議なルールで一線を引いて、ザビーネの倫理観は成り立っているのだ。 それすら破るようならば、さすがに私とてザビーネを今後信頼しないと知っているから。 「では、どのようにして路銀を調達すると? 盗賊の首に何の意味が?」 「平たに言えば、換金していただきます。まあ実際に首を引き渡すことはしませんが」 「換金って誰が?」 想像は付いている。 要するに、掠奪はしない。 掠奪はしないが。 「その領邦の権力者ですよ。封建領主であるか、聖職者であるか、それとも市民代表の商人であるかは土地によるでしょうが――」 「首を並べて脅す気? そんな事したところで、面子がかかっている権力者は簡単に屈しないわよ」 「そのようなことはしません」 まさかまさか。 領邦の支配者であり、その土地の面子全てがかかっている権力者にそのような事しません。 その面子を潰すことなどしませんとも。 そうザビーネは語る。 「ですがねえ。よく考えてください。その土地の苦しむ領民のために、たまたま帝都への旅路の途中で、たまたまヴァリエール様の軍が盗賊団を撃ち破った。これは全くもって偶然でありますから、土地の治安を維持する義務がある権力者の面子を潰したわけではありません」 「……」 ――さすがに法の加護を受けられぬ盗賊団を殺したところで、よくも面子を潰してくれたなと怒る権力者はそういない。 そういないのだが、逆に言えばちょっとだけいると、これが私を男騎士などと舐め腐ってて、まあそこまでなら無視したんだが。 調子に乗って私の母親マリアンヌを侮辱した時など本気で腹が立ったものだよ。 増長したそいつの高い鼻は、その場で何者かの手によって引き千切られてしまったが。 罰は当たるものだ。 ファウストなどは酒に酔って、質の悪い絡み方をしながらに私に詳しく教えてくれた。 偶然でも何でもないのに勝手に盗賊団を殺して、その領邦騎士の面子を潰すのは拙いのだと。 昔やったけど盗賊は全然金持ってなかったし、舐められたり、侮辱に対して報復したりでいい事一つも無かったと――。 何やってんだファウスト。 まあともかく、面子への配慮という点では問題なさそうだった。 「さて次に、ヴァリ様が心配されているような脅迫などはしません。首を都市の門前に並べて、我々銃兵が取り囲んでマスケット銃を打ち鳴らし、傭兵団が笛や太鼓をたたいて騒ぎ立て、相手側から自発的に礼金を払ってくるまで威圧を行う。正直それは最初考えましたが、聖職者であるケルン派が必死に止めてきそうなので却下です」 「え、あの人たち止めに来るの? 一緒に空砲ぶっぱなしたりしないの?」 「……ヴァリ様、ケルン派のことなんだと思っているんですか。聖職者ですよ、ケルン派は」 ザビーネが不思議そうな目で私を見るが、うん、そういわれればそうだけど。 私ケルン派の事だから、むしろ一緒になって火薬や塩を高値で樽ごと売りつけてきそうだなってイメージしかなかったんだけど。 よく考えたら盗賊団相手にすら死者を弔ってあげなさいと言ってくる聖職者だったわ。 うん、誤解してた。 誤解させるようなことばっかしてるけどケルン派。 素直に反省する。 「最悪は無視しても良いのですが、あまりケルン派に配慮できないのも困ります。今回はもっと上品な方法をとろうと思います」 「上品な方法?」 土地の権力者に対して、そして身内の聖職者であるケルン派に対して。 その面子にザビーネは配慮しており、実際のところ路銀は必要である。 アンハルトがドケチなせいで路銀が少ないし、騎士叙任式をしてあげた傭兵団長に対しても、もう少し金銭的な褒美というか、騎士装備のための支度金くらいは与えたかった。 アンハルトはドケチだから、王都に帰っても絶対に支度金なんか用意してあげないのはわかりきっているのだ。 もう可哀そうだから、私がなんとか工面してあげるしかない。 だから、もうこれは仕方ないのだ。 これは仕方ないこと。 圧倒的セーフ……セーフティラインだ。 私の心はザビーネの意見に傾きつつある。 上品な方法で土地の権力者から金が毟れる――もとい、礼金がもらえるならば、それはもう許されて然るべきでなかろうか? ザビーネのような許されるべき一線を、私は自分の心に引く覚悟をしていた。 「吐きなさい、ザビーネ。貴女が上品というその行為に、私は凄く興味があるわ」 私はゴーサインを出した。 もう、正直言えばザビーネが多少荒っぽい手段を口にしても、現実的に金が無いという問題があるならば仕方ないと受け止めるつもりである。 「は、要するに、相手の面子を潰さない方法をとります。まあここまで配慮してくれるなら仕方ないと思われる方法をとります。暴力に怯えたわけではなく、これは純粋な報謝の気持ちから金銭を支払うんだよ。そんな方法をとります」 正直、時々どうしようもないくらい回りくどい言い方をするのがザビーネであった。 何故か少しだけ言いにくそうにしているのが気にかかるが。 「はやく結論を言いなさい」 少し急かす。 私はザビーネがそこまで上品だという魅惑的な方法が気になり、とにかく誰もが納得する形で、この可哀そうな集まりの旅団に振る舞ってあげられる金銭さえ得られればよかった。 そうすれば、この胃痛も少しは和らぐというものであろう。 ザビーネと私のせいでかき集められた人々への罪悪感も薄れようというもの。 私は少しだけ、ほんの少しだけ笑みを浮かべて。 「ヴァリ様が直接、土地の権力者に会いに出向いてください。そしてヴァリ様の軍が通りすがった土地の善男善女を苦しめる山賊団を『偶然』撃ち破ったことを伝え、我が『旅団の兵数規模』をさりげなく教えた後に。ただにこやかに笑っていてください。相手が話を逸らそうとしても無視して、ただ笑っていてください」 笑顔が引きつる。 要するに、この私なりに噛み砕いてみると。 「え、私が遠回しに山賊退治の礼金払えって言いに行くの? 私が直接?」 「はあ、まあ先に述べた乱暴な方法で良いなら私がやりますが……」 上品なやり方に固執するならば、私が自らに土地の権力者を脅迫しろと。 もうここまで明確にお前の面子に配慮してやったんだから分かってるよなお前と、これは脅迫ではなく、お前が感激して私の旅団に報謝することになっただけなんだぞと、そう暗に告げてやってくださいと。 ザビーネはそう残酷なまでに告げた。 嗚呼、そう、私の名はヴァリエール・フォン・アンハルト。 全くもって凡才であるが、神聖グステン帝国の立場的にはそこらの木っ端貴族など及びもつかぬ、アンハルト選帝侯家の第二王女であった。 確かに私さえ前に出れば、相手側も私の面子を蹴るわけにもいかず、諦める可能性が高かった。 だけど、いや、確かに都市を包囲するよりも上品な方法だけど。 それは脅迫と何も変わらないんじゃあ――ああ、もう。 「いや、やるわよ。もう私がやるしかないんでしょうよ」 だってもうアンハルトがドケチなせいで私の歳費残ってないし。 そう自分に対し言い訳を吐いた後、胃がきゅうと鳴いて、凄く痛くなった。 第161話 超暴力(ズーパー・ゲバルト) 金が無いとは、首を吊っているのとおんなじだ。 貧乏に生まれるというのは、死んでいるのと同じことなのだ。 人は生まれ落ちた瞬間より親の立場により差別され、階級を区別され、その人生を生きていかねばならぬ。 もし惨めな立場に産まれ落ちたならば、ありとあらゆる人間が自分を貶め、軽んじてくることに耐えていかねばならぬ。 侮辱に耐え、怒りを制御し、歯を食いしばって、目を強くつぶって何もかもを諦める。 産まれた環境が違うというだけで、社会から露骨な侮辱を投げつけられ、悪なる迫害を受けなければならぬ。 かつて――私は。 かつての私はそうだった。 騎士階級にこそ、嫡子にこそ産まれたが――城もなければ猫の額ほどの領地もない。 主従契約を結ぶ主君すらおらず、それどころか家紋すらなかった。 郷士階級にすら届かぬ「戦う人」とは名ばかりの貧乏騎士、黒騎士などと呼ばれる立場の産まれにあった。 傭兵業と街道での強盗騎士で食っている黒騎士の母が、大衆の淫売宿で遊んで孕んだ結実。 誰かもわからぬ男の種にて産まれたのが私であった。 そのような産まれの人間が社会から受ける処遇など、容易に理解できるだろう。 聖職者から、商人から、市民から、ありとあらゆる者から侮辱を受けた。 社会から侮辱を受け続けて生きていた。 抵抗する術を持たない私は歯を食いしばり、必死に耐えていた。 いつか私が大人になり力を得たならば、全てを見返せる日が来ると信じて。 そんな14歳を目前に、母が死んだ。 街道の縄張りで強盗騎士働きを試みた際に失敗し、襲った武装商人にぶち殺されたらしい。 まあ、いつかそうなるとは覚悟していた。 珍しい話ではないのだ。 強盗騎士仲間にも同業組合があり、遺品である母の甲冑は誰かに売り払われることもなく遺体ごと回収され、私に届けられた。 届けてくれた仲間の言葉によれば、母が失敗した理由はこうであった。 「娘がもうすぐ一人前の騎士になる齢なのだから。どこかに仕えさせるためにも、せめて見栄えを整えるための金が欲しい」 盗賊騎士仲間があの商人は武装しているから厳しいと避けたのに、だからこそ金持ってるんじゃないかと無理して強盗しようとしたらしい。 阿呆である。 私は母の手を握り、涙を一滴零した。 人の足元を見てくる強欲な聖職者に大金を払い、なんとか葬式を済ませれば、もう私の手元に金など残らぬ。 整備する余裕すらないからと、黒い錆止めを塗りたくっただけの粗末な甲冑。 一本の剣。 それだけが、母が私に残してくれた財産である。 もう、これしか何もない。 だからこそ私は決意した。 明日には引き払わねばならぬ家にて剣を握り、自分の剣で自らの肩を叩く。 まるで自分の首を刎ねるような仕草にて、叙任式を執り行う。 忠誠、公正、勇気、武勇、慈愛、寛容、礼節、奉仕。 騎士道になど何一つ誓わぬ。 「これより暴力にのみ生涯の忠誠を誓う」 誓うべき主君もおらず、城はなく、領地はなく、領民はなく、私にあるのは一本の剣と粗末な黒塗り甲冑のみである。 この肩を剣で叩いてくれるものはおらぬ。 なれど私は『何かに仕える見栄えの良い様相をした騎士』として生きるつもりである。 それが母が私に望んだ、最後の遺言であるからだ。 ならば、私はこれより暴力を主君として忠誠を誓い、決して暴力を裏切らぬ。 仮に、主君たる『暴力』に名前をつけるとするならば。 超暴力(ズーパー・ゲバルト)こそがその名であり、私の主君である。 そうだ、あの時私の盗賊騎士としての人生が始まったのだ。 愉しかった。 本当に愉しい日々だった。 私に屈辱を味合わせ、侮ってきた聖職者、商人、市民に報復していく日々だった。 盗賊騎士としてグステン帝国までの街道に縄張りを敷き、旅商人などを脅しては地道に資本を稼ぎ、やがて同じ黒騎士や傭兵などと雇用契約を結んでは集団を組織する。 それはそれでよかった。 少しずつ社会に対する復讐を果たしていくのもよかった。 だが、私が群れを成してやりたかったのは村落の掠奪や放火などといったチンケな暴力ではない。 超暴力である。 街道における盗賊行為などは、単なる着手金を稼ぐ方法でしかない。 私がやりたかった計画は。 私が若き頃にやり遂げた『超暴力』は。 数万人が住む繁栄した大都市に対する合法的掠奪(フェーデ)である。 そうだ、私は強盗騎士同盟が都市に対して脅迫し、商人や市民が積み重ねた巨額の富を吐き出させるフェーデの主催者になりたかったのだ。 私が狙った都市は司教区であり、聖職者が統治していた。 社会に為すべき復讐にふさわしい条件は全て揃っていた。 足りないのはたった一つ、フェーデを挑むにあたっての理由である。 私は十分に力を蓄えながら時を待ち、都市の参事すら任される大商家に対して、一つの騎士家がある侮辱を受けたと話を聞いた。 騎士家の息子が金で買われて、大商家の跡取り娘に攫われたというのだ。 まあ攫われたというか、ぶっちゃけ略奪婚によくある話である。 裏では話が通っており、騎士家にはすでに婚姻のための大金が支払われていたのだ。 騎士家側が「金が足りない。もっとよこせ」と後からごねたのが真相である。 こちらもよくある話である。 私は喜んで騎士家が起こした騒動に横から割って入り、その当主が満足するだけの金を支払って、大商家に対して脅迫する権利を買い取ったのだ。 もちろん、荒れに荒れた。 商家からの返答はこうだ。 「汝は代理人というが、事実上ただの他人ではないか。貸金取り立て業まがいをそこら中でやっていると聞く。下種な盗賊騎士が徒党を組んで、武力で脅すことによる巨額の賠償金が目当てであろうが。騎士の誇りはないのか。市の参事も務める当家を甘く見るな! 貴様などどうとでも殺してやるわ!!」 笑わせやがる。 人から金で買った権利を使って、金を稼ぐことに利用して何が悪い。 まして、この超暴力に忠誠を誓った盗賊騎士相手に、誇りだのなんだの、一銅貨にもならないことをほざきやがる。 まず火は付いた。 あとは延焼させ、都市ごと燃やしてやるだけであった。 私は言ってやった。 市の参事も務めておられる商家が金を払ってくれないので、仕方なくフェーデにより取り立ていたします。 無論、狙うのは金を払ってくれぬ商家だけでなく、都市全ての商人の輸送馬車である。 大義名分などもちろんない。 ないが口実など、最初の火さえつけば後からどうとでも取り繕えるのだ。 大義名分よりも、襲撃の方が優先されるなどフェーデではよくあることである。 私が欲しかったのは、本当に最初に少しだけの難癖をつけるための口実であるのだから、ここまで辿り着けば何の問題もなかった。 「出番だぞ、お前ら」 こちらには、必死な蓄財の全てを吐き出すことで。 今回のフェーデ計画の全容を打ち明けて、他都市の商人から投資させることで得た数百人の盗賊騎士と傭兵がいた。 私は百人以上の商人を捕らえて人質とし、馬車を捕らえては全て売り払った。 都市側は対抗すべき手段がない。 いや、対抗したくてもできないのだ。 兵力が払底している。 都市側が防衛するために雇い入れる黒騎士や傭兵は、私が全て雇い入れていたし。 遠方から雇い入れようとしても、私が更に金を積んでこちら側に引っ張り込んだからだ。 勿論、都市側にも普段から雇い入れている騎士や兵などがいるが、その頃の統治者たる司教に率いられて都市におらぬ。 ユリア教皇が教皇領を取り戻すために起こした戦による参陣要求に応じ、ほとんどの騎士が出払っていたのだ。 もちろん、何もかもこちらは承知の上で動いた。 フェーデは全て計画通りに運んだ。 いずれ都市側が根をあげ、巨額の賠償金を支払ってくると思われた。 唯一。 唯一、失敗したことがあるとするならば、そこからの必死の抵抗を甘く見ていたことだろう。 私の右腕は、その時失った。 あまりに追い詰めすぎ、都市の城壁まで輸送馬車を追いかけた際に、固定砲台からの一撃を受けて指も掌も無茶苦茶に千切れてしまったのだ。 思えば、あの時失った右腕に対する賠償金も請求するべきであったか。 いや、私はちゃんと都市側がギリギリ限界まで払っても、参事や商人が市民に殺されぬ額を請求したのだ。 市民からの徴税でギリギリ搾り取れる額を計算したのである。 あれ以上は無理だったであろうな。 ともあれ、私はともかく都市を追い詰めに追い詰めた。 そうして双方が心の底から良かったと手を叩いて笑い合える和解を勝ち取り、巨額の賠償金を受け取ったのだ。 最初に私がフェーデの権利を買い取った騎士家などは、市民の手によって随分とまあ惨たらしく拷問死したらしいが、目先の金に血迷った方が悪いのでどうでもよい。 私は得た賠償金を各位に報酬として分け与え、他都市の商人からの投資額に対しても巨額の配当を支払った。 残ったのは三分の一に満たぬ金額であったが、それでも十分に足りた。 田舎の領地と城を買い、今後の人生における老後保証を満たすには。 そうだ、私はこれにより社会に対し報復を済ませたのだ。 自分の身分を覆すこと、フェーデ(自力救済)するということは。 おそらく、此の世における至上の快楽に感じられた。 私は自分が貧乏騎士に産まれた事を、ある意味では幸福に思っている。 裕福な家庭に産まれれば、このような快楽を感じることは生涯なかっただろう。 私は一つの言葉の語彙を、この時決定づけた。 自身の破壊的衝動と怒りに身を任せ、力を思うがままに振るうことはただの暴力でしかない。 それは愚かな野蛮なる暴走に過ぎぬ。 惨めな自分を救済するために、ありとあらゆる知略と努力を払う事。 それを超暴力(ズーパー・ゲバルト)と呼ぶのだ。 真に偉大なる我が主君である。 ――ああ、そうそう。 あの司教領を統治していた司教様、必死に領地に帰ってきたもののギリギリ間に合わず、私が右腕の鉄腕義手にて抱き合って和解するハメになった彼女。 今ではなんでも枢機卿にまで成り上がったそうじゃないか。 ユリア教皇のお気に入りと聞く。 私から受けた被害に対する同情からか、教皇が気まずくなって枢機卿に推してくれたのだろうな。 これはもう大いに感謝して、何か好意のしるしを私に送ってくれないものかね。 そのような事を嘯く。 嘯ける権利を得たのが、私の今までの人生の結末であった。 で、あるのに。 「――よく聞こえませんでしたな。アンハルト選帝侯家、第二王女殿下。私の聞き間違いであったと思うのですが」 否定する。 私は今聞いた言葉を否定した。 眼前のヴァリエール・フォン・アンハルトが、この盗賊騎士に先程告げた言葉を否定した。 通りすがりに過ぎぬ14歳のガキ風情が放った言葉に対し、慈悲をかけて訂正の機会を設けてやったというのに。 彼女は言を翻さなかった。 「貴女の領地を通りかかったところ、たまたま盗賊団が居たので皆殺しにしたわ。少し疲れたので、領地にてしばし逗留させてもらえないかしら。私が連れてきた旅団って、1000名を超えちゃうのよ」 そのような、脅迫の台詞である。 私がかつて為してきた、フェーデとも言い換えられる宣言であった。 貴族語で直訳すると「金払え。お前の意思で自発的に私に金払え。さもないと領地に兵数1000以上で居座るどころか、もう何が起きるかわからんぞ」である。 もう脅迫以外の何でもない宣言を吐いたのだ。 私を誰だと思っている。 貴様、私を誰だと思っているんだ。 選帝侯家の裕福な産まれのバカ娘が、私に何を要求しやがった! 「私の名前は――アメリア・フォン・ベルリヒンゲンである」 自分の名は有名だと思って今まで生きてきた。 さすがに、あのヴィレンドルフの英傑レッケンベルなどには及ばぬだろうが。 盗賊騎士と名乗れば、誰もが私の名前を思い浮かべるであろうと思って生きてきた。 銀貨数万枚を奪い取る大規模なフェーデを成立させた盗賊騎士として帝国史に残るであろう。 あの脅迫した都市であれば、名を聞いただけで子供すら泣き叫んで逃げ出す恐怖を世に刻んだのだ。 そんな我が人生に対し、目の前のバカ娘は最大の侮辱を働いたのだ。 此の世全てを奪ってくることで生きてきた私に、金を払えだと! 産まれながらにして蝶よ花よと育てられ、アンハルト選帝侯の第二王女殿下として崇められてきたであろうヴァリエールという女がだ。 貧乏騎士の産まれにして、全ての裕福なるものから侮辱を受け。 未だ超暴力以外の誰にも頭を垂れた事もなく、誰に対しても頭を下げる謂れのないこのアメリアに対して、遠回しとはいえ屈服を要求してきたのだ。 「貴様、この盗賊領主騎士アメリア・フォン・ベルリヒンゲンの名を知らぬと申すか! 私の今までの人生全てを侮辱する気か!!」 私は声を荒げて怒号を放つ。 此の世全ての怨嗟を籠めた威圧を受けたところで、微笑みを全く崩そうとしないアンハルト選帝侯第二王女。 ヴァリエールという少女の顔を、激怒とともに睨みつける。 まるで蝋細工のように白く、青白ささえ感じられるが――やはり、その微笑みは崩れようとしなかった。 第162話 デカマラス卿爆誕! 蝶が蟻に食われていた。 儚い命を燃やし尽くして、ついに息絶えた蝶が地に落ちて。 蟻に身体を解体されて、巣に運ばれようとしている様が目に入った。 「この蝶がヴァリエール様です」 ファウストが首を横に振り、我が妹の現状がこの蝶であると訴えた。 「いや、もう死んでいるではないか」 今はファウストと二人、庭にて話し込んでいる最中である。 ファウストは巨躯を丸めて、蟻を眺めていた。 先程からの訴えでは、下手したら死んじゃいそうだから出迎えに行くのを許してくれと。 そんな話ではあったが、蝶は明らかにもう息絶えている。 これをヴァリエールに見立てるとするならば、すでに手遅れであった。 「例えが多少悪かったようですが――蝶がごときヴァリエール様が、今にも蟻に食い散らかされようとしているのは本当のところです。皇帝や教皇などは動きを見せておりませぬか?」 ファウストが首を傾げた。 太い僧帽筋がチャーミングである。 アスターテの奴はファウストの尻を眺めるのが好きというが、私は首筋を眺めるのが好きだった。 この歯と唇で、今すぐ?みつきたいぐらいに好きだった。 そのような魅力的誘惑に耐えながら、このアナスタシアは考える。 はて、あのイマイチしっかりしておらぬ妹のことを蝶と呼ぶならば、私の事をファウストは何にたとえるのか。 どうせ蛇か猛禽の類にされるであろうが。 私は自身の容貌に対して、自覚があった。 「――帝都から皇帝や教皇の使者が外部に出向くなど、日常茶飯事であるからな。さすがに私としても、どうにも動きをうまく掴めぬ。だが、ファウストの懸念が間違っているなどとも思わぬ」 むしろ、ファウストの懸念は当然のものと言えた。 このアナスタシアが仮に教皇や皇帝の立場であるとするならば、何らかの手を打たねばならぬ。 座視は愚策である。 ましてヴァリエールの奴、ザビーネに何を唆されたのか知らんが――旅団1000名以上にて行軍を開始したと聞く。 明確な軍事行動をアンハルトが起こしており、兵を帝都に呼び寄せたと看做されて当然の行為である。 何らかの対抗策を教皇などは試みるであろう。 「ファウストよ、安心せよ。すでに何人かの超人を手配し、ヴァリエールの行軍を手助けせよと使者として送るつもりであった。旅支度も終えているため、明日にも出発させる予定である」 水晶玉にてヴァリエールと連絡がとれれば、もっと早く助力できたのだがな。 あれは傍受の可能性があるために、短距離でなければ微に入り細を穿つといった連絡ができぬ。 ゆえに、私とてヴァリエールの行軍ルートは知らぬのだ。 無論、帝都に近づけば近づくほど情報は手に入り、何処にいるかの予想はできる。 私の頭脳をもってすれば、無事旅の途中にて合流することができよう。 「アナスタシア様。このファウストをその使者に加え、手助けの一人としてください」 しかし。 その中にファウストを加えるというならば、色々と手を講じねばならぬ。 「ファウスト。お前がヴァリエールの手助けをしたいというのは良い。私とて姉の立場があり、妹の身を案じる気持ちもある。お前が自らに助けに行くというならば、これほど心強いこともないが……」 私がファウストにそれを命じなかった理由には、もちろん私の立場がある。 ポリドロ卿がアナスタシアを見捨てて、ヴァリエールの出迎えに行くと噂が立てばよろしくない。 第一、最近はなんだかんだと、ファウストの奴をこき使い過ぎである。 だからこそ、今回ばかりはファウスト以外の手段を用いて解決しようと思ったのだが。 本人が行きたいというならば止めぬ。 止めてしまえば、女として妹に嫉妬した愚者となる。 「ふむ、ファウストよ。私個人の意思としては、もはやお前を止めぬ。だが周囲を誤魔化すために、あのマルティナが何の策を出したか聞こうじゃないか。お前がヴァリエールの手助けに向かっても何の問題もないとする策をだ」 ファウストは別に阿呆ではない。 だが脳味噌が筋肉で詰まっているがゆえに、少々思考回路がおかしいところがある。 その知能では残念ながら回答を出せず、補助脳であるマルティナが考えたと思われる。 「は、私などはさっぱり思いつきませんでしたが、マルティナに考えを強請ったところによれば――帝都には在していることとし、ポリドロ卿の名乗りを隠すのが一番良いと」 まあ、そうなるだろう。 当然の帰結ともいえる。 私のパートナーとしての役目をファウストは終えており、今から身分を隠してヴァリエールに助力するとあれば問題なかった。 「理解しているならよい。だが、すでにマルティナから聞いているだろうが、お前には一つ誓ってもらわねばならぬ」 「顔を隠し、男であることがバレぬようにせよ」 「そうだ」 身長2mに体重130kgを超える筋骨隆々の姿形たる男騎士など、神聖グステン帝国中どこを探してもファウスト・フォン・ポリドロ卿以外におらぬ。 ならば、男であることを隠し、その正体もバレぬようにせねばならぬ。 「私が与えたフリューテッドアーマーも置いてゆけ。装備はなんとか今から見繕え。ヴァリエールの元に辿り着いても、声を発することすら許されぬぞ。もちろん、バレてもよい相手ならば打ち明けても良いが……」 「私が参加することになる、助勢の方たちにはバレても?」 「構わぬ。というより、お前も知っている連中だ」 超人をヴァリエールの助けに送ると言っても、数は限られる。 我が部下のアレクサンドラ、彼女には騎士団長としての仕事があるので送れぬ。 ヴィレンドルフの客将ユエ、こちらもカタリナの護衛ゆえに送れぬ。 ならば、さっそくテメレール公に協力してもらうことになる。 「私がヴァリエールの助力に送ることを計画している超人の多くは、テメレール公の部下だ。『狂える猪の騎士団』の連中だ」 「なるほど」 テメレール公自身は未だお前に砕かれた頭蓋の怪我が治っておらぬゆえ、何も出来ぬが。 半殺しにされた連中はと言えば、もう完全に復調していた。 ファウストには及ばぬが、超人ともなれば回復速度は速い。 あの集団には散々に迷惑をかけられたのだから、それを取り戻す意味でも働いてもらわねばならぬ。 「彼女たちならば気心が知れております。剣を交わした相手なれば、信じることができます」 ファウストはほっとしたように息を吐いた。 連中はお前が殆ど一方的に半殺ししたような感じなのに、気心が知れていると笑顔で断言できるファウストはもうなんか凄いと思う。 事前に「殺しだけは無し」とした決闘であるにもかかわらず、全く手加減なしに連中をブチ転がした罪悪感とかないんだろうか。 暴力というものに対し、何一つ躊躇いが無いのがファウストである。 時々、その在り方が酷すぎて、どこかが疼いて興奮するほどだ。 人としては「何かコイツおかしくね」とは時々思うのだが、それはもうファウストは純粋なのだから仕方なかった。 男に惚れてしまった女の弱みである。 傍で眺めている者全てのドキドキが止まらない、騎士物語の主人公がファウストである。 世界はこの男を許してあげてほしいと思うのだ。 「また狂える猪の騎士団たる彼女たちと、約束組手など許されますかね」 「いや、絶対怪我するからヴァリエールを帝都に送り届けるまでは止めてくれ」 この男は――暴力の化身であり、具現でもあった。 階級や垣根なしに、それこそ王族たる私に対してすら、理由があったならば何の呵責もなしに暴力を振るうことができる。 それがファウスト・フォン・ポリドロという憤怒の騎士たる由縁である。 仮に名付けるとするならば。 そうだな、些か陳腐ではあるが『超暴力』とでも呼ぼうか。 「さて、そうだな。ファウストには今から別な名前を名乗ってもらおう。単純に、誰かを使者としてヴァリエールに送ったというだけならば何の問題もないからな。架空ながら、何か騎士家の名前を名乗ってもらわねばならぬ」 その超暴力なるファウストを、単なる雑兵として送るのは嫌である。 何か立場ある人間として送り出してやりたい。 名前を考えさせる。 ファウストは少し悩んでいるが。 「私が名付けてやろう!!」 ばん、と屋敷の扉が開かれるとともに、アスターテが現れた。 我が馬鹿従姉妹は今日も元気が良い。 こっそり陰で話聞いてたな、コイツ。 「最近なんかファウストが私に構ってくれないから、ちょっと絡んでいきたい!」 それに関しては哀れだと思うが。 何分ファウストは最近私のパートナーとして忙しい日々を送っていたし、アスターテと関わることが少なかった。 ここで女としてポイントを稼いでおきたいのだろう。 「アスターテ公爵ならば、我が戦友の名づけとあらば、断る理由がありませぬ」 ファウストが生真面目に答えた。 まあ、別に名づけぐらいはアスターテに譲っても良い。 そう思うが。 「私考えた!」 アスターテは力強く叫んだ。 ファウストが仮にも名乗るその名を、アンハルト王家が帝都に持つ屋敷全体に響き渡るように。 「デカマラス卿! デカマラス卿でどうだろうか!?」 デカマラス。 その名の由来は、もちろん「チンコでかいねん」という意味である。 アスターテはどうしようもないぐらい馬鹿だった。 「しばくぞ」 思わず、我が妹であるヴァリエールがザビーネに行う口癖のようなものを口にするが。 まあ、アスターテとしてもおふざけであろう。 我が従姉妹殿は、ファウストがゲッシュにて行った「チンコでかいねん」発言を未だに覚えており、酷く執着していた。 なんならば、今もファウストの股間をガン見していた。 全くもって駄目なやつである。 私のようにたまにチラ見する程度で済ませるのが淑女というものだ。 「アスターテ公爵!」 ともあれ、アスターテはアホである。 一度ファウストに殴られればいいのだ。 ファウストは震える手で握り拳を作り、瞳を潤ませて叫んだ。 「良い名前ですね! デカマラス卿!!」 何処がだよ。 単に卑猥な冗談を口走ってるだけじゃねえか。 そもそも、ファウストお前がそれ名乗るってこと理解してるのか? 「その名前であれば、流石にこのファウストがそのようなふざけた名前を名乗って参陣したなどとは思われぬと思います」 割と真面目な理由だった。 御免なさいファウスト。 でも、強いてその名前を名乗るのはどうかと思うの。 他にあるじゃん、なんか。 「ファウスト!」 アスターテは自分の命名が受け入れられたことに感動し、ファウストに抱き着いた。 お前はおふざけで名前つけたんじゃなくて、本気で付けたのかよ。 一度死ねよ。 「アスターテ公爵!」 ファウストはアスターテを受け入れ、二人は抱き合った。 え、本気でこの案が通るのか。 お前らそれで本当に良いのか? 私はツッコミを入れたくて仕方なかったが、実際に名乗るファウストがそれでよいというならば、止めようがなかった。 確かにそんな舐め腐った名前を生真面目なファウストが名乗るとは、誰も思わんだろうし。 ――私はしばし、悩み。 とりあえずいつも妹がやっているような、自分が諦めることで世の中どうとでもなる的な選択をとった。 まあいいやの精神である。 今にして思うが。 ヴァリエールの奴、それなりにアイツなりに頑張ってるのに、世間様はそれを認めてくれないから――あんなに現状放置策を選ぶ性格になったんだろうか。 姉であるこのアナスタシアにも、一抹の原因はなかったろうか。 そのような事を少し反省する。 地面を見つめる。 先程、地面に転がっていた蝶は羽と身体が分解されており、すでに巣に持ち帰られる途中であった。 第163話 引かぬ! 媚びぬ! 結局、詰めが甘いのだろうな。 きっと今の私は青白い顔をしているし、唇など僅かに震えているかもしれない。 眼前の盗賊騎士を名乗るアメリア・フォン・ベルリヒンゲンが何者かを今ようやく思い出した。 司教領の主要都市にフェーデを挑み、莫大な和解金をせしめた大悪党ではないか。 大砲で粉々に吹き飛んだという右手が義手であることから、気づくべきであったのだろう。 事実、これが姉のアナスタシアや、従姉妹のアスターテ公爵であれば、その優秀な知能に任せて相手の来歴などを面会前に容易く思い出すことが出来ただろう。 しかし。 なれど。 どうしても私には気づくことが出来なかった。 恥ずかしながら、アンハルト王国外の初見の相手ともなれば、騎士名を聞いただけで何者なのかをあっさり思い出すことなどできない。 そんな優秀な真似ができるほどの知能を持ち合わせていなかった。 それがヴァリエールという凡人の限界である。 「貴卿の名前など、今さら言われなくともよく存じている」 嘘ではない嘘を吐く。 貴殿という盗賊騎士の名はよく存じていたが、正直今名乗られてようやく貴方がその人だと認識した。 そのような、事実という更なる侮辱を口にはできない。 ならば、せめて。 「誤解の無いように。ベルリヒンゲン卿」 今までに発した言葉に、嘘など一つとして無かったとしなければならぬ。 私は再度、要求なのか嘆願なのか、よくもわからぬ簡素な声色にて。 現実の言葉を吐き続けるだけの人物をイメージする。 想像上の人物は、公式の場では無表情にて治世を行うお母様たるリーゼンロッテ女王であった。 今回だけは、それに成りきろうと試みる。 「私は貴卿に屈服など要求していない。貴卿の土地にいた盗賊団に迷惑をかけられたとも言っていない。私に頭を垂れて迷惑料を払えなどと言ったつもりはない」 出来る限りの平静を装う。 何も言わなかったザビーネを睨みつける余裕など今はない。 彼女はもちろん眼前の盗賊騎士がどのような経歴で、私が金銭の要求をしようものならば怒り狂うことも予想していただろう。 であるのに、何も言わなかった。 何一つ教えてくれなかった。 アメリア・フォン・ベルリヒンゲンがどのような人物かを尋ねたならば答えただろうが、尋ねなかったので答えなかった。 ――いや。 私とて。 「ただ、世間話をしているのよ。むしろ、通行税も取らずに領地を通そうとしてくれたことに御礼を申したいぐらいよ」 この愚かな私とて理解しつつあるぞ。 少なくとも今回に限っては、ザビーネは必要だから仕方なく今回の事を為した。 もし全てを知っていたならば、私などは怯えてしまって最初の要求すら口にできなかったであろう。 ならば、今回の要求が『どうしても避けられない』以上は、知らない方がまだマシであった。 どうしてもベルリヒンゲン卿を避けることができない事情が当方にはある。 「――」 沈黙が落ちる。 ベルリヒンゲン卿が一瞬にして感情を沈下させて、口を閉じた。 金に汚く、意地汚い。 そのような盗賊騎士でさえ、私に対し通行税を要求することはなかった。 理由はたった一つ。 激発した彼女が一瞬で我に返り、妥協せざるを得ない事情がある。 彼女が口を開き、冷たい声で呟いた。 「私への要求を撤回し、すぐさまに我が領地から立ち去られよ」 彼女でさえもが、私たちに関わることを避けたいのだ。 1000人を超える武装旅団が領地を通り過ぎ、機嫌を損ねれば暴れまわるという状況が怖かった。 守るべき財産がある人間ならば、当然のことである。 ならば、私の要求は通るはずである。 通さなければならないのだ。 「……皆、疲れてるからそんなに簡単にはいかないわね」 今後、このような事を帝都までの旅にて繰り返すのであれば。 著名なる眼前の悪辣な盗賊騎士を、まず最初にねじ伏せる必要がある。 「貴様、私を舐めて――」 「その真逆ね」 ザビーネは、ベルリヒンゲン卿という人物を良く知っているからこそ、まず最初に金を要求する相手として選んだのだ。 このような真似を無理に私に強いているのだ。 伊達や酔狂でやっているわけではない。 「私が――」 そうだ、私だ。 ザビーネが考えて、ここまで私が連れてきて、最終責任者たるこのヴァリエール・フォン・アンハルトが認可して、今回のベルリヒンゲン卿への要求を実行している。 ならば、私の意思によるものでなければならぬ。 誰のせいでもなく、私が望んだことを今実行しているのだ。 だからこそ、全ての計画は私に全責任がある。 ここで怯えて引くわけにも、媚びるわけにもいかない。 「最初に言ったことを覚えてる? 私はベルリヒンゲン卿の事を良く知っていると。先ほど告げたわね。私は貴卿の事を舐めてなどいないと。むしろ、誰よりも高く評価しているからこそ、今こうしてここにいる」 そのような真似をすれば、かつて初陣にて私を庇って死んだハンナのようにして。 私の能力が足りぬゆえに、死者という形で犠牲となるものが出てくるだろう。 「察しが悪いようなので教えましょうか?」 「言ってみろ。その口で私に告げて見よ」 ベルリヒンゲン卿は、最初に激発した時とまるで変った様子であった。 右手の鉄腕義手を、左手で握りしめている。 魔術刻印が為されていなければ義手が壊れていそうなほどに、力が込められている。 腕の太い血管が見えた。 「私は今回のような要求を、帝都までの道中にて何十回と繰り返すつもりよ。アンハルト選帝侯の第二王女という立場があり、背景に千剣の暴力があるとはいえ、それだけでは足りない。ごねる領主だって必然的に出てくるでしょう。表向きの面子のために一当て戦ったことにしてくれだの。金額の折り合いをつけるために、何日にも渡る交渉だの。旅の途中だってのに、往生際の悪い真似に付き合う時間なんて私にはない」 「……続けろ」 眼前の盗賊騎士はきっと、教育など受けずとも私などより賢くて強い。 だからこそ、銀貨数万枚を掠奪するなんて真似ができた。 帝国中に盗賊騎士としての悪名を鳴り響かせることができた。 だからこそ弱い私は、強い彼女に要求する。 「私が本当に欲しいのは、貴卿に要求するのは、その築き上げた悪名よ。あのアメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿でさえも、ヴァリエール殿下に金を支払った。ならば、他の領主たちが金を払っても舐められたことにはならず、恥にはならぬと。誰も彼もが最初から諦めをつけてしまい速やかに金を支払うだけの悪名が私は欲しい。一銅貨でもよいから、絶対に貴女から金銭を頂いていくわ」 私は一息に告げた。 一度として交渉の内に引かぬし、媚びなかった。 「よう吠えた」 アメリアは立ち上がった。 その左手は腰元の剣には至らず、私へと真っ直ぐと手が伸びて。 握力の強い手で、がっしりと私の手を掴んだ。 「その震える手で、よう吠えたもんだな!」 ――自分の手が驚くほど震えていたことに、全く気づかなかった。 このような無様な姿で、あのような言葉を口にしたところで。 そう悔やむが。 「面白いな、ヴァリエール殿下!」 侮蔑でもなく、嘲りでもなく。 アメリアの声色はむしろ歓喜に染まっており、私への敬意すら感じられた。 「部下もなかなかやるじゃないか! 名はなんだ!」 「ザビーネ」 ザビーネのナイフが、ベルリヒンゲン卿の喉元に伸びていた。 いつでも刺せるし、いつでも殺せる。 ――ザビーネ、いつ動いたんだろう。 確かに私は動揺していたようだけど、ザビーネはさっきまで壁際に立っていたはずなのに。 「暗殺者か? 以前、司教から私に放たれた刺客どもと似ている動きだった」 「ヴァリエール様の親衛騎士だ」 「なるほど、なるほど。愉快な部下を抱えているようだ」 楽しそうに、卿が頷いて。 私から離れて、椅子に座る。 そうして、やはり楽しそうに告げた。 「さて――ヴァリエール殿下。私は沢山の財産を持っている。昔に達成したフェーデにより手に入れた沢山の銀貨で買ったもの。見栄えの良い甲冑に剣。買った領地に付随してきたベルリヒンゲン卿という爵位。小ぶりながらも美しい城。沢山の領民。優秀な魔法使いが作った、生身の腕よりも強力な義手。私は何もかも手に入れた」 ベルリヒンゲン卿の義手が動いた。 どうやら、彼女の意思によって自由自在に動くようであった。 あれで私が殴られるならば、頭など容易に吹き飛ぶであろう。 だが、義手が動いた目的は私を殴るためなどではない。 何か、届かぬ何かを探るような手つきであった。 「唯一、銀貨風情では取り戻せぬものがある。アメリアという娘に与える数枚の銀貨のために失なわれた者の命だ。貧しい――本当に貧しい境遇しかアメリアに与えることができなかった者だ。人に恨まれる悪人でもあったろう。それでも、私を心底愛してくれた。私が唯一生涯で愛することになる人間であろう母のために小さな墓を立てた。このアメリア・フォン・ベルリヒンゲンという悪名高き盗賊騎士の母であることがバレても墓を荒らされぬように、細心の注意を払った小さな墓だ。そうだな、あれだけは特別だな」 一瞬だけ、悲しそうな顔をして。 それを断ち切るようにして、卿は笑った。 「ヴァリエール殿下には関係ない、余計な事を口走った。忘れられよ」 「忘れたわ」 「よろしい」 他人には立ち入れぬ事情があった。 忘れろというならば、忘れるのが礼儀である。 「さて――ヴァリエール殿下が欲しいと言ったもの。私が今並べた財産のどれでもなかった。なれば、もう一度お聞きしたい」 「貴卿の悪名を頂くために、そのポケットに入った銅貨たった一枚が欲しい」 私は再度、要求を告げた。 私が引かず、媚びなかったように。 ベルリヒンゲン卿も同様であった。 「そればかりはお断りする。なるほど、ヴァリエール殿下が私を舐めていないことを理解した。むしろ、高く評価してくださっていることも理解した。なればこそ、我が盗賊騎士としての悪名ばかりは譲らぬ」 卿は、最初の激発などすっかり忘れたように。 私をいたわるような表情さえ見せて、言葉を連ねた。 「ヴァリエール殿下。私は貴女を正直、ひどく気に入り始めている。よくもまあ殿下のような臆病者が、蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手でこの私から財産を、この悪名を奪おうとしたものだ」 そうね、という本音は漏らさなかった。 応じてしまえば、きっと彼女は私に酷く失望するだろう。 じっと、視線を合わせる。 「そうだ、そうだな。私は誰にも仕えるつもりはない。だが、それでも――そう、そうだな」 私と瞳をじっと合わせて。 何かを思案するようにして、ベルリヒンゲン卿は頷いている。 「悪名はやらぬ。一銅貨すら払わぬ。なれど、私は殿下が気に入った」 卿の義手が動いた。 彼女の意思に反応したように、義手に刻まれた文字が青白く光っている。 「何もやらぬ代わりと言っては何だが、帝都への旅に私が付いていってやろうじゃないか。殿下がこれから臨むことになる数十件の合法的掠奪(フェーデ)を補佐するにあたってだ。世界中のどこを探したところで、このアメリア・フォン・ベルリヒンゲン以上の人間などおらぬぞ。どこの領地からいくらまでなら毟り取れるか、きっちり見定めてやろうじゃないか」 もちろん、奪った銀貨から、少しばかり分け前はもらうがね。 そう呟いて。 彼女は本当に楽しそうに、不敵に笑った。 第164話 深刻な問題 「ヴァリエール様に逆らった者には降伏すら許さん!」 命乞いをしていた盗賊の首が刎ねられた。 首を刎ねた者は、傭兵団に入り混じって戦列に参加していた法衣貴族の三女である。 今回の接敵においては一人で数名を斬り殺しており、今殺した盗賊などはわざわざ生け捕りにしてヴァリエール様の御前に引きずってきた。 そして、その御前にて首を刎ねたのだ。 「ヴァリエール様! 御見届け頂けましたか!!」 膝を折り、敵の血にまみれた両手を広げて、ヴァリエール様を見上げる。 主人に褒めてもらいたくて仕方ないのだ。 確かに、あの者は飢えた功名餓鬼なれども、今この時ばかりは違う。 騎士としての戦功など、とうに確約されている。 彼女はただ。 「見届けたわ、貴女の名前はしかと覚えておく。理解しているだろうけど――貴方にはこの後、叙任式があるのだから、返り血を拭きとって準備をしておきなさい」 「はい!!」 飼い犬のように、ただヴァリエール様に褒めてもらいたくて仕方ないのだ。 犬が主人にただ純粋に褒めてもらいたくて、投げられた棒切れを拾ってきただけの行為であり、それ以上の意味は無かった。 このザビーネは、その心境をよく理解できる。 理屈でも、感情でも。 ヴァリエール様の犬であることを自負する者であるがゆえに、心から理解できた。 「……なんでわざわざ私の目の前で殺すの? 私が褒美を与えるには、首だけ持ってきたらいいのよ」 表向きはご機嫌に見える笑顔のままで、横に立つ私に聞き取れる程度の声で愚痴を漏らすヴァリエール様。 同じように小声で返す。 「あの者はヴァリエール様に直接褒めてもらいたくて、もうどうしようもなかったのです。死に物狂いで抵抗する盗賊を捕らえる際、自分が反撃されるリスクを鑑みても、その魅力に抗えなかった」 私が言わなくても理解しているだろうに。 一言そう返すだけで、ヴァリエール様は胃の辺りを少しばかり抑え。 馬鹿にするのではなく、楽しむでもなく、ただ悲しそうな顔をした。 嗚呼。 そうだ、その顔だ。 貴女が他人からの精一杯なる誠意を侮辱するなど、このザビーネ一度として見た事はない。 それがどれだけ傍目からは滑稽でも、貴女だけは侮辱などなさらないのだ。 「……以後、同じことをしないように通達しなさい。私は自分の配下がリスクを背負って、無理をすることを嫌う。旅団の指揮官からの、絶対順守の命令よ」 「承知しました。彼女にはどうします? 馬鹿な事をしたと他人に言われないよう、面子を考えてやらねばなりませぬ」 「叙任式の際に、私から直接伝えるわ」 ヴァリ様のことだから、さぞや優し気に話すのだろう。 肩を剣で叩いた後に立ち上がらせて手を握り、優しく言い聞かせるのだ。 今回の旅団において私の正式な部下になった以上は、その命を無駄に散らす行為など絶対に許さぬと。 凛とした、それでいて花香りのする優しい声で。 旅団全員が居並び、羨望と嫉妬の視線に満ち溢れる中で叙任式が行われ、ヴァリエール殿下が直接声をおかけになり、お前の今後を気にかけているから無鉄砲をしてはならぬと念入りに気遣いをされるのだ。 「また一人、脳が蕩けるな」 そのような事をされたらあの三女、自己からも他者からも承認欲求の全てが満たされ過ぎて。 脳が液体になったかのようになってしまうぞ。 ヴァリエール様は人の脳味噌を破壊する性癖でもあるのだろうか? 「……意図してやっていることじゃないんだろうけど。これも教育のおかげなのかね」 人を褒めるときは大声で、誰にでも聞こえるように。 叱るときは理由を告げ、本人にしっかりと納得をさせること。 そして、どちらの時も必ずや相手の名前を呼び、この王族がお前個人をしっかり認識して気にかけているのだと伝える事。 この三要を抑えることが、アンハルト選帝侯家に伝わる人心術とも配下の運用方法ともされている。 ヴェスパーマン家の当主として教育を受けた私なれば、それを聞き及んだことがあった。 ヴァリ様は能力値において、正直貴族としては凡人と変わらぬ。 だが、受けた教育を教科書通りに全うするだけの能力に足らぬわけではない。 凡人ではあるが愚劣ではないのだ。 「……きっと、ヴァリ様の魅力は、人心術だけは他のアンハルト王族にも引けを取らない。けれど」 誰にでも通じる魅力ではないのだろう。 世の拗ね者にだけ、異常に通じる魅力なのだ。 アンハルト王族という出自と、妖精のような容姿と、凛とした花香のする声と――どんな身分の者であれ侮蔑をせずに、その者が精一杯の誠意を示したならば、それになんとしても応えてやらねばならぬと考えて動く。 本心本音でそう動いているからこそ、教養が足らぬ者でさえも、いや、それらにこそ。 ヴァリ様の魅力は特効的に、このザビーネのような卑しい人間に届いてしまうのだ。 「――うん」 今のところは、ほぼ予定通りに行軍が進んでいる。 ヴァリ様のための軍隊を作ること。 ヴァリ様がポリドロ領の統治をすることになった際に役立つ、第二王女派閥と権力の組み立て。 だが、ほぼであり、不安要素を感じつつもある。 「ヴァリ様、叙任式の時間まで少しお休みください。私は小用を済ませてまいります」 「小用?」 「ベルリヒンゲン卿に会いに」 整理をしよう。 不安要素は三つある。 ケルン派について。 旅団の増員について。 アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿について。 この三つは予想した通りに状況が動かなかった。 ヴァリ様から離れ、少しばかり歩いてベルリヒンゲン卿のところへと向かう。 歩きながらに思考をまとめる。 「ケルン派について」 小さく呟く。 ケルン派が出発時点で30人、その時点で警戒していたのだが。 数が――増えている。 現在は40名と言ったところだ。 旅団内での布教に成功して修道女が加わったとか、そういう話ではない。 単純に、旅団が行軍する途中でケルン派の教会に立ち寄ることがある。 その際に、随行員数が少しづつ増加しているのだ。 全員がマスケット銃とメイスで武装しており、そこらの雑兵など一方的に殴り殺せそうな連中であった。 「何を考えている? 何をやらかすつもりなんだ?」 武装修道女の数を増やす理由が、このザビーネにすら考えつかぬ。 明らかにケルン派は何らかの目的があって行軍を共にしているが、それを咎める権利は私にはない。 親衛隊100名を銃兵として充足するにあたってケルン派から強い便宜を図ってもらった過去がある以上、どうしようもないことである。 ケルン派信徒として、ただひたすらに協力してやるのが筋であった。 何か大きな問題でも発生しない限り、このまま見守るしかない。 私はケルン派問題をとりあえず保留とした。 「次だ」 旅団の増員について。 まず、アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿が100名ばかりの精兵を連れてきている。 これについては、まあよい。 あれは卿の私兵であり、彼女が制御可能な暴力である。 いわばヴァリ様の客将という立場であって、旅団の行軍目的を邪魔する気が無い以上、連れてきても問題はなかった。 問題は――それ以外の連中だ。 ベルリヒンゲン卿の領地を後にしてから、旅への参加を申し出る傭兵団や黒騎士などが絶えない。 理由はいくつかある。 私が事前に流していた噂通り、傭兵団どもに内密に約束していた通り。 盗賊どもへの戦功を明らかにした傭兵団の団長に対して、ヴァリ様が授爵を行った。 これにより噂は真実となり、ヴァリ様は約束を誠実に守られ、傭兵団の団長は正式な騎士となりあがった。 その部下100名ほどが明日も知れぬ傭兵から正式な兵士となりて、国から給金が支払われることになる。 なるほど、羨望と嫉妬のまなざしで見る厚遇である。 ひょっとしたら自分も同じ立場にと、目の色を変えるのは分かる。 分かるが―― 「下級階層の欲深さを侮っていた」 このザビーネの誤算である。 今回の旅に参加している傭兵どもが、都市の酒場にて「これで団長は騎士様だ!」「私は先日から正式な兵士だぜ!」などと吹聴しまくった。 それは予想できた。 ヴァリ様の名声が上がる行為であるため、私はそれを良しとした。 甘かった。 この旅団に途中参加してくる人数など知れてると考えていたが、そんな幸運妖精の後ろ髪を一本掴める話が目前に転がってきて。 いきなり押しかけるなど無礼であろうと、躊躇いを感じて踏みとどまる行儀の良い奴らなど一人もいなかった。 旅の途中で出くわした傭兵団に黒騎士、誰も彼もが必死な形相にて付き纏いて、旅への参加を嘆願する。 これが使えぬ連中であれば「いらぬ」の一言で斬り捨てればよかったが、面接してみれば普通に実戦経験豊富な傭兵団で、どこそこの領主の戦に出て感状をもらったなどと証拠を叩きつけてくるし。 黒騎士なども試しに模擬戦をやらせてみれば、超人に一歩届かぬ技量程度の武人であればゴロゴロといた。 こんな連中が仕官も叶わずに野に埋もれているとなれば、どうしても勿体ない気がしてならず、結局受け入れてしまった。 参加を拒んでヤケになって暴れまわられて、こちらに被害があっても困る。 それに色々考えても、軍の数は多ければ多い程に良いのだ。 そんな経緯で、旅団は1000名から1500名に膨れ上がっている。 流石にここまで数が膨れ上がるとだ。 「どこまで旅団の規律を維持できる? 暴走して掠奪を働く危険性はないか?」 このザビーネの能力限界を現在すでに超えていた。 正直言えば、もうヴァリ様が持つ不思議なカリスマに任せるしかない。 ヴァリ様の魅力に丸投げするしかないのだ。 こうなってしまうと、さすがに人としての心がどこにもないと罵倒される私とて、ヴァリ様に酷いことしてるような気がしてきた。 でも、ヴァリ様ならなんとかしてくれる。 ヴァリ様ならなんとかしてくれるんだ。 それを考えれば、今後も発展余地のある二つ目の問題は解決と言っても差し支えなかった。 倍の3000名くらいに増えても、ヴァリ様ならいけるんじゃなかろうか? だってヴァリ様だよ。 「ヴァリ様ならなんとかしてくれる」 二つ目の問題は解決だ。 三つ目の問題を考える。 アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿そのもの。 正直言えば、まあこうやってヴァリ様の旅についてくる可能性は多少考えないでもなかった。 一番高い可能性は少しごねた後に少額を払う事。 一番低い可能性は心の底から激昂して、このザビーネが反撃する形で彼女を殺害すること。 実のところ暴力を背景とした交渉術に長けているだけで、あのベルリヒンゲン卿自身は酷く冷静沈着に物事を運ぶ。 あの時ヴァリ様に激昂してみせたなど、ポーズにすぎぬ。 そう考えていたし、この見立て自体はまあ間違っておらぬ。 問題は―― 「なんか楽しそうなんだよな」 ベルリヒンゲン卿が今回の旅についてくるならば、それは緻密に計算した上で利益があるから。 人の看板で金儲けができるからに他ならず、それ以外はどうでもよい。 そのような考えからである。 そのはずだと予想していたのだが。 なるほど、人は単純ではない。 「……ヴァリエール様の魅力は、盗賊騎士にも通じるのか?」 ヴァリ様の事が気に入ったという彼女の言葉に嘘など一つもないのだ。 本当に気に入っているから、今回の旅についてくると決めたのだ。 金は欲しいが、それだけが目的ではない。 そのような様子が、このザビーネの観察眼では見て取れる。 別に、本当にヴァリ様を気に入っているならそれでよい。 旅団の合法的掠奪(フェーデ)を強力に補佐してくれるのであれば、文句など何もない。 問題は。 「さて、旅の中でベルリヒンゲン卿のお気に召さない事があった場合、彼女はヴァリ様をどうするのかね?」 正直言えば、金だけが目的であれば信用はできた。 だが、あの悪名高き盗賊騎士が複雑な感情の揺れで付いてきたというなれば、もう何も信用できない。 旅団の統制が崩れた時などに、わざとヴァリ様の不利益になるような動きをする可能性があった。 彼女は客将であり、旅の補佐であり、精兵の軍権をこちらに握らせたわけではない。 少し、悩む。 二つ目と同様、この問題も私には対処できず、ヴァリ様の魅力云々で揺れ動いてしまうものなのだ。 ベルリヒンゲン卿が怪しい動きを見せたならば、すぐに殺せるようにナイフを研いでおくぐらいしかできない。 「……とりあえず、彼女の所にいくか」 私ができることは、いくつか質問をし、彼女の真意を読み解く事だ。 私は自分が質問した相手の表情を見るだけで、その回答が本当か嘘かを理解することが出来た。 それが本音か嘘ならば、だ。 だが。 本人すら本音か嘘なのかわからない、その表情だけは読み解くことが出来ない。 私は自分の能力不足に強く舌打ちし、ベルリヒンゲン卿の馬車へと歩いて行った。 第165話 ポリドロ卿の旅準備 ケルン派教徒はクロス・アンド・サークルの紋章を用いる。 まず美術的な――ケルン派信徒以外に言わせれば『奇形な』十字架が存在し、その交差部分を環にて囲むシンプルな意匠により紋章は形作られている。 教会に、墓に、時にケルン派教徒の騎士が、あるいは司教領の家人などが用いて。 そして正しきケルン派信徒であるならば、どのような貧民であろうと全ての者が掲げることを許される記章であった。 そのクロス・アンド・サークルの紋章を大きく胸に刻んだプレートメイルが、目の前に鎮座している。 「ポリドロ卿、なんとか貴方の鎧が見つかりました」 かつて『狂える猪の騎士団』との決闘にて心臓殴りの儀を行った過去がある、銀髪のケルン騎士の持ち込みであった。 大輪の向日葵のような笑顔で、にこやかに笑っている。 その顔は教義を守る上で避けられぬ剣戟においての傷跡が多数あったが、彼女がそれを欠片も気にしていないことが、非常に魅力的に感じられた。 本当に失礼な話だが、性的に少し興奮さえしてしまった。 なんとか情欲を打ち消して、素直に気持ちを伝える。 「素晴らしい鎧です。よくぞ見つけて頂けました」 私は感嘆の息を漏らした。 見事な鎧である。 刻印を施された魔法鎧ではないのが残念だが、そこまでを求めるべきではなかった。 それに、そこまで高価な物を身に着けているとなれば不審がられる。 今回自分の正体を隠しての旅はアナスタシア殿下から贈られたフリューテッドアーマーはもちろん、先祖代々のグレートソードですら使うことが許されぬ。 自分の身分に繋がるような証拠は、何一つ残すべきではなかった。 「正直、もはや私の鎧は見つからぬものと思っていました」 別に、自身の身長2m超え体重130kgの筋骨隆々を包む鎧が見つからぬとは言わぬ。 この世界の女性は美的水準が高く容姿端麗なれど、総身に筋肉を張り巡らせた女性も珍しくない。 第一王女親衛隊のアレクサンドラ殿が良い例で、彼女は身長190cmを超えている。 胸もあれば体に筋肉を張り巡らせた武骨の、金髪美女であった。 私がヴァリエール様にお仕えするのではなく、アナスタシア様に旗を寄せたのであれば結婚する機会もあったと聞いた。 正直惜しいと思っている。 まあ、もはや届かぬ夢のようなものは気にしてもどうにもならぬ。 とにかく、高身長の女性は特別この世界で珍しいものではない。 眼前のケルン騎士とて190cmを超える銀髪麗人である。 だが。 さすがに、2m超えとなるとそう大量生産されるわけではない。 「身長2mを超える私の鎧が数打物で見つかるとは」 「市民権所有者だけで4万を超え、人口であれば30万都市である帝都ウィンドボナでなければ見つからなかったでしょう」 それに、数打物ではありませぬ。 ケルン騎士が嬉しそうに呟いた。 「信徒ファウストよ。これはケルン派教会でかつて正式にパレードに用いられたものであり、まさに神の御加護が信徒ファウストにあると考えてよろしいのですぞ!」 えっへん。 そんな擬音を立てそうな笑顔で、ケルン騎士は自慢げに叫んだ。 実際、この鎧を見つけ出してきたのは彼女であるからして、自慢する権利はあった。 私は礼を言う。 「有難うございます。ケルン騎士殿」 「同じ信徒のために努力する義務を果たしただけです。その御礼の言葉一つで十分ですよ」 ケルン騎士殿の胸が反り返っている。 豊満なそれに目がいくが、見つめるのは失礼であった。 私は旅をする前のミーティングに集まった『狂える猪の騎士団』の6名に深々と頭を下げる。 「今回は私の事情で面倒をおかけします。貴卿らに心からお礼を申し上げる」 「本音を言えば反対なのですが、まあ仕方ありません」 忠義者と呼ばれる彼女。 テメレール公の懐刀である彼女すら、主君の容体はもはや心配いらぬとのことで参加してくれることとなった。 ぶっちゃけ、私が部下として知能に期待できるのは10歳児のマルティナだけである。 旅では彼女を頼りにする事もあるだろう。 「……テメレール公の発案とあれば、心置きなく従えたんですがねえ。何が悲しゅうてアナスタシアだのカタリナだのに扱き使われなければならんのさ」 やや不服そうな声で、勘当者――やはり、かつての決闘相手が答えた。 前世でのスペイン系女性という誰も彼もが美人揃いで、皆が肉食系という、この自分でも偏見極まりないことを理解しているイメージそのまま。 そんな勘当者という淫猥そうな美人は不服を滲ませていた。 「勘当者、何が不服というのですか」 声が飛んだ。 大本に目をやると、サムライ殿であった。 どうも空気を読むならば、『狂える猪の騎士団』から選抜された6人の同行者にも旅にあたっての意見があるようだ。 忠義者、勘当者が明確に反対。 敗北者や日陰者が物語らぬ中立。 サムライやケルン騎士が賛成。 そのような立ち位置であった。 「いや、テメレール様が全面的賛成をしたなら私だって不平不満なんかなかったよ。でも反対してんじゃん。アンハルト第二王女のヴァリエールとやらを出迎えに行くのはまあいいとして、別なところで――」 言い訳するようにして、勘当者が掌をひらひらと翻した。 舌をべえと煽るように私に見せて、艶めかしく動き、実に淫猥そうであった。 「お前が仮の名前として身分を隠すために名乗る名前だよ。デカマラス卿ってなんだよ。頭おかしいんじゃねえのか? 他に何かあるだろ」 そして、まあ正直言えば。 淫猥そうな勘当者に対してすらも、そう真顔で罵られるならば。 まあ同じく淫猥そのものなアスターテ公爵の名づけは少しおかしかったのではないか。 そのように、このファウスト・フォン・ポリドロとて思うのだ。 とはいえ、私とて一度了承したのだから覆せぬ。 すでに通した話を翻すなど騎士としてできぬ。 「このように名乗れば、名を隠しているのが私だとはバレぬと思ったのだが」 「よし、お前馬鹿だろ」 死ねばいいのに。 苦しんで死ねばいいのに。 そのように蔑んだ目で、勘当者はこちらを睨みつけていた。 「お気になさらず。勘当者はテメレール様に気に入られた貴方に強烈に嫉妬しているだけなのです。こいつ『女好き』ですので」 サムライ殿がそのように呟いた。 レズビアンかな? 男が少ない世界であり、女同士でベッドにて楽しむという貴族は別に珍しくもなかった。 私は百合文化を尊い物だと思っており、それを否定するつもりなどない。 「私からテメレール様を奪うやつは苦しんで死ね!」 勘当者は自分の嗜好について、一切の否定をしなかった。 別に奪った覚えはないのだが。 テメレール公とて、私のように武骨な男は興味の範疇にはないだろう。 時々、彼女の部屋で二人きりになった時に、テメレール公が私に近寄って。 そっと私に手を重ねようとして、何か酷く戸惑うようにして、やめる。 そんな事もあるが、彼女を半殺しどころか一度ぶっ殺した後に蘇生したなんて経歴がある私に、男女としての興味を持つなんてあろうはずがない。 「テメレール公を貴女から奪ったつもりなど、私には無い」 「……それが本気でほざいている言葉だと知っているから、余計に腹が立つんだよ」 勘当者は悲しそうに呟いた。 私は別に彼女を傷付けたいわけではない。 話を逸らそうと試みる。 「さて、旅支度も整いましたことですし、ヴァリエール様の元に出向きたいと思います」 「必要あるんですか?」 サムライ殿が首を傾げた。 白布で縛っている美しい黒髪が、疑問の声とともに揺れた。 「はあ、私の直感では間違いなくえらいことになっているはずです」 ヴァリエール様の今頃は、とにかく酷い目にあっている気がするのだ。 私は部屋の隅を指さす。 蜘蛛がいた。 羽虫を糸で捕らえた小さな蜘蛛であった。 「あの食われている羽虫がヴァリエール様です」 私はヴァリエール様の現状は、あの糸でぐるぐる巻きにされた羽虫だと例えた。 「もう死んでるじゃねえか」 勘当者が吐き捨てた。 例えが悪かったようだ。 しかして、この直感はそこまで外れているとは思えない。 今から、このファウストが急げば間に合うはずである。 「ともあれ、テメレール公からも反対こそされたが、最終的には認めて頂けました。それぞれ思うところはあると思いますが、お付き合いいただきたい」 私は狂える猪の騎士団、かつて決闘をした6名にそう告げて。 深々と頭を下げて、お願いをした。 「ヴァリエール様と言えばケルン派に改宗された高貴なる御方です。このケルン騎士がポリドロ卿――もとい、デカマラス卿に同心してお助けに行くとならば、枢機卿の御心に叶う事になりましょう」 ケルン騎士が代表するようにして、朗らかな笑顔で呟いた。 忠義者、勘当者、日陰者、敗北者などはもう何も語らぬ。 一度敗れた以上、まあ貴卿に従うのも仕方ないと諦めたような顔であった。 唯一、サムライ殿が口を開いた。 「ポリドロ卿。要するに今回の旅の目的は貴卿の婚約者たるヴァリエール殿を御救いするための旅と考えてよろしいのですよね」 「旅の目的はそうですね」 それ以上の目的などなかった。 ヴァリエール様が帝都に無事辿り着けるようサポートするのが、私の目的である。 そうしないと死ぬ気がしているし。 「なるほど。ところで、私めの国では特別の働きがあった家臣や客将に対し、『特別な感謝のしるし』を与えることがありました。それはアンハルトやヴィレンドルフといった神聖グステン帝国を構成する国家文明でも珍しくはないと聞いております。如何に?」 サムライ殿が、どうしても聞いておきたいと言った風情で語る。 はて、何を言いたいのかと思うが、まあ理解はできる。 御恩と奉公の話である。 人を働かせる以上は、何らかの報酬があってしかるべきであった。 私は意図を汲み、サムライ殿に回答する。 「もちろん、今回参加していただくサムライ殿を含めた皆様には、しっかりと報酬が出るようにアナスタシア様にお伝えしておきます」 妹であるヴァリエール様のためなのだから、しっかりと支払って下さるだろう。 サムライ殿が報酬の心配をする必要は無かった。 また、こてんと首をひねって。 魅惑的な首元を見せながら、彼女は少し欲望の目で私を見つめた。 「……それはポリドロ卿の婚約者たるヴァリエール様やポリドロ卿に要求しても?」 「はあ」 まあ、助けられるのはヴァリエール様であり、嘆願しているのは私である。 請求先は彼女か私宛てとなるのも、そう間違ってはいないかもしれぬが。 どっちも金なんか持ってないぞ。 結局はアンハルト王国が金を払うことになるだろう。 「支払元に変更はありませんが、それでもよろしければ」 「はい。それで構いませんよ。命を救われたポリドロ卿の婚約者ヴァリエール様が『特別な感謝のしるし』を、このサムライめに払って下さる可能性が少しでもあればよろしいのです」 サムライ殿が、どこか楽しそうに頷いた。 少し意図がわからぬが、まあアンハルトが金払うんだから私に関係ない話である。 私はニコニコと和やかに笑う彼女を見つめながら息を吐く。 「準備は整ったことだし。早くヴァリエール様を迎えに行かねば」 ふと先ほどの蜘蛛を見れば、捕らえた羽虫を完全に食べ終わったところであった。 とにかく、早ければ早い方がよい。 私はそう判断して、旅準備を急ぐこととした。 ---------------------- 近況ノートでも書きましたが 仕事が忙しく6月度は更新できないかもしれません 7/1からは確実に再開しますのでお許しください 第166話 死を告知する妖精 チャンスはあと何回あるんだ。 十数回あるのか。それとも一度として得られないのか。 どうしても焦燥は抑えきれない。 何らの手立ても無ければ『幸運妖精』の後ろ髪一本すら引き抜くことは許されない。 騎士叙任という類稀なる幸運にはありつけぬ。 あのザビーネ卿からの約束全てが事実であった以上、このチャンスを逃せば私の人生など嘘だったことになる。 これから先の一生を後悔で終わらせて、あの時ちゃんとやっていればと。 酒を飲みながらに、ずっと愚痴を吐き続けることになる。 「プレティヒャ!」 名を叫ぶ。 既に髪一本を掴んだ者の名前だ。 アンハルト近隣において名のある傭兵団の頭で――今ではアンハルトの騎士だった。 ヴァリエール殿下からの叙任式にて、この旅中にて肩を剣で叩かれた最初の騎士である。 今では彼女の部下たる元傭兵団は全員市民権を持ち、正規兵の役職を得ていた。 嗚呼。 どうして、ここまで差が生まれたのだ。 悲鳴のように、彼女の名を叫ぶ。 「プレティヒャ!」 彼女は一度立ち止まろうとして――それをせず、再び歩き出した。 私の声は聞こえているはずだった。 何故無視をする! 私は怒りを覚えたが、同時に少し冷静になった。 ああ、コイツ、どうしても呼ばれたいのだ。 私に全てを言わせたいのだ。 「ヴァリエール殿下の忠実なる騎士、プレティヒャ卿! お待ちいただきたい!!」 彼女が、プレティヒャが今はどう呼ばれたいのか。 自分ならばどうして欲しいかを想像して、ハッキリと呼びつけてやった。 「そこまで言われれば振り向かざるをえないな。我が友人よ」 プレティヒャは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。 酷く楽しそうな顔であった。 愉悦に満ちていた。 自分に嵌まった『ヴァリエール殿下の忠実なる騎士』という首輪を見せびらかしているのだ。 目が眩みそうなそれに歯噛みし、要求を伝える。 「友人というならば、少し話に付き合っていただきたいものだ」 「なるほど、私と君とは友人だ。かつて殺し合ったこともあれば、我々傭兵を――ああ、私は元傭兵だがね。舐め腐った雇用者どもを一緒に襲ったこともある。この旅路を共にする仲間でもある。それは私が騎士となった後も変わらぬが」 プレティヒャは、私を未だ友人であるとは認めた。 だが、その後にくだらぬことをぶつぶつと呟く。 私も何かと忙しい立場でな。 ザビーネ卿から殿下の護衛に兵を出せないかと言われておるし、先日授爵を受けた他の騎士にも一度、挨拶に出向かねばならん。 彼女はアンハルト貴族の三女なので、従者すらおらぬようならば旅の間くらいは兵を貸しだしてやるのも悪くない。 なに、こちらは逆にアンハルト王都での騎士としての振る舞いを知らぬのだから、それを教えてもらうつもりなのだ。 要は助け合いさ。 そんなことをほざく。 わかっている。 「私の家紋なのだが、飛び出た実家の家紋など掲げたくはない。ここはそう、ヴァリエール殿下にあやかって妖精をモチーフとしたものをデザインせねばなあ……」 私の話を聞くつもりなど全くない。 一方的な自慢話がしたいだけなのはわかっていた。 何故ならば、私が逆の立場ならば全く同じことをやるからだ。 増長した人間がやることなど、絶頂に至った際の振る舞いなど、誰もが同じだった。 「話を聞いているのか?」 「聞いているとも」 自分が同じ立場となったならば、ヴァリエール殿下から剣で肩を叩かれたのならば、いくらでも話につきあってやろうさ。 私も同じ自慢話をしてやるだけのことだ。 それは今のところ、夢のような話だった。 「プレティヒャ卿、お尋ねしたい。殿下の護衛兵と先ほど口にしたが?」 まずは、自慢話から糸口を解かねばならなかった。 「うん? ちゃんと話を聞いていたのか。ああ、そうさ。お前も知っているだろうが、旅の仲間が増えた。実戦経験豊富な傭兵団から、超人一歩手前の黒騎士まで。兵数が拡大した以上は、忠実な騎士を集めて必死に殿下の御身を守らねばならぬだろう。むろん、私は死に物狂いで殿下をお守りするさ」 歯噛みする。 どいつもこいつも、人のチャンスを奪おうとする。 理解はしている。 ちっぽけな盗賊団を皆殺しにしただけで騎士や市民になれるなど、破格の条件にも程がある。 手を挙げる者など、帝国中にいた。 最大のチャンスは、誰もがザビーネ卿との約束に半信半疑で、それでも魅惑的な条件に惹かれた最初であったのに。 叙任の栄誉にあずかったのはプレティヒャだった。 「安心しろ。私はザビーネ卿から人の手柄を奪って恨まれぬように言われているのだ。もう盗賊団殺しには参加せんよ」 ただただ、羨ましかった。 そうだ、血と泥臭い我らの中で、泥沼から抜け出したのが眼前の女だった。 私は―― 「プレティヒャ。ザビーネ卿から、どこに盗賊団がいるのか聞いていたのか?」 「……下種な勘繰りはよくないな」 狼のように目ざとい彼女がザビーネ卿の御眼鏡に叶い、盗賊団の情報を優先的に与えられたのではないか。 袖の下で銀貨などを渡したのではないか。 そう疑っているのだ。 別に、その手段が悪いと言いたいのではない。 可能であれば、自分も同じことをするつもりなのだ。 「なるほど、確かに先んじて情報を得ていたことは否定しないがね。私はザビーネ卿とともに手分けして盗賊団の情報を収集したのだ。知ってて何が悪いのだ。最初に盗賊を発見した親衛隊の騎士殿が、協力的であった私に情報をまず与えてくれたところで道理ではないか」 「……」 真実だろう。 プレティヒャが都市で何か妙な動きをしていたことは知っていたが、何か知ることはできなかった。 ザビーネ卿もわざわざ教えてくれるほどに親切ではない。 それだけのことだ。 「話はそれだけか?」 「ザビーネ卿に、次の都市では我が傭兵団も協力したいと伝えてくれないか?」 とにかく、今からでも動かなければならない。 ここで何もしなければ、もう本当に栄誉にはありつけぬ。 「それは構わんがね。すでに、他の傭兵団も同じことを言ってきたぞ」 「……考えることは皆同じか」 誰も彼もが考えつく全てを尽くして、死に物狂いで動いているのだ。 血が湧き肉が躍り、命をチップに捧げた傭兵という博徒が人生最高潮の熱狂にて、人生最高の旅とするべく動いていた。 栄誉が得られたならば、生涯の自慢話にするのだ。 場合によっては別な傭兵団との殺人沙汰さえ起こりそうであった。 事実、隣人を殺して栄誉を得られるならば、別にそうしてもよかった。 人殺しを罪だなどとは今更思っていない。 「よろしくない考えがありそうだから、忠告しておこう。旅団内での殺人や争いは御法度だ。ヴァリエール殿下とザビーネ卿の印象を悪くすれば栄誉は得られんぞ」 「理解している」 もちろん、そんなことはしない。 この異常な血の狂乱というべき、賭けに勝ちさえすれば自分の惨めな人生では望めぬ利益が手に入ると知って。 気が触れて、正気すらも失いそうになる中で。 それでも旅団が規律を維持しているのは、それを破ればテーブルにチップを投げる事すら許されなくなるからだ。 傭兵団の全てが鉄の規律を維持しており、旅を共にする商人たちから荷物を盗み出そうという者がいたならば、そいつは全身が血で膨れ上がるくらいに棒で殴られて、そこらに捨てられるだろう。 一人でも馬鹿を出せば、未来の何もかもを失ってしまうのだ! 自分の敵であるそれを、打ち殺してよかった。 「まあ、なんだ。私は心の底から君を応援しているよ? ヴァリエール殿下は、ザビーネ卿は、傭兵団界隈でもドケチで有名なアンハルト王家は、確かに今回限りは大盤振る舞いをしているのだ。一代騎士の爵位はすでに与えられた二つばかりではない。あと十数回は振る舞われるだろうさ」 その十数回の一つが自分に与えられるかどうかが問題なんだ! 旅団の数は1000から1500に拡大している。 ヴァリエール殿下の旅が続けば、騎士受任者が増えれば、市民権持ちが増えれば。 噂が噂を呼び、旅への参加志願者はますます増えるだろう。 今回増えた傭兵団や黒騎士ばかりではない。 「……プレティヒャ。旅商人や芸人なども増えているようだが」 「よく気づいたな。ヴァリエール殿下に挨拶伺いをしてきたよ。無論直接の謁見など許さぬ。ザビーネ卿や、この私が初仕事とばかりに対応したがね」 目ざとい商人や芸人などが集まり、ヴァリエール殿下にとっておきの銀貨を差し出しては旅への参加を嘆願している。 途中参加であっても、まだ帝都は遠い。 これは大商機であるのだ。 数千人の集団が、都市から都市へと莫大な物資を消費して、盗賊団をぶち殺しては治安を回復していき、帝都までの交易路を練り歩くのだ。 その行為のために必要な資金源も保証されていた。 「やはり、アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿が参加したことが大きいか?」 「大きいな」 あの悪名高い盗賊騎士は、ヴァリエール殿下に膝を屈したわけではない。 なれど、さすがの妖精殿下よ。 かのベルリヒンゲン卿も喜んで精鋭100を引き連れては陣営に旗を並べて、旅に参加した。 すでにこの情報は帝国を駆け巡り、旅先の領主という領主を震えさせている頃だろう。 プレティヒャの舌は良く回る。 さすがにベルリヒンゲン卿を加えたとなれば、この粗野な傭兵団長風情でも何をしたいのか理解できる。 ヴァリエール殿下は、旅の中でありとあらゆる領主に合法的掠奪(フェーデ)を要求するつもりなのだ。 旅の資金源を、旅中にて大いに賄うつもりであった。 下手をしなくても、旅の終わりにはヴァリエール殿下の懐には山のような銀貨が入っている事だろう。 ひょっとすれば、かつてベルリヒンゲン卿が積み上げたという数万枚の銀貨以上の富を。 恐ろしかった。 そして、同時に誇らしかった。 私は今、彼女の指揮下にある。 「悪魔のようだ。ヴァリエール殿下は、あのように人を魅了する妖精のような容姿で人を油断させて、花香りのする声で人を魅了して、悪魔のような振る舞いで――」 帝都までに見つけた全ての盗賊団を大虐殺して血の絨毯で道を染め上げ、懐には名のある領主どもから奪った金で財産を作り上げ、しまいにはアンハルト選帝侯家の名を利用して、自分だけの軍隊を作り上げようとしている。 帝都に1000年後でも伝わるような事を為して、ようやく王家から出て地方領主の立場に甘んじてやってもよい。 それがヴァリエール様がアンハルト王家、そして今から向かう帝都で選帝侯継承式を行うこととなる姉殿下につきつけた条件であった。 誰の目に見ても、それは明らかだ。 それ以外に殿下が帝都に出向く理由がない。 いや、場合によってはアナスタシア殿下を殺して、自分が選帝侯となることすら計画しているのかもしれない。 むしろ、ヴァリエール殿下から見て隙あれば確実に実行されるだろう。 皇帝陛下すらも、このような闘争に巻き込まれることを拒否して、どのような凄惨な争いが繰り広げられても立ち入りはしないだろう。 無茶苦茶だ。 このように恐ろしい存在に出会ったことなど、私はなかったのだ。 一度は、凡庸で王としてはふさわしくないスペアなどと聞いていたのに。 何を馬鹿な事を! 誰も彼も、私も含めて盲目の盆暗どもにすぎないのだ! ヴァリエール様という人の死を告知する妖精(バンシー)を眼前にしては、恐れおののく哀れなムシケラどもにすぎない! 「殿下は、自分の敵全てを破滅させておしまいになるつもりなのだ。隙あれば、姉殿下すら殺害しておしまいになるつもりなのだ。全てに死を告知する妖精なのだ」 怖かった。 ただ、ヴァリエール殿下という偉大なる存在に恐怖していた。 同時に――旅に参加する誰もが彼女に焦がれ、認められ、心を焼き尽くされたいと思っている。 彼女の騎士になれるならば、誰だって死に物狂いであった。 私は、興奮していた。 多分、この瞬間、私は歴史の瞬間に立ち会っている。 それだけは間違いなかった。 ------------------ 近況ノートにて告知あります。 どうかお読みください 第167話 ケルン派の鶏鳴 旅は続いている。 最初30名の従軍神母の群れに過ぎなかった我らは今や50名に達している。 ヴァリエール様の旅団に混ざり、街から街へと移動するにあたってケルン派の教会へと立ち寄りて、その教会の神母に司祭様からの手紙を渡す。 すると神母は感動に打ち奮えて泣き、修道女の中から帝都までの優れた巡礼者を募ってくれる。 それを何度も繰り返すにつれ、我々は着実に数を増やしていた。 腰にはメイスとピストルをぶら下げ、マスケット銃を背に負って。 清貧の中で貯めた浄財を費やしては、旅すがらにロバと荷車の数を増やして、教会にある塩樽と火薬樽を荷台に積み上げ、ひたすらに行軍する。 傭兵たちに火薬と鉛玉を売りて路銀を稼ぎ、塩を旅団内に配給しては集まった皆にケルン派の説話を語り、興味を持つ者がいればケルン派の聖書たる『新世紀贖罪主伝説』についても教える。 今日も二頭のロバを連れた貧しい馬借にせがまれて、説教をしてきたばかりである。 「今日の説教は本当に良い出来でした」 今日の説教は――贖罪主が全身全霊の抵抗虚しく、弾丸が尽きたがゆえに捕らわれてしまった際に、ある臆病者の弟子が自分も一緒に捕まることを恐れて「あんな人は知らない」などと三度も否認してしまったこと。 その弱さに対する優しさについての教えであった。 ケルン派の神聖なる儀式たる『心臓殴りの儀』にて贖罪主が示された限りでは、三度目までならば神は疑っても優しく信徒を御赦しになられ、主は悔い改めて生き返った信徒を受け止め、再び立ち上がらせてくださるとあるのだが。 弟子は自分の弱さゆえに、許される限度たる三度を破ってしまったのだ。 贖罪主と一緒に闘うどころか、自分が連座で処刑されることさえ恐れて、贖罪主と自らの信仰を裏切ってしまったのだ。 その臆病がどれだけ惨めなものか、自分の意思と自分の愛する者を裏切ることがどれだけ虚しいかは、誰よりも本人である弟子が一番理解している。 もはや、生涯において弟子の心が安んじられることは二度とないだろうと思えた。 だが、その数日後にある者が現れた。 弟子のこめかみにピストルを突きつけながらに、にこやかに笑ってこう仰られたのだ。 『いいか、もう一度だけチャンスをやろう。私の名前を言ってみろ』と。 刑死したはずの贖罪主が、復活して自分の横に立っていた。 その声は弟子をからかうように優しかった。 弟子は狂喜して、ピストルを突きつけられている事すらも忘れて、自分が何より尊敬していた贖罪主の名前を目覚めた鶏のように叫んだ。 だが、その名を叫んだ瞬間に贖罪主の姿は朝露のように消えてしまった。 そこに残ったのは贖罪主が握っていたはずのピストルと、ケルン派の魂のみである。 弟子はピストルを握りしめて、激しく泣いた。 わかるだろう。 これ以上は言わずともわかるであろう。 臆病さゆえに贖罪主を見捨てても、信仰すら裏切ってしまっても、それでも贖罪主は弟子を見捨てなかったのだ。 臆病者の弟子の弱さを贖罪主は何もかも知っていたからこそ、愛ゆえに四度目の改悛の機会を与えて弟子の心を救済したのだ。 これこそが無限の愛(アガペー)である。 その後、弟子が再び立ち上がったものは言うまでもない。 この世界に存在する悪や悲惨や不幸や差別や貧困、理不尽な世界全てに立ち向かうために、ピストルを手に取りて立ち上がり、その命と身をもってケルン派へと再び加わったのだ。 これが『新世紀贖罪主伝説』の『鶏鳴の儀』に書かれている内容である。 熱く語り終えた私を、感動したように見つめて。 貧しい馬借が二頭のロバに身体を擦り付けられながら、ポツリと呟いた。 「私も、自分の悲惨や差別や貧困に立ち向かうために、今この旅に加わっております。ヴァリエール様がお与えくださったこの試練を勝ち抜いた暁には、全てを手に入れることが出来るはずなのです。その――助祭様がくださった説教に、深い感銘を抱いております」 馬借は涙を一滴流して、感動に打ち奮えた。 私は呟いた。 「ええ、貴女はケルン派の熱心な信徒であり、尊い御方であるヴァリエール・フォン・アンハルト殿下に誘われて、この旅に加わることとなりました。ですが、ヴァリエール様は厳しい御方です。旅に加わったのは全て貴女の意思ですよ」 明確なる事実を。 ヴァリエール殿下はケルン派への信仰厚き御方である。 同時に、ただ優しいだけの御方ではない。 こめかみにピストルを突きつけるまではしてくれても、鶏が鳴くように絶叫しなければ、自ら立ち上がらなければそれを見捨てるだろう。 だから――私も、ケルン派へ改宗しなさいなどと馬借にハッキリと口にはしない。 「……私は貧しい馬借で。その、えっと、学もなければ教養もありません。その……何か、自分の財産から浄財を寄付する余裕も。あ、でも、無理をすれば」 「いりません。貧しい方から何かを奪いて、何が信仰でありましょうか。日々を生きる一生懸命の者から銅貨をかすめ取るなど、聖職者として許される行為ではありません」 私は馬借を、優しい声で窘めた。 馬借は、何か困ったかのようにして、何か言いたいかのようにして私を見ている。 私は両手を小さく開き、誘うようにして言葉を促した。 これはこめかみにピストルを突きつける行為である。 「もし、私のような者でもよろしければ、改宗は許されるでしょうか」 「かまいません。貴女が永遠にケルン派の列に加わることを歓迎いたします」 ケルン派の改宗儀式には金などいらぬ。 自らケルン派に加わると叫べばよい。 これこそをケルン派で『鶏鳴の儀』と呼ぶ。 この世界に存在する悪や悲惨や不幸や差別や貧困に立ち向かう覚悟さえあればよい。 ――まあ、より深い改宗儀式ではもう少しばかり厳かになるので、多少は浄財が必要になるが、単に加わるだけならば必要は無い。 もちろん、彼女のような貧しい馬借たちも帝都までの行商を無事終えて資産を築いた後には、正式な改宗儀式を望むだろうが。 それはもう商人たちが自分から望むことであり、何の問題もない。 今日も一人、ケルン派信徒を増やした。 「やっぱり私の説教は本当に上手で――いかんな、それは傲慢だ」 少し、自分の傲慢を戒める。 アンハルトの教会で司祭様に窘められたことは、まだしっかり覚えている。 ともかくこのように、贖罪主の御心に沿う神聖なる行為を続けている。 旅を共にする間に、我々の説話や説教を面白がって聞く商人や傭兵なども増え、そもそもヴァリエール様がケルン派への信仰厚き御方であることから、単なる転向ではなく本格的な改宗儀式を執り行う機会も増えてきた。 もちろんそれはケルン派の熱心な信徒であるヴァリエール様に、自分も同じ信徒であるとアピールするための下心もあるのであろうが――それは徐々に正しき信仰の道へと導いてやればよい。 我々はケルン派として、誠に正しい道を歩んでいる。 『私たちは狂っている』。 その真実だけを真っ直ぐに見据えて、ただ歩き続けるのだ。 私たちには目的がある。 必ずや帝都に辿り着き、達しなければならない目的がある。 「ポリドロ領の助祭。我が姉妹よ」 決意を改めていると、横から声が飛んだ。 「何でしょうか、写本家の姉妹よ」 振り返れば、王都にて加わった修道女たる姉妹の一人が立っていた。 平素は『新世紀贖罪主伝説』の写本を務めているが、どうしても帝都への行軍に参加したいと。 新たなる聖書を『発見』するためのひらめき――思いつき。 いわゆるインスピレーションを得るために、経験値が必要なのだと嘆願して付いてきたのが彼女である。 写本を務める聖職者とくれば侮ってしまう者がいるやもしれないが、我々ケルン派を生半可な集団と一緒にしてもらってはこまる。 彼女とてケルン派の姉妹として修練を怠らず、気迫をこめての立木打ちなどは毎日行っている。 背にはよく整備されたマスケット銃を背負っている。 立派な聖職者の振る舞いとして、まことに何一つ恥ずかしくない姉妹であった。 「ヴァリエール様が呼んでおられます。用件はおわかりでしょう」 「はて」 何用であろうか。 などと惚けてしまいそうになるが、正直理解はしている。 さすがにヴァリエール様のような王族の高等教育を受けた御方には及ばぬが、我々とて聖職者である。 ケルン派聖職者の全てはスコラ学(哲学、神学)はもちろんのこと、優れた建築を織りなすための幾何学も常日頃から勉強している。 教養もあれば学もあった。 なれば、彼女が我々に求めているクエスティオネス(質疑)が何かは誰もが理解している。 彼女が答えを求めるならば、私たちは聖職者として問答の場を設け、確かな討議をせねばならなかった。 私は私の信仰において、それがケルン派への教義を揺るがすものでない限り、全てをヴァリエール様に対して詳らかにせねばならぬ。 それが聖職者として正しい在り方である。 「どうしますか姉妹。隠しますか」 「いえ――ヴァリエール様がお尋ねになるならば、もはや隠すことはしません」 「それがよろしいでしょう」 世の中には隠していた方が良いものもある。 一生知らなくてもよいならば、そのままそっとしておいてあげた方が幸せな事など、人の生を全うするにあたって珍しい事ではない。 だが、ケルン派への信仰厚きヴァリエール様に何を隠すことがあろうか。 むしろ、私たちの本意を知れば「素晴らしい考えと目的ね! 私も協力するわ!!」などと私の手を掴んでは鶏のように叫んでくれるであろう。 「全てをお話します。写本家の姉妹よ、今すぐ出向くとお伝えください」 「分かりました姉妹。ポリドロ家の当主、ファウスト・フォン・ポリドロ卿についての話をまたしてくださるのを楽しみにしています」 最近、写本家の姉妹はファウスト様のお話に首ったけである。 『これは良い発見につながりますよ!』などと叫んでは、私に話を強請ってくるのだ。 ヴァリエール様との話が終われば、また話をすることになるだろう。 まあよい。 私は説教も説話も好きだが、世間話をすることも大好きなのだ。 「さて、行きましょうか」 私はぽん、と腰を叩いた。 そこにはピストルと一緒に――司祭様から預かった柄の長い戦棍があった。 第168話 聖ゲオルギオスの聖なる戦棍 いよいよ、大規模なフェーデ(合法的掠奪)計画が始まる。 私が領主のところまで出向いて「金払うか死ぬかどっちか選べ」と何十回も繰り返し告げに行く、酷く胃の痛い作業が明日にも始まるのだ。 ――その前に、ケルン派に問いたださなくてはならないことがある。 もはや、彼女たち聖職者の目的がこのアンハルト第二王女たるヴァリエールの手助けでないことは明らかである。 「いくら殿下が信徒の立場であるといえ、ケルン派が塩の配給などにより利益を提供してくれてるとはいえ、彼女たちの目的を把握できないならば。これ以上の同行は拒否するべきだ」 新たに加わった強盗騎士であるアメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿がこちらの状況を察し、不安要素はできる限り排除する必要があると私に進言した。 合法的掠奪の強力な顧問にして、帝都までの道先案内人を担当してくれている彼女のそれを拒否することはできない。 私はポリドロ領の助祭を呼び、さて、どうしようかと思うが。 殊更に悩む必要は無かった。 ただ言葉を口にすればよいだけだ。 「ポリドロ領の助祭。この旅の従軍神母にお尋ねします」 「はい、信徒ヴァリエール。このケルン派の助祭は何でもお答えします」 眼前にのほほんとした顔で立つ助祭は、何でも正直に答えてくれるであろう。 私は一度周囲を見回して――立ち寄った街で一時借り受けした屋敷、その一室にいる側近を眺める。 ザビーネはいつもの調子で世の中を馬鹿にしたような顔をしているし、アメリアはただ状況を把握したいから傍にいるだけで、何か口を挟むつもりはないから殿下が解決せよと。 そう事前に告げられている。 要するに、まだ私はアメリア卿からの査定評価中の身の上なのだ。 私を含めた四人が一つ、妙な空気を吸った後に。 意を決して私は尋ねた。 「ケルン派が帝都に訪れる目的は何か? 従軍神母としてだけなら、ここまで規模を増やす必要はありません。貴方たちが何か崇高な目的を持って、私たちに同行しているのはわかっています。だから、この旅を全うしなければならない指揮官として率直に問います」 信徒として、このような事を口にするのは本当に心苦しいとは思っているのですが。 そのように、欠片も感じていない配慮を口にして。 再度、質問を口にする。 「ケルン派が帝都に訪れる目的は何か?」 率直にお答えいただきたい。 掌を見せるように差し出して、助祭に返答を促す。 「信徒ヴァリエール殿下に聖職者としてお答えします」 彼女は何か説教をするように、一つだけコホンと咳をついて。 「聖遺物を枢機卿にお届けする為です」 きっぱりと言い放ち、私は予想外の返答に戸惑った。 正直言えば、私の想定だと―― 『くたばれ暴力教皇ユリア! ついに時代の風が訪れたのだ!! 貴様の死骸を踏み越えて我らケルン派が新秩序を築き上げる!!』 だの。 『帝都ウィンドボナに火を放て! ケルン派がついに腐った帝国に変化をもたらす日が訪れたのだ! 贖罪主のアガペーによる救済を皆に与えよ!! ものみなこぞりてマスケット銃を掲げて、鉄火を打ち鳴らせ!』 だのも有り得た。 そのような気の触れた事を言い出す可能性まで考えていたのだ。 それを考えている間、私は凄く胃が痛かった。 可能性は可能性にすぎず、まあ実際にケルン派が極端に他人様に迷惑をかける形で暴発する可能性は本当に低い。 それはわかってはいるのだ。 ケルン派が自らを律して、修道女一人に至るまで常に聖職者たらんと努めていることは知っているし、なんだかんだで贖罪主の愛を大切にしているのだろう。 隣人愛は正義に並び、時にはそれすらも超えると贖罪主が示した倫理価値観である。 それを心底大事にしているケルン派は、本当に尊い聖職者たちといえた。 ……清貧であれば、それだけでよいなどとは貴族として思わないけれど。 そのあたりは聖職者たる「祈る人」の分野であるのだから、あまり触れる気はない。 だが――まあ、ともかく、心配しているほどの変な事は言われなかった。 聖遺物の運搬か。 うん。 別に、ケルン派が何か聖遺物――聖人の遺骸や遺品、崇敬の対象となるそれを運んだところで問題はないと考えた。 話をこれで終えようとして。 「……」 アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿が鋭い眼光で私を見つめていた。 お前、まさかそんなもんで話を終わらせるつもりじゃないだろうな。 そんな目である。 わかってる。 わかってるってばよ。 如何に聖遺物の運搬であろうが、ケルン派が徒党を組んで帝都に出向いている今の行動の説明にはなっていない。 何か、裏で絶対にヤバイことしてるのは理解している。 「続けて質問をお許しください。聖遺物とはどのような物でしょうか?」 「……」 助祭は腰から、柄の長い戦棍を取り外した。 両手でそれを掴み、崇敬の念を抱いているようにして、丁重に私に見せる。 まさか、それが聖遺物だなんてことは―― 「これはケルン派の偉大なる聖人、聖ゲオルギウスの聖なる戦棍です」 別に聖ゲオルギウスはケルン派の聖人じゃねえよ。 何ホラ吹いてんだテメエとザビーネを叱るように突っ込もうとして、辛うじて抑えた。 聖職者が喋ってる最中なのだから、黙って話を聞かなければならない。 スコラ学で例えるならば「レクツィオ」(読解)の段階であり、私は疑問を差し挟むことはしない。 「ヴァリエール殿下も御存じの通り。聖ゲオルギウスがドラゴンを殺した際に用いております。ケルン派に改宗した民衆の前で、この聖なる戦棍で滅多打ちにしてドラゴンを殺処分しております」 私が御存じなのは、聖ゲオルギウスがドラゴンを引き連れて異教の民衆に改宗するように促したような、よくよく考えれば結構アレな行為で。 ああ、そうだ。 丁度、私が最強強盗騎士アメリア卿を引き連れていって、領主に金払えって脅すような。 私の良心から言えば、もう他人様に槍で心臓を貫かれても文句言えないような酷い行為でなかろうか。 やるしかないから、もうやるけど。 「加えて、ヴァリエール殿下も御存じの通り。ケルン派へ改宗した王配に対しても、これで異教の女王を殴り殺せと投げ渡した聖なる戦棍。その時もこれを投げ与えたと言われております」 私が御存じの限りでは、どう考えても聖ゲオルギウス伝説にそんなエピソードは存在しなかった気がするんだけど。 いや、もう、ケルン派の中ではそういうことになってるんだろうな。 アメリア卿が眉を顰めて、何トチ狂った事言ってんだよコイツみたいな顔をしている。 たぶんケルン派への理解が足りないのだろう。 私は最近理解しつつある。 そういうエピソードを『発見』しましたと言い張るところがケルン派にはあった。 別に、貴族も普通に血統の家系図だの、過去の土地や主従契約の古文書だのを『発見』することは珍しくもないから、あんまり胸を張ってケルン派の狂気を批難することもできない。 「私の――そして我々神母集団の目的は、これを枢機卿猊下にお届けすることであります」 私は世の中ままならない事ばかりだと、少しばかり悲しく思いながらに助祭の目を見つめる。 助祭は、真っ直ぐ私と視線を合わせた。 まあ、理解している。 助祭は紛れもなく本気であり、そして彼女と共にある姉妹のケルン派聖職者たちも、これが聖ゲオルギオスの聖遺物であると。 『聖なる戦棍』であることを何一つ疑っていないのだろう。 私は頭痛がした。 ザビーネは超胡散臭そうにして、聖遺物を眺めている。 アメリア卿は正気かケルン派と、視線で私に尋ねてきた。 世間の狂気はケルン派の正気であるのだ。 そういう意味で言えば、間違いなくケルン派は正気であった。 「理解したわ」 聖ゲオルギオスの時代にそんなデザインの戦棍なかったんじゃね?と言いそうになって必死に堪える。 もう、ケルン派がそう言い張っているなら、信徒である私がそれに異議を唱えるのはもうアレだった。 何の利益もない以上は、異議を唱える意味はない。 「ケルン派は聖遺物の運搬を目的として、人を集めていたのね」 「はい。何せ聖遺物は他所から強奪されることも珍しくありません」 お前それ聖遺物でもなんでもねえだろ。 誰もそんな偽物奪わないだろ。 そう生来のツッコミ気性を必死になって、辛うじて堪える。 「何せ、聖遺物専門の強盗集団がいるくらいです。ヴァリエール殿下ならば御賢察頂けますでしょうが、この機会に他の宗派がこの『聖ゲオルギオスの聖なる戦棍』を奪いに来ないとも限りません」 強盗集団も、他の宗派も専門家であるならばこそ、それが偽物であることぐらいわかると思うんだけど。 これが紛れもなく本物の聖遺物であると信じてくれるのは、唯一ケルン派のみである。 「聖遺物は持ち主を選ぶと言われています。もし略奪が許されざる行為なら、聖遺物が抵抗したに違いない。ゆえに略奪の成功は、ケルン派における聖遺物の保護対応に不満だった証左である。よって略奪による移動は聖遺物の意志にかなっていたと看做されてしまいます」 考える。 ケルン派って、本当に何も考えていないのか? 目的は本当に聖遺物の運搬が目的であり、それを略奪されたならばケルン派の面子を汚すことになるから、誰もが一丸となって協力している。 故に、帝都までの旅路は慎重に慎重を重ねている。 「アンハルトにおける司祭様は、今回の信徒ヴァリエール殿下の帝都までの旅は良い機会である。これを枢機卿にお届けしてくれと。そう私に命じております」 私は悩んでいる。 筋は通っていた。 そして、紛れもなく眼前の助祭は本心本音で語っている。 これ以上のクエスティオネス(質疑)は無駄であった。 私はそれを理解したので、もう話を打ち切ることにした。 「素晴らしい考えと目的ね。私も協力するわ」 信徒としては、そう発言すること以外に何もできない。 私は助祭の手を取り、彼女の同行を今後とも許す事にした。 「殿下ならそう言って下さると思っていました」 助祭は手を握り、これを喜んだ。 これで話は終わり。 何事も解決したはずである。 助祭は聖職者として綺麗に首肯し、部屋を辞した。 ――残されたのは、私とザビーネ、そしてアメリア卿。 完全に助祭が消え去ったと判断された瞬間に。 「絶対嘘です。いや、助祭自身は本心を告げていましたけど」 ザビーネは虚偽と判断した。 助祭が嘘をついたのではなく、ケルン派自体の意図は明確に違うと判定したのだ。 「おそらくは。助祭が何も知らされてないだけで、何か真の目的がケルン派には隠されている」 アメリア卿もまた、虚偽であると判定した。 こちらは強盗騎士としての経験則に基づく見解であり、ザビーネの意見同様に否定することはできなかった。 とはいえ、この私の立場としてはだ。 「だからといってどうするのよ。ケルン派上層部の意図はこの場で知りようがないし、正当な名目がある以上、もうこのまま連れていくしかないのよ」 指揮官として、信徒として、ケルン派の同行をこれ以上拒否する名分などもうどこにも見当たらなかった。 ケルン派の聖人では絶対にない、我ら騎士の模範たるべき聖ゲオルギオス。 その槍が、私の腹部を貫いたかのような痛み。 私の胃には今、その症状が明確に発生していた。 第169話 教皇ユリアと皇帝マキシーン 暴力教皇ユリアと呼ばれる聖職者がいる。 人をたくさん殺したからだ。 前教皇を断罪処刑したからだ。 外国の王を説得し、教皇領に攻め入ったからだ。 どさくさに紛れて教皇領を占領していた領主どもを、降伏さえ許さず皆殺しにしたからだ。 それだけならば、歴史上にたまにいる教皇と言えた。 唯一違う特別な――ユニークであると言えるのは、その最前線で指揮を執っていたのが教皇ユリア本人であるところだ。 儀礼上で教皇軍の総司令官を兼務するのではなく、戦術的な軍事指導者として戦場指揮を行った経歴が彼女にはある。 ゆえに、騎士も市民も、誰もが彼女を暴力教皇ユリアと呼んだ。 無表情で、にこりとも笑わずに、絹の法衣を纏いて人を殺すことを命令する。 それがユリアと言う名の聖職者だった。 そして―― 「ケルン派に異端審問を仕掛けます」 眼前のユリアはそう呼ばれていることを知っているし、それを何一つ気にも留めていない。 むしろ、暴力教皇が為さることだからの評判一つで、人を殴るのにいちいち大義名分を唱えずに済むのならば、都合が良いのだろう。 今もまた、暴力を振るう事で一つの宗派を潰そうと画策している。 「理由は?」 「私たちがモンゴルの尻を舐める事に気づいたからです」 私は驚かなかった。 いつかは誰かが気づくとは思っていた。 そして、気づいたところで何かが変わるわけでもなかった。 鼻でふんと笑う。 「どうでもよさそうですね。貴方にとっても他人事ではないのですよ。帝国を売ることに決めた少女皇帝よ」 教皇ユリアは、全くの無表情で呟いた。 私がやることは神の意志でございます、何もかもが世界の為であるのです。 モンゴルの尻を舐めることさえも、神への背信行為ではありません。 そのような真面目くさった表情のままであり、事実、教皇本人は何一つ虚偽を吐いているつもりなど、何処にもないのであろう。 「事実どうでもよいからな」 この私、神聖グステン帝国皇帝たるマキシーン一世にとっては何もかも、どうでも良い事であった。 正直言ってしまえば、こんな神聖でも何でもないグステン帝国なんぞが塵に代わってしまおうが、私の父親を見殺しにして餓死させた帝都市民どもが皆殺しになろうが、ありとあらゆる領民が塗炭の苦しみに喘ごうが、私に何の関係があるというのか。 端的に言うと、本当にどうでもよかった。 全てに火をつけて、何もかも消し炭にしたいわけではない。 むしろ、それでも、例えどれだけ世界が憎くても。 私は確かに皇帝であるのだから、人を導くべき役目を背負っているのだから、帝国を脅かすものがいるならば防衛しなければならない。 ただ――それは『可能であるならば』に限る。 「この帝国は滅ぶだろう」 勝ち目はないのだ。 それはもう、あのテメレール公爵が嫌と言うほど説明してくれた。 あの猪突公が、どこまでも真剣に私たちを説得しようと必死に動いたのだ。 もう2年もすればモンゴル軍158000騎が押し寄せるのだと。 誰もが力を合わせて、このテメレールも犬畜生のように働くと眼前にてゲッシュを立てるから、モンゴルに一緒に立ち向かってくれ。 教皇猊下も、どうか神の加護を与えてくれ、神聖グステン帝国に住まう万民のための聖戦を行うのだと。 私は最後までそれに従うからと。 嗚呼。 ――あれも、思えば哀れな女だ。 そんなことをしたところで、誰が一緒に立ち上がってくれるというのか。 自分が命懸けのゲッシュを立てるのだからと、真実本音で心の底から神の誓いを立てるのだから協力してくれと、そんな泣き言をほざいたところで誰が同意してくれるというのか。 人など身勝手なものなのだ。 それを信じる方が間違っているのだ。 人間は利己的で、あさましく、身勝手で、誰かが自分の代わりに手を汚してくれれば良いと常に思っている存在だ。 騎士も聖職者も市民も、誰もが自分の利益のため互いに闘争する『万人の万人に対する闘争』が神聖グステン帝国の現実であり、フェーデ(自力救済)が国家の法を上回るのが現実である。 人はまとまらないのだ。 哀れな民衆を暴力や不安から救済するための集合体たる『国家(コモンウェルス)』と呼べるものは、おそらく未だこの世には登場していないのだと思う。 このマキシーンが握り拳を作り、選帝侯や封建領主、商人や市民に対して騎士としての義務を呼びかけたところで、集まる力など知れている。 神聖グステン帝国がおかれた状況において、あと二年の期限付きではどう努力したところで、仮に異教徒への聖戦を起こしたとしてもモンゴルに対抗することは不可能だ。 敗北を喫するのが目に見えている。 それが現実だ。 ならば、最初から尻を舐めた方がマシだった。 そんな簡単な事を、どうしてもテメレール公は認めたがらないのだ。 自分こそが帝国を救うのだという幻想に取り付かれてしまった、哀れな騎士でしかない。 「……テメレール公の事を気にされているのですか」 「多少」 何度も何度も、本当に数えられぬくらいにテメレール公は私の殺害を目論んだ。 貴様などよりも私が皇帝にふさわしいという感情を、少しも隠そうとせぬ輩だった。 だが、どうしても嫌いにはなれない。 高慢で妙に捻くれているが、変なところで純粋に帝国騎士として生きようとする。 あの妙ちくりんな猪の事を、私は嫌いではなかった。 彼女が皇帝位の簒奪を目指して、この首を刎ねて『裏切者め』と唾を吐いたところで、恨むつもりなどないのだ。 それを許してやるぐらいには、私は彼女の奇妙な本性に好意を抱いていた。 もっとも、テメレール公は皇帝位簒奪どころか選帝侯とトラブルを起こしたようで、帝都市民で話題となっている男騎士に一騎打ちで殺されかけたと聞くが。 はて。 無論、あの悪魔超人レッケンベル卿を殺した相手というからには、テメレール猪突公に勝てても別におかしくはないのだが。 そもそもが、レッケンベル卿に勝てる男など現実に存在するのだろうか。 いるわけないだろうに、そんなバケモノ。 私は正直なところ、虚偽ではないかと疑っている。 まるでテメレール公が私に示そうとしたように、アンハルト王国でゲッシュを誓って、満座の領主騎士全てから軍権を差し出させただの。 ヴィレンドルフのカタリナ選帝侯が、その男欲しさゆえにアンハルトとの和平を承知しただの。 夢物語のような馬鹿話だけが聞こえてくる。 いや――今、気にする事ではない、か。 どうでもよいことばかり考えて、教皇の話などは他人事のように聞こえてしまう。 「このユリアも、彼女の事は気にかけております。ですが、帝都での彼女の評判は元々が猪扱い。まして、選帝侯にしてやられた状況では誰も彼女の話など真剣に聞かぬでしょう。状況を知れば、ほぼ全ての貴族が私と皇帝に同意いたします。心配する必要はありません」 その心配はしていない。 そもそも、私にとっては同意されず反対にあったところで、それはそれでよい。 別に、テメレール公が皇帝になりたいというならば、ならせてやってもよいとさえ思えている。 なったところで神聖グステン帝国という船は、もう沈む泥船だが。 私は私の一族さえ別な箱舟にのって逃げることが出来れば、それでよい。 「今重要視するのは、むしろケルン派です。私はかつて、教皇に成るためにケルン派という宗派の力を借りました。私たちは彼女たちの教義に触れました。精神に触れました。潜在的な技術を知りました。現世救済のための理念に触れました」 「それが異端であったと」 私は笑う。 かつて力を借りた宗派の連中を見捨て、自ら枢機卿に任命したケルン司教枢機卿を異端審問により殺そうとしている。 さて、どんな難癖を思いついたのだろうか。 「――私はケルン派が宗派の起こりからずっと、何を探しているのか、何を求めているのか、何に辿り着きたいのかにすら気づいてしまいました」 どうでもよいこと。 暴力教皇ユリアは狂っている。 信仰に狂っている。 彼女はかつて、教皇軍という強力な力を持ちながら、私と父が帝都ウィンドボナに監禁されているにも関わらず助けてくれなかった。 聖職者は、仲裁はしてもその暴力を皇帝位の争いに使うことを良しとしないと。 そのような事を、都合が良い建前や言い訳ではなく、本当にそう信じているから関わらなかった。 そうだ。 本当に心底何の疑問もなく、そのように考えているのだ。 その結果、本当に何の罪もない私の父親が飢え死にしても、それは神の意志であるから受け入れろとほざく。 私たちを助けることぐらい簡単に出来た癖に。 私は奇妙な好意をテメレール公に感じているのとは逆に、この教皇ユリアは吐き気がするほどに嫌いであった。 皇帝としての仕事があるから、仕方なく付き合っているだけだ。 ただ―― 「私はケルン派の在り方には敬意すら抱いております。彼女たちには彼女たちの贖罪主像があり、その信仰は人々に救済を与えるのかもしれません」 不愉快な事に、この教皇ユリアの能力自体は高かった。 ありとあらゆる聖職者が争うコンクラーベにおいて勝ち上がったのは眼前の彼女であり、ルール無用の殺し合いにおいて、生き残ったのは彼女であるのだ。 さて。 そろそろ、この教皇に喋らせるのも不愉快になってきた。 「要点を話せ」 お前がどれだけケルン派に対して悪意を抱いていないことを話したところで、必要があるから異端審問を仕掛けて殺すんだろうが。 それを一々、これは仕方のない事だとか、くだらない戯言をほざいて理論武装するのは不愉快であった。 殺すのならば、ぐだぐだ言わずに殺すべきであった。 「私の話を聞いていただけませんか。マキシーン皇帝陛下」 「ケルン派を異端審問し、ケルン司教枢機卿を殺したければ勝手にすればよい。よいが、私は手伝う気などない。お前から話を聞いたところで、私が言うべきことなどこれだけだ」 抗いたいものが勝手に抗い、あのテメレール公がケルン派と組んで私に立ち向かうというならば、むしろユリアよりも好感を抱く事ができる。 それで彼女たちが私の屍の上に立ち上がり、モンゴルと闘うというならば。 それが神聖グステン帝国の正当な意思と認める事さえしてやろう。 そこまでやっても――どうせモンゴルには負けるがな。 「私は手伝わない。各々は好きな道に行き、好きなようにすればよい。敵も味方も」 そうだ。 この教皇は私の父親を見捨てた。 そして、私は別に自分の破滅など恐れていない。 ならば、コイツを助けてやる必要などどこにもないのだ。 「ケルン派についての話は最後までお伝えしたかったのですが、皇帝陛下の耳には届かないようですね。わかりました。私は私なりに行動を起こすことにしましょう。まずは手始めに、ヴァリエール・フォン・アンハルトを始末します」 「……ヴァリエール?」 はて、何故その名前が? アンハルト選帝侯の第二王女の名前と思われるが、その名前が出てくる理由がわからない。 処分するのはケルン派ではなかったのか? 「アンハルトの第二王女殿下、ヴァリエールが帝都ウィンドボナに向かってきているのは御存じでしょうか?」 「知っている」 千人の旅団規模にて、アンハルト王都から出発したことは諜報網から伝わっている。 それがどうした。 「その際に、ケルン派が何か大事なものを――聖遺物にも等しい物を、旅団と共に運んできているようなのです。また、ケルン派の聖職者を帝都に大量に導き入れようとしている」 「……それで?」 仮にそれが本物の聖遺物だとしたところで、何の価値もない。 この世には魔法があり、奇跡もあるが、聖遺物が何か恵みをもたらした実例などはない。 あれは聖職者の宗派や教会の面子、寄付金集めの見世物としてあるだけだ。 「ケルン派への異端審問、その前哨戦を行うこととします。今帝都に拘束されて身動きがとれないケルン司教枢機卿、彼女が兵力をかき集める前に、そして聖遺物にも等しい何かを手にする前に。ヴァリエールの旅団を始末せねばなりません」 そして、と一呼吸だけおいて。 いつもの無表情ではなく、本当に何か純粋な好奇心を持つ人間性を見せて、呟いた。 「ケルン派の聖遺物に等しいものが何か、気になっておりますし」 はて。 このいけすかない教皇ユリアとは長い付き合いだが、このような表情を見せた事があったろうか。 私は気になったが――その時、教皇はすでに元の無表情に戻っていた。 第170話 因果は集束する 選帝侯は七人いる。 神聖グステン帝国皇帝の地位を認める選挙権を有した者を選帝侯と呼び、最も財力に優れたアンハルト王国と、最も暴力に優れたヴィレンドルフを含めた四世俗諸侯家。 そして聖職者である三聖職諸侯(司教領主)を合わせて、七選帝侯としている。 勿論、聖職者である以上は一定の敬意を教皇に払わねばならぬ。 要するにだ。 私は教皇として、聖職位を持つ選帝侯を呼び出せる権限があった。 「お呼びでしょうか、ユリア教皇猊下」 「早いですね、マインツ大司教。呼び出して二刻も経っておりませんが」 ――マインツ大司教。 選帝侯であり、私の忠実な部下でもある。 無論、忠実とは言っても騎士における寄親と寄子のような関係である。 相互利益による主従関係というのが大前提であった。 「呼ばれると思っておりましたので」 彼女の特徴を言えば、とにかく現世利益最優先といったところであった。 おそらく、このマインツ大司教は神など信じていないのだろう。 それは贖宥状を売りさばいては銀貨を稼ぎ、芸術家などを大量に雇用しては豪華絢爛な建築物を建てていることなどからも明らかである。 その行為の神学的是非を黙らせるために、有力な聖職者、もちろん教皇である私へも多額の献金を行っている。 要するに、世俗の垢と悪にまみれた人間というのが世間におけるマインツ大司教の評判である。 彼女の名前を口にすれば、心ある聖職者や騎士であるならば眉を顰めることも珍しくはない。 「呼ばれると思っていたならば、話は早い。この教皇ユリアの懸念、こちらが言うまでもなく解き明かして見せなさい」 「わかりました。御懸念を解きほぐしてご覧にいれましょう」 もっとも別側面から見れば、彼女は単純な悪とも言えなかった。 贖宥状なんぞ売り出したところで、優れた説教師がいくら購入を勧めたところで、これを買えば救われるなら買いますなどと信徒が奪い合うように買ってくれるわけではない。 不信心な貴族や商人なれば鼻で笑うだろう。 ゆえに、マインツ大司教はむしろ不信心な貴族や商人こそを攻撃対象に選んだ。 『贖宥状を買わぬのなら、貴様が過去に犯した罪を大いに糾弾して貴様を潰す』と書かれた手紙を、ニコニコとした笑顔で渡すのだ。 金を払いさえすれば、もちろんニコニコと贖宥状を渡すのだ。 要するに脅迫である。 その行為を何百回と繰り返し蓄財を重ねたのが眼前のマインツ大司教である。 脛に傷を持つ貴族や商人などのカモを見つけ出し。あげつらっては批難をして、これ以上言われたくなければ贖宥状を買えと脅すなど凡人が出来る行為ではない そうだ、彼女は単純な悪ではない。 念入りにリサーチ(調査)を行い、アドバンテージ(優位性)を奪い、敵対象を叩きのめす邪悪なのだ。 一言で言えばとても凄いクズだ。 「――御懸念は、ケルン派でしょうな」 「ほう」 だが、いくら優れたリサーチ能力を持つマインツ大司教とて、私と皇帝がモンゴルへの寝返りを決意したことは知らない。 なれば、真実にまではたどり着けない。 マインツ大司教であれば、いつかは辿り着くだろうが――今はまだその時ではない。 「ユリア教皇におかれましては、ケルン派が一手に握る火薬という技術を奪い取ることが目的でしょうか?」 「……」 単刀直入の発言。 私がかつてコンクラーベにおいて資金援助を頼み、巨額の融資をもらうことでケルン司教を枢機卿とした。 彼女が指導するケルン派は、ここ数年で一気に躍進した。 無論、聖職者派閥であるのだからその力が貴族に対抗するための力の一助になってないとは言わないが。 「私はケルン派が流通させている硝石は、山から産物として掘り出すのではなくて。ケルン派が編み出した何らかの自然科学により醸成されているのではないかと睨んでいるのです」 マインツ大司教は優れている。 硝石の生産に関しては私の予測と一致しているし、まだ世に出て日が浅い火薬と言う暴力に対して、そこまで考えが及ぶ人物は少ないであろう。 彼女の能力に対しては、私は何一つ誹謗しない。 「しかし、今から我々が火薬を作り出すのは難しい。ケルン派が蓄積してきた技術や学識に追いつくのは難しいでしょう。ならば、それを丸ごと奪い取るのが正しい。教皇が枢機卿にしてやったにも関わらず、技術を秘匿するケルン派には教皇も思うところがおありなのでは?」 ただし俗物の思考。 俗物の思考である。 私はマインツ大司教を、心の中で嘲笑した。 別に、私はケルン派が嫌いではない。 マキシーン皇帝などは最後まで話を聞いてくれなかったが、私は決してケルン派を嫌ってはいなかった。 少なくとも、眼前の俗物などよりは、あのケルン司教枢機卿に敬意を――。 いや。 やめておこう。 「よくぞ解き明かしましたマインツ大司教。やはり私が貴女を呼んだのは間違いではありません。実は、私はケルン派へ異端審問を行う決意を固めたところなのです」 「それを先んじて私に話しておこうと。有難いですな」 「はい。それと線続きの話となるのですが――」 私は今からケルン派を異端認定することで、宗派ごと壊滅に至らしめるのだから。 それを考えれば、私などはマインツ大司教と一緒に地獄に落ちても仕方がなかった。 それでも守らなければいけない信仰が現世にあると。 そのように、あのケルン司教枢機卿ならば言うであろう。 「ヴァリエール・フォン・アンハルトを御存じですか? あの教会への献金をとにかく渋るドケチのリーゼンロッテ選帝侯の次女であり、帝都における継承式を控えたアナスタシア殿下の妹です」 「知っております。なんでも、くいっぱぐれの馬借や傭兵などを集めて帝都ウィンドボナに向かっているとか」 要するに行商紛いの行為ですな。 貴族の娘とあろうものが、よくやるものです。 マインツ大司教はそう言って笑う。 それは嘲笑ではなくて、むしろ好意を滲ませていた。 ヴァリエール殿下が計画した帝都までの行商を純粋に称賛しているのだ。 彼女は、金稼ぎが大好きだった。 「……そうやって笑えるということは」 話はここからだ。 どうにかして、このマインツ大司教を駒のように仕掛けてやる必要があった。 「まだ貴女は何も知らないようですね。マインツ大司教」 「知らないとは? このマインツが知らぬ事など世に数少ないと思いますが」 マインツ大司教が傲慢を口にした。 汚らわしい女である。 だが、利用せねばならぬ。 単純に、選帝侯家の次女を殺せと言ってもマインツ大司教は賛同しない。 アンハルト選帝侯と敵対するなど絶対に御免であろう。 何かと言い訳をつけては退けるだろう。 だが。 「ヴァリエールの旅団に、あのアメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿が加わった事です」 教皇たる私にかかれば言葉一つで操ることが出来た。 「――」 マインツ大司教は、先ほどまで滲ませていたヴァリエールへの好意を打ち捨てて。 何一つ笑っていない目をした。 「はて、どうして、あの糞ったれの強盗騎士が出てくるのですか?」 「詳細は知らぬが。まあ、世間的にはたまたま通りすがったヴァリエール殿下の御心に打たれ、このように尊き御方に何もしてあげられぬとあっては、帝国騎士としての名が廃る。帝都までの道行き案内人を受け賜りたい。そういうことになっている」 無論、嘘だろう。 どう考えても合法的掠奪(フェーデ)を道程のありとあらゆる封建領主どもに仕掛けるつもりである。 かの悪魔超人クラウディア・フォン・レッケンベルにおける騎行とくらべれば上品な容姿は取り繕っていたが、内実は何も変わらぬ。 「ユリア教皇猊下。私はかつて、貴女に兵を出した。前教皇への断罪を経て貴女が教皇に成りあがった後に、薄汚いチンピラ領主どもから教皇領を取り戻すにあたって必要なだけの兵を出しました」 「憶えています。あの時は助かりました」 マインツ大司教は機を見るに敏である。 形勢が決定的となった瞬間に、彼女は私に媚びを売った。 それは兵力であり、物資であり、資金の供出であった。 確かに助かった。 「そうです。私は教皇猊下に貢献しながらも、ちゃんと司教区の事も考えていたのに。騎士は引き連れて行けども、自分の司教区を守り切れるだけの参事や兵を残したのに。あの薄汚いゴミが! 地べたを這いずり回ってその日を食べるのがせいぜいの、出自も貧しければ家紋すら持たぬような強盗騎士が!!」 問題は、アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿だった。 当時は誰もその名を知らぬただの強盗騎士が、主君も領地も家紋も持たぬ一人の黒騎士が、徒党を集めてマインツ大司教領を襲ったのだ。 留守を狙っての凶行だった。 さりとて尋常な相手ならば、そのようなもの跳ね返せるはずであった。 マインツ大司教とて選帝侯であり、そこらの騎士が名誉を傷付けられるものではない。 しかし。 ベルリヒンゲン卿はやり切った。 フェーデを最後まで成し遂げて、莫大な和解金を勝ち取ったのだ。 「私の領地を襲い、私の財産を傷付け、奪ったのだ。あの騎士のせいで、私の名誉がどれだけ傷付けられたか! 私がどれだけ帝国市民どもに嘲笑われたか!!」 後でわかったが、あのアメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿は何年も前から大規模掠奪を計画していたのだ。 留守を狙っての行き当たりばったりの行動ではない。 ずっと、ずっと。 それこそベルリヒンゲン卿が強盗騎士を始めた最初の最初から、どうすればマインツ大司教領を攻め落とせるのかを窺っていた。 兵を集める方法は何か、物資を集める方法は何か、どこまで自弁でやっていけるのか、どこの商人なら強盗資金を投資させることができるのか、大規模都市への交渉の方法はどうすればよいのか。 何を相手が弱みとしており、どうすれば自分は勝ちを掴み取れるのか。 私が調べれば調べるほど、理詰めの戦略であった。 文字を読むどころか、簡単な計算すらできるのかさえ怪しい最底辺の出自である一人の黒騎士が、おそらくは独自に勉強を重ねて。 右腕を大砲に粉々に消し飛ばされながらに、そこまでやってのけたのだ。 もはや感嘆するしかない。 「選帝侯である私が、名誉を穢された私が、和解のためにあの薄汚い強盗騎士に衆目の前で抱き合うことさえ強要されたのです。どれだけの屈辱であったか!!」 被害者であるマインツ大司教にとっては、そのような偉業は何もかも業腹でしかなかったが。 「あの時、あの強盗騎士は私に耳元で囁いたんだ! 抱き合いながら、私の耳元でこう囁いたんだ!!」 司教杖が、絨毯の上に投げつけられた。 羊飼いの杖を模した司教杖を投げ捨て、人を導き諭す聖職者ではなく、純粋な名誉ある個人としての怒りを叫んだ。 「私の尻を舐めろ。陽気にいこう。文句をいってもしかたがない。本当に悩みの種だよ。だから陽気に楽しく行こう。何、ちょっと神聖グステン帝国における名高い選帝侯殿が、地べたを這いずり回る黒騎士一匹にぶちのめされただけさ。陽気で痛快じゃないかと。そのように、歌でも歌うかのようにさえずって」 マインツ大司教は本当に不快そうに耳を抑えている。 彼女にとっては領地を侵害されたより、都市を襲われたより、和解金と言う名の財産略奪を受けたよりも。 純粋に名誉を穢されたことが、何よりの苦痛であるようだった。 「最後にこう言ったのです。金を払ったから和解してやる。お前は私の尻を舐めた、そう歴史には残るけどな、と」 私にとってはどうでもよいことだった。 負けたマインツ大司教が間抜けなのだ。 どんな理由があろうとも、負けた以上は言い訳に過ぎぬ。 とはいえ、大前提として私が呼びかけた兵力の供出に応じた結果ではある。 だから、彼女が枢機卿になれるようには取り計らった。 「あの強盗騎士だけは許せない」 ゆえに、私にとっては過ぎた事ではあるのだが。 利用できるならば、利用するのが正しかった。 「……ならば、あの強盗騎士を仕留めなさい。それ以外に、貴女の選帝侯としての名誉が完全に回復される方法はない」 囁いてやる。 私は今から教唆を行う。 「表向きに和解をしております。それを破ることはできません」 「表向きにはでしょう?」 確かに和解した。 衆目の前で果たしたそれを選帝侯が自ら破ることはできない。 契約は重要である。 だが――正直、それは契約と言う名の建前を誰もが重要視しているだけであって。 「話を少し戻しましょうか。私はケルン派を潰すつもりです。異端審問を行って信徒の一人も残らず追い詰めるつもりです。それはケルン派信徒であるヴァリエール・フォン・アンハルトも例外ではありません」 正直に言ってしまえば、建前さえ取り繕えば、復讐など幾らでも許されるのだ。 「……仮に異端であったとて、他家の子女を殺すことはできません。アンハルト選帝侯家に恨まれたくなどない。私は選帝侯の一人であり、自分の領民がおります。彼らのためには自分の屈辱を呑むことも必要です」 今、マインツ大司教は必死に頭で計算をしている。 その回転の速い頭で、精々考えるとよいだろう。 どうすれば―― 「私がどうとでも取り繕ってあげましょう」 どうすれば領民に言い訳して、建前を取り繕って復讐して、お前の名誉を回復できるかを。 「マインツ大司教。ヴァリエール・フォン・アンハルトは元々、アンハルト選帝侯家にとってそこまで重要な人間ではない。そりゃあ多少は恨むかもしれませんが、マインツ選帝侯家が彼女まで殺す気はなかったのだと。異端信仰を捨てなかったがゆえに仕方なくやったのだと。懸命に弁解をして、賠償金を差し出せばよろしい。もちろん、その賠償金は教皇たる私が全て出しましょう」 アンハルト選帝侯家は動かない。 ヴァリエール・フォン・アンハルトを殺したとしても、表向きにはマインツ選帝侯に謝罪を求めて終わりである。 仮にヴァリエールが愛されていたところで、形勢不利とあれば異端審問を受けたケルン派信徒となる彼女を庇おうとはしない。 貴族としての理屈を優先するはずである。 「私に泥を呑めと?」 マインツ大司教の脳内において、理性はおそらく止めておけと言っている。 なれど、人は本当に侮辱を受けたならば、自分が破滅してでも相手を殺すことを望む。 世の中全てが何もかもどうでもよくなるのだ。 それが侮辱というものだ。 「このまま強盗騎士の尻を舐めた選帝侯として歴史に名を残すのか。それとも強盗騎士どころか、他の選帝侯家の子女ごとぶち殺してでも名誉を回復した勇ましい選帝侯として名を歴史に残すのか。どちらがよろしい?」 さて、煽るだけ煽ったところで。 そろそろ助け舟を出してやろう。 「とはいえ――まあ、私としてはヴァリエール・フォン・アンハルトを殺すことが目的ではありません。彼女に帝都までの道行きにて、一信徒として保護しているケルン派の聖職者どもを差し出させるのは難しいでしょう。もちろん、マインツ大司教が復讐したいアメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿を差し出させることも」 私の目的はケルン派を叩き潰す事である。 ケルン派の聖職者たちが、帝都まで辿り着くことを妨げ、彼女たちが保護している聖遺物を強奪すること。 マインツ大司教の目的はベルリヒンゲン卿の殺害である。 彼女が為した悪徳への報いを受けさせて、選帝侯家として強盗騎士にいいようにされた名誉を回復すること。 「だから、ヴァリエール殿下にはこう言って差し上げなさい。これは教皇であるユリアの命であると。教皇として異端審問することになるケルン派から離れ、悔い改めて改宗しなさいと。貴女は異端に騙された被害者であるのだからと」 「もし断るとあれば?」 「皆殺しにしなさい。異端を保護したヴァリエール殿下も、ケルン派聖職者も、それに付き従うベルリヒンゲン卿も、何もかもを」 私は暴力教皇と呼ばれている。 今さら、殺人など忌避するものか。 信仰を守るためとあれば、自分が地獄に落ちようが構いなどしない。 いや、ケルン派の教義に言わせれば。 私が異端認定することとなるケルン司教枢機卿に言わせれば。 ――この世界そのものが地獄なのだ。 私たちはそこに住む哀れな罪深き住人でしかなかった。 「……承知しました。帝都から離れ、領地へと戻ることとしましょう。すぐに軍を束ねて、アンハルト選帝侯家ヴァリエール・フォン・アンハルト第二王女の異端信仰を正し、改宗を願うこととします」 断れば、殲滅することとなるでしょう。 マインツ大司教は私の言葉に、静かに決意を呟いた。 本当に、静かに。 第八章 完 ヴァリエールの帝都進撃編 下 第171話 ヴァリエール騎行はじまり 屈するより他はないだろうな。 そう考えた。 計算を終えたところで小さく頷いて、色よい返事をする。 「……ヴァリエール殿下。今回は我が財産たる領地にはびこる盗賊たちへの処罰、私が為すべき討伐を代行頂きましたこと。心より感謝申し上げます」 状況は詰んでいるのだ。 ここまで逃げ場を無くされては、どうしようもなかった。 眼前の相手はリーゼンロッテ選帝侯の子女たるヴァリエール・フォン・アンハルトであり、血統や世俗的名誉において私より遥かに上である。 いくら私が帝都までの街道すら支配下に置く封建領主とはいえ、さすがに選帝侯の子女と比べると田舎騎士に過ぎぬ。 当家は何分、ここ三代にて城と領地を拝領したような成り上がりの家であるわけだし。 こちらが名誉を侮辱されたならば、争う恰好だけでも取り繕う必要はあるが――その様子は全くない。 「神聖グステン帝国の法を加護し、善男善女を保護する名高き貴卿の代わりを果たせたとなれば、このヴァリエールも誇らしくあります」 妖精のような外見の少女。 彼女は甘い花香のするような声色にて、何一つ嘘などないようにして発言を行いて。 「貴卿の名声はアンハルト王国にも響いております。例を挙げるならば――」 我が家の来歴について、そして私自身の戦歴について。 何一つ知らぬことはないのだと、まるで優れた紋章官が原稿を用意したようにして、とても大げさに褒め称える。 周囲では、私に忠誠を誓う騎士や領民たちが満足したように笑顔を見せていた。 ヴァリエール殿下は、私の名誉を完全に満たしてくれている。 衆目の前にして、この田舎封建領主の私と、選帝侯家の子女であるヴァリエール殿下が全くもって対等であり、名誉を以て我が封建領主家を褒めたたえる価値があると示しているのだ。 正直言ってしまえば、私自身も悪い気分ではなかった。 これは私に利益のある行為である。 選帝侯の子女として、衆目の前で私を褒めたたえてくれる行為も。 山賊を一人残らず殲滅してくれた行為も。 今のところ、ヴァリエール殿下は私に明確な利益を与えて続けてくれている。 「――古くは貴家の三代前の当主様が、我が選帝侯家と馬を並べて異教徒を打ちのめしたこともありましたね」 ヴァリエール殿下が何もかもが嘘というわけではないが、多分その頃の脆弱な当家の立場では挨拶すらロクに交わしたこともないはずの力関係を無視した。 貴族的な『名誉改竄』と呼ばれる作業を公然と行いて、当家を褒めたたえてくれている。 選帝侯家の立場を背負いてそれをやってくれるのならば、それを拒む必要は欠片とてなかった。 早速、土地を貸し与えている修道院に喜捨を行いて、当家の新歴史を『発見』しようと思う。 アンハルト選帝侯家と仲睦まじく一緒に闘ったことがあるという話は、当家の名誉を補強してくれるはずであった。 私の記憶が確かならば、アンハルト選帝侯家は勇ましく異教徒相手に闘う当家の御先祖様に対して「貴卿こそ我が軍で一番、万夫不当の英傑よ!」と褒め称えてくれたはずである。 「全くもって誇らしい限りであります。ただ――ヴァリエール殿下の手を煩わせてしまった件については、正直申し訳ないと思っておりますが」 ここまで褒め称えて頂けるならば。 ここは少しばかり謙遜の意味で、自分を卑下するような言動をしても問題はなかった。 「仕方ない事です。どの国でも事情は同じで、山賊討伐ができなかった理由は承知しております。軍役を騎士や兵に要求することは簡単ではありませんので」 ヴァリエール殿下は全てを理解しておられる。 ――そうだ、別に山賊を無意味に放置してたわけではない。 私とて好き好んで山賊を街道にのさばらしていたわけではないし、我が領内に我が領民と言う大事な資産を脅かす可能勢がある賊どもがいることは常々不快に思っていた。 それこそ殺そうと決意するならば、領主である私ならばいつでも殺すことはできた。 だが、やらなかった。 できなかったではなく、やらなかったのだ。 理由はたった一つだ。 コストがかかる。 治安維持のコストが、山賊どもを放置する不利益を上回ってしまうからやらないのだ。 単純に私自らが忠誠厚き騎士や兵どもと全力で突撃して皆殺しにすればよいなどと、物知らぬ者なれば考えるだろうが。 それにどれだけ金がかかるかわかってないから、普段は畑を耕している兵を動員することがどれだけ領地財政にとって不利益なのか知らぬからほざけるのだ。 それに――追いかけても、少ししくじれば賊は逃げるのだ。 本当に腹が立つ話であるが、逃げるのだ。 それこそ面子も名誉も何もない連中であるから、法など何も守らない連中であるのだから、追いかければ平気で他の領地に逃げ込むのだ。 当たり前だが、国境線を割って他領主の土地に逃げ込んだ山賊を、完全武装の騎士団が入って追いかけるなどできはせぬ。 私とて、そのような事をされたならば公然と批判して応戦する。 山賊などよりも他領地の完全武装の騎士団の方がよっぽど怖かったし、その兵どもが私の財産たる領民を傷付けて収奪を行う可能性など珍しくもない。 神聖グステン帝国が為した法の庇護下の盟約を守っている互いとはいえ、そんなもん信用できるか。 結局この世界は自力救済(フェーデ)が事実上の法としてまかり通っているのだ。 治安維持に多大なコストを支払えば、それは結局領民に税金として圧し掛かるのだ。 帝都に繋がる街道の安全を維持し、旅商人を保護することは領地の利益につながるが。 ――コストがその利益を上回るようであり、関所税を払いたくないからと街道を少し外れた数人の旅商人が襲われてくたばろうが、私の領民でもなんでもないんだから正直知った事ではなかった。 そういう話だ。 それはそれとして。 「心から感謝を」 嘘ではない言葉を告げる。 我が領地ではびこる山賊団を絶対的多数による暴力で皆殺しにしてくれたとあらば、それはもう感謝しかない。 明確な利益であるからだ。 私が怖いのは、その利益に対する支払いである。 結局、金の話になるのだが。 「旅でお急ぎとは思われますが、どうか今宵は我が城にて滞在して頂けませんでしょうか。色々とお話したいこともございます」 衆目に聞かれたい話ではない。 城に招いて、二人きりで静かに話し合う必要がある。 もう最初に決めていた事だが、ヴァリエール殿下に金を支払う以外の選択肢が私には許されない。 彼女が率いる1500名からなる旅団がその気になれば、もう我が領地などは容易く滅茶苦茶にされてしまうだろう。 会話相手の心情を考えるという手段に当たれば、ヴァリエール殿下の行軍においては値段交渉や外見上面子を取り繕うために一当て戦ったことにしてくれだの、そんな泣き言が通じるとはとても思えないのだ。 だからこそアメリア・フォン・ベルヒリンゲン卿なんて下衆をヴァリエール殿下は『雇用』している。 そうだ、おそらくは雇用だろう。 さすがにヴァリエール殿下がいくら有能とはいえ、あの残酷無慈悲でえげつないフェーデ(マインツ選帝侯への掠奪)を為した強盗騎士がただ頭を垂れるなどとはとても思えない。 いや――希望的観測は捨てるべきだ。 たとえ、それが雇用と言う単純な金銭的契約に基づくものであったとしても。 私たち封建領主の心をへし折り、利益を叩き出すためにベルヒリンゲン卿の雇用などを考えつくヴァリエール殿下に、どうやって私のような田舎騎士が立ち向かえるのだろうか。 私は今、心底ぞっとした。 そうだ、何を浮かれていたのだ。 殿下の誉め言葉一つで浮かれている場合ではないのだ。 ベルリヒンゲン卿が算定した当家が支払えるだけの最大限の額を、ヴァリエール殿下が要求してくるのは間違いない。 なるほど、確かに支払うことはギリギリできるだろうが、それは領地にとって致命的なダメージにもなりかねない。 ……領民は我が財産だ。 なればこそ、増税だけはしたくない。 パンを分け与えられる個数が減る三女や四女がいるかもしれない。 家を出ねばならず、淫売宿に売られる男が出るかもしれない。 それに思い至れば、領主として全責任を背負っている私の背には冷や水が浴びせられるようであった。 私はヴァリエール殿下や衆目の手前、項垂れる事も出来ずに――静かに、泣きそうになった。 ―――――――――― ヴァリエール殿下が要求したのは意外な内容であった。 「殿下、その、正直にお尋ねしますが」 確かに巨額ではあった。 当家が支払える限界ギリギリから少し加減された程度、その額を確かに要求されていたのだが。 条件が、少し変わっていた。 「その、私が支払った殆どを、我が領地にて使って下さるという条件はどういう意味で?」 意味がよくわからなかった。 これは羊皮紙に刻まれた公式文書であり、ヴァリエール殿下の封蝋も装飾として押されている。 その文書によれば、ヴァリエール殿下は必ずや当家が支払った礼金の全てを街にてほぼ使い切るとあった。 彼女が酒保商人としているイングリット商会が、領地の商人と交渉した上で適正価格にて物資を買い入れると記載されているのだ。 「そのままの意味となるわね」 ヴァリエール殿下はあっけらかんと言い放った。 はて、どうしようかと迷う。 だが、殿下の花香のする声に誘われて――というよりも、この場には私と殿下しかおらぬ。 衆目や配下のいる前ではとても口には出せぬ、泣き言を吐いても多少は許される状況であった。 少なくとも殿下の前ではそうしてもよいと思えた。 そのような雰囲気を持つのが、ヴァリエール殿下であったのだ。 だから口に出す。 「……正直、私は殿下にできる限りの財産を搾り取られると覚悟しておりました」 「それは私の本意ではないのよ。貴女に恨まれたくないし」 私の泣き言に、答えが返ってくる。 その殿下の言葉には、何一つ嘘が無いように思えた。 「だから、その、ギリギリ泣かなくて済む案を用意したわ。というよりも、正直今の旅団規模がどこまで膨れ上がるのかわからないのもあるし」 物資が必要だというのはわかる。 殿下の旅団はすでに1500名を上回る規模であり、こうして会話をしている間にも殿下との謁見を望む黒騎士や傭兵団、旅商人や芸人がひっきりなしに訪れていると聞く。 まあ、殿下は何の土産も無しでは御会いにならないと彼女の配下であるザビーネ卿が全て断っていると聞くが。 娯楽である旅芸人や楽師や説話を語る聖職者を含めて、パンパンに膨れ上がっている。 ともかくも、今も旅団規模は増大していた。 ならばパンや干し肉といった食料であり、腐らぬ水であるワインやビールが必要と言えた。 それは分かるのだが。 「……その、私の領地にて産出している雑貨や鉱石、織物から工芸品まで、何から何まで買いあげることになると思われるのですが」 「文書に書いてある通りよ」 確かに書いてあるのだが。 はて、殿下は何を考えているのだ? 「私が支払った額を領地に落としてくれるというのは本当に有り難いのです。自分の領地で銀貨が流通してくれるのであれば事実上は物資提供のみとなり、確かに殿下への御礼は痛手なりとて、致命的な問題にはなりませんので」 「まあ……それでも、貴卿には痛手だと思うけれど」 まあ、痛いは痛い。 さりとて、私が放出した銀貨が領地内で回るとあれば、そこまで致命的な痛手ではないのだ。 どうせ私の手元に税として返ってくるのだから。 最初に抱いた痛手への想像や、自分が受けた利益を計算すれば上等も上等と言えた。 物資は大事だが、また時間を経て生産すれば良い。 ただ。 「この田舎領主ごときには殿下の御心が分かりかねます。どういうお考えで?」 「最初に言った通り、貴女に恨まれたくないのと。物資が旅団に必要だから、その消費分と。最終的に帝都で清算するつもりだから――」 そこまで言われて理解した。 そうか、要は我々のような封建領主にだけではなく、殿下は帝都の交易ギルドにも金を払わせるつもりなのだ。 選帝侯子女としての血統と、千剣の暴力を背景に「物資を全て買いあげて金払うか、お前等が死ぬか選べ」とギルドを脅すつもりなのだ。 ギルドとて、どうにか金銭に換算できるものであれば膨大な物資とて拒めはしない。 これは殿下による騎行への負担の分散でもあるが、それだけでなく交易により更なる巨額を稼ぎ出すつもりなのだ。 えげつなくて、この私などにはとうてい思いつかぬ計画で―― 「イングリット商会が計算して、これなら帝都で利益に換算できると思える物資は、全部買い入れる形で清算したいと思うのよ。傭兵団にも少なからず荷物を持たせて、商隊への護衛費用や運搬費によって彼女たちへ給金も支払ってあげられるし……」 同時に、殿下の御慈悲とも言えた。 私はぞっとした。 眼前の御方は、どこまで考えて今の行動を為されているのだろうか。 利益のみではなかった。 慈悲のみでもなかった。 ありとあらゆる観念を交えて、今の行動を実行されておられるのだ。 私は背筋に蕁麻疹のようなものが起きたが、それは恐怖によるのみではない。 強い畏敬が込められていた。 「ヴァリエール殿下」 私は平伏した。 神聖グステン帝国の皇帝を除けば盟約以外の忠誠を誓わぬ、この成り上がり一族の当主が抱く僅かばかりの憧れが発露した。 「……どうしたの? たとえ衆目の目がないとはいえ、領主としてそのような行為をしてよい立場では」 「この田舎騎士めが、主従関係などに欠片も価値も感じた事のない封建領主騎士めが誓願いたします」 そうすれば、もう止まらなかった。 他人の目などないのだから、私だけが個人的に誓う分には構わなかった。 私はヴァリエール殿下を。 「貴女への臣従礼(オマージュ)を望みます。アンハルト選帝侯家の第二子女としての貴女ではない、ヴァリエール・フォン・アンハルト個人に対してとなります。同時に、この私は封建領主の立場としてではなく、私個人の誓いとなりますが――」 敬愛してしまった。 これはアンハルト選帝侯に対してではない。 我が領地を託してのものではない。 なれど、忠誠宣誓である。 「どうか、今後貴女を主君として仰ぎ、永遠の忠誠を誓いますから。この御身に貴女からの加護を与えてくれないでしょうか。それを許してくだされば、私は貴女の危機にどんなことがあったとて駆けつけましょう」 私はこのえげつないことを平然とやる妖精殿下に心底惚れこんでしまった。 騎士として、偉大なる主君を持つことは永遠の憧れであり。 その憧れに、眼前の殿下がふさわしいと感じてしまった。 ならば、宣誓するしかなかったのだ。 私は十分な躊躇いの時間を受けた後に――見事、ヴァリエール殿下からの臣従礼を勝ち取ったのだ。 第172話 お腹が痛いときに祈る神様 お腹が痛いときに祈る神様に祈っている。 私が祈っているのは――一体何処の神様に対してなのだろうか。 三位一体たる唯一神は魂を救ってくれると仰っているが、私が救って欲しいのは魂ではなく猛烈な胃痛からであり、そのような大層なことは望んではいない。 お腹が痛いときに祈る神様に仮の名前を付け、例えばポンポンペイン神とする。 ポンポンペイン神はお腹が痛い現象を司る神であり、愚か者が暴飲暴食や寝不足により正しい生活を送らなかったり、悪い物を食べたり、自分の能力限界を超えたやらかしをしたときに何処からともなく現れて、お腹が痛くなる罰をくだすのだ。 もうしませんから、もうしませんからと涙目で心の底からポンポンペイン神に謝罪して祈りを捧げたときのみ、痛みを気持ち僅かだけ軽減してくれる権能をお持ちである。 此の世に産まれ落ちた以上、一生に一度は誰もがポンポンペイン神に祈る機会があるだろう。 善人悪人問わず、哀れなる衆生を今もそっと陰から見つめておられるのだ。 そのようなインチキ宗教を考えている。 もちろん現実逃避であった。 「……」 どうやら、あまりの胃痛に少しばかり気が触れていたようだった。 というか、ほんの数秒だが気絶していたようである。 椅子に座り、力を込めた際に強烈な胃痛で意識が落ちたのだ。 もう限界が近い。 私は首を振って意識を奮い立たせ、なんとか立ち上がる。 この旅団内では一番立派な自分の陣幕にて、周囲を見渡した。 陣幕には私以外にザビーネとベルリヒンゲン卿がおり、私は少し迷ったが――ベルリヒンゲン卿もある程度は私の本性を把握しているので、気にせず愚痴を吐き出すことにした。 「私、今朝のオシッコがピンク色だったんだけど」 血の小便が出たのだ。 鮮血のような真っ赤ではなかったし、血の塊を吐き出したわけでもないが。 なにか強烈なストレスによる炎症が私の身体に変調をもたらしていた。 ザビーネが口を開いた。 「私はヴァリ様のオシッコなら飲めます」 「誰がそんな言葉を聞きたいと言ったの? 頭大丈夫なの?」 ぶち殺すぞザビーネ。 質が悪いことにザビーネの目は本気であったし、このサイコパスにはからかい等の意図は全くなく、私は貴女のオシッコが血に染まっていても飲めますという。 変態性と忠誠心のコラボレーションからくる告白であった。 すでに口にしたが、別にそんな言葉を聞きたいわけではない。 ていうか飲ませないわアホタレが。 「なんでこんなことになってるの? なんでこんなことになってるの?」 二度、困惑を呟く。 現状はどう考えてもおかしかった。 整理しよう。 私の目的はザビーネを帝都に連れていくことであり、他に何の目的もない。 当初はそれ以外、何の目的もないはずだったのだ。 だが、当のザビーネがもうなんか帝都だとヤバイ事になってるのが簡単に想像できるから1000人ぐらい連れて行った方が良くね? と進言して、結果的になんか社会的に市民権すらない貧乏商人や馬借、山賊なのか傭兵なのか、なんだかよくわかんない傭兵団ども、法衣貴族の三女四女のスペアども、あともう何がしたいのかすらよくわかんないケルン派の聖職者たち。 そんな色々な方面で可哀そうな人たちを、ポンポンペイン神に縋る胃痛持ちの可哀そうな私たるヴァリエール・フォン・アンハルトが旅団長になる形にて引き連れ、帝都に向かって進撃している。 それがまあ最初のアンハルト王都から出発するにあたっての状況であったのだ。 そこまではよい。 そこまでなら、私だって何とかまあアンハルト選帝侯の第二子女として、状況を回せたかもしれない。 ザビーネを基本とする親衛隊に多くを任せることになるだろうが、なんとか切りまわせた。 しかしだ。 「ザビーネ! 今の旅団員数を言ってみなさい!」 「えーと、まあ。純粋な戦闘兵員と言う意味でなら1200程ですね。最初にいた傭兵団と法衣貴族の三女四女が600でしたが、それに新規追加でフリーランサーの黒騎士や傭兵団が押しかけてきまして、あっさりと倍増しました。それに酒保や交易商として、元からいる商人300に旅商人が100ほど加わって400。ケルン派聖職者も町々へ立ち寄るたびに増えまして50。それに商機到来とばかりに旅芸人なども大量に加わった上、ケルン派に……」 ひいふうみい、と指折りザビーネが数えているが。 そんな細かな数字を聞いてもお腹が痛くなるだけなので、私は大雑把な返答を求める。 「軍隊的な意味で旅団の人数を聞いてるんじゃないのよ。私が引きつれている人たちは何人いるの?」 「まあ2000は超えていますね。領主へのフェーデ(合法的掠奪)に成功して、路銀に余裕ができたことを聞きつけて、欲深き者が集まってきています」 眩暈がした。 出発の際の1000人ですら頭がおかしいと思ったのに、数はすでに倍を超えている。 ハッキリ言えば、私にはこの規模の指揮などできない。 今、旅団内の規律や治安が守られている状況が異常と言っても良いのだ。 私は今の現状をどうにも理解できていない。 「問題はまだ発生しておりませんので、このままいきます」 ザビーネは言い張った。 何一つ気になどしていないといった風情である。 この時ばかりは、主君たる私や同僚たる第二王女親衛隊、そしてファウスト以外の事など心の底からどうでもよいと考えているザビーネが羨ましかった。 多分、問題が起きたら起きたで、私を守るための肉盾が少し減ったぐらいの感覚で終わらせるつもりなのだ。 まあどうでもよいか、と私も同様に考えられるなら、ここまで胃など痛めていない。 「ザビーネ、尋ねるわ。この状況をどこまで予想していた?」 「本音を申しますと、私の想像をすでに上回っております」 そりゃそうだろう。 ザビーネとて、最初の1000人を基本として帝都まで突っ走るつもりであったし、だからこそ最短ルートにおいて必須である危険札を掴もうとした。 危険札とは、ちょうど横にいるベルリヒンゲン卿である。 帝都までの街道を知り尽くした道先案内人であり、道行きの路銀を稼ぐためのフェーデ(合法的掠奪)を極限まで簡略化するための危険札にして鬼札である。 伝説的強盗騎士である彼女が私の補佐を務めている以上、彼女を手中にするための試練を乗り越えた後は、このヴァリエールがやるべきことなど領主から金を悪どく毟り取るだけのルーチンワークにすぎなかったはずなのだ。 だが。 だが、しかしだ。 当のベルリヒンゲン卿が言うのだ。 「いや、ハッキリ言わせてもらえればヴァリエール殿下が全部悪い」 言いやがったコイツ。 言われたくない言葉をハッキリと言いやがった。 「あのさあ。私の言葉に従っていれば、まあ想定外の人員増加はあっても極力最低限で済ませられたぞ。本当に最短ルートぶっちぎりで帝都に掠奪騎行をさせてあげられたよ」 なのに、と。 ベルリヒンゲン卿がくるり、と私に突きつけた人差し指を回した。 蜻蛉の瞳を回転させるようにして、まるで昆虫風情と馬鹿にしたような口調であった。 「殿下は変な情けをかけてやった。今から路銀を略奪する相手に対して、もう追い詰められて自分が蛇に睨まれた蛙風情に過ぎぬと覚悟した領主どもに対して情けをかけた」 そうだ、私は情けをかけた。 そもそも、私は確かに金が欲しかったが、それは私が私腹を肥やすためではない。 自分の配下がくうくうお腹を空かせながらに帝都まで歩くなど嫌であったし、これからアンハルトに仕える騎士になるであろう元傭兵団の団長、市民権を得る兵士たちに、活躍の褒美となる見栄えの良い装備一つ与えてやれないなど悲しくてしかたなかった。 パンの一切れを少しづつ千切っては大切そうに口に含む、本当に自分の全財産を投げうって交易品をしこたま買い入れているロバ二匹を連れた馬借を見た。 金だ。 金さえあれば、私は彼女たち全てを幸せにしてやれた。 だけど、その金を用意するためには、どうしても人から奪う必要があった。 その金を持っているのは、帝都までの街道を支配している封建領主騎士達であった。 それでも、それでもだ。 「彼女たちだってお金が必要なのよ。別に、自分たちが贅沢するために蓄財しているわけじゃないのよ。飢饉のとき、軍役のとき、祭事のとき、頑張っているけれど不幸にして救われない領民を救済してあげるために。そういう時のためにお金を蓄えているのよ。婚約者たるファウストがどれだけ頑張って、自分の領民のために心を砕いて領主騎士をやっているのか、知っているのよ」 彼女たち領主から金を奪うということは。 とてつもない悪徳であると私は理解していた。 単純にそれを行使することに、私の良心が耐えられなかった。 「だから、譲歩すべき点を見つけられないかと思った。考えに考えて、そもそも酒保商人や馬借たちが何を目的に旅に同行しているかを考えて。これしかないと思いついた」 どうせ帝都に出向くのならば、交易にて儲ければよいのである。 最初は良いアイデアだと思ったのだ。 私も、領主も金が必要ならば、もっとも余裕がある帝都から回収すれば誰もが幸せであった。 別に帝都の商人とはちゃんと商売をするつもりであるから、たとえ千剣の暴力を背景に交渉したとしても罪悪感は薄い。 ちゃんと金銭価値のある交易品を領主から買い取って、配下の騎士や兵にも褒美の品を与え、旅商人や馬借も元々が運搬業であるのだから、それを運ぶための給金を与えることができる。 もう、なんか、この凡庸なる私にしてはマトモなアイデアだと思ったのだ。 最初だけ。 最初だけはそう思ったのだが。 「……私がフェーデした封建領主が旅に付いてきて、旅団規模が拡大したけど」 封建領主のほぼ全員が、旅への同行を申し出てきたのだ 私への臣従礼(オマージュ)を衆目の前にて誓った後、最低限に抑えた陪臣騎士や兵士を率いて旅団の尻に付いてきており、沢山の交易商を引きつれている。 ベルリヒンゲン卿はまた、くるり、と人差し指を回した。 そうして心の底から阿呆を見るような表情で、私に答えた。 「殿下がやろうとしていることの真似をしているだけだよ」 封建領主だって馬鹿じゃないんだよ。 今回のヴァリエール殿下の旅に同行することで、明確なメリットがあるんだよ。 私はヴァリエール殿下こそが我が主君であると主従関係を結んだ騎士であり、殿下が無事帝都ウィンドボナに到着するまでを見届ける義務がある。 そうであるから、当然として帝国における街道関所の関所税など払う気など無い。 関所税を払わずに、他領主の許可など得ずに街道を通る権利があるのだと。 そう言い張るつもりなのだと、ベルリヒンゲン卿は答えた。 私はその言葉を受け取り、解答を為す。 「……私たちが山賊を皆殺しにしながら進むから旅の安全は保障されており、軍役などを強いて領民から兵力を集める必要は無く。ただ交易をするに当たっての最低限の軍備だけ整えて、私たちと一緒に帝都まで乗り込んで、商人に交易品を売りつけると?」 いや、うん。 確かに、私が実行しようとしている事をなぞる様な最適解ではある。 逞しいな連中。 「そうだよ。帝都までの街道を支配するような封建領主たちを甘く見過ぎなんだよ。殿下に払った礼金を一部補填するどころか、最終的に利鞘を稼げるかもなんて変な妄想してる奴もいるぞ」 これなら、もっと分捕れたかもしれない。 ベルリヒンゲン卿はそう呟いて、少しだけ悔しそうに吐き捨てた後。 「まあいいさ。結果的にはこれでもよい。殿下は別に損をしていない。ただ、先に言った通り、旅団規模が拡大したのは何もかもヴァリエール殿下の自業自得だ。それぞれの面子を懸けて殺し合いを始めようが、統制が取れなくなって街への掠奪を始めようが」 もはや私との会話に価値を見出していないようにして。 鉄靴を踏み鳴らし、私に背を向けた。 「何もかも殿下の自業自得だ。殿下が血の小便を流すのは、そこの変態(ザビーネ卿)のせいだけではなかろう。覚悟して帝都まで道中を歩まれると良い」 ベルリヒンゲン卿の、単刀直入に事実を告げる言葉だけが陣幕に響いて。 私はまた、胃が痛くなった。 「助けてポンポンペイン神」 そのように呟く。 当たり前だが、私の妄想上の神様は何もしてくれなかった。 第173話 全て貴女のせいだ 夢を見ているのだろうな。 旅団内を通り過ぎると、夢に浮かれた阿呆どもが嫌でも視界に入る。 誰もが夢に浮かれているのだ。 この旅さえ終われば、自分の将来はきっと幸運であふれているのだと。 夢見たものが、ひとつの幸福が手にはいるのだと。 半傭半賊の傭兵団や黒騎士連中にとっては騎士の地位であり、正規兵という立場であり。 商人にとっては市民権であり、貧しい出自から抜け出すための財産であり。 法衣貴族の三女四女にとっては一代騎士として認められ、世間や家族を見返すための憧れを手にすることであった。 ――先程、ヴァリエール殿下には『何もかも貴様の自業自得であり、何があろうとも貴様はその責任をとるべきなのだ』という言葉を投げつけたが。 さて、彼女はどこまで責任をとるつもりなのだろうな。 私の知る限り、ここまで膨れ上がった夢全ての責任などをとることはできない。 同時に、そこまでしなければならぬ責任があるわけではなかった。 元々はそういう約束で誰もが参加しているのが、この旅だった。 「全員が全員、夢叶うということにもなるまい」 殿下の腹心である狂人ザビーネ卿が計画した案では、夢が叶い救済されるのは精々1000名といったところだ。 たとえ選帝侯一の財力を誇るアンハルトであろうとも、集まった人間全てを雇用することはしない。あの王家連中は一族全員がドケチで有名だ。お優しいヴァリエール殿下も含めて、金勘定に異様にうるさいのがアンハルト一族だ。 もう集まった人間全てを処理するくらいならば、いっそのことアンハルトの領地一つをくれてやって全員を移住させ、もうお前らそこで暮らせとぶん投げてしまうくらいはやるだろうな。 それで集まった連中が納得するのかは全く別な話になる。 要するに開拓民になれというようなものであるからな。 既に開拓された土地に住む領主の土地を取り上げて、どうぞというわけにもいくまい。 封建領主は土地を分け与えることに死に物狂いで抵抗し、余所者が入りこむ事すら普通なら拒む。 くだらぬ思考を続け、停止中の本陣内を歩く。 威勢の良い商人の声が、そこら中で響いていた。 「美味しい林檎です! 立派な騎士様、おひとつ如何ですか!!」 林檎売りか。 ロバ二匹を連れた馬借が、先日通過した街で仕入れたばかりの林檎を売っているのだ。 旅団の酒保は十全に機能しており、今回の旅に参加した商人は自由に物を売り買いすることができた。 「ひとつ貰おうか」 私は馬借に金を払って、林檎を齧る。 酸味が口を満たし、ふと昔の事を思い出した。 このアメリアの幼少のみぎりである。 幼心の私は本当に幼稚で、世の中の事など少しも分からずに――アレが欲しいだの、コレが欲しいだの、自分の欲求を満たすことに必死であった。 手に入れたい物が市場に溢れかえっているのに、このアメリアの手には何一つ手に入らぬ。理由はただ一つだ。 貧しかったからだ。 「下らぬ事だ」 山賊から剥いだ血まみれの服などと林檎を交換しようとして、馬借に眉を顰めて嫌がられている傭兵などを見て薄く笑った。 まるで我が母親のようだった。 無学で無教養で計算すらろくに出来ず、ちゃんとした交渉もできない阿呆だった。 林檎が欲しいと私が強請ったところでいつもは「金が無い」の一点張りで無視するのだが、その日は何故か叶えてくれた。 今になって推察すれば、おそらくはその日祭事とあって煌びやかな恰好をした聖職者や騎士たちが、大通りの中心を歩いていた事が原因なのだろう。 彼女たちに対し、まあ母や私などは晴れの日にも関わらず貧しい恰好をしていた。 主君も領地も持たず、税も払えぬ強盗紛いの黒騎士が身繕いの金など持っているわけもない。 私などはまあ大して気になどしていなかったのだが、多分母は屈辱を感じると同時に、私に酷く申し訳ないと思ったのではなかろうか。 継ぎ接ぎだらけの服を着た私に、小さな林檎を与えた。 あの酸味だけは強く頭に残っている。 どうやって林檎を買う金を工面したのか知らぬが、まあ多分悪い事をしたんだろう。 先程の傭兵のように、殺した相手から奪った血まみれの布切れと林檎を交換したと言っても、何一つ驚くべきところはない。 母が得意なのは暴力だけであり、それ以外に何も無かった。 多分、母にとってはそれが最大のコンプレックスであったように思う。 いつもは陽気に笑っていたが、どうもその点だけは拭えぬように思えた。 身繕いの金など持ってないほどに貧しかったが、他にも貧しい原因はある。 強盗騎士の傭兵風情にも同業組合と言えるような横の繋がりはあり、そこには家出してきた貴族の三女四女、文字や計算ができるようなものは僅かにいた。 母はその者達に金を払い、私への教育を求めた。 最底辺の出自である私が文字を読めれば計算もでき、交渉術を用いることが出来るのも、そうした教育あってのものである。 代わりに、もう笑えないぐらいに本当に我が家には金がなかった。 私には少しだけ、分からないことがある。 どうして母は本当に貧しかったのに、私を救貧院などに捨ててしまわなかったのだろうな。 そうしてしまえば、もっと気楽に生きれただろうに。 学も教養もない母親にとっては、私の立身出世のみが人生の勝利条件で、此の世全ての幸福があるように思っていた節があるのだ。 何故そこまでしてくれたのだろうな。 「結局、貴女の望みは何一つ叶わなかったのに」 わかってはいるのだ。 母の望みは今の強盗騎士たる私ではなく、忠誠の限りを尽くすに値する本当に立派な主君に恵まれた騎士だったのだろう。 あの祭りの際に大通りの中心を歩く、見栄えの良い騎士だったのだろう。 史上最悪の強盗騎士として歴史に残るような大悪辣ではなかったろうに。 誰もが夢を見ているのだ。 こんなの現実じゃないと。 私はこんな人生を送るべき人物じゃないと。 もっと、もっと、もっと価値のある何かを掴める人物なのだと。 全て勘違いだ。何もかもが嘘だ。この世という地獄に産まれてきて、ふざけたことを考えるな。 自分の人生が嘘ではなかったなどと胸を張って言える人物など、万人に一人もおらぬ。 ありとあらゆる努力を果たしてきた、このアメリア・フォン・ベルリヒンゲンとて全てを手に入れることはできなかった。 母の想いを全うしてやれる夢はもう叶わぬ。 此の世は私が本心本音で忠誠を尽くすに値せぬクズばかりだからだ。 誰もが真実本音では自分の事しか考えておらず、自分の全てを費やしてもよいと考えるに値する人物などおらぬ。 私は。 夢かなわぬ私は、横を歩く旅団の連中が少しばかり羨ましく思えた。 もつれた交渉の結果として林檎の半分を齧っている傭兵も、残り半分をさらに割って二匹のロバに食わせている馬借も。 馬に乗って騎士振る舞いの真似事をしながら、家紋のデザインなどを口にしている勝ち組の傭兵団の団長も。 団員に叱咤を飛ばし、どんな小物でも良いから殺していい盗賊を見つけ出せなどと命令している、未だ何も掴んでいない負け組の傭兵団長も。 一日の休憩をとって陣幕をそこらで開いている、旅団の後列から先頭までを練り歩いて、そこで出会う全ての連中が。 誰もがこう思っているのだろう。 これは夢の行軍なのだと。 彼女たちにとっては人生で一度巡り合えるかどうかすら分からない、自分が本心本音で全ての力を振り絞ることができる夢の行軍なのだと。 ヴァリエール殿下は私の夢全てを叶えてくれる、命を擲つに値する御方なのだと。 私はふと、どうにもくだらぬことを考えてしまった。 もし、私がまだ幼少のみぎりで、母がこのような夢の行軍に出くわしたならば参加したのだろうか。 きっと、参加してしまっただろうな。 まだ幼い私を連れて、この子だって役に立つと無茶苦茶なゴリ押しで旅に参加して、盗賊どもを見事撃ち破って武功一番となり、ヴァリエール殿下に私と一緒に謁見して。 衆目の前で叙任式を行い、母が立派な一代騎士となって誰からも称賛されるようになる。 そんな夢のようなことを考えてしまった。 本当にくだらないことだった。 財産も城も領地も、何もかも手に入れたはずの私が、そのような夢妄想を抱いたことに怒りすら抱いた。 私は目を瞑り、小さく呟いた。 「人に夢を見させることを、安易に考えすぎてやしないか。ヴァリエール・フォン・アンハルト。貴女は罪深いことをしている。八つ裂きにされて殺されても仕方ないことをしている」 愚痴のようなものである。 本当はわかっているのだ。 別に、ヴァリエール殿下が悪いのではない。 彼女に勝手に夢を見ているのは、我々の方である。 まして、あのお優しいヴァリエール殿下は自分が罪深いことをしている自覚さえあるのだ。 だが。 「さて、この旅はどういう結果になるのか。何事もなく旅を全うすることになるのか。それだけは決してあるまい。夢見たのに裏切られた誰かが、暴発をして無茶苦茶になるに決まっている」 夢と絶望は表裏一体。 望んだところ叶うとは言い難いし、全てが思い通りになることなどは本当に夢だけだ。 現実は違う。 「いずれにせよ、この夢の行軍に狂いし連中を、どうやって貴女が導くのか。どこまで行けるのか。本当に興味深いよヴァリエール殿下」 この旅がどのような形で終わりをつげても。 きっと私は楽しめる事だろう。 私は本陣の椅子に座り、何かを楽しみにするように目を閉じて。 小さく、本当に呟いた。 「全て貴女のせいだ」 この言葉は。 哀れな者達に、手が触れれば消えてしまうかもしれぬ夢を見せているヴァリエール殿下に吐きかけたのか。 未だに私の心に巣食っている、何もかも私のために尽くしてくれた母へと優しく投げかけたのか。 それは私自身にもわからなかった。 第174話 伝令使デカマラス卿 はて、どうしたものか。 このヴァリエール殿下の忠実な騎士たるプレティヒャは少し悩んでいる。 旅団規模は旅をするにつれて膨れ上がっており、さすがのザビーネ卿とて一人では旅団全てに対する統制など不可能である。 ゆえに何度も言うが、このヴァリエール殿下の忠実な騎士であるプレティヒャが職務を手伝うことは至極当然と言えた。 具体的には、今こうしているように旅団への参加希望者たる傭兵団や黒騎士などと相対しては会話をして、どのような人間か見定めておくのが私の担当である。 さて、まあ私とて100名を超えているクズ傭兵どもを率いる傭兵団の団長であったわけであるし、当然のように荒くれ者の相手など慣れてはいる。 それどころか、封建領主に雇用されて指揮下に従った事もあるのだ。 ある程度の交渉事にも自信はあるのだが、この状況には少し困っている。 「ヴァリエール殿下の姉君、アナスタシア様からの伝令使であります。ヴァリエール殿下との謁見を求めます」 髪を馬尻尾のように縛った、神経質そうな騎士が口を開いた。 彼女が騎士であること、それについてだけは嘘がないだろう。 明らかに彼女は知性的な騎士階級の雰囲気を漂わせており、間違いなく私よりも地位は高いと思われた。 「……それはそれは。もし殿下を気遣っての手紙とあれば、ヴァリエール殿下も喜ばれましょう。早速お取次ぎしたいとは思うのですが……」 はて、アナスタシア様の伝令使と言い張る彼女たちをどう表現していいのか分からぬ。 従者も連れておらぬ騎士達で、いや、従者は一人いるが幼子である。 その幼子すら明らかに裕福な階級の出自と見受けられ、どうにも悩む。 彼女達が騎士階級であることは間違いないが、さて、このプレティヒャは新参者であるのだから、彼女たちがアンハルトの騎士なのかどうかはわからぬ。 ザビーネ卿は暗殺を酷く警戒しており、出自の卑しい連中だけでなく、どんな高名な騎士や聖職者が来たところで殿下との謁見は妨害しろと言っている。 とはいえ、殿下の姉君からの伝令とあっては謁見を拒むこともできぬし、これはもうザビーネ卿に判断を仰ぐべきと思われた。 だがまあ、上司であるザビーネ卿に判断を仰ぐには少し早かった。 自分では何も判断することが出来ない指示待ち人間と思われたくはない。 少々、彼女たちを見定めねばならぬ。 外見から出自の推察を開始して、情報を収集する。 八名からなる集団であった。 一人目はモーニングスターなどをぶら下げた大柄の騎士で、西方海洋国家の出身と思われた。なんとなく「女好き」の雰囲気がある。 二人目は東洋人と思われ、カラスのように黒い髪を白束でまとめた女だった。まるで白痴を思わせる、どことなくぼーっとした雰囲気がある。 三人目は顔面のそこら中に傷跡があるが、大輪の向日葵のような笑顔を保っている。ケルン騎士修道会出身たる証明をプレートメイルに刻んだ騎士だった。多分ケルン派なので頭がおかしい。 四人目はまた東洋人で狼のように鋭い目をしており、おそらく騎馬民族出身と思われた。この陣幕近くで露店を開いている、ロバ二匹連れた馬借から買った物と思われる林檎を齧っている。 五人目は少し陰気な顔をしているが、両手を大きく伸ばして、胸を反って、太陽を称賛するようなポーズを何故か取っている。頭がイカれているのだろうか。 六人目は先ほどから私と会話をしている、知的で神経質な騎士であった。おそらくは色物揃いの同僚たちに苦労してそうである。 ここまで見渡して、まあ素直に変な連中だなあと思うが、一番変なのはもっとも図体のでかい騎士だった。 頭目と思われる騎士で、身長2mをゆうに超える巨躯により強烈な迫力を周囲に与えている。 完全武装のケルン記章を胸に刻んだ騎士であり、古臭いデザインで完全にバケツのような――グレートヘルムなどを被っていた。 横には利発そうな従士を引き連れており、どうも自分では何一つ語らぬつもりなのが窺える。 さて――従士を含めた八名の伝令使を眺めて、私は一つの結論を出した。 何が何だかわからないが、もうとにかく胡散臭い連中である。 今までの人生で初めて見たってぐらいに胡散臭い。 正式な使者として信じても本当によいのだろうか? いや、賊とかそんなのではないと思うが、本当にヴァリエール殿下の姉君であるアナスタシア様からの伝令なのかと言われると怪しかった。 「失礼。このプレティヒャはアンハルト騎士として新参者なので、貴卿らのことは知らぬのです。本当に伝令使とあれば、証明する手段はお持ちですね?」 私の言葉を聞き、頭目たるグレートヘルムがこくんと頷いた。 従者が理解したように動き、腰にぶら下げた書状を私の眼前に持ってくる。 「アンハルト王国の王族のみが使える封蝋を施した書状であります」 紋章官でもない私さえ知っている王国の紋章であり、確かにこれは麗しきヴァリエール殿下が使用されているものと同じである。 だからと言って、これのみで信じることはできないからザビーネ卿にお見せして、ヴァリエール殿下にまず手紙を開封してご確認頂き、謁見許可を与えるべきか確認しよう。 この伝令使たちと殿下を合わせるのは、ちと信用ができない。 「真に申し訳ありませんが、陣幕にてお待ちいただくことになります。ご理解を」 「……」 こくん、とグレートヘルムが頷いた。 なにか喋れや、と思う。 私ごとき新参者とは会話できないとでも言うつもりか。 腹は立つが、もはやこのプレティヒャには騎士としての立場がある。 配下として元団員達もおり、もはや好き勝手に生きてはいられぬ。 このような怒りは心の内に鎮める必要があった。 「早速ザビーネ卿にお伝えします。ああ、伝令使殿の名前をお伺いできますか」 喋る気が無いとは言え、名前ぐらいは教えてもらわねばならん。 別に、それを答えるのが誰でもいい。 私は頭目を無視して、他の七人に視線をやる。 だが――何故だか皆は露骨に視線を逸らし、口にしたくないといった雰囲気である。 ただ一人だけ、視線があった従士が少し眉を顰めながらに答えた。 「デカマラス卿です」 「……」 はて、耳がおかしくなったのだろうか。 何か変な言葉が聞こえたが。 私の知る限り、デカマラスとは「チンコでかいねん」という意味である。 「すいませんが、もう一度。耳が遠かったようで」 そんな舐め腐った名前の騎士がこの世にいるわけがない。 そう思い、再度聞き返すが。 「いえ、プレティヒャ卿の耳は正常です。デカマラス卿が我らの正使たる彼女の名前です」 従者は真剣な口調で答えた。 仮に伝令使殿の名前が本当だとしても、すぐにでも改名をお勧めしたいところであったが。 いや、それ口にすると侮辱になりかねないしな。 そんなの新参の私がやると問題だしな。 何せ、このプレティヒャはヴァリエール殿下の忠実な騎士として今後とも生きていかねばならないのだから。 死ぬほどツッコミたかったが、諦めねばならぬ。 「承知しました。アナスタシア様からの伝令使が来た事、確かにお伝えします」 私にできるのは職務を全うすることだけだった。 とりあえず、ザビーネ卿にはアンハルト王国の騎士って変な奴らしかいないのか、念のために聞いておこう。 それぐらいは許されても良いように思えた。 私はすぐに席を離れ、ザビーネ卿に全てを伝えたが。 「デカマラス卿なんかアンハルト王国にいないぞ。いや、この封蝋は確かに本物だし、間違いなく『人食いアナスタシア』からの書状だとは思うけど。とにかくヴァリ様に報告するから、ちょっと待たせとけよ。それまで相手しといてくれ」 回答は無慈悲なものである。 じゃあアイツなんなんだよ。 あのグレートヘルムを脱いだ後、どんな女がどんな面してデカマラスなんて名乗ってるんだよ。 私は会話もしてくれない彼女への怒りを消沈させると同時に、その存在が酷く気になっていた。 第175話 ヴァリ様、色を知る年頃 今頃は帝都にて選帝侯継承式を控えているはずのアナスタシア・フォン・アンハルトーー要するに私の姉上から伝令使が来たという。 渡された手紙の封蝋は確かに王族の紋章と一致しており、文面に記された筆跡も姉上のものである。 真偽の保証については申し分ない。 肝心な手紙の内容は下記のとおりであった。 ―――――――――――――――――――――――――――― 色々と悩んだのだが、結論から言おう。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿をお前の指揮下に一度戻す。 厳密に言うならば、未だ彼は私の指揮下ではない。 お前からファウストを一時的に借り受けていた形となるのだが、少なくとも現在においては――帝都に滞在する私よりも、行軍中であるお前の方が危険な状況にあると判断した。 これは姉妹としての親愛の情から来るものではなく、まだお前が知らぬ現在の神聖グステン帝国における状勢と、お前の身を危惧するファウスト・フォン・ポリドロ卿の真摯なる訴えによるものである。 勿論、別にお前の事が嫌いだなどと言いたいわけではない。 少なくとも最近においては、ちゃんと妹として可愛いと思っている。 私が真に言いたいのは――現状において、これからお前に強烈な危難が迫りくることを真剣に認識してもらいたいという話である。 ならば、どのような危難が予測されるかを教えてくれと思うであろうが。 私もお前が眼前にいればそうしてやりたいとは思うが、残念ながら行軍中である。 そして万に一つも手紙が奪われることなど無いとは思うのだが、何らかの災害や事故などによりて、手紙が紛失されるかもしれぬ。 この手紙が余人の目に触れる可能性を考えるならば、何が帝都に起きているかは一切を漏らせぬ。 また、秘密を詳らかにお前に教えてやったところで、私の大切な妹である――ヴァリエール・フォン・アンハルトの状況がなにか一つでも好転するという話でもない。 ゆえにまず、我が国最強の英傑騎士たるファウストをお前の指揮下に戻す。 そして、お前に危難が襲い掛かるであろうことを今しがた警告した。 今述べたばかりの二つが肝要であることを念入りに踏まえよ。 この手紙は、お前の腹心であるザビーネ・フォン・ヴェスパーマンにのみ見せて良い。 おそらくは適切な忠言を捧げてくるだろう。 私はあの狂人ザビーネが死ねば慶事であると手を叩いて喜ぶが、少なくともあの女の智謀や能力、お前への忠誠に関してのみは信頼を置いている。 同時に、ザビーネ以外には絶対に見せるな。 私の元にも、お前が総員1000名を超える集団にて、帝都にいる私のところに向かっている情報は届いているが、アンハルトの敵はどこに忍び込んでいるのかわからぬ。 我々の敵は、正直言えばこのアナスタシアの手よりも長いかもしれぬ。 忠誠厚き親衛隊以外の人間を一切信用するな。 お前は優しいから、現地任官の新参騎士などにも信頼を置いてしまうのであろうが、それゆえにこそ、お前が今まで母や私から認められなかったことを心に留めておけ。 人は裏切るのだ。 だからお前も裏切ってよいなどとは口が裂けても言わぬ。 言っても無駄だからだ。 お前にはそれが出来ぬ事、姉であるこのアナスタシアが誰よりも知っている。 なればこそ、家族である姉としての真摯なる忠言も受け止めよ。 妹であるお前を失いたくはないのだ。 理解して欲しい。 ザビーネ以外は誰にもこの手紙を見せるな。 手紙の内容についても教えるな。 以上であるが、念のため再度述べておく。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿をお前の指揮下に戻す。 お前には強烈な危難が迫っている。 この二つだけ覚えろ。 追而書 何度も言うが、私はお前の姉である。 性格や価値観こそ明確に異なり、母については全く恵まれずリーゼンロッテなどと名乗るクソババアが酷く残念な事に、私たちを産んだようであった。 私などは木の股から産まれたと主張したいところであるが、それをするとアンハルト王国全臣民が困るので妥協している。 それくらいに、あの母についてはもう見限っているのだ。 だが父については今でも愛おしく、我ら二人とも愛する父ロベルトの子であり、血を分けたその感性は非常に近いと考えている。 賢明なお前ならば、まあ「これについてはアスターテ公爵のせいだな」と気付くだろう。 私のせいではないことを伝えておく。 ヴァリエール・フォン・アンハルトへ 妹の安否を心配して帝都にて待つ、一人の姉として アンハルト王国第一王位継承者 アナスタシア・フォン・アンハルトより ―――――――――――――――――――――――――――― 紛れもなく姉アナスタシアの筆跡であり、私はそれを指でなぞった。 私に優しさや気遣いを見せる手紙などは初めての事であり、普段はその代わりに業務連絡じみた淡白かつ明瞭な物言いなのだが。 姉上が伝えたい肝要なる二つの事については十二分に伝わったものの、追而書についてはややわかりかねるところがあった。 多分アスターテ公爵が何か変な事やらかしたとは思うんだが、それを明確に教えてくれず要領を得ない。 なにはともあれ。 「要するに、ファウストが私の指揮下に来てくれたのね」 これで安心である。 望外の喜びでもあった。 正直言えば姉上がパートナーとして帝都に連れて行ったファウストを返してくれるとは思っていなかった。 もっと言えば、ファウストの立場を考えると選帝侯継承式直前に主君たる姉上を放り出して、婚約者である私の手助けに来ることは難しいだろうと考えていた。 正直、どうやったのか方法が分からないほどだが、まあ姉上は本当に賢いから何とか方法を思いついたのであろう。 心の底から有難かった。 胃からせり上がってくる吐き気と、ずっと続いている鈍痛が和らぐのを感じた。 ポンポンペイン神が優しく微笑みかけてくれた気がした。 ポンポンペイン神は人の胃に苦しみを与える時も、和らぎを与える時も、どちらでも微笑むのだ。 私の想像上の存在だが、厳密に分類すると邪神だろう。 くたばれ邪神。 もう貴様の、なんか胃が痛くなった時に祈ると胃の痛みを気持ち僅かだけ軽減してくれる権能など必要ない。 「さて、と」 早速ではあるが、私の元に戻ってきてくれたファウストを出迎えねばならなかった。 ファウストと一緒に来てくれた伝令使達も、労わなければならない。 そうだ、どうせならば衆目の前で労いの言葉を述べるというのはどうだろうか。 伝令使達の名誉にもなり、姉上アナスタシアの名誉を保つ為でもある。 それよりなにより、私の利益につながるのだ。 「とにかくどうにかして、私が姉上と選帝侯位を争う気など無いというのを理解させなければならないのよ」 どうも、この旅団の中では変な噂が立っている。 具体的には私が姉アナスタシアを武力により脅迫してるだの、酷いのになると殺して選帝侯位を簒奪するつもりだなどと言う者がいるらしい。 ザビーネが連れてきた吟遊詩人に命じて、そんなことはないんだよ、そんなことはないんだよと二度繰り返して、私ヴァリエールと姉アナスタシアの仲の良さをアピールするなんか適当にいい感じのエピソードを無理やり流させようとしたが。 肝心の吟遊詩人が「事に及ぶ前の偽装工作ですね。わかりました。古くは或る将軍などが、自分の愛息を殺され、その人肉を食べさせられたにも関らずに笑顔で雌伏の時を過ごし、最終的に主君へ冷酷に復讐したなどの話があります」などと言っていたので、もうアレは私の話をしっかりと何一つ聞いていない。 完全に何か変なものに魅入られた人であった。 いつのまに私が姉上アナスタシアを殺す事になっているのか、もう私には全然わからないのだ。 そもそも吟遊詩人が例に出したような恨みを姉上に抱いたことはないし、酷い事をされた記憶も一切ない。 いくら姉上がまあなんか人肉食ってそうな外見だとはいえ、なんぼなんでも失礼ではなかろうか。 それだけではない。 それだけではないのだ。 「帝都に攻め込むなんて誰が噂してんのよ。数が足りてないでしょ」 最低でも万を超えなければ、帝都に圧をかけるなどは不可能である。 それこそヴィレンドルフ史上における最強英傑レッケンベル卿が率いたランツクネヒトぐらいの規模でなければ無理だし、何がどう狂おうと、私などがそんな軍勢を集めることは不可能だ。 「アホらしい」 そのような惨事が世に起こるわけがない。 嗚呼、何もかもが馬鹿馬鹿しくなって、思わず微笑んでしまった。 とても胃が軽いのだ。 第二王女相談役にして、実戦経験豊富な封建領主騎士にして、アンハルトの最強英傑にして――私の婚約者であるファウストがすぐ近くにいる。 今までの胃の痛みなど、それだけで吹き飛んでしまうのだ。 「ふふ」 朗らかに笑う。 さて、母たるリーゼンロッテが、姉たるアナスタシアが、従姉妹たるゲオルギーネ・フォン・アスターテが。 仇敵たるヴィレンドルフ選帝侯家の王であるイナ・カタリナ・マリア・ヴィレンドルフ女王が。 私の忠実なる配下のはずなのに、何故か「ヴァリ様の婚約者であるファウスト、正直言って完全に淫売ですぜ。ゲヘヘ。誘いやがって」と下衆そのものの台詞を耳元で囁いてくるザビーネ・フォン・ヴェスパーマンが。 ザビーネは少し違う方向でなんか駄目として、それ以外の誰もが私の婚約者を「とりあえず初夜は私が貰うとして、まあお前を正妻としては認めてあげようじゃないか。その方が私も世間的には都合が良い」と何故か私に恩義をくれてやった感じで言い放たれている現状で。 そのような他の女からの誘いは全く無視をして、私だけのために。 強烈な危難から私を守るために、私だけを護るためにやってきてくれるのだ。 「私、ファウストには主従関係としての義理以外で愛されてるとは思っていなかったけど。完全に相互利益目的での結婚だと思っていたけれど」 姉上の手紙をちゃんと読むと、そうではないらしい。 ちゃんと、ファウストが自ら私を護りたいと名乗り出て、ここまで来てくれるというなら。 正直に言おう。 私は、もうなんか酷く浮き上がる様な気分であり、もう全く悪い気などしていない。 「ふふ」 ちゃんと愛してくれているではないか。 主人と配下、主君と騎士だけではなく。 女と男として、私たちは愛し合っているではないか。 それをこの世に向かって宣言することが出来る。 私は本当に嬉しかった。 「ちゃんと言ってくれればいいのに」 私は姉上の手紙を胸に押し抱いて、微笑んだ。 ちゃんと、本人が、私を愛していると言ってくれればいいのに。 そう考えてしまう。 私は男と女の色恋話をするなど初めてであり、もう普段は「淫売宿に行きたい。そのお金をください」だの「将来が見えないどころか冴えない私でも、どうにかして侍童などが一方的に惚れてきて何もかも捧げてくれないかしら」だの本当にどうしようもない戯言が、私の親衛隊から嘆願と言う名の形で上がってきて。 正気に返れ、お前を愛する者などいないのだから現実を見ろと教えてやるのが私の仕事であった。 私にとっての恋愛に関する話など、それくらいしかなかった。 これからは違う。 これからは違うのだ。 私にも、ちゃんと私を愛してくれる婚約者がいるのだ。 ぴょんぴょんと、手紙をかき抱いて跳ね飛んだ。 「ザビーネ! はやくファウストをここに連れてきなさい! いいえ、それだけじゃ足りないわね。ちゃんと衆目の前で、姉上からの正式な伝令使が来た事を明らかにするのよ!!」 私の、そんな浮かれまくった様子を不思議そうに眺めながら。 忠実な部下たる、ザビーネは呟いた。 「何言ってるんですか。ヴァリ様の婚約者にして、私の恋人予定たるファウスト卿なんか来てませんよ。来たのはデカマラス卿です」 本当に不思議そうな声であった。 私は手紙と、現実に起きている内容が違うことを知って。 私はそれ以上に気になる事に、思わずツッコミを入れた。 「いや、そもそもデカマラス卿って誰! そんな珍奇な名前の騎士はアンハルトにいないわよ!?」 ザビーネがいや、まあ、そうなんですけど来たらしいですよ。 私は先にヴァリ様への報告を優先しましたので、御逢いしてませんけどね。 そうザビーネが本当に不思議そうに呟いたのを見て、あれ、現実は私の理想とは何もかも違うのではないか。 今まで人生で期待する何もかもを裏切られてきたじゃないか。 色恋沙汰で狂うな、冷静になれと。 私の理性が、静かに私を諭し始めた。 本当に静かに。 ―――――――――――――――――――――――――――― 近況ノートにて、8/25発売の書籍化関連について話をしています。 よろしくお願いいたします 第176話 混ぜるな危険 伝令使を招き入れるよう、ザビーネに命じた。 姉の忠告を確かに聞き入れて、プレティヒャ卿やベルリヒンゲン卿といったものには陣幕から席を外してもらっている。 陣幕を取り囲んでいる騎士は第二王女親衛隊のみで、彼女たちにすら此処からの声は聞こえないだろう。 ここにいるのは伝令使の八人と、私と、ザビーネのみである。 ゆえに、私は本心を語っても良かった。 「何やってんの? ファウスト」 アンハルト王国最強英傑ファウスト・フォン・ポリドロ卿。 彼はケルン派の紋章が刻まれたプレートメイルを身に着け、グレートヘルム姿で変な威圧感を周囲に放ちつつも、私の前で突っ立っている。 どうもデカマラス卿と名乗っているらしい。 いや、本当に何やってんだお前。 そんなキャラじゃなかったでしょう? 封建領主として毅然とした在り方をしているけれど、領民や善男善女には優しく、そして騎士としての誉れに満ち溢れた人物だったはずだ。 それが何で―― 「殿下のためです」 ファウストの従者、マルティナが答えた。 私を少し睨みつけている。 礼儀こそちゃんと保っているが、どうも不機嫌なようだ。 「いや、どうしてファウストがデカマラス卿なんていかれたネーミングを名乗っているのが私のせいになんのよ」 ファウストを指さしながらに言う。 前から思ってたけど、マルティナは私の事を嫌い過ぎじゃないか? 私とファウストが楽しそうに喋ってると、明らかに不機嫌なのが空気で分かる。 で、ファウストに声をかけられると、もう本当に甘ったるい声で返事をする。 まだ9歳児だというが、彼女は完全に女の子としての自覚が芽生えているだろう。 ……ああ、そうか。 だから婚約者の私が嫌いで仕方ないのか。 自分の手が及ばぬ恋敵が許せないのか。 そう気づいたが、正直嫌われてもなあ。 私やファウストが主体的に決めた婚約ではなくアンハルト王家の意向なので、どうにもなんないのだけれど。 その嫉妬は筋違いと思うのだけれども。 これくらいは子供の嫉妬であり、些細な事だから見逃してあげようと思う。 「ファウスト様、何か言ってください」 マルティナは不愉快そうな顔のまま、ヴィレンドルフとの和平交渉の時に用いたバケツヘルム――今回にあたって流用したその兜を被ったまま。 一言だけ呟いた。 「デカマラス!」 鳴き声か何かだろうか。 ファウストの声は、陣幕内に力強く響いた。 ガン、とマルティナがファウストの腿に強烈な蹴りを入れた。 うん、それは蹴っていい。 「真面目にやってください! デカマラス卿はデカマラス!としか喋れないとか意味不明な設定はいらない!!」 そういう設定がファウストの中では、何故か成立しているらしい。 「なにアスターテ公爵が5秒で考えたようなテキトーな人物設定に固執してるんですか!」 アスターテ公爵の戯言を真に受けないで下さいよ。 彼女は頭の良い阿呆なんですから。 マルティナに泣き言が入るが、私を置いていかないで欲しい。 「ようするに、アスターテ公爵が悪いのね?」 私はマルティナに尋ねた。 「アスターテ公爵と、ヴァリエール殿下が悪いです」 なんで私が悪いことになるのよ。 首を傾げ、どうにも状況が分からないという視線を向けるが。 マルティナが不承不承の顔で答える。 「要するに、殿下の婚約者にして第二王女相談役たるファウスト・フォン・ポリドロ卿はこちらに来ることが出来なかったのです」 思い切り目の前にいるだろと言いたいが、まあそういう話でもないのだろう。 黙って聞く。 「アンハルト選帝侯継承式を目前としている中、特別に帝都に連れてきた騎士であるポリドロ卿が主君たるアナスタシア様を置き去りにして、婚約者たるヴァリエール様をお迎えすることなどできません。今もポリドロ卿は帝都におります」 そこのところは、どう処理したのか私も気にしていた。 なるほど。 要するに、別人を装わなければファウストは私の所に来る事さえも許されなかったのだ。 だから、ファウストは別名を名乗った。 「デカマラス!」 そうだ、デカマラスだ。 ファウストがまた鳴いた。 やはり、そのようにしか喋れない設定らしい。 気に入ってんのか、その鳴き声。 それとも相変わらず変に生真面目なせいで、設定を遵守しようとしているのか。 ともあれ、理由はよくわかったし、姉上の手紙において追而書が妙に保身に走っていた理由もわかった。 姉上がこんな名前にしたんじゃないと弁明していたのか。 全部アスターテ公爵が悪いんだと、これについてを言いたかったのか。 その辺りは理解したのだが。 「え、なんで私悪いの?」 なんでマルティナは私を否定しているの? 私何も悪くないよね。 「殿下が何をトチ狂ったか千名を超える集団で、軍事行動としか思えない行軍を行っているからファウスト様が心配して来ることになったんでしょうが」 いや、まあそうだけどさ。 確かに、ファウストはそれを心配して――あるいはその超人としてのセンスから私の危機を感知して、護りに来てくれたのかもしれないが。 「それにしたって、別に私の意志で帝都に向かってるわけでもなんでもないんだけど。いや、私は姉上の命令で帝都に来いって言われただけだから、もう責任なんか何もないでしょう。上司である姉上の命令で、王族の一員として拒否権なんか何処にもなかったのよ。私に責任があるとすれば、それは自分の部下に対してのみだけよ」 実のところ、そもそも姉上は私などではなくザビーネに用があるのだ。 このヴァリエールなどお呼びではなかった。 それくらい、ファウストが賢い賢いと自分の子供のように溺愛し褒め称えるマルティナなら理解できるだろう。 というか、八つ当たりはよくない。 「いえ、だから部下であるファウスト様に迷惑がかかっているといいたいんですが」 マルティナが理詰めで私を責めた。 いや、まあ、うん。 確かにそれはちょっと悪い気がしているけど。 さすがに婚約者であるファウストが自分の意志で助けに来てくれたぐらいは、甘えてもいいかなって――ああ、そうか。 そのファウストの純粋な好意のことを、マルティナは私に対して妬ましく思っているのだ。 まあ、可愛いものだ。 「デカマラス!」 ファウストが叫んでいる。 意訳すると「マルティナ、ヴァリエール殿下に対する無礼は止めろ!」という叫びだと思う。 そろそろデカマラスしか喋れない設定から解放されてもいい。 別にその設定は今いらないでしょ。 「ファウスト様、目を覚まして!」 ガン、とまたマルティナがファウストの太ももを蹴っ飛ばした。 ファウストはビクともせずに、マルティナの首根っこを掴んで持ち上げている。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は鉄の棒で殴られてもビクともしない身長2m超え、体重130kgを上回る超人である。 所詮は9歳児たるマルティナは抵抗できず、黙って肩に担ぎあげられた。 「そろそろ、私たちも挨拶よろしいでしょうか?」 神経質そうな、今回ファウストの副官を務めていると思われる伝令使の一人が声を上げた。 見たことの無い顔だけど。 「ええ、その、変な身内のやり取りに付き合わせてごめんなさい。私は一応アンハルト王都の法衣貴族の名は全て憶えているのだけど……」 姉上が使わしてくれた伝令の人たち。 ファウストとマルティナ以外の人たちとは、初見のように思える。 「お察しの通り、初めてお目にかかります。私たちはテメレール公爵家『狂える猪の騎士団』の者です。アナスタシア様の命令に従って、ひいてはテメレール様への忠誠を全うするためにヴァリエール殿下の護衛を務めに参りました」 「テメレール公爵?」 テメレール公爵はさすがに知っているが、その指揮下の騎士団の名は正直聞いたことがないのだが。 そもそも何故、あの猪突公が姉上の言う事なんて聞いているのかしら。 正直、帝都の情報は私にあまり届いていない。 耳ざといザビーネならば何か知っているかもしれないが。 私はザビーネに目の端で軽く視線をやるが―― 「……」 何か見た事もない物凄い目つきで、マルティナを猛烈に睨んでいた。 どうも私に無礼な口を利いた事が、死ぬほど気に食わなかったらしい。 気の触れたサイコパスのように、明らかに殺意がこもった視線である。 子供の小さな嫉妬なんだから、それぐらい許してあげなさいよ。 なんで私の部下たちは、こんなにもちょっと気が短くて啓蒙が低いアレな……。 「……」 あれ、なんだかちょっと胃が痛くなってきた。 どうしたのかな。 ファウストが来てくれたから私は胃痛から救われるはずで。 もうポンポンペイン神への信仰なんか必要ないと。 「さて、我らの自己紹介を。まず全員が理由あって名を明かすことを拒んでおりますので、今後はニックネームでお願いします」 お前らも名乗らんのかい。 いや、ニックネームとか意味不明な事言ってないで名乗れよ。 私なんかには名乗る名前もないんですか、そうですか。 すこしヤケになる。 テメレール公指揮下の『狂える猪の騎士団』を名乗る六名を眺める。 胃の痛みを感じながらに、紹介を聞いた。 『勘当者』は「女好き」で主君たるテメレール公の事を愛しているらしい。本格的に駄目な奴だ。 『サムライ』は今回の行軍に特別な貢献があった場合、私から「特別な報酬」を頂きたいとのことであった。特別な報酬って何だよ。私大したもの持ってないぞ。 『ケルン騎士』はケルン騎士修道会出身だから間違いなく頭がおかしい。無駄に良い笑顔なのが怖いので、できれば近寄らないで欲しい。 『敗北者』は大量に林檎を両手に抱えている。林檎好きなの? 好きなのはいいけど、せめて紹介されている時ぐらいは林檎食べるの止めて欲しい。そういう礼儀って大事だと思うの。 『日陰者』は太陽を称賛するようなポーズを何故か取っている。貴女は太陽ですか?と聞いてきた。彼女の信仰もわからなければ、質問の意味もわからなかった。 その全ての説明を終えた『忠義者』は何か物凄く申し訳なさそうな表情をしていた。 私の顔色が真っ青であることに気づいたらしい。 ちなみに彼女がどうでもいいワンポイントとして「最近で一番良かったことは、牢屋に閉じ込めていた嫌いな夫がランツクネヒトに攫われて行方不明になったことです」と一言付け加えた。 知らねえよ。 いや、こんな意味不明な連中を送りつけてきて、何の意味が? 姉上は何考えてるの? 私にはどうしてもわからない。 「……」 ボソボソと、何か小声が聞こえた。 ふと見れば、ファウストが肩に担いだマルティナに何か語り掛けていた。 続いて、マルティナが喋りだした。 「デカマラス卿は神聖グステン帝国の辺境にて産まれた黒騎士です。主君は持たず、領地も持たないフリーランサーの黒騎士です。日々の糧を傭兵業で得るだけの苦しい生活で、そのポケットには銀貨の一枚も入っておりませんでした。しかし彼女はある日神からの啓示を受け、ケルン派の聖人として聖遺物たる聖杯(ホーリー・グレイル)を探して旅をすることになったのです」 別にアスターテ公爵が5秒で考えた人物設定については聞いていない。 私の婚約者は時々「別にそんなこと今聞いてないんだよ」という内容を口にする癖があった。 ファウストは人として良いところがいっぱいだが、こういう性質の悪い部分もたまにあるのだ。 うん、いい人なんだけど。 いい人なんだけど。 なんかもう、ちょっと少なくとも今そんなワケわかんない事を言わないで欲しかった。 「……あ、駄目だコレ」 血の気がぞっと落ちて、背筋に氷水のようなものが垂れるのを感じた。 来る。 強烈な痛みが来る。 ポンポンペイン神が優しく微笑みかけるのを私は見た。 『汝に激痛を与える』 神の声が響いた。 想像を絶する腹痛が私を襲った。 椅子から立ち上がろうとして、力が入らずに止めて、両手を地面に突いた後に仰向けに倒れた。 マルティナは今までの嫉妬に満ちた不機嫌さを打ち消して、私に酷く申し訳なさそうな顔をしている。 意識が落ちる寸前、その表情だけが妙に瞼に焼き付いていた。 第177話 夢の後始末と破滅への序曲 増える、増える、増える。 それこそ鼠算式に、旅団は人員数を増大させていた。 アンハルトにて出発時の数は1000であったにも関わらず、現在は3000を超えている。 出世栄達のチャンスがあり、商売のチャンスがあり、何処か今までの人生では信じられぬようなところに辿り着けるチャンスがある。 なればこそ、誰もが参加を望んだ。 これは夢の旅路だった。 希望に向かってひたすら前進するだけのパレードだった。 「さて……そろそろ手仕舞いを考えるべきか?」 ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンはペンを羊皮紙に走らせながら、一言呟いた。 正直言えば、数が多すぎる。 今のところヴァリ様のカリスマでなんとか組織は成り立っているが。 始まりがあるならば終わりがあって当然で、夢ならば醒めてしかるべきだった。 このザビーネが用意した夢の数は限られており、当たり前だが雲霞の如く押し寄せた卑しい連中に分け与えられる量など用意していないのだ。 何か手を打たねば――いや、それとも。 「このまま、行けるところまで突っ走ってしまうか?」 行けるところまで。 軍勢を増やし、物資を獲得し、増えて増えて帝都を包囲して。 かつてヴィレンドルフの超人英傑レッケンベルがランツクネヒトを率いたように。 それこそ、旅団内で噂になっているように『アナスタシア殿下からの選帝侯位の簒奪』なんてことも――と考えて。 静かに首を振る。 阿呆らしい。 「そんなことをしても、ヴァリ様にも、このザビーネにも何のメリットもない。選帝侯位なんぞヴァリ様は欲しくもない」 ヴァリ様はもちろん、このザビーネとて考えてもいない事だ。 権力と責任とはイコールで結ばれるものだ。 とてつもない責任を負わされて、右往左往して必死に足掻くヴァリ様を眺めるのは絶頂に達するほどの悦楽を感じてしまうのだが。 それはヴァリ様を心から親愛しているからの行為であり、別に本当の不幸など欠片も望んでいないため、散々楽しんだ後の物語はヴァリ様にとってのハッピーエンドでなければならぬ。 最後の最後にヴァリ様が手を汚すくらいならば、このザビーネが処理して片づけを行うのだ。 「共食いで処理してしまうか?」 ふと、そんな案が浮かんだ。 すでに帝都までの道程は半分終えており、20名に一代騎士叙勲を、400名ほどに正規兵の立場と市民権を与えている。 彼女たちは自分の身分を保証し、恩寵を与えてくれたヴァリ様のためであるならば死に物狂いで戦うだろう。 まして、今は人食いアナスタシアが送ってくれたファウストを含めた超人騎士団がいる。 ヴァリ様の安全が脅かされる恐れはもうない。 ならば、多少強引な『共食い』という手段に出ても問題はない。 「トーナメントだ」 無事帝都の直前まで辿り着いたならば、トーナメントを行うというのはどうだろう。 トゥルネイ(団体戦)にジョスト(一騎討ち)、なんでもよい。 未だ夢掴めぬ連中を全員で戦わせ、それこそ今後の人生全てが懸かっているならば、彼女たちは眼前の相手を始末する気で殺し合うだろう。 殺し合わせてとにかく数を減らして、それでも勝ち残ったものには名誉を与えて夢を叶えてやる。 ヴァリ様の手元には、本当に優秀な戦士のみが残る。 勝ち残った連中は夢が叶う。 死んだ連中は、このクソみたいな現世から解放される。 誰もが幸福であり、良い考えに思えた。 「この私はやはり冴えている」 自分でも意図して傲慢な笑顔を浮かべた。 なに、そもそもそんなに簡単に夢掴めるなどと思う方が愚かなのだ。 人の物を奪ってよい、誰かを殺してもよい、どんな酷い事をしても許される。 そして限度を超えれば、他の誰かに殺される。 此の世は『万人の万人に対する闘争』が許容されているのだ。 確かに私の目的は彼女たちの共食いであるが、提案されさえすれば、こちらの意図を完全に理解したところで気にせず殺し合うだろう。 連中にとっては『いつものこと』でしかなく、これは私たちが少し甘い考えであったな、と。 そのような不満を感じる程度で終わりなのだ。 「よし、この案で行こう」 後いくつかは思いつくが、まあ現状としてこの案を超えるものはないだろう。 開催場所にふさわしい平野を探さねばならぬ。 ここは帝都周辺に詳しいベルリヒンゲン卿に声をかけて、主催者も任してしまうのがよろしかろう。 金は払うのだから、トーナメントの敗北者からの恨みや批難を買って出てくれてもよいだろう。 そうそう、そういえば――あのベルリヒンゲン卿も変な女だ。 ヴァリ様を気に入っているというのは本当だろうし、全てを最後でぶち壊して襲い掛かって来るという気もなかったのだろう。 ただただ、この旅路の終わりが酷いものであることを願っており、ヴァリ様を時々眺めては――眩しそうに見つめては、悲しそうに眼を閉じる。 安心しろ、最後にはお前の望み通りになるさ。 私とヴァリ様がやるべきこと、帝都までの行軍とヴァリ様を護るための派閥形成はもうすぐ終わる。 私たちにとって、これでお前らは見事用済みとなった。 「後始末の時間だ」 私は羊皮紙――ヴァリ様が封建領主と話をする際に、領主側の来歴やエピソード、何を誇りにしているか、何を嫌いとしているか、どうすれば屈するのか。 それをまとめた草稿を書き上げて、疲れの息を吐く。 こんなものは元アンハルト紋章官家の当主候補としては大した仕事ではないが、脳内の記憶から抽出するとなれば少し手間がかかる。 休みをとり、小一時間ほど眠ることを自分に許しても良い。 だが―― 「ザビーネ卿、おられるだろうか!!」 「プレティヒャ卿か」 どうも、そういうわけにもいかないようだ。 ハッキリ言って能力的に拾い物であった現地任官のプレティヒャ卿が、焦った声を張り上げている。 「急いでいるのは分かるが、まずは一呼吸されよ。貴女もヴァリ様の忠実な騎士と名乗るならば、人に隙を見せてはいかんな」 特に、ヴァリ様に骨の髄まで忠実というのが良かった。 ヴァリ様がいずれポリドロ家に向かう事となった後でも、彼女ならば忠誠を崩さぬだろう。 プレティヒャ卿が、ゆっくりと一呼吸する。 「その、マインツ大司教からの先触れが到着しています。これはもはや、私では対応できません」 「マインツ大司教?」 少し考える。 マインツ大司教といえば選帝侯にして、三聖職諸侯の一人である。 金狂いの坊主としての悪名を持つ、聖職者とは呼べぬような世俗面の強い人物だ。 はて、何用であろうか? 凡人ならばそれで終わるだろうが、このザビーネならば推測はいくつか導き出せた。 帝都に迫りくるヴァリ様の軍勢に対する、皇帝からの解散命令。 ケルン派への異端審問、彼女らが運んでいる聖遺物ではなく真の目的に対する教皇からの妨害。 それは最初から予測していることだが。 「まだ用件も聞いていないのだろう。何を慌てている」 「今しがた、山賊を探索中の斥候から連絡がありました! マインツ選帝侯の率いる軍勢の数、およそ6000!」 マインツ大司教は、暴力を背景にした交渉をお望みか。 選帝侯家の面子を投げ捨てて、なりふり構わぬ様子である。 はて、面子。 確か、ちょうどベルリヒンゲン卿の来歴を辿るのであれば、彼女が大規模収奪(フェーデ)を働いた大都市が、マインツ大司教の司教区で―― 「ああ、なるほど」 全て理解した。 これは私の予測なので確定ではないが、おそらくは全てが練り混ざって、ありとあらゆる因果が集束して、マインツ大司教はこちらに出向かれたのだ。 おそらくは教皇あたりに囁かれたのだ。 今ならば、ケルン派への異端審問にかこつけてベルリヒンゲン卿を殺せるぞ、と。 それをするためならば、他選帝侯家の第二子女を殺すぐらいの泥を呑めるだろうと。 なるほど。 「ふん」 なるほど。 何度もなるほどと頷き、状況を噛み砕き、咀嚼し、呑み込む。 よろしい。 考えれば、これは何も悪い話と言うわけではないだろう。 夢の後始末を、ケルン派やベルリヒンゲン卿を切り捨てることで、何もかも押し付けてやるのもよい。 元より、ケルン派は本当の目的をヴァリ様に教えぬ不義理を行っており、狙われる原因はベルリヒンゲン卿にこそある。 今までの悪行の後始末がついに来たというだけである。 このザビーネ・フォン・ヴェスパーマンにとって大事なのは、ヴァリ様と、親衛隊の仲間と、恋人たるファウストだけである。 他の物がどれだけ悲惨な死に方をしようが知った事ではない。 まあ、もちろん必要な者は残そう。 「あの、ザビーネ卿?」 「安心せよ、プレティヒャ卿」 まず、コイツは残す。 アンハルトから連れてきた人間に関してだけは見捨てると拙い。 王国の年若き実務官僚殿には、必ずや使い物になる騎士や兵を連れてくると約束してポストを用意させてしまっている。 それを破ると、このザビーネの失点となってしまう。 「マインツ大司教殿はいきなり殴りかかって来るのではなく、交渉のための先触れを出してきたんだろう?」 馬借などの商人に関しては、当たり前だが酒保商人であり全財産に匹敵する額を投資しているイングリット商会が私を殺しかねない勢いで猛反対する。 その信頼を失えば、それこそ冗談抜きで私をなんとしても殺すだろう。 「要するに、マインツ大司教はヴァリ様をどうにかしてやろうという気はないのさ。狙いはケルン派であり、ベルリヒンゲン卿である」 あとはケルン派だが、やはりこれもポリドロ領の助祭や、アンハルト在中のケルン派聖職者に関しては見捨てられないだろう。 ヴァリ様やファウストが反対する。 だが、要するにだ。 それ以外のケルン派聖職者なら全員を見捨ててもよいのだ。 あんな偽物の聖遺物など打ち捨ててしまってよい。 「プレティヒャ卿。選別は終わりだ。すでに認められたものは全員守ってやるが――後の者など皆用済みだ。全部生贄として、血に飢えたマインツ大司教殿に差し出してやるさ」 私はけらけらと笑い声をあげて、閉口するプレティヒャ卿を見つめた。 ただ一つ、気がかりなのは。 ヴァリ様を説得するのにだけは手数がいるだろう。 マインツ大司教との交渉などよりも、そっちの方がよほど問題であった。 第178話 汝は異端者なりや? 私には状況が理解できない。 先程までは膨れ上がる旅団の規模に胃を痛めていたが、私が悩んでいたのは秩序の崩壊により私の軍が山賊化して何の罪もない善男善女を殺しまわり、街にて掠奪してしまうことである。 そこから、その無茶苦茶な私の軍勢が『絶望的な暴力による一方的な敗北』などという結末に至るとどうして想像できるのか。 だが、私の身に迫りくる現実であった。 「どうなっているの!?」 マインツ選帝侯が6000の兵を率いて、帝都までの街道にて陣取っている。 それだけの兵力を集めたとするとなれば、単なる威圧行為、選帝侯としての示威を果たすための暴力仕草などではない。 その半分の3000足らずを食わせるために四苦八苦している私とて、それくらいの事は理解できる。 明らかに私たちに襲い掛かるつもりではないか。 交渉の結果がどうあれ、殺し合いを結論とした覚悟があることは容易に知れた。 この私にさえ理解できるのだから、生死の境を生業とする者ならば、もっと恐怖している事だろう。 食うや食わずの貧民が殆どで構成されている私の軍勢には、もはや異様な雰囲気が広がっている。 「普通ならば、ここまでの覚悟をマインツ選帝侯にさせるまでの経緯があって、いくつかの先触れがあって、どうしようもなくもつれた結論として殺し合いが発生するべきで――」 愚痴を含めた常識論を唱えている。 そして、それだけだ。 もはやこのようなことを言ったところ何にもならない事は理解できているが、口にでもせねば思考がまとまらない。 「私のせいだろうな」 声を張り上げる私に対して、アメリア卿が静かに理由を告げた。 まるで、幼い頃の私に言い聞かせる姉上のように冷静で――ただただ、事実を教えてやると言った声色であった。 「このアメリア・フォン・ベルリヒンゲンを殺すことだけが、マインツ選帝侯の目論見であろう。まあ、表立っての理由付けは――その先触れに書かれてある通りだが」 マインツ選帝侯の先触れの騎士は私に対して、一つの書面を示した。 内容は率直である。 私は明確な内容にして、どうしてここまで一方的な通告を投げつけることができるのかと。 マインツ選帝侯と、その背後にいるであろうユリア教皇の正気を疑った。 ―――――――――――――――――――――――――――― 聖界諸侯筆頭として、七選帝侯家の一員として このマインツ選帝侯がアンハルト選帝侯家の第二子女である ヴァリエール・フォン・アンハルトに問う 汝は異端者なりや? このような事を突然尋ねても、何の事かはわからぬであろう ましてやこのマインツ、聖職者として清廉であることを自負しているのだ そこらの暴力のみが取り柄の強盗騎士のような、学も教養もない地を這う虫がごとき蛮人と一緒にしてもらっては困る なればこそ、私は汝に全てを説明する義務がある これは「レクツィオ」(読解)の段階であり、汝はまず私の話を聞かねばならぬ まずは、ユリア教皇が私に対して仰られたことをお話する ケルン派は異端である 排撃し粛清せねばならぬ ケルン派の教義や指導者が聖書を冒涜していることは明らかである 「何故ケルン派を異端としたか?」と、私は一人の聖職者として問うたが ユリア教皇は宗教的逸脱を論拠としていると語った ケルン派というセクトは聖書を冒涜している そもそも聖書は神と人との出会いと契約を語ったものである 言葉、行為、死、復活、様々な形によって神が救い主である聖人たちに伝え、そして実現されたことを知った全ての証人による体験記を綴ったものである 贖罪主の生涯と、その使徒の伝道についてを記したものである 神が人間に伝えようとした全ての言葉を読み解くために必要な書物である なれど、ケルン派というセクトにとっては違ったようだ ケルン派が崇めているのは神ではない 救い主そのものである贖罪主や聖人、使徒そのものを崇めている 贖罪主の像があれば腰にメイスをぶら下げ、手にマスケット銃を捧げて ピストルを使徒のコメカミに突きつけたこととする 聖書に明らかに書かれていないことを記し、書かれていない事実を発見しただのと嘯くのだ これが聖職者として相応しい行為であろうか 一言にしてしまおうか ケルン派というセクトは純粋な神聖グステン帝国の民の信仰を傷付け侮辱している これは誰の目にも明らかである 異端としてしかるべきである ケルン派の聖職者たちが褒められるべき点など、聖なる生活を送り、断食と禁欲を行い、日夜を問わず祈り、生活に必要なもののみを求めて働き、善男善女から財貨を求めず、貧しい人々にパンが行き渡る方法のみを常に必死に考えている 人々に救済が行き渡る方法だけを考えているのみだ それぐらいのものではないか かえって性質(タチ)が悪いとは思わんか かの異端と比べてさえ腐敗した我が正統の問題点は改善すべき必要があるが、それはそれとしてケルン派は排斥せねばならん ゆえに教皇ユリアとして、マインツ大司教に以下の内容に関する全件を委ねることとする 以下が条件である ①帝国中から集結した軍勢を直ちに解散すべし ②ケルン派が【聖書】と称する『新世紀贖罪主伝説』を跡形残らず徹底的に焼き払うべし ③ヴァリエール・フォン・アンハルトは異端ケルン派から正統へと転向すべし ④ケルン派信徒が転向を明らかにしないのであれば処刑すべし ⑤帝国への街道にて封建領主から徴発した財産の処分をマインツ大司教に一任すべし ⑥ケルン派の聖職者は転向したとしても、以後は農奴として扱うべし また、神聖グステン帝国の法の見地から、今回にあたって述べることがある 前々からマインツ大司教が献策していた内容である「帝国内における一切のフェーデを禁止すること」を目的とした「マインツのラント平和令」であるが、これを教皇ユリア及びマキシーン皇帝の名のもとに、限定的に承認することとする 帝国最高法院からの依頼として「最も邪悪にフェーデを悪用し、掠奪を働いた大悪人」の象徴として最初に罰を与えるに相応しい強盗騎士アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿の逮捕権を、マインツ大司教に委ねる 以上である この書状に対する返答は衆目の中にて、誰の目にも明確に為される形で頂くこととする よくよく考えよ 私が差し向けた騎士は紋章官であり、交渉の機微もよく理解している 私と貴女が理解を深める余地は残っていることを伝えておく 真に神聖なるグステン帝国における七選帝侯家の一員として アンハルト選帝侯家第二子女 ヴァリエール卿へ マインツ選帝侯より ―――――――――――――――――――――――――――― 「どこに理解を深める余地が残っているのよ!」 最終通告じゃないか。 完全に殺し合うことを前提とした要求であった。 マインツ大司教は明らかなる完全服従を求めていたし、選帝侯家として世俗における要求を剥き出しにしていた。 そして、私が呑める要求など最初の一つだけ。 軍勢の解散だけであろう。 いや、ケルン派からの転向も、呑めない条件では――だが。 「安心しなよ、ヴァリエール殿下。ユリア教皇やマインツ大司教も、本音ではここまで望んでないさ」 交渉するならば、最初に相手が絶対に呑めない要求を突きつける。 そうして、妥協ラインまで持っていくのさ。 少しづつ、少しづつとね。 そのように交渉達者であるベルリヒンゲン卿が呟く。 彼女以上に交渉に卓越した人物など、帝国中のどこを探したところでいないだろう。 「まず①である軍勢の解散、これは言うまでもなく殿下だって呑める条件だ」 むしろ、有難いんじゃないかね。 ヴァリエール殿下だって集めたくて集めた軍勢じゃないだろう? そのように。 「そもそも、殿下に求められた条件を冷静に考えよ。ケルン派の聖書を焼き払うのも、転向しない信徒を処刑するのも、転向した聖職者を農奴にするのも、別に殿下にこれをしろと求めたんじゃないさ。マインツ大司教が泥を呑んで、異端たるケルン派の排斥はこの手でやるって言ってるのさ。殿下に求められたのは、ケルン派から個人的に転向して、おまけに自分の身内や地元から連れてきた人間も、ちゃんと説得して異端認定されることとなるケルン派から逃げろってことで――」 アメリア卿はそのように言うのだ。 確かに、言われてみればその通りではあるのだ。 だが、どう考えても。 どう考えてもだ。 「実のところ、殿下個人に求めている事は、それほど多くもないだろうに。軍勢を解散して、ケルン派から正統に転向して、どうしても交渉するべきところは――そうだな、封建領主から徴発した財産の処分をマインツ大司教に一任せよってことか。ここだけは相手も譲るだろう。あの欲豚なら金が欲しいだろうが、金を集める行為にも名誉は重要だからな。今回の相手は名誉優先で殴りかかってきたんだ」 このまま交渉したところで、貴女の逮捕だけは免れないのよ。 正直、貴女だけは守る術が見つからないというのが、このヴァリエールの本音だった。 アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿。 逮捕とは、つまり死を意味するのだ。 法の遡及を、過去に犯したフェーデにまで罪を言及して、アメリア卿の逮捕を要求すると言うことは。 もはや死刑宣告に他ならない。 「そう悲しそうな顔をするなよ、ヴァリエール殿下」 アメリア卿が両手を花のように開いた。 片腕は魔術刻印が施された、鉄の塊で出来ていた。 どうでもいい、と。 花のようにと例えた通りに――何か、隔世の感さえ漂うような風情で。 「殿下のせいじゃないのさ。これは。マインツ大司教が前々から献策していて、教皇や皇帝が追認したってことは、まあ、何かの切っ掛けがあればいつでも私を追い詰められるように準備が為されていたんだろう」 此の世の者ではないような雰囲気さえも漂わせながらに、帝国史上最悪の強盗騎士であるアメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿は。 自分の事であるのに、心底どうでもよさそうに呟いた。 「繰り返すが、これは殿下のせいじゃない。いつか私に来た未来だったのであろう。それが今日だっただけだ。私を見捨てろ。一々言うまでもないだろうが、それは大前提だ。そして、金銭面だけは交渉して勝ち取れ。そこだけは譲るんじゃないぞ。なにせ、殿下が金を分捕られると明日から食べて行けずに飢え死にするようなのが、この旅団にはウヨウヨいるんだからさ」 まるで、アンハルト王宮に稀に見る枯れきる前のバラのような風情で。 奇妙な麗しさを保ったままで。 「まあ、これ以上は止めておくよ。そこのザビーネ卿であれば、なにもかも良いようにするだろう。さよならだ、殿下。そこそこ楽しかったよ」 私を売り飛ばせと。 神聖グステン帝国史上最悪の強盗騎士である鉄腕卿は、そう告げた。 「元よりそのつもりだ。全部問題ない。金に関しては決して譲らんし、お前など守る気はない。ヴァリエール殿下の許可を得る前だが、お前の言ったことの全てはすでにマインツ大司教の使者である紋章官に提案したさ。交渉は順調に進んでいる。まあ、そうだな。アンハルトから連れてきたケルン派聖職者に関してだけは、アンハルト選帝侯家による裁定待ちであり、そこに言及する権利などないと何とか逃げるとするさ」 私の親衛隊隊長である、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンは冷たく現実を告げた。 爬虫類のような顔つきをしていて、舌など伸びているようにさえ見えた。 何もかもが上手くいったという表情であった。 「……」 それに、何か本当に酷く気に食わない雰囲気をあからさまに周囲に漂わせながらも。 私の婚約者であり、今はバケツヘルムを被っているファウストは、黙したまま何一つ語らなかった。 その甲冑には、ケルン派の紋章が大きく刻まれていた。 第179話 Heartless Scat(無情のスキャット) ヴァリエール殿下の陣幕を後にして、外へと出る。 夜中になれば、いつもはそこかしこで戦功を挙げた傭兵団などが狂ったように喧しく吠えており、まるで獣のようだと眉を顰めるのだが。 今夜はひっそりと静まり返っている。 そりゃそうだ。 明日は自分の身がどうなるのかわからんのだ。 もはや誰一人として誤魔化すことなど出来はせぬ。 「そうだ、世の中そんなものなのさ」 このアメリア・フォン・ベルリヒンゲンの予想したところとは少し違う破滅の仕方ではあるものの、結末は同じである。 皆、夢から醒めたのだ。 自分の人生何もかもを、この旅にて変えることが出来るという夢を捨てたのだ。 マインツ大司教によるケルン派への異端審問と、ヴァリエール殿下の軍勢に対する解散命令で全ては終わりを告げた。 寂しい道を歩く。 このアメリアはずっと一人で歩いている。 母を亡くしたその時から、このようにして道を歩いてきたのだ。 いつでも変わらぬ。 自分で自分の肩に剣をやり、暴力に誓いて、一介の強盗騎士と成り果てた時から。 グステン帝国史上最悪の強盗騎士と成り上がったあとも、何一つ変わりなかった。 自分の城も、領民も、騎士位も、ベルリヒンゲンという領地に付随してきた名を手に入れた時すら何も変わらなかった。 今この時、全ては無為であったかのようにさえ思える。 きっと、ずっと、自分を誤魔化し続けて私は生きてきたのだろう。 いよいよもって死を目前とすれば、何もかもが虚しく思えた。 「……寂しいな」 誰も叫ばぬヴァリエールの旅団は、とても寂しい風景を維持している。 本当に声一つ、このアメリアの耳には届かぬ。 二度言うが、いつもならば本当に煩いのだ。 帝都までの道行きにて武功一番となりて、見事ヴァリエール殿下からのオマージュ(騎士叙任式)を勝ち取りて騎士となったもの。 その配下や朋輩として、山賊団紛いの傭兵業から無事に抜け出して王国正規兵となったもの。 彼女たちなどがいつもは景気よく金を使い果たしては、今後はよろしくとご機嫌伺いに来た馬借などの商人すらも交えて冗談など言い合っては杯を掲げて叫んでいるものなのだが。 もう、誰も、何も語らない。 誰もがマインツ大司教の大軍勢を前に息を潜めて、明日からの自分の立場がどうなるのかだけを気にしている。 「それでいいんだ」 ついに誰もが気づいたのだ。 これはやっぱり夢だったんだと。 夢の行軍でしかなかったんだと。 自分の夢が叶う、幸せになれる、ヴァリエール殿下についていきさえすれば、この御方が自分にとって都合の良いところに連れて行ってくださるのだと。 そんな、何もかも都合が良い話はないんだと。 誰もが阿呆な夢を見ていたのだと。 「あのお優しいヴァリエール殿下にとっては、その方が都合が良い。これでよかった」 誰が見てもどうしようもない事情がある限りは、あの方が責められることもあるまい。 今回の事態の因果の一つが、私自身にあることは理解できているのだ。 なんなら、殿下を庇うために、このアメリアが原因であるような噂を旅団に流してもよいかもしれない。 本当に死に物狂いで、殿下がこの旅団を維持してきたことを知っている立場であるのだから、それぐらいのことをしてやってもよい。 それをすればマインツ大司教に逮捕されるどころか、本日この場にて身体を八つ裂きにされるかもしれぬが、まあいい。 「ふむ」 正直言えば、別に自殺願望など無いし、死ぬのは普通に嫌だ。 なれど、いつかはこのような結末が自分に訪れることは理解していた。 もちろん若い時の無我夢中だった自分が、このような醒めた人格をしていたわけではない。 あれは、そう――。 山賊団を討伐してやったのに既定の料金を払わなかった村長の頭蓋に一撃をくれて、そのまま村長の家を燃やして去った時でもない。 ちゃんと街道を護衛してやったにもかかわらず、街に入った瞬間に強気に出て「金など払わない、大声を出して市警を呼んでやろうか?」とほざいた商家の屋敷に火をつけて財貨を奪った時でもない。 そのような強盗騎士として日常茶飯事の些末な行いではない。 「嗚呼、そうだ。そうだな。教会に火をつけた時の事だ」 そんな振る舞いとて、別に珍しい話ではない。 むしろ、強盗騎士であることとは関係なく、騎士なれば、まあ教会に火をつけて一人前として誇れるところもあった。 もし年老いれば、子供や部下に『私は教会にだって火をつけた事があるのよ?』が一つの自慢話になることは疑いの余地などない。 外連味は騎士にとって大事な要素である。 真に誇るべき騎士としての正しい在り方である。 ただ――そうだな。 教会を燃やしたことは、私にとっては明確な罪であると認識している。 厳密にいえば教会を燃やしたことなどどうでもよく、それが原因として死んでしまった者への罪悪感だが。 「まだ、若い頃だったな」 18歳の時だった。 私の懐にはまだ十分といえる財貨などなく、一人の強盗騎士として、そして一人の黒騎士として、ある選帝侯の軍勢に加わっていた。 選帝侯が兵を集めた理由はもちろん国境の境界線上での敵に対する掠奪であり、このアメリアは街を襲う一員として働いていた。 戦況はこちら側に優勢ではあったが、決定打となるべき街の中心部にある教会の占拠だけは難儀した。 教会に立てこもる騎士や兵が、教会内から猛然と弓や投石による攻撃をこちら側に加えてくるのだ。 時々、思い出したように撃ち放たれるケルン派信徒のマスケット銃が特に厄介であり、たった一人でこちら側の二十余名を射殺していた。 選帝侯は困り果てた。 そこで、ついに占拠を諦めて、火薬による爆破を試みた。 教会に立てこもる人間を聖職者だろうが騎士だろうが平民だろうが、誰一人構わず火だるまにして皆殺しにしてしまうことを決意したのだ。 そうだ、それ自体は何一つ構わなかったんだ。 選帝侯も、その陪臣騎士も、正規兵も、傭兵も、そして私ですらも、燃える教会と火だるまになって飛び出してくる有象無象を指さして笑っては拍手喝采したであろう。 それだけのはずだったんだ。 ただ一つだけ違ったのは、教会の屋根に一組の親子がいた事だった。 神様!!と何一つ頼りにならぬものに対して、懇願の叫びをあげた母が、自分の子を抱えて。 一塊になって教会の屋根から落ちてきたのだ。 それを知ったのは、肉の塊が固い地面にぶつかる音を聞いて少し後の事であった。 嗚呼、今でもはっきり覚えているのだ。 忘れられるものか。 このアメリアは、もう一生あの時の事が忘れられないと思うのだ。 「……あれは何か?」 選帝侯が、誰かに尋ねた。 別に親子を気遣っての事ではなく、本当に突然のことで何があったか分からなかったのだろう。 まるで襤褸切れの塊のようにさえ見えたのだ。 私は目を凝らして、その塊をよく見た。 継ぎ接ぎだらけの服を着た、貧民と思われる親子の姿であった。 「親子です」 思わず口にして、選帝侯が私を見た――ように感じた。 なれど、私はその時、選帝侯という此の世でも有数の立場ある騎士に注目されたことなど、どうでも良い事のように思えた。 私は燃え盛る教会の事などを気にせずに、少しずつ親子に歩み寄った。 そして、もう一度目を凝らしてよく見たのだ。 やはり、継ぎ接ぎだらけの服を着た、貧民と思われる親子の姿であった。 墜落の衝撃で、親の方は頭から血を流して事切れているようであった。 「嗚呼」 自分から、思わぬ哀れみの声が漏れ出るのを感じた。 何故、親子が教会の屋根などにいたのか。 貧民ゆえに、教会に匿われるのを下衆な聖職者に拒まれたのかもしれぬ。 教会を防衛拠点とするゆえに、騎士や兵などに追い出されたのかもしれぬ。 だが、彼女達親子には戦火の中でどこにも頼れるところなど無く、頼れるよすがなどは微かにある神への信仰であったのかもしれぬ。 ゆえに、彼女達親子は教会の屋根に登って、戦火を免れていた。 だが、私たちが教会を燃やしてしまった。 火が足元に迫り、煙が親子を包み込み、もはや逃げ場所などなかった。 ――火と煙が迫ると、人は唯一の解決策として、神の加護を信じて飛び降りるのが正解であるように感じてしまうなどと物の話で聞いたことがある。 だから、この事切れた母は、自分の子供を庇うために必死に抱きしめて飛び降りたのだろうと。 「なるほど」 いつの間にか、選帝侯は私の近くまで馬を寄せており、私の説明に感心したように頷いた。 何か、不思議そうに貧民の親子の死体を眺めていたように思う。 「……どれだけ貧しくても、どれほどの愛情で子を想っていたのであろうな。子を想う母の心は、例えそれがどのような階級の者であろうが、尊いものだ」 憐憫と感傷を寄せたような言葉を口にして、選帝侯が馬を親子に近づけながらに言った。 私はその時、今更どうしようもないことに気づいたのだ。 嗚呼、そうか。 そうだったのか。 私は哀れな貧民の死を目前として、本当に愚かな話ではあるのだが。 18歳のようやくにして、このアメリアは、母が何を考えて自分を育てたかを理解してしまったのだ。 最底辺の黒騎士に過ぎなかった母が、必死に財布の底を漁りては、私のために文字や計算、交渉といった教育を与えた理由を。 私を救貧院などに捨ててしまわなかった理由を。 たった銀貨数枚のために、無謀な盗賊働きなどを行おうとした理由を。 全て理解してしまったのだ。 立派な騎士になりなさいと。 立派な騎士になっておくれと。 母は何度となく私の耳に語ったが、それに私は反感を抱いていた。 馬鹿な事をいうな、このような最底辺の出自から何処に立派な騎士になる方法があると? 暴力以外に立身出世の方法などないではないかと。 そんな愚かな反発さえも抱いており、実際に口にしたことさえある。 「自らの出自を哀れんで、うわ言のように、自分の身の悲惨さの代替とするために、母がやりたかった願望を私にわめくな!」 その時は、本当にそう思っていたのに。 違うことをついに知ってしまった。 あれは不器用な母が、たった一度も言いはしなかった言葉を繰り返し言っていただけなのだ。 私などどうでもよい、私の身体が薪で、火にくべてお前の身を暖められるのならば、そうしてしまってかまわない。 お前を愛している、と。 私はそれに対して、一度も答えなどしなかった。 それをようやく理解して呆然としながら、私はただ選帝侯が貧民の親子の死体に近づくのを眺めていた。 「おや?」 選帝侯が、不思議そうに首を捻った。 そして、唐突に笑い出した。 「おい、名は知らんが、妙に教養深き黒騎士よ。やはり親の愛というものは尊いものだ」 教会は燃えている。 燃えている教会の中では、火だるまになった人の叫び声などがまだ響いていた。 そんな地獄のような状況下で、選帝侯は馬を降りた。 貧民の死体に近づき、その死体から指を少し握りては大事そうに離して、子を抱え上げた。 「子は生きておるぞ」 我々は酷い事をしている。 戦場の習いとはいえ普通に街で掠奪はしているし、教会には火薬をぶち込んで燃やしている。 そのような事は、このアメリアにとって、そして眼前の選帝侯にとってもどうでも良い事であった。 それどころか、選帝侯が今大事そうに抱えている子の親は殺している。 だけど、どうしてか。 「誰か、この子を今すぐ戦場から遠ざけて安全な場所に移せ。無論、この子はこの私が選帝侯の名誉に誓って育てることを保証してやる。地獄の戦場の生まれだ。いずれは立派な騎士になること請け合いだぞ。その死体もちゃんと回収して、しっかりと埋葬してやれ」 どうしてか、いくら悲惨な結末と言えども。 この子の母を殺した原因の一つが私であるといえど。 その母の死体が埋葬され、この子供の未来が保証されたと知って、このアメリアは初めて開く薔薇のようにして微笑んだのだ。 ああ、あの時笑ったのは。 多分、間違いなく、母の愛が実りて、子の将来が約束されて。 その母が崇高なる名誉を持って弔われることが保証されたことを知った事にあるのだろう。 私は罪悪感を抱えると同時に、あの時は、あの傍から見れば悲惨以外の何物でもない事柄が。 自分にとって全ての幸福が眼前にある様な気がした。 「……あの選帝侯は立派な人物だったな」 教会に火薬をぶち込んで、聖職者も騎士も平民も有象無象の区別なく皆殺しにするような性格であったが。 騎士としての毀誉褒貶で言えば、誠に正しいと世間でも評判の人物であった。 問題は、ただの黒騎士である私を何の理由もなしに配下にしてくれるわけもないという現実が立ち塞がっていた事と。 正直言えば、このアメリアでさえ、あの豪放磊落さには付いていけない点だ。 少なくとも、理想の主君とはいえなかった。 「……うん」 そうだな、そうだ。 あれだけだ、あれだけが私が目撃した此の世全ての幸福であった。 自分の身は全ての幸福が眼前にあることを目撃したにも関わらず。 今の自分は、それを何一つ叶えていない。 母の望みである立派な主君に仕える騎士という、母にとっての幸福を実現することもできず。 子を育て切った母親が、崇高な名誉を持って弔われることも。 どれも実践できてはいない虚しい立場だった。 「真に虚しい人生だった」 振り返ってみれば、何もかもが玩具のように思えた。 領地も、城も、特注の義手も、鎧も、剣も兜も。 自分を構成する騎士としての全ては誰に与えられたものではなく、全て紛い物のように思えた。 だけど、それでも。 一つだけは泣き言を言わせてくれよ、母さん。 「母さんが信じたような、私が見栄えの良い立派な騎士様としてパレードを歩けるような。私が本心本気で忠誠を誓えるような立派な主君なんざ、この世の何処にもいなかったんだよ。私がそれすら見限って、此の世の理不尽そのものにフェーデ(自力救済)を叩きつけ、ひっくり返すことが出来ると信じたもの。『超暴力』でさえも、何処にも在りはしなかったんだよ」 だからもう、このアメリアの結末はどうしようもなかったんだ。 残酷なまでに理不尽な此の世には、結局生涯をかけて探したものなど何処にも有りはしなかった。 確かに目撃した他人様の幸福は稀に見る幸運でしかなく、このアメリアと愛しい母には与えられなかった。 全てが無為だった。 母が私にくれた愛も、私が母に抱いた愛も、何もかもが無意味であった。 ならば、せめて最期くらいは潔くあろうと思う。 今回の結末に対する因果の一つが私であるならば、せめてヴァリエール殿下に迷惑をかけるようなことはすまい。 大人しく、マインツ大司教に逮捕されるとしようじゃないか。 そして、大人しく帝国の裁判所にて首をくくられることとしよう。 それで何もかもよろしい。 「これで終わりさ」 そう吐き捨てた。 それに呼応するように、ふと何処かから嗚咽の声が聞こえた。 もちろん、それが誰かの声かはわからぬ。 夢破れた黒騎士かもしれないし、明日が見えない傭兵かもしれないし、財産が奪われることを危惧する貧しい馬借の声なのかもしれぬ。 だが――このアメリアの耳には、何処か母の声に似ているように聞こえた。 第180話 人の信仰を侮辱するとは何ぞや あと一つだけである。 ベルリヒンゲン卿が誠に潔く自分が敗北者であると認めてくれた以上、あと一つだけだ。 このザビーネの計画には、ベルリヒンゲン卿やケルン派を供物に捧げて、完全なる成功を為すには一つだけ乗り越えなければならぬ壁がある。 私の愛するヴァリ様をどうやって説得するのか。 どうやって、あの不要な連中を見捨てることに必要な言い訳を与えるのか。 地獄みたいなこの世で、燦然と輝く善性をどうやって破綻させるのか。 ヴァリ様における愛おしいものは何一つとして、あんなゴミどもに与えてやる必要などない。 私たちだけにくれればいいのだ。 それだけである。 「ザビーネ」 震える声が響いた。 凛とした花香のする声であった。 私はもしヴァリ様にこれをやれ、あれをやれと言われれば、その場で自らの首をかっ切る行為ですら、何の不思議もなく行うことが出来た。 他人からいくら侮辱されようと、いくら恨まれようと、そのような事には何の痛痒も感じない。 最終的に私とヴァリ様、親衛隊という同胞と愛するファウストさえ幸せならば、此の世全てがどうでもよいのだ。 「私の進言は全て終わりました。後は交渉にて、アンハルトに属するケルン派だけを保護して、すでに功績を為した騎士や兵隊どもを引き連れて、ずっとついてきた貧しい商人たちの財産さえ保護すればよいだけです」 後は何にもいらない。 私は今回の行軍にあたって、アンハルトにおいて保証した約束を全て成し遂げて、ヴァリ様にとっての最大利益を叩き出したのだ。 私とヴァリ様の旅の目的は、もうこの段階で全て達成されているのだ。 「ヴァリエール殿下の名誉はこれにて完全に保たれます」 利益目標を達成した上に、後の始末は全てマインツ大司教がやってくれるというのだ。 本音を言ってしまえば、笑いが止まらぬところだ。 「……そういう約束だった」 ヴァリ様が、ポツリと呟いた。 そうだ、その通りなのですヴァリ様。 「そういう約束でした」 ヴィレンドルフ流でいえば――正当な約束や契約は、自分と魂と相手の魂が為した純粋なるものであり、破ることは双方の魂への冒涜であるという。 私もそれは理解できる。 なればこそ、私はアンハルトから出発した連中に対する約束だけは最後まで守ろうじゃないか。 私は最近流行りだした戯曲のように、約束や契約を捻じ曲げて独善的なおぞましい不正義を口走りて不条理を通し、後で賄賂をもらうような裁判官もどきの乞食ではないのだから。 私やヴァリ様は、アンハルトから最初についてきた1000人以外には何も約束していないし、それとて忠実に契約通りの内容を果たそうとしている。 だから。 「見捨てるのです。アンハルトから付いてきた者以外の全てを」 私はあえて偽悪的にそう述べた。 もちろん、約束は全て守ったのだから、悪でもなんでもないことは理解しているがね。 問題はここからだ。 「――さて。愛しのファウスト・フォン・ポリドロ卿」 私は難題に対して、水を向けた。 約束を守り、人を愛して、親の罪を子に与えることを許さず、領主騎士としての領民に対する責任と不条理な愛が入り混じった男に対して。 愛する人に対してである。 「いつまでもふざけてないで、そのバケツヘルムを脱いだらどうかね」 「そうだな」 ファウストは気軽に応じた。 首に手を伸ばし、兜が脱げぬように嵌めている固定具を指で外した後に。 その容貌を、私とヴァリ様だけに見せた。 アンハルトでは醜いなどと言われるが、婚約者であるヴァリ様と、このザビーネには好感しか湧かぬ。 短髪に刈上げた黒い髪、赤い目、菖蒲のような雰囲気を感じさせる顔をした一人の男であった。 「さて、私の意見を述べさせてもらう。それがお望みだろうザビーネ卿」 「そうだな」 ファウストは些か不機嫌そうであった。 なれど、私は私の意見を違える気はないがね。 「私が不機嫌であるのは、いや、あったのはザビーネ卿にもヴァリエール殿下にも理解できていたように思う」 ファウストは武骨ではあるが、無能ではない。 少なくとも理屈と現実を踏まえて行動をしており、それこそ感情が昂ればどのように無謀な無鉄砲でさえも演じることが出来るが、それとて彼の脳内から他に道なくどうしようもないと決断を下しての行動である。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿の誉れは、他人には理解されぬと意識しての暴走を孕んでいた。 いや、もう彼自身では駄目だと思い至ったからこそに、どこまでも果てしなく暴走するのだ。 このザビーネはそれを完全に理解した! 「許されよ。ザビーネ卿とて、殿下の最大利益を考えての事であろう。すぐに思い至ることが出来ず、無駄な殺気を貴卿に放った」 ゆえに、このザビーネは最終的にポリドロ卿の理解を得られると信じて行動している。 私は約束を守ったのだ、私の愛するヴァリ様は此の世全てに対する契約を遵守したのだ。 誰に対しても恥じるつもりなどなかった。 「最初に言っておこう。ザビーネ卿の行動は正しい。正しいのだ。私とて、貴殿と同じ立場であれば全く同じことをするであろう」 ファウスト・フォン・ポリドロ卿は現在の私の行動を肯定した。 だが。 このザビーネは、彼の抑えきれぬドロドロとした感情を理解している。 「ただし、同じならばだ。私とは理解している情報が違うゆえに、貴卿の味方はできぬ」 「……私と一緒に、ヴァリ様を説得してはくれないと?」 ヴァリ様を説得しきるには、一押しが必要だと知っている。 私の言葉だけでは弱いと知っている。 ゆえに、婚約者である彼の説得が必要に思えたが。 「できないな。何度も言うが、ザビーネ卿の立場からすれば何の問題もない行動だとは理解している」 このファウストとて、第二王女相談役の立場であることを忘れたことなど無い。 そう呟きながら、彼は自分のバケツヘルムをぽんぽんと叩いた。 相談役としての立場は憶えていても、ポリドロ卿という立場は忘れてデカマラス卿などと名乗っていたけどな。 そのような嘯きに、人から見てアレな自覚はあったのかと思いつつも。 さてはて、拝聴しようじゃないか。 ファウスト・フォン・ポリドロ卿から見る現状に批判の石を投げる理由を。 「……まず、ポリドロという領主の意思を述べる。同時にこれはポリドロ領の領民300名からなる意見である。私たちは家の起こりから、領地の始まりからずっとケルン派を信仰しており、それ以外の信徒になることなど考えた事もない」 将来、ヴァリエール様はファウスト卿の婚約者として、その当主としてポリドロ領の領主となる事が決定している。 なれば、無視することができない意見ではあるが。 「別なセクトに変えればいい。宗教など人が幸せになるための道具に過ぎぬ。邪魔ならば聖印すら足蹴にして消し去っても構わない。贖罪主が描かれた絵画など踏みつけて良いのだ」 「ポリドロ領民を生半可な信者と一緒にするな。宗教を道具であると看做すのは良い。なれど、私たちにとっては秘蹟である」 何が秘蹟だ。 此の世の聖職者などは、聖職者であることを立場と権利だと思っている。 誰もが信仰を足蹴にして、神に仕えるのではなく、その力に仕えている。 あれなるものは全てがただの邪悪なものでしかないと、このザビーネは見切ってしまった。 「我がポリドロ領の起こりが貧しい30人の開拓者であることは以前にもザビーネ卿には話したはずである」 「知っているさ」 なんなら祝福された開拓者とすら呼べない事も、このザビーネだけは知っている。 ヴェスパーマン家の元当主として、それこそ妹であるマリーナや前当主の愚か者ですら知らないことを、アンハルト王家における紋章官の記録全てを把握することで理解しているのだ。 ポリドロ領の起こりは30人の追放者の群れである。 悪く言ってしまえば出自なんか農奴以下、底辺以下の連中でしかない。 「……ザビーネ卿は何もかも知っているように感じる」 ファウストは疑念を抱いている。 私は正直に答えることにした。 嘘をついたところで、彼が容易く見抜くことを理解しているからだ。 「知っている。同時に、それゆえに私は初代当主であるポリドロ卿を尊敬している」 何もかも無手の状況で人を集めて旅をして、土地を耕して領主騎士となったのだ。 尊敬以外の何があろうか? 道行きでポリドロを笑うやつがいるならば、私が代わりに殺してやってもよい。 これは嘘ではない。 ポリドロ領を開拓した追放者の彼女たちは、間違いなく私がヴァリ様に感じる依存さえも抱えながら、自分の太陽であると死に物狂いで初代当主に仕えたに違いないのだ。 「だが、ケルン派に対してポリドロ領がどのように考えているかは知らぬだろう。少なくとも道具のように思ったことは一度もない。おそらく、この事は――たとえザビーネ卿とて知らぬことと理解している」 「聞きかじりのケルン派の戒律と聖句を覚えた一人の少女を、ケルン派の宣教師として認めたことか?」 それは知っている。 そのような事であれば、ケルン派が自分の血肉1ポンドを切り取らずに、ただ認めただけであれば。 このザビーネはファウストを説き伏せることが出来た。 脳内にて説き伏せる言葉の羅列を組み立てる。 だが、多分――まあ、違うんだろうなと思えた。 「違う。その後に、ケルン派における一人の神母がポリドロ領に訪れたことにある。沢山の古ぼけた農具を抱えて、沢山の使い古したオストラコン(陶片)を抱えて、沢山のボロボロの書物を抱えて、沢山の種苗を抱えて――」 ファウストが、言葉に詰まった。 何か言おうとして、何も言えなくなったのだ。 少し空気が止まり、あまり口が回るとは言えぬポリドロ卿がようやくに喋りだす。 「ケルン派の神母は、確かに彼女の一団の一人を宣教者と認めた上で、私たちのポリドロ領を訪ねて、こう言ったのだ。ここに教会を建てに来たと」 このザビーネは、自身の敗北を予感しつつある。 なれど、口を開かせておいて、最後まで話を聞かぬわけにはいかぬ。 「有難かった。酷い時には手や棒で農地を耕していたなどとさえ言われるポリドロ領には農具が必要であったし、口頭ではなく陶片を渡すことによる連絡や命令が必要であったし、教養や娯楽を求める者には神母が書物を開き、それを読んでやる行為が必要であった。種苗など、例え自分の命を捧げても欲しいと言う者がいた」 嫌な予感がしている。 何も、ファウストは自分の領地がこうであるから納得できぬという話をしようとしているわけではないのだ。 「ポリドロ領には何もなかった。それを与えてくれたのが当時のケルン派である。今のように火薬という収入によって多少は裕福になった宗派のことではない。もっと貧乏で、もっと何もなくて、それこそ自分の血肉を1ポンド切り売りするような真似をして、何もないポリドロ領を助けてくれたのが当時のケルン派であったのだ」 誰も知らぬ、このザビーネすら知らぬ凄まじい秘事を口にしようとしている。 私は理解しつつある。 「ポリドロ家初代当主には教養などなかった。ただ有難い有難いと呟いて、ケルン派より与えられた利益を食むだけであった。衣食足りなかったがゆえに、礼節を知らなかった。そして多少は身繕いなどを出来るようになった次代のポリドロ家当主が、ケルン派に初めて寄進を求められて、そこで気づいたのだ」 正当なる教皇なれば、宗教は専門ではない私と違って多くを知るだろう。 「ケルン派が寄進を求めたのは、古ぼけた農具や、使い古したオストラコン(陶片)であり、ボロボロの書物であり、自分の農地で育てた沢山の種苗であった。私たちがかつて譲られたものであり、補修したり改良はしたけれど、もう必要はなくなった物であった」 ゆえに、ケルン派を異端審問するということの意味を理解しているだろう。 「二代目のポリドロ卿はそこで全てを知った。ああ、そうかと。ケルン派というセクトはずっとこうやって次へ次へと救済を繋げてきたのだと。貧しい人々が腹を満たすために最低限必要なものを、隣人愛を、アガペーを繋げてきたのだと。かつて私たちが譲られたように、それを他に与えてはくれないかと頼み込む在り方を続けてきたのがケルン派という存在である」 ずっと、ポリドロ卿のような貧しい領地に対して、そのような啓蒙活動を続けてきたケルン派に対して。 どうしてか、正統たる教皇は異端審問を行おうとしている。 「二代目は涙を流して膝を折ったと、今後の全ての祈りをケルン派に捧げるとポリドロ家の記録にはある。そして、それを異端であると侮辱して、それを破却しようとして軍勢を集め、ヴァリ様に改宗を促そうとしている大司教が目の前に存在している」 これは、話を聞くにこれはポリドロ領だけの激怒に留まらない。 このようにケルン派の恩恵を受けた村が神聖グステン内のそこら中にあり、このように狂気的な崇敬の念を抱いているのだ。 冗談ではない。 文句は尽きることなく出てきそうである。 それは異端審問をされたケルン派に対してであり、軍勢を寄せたマインツ大司教に対してでもあり。 「アガペーを繋いできた我ら全てに対する侮辱である。ポリドロ家と領民に対する壮大な侮辱である。私の祖先に対して唾を吐きかける行為である。騎士は舐められたら殺すのだ。封建制における領主貴族が、どのように自分の独立領地に対して尊厳を保つために必死に生きているか、ザビーネ卿ならばわかっているだろう」 このような神聖グステン帝国を無茶苦茶にする事態にヴァリ様を巻き込んだ『人食いアナスタシア』であり、『尻揉みアスターテ』であり、そして何もかもの状況をある程度は把握していたのに何も言わず。 本当に何一つ忠告してくれなかったリーゼンロッテ女王陛下に対してである。 「殺すのだ。マインツ大司教を殺すのだ。教皇を殺すのだ。自分の信仰が、自分の祖先が、自分の領地が、自分を構成する全ての来歴が侮辱されたときに、人がどのように怒り狂いて侮辱した者を無茶苦茶にするかを教皇に思い知らせてやらねばならぬ」 目の前に、静かに強烈な苛烈を――この何も知らなかったザビーネやヴァリ様に対してではなく、操られたマインツ大司教に対してですらなく、何もかも知っているくせにそれを侮辱した教皇に対して。 ドロドロと溶岩のように煮えたぎったものを感じさせるポリドロ卿に対しても、こう思った。 『お願いだから、お前ら状況を説明してから行動してくれ!』 私は完全にブチ切れているポリドロ卿を眼前に、そのような泣き言を心の中で叫んだ。 怒り狂ったポリドロ卿を説得するなど、このザビーネには不可能であるのだから。 第181話 どうせできやしないだろう。それが貴女だ このヴァリエールは、もはや驚愕や絶望とは程遠いところにある。 ファウストが激発を見せた事は以前にも数度あるが、ここまでの激昂は初めてであった。 理論武装を済ませていたならば一歩も引かぬザビーネさえも圧倒せしめて、完全に沈黙させている。 「まあよい。どうでもよいとまでは言わないが。ユリア教皇には私が直接問い質すこととしよう」 ファウストは、一時的に怒りをおさめた。 ――のではなく、より深化させたのだろう。 グツグツと魔女の鍋のように、煮えたぎる雰囲気を漂わせたままに私に振り向いた。 「私が此度ここに訪れたのは、私個人のそのような怒りのためではない。ヴァリ様の元に来た本来の目的を達成せねばならぬ」 ファウスト、さっきから気になってたんだけどさ。 ザビーネ達みたく、ヴァリ様とか変な愛称で呼ぶの止めようよ。 まあ、もう婚約者なのに以前から殿下呼びを続けて名前だけで呼んでくれないのも大概だったんだけどさ。 「ヴァリ様。このファウストめは、貴女がどのような酷い目に遭われるかを心配したがゆえに、貴女の下に訪れました。おそらくは苦労をしているのだろうと」 ――ファウストは、少しの間だけ鋭い赤い目に蓋をして、瞼の下で沈黙し。 「おそらくは、貴女が貴女であるからこそに。辛い目に遭遇することになるだろうと」 現状を静かに告げた。 そうだ、ファウストの言う通りだろう。 難しく考えなければ、もうこの辺りで全ての荷を下ろして、この旅から降りて良いはずだった。 だがその選択は私にとって苦痛である。 「ファウスト。さっき、貴女はザビーネの立場であるならば、ザビーネの行動は正しいと肯定したじゃない」 「ええ、私は心からそう思っておりますので」 ファウストは朴訥であり、口下手であり、時に人の想像の埒外となる。 なれど、少なくとも今この時は冷静であった。 「ザビーネ卿は、ヴァリ様さえ幸せならばどうでもよいし、そして自分が約束した以上の責任など取る気はない。それを一方的に咎める権利など私の身にはありません」 うん、そうだ。 そして、ザビーネを咎める気が無いのであれば、私の事も同様だろう。 「そして、当然の事ながら、ヴァリ様の何かを責める権利もありません。私が知る限りでは、そもそも一切の責任がないでしょうから」 誰が殿下を咎められるというのか。 このファウストはもちろん、帝都にいるアナスタシア様やアスターテ公爵。 アンハルト王都にいるリーゼンロッテ女王陛下はもちろん、今回の旅に関わった人々。 これからアンハルトの騎士や兵士となる者達を含めて。 「因果が祟って逮捕されることになったベルリヒンゲン卿や、ザビーネ卿が見捨てろといったケルン派の聖職者たちや、今回の旅で何も手に入れることが出来なかった傭兵団や、貴女に身勝手な夢を見た虚しい者たち。その全てにヴァリ様を咎める権利など無い」 あれなる虚しい者どもは、勝手な夢を見ただけだ。 たとえどのように捻くれた罵詈雑言を口端に浮かべようとしても、無意味だ。 誰もが知っている、と。 「ヴァリエール・フォン・アンハルトは努めて忠実に義務を果たしてきたし、貴女は何一つ咎められる謂れが無いのだと。少なくとも、この第二王女殿下相談役のファウスト・フォン・ポリドロはそう思っております」 眼前の領主騎士は、ケルン派を熱心に信仰する騎士はそう述べた。 私は見捨ててしまってよい。 自分の責任にない人間など、皆見捨てて良いと進言した。 「……」 私は沈黙している。 貴女には何の責任もない。 これは仕方のない事であるからどうしようもない。 だから見捨てても良い。 そのような言葉を私は聞きたいのではなかった。 もっと、何か、罵りの言葉でも与えてくれれば、まだ。 「私が思っているだけですので、もちろんヴァリ様がそう受け止めていないことは理解しております」 ファウストは言葉を続けている。 なれど。 途中で舌を噛んだようにして、発言を止めた。 「――そう、何か、その」 急に口ごもり、いつもの朴訥で口下手なファウストに戻ったようにして。 「色々な事を言おうと思っていたのです。今、ヴァリ様は何もご存じないと思うのです。あまりにも時間が少なすぎて、帝都で何が起きているのか、そうなった複雑な事情を、マルティナを通じて伝えることができておりません。アナスタシア様やアスターテ公爵のお考えであれば、今この時ヴァリ様にどう行動して欲しいのかとなると」 教皇が為した異端審問への深い怒りや。 領主騎士として、第二王女相談役としての立場も忘れてしまって。 何か、一人の騎士のように、真摯さを以て主君たる私に言葉を紡ごうとしている。 「多分、それを今ここで伝えられるならば、ヴァリ様の背中を押してあげられると思うのです。全ての事情を知れば、ヴァリ様は覚悟を決めるでしょう。マインツ大司教との闘争を選ぶでしょう。アンハルト王族としての責任感から、全ての努力を行うこととするでしょう」 ですが、それでは敗北する確率が高いと思うのです。 義務感だけではマインツ大司教に勝利することができないと思うのです。 彼の大司教を焼き殺すには、些か熱量が足りないように思えます。 そう小さく言い募り、ファウストは私を見た。 「ヴァリ様が戦わざるを得ないのであれば、このファウストは殿下の騎士として、一欠片でも勝率が高い方に動こうと思うのです」 少し、脳足らぬ私の頭ではよくわからぬ事をファウストは言っている。 だが、私の騎士が私の為ならぬことを言う可能性など皆無であった。 「殿下のお考えはきっとこうでありましょう。絶望的な戦力差が眼前に存在し、仮にもマインツ大司教はケルン派が異端という大義名分を持っており、そしてベルリヒンゲン卿の逮捕命令を教皇や皇帝から承認されている。こうなれば、抵抗するならば暴力以外の方法が存在しない。だが」 そうだ。 闘って負けるのであるならば、戦うべきではない。 「私が率いているのは哀れな貧民たちで、傭兵団と言っても装備に乏しくて、銃はあれども甲冑など身に纏う者は黒騎士の僅かといったところ。盗賊相手ならば常勝できるだろう。なれど、マインツ大司教領の修道騎士団を含めた相手となれば、きっと惨めに死ぬだろう。負けるのは目に見えている」 別に、マインツ大司教が私の身柄の拘束だけを求めているのであれば、それは良かった。 帝都への旅路にて軍勢を集めた責任を追及されて、その責任を求めて首を吊るされるのであれば、罵倒を口にした後に大人しく殺されても別によかった。 なれど、違った。 マインツ大司教の目当ては、一時なれど私が配下としたベルリヒンゲン卿であり、その他の人々であった。 「せめて、良い方向に動こう。マインツ大司教相手に必死に交渉して、虚勢を張り、媚びを売り、何でもやってケルン派の聖職者たちを殺さないように頼み込もう。アンハルトから連れてきた以外の軍勢を解散して、封建領主から徴発した物資を何もかもを皆に配って、彼女たちの今後の道行きが少しでも明るいようにしようと。なんとかベルリヒンゲン卿も弁護できないかと」 その通りだ。 ファウストは、私が何を考えているかなど全て理解していた。 惰弱で虚しい私の凡庸な考えなど、何もかも読まれていた。 だから、ハッキリ言おう。 「そこまでわかっているなら、そうさせてよ! 他に何もできないのよ」 私は自分の婚約者に弱音を吐いた。 一つだけ、呼吸音が重く響いた。 ファウストの溜息のようである。 「我が主君はとんでもない勘違いをしておられる。世の中にはここで抗わないくらいなら、死んだ方がマシな状況というものが人にはある」 婚約者は一切応じずに、一人の騎士として厳しい言葉を放った。 薄々、理解していた言葉だ。 「貴女に縋った此の世の底辺どもが、ここで折れて少しばかりの賃金や物資を貰ったところで、何にもならない。酒にでも酔って使い果たして終わりだ。傭兵団はまた半傭半賊の生活に逆戻り。文字も書けねば計算もできぬ貧民どもなど、元の生活に戻るだけだ。別にそれはそれで仕方ないのかもしれない。連中の責任だから」 彼女たちがこの先どうなるか、理解している。 「彼女たちは元の生活に戻り、貧しい底辺に戻りて。こう呟くだろう。やっぱり何も変わらなかった。我らの人生など嘘で、この程度だったのだと」 そうだ、元の生活に戻るだけだ。 但し、私は一つだけ責任を感じていることがあるのだ。 「そして、時々思い出したかのように呟くのだ。しかし、あれは良い夢だったな。ヴァリエール殿下の行軍に付き合ったのは実によかったと。まあ、夢だったけどなと」 そうだ、そうなるだろう。 私は自分の罪を理解している。 誰も罪とは問わぬ、私の罪悪感を理解している。 私は彼女たちに一度とはいえ、最初から全員が叶わぬことを知っている夢を見せてしまった。 だが、ハッキリと言っておく。 「このまま死ぬよりマシでしょうが!」 どうしようもないのだ。 異端認定の名のもとに、惨たらしく殺されて死ぬよりマシじゃないか。 「逆さに磔にされて刑死した聖人を御存じか?」 自分が連座で処刑されることさえ恐れて、贖罪主と自らの信仰を三度も裏切ってしまった聖人。 自分も一緒に捕まることを恐れて「あんな人は知らない」などと三度も否認してしまった臆病な人のこと。 最期の最期には、贖罪主と同じ処刑方法では恐れ多いと、逆さに磔にされて死んでしまった人の事を呟いた。 嗚呼、確かに彼女は愛する人を裏切って臆病と惨めさのままに死ぬよりも、そうやって誇りと信仰を抱いて死んだ方が良かったんだろうさ。 「私に付いてきた彼女たちは聖人じゃないのよ。生きていた方が良いに決まっているじゃない」 そもそも、そんな事を無理強いする権利など私にはない。 私にそんな価値があるとは欠片も思えなかった。 「そう思っているならば、ちゃんと彼女たちに聞けば良い。死んでも殿下に付いてくるか、付いてこないかをマインツ大司教との戦いの前に聞いてあげればよいのです」 多分、彼女たちは死ぬまで夢を見させてくれるならばと。 最期の最期まで貴女についてくるだろうと。 ファウストは、そんな無茶苦茶な事を言う。 「ヴァリエール・フォン・アンハルトに問います。貴女を庇って初陣で死んだ彼女の事を覚えておりますか」 「覚えているに決まっているでしょう」 次に口にされたのは、私を初陣にて庇って死んだハンナの事であった。 忘れるわけがないのだ。 一生忘れるわけがない。 「……私のような低俗な者こそが、受けた恩に執着することがあること、そろそろお判りでしょう。これを人は時に情と呼ぶのです。ヴァリ様が、我が主君が私たちを一生忘れることが無いと知っているのに、死を恐れる理由がどこにありましょうか」 私は泣きそうになった。 先程からファウストが口にしている言葉は。 「ファウスト。やめてよ。お願いだから」 皆、理由があるならば私の配下は、別に私の判断で死んでもよいと思っているし。 そして、私はもう配下の事を本当に考えるのであれば、ここで死ねと命令すべきだという誘いの言葉であった。 そんな惨い事は聞きたくなかった。 私は、耳を塞ぎたくなった。 だけど、ファウストが歩み寄り、そっと両の手を握っていた。 「恐れ多くも。ヴァリエール殿下は、何故貴女がアンハルト王家の後継者として不適格とされたのか。どうして人を束ねる存在として、人心を安んじて統治を行うにふさわしくない存在としてリーゼンロッテ女王陛下に見切られたかを未だ理解しておられぬのだ」 もう耳を塞ぐことはできない。 「切ることが絶望的に下手糞だ。損切りが出来ぬ。見捨てられぬ。いざという時に我ら騎士や兵や民の命を必要足る犠牲であると供物に捧げて、それで終わりとすることが出来ぬ。今回の旅についてきた皆が幸せになれればよいと思っている」 そうだ、私は凡庸で脆弱で、臆病で、そんな事はできない。 自分の配下のために、せめてこの子たちのために強くあろう、自分の身内に関してだけは強くあろうと思うが。 結局、このヴァリエールの性根は変わらない。 「酷い時には、自分が損をして、それでなんとかなるならそれでいいと思っている」 それで済むなら、それでいいじゃないかと思う時がある。 「よいですか、ヴァリ様はとんでもない勘違いをしているから、何度でもはっきり言っておきます。それは私たち配下に対する侮辱なのだ!」 だが、ファウストはそれを認めようとしない。 「初陣で死んだハンナ卿も、そこにいるザビーネ卿も、私もこのように考えている。私たちが死んだときに、我々の気持ちを全く理解せずに、勝手に哀れむなど止めて欲しいと。我々には我々の意思があり、自分で決定権を得て、それでもなお貴女のために死ぬのだと。心底それでもまあよい人生だったと、受けた恩を返したと、そう思っているのだと!」 ぎゅうと、ファウストが私の手を握った。 無論、全力ではないのは容易に理解できる。 私の婚約者が全力を出せば、この小さな手など粉々になってしまうだろうから。 「私やザビーネが、貴女に集う人々を見捨てろと進言したところで、何もかも理解していてできるかと言えば、もはや怪しいところだ。多分、どうせできやしないだろう。それが貴女だ」 ファウストは、統治者としての適性が欠けていると私に叫んだ。 私は否定できなかった。 このヴァリエールは王族に向いてないと告げて。 「だから、主君として私という騎士に命令してください」 同時に、ファウストは私を主君として認めていると明確に言葉を繋げた。 酷く矛盾しているようで、そうではなかった。 「殿下を助けるために帝都からここまでやってきた私、ファウスト・フォン・ポリドロに闘争の許可を」 手が離れた。 ファウストは、騎士叙任式のように片膝を折り、立てた右足の膝に手を置いて、肩を剣で叩かれる直前のように目を静かに閉じた。 「たかが6000の兵、さっさと蹴散らしてきなさいファウストと、それだけ命令してください。後は何とでもやってみせますから」 貴女の婚約者として、その程度の事は鼻歌混じりに片付けてきましょう。 ファウストは最後、一言だけ婚約者らしい事を呟いて、私の決意と命令を求めた。 第182話 私の大切を傷付ける者、すべからく死ぬがよい アンハルト選帝侯家の祖は狂戦士の一族である。 自分の大切なものが傷つけられた際に怒り狂いて、物事の前後も忘れてひたすらに走り抜き、怨敵の頭に斧剣の一撃を喰らわせて殺すのだ。 その際には、どれだけ自分の身体が傷つけられようが、身体に矢が刺さろうが、酷い時には指や腕が千切れようが相手目掛けて走り回り、怨敵を皆殺しにするのだ。 彼女たちは狂っていた。 ゆえに誰もが命知らずと恐れて、同時に自分が護られた際には崇めて、いつの間にか彼の狂戦士の一族は選帝侯家に成り上がっていたと聞く。 アンハルト選帝侯家の成り立ちは貴族として上を目指したがゆえの結果ではなく、恐れ崇められた結果としての産物にすぎない。 「それも昔の話よ」 今では大人しいものだ。 帝都にてのんびり選帝侯継承式を待っているであろうアナスタシアが、レッケンベル卿を撃ち破った時などには驚いたものだが。 結局、あの悪魔超人レッケンベル卿とて人の子であったということだ。 重装甲騎兵数名に囲まれて殴られれば、人は普通死ぬ。 私たちは、やれ人の首を兜ごと素手で千切るだの、命令違反を犯したランツクネヒトをハルバードで頭頂から股下まで真っ二つに切り裂いただの、指一本で「つつく」だけで人の頭蓋骨を陥没させて殺害しただの、ぱんと人の頬を叩けば顎肉が吹き飛んで骨が見えただの。 あの身長2m20cmの『背高のっぽ』に、横一文字のうっすらとした糸目で上から睨まれると、誰もが恐怖して動けなくなるだの。 ヴィレンドルフや帝都で今も語り継がれる眉唾のレッケンベル伝説に恐れを抱いていたのだ。 いくら超人とはいえ、人がそのような事出来るはずがない。 全部嘘だったのだ。 アナスタシアは初陣ゆえに、レッケンベル卿の伝説に惑わされずに上手くやったのだろう。 ともあれ、なにもかもが過去の話である。 レッケンベルはもういない。 アンハルト選帝侯家が狂戦士の末裔であったところで、もはや血も薄れた。 「まあ、それが私にとって悪いわけではない」 むしろ良い方向に動いている。 交渉役を担っているザビーネとか言ったか? ヴァリエール側の反応は悪いものではなかった。 私が差し出した先触れの紋章官は朝方に帰ってきたが、ザビーネはむしろヴァリエール第二王女にとって不要である半賊半傭の輩どもは切り捨てたいようであったし。 ヴァリエール殿下の面子を保つならば、ケルン派なんぞアンハルト帰属の聖職者を除いては、本当にどうでも良いと断言している。 ここまで言えば当然の事であるが、ベルリヒンゲンの奴めなどは、どのように無惨な結末を辿っても良いと。 相手の交渉役たるザビーネは耳障りの良い言葉を伝えてきているのだ。 また、紋章官に言わせれば、もはや旅団の戦意などは感じられず、そこらではすすり泣く声さえ聞こえたという。 なるほどなるほど。 非常に宜しい。 全てが良い方向に動いている。 「それならば、私はアンハルト選帝侯家第二王女ヴァリエール殿下の名誉を保とう。彼女の利益を保証しようじゃないか」 そのくらいは問題ない。 そもそもが、このマインツにとってはベルリヒンゲンを殺すことで自身の名誉を回復する以外は、比較的どうでも良い事柄である。 もちろん利益を追求するのであれば、このままヴァリエールを殺めて旅団ごと打ち滅ぼしてもよいのだが。 アンハルトの現選帝侯であるリーゼンロッテの不興を買ってまでも、それをやるメリットはほぼ無い。 利益確定といこうじゃないか。 私はこのまま異端審問の大義名分において、ヴァリエールをケルン派から正統に転向させて、帝都に集まる軍勢を解散させ、一部を除いたケルン派の聖職者を捕獲し、ベルリヒンゲンを逮捕する。 戦など起こさずして、ここまでの結果を三聖職諸侯として、枢機卿として導き出したのだ。 見事であろう。 ここまでやってのければ、ベルリヒンゲンに傷つけられた名誉は回復できよう。 「さて――」 眼前に目をやる。 旅団3000名が見守る中、ポツンと一人の少女が立っている。 どのような襤褸を着ていても、貴族であることが分かってしまう妖精のような外見の少女だ。 ヴァリエールが馬を降りて、私を出迎えるためだけに待っているのだ。 なかなか弁えた態度ではないか。 私は相好を崩し、まずは握手か、それとも衆目の前で抱き合うことで友好をアピールすべきか。 なに、私は元々ヴァリエールという少女には悪意どころか、金に細かいところには共感さえ抱いているのだ。 そのように色々と考えながらにして、近づこうとするが。 「マインツ選帝侯に告ぐ!」 凛とした、花香のする声だった。 それでいて、こちらの全身が張り裂けるような、声帯の全てを震わせるような声で大音声が上がった。 「貴卿が告げた七つの要求に返事をしよう! 遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ! これから発する言葉の全てがマインツ選帝侯に対する、このヴァリエール・フォン・アンハルトの返事である!」 眉を顰める。 殊勝な態度で出迎えると思えば、それを投げ捨てるかのような絶叫である。 ヴァリエールの形相は青白く、首の血管などが浮くほど凄まじいもので、今すぐ血すら吐きそうであった。 「七つの大罪にも値する七つの要求、その全てが考慮するに値せず! このヴァリエール・フォン・アンハルトが集めた全ての軍勢は、姉君アナスタシアの帝都における選帝侯継承式を祝うがために出向いたものである! 惰弱な聖職者風情の傲慢に我ら誇り高き騎士が応じる理由は無い!!」 軍勢の解散はユリア教皇も是認した要求である。 なれど、ヴァリエールは惰弱な聖職者の傲慢と看做した。 「ケルン派が【聖書】と称する『新世紀贖罪主伝説』を焼き払うことは認めぬ。我らが信じる宗派の聖典を焼き払って信者を取り戻そうなどという、腐敗して顧みられぬ正統ごときの嫉妬に応じる理由は無い!」 下調べをする限り、ヴァリエールは別にケルン派を信じているわけではない。 ただ単に、婚約者である男騎士の領地の信じる宗派がケルン派であっただけと聞く。 なれど、焚書の要求はケルン派に対する正統の嫉妬と看做した。 「ましてや、このヴァリエールが転向するわけもない。この身はすでにケルン派の信仰を護るために捧げたものである。我が婚約者がゲッシュを誓ったドルイドの宗派を見捨て、信仰を裏切るなど騎士として許されるべきことではない! 正しき人なれば、どのような阿呆でもわかる無理筋を通そうとするなど、私に対する侮辱に他ならぬ! マインツ枢機卿は道理も知らぬのか!!」 全て、全て欠片にも思っていないことを! ふと、耳に先程と全く同じ言葉が響きだした。 ヴァリエールが先ほどから叫んでいる言葉は、ヴァリエールが率いる旅団のそこかしこで復唱されているのだ。 甲冑姿の騎士が、彼女の親衛隊と思われる者達が旅団全てに伝わるように叫んでいるのだ。 ここまでくれば、もう理解できた。 ヴァリエールは、このマインツに宣戦布告しようというのだ! 「無論、ケルン派を転向させ、それを処刑するなど信徒たる私に見過ごせるはずがない! これは枢機卿が正統よりも、神の望み通りの理想的姿を叶えようとアガペーを重ねているケルン派を恐れるがゆえに他ならぬ!」 歯噛みをする。 これはヴァリエールが突然発狂したのではなく、私を出迎える前からこうするつもりであったのだ。 背後に控えさせた紋章官を睨む。 紋章官はこんなはずではないと怯えながら、一人の女を指さした。 旅団に混じりて、朗々とヴァリエールの言葉を復唱する女騎士、おそらくはザビーネという名の女。 彼女は何かに陶酔しきったような表情で、ヴァリエールを一心に見つめている。 完全に信仰に狂った信者のような姿で。 あの女、よくも――よくも、このマインツ枢機卿を騙してくれたな! 「当然の事であるが、私が主従契約を結んだ封建領主から受けた金銭の始末を一任する理由など欠片もない! 我が旅団の財産は全て、この私が軍勢一人一人にパンとワインを与えるために?き集めた路銀である。銅貨一枚どころか、リンゴの芯すらくれてやる理由は無い。貴卿はその枢機卿としてあるまじき強欲ゆえに、私の財産を奪おうとしているのだ!!」 どうしてこうなった。 私はヴァリエールとの戦など望んでおらぬ。 妥協しようとしたではないか。 私は貴卿の立場も利益も約束しようとしたではないか。 なのに、どうして。 「更に、ケルン派を農奴にしてやるなどと言ったな。これはもはや、マインツ枢機卿が聖職者としてあるまじき悪徳を自ら証明しているに他ならぬ。嘘も方便などと言うが、貴女の言葉は聖職者として相応しからず、もはや穢れていると看做してよい。ゆえに、全ての発言が本当に教皇の意を受けたものか、甚だ怪しいと言える!」 どうして、ヴァリエールは自分の大切なものが危機に陥ったかのような、狂戦士の表情で私を睨んでいるのだ。 話が何もかも違うではないか。 私はそこまで追い詰めたつもりなどない。 私は名誉を回復するためにここまで来ただけであって、そりゃ絶対に転向しないであろうケルン派聖職者は磔にして火刑にするつもりではいる。 別にヴァリエールの路銀を奪うつもりはないが、まあ?き集めた私の軍勢が目の届かぬところでロバ二匹を連れたそこの馬借などにちょっかいをかけて、殺して全財産を奪うこともあるかもしれぬ。 ベルリヒンゲン卿は帝都に連れて行くまでもなく、途中で自殺すら許さずに拷問死させるつもりである。 それはそこまで酷い行為ではないはずだろう。 よくある話だ。 なのに、何故そこまで怒り狂っている。 何故、自分の仔を人に棒で殴られた母狼のような顔つきで怒り狂っているのだ。 「最後に一つ、ハッキリ言っておいてやる。私の本音を叫んでやる。このヴァリエール・フォン・アンハルト、例え力及ばずとも、自分の傘下に加わった全ての者が幸福を掴めればよいと信じている。私の目玉がサファイアで、腰の剣の装飾がルビーで、肌身が金箔で包まれていれば。この皮膚一枚をめくって、それを金のブローチにして配ってやれれば、どれほどの人が救えたかと思っている。だが、残念ながら現実は全くそうではない。そして、それができぬならば、私の部下全てを、私に関わる大切な物全てを傷付ける者を許す気はない!」 こちらもハッキリと理解できた。 「ゆえに、一度とはいえ私に従ったベルリヒンゲン卿を、わが身可愛さゆえに売り飛ばすなど死んでもせぬ! それは、このヴァリエール・フォン・アンハルトの誉れであり、それを穢すことは教皇であろうが皇帝であろうが許さぬ!!」 狂っていた。 狂っているのだ。 「死ぬがよい、マインツ枢機卿!」 ああ、そうだ、ヴァリエール・フォン・アンハルトの瞳はこの場にいる誰よりも、完全に狂っているのだ。 ここで、ようやく完全に理解した。 そうか、そうか。 あの気狂いアンハルト一族の末裔、その第二王女はこのような狂人であったか。 本当にどうしようもない窮地に陥った際には、自分の愛する者全てを護るために、このような発狂の仕方をするのだ。 自分の配下何もかもが大切であると信じているのだ。 掻き抱いた何もかもを護るために、自分の産子を守るための母のような発狂行動をとるのだ。 誰に! 誰にそそのかされやがった! 誰がここまで、眼前のヴァリエールを狂気の淵に追い込んだ!! ああ、しかし、もうどうにもならない。 私は失敗した。 「理解した! 貴様がどうしようもない異端であり、正統に対する背教者であったことをな!!」 私は虚勢を張って、大音声を吐き返す。 そうしなければならないのだ。 今更、ここで引くことはできない。 「後悔するが良い、ヴァリエール・フォン・アンハルト。異端どもの王として何も守り切れず、貴卿はここで惨たらしく死ぬのだ」 馬の手綱を引いて、自分の軍へと踵を返した。 すぐに自分の軍に帰り着いて、軍備を完全充足せねばならぬ。 時間はあまりない。 ヴァリエールに吐いた言葉など、虚勢である。 私の軍の誰もが交渉で終わると思っており、戦争の覚悟など一部の古強者しかしておらぬ。 それとて、精々が抵抗した一部の傭兵団を鎮圧する小競り合い程度だろうと、経験則により見切っていた。 全軍兵による全力闘争の覚悟などしていないであろう。 冗談ではない。 何が悲しくて、死に物狂いでこのように狂うた主君に率いられた、その主君を爛爛とした目で見つめだした半傭半賊の者どもに、私の大切な部下どもを異端の生贄に捧げなければならぬ。 勝てるはずだ。 さすがに、我がマインツ騎士修道会による騎士団を含めた軍勢が、装備も貧しければ鍛錬も未熟な傭兵団に負けるわけがない。 3000の半数に対して、6000の数が負けるわけもない なれど、なれど。 私は知っているぞ。 このマインツは知っているんだ。 レッケンベル卿が率いるランツクネヒトの群れに、テメレール猪突公が率いる強力な軍勢が負けたことを。 レッケンベル卿の伝説全てが偽物であったとしても、その事実だけは変わらない。 時として士気(モラール)は何もかもを覆すのだ。 嗚呼、間違いだった。 ユリア教皇の誘いなどに乗るんじゃなかった。 何もかも知っていながら、このような泥を私に呑ませようとしたのだ。 「あの恩知らずが! 腐れ暴力教皇が! 私に、このマインツ枢機卿に、マインツ選帝侯に、このような目を!!」 教皇は、何もかもを予感していながら、私に泥を呑ませた。 おそらくは、このような状況になる事すら理解していながら、私をそそのかしたのだ。 ユリア教皇は狂っていた。 信仰に狂っていた。 勝てるかどうかは分からないが、とりあえずマインツ枢機卿をぶつけてみよう程度に考えているのだ。 それでケルン派が潰れればよし、潰れなければ自分が改めて帝都にて相手をしよう程度にしか今回の戦については考えていない。 アンハルト選帝侯家第二子女、ヴァリエール・フォン・アンハルトも同じく狂っていた。 自分の大事な者を護るためならば、自分の全力を用いて私を殺す必要があると考えているのだ。 それだけが自分の懊悩を解決する唯一の手段だと信じているのだ。 他家の選帝侯をぶち殺したとて、自分の大切な物を護るためならば、後で考えればよし! 異端認定? 知らねえ! 教皇と皇帝がベルリヒンゲン卿の逮捕を承認した? 無視しろ! 『こっちが死ぬか、相手が死ねば、それで終わりだ!』 要するに、狂戦士の一族がゆえに、今後の事は何も考えていないのだ。 全勢力を傾けて私を殺しに来るのだ。 自分の配下を護るために、自分の配下に死ねと命じたのだ。 狂戦士の一族の末裔としての本性が、この場にて顕現していた。 正気なのは、このような地獄に巻き込まれた私だけだった。 「この狂人どもが! 法も道理もあったもんじゃない!!」 この悲鳴は、何があろうと勝ちは揺るがぬと信じている側近には、誰一人にすら漏らせなかった。 主君が配下の喪失に怯えるなど、その配下のために決してあってはならぬことなのだ。 いや、側近の中でも一人だけ。 本人も知らぬが、血の繋がった私の娘だけには教えておかねばならぬ。 このマインツ枢機卿が敗れた場合、一目散に領地に逃げ帰ることだけは教えてやらねばならなかった。 そのためには、私と血が繋がっている秘事も彼女に明かさねばならなかった。 教えぬつもりだったのに。 何もかもを知らせずに、この金に狂うた母の存在など知らせずに、マインツ選帝侯領を穢れ一つない彼女に譲るつもりであったのに。 「畜生が!」 私は聖職者ならぬ声を上げて、唾を吐いた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 2巻の書籍化作業により更新が遅れております。申し訳ありません 今後も時々遅れる際は書籍化作業に手間取ってるとお考え下さい また、知らない方が普通にいるみたいですので連絡しておきますが 本作は書籍化済であり、加筆修正や外伝書下ろしを加えた 1巻の方は好評発売中ですので、よろしくお願いします 詳しくは近況ノートをご覧ください 第183話 貴女のためなら死んでもよい ヴァリエール殿下の陣幕に入り、一度だけ停止をして。 爆発するように肺を膨らませて、絶叫した。 「お前は何を考えているんだ!!」 絶叫したのは、他ならぬヴァリエール殿下に対してだ。 何を考えているんだ。 見捨てろと、私を、このベルリヒンゲンを見捨てろと言ったはずである。 眼前を睨みて、そこにいる全ての人間を確認した。 何かに酷く陶酔してしまったかのような瞳で、頬などには熱を帯びているザビーネ卿は殿下の横に立っており。 プレティヒャ卿を含めた今回の旅程にて騎士受勲を受けた数十名が膝を折りて、殿下の前にて礼を尽くしている。 ケルン派聖職者の写本家を含めた数名が、何もかもを見届けるためにその場にいる。 どうでもよいが、アナスタシア殿下からの伝令使である者たちも完全武装で隅に立っていた。 もう一度殿下を罵ろうとして。 ――私は殿下の顔を見てしまった。 臆病者が、蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手で、粗末な木製の玉座に腰を下ろしている。 彼女が先ほどマインツ枢機卿に言ったように、目玉はサファイアにあらず、腰の剣の装飾はルビーではなく、肌身は金箔に覆われてなどいない。 ただ一人の臆病者の少女に他ならぬ。 先ほど狂気そのものを剥き出しにしたばかりの人間の顔ではない。 「――何を考えているんだ」 ようやく、声を絞り出すようにして呟いた。 ヴァリエール・フォン・アンハルトはそれに返事をしなかった。 語りかけたのは、自身の配下に対してである。 この旅路にて騎士に成り上がった全ての者に対してである。 「プレティヒャ、そして愛する配下の皆に対して、私は謝らねばならぬことがある」 「なんでしょうか、マイ・ロード」 「本当に簡単なことを――これから言うつもりである。私はそこにいるベルリヒンゲン卿を見捨てることができた。アンハルト以外のケルン派聖職者が磔にされて、火あぶりにされることを見過ごすことができた。旅の本隊から少し遅れたところにいる貧しい馬借などが、マインツ枢機卿の軍勢にちょっかいをかけられて財産を奪われて殺されるなども見ないふりをすることができた」 そうだ! それでよかったではないか。 ヴァリエール殿下の旅の目的は帝都に辿り着くことであり、それも旅する前よりも膨大な路銀を貯蓄して、兵団を引き連れて到着することができた。 呑める条件だったはずだ! あのマインツの挙げた条件は、それほど無茶苦茶な法外ではないのだ!! 「なのに、私はそれを見過ごすことができなかった。見捨てれば、ここに膝を折りて私に忠誠を尽くしてくれる全ての騎士が、戦に巻き込まれることがなかったにも関わらずだ。主君と騎士の主従契約において、これは私にとって主君としてはふさわしくない行為と看做している。私の落ち度である。ゆえに、貴卿らに主君として謝罪と説明をせねばならぬ」 誰もしゃべろうとしなかった。 代わりに、すう、というヴァリエール殿下が息を吸う音が聞こえた。 「私を見捨ててよい。私を見捨てても、それを責めることなど誰もせぬようにする。貴女達、アンハルトの騎士が契約を結んでいるのは国家に対してであり、この私に対してではない。アンハルトにいる母上リーゼンロッテでもよい、帝都にいる姉上アナスタシアでもよい。新たな主君に私がすでに渡した感状を抱きて訪ねれば、その二人も悪いようにせぬ。そのための、ちゃんとした感状を――ザビーネ!」 「はい」 ザビーネ卿が、ふらふらと熱を帯びた爛々とした瞳で歩いている。 おそらく、昨夜は眠っていないのであろう。 紋章官の代わりとして、徹夜で感状の全てを書き上げたに違いないのだ。 ちらと、近くの騎士が手にしたそれを目にした。 それは彼女たちが旅路にて為したことへの礼と感謝を尽くしていて――ヴァリエール殿下が例えどのような死に様だったとしても、彼女達は裏切ったのではなく、私が命じたのだと。 アンハルト選帝侯家のためにこそ、軍からの離脱を命じたのであると。 何の恨みも感じられない、本当に丁寧な綴りでまとめられていた。 その感状を持つ、彼女の手は震えていた。 さて、どれくらいの時間がたったのであろうか。 やがて、音が聞こえ始めた。 感状を引き千切り、破り捨てる音であった。 「このようなものは、貴女の騎士として要りませぬ」 プレティヒャ卿はそう言い捨てた。 それがどういう意味かを周囲が理解し始め、そして同じように破り捨て始めた。 やがて――ザビーネ卿が必死に徹夜で書いた全ての感状は破り捨てられてしまった。 努力の成果が無駄になった彼女は怒った様子などなく、瞳は熱を帯びたままである。 やがて、感状を破り捨て終えたプレティヒャ卿が朗々と述べた。 「私たちはアンハルト選帝侯家に仕えたのではありませぬ。アンハルト王家に仕えたのではありませぬ。貴女に肩を剣で叩かれて、貴女の騎士になったものと思ってございます。ここにいる私を含めた騎士ども皆は、何分頭の程度が低く、中には文字を読めず簡単な算術もできぬものすらおります。粗雑乱暴であります。田舎より出でたばかりにて、都の流儀を知らざる――山出しの者が殆んどでありますがゆえに。感状を主君の前にて破り捨てた不調法お許しあれ」 ザビーネ卿は楽しそうに笑っている。 何もかもが予想通りといったように。 ああ、そうだ。 「ですが、殿下とて不調法であります。私が失敗をしたから部下は見捨ててよいなどと。それは主君として騎士に対してあまりにも軽い御言葉ではないでしょうか。貴女が、ヴァリエール殿下が私を拾い上げてくださったというのに、その事実を無視して戦場から立ち去れなどと騎士に放ってよい言葉ではありませぬ」 こいつらは、ヴァリエール殿下という熱病にかかってしまったと。 ならば、それなりの待遇はしてやろうではないか。 そう同病相哀れむような、自分の身内を迎えるような目で見ているのだ。 プレティヒャ卿が――ついに誓いをつぶやいた。 「ヴァリエール殿下が、我が主君が死地にいるというならば、主君を助けに行くか。それが駄目なら一緒に死ぬというのが騎士の生き方であります。殿下が私どもに与えてくださった優しさが理由で死地にあるというなれば、私どもには関係ないなどとほざいて見捨てる騎士がどこにありましょうか。殿下が、もしどうしても今回の件に対して、気兼ねがあるというなれば」 致命的な誓いだった。 死ぬことを前提とした誓いだった。 「今回の死地にて活躍しました全ての貴女の兵に、今まで通り報酬の確約をしてください。誰もそれ以上を求めはしませぬ。そうですね、もし私どもが武運拙く息絶えてしまったのであれば――墓を作り、殿下に墓参りなど来ていただければ嬉しいです」 プレティヒャ卿の本心本音の誓いだった。 何一つ嘘紛れもない言葉である。 ヴァリエール殿下はそれを主君として受け止めた。 「理解した」 殿下が玉座から立ち上がった。 蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手の臆病者が叫んだ。 「全軍全兵に伝えよ。退陣許可を与える。このヴァリエールの軍勢から離れたいと思うものは、今すぐ離れてよい。貴卿らもそれを許可せよ。イングリット商会を代表する酒保商人、馬借などの全て、旅芸人なども含めて戦場から少し離れたところにいよと。我が軍が敗北した場合、速やかに逃げるように教えてやれ」 承りました、とプレティヒャ卿は答えた。 元よりそうするつもりであると言った風情である。 「なれど、もし勝利の暁には特別な報酬を与える。この死地にて特別な貢献を果たした者には、金であれ地位であれ特別な報酬を汝に与えようと。死にたがり全員に伝えなさい。そして、このヴァリエール・フォン・アンハルトがハッキリ言っていたことを伝えよ。この戦は勝つつもりであると。勝ちの公算はヴァリエールの戦略と、貴様らの貢献により見いだされると」 「――ヴァリエール殿下?」 プレティヒャ卿と、いくつかの騎士が驚いた顔を見せた。 私もそれと変わらぬ。 何を言ってるんだ。 「私には勝ちの目が見えていると言っている。それも交渉を勝ち取るための局地的なものではない。圧倒的にマインツ枢機卿を敗北せしめたと誰の目にもわかる勝利を掴み取る自信があるのだと」 馬鹿なことを! ここまで状況が悪ければ、勝ちなどヴィレンドルフの悪魔超人レッケンベルが、「背高のっぽ」の糸目がこの軍に居ない限りは不可能だ!! いや、いくらそれほどの超人がいても、戦略無しでは――。 このベルリヒンゲンという強盗騎士とて、明確な事前準備をこなしてこそが悪徳の本領であり、それなしでは何一つできない。 騎士を5,6人巻き添えにして討ち死にが精々だ。 「いいか、私は軍勢の一部を見捨てるのが嫌だっただけで自分も一緒に死んでやろうなどと考えたのではない。勝てるからだ! 無慈悲なまでに勝つことができると『信じている』からこそ、マインツ枢機卿が売ってきた喧嘩を買ってやったのだ。これは高く付くと思い知らせてやる!」 ヴァリエール殿下が高らかに手を打ち鳴らした。 「全員配置につけ。昼にはもう戦だ! それぞれの役目を全うせよ!!」 プレティヒャ卿が、騎士の全員が本陣から立ち去る。 主君であるヴァリエール殿下の姿をハッキリと眼に焼き付けた後に、それぞれが率いる兵の元へと駆け出した。 彼女たちが引かぬとあれば、その兵も引かぬであろう。 配下の配下は自分の配下ではないというが、騎士が主君に対し心服しているのであれば、その部下も当然のように従うのだ。 ああ、それでも、兵が敵に怯えて逃げ出すことはないとしても。 それでも、マインツ枢機卿6000の兵には。 騎士が全員本陣から出て行ったところを見計らって、歩み寄る。 もうどうしようもない状況であるが、何か言わずにはいられなかった。 ああ、でも、何もかもが今更で。 そうだ。 今更なのだ。 「ヴァリエール・フォン・アンハルト」 名を述べた。 彼女は、自らの騎士たちを心服せしめている。 恩で、情で、利益で、心の底から貴女のためなら死んでもよいと。 馬鹿な山出しの騎士どもに、死んでもよいという誓いを述べさせたのだ。 彼女は統治者として完全に間違っている。 だけど、騎士物語の主君としてなれば正しい存在であった。 学も教養もない山出しの枯れ葉どもを、拾い上げてくださって。 いざ戦場で死ぬとなれば、一緒に死んでくれて、それどころかお前だけは逃げてもよいと言ってくださる。 それに対して、騎士になった者どもが『貴女と一緒に戦場で死ぬ』と叫び返してしまうような。 もの知らぬ馬鹿者どもが思わず妄想してしまったような、立派な主君様だったのだ。 私はその名前を思わず口にしてしまって。 それだけで、次に何も言えなかった。 だから、殿下はそれをむしろ気遣ったように答えた。 「アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿」 私の名前が呼ばれた。 何を言うのだろうか。 このような事態の遠因の一つである、私を責める言葉でないことだけはわかっている。 「……ここで私に雇用されただけの貴女は逃げてもよい、と言ってあげれば格好いいのかもしれないけど。ごめんなさいね、貴重な戦力である貴女を逃がすことはできないし。やってもらいたいこともあるのよ」 逃げるものか! 責任はとるつもりである。 マインツ枢機卿に捕まったところで、どうせ拷問で殺されるのが落ちであろう。 なれば、戦場で死んだほうがマシであるのだ。 「本当に危険が多い役割をこなしてもらうこととなるわ。だから、多分本当に貴女は今回死んでしまうのかもしれない。ごめんなさいね」 どのような危険な任務でもよい。 どうせ勝てはしないだろうが、少なくとも勝ちの目がヴァリエール殿下に見えるというならば、そうして上げて差支えはない。 それだけの迷惑を貴女に与えている。 「だから、その――貴女に聞いておかねばならないことがあるわ」 「……何を」 ヴァリエール殿下が私に聞きたいこと。 私の財産の始末であろうか。 そのようなもの、死んだら別にくれてやってもよい。 領地も、城も、特注の義手も、鎧も、剣も兜も。 何もかも好きにすればよい。 だが。 眼前の少女がそのような欲惚けたことを口にしないのは、もう理解してしまっている。 「貴女が大切にしているもの。銀貨風情では取り戻せぬもの。アメリアという娘に与える数枚の銀貨のために失なわれた者の命について。悪名高き盗賊騎士の母であることがバレても墓を荒らされぬように、細心の注意を払った小さな墓について、その場所を」 言葉に詰まる。 答えを言いたくないのではない。 完全に理解してしまったのだ。 「貴女が、アメリアが死んだら、一緒に墓に埋めてあげる。多分、場所については安全なアンハルトに移してしまうことになるけど、それはごめんなさい。ああ、それだけじゃない。貴女は忘れろと言ったけど、貴女が本当に大切にしているものについて私は全く忘れることができなかった。ごめんなさい」 もう、何も言えない。 「もしもの時は。週に一度、貴女と貴女の母の弔いに墓へ出向く。私にはそれぐらいしかできないの」 それだけだった。 私が生涯を懸けて探してきたものは、ただあなたにとって「それぐらい」の事であったのだ。 母が選帝侯家の子女により、崇高なる名誉を以て弔われるのが保証されることで。 私が見栄えの良い立派な騎士様としてパレードを歩いて、先頭を歩く主君がために胸を張れるような。 馬鹿どもが思い描く、立派な主君様を具現化したような存在が貴女なのだ。 「ヴァリエール殿下」 私は膝を折った。 顔を地面に向けて頭を垂れ、騎士受任式のようにして構えは崩さぬ。 これから嘆願を行うのだ。 人生で今まで誰にも行ったことがない儀式を強請るのだ。 強盗騎士のゆすりたかりなどではなく、一人の騎士として許された行為を。 「この強盗騎士めが、今まで自分が膝を折るべき主君を延々と、この齢になるまで探し続けていた一人の女が誓願いたします」 ヴァリエール殿下は、このアメリアをついに心服せしめた。 もはや、命令があるまで顔を上げることはできなかった。 顔を上げろというまでは、殿下がどのような表情をしているか知ることはできないが。 きっと臆病者が、蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手で慌てているのであろう。 それでよい。 どこか愉快になるようでさえあった。 「貴女への臣従礼(オマージュ)を望みます。アンハルト選帝侯家の第二子女としての貴女ではない、ヴァリエール・フォン・アンハルト個人に対してとなります。領地も、城も、特注の義手も、鎧も、剣も兜も。この剣の何もかもを貴女に捧げますので、どうかわたしを貴女の騎士として迎え入れてくださらないでしょうか?」 この戦が勝てるなど有り得はしないだろうが、それでもよい。 私は人生の終わりにして、ようやく自分に対して、母に対して胸を張って威張れるような立派な主君様を見つけたのだ。 だから、あとは死に物狂いで戦って死ねばよかった。 すぐに消えてなくなってしまう、泡のような夢であるのはわかっている。 それでもよかった。 私は最期にして、ようやく生涯を懸けて探し求めたものを見つけたのであるから。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― 2巻の書籍化作業により10月の更新が遅れる予定です ご了承ください 一巻は物理・電子ともに好評発売中でありますので よろしくお願いいたします 第184話 子供のたわごと ヴァリエール殿下の御命令により、酒保商人や旅芸人といった非戦闘員は後方に退けられた。 ロバを二頭連れたこの私もその一人であり、なんとか丘までたどり着く。 とりあえずは安全地帯までたどり着いたと言ってよいだろうが、殿下の敗北となってしまえば我らも財産を全て強奪されて、飢えて死ぬだろう。 或いは、調子に乗ったマインツ枢機卿の騎士団に殺されてしまうか。 誰もが気も漫ろで、戦場の様子を窺おうとする中で。 ――ふと気づけば、横に一人の少女とケルン派の修道女が話し込んでいた。 「小高い丘と聞きましたが傾斜は緩やかで、ここから全軍が見渡せるというほどでもないですね」 「本当に明確な高地とあれば、先にマインツ枢機卿が陣取っておりましたでしょう。この辺りは平野であり、マインツ修道騎士団の騎兵が活躍するには適しております。兵力の優勢を活かすこともできるでしょう。あの枢機卿は残念ながら無能ではありません」 名こそ知らぬが、二人の事は知っている。 子供のほうは、確かアナスタシア殿下からの伝令使が連れてきていた従士である。 もう一人は騎士となったばかりの元傭兵団長たちに請われて文字などを教えている、ケルン派の写本家であった。 「一応、貴重な通信用の水晶玉を持ってきたんですが無意味ですね」 「まあ、そもそもヴァリエール殿下に敵地の奥まで見通せたことを伝えたとしても、どうしようもないでしょう。即座に戦闘隊形を切り替えられる教練を積んでいる軍でもありません」 どうも、馬借の私などよりも教養の高い二人であるようだ。 世間話でもするように、誰に隠すこともなく話し込んでいる。 「殿下の軍勢主力は傭兵団や黒騎士です。個人や小規模軍勢の戦闘となれば腕が立つものも沢山いるでしょうが、ここまで急に迫られた戦となれば、酷く原始的な形で――」 子供が自分の腰にぶら下げていた木剣で、地面に横棒を引く。 単純な斜線であった。 おそらくは陣形図を酷く単純化したものであり、その一本の左端をとんとんと棒でたたく。 「兵力を左翼に極限まで集中させました。ベルリヒンゲン卿が率いる騎兵隊、乗馬戦闘に覚えがある黒騎士連中、そして私を戦闘の邪魔だと置いていった立派な騎士様の伝令使一行ですね」 子供は頬を膨らませながら、地面を木剣で擦る。 「ヴァリエール殿下の軍勢が勝つ方法は単純です。ベルリヒンゲン卿率いる騎兵隊が側面を回り込んで、戦列を崩壊させることが出来れば勝機は見えます。上手く陣中のマインツ枢機卿を見つけ出したならば、そのまま討ち取ればよろしい」 至極単純な話です、と子供は言ってのけた。 ケルン派の写本家は眉を顰めた。 「そう簡単にはいかないでしょう。マインツ枢機卿は先ほど言ったように無能じゃない。戦場経験豊富な選帝侯なんですよ。此方側の手など容易に読むでしょうし、最低限こちらを見た瞬間に思惑を察するでしょう。軍人として教練を積み、演習を何度も繰り返している修道騎士団であれば、容易に陣形など変えられる。同じように戦力を集中させ、抜かせまいと抵抗してくるはずです」 写本家は子供から木剣を受け取り、同じように一本の線を引いた。 線の右端をとんとんと叩いて、対抗するようにして右翼に戦力が集中する旨を伝えた。 「敵を誉めたくはありませんが――マインツ枢機卿は奇策を好まず、同時に相手に奇策を試みる余裕も許しません。純粋に兵力の優勢による平押しを試みるでしょう。戦闘正面を継続させ、倍軍による分厚い戦列により、こちら側を平らに押しつぶします。こちらの包囲すら試みないでしょう」 どちらかといえば、ヴァリエール殿下の軍勢が側面から攻撃される可能性のほうが高い。 私ならば、戦列の背後に騎兵などで即応できる部隊を残しておいて、と地面に〇を書く。 「少しでも殿下の戦列が崩れたならば、その穴に突撃させるか。あるいは戦場が硬直化し、士気低下などにより戦列の身動きが取れなくなった瞬間に、兵力を集中してない右翼に突撃させて後方を取りますよ。それこそ、そのままヴァリエール殿下を討ち取らせるチャンスだってある。それだけ兵力差に余裕があるんですから」 至極単純な話ですよ。 こんなの軍学齧ってない私でも理解できるレベルの話です。 子供に対して妙に対抗心を剥き出しにしている写本家に対して、子供は微笑んだ。 「そうですよ。普通にやれば勝てる戦である以上は、マインツ枢機卿はそうするだろうとザビーネ卿も言っておりました。というか、この戦いマトモにやれば勝ちの目なんてないですよ」 兵数は少なく、装備で劣っており、教練も覚束ない連中。 要らないものと捨てられた落ち穂ども。 それが騎士団にマトモにぶつかり合って勝てるはずがない。 相手は常備軍の家系に産まれ、子供の時から常に鍛え続けており、それこそ本物の暴力を身に着けている連中なのだから。 弱者は強者に勝てないシステムに此の世はなっている。 子供が指を折り、一つ一つ負ける理由について呟いた後。 「まあでも、この程度の戦であれば確実に勝つでしょうよ。ヴァリエール殿下の勝利条件が揃い過ぎている」 本当につまらなそうに子供が吐き捨てた。 頭を捻る価値もないと言いたげで、つまらなそうに。 「……勝利条件?」 「勝利を確定させるための必須条件が揃い過ぎています」 軍学をちょっとだけ齧ったことがある者として教えましょうと、子供が言った。 高慢なようにも見えるが、この馬借にはどうも眼前の子供が愚劣には見えぬ。 むしろ、私のような貧民などよりも賢いだろうと思えた。 「一つは精神的な要素です。マインツ枢機卿の騎士団は、そもそもベルリヒンゲン卿の逮捕とケルン派への異端審問に来たのです。戦争をすることが目的ではありません。兵数は暴力の背景にするためにかき集めたものであり、小競り合い程度しか予想してなかった。自分が一方的に搾取する強者であると勘違いさえしていたのです。一部の古強者などは大丈夫です。もしくは本物の騎士なれば、いざ戦とあれば仕事として暴力を振るう覚悟をすぐに済ませられるものですが――」 さて、私の主のような本物の騎士など、相手方に何人いるものでしょうか。 モラール(士気)はありや? ガイスト(精神)はありや? エスプリ(名誉)はありや? なるほど、秩序ある完遂に至った規律ある隊伍を、無頼が打ち破ることなど決して出来はせぬ。 それが軍隊というものである。 合理の結実を求めて生み出された暴力である。 では、本当にマインツ枢機卿の騎士団は秩序ある完遂に至っているのか? 「逆に、ヴァリエール殿下の軍勢は、もう誰もが後先など考えていないでしょう。自分が振るう暴力に対しての報復など恐れていない。自分の命に係わる自己保存の本能さえもが、忘却の彼方の軍勢だ。ヴァリエール殿下がそう彼女たちを作り変えてしまった。肩を剣で叩くことで、手を握ることで、声をかけることで、最も原始的な主従契約を彼女たちと結んでしまった」 ヴァリエール殿下には何もかもから見捨てられた拗ね者に対する、カリスマ(神の恩寵)だけは誰よりもあった。 服従と承認を要求し、代わりに拗ね者の希望を叶えるという。 その権威だけは選帝侯の第二子女として、生まれた時から手にしていた。 「……彼女は、手を握った相手を絶対に見捨てられないと。誰からも見捨てられた拗ね者にすらわかる愛情を示してしまった」 だから、もういいのだと。 私を見てくれたヴァリエール殿下のためであるならば、もう死んでもよいと主従契約を果たすことが可能な本物の騎士は数え切れぬほどいるだろう。 そのように、子供は語った。 「だから勝てると?」 精神論だけでは勝てぬでしょうと。 写本家は、躊躇い気味にそう呟いた。 先日私を導いてくださった助祭様は、夢見ることを忘れてはいけないが、現実も忘れてはいけないと説いておられた。 おそらくはケルン派の総意であるのだろう。 「それだけでは戦争に勝てません。今話したのは、圧倒的戦力差であろうともヴァリエール殿下の戦線が崩壊しない理由です。自己保存の本能に抗い、恐怖に抵抗できる理由です。戦闘意欲の継続さえ叶えばどうにでもなる。ハッキリ言えば、戦線を長時間維持さえできれば、この戦は勝てます。軍勢の誰もが死に物狂いで抵抗を行えば、ヴァリエール殿下を一定時間守り切れれば勝てる理由があるんです」 これは圧倒的戦力差において、戦争をするための前提条件をヴァリエール殿下が満たしたことを誉めただけです。 まあ、そもそもケルン派の聖職者方が傭兵団のそこかしこに分散して、従軍神母として叫びながら最前線でマスケット銃を撃っているのです。 誰も恐怖に怯えることはないでしょうけどね。 ケルン派を誉めてるのか、逆に全く誉めてないのかよくわからない評価をした後に、子供は笑った。 「二つ目は、もっと単純ですよ。こちらの左翼に集中した戦力が、一方的にマインツ枢機卿の騎士団を打ち破ってしまうからです」 その恐怖は極めて広域に伝染し、マインツ枢機卿の騎士団は殺されていく戦友を見捨てて、戦列に加わることを拒むでしょう。 自己保存の本能に従って、戦が終わった後のヴァリエール殿下による慈悲にすがる判断をする。 誰もが呆気にとられて、やがて恐慌に代わり、手から武器が滑り落ちてしまうのだ。 何もかも確信に至ったようにして、子供が言い終えた。 訝しそうにして、写本家の修道女が呟いた。 「それは貴女の主が、伝令使殿がいるから?」 「もちろん、そうですよ」 他に何があるというのか。 それ以外に何が必要だというのか、と言いたげに。 えっへんと子供は胸を張った。 「……そうなることを、ここで心から祈っています」 写本家は両手を組んで、神に祈るように膝を丁寧に折った。 そのようなことするまでもないと言いたげに、子供は戦場の方向を見つめている。 私はというと、何もかもが子供のたわごとのように聞こえて。 それでいて、そうなってほしいと願わざるを得なかった。 第185話 暴力とは常に理不尽である 「やるしかない。それだけを考えていれば、自然にこちらへと勝ちの目が動くのだと」 互いの斜線陣が接触しつつある。 会戦が始まり、ヴァリエール殿下の軍勢3000と、マインツ修道騎士団6000が衝突しようとしているのだ。 目に見えて戦列の分厚さは異なり、最前列にて甲冑を身に纏う者の数さえもが段違いである。 このアメリアにも読めていたことであるが、マインツ枢機卿は同じ斜線陣を選んだ。 勝利への工程を明確化するにあたっては包囲を無理に試みず、一気にこちらを打ち崩す攻勢を選択せず、彼女は兵力にて純粋に圧倒する判断をした。 変に華麗に勝とうとして、こちらへの隙など与えたくないのだ。 もちろん、戦列に穴が開くなどの隙があれば突撃、または後方に回す予備戦力は保持しているだろうが。 「それゆえに勝ちの目があるのだと、ヴァリエール殿下は仰っていたが」 ヴァリエール殿下は高等教育こそ受けているが、悲しいかな戦場経験が浅い。 なんならば、将としての機知さえも乏しかった。 そこまで断言できる背景が存在しないのだ。 ザビーネ卿の判断か? いや、ザビーネ卿は戦略や戦術にも見識がある有能なれど、どうにも違う気がしている。 マルティナと名乗る子供が、軍議にて何度も殿下に耳打ちしていた。 まあ、さすがにあの子供が戦術を指南したわけではなかろう。 だから、おそらくは――従士に命令した騎士がおり。 「……」 それは眼前にて沈黙している、バケツ頭の奇妙な騎士であると推測する。 2mを超える大柄であり、プレートメイルの胸元中央には大きくケルン記章が刻まれている。 どういうわけだか、少しも口を開こうとせぬ。 なれど、ヴァリエール殿下の姉君である『人肉喰らいのアナスタシア』からの正式な伝令使である。 たとえデカマラス卿などとふざけた名前を名乗っていようが、このアメリアには一廉の人物に感じられる。 というよりも、先程から威圧感が凄いのだ。 私などはまだ良い。 馬に乗れるからと突撃隊に志願した黒騎士連中などは、馬を制御できないでいる。 平時なれば彼女たちとて乗りこなすことは出来たであろうが。 眼前のデカマラス卿が跨がる馬の発する異様な熱気に、彼女らの馬が呑み込まれてしまっているのだ。 怯懦ならばまだよい。 発狂したようにドンドンと地面を叩き、突撃を馬がせがむのだ。 馬とは臆病な生き物ではなかったのか? さっさと殺して終わらせようぜと突撃をせがむために、酒保商人や旅芸人から馬を借り得ただけの黒騎士などは、泣きそうな顔で必死に馬を制御しているのだ。 「完全にあの雄馬が群長になってしまっている」 何故か、馬の名は教えてくれなかった。 あのデカマラスとかいうふざけた偽名の騎士同様、本当の名を教えるつもりなどないのであろう。 見事な馬である。 普通のグレートホースの体高1.5mに対して、あの馬は2mを優に超えていた。 体重も1トンを超えているだろう。 脚は異様に太くて、騎士の重量を支えるために産まれたような腿をしているのだ。 全身に冬毛のようにぼうぼうに体毛が生えているが、それは老いているためではない。 人に養われるなど考えていないがための野生馬のようにして、人の矢を通さぬためだけに毛が生えたような体躯をしているのだ。 アレは本当に馬か? どこからあんなものを連れてきたのだ。 市井の馬市場で手に入れられないことだけは間違いなかった。 「……」 バケツ頭が、馬の耳に顔を近づけて何やら囁いている。 状況を理解したのであろう。 馬の威圧を抑えてくれるのだと、このアメリアなどは思うて安心した。 だが、逆であった。 そろそろ突撃だと合図したのか、私の馬を含めた全騎が突撃の気配に「かかり」始めた。 人に接触するなどして、自分が怪我することだけは戦馬とて恐れる。 だが、それすら今は考えていないのだろう。 手当たり次第に轢き殺すといった風情である。 完全に眼前の雄馬が放つ戦の気配に「かかって」しまっているのだ。 何やってんだ、この馬鹿めとバケツ頭を睨み付ける。 そんなこと気にも留めぬような装いで、バケツ頭は先頭を歩いていく。 その後ろには、6人の騎士がいた。 『勘当者』『サムライ』『ケルン騎士』『敗北者』『日陰者』『忠義者』などと名乗る極めて胡散臭い連中である。 「さっさと終わらせよう。そして報酬を貰うとしよう。マインツが如き相手など、乾坤一擲の勝負でもあるまい」 気負いもしない、6人の内の一人である誰かの呟きが聞き取れた。 全くヴァリエール殿下の勝利に対して疑いなど無いようである。 恐怖から出た自分を落ち着かせるための『ありがちな軽口』などではなく、心底からマインツ枢機卿を舐め腐っていた。 「……怯懦よりはマシだが」 怯えるよりはマシである。 馬とは違い、戦なれば人が怯えていては話にならぬ。 そう考えよう。 兵の練度が劣っている以上、士気で負けていては何も達成することができないのだ。 会戦が始まっている。 両軍の距離は近づいている。 ケルン派を信仰する傭兵団などが所持するマスケット銃は200m先まで届くが、それは弾が到達するだけである。 有効射程という意味では、甲冑を突き破り血肉を抉るためには、100mよりも近づかねばならぬ。 クロスボウよりも有効射程が短く、命中確率は低く、真っすぐに飛ばず、なれど旧型の甲冑なれば鋼ごと突き破れる。 今のマスケットというのは、たったそれだけの価値である。 最も良いところは、矢などよりも鉛玉は遥かに安いということだろうか。 ……火薬の調合成分がグステン帝国では産出しないため、製造方法を秘事としているケルン派を通さねば手に入らぬのも欠点か。 そのケルン派が銃を撃ち始めた。 有効射程圏に入ったからではなく、味方を励ますための景気づけであろう。 マインツ枢機卿に悔悟の機会を与えてやる、などと叫んでいる。 ケルン派は狂っていた。 「……そろそろ考えている暇もない」 この斜線陣は、もっとも強力に戦力を保有する左翼の騎兵隊から突撃が始まる。 弱点である右翼の衝突などは遅いが、まあ衝突しても幾分か持つだけである。 どれだけ士気が軒昂であれど、いずれ打ち負けるのはわかっている。 この戦争、勝つ方法はたった一つである。 我々が敵方の右翼を打ち破り、側面または後方から蹂躙するか。 あるいはマインツ枢機卿を討ち取るか。 だが、見よ眼前の敵方を。 戦力を集中した我々よりも、敵陣は分厚いではないか。 「このような今更の見識など、埒もない」 分かっていたことだ。 知っていたことだ。 我らは負けるだろう、それを承知でヴァリエール殿下という存在に惚れ込んでしまった。 士は己を知る者の為に死す。 おそらく勝てはせぬだろう。 我が遺骸はズタズタに切り刻まれて、吊るされるだろう。 それでもよい。 それでも、ヴァリエール殿下がもしお逃げになる判断をされた場合、その追撃を諦める程度にはマインツ枢機卿を追い込んで見せよう。 奴めの絹服の袖一つを破り取り、心身を病に追い込む恐怖を刻み込んでやる。 ああ、何もかもが埒もない。 「突撃準備を」 私がこの騎兵隊の指揮官である。 とにかくも、くれぐれも隊列の維持には気をつけねばならぬ。 士気高揚は、あのデカマラス卿とやらがやるからよいとは言っていたが。 誰もかれもに破れかぶれの突撃意気を高めるつもりとは思ってもみなかったが。 とにかく、もう衝突まで時間はない。 突撃準備を。 そう考えるが。 信じ難いものを見た。 「ベルリヒンゲン卿! 大砲です」 見ればわかる。 敵陣の戦列が避け、そこから8頭の馬に牽引された野砲が見えた。 野砲周囲の人間が耳を塞いで、嬉々とした顔でこちらを見ている。 6ポンドに近い大砲にて、我らの突撃の出鼻を挫こうというのだ。 「見ればわかるわ! マインツの奴めが、テメレール猪突公の真似事か!!」 騎馬砲兵。 大砲というものが流行りつつある帝国では、一つの発想として有り得た。 マインツとて財力に富んだ選帝侯の一人。 いざという時に状況をひっくり返すか、それとも勝利を確定させるための隠し種一つ程度持っていよう。 その一つが現れたにすぎぬ。 「突撃開始! 大砲で何人の騎兵が吹き飛ぼうが、その手指や血液が我らの体に付着しようが、一切気にするな! 汝ら覚悟あれば、死んだところで我らの邪魔にならぬように、自らその血液を我らの肌身から外せ。この程度で我らヴァリエール殿下の騎兵突撃が止められると思うてか!!」 散開すべきではない。 散開後に集中し、再突撃を行う技量など我らの騎兵隊にはない。 そのようなこと、よほどに訓練された修道騎士団でしか叶わぬのだ。 それこそ、眼前のマインツ修道騎士団のような。 ただひたすらに突撃しかない。 我らは戦う前から選択肢が奪われて、ここにいるのだ。 所詮はヴァリエール殿下に拾われた落ち穂どもであるのだ。 「私は、大砲にすら負けなかったのだ。例え貴様らの腕や足がもげようとも、私が代わりを買ってやる!!」 右腕を掲げる。 義手である。 大砲で無茶苦茶に砕けてしまった右腕であった。 誰かが笑った。 皆が笑った。 敵は侮蔑に満ちた顔で笑い、味方はそれぐらいならまあなんとかと。 そうして笑うのだ。 笑うといいさ、どうせこれが最後ならば、存分に私を笑うがいい。 なれど、忘れるな。 領地も、城も、特注の義手も、鎧も、剣も兜も。 このアメリア・フォン・ベルリヒンゲンを構成する全ては、すでにヴァリエール殿下に捧げたものなのだ。 味方ならば良いが、私を侮辱した敵は全てこの義手にて殴り飛ばしてやるわ。 「マインツ枢機卿に呪いあれ、ヴァリエール殿下に栄光あれ!!」 我々、ヴァリエール殿下に拾われた落ち穂の覚悟など、最初から決まっているのだ。 誰一人として散開しようとはしなかった。 火薬の凄まじい煙と轟音とともに、我ら目掛けて6ポンドの砲弾が発射される。 目はそらさぬ。 私の命令を聞き、全ての騎兵が集中して、秩序ある完遂たる突撃を行おうとしている。 砲弾が。 我らの先頭であるデカマラス卿も、ふざけた名前なれど何一つ恐れずに。 全身が砕けてもよろしいと言わんばかりに、先陣を切っている騎兵を見た。 「機なり」 何が? そんな疑問符を浮かべそうになるほど、不思議な声色を聞いた。 戦場にふさわしくない、男の声であった。 はて、先頭にいるデカマラス卿のグレートヘルムから発された声であったような? そんな疑問符を幾つも思い浮かべると同時に、破裂音がしたのだ。 強烈な破裂音だった。 鋼が何かを激しく殴りつけ、鉛のような重たいものがぐちゃぐちゃに破裂した音である。 産まれて初めて聞く、その無茶苦茶な音が何ゆえにそうであるのかと問われれば。 このアメリア・フォン・ベルリヒンゲンははっきりと目にしたがゆえに。 「このようなくだらぬ玉遊びを。レッケンベル卿の一撃の方が遥かに重いわ」 先頭のデカマラス卿が、砲弾をぐちゃぐちゃにしてしまったのだ。 その両手にて握りしめた戦棍が、真丸の砲弾を何の用も為さぬ物体に変えてしまったのだ。 誰も言葉を発せぬ。 目の前の不思議に対する驚愕ではない。 一つの理解が、味方も敵も、同時に及んだのだ。 ああ、ぐちゃぐちゃになってしまうのだ。 両手持ちの戦棍だった。 デカマラス卿が所持しているのは、一つの巨大な戦棍であるのだ。 『聖ゲオルギオスの聖なる戦棍』などとケルン派が呼んでいる、明らかに過去の遺物ではない、なれどケルン派にとっては聖遺物である。 最新のデザインに、ありとあらゆる魔術刻印による強化付与を重ねに重ねて、とても人が馬上にて操れるとは思えない代物。 鍛錬に鍛錬を重ねた人物ならば、あるいは支え掲げるだけならできるやもしれぬもの。 あれで殴られれば、6ポンドの砲弾であろうが、甲冑で身を固めていようが、どれほどの鍛錬を積んだ騎士であろうが、ぐちゃぐちゃになってしまうのだ。 戦場にいて、眼前にて、その不思議を目撃した全ての者が認識した。 「死ぬがよい、マインツ枢機卿」 ヴァリエール殿下と同じ宣告を、先頭の騎士が行った。 我々は突撃しようとしている。 なれど、もう、それを止める者はない。 何せ、大砲を撃った後にその穴を塞ぐはずの槍兵どもは。 ぽかんと口を開けているか、機転の利くものなどは槍を投げ捨てて逃げ出し始めたのだから。 第186話 スタンピード(蹂躙) 好ましいことでも恐ろしいことでも。 予見されていないことほど、より大きな喜びや恐れを引き起こすものである。 戦争ほど、これがよくわかる場所はない。 奇襲を受けたなら、遥かに優勢なものであっても恐慌に陥る。 誰が言ったかも覚えていないギリシア人哲学者の言葉を思い出している。 なるほど、道理である。 我らの奇襲は成功し、眼前の敵陣は恐慌に陥っている。 このファウスト・フォン・ポリドロに戦略や戦術への学はない。 なれど、戦場の機微なれば多少は心得ている。 人間の恐怖には一定の許容量が存在するのだ。 それが屋根を突き破った際に人は無抵抗になり、ひたすらに逃げ惑い、命乞いをする。 それが私の経験則である。 私はマルティナに一つだけ問うた。 もし戦場において、恐怖の伝染により軍全体の恐怖が許容量を上回った場合に何が発生するのかと。 マルティナは答えた。 それは一つだけだと。 戦陣の崩壊による、一方的な虐殺であると。 「……」 言葉は発さずに、馬上のままにて逃げ遅れた敵兵の槍を片手で掴み取る。 馬上であれども、投げ槍などわけもない。 手首のひねりで手槍を奪い取って、そのまま呆然としている敵兵へと投げつけた。 肉と内臓を断ち切る音とともに、槍は腹を突き抜けて地面に突き刺さる。 槍の反動にて人が持ち上げられ、串刺しになって持ち上がる。 絶叫が発生した。 恐怖をまた一つ巻き起こした。 「……」 私は憤激こそしていても、頭の中はまだ冷静なつもりでいるのだ。 必死に考えている。 とにかくも、恐怖を伝染させて恐慌を発生させる必要がある。 この戦場にて勝利するためには、恐怖こそが鍵であるのではと考えている。 なれど、詮無いことを考えているとも思う。 私はもう役目を済ませており、ここからは一人の騎士としてあればよい。 戦術はマルティナに、騎兵隊の総指揮はベルリヒンゲン卿に任せているのだから。 騎馬突撃は問題なく遂行され、ぽっかりと開いた敵戦列への中入りは済ませている。 敵方は、一つの失敗をしたな。 騎馬突撃の出鼻を挫くべくして砲兵による砲撃を行うはよいが、砲弾が眼前にて打ち砕かれる可能性をちゃんと考慮していない。 そうなった場合は最前列が怯えて逃げ出すなどの危険予知をして、対策することを怠った。 これはマインツ枢機卿の戦術に手抜かりがあったことに他ならず、彼女は指揮官として責められるべきであった。 全てはその怠慢が結果として現れたにすぎない。 「突撃を続けるぞ! 足を緩めるな!!」 視線を少し周囲へとやる。 ベルリヒンゲン卿は練度も馬術もバラバラな騎兵隊を、見事にまとめ上げている。 そのようなことは強盗騎士として何度も経験済みであり、お手の物といったところである。 私などよりも、よほど指揮官適性があるように思えた。 全てを任せておいて問題はあるまい。 「テメレール様の名を、我ら『狂える猪の騎士団』の名も、ついでに知らしめておくことにしようか!」 「忠義者」による伝達が伝わった。 今回の『狂える猪の騎士団』6名の武器は、テメレール公が用意した斧槍である。 我らに対抗できる超人などこの戦場には期待できず、使い慣れた武器よりも雑兵を殺すための手段が肝要であるとのことだ。 私に不満はない。 どうせ腕に覚えがある超人が現れたところで、私が殺せば全ては片付くのだ。 左手にて聖棍を握りしめつつ、右掌でフリューゲル号の背を叩いた。 私が愛馬に告げた意図は、ベルリヒンゲン卿の叫びと同じである。 「まずは後ろまで突き破るのみを考えよ!」 如何に敵戦列の前線から戦意が失われていようと、我らが慈悲を与えてやる理由などない。 血飛沫を舞い散らせる。 マインツ修道騎士団の血飛沫であった。 『狂える猪の騎士団』が力任せに斧槍を振るい、首や腕など上半身の部位を甲冑ごと刎ね飛ばしているのだ。 大猪の突撃を受ければ、人は四肢がもぎれて死ぬのだ。 魔術刻印の施されていない厚さ2mmに足りるか足らぬかのスプリング鋼甲冑など、超人の暴力の前では何の意味も為さぬ。 たった数センチ切り込めば人は死ぬのだ。 超人がそこまで切り込めば、後は手首を捻るだけで肉や骨など引き千切ることが出来た。 極めて効率的に、人体を破壊して血肉をばら撒くのだ。 「……」 万軍と万軍が衝突する戦場であれば、超人とて個では容易く死ぬ。 それは事実であるが、超人数名で隊伍を組み、ただひたすらに前進するだけであれば問題はない。 騎兵の突撃中なれば、後方の心配など無用であるからだ。 人口数が明確に少なく、また超人の膂力に耐えうる武器がない古代では成立しなかった兵科であるが――なるほど、超人騎士団というテメレール公のアイデアは何一つ悪くなかった。 彼女が唯一悪かったのは運であり、レッケンベル卿という稀代の化け物に遭遇したことである。 よくレッケンベル卿に5回も本気で殴られて生きてるよな、あの人。 「さすが私の主君よ。この時代に禍々しく輝く、血妖精ヴァリエール殿下よ。あそこまでの騎士達を従えているとはな。ヴァリエール殿下からの臣従礼を勝ち取った私の名誉も上がるというものだ」 我らの後に、封建領主たちがそれぞれ従騎兵を引き連れて続いている。 その陪臣騎士は領主の判断を心の底から褒め称えながらも、馬上より兵士を刺し殺している。 敵は戦意など喪失しているから、殺し放題であった。 話には聞いていたが、ポリドロ領よりも領地も大きければ城も所有しており、帝都までの交通要所さえ押さえている封建領主が十数名参陣している。 何故揃いも揃って騎馬突撃に参加しているのだろうか。 本人たちにマルティナが避難するか尋ねたところ「娘がいるので私が死んだところで問題はない。むしろ、この歴史的戦に参陣できぬとあっては末代までの恥である。個人的にであるからこそ、一度殿下を主君として仰いだ騎士契約を守らぬわけにもいかぬ」と言いのけていたが。 なるほど、封建領主である。 負け戦上等で、誰もが騎兵突撃に手を挙げた。 まあ、これは完全な勝ち戦になることが約束されているので、何の問題もないだろう。 「末代まで書き残すとしよう。あの先陣を切っているバケツ頭の騎士殿にはさすがに敵わぬが、確か私の記憶によればヴァリエール・フォン・アンハルト殿下は『貴卿こそ我が軍で二番目の騎士であった。なれば万夫不当の英傑も同然よ!』と褒め称えたに違いないと我が末裔の誰もが栄誉を口にするのだ!!」 封建領主の一人は積極的に自分の名誉改竄を行い始めているが、まあ騎兵が齢30を前にして死ぬなど当たり前であると騎馬突撃に参加してくれたのだ。 名誉ある騎士たる彼女の茶目っ気を批難する必要など、欠片もなかった。 マインツ枢機卿の兵が一方的に殺されていく。 彼女の斜線陣の右翼戦列が崩壊を始めている。 「ヴァリエール殿下に栄光あれ、我ら落ち穂どもに名誉を与えて下さった、その手を放すなど許されることではない。怯えるな! 一寸多く切り殺せば、敵の反撃などない!!」 最後列に続くは、馬借や旅芸人から馬を借り入れただけの黒騎士や、アンハルト法衣騎士による三女四女の騎兵であった。 最初は馬の扱いも怪しいものだと思ったが、なんとかフリューゲル号による統率が利いている。 暴力には慣れ親しんでいるのだから、一度吹っ切りさえすれば戦場にて活躍することができた。 すでに騎士叙任式を受けている黒騎士などが横におり、ひょっとして自分もこの騎兵突撃で戦果さえ挙げれば騎士叙任が叶うのでは? そう脳裏に思い浮かんでしまえば、もう恐怖への躊躇いなど掻き消えたであろう。 逆に戦意が高すぎて逃げようとする敵を追いかけんとするので、ベルリヒンゲン卿が必死に叱咤をして止めていた。 「……さて、残念というべきか、良かったというべきか」 マインツ枢機卿が戦力を集中した右翼に、名の知れた超人はいないようであった。 いても、こちらに立ち向かったのであれば、多分もう殺してしまったことだろう。 詮無しとは思うが、色々と考えながらに戦列の兵を殺している。 もう30も殺したであろうか? 騎兵隊全員を合わせるならば、100ほどを殺しているはずであろう。 もはや、我々の前に敵などいなかった。 何もかもを殺して、敵の戦列を貫いたのだ。 敵は指揮統率を回復することができず、四方八方に逃散を開始している。 あるいは逆に密集して、そこから一切動こうとせぬ。 恐怖に身を縮こませたのだ。 「よろしい、よくやった。このまましばらく走り抜けよ!」 ベルリヒンゲン卿の叫び声が聞こえる。 とにかく、当初の目標はクリアしている。 まずは最初の突撃を完遂することが私の務めであり、後などはベルリヒンゲン卿に任せれば上手くやるであろうと。 マルティナはそう言っていた。 なれば、まあ、そろそろ本気を出すことにしよう。 邪念を捨て去り、一騎士としての暴力性を剥き出しにしてもよかった。 「一度休憩せよ。息を大きく吐き、馬を休ませて、怪我あれば報告せよ。戦傷による脱落は恥ではないとヴァリエール殿下は仰せである。なれど、まあ、この戦で名誉を勝ち取りたいものが退陣を申し出るとは思わぬのだがな。休憩が済んだら反転をして、敵の背後へと襲い掛かるぞ」 ベルリヒンゲン卿が相次ぐ絶叫指示に喉を乾かせたようで、からからとした笑い声が上がっている。 彼女は水を一口だけ含み、口全体を湿らせるために舌を回しているせいか、頬などが浮き上がっている。 そうして、私の少し後ろで、本当に楽しそうに笑った。 「なんだ、やっぱり超暴力はあったんじゃないか。そりゃ私が探し続けていた立派な主君様もいたんだ。超暴力だってあるさ」 ただ一つ。 彼女が意味深に発した言葉の意味だけは、よくわからなかったが。 まあ、私にはどうでもよいことだった。 第187話 マインツ選帝侯の愚痴 「こりゃ駄目だな」 何処か他人事のように呟いてしまった。 俯瞰的視点から戦場を眺められるわけではないが、まあ副官のように戦場図を広げて駒を動かすまでもない。 ベルリヒンゲンの率いる騎兵隊が、こちらの戦列を何度もぶち破っているのだ。 水晶玉からの連絡を聞けば、まあ騎馬大砲の砲弾が粉砕されただの、 穴埋めに入った騎兵隊は脆くも惨殺され、戦列は無茶苦茶にされているだの。 指揮官が殺されてしまったなどと叫び声が聞こえている。 逃散兵すらもが目に映った。 情報の真偽など精査する必要はない。 真であれば勝てないし、嘘であれば現場は混乱の極みに達している。 右翼の士気(モラール)は崩壊し、統率は乱れ恐慌が発生している。 こりゃあまあ、どんな素人でもわかる。 もう駄目だろうな。 誰がどう見ても敗北確定である。 戦が始まって一時間も経っていないのに、この有様ときた。 士気の差を埋めるため、まずは突撃を鼻挫こうと騎馬大砲さえ運用したのに、何も通じないときたのだ。 「マインツ枢機卿猊下、そのように他人事のように仰っても状況は変わりませんぞ」 「わかっている。まあ、落ち着きなさい」 横で副官が喚くが、まあ今更どうにもならない。 何処で間違えたのだろうなあと分析を開始する。 わかっている。 ユリア教皇にそそのかされたのが良くないのだ。 私に失点があるとすれば、そこから始まっている。 いくら私の名誉が領地の尊厳に直結するとはいえ、まあ教皇の言いなりになるなど判断がどうにも悪かった。 ベルリヒンゲンへの怒りに惑わされることなく、教皇の甘言など無視するべきだったのだ。 本当に何があろうと勝てる甘い勝負であるならば、あの暴力教皇であれば自らが戦場に出向くだろうと見抜くべきだった。 賽子にイカサマが仕込まれている可能性を見切って、ユリア教皇は別な人間に戦場へ向かわせることとした。 それが三聖職諸侯の一人たる間抜けな私であり、現在こうなっているのだ。 泥を呑むどころか、頭を地面に叩きつけられて土を舐めさせられている。 私は負けていることに驚きはなく、ただ現状を受け止めている。 「賽は投げられた後だ。相手の賽子にどのようなイカサマが仕掛けられていたのか、もはやわかるまいな」 死んだところで、このマインツは天国になど行けぬだろう。 なれば、天界から見下ろして原因を追究することもできぬ。 はて、私がプロパガンダだと今の今まで信じていたレッケンベルのような悪魔超人が真実存在するのか。 しかも何故か選帝侯家とはいえど、アンハルトにとっては長女のスペアに過ぎぬヴァリエールの軍勢にこっそりと加わっていたと。 それぐらい酷いイカサマしか、私が負ける理由などないのだがね。 どうも信じられぬが。 「左翼はどうだ。明るい材料は見つかるかね」 右翼はもう無茶苦茶にされていて駄目だ。 勝ち目など欠片もない。 だが、騎兵隊のおらぬ左翼側から貫けばヴァリエールの首に届くかもしれん。 主君さえ討てば、あの軍勢の士気など脆くも崩れ去るだろう。 敵の軍勢の士気は国家でもなんでもなく、ヴァリエール・フォン・アンハルト個人により保たれているのだ。 それは判っているのだが。 「崩れませんね。敵陣の戦列など、こちらの三分の一なのですが」 「ヴァリエールはそこに?」 「戦列後方にて指揮を執る姿を確認しております」 嗚呼、駄目だな。 せめて、主君がそこにおらねば勝ち目はあったかもしれん。 左翼から崩壊させた威勢により士気を上げ、徐々に押し潰すこともできたが。 「敵は薄い戦列であることから、迂回を試みたり、何度も突撃で切り崩そうとはしているのですが」 「駄目だろうな。戦列は薄くても、銃火が厚すぎる」 敵の陣容や装備は、最初の交渉で差し向けた紋章官が把握している。 ヴァリエールの親衛隊は着ている服など中古のギャンベゾンもどきであるが、兵士全員がマスケット銃を所持していると聞いている。 「少数による突撃では、この平野でマスケット銃兵100による銃火から身を守ることなどできぬ」 逆に言えば、数に頼めばどうとでもなるのだが。 士気が最高潮に高まり、まして自分の主君が後ろにいると知っているのだ。 直下の親衛隊と混じり、覚悟と名誉さえ同一のものと自分を認識して死に物狂いで戦っているのだ。 もはやあの傭兵団のクズどもは、下手な正規兵などよりも必死になって主君を守らんとしているのだ。 左翼の戦列は絶対に崩すことができぬ。 少なくとも、ベルリヒンゲンが引き連れる騎兵隊が私を殺す方が先になるだろう。 中央もダメで、そこもケルン派の聖職者が逆に突撃してきて暴れまわるなどしている。 戦傷者が出るたびに士気が上がっているほどの有様だ。 これは詰んだな。 「降参されますか?」 「どのように負けるべきかと考えている」 見切りが早いと言われそうであるが、勝てないとあれば負け方が重要である。 死が目前となれば、心が落ち着いてしまった。 もはやベルリヒンゲンへの怒りすら消失しており、どうにかして自軍の損害を抑えることだけを考えている。 敗北が決まった指揮官が最後に為すべきことなど、出来る限り多くの兵士を無事に故郷に帰してやることぐらいでやる。 まして私はマインツ選帝侯領の領主であるのだから、彼女達兵士の命は私の財産同様である。 さて、考えよう。 どう敗北すべきか? 「副官、このマインツ枢機卿の降参が認められると思うかね?」 「さて、難しいですな」 戦争においては常に講和を目標とすべきである。 勝利条件を達成したならば、それ以上の争いなどリソースを食い荒らすだけで全く以て無意味であるからだ。 これはありとあらゆる将兵が把握しておくべき常識である。 ヴァリエールとて、選帝侯家としての教育を受けているのだから理解していよう。 彼女はこちらの殲滅を目的としておらず、領地の支配権を争っているわけでもない。 自分と自分の部下を守るために、死に物狂いで抵抗しているだけである。 降伏したいとこちらが申し出れば、普通はそれで終わりだ。 なれど。 「私は異端審問官であり、枢機卿としてヴァリエールやその配下を背教者だと罵った。異端の王として死ねと宣告してしまった」 戦端を開いた原因が普通ではないから、ヴァリエールがここで手を引くと思えぬ。 己の舌禍を恨む。 私は本気でそのような事をまったく考えておらず、あんなもの舌戦にすぎぬのだが。 ヴァリエールの軍勢は一兵士に至るまでが、必ずやこのマインツを磔にしてやると考えているだろう。 どちらかの主君が死ぬまで継続する戦争だと思い込んでいるのだ。 戦いにいたるまでの流れが何もかも良くなかったと、臍を噛む。 正直、正統とか異端とかは死ぬほどどうでもよかった。 このマインツにとっては、信仰など金になるかならないかに過ぎぬ。 あるいは道徳とか、名誉とか、人心を制御するための道具であるのだ。 枢機卿の立場として、このような本音を吐いては不味いのだろうが、もうどうでもよいことだ。 歴史書には無能として名が刻まれて、私は死ぬだろう。 「最低限、このマインツの首は差し出すのはかまわん。それは良いが」 死にたくはないが、まあどうにもならん状況だと死ぬくらいは選帝侯として覚悟して生きている。 だが、それだけで済む状況下でもないだろうな。 甘く見積もっても、私が死んで解決する状況ではない。 首はもちろんもらうが、もっと何か寄越せと酷く乱暴に言われる。 「さて、我が副官よ。私が進むべき道を示してほしい。降参するのはよいが、交渉方法はどうするかね? 交渉条件は何とすべきか?」 「残念ながら、戦が始まる前に交渉役の紋章官はこちらに帰ってしまっております。本来ならば仲介役として、何処かの封建領主や聖職者などを事前に呼んでおくべきだったでしょうが。まあ、残念ながらマインツ様は選帝侯にして枢機卿であり、ヴァリエールも選帝侯家の子女でありますゆえ、その仲介が出来る立場などユリア教皇かマキシーン皇帝ぐらいしかおりませんから」 聞くまでもないが、まあ交渉してくれる仲介者がいなかった。 もはや勝負は明らかであるから、ここまでとしようと裁定してくれる権力者などいないのだ。 あの暴力教皇も、無気力皇帝も、私が死んだところでどうでもいいやぐらいしか考えておらぬ。 このマインツに異端審問を命じたことなど、アンハルト選帝侯家から苦情があったところで『マインツ枢機卿が勝手にやりました』ぐらいの一言で済ませる気なのだ。 そのような無茶苦茶な言い分で済ませるつもりなのだ。 平時なれば、そのようなことにはならぬ。 皇帝や教皇とて絶対権力者というわけではない。 だが、この戦場で多数の兵士を失い、敗北の不名誉を受けた後のマインツ選帝侯家に反論する力はない。 むしろ、よってたかって貪られることのないように領地防衛に全力を注がねばならぬ。 万人の万人に対する闘争状態というものは、本当に敗北者を悲惨にさせるものだ。 昔から常々考えていたのだ。 何故、人々はここまでお互いの私財を奪い合うのだろうか? 何故、互いの命を平気で軽んじて殺めることができるのだろうか? ベルリヒンゲンが私にやった行為など、あまりにも酷すぎるからと『マインツのラント平和令』などを帝国議会に出したが、あれも敗北者の戯言として忘れ去られるだろうなあ。 ルールを決める者が弱ければ、誰も従ってなどくれぬ。 「なぜ人は争うのだろうかと考えてしまうよ」 「マインツ様、お気を確かに」 確かに私は勝利すればヴァリエールの小娘を殺したし、ケルン派聖職者は皆殺しにするし、引き連れた商人などは虐殺して全財産を奪い取るつもりであった。 ベルリヒンゲンなどには拷問に拷問を加えて、自害さえも許さぬつもりであった。 だから、まあ私が殺されるのは仕方ない。 私が引き連れてきた兵士たちとて、弱者を虐め殺して金を奪い取って贅沢をしようと考えていたのだ。 そりゃぶち殺されても仕方ない。 何もかもが仕方ない。 でも、何もかもが足りないから、そうしなきゃ誰もが楽しく生きていくこともできないのだ。 弱者を迫害して、なんとか利益をあげねばならぬ。 「こんな時代に産まれたくなどなかった」 人生で一度だけ考えたことである。 娘を産んだ時に、あまりにも世界は暗いと気づいてしまった。 この子はきっと生まれる時代を間違えた。 もっと明るい時代に産んでやりたかったと、心の底から思ったのだ。 どうしようもないそれに気づいてしまった。 私が娘に今の今まで自分が母だと名乗らなかったのも、選帝侯家として見える醜い全てから守るためであったが。 はて、親の愛情としてそれが本当に正しかったのか、今となってはわからぬ。 「愚痴は終わりだ。さて、降伏したくても交渉役などおらんし、いたとしても呼ぶ時間がない。このままでは戦陣が崩壊して、我らが一方的に虐殺される方が早いだろう。降伏しても、それは変わらぬかもしれぬ」 「では、どうされますか?」 「全軍に撤退を命じる。逃散兵にも咎を与えぬよう伝達せよ。なんとか一人でも多く領地まで帰れるように最大限試みるのだ。撤退できるとあれば、ある程度は規律も保たれるだろう。その指揮はお前に任せた。殿は私が努め、騎兵を率いて時間を稼ぐ」 私が一人突撃して、さっさとくたばって終わるならそうしたいが。 そのようなことをしても、自軍がより一層混乱して敗北後の条件が悪くなるだけである。 私は死ぬだろう。 だが、死んだ後のことを考えねばならぬ。 マインツ選帝侯領を継ぐことになる娘にとって、出来る限りの不利益を減らさねばならぬ。 「とんだ貧乏籤を引いたな」 これで愚痴は本当に終わりだ。 せめて、良い終わり方をしよう。 後継者である娘を先んじて逃がした判断だけは、領地のためにも私のためにも良かった。 このマインツがこの戦争で褒められるところなど、それくらいだ。 後は死ぬだけだった。 第188話 マインツ枢機卿の結末 人が死んでいる。 ただひたすらに、人が死んでいるのだ。 我が軍の歩兵どもが、一方的に殺戮され続けている。 「勇気ある我が兵どもに告ぐ! 己らの指揮官であり、選帝侯たるマインツ自らが撤退を許可する、領地まで逃げ延びよ!!」 おそらくは、故郷にたどり着けぬであろう兵どもに叫ぶ。 地獄から抜け出す一本の糸を伸ばされて、歓喜の表情を見せた兵の顔が一瞬でぐちゃぐちゃになった。 ヘルムやコイフに全く防御的効果などなく、ただ単純なる膂力をもって振るわれた暴力に一方的に処理されたのだ。 敵方のバケツ頭が乱雑に振り回した戦棍に僅かに引っかかれば、ただ破裂するという現象だけが残る。 惨いな。 ああ、あまりにも惨い。 いくら示威行為とて、限度というものがあろうが。 もう勝敗は明らかであろうに。 誰も手向かいなどする気はなく、ただひたすらに逃げ惑うているのが今の我が配下である。 これでは、まるで畜生に対する屠殺以下の扱いではないか。 嗚呼、だが。 味方の損失を少しでも減らしたいならば、殺せるときにできるだけ多くの敵を殺すのが正しい。 この状況の責任は指揮官である、このマインツに全てが帰結するのだ。 「……」 私の名乗りを耳にしたのか、バケツ頭の騎士がこちらを向いた。 強烈な視線を感じる。 何一つ物事など考えていないような、ただひたすらに眼前の敵を殺戮して回ること以外を忘却してしまったような。 そんな物狂いの殺意だった。 そのバケツ頭はこちらをじっと見つめているが、何か言葉を発する様子はない。 本物の騎士なれば、何かを達成するにあたって何か言葉を吐く必要などない。 ただ眼前の敵を縊り殺せば事は片付くのだ。 騎士教練的な教えが脳裏をよぎる。 今すぐにでも走り出して、此方の頭を破裂させそうにも見えた。 「嗚呼」 いよいよもって、この身は終わりであろうと考える。 眼前の騎士は化け物であった。 その存在が如何に異常かは威圧感で理解でき、それがわからずとも状況を一見すればどのような阿呆でもわかる。 そこら中に体の上半身を『破裂』させた兵士が転がっており、それを為したのは騎士が両手で握る巨大な戦棍であることは明らかだ。 騎士は2mを超える体躯にて、これまた2m以上の体高である悍馬に跨って。 その姿は時代遅れのグレートヘルムなどを身に着けていて容姿は窺えず、全身を覆うプレートメイルには忌まわしい紋章が刻まれている。 『奇形な』十字架。 此処が我が心臓である、狙え、と言わんばかりに大きく胸元に刻まれたケルン派の紋章。 誰か、本当に誰か我が軍にも勇気あるものがいたのか。 クロス・アンド・サークルの紋章が輝くのを妨げるように、血でできた掌の跡がべたりとそこに付いていた。 あの跡をつけたものが自分の意志で行ったとあらば、それだけで騎士受勲ものの誉れである。 同時に、我が軍の兵が決して弱卒でないことの証明とも言えた。 もう、その兵も今は死んでしまったのであろうが。 「我が騎兵に告ぐ。できるだけ兵を逃がすように心がけよ。一兵でも多くを逃がすことが、マインツ修道騎士団の名を汚さぬことに値すると思え」 「承知しました。枢機卿猊下は?」 「わかっているだろう? 同じ騎士ならば、私がやりたいことぐらいは」 どうせ、死ぬのだ。 枢機卿という聖職者としての名誉も、選帝侯という三聖職諸侯としての地位も、何もかもがぐちゃぐちゃになって。 異端審問を仕掛けながら、その異端に殺された間抜けとして死ぬのだろう。 もはやこの身の破滅は免れぬ。 なれば、一人の領主騎士として最後の名誉ぐらいは保ちたいではないか。 まあ。 相手が受けてくれるかはわからんがね。 「ご武運を」 騎兵隊長が声をかけた。 私は顎を少し動かすだけで、答えた。 馬の腹を蹴りて、あのバケツ頭の騎士まで馬を駆りて近づく。 突撃するのではない。 この見事な装束の甲冑姿なれば、一目で手柄首だとわかるだろう。 雑多な敵兵が戦功目当てに近づいてくるのを見て、息を胸いっぱいに吸った。 吐き出すのは我が名である。 「おのれらの怨敵、マインツがここにおるぞ! 枢機卿にして、選帝侯であり、一人の領主にして騎士であるマインツがおのれらの目の前に現れてやったぞ!!」 二つ、目的がある。 枢機卿の名誉や、選帝侯としての地位も、もうどうでもよかった。 なれど、マインツ領の領主として民は逃さなければならぬ。 できるだけ多くの目を引き付け、敵兵が私の首を誇らしげに掲げている間に兵を逃がさねばならぬ。 要するに時間稼ぎをする必要があった。 もう一つは。 「兵士ども、どけ! 私はそこの本物の騎士に用がある!!」 馬を歩かせながら。 これまでの人生で数度あった機会、それすら及ばないほどに自己保存の本能が抗うのを理性で抑えながら、ただひたすらに死の道を歩いていく。 声を張り上げず、ただ歩く。 敵兵の誰もが睨んでいるが、同時に困惑していた。 敵の指揮官が従士すら連れず、撤退を命じた挙句に一人で突き進んでいるのだ。 私だけでなく、味方すらもが化物だと認識している騎士に対して近寄っていく。 まるで処刑台に歩いていく罪人を眺める表情で見つめているのだ。 「絶景かな、絶景かな」 誰もがこのマインツを親の仇のように睨んでいる。 私がやったことを考えれば、当然のことである。 貴様ら、異端とされて悔しかろう。 力ある者が正統を名乗り、力なきものを異端と呼んで蔑む。 弱きものは財貨を当然のごとく奪われて、腹を蹴とばされる。 金がなければ愉悦の為に虐められ、酷い時には命さえもが奪われる。 自分が心底大切にしているものなど、まるで石ころを大事にしている阿呆のように侮辱されて笑いものにされる。 そのような悪行をおのれらに為そうとしたのが、このマインツ枢機卿だぞ。 睨むとよい。 おのれらにはそれだけの権利がある。 それでもやっていかねばならぬと。 犬に噛まれたと思って忘れなければ、歯を食いしばって生きていかねばならぬときがあると。 たとえ無様を演じても、血が滲むほどに歯を食いしばる屈辱を受けてもだ。 空を仰いでいる限りは、自分の人間的尊厳まで侵略されないのだと。 そのように生きてきた者しか、ヴァリエールの軍勢にはいないと聞いている。 せめて地面を見つめぬから、このヴァリエールの行軍へと参加した連中しかいないのだ。 『落ち穂拾いのヴァリエール』だったか。 「我等は盤の弾かれもの。或いは家庭、或いは市場、或いはお城。要らぬ要らぬと棄てられて、石を舐めて飢える日々。このまま路傍の塵芥と、変わらぬ未来が精々だ」 口から詩が紡ぐように出た。 ヴァリエール・フォン・アンハルトを称える詩だった。 「しかしながらあの方は、枯れた我等の手を取りて、確かに言って下さった。泣くな、憂うな、腐れるな。お前達は落ち穂なり。その気があればまだ見えぬ、価値をこの世に示せるとも。命を懸けて付いてこい」 詩が好きだった。 このマインツ、若い時は聖職者にも選帝侯にもならず、市井で詩など唄っては暮らせぬものかと本気で考えたことがある。 詩の練習もしたことがあるのだ。 説教や聖歌などは聖職者として当然にやることだから、基礎力もある。 これでなかなかのものだと自負しているのだが。 「我が身を落ち穂と思うなら、落ち穂の矜持があるならば。その身を以て価値示せ。どうせいずれは塵芥。此処に居場所が無いのなら、落ち穂の爆ぜ音鳴らすべく、裸足で参じた1万人」 むろん、そのような暮らしで食べていくなど辛いだけであると。 選帝侯として人を取りまとめる立場である以上は知っている。 夢は夢だった。 だからこそ、私はその悲惨な立場から立身出世した『貴女達』を褒め称えることが出来る。 「熱砂を、砂利を、ぬかるみを。等しく肩組み踏み越えて。倒れるものを踏み越えて、長らえ者と生を祝う。明日もこうして価値示そう。そうして生き抜いた夜明けには、新天地にて芽吹くのだ。我々だけの人生が」 誰かが、覚悟の表情で槍を握りしめて、私を突き刺そうと近づくのを見た。 なれど、止めた。 止めたのはベルリヒンゲン卿であり、そしてバケツ頭の騎士の二人であった。 兵は何が起こっているのかわからぬようで、私の口上を理解しようと努めている。 私は唄い終えて無事にバケツ頭の目前までたどり着き、目的を果たそうとしている。 「歯を食いしばることは出来ても、ずっと空を仰ぎつづけても。おのれらが盤の弾かれものから人間になれたのは、ヴァリエール・フォン・アンハルトという一人の娘がいたからだ。ゆめゆめ主君から与えられた恩寵を忘れぬことだ」 何を言っているのだろうか。 自分でも、何を言うているのかわからぬ。 ここは戦場であるのだ。 なれど、誰もが突然に唄った挙句に、説教まで述べた私のことを、狂った者として見つめている。 我が軍勢などは戦場からの離脱を始めている。 「さて――異端審問を撤回しておく。このマインツ枢機卿の不明を恥じるところであり、ケルン派は異端ではない。あの暴力教皇がどう出るかは知らぬが、少なくとも私だけは撤回しておこう」 バケツ頭に告げる。 なれど、私の眼前の騎士殿は横にいるベルリヒンゲン卿を見て。 貴女が相手をするように、と促した。 騎士殿は何も語る気がないようであった。 「承知した。マインツ枢機卿の名において、ケルン派への異端審問が撤回されたことを承る」 因縁あるベルリヒンゲン卿が困ったような、それでも自分が騎兵の指揮官なのだからと。 私の顔を見つめながらに承知した。 「宜しい。当たり前だが、それに付随する七つの要求も撤回しておく。まあ、敗者が何を語ろうと無意味だがね。ヴァリエール殿下に対する謝罪はもちろんのこと、その意味を含めた賠償金ももちろん支払おう」 「……承知した」 毒気を抜かれたような表情にて、彼女は静かに頷いた。 少しだけ、お互いの空気を読みあう。 戦場でありながら、静寂が起きた。 状況は酸鼻を極めており、そこら中に兵士の遺骸が打ち捨てられており、悲惨の一言である。 「降伏するのか?」 「状況を見て言いたまえよ。むしろ殺さないでくれと命乞いをする状況だろう」 全ては指揮官たる、このマインツの責任である。 死をもって責任を取らねばならぬ。 「ああ、いや、降伏自体は認めてくれるならするがね。受け入れてくれるのならば、すぐに全軍に連絡してマインツ枢機卿軍への追い打ちの中止を認めてくれないかね?」 「……どこまで可能かは判らんが。承った」 ベルリヒンゲン卿が、手合図をした。 水晶玉を取り出した騎士が、彼女の右腕にそれを手渡す。 ヴァリエール殿下に連絡を送っているようだ。 「うん」 思わぬ僥倖であった。 私は降伏など叶わぬと思っていたし、有無を言わさず殺されることを覚悟していたのだが。 どうやら、領主としての義務はもちろん、騎士としての一分も果たせそうである。 遺骸を晒されるのは良いが、拷問死だけは免れそうであった。 なんだか、心が安らぐようだった。 「はい。ええ……。ええ?」 ベルリヒンゲン卿が、何か耳を疑うような表情で水晶玉を眺めている。 何があったのか知らんが、鉄腕である右腕をくい、くいと動かして。 バケツ頭の騎士を呼びつけて、兜と兜をごつんと合わせて何か囁いている。 「!?」 バケツ頭の騎士は何か酷く驚いたような様子で。 ベルリヒンゲン卿はこくり、と頷いて私を見た。 なるほど、ヴァリエール殿下は私の降伏を即座に認めてくれたのだな。 「降伏が叶ったならば良い。なるほど、優秀なるヴァリエール殿下はリソースを食いつぶすことをお好みでないようだな。賢明ならば、金をもらってマインツ選帝侯領を今後利用することを考える」 「いや……そうではなく」 「人から奪うことしか知らぬ強盗騎士よりも、選帝侯の一族とあらば上品なのだよ」 鼻で笑った。 もうベルリヒンゲン卿への憎しみはないが、それはそれとして好きではない。 彼女は私の領土を脅して金を奪ったのだ。 この眼前の強盗騎士がクズであることに変わりはなかった。 「さて、そこのバケツ頭にして、本物の騎士殿よ。最後に頼みがある。このマインツを殺しておくれ。できれば一騎討ちでお願いしたい。卑怯未練なれど、最後に一人の騎士としての名誉を背負っての決闘がしたいのだ」 騎士の一分である。 どうせ死ぬのであるならば、本物の騎士との決闘の上で殺されたい。 化物と戦って殺されたというのであるならば、いくらか私の死後の名誉もマシになるだろう。 このバケツ頭の事は良く知らぬが、著名であるか、これから著名になるかのどちらかであるのは間違いない。 私は嘆願を口にして。 「……」 バケツ頭は何かに、酷く困惑したような様子で。 それでいて何も語らずに。 こくん、と頷いて了承する。 望みは叶った。 私は斧槍を掲げ、裂帛の叫び声をあげるが。 「いや、申し訳ないが、マインツ枢機卿の要求には答えられぬ」 ベルリヒンゲン卿は、私の覚悟も死ぬことへの決意も、何もかも読み切った様子であるが。 これだけは譲れぬと私たちの間を遮った。 この強盗騎士、最後の騎士の一分すら許さぬつもりであろうか? 生き恥を晒すなど御免であるし、この戦場にて死んだ配下にも申し訳が立たぬ。 それぐらいは品のないお前でも判るであろうと、訝しむが。 「マインツ枢機卿、貴女が降伏する少し前にマインツ軍はヴァリエール殿下に降伏している。すでに我が軍の右翼では武装解除が行われているそうだぞ。戦争の継続となる行為はもちろん、両者の交渉に対する妨害行為は許さぬと。貴女から全権委任を受けたと本人などは主張しているのだが……」 とても信じられないことを言った。 私はそりゃ降伏したかったが、使者など出した覚えはない。 「なんだと!? 誰がそのような勝手な真似を――」 そのような事を許した覚えはない。 仮に許したとして、交渉の伝手などない我が軍の誰がどうやって? 降伏した者を責める気はないが、出来るならば私本人がとっくにやっていた。 そんな私の表情を見て、どうも話が通じてないと。 ベルリヒンゲン卿は不思議そうに、一人の女の名を呟いた。 「交渉人の名はオイゲン。オイゲン・フォン・マインツ。貴女の娘だと名乗っているのだが……何も知らんのか?」 私にとって一番大切な者。 たった一人の娘の名前だった。 第189話 オイゲンの降伏 胸当てと兜のみ、そして腰に拳銃とサーベルをぶら下げた軽装騎兵姿の子女である。 年齢は若く、そばかす顔を見るに年の頃は16と言ったところではなかろうか。 やや茶目っ気を覗かせた、小さな舌を覗かせる女性だった。 その若い騎士の眼前にて、私は必死になって脳に血肉を巡らせている。 「オイゲン・フォン・マインツと申します」 聞いたこともない名である。 なれど、眼前の若き騎士はマインツ選帝侯家の縁者であると宣言した。 隣にいるケルン派の写本家と顔を見合わせて、真実を確かめる。 いや、知りませぬと写本家は首を振った。 「母と似ておりませぬか?」 「貴女は――オイゲン卿は、マインツ選帝侯の娘であると?」 「私も気づいたのは、ここ二年ほどの話でありますが」 関係を秘されていたのですよ。 まあ子がおらぬ法衣騎士の養女に過ぎず、本当の父も母もわからぬ私に対して、ありとあらゆる教育の機会が与えられ。 マインツ選帝侯はもちろん周囲の上級法衣貴族などが妙に優しく、将来は選帝侯となるべくして領内の仕事や補佐官が与えられるようになれば――母がいくら隠しても、気づいてしまうところでありますが。 そのように嘯いて、オイゲンという名の女は微笑んだ。 真偽を確認する方法はないが、まあ嘘をついている風貌ではない。 「さて、失礼ですが貴女のお名前をお伺いしたい」 ファウスト様は名を隠して戦場に参じており、この従士も名を隠す必要が少なからずあった。 ゆえに一瞬、本名を答えるかどうか迷ったが。 「……マルティナ・フォン・ボーセルと申します」 この場においては、正確に返事をすべきと判断する。 数か月後にはマルティナ・フォン・テメレールとなる可能性もあったが、今口にすべきことでもない。 「なるほど、ではマルティナ殿。単刀直入にお伺いするが、ヴァリエール殿下との直通回線をお持ちか?」 「何故、この小娘に対してそうお考えに?」 確かに、ヴァリエール殿下に直通で通信できる水晶玉を保持している。 だが、この身は齢九つの少女に過ぎぬ。 馬に跨りて単身こちらに訪れて、丘を一度見回しただけで。 ああ、ここかとばかりにオイゲンはこちらに馬を走らせてきたのだ。 丘には数百人以上の商人やら旅芸人やらで、溢れかえっているにも関わらず。 私の姿を見つけた瞬間には、一直線にこちらへと足を向けたのだ。 「ポリドロ卿は、従士として子供を連れていると聞いたことがあります」 ぽつり、とオイゲンが呟いた。 聞き捨てならぬ言葉であった。 そらとぼけようとも思ったが、無意味であろうな。 何か返事を行う前に、彼女は言葉を連ねる。 「……現在、帝都ウィンドボナに滞在していることになってはおりますが。まあ、別に誰かが彼を見張り続けているわけでもないし、やろうと思えば婚約者の元に参じることはできた。迂闊でした。領地を出発する前に読めていれば、やりようはいくらでもありました。母を引き留めることも出来た」 「それに気づいたのは?」 「ヴァリエール殿下が母の異端審問に対し、宣戦布告を行ったときに。大変失礼ながら、そのような大胆なことが出来る度胸の持ち主と聞いた覚えがありませぬ」 少なくとも臆病で、大胆不敵とは程遠いと耳にしております。 もしそのような少女が、戦いを挑んでくるとすれば。 「惚れた男に背中を押されたぐらいのことがあった時でしょう。そして同時に、我がマインツ修道騎士団に対する勝利の見込みが辛うじて立った時です」 なるほど、オイゲンは無能ではないようだ。 こちらに何があって、何故ヴァリエール殿下が行動を決意したかまでを理解している。 だが、だからと言ってどうにもならぬことも、このマルティナは知っている。 仮にファウスト・フォン・ポリドロ卿が強力無双の騎士であることを理解していたからと言って、戦端が開いた今どう抗うことができようか。 「我が母も、まあ背後に何かあったかまでは読めずとも。敗北の可能性があることを予見して、後継者である私に対して領地に帰るよう命じたのですが。私としては、母や領民を見捨てて帰るわけにはいかない。もし領地に逃げかえれば、私は大切な物全てを失ってしまいます」 「戦場後方の丘に避難しているであろう集団まで辿り着けば、ヴァリエール殿下への直通回線を持ったものがいるだろうと?」 「酒保商人の代表か、あるいはポリドロ卿の従士か。どちらかが敗北時に逃げるよう連絡するための手段をヴァリエール殿下が持たせていると考えました。私は領地に逃げ帰ると見せかけて、戦場を大回りしてこちらに辿り着きました」 なるほど。 その読みは何もかも正しい。 さて、となると、彼女の目的と言えばだ。 「交渉ですか」 「そうなりますね」 要するに、もしマインツ軍の敗北が明らかになった場合、その時点でヴァリエール殿下に降伏を申し込もうと考えたのだ。 そのために、人質同然のように単身で私の目の前に現れた。 周囲を見れば、私たちの話を聞きつけた酒保商人のイングリットなどが数名の護衛を引き連れている。 マインツ枢機卿に死ぬか生きるかのギリギリを突き付けられているためか、その縁者が眼前に現れたとあって、彼女たちの目は血走っている。 手にはピストルなどが握りしめられていた。 私は掌を彼女たちに向け、何もしないように伝える。 「マルティナ殿! 捕縛すべきです!!」 「イングリット商会長。無駄だからやめなさい。彼女はこの場全員を殺して逃げ出すことすらできる」 色々と考える。 戦場の様子はまだわからぬ。 鬨の声などは聞こえているが、どっちが勝っているのかさえわからぬ。 それはオイゲンも同様であろう。 勝敗今だ定かならぬ。 その状況で、何故オイゲンが単身堂々と現れて名乗りを上げたのかと言えば。 「卿は超人ですね。そうでなければ単身ここに訪れない」 「噂のポリドロ卿には到底敵わぬ実力ですが。母は大砲を打ち返したポリドロ卿の噂や、レッケンベル卿の伝説を下世話な吹聴の類であると馬鹿にしておりましたが――ああ、それも私のせいでしょうね」 オイゲンは取り囲む周囲を見渡し、どうということもなく微笑む。 十数人がピストルを持って立ち向かったところで、あのサーベルで殺戮を開始するだろう。 超人とはそのようなものである。 「私というほどほどの超人を認識していたから、その可能限界を知っていたからこそ。母にとっての超人枠の限界点は私までであろうと定めてしまった。レッケンベル卿やポリドロ卿というのは幻想的なものにすぎず、この世に存在しないのだと思い込んでしまった」 おそらく、ヴァリエール殿下の姉君たるアナスタシア殿下や、姻戚であるアスターテ公爵。 そしてヴィレンドルフのカタリナなどを見ても、まあこの私程度。 聖ゲオルギオスがごとき龍殺しの化け物など、この世に存在せぬと見切ってしまった。 悲しそうに、オイゲンは語る。 「このオイゲンも母と同様であり、まさかとは思っておりましたが。ヴァリエール殿下が戦に臨んだというならば、ポリドロ卿の実力は本物でしょう。あるいは、ポリドロ卿以外にも強力な超人がいるのかもしれませぬ。加えてテメレール公直下である『狂える猪の騎士団』のようなものがアンハルトにもあり、ヴァリエール軍にいるのかも。だが今更そのような事を言ったところで、戦端が開かれた以上はどうしようもありませぬが」 心の中で舌打ちをする。 『狂える猪の騎士団』の参陣まで予想されている。 確信したとまでは本人も言わぬが、少なくとも最悪のケースを考えて動いていた。 だが、まあ現状ではどうにもならぬ。 この眼前のオイゲンは、ヴァリエール殿下の宣戦布告という材料を得るまで真実にたどり着けなかった。 ファウスト様と私の勝利である。 「……あなたは、母親であるマインツ枢機卿が負けると」 「その可能性が高いと考えております。さりとて、もはや戦わないわけにはいきませぬ」 異端審問に出向き、異端であると宣告したのです。 ヴァリエール殿下に反抗されたところで、はいそうですかと帰るわけにはいきません。 どうしても一戦交える必要はあります。 オイゲンは微笑んで、かぶりを振った。 「子としては母の勝利を信じたいところ。なれど、その母とて負ける可能性を見込んでおります。死を覚悟で、何かあればマインツ領の全権を頼むと言われました。なれば、子としては母のため、領地の後継者としては領民のため、いざとなれば我が軍の被害を最低限に抑えるために交渉をせねばなりませぬ。敗北が確定した時点で戦場を監視している配下から、私に直通回線が入ることになっております。その時点でヴァリエール殿下に降伏を行うつもりです。マインツ軍にも投降し、武装解除するように内部から呼びかけます」 考える。 なるほど、道理である。 オイゲン・フォン・マインツの判断は何一つ間違っていない。 なれど。 「それに私が応じると? 貴女の利益の為に、わざわざヴァリエール殿下に直通回線をつないでやると?」 「応じますね。応じないことになにかメリットが? ヴァリエール殿下は無意味な殺戮をお好みですか? 血に飢えた血妖精ヴァリエール殿下とでもお名乗りあそばせたいと? 情け容赦ない異端の王として勝ち誇られ、温情ある解決を望まれない御方とはお聞きしておりませんが?」 舌打ちをする。 このマルティナでは経験不足である。 ここでオイゲンから降伏に値する利益を得るため、何か要求をすべきだが思い浮かばぬ。 だが、ここで安易にヴァリエール殿下に通信を繋いでしまうわけにもいかぬ。 マインツ枢機卿の娘が降伏してきました! と伝えようものならば。 え、マジで。これで戦争は終わりだ、などと敗北を認める上での条件を大して聞きもせずに喜んで応じてしまうヴァリエール殿下が目に浮かぶ。 てめえ、ヴァリエールの奴、性格をオイゲンに見切られてんじゃねえか。 ファウスト様の婚約者様を今回かなり見直している私とて、そこのところはヴァリエール様が無能であることは理解できた。 一番良いのはあのクズそのものである気狂いザビーネが通信に出て交渉してくれることだが、おそらく戦場ゆえに傍におらぬ。 右翼の最前列にて、親衛隊による銃撃を指揮しているはずだ。 畜生、肝心な時に役に立たないな、あのチンパンジー! 「……」 考える。 ここは、むしろオイゲンに降伏条件を喋らせるべきだった。 オイゲンとて、何もなしに降伏できるとは思うていないだろう。 ヴァリエール殿下が降伏を受け入れたところで、オイゲン側から何かしら差し出すはずだ。 「敗北を認めるにあたって、マインツ枢機卿が差し出せるものは?」 「最終的には母とヴァリエール殿下が直接諸条件を詰めることになるでしょうが。異端審問の撤回、付随する七つの要求の撤回ではどうでしょう。もちろん、ヴァリエール殿下に対する公式な謝罪と、和解金としての賠償金の支払いもお約束できます」 考える。 悪くはないし、十分に勝利を達成したと言えるだろう。 このままお互いの兵を食い潰し、リソースを使い果たして勝利したというよりもスマートに降伏を呑むべきだった。 ぶっちゃけ、このまま自軍を消耗させてマインツ軍を皆殺しにしたとしても、それで何が産まれるというのか。 お互いの領地の支配権を争っているわけでもなければ、マインツ軍の軍資金や武装を奪ったとしても、マインツ枢機卿が支払ってくれる謝罪金以上の額にはならないことなど目に見えている。 つまり、戦争を継続するメリットなどヴァリエール殿下の側にも全くないのだ。 「……」 沈黙して考える。 オイゲンとしても、まあどうせここまでは母も受け入れるから、何も変わらぬでしょうと。 飄々とした顔で澄まして呟いた。 気に食わぬ、このソバカス顔! ここで妥結してもファウスト様はよくやったと喜んで、私の頭を撫でてくださるだろうが。 何か、オイゲンの見込み通りに全てが運んだようで気に食わぬ。 「……そうだ」 一つだけ良い考えがある。 なるほど、オイゲンは妥協すべき条件を呑みこんだ。 なれば、もう一つ条件を呑みほしてもらおうではないか。 我が主、ファウスト様の為に役立てるように、コイツを扱いやすい駒にしてやろうじゃないか。 それこそモンゴルに対抗するにあたって役に立つぐらいの。 「良い考えがあるのですが、オイゲン卿。なるほど、ヴァリエール殿下に直通回線をつないでも良い。なれど、発端は信仰に関わる問題であります。異端じゃないから終わり、謝ったからこれでよいだろうと。それで済む話でもない。せめて、オイゲン卿による誰の目に見てもわかるケルン派への懺悔を頂きたい」 「懺悔ですか?」 別に、表向きなら頭でもなんでも下げてやろう。 そのような心根が隠しきれぬオイゲン卿の瞳の奥に気づきながら、私は宣告した。 「懺悔です。自分の行為が悪であったと看做し、ケルン派に告白する気持ちが必要ではありませんか? 心改めた、心から自分が悪いと思ったんだと誰にでも見て取れる行為が、そう、我らケルン派信徒から見ての納得が必要なんですよ。例えば――」 良い考えを思いついたとでも言いたげに。 世間話のように口にしてやった。 「将来のマインツ選帝侯家を継がれることとなります。オイゲン・フォン・マインツ卿のケルン派への改宗とかどうでしょう? 異端審問を要求した教皇への明確な反逆を示してほしい。教皇が間違いでケルン派が正しいと、旗色を明確にしてほしい。いやあ、良い考えを思いつきました」 微笑みを崩さぬ、オイゲンの顔を見る。 瞳の奥底から、強力な怒りが目にとれた。 だが、彼女が腰にぶら下げた布袋の一つが光っている。 マインツ軍における、彼女の信頼置ける配下からの直接回線である。 「オイゲン様! マインツ軍右翼が敵騎兵に打ち破られました。戦場は混沌としており、逃散兵多数! マインツ選帝侯は兵を一人でも逃がすため、騎兵隊を連れて突撃を開始されました!!」 その報告を聞いた以上。 母が死を覚悟して突撃し、領民が殺されている現状を知った以上は。 もはやオイゲンには選択肢などなかった。 第190話 講和交渉とヴァリ様の救済 ヴァリエール殿下とマインツ選帝侯による講和の成立が宣言された。 マインツ選帝侯が受諾した条件は以下の通りとなる。 ①ケルン派への異端審問の撤回 ②それに付随する七つの要求の撤回 ③公式文書によるマインツ選帝侯からの全面的謝罪 ④和解金として多額の賠償額を支払う ⑤娘であるオイゲン・フォン・マインツのケルン派への改宗 ⑥和解金が支払われるまで、オイゲン卿は人質としてヴァリエール軍にて預かる ⑦ケルン派への異端審問が誤りであったことを、教皇に認めさせることへ全面的に協力すること 細かいところを言えば他にも諸条件があるが、上記七つが和解条件の骨子である。 この辺りが、お互いが呑みこめる最大限の譲歩であった。 傭兵団などには、マインツ選帝侯領まで乗り込んで財産や領地をヴァリエール殿下のために奪うべきではないか、殿下が新たな選帝侯と成り上がって私たちはそれを支える騎士に、云々とこれ以上の戦果の積み上げを望む連中もいたが。 攻城戦を仕掛けるとなれば容易ではなく、領地の支配権の奪い合いに至っては数年単位の時を要するであろう。 さすがに異端審問を受けた状態でそこまでするには、大義も名分もない。 第一、相手の領地まで攻め込むにはさすがに兵力が足らぬ。 そもそもの大前提として、モンゴルの侵略が差し迫るこのグステン帝国でそんなことをやっている暇などなく、二年もすればタイムオーバーで何もかもが破綻する。 このファウスト・フォン・ポリドロにとっての目的は、ヴァリエール殿下を無事帝都まで到着させることにある。 目的を達成したとあらば、さっさと帝都にて状況を報告せねばならぬ。 これ以上は戦を継続するなど御免であった。 「……」 要するに、この戦の落としどころはここだろう。 少なくともマインツ選帝侯はもう教皇には従わぬだろうし、彼女が公的な謝罪と賠償金さえ支払ってくれれば、ヴァリエール殿下にとっても十分な利があった。 マインツ側の本音としては、①から④の条件で済めばよかったのだろうが。 マルティナが追加条件を交渉して、そうはなっておらぬ。 「はて、マルティナの選択は本当に正しいのか」 私にはわからぬ。 追加条件を勝ち取ったのは素直に褒めるべきであるが、妙手かというと悩む。 マインツ選帝侯領の次期後継者であるオイゲン・フォン・マインツがケルン派に改宗し、ヴァリエール殿下側に立ってくれるというのであれば強力だろう。 少なくとも、軍勢が本当に全滅する前に講和を勝ち取った時点で無能とは言えない。 問題は、マルティナが脅すようにして勝ち取った条件を、オイゲンがどこまで真面目に履行してくれるかという点である。 一度交わした契約を破る気はないだろうが、積極的協力と消極的協力とでは異なるだろう。 かといって、マルティナを責めるのもまた違う。 ①~④の条件で交渉を終えてしまっては、異端審問によりこちら側への改宗を強いてきたマインツ選帝侯への明確な報復とはならぬ。 ヴァリエール殿下がここまでで十分としたところで、どうしても命も財産も尊厳も何もかもを奪われる寸前まで追い詰められた『ヴァリエールの落ち穂ども』から見れば、それだけでは足らぬとなる。 誰の目にも明らかに、勝利を勝ち取って報復を済ませたと発言できるだけの成果は必要であった。 異端審問を強いた相手へ逆ねじを食わして改宗を迫るという、明確な勝利が。 『我らのヴァリエール様』に明確に敵が屈したとあれば、逆に誰もが快哉を上げるだけで終わるはずであった。 「……うん」 だから、結末としてはこれで正しいように思えた。 これでよいのだろう。 そうだ、これで良いのだ。 ヴァリ様が仕事を完遂した以上、マインツ選帝侯の立場やオイゲン卿をどう利用するかなどは全部アナスタシア様やカタリナ女王に丸投げしたところで、誰も責めまい。 アンハルト選帝侯家第二王女殿下ヴァリエールは6000を超えるマインツ修道騎士団に立ち向かい、3000からなる寄せ集めの弱卒にて見事勝利を果たした。 今から為すべき対応は、事後処理の解決である。 「……」 妖精のような容姿の、小さな体躯が簡易ベッドに突っ伏している。 マインツ選帝侯との講和条件交渉を終えて、ヴァリ様はついに精神力の全てを使い果たして倒れたのだ。 ヴァリ様の精神はもうズタボロであった。 別に彼女はありとあらゆる困難に立ち向かう度に輝くような、黄金の精神の持ち主ではない。 彼女は目玉がサファイアで、腰の剣の装飾がルビーで、肌身が金箔で包まれていれば、それを千切って皆に配ってあげられればよかったと考えるだけの凡人である。 ヴァリエール・フォン・アンハルトの心臓は、重たい鉛にすぎなかった。 溶鉱炉でも溶かせぬだろう特別製の鉛という違いはあったが。 「……また沢山の人間が死んだわ。戦の前に、私に命懸けの忠誠を誓ってくれた兵も死者の中にいる。だけど、他にどうしようもなかった」 独り言のように、ヴァリ様が呟いた。 まるで私に何かの返事を求めているかのように。 なれど私はそれについて、ヴァリ様の部下は死んだところで何も後悔などしないことについて、開戦前に全て語り終えている。 ヴァリ様とて、その全てを理解して戦に臨まれた。 なれば、もう何かお互いに会話をする意味などないのだ。 口を閉じて、相変わらずのバケツ頭で沈黙する。 「ザビーネ! ザビーネ・フォン・ヴェスパーマン!!」 私の沈黙を破るかのようにして、ヴァリ様が叫んだ。 ベッドに突っ伏した顔を上げてむくりと立ち上がり、ただ彼女の懐刀の名だけを叫ぶ。 「お呼びでしょうか、ヴァリ様」 ザビーネの顔はマスケット銃から放たれる、黒色火薬の煤で汚れている。 彼女の体から流れる汗の匂いすらも、硝煙の匂いに包まれていた。 戦列の薄い右翼が耐えきったのは、死に物狂いで前線指揮を執った彼女の貢献があってこそである。 「貴女も知っての通り、すでに講和は整った。戦場から遺骸を回収して弔う時間を与えている。マインツ枢機卿による弔いを邪魔しないように全軍に命じなさい」 「承知しました。我が軍の方は?」 「私自らが弔いの儀式を済ませるつもりだけど、彼女たちに身よりは――」 落ち穂どもに、底辺どもに遺骸を引き取ってくれる身寄りはいるか。 一応はそう尋ねる。 答えは決まっているが。 「おりませぬ。ヴァリ様が引き取ると?」 「そのつもりよ。遺骸の全てをアンハルトに持ち帰ることは?」 「……残念ですが、せめて遺髪を持ち帰ることぐらいしか」 そう、とヴァリ様は呟いた。 ハンナという女性がいた。 初陣にて主君を庇いて倒れた、親衛隊の騎士の一人だった。 ヴァリエール・フォン・アンハルトという一人の主君は、週に一度彼女の墓を見舞うことで、返せぬ忠誠へのせめてもの報酬としていた。 自分の為に命を使い果たした者を生涯忘れぬことを誓いとしたのだ。 「なれば遺髪だけでも。ザビーネ、疲れているところを申し訳ないけれど、死者の全てがどのような者であったかを確認しなさい。せめて、彼女たちをここで弔うにあたって何か一言を述べてあげたいと思う」 「承知しました」 ザビーネは憔悴しきった顔で、同時に何か得体の知れない神か悪魔かに魅入られたようにして微笑んだ。 ヴァリ様のために、自分の能力全てを襤褸切れになるまで使い果たすことが嬉しくて仕方ないのだ。 きっと、彼女はもうそのようにしか生きられぬのだろう。 狂人がたった一つだけ、自分の人生にとって尊いものを見つけてしまったのだ。 「……」 バケツ頭で沈黙する。 私はザビーネ・フォン・ヴェスパーマンという狂人を多少理解しつつあった。 アナスタシア殿下も、アスターテ公爵も、カタリナ女王も、それについては誰もが理解している。 ザビーネはヴァリエールという一人の少女と、それを信仰する身内以外について何の価値も感じていないのだ。 だが、誰もが彼女を暗殺者のように用いて教皇暗殺を企んでいるという。 ……上手くいくのか? どのようにザビーネを用いるつもりなのだろうかと訝しむ。 どう考えても彼女はヴァリ様の指示以外を真面目に聞く気など無い。 そこのところを理解しているアナスタシア殿下は、どう考えているのだろうか。 あの人はなんだかんだ有能であるから、上手くやるんだろうが。 「ファウスト」 ヴァリ様が、私の名を呼んだ。 独り言ではなく、明確に私に話しかけているのだ。 私はもはやデカマラスなどと名乗らず、彼女の真摯な言葉に耳を傾けねばならぬ。 「なんでしょうか、ヴァリエール殿下」 「……私はいつか婚約者として、ポリドロ領に行く。アンハルト王都にて墓を作れば、ろくに見舞うこともできなくなる。お願いだからポリドロ領の墓地にて、今回の自軍の戦死者を弔う合同墓地を作ることを許してほしい」 「そのようなことであれば、お気兼ねなく」 同じ宗派たるケルン派の死者が殆どであり、それが異端審問を受けた聖戦において、まして誰にも恥じぬ戦いをした者たちであるのだ。 我がポリドロ領にて弔うことに何の問題があろうか。 ポリドロ領民であれば、喜んで墓くらい作ってくれるだろう。 「そして、それだけではないお願いがある。将来ポリドロ領をファウストと一緒に統治するものとして、婚約者としてお願いしたいことがあるの」 「……?」 ヴァリ様が、真摯な表情でこちらを見た。 何かを覚悟した真剣な表情であり、今までで一度も見たことのないような統治者の顔であった。 統治者として必死に考えて考えてたどり着いた結論を一つだけ見つけ出して、それを口から紡ぐような。 「先ほど聞いた通り、彼女たちは遺骸の引き取り先さえないような者ばかりである。帰る領地が無い。何もない。何処にも行く場所などない。騎士に成れたものは良い。これからアンハルトで食べていけるかもしれない。旅商人や馬借だってなんとかなるでしょう。交易で財を成した商人として、何処かで店さえ構えられるかもしれない。誰もがアンハルトでの市民権を得て生きていくことが出来る」 自分の裁量で何か全てを救えたらばいいのにと。 でも、そんなことは絶対に出来ないと知っているから。 「なれど、全員は救えない。この行軍が終わっても救えない。希望に向かってひたすら前進するだけのパレードはいつか終わってしまう。だから、私に従ってくれた者全てをどうすれば救えるかだけを必死に考えていたの」 そんな方法はない。 このファウストなどはそれを知っている。 誰もが救われぬから、何もない悲惨な立場から新天地を探し求め、ポリドロ領という土地を開拓した先祖を知っているからこそ告げることが出来る。 「そんな夢みたいな話はありませぬ」 「……」 ヴァリ様がベッドの上で、頭を下げた。 私がかつてリーゼンロッテ女王陛下に下げた頭のように、床に擦りつけるように額をベッドに押し付けていた。 「だから、ファウストにお願いがあるのよ。唯一、貴方だけが解決する権利を持っているのよ。ポリドロ領の封建領主たる婚約者の貴方だけが救える。これから私がする話をよく聞いてちょうだい」 ヴァリ様の、必死の嘆願が何を意味するのか。 私は判らずにいて、ただ困惑するのみであった。 第191話 ぱらいそ 帝都ウィンドボナまで、あと十日も経たずに到着してしまうだろう。 あの憎きマインツを打ち破った戦功に対して、ヴァリエール様が約束してくださった報酬が皆に支払われたのだ。 この傷だらけの手では一度も握ったこともない、アンハルトにて鋳造されるリーゼンロッテ女王陛下の横顔が彫られたもの、ヴィレンドルフで鋳造される悪魔超人レッケンベルの横顔が彫られたもの、マインツにて鋳造されるマインツ選帝侯の横顔が彫られたもの。 そういった、人生で一度手にできるかさえ怪しい大銀貨すらも与えられた者さえいる。 ――マインツ選帝侯領の大銀貨だけは、酒保商人に両替する際に『この先通貨価値の信用がおけぬ』と買い叩かれてしまったようだが。 選帝侯としての名誉や権威の失落は、通貨価値にすら及ぶのだ。 ともあれヴァリエール様が行軍で封建領主から手に入れた財産、マインツ選帝侯から前払いとして受け取った謝罪金のそれから供出され、本当に沢山の報酬が支払われたのだ。 金だけではない。 『権力者からの特別な好意』も大盤振る舞いされた。 20名以上に及ぶ騎士叙任式が行われたのだ。 衆目の大歓声の中で、様々な者が呼ばれていった。 数十名の、誰よりも傷だらけの傭兵団を率いる団長がいた。 嗚呼、彼女の傭兵団はどの団よりも本当に勇ましく戦ったと聞く。 アンハルト法衣貴族の三女四女、騎士に成ることが出来ぬ14歳にも満たぬ若造がいた。 足りぬ教育と訓練でありながらも、見事マインツの敵騎士を討ち取った者であると聞く。 行軍の途中参加である黒騎士なども、滂沱の涙を流しながらに両手を組みて、ヴァリエール様を拝んでいた。 危険を承知で最前列にて戦い抜き、敵槍兵を討ち取りて敵陣地への中入りさえ果たした見事なる武芸者であること。 それは私が戦功調査をしていたザビーネ卿に証言した。 ああ、そうだ、彼女らは当然の結果としてあそこにいるのだ。 誰もかれもが戦場での評価は、見事な働きを為したという戦功評価に対してのみは誠実であるのだ。 我ら全ての為に怒りを示してマインツ選帝侯へ戦を挑んだ殿下への貢献に対して、何一つ嘘をつくことができるわけない。 神に対して舌を出して嘲笑うことはできても、あの幸運妖精を貶める行為だけはできなかった。 だから、あれなる全ての騎士に成り上がったものは正当な評価の結果として、衆目の中で殿下に肩を剣で叩かれているのだ。 あんな奴が何故、私の方がずっと、そんな腐ったゴミのような言い訳を浮かべる理由すらなかった。 クズな私でも、そんな醜い行為が自分を惨めにさせるだけなのは理解できている。 嗚呼、でも、羨むくらいはいいだろう。 私も、ああなりたかった。 なれど、なれなかった。 ならば、このままずっと『死ぬまで』行軍を続けていたかった。 ヴァリエール様に従って、自分のようなくだらぬ人生を歩いているものに、この先何もいいこと一つないような落ち穂どもに立身出世の希望を見せてくれたのだ。 それが終わってしまえば、この夢から醒めてしまう。 多額の金銭を、報酬として受け取ることは出来た。 なれど、この身には頼る「よすが」が無い。 家など飛び出してしまって、何処かに腰を落ち着ける市民権すらないのだから、何処に行っても排斥されてしまうのだ。 金さえあれば何でも買えるというのは嘘で、社会的な背景が無ければ何にもならない。 生活基盤を整える術がないのだ。 いつか酒にでも酔って、いい気になって全財産をいっぺんに使い果たして終わりだ。 また半傭半賊の生活に逆戻り。 文字も書けねば計算もできぬ貧民など、元の生活に戻るだけだ。 そんな自分の将来を、理解できてしまう。 歩き続ける筋肉の痛みも、皮膚が剥けて皮がめくれる痛みも、マインツ軍との戦闘で負った戦傷でさえも、行軍を続けることが許されるならば何もかもが気にならないように思えた。 だが、もうチャンスなどない。 弱卒3000名で、選帝侯の騎士団6000を破ったものに誰が立ち向かおうと考える。 山賊などはどんなに小さな集団でも噂を聞いた瞬間に、誰もかれもが皆逃げ散ってしまった。 封建領主などは、競い合うようにヴァリエール様との主従関係を繋ぐことを望み、金など景気よく捧げてしまうのだ。 手柄を立てる機会も、暴れる機会も、もうどこにもない。 ああ、もうそろそろだ。 ヴァリエール様の行軍が終わってしまう。 我々が一生に一度だけ夢見ることが許されたパレードは、もう終わるのだ。 そんな時だ。 奇妙な噂が立った。 「全員が救われるって聞いたんだ。ヴァリエール様に従ってさえいれば、最後に何とかしてくださると聞いたんだ」 そのような奇妙な噂が、我々『ヴァリエールの落ち穂』どもの間で流れた。 まさか、と誰もが思った。 だけど、だけどだ。 誰もがひょっとしてと、希望を捨てきれないのが無学で哀れな我らだった。 善男善女など何処にもおらぬ、うらぶれていて世界を憎んで、それでも地べたを這いずり回って生きてきた我ら最後の希望だった。 だから、我慢した。 ヤケになって暴れることもせず、どこかの旅商人の荷物を盗んで逃げるなどの悪心さえ起こさずに、静かに、静かに行軍をした。 ヴァリエール様に従うことだけを善として行軍したんだ。 まさかな、まさかと。 そんなわけがないとは、誰もが知っているのだ。 嫌というほどに、今までの人生で理解しているんだ。 この世で与えられるパンの数は限られていると。 ワインの数も限られていると。 贖罪主の肉(パン)も血(ワイン)も口にできる者の数は限られていて、全ての者が腹を満たすことは出来ず、いつか『物質を超えたパン』を作り出すなどというケルン派の聖句は戯言だと。 夢は食えないのだと。 誰もが知っている、それこそ我らのような貧民から、マインツ選帝侯のような大金持ちまでが知っている。 貴族のような青い血どころか、教皇や皇帝という頂点でさえも知っていることなのだ。 皆が救われることはないと。 誰もが必死に生きたところで報われることなど無いと。 生まれついて恵まれたものだけが、パンもワインも与えられるのだと今まで思って生きてきた。 だから、だからだ。 我々は、耳を疑ったんだ。 「ヴァリエール・フォン・アンハルトである。まずは礼を言おう。我が旅に同行し、また手助けをしてくれた3000なる全ての騎士、兵、傭兵、酒保商人、旅商人、旅芸人、名すら口にできぬ全ての者に対して、心から感謝を」 ヴァリエール殿下が演説をしておられる。 帝都を目前として、ちょうど見つけた小高い丘の上に立って、『ヴァリエールの落ち穂』誰もが見つめる中で、一人語っておられるのだ。 「苦しい旅だった。落伍者こそ誰一人として出ない旅であり、それについては幸運と言えたが――知っての通り、沢山の死者が出た。遺骸こそ弔ったが、どうにも遺髪の引き取り先さえないものが多い。私はそれを一つの合同墓地に弔うことにした」 私の友人も死んだ。 だが、彼女とて幸せだったのではなかろうか。 別に、私も彼女も優れた兵士というわけでもなく、やはり立身出世の目などなかったであろう。 ならば合同墓地に手厚く弔われて―― 「……私は彼女たちの名を、以前一人一人読み上げた。ザビーネに、プレティヒャに頼み、彼女たちが生前どのような者であったかは調べたつもりである。私は自分の為に命を使い果たした者を生涯忘れぬことを誓いとした。彼女の墓を今後も弔うこととしよう。そう――」 自分の名を呼んで、自分の存在を認識して、それを弔ってくれることを約束した。 ヴァリエール殿下が墓を見舞ってくれる方が幸せな結末ではなかろうか。 本心からそう思っている。 「貴女達に話したいことがある。その前に、一つだけ教えておかねばならないこと。それについて話そうと思う」 息を吸う声が聞こえた。 3000の兵に聞こえるように、ヴァリエール殿下が先ほどから呟いている言葉は、彼女が率いる軍のそこかしこで復唱されている。 親衛隊や、新たに彼女の騎士となった者たちが復唱しているのだ。 彼女たちはあらかじめ、これから殿下が話す言葉を知らされていたのだろう。 だから、息を吸う声が聞こえたとすれば、彼女たちの声なのだ。 ここから話すことが、我らにとって大事なのだろうと思った。 「ポリドロ領を知っているだろうか。いや、知らぬだろう。私には一人、婚約者がいて――その名もファウスト・フォン・ポリドロという。その、なんというか。私が12歳の頃に見初めた第二王女親衛隊の相談役で、7つも8つも年上で、まあ無骨な男騎士だ。封建領主の一人だ」 その名は知っている。 私などは、ヴァリエール殿下の行軍に最初から最後まで従った幸運なアンハルトの傭兵である。 そうだ、最初は頑張れば騎士受勲さえ叶うなどというふざけた好条件に団長や友人ともども疑ってこそいたが。 プレティヒャとかいう傭兵団の団長が騎士になったのに目の色を変えて、誰もが血眼になってヴァリエール様に認められようと死に物狂いで走り回って。 ――それで、いつの間にやら行軍に、このパレードに魅了されて、ここまで付いてきている。 「ヴィレンドルフとの国境線上にある辺境に、ポリドロ領はある。私はまだ訪れたことがないけれど――大きな山があり、その土と森林が蓄えた雨水から、領地に流れる川へと良質な水資源が供給されている。領民は300名ほどの、村とも、町とも呼べぬ小領地だと聞くけれど。始まりはたった30名にすぎない人々だと、かつて父上ロベルトに聞いたことがある」 すう、とまた息を吸う声が聞こえた。 私が一番近くに立っているのは、はて、ザビーネ卿と言ったか。 たしか親衛隊の隊長であったはずだ。 彼女はどこか虚ろで、それでいて目はギラギラと輝いており、何かに操られているかのようにさえ見えた。 だが、姿勢だけは真っすぐとしていた。 彼女はそのまま、ヴァリエール様のお言葉を続けた。 「私はファウストに問うた。ポリドロ領の起こりを、その在り方を。父に教えられた記憶の糸をたぐり、その全てを明かしてくれるように頼んだ。ファウストが語ってくれた全てを、皆に話すことが私に許されぬことを理解してほしい。これでも婚約者の秘密を全て口にするほど、悪い女ではないのだ。私は婚約者であるファウストに嫌われたくない」 どこからか、指笛を吹く声が聞こえた。 これほどの無茶苦茶な行軍を成し遂げたにも関わらず、婚約者に嫌われたくないと発言した殿下を茶化したのだ。 勇気ある行動だと、思わず笑ってしまった。 あまりにもここからは遠く、殿下の表情などわからぬのに。 ヴァリエール殿下の顔は微笑んでいるように見えた。 「……どこまで言っていいものか。言葉を選ぼうとした。なれど、ファウストの言葉を聞くにつれて、選ぶ必要すらないことを知った。これは私の言葉ではない。ポリドロ領を開拓した、一人の名もなければ家名もなく、フォンという貴族を意味する前置詞すらない女性の言葉だ。一人の開拓民の言葉だ。そのリーダーであった彼女の発言を、ファウストにこれだけは許された発言そのままを借りようと思う」 やはり、また息を吸う言葉が聞こえた。 大きな息を吸う音であった。 一つの続けた言葉を発言するための、呼吸音で。 「我らはもはや人としての価値など与えられていない。嘲弄され、辱しめられ、唾された。我らの聖地など、この世の何処にも存在しない。我らの故郷など何処にも存在しない。天国や地獄すら無いだろう。せめて、自分たちの村が欲しい。自分たちの国を作ろう。ここに居ても未来は無い。何処に行っても未来は無いだろう。ならばせめて、好きな事をして死のう。埋もれる墓すらないならば、空腹を抱えた犬に遺骸を食われても、何も変わりはしないだろうと」 何か、言おうとして。 何も言えなかった。 何があったかは知らないが、正気の人間の言葉ではない。 どう考えても、どこまでも追い詰められた人間が苦し紛れに渇望を見出した言葉のようではないか。 我らのように。 「ポリドロと呼ばれた一人の女の発言だった。ポリドロ領を開拓した初代の言葉だった。聞けば誰にでもわかるが、領地を開拓するにあたっての壮絶な決意である。私はこれを聞いて、少し躊躇ったが。同時に、彼に一つの質問をしたのだ。もし、この地に同じようなものが訪れた際は如何すると。嘲弄され、辱しめられ、唾された者が訪れたならどうすると。迎え入れるのか、それとも拒むのかと」 ヴァリエール様が何を言おうとしているのか。 とらえかねて、少し戸惑う。 何かを、その婚約者のファウスト・フォン・ポリドロに強請ろうとしているのだけはわかる。 「我らから土地を奪おうとしたなら殺してやる。これは我らの土地だ。農具なんぞ無いから、棒切れと手で畑を掘り起こした。知恵や技術など無いから、沢山の農作物を枯らした。超人などいないから、獣から身を守る術など無く、沢山の死者が出た。そうして先祖代々積み上げてきた努力の成果を何故人に施してやらねばならんのか? おのれらは我らを奴隷か何かだと思っているのか? 我らの尊厳を犬の子のように誰かに譲り渡せるものとして嘲笑うのか? 誰かに我らが耕した畑の土一粒でも譲ろうというならば、それが婚約者の貴女であろうともこの場にてぶちのめしてやると。そのように、婚約者であるファウスト・フォン・ポリドロは私に言ってのけたよ」 当たり前だ。 私は、少しだけ理解し始めている。 とんでもないものを、ヴァリエール様は婚約者から強請ろうとしたのだ。 封建領主にとって、自分の命よりも重要な領地というものを。 「なれど、と」 一呼吸置くようにして。 一番近くにいる、ヴァリエール殿下のお言葉をお伝えするはずのザビーネ卿が、何かとんでもない恐怖に襲われたように瘧を起した。 ひきつった声をして、喋れないでいる。 まるで、領地を強請られたポリドロ卿の怒りを眼前で受け止めたかのように、何かに怯えているのだ。 何故かそれが抑えられるのを待ったようにしてヴァリエール殿下は言葉を止めて。 ザビーネ卿の瘧が収まったのをみて、またしゃべり始めた。 「我らは、ポリドロ領は少しだけアガペーを知っている。同じ――嘲弄され、辱しめられ、唾された者がいるというならば。もう、どこにも行く場所がない人間がいるというならば。その者たちが、私たちが耕した土地を奪うというのではなく、自らが開拓して住む場所を作るというならば。少しだけ協力をしようと呟いた。ポリドロ領民を名乗るというのならば、それだけのことをやってから名乗れと」 今度は澱みなく。 どこか清い水の感触さえ感じさせるようにして。 「沢山の古ぼけた農具を与えよう。沢山の使い古したオストラコン(陶片)を与えよう。沢山のボロボロの書物を与えよう。沢山の種苗を与えよう。そこまではしよう。どうしても、どうしてもポリドロ領に誰かを迎えたいというならば、最初から何もない土地を開拓してくれ。そこまでが、ポリドロという封建領主が婚約者にできる最大限の譲歩なのだと。ファウストは言った」 ヴァリエール・フォン・アンハルトという、私が生まれて初めて忠誠心という物を抱いた妖精君主が喋っている。 私の、私だけの。 「私は答えた。私がこの手で何もない土地に古ぼけた鍬を入れると。この手で石を取り除いて、この手で種苗を植え、この手で陶片を配って命令を与えて、この手で開拓の書物を読むと。広大なポリドロ領の土地における未開拓の、何もないところで私が村を開拓しようと」 私たちだけの、君主様が喋っているのだ。 「その……これから発言することが、大それた言葉だとは思っているの。苦労無しの選帝侯の第二子女が、愚かなことを言っていると思えるのかもしれない。そう思ってしまえたならば、私を見捨ててもよいわ。これから発言することは、私が勝手に思い詰めて、その挙句に思いついた夢物語のようなことで。何一つ、貴方たちの希望に則したものではないのかもしれない」 私たちだけのものだ。 そうだ、かつてのポリドロという一人のリーダーに従った人間たちとて同じことを思っただろう。 これは、私たちだけのものだ。 「もし、もし。この行軍が終わってしまって。どこにも行き場所がないというのなら。この先、どこにも腰が落ち着けるという場所がない者がいるならば」 だから、言ってほしい。 私たちは、貴方の言葉ならば、ヴァリエールという一人の妖精姫の言葉ならば。 「私と一緒に、ポリドロ領を開拓しましょう。市民権は与えられる。開拓費用は、なんとか用意して見せる。苦労はあるでしょう。畑仕事もしたことないでしょう。でも、私が最初に畑に鍬を入れるから。最初になんでもやって見せるから。だから、どうか……」 なんだって従ってみせるのだ。 ヴァリエール様の言葉、全てを言い終えたザビーネ卿が倒れるのを見て。 「私と一緒に、このヴァリエール・フォン・ポリドロになる者と一緒に。私たちが住める場所を作りましょう。ポリドロ領で一緒に開拓しましょう」 私は、私たちの傭兵団だけは少なくとも全員が、賛意の雄叫びを上げた。 第192話 教皇暗殺計画 「流石にこの展開は予想外だったが……まあ、誰にとっても悪くない結末ではないか。いや、巻き込まれたマインツ枢機卿は散々だがね」 アナスタシアが、羊皮紙を机の上に投げ捨てる。 今回のヴァリエール・フォン・アンハルトとマインツ選帝侯の争い仔細についてが記載されており、その全てを頭に叩き込んだ。 悪い結果ではない。 誰にとっても。 私などは口笛を吹きそうになってしまった。 「たった一つだけ譲れないものがある、か……」 かつて、このアスターテに対して、初陣後のヴァリエールが言ってのけた言葉を思い出した。 結局のところ、どこまでもヴァリエールは為政者として何ひとつ相応しくなかった。 あの少女がアンハルト選帝侯家を継げば、アンハルト王国など潰れてしまっただろう。 母であるリーゼンロッテ女王陛下や、姉であるアナスタシア、従姉妹である私が見込んだ通りの凡人にすぎない。 なれど、愚かな凡人だからこそ、誰もかれもが幸せであればよいと、どうしようもない寝言を本気で夢見る道化師だからこそ。 最後の最後まで何もかもが見捨てられぬと、自分が死んでも認められぬとあがき続ければカリスマ(神の恩寵)に至れるのかもしれぬ。 「ハーメルンの笛吹きのようだな」 ある笛吹きが、子供たちを連れさった童話を思い出した。 あの伝承のルーツは神聖グステン帝国における東方植民者たちが、その開拓に旅立った逸話を元にしたものと聞いたことがある。 あの何処にも故郷がなければ家すらない『ヴァリエールの落ち穂』どもは、彼女に率いられてポリドロ領に開拓に赴くのだ。 自分たちの本当の居場所を作るために。 いいだろう。 このアスターテとて、本当に能力がある者は、自分の人生に努力を尽くしたものすべてが報われるべきであれと祈っている。 我らが、彼女のこれからを応援してやろうではないか。 「アナスタシア、以前に凍結したポリドロ領の開発支援だが――」 「資金援助せよと? ファウストとその領民が移民も援助も嫌がるからと、一度は断念したのに?」 打てば響くように、アナスタシアは答えた。 少し呻き、こめかみを長い付け爪で叩きながらに呟く。 「難しい問題だな。ファウストとよく話し合わねばならぬ」 「確かにそうだが。今ならばきっと上手くいくはずだ」 結局のところ、ファウストはどこまでも領主騎士である。 なれど、ヴァリエールがその身を地面に打ち付けての懇願を断れなかった。 領主としての酷薄さと同時に、奇妙な善良さをも持ち合わせた結果として、ファウスト・フォン・ポリドロの人格を構成している。 開拓による植民は認められた。 アガペーと称して、最低限の援助も約束した。 なれば、話は単純だ。 「当初の我らの計画は移民と資材を大量に投下して、ポリドロ領を開発することであった。あの広大な農業適地のポリドロ領なれば最低人口2000はあってしかるべきだ。移民については今回の植民で賄える。後は資材、そして資金だ」 「素直にファウストが受け取るとでも?」 「受け取るさ」 ファウストは愚かな領主ではない。 最低限の援助しかヴァリエールに行わぬのも本音であれば、そのくらいしかできないのも本音なのだ。 先住民であるポリドロ領民の立場に配慮すれば、そんな身勝手をファウストがするわけない。 「領民への慰撫のため、現領民への土地開発のためと説明すれば必ずや金を受け取る。それすら拒むファウストではない。金を渡す理由については、まあヴァリエールが作ってくれた」 我が一族であるヴァリエールが、自分の部下を引き連れてポリドロ領に入植するという。 これは勝手をしたポリドロ領への償いと、そして婚約者であるファウストへの結納金である。 どうか受け取ってくれと。 「そうやって渡せばよい。金がファウストから領民に配られ、税も軽くするように働きかけろ。ちゃんとアンハルト家からも謝罪があったのだからと、我らの誠意さえあれば開拓民への悪意も薄らぐだろう。ヴァリエールの開拓も難易度が下がるはずだ」 「恩顧でファウストを雁字搦めにすることは出来なくなるがな」 そもそもの目的は、ファウストの好感度を得ること。 それに加えて、我らの愛人として恥ずかしくない程度の領地規模にしてあげたかっただけだが。 まあよいかと、アナスタシアが呟く。 そうだ、決して今回の騒動はアンハルト選帝侯家にとっても悪い話ではないのだ。 「まあ、公爵家から入植者にあてがう男ぐらいは私が調達してやる」 さすがにそれほど数は用意できんがな。 入植者1500に対して、50くらいが精々かな? と適当に試算する。 売春夫や、放浪民として安く叩き売られている男の子を買い取れば済むだろう。 この状況なら彼らの出自がどのような者であれ、文句を言うつもりもないだろうし。 男の側だって、元の環境よりはマシな暮らしができるさ。 そう言ってのける。 「……ヴィレンドルフとの国境線。緩衝地帯として、ポリドロ領を利用しようというつもりか?」 今の今まで黙って様子を窺っていた、カタリナがようやく呟いた。 もちろん、アンハルト選帝侯家としても利益を得ねばならぬ。 「そのつもりだ。これはファウストを夫とし、ヴィレンドルフ王家に子を迎えるつもりの貴女から見ても悪い話ではないはずだが?」 アナスタシアが告げる。 カタリナは少し考えて、まあそうだなと頷いた。 「なるほど、アンハルトがあまりにも身勝手な事をポリドロ領に対してすれば、逆にヴィレンドルフ側が親族関係であることを理由にして、こちらに受け入れても構わないということか。アンハルトの次代がヘマをすれば、侵攻によらずしてポリドロ領周辺の封建領主を引き入れられると」 「そういうことだ」 ポリドロ家にも武器を持たせてやろう。 ポリドロ領は現在アンハルトに属しているが、正直理由さえあればヴィレンドルフにいつ鞍替えしてもおかしくない位置に領地がある。 ならば、もう中途半端な嫌がらせなどはせずに、アンハルトが今後も無視できない環境にしてやればよいのだ。 アンハルト一族の血を引き継ぐヴァリエールの子がポリドロ家領主となり、またその異母姉妹にはヴィレンドルフの王がいる。 都合の良い立ち位置であると同時に、ポリドロ家も勝手をせぬ立ち位置だ。 「悪くない話だとは思わんか?」 アナスタシアが、カタリナに水を向けた。 欲しいものは、冷血女王カタリナが出せるもの。 「代わりに何をヴィレンドルフに求める?」 「開拓という事業にあたって、10年20年という時間はあまりにも短いと思わんか? 私はいつ敵国が攻めてくるかもわからぬ辺境領にて、可愛い妹に開拓などさせたくないね」 「和平交渉についてか」 カタリナが、ポツリと呟いた。 彼女はその冷えた頭で考えているのだろう。 金融を重視するアンハルトは別に領地拡大など望んでいないが、武力を国是として尊ぶヴィレンドルフは違う。 領地の再拡大を誰もが望んでいる。 悪魔超人レッケンベルがアンハルトに侵攻してきた理由にも、その側面は存在した。 もっとも、最近では何か別な理由があったのではないかとも思うが。 「いいだろう。自分の父親が住んでおり、異母姉妹が統治するポリドロ家と戦うなど、次代のヴィレンドルフ選帝侯家も望まぬだろうしな」 「では不可侵条約をここで」 「このカタリナが生きている間だけは、約束しよう」 カタリナは確かに約束した。 ヴィレンドルフとの長期間にわたる不可侵条約は、アンハルトに利益をもたらすだろう。 「……ヴァリエールの開拓詳細については、まあ後回しでもよい。どうせ開拓を始められるのは、我らが故郷に帰りついた後だ」 もっと重要な話があるだろうと。 アナスタシアは呟いた。 内心、最近可愛いと思っている自分の妹が一生懸命にやっていることを応援したくて仕方ないであろうに。 その顔はどう見ても人肉とか食べてそうであった。 だが、少なくとも今から話す話題は、その人肉食ってそうな顔こそが相応しい。 「ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンが到着した。カタリナ選帝侯御指名の暗殺者だ。サイコパスで人間のクズだ。ヴァリエールや身内以外の何を殺しても、何の痛痒も感じない。聖職者を殺せば絹の法衣を奪って、質屋に叩き売るだろう。そんな彼女を用いて、何をするかね」 私は呟いた。 誰もが理解していることを呟いた。 これから為すべきことは、特段大それたことではない。 戦場にて聖職者が死ぬことなど、何も珍しくはない。 先日マインツ枢機卿が殺されかけたようにである。 アナスタシアは望みを語った。 これから何をするかについて、理由と目的を単純に述べた。 「教皇暗殺だ。私の妹であるヴァリエールを殺そうとしたのだ。もはや話し合う理由すらないだろう。賽は投げられた。あの暴力教皇ユリアを、暴力をもって叩きのめしてやる。殴り殺した死骸を椅子に座らせて、その御前にて堂々とケルン派への異端認定を新教皇に取り消させてやろうではないか。薄汚い神聖グステン帝国の裏切り者を、晒し者にしてやる。次の教皇を誰にするかは、私とカタリナで決めようじゃないか」 静かに、本当に静かにだ。 人肉をたらふく食った大蛇のような、爬虫類の笑顔のままに呟いて。 アナスタシア・フォン・アンハルトは教皇をぶち殺すことを望んだ。 第193話 宗教改革の時代  怒号がマインツ選帝侯家の幕舎全体を包んでいた。 「母親の生死や去就ごときで、不利を呑む馬鹿貴族が何処にいる! オイゲン、それでもお前は私の娘か! たとえ母子の名乗りはせずとも、お前には最高の教育を与えていたつもりだ!!」  眼前にて母が激高している。  世間では――表向きには、この私オイゲンがマインツ選帝侯領の兵士、そして母のために窮したがゆえに、あのマルティナという小娘の提案を呑んだ。  皆の命を救うために仕方なくケルン派への転向を呑んで、衆目の眼前にて――ヴァリエールの手を借りて、ケルン派への改宗を行った。  そうなっているし、そういうことにしている。 「母上、まあ落ち着いてください」  両手で指を組み合わせ、落ち着かせるために笑顔を浮かべる。  この状況で、楽しい感情などがあるわけないが。  何はともあれ、母を納得させなければならない。 「これが落ち着けるものか! 嗚呼、オイゲンよ。確かにお前の判断自体は概ね間違っていない。見事と褒めるべき点もある。あの状況では降伏以外に手段など有り得ず、お前は私の予見をも超えた。ヴァリエールの婚約者であるポリドロ卿が参戦していることを読んだ。見事にヴァリエールへと直通で連絡する手段も見つけて、降伏するための嘆願を繋いだ。おかげで我が軍は致命的損壊を免れた」  そこまではよい。  そこまではよいのだ。  繰り言のように呟き、顔を両手で覆ってかぶりを振る。  母上は、悲しげに吐き捨てた。 「三聖職諸侯にして選帝侯。このマインツ枢機卿の後継者であるにも関わらず、お前はどうしてケルン派への転向などを呑んだ! 私など見殺しにしてよいから、死体など渡してしまってもよいから、降伏条件を譲歩させるべきだった。ここまでされたことの意味を理解しているのか!?」 「理解しているからこそ、そのように動かしました」  しれっと述べる。  すべて計算の範囲内だ。  もちろん降伏交渉である以上は損しかしていないが、少なくともマシといえる良い負けを選んだ。 「何!?」 「アドリブではありますが……まあ、ヴァリエール側の交渉人であるマルティナの好むようにさせてやったのです。ハッキリ言えば、此方側にも悪くない条件でありましたし」 「お前は何を言っているんだ?」  正気を疑ったように、母がこちらを見る。  私は正気である。 「確かにマインツ選帝侯家は三聖職諸侯の一つ、聖職者の立場であります。それが正統からケルン派へ転向させられる状況に追い込まれてしまった。これは一見問題ですね」 「そうだ、正統だの、ケルン派だの、いずれの宗派が正しいかなどは骨の髄までどうでもよい。宗教は神のものではない、人のものだ。このマインツ枢機卿に本音を言わせれば、人に難癖をつけ、暴力を振るい財貨を奪うための道具とさえ思っている! 自分の領地領民全てを保護するための盾で、市民のための財貨を蓄えて生活を豊かにするための道具に過ぎぬわ! 今回の敗北で大事なのは、正統を護るべき聖職者であるマインツ枢機卿の娘が、次期後継者が!!」  お前が。  アンハルト選帝侯家の後継者でさえないヴァリエールごときに屈し、異端審問への返し刀で転向させられたオイゲン・フォン・マインツが、今後はどの選帝侯家からも舐められるということだ。  そう母上が悲し気に告げ、それ自体は間違いではない。 「これの何処がマシな負け方なんだ。死ぬほどの屈辱以外の何物でもないだろうが! 領主が舐められるということは、それに従う全ての者が舐められるのと同じことだ! 我が領地が発行する貨幣の下落は当然の事、騎士も、兵士も、領民も、我が選帝侯領に住まう全ての人間が何らかの不利益を被らねばならぬ!」 「問題ありません」  すげなく言い返す。  何の問題もない。  我が母上は優秀であるが、どうにも状況が見えていないようだ。  ハッキリと言っておこう。 「確かに一時的に不利益は被りますが、それは降伏した時点である程度は呑みこまなければなりません。母上が今までの人生で溜め込んだ財産を放出して、慰撫してください。正統からケルン派へ転向した――転んだことについて、私は何の問題もないと考えております。良いタイミングだったからです」  あのマルティナという小娘は確かにえげつない選択肢を突き付けてきた。  一瞬は怒りに駆られたものの、少し冷静に考えれば悪い状況ではなかったのだ。  私は大層悔しそうな演技までして、受け入れてやったよ。 「母上、よくお考え下さい。かの異端と比べてさえ腐敗した我が正統の問題点は改善すべき必要があると、これは誰が誰に言わせた言葉でしたかな」  今からスコラ学の時間である。  母上に時代の到来について教えてあげねばならぬ。  質問を行い、それに対してゆっくりと考えさせてあげることにする。  少しだけ時間を置いて。 「暴力教皇ユリアの言葉だな。彼女が異端としたケルン派に対して、正統について教皇自らがどう看做しているかを。このマインツ枢機卿を通して、ヴァリエールに突き付けた言葉の一つだ」 「その通りです」  母上は愚かではない。  話せばわかる人なのだから、まあ大した手間ではない。 「正統は腐りきった。教皇でさえもそうハッキリと口にしてしまうほどに。リフォーメーション(宗教改革)の時代が訪れたのではないか。このオイゲンなどはそう考えているのですよ」  かつて、ある教皇が十字軍の遠征費用を稼ぐために贖宥状の販売を始めた。  そこからは落ちる一方だ。  男娼を買って市街にて悦楽を楽しむ詐欺的な姦通者、金により権限を売り渡す聖職売買者、肥えた身体を揺すりながら、貧乏で痩せた農奴に説教をする聖職者。  これらが現在の教会の有様である。  このような事は口に出さずとも、母上ならば理解していることだ。  正統の終わりは近いのだ。 「オイゲン、まさかお前。ケルン派が正統に取って代わると? ケルン派こそが正統になると?」 「いえ、そこまでは」  そんな世の中嫌ですよと、あんなイカレ宗教が主流派なんて。  そう少しばかりの本音を口にする。 「ただ、まあ少なくとも正統が、今の主流派が落ちぶれるのは間違いないですよ。そして、ケルン派がしばらくは隆盛する可能性が高い。案外、このマインツ選帝侯家とヴァリエールの戦が宗教改革の始まりだったなんて言われるのかも」  それは嫌だがな。  マインツ選帝侯家が負けたことを大々的に歴史書に残されるのは勘弁だ。  だが、まあ仕方ないかもしれないな。  我々は負けたのだ。  それはハッキリと認めるべきだった。  だからこそ、負けた分は勝つことで帳尻を合わせねばならぬ。  母上は、私と視線をじっくりと合わせた後に、困惑した表情で呟いた。 「お前は何を考えている?」 「乗り掛かった舟です。ここはケルン派に誠心誠意転向してやるべきかと。これからやることの協力をしてやろうではないですか」  要は、勝ち馬に乗るべきだと言いたいのだ。  正統とケルン派が争うのはもはや確定的であり、我がマインツ選帝侯家が口火を切って負けた。  そして、おそらくはヴァリエールの姉であり、アンハルト選帝侯家の正統後継者であるアナスタシアが教皇を追い落としにかかるだろう。  身内が、妹が殺されかけたことに対して報復をしなければならない。  そこまでは、このオイゲンほどでなくても誰でも読める展開だし。 「教皇が死ぬだろうと?」  時々抜けてはいるが、そもそも頭が良い母上ならば理解できるはずなのだ。  教皇はもう死ぬ。  必ずや殺される。  その時こそ正統の権威は地に堕ちて、ケルン派の隆盛が到来する。 「おそらくはファウスト・フォン・ポリドロ卿に殺されるでしょう。彼の超人がどれだけ抜きんでた騎士かは、実際に戦場で遭遇した母上が一番理解しておられるのでは? どうか、正々堂々とした一騎打ちにて殺されたいと願うほどの立派な騎士であったと、母上が自ら仰っておられたではないですか」  確信に近い。  あれは致命的な暴力だ。  人を殺害することで問題を解決する意思の塊だ。  ケルン派の熱心な信徒である彼は、必ずやケルン派に異端審問を突き付けたことに怒りを覚えており、婚約者を窮地に追い詰めたユリア教皇を殺害する。  彼の憤怒だけは、それこそ婚約者であるヴァリエールにすら止められない。  そこからの展開をどう上手く切り回すかは、アンハルト選帝侯家やヴィレンドルフ選帝侯家の手腕次第になるだろうが。 「どうせなら、勝ち組に回っておくべきだと?」 「ええ。ケルン派に転向し、ヴァリエールに人質として私が連れていかれることで、まあ少なくともアナスタシアやカタリナと言った人物は私に水を向けるはずです」  これから教皇を殺すつもりだが、マインツ選帝侯家はどうするかね?  そう尋ねてくるはずだ。  私はこう言おう。  さぞかし悔しそうに、とても腹立たしそうに。  何もかもを裏切られた被害者のように。 「我が母上は、マインツ選帝侯家はユリア教皇に騙されたのだ。本当はケルン派への異端審問も、ヴァリエール殿下への要求もやりたくなかったのに。ベルリヒンゲン卿への怒りをどうも利用されてしまったのだ。私は悔しい。私の母上を利用したことが、私が継ぐべきマインツ選帝侯家の皆を虚しい玩具のように扱いて、むざむざと死なせた教皇のことが。だから殺してやるつもりだ。教皇を殺すことについて、これからについても、このオイゲン・フォン・マインツに全面的に協力させて欲しい。何が必要ですか? と」  全て本当の事である。  何一つ嘘は言っておらぬ。  このオイゲンは、全く以てユリア教皇のせいで被害を受けた哀れな人物を装えた。 「そこまで言えば、まあアナスタシアやカタリナも悪いようにはしないでしょうね。私の事を死ぬほど嫌な奴だなと思うでしょうが。それ自体は貴族にとって誉め言葉です」  マインツ選帝侯家の権威は敗北により落ちたが、腐っても選帝侯家だ。  被害は大きいが、致命的な損害だって免れた。  母上が蓄財してきた巨額の金銭だってある。  少なくとも、粗雑な扱いを受けることはないだろう。 「母上、このオイゲンは必ずやマインツ選帝侯家の名誉を回復します。私たちを利用したユリア教皇の殺害に協力することで。勝ち馬のケルン派へ転向することで。私はそれが正しいと判断しましたし、これからそうするつもりです。まあ、見ていてください。母上が領地に帰る頃には、教皇殺害の報がマインツ領にも伝わることでありましょう」  おそらくはファウスト・フォン・ポリドロ卿が仕留めるだろう。  表向きには、全身が爆発して粉々になる奇病にかかったか。  健康の為に首に縄をひっかけて、帝都ウィンドボナの大鐘の代わりにぶら下がっている事故死か。  そこらへんが妥当だろうが。  私は笑顔で言ってのけて、呆然とした顔をしている母上を残して幕舎から立ち去る。  これから、ヴァリエールの元に人質として出向かねばならぬ。  笑顔で本音を包み隠すとしよう。  ドス黒い本音は、冷血女王カタリナや人食い蛇姫アナスタシアに出会うまでは隠す必要があるだろう。  そして、隠す必要があるのはそれまでだ。 「……母上と、我が領民を駒のように扱い侮辱した教皇を、必ずや殺してやる。見てろよ」  当面の目標は、それだけだった。  後はゆっくりと。  私を人質としたヴァリエールから情報入手でもしながら、のんびりと考えることにしよう。  宗教改革が行われ、教皇が死に、後は――皇帝の首も選帝侯家の誰かに切り替わるかもしれない。  血と硝煙、鉄の匂いのする突風が訪れることについて。  今考えるべきことは、それだけだった。 第九章 完 ------------------------------------------------------------------------- 第九章までお読み頂き有難うございました。 今年の更新はこれで最後となり、しばらく第十章である「教皇編」プロット構築のお休みをいただきます。ご了承ください。 (1月中に再開します) また、第8回カクヨムコンテストが開催されておりますので、当方もラブコメにて参加しております。 タイトルは「彼女でもない女の子が深夜二時に炒飯作りにくる話」です。 連載再開までの間、お暇であればお読みください。 教皇暗殺計画始動 第194話 物質を超えたパン  ケルン派の魂とはなんぞや。  生命の灯とはなんぞや。  肉の焔(ほむら)とはなんぞや。  姉妹に問いかける。  我々の宗派が何が為に自分の魂を、生命の灯を、肉の焔(ほむら)を燃やしているのか。  姉妹に問いかけるぞ。  我々は何を目指しているか、それを姉妹は答えることが出来るか。  それをちゃんと認識して、ケルン派として歩んでいるのか。  姉妹、貴女の考えを述べなさい。  そう尋ねたのはケルン派の枢機卿である。  真意を問われたのは一人の助祭であり、私であった。 ポリドロ領と呼ばれる僅か300名の領民が住む貧しい土地、ファウスト・フォン・ポリドロ卿が当主を務める封建領地にて信仰を灯すケルン派の助祭。  それが枢機卿猊下に拝謁する私の今の立場であった。 「はい、答えます。枢機卿猊下。私は『物質を超えたパン』こそが本願と考えております。アンハルトの司祭様には否定されてしまいましたが、この私の知識ではそれ以上の答えを導きだせません」  人はパンのみにて生きるにあらず。  そう贖罪主は仰った。  精神的満足・充実が無ければ人は生きていけぬと。  全く以て仰るとおりであるが、同時に人はパンを食べねば生きていけぬではないか。  ある日、一人の神母が呟いた。  別に、贖罪主の言葉を否定するために、そう呟いたわけではない。  ただ誰もが抱く共通認識であり、事実の確認にすぎなかった。  人は、パンとワインを口にせねば生きていけぬのだ。  魂を、自分の血肉を保つためには何か食べなければならぬ。  だが貧しかった。  ただひたすらに、私たちが生きるこの時代において、人々は貧しかった。  皆が貧しくて、畑をいくら耕しても腹いっぱいになれる者などは少ないのだ。  腹いっぱいまでパンとワインを口にできる者。  それは王様、貴族、宗教家で。  戦う人が先で、祈る人も当然先で、働く人は最後も最後。  畑をいくら耕しても、自分が耕した作物を満足に口にできる農民などは数少なかった。  だから、どうにかして、誰もがどうにかして。  心ある王様も、信念ある騎士も、ただお腹が空いているだけの農民も。  誰もが作物の収穫量を増やそうとして、畑を耕して、そこから食べ物を得ようとした。  土から作物を得て、また作物で家畜を養い、食料を得る方法を手に入れようとした。  では、宗教家は?  一人の神母が自問自答した。  食料の貯蔵・生産を目的として政治に専念できる王様を産み、官僚を産んだ。  領土を奪うために、防衛するためにも騎士を産んだ。  では宗教家は?  人を慰めるために存在するという側面を見るとして。  果たしてその領分を全う出来ているのか? 「人はパンのみにて生きるにあらず」と声高に説教が出来る宗教家など、もはや一握りとているものか。  世間を見よ。  男娼を買って市街にて悦楽を楽しむ詐欺的な姦通者、金により権限を売り渡す聖職売買者、肥えた身体を揺すりながら貧乏で痩せた農奴に説教をする聖職者。  これが堕落した教会の現状である。  何が正統だ、笑わせやがる。  お前らは全く以て落ちぶれやがったのだ。  贖罪主が目の前におられれば、こう仰せになるだろう。 『ブクブク肥えた醜い体で祈る暇があったら鍬で畑を作りやがれ豚ども。それすらできない豚は屠殺場へ行け』  ある日、一人の神母がそう声高に罵った。  彼女は異端とまでは呼ばれなかったが、教会からは叩きだされた。  その叩きだされた神母が一念発起して作り上げたものが、ケルン派という宗派の始まりと言われている。  だが、事実かどうかは知らない。 「私がケルン派の信徒となり、一姉妹として家を飛び出して。教会に入った当時はそう伺っておりました」  最近、また更新されていると写本家の姉妹が呟いていた。  新たに古文書や資料が『発見』されることにより、そのクオリティ次第ではケルン派の来歴や、聖書が差し替えられることなど珍しくもなかった。  最高に人の心を揺さぶる内容であれば、永遠に『新世紀贖罪主伝説』に発見者の名前と、そのエピソードが刻まれるのだ。  もちろん、世間の流行と言うものは我ら宗教家こそが読みとらねばならず、最新版を闇雲に発行するだけでなく、過去の版の再掲載も当然必要であるとして、本拠地に厳重に保管されている。  時々、昔のあの話が載った版が読みたいと姉妹はもちろんのこと、王族や貴族、商人などからも発注がかかるのだ。 『新世紀贖罪主伝説』に一度でも載ったことがある以上は、どれもこれも力作揃いであるとケルン派の聖職者なれば胸を張って言えるのだ。  我ら姉妹はケルン派の本拠地から各地方に塩と一緒に配布される最新版を楽しみにしているだけでなく、ちゃんと保管されている過去の版にも目を通して、その発見者である姉妹に手紙を送ったりもしている。  文面はこうだ。 『はじめまして、アンハルト王国とヴィレンドルフの境目にある、ポリドロ領にて助祭を務めているアルマと申します。〇版、〇章の姉妹の発見を拝読いたしました。全く本章のエピソードは素晴らしい内容で、私などはただひたすら感服して姉妹の発見に対する感動に打ち震えるだけでありました。僭越ながら、姉妹のファンになってしまったことをお許しください。最近は『発見』にあまり参加できず、やはりインスピレーションは若い姉妹の特権だ、などと巻末の発見者あとがきにて書かれておりましたが、そんなことはありません。姉妹は素晴らしい『発見』実績があり、今後も活躍されることを誰もが期待しております。ポリドロ領の神母様も『この方、もう私の若い時には『新世紀贖罪主伝説』の半分を埋め尽くす勢いで発見してたんだから。本当にケルン派信徒の誰もが熱中したのよ』と口にしておりました。姉妹の『発見』をこれからも期待している私のようなファンがおりますことを、お心に留めて頂けますと嬉しいです。追而書、ポリドロ領は辺境地のため返信不要です』  もちろん、ケルン派において名高い発見者である姉妹は高い地位にあり、普段は彼女に対する礼法を弁えねばならぬ。  このように気軽な手紙なんて本来は失礼に値するのだが、『発見者』と『読者』では階級差をあまり意識せぬようにというのがケルン派の方針であった。  節度を以て、同時に傲慢の悪徳を抱かずというのがケルン派姉妹全てに求められていた。  一般姉妹は『他人の発見を見て、観賞という方法で批評する』という行為で信仰を表現し、写本参加者は『インスピレーションにより新たなる発見を行う』という行為で信仰を表現し、聖書を発刊するケルン派総本部は『新世紀贖罪主伝説のクオリティを常に高め、維持する』という方法で信仰を表現している。  誰もが同じ姉妹なのだ。  誰の地位が高くて、誰の地位が低いという区分けは組織運営上どうしても必要だが。  聖職者の本分たる信仰が何より大事であることを忘れてはいけないと、歴代の枢機卿は仰っている。 「姉妹よ。違います。『物質を超えたパン』はケルン派の本願ではありません」  枢機卿猊下は、静かに私の言葉を否定された。  ですが、と口にしようとして止める。  反論をすることは傲慢である。  ケルン派帝都大聖堂。  天井のステンドグラスを静かに指さして、枢機卿は語られた。 「『物質を超えたパン』は至る道の、経過点に過ぎません。もっともっと、遠いところにあるのですよ。空に浮かぶ星々よりも、それはきっと遠くて――月まで辿り着くような。同じことをアンハルトの司祭も言ったことでしょう」  厳かに、枢機卿の御言葉が紡がれる。 「きっと、貴女はこの帝都にて、ケルン派の本願その全てを知ることになるでしょう。そう遠い日ではありません。その時、私はおそらく異端審問にて教皇にお呼ばれしている頃でしょうが」 「枢機卿猊下、そのような要求など突っぱねてしまえば」  断ってしまえばいいのだ。  私が派遣されている領地のファウスト様も、激怒しておられるのだ。  このまま甘んじてそのような要求を受け入れる必要はないと、すでにアンハルト・ヴィレンドルフ両選帝侯に訴え出ている最中である。 「さて、どうしましょうかね。私は教皇に色々とお話ししたいことも、お聞きしたいこともあります。命を賭すことで教皇が隠されている秘密を明らかにし、そしてどのようなお考えでケルン派に異端審問を仕掛けたか知るというのも――この老骨の身の処し方としては悪くないでしょう」  枢機卿はそう仰って。  私に両手をすっと差し出した。 「それはさておき。姉妹がせっかく帝都まで辿り着いたのです。先に旅の目的を達成してもらうとしましょう。さあ、この手に聖遺物を」 「はい」  私は頷いて、両手で聖遺物を持ち上げた。 『聖ゲオルギオスの聖なる戦棍』である。  ケルン派に改宗した民衆の前にて、聖ゲオルギウスがこの聖なる戦棍で滅多打ちにしてドラゴンを殺処分なさったという聖遺物である。  両手でそれを掲げ、崇敬の念を抱いているようにして、丁重に枢機卿猊下に見せる。 「よろしい。受け取ります」  枢機卿猊下は老骨なれど、ケルン派としてよく鍛え上げられている。  それを受け取りて、ぐるんと手首を返した。  戦棍を振るためではない。 「さて、と」  猊下が欲したのは、柄の真下を見ることであった。  右手で柄を握り、左手で何か蓋を回すような仕草をする。  いや、仕草ではなく、実際に回しているのだ。  柄には溝があって、柄の真下には蓋があって回転させることが可能で、柄の中には僅かな空洞があった。  枢機卿は右手で戦棍を持ち上げて、それを少し振って。  左手で、空洞に入っていた中身を受け取った。 「アンハルト司祭の研究進捗はどうでしょうかね。ああ、残念ですが助祭にこの内容を教えるわけにはいきません。いつか教える日も来るでしょう。ご苦労でした。貴女の部屋はちゃんと用意してありますので、部屋の外で待っている姉妹に案内してもらいなさい」 「はい」  枢機卿の左手には、一枚の丸まった羊皮紙と。  後は、何か奇妙な形をした弾丸が収まっていた。  はて、アレは何だろうか。  羊皮紙の内容も気になるが、それ以上に弾丸が気になっている。  アレは確かに弾丸のはずだが、それにしたって奇形であった。  マスケット銃の丸い弾丸ではなく、椎の実のような形をしているのだ。  聖遺物の柄と同じく、弾丸の底には溝が切られており、凸凹があった。 「溝を切る冶金技術は完成したということか。これならば、弾丸だけでない。銃身内部に溝を切ることもできよう。大量生産することだって可能だ」  背を向け、静かに立ち去る中で枢機卿の御言葉を聞き取ってしまう。  わざとではないが、私はどうも耳が良いのだ。  言葉を拾って、それにどのような意味があるのかと考えてしまう。  どうせ、部外者の誰にも口に出来ぬことであるのにな。 「だが、欲しいものではなく、その副産物ばかりが産まれてしまう。我らケルン派の本願はまだまだ遠い」  枢機卿のボヤキのような言葉を耳で拾いながら。  さて、ともあれ私は旅の役目を終えたのだ。  明日にもファウスト様、そしてヴァリエール様のところに出向くとしよう。  そして、枢機卿猊下と、ケルン派のために動くとしよう。  この助祭アルマは教皇を暗殺できるならば、自分の命だっていらないと考えているのだ。  そうアナスタシア殿下やカタリナ女王に訴えるつもりであるのだ。  だから――枢機卿猊下には、早まった真似はして欲しくないと振り返って言おうとして。  何もかも御見通しのようにこちらに視線を合わせた枢機卿を見て、何を言っても通じぬだろうと察し、それを静かに諦めた。 第195話 老猪テメレール公の献身  形の良い唇に、物言わぬ骸骨のしゃれこうべを住み処にしている蛇のようにして。  長い舌を伸ばしながら、アナスタシアは吐き捨てた。 「ケルン枢機卿の身柄が、教皇に捕縛される事をみすみす見過ごせと言うのか?」  トントンと、指でテーブルを叩いている。  機嫌は悪いようだ。  周囲を、軽く見渡す。  アンハルト選帝侯家、第一王女アナスタシア。  ヴィレンドルフ選帝侯家、当主カタリナ。  マインツ選帝侯家、指名後継者オイゲン。  そして、テメレール公爵家の当主たる私ことシャルロット。  この四人にて会議は進行している。  アナスタシアの相談役であるアスターテ公爵、またそれぞれ信頼のおける人間なども背後に並んでいるが発言権はない。  さて。 「私の騎士団に派遣されている『ケルン騎士』にご機嫌伺いをさせたのだがね。帝都から身をかわすのはもちろんのこと、私たちに保護されるのもお断りするとのことだよ」  どうにかして、この「教皇暗殺」を目的とした会議を暴走させず、コントロールせねばなるまい。  若い連中を導いてやることが、この老猪の務めというものであろう。  そのように誘導されていると若者に気づかせずに、とはいくまいが。  酷く単純な男であるファウストとは違い、この選帝侯や後継者連中を騙すのは不可能だ。  まあファウストはあの単純なところが酷く私の心を掻き立てるのだがね。  私の言葉を素直に聞いて、真っすぐに見つめてくれる時などは、背筋がぞくっとするのだ。  そんな性癖話は置いておくとして、だ。 「ケルン枢機卿は、もし身柄を捕縛されて異端審問に付されても拒否をしないと?」 「教皇が何を御考えになっているかを問い質し、結局この『帝国』と『宗教』をどう導きたいのかを尋ねたいとのことだ。そのために自分の命がどうなるかは埒外だと」 「愚かな」  アナスタシアが愚劣と切って捨てる。 「異端審問など乱暴で恣意的な結論を口にするための偽物の法廷に過ぎず、自分が完全な正義だと口にするおぞましい宗教家は血に飢えた弾圧者に過ぎぬ。正義もなければ公平もなく審判でさえない。我、斯様な神の力をば得たり。我を見よ、我を見よ、我らは正義の代行者なりと神に仕えるのではなく神の力に酔った阿呆が異端審問官だ。そのようなこと問い質す間もなく殺される」 「ケルン枢機卿はそう考えていないようだ。付け加えるなら――」  一度、意図的に口を澱ませて。  これは私の意見であり、まあ間違ってはいないのだと情報を提示する。 「少なくとも、教皇はケルン枢機卿に対しての『お前を殺す理由』について異端審問という表向きの理由をとってこそいるが。隠している本当の意図があるだろうし、それを枢機卿には処刑直前に口にするだろう。このテメレールが保証してやる」  教皇は自らが信仰して守護すべき『正統』が本当に綺麗で正しいものだなんてこと、欠片も信じていないのだ。  むしろ腐敗した現状を嫌ってすらいる。  もっと、何か、別な価値観を信仰しているように思えた。  彼女は帝国をモンゴルに売り渡す裏切り者で、売り渡した結果帝国の民がどうなろうが知ったことではないと考えていることには違いなく、断じてこのテメレールとは手を結べないが。  私は教皇が考えていること『だけ』には、少しばかり興味がある。 「そんな事を知ったところでどうしたいのだ? 何の意味がある? 何の価値がある? ぶち殺してしまえば全てが解決する。ぶち殺さなければ何も解決しない。それが全てだ」  カタリナが、本当に不思議そうに尋ねた。  彼女にとって、ヴィレンドルフの女王にとってはどうでもよいことだからだ。  教皇の首を刎ねて、木材や葡萄の枯れ蔓、麦わら、使い古した網などと一緒に燃やせば全て片付くと考えている。  シンプルに、敵対者をぶち殺すことだけで、眼前の問題を解決しようと考えていた。  そいつが何考えていようが、燃やしたら何もなくなるから気にする意味などないという思考回路なのだ。  ヴィレンドルフにはこんな奴しかいない。 『あの』レッケンベルは英明であったが、同時にこういう性格でもあったなと懐かしさを覚える。  感情も知らぬ冷血の娘であろうが、『あの』レッケンベルに育てられたならこうもなろうが。 「……レッケンベルの娘よ。人は理解を求める。納得を求める。共感を求める。このテメレールがお前らに協力しているのは、断じておのれら選帝侯の利益のためではない。おのれらより帝国における爵位が下だからといって、私が家来同然に扱われてよいなどとは思っていないことを知れ。人を動かすには利益と納得が必要であることぐらいは理解しているだろう」  思わず罵ってやりたくなるが、そのようなことをしても問題は解決せぬ。  私は私で、アナスタシアやカタリナの納得を得なければ目標は達成できぬ。  仕方あるまい。 「ファウスト・フォン・ポリドロ卿がおのれらに従うのも利害関係だけではないように」  本音であると同時に、アナスタシアとカタリナが懸想する男騎士の名を出す。 「アナスタシア殿下が私のために頭を下げて、モンゴルに抵抗するための協力をアンハルトの騎士に呼びかけてくれたのだと。ゆえに私は信頼を達成せねばならぬと彼は語っている。仮に私が彼女に誓いを果たせぬときは自刃して詫びるのだと」  アナスタシアの瞳を見つめながらに呟く。  お前如きに、惚れた男であるファウストの事を口にして欲しくないと睨んでいる。  彼女は気性難の蛇女だった。 「私はかつてカタリナ女王と母への愛と、その捧げ方について共感を共にした仲である。将来、子供を作るために番うことを約束した仲である。私はカタリナ女王を裏切ることは生涯において有り得ぬと誓っていると、あの男は語っている」  カタリナの瞳を見つめながらに呟く。  お前如きに、惚れた男との関係について、何故そのように口にされねばならぬのかと睨んでいる。  彼女は気性難の冷血だった。 「貴女達とファウストの間には王と騎士の主従関係があり、利害関係があり、それ以上に信頼と愛による理解と納得と共感がある。人は納得せねば動かぬ。殺される恐怖への妥協は殆んどの者がするが、もし納得に至らねば首を刎ねられても人は断じて動かぬ。どうしても納得をせねば他人は思うように動いてくれぬ」  業腹ではあるが、ファウストとの関係について触れてやることにする。  ファウストが、アナスタシアとカタリナを心から信頼していることについて。  なんで私が惚れた男であるファウストと、他の女との関係における尊さを口にしてやらねばならんのか。  ウンザリとするが、この二人の機嫌をとってやる手段が他に思い当たらぬ。  褒め称えたのに睨まれているのが現状だが、水面下では彼女たちの機嫌は改善されている。  そうであってほしい。  そうでなければ、私が惨めになる。  ファウストに砕かれた頭蓋の傷口が、まだ痛む気がした。  医者からは完治を告げられたのだが。 「要するに何が言いたいんです?」  オイゲンが空気を読んで呟いた。  コイツもコイツで何を考えているのかわからぬが、母親であるマインツ選帝侯を侮辱された事実だけで、教皇をとにかくぶち殺したがっていることだけは理解している。  殺意の高い連中しかいないのか、ここには。  私とて裏切り者である皇帝も教皇も死んでしまえばいいとは思っているが、正直手段としてモンゴルからの防衛さえ成り立つのならば、誰が皇帝でも教皇でも文句などはなかった。  だが、もう教皇は殺すべきだろう。  あまりにも選帝侯達を舐め過ぎた。 「教皇は殺す。必ずや殺す。その手段はもちろん、世間に公になることも、逆に秘匿されることになっても問題はない。ぶち殺せば、どうとでもなると考えている。暴力こそ全てだ、それが世の中だ。教皇が私たちを舐めた以上は、必ずやぶち殺さねばならない。妹君であるヴァリエール殿下が教皇に意図的に殺されかけたという風評は、すでに帝都にて流れ始めている。こうなっては、アナスタシアなどは必ずや教皇を殺さねば面子に関わる。それは事実だが」  三人の意に沿う回答を先に告げる。  私は若さゆえの暴発を恐怖している。  この三人なら教皇を殺すという目的を達成するだけならば、それは容易いであろうさ。  めでたしめでたしで、グッドエンドだ。  だが『教皇暗殺計画』というシナリオのトゥルーエンドを達成するにあたっては足らぬ。 「ケルン枢機卿の納得をそれで得られるのか? というのが私の懸念するところである」  あの狂った異端どもから、それで納得は得られないと考えている。  お前らの達成目標と、私の達成目標は異なると理解してもらわねば困る。 「ケルン枢機卿の個人的な納得を得られぬから今は待てと? 坊主の戯言など無視してしまえばよろしい」  オイゲンが吐き捨てた。  三聖職諸侯になる予定であるお前も、一応は坊主だろうが。  問題がそう容易く解決するならば、このテメレールとて教皇をさっさと殺している!  激怒しそうになって、ファウストに叩き割られた頭蓋がまた痛む。  これは冷静になれと、自分の体が訴えているのだと解釈する。 「ケルン派全体からの理解を得られぬと口にしているのだ。はて、何故ケルン派は異端審問を受けたのかと、枢機卿も信徒も疑問に思っている。おそらくは教皇から真意を聞くまでは納得せぬ」  私はそのように呟いて、周囲を見渡した。  アナスタシアが、『人食い蛇姫』が不思議そうに呟いた。 「ケルン派が異端だからだろうが。異端じゃないか。どう見ても異端だろ」  アナスタシアが三度も指摘した。  無視をする。  そんな誰もが知っている事実を聞いているわけではない。 「ケルン派にとって今回の異端審問は本当に意に沿わぬことである。贖罪主のエピソードを沢山『発見』して最も尊い神の言葉を民衆に伝えてきたと思っていよう」  そうだろう、とカタリナに視線をやる。  彼女は答えた。 「ヴィレンドルフのケルン派などは、魚の頭でも信仰は集められるのだ。大事なのは、その宗教によって本当に人が救われるかどうかという結果に過ぎぬ。私たちは善男善女の救済のためなら手段など問わぬし、異端と呼ばれても何も気にせぬ。何故なら私たちは狂っているからと。そう語っていたが」  異端だと自分たちで認めているんじゃねえよ、クソボケども。  ヴィレンドルフは狂っているので、その中でのケルン派はより一層狂っている。  そう呟こうとして、辛うじて堪える。  私は一応、念のためオイゲンを見た。 「異端です。もうケルン派なんて消えてなくなってしまうべきと考えています」  オイゲン・フォン・マインツよ。  お前はケルン派に改宗したばかりだろうが!  そう言いたくなるが、まあ彼女は別にケルン派を本気で信仰してはいないだろう。  この帝国の状況を生き抜くための手段として、ケルン派を装っているだけに過ぎぬ。  ここでケルン派は異端ではないと言われたら怖い。  ケルン派最高! ケルン派最高! などと叫ばれたら会議室からすぐ叩きださねばならなかった。  狂人とは会話が出来ぬからだ。  認めよう。 「ケルン派は確かに異端だ。だから、どうしたというのだ」  もう、異端かそうではないかなど、議論する意味はない。  モンゴルから帝国を護れる人間なら皇帝や教皇が誰でもいいのと同様に、宗教が正統であろうが異端であろうがどうでもよかった。 「大事なことは、ケルン派が銃や砲兵に関わる開発状況の全てを握っているということだ。絶対に胸襟を開かせ、モンゴル戦のために必要な全ての知識を手にせねばならぬ」  今、ケルン派の意向を無視して機嫌を損ねるわけにはいかんのだ。  オイゲンは酷く不満そうな顔をしている。 「そのために、ケルン派の好きなようにさせろと? 私たちが今こうして、舐められている現状を無視して?」 「少なくともケルン派枢機卿が納得して、正統に逆らいて銃を向ける気になるまでは、好きなようにさせてやるべきだ」  舌打ち。  それを放った相手はアナスタシアであり、食した人肉が不味かったような表情で顔をしかめている。 「計画を中断せよと」  とん、と人食い蛇がテーブルの上の資料を指で叩いた。  そこにはザビーネ・フォン・ヴェスパーマンという名前の紋章官もどき、いや、殺し屋か。  彼女が考えた教皇殺害計画が記されている。 「そもそも、大聖堂を火薬で木っ端みじんに破壊して、そこから這い出てきたものは教皇だろうが司教だろうが全て皆殺しとは何だ。暗殺でも何でもないだろうが。これに書かれている教皇100点、司教20点、司祭10点、助祭2点とは何だ。何の点数だ」 「聖職者を沢山殺して点数を集めると、騎士受勲や大金貨などの褒美をやるシステムを作った。聖職者を殺す人間はヴァリエールの傭兵でも、ランツクネヒトでも、なんならそこらの浮浪者を束ねている乞食親方でも良い。色々なところに手を伸ばし、殺害希望者を募るつもりだ」 「すぐに計画を破棄しろ」  もはや暗殺でもなんでもない。  面子を潰されたアンハルト選帝侯による報復であり、一方的な聖職者の虐殺が巻き起こったと歴史書には書かれるだろう。  教皇側も抵抗するだろうが、穏当な手段を選択しない場合のアナスタシアには勝てないだろう。  性質が悪いことに、ここまでやったところでアナスタシアの名誉は別に地に堕ちず、選帝侯継承者としての面子を施したにすぎぬレベルの世論まで彼女は持っていくつもりだということだ。  いや、事実それぐらいやってのけるだろう。  このようなことをして、帝都がどれだけ混乱してもよいのか。  一応はそう告げてやるが。 「別に帝都が混乱したところで皇帝が困るだけだろう。アンハルト選帝侯家は何も困らん。自分の領地でもなんでもないんだぞ。なんで自分の国民でも何でもない連中の為に心を砕いてやらねばならんのだ。阿呆らしい。アンハルトの面子と帝都の混乱を比較するなら、当然アンハルト選帝侯家の面子が優先されるべきだ。教皇を殺す。死体を椅子に座らせて罪を問う。操りやすい別な誰かに教皇座をくれてやる。それだけだ」  ……まあ、そう言うだろうな、お前は。  極論言ってしまえば、ここにいる私以外の誰もが帝都の民がどうなろうが知ったことではないのだ。  このテメレール公爵家を含めて皇帝には一応忠誠を誓っているということに表向きはなっているだけで、なっているだけだった。  帝国がどうなろうが、最悪は自分の領地領民さえ安泰ならどうでもよかった。  だから絶望をしたのだ、私は。  あの帝国を本気で守ろうとも考えていない皇帝が、こんな連中を、選帝侯達を纏められるわけがない。  ちゃんと協力し合うことで、ようやくモンゴルに対する勝ち筋も見えようというのに。  なんで私は、このテメレールは皇帝でもなんでもないというのに、この化け物どもを纏めようとしているのだろうか?  理由はたった一つだ。  騎士として、私に一騎打ちで勝利した男と交わした約束のため。 「ファウストは今頃何をしているのだろうか?」  この場には存在しないが、やはりアナスタシア同様に怒り狂っているはずである。  ケルン派への信仰厚き騎士である彼の事が気になったが。  何はともあれ、選帝侯達による教皇への性急な殺意を止めるのが、グッドエンドからトゥルーエンドに事を運ぶことが、この猪突公テメレールの役目だった。 第196話 暗殺計画現場班 「一生懸命考えたのにな。政治の都合で私の完璧な計画が無視されるとは……」  聖堂を火薬で木っ端みじんにして、そこから這い出た人間を鴨にして撃ち殺す。  点数も頑張って配分良く付けたし、聖職者を沢山殺して立身出世が叶うのだから、これはもう兵心に訴求を投げかけること間違いなしなのだ。  すごく良いアイデアなのに。  これ以上に良いアイデアは無いのにと。  ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンは悔しそうに嘯いた。 「そう思わないかい。愛しのファウスト」  話がこちらを向いたので、愛用のグレートソードの手入れを一度止める。  今は鍛錬場にて、ヴァリエール殿下の親衛隊と一緒に武具の手入れをしている最中であった。  すでにどうすべきか決めてはいるのだ。  我らの信仰が、私の大事な領地領民の誇りが侮辱された。  その事実が先にあり、その結末などは決まっている。  そうされた人がどのように怒り狂いて侮辱した者を無茶苦茶にするか、教皇に思い知らせてやらねばならぬ。  それだけであり、方法についてはどうでもよかった。  だが、しかしだ。   「ケルン枢機卿猊下の本意に沿わぬというのであれば、仕方あるまい。一旦矛を収めよう」  私としても、ザビーネ卿のアイデア自体はそれほど悪いものではなかったと判断している。  要するに、敵勢力を誰彼構わず皆殺しにさえしてしまえば、相手は何も喋れなくなるのだ。  死人に口はない。  これ以上にシンプルな問題解決方法はどこにもないのだ。  だが、本当に口を無くしてしまえば、教皇の真意が聞けぬと枢機卿猊下は仰る。  納得が必要だという、それも理解ができるのだ。 「どうしようもあるまい」  私が受けた教育では、この世界で騎士として生きてきた常識ではアナスタシア殿下が断然正しいことになってしまうのだがな。  母マリアンヌも生前に「舐められたら殺せ」と言い残しているのだ。  だが、テメレール公爵は私などよりも広い見識を持っているのだ。  彼女は皇帝位を簒奪することで、自分が皇帝になることでモンゴルに対抗することを考えていたし、教皇の暗殺さえもずっと考えていた。  それこそ、このファウスト・フォン・ポリドロがモンゴルの存在を知るよりも以前から。  ならば先達の教えを粗略にするわけにもいかぬ。  彼女こそが、私よりも真剣に帝国が置かれた状況を見据えることができる。 「……」  今は大人しく待て、のタイミングだととらえる。  だから犬のように腹を地面につけ、大人しく待つこととしよう。  私は指示待ち人間で良いとは考えていないが、指示がなければ今動くタイミングではないとも理解している。  この身一人で聖堂に殴り込み、教皇の首を捕まえてケルン枢機卿猊下の眼前に突き出すわけにはいかぬし。 「頼むからファウスト。暴走だけはやめてくれよ。いくら何でも、聖堂に単身で殴り込めば死ぬのは目に見えている。強力無双の超人でもどうにもならぬという状況が、あの場所では確実に産まれる」 「私でもどうにもならぬと?」 「確実に死ぬだろうね。聖職者に喧嘩が出来ないと思うのはとんでもない勘違いだ」  聖堂に殴り込むのは不味い。  それだけは避けるべきだと。  そうザビーネは最初から提案し続けている。  私などは彼女の取り決めた計画により、この単身が潜り込んでの暗殺などを考えていたのだが。  それは彼女に明確に否定されていた。  絶対に死ぬからやめろと。 「火薬で爆破して、死んでも別に良い人材を大量に叩き込んで坊主を皆殺しにするというのは、別にお遊戯で言っているんじゃないんだよ。聖職者がどれだけ身内で殺し合ってきたと思ってるんだ。教皇がどれだけぶっ殺されてきたと思ってるんだ。教会が燃やされたり、その中で司祭が首を括られていることなんて珍しくもない。地位・名誉・権力に溺れれば、誰もがブクブク太った豚になるというのはとんでもない勘違いさ」  より飢えた狼になる奴だっているだろう。  コンクラーベで何人もの聖職者が土地を追われたり、金を配ったり、金を奪ったり、聖遺物がそこかしこに動いたり。  いつの間にか寝台にて、冷たくなって死んでいたりするなんて不思議じゃない。  同じ名前を名乗るだけの全く違う人物が、ある教会の司祭ですり替わっていた。  本物は何処かの地面で冷たくなっているなんて話さえも、大して珍しくもない。  聖職者は長年にわたる暗闘を続けてきたのだと、ザビーネは告げる。 「教皇独自の兵もいれば、優れた傭兵も雇い入れており、暗殺者の部隊だって飼っている。教皇を殺すってのはそう簡単じゃないんだよ。だからあの猪のテメレールばあさんだって、今まで殺せていなかった。状況は変わったがね。それこそ選帝侯三人が名誉を汚されたと公に宣言し、なりふり構わずに殺しにかかれば、皇帝すら抵抗は無意味だよ。今回もそれでどうにでもできたはずだけど」  だが、どうにも駄目だね。  ケルン枢機卿猊下の許可がないなら何もできないとあれば、このザビーネは状況をコントロールしきれない。  現場は常に、流れる水のように流動的にしなければと口にする。  私は静かに頷いて、理解した旨を教えた。 「こちらの組織的にはどうなっているのか」  単身で乗り込むのではなく、組織的な争いになるのであれば、命令の上意下達を明確にしなければならぬ。  いざという時に混乱されると困るのだ。 「総指揮は選帝侯三人から、猪ばあさんに移譲された形になっているね。ばあさんは、お前らの気が変わったら即座にはく奪される権限で総指揮? 何の冗談だろうかなんて愚痴ってたけど。まあ、ちゃんとやるだろうね」    まあ、テメレール公の発言で全ての状況を推し進める以上は、彼女が苦労するのは仕方ない。  可哀想に思う心がないわけではないが。 「猪ばあさんは手練手管に長けているね。絶対に裏切らない諜報員を、傭兵や兵士として十数名埋伏させているって言ってたよ。情報は滞りなく入ってくるだろうことを確約してる。ああいうのが母親だったら、私も家出なんかしなかったんだけどねえ」  ザビーネにとって、テメレール公は評価に値すべき人物のようだ。  それはそうとして、彼女をばあさん呼ばわりは止めてやれよ。  確か、まだ28歳だと口にしていたぞ。  私の性的な評価でいえば守備範囲内なんて評価どころか、むしろダイレクトに私の心を撃ち抜いている。  この世界においてはそうではないがな。 「まあ、ともあれ総指揮は彼女さ。だが、最悪は暗殺部隊に配属されることになるファウストにとってはあまり考える必要もない。で、暗殺部隊の指揮官は私、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンということになるね。従ってくれよ、ファウスト」  少なくとも上司に不満はない。  私はテメレール公はもちろん、ザビーネの能力も認めているつもりだった。  この愚かな頭では、両者の能力がどこまでなのかは理解できないがね。 「ちなみに暗殺部隊の人員は、テメレール公の超人部隊『狂える猪の騎士団』と、あとヴィレンドルフのユエ殿だね。表からの平攻めをするなら、私たちなんてお呼びじゃないんだろうけどさ。あるいは両方で聖堂に攻め入るかもしれない」 「暗殺部隊の人員は足りているか?」 『狂える猪の騎士団』配属の六名と、ザビーネ卿と、ユエ殿と私で9名か。  単身で潜入しようとした私が口にする権利はないかもしれないが、ちと少ないのではないか。 「……足りないね。全然足りない。まあ、このザビーネ以外の8名が肉体的超人というのは心強いものがあるけどね。色々と他にも潜入や暗殺に慣れた者の手が欲しい。アスターテ公爵にも強請ったんだけど、表から攻め入ることになるかもしれないから人は寄越せないってさ。小細工にはウンザリだって状況になれば、アナスタシア殿下が自ら聖堂に、第一王女親衛隊全員を引き連れて総員突撃するかもしれない状況で人は減らせないって」  アレクサンドラ殿辺りは欲しかったんだけれどね。  第一王女の親衛隊を率いる人が他にいないから無理だって。 「ではどうする? ヴァリエール殿下の騎士同士だろうという伝手で、ベルリヒンゲン卿などにも参加してもらうか? 彼女ならば断るまいよ」  ザビーネは、静かに首を振った。 「協力を求めれば断るまいが、それはできないよ。ベルリヒンゲン卿には、この私がヴァリ様の傍に侍れない間の補佐を頼んでいるから。帝都までの旅で引き連れ来た傭兵団の統率や、イングリット商会が率いる酒保商人が運んできた交易品の売買交渉を全て任せてある。あまりにも忙しくて、この計画に入る余裕が彼女にはない」  配慮すべきだと。  まあ、ザビーネが暗殺部隊を指揮するとなればだ。  その代わりにヴァリ様の補佐ができそうな者といえば、ベルリヒンゲン卿しかいないだろう。 「ヴァリ様が引き連れてきた傭兵団や、一緒についてきた領主騎士から参加を募るか?」 「報酬を約束すれば参加希望者は多いだろうけど、ちょっと実力足らずだよ。暗殺にも潜入にも心得がなく、ポリドロ卿たちのように化物じみた戦闘能力を持っているわけでもない。ならば、いらないよ。同様の理由で、ヴァリ様の親衛隊も私以外には参加できないんだから」  これも駄目と。  下手な人間を集めたところで、足手まといだと。  まあ、彼女達が活躍できるのは兵数が必要な戦場でのみだろうな。  ザビーネの言っていることは、至極正しい。 「アナスタシア殿下や、カタリナにはこれ以上頼めない。ヴァリエール殿下傘下の人材は払底しているという状況で。では、どうするつもりなんだ」  私は問う。  これからどうしようか? 判っていないなら一緒に考えようという話をしたいわけではない。  ザビーネの頭はくるくると回り、解決方法などはすでに見出していようとも。  それぐらいは、この無骨な男騎士にも理解できるのだ。  だからこれは答えを問うているだけで、ザビーネはすでに解決方法を用意しているのだ。 「……これは嫌な手なんだけどねえ」  本当に嫌そうに、本当に腹だたしいといった様子を隠そうとせずに。  あともうちょっとで潰せたのだけれどね、と言いたげに。  ザビーネは目を閉じ、諦めたように呟いた。 「実家の力を借りるよ。妹であるマリーナ・フォン・ヴェスパーマンに人員を寄越すように声を掛けるよ。秘蔵の暗殺者連中を全て吐き出させる。アナスタシア殿下にさえ今回の作戦参加を拒まれて、とうとうマリーナ以外は完全に見限られたヴェスパーマン家の全身全霊を振り絞ってもらうとしよう」  今回を乗り切れば、本当にあのクソ実家を潰せたのにと。  本当に嫌そうに、彼女は吐き捨てた。 第197話 ヴァリ様は忙しい 「そんな事を私に話されたところで、どうしようもないわよ?」  ヴァリエール殿下の戸惑うような台詞を耳にして。  この私は、マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは頭を床に擦り付けた。 「お願いします! お願いします!! ヴェスパーマン家を救ってください!!」  もうこれしかないのだ。  アナスタシア殿下が私との謁見を拒んで、教皇暗殺計画に対してヴェスパーマン家の不参加を決定したのだ。  全てが終わるまで、お前は私を訪ねてくるな。  お前個人の爵位は保証してやるが、それは私の個人的な紋章官としてである。  諜報機関としてのヴェスパーマン家を維持するだけの経費を払ってやる気などは、今後一切ないと。  そうアスターテ公爵を通して告げられ、尻を蹴とばされて追い出された以上は他に方法はない。  最近はめっきり姉妹の仲が改善されたヴァリエール殿下にお縋りするしかないのだ。  彼女に懇願し、どうかアナスタシア殿下への再度の仲介をお願いする。  膝を地につけて、ただ頭を床に擦りつけて懇願する。  四本足の獣のようにして這いつくばって頼むのだ。 「このままでは、長年諜報機関として王家に仕えてきたヴェスパーマン家は崩壊します! 我が血族が完全に離散してしまうんです!!」 「いや……そんなこと言われても。姉上がもう駄目っつったら、それで全部終わりでしょう。私が口添えしたからって、どうにかなるもんでもないわよ。何があってそこまで嫌われたのか知らないけどさあ。マリーナ個人の能力が見限られたわけじゃないなら、もう実家は見捨てたら?」 「そんな惨いことを!」  この世で一番配下を見捨てられなさそうな御方に、お前の家は正直もう駄目だよと言われた。  正直私も駄目なんじゃないかなという気はしているのだが、貴女にだけはそう言われたくなかった。  どこまでも配下に優しいヴァリエール殿下は、少し困ったように首を傾げて。  横にいるベルリヒンゲン卿や、プレティヒャ卿を見つめる。 「アメリア。この件についてはどう思う?」 「ヴァリエール様、こちらを見つめられても困りますな。アンハルト王宮の事情なんて何も知らんのに。私は契約的な話に限ってならば、皇帝陛下と主従契約を結んだ領主騎士なのだから。何の関係もなければ興味もないアンハルト選帝侯家内部についてなど、何のアドバイスができようか」  まあ、皇帝とは仮初めの仲に過ぎぬし、もう私にとっての主君は生涯貴方一人だけなのですが。  そうベルリヒンゲン卿は呟き捨てて、そして薔薇が花開いたように笑って、殿下をただ見つめている。 「プレティヒャ卿は?」 「一応私はベルリヒンゲン卿と違い、アンハルト選帝侯家に仕える一代騎士の立場なのですが。成り上がったばかりで日が浅く、状況がわかりかねます。彼女の姉であるザビーネ・フォン・ヴェスパーマン卿とは友誼を結んでおりますが……」  はて、正直言いまして、ザビーネ卿はヴェスパーマン家に関わると損をするから無視しろと口にしていたような。  彼女も私同様、あの実家を飛び出たようなものなのだと笑っておられた気も。  新米の一代騎士はそう呟いて、胡乱げにこちらを見ている。  状況は悪く、味方はいない。  そもそもが、彼女らはヴァリエール殿下にとっての損得にしか興味がなさそうに見えた。  私に対しては「ヴァリエール様の迷惑になるならば叩きだすぞ?」などと冷たい視線をくれるばかりである。 「ヴァリエール第二王女殿下。私たちの価値をお話しします。我々ヴェスパーマン家は、王家に対して常に忠実であり、それこそアンハルト選帝侯家の開祖からお仕えしてきました。他国から情報を抜くことも、自国の情報を護ることも。王家の敵を殺めるための毒薬や短剣として務めを果たしてまいりました。近年の失敗続きはもちろん恥じ入るばかりであります。ですが、必ずや今回の教皇暗殺計画には役立って見せます。殿下にお口添え頂けるならば、ポリドロ卿の当主になられた後も恩義を忘れるつもりはありません。どうか、教皇暗殺計画への参加をアナスタシア様にお口添え願います」  私はもう言い募るしかないのだ。  ヴェスパーマン家の価値を訴えて、なんとか参加をねじ込まなければ本当に家が消えてなくなる。  リーゼンロッテ女王陛下がおらず、またアナスタシア殿下への謁見も拒まれた今となっては。  私がお縋りできるのは、ヴァリエール殿下ただ一人であった。 「いや、そんなこと言われても……私は忙しいし。変なことをして、姉上の不興を買ったりしたら不味い状況だし。最近は優しいけどさ。別に姉上の性格が変わったとかそういう話じゃなくて、私がちゃんと王族としての務めを果たすようになったからこそ、相応の扱いをしてくれているだけだし……」  ヴァリエール殿下は右手の人差し指で、左手の甲を掻いたりしながらに。  正直言えば面倒くさいしと、我が家の先行きなどは心底どうでもよさそうに呟いた。  彼女は手の甲を掻くのを途中でやめて、右手を開いて三本の指を立てる。 「いや、言い訳みたいなこと言ったけど。私は今凄い忙しいのよ。一応の戦時叙勲というか、まあ帝都までの行軍において全員に対する報酬は支払い終えてるけど、別にそれで解散する流れじゃないから。ポリドロ領への移民希望者名簿をこれから作らないといけないし、移民をするならするで、ポリドロ領で生活を安定させるまでに今回稼いだお金を使い果たさないよう貯蓄を預かってあげないと。酒保商人であるイングリット商会が銀行業をやってくれるらしいけど、私が立ち合いの上で預金契約を保証して欲しいって人が沢山いるし」  まあ私は作られた預金証書の内容を確認して、印章を押すだけなんだけどね。  これが一つ目と言わんばかりに、ヴァリエール殿下は人差し指を折った。 「二つ目は、これからアンハルト選帝侯家に一代騎士として仕える事になった者たちに、礼儀作法やアンハルト王都における振る舞いを教えてあげないといけない。せっかく騎士になれたのに、些細な事で山出しの田舎者だなんて馬鹿にされたり、恥をかいたりすることになったら私が嫌なのよ。第二王女親衛隊もちょっとそこら辺はあれだから人に教えられる立場じゃないし、姉上に紋章官の一人でも借りて、なんとかしないと」    そう呟いて、中指を折る。 「三つ目は、一番大事な商売について。私は行軍途中に大量の交易品を買い上げてきたけど、それを帝都の交易ギルドに全て買い上げさせる形で清算するつもりだった。その資金を元手に、ポリドロ領での開拓を成功させるつもりなのよ。姉上も、アスターテ公爵も手助けを約束したけれど、それだけじゃまだ足りない。暴力を背景にした力業で交渉を何とかしたいとは考えていたけれど。少しややこしい話になっているわ」 「話は伺っております」  腐ったとてヴェスパーマン家は諜報機関であり、帝都の事情は知っている。  帝都の交易ギルドがヴァリエール殿下率いる軍集団に怯えて、対抗策として帝都に滞在するランツクネヒトを大量に雇ったのだ。  ランツクネヒトは皇帝に雇われている立場であり、またヴィレンドルフのレッケンベル家に縁を繋いでいる状況ではあるが。  別に、皇帝以外の他者に雇われてはいけないなんて契約は結んでいない。  皇帝やレッケンベル家に刃を向ける行為でさえなければ、基本的にはどんな殺し合いをしようと自由だった。 「一応聞いておくけど、貴女が、ヴェスパーマン家がランツクネヒトを何とかできるって言うなら協力してあげてもいいけど。何か役に立てる?」 「……」  ヴァリエール殿下は、薬指をぷらぷらと浮かせている。  沈黙する。  できるわけがないし、そんなことはヴァリエール殿下も判っている。  ようするに、無理難題を口にして話を断ろうとしているのだ。  ヴァリエール殿下が帝都までの行軍にて率いて、未だ解散していない軍集団に対抗できるのがランツクネヒトどもであるのだ。  ヴェスパーマン家はおろか、選帝侯でさえも難儀する問題である。   「諜報面での協力ならば、お任せくだされば。相手側の中核人物の暗殺なども」  苦悶の声で呟く。  胃が重たく、胸が苦しい。  嘘を吐いているからだ。  もうヴェスパーマン家に、その能力はない。 「……悪いけれど。私にとっての諜報はザビーネだけで間に合っているのよ。暗殺については聞かなかったことにするわ。ともあれ、姉上への口添えは出来ない」 「ヴァリエール殿下! 我が家に出来ることならなんでも致します!!」 「そもそも、暗殺計画に参加したければ、私に頼むこと自体が根本的に間違っているのよ。私のアンハルト王家としての仕事は、この帝都にザビーネを送り届けた時点で終わっている。頼むのならば、それこそ――」  口にしてもらいたくないことを、ヴァリエール殿下は口にしようとしている。  耳を塞ぎたくなるが、それは出来ない。  眼前でそんなことをすれば、本当に殿下からの不興を買うだろう。 「教皇暗殺計画の現場指揮官である、ザビーネに頼みなさいよ。貴女の姉でしょうが」  そうだ、ヴァリエール殿下の仰っていることは正しい。  筋としてはそうすべきなのだが。 「……姉は、もう私の話を聞いてくれないでしょう。少なくとも、実家のことに関してだけは」  あの人は、本当に心底から実家の事が、ヴェスパーマン家の事が大嫌いなのだ。  別に意図的に何かを妨害するなんてことはしないが、まあ落ちぶれるならさっさと落ちぶれてくれと。  消えてなくなれと本気で思っている。 「だからと言って、私が聞く理由もなければ、応じるメリットもない。最初に言った通り、姉上に何か口添えをするなんて無駄な事はしたくない。ザビーネに、ほんの少しだけ話を聞いてあげなさいと私からお願いしておくわ。私がしてあげられるのは、そこまでよ。というわけで――」  ヴァリエール殿下が薬指を完全に折って、その手を左手で撫でた。  そして呆れた顔をして、ため息を吐きつつ呟く。 「今ここでお願いをするんだけど、どう考えてるの? ザビーネ」 「妹が恥ずかしい真似をしました。まずは謝罪を」  背筋がぞっとして、背後を振り返る。  姉が、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンが背後に立っていた。  折り目正しく体を折り、ヴァリ様への敬意を示している。 「ザビ姉!?」 「お前とろいんだよ。話の途中から背後に立っていたのに、全然気づかないのは駄目だろ」  いや、足音はおろか、人の気配なんか少しも感じなかったもの!  言い訳をしたいが、唇を噛んで堪える。  私とて、ザビ姉のような暗殺者教育とまではいかないが、諜報機関の一員として教育は受けていた。  顔を赤らめて恥じる。  やっぱり私はボンクラで、姉は超人だった。  人の心を持っていない以外には、何の欠点もないのだ。 「……さて、ヴァリ様のお達しなれば従わねばなりません。妹を連れて行きます。ベルリヒンゲン卿、プレティヒャ卿、すまないが教皇暗殺計画が終わるまではヴァリ様をよろしく頼むよ」  襟首をつかまれて、無理やりに体を引き起こされる。  ザビ姉はヴァリ様と、その二人の側近にひらひらと手を振って、にこやかに微笑んだ後に。 「ヴェスパーマン家が雇っている暗殺者を全員連れてこい。ヴェスパーマン家が辛うじて生き残るか、完全に使い潰されるか、それともその価値すらもないのか。話はそれを見極めてからだ」  心底嫌であるという感情を隠そうとすらせずに、冷たい瞳で私を睨んだ。 第198話 沈む船から逃げたネズミ  ザビ姉が借りている部屋に入った瞬間に。  自分の体が壁へと叩きつけられ、首根っこを右手で掴まれた。  そのまま、冷酷に問いを投げつけられる。 「ヴェスパーマン家の現状はどうなっている。正直に言え。少しでも虚偽が混じっていると判断すれば、この場で見捨てるぞ。お前ら全員を、せいぜい使いつぶしてやる」  姉は人の表情を眺めるだけで、その人物が口にした真偽を判断出来る。  隠し立てなど無意味だし、少しでも虚偽が混じれば本気で見捨てるだろう。  私は真実を口にすることしかできないし、そうするつもりしかない。  だが、一つだけ。  何もかもを正直に話す前に聞きたいことがある。 「ザビ姉、一つだけ聞きたいことがあるの。ウチからは、何もかも知っていたから自分の意志で出て行ったの? それとも、本当にただ追い出されただけ?」  ザビ姉は、少しだけきょとんとして。  何が言いたいのかとこちらを睨んだが、やや曖昧に答えた。  どちらでもない、と。  小さく、形の良い唇で言葉を紡いで。 「私には、幼いころからヴェスパーマン家に価値など見いだせなかった。アンハルト選帝侯家の暗部である実家が大嫌いであったし、あの陰気な母親が大嫌いだった。私はいつでもどこでも何か自分にとって価値があるものを探していた。ずっとだ」  どこか遠い目で、憧憬のまなざしで何かを見つめるようにして、ザビ姉は語る。 「私はそれを14歳の頃にやっと見つけた。だから母に勘当を迫られた際に、ちょうどいいから実家に条件を突き付けた。あのヴァリエール殿下のところに。第二王女親衛隊の隊員職と、一代騎士の爵位を頂けるのでありましたら出ていきましょうと」  悪い条件ではなかったね。  家から出ていける上に、私にとっては「もっとも尊いもの」のところへ辿り着けた。  だが、実家から追放されたというのも何一つ嘘ではない。  だから、と。 「どちらでもない。私はずっと出ていきたいと思っていたが、出ていくように要求したのも、あの没落の匂いがする母親だ。だから、どちらでもないさ。マリーナ」  話は終わりかと。  ザビ姉が正直に喋ったことは、妹である私には理解できる。  だから、私も正直に喋ろう。 「上手く逃げ切ったね、ザビ姉。私なんかと違って、本当に有能で。嗅覚に優れていて。私なんかとは大違いだ」  だが、その前に愚痴くらいは吐かせてほしいものだ。  姉は少し眉を顰めたが、それだけで顎を動かす。  さっさと状況を喋らせたいらしい。 「ザビ姉、本当は暗殺者も諜報員もそう多くは集められないよ。量ではなく、質が劣るという意味で。優秀な人間なんて、もう数年前に死んでいなくなった。私が当主になるよりずっと昔から、それこそ5年以上前から凋落は始まっていたから。ヴェスパーマン家が没落した本当の始まりは、ロベルト様を殺した暗殺犯を突き止められなかったときじゃない」 「何言ってるんだ。私たちが幼い子供の頃には、それなりに有能な暗殺者やら諜報員やらが沢山いただろうが。帝都にもヴィレンドルフにも、そこら中で諜報網を張っていただろ。そいつらを全部出せば、成果は出せる。少なくとも家は潰れずに済む」  ザビ姉は私の言葉を不思議に思い、表情に困惑を浮かべた。  今さら何を隠そうとするのかと、本当に不思議そうにだ。  ああ、本当に嗅覚だけで逃げ切ったのだ、この人は。  ザビ姉に協力を頼むのを最初から諦めたのは、実家を嫌っているからだけではない。  何もかも知っているから、協力は絶対にしてくれないと思っていたためだ。 「ザビ姉は知らなかったの? そんなのほとんどが死んじゃっていないよ。もう、いないんだよ」  ずっとザビ姉に聞きたかった。  本当は知っていたんじゃないかと。  知っていたからこそ、姉は実家を見捨ててヴァリエール殿下の親衛隊に逃げ込んだのではないか?  沈む船から逃げるネズミのようにして、真っ先に逃げ出したのではないか。  何もかも知っていたから、こんな悲惨な実家を私に押し付けたのだろうと。  実際には違ったようだが。 「……」  姉は、ずっと私の表情を見ている。  殺気が籠もった視線で、私の言葉の真贋を判断しているのだ。  私は嘘などついていない。  そして、賢い姉であるならば、ここまでヒントを出せば理解できるはずだった。  ロベルト様が亡くなるよりも前の話であることが分かれば、答えは簡単なのだ。 「帝都ウィンドボナ包囲戦。私が家出していた頃の話か? もしかして、その頃からウチは終わってたのか?」  姉は、容易く真実を口にした。  そうだ、その時だ。 「選帝侯家であるアンハルトが金を出し、レッケンベル卿が帝都ウィンドボナへと攻めこんだ戦争の際だよ。ヴェスパーマン家の諜報網が崩壊したのは」  明確に答えを口にする。  私がようやくそれを理解したのは、あの耄碌しきった母親がちゃんと全てを詳らかに説明してくれたからではない。  アナスタシア殿下に随行して、帝都ウィンドボナに到着して。  本当に最近になって、ようやく当主らしく頑張ってヴェスパーマン家の諜報網全てを把握できて。  何故ここまで我が家がボロボロなのか不思議に思い、その真相を調べようと帝都の現地調査に赴いたときにだ。  何もかもが終わっていたことを知った。  あの時は母を――自分の母を、本気で縊り殺してやりたくなった。 「その原因なんか一つしかないんだよ。欲を出したんだよ」  思わず、毒づきそうになった。  あの無能の母親が何もかも間違えたのだと。  ザビ姉が侮蔑しているところの『あの没落の匂いがする母親』が欲を出したのが悪かったのだ。  昔からザビ姉が口にするルールの『踏み越えて許されるか、許されないかギリギリのライン』をぶっちぎりで踏み間違えたのだ。 「アンハルトは金だけ出したなんてよく言われるが、兵士ではない紋章官を含めた随行者ならば、多数が帝都までの行軍に参加していた。ヴェスパーマン家の諜報員や暗殺者を動かすこともできただろう。嗚呼、本当に欲張ったもんだなあ、あの耄碌しきった老いぼれ婆。よりにもよってレッケンベル卿を戦争時に暗殺しようとしたんだな? 王家が命令などしていないのに」  心底呆れたようにして、姉は真相に辿り着いた。  そうだ、あの母は致命的な失敗をやらかした!  よりにもよって、あの賢明なリーゼンロッテ女王陛下ならば決して命令しない無謀を、勝手にしでかしたのだ!  戦争時ならば、レッケンベル卿を誰が殺したか隠蔽するのも容易いなどと考えて。  マキシーン皇帝が皇帝位に就いた後ならば、もうあの英傑はアンハルトの邪魔になるだけだと考えて。  愚かな事を! 「……そうだよ。勝手な暴走をやらかしたんだよ。英傑レッケンベル卿とアンハルトの暗殺者集団ヴェスパーマン家が、帝都で暗闘を繰り広げたんだよ」  私がしたことではない。  私ならば、そんな馬鹿な事はやらないと口にしたい。  なれど、私はマリーナ・フォン・ヴェスパーマンであり、ヴェスパーマン家現当主である。  たとえ前当主の不始末であれど、では誰が責任を取るのかと言えば私しかいない。  このマリーナが一族の長として責任を背負わなければならない。  血が滲むほどに歯を噛みしめて、ザビ姉に真実を告げる。 「当然、暗殺は失敗に終わったよ。そもそも、本当の超人であれば――レッケンベル卿やポリドロ卿なんて存在には毒すら通じないのに。毒薬と短剣なんて常套手段は通用しない。腕に覚えがある暗殺者が何十人で囲んだところで、勝てる相手じゃないのに」  あの超人に挑んだ暗殺者は、全員がその場で縊り殺された。  報復がそれだけで済むわけもない。  レッケンベル卿の手練手管により、ヴィレンドルフや帝都ウィンドボナに潜ませていた内通者は殆どが見つかって潰された。  その時からヴェスパーマン家は諜報網を失い、凋落は始まったんだ。  ヴィレンドルフ戦役で、レッケンベル卿による侵攻を読めなかった事だって。  モンゴル帝国の情報が、帝都やヴィレンドルフから手に入らなかった事だって。  もし先代の失敗が無ければ、何もかもが防げた事態だろうに。  そう口にしようとして、ザビ姉が私の首を絞めた。 「少し静かに喋れ。色々と考える」  ザビ姉が、殺意を籠めた視線を私にくれている。  家を飛び出した姉が、私の首を強烈に絞めている理由は理解できる。  この話を誰にも聞かれたくないのだ。  ヴェスパーマン家に気兼ねをしたのではなく、ザビ姉にとって損をする可能性があるから。  首を絞める力が強まっている。 「そのことをリーゼンロッテ女王陛下は知っているのか? ヴェスパーマン家が勝手な行動をし、失敗をして諜報網に重大な損害をもたらしたことを知っているのか? 重要な事だ」 「母は……全てを隠すことだけに尽力した。リーゼンロッテ女王陛下は命令自体をしていないから、ヴェスパーマン家の諜報組織が弱体化したことは悟っていても、その理由までは知らない……と思う。理解しているのは、急にヴェスパーマン家が役立たずになったという結果に対しての理解と、失望だけ。問題を解決するためにヴェスパーマン家以外にも別な諜報機関を作ることに尽力していた、ぐらいが私の調べたところで」  首が絞められて、息ができない。  もうウンザリだ、こんな状況は。  ザビ姉に責任はないのか?  一族の当主として生まれてきたのに、それを放棄して逃げた責任はないのか?  ザビ姉に責任がないというならば、このマリーナに責任があるのは何故だ?  沈む船から逃げ切ったネズミか、逃げ切れなかった間抜けの違いか。  いや、それなら――確かに死に至るには相応しい理由だ。  そんなことを考えている。  私だって状況が理解できていたならば、姉のように実家を飛び出していただろう。  それが出来なかった私は、もう死を賜っても仕方ないかもしれない。  間抜けは押し付けられた全ての責任を取る必要があるのだ。 「もう一度確認するぞ、逃げ切れなかった『間抜け』のマリーナ。すっとろい『私の妹』のマリーナ。リーゼンロッテ女王陛下は何も知らない? いや、今まで幾度も繰り返した失敗で完全に気づいているはずだ。何にも知らぬままでいてくれる、生ぬるい女王陛下だとお前は考えているのか? あのババアがそんなタマか」 「私はまだ生きている。もし気づいていたら、とうにヴェスパーマン家は潰されて、先代はもちろん現当主である私も殺されて……」 「アンハルト選帝侯家の開祖から代々仕えてきた功績があった。リーゼンロッテ女王陛下は選帝侯継承式の引き継ぎギリギリまではヴェスパーマン家を潰すことを我慢していた。それに、アンハルト王国内の諜報網が死んだわけではない。まだ使い道はあった。どれだけ内心怒り狂っても、すぐさまに潰すわけにはいかなかった。独自に王家が諜報網を作るか、『間抜け』のお前から諜報網を全部奪い取るまでは我慢しなければならなかった。いや、両方だな。リーゼンロッテ女王陛下はすでに諜報網を五年かけて作り、さらにアナスタシアにはお前からヴェスパーマン家の諜報網を奪い取らせるつもりなんだ」  息が出来ない。  首を強く絞められている。  ザビ姉、私が悪いんじゃないよ。  この先、ヴェスパーマン家が潰れる際に当主である私が死を賜るのは仕方ないけれど。  少なくともザビ姉が私に怒るのは筋違いだよと考えて。  ああ、そうかと、先程からだ。  意識が薄れかけている中で、姉がここまで怒っている原因に思い当たっている。  私はずっと、ザビ姉が最初から意図して逃げ切ったのだと勘違いしていたが。  本当にギリギリのところで、ザビ姉は逃げおおせたのだ。 「家を飛び出したとはいえ、勘当されているとはいえ、このザビーネがまだ連座で縊り殺されていない以上、二年前までは誤魔化せていたんだろうな。五年前に全てが詳らかだったなら、とうの昔に死んでいただろうが」  連座があるのは理解している。  もし大昔にヴェスパーマン家凋落の真相が発覚していたら、女王陛下の命令によらぬ暴走がバレていたなら。  おそらくザビ姉も私も、一族まるごと首を吊るされていただろう。  いや、足りないのだ。  たとえ、家を飛び出していても、誰もが認めるほどに絶縁していても。  それだけではヴェスパーマン家の処罰に対する連座から、ザビ姉は逃げ切れなかっただろう。 「本当にギリギリだった。今ならば利用価値のある私を、リーゼンロッテ女王陛下もアナスタシア殿下も殺そうとしない。本当に危ないところだった。だが、このままでは間抜けなお前は助からない。家どころか、当主であるお前が殺される」  ザビ姉の荒い息が、首元にかかっている。  首を絞められている。  息が。 「逃げきった姉から、逃げ切れなかった妹に対する最後の情けだ。あの耄碌した母親は王都に帰り次第、私が惨たらしく殺して、首だけを持って女王陛下に詫びを入れに行く! ヴェスパーマン家はもう終わりだ。何をどうしたところで、もう潰される! だから、だからだ。助かりたければ、帝都ではずっと私の言うことを聞くんだ!!」  息が出来ない。  意識を失う瞬間に、ザビ姉の顔を見た。  愛憎を含んだ、凄まじい形相だった。 「愚かで間抜けな私の妹、マリーナ。全ての力を振り絞り、ヴェスパーマン家の何もかもを使い潰せ。それでも生き残った連中だけは、私がなんとかしてやる」 第199話 暗殺教団『宵の明星』 「結局のところだ。お前はテメレール様のことを、どう思っているんだ?」 「はて?」  テメレール公直下の超人騎士団、狂える猪の騎士団の一員と一緒に帝都の路地裏を歩いている。  彼女は私に破壊された盾を新調したらしく、盾の紋様には『desdichado(勘当者)』と殴り書きがされている。  そういえば、私は盾を持っていないな。  騎士であればカイトシールドぐらいは持っていたいものだが。  単純に使わないからであるが、まあポリドロ家の家紋である『鍬と菖蒲』が刻まれたものぐらいは所持していたいところだ。  家紋が刻まれた品は、貧乏領地であるポリドロ領には少ない。  従士長であるヘルガが他家に出向く際の身分証明として、鞘に家紋が刻まれた短剣を持ち合わせているぐらいである。  今は懐が暖かいので、従士全員に同じものを持たせてもよいかもしれない。  その際は、今まで従士長の家系として唯一家紋の鞘を与えられてきた一族の誇りを、他にも共有されてしまったと。  ヘルガが拗ねに拗ねるのは目に見えているので、彼女にも別な何かを与えての上でだ。  こう見えて、私は領民には気配りが利く方である。  貧乏領主のはずの私に金があるのは、ヴァリ様が前日の戦で報酬を大盤振る舞いしたせいであるが。  さて、同行してくれた『狂える猪の騎士団』である彼女たちは何を貰ったのだろうか? 「話を聞いているのか?」 「勘当者はヴァリ様からいくら貰ったんだ? アナスタシア様が払うだけではなく、ヴァリ様は個人的な報酬として支払ってくれたはずだが」 「うん、全然話を聞いていないな。いや、まあ盾を新調しても余るぐらいには金を貰ったけどさ。『狂える猪の騎士団』連中は、それなりに色々ともらったさ」 『サムライ』だけは、金ではなくて別に欲しいものがあるって言っていたけれどな。  まあ、内容はおおよそ理解しているし、別にそれはよい。 『特別な感謝のしるし』に何を求めたかを聞く必要はないし、ヴァリエール殿下がすこしげんなりとした顔で、サムライなどはホッコリとした顔で喜んでいたので、まあ交渉はなんとかなったんだろう。  どうでもよい事だと。  お前のことなんて、どうでもよい事だと、勘当者はウンザリした様子で語った。 「いや、もう、その辺りはどうでもいいんだよ。私はテメレール様に幸せになってもらいたいんだよ。個人的な憎しみや怒りだけで、何もかもが満たされる歳でもない。惚れた主君の幸せを願うのが、真の騎士であるはずだ。お前にも、そこら辺はちゃんと考えて欲しいんだよ」  はて、と。  首を傾げ、勘当者の言葉を聞く。  どうにも彼女の言いたいことが理解できない。  テメレール公に幸せになって欲しいと言っているのは理解できるが、どうも迂遠な言い方であり、具体的に私にどうして欲しいのかが理解できない。  騎士として、曖昧な状況などは嫌いであった。  少なくとも会話相手が何をしてほしいのかは貴族として理解しておかねばならぬ。  だから直接、何をして欲しいか聞くべきと考えていたのだが。 「さて、まあ気になる話だが。そろそろ止めようか。連中を殺した後でも別に構わないだろう?」  途中で会話を打ち切り、今すべきことを告げる。  勘当者は頷いて、腰にぶら下げていたモーニングスターを手に携えた。 「わざわざ裏路地までご苦労なことだ。表通りを通って、そのまま帰ればよかっただろうに」  死ぬほど面倒くさそうな顔で、険のある尖った目つきで彼女は吐き捨てた。  まあ、彼女の言うとおりにしても良かったのだが。 「悩んだところだが、明確な敵は減らせる時に減らしておいたほうが良い。他の者が狙われると困る」  同じように吐き捨てて、筋肉を弛緩させる。  喧嘩を売られた以上は殺さねばならなかった。  それが正面切っての相手であれ、背後や脇から毒塗りの短剣を突き刺してくる相手でも同じである。 「さっさと出てこい。暗殺者風情が」  アナスタシア殿下の住まう屋敷から離れてずっと、気配が付きまとっている。  このファウストは暗殺者などに一度も出くわしたことはない。  なれど、人の死には戦場で呆れるほどに触れていた。  濃密なものであれ、乾いた簡素なものであれ、殺気さえあれば超人としての勘が感知するというものだ。 「教皇の手の者か? 皇帝の手の者か? ああ、どちらでもよい。聞く気もない。この場で縊り殺して、そこらに死体を投げ捨ててお前らの人生は御終いだ。覚悟はできているな?」  数を数える。  路地裏に入る前に尾行してきたものが5名。  横道に隠れているものが3名。  寂れた裏路地商店の物陰に隠れているものが4名といったところか。  併せて12名、他愛無し。  通常ならば、数分もかけずして皆殺しにできるだろう。  愛用の剣はないが、腰に肉厚のナイフは数本仕込んでいる。 「そう剣呑とした雰囲気では、こちらが驚いてしまうぞ? うん? 別にこちらに争う気はないのにのう?」  暗殺者は物音を立てずに一斉に襲い掛かるのではなく、正面から一人の少女が出てきた。  まるで老婆のような口調で、彼女は呟いた。  くちくちと音を立てて、何かを噛んでいる。  ぺっと痰とともに、何かを地面に吐き出したのが見えた。  何か樹脂のような塊で、茶色かった。 「マリファナか。麻薬中毒の下郎が」  勘当者が、故郷の言葉でそれが何かを呟いた。  大麻、ハシシ、チョコ、そういった前世における『吐き出したもの』の忌み名を頭に思い浮かべる。  麻薬をキメてやがる。 「失礼。習慣となっているもので、口に咥えていないと落ち着かぬのじゃよ。もう吐き出したぞ。おぬしらと喋りたいからのう」  舌を大きく広げ、もう口には何も含んでいないことを示す。  大仰なジェスチャー、へらへらと笑う少女。  近づいて殺すのは良いが、わざわざ相手の望む行動をとってやる必要もない。  というより、マズイな。  この状況は明らかにマズイ、正直侮っていた。  超人がいても、狂える猪の騎士団ほどの練度はないだろうと考えていたのだが。  眼前の少女は明らかに只者ではない。 「教皇の手の者か?」 「全然違うのう」  少女の瞳が、私の目を見据えている。  何か、じっくりと品定めをするかのようであった。  人の価値観を秤にかけて、羽より魂が重いのかを計算しているかのような、古代エジプト神の検事に模した表情そのものでいた。  判断ミスにより戦闘を選んだ自分に対して、舌打ちをする。 「なるほど、なるほど。話には聞いておったが。なかなかに、いや、見事そのものである超人ぶりじゃのう。少し手合わせを願おうかとも考えたが、さて、それを試しては何人死んだことやら。こうして、ワシ自らが話しかけて正解じゃったのう。これでは、我が分家を事実上滅ぼしたレッケンベルに勝ったというのも真実そのものか」  私は明確な失敗をした。  勘当者はここで死ぬだろう。  少女の眼光を見て、唐突に思い浮かんだイメージがそれだった。  私だけならば、なんとかなるだろう。  このまま『一人で逃げ果せるだけならば』なんとかなるだろう。  暗殺者からの逃走は、騎士における名誉の死ではない。  今すぐに横道でも、背後でも一目散に走りだして道すがらに暗殺者を殺して逃げればよい。  そうすれば、私は助かる。  だが。 「お話をしてくれんかのう? まあ、選択の余地を与えるつもりなんてないんじゃが」  隣の勘当者は死ぬだろうな。  確実に死ぬ。  そして、それを理解できぬほどに『勘当者』は間抜けではない。 「何をやってんだ。ボケっと立ってないで、さっさと逃げろよ糞野郎。そうして、テメレール様に報告するんだ。私たちは教皇を甘く見ていましたとな!」  死を覚悟して、勘当者は冷たく言い捨てた。  ……理解する。  ここで逃げぬと言えば、彼女という騎士に、『勘当者』に対する侮辱であろう。  だが、しかしだ。 「ここで逃げては、ヴァリ様への援軍に参加してくれた貴卿を見捨てては。もはやテメレール公に顔向けできぬよ。二人でやれば、勝ち目がないわけでもあるまい」  私は主君であるヴァリ様のせいか、少し甘くなったようだ。  ここで勘当者を見捨てて逃げ出すことはできぬ。  たとえ、たとえだ。 「馬鹿野郎が! 全員が超人の暗殺者集団とあれば、お前だって勝てる可能性が高いわけじゃない!!」  ここにいる暗殺者12名全員が、超人であろうともだ。  眼前の少女が、テメレール公に匹敵する強者であろうとだ。  私がかつて一騎打ちにて討ち果たした、あの英傑ならば薄目をうっすら開くだけで窮地を抜け出したに違いない。 「レッケンベル卿ならできたぞ!」  かのレッケンベル卿ならば圧倒的に勝利しただろう。  ならば私が勝てないとは言えまい。  そう言い張って、私は勘当者と協力して死地からの脱出を試みる。  だが。 「ふむ。二人とも、何か勘違いをしておるのう。ワシは教皇の手の者でもなければ、皇帝の手の者でもないぞ」  少女が、何か変なことを口走った。  いや、先ほどからそうなのだが、信用はできぬ。  猜疑心に駆られる。  何か言葉遊びをして、興味を引き付けた上に首を掻っ切る算段か?  そう判断して警戒を緩めぬが、少女が否定した。 「何か疑っているようだが、そういう理由ではない。人のことを疑いすぎじゃのう。まあ、調べた限りでの状況を知れば理解できんでもないんじゃがのう。ちと、状況が悪すぎたか」  少女はぱん、と両手を合わせて叩いた。  背後、横道、物陰。  そこに隠れていた、眼前の少女を除いた11名の気配があっさりと消える。  殺気を消したというわけではなく、単純に立ち去ったのだ。  気配が遠のいていき、眼前の少女を残して以外の殺気というものが消える。 「うん? これだけでは不服かのう? ワシが地面にでも這いつくばろうか? 犬のように」  少女が首を捻る。  さすがに、ここまでされれば理解はできる。  眼前の少女は、私たちを殺す気など皆無であるのだと。  本当に話し合いをしたいのだと。  殺気を完全に消し去った者が潜んでいるかもしれないが、まあ私に気取られぬほどの超人が仮にいるとすれば、抵抗するだけ無意味であった。 「はて、本当に話がしたいのか? 戦闘が望みではなく?」 「そう最初から言うとる。おぬしを通して、アンハルト王国の後継者と話したいことがあるのじゃ。囲んで脅したのは悪かったがのう。実力を測りたかったにすぎんのじゃ」  少女をよく見る。  やや褐色をした肌の少女だった。  歳は14歳がせいぜいといったところに見えるが、口調は婆さんそのものである。 「さて、警戒を解いてもらうためにも、このワシの名前を教えておこうかのう。ワシの名前は無いが、かつては「山の老人」などと呼ばれておった。仮に一族を代表するとしてナヒドと名乗っておこうか。名の意味は『宵の明星』。葬礼を人々に知らせ、死の訪れを響かせる晩鐘なり。パールサにおいて数々の王朝に仕えてきた者なり。モンゴル帝国に滅ぼされた異国パールサ王朝のお抱え暗殺者一族の長であり、命からがらこの国まで逃げてきた者じゃ」  異国パールサ。  すでにモンゴル帝国に滅ぼされ、支配されているとテメレール公が教えてくれた国家の名前を挙げて。  仰々しい名乗りを上げる少女を見て。 「この帝国では、アンハルト王国の言語に則してやれば我が名をヴェスパー(宵の明星)というそうじゃな。この国の正統を名乗る宗教が集めた軍勢による、パールサへの侵攻に参加した際にアンハルト王家との秘密契約にて。一族のマン(男)を紋章官にくれてやった一族だと。没落したヴェスパーマン家の本当の開祖直系の者だと、名乗ってやればわかるかのう? もっと一から説明せねばわからぬかのう? どうにも、おぬしは頭が悪い男と見えるぞ? 個人が知れることなど少ないし、まあおぬしは王国の内密に関わってないがゆえに仕方ないのかもしれんがのう? うん??」  私は狐につままれたような顔で、間抜けに口を開けて。  ザビーネの一族の事を言っているのかと、確認するように小さく声を漏らした。 第200話 褐色ロリババアのひみつ  色々悩んだ挙げ句に、アナスタシア殿下のところに案内することとした。  このナヒドとか名乗る、年齢不詳の褐色ロリババアが望むところはアンハルト王家後継者との謁見である。  リーゼンロッテ女王陛下が帝都におらぬ以上は、正統後継者である彼女に会わせることが正解だろう。  ヴァリ様?  一応は継承権を持っているが、もはや後継者とは言えないだろう。  すでに私の婚約者としてポリドロ家当主になることを覚悟しており、誰もがその気になっている。  実質的な王家の権力譲渡は、すでにアナスタシア殿下に対して為されているのだ。  ……本音を言えば、今更余計なことに婚約者たるヴァリ様を巻き込むのは可哀想だ。 「さて……ご苦労だったと言っておこう、ファウスト。別に貴卿が意図した行動ではないだろうがね。前々から彼女を、『山の老人』を探してはいたんだよ。探してはいたけれど、何処にいるのかまではさっぱりわからなかった。何せ、恥ずかしいことにアンハルトの諜報網は一度死んだものでね。辛うじて……叔母上であるリーゼンロッテ女王陛下が、パールサから彼女たちが脱出したことを突き止めたのみだった」  アスターテ公が、労うように私に微笑みかけた。  機嫌は上々のようであり、何処か安心したような素振りさえ見せていた。 「ナヒド殿も、よく私たちにコンタクトを取ってくれたものだ。今後の話し合いがどうなるかはわからぬが、まずは感謝をしておくよ」  優し気な声で謝意さえ示すのだが、別に油断しているというわけではない。  最大限の警戒をナヒドに放っており、いつでも腰のナイフに手を伸ばせるようにしている。  まあ、さすがにアナスタシア殿下、アスターテ公爵、私の超人三人がかりならば殺しきれるだろうが。  だがそれは、眼前のロリババアが戦いに徹してくれた場合であって。 「まあ、額面通りに受け取っておこうかのう。とはいえ、こちらの事情も鑑みて欲しいものじゃ。ワシは確かにアンハルト王家にコンタクトを取ったが、それはかつて秘密契約を結んだ縁というものじゃ。場合によってはヴィレンドルフにでも行くし、落ち目のマインツ辺りでも構わん。多少は腐っても選帝侯の格であることには変わらぬ」  逃走に転じられた場合、このポリドロの膂力を以てしても捕縛は難事であると思うのだ。  実力を計算している。  レッケンベル卿ほどではないだろうが、さて、テメレール公よりも弱いかというと微妙なラインだ。  単純な身体能力だけではなく、暗殺者としての技術も加えれば――完全に見極めるのは難しい。  アスターテ公は、表情を変えずに言葉を繋げる。 「……念のために尋ねておこうか。教皇や皇帝はどうだろうか? ナヒド殿にとっては」 「愚問じゃのう。何が悲しゅうてワシらをパールサから追い出した連中に、あの憎たらしいモンゴル帝国に尻振る連中に従わねばならんのじゃ。どう思うかの、ファウスト・フォン・ポリドロ卿」  何故か、私の方に話が飛んだ。  わかっているじゃろ?  わかってる?  ねえねえ、本当にわかってる? とばかりに、何故かナヒドは私の表情を伺っている。  どうして無意味に私を挑発するのだ、この褐色ロリババア。 「お互いに腹の探り合いをしているのだろう? さっさと本題に移ればよろしい」 「まあ、そうじゃの。おぬし、頭が悪そうじゃからの。解説役なしで話を済ませると、何がなんだかわからないかもしれんと思うての。腹の探り合いは、諧謔は大人の会話に必要なものじゃぞ。お互いに知能レベルが釣り合う存在であるか、巧言くらいは操れる存在か。ああ、そこらへんを考えるとお前はてんで駄目じゃの。さっさと本題に入れなんて言う奴は、絶対に世の中上手く渡っていけんわな」  よく今まで貴族の世界で生きてこられたのうと。  そのようにして、小馬鹿にしてくるのだ。  何か私に恨みでもあんのかよ、この褐色ロリババア。  嗚呼、正直言えばマルティナが欲しい。  9歳児を連れてきて補佐役ですと言い出したら、余計に馬鹿にされそうな気もするが。 「おぬしに期待できるのは、ウチの分家たるヴェスパーマン家を事実上滅ぼしたレッケンベル卿に勝利したこと。その騎士としての武力のみじゃのう」  別に、私には剣一つさえあればよい。  それの何が悪いと言おうとしたが、はて、このナヒドとやらは幾つか判らぬ点がある。  本人の言葉を信じれば、ヴェスパーマン家の一族開祖らしいが、じゃあお前幾つだよと。  かなりの高齢どころか数百年生きているはずだが、眼前のナヒドはどう見ても褐色ロリババアである。  神聖グステン帝国の皇帝陛下が、総司令として挑んだ聖戦は何百年前なのだろうか。  この国の正統を名乗る宗教が集めた軍勢によるパールサへの侵攻なんて、前世の知識を引っ張りだしてきても、いつだかは怪しいぞ。  なんとかサラディンだけは世界史を選択した人間として思い出せるから、アイユーブ王朝の頃だとしてだ。  まあ、第三次十字軍の時だと仮定しよう。  その後にマムルーク朝があるが、モンゴル帝国相手に『防衛』を成功した数少ない例の一つとして覚えている程度でしかない。  ならばモンゴル帝国が滅ぼしたホラズム・シャー朝に仕えていたのか?  いや、全然違う気がする。 『山の老人』にはマルコ・ポーロ関連で聞き覚えがあるが、イスマイール派?  ならばイスラムといってもシーア派に近いはずで、ファーティマ朝……はサラディンの前だ。  お前は何処の王朝に仕えていたんだ『山の老人』、もう高校世界史で触った程度の人間には判る知識ではないと。  脳みそを限界まで絞り出して、ようやく辿り着いたのがモンゴル帝国に滅ぼされたセルジューク朝だが……これも怪しい。  私はイスラム社会に対する地理をよく知らぬ。  いや、ここまで考えたところで意味はなかった。  別にこの世界の歴史、前世とは似ているようで全然違うのだから、本当に意味がない。  私の懊悩には意味がなかった。  多分こいつ、自分の意に沿うか沿わないかはわからないが、どうにも幾つかの王朝に仕えているから特定すら意味がない。  前世の知識を利用したところで、お前が何者か、お前が何を考えているか特定できない。 「お前分かりづらいんだよ。ぶっ殺すぞ。何一つわからんじゃないか。お前の人生無茶苦茶すぎるだろ」  思わず罵りの声を上げる。  その対象であるロリババアは困惑の声を上げた。 「え、なんでワシ怒られてるの? 今殺すって口走らなかった!? しかもワシが一族のために一生懸命やってきた人生を貶さなかった!?」  お前が悪いからだよと、舌打ちをする。  アンハルト王家と、パールサの暗殺教団との秘密契約とは何なのか。  気にはなるが、私に王家の秘事に対する発言権などない。  聞く権利など欠片もない。  うんうんと唸っていると、少し不安そうな顔でナヒドが尋ねた。 「ワシ、何か悪いことした? 心当たりないんじゃけど……おぬし、何を悩んでおる」 「私は世界の歴史など知らぬ。よく考えなくても、この世界の歴史など知らぬ。貴女の、ナヒドがどのような人生を送ってきたのかわからぬ。幾つの王朝に仕えたかもわからぬ。貴女が何歳なのか興味あるが、まあ聞くのは失礼かなと思っている。パールサにおける暗殺教団とアンハルトとの秘密契約って何なのと気になってはいるが、秘事であるがゆえに聞くのは拙いかなと思っている。全部聞きたいけど、まあ聞かぬことにする。私に質問をする権利はない」 「ええ……おぬし正直すぎるってよく言われない? 聞いたら拙いって思うなら、じゃあ最初から聞かないようにしない? 口にすらしないのが普通じゃろ? お前、嘘じゃろ……。何かワシに恨みでもあるの? 今の発言のせいで、ワシとアナスタシア殿下の腹の探り合いは全部台無しになったんじゃよ?」  信じられないと、褐色ロリババアは呻いた。  マルティナからも同じことをたまに言われる。  だが、まあ別に正直で困ったことはない。  9歳児にして私の従士ならば全部知っているのだろうが、傍におらぬ。  というか、もうお前は誰なんだよ。  『山の老人』とか暗殺教団『宵の明星』とか御大層に名乗っていたけれど、正直言えばお前なんか知らないよ。  というか、もう正直言えばロリババアの事を私は嫌いだった。  性的に魅力はないし、ヴァリ様に対してのような敬意も感じないからだ。  なんで生きているんだお前。 「というか、正直連れてきたの失敗だったか? お前みたいに怪しいのを主君の前に連れてきてはいけないんじゃないのか。すいません、アナスタシア殿下。怪しい奴なので、そこら辺の街角に捨ててまいります」 「ええ……ワシ初対面の人だからと、何も知らんじゃろうと、割と懇切丁寧に最初から説明したつもりじゃったのに……。第一印象結構良い方だと、強い印象をおぬしに与えたと思っていたのに。そんな野良猫の子みたいに扱われるの?」  野良猫の子なら、親猫が近くにいないかを数時間観察した後に、いない場合は仕方ないから拾って帰るよ。  猫ちゃんと同じくらい自分が可愛いと勘違いするなよ、この褐色ロリババア。  お前の正体が本気でわかんねえんだよ。  なんで私は主君たるアナスタシア殿下の前に、お前なんかを連れてきたんだろうか。  正直、自分の常識を疑っている。 「まあ、落ち着け。ファウスト。お前は嫌っているようだが、私には用件がある。そして、まあヴァリエールの婚約者であり、王族の一員でもあるのだ。部屋に入ろうとするマルティナには席を外してもらったが、お前にはアンハルト王家の秘事を知る権利がある。お前だけならな」  ようやくにしてアナスタシア殿下が口を開き、目配せをする。  アスターテ公爵がそれに応じて頷いて、説明するべきだろうという視線を。  お前の疑問に対し、一部だけなら教えてやろうじゃないかと口端を緩めた。 第201話 アナスタシアの言い訳  古い話をしようか。  東方植民が活況を呈し始めたころの時代だ。  神聖グステン帝国の選帝侯が規定七名の選帝侯ではなく、選帝侯会議主宰者がマインツ大司教選帝侯でもなく。  それどころか皇帝選挙というシステムそのものがなくて、当時のアンハルトが王国ですらなく、選帝侯でもなかった時代。  まだ皇帝が、現在のあの皇帝座についている一族の時代ではなかった頃。  神聖グステン皇帝の位が実質的に空位である、大空位時代に入る以前の話だ。  今から300年以上も前の話で……どこまで説明したものか。  さて、長々と話をすべきかと考えたが、ファウストよ。  私の愛しいお前は、実は酷く気が短い男であることを知っているのだ。  少し頭が悪いことも知っている。  私は、このアナスタシアは、そんなお前の朴訥なところが大好きなのだ。  だから、先ほどの会話を分かり易く縮めてあげようと思う。 『皇帝にそれなりのカリスマがあり、舐められておらず、中央集権的な側面すらあった時代。世俗諸侯が独自の領邦政策を展開して封建的な分裂状態となる前であった、400年ぐらい前のこと』  そう考えて欲しい。  事細かに話せば面白いのだが、どうせ私の愛しいファウストは興味がないだろう。  マルティナがいれば面白く受け答えしたであろうが、あの子に教えるわけにはいかぬ。  あのくるくると頭が回る少女が知っては、いらぬことも考えるかもしれぬ。  よく考えれば、お前が彼女に色々と聞いても困るなあ。  テメレール公辺りは、まあそれなりに今は信頼しているので、この場にいてくれても良いぐらいなのだが。  そうだな、そうだ。  よくよく考えたが、まあファウストは極々一部を知っていればよい。  お前が気に食わぬ年齢不詳の『山の老人』、横で小首を傾げて少女のふりをしているロリババアのナヒドが生きていたと言い張っている事件の話。  それもピンポイントなところでよいな。  この国の正統を名乗る宗教が集め、神聖グステン帝国を含めた軍勢がパールサへの侵攻に参加した際の話だ。  さて、世間ではどう言われていたかな。  一応、表向きの理由は聖地の再奪還というのが目的である。  我らの信仰する正統にとって、聖地にして聖市が異教徒によって奪われてしまったという事件が当時あった。  これは正統な信仰を掲げる諸国に、とても大きな衝撃を与えたとのことだ。  おお、なんてことだ。  これは麗しき単頭鷲の紋章を帝国に掲げ、教皇から皇帝の冠を戴冠され、国民を安んじることを求められる。  神聖グステン帝国の皇帝たる私が、邪悪から聖地を再奪還せねばならぬと。  当時の皇帝などは口にしたと語られている。  それだけではない。  なんと、カエル食いのいけすかない連中や、自らを淑女だの連合王国だのほざいている連中まで参加してくれたのだ。  諸王による軍勢だ。  どれほど聖地の奪還のため、信仰への証明のためにありとあらゆる王と騎士が怒りに震えながら参加したのかと。  そういうことになっているのだ。 『聞こえ』がよいからな。  まあ。  そんなこと誰も信じちゃいないのだがな。  多分、まともな人間は誰も参加など望んでいない。  本当のところを言えば、多くの人々にとって、聖地などはどうでもよかったのさ。  だって、見たこともない聖地などどうでもよいだろう?  聖地がパンになるのか?  聖地がワインになるのか?  贖罪主はもういないことぐらい誰だって知っているだろう?  聖地への巡礼者なんか知ったことではないだろうに。  途中で異教徒に殺されたら、そいつに運がなかったで終わりにしてよいだろう?  彼らの中に、聖地にまで旅に赴いて喜ぶ余裕がある人間などが、どれだけいたと思っているのだ?  隣の集落に交換婚で婿に行った息子の顔を見に行く旅でさえ、盗賊騎士や山賊に襲われるかもしれぬという命懸けの時代だぞ?  神聖グステン帝国における当時の皇帝でさえ、そんなものよりも我らが名乗るかつての帝国首都であり、正統たる信仰の中枢であるグステンを確保する方が重要であると考えていた。  かつての故地を、かつての帝国首都を手に入れるために異国に遠征することは確かな栄誉であるが。  さて、聖地なんて興味がないものを手に入れたところで、我らの生活を安んじるために何の価値があるのだ?  本当にそんなものを信じていた王などは、おそらく一人ぐらいだろう。  勇ましく、それ以上に愚かしくて、国家経済を傾けて国を無茶苦茶にした目立ちたがり屋の、淑女にして連合王国の女王。  いわゆる獅子心王ぐらいではないだろうか。  母は、リーゼンロッテなどは彼女を心底馬鹿にしているのだよ。 『聖地なんてもののための遠征費、自分が捕らえられた際の身代金、好き勝手にやらかした結果の軍費で国家経済を無茶苦茶にしておいて、領民の慰撫なんて何一つせず、自分が巻き起こした問題は何一つ解決せずに次の王に押し付けて死に逃げた。あんな愚劣な英傑にはなりたくない。王の為すべきところは、如何にして今の領民を安んじて、次代に対して責任をとるかでしかない』が口癖だったな。  戦争などは二の次として、国家政治に全力を傾けることを王の本分としていた。  ファウストが、モンゴル帝国が攻めてくるから警戒をと訴えていたことに対して。  そんなことに何の意味が? 戦争なんぞより自分の領民をいかに安寧に導くかの方が大事であろう? と心底から不思議そうに母が首を傾げていたことにはその側面も――あれは母の悪いところが出たな。  私は心の底からクソババアだと思っているが、悪い面もあるが、国家経済においては本当に何の隙も無い人物だったと尊敬している部分もあるのだ。  母には直接言わないがな。  内政には優れているが、軍事となるとウィンドボナへの軍勢ですら出し渋るのだ。  レッケンベルによるウィンドボナ遠征ですら、あまり私兵を出さずに金で済ませた。  また話が逸れた。  人には個性があるということだ。  獅子心王と言われた彼女とて、武勇で有能だったことだけは貶す者なんぞいないだろう。  異教徒だって、まあ一応は褒めてくれたさ。  武勇面だけはな。 『話を戻そう。さて、ごく一部の誰かさんぐらいしか興味を持っていなかった聖地のために、誰もが巻き込まれた理由についてだ』  聖地が奪われてしまったことは知っているな。  まあ、別にどうでもよかったのだ。  誰かが余計なことさえ言わなければどうでもよかったのに。  当時、87歳の腐れた老いぼれがそれを聞き及んで、ほざいたのだ。  教皇に在位して三か月も満たずにぽっくり死んだ、本当に死にかけの老いぼれがほざいたのだよ。 『聖地を異教徒から取り戻せ! 聖戦だ! これに参加しない教徒は罪なるぞ!』  そうほざいた。  教皇によくある名前の、はて、何代目だったかな。  どうでもいいが、そいつがほざいたのだよ。  皆が嫌なのに、多くが望んでいないのに、聖地を取り戻せなんて口にした。  本音を言えば、教皇本人が本当に口にしたのかさえも疑いがあるよ。  誰も責任を取りたくなかっただけじゃないのか?  正統なる教会側としては立場的に言わないわけにもいかなかったが、まあ教徒の皆が嫌ならスルーしてくれてもいいかなぐらいの発言だったのではないか。  そんなことさえ思う。  教会の方だって聖戦が失敗した際の責任なんて取りたくないから、死にかけの老いぼれを無理やり教皇に仕立て上げて言わせた疑惑があるのだ。  誰もが望んでもいない異教徒征伐が始まった。  ああ、畜生。  仕方ない、行きたくはないけれど仕方ない。  教皇に命じられ、誰もがもう仕方なく行くことになったのだ。  あれ、行きたくないんじゃなかったのか?  断れば済む話ではないのか?  違うんだよ。  外国なんて遠いし。  地元を離れるなんて怖いし。  隣の集落に行くのも命懸けなのに、そんなことしたい奴なんて滅多にいないんだよ。  でも、教皇に言われたのはともかく、主君や身内に言われたら面子のために行くしかないんだよ。  近くの領地の騎士をぶち殺して財産を略奪するためならば、喜んで行くやつも沢山いたんだろうがな。  何が悲しくて、見たこともない聖地のために戦う奴がいるんだよ。  いない。  一部の勘違いしている馬鹿しかいないだろ、そんなの。  そうはファウストとて思うだろうし、私が呼び掛けたところでお前は拒否するだろう。  軍役義務がないからと。  つまり、なんだな。  昔は本当にみんな行きたくないけれど、軍役義務がないからって拒否できる自由な領邦騎士が沢山いる時代ではなかった。  中央集権的な時代だったんだ。  一応は「戦う人」として、信仰を守るという大義名分を行動規範に置いている騎士階級が聖戦への参加を拒んだら、他から舐められることになるのだ。  みんな仕方なく一族から生贄の騎士を出して、お茶を濁したり。  最悪は自分を生贄に捧げて、娘や他の親族に領地を託して、地獄に旅立ったんだよ。  そうしないと、周りの貴族社会から村八分にあうんだ。  あれ、本当に正統を信仰してるの?  実は異教徒と戦うのが怖いんじゃないの?  騎士の癖にビビってんのか?  そんな酷いことを言われるんだ。  いや、まあ面と向かって言われただけならば、そいつを殺して『今私を笑ったか?』と死体に唾を吐けば解決するんだが。  周りからヒソヒソと笑い声をたてられて、馬鹿にされるのは耐え難かった。  それが貴族の名誉なんだ。  貴族社会に生きる騎士ならば、舐められることだけは許されないんだ。  もちろん喜んで参加した騎士がいなかったとは言わないが、まあ勘違いをしていたか、物を知らなかったんだろうな。  もっと昔にあった聖地への遠征者が、異教徒の死体を鍋で煮たり、串焼きにして食べたという逸話もあるんだ。  異教徒だから何をしてもいい。  そんな感じの意味がよくわからない、異常な名誉からの行動ではない。  異国にて食料が手に入らぬ飢餓に苦しんだ挙句に、仕方なくも口にしたらしいと聞く。  そんな話を事前に知ってたら、誰がそんな地獄に喜んで行きたいと思うのか。  とにかく、とにかくだ。  一部の何か勘違いした騎士はいたが、誰もが望んで異教徒から聖地を取り戻すために旅立ったわけではないことを、ともかくも理解して欲しい。  そこから本題に入らねばならぬのだ。 『ここで、一人の女性が登場する』  私たちの開祖だ。  もちろん、もっと古くの歴史も辿れるが。  アンハルト王を名乗る王族としては開祖だった。  彼女が行きたくもない異教徒への遠征軍に参加して、いくつか戦もこなしてだ。  それでも故郷に帰してはくれない皇帝に反意を抱いたところで、何が悪かろう?  彼女が戦場で、一人静かに口にした言葉はこうだった。 『異教徒ではない。皇帝をぶっ殺して領地に帰ろう。皇帝さえ死ねば、我が故郷に帰れるはずなんだ』  そう呟いたのだ。  今まで説明したようにだ。  開祖がそのような論理的に明快な決断に至ったことは、理解して欲しい。  もうアンハルト開祖は何一つ悪くなかったと弁明しておきたい。  当時の神聖グステン皇帝をぶち殺すために、敵の異教徒を案内したことが。  それの何が悪かろう?  アンハルトの末裔たる私としては、そう思うんだ。 「ええ……。結末に至るまでの言い訳が糞長くないか、おぬし。自分の主君をぶち殺すために、異教徒の暗殺者と秘密契約結んで手引きした言い訳にはならんじゃろうに、それ」  うるさいナヒド。  私は、このアナスタシアは、なんか当時も生きていたと言い張る胡散臭いロリババアに、そう言い放った。 ――――――――――――――――――――――――――――――― 今回、史実(偏見も交じってます)知らんと分かりづらい気もするので 分かりにくい点があったら言って下さい ある程度修正します 第202話 皇帝殺しの秘密契約  手を叩く音が起きた。  何かを讃える拍手ではなく、おしまい、おしまいと繰り返し言いたげな手締めの合図である。  アスターテ公爵が、少し微笑んだ顔で無駄話の終了を告げた。 「まあ、ここまでだ。もう少し長くしゃべらせても良いとは思ったが……」  魅惑的な首筋を私に見せながら。  アスターテ公爵は、私に向けてことんと首を傾げながらに尋ねる。 「ぶっちゃけ飽きてるだろ? ファウスト」 「飽きております」  正直に答えた。  比較的どうでもよい話をアナスタシア殿下は口にしているからだ。  話の聞き手がマルティナならば違ったのかもしれぬが。  私にとっては皇帝が身内の手引きで死んだことも、それをしたのがアンハルトの開祖様であることも。  正直言えばどうでもよいのだ。  というのも、この私は自分の知能に見切りをつけている。  理解できないことは最後まで理解できないことを、ソクラテスのいうところの「無知の知」と「汝自身を知れ」という部分までは理解できているのだ。  別にナヒドに『聞かぬことにする。私に質問をする権利はない』と述べたことは、権利が私にない事だけではなく、自分にその知識を生かすことなどできないと知っているからだ。  気にはなっているが、説明が面倒くさいならどうでもよかった。  横にいるマルティナが理解を私に求めるならば努力するが、そのマルティナもおらぬ。 「一応はここから先もあるのだが。皇帝の死の真相とかな。警護を任されていたマインツ枢機卿の先祖が『さっさと殺そうぜ! 日が暮れちまうよ!!』と叫ぶほどに乗り気だったこととか。ヴィレンドルフの先祖が『ふざけるな! 私にだって殺す権利はあるだろうが!!』と、甲冑を着た皇帝を腰ほどの深さもない川に引きずり込んで、ナヒド殿と一緒に力ずくで溺死させたとか。死ぬほど厳重に警備されているはずの皇帝の異変に、誰一人として気づく者がいなかったのはおかしいけれど、皆が目を背けて知らないふりをしていたとか」 「うん、大体あっとるのう」  というか、もう聞かなくてもいいんじゃないかなと思っている。  聞きたくないなあ、そんなの。  一応は自分を騎士道精神にあふれた人物だと心得ているわけだし、寄ってたかって遠征中の主君をぶっ殺す話はあまり好きじゃない。  なんというか、故郷に帰りたくて仕方なくて追い詰められた人たちの突飛な行動など知りたくないのだ。  私だってヴィレンドルフ戦役とか、さっさと帰りたくて仕方ない地獄だったわ、もう。  まあ私はやらなかったけれど。 「えーと、ともかくだ。ファウスト、私の先祖はあまりにも腹が立って主君である皇帝をぶっ殺したけど、まあ仕方ない事だったよと言いたいのだ」  アナスタシア殿下が、人肉とか食っていそうな三白眼の蛇の目で、理解して欲しいと口にする。  理由は分かった。  気持ちが全く理解できないでもないし、400年前の責任を子孫である殿下に求めても仕方ない。  それで? 「この辺りの知識を擦り合わせることでナヒドが本物かどうかを。本当に『山の老人』にしてヴェスパーマン家の直系かどうかを。私の家系に伝わる話の真実性や、ナヒドがどのような意図で私に接触したかを。少しずつ腹の探り合いを試みようとはしたのだが」  全部お前が、ファウストがくだらぬと拒否をしてしまったので、短縮することとしよう。  アナスタシア殿下は蛇の目にてそう言い放ち、ナヒドに視線を向けた。 「さて、ナヒドよ。私が貴殿に求めることを告げよう。すでに貴殿は知るところであろうが、アンハルト王家における分家たるヴェスパーマン家が酷く使い物にならない現状である。400年に亘り王家に貢献してきたヴェスパーマン家を切り捨てるのは悩みどころであったが」 「もういらんじゃろう、さすがに」 「いらぬな。腐った部分である以上は切り捨てねばならぬ。我慢の限界はとうに過ぎている」  どうも事情は分からぬが、ヴェスパーマン家は切り捨てられるようだ。  一瞬、ザビーネの妹たるマリーナ嬢の顔が思い浮かぶが、ほとんど他人である。  そこまで親しい仲でもないから知らぬ。  ザビーネの事であれば擁護したが、明確に縁を切ったと口にしている彼女には何の関係もない話だ。 「代わりがいなかったから我慢をした。だが、母であるリーゼンロッテはここ数年で独自の諜報機関を作り上げた。かつてのヴェスパーマン家には及ばぬがな。足らぬ面も、もちろんある」 「それを補うために、ワシをスカウトしたいと?」 「そういう話だ」  話は淡々と、先ほどまでの無駄話などはなかったかのように進んでいる。  すでにアナスタシア殿下も、ナヒドも、ある程度の状況は事前に承知済みであったかのようにしてだ。 「暗殺者をお求めで? ワシが率いる超人部隊が欲しいかのう?」  ロリババアが、両手を胸元で静かに開いて。  さて、何を求めるのかといわんばかりに口にした。 「欲しいね。喉から手が出るほどに。これから教皇を殺す予定だ。皇帝も理由あれば殺すつもりである。もちろんのことであるが――貴殿が一番殺したい相手も」  何もかもを見透かしたかのように、それでいて自分の胸襟も開くようにして。  私の主君は口にして、ナヒドに条件を突き付けた。 「トクトア・カンを殺したい。できれば戦が起きる前に。あの狂えるモンゴル帝国の皇帝を暗殺できさえすれば、神聖グステン帝国に対する戦自体が起きないのではないか? そんな希望すら抱いている私にとっては、貴殿が私に与してくれることを心から望むところであると」 「はて、そんなことが不可能であることは」 「勿論知ってはいるがな。一つの帝国にして、その皇帝を殺すことには様々な条件が必要であること。時代の風、強力な暗殺者、皇帝に明確な瑕疵が存在する。全てが揃わねばならぬ。それは皇帝殺しの経験があるアンハルト王家が知っている」  多数が望むような状況でなければ、重鎮レベルならばともかく、帝国の皇帝そのものを暗殺するなど容易ではない。  そこのところに、まあ触れておこうとは思ったのだが。  やはり要約しようと殿下は口にされて、単直に尋ねる。 「ナヒドよ。尋ねる。やはり、すでにトクトア・カンの暗殺は試みた後であろうか?」 「ご想像のとおりである。無理であろうとは思った。だが、やらねばならぬとも思った」  ナヒドは、胸元で開いていた手を閉じて。  両方の手で握り拳を作る。 「存亡を迫られた王朝のためである。故郷のためである。我が一族の権勢を維持するためでもある。少ない可能性ではあると理解していたが試みて、やはり失敗をした」  一族の全力を尽くした。  およそ、我が一族が築き上げた暗殺技術と手練手管の全てを尽くしたと言い切れる。  だけど、と。  ナヒドは語る。 「モンゴルは強かったよ。あまりにも。ワシの仕える王朝が滅ぶことさえもが当然だった。あの強力な皇帝が率いる強大な権力に滅ぼされるならば、仕方ないのではないのかとさえ思うほどに。アナスタシア殿下の言う、時代の風というものがあるとすればだ。ワシのように古臭い暗殺者などよりも、あの皇帝トクトア・カンにこそ吹いているのだとさえ思うのだ」  アナスタシア殿下は、一度停止して。  何かを?み込んだようにして、蛇が何か口にした獲物を飲み下すように喉を鳴らした後。 「では、何故抗う? トクトア・カンは超人を強烈に勧誘していたはずだ。ナヒド殿とても、その例外ではないはずだろう? 暗殺者だからといって、他宗教だからといって、他の王朝の配下であったからといえ、肌の色が違うと言えども。はて、貴殿が忌避されたとはとても思えぬ。私がモンゴル帝国の皇帝ならば貴殿を欲しよう」 「何が言いたいと?」  本来は、と。  アナスタシア殿下は、また何か腹芸をしようという素振りを見せた後に。  少しだけ立ち止まり、何故か私を見て。  楽しそうに笑って、またナヒド殿に視線を向けた。 「ここで、まあ実はナヒド殿がトクトア・カンに雇われた暗殺者で、皇帝や教皇や、もちろん選帝侯である私などを殺してやろうと企んでいるのでは? 今は、とりあえず内部に侵入するために腹芸をしているだけで、本心は違うのではないか? そう貴殿を煽ることもできた。そう口にして、貴殿の反応を確かめることもできた。なれど、止めておこう。誠意を見せようではないか。ファウストが私の目の前に連れてきた貴女を疑うことは、ファウストを疑うことにも等しい」  アナスタシア殿下が立ち上がった。  私はすぐさまナヒドを捕まえて、控えろと地面に伏せさせることも考えたのだが。  殿下の視線が、それを否定することは理解している。 「意地悪はしない。この上での腹芸もやめておこう。もし、私のところに逃れてきた一族を委ねてくれるのであれば、ナヒド殿を信頼しよう。かつて築いた秘密契約を遵守することとしよう。もし「山の一族」と「アンハルト」のどちらかの家が危難に陥れば、相互に利益を提供するという前提の上で、互いを助けようと。宗教が違えども、生まれ故郷が違えども、一緒に相互利益の上で皇帝をぶち殺した際に結んだ契約だ」  アナスタシア殿下が手を伸ばした。  ナヒドは少し立ち止まって、その手を取らずに。  逆に、殿下の心を読み取ろうと努力しているかのようにして、瞳を揺らした。 「まあ、口約束だったと聞くがな」  雑な契約にすぎないが、と殿下は笑った。 「ナヒド殿、もう一度私と、アンハルトと皇帝殺しをやることにしないかね。まあ、今度殺す相手は私の主君ではなく、両者が明確に敵対するモンゴル帝国相手であるがね。ひとまずは、教皇を殺す計画に参加してくれる形で良い」 「……いいじゃろう。腹芸が好かぬというのならば、アンハルトの子孫である殿下が誠意を見せるというならばだ。これ以上は何か言葉を左右する必要はワシも感じぬ」  ナヒドは殿下の手を取り、静かに返事を口にした。 「モンゴル帝国の皇帝を殺そう。もう一度皇帝殺しをしよう。おぬしに協力することで、おぬしに協力してもらうことで、トクトア・カンを殺すことにしよう。ワシが仕える王朝を滅ぼし、氏族の領地を奪い、ワシが必死に大事にしてきた一族のことごとくを死に至らしめ。その上で、何一つとして返してやる約束などしないが、ただただ服従して何もかもを私に捧げろなどと口にした。馬が走れる場所は全て自分の所有物だと考えている。あの傲慢にして、腹立たしくて、誰よりも強力な皇帝を殺してやろうではないか」  ナヒドの瞳は、充血したような赤いものに染まっている。  あの瞳の色は知っている。  人種の違いによるものでも、国柄の違いによるものでもなんでもなく。  人間である以上は、誰もが身に着けられるもの。  死んでも耐え難いほどの侮辱を受けた人間の、復讐の色をした瞳であった。 第203話 ザビーネの不調  緊張感が、室内を包んでいる。  暗殺計画の現場指揮官であるザビーネに相対する形にて、少し楽しそうにナヒドが腕組みをして立っている。  背が高く豊満な体つきのザビーネに対し、ナヒドは幼い少女の容姿にて色々と平たい体つきをしていた。  二人は沈黙して、ただ立っている。  室内には強烈に顔が引きつったマリーナ嬢がおり、私は彼女が何故この場にいるのかと訝しんだ。  ザビーネの性格であれば、すでに実家などは見捨てているかと思ったのだが。 「なるほど、我ら一族がアンハルトの紋章官にくれてやった男の子。その面影がお前の顔にはあるのう。ザビーネ・フォン・ヴェスパーマン。まるで先祖返りのようじゃの」  ナヒドは、確かにザビーネが一族の者であることを認めて。 「けっ。私は家を出た身だから、知ったことじゃないね」  分家であるヴェスパーマン家を飛び出したザビーネは、舌打ちをして、ただ知らぬことだと呟いた。  さて。  どうしたものかと考えている。  とりあえずは、私が取り持たねば話は進まぬと考えた。 「ザビーネ。現場指揮官としては人が足らず、ナヒドが率いる超人暗殺集団は喉から手が出るほどに欲しいのではないか? そして――」  マリーナ嬢をチラリと見る。  肩を震わせて、ビクリとしていた。  まあ、可哀想な思いはあるのだが。 「そうである以上、もはやヴェスパーマン家からの支援は不要ではないか? それとも違うのか?」  単刀直入に口にする。  これは結論ではなく、疑問であった。  別に、何か強力な暗殺者をヴェスパーマン家からも用意できるというのならば拒む必要はないし。 「違うというならば、私からリーゼンロッテ女王陛下やアナスタシア殿下に取り成しをしてもよい。まだ底力を見せられるというならば、ヴェスパーマン家を取り潰すようなことはせず。価値の見直しも有り得るだろう」  私が気を回しても良かった。  アナスタシア殿下から伺った限りでは、もうヴェスパーマン家には価値を見出していないようだが。  ヴェスパーマン家がどうなろうが知ったことではないが、ザビーネがどうしても気にするというならば――。 まあ、マリーナ一人ぐらいならば弁護をしてもよかった。 「有り難う。でも、これはファウストには関係ない話だ。ヴェスパーマン家が潰れるだの、潰れないだのは……そこにいるマリーナを。たかが妹一人を見限れない私だけの問題なんだ。そして、そこにいるババアを睨むのさえも、筋違いだと私は知っている」  冷たい声色で、断りの言葉を彼女が吐いた。  金髪の髪が、胸元で揺れている。 「道理はわきまえとるようじゃの。暗殺教団『宵の明星』は、傘下として加わったのではない。家臣となった覚えはない。アンハルトの軒先を借りただけのつもりじゃ。すでに縁遠い分家のヴェスパーマン家に何かしてやる理由なんて何もない」  褐色の口から飛び出た赤くて小さい舌。  それをちろちろと見せながら、ナヒドは口にした。 「ワシはモンゴル帝国に敗れ、この帝都にまで逃げ出してきた後に。そこでかつての分家が何をやっとるのか調べた。場合によっては分家の軒下を借りる必要があったかもしれんのでのう。だが、そこで知ったのは呆れた有様であった。そこにいる分家当主のマリーナの先代が、何もかもを滅茶苦茶にしてしまったこと。家を飛び出たザビーネとやらが、それなりに有能な人間であること。その二つだけ」  我が分家は、軒先を借りられるような状況ではないオンボロの家になり果てておった。  ナヒドは冷酷な口調で告げる。 「このワシから見ればじゃ。没落したヴェスパーマン家に力を貸してやる道理は何処にも存在せぬ。勝ち取った褒美を分けてやる理由もない。わかるな」 「わかるよ。宗家のババア。私が、このザビーネがアンタらを使って教皇の首を勝ち取ったところで、暗殺に成功したところでヴェスパーマン家とは何の関係もないって言いたいんだろう?」 「そうなるのう」  話が良く掴めない部分がある。  ヴェスパーマン家はそんなにもヤバイ状況なのか?  ともかく、まあ単純な論功行賞の面で言えば、ナヒドの暗殺部隊が叩き出した功績を何もしていないヴェスパーマン家に与えるのはおかしいだろう。  それはわかる。 「だが現場指揮官はワシではなく、変わらずザビーネ・フォン・ヴェスパーマンである。そして、その立場として本当はどうすべきかも理解しとるじゃろう。さっさと実家の妹など見捨てろ」  ナヒドはハッキリと通告した。  ザビーネもきっぱりと答えた。 「嫌だね」  何か、振り切れた表情でザビーネが呟く。 「何も知らなかったならば、それも出来た。きっと、以前に一人の騎士に出会う前の出来事であったならば。それができる人物だったと自分の事を理解しているよ。私はそういう人間だという自覚があるんだ。だけど」  そうだろう。  ザビーネはどこか狂っていた。  多分、彼女にとっては身内というカテゴリー以外の人間は家畜の価値しかない。  自分にとって必要な人物以外は、人として価値を認めていないのだ。  ヴァリエール殿下であり、親衛隊の同僚であり、おそらくはそこに私が加わる程度の小さな世界で生きている。  だから、彼女が何か。  いくら妹とはいえ、マリーナ嬢を庇うのは不思議に感じていた。 「……何の罪もない妹が親の連座でぶっ殺されるのは」  だからこそボソボソと、何か頼りなさげに呟くのは理解できなかった。  ふと、何か気になるところがある。  ザビーネが、何処か呆れたように、それでいて憧憬のような目で私を見たことが一度だけある。  何か尊いものを見つけたような瞳をしていた。  あれは。  初陣が終わり、安酒場で彼女の親友であるハンナを悼んでいた時のことではなかっただろうか。 「では、なんとする?」  ナヒドの言葉一つで、私の思考は遮られた。 「お前の結論が聞きたいのう。優秀なる我が血族の末裔、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマン」 「まず、暗殺にはナヒドの一族に参加してもらう。アナスタシア殿下の指示であるし、テメレールのバアさんの賛意も得ている。これを拒否する権限は私にないし、そして現場指揮官としての私にも暗殺成功のためには拒否する理由がない」  滑らかな声。  ほうほう、とナヒドが小馬鹿にするように笑った。  何故だか、少し残念そうにさえ見える表情で―― まあ仕方ないじゃろうなとでも、口にしようとして。 「ヴェスパーマン家が暗殺の実行犯に参加する必要はない。有能な暗殺者の殆どは死に絶えており、参加できるだけの力量を備えていないことは把握済みである。だが、諜報員は僅かながらに残っており、また帝都に埋伏させることはできた。色々な情報を入手した。聖堂の衛兵配置も、教皇がどこにいるかも、相手側の警戒すべき超人がどれだけいるかも、ケルン枢機卿が捕らわれて幽閉される場所も。異端審問が行われる予定の場所も。テメレール公の協力も得たが、ヴェスパーマン家がすでに成果を上げたことは間違いない」  それを止めた。  代わりに、ほう、と再度呟いた。  今度は称賛が含まれていた。 「何というか、ザビーネ・フォン・ヴェスパーマン。お前はそこにいるマリーナから実権を奪い取って数日も経たぬ内に諜報員を埋伏させ、暗殺に必要な情報を得たと言うことだな。どうやった? さぞかし酷いことをしたんだろうな?」  称賛の声に、ザビーネは全く気分などを良くした様子は無い。  それどころか、何も言いたくないという顔をしているが。 「……お望みならば。私の先祖とか抜かす糞ロリババアが、暗殺計画でちゃんと言うことを聞くというならば、後で聞かせてやる。ファウストの前では口にもしたくない」    私にだけは聞かせたくないと告げて、それで終わらせた。  不思議に感じている。  ザビーネは、何処かが「らしくない」。  おかしくなっている気がするのだ。  いつもの彼女であれば、あまりにも酷い手練手管を愉快気にゲラゲラと笑いながら話すであろう。  このファウストは、彼女の身内のはずだから。 「ファウスト。お願いだからそんな目をしないでくれ。お前が聞く必要のない話なんだよ」  何故か、少しだけ悲しそうに言い訳をするザビーネを見て。  どこか彼女の不調を感じるのだ。 「よいな、よいぞ。ザビーネよ。確かにおぬしは我が一族の末裔であると認めよう。まあ、大体のやり口はわかる。ヴェスパーマン家は、家の起こりを忘れておった。異国からやってきたことを恥じてか、異教徒の出自であったことを恥じてか。それを意図的に忘却したかのように忘れておった。だが、暗殺者一族として、諜報のやり方だけは忘れていなかったではないか!」  ナヒドは絶賛している。  ザビーネは、唇をかみしめて、私の方を観ないようにしている。  どうも、何かが上手く?み合っていない気がする。  こんな様子で、本当に教皇が暗殺できるのだろうか。  私は不安を覚えている。  どこか、ごりごりとした腫瘍が、教皇暗殺という計画の骨子に張り付いているような気がした。 「……」  何か、口にしようとして。  そして止めた。  この不安が本当に、ザビーネの不調や、ナヒドの参加によるものか?  そう問われると、どうにも違うと直感が告げている。  何か、ミスをしていないだろうか。  何処かで重要な失敗を、誰でもない、このファウスト・フォン・ポリドロがしでかしているのではないか。  私が発言しておかねばならぬ危惧を、この曖昧な知能ゆえに導き出せていないだけではないのか。  どうにも頭が良くない。  何が悪いのか、何が駄目なのか、どうしてか喉に引っかかって口に出せぬ。  いっそ、見落としがないかをこの場にて相談しようか。  そう口に出そうとしたところに。  ノックの音が。 「ファウスト様、伝令です!」  ドアの向こうからは、マルティナの声。  私が顎をしゃくると同時に、ドア付近にいるマリーナがドアを開けて。  そこにいる私の腰ほどの背もないマルティナが、室内の全員に聞こえるように大声を張り上げた。 「ケルン枢機卿の身柄が、先ほど拘束されました! 正統信仰に反する教えを持つものとして、ケルン派に異端審問を行うと、各選帝侯の下に教皇勅書が送られてきております! ケルン派の聖書である『新世紀贖罪主伝説』に対して異端性がないかどうかを審議するとのことです!!」  私は、自らの信仰指導者であるケルン枢機卿が拘束されたと聞き。  だが、おそらくは大した抵抗もせずに自ら望まれて捕らわれたことを理解して。 「そうか」  一瞑りだけ目を閉じた後に、荒い息を吐いて立ち上がった。  今は、一切の危惧を忘れ去るとしよう。  失敗について気配りばかりをしていては、命取りとなる。 「マルティナ、枢機卿猊下が捕縛されたのは自らの意志である。ゆえに、今は何もすることはできぬが……」  それでも、やっておくべきことがある。 「教皇の顔を拝んでおくとしよう。近々殺す相手の顔ぐらいは覚えておかねばならぬ」  今からすぐに向かえば、大聖堂に連れていかれる枢機卿猊下を見守ることも。  それを指揮する教皇の顔も拝めるだろう。  私はすぐにマルティナを連れて、帝都の大通りに向かうことにした。